セザール

(七月。)

(マルセイユの大通り。セザールが一人で、考え事をしながら、かなり足早に、歩いてゐる。セザールは老いた。鼻髭は白くなり、顔には皺が出てゐる。サン・ロランの教会の前で立止まる。正門からは、入らない。神父専用の扉へ進む。入る。)

   神父の部屋

(椅子の上で寝てゐる用務員。)

(セザール、外から戸を叩く。用務員、目を醒す。「どうぞ」と言ふ。セザール、入る。)

 セザール こんちは。ボンヌグラッス神父さんにお会ひ出来るかな?

 用務員 少々お待ちを。今丁度、お説教を終つたところですから。どうぞお坐り下さい。

 セザール ああ。

(セザール、坐る。片手に帽子を持つ。帽子は両足の間に下つてゐる。突然オルガンの音。やつとちいさな扉が開き、神父が入つて来る。神父は僧服。正装。神父は年寄。白髪。セザールを見る。神父、微笑。ただ、驚いてゐる様子。)

 神父 セザール! お前、何しに来たんだ、この偽信心めが。

 セザール(困る。小さな声で。)お前に会ひに来たんだ、エルゼアール。

 神父 どうせ来るのなら、ミサに間に合ふやう来ればいいのに。神経が太くないな。ミサは怖いんだらう。

 セザール 違ふよ、エルゼアール。それは違ふ。全く違ふさ。ミサに来なかつたのは、このところ全然ここに来てゐないからだ。来てゐないのはな、パニッスが死にさうだからだ。

 神父(驚く。)オノレが?

 セザール さう。可哀相に、オノレの奴。もう死ぬ一歩手前だ。

(間。神父、棚のところへ行く。棚には、聖職者が身につける僧服、その他が置いてある。神父、帽子を脱ぎ、置く。少し考へてゐる。)

 神父 オノレが言つたのか? ここに来いと。

 セザール いや、ファニーだ。息子がパリから帰つて来るのでファニーは駅まで迎へに行つた。(得意さうに)ああ、あの息子、ポリテクニックに行つてゐるんだ。俺の名づけ子なんだがな。

 神父 ああ、それはよく知つてゐる。あれを洗礼したのはこの私だからね。(星の飾りを外して棚に置く)オノレを診てゐるのは誰だ?

 セザール フェリスィアンだ。奴の診たてでは、心臓が悪いらしい。昨年も発作を起した。みんな心配してな。それからは少し安定してゐたんだが、昨日の晩、また起きたんだ。今度は先回よりずつと酷かつた。時々は、意識もなくなつてな。フェリスィアンの話では、「ウン」とも言はず、急に死ぬことだつてある、と言つてゐる。だから、ファニーもさうだが、みんな、懺悔をした方がいい、と言つてるんだ。

 神父 それで、本人も、自分の状態のことを知つてゐるのか?

 セザール うん知つてゐると思ふ、俺は。今朝、頭がはつきりした時に、あいつ、みんなを呼んだ。「さよなら」を言ふつて言つてな。みんなといふのは、エスカルトフィッグ、運転手、ムスィユ・ブランと俺、四人だが。この四人が集まつて来るとオノレの奴、もう喋ることも出来なくなつてゐて・・・(泣く。)

 神父 分つた。行く。(用務員に。)ギュスターヴ、合唱隊の子供を呼んで来てくれ。

 セザール ただな、エルゼアール、来てくれと言はれて、来たんだ、とは言はないで欲しいんだ。

 神父 それを言はずに、彼に懺悔をしろと言ふのは難しいんぢやないか?

 セザール いや、とにかく、お前が、わざわざそのためにやつて来た、といふことが分らなければそれでいいんだ。

 神父 しかし、聖体拝領の準備、聖油の用意、私の衣裳、それから諸々(もろもろ)の儀式の用意をして行くんだ。すぐ分つてしまふ。

 セザール そこなんだ。それをやると、奴を驚かせることになる。フェリスィアンが言ふには、少しの動揺でも、奴を殺す可能性があるんだ。だから衣裳は下に、つまり下の階の食堂においておいてだな、ああ、それから合唱隊の子供も一緒に下においておく。それでお前は何げなくやつて来た、つまりその、「こんちは」とただ言ひに来たといふ顔をして貰ひたいんだ。それで、少しづつその、奴に心の準備をさせる。さうすれば動揺も少ない。それがいいと、私は思ふんだ。勿論よく分つてゐる、これは嘘だ。嘘をお前にやつてくれと頼んでゐるんだ。だがな、これが一番いいと私は思ふんでな。

  サン・シャルル駅のプラットフォーム

(沢山の人間が行き来してゐる。小さな電気機関車が全速力で、汽笛を鳴らしながら通過する。ファニーがプラットフォーム上を歩いてゐる。人を待つてゐる様子。もう昔の若さはない。しかしまだ美人、そして、悲しさう。)

 

 港の桟橋

(セザール、桟橋を通る。パニッスの家に戻る。子供の靴磨き達が歩道で石蹴りをして遊んでゐる。セザール、彼等に気づかず、石蹴りの場の真中を通り過ぎる。パニッスの店の前に立止る。店の看板には、

 「オノレ・パニッスとその息子・商会」

と、金色の字で、書かれてゐる。暫くすると、セザール、その店の中の一室にゐる。

 

 パニッスの部屋

(大きなプロヴァンス風の部屋。小さな花模様のあるクレトン布地のタピスリ。大きな寝台に、パニッスが寝てゐる。パニッスは動かない。寝台の回りに、エスカルトフィッグ、運転手、ムスィユ・ブラン、オノリンヌ。全員、泣いてゐる。セザールが入つて来る。急いで。しかし、爪先立ちで。泣いてゐるオノリンヌに近づく。セザール、オノリンヌの腕に触り、小さな声で言ふ。)

 セザール エルゼアールは来る。様子は?(と、寝台を指差す。)

 オノリンヌ 口をきかないの。一言も。動きもしないわ。お医者様はさつき来たばかり・・・(泣く。)

 セザール それで先生は何て?

 オノリンヌ(涙を出して)「終だな」つて。

 セザール 終だつて?

 オノリンヌ 終。(泣く。)また来るつて。今度来た時は注射をしてみようつて。二三日はそれで持つだらうが、まあ、終だ、つて。

(エスカルトフィッグが、寝台の足のところで泣いてゐる。セザールが黙つて彼のところへ行く。セザールも鼻をすすつてゐる。それからセザール、ムスィユ・ブランの方を向き、言ふ。)

 セザール おい、ムスィユ・ブラン、パニッスは終だとさ。

(ムスィユ・ブラン、大きく手ぶりで、諦めの仕草。そしてパニッスを悲しさうに見る。パニッス、既に両目を閉ぢてゐる。)

 セザール 可哀相に、オノレの奴。

(沈黙。突然パニッス、弱々しく身体を動かす。そして、低い声で何か呟く。しかし、誰も聞き取れない。)

 セザール(嬉しさうに)おい、喋つたぞ。(寝台の上に屈みこんで)おい、お前、何て言つたんだ?

(オノレ、一つの言葉を呟く。弱々しい発音。近くにゐたエスカルトフィッグ、その言葉をみんなに披露する。)

 エスカルトフィッグ 「間抜け(クイヨン)」と言つたぞ。

 セザール さうか! そりや、良くなつたんだ。

(しかし、パニッスは動かない。沈黙。)

 ムスィユ・ブラン(低い声で)夢だな。でなければ、幻影を見たんだ。

 パニッス 幻影? 何が幻影だ。幻影などありやせん。熱さへ出てないんだ。熱どころか、私は寒い。寒いぐらゐだ。

 オノリンヌ(優しく)ぢや何故下品な言葉なんか言つたの?(「クイヨン」には睾丸(キンタマ)と言ふ意味もある)

 パニッス(やつと目を開けて。)私のベッドの傍でみんな泣いてゐるんだからな。皆クイヨンだ。私が死ぬだけで、充分悲しいんだ。それに加へて、皆が泣くのを見る。全くやりきれないね。

 セザール(泣かんばかりに喜んで)おい、論理が通つてるぞ、こいつの言ふことは。ただな、オノレ、誰も泣いてなんかゐないぞ。それにお前だつて死にはしない。

 パニッス(顔が青い。微笑んで)すると私のこれは、子供の成長期だな。

(エスカルトフィッグ、急に大声で笑ふ)

 セザール(その笑ひに呆れて。小声で)おい、アルカザール(スペインの王)か、お前。大声で笑ふな。

 パニッス(やつとのことで声を出す。しかし微笑んで)笑はせておけ、セザール。みんなを私が呼んだのは、最後にもう一度その笑ひ声を聞きたかつたからなんだ。気分がよくなるからな、それに、この世に引き戻してくれるよ、笑ひ声は。先生は戻つて来た?

 オノリンヌ ええ、戻つたわ。

 パニッス(悲しさうに。しかし諦めて)ああ、気がつかなかつたな。

 ムスィユ・ブラン(パニッスに気をつかつて)先生はあんたを起したくなかつたんだ。

 パニッス つまり、私は意識がなかつたといふことだな。

 エスカルトフィッグ(非常に大きな声で)寝ればな、人は意識がなくなるのさ。私がいい例だ。寝てしまふとな、部屋に誰が来やうと、何が起らうと、私には聞えん。さうさう、ある時こんなことがあつた・・・(挿話を話さうとする。が、セザール、乱暴にそれを止める)

 セザール 分つたよ、お前の話は。全く、こんな時に!

 パニッス(半分起上がる。オノリンヌ、すぐ背中にクッションを入れる)どうやら少し私はよくなつたやうだ。息が出来る・・・

 エスカルトフィッグ(喜んで)息だ息だ、オノレ、息をするんだ。空気が一番の栄養だ。空気が身体を綺麗にし、空気が汚いものを吐き出してくれる。どうやらあんた、助かつたらしいぞ。

 パニッス(頭を振る。その言葉を信じてゐず)ああ、助かる・・・それは無理だ。いいか、フェリックス・・・

 エスカルトフィッグ(一方的に。大声で)いいや、聞かないぞ、あんたの言葉なんか。それより、俺の話を聞くんだ・・・(何か話をしやうとする)

 セザール(乱暴に)おい、奴に話させるんだ。まだ奴は何も喋っとらん。それなのにお前、口を挟む。奴は喋ることが出来んぢやないか。

 エスカルトフィッグ だけどな、俺は面白い話があるんだ。

 セザール いい加減にしろ。お前がここで今、重要な人間ぢやないんだ。特にこの今、誰が重要な人物なんだ。誰が今死にかかつてゐる。奴か? それともお前なのか。

 エスカルトフィッグ(はつきりと)それは彼だよ。

 セザール(荘重に)それなら、少し慎みを持つんだな。

(この間パニッス、二人のやりとりを聞いて、少し心配さう。オノリンヌ、早速セザールの失言をとりなすやうに、叫ぶ)

 オノリンヌ 何よ、何を言つてるの! 死ぬ人なんか、ここには誰もゐないわ。冗談ばつかり言つて。

 パニッス 怒るな、ノリンヌ。私だつてよく知つてゐる。死にかけてゐるんだ、私は。

 セザール 違ふぞ、オノレ! 命を賭けて、それは違ふ。

 エスカルトフィッグ セザールが言つたのはな、冗談に、なんだ。

 ムスィユ・ブラン 本当にあんたが死にさうなら、あんなことを口に出して言ひはしないよ。

 パニッス(まだ疑つてゐるが、穏やかに)分つたよ、分つた・・・

 

   道で

(エルゼアールが僧服で道を歩いてゐる。合唱隊の子供が一人、お供をしてゐる。合唱隊の子供は、小さなベルを鳴らしながら歩いてゐる。ある家の玄関の前に、二人の野次馬。二人とも、通り過ぎるエルゼアールと合唱隊の子供に、深い会釈。それから、二人が通り過ぎると、)

 野次馬一 あのベルは何のためなんだ?

 野次馬二(あつさりと)見りゃ分るだらう? 警笛の代りさ。

 

(再びパニッスの部屋。パニッス、寝台の上に上半身を起して坐つてゐる。背中にクッション。息をするのが苦しさう。周囲にゐる友人達、見え透いたお世辞で彼を慰めてゐる)

 エスカルトフィッグ オノレ、あんたは、お大尽の人相だ。一緒に横に坐つて、自慢出来る人相なんだよ、今でも。

 パニッス ああ、さうだな・・・それが問題なんだ・・・私は死にかけてゐる。それなのに、死にさうな顔をしちやゐない。兵隊で言へば、殿(しんがり)の兵隊の顔だ。丁度エスカルトフィッグの顔。顎髭は半分だ、勿論。その顔で私は死ぬんだ。(間。それから、悲しさうに続ける)まあ、何の意味もない顔だ、それは。誰の顔にだつて似てはゐない。馬鹿な顔だ・・・突然の死ぢやない、荘重な死でもない。無駄な死だ。全くなあ、実にあはれなもんだ、下らない死なんだ。

(友人達、お互ひに顔を見合はせる。何と言つてよいか、分らない。やつとセザールが、恐る恐る、口を開く) 

 セザール 何故そんなこと言ふんだ、パニッス。いいか、お前は死にはしないんだ。しかしな、もしお前が、これから先のいつか或る日、死ぬやうなことになつて、そして俺がお前の顔を見たとする。すると俺は、いや、立派な奴だパニッスは。成功者の死だ、と思ふだらうよ。あつさりとした、後腐れのない死・・・お前の周囲に友人達が集まつて看取る・・・

 エスカルトフィッグ(好奇心を持つて。パニッスに)それであんた、本当にこの世をおさらばする、本当にさうなる、と、思つてゐるのか?

 パニッス(真摯に)うん、さうだ。(皆、泣く。パニッス、怒り始める)死ぬ、それがどうしたつていふんだ。いつかは死ぬんだ、私は。いや、みんなだつて、誰もみな、いつかは死ぬんだ! みんな、死ぬのは偶然だ、といふ顔をしてゐる。そしてそれが今私に来てゐる、大事件だ、といふ顔をしてゐる。でも違ふぞ。全く違ふ! 死つていふのは、義務なんだ。殆どこれは年中行事のやうなものなんだ。私が最初に行く。それだけの話だ。これには慰めだつてある。皆の葬式に出なくていい、悲しまなくていい、つていふな。私は私の葬式に出なくていい。それに、みんなは私を運んでくれる。そして町中の人が通りで私に挨拶をしてくれる。私の顔を見なくてもだ。

 エスカルトフィッグ 恐ろしいことを言つてるぞ、オノレは。それに、死ぬのは怖くないだなんて、これも恐ろしい。

 パニッス いやいや、フェリックス、本当に怖くないよ、死なんて。本当のことを言つて聞かせようか? 死ぬなんて、何でもないことだ。ただ、この生きてゐることにおさらばするのが、悲しいんだ。

 エスカルトフィッグ いや、その話だと、いよいよもつて、全く私には分らん。

 セザール まあお前には分らんだらうよ。私にはよく分る、これは。(セザール、ゆつくりと、はつきりと説明しやうと、話す)死ぬ、つまり、自分がこの世からゐなくなること、が、悲しいのではない。自分がそこで生きてゐない、のが淋しい。さういふことだ。

 ムスィユ・ブラン 深遠だな。しかし、よく分つたよ。

 パニッス(微笑む)だらう? ムスィユ・ブラン。(非常に優しく話す)だから私は悲しくなるんだ、もう妻には会へなくなると思ふとね。それから息子のセザリオにも、君たちみんなにも・・・うまいパスティッスも味はへない、あのプラタナスの木の下で。ボーリングも出来ない・・・(突然)さうだ、ところで、この間の晩のボーリング、私は途中で用事が出来てできなかつたが、あの続きはどうなつた?

 ムスィユ・ブラン ああ、あれはあのままだ。十二対十五で・・・

 パニッス ああ、あの勝負は決着をつけないと、そのうち。私を記念して、勝負をつけてくれ。ムスィユ・ブラン、私の代りには、イッポリットをあててくれ。奴は臭ひがするがね、ボーリングはうまいんだ。(それから、実に残念さうに)ああ、最後の一投、あれをしくじつたのは実に悔まれる。(それからまた急に。とても心配さうに)それからトランプ。私なしでマニーユをどうやつてやる?

 エスカルトフィッグ(慰めるやうに、優しく)おい、オノレ、それだけが心配なら、それは安心するんだ。お前の代りはもう決めた。四人目はもうゐるんだ。

 セザール(怒鳴る)代りの話など、死んでからにしろ!

 エスカルトフィッグ オノレが心配すると思ふから言つたんだ。

 ムスィユ・ブラン やれやれ!(間)

 パニッス 朝の髭剃り、あれが恋しくなるだらう。窓の前に立つて、古い港を眺めながら剃る。今日一日何をするか、それを考へながら。フェリックスが朝一番の船の渡しをする、それを見ながらね。食ひ意地のはつた、馬鹿なことも恋しくなる。私の誕生日の時の、ナプキンで被せてある皿の中のご馳走。日曜日の鶏、十月のつぐみ、スープ、デザート。ああ、身体のことも恋しくなる。私の胸にある毛、足にあるまめ。まめは痛くはない。私の晴雨計だ。いい天気、雨、それを教へてくれる。足のまめ、これはなくなるだらうな。なにしろ、骸骨にまめはないから・・・

 エスカルトフィッグ(驚いて)自分の骸骨のことを考へてゐるぞ。

 パニッス おい、お前は私より、死んだ時には様変りするぞ。

 エスカルトフィッグ 何故だ。

 セザール お前の骸骨はお前の今のその身体とは似ても似つかない。多分、骸骨の方は薄くて可愛らしいんだ。お前の最初の聖体拝受の時のやうに。ただその後で脂肪をつけたんだ。猛烈な食欲。ガツガツ食つてな。

 エスカルトフィッグ 食欲? 俺は食欲は一個しか持つてないぞ。まあ、たいしたやつだけどな、数は一個だけだ。それに、何故お前、俺の骸骨の話なんかするんだ。俺が近々死ぬと思つてるのか?

 セザール(皮肉に、そして強烈に)死ぬ? お前が? 冗談ぢやない。お前は死なない。神様はな、お前を作つたのを誇りに思つてゐるんだ。その彼の一大作品をあたら壊すなど、神様は考へてもいらつしやらないよ。

 パニッスの店の前

(船着場。神父、港の方からやつて来る。オリーヴの枝を手に持ち、昔からのしきたり通り、パニッスの家をその枝で祝福する)

 神父 ・・・この家に平和がありますやうに。そしてそこに住む全ての人に平和がありますやうに。

(神父、家に入る。合唱隊の子供も、神父に従ふ)

(パニッスの部屋。再び沈黙があたりを制してゐる。大きな寝台の周りにみんな坐つてゐる・・・突然、オノリンヌが聞き耳を立てる。オノリンヌ、立上り、扉を開ける。神父が入つて来る。神父、聖職者の通常服を着てゐる。そしてお付きの者もゐない。セザール、驚いた振りをする)

 セザール おや、エルゼアールぢやないか。今日は、エルゼアール。これは半年ぶりだ。

 エルゼアール 今日は、セザール。今日は、フェリックス。

 エスカルトフィッグ(驚いたふりをするが、上手でない)今日は、エルゼアール、お元気ですか?

 エルゼアール(上機嫌。しかし、少し困つた様子あり)私は、神様のご加護で、この通り。ただな、私は、もし昔からの親しい皆さんの顔が日曜日に見られたら、本当に嬉しいのですけどね。

 エスカルトフィッグ ここでマニーユ(トランプの遊び)を四時から五時頃、いつも始めてゐますがね、どうして来て下さらないんです?

 エルゼアール(厳しい声で)私達のミサに来ないのは誰です。ミサに来ればお前の気持も随分と楽になる筈だぞ、フェリックス。それに、急に死ぬといふことだつてある。急に死んだらどうなる。地獄の悪魔の鉄槌をそのまま食らふことになるぞ。

 エスカルトフィッグ ああ、私だけぢやないのに。どうしてかう、私だけが槍玉に上げられるんだ!

(エルゼアール、急にオノレの方を向く。今始めて気づいたといふ風。)

 エルゼアール ああ、オノレ、どうしたんです。病気のやうですね?

 パニッス(下心あり。しかし出だしはただ皮肉を言ふ)さう、私はどうやら病気のやうだ。それでエルゼアール、あんたはどうやら嘘つきのやうだね。

 セザール(むつときて)おい、オノレ、神父さんに向つて、何てことを!

 エルゼアール(困つて)何故、そんなことを私に。

 パニッス(はつきりと)私が具合が悪いのを知らないふり。それはどうしてだ?

 エルゼアール 私が知つてゐるつて、どうして分る。

 パニッス そら御覧。知つてゐるんだ。(皮肉に。楽しさうに)偶然にここを通りかかつて・・・

 セザール(エルゼアールの顔をたてやうと)さう、偶然だ・・・

 エルゼアール(嘘がつけなくて)いや、全くの偶然といふことではない・・・

 パニッス さう、薄ぼんやりと、偶然に・・・私に今日はを言ひたくなつて・・・

 エスカルトフィッグ そのどこが悪い。

 エルゼアール(助けられて)そのどこが悪い?

 ムスィユ・ブラン さうさ、いろいろな情況といふものがある。情況次第では、普通に起る事態だぞ、これは。

 エルゼアール(もつとはつきり目的に近づきたいと)偶然によらうと何によらうと、大事な時に私がここに来たとなれば・・・

 パニッス ああ、偶然があんたをここに引き寄せた、それなら、その偶然が何者か、私には分つてゐる。背はそんなに高くない、髪の毛は茶色が混じつてゐて、目は中国人のやうに、目尻が下がつてゐる。名前はファニー。さう、それがあんたの言ふ偶然だ。

 エルゼアール(本当のことがこれでやつと言へる、と、安心して)いいや、名前はファニーぢやなかつたな。しかし、たとへそれがファニーだとしても・・・つまりあんたの奥さんがだ、当然の義務として、ミサにやつて来て、ミサの終に奥さんに私が、一言二言、声をかけたとする。これはちつとも不思議ぢやないだらう? ファニーに洗礼を与へたのはこの私、聖体拝受の式もこの私がやつた。それに、あんたとの結婚も、この私の仕事だつたんだ。

 パニッス さうさう、ちつとも不思議ぢやない。当然のことだ。

 セザール 誰も不思議とは思ひはしない。

 エルゼアール さう。そこで、私がファニーに、あんたの様子を聞いたとしてもね。『どう? あんたの亭主、不信心者のオノレは、元気? 彼、ちつともミサにやつて来ない。蚤のいつぱいたかつてゐる犬みたいに、もう罪で身体中いっぱいな筈だけど。それでファニーが私に言つたとする。『あの人、悪いんです、具合が。いつか、いらして下さいません? ご都合のよい時』。それで私がここに来た。これは罪かな?

 パニッス(非常に優しく)いいや、エルゼアール。それは罪とは全く逆だ。ほどこしだ。

(エルゼアールは勇気を取戻す。ゆつくりとまはりにゐる古い友人達を見る。それからベルトに手をやり、少し空咳をした後、急にオノレの方を向き、人差し指をオノレの方に向ける)

 エルゼアール オノレ、本当は、あんたは怖くなつたんだ。自分のことを、実際よりもつと深刻に考へて。しかし、あんたが本当に心配になつて、つまり、もう自分の命も残り少ないと思ふやうになつたとすれば、あんたのその心の重荷を取除くのは、この私の仕事なんだ。その私がここにゐて、そしてあんたの気分もさう悪くないといふのであれば、ここで懺悔をしてもいいんだよ。

 セザール 懺悔をしたつて、誰もここで死ぬやうなことになりはしないんだ。

 ムスィユ・ブラン さう、その通り。

 パニッス(微笑んで)さう、私は今、何でもない。みんなの目では、私は若返つてゐる。だから、終油の秘跡でもしたら、と言ふんだな?

 エルゼアール(突然厳しく)オノレ、さういふことに関しては、冗談を言ふものではないぞ。

 パニッス(笑つて)だけど、冗談はそちらの方ぢやないか、エルゼアール。そつちだぞ、裏があるのは。私に懺悔させたい? どうしても? それは今、急務だつて言ふのか?

 エルゼアール(少し曖昧に)懺悔、それはいつでも急務だ。

 パニッス しかしあんたの考へでは、フェリックスとかセザールよりも、私の方が急務だつて言ふんだな?

 エルゼアール(真率に)さう、あんたの方が急務だ。

 パニッス さうか。それでは懺悔を頼みます。(それ以前の親しみの籠つた口調と全く違つた何か荘厳な雰囲気が漂ふ。みんな、立上がる。そして部屋を出て行かうとする。パニッスがそれを止める)ちよつと待つて、みんな。(みんな、立ち止る)エルゼアール、懺悔の時、私はあんたと二人だけでなければいけないのか?

 エルゼアール いいや。最初のキリスト教徒達は、みんなの前で懺悔をした。公衆を前にして。しかし、さうしたのはみんな、所謂聖者といはれた人達だつた。

 セザール(扉の近くで)さう。連中には懺悔なんかすることはあまり多くなかつたんだ。

 パニッス(非常に率直に)私は聖者ぢやない。しかし、みんなにはゐて貰ひたい。(エルゼアールが何と言ふか心配。それでエルゼアールの方を向いて)なあ、エルゼアール、みんなを今外へ出してしまふと、あまり私は良い気分ぢやないんだ。みんな、廊下まで出たとたん、言ひ始めるに決つてゐる。『あいつ、エルゼアールに何を喋るんだらう、あそこで。どんな悪いことをやつたのかな、一生のうちで。いたづら、泥棒、嘘』それでみんな、酷いことを私がやつたと想像する。しかし私は、何もそんなに悪いことはしてはゐない。それどころか、大抵は良い行ひだ。悪いことをしたにはした。しかし、それを話すぐらゐのことは、それをしたことに比べれば、何でもないことだ。ただ、ノリンヌの前では厭だがね。勿論私は犯罪を犯してはゐない。ただ、女性の前では普通言はないことを言はねばならないかも知れない。これも男が女にする普通のことなんだが。

 オノリンヌ(遠慮して)私は席をはづします。十戒の第十番目がありますからね。

(オノリンヌ、退場。扉を閉める。間)

 パニッス さ、エルゼアール、質問をしてくれ。

 エルゼアール(厳かに)オノレ、懺悔は神聖なものだ。だからこそ、仲間と一緒のこの集まりでも、その中に荘重な空気がなければならない。

(少しの間。パニッス、笑ふ)

 パニッス すると私は、山高帽でも被つた方がいいといふことか。

 エルゼアール(乱暴に)冗談は止めなさい。

 セザール(エスカルトフィッグに)こいつはいいや、死人を怒鳴りつけるんだからな。

 パニッス(それが聞えて)セザール、またか!

 エルゼアール(真面目に)かういふ時に、まだ真剣になれないやうなら、私はもう帰る。

 エスカルトフィッグ(心底賛成して)さうさう、エルゼアール、帰つた方がいい。もう行つた方がいい。あんたの言ふ通りだ・・・

 エルゼアール(出て行きかける。扉のところで立ちどまり)私の出来る仕事がもうないのなら・・・

 パニッス(つひに譲つて)ああ、ある、エルゼアール。あんたの義務を果してくれ。

(エルゼアール、躊躇ふ。去るべきか、留まるべきか。留まることに決める。しかしエルゼアールは、急に、今までの態度を変へる。昔の『遊び仲間』ではなくなり、神父となる。患者に対しては優しいが、他の人間、そして自分自身に対しては、非常に厳しい神父に。威厳をもつてエルゼアール、他の人間を、馴れ馴れしい態度から遠ざける仕草をし、言ふ。)

 エルゼアール みなさん、お坐り下さい。

(みんな、窓の下に半円形に坐る。誰もが変化を感じ、誰もが神父を畏れてゐる様子)

 エルゼアール さて、息子よ、この荘厳な瞬間に、私はお前の、この世での行ひに関し、宗教上の質問をする。いいか、息子・・・

 パニッス 待つてくれ、エルゼアール。あけすけな話なんだが、これは言はないと。そのあんたの『息子』なんだが、さう呼ばれると私は吹き出したくなるんだ。

 エルゼアール(苛々しながら)ぢや、何と呼べばいい。

 パニッス オノレだ。

 エルゼアール 分つた。お前がさう言ふなら。

(エルゼアール、目を瞑つて暫くじつとしてゐる。その目を開けた時、その顔は全く違つてゐる。昔からの古い友人ではなく、神父の顔である)

 エルゼアール オノレ、次の文を、私の後で繰返すのだ。『我らが父よ、私に祝福を与へ賜へ。何故なら私は、罪を犯してゐるからです。』

 パニッス 我らが父よ、私に祝福を与へ賜へ。何故なら私は、罪を犯してゐるからです。

 エルゼアール お前の心とお前の唇に神の宿りがありますやうに。お前の全ての罪を心の底から悔い、口に出せるやうに。神とイエスと精霊の名において、アーメン。

(部屋の奥で、セザール、エスカルトフィッグ、運転手、ムスィユ・ブランの四人が、神父と同時に十字を切る)

(その同じ頃、一等車の中で、制服を着たエコール・ポリテクニックの学生が、窓の外、並木道の糸杉がどんどん後ろに通り過ぎて行くのを見てゐる。彼は仲間がゐず、一人。真面目な顔をして、黙つてゐる。荷物の列の中に、彼の鞄、二角帽、そして短剣がある。この学生はセザリオ。父親の枕元に駆けつけてゐるところ)

(駅のプラットフォームには、相変らず母親が彼を待つてゐる)

(そして、パニッスの部屋では、懺悔が続いてゐる)

 エルゼアール つまりだ、オノレ、お前は良きキリスト教徒として生きてきた訳ではないのだ。教会の戒律をしつかり守つてはきてゐない。自分自身に対する義務も、神に対する義務も怠つてきてゐる。神がお前を許し給はんことを祈るばかりだ。さて、オノレ、お前はこの世で悪いことをやつたことがあるな?

 パニッス それは勿論だ、エルゼアール。悪いことなしにはこの世で生きては行けない。故意にだらうと、過失でだらうとな。エルゼアール、あんただつてさうだらう。

 エルゼアール(謙虚に)それはさうだらう、多分な。しかし今は、私が懺悔する身ではない。お前が懺悔するのだ。オノレ、お前はどんな罪を犯したのか。

 パニッス 分らないな。つまりその、あんたが罪と名づけてゐる事柄、それが分らないことにはな。

 エルゼアール それを決めるのは私ではない。神の戒律があるのだ。セザール、お前、ここに来て、神の十戒を読め。一つづつな。みんなに思ひ出して貰ふための良い機会にもならう。

(セザール、当惑ぎみだが、眼鏡を取り、神妙に、声を上げて、十戒を読み上げる)

 セザール 汝、神を、また神のみを、崇め、愛さねばならない。

 パニッス よしよし、それは大丈夫だ。私はいろんな神を崇めたことはない。これは保証する。

 セザール 神の御名をむやみやたらに唱へ、これを用ゐて、誓ふことをせず。

(「誓ふ」と「罵る」とは、フランス語では同じジュレといふ単語を使ふ。)

 パニッス ああ、これは駄目だ。これは守つてゐない。罵りの言葉は、私はしよつ中だつた、エルゼアール。

 エルゼアール 知つてゐる。これがなければマルセイユの男とは言へないからね。

 パニッス しかし私は誓つて言ふ・・・

 エルゼアール ほほう、またか?

 パニッス 失礼した。『私は断言する』、私が罵りの言葉を上げるとき、決して神様のことは頭にはない。ただ私は、怒つてゐるだけだ。神様だつて私がそんな時神様を怒らせやうだなどと、誤解はしてゐないと思ふ。

 エルゼアール 分つた。(セザールに)続けて。

 セザール 日曜日毎に神を讃へ、篤く神に感謝を捧げる。

(懺悔がこのやうにして続く。その間下の階、パニッス家の台所では、テーブルに、オノリンヌと叔母のクローディンヌが坐つてゐる。二人の前で合唱隊の子供が、ジャムを食べてゐる。長持の上には白いモスリンの上にエルゼアールが置いた、聖体器と秘跡の器具がのつてゐる。ソファの上には、祭司服の上につける飾りがある。これは暫くするとエルゼアールが取りに来るものである)

(叔母のクローディンヌはもう若くはない。しかしまだとても元気がよい。クローディンヌ、合唱隊の子供がジャムを懸命に食べてゐるのを眺めてゐる)

 クローディンヌ あんた、食欲が落ちないね、あんなことがあつても。

 合唱隊の子供(口をジャムで一杯にして)あんなことつて?

 クローディンヌ 人が死のうとしてゐるのよ。

 合唱隊の子供 その人を知らないもの。それに、死にはしないさ。永遠の生命に旅立つだけだ。だからね・・・

(と、再びジャムにとりかかる)

 オノリンヌ 永遠の生命に旅立つ・・・やれやれ、聖職者つてのは・・・やつぱり、今生きてゐるつてことを考へさせられるわね。ああ、ファニー、あの子、どうなるのかしら。ね、あの子どうなると思ふ?

 クローディンヌ 寡婦になるんでせう? あなたとか私とか・・・それと同じ。

 オノリンヌ あの子まだ、三十一歳。

(かなり長い間。それからクローディンヌが静かに言ふ)

 クローディンヌ セザールの息子のマリウス、あの人今どこにゐるか知つてる?

 オノリンヌ(眉を顰めながら)どうしてあの人の話をするの。

 クローディンヌ(下意なく)分らない。ただ何となく・・・

 オノリンヌ 嘘。あなた何か考へてるのよ。いい? それは駄目。(小さな声で)あの人、マルセイユに来たのよ、一年以上前。それが最後だつた。だつて、親父さんが勘当したんだもの。まあ、勘当したくせに、親父さん、考へてゐることつたら、息子のことばかり。(本当に小さな声で)噂では、あの人、牢屋に入つてゐるつて・・・

 クローディンヌ まあ、大変! 牢屋に?

 合唱隊の子供(普通の話、と言ふ調子で)牢屋なんか(屁でもない)・・・うちの親なんか、いつでも牢屋行きだ。ダイナマイトで魚を取るからね。可哀相に、うちの親、それしか知らないんだ。警察は禁止してゐる。でも失業したくないつて言つてね。だから捕まると牢屋行き。でもお陰で痩せもしないや。

(パニッスの部屋。セザールが相変らずベッドの傍に立つてゐる)

 セザール 嘘の証言をするべからず。また、証言に限らず、嘘は厳禁。

 エスカルトフィッグ(小声で)これはまた難問だ。

 パニッス(エルゼアールに)嘘、といふのは何だらう。あんたの解釈では。

 エルゼアール 真実と異なることを言ふこと。

 パニッス 真実を誇張して言ふ、それも嘘か?

 エルゼアール つまり南部地方の嘘のことだな? これは罪が軽い。何故なら、一般的に言つて南部の嘘は利害が絡まないからね。しかし、嘘には違ひない。それは罪だ。

 パニッス それなら神父さん、私は嘘の罪を犯してゐます。

 エルゼアール しばしば?

 パニッス(非常に真面目に)しよつ中。まあつまり、一日に何回も。ボーリングをしてゐる時など、何度でも。それから釣の帰り、狩猟の帰りなど。ああそれから特に、店に来た客に・・・分るだらう? エルゼアール、いつでも本当のことを言つてゐた日には、商売なんか成立たない。

 セザール さうさう。ムスィユ・ブランに、かの有名な船だつて売れつこなかつたな。

 エルゼアール では、その話をして下さい。

(ムスィユ・ブラン、立上がり、大変優しく、言う)

 ムスィユ・ブラン それには及びません、神父さん。私が被害者ですが、全然恨みに思つてをりませんから。あんなものは嘘とは言へません、ほらの一種です。

 パニッス 有難う、ムスィユ・ブラン。

 セザール さうは言つても、もしムスィユ・ブランが溺れてゐたら、お前、この懺悔では随分苦しい思ひをしてゐた筈だぞ。

(観客は再びファニーと一緒にセザリオを待つ。プラットフォームに急行が入つて来る。ゆつくりと止る)

(ファニー、捜す。車両から車両へと移る。突然息子を見つける。ファニー、セザリオの方へ進む。セザリオ、母親を腕に抱く。二人、キス)

 セザリオ 今日は、ママ。パパの具合は?

 ファニー 変化なしよ。私がここに来る時は、寝てゐたわ。重い睡眠ね。お医者様はとても悲観的。

 セザリオ 医者の話では、もう終つて?

 ファニー まだ。すぐには。でも、今度は駄目だらう、クリスマスまではもたないつて。(二人、黙つて歩く)旅はどうだつた?

 セザリオ だつて、いいわけないよ。

 ファニー さうね。機械的に言つてしまつたわ。ご免なさい。

(二人、キスの位置から離れる。セザリオ、母親の手を取る)

 

  パニッスの部屋

 セザール 肉欲は、これを禁ず。但し結婚を除く。

 パニッス Aqui, sian arrba au plus mari...

  エルゼアール Es un grand peca; es besai lou plus grand

 セザール De segu, es aqueou que si fa lou plus souvent.

 エルゼアール さ、オノレ、話すんだ。良心をそれで軽くするんだ。

 パニッス かういふことをあんたに言ふのは、どうもまづいな。

 エルゼアール 私の教区ではな、オノレ、可哀相な女の子は沢山ゐる。お前のやつたことより酷い例は多分いくらでも聞いてゐる。さ、話しなさい。

 パニッス では、仕方がない。さう、私は肉欲の禁を犯した。ここで一番酷い話は、私はその禁を、楽しく行つたといふ点だ。

 セザール おいおい、かういふ禁を犯す時苦しんでやつたとしたら、それは聖者だ。

 エルゼアール 何度だ、その禁を犯したのは。

 パニッス 何回も。それも全力を上げて。

 エスカルトフィッグ(感心して)へっへっへ!

 パニッス 私が若い時は・・・分りますね?・・・最初の結婚の前、私には可愛い女の子がゐて・・・それはもう・・・

 エルゼアール その頃のことはもう懺悔済みだ。言ひ残してないことを望むが・・・お前が最初の結婚をした時に。

 パニッス  ああ、さうだつた。それでは繰返し話すことはないんだな。

 エスカルトフィッグ オノレ、その話は面白さうだ。もう一度やつてくれないか。

 エルゼアール(厳しく)フェリックス、慎みを持ちなさい、慎みを。

(エスカルトフィッグ、身を縮めて、目を伏せる)

 パニッス それから、最初の結婚の時も、やつてしまつた。でも、これも二度目の結婚の時に懺悔した筈だ。

 エルゼアール で、その後は?

 パニッス つまり、ファニーと結婚した後のことだな?(躊躇ふ。そして、言ひ難さうに)またやつた。

 セザール(驚いて)お前、ファニーも裏切つたのか。

 パニッス うん。ファニーは私にいつも優しい愛情を持つてくれた。ただ、情熱となるとな・・・あまり・・・それもこつちは理解出来ることだつたし。それで勢ひ、こちらの方も遠慮がちだつた。分るだらう? それで悪魔の誘惑があつたんだ・・・

 エルゼアール それはどういふ形で?

 パニッス 使用人の形で。

 エスカルトフィッグ(好奇心一杯)どの?

 パニッス 茶色の髪のだよ。

 エスカルトフィッグ さうか。ずーつと怪しいと思つてゐたよ。

 エルゼアール(パニッスに)お前の懺悔は、お前自身にしか関(かかは)らない。一度このことは言つたが、もう一度繰返し言ふ。これが懺悔の鉄則なのだ。(そして急にエスカルトフィッグの方を向き)フェリックス、お前に退場を命ずる。

 エスカルトフィッグ 退場? 本気で?

 セザール この出歯亀めが。さつさと出て行け。

 エスカルトフィッグ 分つた、分つた。

(退場)

 エルゼアール その罪は長く続いたのか?

 パニッス 五分か六分。

 エルゼアール さうではなくて。何箇月ぐらゐ続いたのか。

 パニッス ほとんど一年。それから彼女は結婚した。結婚後は、彼女はもう全然欲しなかつた。

 エルゼアール そのことが残念さうだな。

 パニッス あの頃は残念だつた、エルゼアール。しかし今は、それを残念に思つたことを後悔してゐる。あんたが今、かうやつて話してゐる私を見てゐる、そのあんたを見ると、私は心から後悔してゐる。しかし、一番酷いのは、彼女が欲しなくなつた時のことだ。いやいや、この話はしない方がいいだらう。あんたが苦しむのを見るのは厭だ。

 エルゼアール オノレ、私は聞く。神父といふものがすべての人間に与へるべき優しさをもつて、辛抱強く聞く。さ、オノレ、話しなさい。

 パニッス(小さな声で)それでは・・・彼女が欲しなかつた時、私は別の女をまた・・・

 セザール(小さな声で)おやおやおや・・・

 エルゼアール 続けて、オノレ・・・

 

(階段のところで、エスカルトフィッグ、扉にしつかりと耳をつけて、聞いてゐる。エスカルトフィッグの嬉しさうな、馬鹿な顔)

(その間、マルセイユの通りでファニーが、トルペードーの車を運転してゐる。息子を家に連れて行くところ。ファニー、薬局の前で車を止める(これはパニッスの薬のため)。ファニー、車を降り、薬局に入る。セザリオ、待つ)

 

(再び病人の部屋)

 エルゼアール お前は、これで、全部話したな? オノレ。

 パニッス うん、エルゼアール。胸の中にあるものは全て出した。

 エルゼアール では一つ、お前に訊かねばならぬことがある。しかし、この質問は他の人にも関係があることだから、お前と二人だけで話したい。さ、みんな、出て下さい。

(セザール、ムスィユ・ブラン、運転手、爪先立ちで退場)

 パニッス(心配さうに)質問て、何だ? エルゼアール。

 エルゼアール あの子供のことだ。あの子供がお前の子供でない、と、お前はまだ言つてないぞ。

 パニッス だつて、そんなこと、言ふ必要があるんですか? あなたも知つてゐる、それに、誰だつて知つてゐることです。

 エルゼアール 誰でも知つてゐる、確かに。ただ、彼、は知らないぞ。

 パニッスの食堂で

(セザール、エスカルトフィッグ、クローディンヌ、オノリンヌ、ムスィユ・ブラン、運転手、合唱隊の子供、が、この順で机についてゐる。オノリンヌ、泣きながら、白葡萄酒をみんなに注いでゐる)

 オノリンヌ さ、みなさん、飲んで。かういふ時は飲まないと。これはオノレの白葡萄酒・・・

 エスカルトフィッグ(グラスの半分を一息に飲んで、泣き)可哀相に、オノレ。あいつ、いい酒はよく知つてゐる・・・

(セザール、じつと動かず、口も開かない。考へてゐる。何か困つてゐる様子)

 セザール あの十戒を読んでゐたら、何だか変な気持になつてしまつたな。気味が悪くなつてきたよ。ああ、ムスィユ・ブラン、あんたはどうだつた?

 ムスィユ・ブラン ああ、私は特別信心深い方ぢやない。しかし、あの儀式、あれに立会ふと、何だか心が落着くな・・・安心の気持が湧いてくるね・・・

 エスカルトフィッグ おいおい、見てみろ、あれを(と、合唱隊の子供を指差して)。あれと一緒に神父がやつて来るといふのに、お前、落着くのか?

 クローディンヌ 神父さんにまだ聖油を渡してゐないわ。あの儀式が一番恐ろしい・・・

 オノリンヌ さう、あれが一番怖いわ。でも、少なくとも神様の前に出ても落着いてゐられる、つていふのが有難いわ。

 クローディンヌ さう、それ、ほんと。あれが終りさへすれば、安心だもの。神様に会つたつて。

 セザール まあさうだらうな。しかし私には一つひつかかることがある。エルゼアールの神様・・・それは我々の神様だが、それが・・・もし本物ぢやなかつたら。

 エスカルトフィッグ(仰天して)おいおい、そんなひどい話を・・・

 オノリンヌ(呆れて)何を一体あんた、言ひだすのよ。

 セザール つまりだ、私はイスラムもヒンズーも支那人も黒人も知つてゐる。連中の神様はそれぞれ違つてゐる。だから連中はやることも違ふ。俺達が罪を犯すとする。でもそれは、連中の神様としちゃ、良い行ひかもしれない。ま、その反対の場合もあるだらうが。とにかく、連中の神様は間違つてゐるんだらうが、ただ、その数といへば、大変なものだ。だから、その中に正しいものがあるかもしれん。なあ、ムスィユ・ブラン。

 ムスィユ・ブラン さういふ問題が出て来るのは仕方がないな。

 セザール 可哀相にオノレの奴、エルゼアールの神様のお気に召すやうには、万事整へたのに、雲の向うに行つて、神様にお目通りしてみたら、その神様、オノレが一度も会つたことのない奴だつたら? 黒い色をした神様、いや、黄色かな? それとも赤い色? おまけに着てゐるものと言つたら、指人形劇でやつてゐる例の骨董屋によくあるあの衣裳、それに、腹が出てゐる奴だつたら? 腕もエスキナード(不明)のやうな腕だつたら? 可哀相にオノレ、何も言へないぞ。それに一体、何語で喋ればいいんだ。仕草だつてどうする。草臥れ果てて、やつと死んで、長い長い旅の終、目の前がフラフラしてゐる時に、そんな訳の分らない神様が出て来て、どうすればいいんだ。何かお祈りでもするしかない。そこでその神様が言ふ。『えっ? 何? 何だつて?』それも、中国語でやられてみろ、たまつたもんぢやない。

 エスカルトフィッグ(怒つて)いや、それは酷い。そんな話、震へが出て来る。(と、酒を飲む)

 オノリンヌ(怒つて)何を言つてるの、この不信心者。あの聖書があんた、嘘だつて言ふの? それに福音書が。いい? ここには合唱隊の子供もゐるのよ。この子に対してだつてあんた、恥かしくないの?

 クローディンヌ(皮肉に)セザール、あんた、パスティッスばかり飲んでゐないで、少しは教会に行つたらどうなの。そしたら、神様は一人しかゐないつて、分るはずよ。そしてその一人の神様は私達の神様だつてね。

 セザール さう、勿論良い神様、それは我々の神様だ。すると、地球上で、いつぱい馬鹿な奴がゐるといふことになる。まあ、連中は可哀相だ。さうだな? ムスィユ・ブラン。

(港の船着場。丁度パニッスの家に向つてゐる医者。医者の名はフェリスィアン。フェリスィアンは年寄り。背が高く、痩せてゐる。眼鏡。丸い金の縁。灰色のフロックコート。ただ、かなり草臥れてゐる。独身。フロックコートの上にふけがついてゐるので、それが分る。そして、しわくちやのズボンでも、それが分る)

(医者の話はここまで。パニッスの家での会話に戻らう)

 

 セザール 私はな、神父の言ふことで心配になつたりはしないんだ。私は、医者だ。医者の言ふことだよ、心配なのは・・・

 ムスィユ・ブラン(力をこめて)私は心配などしはしないぞ、医者なんかの言ふことに。だいたい、誤診が多い、誤診が。

(医者、突風のやうに入つて来る)

 フェリスィアン その通りだ、ムスィユ・ブラン。

 ムスィユ・ブラン(狼狽へて)失礼しました、先生。私は一般的な話をしてゐたので・・・

 フェリスィアン(鷹揚に)さうさう、メートル・パニッスを診てゐる医者一般の話だね。大丈夫、確かに、あなたの言ふ通りですよ。(オノリンヌに)意識は戻りましたか?

 セザール ええ。いろいろ我々に話をして、今はエルゼアールと一緒です。

 フェリスィアン(ちよつと心配して)あらあらあら。そいつはまづいな。(合唱隊の子供に)ああ、君ね。君は、二階に上つちゃ駄目だよ。そこにじつとしてゐなさい。

 合唱隊の子供(鼻声で)はい、分りました、先生。

 フェリスィアン(鼻声を真似して)『はい、分りました、先生』か。扁桃腺肥大だな、これは。

(すぐに、二階に通ずる階段を上る)

  パニッスの寝室

 エルゼアール さてと、オノレ、これで全部すんだ。心の中の掃除がすんで、きれいになつたぞ。私の思ふところ、お前が神様の前に呼び出されても、神様は悪い顔はなさるまい。お前も今、心が洗ひ流されたやうな気持だらう?

 パニッス さうだな、エルゼアール。さつぱりした。

 エルゼアール ちよつと言ふとな、ここに来るまでは、お前の懺悔に、もつと酷いことを言はなきやならんと覚悟してゐたんだが、そんなに酷くはなかつたな。あ、さうさう、聖油を持つて来た・・・ああ、オノレ、聖油つて言つたつて、何も怖いことなどないんだからな・・・

(フェリスィアン、突然入つて来る)

 フェリスィアン いや、怖い。怖いぞ、エルゼアール。まだその時が来ないときの聖油、それは身体に悪いんだ。

(フェリスィアン、道具入れを暖炉の上に置く)

 エルゼアール(怪しからん、といふ顔) 何てことを言ふんだ、お前は、フェリスィアン。

 フェリスィアン エルゼアール、お前こそ、何でことを言ふんだ。

 エルゼアール(威厳をこめて)これが私の義務なんだ。

 フェリスィアン(鷹揚に)義務? ちよつと早過ぎぢやないのか? 私にも義務があるが、そちらが早過ぎだと、こつちの義務が出来なくなる。私は医者だ。これだけのことは言ふ権利がある。(急に怒りが出てきて)合唱隊の子供なんか連れて来て、みんなを驚かすとは何事だ。ああ、それで思ひ出したが、あの子は扁桃腺肥大だ。私の診療所に来させなさい。少し扁桃腺を切らなきや。(フェリスィアン、パニッスに近づき、聴診器をあてる)息を止めて。(暫く聴く)よし。悪くない。少しよくなつてゐる。ああ、勿論すつかり良いわけぢやない。走れ、などとは言はないよ。でも、とにかく、まだ先はある。

 パニッス(微笑んで)でも、終なんだな?

 フェリスィアン(微笑んで)さう、お前は終だ。そして私も。私も終だ。エルゼアールも終だし、生きてゐる者みんな、終だ。少し早いか、少し遅いか、その違ひだけでね。

 パニッス で、私の場合、後どのくらゐ、あんたなら、くれるんだ?

 フェリスィアン おいおい、可哀相に。私があんたにやるとなれば、永遠だ、永遠をやるさ、出来ればな。

 エルゼアール(ゆつくりと)さう、私もだ、フェリスィアン。ただ、私の場合、条件がある。それに相応しくないとな。

 フェリスィアン(尊敬の念なしに)さうだな。ただ、あんたの場合、その永遠は、葬式の後から始るからね。

 エルゼアール(信仰から出てきた考へ)魂の救ひだ。それが第一。あとは関係がない。

 フェリスィアン さう。先週もあんた、二人殺したな、私の患者を。その魂の救ひのために。

 エルゼアール 私が?

 フェリスィアン さう、あんたがだ。さうさう、エルゼアール、私だつてそんなに不信心な男ぢやない。だから、その時が来れば、ちやんとあんたを呼ぶ。儀式をやつて貰ふためにね・・・

 エルゼアール それで安らぎが得られるといふのか・・・

 パニッス おい、フェリスィアン、その神父さんの言ふ通りだぞ。

 フェリスィアン うん・・・ただな、その儀式、油差しと鈴つきでやるその儀式、それでみんな一巻の終になるんだ。まだその時でもないのにな。ああ、勿論あんたにとつちや勿論、それはお

決りの儀式、毎日の儀式だ。だが、やられる方にしてみれば、いつだつてその時が最初だ。それで、私は言つておくがね、その儀式が奇妙な効果を生んでしまふのだ。

 エルゼアール 儀式が人を殺すやうなことはない!

 フェリスィアン 最初の儀式(生れる時のこと)はな。しかし最後の儀式は、違ふね。一週間前、例のあんたの信者、彼は、私は救へたんだ! あの男も心臓が悪かつた。私は絶対安静にと言ひ渡して、あの家を出た。そしたらあんたがやつて来た。チリンチリンと鈴を鳴らして。例の扁桃腺肥大の合唱隊の子供と一緒にな。あんたは奴に、あらひざらひこれまでのことを喋らせた。聖油をかけた。するとたちまち、オップ! 奴は今天国にゐるかもしれん。しかし、家にはもうゐないんだ。それからもう一人、鉄道で働いてゐた男。トレーラーに轢かれて、片足取られた奴だ。輸血が終り、口もきけるやうになつた。だがその時、あんたがやつて来た。もう駄目だ! 奴はあんたを見て、もう終だと思つた。さう思つたために死んだんだ。これで二人だ。私の患者を殺すのがあんたの役目ぢやない、なんて言つて悪いが、殺すのは私一人で沢山なんだ。それに私は、わざとやつてゐるんぢやないんだからな。

 エルゼアール(皮肉に)つまり私は人殺し、といふわけだな。

 フェリスィアン いや、それは違ふ。しかしあんたは、『よかれ』と思ふ気持が強過ぎるんだ。だから来方(きかた)が早過ぎる。私が呼んでから来て欲しいな。

 エルゼアール そんなことをしたら、私は死体にしか懺悔をさせられないぞ!

 フェリスィアン おいおい、神様はうまくやつてくれてゐるんだ。生き物が死ぬ時には、必ず死の直前に、頭のはつきりする時間を与へて下さつてゐるんだ。医者の言葉ではそれを『ユーフォリ(陶酔)』といふんだがね。そこだ、そこが懺悔の時なんだ。そこがあんたの登場する時間なんだ。そこまで待つてくれなきや。しよつ中鈴と聖油を持つてやつてこられちやたまらん。油が多過ぎて困つてゐるつていふのなら、それでマヨネーズでも作つたらいいんだ。それから、あんたの合唱隊の子供だがね、良いキリスト教徒かもしれんが、あれは扁桃腺肥大だ。

 エルゼアール あんたは卑俗なことしか言はん。ボロだけだ、あんたが考へることは。あんたが好きな人間ていふのは、ああいふ有象無象の、結局のところゴミになるしかない運命をもつた・・・

 フェリスィアン 「になるしかない運命」か! それならまだしもだ。あいつらはもう既にゴミなんだ、エルゼアール。生まれた時の汚泥から、死んで清潔な骨になるまでな。そして、そのゴミといふ連中が、私の仕事場なんだ。(小さな声で)私は厭な臭いを出してゐてね、エルゼアール。このフロックコートも酷いものだ。おまけに職場が職場だからな。チフス、便秘、出産、湿疹・・・あんたはいい。聖なるミサをやつてゐればいいんだからな。私が診療所で、できものを切開し、膿(うみ)を出してゐるその時にあんたは懺悔を聞いてゐればいいんだ。

 エルゼアール(小さい声で。しかし非常に強く)懺悔とは一体どういふものか、知つてゐるのか。汚泥だぞ・・・

 フェリスィアン ああ、あんたが酷い話を聞かなきやならないのは分つてゐる。人間の汚辱、泥、の中に浸らなきやならないのをね。しかし、癌ほど汚い罪があらうとは、私には想像出来ない。(突然怒りが溢れて)だから、私のこの職業を馬鹿にするのは止めてくれ! これはあんたの使命と同様、高貴なものなんだ。

 パニッス(愛情をもつて)ああ・・・お二人さん、もう喧嘩はやめて・・・

 フェリスィアン だがな エルゼアール、あんたの言ふことを聞いてゐると、神様は死しか作らなかつたかのやうな話だ。神様は生も作つたんだ。肉も作つたんだ。私が人間の悲惨を扱ふ職業についてゐるからと言つて、私は自分が悪いキリスト者だとは思つてはゐないぞ。

 エルゼアール だがやはり、これは言ひにくいことだがな、あんたには信仰心はない。

 フェリスィアン(静かに)今朝私は往診を十七やつた。どの家にもエレベーターはない。貧乏人の家だ。そして、わざとのやうに、貧乏であればあるほど、その家には病気がある。十七の往診だが、その内何軒金を払つてくれるか。まあ、せいぜい二軒。それも私が厚かましく要求すればの話だ。私は要求などしない。そのせゐか、私が地獄行きなのは。

 パニッス(弱々しく)おいおい、あんたが地獄行き? そいつはないよ。

 エルゼアール フェリスィアン、ちよつと待て・・・

 フェリスィアン 待てつて、何をだ。

 エルゼアール 私が言つたのか? 地獄行きだと。

 フェリスィアン 言つてはゐない。しかし、さう聞えるね。

 エルゼアール それは誤解だ・・・あんたの行為は良い。しかし言葉、それが悪いんだ。小さい子供の単純さを持たなければ・・・

 フェリスィアン(嬉しそうに)この十数年のうちに子供にかへれるか。難しいな。さう言へば、あんたもこの十数年のうちだぞ、どつちか決るのは・・・

(再び階下、パニッスの食堂に戻る)

(相変らず、ゐるのは、合唱隊の子供、セザール、ムスィユ・ブラン、エスカルトフィッグ、運転手、オノリンヌ、と、クローディンヌ。勿論、今喋つてゐるのはクローディンヌ)

 クローディンヌ 可哀相、私の夫の場合は。奇妙な具合だつた。夜、私を起すの。あれは一番鶏が鳴いた時だつた。あの人、少し赤い顔をしてゐたわ。手を胸にあてて、「クローディンヌ、お前、俺が今突然死んだら何て言ふ?』私は半分寝たまま、『それはあんたが間抜けつていふことよ』そしたらあの人『さうか、すると俺は間抜けつて言ふことか』つて。それでその場でアッといふ間に死んだの。

 エスカルトフィッグ まさか!

 クローディンヌ いえ、この通り、死んだの。五十三だつたわ。医者の言葉では、死因はアンブリッグ(これはクローディンヌの覚え間違ひ。正しくは後のムスィユ・ブランの台詞にある、アンボリ(塞栓症)。)だつて。

 セザール(驚いて)アンブリッグ?

 クローディンヌ さう。あの人、アンブリッグだつたの。

 セザール(臍(へそ)の辺りを触つて)私だつてアンブリッグはあるぞ。誰だつてアンブリッグは持つてる。

 エスカルトフィッグ(しつかりと)私だつてある。特別製だ。五フラン硬貨ぐらゐの大きさだ。

 クローディンヌ(この二人よりはよく知つてゐる、といふ顔)ノンブリッル(臍)とは違ふの。学者の言葉では、アンブリッグつていふのは病気。医者は言つてたわ。『動脈の一種の蓋のやうなものだ』つて。これ、ころつと行くんだつて。丁度ガスの栓を止める時みたいに。

 セザール(科学的なことを言ふという顔)ああ、クローディンヌは、アンボリードルのことを言つてるんだ。

 ムスィユ・ブラン(皮肉。しかし真面目な顔で)ああ、それのことなら、アンボリと呼んでゐる人もゐるね。

 セザール(譲歩して)うん、リヨンではな。

 ムスィユ・ブラン まあ、さう言ふなら。とにかく、彼は死んだんだ。

 オノリンヌ ええ、いい死に方だつたわ。

 セザール さうかな・・・他人から見ればいいんだらうが、私は、綺麗な死に方より、汚くても生きてゐた方がいいな。どうだ? ムスィユ・ブラン。

(玄関、急に開き、ファニーとセザリオ、登場。セザール、セザリオに近づく)

 セザリオ 今日は、おぢさん。

 セザール やあ、坊主。

(セザール、セザリオにキス。ファニーはクローディンヌにキス)

 セザリオ で、パパは?

 セザール 医者がゐるんだ・・・

 セザリオ(合唱団の子供を見、聖体器、上祭服を見る。そして、暗い声で言ふ)それに、神父さんだね。

(オノリンヌ、泣く)

 エスカルトフィッグ 我々のゐるところで懺悔をやつたんだ。

(セザリオ、階段の方へ一歩踏出す。セザールが引止める)

 セザール 今は上るな。あいつに心の準備をさせてやらなきゃ。医者の話をまづ聞いて、それからにしろ。ああファニー、あんたが上れ。(ファニー、黙つて階段を上る。セザリオに)元気を出せ、セザリオ。お前に出来ることなど何もない。それに、分るな? あいつはまだ死にはしない。

(セザール、微笑む。しかし、その声は涙ではつきりしない。セザリオ、感情を抑へる。そして士官にやうに身体を硬直させる)

(階段を上つて行くファニー。医者、降りて来る。二人、階段の途中で立止る)

 フェリスィアン よくなつてるよ、ファニー。直る可能性もあるにはあるんだが・・・短期的にね。ただ、正直に言ふと、クリスマスまでは持たない。我々にはどうすることも出来ない。無力だね、この無知な人間にとつては。(ファニー、泣く。フェリスィアン、ファニーにキス)息子を残して死んで行くんだな、可哀相に。さうだ、夕方また来る。薬を飲ませてな。それから、驚かせるやうなことはしてはいかん。

 ファニー セザリオ、帰つて来ました。

 フェリスィアン ああ、オノレには、息子さんのことはそつと話して。急には駄目だ。万事順調に行つてゐるから、とか何とか・・・病人には嘘をつかなければ。たとへ嘘が分るやうな時でもな。その方が病人には楽なんだ。さてと、私は他の連中に会はないと。ぢや、今夜・・・

(フェリスィアン、考へながら、階段を降りる。ファニー、パニッスの部屋の前まで来て、少し立ち止る。それから、入る。パニッス、ファニーを見て嬉しさうに微笑む)

 パニッス ファニー、早くこつちに来て。今までどこに?

 ファニー クローディンヌと市場へ。

 パニッス 私に笑ふ元気があれば笑ふところなんだが。元気はこの際、大事にとつておかなきやな。さ、私はよくなつた、とあいつに言ふんだ。

 ファニー あいつ? 誰のこと?

 パニッス 駅までお前が迎へに行つた男だよ。

 ファニー 誰? そんな話、したのは。

 パニッス 病気が酷くなるとな、ファニー、みんな分つちやふんだ。見抜いてしまふんだよ。愛情で隠してゐることだつてね。あの子にすぐ話してくれ・・・

 ファニー もうあの子、知つてゐるの。今フェリスィアンと一緒。

 パニッス さうか。さうすると、あの子が上つて来る前に、お前に話しておかなければならないことがある。エルゼアールが、今丁度、私の罪を消してくれたところだ。それはみんなうまく行つた。ただ、一つだけエルゼアールが気にしてゐることがあつてな・・・

 ファニー(神父の方を向く)何ですの? それは、神父さん。

 エルゼアール 子供のことです。私の考へではね、ファニー・・・オノレが死ぬ前に自分で、あの子に本当のことを話すべきだと思つてゐます。

 パニッス(静かに、頑固に)いやいや、私が言ふことは出来ない。あの子は生れてから今までずつと私を父親だと思つて来た。私はあの子の父親として死にたいんだ。(本当に悲しい)いいか、ファニー、私は、何もかも一度になくして、去つて行くんだ。私の命、そして息子までなくさなくちやならないのか! それは厭だ。

 ファニー でも神父さん、あの子を育てたのがこの人の罪だと仰るのですか?

 エルゼアール いや、ファニー、さうではない。ただ、あの子が息子だということに関して言へば、たしかに嘘はない。しかし、真実の誤摩化しがある。省略による嘘だ。これを懺悔することは、オノレにとつて大変辛いものだらう。だからこそ、それだけ価値のある告白であり、神様にとつてはそれだけ有難いと思はれる懺悔だらう。あの子を息子として育てたこと、それは勿論罪ではない。しかし、マリウスに娘があつたと考へたらどうなる。そしてセザリオが、全く何も知らず、その娘と結婚したら・・・これは近親相姦だ。大変な罪だ。もし二人が敬虔なキリスト教徒で、教会で結婚式を挙げるやうなことになつたら、それは神への冒涜だ。そして天国で、誰がその罪を受けることになる。お前だぞ、オノレ。無実だと信じて、かういふ可能性のあることを無視したためとんでもないことになるのだ。

 パニッス(頑固に)しかしマリウスに娘がゐれば、私には分る筈だ。

 エルゼアール マリウス自身が自分に娘がゐることを知らずにゐたらどうなる。

 パニッス ファニーがゐる。ファニーがその二人に教へるさ。

 エルゼアール ファニーがもうその時、死んでゐたら?

 パニッス(突然反撃して)あんたがゴビ砂漠で釣をして、その針に四輪馬車がかかつてゐたとする。さうしたらどうする。世界中の人間が急に一つ目になつたとする。さうしたら、眼鏡屋はみんなあがつたりだ。片眼鏡を売つてゐた奴だけだ、儲けるのは。さうなつたらどうする。

 エルゼアール 私の仮定は、お前が言つた仮定よりずつと現実味がある。

 パニッス(決心は固い)厭だ、厭だ。あの子に私からは言はない。煉獄(れんごく)に二年間ゐる目にあつても、それだけは厭だ。一兵卒の生活を二年したつて構はない。さうだ、実際私はヴェルダンで戦つたんだ、一兵卒で、二年間。煉獄だつて、あの辛さ以上では、ありつこない。それに、これ以上うるさく言ふのなら、私はもう、壁の方を向いて、そのまま死んでやる。そうしたら、もううるさくも言へないだらう。

 エルゼアール オノレ、落ち着いて。それから、死ぬのは駄目だ。まだお前は罪の状態にあるんだ。

 パニッス すると、あんたの出す赦免、それは何の意味もないといふことか。単なる白紙といふことなのか。

 エルゼアール オノレ、お前は今、腹を立ててゐる。もう一度懺悔をやらなきや駄目だ。さうさう、今、お前はよくなつてきてゐる。神様が、改悛の時をお与へになつたのだ。きつと独り言を仰つてゐるに違ひない。「オノレの懺悔はまだ完全ではない。まだ真の痛悔に至つてゐないのだ。もう数日、いや、もう数週間、いや、もう数箇月、よく考へ、よく理解できるだけの時間を与へてやらう。」私も、神様がそれだけの命をお与へ下されば、もう一度お前の懺悔を聞きに来やう。さう、明日にも、お前を見に来やう。その間に、何か方法が見つかるかもしれないし。

  台所で

 エスカルトフィッグ 私はそんなに簡単に地獄で焼かれはしないぞ。その前に沢山やつておくことがあるからな。

 セザール お前が地獄に行かないのなら、あつちでもお前に何も出来はしないさ。

 エスカルトフィッグ 私があつちに行かない? すると連中、何を焼くんだ。

 セザール まあ、お前の身体だな。ただ、お前の魂は別の場所に行つてるかもしれん。さう、天国かもな。

 エスカルトフィッグ ああ、それはな・・・それは分らん・・・(ちよつとの間、夢みるやうな目つき。それから心配になつて訊く)夫が妻を寝取られる、それは罪だらうか。(みんな、笑ふ)何故笑ふんだ。

 セザール 別に。さう、妻を寝取られるのは罪ぢやない・・・さうだ、お前はとにかく天国行きだよ。ただ、その頭の上に二本の角(つの)をつけてな。その角があれば、後光をくつつける時にも都合がいいや。(全員笑ふ)

 クローディンヌ(思ひ返して)まあ、こんな時に笑つたりして! 

 フェリスィアン 笑ふさ、大いにな。第一、笑つた方がオノレの病気のためにいい。それに、誰かが死ぬと言つて、あまり暗くなつても仕様がない。どうせ自分の順番がいつかは来るんだ。

 エスカルトフィッグ 後光だがな、後光といふとすぐ思ひ出す話がある。メスト・アルノの話だ。メスト・アルノが天国に来た。神様は彼を暖かく迎へた。彼を静かな場所に連れて行き、服を着せてやつた。綺麗な白い服、手を綺麗に洗つてやり、後光をつけてやつた。その他いろいろな。それから五六日経つてサン・ピエールは、雲の片隅で、メスト・アルノに出逢つた。さうしたら、メスト・アルノは悲しさうな顔をしてゐるぢやないか。まるで歯が痛い時のやうな顔だ。それでサン・ピエールは言つた。『おいおい、メスト・アルノ、お前、この天国で幸せぢやないのか? そんな不愉快な顔をして(fais six pans de brigues は不明)。天国にまでやつて来て、心配顔をするなんて、恥を知りなさい、恥を』するとメスト・アルノは答えた、『サン・ピエール様、こんなことをお願ひしていいでせうか。私は時々二三日煉獄に行きたいのです。これはお許し戴けないでせうか』『だけど、メスト、お前どうしてそんなことを』『いえいえ、何でもないんです、何でもないんです』サン・ピエールはじつと彼を見て『いいかね、メスト・アルノ、天国では、嘘は駄目だ。天国は卒業免許を与へるところではない。ここで駄目になると、即刻、瞬きする間に、お前は消えてしまふのだ。だから、お前は本当のことを言はねばならない。さあ、お前、一体、どうしたのだ』そこでメスト・アルノ、『私は頭痛がするのです。いつもです。いつも頭痛がするのです。仕立てて貰つた後光が私の頭には小さ過ぎて、それでなんです』

(全員、笑ふ。特にエスカルトフィッグ。しかし、彼の笑ひは急に萎(しぼ)む。エルゼアールが隅の方で、冷たく彼を見てゐるのに気がついたため)

 エルゼアール もしお前がそんな調子で生きつづけ、そんな調子で喋り続けたら、今のメスト・アルノの後光など、とても受取る運命にはならないぞ。(エルゼアール、くるりと背を向け、セザリオの方を向く)セザリオ、お父さんがお前に話があるさうだ。大分状態はよいがな、それでも、びつくりさせるやうなことを言つてはいかんぞ。

(セザリオ、退場)

 エスカルトフィッグ(当惑して)エルゼアール、私はあんたが見えなかつたんだ。それに、悪気があつてあの話はしなかつたぞ、私は。さうだな? セザール。

 セザール まあな。お前はいつだつて、何も考へずに話をするんだ。

 エルゼアール(合唱隊の子供に)さあ、行かう。神様をお家に返すんだ。

(エルゼアール、僧服の飾りと儀式用の道具を取る。じつと押し黙つたまま。非常に厳粛に)

 

(二階。パニッス、ベッドに起きて、坐つてゐる。枕もとに坐つてゐるセザリオに、微笑む)

 パニッス さあ、何故お前がここにゐるのか、それを言つてくれ。学校が休みになつたのか? 校長が死んだのか? お前が追出されたのか?

 セザリオ どれも違ひます。ママが電報をくれたからです。パパが病気だと。

 パニッス さうだ。さう言へばいいんだ! それから、賭けてもいいが、綺麗な服を持つてきたな? 制帽と。葬式用なんだらう。

 セザリオ ええ、持つて来ました。でも、偶然にです。

 パニッス(この答に大喜び。そして感歎の気持)さう。さう言はなければ! やつと嘘をつかない人間が現れた。それから、病人を馬鹿扱ひしない人間がな。有難う、セザリオ。有難う。それからな、セザリオ、どうやら私は執行猶予を得たらしいんだ。うん、それを感じる、私は。執行猶予だ。長いものではない。しかし、私が楽しめる程度には充分長い。第一、生きてゐられるといふこと自体、楽しいんだからな、たとへ病気ででもだ。それに、特に、お前に会へた。私はお前に会ひたかつたよ。遺言をしておきたかつたんだ。

 セザリオ(ショックを受けて)お父さん、さういふ種類のことは・・・

 パニッス ああ、分つてる。お前の言ふ遺言ぢやないんだ、これは。司法書士がからむ、あれとは違ふ。あれはもうちやんとすんでゐる。私の遺言、それは、生きる道のことだ、これからのな。長い長い話をしたいんだ、本当は。私がもつと教育があれば、本にしてそれを読んでやるところなんだが。しかし今はもう、このぐらゐがよささうだ。お前を待つ、それだけで随分な努力だつたんだよ。今はちよつと疲れた。少し寝たい。お前が傍にゐてくれると嬉しい。

 セザリオ はい、お父さん。

 パニッス そこの本でも読むか、何か暇つぶしでもして・・・

(セザリオ、坐る。本を手に取る振りをする。パニッス、この時までに、目を閉ぢてゐる。パニッス、非常に優しく、言ふ)

 パニッス お前に、『ここにゐろ』などと言つて、私のことを随分我が儘な男だと思つてゐるだらうな。

 セザリオ とんでもないです。パパの傍にゐて、僕は嬉しいです。パパ、寝て。寝ると楽になる。寝て、パパ。

(セザリオ、動かない。パニッス、毛の多い手を毛布の外に出して、微笑みながら、寝る)

  トゥーロンにある、あるガレージ

(かなり大きなガレージ。十二三台の車が入つてをり、また空いたところにも、もう十二三台の車の入る余地あり。隅でマリウス、旋盤で仕事をしてゐる。『マリウス、マリウス』といふ声がする。マリウス、旋盤を止め、応える。『おー、何だ』。マリウス、旋盤から離れ、両手を拭きながら、声のする方に行く。カメラ、マリウスを追ひ、フェルナンに会ふ。灰色の山高帽、片方の足にはすり減ったパンプス、もう片方の足には、スリッパ。杖をついてゐる。酷く辛そう)

 フェルナン やあ、マリウス。

 マリウス やあ、ぢいさん。調子、悪さうだね。

 フェルナン(芝居がかつて)踝(くるぶし)に痛みが来てな。一歩歩く度に悲鳴があがるよ。俺はついてない。誰かには認めてもらひたいな、この痛みを。(マリウスに気を遣つて)何をやつてゐたんだ?

 マリウス たいしたことぢやない。ムスィユ・ピュイムワソンの車のブロンズの像を作つてゐるんだ。古い車でね、そんな部品はもう工場にはないんだ。だからここで作つてゐる。

 フェルナン(残念さうに)ああ、それであんたが作つてゐるのか。(熱心に)そいつを俺が自分で作れたらなあ。俺にその才能とエネルギーがあればなあ。それにその技術が。それに健康と。俺はどれだけ喜んでそのブロンズの像を作るだらうか。千個でも作るのに。いや、一万個でも作るのになあ。

 マリウス(微笑んで)そんなに作つても無駄だらうな。もう店に売つてないといふことは、それは売れない、といふことだからね。

 フェルナン だけど、俺が作るのは、売りたいためぢやない。作るために作るんだ。あんたに、俺が怠け者ぢやないことを示すためなんだ。考へてみりや、俺はもう十一年もあんたの相棒としてここで働いて来た。そして俺は・・・今日ここにやつて来たのもそのためだが・・・この一週間の儲けの半分を受取つてゐる。俺は何もしてゐないのにだ。だから、いつそのこと上衣を脱いで、波止場から身を投げてしまはう、と思ふことが何度もあるんだ。あんた、何て言ふ?

 マリウス 僕か? 僕は言ふね。どうせ自殺するんだ、上衣を脱ぐ必要はないんぢやないかつてね。

 フェルナン なるほど、それも道理だ。

 マリウス それに、あんたは自殺する必要なんか全くない。まあ、したい、といふんなら別だが。今週のサラリーが欲しいんだね?

 フェルナン(悲しさうに)さう・・・さう。いや、別にこの俺がそれに値することをやつてゐるわけぢやない。さう。しかし、その権利はある・・・からな。

 マリウス さ、来て。

(二人、ガレージをつつ切る。ガラス戸の入つた部屋に来て、マリウス、坐る。引出しを開ける。金属で出来た箱を取出す。マリウスはそこに売上げの現金を入れてゐる。マリウス、箱を開ける。百フラン紙幣を取り出す。フェルナン、非常な興味を以てそれを見てゐる。マリウス、次々と百フラン紙幣を取出し、数へながらそれをフェルナンに渡す)

 マリウス 一・・・

 フェルナン 考へてみると・・・一・・・

 マリウス 二。

 フェルナン 二・・・俺が全然働かないで・・・三・・・

 マリウス 四。

 フェルナン 四・・・それに働かうにも働けないし・・・五。あんたから金を貰ふと、手がやけどするやうな気がする。

 マリウス もうこれ以上やけどはしない。後はビストロのつけで、相殺だ。

 フェルナン やれやれ、これで助かつた。(マリウス、笑ふ。フェルナン、渋い顔)あんたは笑つて信じないかもしれないがね、本当に夜など、眠れないときがあるんだ。『フェルナン、あのガレージでお前はどんな仕事をしてゐるんだ?』

 マリウス 二万五千フラン、持つてきてくれたぢやないか。

 フェルナン あの金、あれは私が稼いだものぢやない。伯母のクラリッス・ドゥ・マノスクの遺産だ。で、仕事としては、だ、私は一体何をした。何もしたことはない。病気のせゐだ。(と、穿いてゐるスリッパを見せる)

 マリウス(優しく)怠けのせゐもあるかな?

 フェルナン(むつとして)『怠けのせゐ』! 『せゐ』なんて生易しいものぢやない! 怠け、といふのは、あんた、分らないかな、それ自身が病気なんだ。それも、病気の中で一番悲しい病気。働く人間はいい。連中は歌ひ、声をかけあひ、笑ふ。それに仕事が終つた後の、あの夕食の時のパスティッス、それを飲むあの嬉しさうな顔! あのパスティッスの味をよくするためだけに、連中、一日中仕事に励んでゐるとも言へる。左官のやうに、連中、一日が終ると、屋根の上に、パスティッスの香りを植ゑるんだ。(一杯飲んで、屋根の上に酒の匂ひをつける。)それにひきかへ仕事の楽しさ、仕事の味、他人に役立つといふ自負、を知らない人間は一体何をする。(悲しさうに)さういふ奴は、朝つぱらから飲み屋に行くのさ。私と同じやうにな。(宣告を下すやうに)いいか、マリウス、朝のパスティッスは、悲しみの酒だ。私といふ人間は、怠けといふ雷に打たれてしまつた男だ。私にはよく分つてゐる。勿論それを誇りに思つてはゐない。いやいや、とんでもない。それに、これは繰返し言ふ。あんたが私にくれてゐる金、それに合ふ仕事を私はしてゐない。私は稼いでお金を貰つてはゐないんだ。ああ、私は役立たずだ。何にも、何にも役に立つてゐない、私は。

 マリウス(非常に優しく)違ふ、違ふ。まづだね、あんたの二万五千フランがなかつたら、このガレージは存在してゐないんだ。

 フェルナン(すぐに少しは気をよくして)うん、それはさうだ。

 マリウス それから、トゥロンでは、あんたは顔が効く。あんたはいろんなカフェに顔を出す。いろんな人間と話をする。だから、ガレージにとつては、あんたは宣伝の役目を果してゐるんだ。

 フェルナン(熱を帯びてきて)ああ、さういふ仕事なら、欠かさずやつてゐるぞ、私は。それは保証していい。

 マリウス それに、あんたがここにゐない方が便利がいい場合がある。(フェルナン、不思議な顔をする)例へば、修理が期日までに終つてゐない。すると私は言ふんだ、「相棒が悪いんだ』とね。

 フェルナン(嬉しさうな顔)ああ、それはいい、うまいよ。

 マリウス(相手を喜ばせるのは嬉しい様子)支払ひの遅い客が、もう少し引き延ばさうとしてゐる時には、私は言つてやる『私一人で、この仕事をしてゐるんだつたら、どうとでもしてあげられるんだが、残念ながら相棒がゐてね。そいつが厄介な奴なんだ。支払ひが滞るのなら、車を差押へろつてね』。すると客は払ふんだ。その客と私は悪い関係にならなくてすむしね。

 フェルナン(すつかりよい気持になつて)すると私でも、何かには役に立つてゐるといふことかな?

 マリウス それはさうなんだよ。

 フェルナン(感動して)役に立つてゐる! 何かに。もつと早く言つてくれればよかつたんだ。さういふことなら、自分の目を騙し、あんたの目を騙す必要はなかつたな。(腕の下に抱へてゐた包みを解き、そこから靴を取出す。それから穿いてゐるスリッパを指差して)このスリッパだがな、マリウス、これはいんちきなんだ。

 マリウス(皮肉に)まさか!

 フェルナン(真面目に)いや、私の言ふ通りなんだ。(偽のスリッパを脱ぎ、喋りながら靴を穿く)いや、足にたこが出来てゐるのは嘘ぢやない。しかし、靴を穿くには邪魔にはならん。だからもう、いんちきは止めだ。ドクター・クエ(作家?)の言ふやうに、『俺はびつこはひかんぞ、びつこぢやないんだからな』。よし、これで終だ。

 マリウス よし、ぢや、夕食のアペリティッフの時、また会はう。

(マリウス、仕事に戻らうとする。フェルナンがそれを止める)

 フェルナン 待つて。あんたに言ふことがあつた。さつき、『ル・プチ・マルセイエ』(新聞)を読んでゐたら、死亡広告があつた。

 マリウス(そのまま、仕事の方に進む)まあ、新聞にはいろんなことがあるさ。

 フェルナン(マリウスの後について)人間、仕事が出来なくなると、何をしていいやら、分らなくなるもんだからな。さうさう、その死亡広告に、あんたの親父さんの名前があつたんだ。

 マリウス(青くなる)親父の名前が?

 フェルナン ああ、驚かなくてもいい。親父さんの名前があつたが、それは死亡者ぢやないんだ。死亡者はエーと・・・待つて、持つてるから。(ポケットから新聞を取出し、読む)

 マダム・オノレ・パニッスとその長男

 マダム・オノリンヌ・キャバニッス

 マダム・クローディンヌ・フーロン

は、下記の者の死去に遭遇し、それを諸兄に表明するものである。

  オノレ・パニッス

そう、これが死亡者だ。

 マルセイユ港における船舶会社社長。自宅にて死去。享年六六歳。

 彼のために祈を捧げて下されば、幸甚です。

 マリウス(感慨深く)パニッスが死んだのか!

 フェルナン 六六歳だ。何が起つても不思議はない。待てよ、下にまだ広告がある。大きな字だぞ、これは。行と行の間の隙間も大きい。これは随分高くついたらうな、この広告を出すには。

 ムスィユ・セザール・オリヴィエ、バー経営者

 ムスィユ・アルベール・ブラン、税関役人

 ムスィユ・フェリックス・エスカルトフィッグ、退役フェリーボート船長

 ムスィユ・イノサン・マンジアパンヌ、フェリーボート運転手(引退)

 ムスィユ・ドクトール・フェリスィアン・ヴネッル

は、下記の人物の死去に衷心より哀悼の意を表する。

  オノレ・パニッス 

   船舶会社社長

彼は上記の者たちに、生前の三十年間、その親愛の情を示してきた。

 マリウス パニッスが死んだ・・・可哀相に、パニッス・・・可哀相に・・・

 フェルナン よく知つてゐる人なのか?

 マリウス さうだよ! よく話をしてゐたぢやないか。

 フェルナン ああ、あんたの子供を取つた、あの男だな?

 マリウス 私から取るだなんて。彼はあの子を引き取つたんだ。彼には悪いところはない。悪いのはこつちの方だつたんだ。それに、たとへ彼に悪いところがあつたにしろ、それを購(あがな)はうとしたんだからな。十四年前、煙草の火で火事があつた・・・あの時、もし彼がゐなかつたら・・・

 フェルナン ああ、あれが彼だつたのか。

 マリウス さう。ここで、判事だとか弁護士、知事、みんなに会つて話してくれたのが彼だ。彼のお蔭で執行猶予になつた。だからこのガレージも続けられたんだ。彼は何も言はず、我々を助けてくれた。プジョーが旋盤などの機械に、長い支払い期間を許してくれたのも・・・私は自分の顔が良いからと思つてゐたが・・・ある時私は知つたんだ、彼が保証してくれてゐたお蔭だつてね。勿論結局彼はそれに対して一銭も払つてはゐない。だつて我々は全部綺麗に支払つたからね。だけど、もし月々の支払ひが滞(とどこほ)つてゐたら、我々の代りに彼に支払ひの義務があつたんだ。

 フェルナン それぢや、(連中がこれからすることをあんた、知つてるか?)葬儀に出席しなきや。葬式は明日なんだ。

 マリウス ああ、それは駄目だ。出席は出来ない。父親に会ひたくない、それにエスカルトフィッグにも、他のどの連中にも。連中だつて、私を見て嬉しくないだらう。それに、こつちは・・・連中を見るのは苦痛だ。

(我々はマルセイユに戻る。パニッスの店の前。玄関のまはりに、葬儀の旗が立つてゐる)

(歩道には沢山の人。その人たちに囲まれて霊柩車。大きな飾りがしてある。霊柩車の運転手は喪の印の銀色のリボンのついた二つの角がある帽子を被つてゐる。帽子の下には、異様にテカテカと光つてゐる赤ら顔。その顔に大きないぼあり)

(我々がその運転手の顔を見てゐる間に、葬儀人夫が棺を車に入れ終つてゐる。棺の上には沢山の花。そして行列が動き始める)

(先頭はセザリオ一人。立派な姿勢、服装、で前進してゐる。顔は青白い。歩き方は少しロボットのやう。目は伏せてゐる。その次の列は横に、運転手、セザール、エスカルトフィッグ、ムスィユ・ブラン。四人とも黒服。帽子は手に、目を赤くして、歩いてゐる。その後ろは四または五人。大柄な男たち。商工会議所のメンバー、それに、労働組合のメンバー。その後ろにバーの客、友人たち。行列は古い波止場に沿つて進む。最初は黙つて、そのうち、あちこちから私語の声がしてくる)

 大柄な男 私はついてなかつたよ。あいつに二二フラン貸してゐたんだ。未亡人に請求など出来ないしな。二二フランの丸損だ。

 隣の男 奴と同じだ。

 大柄な男 何が同じなんだ。

 隣の男 お前は丸損、奴も丸損だ。

 大柄な男(面白がつて)さうだ! 奴も丸損だ。(笑ふ)そいつはいい、そいつはいい。

(別の列)

 薔薇色の色艶のよい男(小さな声で、しかし、強い声で)あいつめ、けつを蹴り上げてやらなきや。

 その隣の男 あいつ、何をやつたんだ?

 色艶のよい男 昔、あいつのお蔭でうちの店は大損害だ。まあ十四歳ぢや、食べごろの年だがね。しかし、店についたばかりのオーバーニュ・ソーセージをあいつが食べてゐる最中に、どやしつけたんだが・・・あいつ、そんなことには構はず、三つも食べおつた。パンなしでだ。新しいソーセージ一キロをペロリだ。考へてもみろ。

 隣の男 それぢや、ソーセージは守りきれないな。

(別の列)

 男 なあ、もう帽子を被つてもいいだらうな。このかんかん照りぢや、もう我慢が出来ない。

 別の男 しかしまだ誰も被つてないぞ。

 男 誰かは被り始めないと、誰も被れない。

(男、被る。段々と被る男たち、出てくる。最後の列の小さな男、帽子を被る。帽子、耳まで落ちる。驚いて帽子を見る)

 小さな男 何だ、これは。をかしいな。

 隣の男 どうした?

 小さな男 帽子を間違へたらしい。

 隣の男 どこで。

 小さな男 棺のところだ。玄関で、死者の顔を見やうと、高いところに上つた。その時帽子を下に置いた。そして降りるとき、自分の帽子を取つたと思つたんだが、それが違つたらしい。

 隣の男 ぢや、きつとそれは、死んだ男の帽子だぞ。

 小さな男(びつくりして)まづいよ、それは。縁起でもない。(帽子のイニシアルを見る)ああ、違ふな。ここには C.O. とある。

 医者(エスカルトフィッグに)フェリックス、帽子を被つた方がいい。病気になるぞ。

 エスカルトフィッグ 今被つても失礼にあたらないか?

 医者 葬儀の最中に卒倒する方がずつと失礼だ。

 エスカルトフィッグ それもさうだな。(二人、一緒に帽子を被る)

 医者 セザールに言へ、帽子を被れ、と。もう頭の天辺が赤くなつてゐるぞ。

 エスカルトフィッグ(セザールの方に屈んで)セザール、帽子を被れ。

 セザール 被つてもいいかな。

 エスカルトフィッグ いい。医者が言つてゐる、病気になるぞつて。

 セザール(ムスィユ・ブランの方を向き)お前、どう思ふ?

 ムスィユ・ブラン(小さな声で)何をどう思ふんだ?

 セザール 帽子を被つてもいいかな?

 ムスィユ・ブラン(行列の後ろの方を見る)みんな被つてるぞ。ぢや、私もだ。(被る)

 セザール それなら私も。

(セザール、手に持つてゐた帽子を被る。頭の天辺にしか入らない。セザールの驚きの顔。すぐに脱ぐ。誰も彼の動作を見てゐない。医者、暫くしてセザールを見る。かんかん照りの下で、セザール、帽子なし)

 医者 どうしてあいつ、帽子を被らないんだ。フェリックス、言つてやれ。大事なことだと。太陽が照りつけてゐる。あいつの年だと・・・

 エスカルトフィッグ セザール、帽子を被るんだ。死んだオノレだつて、許してくれるさ。いや、ここにゐたとしてみろ、きつと言うぞ自分で・・・さあ、早く。帽子を被れ。

(セザール、答が出来ない。笑ひだす)

 エスカルトフィッグ(医者に)被らうとしないんです、あいつ。笑つてばかりゐて。

 ムスィユ・ブラン 被れ、セザール! 身体に悪い。被るんだ。

 セザール 被れないんだ。私の帽子でなくつてな、これが。

(ムスィユ・ブラン、ぐつと我慢するが、我慢しきれず、彼も笑ひ出す)

 医者(列の一番端で)セザール、私の命令だ。帽子を被れ。分つたな。

 セザール 命令? それなら仕方がない。(セザール、帽子を被る。行列のみんな、笑ふ)オノレの奴がここにゐたら、あいつ、誰よりも大きな声で笑ふだらうな。

  パニッスの墓で

(エスカルトフィッグ、一人、弔辞を読む)

 エスカルトフィッグ この最後の別れにあたり、オノレ、私は、カステランヌ海上救助隊の名において、君に弔辞を読む。君はカステランヌ海上救助隊の隊長に任命されてゐたのだ。確かに君は、泡吹く海に飛び込み、君自身の命を賭けて海上に溺れかけてゐる人間を救助しようとしたことは、一度もなかつた。ヴィユ・ポールの荒れた海で、岸では涙にくれてゐる母親。それを見ても、潮に流されてゐる子供を、君は飛び込んで助けようとしたことはなかつた。さう、君は救助の男ではなかつた。しかし、それよりも上に行つてゐたのだ。ある日、勇敢な救助隊隊員が、救助用の船からオールが盗まれてゐるのを発見した。するとそこで、もともとその船にはオールなんかついてゐなかつたと主張する隊員が出てきた。しかし君は、そんな議論を断ち切るかのやうに、そして、君の勇気と、君の太っ腹を示すよい機会だとばかりに、この海の救助の主役、救助船に、石油モーターを取りつけた。かくして君は、救助隊を救つたのだ。救助隊、そして救助そのものの名において、私は君に礼を言ふ。有難う、オノレ。そして、さやうなら。

 

(さて舞台は今、悲しい葬儀の翌日である)

(午後五時。いつものやうに、ムスィユ・ブラン、医者、エスカルトフィッグ、そしてセザールが、セザールのバーに坐つてゐる。オリーブの枝の隙間から、向うの波止場に停泊してゐる大きな船(複数)を背景に、いつものトラックが道路を行き来してゐるのが見える)

(セザールは不機嫌ではない。しかし、いつものやうに、ある種の熱心さで、何か議論をふつかけてゐる)

 セザール ムスィユ・ブラン、私は自分の職業を知つてゐると、自負してゐるものだが。

 ムスィユ・ブラン 勿論、勿論。

 エスカルトフィッグ その点について、誰も反論しようとはしてゐないぞ。

 セザール よろしい。では言ふが、ムスィユ・ブラン、アペリティッフは、肝油のやうには、肝臓に薬にはならぬ。それはさうだ。しかし、肝臓には、もつと良い。それに毒にはならん。

 ムスィユ・ブラン それは勿論、味としてはもつと良いだらう。

 セザール よろしい。その点ではあんたの賛成を得たわけだ。そして、「毒にはならん」と私が言つたが、これを今説明する。

(丁度その時、運転手がいつものやうに、下敷きとトランプを持つて来る。それを机の上に置く)

 セザール いいか、ムスィユ・ブラン、アペリティッフは、肝臓を攻撃する、と人は言ふ。しかしだ、全て、アペリティッフなるものは、植物で出来てゐる。ニガヨモギ、リンドウ、セージ、アニッス、オレンジ、その他もろもろ、だ。

 ムスィユ・ブラン それにアルコールを加へる。

 セザール さう、葡萄のエッセンス、つまり、植物だ。植物はだ、ムスィユ・ブラン、肝臓を持つてゐない。肝臓など見たこともない。肝臓とは何者か、それさへ知らない。

 エスカルトフィッグ 私もだな、さういふ話になれば。

 セザール(激しく)私の説明の最中に邪魔を入れるな。植物は、肝臓が何たるかを知らない。だから、知らないものを敵にまはすことなど植物には、いいか、ムスィユ・ブラン、出来ないんだ。

(エスカルトフィッグに)見てみろ、こいつ、何て言つたらいいか、分らないんだ。

(セザール、意気揚々とトランプを取り、シャッフルし、ムスィユ・ブランに渡す)

 ムスィユ・ブラン 親愛なるセザール、私には言ひ分は沢山ある。だが、まづ言ひたいのは、あんたのその議論はまるで馬鹿げてゐるといふことだ。

 セザール 何故だ。

(ムスィユ・ブラン、トランプをエスカルトフィッグにカットさせる)

 ムスィユ・ブラン(残つた方のトランプをカットした方に載せる)硫酸は銅を見たことがない。しかし、硫酸を銅の板の上にかけると、酸が銅の板を攻撃する。

 セザール その比喩は、アペリティッフには何の関係もない。

 ムスィユ・ブラン あんたがさう言ふなら、それはあんたの考へだ。

 セザール 私の考へ? (自分に配られたトランプを集める)それはどういふことだ。我々は今、科学的に物を考へてゐるところだ。多分かういふ会話はエスカルトフィッグには耳を素通りだ。

 エスカルトフィッグ 耳を素通り? いや、聞いてゐる。

 セザール 聞いてはゐるだらう。だが、分らないんだ。あんたの頭を通り抜ける会話なんだ、これは。それでだ、ムスィユ・ブラン、アペリティッフと硫酸との関係だが、この二つの間にどんな関係があるつていふんだ。

 ムスィユ・ブラン(札を配り終へて、自分の手札を並べかへてゐる)人が思つてゐるより、ずつと大きいだらうな。

 セザール ずつと大きい?・・・おお!(自分の札を眺めながら、競りの数字を言ふ)三十五。せり上げる者、ゐるか?

(セザール、オノレがせり上げて来る筈だと、いつもオノレの坐つてゐる席を見る。そこにオノレはゐず、ただ配られたカードがある。セザール、誰も坐つてゐない椅子を見る。セザール、深い感慨。ムスィユ・ブラン、真つ青になる。エスカルトフィッグは泣き出す)

(セザール、絨毯の上に自分の札を置く)

 セザール(低い声で)今になつて初めて、奴は死んだ。私には、今まで、あまりそのことが分つてゐなかつた。

 ムスィユ・ブラン さうだな。この空の椅子は、墓よりよつぽど淋しい。詩人がそのことをもうとつくに言つてゐる。オノレの思ひ出のために、スュリ・プリュドンムの四行の詩を聞いてくれ。プリュドンムは偉大な作家、偉大な詩人だ。一時期だが、彼は馬鹿だと思はれてゐたことがあつたが・・・では朗読する。

  朝、朝食のテーブルで

  ざつとひとわたり、並んでゐる人間を

  眺める。少し離れたところに、

  予備の椅子が置いてある。

  その時だ、

  本当のさよならの瞬間が訪れるのは。

(長い沈黙)

 セザール いい詩だ。(ムスィユ・ブランに)それであんた、彼にも札を配つたんだな?

 ムスィユ・ブラン 機械的に。

(セザール、パニッスの札を開けて見る)

 セザール おい、これはいい手だ。

 エスカルトフィッグ 見てみろ。オー、オー、オー。これだつたら何を狙ふかな。

 セザール 私が打ち出しだな。スペードの七を出す。スペードはこれしかないし、これが出てしまへば切札が出せるからな。

 ムスィユ・ブラン するとパニッスはどうするかな?

 セザール おお、ムスィユ・ブラン、私には分るね。パスはしない。きつとマニラを宣言するね。

 ムスィユ・ブラン さうだらうね。

 エスカルトフィッグ(絶望的に、札を出しながら)しやうがない。パニッスの奴、私のマニヨンを取るだらうな。

 セザール 当り前だ。パニッスは腕がいい。合唱隊の子供とは訳が違ふ。そして、スペードを出す。(オノレの代りに自分で出してやる)

 ムスィユ・ブラン どうしてスペードを?

 セザール 私が最初スペードを出した。だからスペードを出せば私が切札を出して取ると知つてゐる。読みの通り私は切札を出し、取る。ただ、私には切札はこれ一枚きりだ。(セザール、切札を出し、そこにあつた札を取る。そしてまた札を出す)次に私はハートを出す。

 エスカルトフィッグ どうしてハートなんか出すんだ。また奴にマニイユされてしまふぞ。

 セザール(厳かに)何故なら、もし奴が死んでなかつたら、私には奴の手が分らないからだ。分らないから、ハートを出す。そして、奴はそれを取る。

 エスカルトフィッグ 綺麗なマニヨンだ。またやられた。

 セザール そこで奴は笑ふ。

 ムスィユ・ブラン 次は私の番だ。私はキングを出す。(と、キングを出す)結構な収穫だ。(取り札をまとめ、オノレの場所の傍にそれを置く)

 セザール 次はオノレの番だ。奴は何をするかな? 奴なら、ここで全部さらすな。(と、パニッスの手札を全部出す)そしてみんなに言ふ。「これで後は全部私のものだ。全部私のだぞ。」さう、その通りだ。

(間)

 医者 マニラを死んだ人間とやつたのはこれが初めてだ。

 セザール それにインチキをやらなかつたのも、これが初めてだな。(悲しそうにエスカルトフィッグを見て)ああ、奴は死んだか。

 

(ファニーが寡婦になつて二週間経つ。彼女は今カスィッスのきれいな別荘に来てゐる。別荘はパニッスの所有物。松や椰子が生えてゐる)

(ファニー、一人で、海の見えるテラスで、籐の椅子に坐つてゐる)

(エルゼアール、中央の道からやつて来る。昼食をすませて来た様子。祈祷文を唱へながら上つて来る。ファニー、その姿を見る。顔色が変る)

 エルゼアール 今日は、ファニー。

 ファニー(心配さうな顔)今日は、神父さん。カスィッスに何のご用で?

 エルゼアール まあ第一に散歩・・・それから、友達がゐて、昔家の近くで神父をしてゐた人で、今はカスィッスの神父さん、それとお昼を一緒に楽しくやらうと思つて。だけど、本当の目的は別にあつて・・・こちらの方は楽しくはない、真面目なものでね、あんたと話をしに来たんだ。

 ファニー(苦しい表情)ええ、さうだらうと・・・

 エルゼアール(坐つて)息子さんは?

 ファニー 釣です、きつと。アゴスティーニ先生と一緒に。お医者さんで、親しくしてゐる方なんです。

 エルゼアール いつパリに発つのかな?

 ファニー この二三日うちに。遅ければ遅いほどいいのですけど。

 エルゼアール しかし、校長先生は、出来るだけ早く帰つて来て貰ひたいんでせう。もう後一箇月で卒業試験ですからね。

 ファニー ええきつと。でもあの子、一生懸命勉強してゐますわ、毎晩。それに、校長先生だつてきつと、こんな不幸の後ですもの、あの子に少なくとも二週間の猶予は下さるんぢやないかしら。

 エルゼアール ええ、分ります。でも、とにかくこの数日中には帰らないと。

 ファニー ええ、勿論。

 エルゼアール(悲しい表情で)それで、まだあの子には何も言つてないんだね?

 ファニー ええ。

 エルゼアール しかしファニー、しかし、オノレの前であんた、自分で言つたことを覚えてゐるね?

 ファニー ええ、覚えてゐます。

 エルゼアール あんたは言つたんだよ、「過ちを犯したのは私です。あの子に告白しなければならないのなら、それは私の仕事です」と。

 ファニー ええ、私、確かにさう言ひました。

 エルゼアール それからかうも言つた、「オノレは、自分が死ぬ前に、息子に知られたくないんです、あの子が自分の子でないことを。ですから、あの人が死んだ後に、私が自分で言ひます」と。

 ファニー ええ、確かにさう言ひました、私。

 エルゼアール それで、あんた、何を待つてゐるんだね?

 ファニー その勇気が出るのを。

 エルゼアール もしその勇気がこれからも出ないとなると、あんたは放つておくことになるんだ、オノレが煉獄で辛い目に遭ひ続けるのをね。何故なら彼のこの世での暮しに嘘の刻印がついたままだからなんだ。ね、ファニー、あんたは自分の義務を果さねばならない。彼との約束を果すんだ。

 ファニー 神父さんは、神父さんの目でこのことを見ていらつしやる。神父さんとしては、こんなこと、簡単ではつきりしたことなのでせう。罪は、告白して三月経つと消えると言ひます。でも、その罪の代りに、私に絶望しか残らなかつたら? もしあの子が私に対して、軽蔑の気持しか残らなかつたら?

 エルゼアール(冷たく)それはそれで、息子に理があるでせう。

 ファニー 随分冷たい言ひ方ですわ。

 エルゼアール それがあんたへの罰なんだ、ファニー。罪には決して褒美は与へられない。それが鉄則だ・・・しかし、あの子はいつまでもあんたを軽蔑などしない。あの子はあんたを愛してゐる。あんたを裁いたりする筈がない。それからあんたの犠牲の大きさをきつと理解するだらう、あんたがどれだけ苦しんだかをね。そして今までよりもつとあんたを愛するやうになるだらう。ファニー、私はあんたに洗礼を与へた。こんなに小さい、そして裸で、ケラケラ笑つてゐるあんたにね。そして洗礼によつて私はあんたを天に与へたのだ。私は小さな靴を穿いたあんたを見てゐる。カトリック教理問答をあんたに唱へさせた。ほんの小さな子供の時のあんたの告白を聞いてゐる。あんたが一人前の女になつたのを見てゐる。結婚を許したのもこの私だ。私はあんたの父親と同じほど、あんたのことをよく知つてゐる。あんたを慈(いつく)しんでゐるんだ。なあファニー、あの子に本当のことを話すんだ。そしてこれをよーく頭に入れておくんだ。大きな過ちを告白することによつて、決して悪いやうにはならない。いや、良くなる、つていふことをだ。あの子がここを発つ前に話さないといけない。あんたの重荷をおろすんだ。そして後は神様に任せなさい。

 ファニー 私、髪が真つ白になるわ。でもあの子が発つ前に話します。明日か明後日には。

 エルゼアール 有難う、我が子よ。神のお導(みちび)きがあるやうに、そしてあんたを待ち受けてゐる試練からあんたをお救ひ下さるやうに。(十字を切つて、ファニーを祝福する)平安があんたに訪れるやうに。

(エルゼアール、去る)

(ファニー、物思ひにふける。セザリオ、松の林を通つて帰つて来る。大きな柳の籠を持つてゐる)

 ファニー 収穫は?

 セザリオ 大漁だつたよ。見て御覧。(籠の中のものを見せる)

 ファニー ただね、もう一時よ。一時にこんなに沢山魚を持つてきても・・・あなたこれ、どうするつもり?

 セザリオ ブイヤベースだ。二十分で。おなかすいた?

 ファニー ええ。

 セザリオ よし、ぢや、マリに全部渡そう。(料理して貰ふんだ)もしパパが生きてゐたら、もう僕の釣の腕をからかつたりしないぞ・・・とは言つても、僕の釣つたのはこのうち三分の一だ。それに、一番大きいのを釣つたのもブリオッシュだから僕の威張れるところはあまりないんだけどね。

(セザリオが母親と離れると、自転車で郵便配達人が来る。麦わらで出来た帽子を被つてゐる。帽子の上に「郵便」と金色の文字で書かれてゐる)

 郵便配達人 今日は、マダム・オノレ、ムスィユ・セザリオ。電報ですよ。でも、嬉しくない電報です、これは。

 セザリオ あんた、読んだの? 中身を。

 郵便配達人 いいえ。女性局員ですよ。大きな声でみんなに読み上げて聞かせたんです。(この間に、セザリオに電報を渡す)すぐに学校に帰らなきやならないんです・・・試験だから。

(セザリオ、電報を取る。読む。郵便配達人も一緒に読む)

 郵便配達人 ああ、やつぱりさうだ。私の言つた通りだ。

 セザリオ 九時の汽車で発たなきやいけない。でもまあ、校長先生、三週間も休みをくれたんだからな。親切だつた。どうしても三週間は必要だつたな。

 ファニー ぢや、今日の午後、マルセイユに行かなくつちやね。

 郵便配達人 悪い知らせを運んで来た時は、「飲物を一杯」とは言つてくれませんね。

 セザリオ ああ、さうか。でも、君、そのことを思ひつくぐらゐだから、台所はどこにあるかは知つてゐるんだらう?

 郵便配達人 有難うございます、ムスィユ・セザリオ。

(郵便配達人、台所に行く。そこで一杯ひつかけるつもり。それと、女中のマリに逢ふために。この時までにファニー、電報を取つてゐる。ファニー、長い間電報を眺めてゐる。セザリオが発つまでに言はねばならない。セザリオは今夜発つ。ファニー、進退窮まる。それが観客にも分る)

 

(セザリオ、自室にゐる。家具は田舎風ではない。大げさなところのないモダンな家具。二三人用の長椅子、ソファ、喫煙用のテーブル。セザリオ、ノートと教科書を鞄の中につめてゐる。ベッドの上に制服が置いてある。その傍に二つの角つきの帽子と剣。ファニー、大きなソファに坐つてゐる。大きなランプがファニーを照らしてゐる)

 ファニー 今夜どうしても汽車に乗らなきやならないの?

 セザリオ どうしてもつていふことはないけど・・・明日発つことにしたつて、別に叱られはしない。でも、今日では駄目つて事情はないでせう?

 ファニー(震へ声で)もう一日待つて、と私が言つたら?

 セザリオ うん、いいよ。と言へば、明日また、明後日になさい、となるだけだよ。

 ファニー 非常に重要な話があるから、と頼んだら? 今まで一度も話したことのない、重要な話・・・

 セザリオ 重要・・・遺産、相続、未成年者の相続権・・・ね、ママ、こんなこと、ママが一人で決めればいいつて、もう言つたよ。僕は出来るだけ早く帰らなきやならないんだ。今は大事な時なんだよ。一箇月で、卒業試験なんだ。それで僕、メイジャーになるチャンスがあるんだ。

 ファニー メイジャーつて、一番つていふこと?

 セザリオ さう。昇進も一番になる。ポリテクニックを出ると、国が卒業生に決められた、いろんな地位を与えてくれる。土木省の技師、煙草専売局、鉄道、砲兵隊、等々。とにかく、一番華々しい職業を・・・でもメイジャーになれば、その中のものを一番目に選べるんだ。僕自身にとっては、一番に地位を選べるなんて、そんなに問題ぢやない。だつて、僕の地位、それはパパとママのお蔭で最高のところにあるんだから。でも、メイジャーといへば、それだけで名誉だからね。ただ、僕に心残りなのは、折角メイジャーになつても、パパがそれを見てくれてゐないつていふことなんだ・・・

 ファニー あの人は生涯、あなたが誇りだつたわ。あれ以上、誇りに思へることが増える必要はないのよ。

 セザリオ パパはいいパパだつた。素晴しいパパだつた。学校で時々僕は、パパのことをみんなに話した。パパが書いてくれた手紙を見せた。デュブシェなんか、ああ、日曜日毎に僕と一緒に帰る僕の友達だけどね、デュブシェなんか、親父さんが手紙を書くと言へば、必ず息子を叱りつける手紙なんだ。だけど、僕のパパは・・・ああ、勿論いいパパを持つてゐる生徒だつてゐる・・・それはさうさ。だけど僕のパパぐらゐいいパパを持つてゐる生徒、それはゐないね。

 ファニー(非常な努力をしてやっと)でも・・・でもね・・・

 セザリオ 「でも」? でも、何だつて言ふの? ママは次に何が言ひたいの?

 ファニー でも、あれはあなたのパパぢやないの。

 セザリオ 何を言つてゐるの、ママは。

 ファニー 本当のことを。あれは私の夫、でも、あなたの父親ぢやないの。

 セザリオ(ファニーに近づき、その前に膝まづく)ママ、でも、ママ・・・そんな馬鹿な話・・・だつてそれ、酷い話ぢやない・・・

 ファニー それが本当の話なの。あなたがそれで苦しむ事は分つてゐる、それに、きつとそれであなたは、私を軽蔑する、それも分つてゐる。でも、それが真実なの。あなたはオノレの息子ぢやないの。

(長い間。セザリオ、立上る。母親から離れる。低い声で喋る。独り言のやうに)

 セザリオ ああ、お父さんの言葉を思ひ出す。ああ、僕の父親ぢやないから、ママの夫の言葉を思ひ出す、と言はなきやならないか。ある時、僕にかう言つた、『お前の母親、あれは普通の女性ぢやない。彼女は利口だ。彼女は献身的な女だ。彼女は清潔だ。『清潔』、さう、この言葉、この通りの女性なんだ彼女は。他の言葉を捜すことは出来ない。『清潔』、それが彼女なんだ・・・」と。

 ファニー あの人がさう思つてくれてゐたつて、私は知つてゐるわ。

 セザリオ そして僕にかう言つた、「私は、新しく真つ白に塗られた船を見ると、必ずお前の母親のことを思ふ。それから真つ白に洗はれた洗濯物、それが綺麗に干されてゐるのを見ると。そして広い広い野原、そこにひな菊の白い花が咲いて一面真つ白、それを見るとね」かうパパは僕に言つた。それが今、僕の母親が、嘘をつくことが出来るだなんて。僕は自分の母親のことをどう考へたらいいんだ。

 ファニー いいえ、それは違ふ。私は嘘をついたことはないの。あの人はあなたが自分の子供でないと、知つてゐたの。

 セザリオ(苦しい軽蔑の気持あり)ええっ? 全部パパに言つたの? それでパパ、許したの? ママを放り出したりしなかつたの?

 ファニー あの人は、私と結婚する前から、それを知つてゐたの。

 セザリオ(顔が明るくなる)知つてゐた・・・結婚前から?

 ファニー 何もかも。本当に全部を。私はあの人に嘘を言つたことはないの。

 セザリオ だけど、僕にはずつと嘘をついてゐた。この二十年間。

 ファニー 私、あの人があなたの父親だと言つたことはなかつたわ。

 セザリオ それは言つたことはないさ。だけど、さう信じるやうにさせてゐた。

 ファニー ええ。あの人がその方がいいと思つてゐたから。あの人はこのことに関しては黙つてゐるやう、厳しく言つてゐた。私は黙つてゐた。

 セザリオ すると、二十年間、彼は僕を育て、食べさせ、愛し、僕に献身的につくしてくれた・・・その間ずーつと、そのことを知つてゐた!

 ファニー ええ、知つてゐた。あの人はあなた、そしてこの私のためにしか生きなかつたの。

 セザリオ ぢや、パパは聖者だつたの?

 ファニー ええ、殆どね。とにかくあの人は献身的に物事をして、それが幸せだつたの。この二十年間、私はあの人が毎日笑つて暮してゐたのを見てきたわ。

 セザリオ それで、その秘密を知つてゐたのはママだけだつたの?

 ファニー いいえ。

 セザリオ ぢや、おばあさんは知つてゐた?

 ファニー ええ。

 ファニー クローディンヌおばさんは?

 ファニー おばさんも。

 セザリオ すると、僕の名づけ親、セザールおぢさんもだね?

 ファニー ええ。

 セザリオ すると結局、この話の周囲には沢山の観客がゐて、僕一人だけ、それが演じられてゐる真中にゐて、今までずつと、僕のまはりで行はれてゐる喜劇に気がつかないで生きてゐたといふことだ。きつと、陰口、内緒の囁き、ばれては困るといふ心配、いろいろあつたらう。そして可哀相なパパは、そのまつただ中で、妙な気分だつたらう。奇妙な役どころを演じなきやならなかつたんだからね。

 ファニー セザリオ、その役はあの人が自分で買つて出たものなの。よーくその役どころを承知してゐて。そしていつも、さう、毎日、私に感謝したわ、息子を与へてくれて有難うつて。

 セザリオ(非常に後悔して)ああ、その話、もつと早くにしてくれてゐたら! 僕はあのパパをずつとずつと深く愛してゐただらうに。さう、あの頃よりももつとずつと深く・・・パパの優しさ、パパの心底からの善良さ、それに感謝しただらうに。だけど今になつては・・・(パニッスの肖像に近づき)パパ、僕のパパ・・・僕にいろんなことを言ふ人が出てくるさ・・・でも、たとへパパが僕の父親でなくつても、パパはこれからだつてずーつと僕のパパなんだ!(母親の方を向き)さう、さうなんだ、ママ。これからだつてずーつと僕のパパなんだ。

(セザリオ、頭を下に向け、歩き回る。苛々と、震へながら。それから母親に近づき、重い声で、訊く)

 セザリオ それで、もう一人は?

 ファニー いい? セザリオ。私、今、本当に辛い告白をした。大事なものを失ふ危険を冒して。だつてあなたが私を軽蔑するかもしれないんですからね。(少し黙る)「かもしれない」ぢやない、もうあなた、私を軽蔑してゐる。私がこの告白をしたのは、死の床にあつたあの人のベッドの傍で、神父さんがどうしてもこの告白はしなければ、と強く仰つたから。神父さんは、あなたがオノレの息子ではない、と打明けろ、と仰つた。だから私、他のことは言ふ必要はないの。もうこれで終。

 セザリオ さう、これで終。(機械的にノート等のかたずけに戻る。暫くして、ぼんやりと、我にもあらず、質問する)それで、偽のパパ、死んでるの?

 ファニー 多分。

 セザリオ(非常に静かに)「多分」つてどういふこと? ママは知らない、といふこと? いい? 僕はその人には何の興味もない。だけどママにはまだ、興味のある人かもしれないからね。

 ファニー セザリオ・・・あなた、そんな調子でママに話をするのは駄目。

 セザリオ 僕は別にママを傷つけやうとしてゐるんぢやない・・・ただ、告白がここまで来て、それから後はやめたい、といふことは・・・

 ファニー 過去を考へたくないの、私は。過去は眠らせておいて。

 セザリオ 本当に眠つてゐるのかな。その人の名前を僕に言ひたくない何かの理由があるやうに思へるな。その後だつて会つたかも知れないし、今だつて会つてゐるかも知れない。だから、もし僕がその人を知つてゐたら、ママは都合が悪い・・・

 ファニー セザリオ、それ、私を苦しめる言葉よ。

 セザリオ ご免なさい、ママ、でもその人、僕が時々会ふ、よく知つてゐる人かも知れない。だからどうしても考へてしまふ、僕はパパをこれで二度失つたことになるけど、ママにとつては、パパの死はママを、それほどには寡婦(やもめ)にしてゐないんぢやないかつて。(間)その人、まだ生きてゐる?

 ファニー ええ。

 セザリオ ぢや、さつきのは、殆ど嘘だつたんだね。偽のパパ、死んでるの? と訊いたとき、ママは僕に言つたよ、「多分」つて。

 ファニー だつてどつちだか私にははつきり分らないんだから、仕方ないでせう。

 セザリオ その人、手紙をくれた?

 ファニー 一度も。

 セザリオ 僕、その人を知つてる?

 ファニー あなた、その人を見たことはある。その人に話しかけたこともある。十五年前に。

(長い間。セザリオ、腕を制服に通す。それから、突然)

 セザリオ とにかく僕は、その人が誰であるかなんて、全然知りたくない。きつと若くて金持の人なんでせう。ママを誘惑して、子供を残してママから逃げて行くなんて。まあ、美男子で金持だつたんだらう、きつと。

 ファニー(厳しい口調で)金持なんかではありません。それから、その人が私から去つて行つた時、その人は私が身籠つてゐたのを知らなかつた。私も知らなかつた。

 セザリオ ママの告白では、その人とのつきあひは長くなかつた・・・通りすがりの人間・・・それで、そんなことを・・・

 ファニー いいえ、違ふわ、セザリオ。その人は小さい時からよーく知つてゐた。その人は私を愛してゐたの。

 セザリオ そしてママも。ママもその人を?

 (ファニーの目に大粒の涙。震へてゐる彼女の頬の上に涙が流れる)

 ファニー もし私があの人を愛してゐなかつたら、あなたは今ここにはゐないの。そして私を非難もしてゐないの。

 セザリオ(心を動かされて、ファニーの傍に寄る)二人がそんなに愛しあつてゐたのなら、どうしてその人、ママを捨てたんだ。

 ファニー 海への憧れ、海への狂気。あの人、どうしても船乗りになりたかつた。それはあの人の病気だつた。

 セザリオ マリウスみたいに? セザールの息子の?

 ファニー さう、マリウスみたいに。セザールの息子の。そう、その人だつたの。

(セザリオ、呆然として黙る。動かない。ファニーの涙、止らない)

 

(セザールのバー)

(夜中の十二時。セザール一人。テーブルの上に椅子を乗せる作業はすみ、今如雨露で床に水をまいてゐる。次におがくずを床にばらまいてゐる。そして、帚を取りに行こうとすると、突然バーの鎧戸にノックがある)

 セザール 何だ?

 セザリオの声 僕です。

 セザール 僕とは誰だ。

 セザリオ 僕です。セザリオです。

 セザール おいおい、こいつは驚いた。(セザール、急いで小さな扉を開ける)何だ。事故か?

 セザリオ(落着いて)ええ、事故です。(と、入る)

 セザール 何の事故だ。ファニーか?

 セザリオ いいえ、母ではありません。僕にです。

 セザール 分らんな。

 セザリオ 事故は僕に起つたんです。僕が被害者なんです。

 セザール お前、病気になつたのか? 盲腸炎か?

 セザリオ いえいえ、病気ではありません。戸を閉めて下さい。話があるんです。(セザリオ、カウンターの方に進む)

 セザール 伯爵殿は私に、「戸を閉めろ」とお命じになられるか。

 セザリオ 戸の閉め方を知つてゐたら、もう僕がさつさと閉めてゐます。自分のおぢいさんに命令を下すやうな僕ぢやありません。

(この時までにセザール、戸を閉めてゐて、心配さうな顔でセザリオに近づく)

 セザール お前、今、「おぢいさん」と言つたな。私が年寄りだからか? 

 セザリオ ええ、年寄りに見えます。でも僕がおぢいさんと言つたのは、あなたが僕のおぢいさんだからです。

 セザール 誰が言つたんだ、それを。

 セザリオ ママです。今それを聞いたばかりのところです。

 セザール それか、事故といふのは。

 セザリオ さうです。

 セザール 奇妙な事故だな。(急に心配になつて)まてよ、まさか当てずつぱうを言つて、私にこのことを言はせやうとしたんぢやあるまいな。

 セザリオ そんなことはないです。僕の柄ぢあありません、そんなの。事情はかうです。アクッルの神父のエルゼアール、おぢさんの友達ですね、その人が、パパに告白に儀式をして、その時パパに、死ぬ前に真実を僕に話せと指示したんです。パパは拒否しました。それで神父さんは母に、死後、僕に話すやう命じました。それで今から二十分前、僕は知つたんです、パパは僕のパパではなかつたと。それから、母を身籠らせた男性は、あなたの息子のマリウスだつたと。だからさつき、おぢいさんと呼んだんです。この話、どうなんです?

(セザールは満足、且つ、当惑、の体)

 セザリオ 僕は港を少しブラブラしました。僕は夢でも見てゐるのかと自分に訊いてみました。それとも、ママが急に馬鹿になつたんぢやないかと。するとここの灯が鎧戸の隙間から見えました。それでここの戸を叩いたんです。で、おぢさんはこの話に、どう答えるんです?

 セザール どうつて、どう・・・ね。これにはちよつとまゐつたね。気が転倒してゐる、少し。ただ言へるのは、あの、オノレの奴、死ぬなんて妙な気を起しやがつて! 全く、どうしやうもないぢやないか。リ・スィアン・マイ!(これはマルセイユの方言。不明)

 セザリオ さう。 

 セザール しかし、これでお前、どうなつた。

 セザリオ 今までの僕と違う人間になつた。

 セザール うん、さうだらうな。で、どんな感じだ。私がお前の祖父になつて、嬉しくないか。

 セザリオ あなたはもう僕の名付け親だつた。あなたには昔から尊敬の念を抱いてゐた。心からの、深い・・・多分僕はそんなこと、表面には出さなかつたらうけど、でも・・・

 セザール 分つてる。そんなことは口に出して言ふものぢやない。それから?

 セザリオ それで、あなたが僕の祖父になつたと言つても、それで何も変りはしない。

 セザール しかしまあ、少しはがつかりしたらうな。急にバーの親父の孫になつたんだからな。

 セザリオ マリウスの息子になつた、それがびつくりですね。だつたマリウスつて、生涯に何もたいしたことをやつてゐない人間のやうですからね。

 セザール さうさな、お前さんはたいしたことをやつた人間だからな。(これは、エコール・ノルマルに入つたことをいふ)

 セザリオ 一人でやつたわけではありません、あれは。で、あなたのマリウスは、僕のママと寝たんですね?

 セザール お前がそこにゐるんだ。それを信じないわけには行かないね。

 セザリオ(あつさりと)厭な気分だ、僕は。

 セザール 何故。

 セザリオ 分りません。とにかく厭な気分です。で、そのマリウスは今どこにゐるんです。

 セザール トゥロンだ。ガレージをやつてゐる。今はまあまあの繁盛らしい。

 セザリオ もう会つてゐないんですか?

 セザール この十三年間、会つてないね。

 セザリオ だけど、トゥロンて、そんなに遠くぢやありませんよ。

 セザール あいつと私にとつちや、それは遠いところだ。

 セザリオ どうしてここに帰らないんですか。

 セザール あいつが、航海に出たがつてゐたのを、お前、知つてゐるか。

 セザリオ ええ・・・

 セザール 二十一歳のとき、あいつは徴兵されてトゥロンの軍艦に乗つた。それからは、ここへは滅多に帰つて来ない。お前の母親、それから父親に会ふのが厭なんだ。

 セザリオ ええ、それは分ります。

 セザール まあ、とは言つても、昔は時々は帰つて来た、隠れてな。それに、私も昔トゥロンに行つたこともある。トゥロンであいつは、勿論、女に出逢つた。『女』と私は言つたがな、あんなもの、『女』ぢやない。汚泥だ。単なる汚泥だ。釣竿でしか触ることができない女さ。

 セザリオ それで、あなたのマリウスはその女を愛したんですね?

 セザール 多分な。一緒に暮してゐたんだから。

 セザリオ それで多分、そこに僕の小さな兄弟姉妹たちがゐたんですね? ピンセットでしか触ることのできない・・・

 セザール おいおい、それはない。あいつの子供はお前一人だ。

 セザリオ ああ、それはよかつた。

 セザール その例の汚泥の女は、マリウスにしやうもないやくざを紹介した。マリウスはそいつらとぐるになつて、まあ、キリスト教からは外れたことに手を出すやうになつた。

 セザリオ といふことは、ここに来ないのではなく来られない・・・つまり、牢屋入りといふことですか?

 セザール いやいや、それは、かなり危ないところまでは行つたが、中に入るところまでは行つてゐない。私は奴にある時言つた。『お前はその女と切れるか、さもないとお前はこの家に足を踏み入れることを許さん』とな。それはある夜、ここで起つたことだ。二月にな。奴は口答へしをつた。それも、かなり酷い言葉でな。

 セザリオ あなたを冒涜する言葉でですか?

 セザール いや、それより酷い。奴は言つた『あんたはもつと寛大(トレラン)だと思つてゐた』

(註 「トレラン」には寛大といふ意味と、女郎屋の主といふ意味とあり)

 セザリオ それで?

 セザール 何が「それで?」だ! 考へてみろ!

 セザリオ(驚いて)何を考へるんです。

 セザール 「トレラン」と言つたんだぞ、奴は。「メゾン・ドゥ・トレラーンス」。分るだらう? 女郎屋だ! この俺が女郎屋の親父だといふのか!(セザール、急に怒り始める。まるでマリウスが自分の目の前にゐるかのやうに)それを、自分の親の目の前で言つたんだ! 何ていふ破廉恥な奴! よーし、いいか、マリウス、お前はもう兵役にも行つてゐる。私にはお前を殴る権利はもうない。だがな、もしこの俺が、俺の父親にその言葉を言つたとしたら、俺はすぐさま道路に放り出されてゐた。しかし私は、お前にただ、「出て行け」と言つただけだ。

 セザリオ その違ひはたいしたことではありませんよ。それに、「トレラン」、それは・・・

 セザール もし私が親父にその言葉を言つたら、私は殺されてゐたかもしれない・・・

 セザリオ(非常に落着いて)あなたのお父さんも、あなたと同様、馬鹿ですよ、もしそんなことで自分の息子を放り出すやうな人なら。

 セザール(大声で怒鳴る)何? 何だつて? 

 セザリオ いいですか? そんなに怒鳴るものではありません。これからちやんとした話をお聞かせしようといふのです。かういふ時にはお互ひ、静かに、理性をもつて話をしなければなりません。もしあなたが普通の音声で話すことに同意して下さるなら、そして人間らしい話し方をすることに同意して下さるなら、今から私が、大切なことをお話しします。

 セザール(ガラスが響くやうな大声で)理性? 理性だと? お前は私の欠点をあげつらふのか!

 セザリオ その欠点、それは見てゐるだけで、こちらが苦しくなるやうなものです。いいですか? トレラン・・・

 セザール お前までが私に・・・

 セザリオ ・・・といふのは、心が寛(ひろ)い、寛大な、他人の欠点を許してやる気持を言ひます。

 セザール(心配さうに)おいおい、私だつて、フランス語は知つてゐる。

 セザリオ 充分ぢやありません。よくは分つてゐないんです。

 セザール それはさうだ。お前は二十歳になるまで学校に行つてゐる。私は十歳までだ。それからは私は食器洗ひだ。

 セザリオ 知つてゐます。それに、あなたが教育を充分に受けてゐないことを私は非難などしてはゐません。でも、これだけは保証します。そして主張します。あなたの息子さんのマリウスは、あなたのことを、もつとトレラン、つまり、もつと寛大だと思つてゐた、もつと他人の欠点を許してやる気持を持つてゐる人だと思つてゐた、と言つたんです。その息子さんをあなたは、もう金輪際ここには来るな、と追ひだしたのです。私はこんなこと、馬鹿の骨頂だと思ひます。

 セザール トレランだけぢやなかつた。始まつたのはトレランからだが。しかし、それからが酷かつた。あいつは言つた。例の汚泥の女、あれを自分は愛してはゐない。しかし、彼女を侮辱することは許さない。何故なら、あの女は我々と同じ価値があるんだから、とな。それに、あいつは別のことでこの私を嫌ひだした。

 セザリオ 何です? それは。

 セザール お前の母親の結婚から一年して、あいつはオーストラリアから海洋学上の計器のことで、帰つてきた。オノレは丁度家にゐなかつた。商用で、パリに行つてゐたんだ。マリウスは、お前の母親に会いに来た、夜に。私はたまたまそれを知り、お前の家に駆込んだ。私は間に合つた。マリウスを無理矢理すぐに発たせた。

 セザリオ あなたが来なければ、二人は・・・

 セザール お前の母親は奴を愛してゐたからな。それはもう、愛して、愛して・・・だが、マリウスが発つことに、お前の母親は賛成した。私に加勢したんだ。そして私が来たのが本当に有難いと言つた。自分だけではその力はないからと。マリウスは私の話を聞いた。私の言ふことが分つたのだ。教育はないが、私には、名誉・・・家族の名誉を守るためにどう話せばよいか、それはやれたのだ。まあとにかく、喋るべきことを私は喋つた。奴はそれを理解したのだ。しかし、後になつて、よく考へてみて、マリウスはだんだん私を嫌ふやうになつた。そして、例のあの晩、それが爆発した。あいつはカツとなつて・・・まあいい、とにかく、あの晩から、あいつは私の息子ではなくなつた。お前があいつの代りになつたんだ。

 セザリオ 息子さんをあなたが充分に愛してゐないといふこと・・・

 セザール 愛してゐない? 私が? とんでもない、あいつは私の命だつた。私の愛そのものだつた。あいつがゐたから、私は再婚しなかつたんだ。私はあいつの父親、そして私はあいつの母親だつたんだ。勿論口では、あいつに優しい言葉などかけたことはなかつた。怒鳴りつけ、罵つてばかりゐた。口から自然に出てくるのはそんなことばかりだつたからな。しかし、あいつにはこちらの気持が通じてゐると思つてゐた。しかし、通じてはゐなかつたんだ。あの晩、あいつは少し飲んでゐたんだらう。それで和解不能の事態が生じた。

 セザリオ 和解不能なんて、人生にはありません。

 セザール いや、ある。いいか、セザリオ。これは今まで誰にも話したことはなかつた。私の恥だからな。いいか、二人でやりあつてゐた時、私は突然怒りがこみ上げて来た。そして奴を殴つたんだ。それで奴は・・・(小さな声で)殴り返してきたんだ。さう、奴はこの私を殴つた。まあお前にはそれがどういふ意味を持つか、今はまだ分らんだらう。だがな、息子が父親の顔を殴るといふことは、それは、父親殺しに等しい所行だ。勿論あいつは本気で殴りはしなかつた。殴つた後すぐ、すつかり元気をなくしてしまつた。あいつは、私があいつを殺すんぢやないかと思つたんだらう。私は何も言はなかつた。私は黙つて戸をあけた。あいつはそこから出て行つた。それで終だ。

(長い間の後、セザリオ、自分のことではないかのやうな調子で)

 セザリオ 僕はずーつと、名誉ある商人と若い女性との間に生れた子供だと思つてゐた。しかし今聞いてみると、母親はバーの息子の情婦、父親と祖父は或る夜、バーで殴り合ひをするやうな間柄。やれやれ、結局これが僕の祖先の正体か。

 セザール お前、恥と思ふのか。

 セザリオ 少し。

 セザール まあ、これでもこつちは上出来だ。

 セザリオ まあ、これでは僕には不出来だ。

 セザール お前に教育を授けたのは間違ひだつたかもしれん。お前には、普通の学校へ行かせればよかつたのかもな。オノレの後を継ぐだけなら、普通の学校で充分だつたんだ。しかし、お前をみんなは紳士にしたかつた。一番それを勧めたのはこの私だ。お前はどんなに偉くなつても、偉くなり過ぎつてことはない、さう思つてゐたんだ。だから中学はパリのリセに行かせた。お前は集金人の帽子そつくりの帽子を被つて帰つて来る。そして言ふ台詞といやあ、(セザリオのパリ訛で)『やれやれ、結局これが僕の祖先の正体か』。

 セザリオ 僕にマルセイユ訛が殆どないと言つても、それは僕の責任ぢやありません。

 セザール 「殆どない』? 全然ないんだ! こんな調子で行くと、しまひには通訳なしではお前と話ができなくなる。まあ、お前の親切な気持のお蔭で、いままでは充分に通じてきたがな。

(セザール、掃除をやり始める)

 セザリオ あなたのお父さんも、このバーをやつてゐたんですか?

 セザール さうだ。

 セザリオ そのお父さんも?

 セザール まああまり家系を遡るのはよさう。いくら行つてもルイ十四世には行き当たらないさ。それどころか、祖先は博打打ちとも限らないからな。

 セザリオ するとここが僕のゆりかごか。代々続いた家族の安息所だ。そのカウンターは家の祭壇、そのアペリティッフの壜は、家の守り神だ。まあいい。それはそれで。

 セザール それが分つて、お前の頭はさつぱりしたな。ただ心臓の方は少し傷ついたかもしれん。

 セザリオ 何故そんなことを言ふんです。僕がアペリティッフの壜を崇(あが)めないから? ねえ、パラン(名付け親)・・・ご免なさい、傷つけることを言つたんだつたら・・・

 セザール お前のパランは傷ついてはゐないさ。傷ついたのはお前のおぢいさんだ。

 セザリオ ご免なさい、おぢいさん。

 セザール うん、それでいい。

 セザリオ 僕は明日発ちます。六時の汽車で。あなたに意地悪な言葉を言つたまま発ちたくないんです。でも、理解して下さいますね、かういふ知らせを受ければ、誰だつてひどいショックを受けるものだつてこと。僕はこれで、多くの物、多くの人間に対する考へ方を変へました。第一に、僕自身に対する考へが変つたんです。暫く経たないと、全体の整理は出来ません。分つて下さいますね?

 セザール うん、分る。しかしまあとにかく、私は、お前が本当のことを知つて嬉しい。お前、これからどうするつもりなんだ?

 セザリオ どうするつて、何を?

 セザール お前、自分の父親に会つてみたくはないのか?

 セザリオ いいえ、全然。

 セザール もつと後になつてから?

 セザリオ 何のために?

 セザール(夢みるやうに)さうさな、何のために、か。

(七月の終、朝八時。波止場の近く、セザールのバーのテラス。エスカルトフィッグ、セザール、そして医者。テーブルの上には、クルワッサンとコーヒー。これはこれから来るムスィユ・ブランのため)

 セザール(愛情溢れる表情。顔に微笑みを浮べて)ムスィユ・エスカルトフィッグ、私はあんたを、コメディの登場人物ポリシネッル並みに楽しい、面白い人物だと常々思つてゐる。しかし、さつきあんたが口にしたやうなことを聞いてしまふと、やつぱりあんた、馬鹿丸出しの人間と言はざるを得ないな。いいか、そんなことを言つてゐると、いつの間にかあんたのその馬鹿の評判を、どんどん拡げて行くことになるんだ。

 ムスィユ・ブラン(この長演説の間にやつて来て、立つたまま)さういふ宣告が与へられたとなると、その説明を聞きたくなるな。

 エスカルトフィッグ(不満さうに)セザール、何の説明も与へられずに、ただ宣告だけを受けるのは、有難くないな。なあ、ムスィユ・ブラン、実は・・・

 セザール ムスィユ・ブランも私と同意見なんだ。

 ムスィユ・ブラン 多分な。しかし、何の話か私にはさつぱりだが。

 セザール ムスィユ・ブラン、まあ、坐つて。私のセザリオなんだが、今朝発つんだ。つまりその、これから二三分すればだ。あいつの母親の船でな、あのいたづら小憎の運転手と一緒だ。ほら、ここから見えるだらう? あの船で。セザリオは旅行の目的をあかした。アミ・・・つまり友達のところへ行くんださうだ。ところが私の意見では、そのアミはアミーユ・・・つまり女友達・・・それが私の意見だ。

 エスカルトフィッグ(ムスィユ・ブランに)私はかう言つてゐるんだ。あの若いのが自分でアミーイ(アミと同じ)に会ひに行くと言つてゐるんだから、アミーユに会ひに行くなどとわざわざ考へることはない。一体何故、彼を信用してやらないのだ、とね。

 セザール それはだね、慎み深さから、嘘をついてゐるんだ。嘘をつく、といふことをそもそも、あんたは知つてゐるのかね? 嘘といふこと、そのことをあんたは聞いたことがあるのかね?

 エスカルトフィッグ(憤慨して)おいおいセザール、それはちよつと行過ぎだぞ。この私にあんたは、嘘をつくといふことをそもそも知つてゐるかと訊くのか? もう腹の底から私の知つてゐる嘘、生まれた時から早速実行してきた嘘、その嘘を。乳母に、母親に、父親に、友人に、ついて来た嘘を。巡査に、女房に、友人についてきた嘘。さうさう、誰にだつて嘘をついてきた。今、この場でも嘘をついてゐるかもしれない。その私に対してあんたはいけしやあしやあと、「あんたは嘘なるものを知らない」といふんだ。

 ムスィユ・ブラン その新式の嘘、あんたの告白を聞くと、嘘つきのレッテルをどのやうに貼るか、ちよいと難しくなつてきたな。

 医者 そしてその嘘つき氏が、セザリオは嘘をついてゐない、本当に自分のアミの家へ行く、と言つてゐるんだからね。

 エスカルトフィッグ(セザールに)何故セザリオはあんたに嘘をつかなきやならないんだ。

 セザール もうさつきその理由は言つたぞ。すぐ忘れるんだからな。それは「慎み深さ」のせゐなんだ。「慎み深さ」、それは、いろんな意味を含んだ、繊細な感情だ。エスカルトフィッグ流とは全く異なつた代物なんだ。例へばこの私、私にも口に出したいことがある。(低い声で)つい一週間前に明らかになつた、家族の秘密だ。これを言はないのは、「慎み深さ」のせゐだ。あのセザリオの突然の出発に多分関係があるんだがな。(力強く)この秘密は諸君には言へぬ。(少し小さい声で)少なくとも、このテラスではな・・・

 エスカルトフィッグ だからさつきの話に戻って・・・

 セザール だから皆に一度に、全部話すわけには行かないんだ。何故かつて、秘密とは話すわけに行かない何かなんだからな。しかし、秘密とは、小さい声で、個々に話すものではある。(低い声で)とにかくこれだけは言つておかう。セザリオは何かを知つた。それは彼の心を酷くかき乱した。彼が今までに全然知らなかつたある秘密をだ・・・

 医者 そして我々全員が知つてゐる秘密をだな?・・・

 ムスィユ・ブラン もう二十年前からの・・・

 セザール(その言葉を引継いで)もう二十年も前からのな。だからだ、セザリオがこれから一週間、アミーユのところへ行くことが必要なんだ。ここから少しでも離れた場所へな、それから、これはたいした話だ。アミーユに聞いて貰ひたいだらう。

 エスカルトフィッグ そんな話なら、アミーユより、アミーイにした方がいいんぢやないのか。

 セザール いや、それはアミーユの方がいい。美人の、あいつの大好きなアミーユの方が。それがあいつの権利といふものだし、私だつてその方が嬉しい。

 ムスィユ・ブラン さうか、あんたが嬉しいから、それはどうしてもアミーユでなきやならないか。

 セザール さう、その通り。

 エスカルトフィッグ さてはあんた、あの子が童貞だと困るがな、と思つてゐるんだな。

 セザール フェリックス、下品なことを言ふ奴だな、お前は。しかしそいつは図星だ。そこのところがな、私は怖い。私は・・・不快なんだ。

 医者 不快か、それもあるが、もつと不快なことがある。さうだとニキビが出るからな。

 

(その間、食堂でセザリオ、朝食をとつてゐる。コーヒー、果物、チーズ、パン)

(その傍でファニー、椅子の上に大きな鞄を置き、旅行の準備をしてゐる)

(ファニー、適当な時間が経つと、準備が終り、自分も果物を食べる)

 セザリオ おばあさんに、もう編物はいいつて言つてくれないかな。

 ファニー どうしてお前、そんなことを言ふの。

 セザリオ その鞄、おばあさんの編物だけで一杯なんだ。絨毯のやうな分厚い編物、それに靴下。それみんな、何に似てゐると思ふ?

 ファニー これみんな、愛情でせう?

 セザリオ 愛情は愛情かもしれないけど、とてもそれ、靴下とは思へないよ。

 ファニー(少し皮肉に)お前、たいしたお偉いさんの前で靴を脱ぐんだね。

 セザリオ 海で泳ぐ時、着てゐるものは脱ぐからね。

 ファニー お前、本当にレックに行くんだね?

 セザリオ さうだよ、レックに骨休めに行くんだ。

 ファニー お前、ここでは骨休め、出来ないのかい?

 セザリオ こことレックとは違ふからね。

 ファニー さう、違ふよ。ここなら、母親も祖母も伯母もゐて、お前の世話をやいてくれる。だけど、他へ行けば・・・

 セザリオ(微笑む。しかし少し苛々して)分つてる。だから聞いて、僕の話を。このところ僕は猛烈に勉強した。試験にも合格。それもいい成績でね。二箇月後には第八砲兵隊でもう演習だ。丁度二週間僕はここで過した・・・

 ファニー(途中で遮つて)そして退屈し始めた・・・

 セザリオ いや。でも、少し散歩でもしたくなつたんだ。レックに別荘を持つてゐる友達のところへね。だからなんだ、ママに船を貸してくれつて頼んだのは。

 ファニー あの船はあなたのものでもあるのよ、私の占有ぢやないわ。借りるなんて、そんな。(間)あなたの友達、何ていふ名前?

 セザリオ ドゥロマール。三位で卒業したんだ、ドゥロマールは。ママがパリに来た時、会ったぢやないか。一緒に食事もした。さうさう、奴だよ、ママに恋したのは。

 ファニー 馬鹿なことをお言ひでない。

 セザリオ 僕に言つたよ、あいつ。「一般に、女といふものは僕は嫌ひなんだ。女には大抵何か、コケトリーがあるからね。だけど君の母親にはそれが全然ないんだ」つてね。

 ファニー 何、それ。あなた、自分の母親にそんなことを言ふの?

 セザリオ だつてこれ、僕が言つてるんぢやない。ドゥロマールだよ、言つたのは。

 ファニー、生意気な子、そのドゥロマール。それから他にその子、どんなことを知つてるの?

 セザリオ だから今話したぢやないか。それにママ、ママはもう思ひ出した筈だよ、彼のことを。大きな額、それに黒い縮れた顎髭がある。

 ファニー あなた、その、黒い縮れた顎髭つて、本当に確か?

 セザリオ 勿論確かだよ。

 ファニー その子と子供を作らないやうにしてね、とにかく。

 セザリオ(疑う気持なく、本気で)ドゥロマールと?

 ファニー 馬鹿なことはしないこと。(苦い気持を含んで)あなたの話にはやつぱり作り事が入ってゐるわ。(間)あなたが自分の母親をもう少し信頼してくれてゐるといいんだけど。あっさりと、かう話してくれたらね。「僕はここで退屈しちやつたんだ。実は女の子の友達がゐてね、ひと月海辺で彼女と過したいんだ。」さうしたら私だつて・・・

 セザリオ かう言ふんだらう? 「あなたを私、二十歳になるまで育てたけど、それは何も、変な女と遊んで、病気にさせたいためぢやなかつたのよ」つてね。

 ファニー まあ、それはさう。さ、言つて。彼女はパリから来るの?

 セザリオ 誰が。

 ファニー ドゥロマールよ。

 セザリオ ドゥロマール? ああ、彼はパリからだ。

 ファニー 分つたわ。もう何も言ひません。さう、あなたのことに私、関らうとしたのがそもそもいけないことだつたの。もう二十歳にならうといふ男が、母親のことを忘れて、目の前に通つて行く最初のペチコートに惹かれて・・・

 セザリオ ペチコートだつて? 僕はおばあさんのとおばさんの以外はそんなもの、見たこともないよ。

 ファニー その女の子が、ふしだらなのか、まともな子なのか、そのどちらかくらゐは教へてくれたつていいでせう?

 セザリオ ママはどつちがいいんだ。

 ファニー 売春婦を、私の名のついた船に満載されるのは嬉しくないわね。

 セザリオ ママの名前が十二個ついてないからね、あの船には。とにかくママは、僕の能力を買いかぶつてゐる。売春婦なんか乗せやしないよ。

 ファニー もしまともな女の子だつたら、余計大変。あなた、その子と結婚するつもりなの?

 セザリオ 全然。

 ファニー まあ、それなら話はもつと深刻だわ。

 セザリオ さう、話はどんどん深刻になつて行くね・・・

 ファニー いいでせう。(突然)あなたの母親のことを考へたことあるの? お前は。本当にまともな若い女の子が体面を汚されて、老人の手に飛び込むことでやつとその危機を免れる・・・ 

 セザリオ(驚いて)老人の手つて、それ、パパのこと?

 ファニー(まづいことを言つてしまひ、慌てて自分の言葉を取り消し)違ひます。あの人の話ではありません。それに、あの人のやうな人は千人の中からだつて捜すことは出来ません。さうさう、その、ドゥロマールの住所は?

 セザリオ レック、ヴィラ『レ・キャナリ』。

 ファニー 変な名前『レ・キャナリ』だなんて。

 セザリオ(「どうしやうもない」といふ、曖昧な身振りをして)彼の父親が小鳥の商売をしてゐたんだ。

 ファニー 「してゐた」つて、すると、お母さんは寡婦?

 セザリオ さう。

 ファニー(少し悲しい)そのドゥロマールつて子、母親を一人にしておかないのね。自分が友達の家に行くのは止めて、友達を自分の家に呼ぶんだから。

 セザリオ さう、その通り。だけど、僕も彼を家に呼ぶよ。こちらの旅行が終つたらね。二週間ぐらゐ。

 ファニー 本当?

 セザリオ 勿論本当さ。奴はきつと花を持つてくるね。それから、ママが奴に話しかける度に、赤くなるよ。

 ファニー 馬鹿なことを言はないの。それで、その子の母親つて、コケトリーがあるの?

 セザリオ あつたんだらうと思ふよ。でも今はないね。六十歳なんだ。

 ファニー 別荘を持つてゐるぐらゐなんだから、電話はあるんでせう?

 セザリオ ああ、電話はない。

 ファニー  ファニー  ぢや、近くのホテルか、郵便局にかけるわ、私。

 セザリオ(きつぱりと)それは駄目。

 ファニー どうして駄目?

 セザリオ(苛々しながら)だつて馬鹿げてゐるよ、そんなの。僕はもう二十歳だよ。それを、毎朝電話だなんて、まるで警察の監視だ。僕が笑ひ者になるだけだよ。少しは僕に自由をくれたつていいぢやないか。ね、ママ。ちよつと離れただけで怖くて震へてしまふなんて。僕は五歳の子供ぢやないんだ。砲兵隊の士官は、一人で行動出来るんだ。

 ファニー 悪い女性を排除するには、砲兵隊の士官であるだけでは充分ぢやないの。

 セザリオ ぢや、かう言つたらどうなるの? 僕は今女の子が好きなんだ、彼女は美人で、頭がよくて、洗練されてゐて、金持で、洒落てゐて、声が僕を魅了して、その悪い魅力が僕の五感を震へさせてるんだ、つて。

 ファニー 馬鹿なこと言はないで。ほつぺたを叩くわよ。 

 セザリオ そしたらこつちはママにキスだ。

(セザリオ、ファニーを両手に抱く)

 ファニー(それを押しやつて、顔をそむけ)まあ、キスだなんて。キスで何でも通ると思つたら大間違ひよ。

 セザリオ ああ、ご免なさいママ、今までキスで何でも通つたから。でも、今日からこれが効かなくなるなんてこと、ないよね?(またキスする)僕、少しぐらゐ夢を見たつていいよね? 友達の家で一週間かそこらだ。ここから五十キロしか離れてゐないよ、それも。ママ、こんなことで死にはしない。僕、時々電話するよ。

 ファニー 分つたわ。でも、気をつけるのよ。もしあなたが馬鹿なことをやつてゐるつて分つたら・・・

 セザリオ ママ、どうするの?

 ファニー 私も馬鹿なことをやるの。分る?

 セザリオ 分る。

 ファニー 私、本気で言つてるのよ。

 セザリオ 分つてる、分つてる。でも、もしママが馬鹿なことをやる時には、まづドゥロマールのことを考へてやつてね。(セザリオ、行きかける)

 ファニー お前、私にキスは?

(「お前、そのまま行くの?」が直訳)

           (セザール前半、終)

 

平成二四年(二0一二年)五月一五日 訳了