野崎韶(よし)夫の「ブルガーコフ」の解説。(一九八一年発行白水社「ソヴィエト現代劇集」による。)
 
 一九二八年五月、ソヴィエト留学の最初の春を、わたしはまずモスクワ芸術座のチェーホフ劇を見ることからはじめた。開場後間もない築地小劇場でチェーホフ劇の洗礼をうけ、これをロシアの本場で――というのがそもそもの留学の動機だったし、一年の語学習得期間にチェーホフの戯曲を原文で読んでいたからである。そして実際に見たのが「桜の園」と「ワーニャ伯父さん」だった。それはスタニスラーフスキイ、クニッペル=チェーホワ、カチャーロフ、モスクヴィーン、レオニードフといった、初演以来持ち役の変らない名優たちの舞台だった。
 日本で見た小山内薫演出のチェーホフ劇は、先生の芸術座(能美註 即ち「モスクワ芸術座」)観劇の綿密なノートに従ったものなので、舞台装置や扮装はもとより、人物の出し入れなど、よくこれほどまでにと思われるほど、芸術座そっくりのものだったが、現実に芸術座の舞台からうける印象は、まったく別のものだった。いまならこれが自明の理であることはすぐ理解できたであろうが、幼稚な演劇学生のわたしには、まあこんなにちがうものかと驚きであった。しかしここでその問題を詮索する余裕はない。
 ちょうどそのときに見たのがブルガーコフの「トゥルビーン家のありし日」(能美註 私は「トゥルビーン家の日々」と題した。「ありし日」の方がよさそうである。しかし今のところこのままにしておく。)だった。当時の自分の語学力では、舞台のせりふを完全に理解するには、ほど遠かったにちがいない。にもかかわらず、この劇からうけた圧倒的な感動の記憶は、今もなおあざやかである。
 この四幕七場の戯曲は自作の長編「白衛軍」から作者自身が脚色したもので、ときは一九一八年の冬から翌年一月にかけての内乱時代、帝政ロシアの崩壊を必死に食い止めようとする白衛軍、ドイツ干渉軍とその傀儡政権たる全ウクライナ総統の一味、ウクライナ民族独立を呼号するペトリューラ軍が、三つ巴になって戦うキーエフを舞台として、白軍将校トゥルビーン大佐一家の離散と崩壊を描いた作品である。(能美註 赤軍、白軍、ペトリューラ軍の三つ巴。「ドイツ干渉軍とその傀儡政権たる全ウクライナ総統の一味」は、表向き、白軍の味方。)それはゴーゴリの峻烈な風刺とチェーホフの静謐な叙情をあわせもつ、芸術座特有の真実と詩にあふれた舞台であった。
 劇の親交につれてわたしは目頭が熱くなり、胸をしめつけられる思いだった。なにしろ革命後十年をすぎたばかりのころなので、芸術座の客席は革命の記憶もまだなまなましい、旧い知識階級の人びとによって占められていた。みんながハンカチで涙をぬぐいながら、舞台を見つめている。こんなやさしい善良な人たちが白軍の陣営にいたばかりに、滅んで行かねばならないとは・・・
 出演者はフメリョーフ、ドブロヌラーヴォフ、ソコローワ、プルードキン、ヤーンシンといった第二の世代に属する若手であり、その後の一九三○年代から六十年代の芸術座を背負って立った人たちだった。(彼らもそれから半世紀をすぎた今では、ほとんど故人となっている)。「トゥルビーン家のありし日」が芸術座の第二の「かもめ」といわれるのは、こうした輝かしい成功とそれが劇場の歴史に占める意義を端的に示すからである。この劇の演出はスタニスラーフスキイの指導のもとに、スダコーフが担当し、初演は一九二六年一○月五日であった。その上演続行についてはさまざまな紆余曲折があり、断続があったが、一九四一年夏の独ソ開戦の日、巡演先のミンスク市でドイツ軍の爆撃にあって大道具を焼失するまで、九八七回の上演回数を記録した。ここでとくに断わっておかねばならないのは、現在芸術座で上演されている「トゥルビーン家のありし日」は、それとは全然別個の、戦後の一九六七年初演のワルバホーフスキイの新演出で、往年の名舞台を知るものにとっっては、ひどく見劣りのする、味気ない芝居である。

 戯曲「逃亡」(能美註 私は「脱出」と名付けた。日本語の「逃亡」に「悪いことをして逃げる」の語感があるのを嫌ったからである。)は「トゥルビーン家のありし日」の続編として、一九二六年から二八年にかけて書かれた。この年代のソヴィエト劇文学の代表作とされているトレニョーフの「リュボーフィ・ヤロワーヤ」、イワノーフの「装甲列車一四―六九」、ラヴレニョーフの「破砕」がいずれも革命に勝利したプロレタリアートの側から書かれているのにたいし、「逃亡」は前作「トゥルビーン家のありし日」と同様、革命によって滅んでいった人びとの側から書かれている点に大きな特色がある。
 この作品の中心人物フルードフは、一九二○年にクリミヤ半島で反革命軍として最後の抵抗をこころみたヴランゲリ軍の指揮をとったスラシチョーフという実在の将軍をモデルにしたものである。彼スラシチョーフは後年のナチス軍隊に劣らない、白色テロの暴虐と残忍のかぎりをつくした軍人であるが、一九二一年恩赦をうけて祖国に帰り、国の内外に蠶動する白衛軍の残党の投降を呼びかけ、「一九二○年のクリミヤ」という回想録を書いた。ブルガーコフはこの本から多くの人物の原型を得ている。
 「逃亡」は芸術座によって採択され、カチャーロフ、フメリョーフ、タラーソワなど、最高の配役によって上演準備が進められていたが、教育人民委員部(現在の文化省)の上演目録委員会から横槍がはいった。つまりこの作品は「白衛軍にたいする鎮魂歌(レクイエム)」ではないかというのである。この脚本を激賞したゴーリキイをはじめ、スタニスラーフスキイ、ネミローヴィッチ=ダンチェーンコなどの要望で、芸術座にかぎり上演を許可するというところまでこぎつけたが、一九二八年にはついに脚光をあびることなく終ったのである。いつの時代、どこの国にも、権力にたいする迎合と卑屈の官僚主義は跡を絶たないものであるが、これはスターリン時代の数ある芸術圧殺のなかでも、とくに忘れがたい暴挙であった。
 「逃亡の上演は戦後のスターリン批判と雪どけが進行した一九五七年、ヴォルゴグラードの劇場が先鞭をつけ、翌五八年にはレニングラードのプーシキン劇場で、ついでモスクワのエルモーロワ劇場で、外国ではチェコやポーランドでそれぞれ上演された。現在モスクワで見ることのできるのは、一九七七年初演、演出ブルーチェク、舞台美術レヴェンターリ、音楽クリーツカヤの風刺劇場と、一九七八年初演、演出ゴンチャローフ、舞台美術ゴンチャローフ、エーボフのマヤコーフスキイ劇場の演出である。

 「逃亡」はまた映画化されている。劇的な起伏に富み、舞台がクリミヤ半島からコンスタンチノープル、パリと移動するのも映画には打ってつけである。しかしこれは単なる戯曲「逃亡」の映画化ではなく、第一部「流転への道」(祖国)、第2部「郷愁のしらべ」(異郷)として、そのモチーフをブルガーコフの他の作品や手記からもとり、独自の映画作品を創造したのである。
 一九七一年モスフィルム作品として、この映画の脚色・監督にあたったアーロフとナウーモフは、パアタシヴィーリの美しいカメラに助けられて、非情と苛烈の流転のなかに芽生えたセラフィーマとゴルプコーフの愛の行方を叙情的に描いている。したがって原作戯曲とはかなりかけ離れた、大衆に喜ばれる感傷的な物語になっている。日本では「帰郷」と改題して公開された。
 
 次に簡単に作家ブルガーコフの経歴を記しておこう。ミハイール・ブルガーコフ(一八九一―一九四○)はキーエフの神学大学教授の家に生れ、第一古典中学に学んだあと、一九一六年キーエフ大学医学部を優等で卒業、スモレーンスク県の僻地へ医者として赴任し、そこで一年間勤務したが、内乱時代には故郷のキーエフに帰り、白衛軍の潰滅を身をもって体験した。
 一九二○年には医者をやめて文学に専心することになり、物情騒然たるチフリス、バトゥム、ヴラジカフカースを転々としたあと、二一年モスクワに移り、新聞記者として文筆活動をはじめ、貧しい、しかし青春の野望に燃える文学の同志たちに出会った。こうして初期の短編や「白衛軍」、「悪魔物語」(二四)、「犬の心臓」「運命の卵」(二五)などがあいついで発表された。
 一九二六年にはすでに述べたように白衛軍」から脚色した「トゥルビーン家のありし日」が芸術座で上演され、劇作家ブルガーコフの誕生を内外に知らせたが、次作「ゾーイカの住居」がワフターンゴフ劇場、「深紅の島」がカーメルヌイ劇場でそれぞれ脚光をあびるに及んで、作者の思想的・政治的姿勢にはげしい批判があびせられ、ついに上演禁止の憂き目をみた。芸術座における「逃亡」上演がとりやめになったいきさつは、前にも述べた。戯曲「アダムとイヴ」(三一)も出版は戦後、外国でのことだった。「モリエール」(三一)は芸術座でとりあげられ、ようやく三六年に初演にこぎつけたが、スタニスラーフスキイとの見解の相違がもとで、上演七回で打ちきりとなり、本格的に諸劇場でとりあげられるようになったのは戦後である。「気違いジュルダン」(三二)と「至福」(三四)の上梓や初演も戦後の国外において行われている。
 「最後の日々(プーシキン)」(三四―三五)は作者の死後の四三年に芸術座がようやく上演、戦後色一色の演劇界に完璧度の高い舞台として、深い感銘を与えた。「イワン・ワシーリエヴィッチ」も戦後の六五初演、いまも映画俳優劇場の人気番組の一つである。セルバンテス原作の「ドン・キホーテ」(三八)は作者の没後、四一年にワフターンゴフ劇場で上演された。
 このようにブルガーコフの劇作は、芸術座におけるゴーゴリ原作の「死せる魂」(三二)と「トゥルビーン家のありし日」を除くほかは、生前ことごとく上演と出版の道を閉ざされていた。こうした窒息状態は彼の生活そのものをおびやかさずにはおかなかった。彼は一九三○年からしばらく芸術座の演出助手として働き、その非凡な俳優的素質をスタニスラーフスキイに認められたことがあるが、こんどはボリショイ劇場文芸部に籍をおき、オペラの台本などを書き、僅かに自分の幼年時代からの舞台芸術にたいする愛情のやり場とし、また生活のよすがとするほかなかった。
 しかしこのあいだに彼は散文の世界において、伝記小説「モリエール氏の生涯」(三二―三三)、痛烈なアイロニーをこめて芸術座の内面を書いた「劇場物語(ロマン)」、そして一○回も書き改めたという畢生の大作「巨匠とマルガリータ」を完成した。これらの散文作品はすべて六○年代にはじめて雑誌に発表、あるいは出版され、静かな、しかし広大な反響を呼びおこし、作家ブルガーコフにたいする新たな関心と興味を呼びおこしたのである。
 ロシアの知識階級(インテリゲンツィヤ)と革命、権力と芸術家の運命という主題にいどんで苦闘し、ついに生前はむくいられることなく、貧困と孤独のなかに生涯を終らねばならなかった、この偉大な作家への追慕と敬愛の念は、ますますわれらの胸につのるばかりである。