ベレット
        シャルル・ヴィルドラッック 作
          能 美 武 功 訳
   
   登場人物
ガブリエッル・コトゥレッル  五十五歳
エレーヌ・オビエ  五十歳
ジョルジュ・コトゥレッル  六十歳

(場 小さな湯治場。)
(公園の小道。背のついたベンチ。ベンチの後ろ、すぐ近くに、茂った木。地面から葉があるか、または、檀(まゆみ)のような茂った灌木。(訳註 これは後で、立ち聞きを可能にするため。)ベンチの前のテーブルの上に、新聞、本、ハンドバッグ、ステッキ。)
(幕が開くとガブリエッルがベンチに坐っている。片方の足はスリッパ履きで、椅子の上にのせている。椅子にはクッションがしいてある。)
(ガブリエッルの傍の椅子にエレーヌが坐っている。ガブリエッルはセーター、ニットウエアー姿。早口で高飛車な物言い。男まさりの女。エレーヌは落ち着いた喋り方。優しく相手を説き伏せる、というタイプ。シンプルで優雅な旅装。麦わら帽か、またはウールの帽子。白髪まじりの髪。)

     第 一 場
 ガブリエッル 本を読むのに飽きたら編物、編物に飽きたら読書。読書も編物にも飽きたら、目をつぶる。そして、やりたいこと、健康だったらやれること、を考える・・・
 エレーヌ 考えるだけではなくて、お出来になりますわ、そのリウマチがなくなれば。
 ガブリエッル 明日という訳に行かないから、全く。治療なんて何の効果もない・・・
 エレーヌ 治療はいつから?
 ガブリエッル もう、一週間になる。口だけは立派な・・・
 エレーヌ(途中で遮って。)まあ、マダッム、もう少しは辛抱なさらなくちゃ。それから、お医者様を信じて・・・私、夫を二年前に亡くしましたけど、あの人、ここに来て、それは本当に、良くなりましたわ。
 ガブリエッル(急に興味を示して。)まあ!
 エレーヌ リウマチが酷かったんですの。何箇月も肩が痛んで・・・腕が動かせなかったぐらい。
 ガブリエッル それで、治ったの?
 エレーヌ 見る見るうちに。ここにいる間に腕が動かせるようになって、ひと月後には痛みはすっかり・・・
 ガブリエッル 私も希望が持てるわね、それは・・・で、マダッム、あなたも治療のためにここに?
 エレーヌ いいえ、有難いことに、私はどこも悪くなくて。ここは夫との素敵な思い出の地で・・・それでまた・・・この辺り、とても綺麗ですもの!
 ガブリエッル 木が多いわ、私の部屋から見た景色では。・・・夫と私、オテル・デ・バン。治療には便利がいいから。
 エレーヌ そうですね。綺麗なテラスがあるホテル・・・
 ガブリエッル 私はここの公園の方が好き。最初は私、この公園はホテルのものとばかり・・・公けの公園のせいか、ここには人が全然来なくて・・・それも驚き。
 エレーヌ ええ。ここにたった一人で淋しくはありませんか? 時々はあのテラスにいらっしゃれば? 人も多いし、気も晴れるかもしれませんわ。
 ガブリエッル (私、ここの方がいいんです。)慎み深さ、ではないでしょうね。単に人にいいところを見せたいだけなんでしょう。私、自分のびっこを人に曝すのが厭で。
 エレーヌ 皆と一緒だと却ってそれは考えなくなるものですわ。
 ガブリエッル この足が痛くて、びっこをひいてここに来るのも駄目な時は、私、部屋にいる。と言っても、滅多に一人じゃないわ。可哀想に、夫が付き合ってくれる。時々は私の方から、少しは散歩でもしろと追い出すぐらい。昨日も夫は、チェッカーをしようと誘って、おまけにわざと私に勝たせようとしてくれるんですが、こちらは作戦など全く興味ありませんから、そんなのうまく行く筈がない。ええ、私は読書。強く心をひく、しっかりした本・・・それは手放せない。
 エレーヌ 私も同じですわ。
 ガブリエッル でもいい本は少い。これまで随分散財しました。そうそう、夫が散歩のついでに駅の図書館で何か捜してくれると言っていました。でも、図書館にはたいてい古いがらくたしかなくて。
 エレーヌ どういうものがお好きですか? そこに一冊ありますね。拝見してもよろしい?
 ガブリエッル(テーブルから本を取ってエレーヌに渡しながら。)どうぞ。今丁度、二度目を読み終ったところ。「嵐が丘」・・・強烈な話。
 エレーヌ ああ、いい小説ですね、これ。
 ガブリエッル さっき、著者の短い伝記も読み終ったところ。彼女の生涯も短かったけれど、伝記も短いもの。牧師の家に生れてそこでずっと育った、まだ本当にうら若い女性。その彼女が、どうしてあんな悪魔のような恋愛の主人公、ヒースクリフを考えついたのか、不思議。
 エレーヌ ええ、あの情熱から生まれた妥協のない過酷な論理・・・
 ガブリエッル そう! あの論理・・・ヒースクリフのような、ああいう強い男が、あの可愛いキャサリン・リントンを夫から奪ってさっさと出て行くぐらい何でもないことなのに、何故そうしないのか、私には分らない。何の躊躇いもあるものですか、あのヒースクリフなら。こっちはそれがいつ起るか、そうしたら喝采の声を上げてやろうと手ぐすね引いているのに・・・でも、そんなことをしたら、あの薄暗い、重々しい小説の四分の三はなくなってしまう。
 エレーヌ(微笑んで。)ええ、失うものが多いですわ。でも、お見受けしたところ、奥様はイギリスのものがお好きなようですね?
 ガブリエッル そう。だいたいは合格。このフランスにはない、ある種の雰囲気にどっぷりつかることが出来る・・・
 エレーヌ 雰囲気・・・そうですわ。ところで、メアリー・ウェッブの小説をご存知かしら。
 ガブリエッル ウェッブ? ないわね。ええ、知りません、その作家。
 エレーヌ 「サルヌ」は? 読んだこと、おありですか?
 ガブリエッル いいえ。
 エレーヌ 第一級品ですわ。お貸しします。私、ここに持って来ます。
 ガブリエッル そんな・・・お手数ですわ。
 エレーヌ いえいえ、今行って来ます。私、すぐ近くのオテル・デザレですから。一週間ぐらいどうぞお使い下さい。私、この辺りのいい場所をあちこち見て回るつもりでいるんです。
 ガブリエッル ご親切に。でもあまりご迷惑をおかけしても・・・
 エレーヌ ちょっとホテルに帰って一筆書くことがあるんです。そしてすぐ郵便局にそれを出しに・・・その時どうせここを通るのですから・・・ここにまだ十五分ぐらいはいらっしゃいますね?
 ガブリエッル ええ勿論。でも、申訳ないわ・・・
 エレーヌ ではまた・・・ああ、そうそう、この雑誌を置いておきますわ。(ハンドバッグから雑誌を取り出す。)バルザックの、未発表の面白い手紙が出ていますから。
 ガブリエッル あら、有難う。悪いわね。
 エレーヌ いいえ、全然。その手紙の来歴自体も、それはそれで面白いんですの。では失礼します。またすぐ参ります。どうぞ足をあまりお気になさらないよう。
 ガブリエッル さようなら、マダッム。本当にいろいろと。
(エレーヌ退場。ガブリエッル、一人になり、雑誌をパラパラめくる。雑誌には別に葉書が挟んである。ガブリエッル、それを取出し、ちょっと眺める。また本の間にそれを挟み、本を読み始める。コトゥレッル登場。手にパイプ、それから、本、新聞、雑誌など。)

     第 二 場
 コトゥレッル どうだ? ギャビー、足の具合は。
 ガブリエッル いいわ、今のところ。
 コトゥレッル(この時までにパイプはテーブルの上に置いている。)ほら、読み物がいっぱいだ。週刊誌はほぼ全部揃っている。それに、本も持って来た。著者は聞いたことがないが、「子馬達」っていうんだ。その中に面白い話があってね、現代の若者の風俗なんだが・・・あれ? その足、低過ぎないか? さっきクッションを折り曲げて、その上においたろう?・・・その方が楽なように見えたからね。
 ガブリエッル ええ、でも、もたなかった。この方がいい。これ、さっき、素敵な女の人がいて、その人がやってくれた。
 コトゥレッル 女の人?
 ガブリエッル 通りがかりの。今丁度別れたところ。私、クッションを二つに折って、足を置こうと思った。そうしたらクッションが地面に落ちて、拾おうと思っても手が届かない。それで杖で引き寄せようとしていたら、その女の人が駆け寄って、拾ってくれて、椅子を少し移動させて、足をのせてくれた。それは優しい態度でね。看護婦のような手際。それで私達、少し話をした。
 コトゥレッル 看護婦? その人。
 ガブリエッル いいえ! でも、長いこと、夫をここで看病して、結局夫に先立たれた。いい女の人、優しくて。読書の話をして、読む本がないと言ったら、貸してくれるって。今取りに行っている。ほら、その前に雑誌まで。
 コトゥレッル 見せて。
(ガブリエッル、雑誌を渡す。)
 ガブリエッル 気をつけて。葉書が挟んである。
 コトゥレッル あ、そう。(葉書を見る。)ポン・ヂュ・ガール・・・「かしこ、ミシュリンヌ」
 ガブリエッル 随分不注意!
 コトゥレッル と言ったって、僕には何の興味もないな。(少し当惑の表情。)ああ・・・その・・・婦人だけど、オテル・デ・ザレに泊ってるって?
 ガブリエッル ええ。何故?
 コトゥレッル つまり、この葉書は、その婦人宛のものなんだろう?
 ガブリエッル それはそうでしょう。マダム・エレーヌ・・・エレーヌ・何、かは私、分らない・・・
 コトゥレッル エレーヌ・オビエだ。お互いに紹介をした?
 ガブリエッル いいえ、そんなこと。その葉書で名前を見ただけ。ただざっと。どうしたの? あなた。その、マダム・オビエを知ってるって言うの? その人、夫を亡くしているのよ。
 コトゥレッル いやいや、知らない。
 ガブリエッル じゃ、会ったら?
 コトゥレッル 若い人?
 ガブリエッル 私とほぼ同い年。白髪まじり。でも、まだ魅力たっぷり。
 コトゥレッル いつ戻って来るって?
 ガブリエッル 十五分後、と言ってたけど。・・・どうして?
 コトゥレッル いやちょっと・・・ちょっとホテルにパイプを取って来ようと思って・・・
 ガブリエッル パイプなら今あなた、そこに置いたわ。テーブルの上に。
 コトゥレッル 別のやつだ。これは詰(つま)っている。
 ガブリエッル じゃ、早くいらっしゃい。・・・それから帰りに引き出しからヌガーを出して持って来て。その人に上げたいから。
 コトゥレッル(行きかけているが、思い直す。)いや、これは駄目だ。白状してしまった方がいい。パイプは口実だった。僕はマダム・エレーヌ・オビエに会いたくないんだ。
 ガブリエッル なあんだ、あなたの知っている人!
 コトゥレッル そう。充分あり得る。・・・もし僕が想像している人がその人なら、もう二十年も会っていない・・・でも・・・
 ガブリエッル(途中で遮って。)それで、誰なの? 浮気の相手・・・そのうちの一人?
 コトゥレッル 「そのうちの」ってことはないだろう? 複数はいなかった。そう、彼女だ。とにかく、君は会う方がいい。どうせもう、何の関係もないわけだし。
 ガブリエッル(急に怒って。)何? あれがベレット?
 コトゥレッル そう。君が相手を知りもしないで、心の中で歯ぎしりをして、思い出す度に苛々していた、例のベレット嬢だ。今じゃ、ただのオビエ未亡人。二年前夫を亡くした知らせを貰ったからね。
 ガブリエッル まあまあ、あのベレット!
 コトゥレッル なあお前、こんな出会いはあまり望ましいものじゃないかも知れないがね、それにたいしてドラマチックでもない。しかし、マダム・オビエが本物のベレット・・・つまり「いたち」・・・じゃないってことが確かめられるのも悪くないことじゃないか。
 ガブリエッル あの人、どこか狡賢(ずるがしこ)そうだったわ・・・いたちみたいに。
 コトゥレッル そうでないいたちだっているってことだよ。
 ガブリエッル でも私に対するあの人のあの気の効き方・・・私のことが分っている様子・・・
 コトゥレッル お前のことが分っている・・・?
 ガブリエッル 私が誰か知らないとは思えないわね。あの人私に・・・
 コトゥレッル(途中で遮って。)お前が自分を名乗らないで、どうしてあっちに分る。
 ガブリエッル それは簡単でしょう。あなたにだって分っている筈。二人でいる所を見られたら? この辺りで。パリでもいい。昔の恋人の女房を覗き見しようという気がふと起りさえすれば、実行はいとも簡単。
 コトゥレッル どうやら昔、あの女の顔をどうしても見てみたいとやっきになったことがある様子だな。それでお前、うまく行かなかったんだ。
 ガブリエッル 馬鹿な話! そんな下らない好奇心、持つわけがないでしょう?
 コトゥレッル あっちだって同じさ。それに、たとえ我々二人が一緒にいる所をこのホテルの玄関で、或はこの公園で見られたとしても、あちらがそれで、お前に何を感じるっていうんだ。甘酸っぱい、ちょっとホロリとする気持が関の山だろうさ。
 ガブリエッル ホロリですって! 泣かされたのはこっちだったのよ。こっちのあなたに対する信頼をいいことに、したたかにあなたに近づいて・・・
 コトゥレッル おいおい、あれはそんなことをする女じゃない。そういうことの一番苦手なのがあの女・・・
 ガブリエッル(遮って。)言わないで! いいの、あちらを持ち上げるのは。全く男って、考えられないぶきっちょ。それに無神経!
 コトゥレッル やれやれ、ここは肩をすくめる場面だが、その気力さえないね。僕は行く。こんなところをマダム・オビエに見られたら、全くのお笑い草だ。
 ガブリエッル(驚いて。)駄目よ! 私も厭! さ、手伝って。私も帰る。早く、パイプを取って。新聞も。(ガブリエッル、急いで本と雑誌を自分のハンドバッグに入れる。)
 コトゥレッル 冗談じゃない。お前は行けない。話がややこしくなる。あっちはお前を捜して、ホテルまでやって来る。でなければ、明日またここに来るぞ。
 ガブリエッル(この時までに立上がっていて。)ここには私、もう来ない。それにホテルに来たって追い返す。さ、そのクッションを取って。
 コトゥレッル そんな馬鹿なことが出来るか。よし、お前をホテルまで連れて行った後、僕がここに来る。マダム・オビエには僕が説明する。
 ガブリエッル それも駄目。とにかく取って、そのクッション!(ガブリエッル、心配そうに右手を見る。その間にコトゥレッル、クッションを取る。)ああ、どうしよう。早く! 来るわ、あの人。並木道を横切っている。
 コトゥレッル じゃ駄目だ。消える時間などありっこない。お前のその足じゃ、一分かけてやっと二、三メートルだ。(威厳をもって。)元の格好に戻るんだ、早く!
 ガブリエッル ああ、何てこと!
 コトゥレッル(元の格好にガブリエッルを戻す。クッションを再び置き、足は椅子の上に。喋りながら。)さっきの雑誌を出すんだ。いいか、相手は知らない婦人なんだぞ。その知らない人物が、お前に本を貸してくれようっていうんだからな。
 ガブリエッル 早く! 早く行って!
 コトゥレッル 言わないんだぞ、自分の正体を。約束してくれ。
 ガブリエッル いいから、早く!
 コトゥレッル 誓ってくれ、ギャビー、さっきの応対と同じように接すると。お前は何も知らない。お互いに知っていることは何もないと。
 ガブリエッル(右手の方に目を向けて。)行って、早く! もう来てしまう!
 コトゥレッル 誓ってくれ! お前のためでもあるんだ、これは。
 ガブリエッル(苛々しながら。)もう。しようがないわね。誓う! 行って貰うため。
(コトゥレッル、左手に退場。ハンドバッグから雑誌を取り出し、読んでいるふり。時々左手の夫がうまく逃げおおせるか、右手のエレーヌが来はしないか、目を向けながら。暫くしてエレーヌ登場。)

     第 三 場
 エレーヌ 今日は。如何でした? 足は、私のいない間。大丈夫でしたか?
 ガブリエッル 足? ああ、まあまあで・・・
 エレーヌ 本をお持ちしましたわ。面白いといいんですけど・・・私が楽しめたように・・・
 ガブリエッル(うまく感情を隠せない。)有難う・・・どうも、本当に・・・大切に扱います。読み終ったらすぐホテルにお返しします・・・この雑誌も。
 エレーヌ でも、一週間過ぎないうちですと駄目ですわ。私、ここにいませんから。
 ガブリエッル いつお発ちに?
 エレーヌ 明日・・・でなければ、明後日。ホテルの社長が、車に乗せてくれるって言うんです。サン・ピエール・ドゥ・ヴィゼーヌまで。私、車より観光バスの方がいいんですけど・・・途中で何度も休憩があって・・・
 ガブリエッル ええ・・・
(少しの間。)
 エレーヌ お読みになりました? バルザックの手紙。面白いと思ったんですけど・・・
 ガブリエッル ええ・・・少しだけ・・・でも、読みきれなくて・・・実は十分前から急に頭痛が・・・
 エレーヌ ああ、それですね。何だかちょっと、先ほどとはご様子が違うと・・・
 ガブリエッル 読み過ぎたり、編物に時間をかけ過ぎたりすると、出てきて・・・
 エレーヌ 分りますわ。そう、私も退散した方が・・・目をつぶって、静かにしていらした方がいいですわ。一週間後にお会いしましょう。足もきっと恢復、お元気になっていらっしゃるわ。
 ガブリエッル(微笑もうと努力して、頭を下げ。)それで、ロテル・デ・ザレにはどういうお名前で本をお返しすれば?
 エレーヌ 私の名前で・・・その本の表紙の裏にあります。マダム・エレーヌ・オビエです。
 ガブリエッル(確かめながら。)マダム・エレーヌ・オビエ。分りました。
 エレーヌ では、さようなら。
 ガブリエッル(急いで引き止めて。)待って。実は、お名前はさっき葉書で分っていました。この雑誌に挟んであって、読むともなく目にとまって・・・また挟んでおきましたが・・・ほら、これです。
 エレーヌ(葉書を取り、ハンドバッグに入れながら。)ああ、有難うございます。これ、ページを切るのに使っていたもので、大事なものではありません。
 ガブリエッル そちらの名前だけを伺って、私の方は・・・まだ名前を・・・でも、もう私の名前はきっとご存知で?・・・
 エレーヌ(何故そんなことを言うのか、訝(いぶか)しい気持。)いいえ・・・私、失礼ですけど・・・存じ上げませんが・・・
 ガブリエッル 本当に?
 エレーヌ(微笑む。誠実に。)ええ、本当に。
 ガブリエッル 私、ジョルジュ・コトゥレッルの家内です。
 エレーヌ(驚いて、飛び上がるように。)ああ!
 ガブリエッル こんなことは言わないでお別れした方が、とも思ったのです。お互いに気まづくないし、その方が簡単ですから。でも急に、どうしても打ち明けようと。第一、私、馬鹿な芝居をうってしまって・・・さっきの頭痛のこと、それに、夫と私が二人でいるところをあなたに見せてしまいましたから。いえ、正直を申しますと、今回のこのこと以前に既にあなたに、私達二人が一緒のところを見られているのではないかと、私、思っていました。
 エレーヌ(抗議して。)ああ、それは違います。もし・・・
 ガブリエッル ええ、今では私にも分っています。もし私があの人の連れ合いだとお分りだったとすれば、最初の時私にああいう風な接触の仕方はなさらなかったでしょうから・・・
 エレーヌ いいえ。私、たとえお二人の関係を知っていたとしても、あの場合にはきっと、クッションを拾って、足の位置を直して差し上げた筈ですわ。
 ガブリエッル そう。(少し皮肉に。)随分ご親切な方だわ。でもとにかく、あの葉書が本の中に入っていたのは、本当に運がよかった。あれがなかったらあなた、まともに主人と鉢合わせするところだったわ。私、あの人には何も知らせず、散歩に行かせました。ここで突然三人一緒・・・有難くない場面ですからね。
(訳註 ガブリエッルは、葉書だけでエレーヌの正体を知ったのではない。夫が教えたから分ったのである。従ってここの台詞は二重の嘘になっている。老婆心ながら。)
 エレーヌ 確かにそういう場面を避けて下さったのは有難いですわ。でもそれは、そんなに深刻でもないのではありませんか? 旦那様はきっと・・・たとえ私が分ったとしても・・・顔色一つ変えず、知らないふりをなさるでしょうし、私だって、いそいそと郵便局にこの手紙を出しに行った筈ですわ。そうすれば奥様には何も分らず・・・
 ガブリエッル(途中で遮って。)そう、私はつんぼ桟敷! そして偶然のようにして二人はまた出逢う。・・・私、こんなことを言って馬鹿な女だと思われるでしょうが、でも、実は・・・お引き止めしたのは、このことが言いたかったからです。どうか夫と会おうとなさらないで。夫にも私、このことは頼むつもりでいるのです。
 エレーヌ(考えながら。)もし私が偶然あの人と会うことになったら、二十年ぶりですもの、きっと暫くはお話をするでしょう。昔からの友達のように。私は自分の近況を話し、あの人もご自分の・・・きっとあなたの話も出ますわ。ここでの治療のこと・・・それで私は・・・
 ガブリエッル 昔からの友達が二人だけで再開した時・・・私にはよく分っています、どんな話が出るか。それもどんな話し方かさえ。
 エレーヌ 奥様はよく本を読んでいらっしゃいますわ。ですから、恋人同志の再会にも、いろいろな場合があることをご存知ですわ。特に、二人が本の最初で出逢う場合と、本の最後で出逢う場合とでは大きな違いがあることを。そして、ムスィユ・コトゥレッルと私の場合、最後の出逢いがもう既にずっと以前に終っている筈ですから・・・
 ガブリエッル 分らない! ええ、私の分っていることと言ったら、私は何も知らないということだけ! 私、信用していいんでしょうね、とにかく夫に会おうとはなさらないという約束は。
 エレーヌ ええ、喜んで。
 ガブリエッル 滑稽に見えるかもしれないけど、私・・・いつの日か、冷たい屍(しかばね)になって横たわった時、あなたが・・・
 エレーヌ(途中で遮って、優しく、少しユーモアを含んで。)奥様、どうか仰らないで。私、約束しますから。
 ガブリエッル それぐらいしても、罰はあたらない筈。私あの頃、どんなにあなたに苦しめられたか・・・
 エレーヌ 私、あの頃、そんなことはちっとも知らなかったのです。私、どんなに悲しかったでしょう・・・
 ガブリエッル(途中で遮って。)例のあの手紙を私が見つけた時?
 エレーヌ いいえ、その前です。あの手紙が見つかった時は、私達の長くはなかった関係の最後の時でしたから。
 ガブリエッル 「長くはなかった」! あの手紙が見つかった後、六箇月経ってもまだ・・・ええ、夫が私に「あなたには決して会わない」と誓ったあの時から六箇月経った後でも、二週間スイスであなたは夫と過したんですからね。
 エレーヌ いいえ、それは違います。
 ガブリエッル いいえ、そうです。私の信頼出来る友人が、夫とあなたの姿をジュネーブで見ています。
 エレーヌ(溜息をついて。)ああ・・・どうしても「私ではなかった」ということをお話しなければならないんでしょうね?
 ガブリエッル 勿論です。それが本当なら。
 エレーヌ あれは私だったと思って戴いたままに出来たら、奥様の苦しみをそれだけ少なく出来ますのに・・・でも私、ここまで来たら、お話をしなければなりませんわ、ジュネーブで旦那様は、私以外の女性とご一緒のところを誰かに見られる可能性があったことを。
 ガブリエッル あなた以外のね?
 エレーヌ ええ、でも、その説明の前にさっき言いかけましたことを・・・私がどんなに悲しかったか・・・それは、あの手紙が見つかった時より前のことだと私、言いました。それは、あの人が私に、自分はもう結婚していると話した時なのです。
 ガブリエッル 何て酷い男! すぐには話さなかったの? あれは。
 エレーヌ 長い間隠していた訳ではありません。でも、その時には手遅れでした。
 ガブリエッル 手遅れ・・・そう。分ったらさっさと私にあの人を返して下さってたらよかったんです。
 エレーヌ それともすっかり奪い取ってしまうか・・・エミリー・ブロンテの小説でヒースクリフがマリアにやったように。
 ガブリエッル ああ、あれは全く違う話!
 エレーヌ(微笑んで。)ええ、勿論。人の話となれば、話は別・・・でも、私達の場合、そんなことを私が考えることはなかった。あの人が私から去って行ったのです。
 ガブリエッル ああ・・・私のところへ戻るために・・・
 エレーヌ いいえ・・・でも奥様、あの人は結局奥様から離れることはありませんでしたわ。奥様を見捨てるようなことは決して・・・あの人は私から去って・・・
 ガブリエッル ええ、去って・・・?
 エレーヌ(少し躊躇った後。)もう昔の話です。お話していい筈ですわ。他の女性のところへ・・・私の知合いでした、その人・・・ええ、その女性をあの人はスイスに連れて行ったのです。
 ガブリエッル 何て話!
 エレーヌ 辛かったですわ、私。勿論私の辛さなど、奥様に比べてその権利さえないようなものでしょうけど・・・でも私・・・辛かった・・・
 ガブリエッル あの時夫は言いはりました。あれはあなたではない。ジュネーブで世話になった家で知り合った女で、散歩していたのを見られたのならその女だ、と。
 エレーヌ ああ、お話しなければよかった・・・
 ガブリエッル(大きな声で。)私は信じなかった! あなただと決めていた。あなたのあの手紙を見つけて、まだひと月しか経っていませんでしたからね。ああ、手紙ひとつで・・・
 エレーヌ もうあの時には、私達は終って・・・
 ガブリエッル そう、あの人もそう言いました。でも嘘が上手だから、あの人は。手紙には日付がなかった。エレーヌとサインが。あの人の手帳にエレーヌ・ベレと書いてあったのを見て、あなたの苗字を知りました。それだけ。住所はなし。(強い調子で。)ああ、あの頃どんなにあなたの住所を捜したことか。もし見つけていたら、きっとあなたは私の訪問を受けていたわ!
 エレーヌ きっと深く傷ついていた私にお会いになりましたわ。奥様と同じように嫉妬に狂った・・・それも同じ女性に対して。
 ガブリエッル 嫉妬・・・私の方はその女性に対してだけでなく、あなたに対してもです。それに、あなたのその嫉妬に対しても。それで・・・誰だったのです、その女性は。
 エレーヌ もういいではありませんか、マダッム。二十年も経っているのです。私、お話する気になれませんわ。
 ガブリエッル その女性との関係は、すると・・・あなたの時より長かったのでしょうね?
 エレーヌ(優しく。)でもないと思います・・・いいえ、違いました。・・・私、それからまた、旦那様にお会いしたことがあるのです。
 ガブリエッル(少しびっくりして。)ああ!
 エレーヌ 私、自分が幸せだと話しましたわ。本当に素敵な伴侶を得て、と。旦那様も、あなたにすっかり戻っていると・・・
 ガブリエッル あの時はね。でも、それからどうなったことやら。三番目、四番目があったんでしょう、きっと。
 エレーヌ いいえ、マダッム、それはなかった筈ですわ。
 ガブリエッル えっ? 何故です?
 エレーヌ 最初の二回、それにちゃんとお気づきになっていらっしゃいますもの。正確に言えば、二度目は当の相手その人ではありませんが、関っていることはちゃんと。私の手紙、それにスイスでの旅行・・・他にあればそれも必ず気がついていらっしゃいます。旦那様は御自分の感情をうまく隠せない方なのです。騙されたり、心配事があったりするとすぐそれが顔に出る・・・
 ガブリエッル よくあれのことをご存知・・・
 エレーヌ 誰でもそれはすぐ分ります。「すぐ顔に出る人」っていう言葉がありますわ。それなんです。それは人の長所でもありますわ。
 ガブリエッル まあ、長所! 「ぶきっちょ」とか「うかつ」とか言うべきでしょう、そんな人。そう、あの人ったら、人様にお邪魔する時、話題のことを、よく言い聞かせなきゃならないんです。あれは駄目、これは駄目、この人の話は駄目、あの人の話も駄目って。でもさっぱり。すぐ口が滑ってしまう。よく隣にいて、抓(つね)ってやったわ。
 エレーヌ(笑って。)よく分っていらっしゃる!
 ガブリエッル 私によく分っていることは、あの人があなた一人しかいないと私に思い込ませていたということ。それが実は二人だった・・・
 エレーヌ たった一人だったというよりは、その方が事態は軽いものではありませんか? 少なくとも、奥様にとっては。
 ガブリエッル あなたも同じような経験が? 旦那様に裏切られたという・・・
 エレーヌ いいえ、それは全然。私達、お互いに相手を認めあっていて・・・私、とても幸せでした。私が言いたいのは、行きずりの短い二人の方が、真剣な一人よりもずっと深刻でないということなのです。
 ガブリエッル 私の場合、行きずりの短い一人だった、とも言える・・・(間。)うちの人の方からですか? 別れようと言ったのは。
 エレーヌ ええ・・・それはもう、紳士的に。正直にあの人、言ってくれたんです・・・
 ガブリエッル(途中で遮って。)あなたを騙さないようにと気をつかってね。私の方には・・・
 エレーヌ 普通、正直に話すっていうことは、本当に別れたいと思っているからですわ。正直に話しさえすれば、後腐(あとくさ)れがないですから。旦那様は・・・
 ガブリエッル うちの人の弁護ですか?
 エレーヌ ええ、とんでもない。ただ、あの人は奥様から本当に離れたことは一度もなかったと言いたいだけです。奥様もよく考えてみれば、旦那様を疑ったことは一度もなかったのではありませんか?
 ガブリエッル ええ、でもそれは仕方なしに・・・
 エレーヌ(間の後。)何でもない偶然の出逢いで、昔のことが思い出されることになって、申訳ありませんでしたわ。こんな話、一時間前までは二人とも頭の片隅にさえなかったものですのに。
 ガブリエッル(急に身体が硬直して、うめき声が出る。その中からやっと声。)ええ、本当。
 エレーヌ あら! またリウマチですか?
 ガブリエッル いいえ、これはこむら返り・・・(伸ばした足を指差す。)あっ、痛い・・・
 エレーヌ 姿勢を変えないと・・・さ、立って下さい。(エレーヌ、手伝う)。膝を曲げて、よく筋肉をほぐして。ええ、そう・・・少しよくなりました? ちょっと私に・・・(エレーヌ、さするのを手伝う。)一二歩歩いてみますか?
 ガブリエッル(安堵の吐息。)ああ、よくなりました。ご存知ないでしょうね、これがどんなに痛いか。
 エレーヌ いいえ、知っています。夫がよく真夜中に起きて、酷く痛がっていましたから。我慢強い人でしたのに。さ、もう一度坐ってみて・・・体重を出来るだけ反対側にかけて、血液の循環を妨(さまた)げないように・・・足をその椅子に上げてありましたけど、ちょっと高過ぎたのですわ。椅子を横にしましょう。少し低くなります。
(エレーヌ、椅子を横にする。クッションをその上に置き、ガブリエッルの足を乗せる。この時コトゥレッル、左手奥から登場。二人の婦人には気づかれない。用心深く進み、ベンチのすぐ後ろの木の茂みまで行く。二人の様子を窺い、会話が始まるとすぐ茂みに隠れる。)

     第 四 場
 エレーヌ どうですか? 今度は。
 ガブリエッル これは具合いいわ。椅子の枠に丁度クッションが入って・・・良い思いつき。・・・すみません、あなたにこんなに良くして・・・
 エレーヌ いいえ、どう致しまして。
 ガブリエッル この私の気持、あなた分るかしら。スイスに行った例の女・・・あの女に実は私、感謝したい気持。
 エレーヌ あら、どうしてですの?
 ガブリエッル(軽い調子で。)あの女がいなければ、私の夫は決してあなたのような人から離れることは出来なかったでしょう。こんなに献身的に、こんなに色々なことに気がつくあなた・・・きっと私の夫も・・・
 エレーヌ とんでもない。愛情、それが人を結びつける最大の力。献身なんて、愛に仕えるものでしかありません。決して愛の主人にはなれないものですわ。ジュネーブの例の女性について言えば、感謝したいのは私の方。もしあの人がいなければ・・・
 ガブリエッル(興味をひかれて。)ええ、もしいなければ?
 エレーヌ 私、夫には逢えなかったでしょうから。
 ガブリエッル そう・・・相変わらず私の夫に執着していたろうって。なかなかいい話!
 エレーヌ(抗議して。)私、申上げたいのは、違うことですわ。私達の運命は、本当にちょっとした出来事の危うい鎖(くさり)から成立っているものだということ・・・
 ガブリエッル その鎖の中に、私の夫がいなかった方が、私にはよかったのですけどね。きっとあなたの夫になる人には、その時にもう会っていらしたのでしょうね?
 エレーヌ いいえ。その人はとてもとても遠い存在でしたわ。その人に最初に逢ったのは本当の偶然でしたから。友人達が私を慰めようという会を開いてくれて、その時・・・それはあの事があって暫く経ってからでしたけど。
 ガブリエッル ジュネーブの例の女のお陰で?
 エレーヌ そういう言い方でしたら、それでもいいですけど・・・
 ガブリエッル お辛かったのでしょうね?
 エレーヌ 私・・・誰とも会いたくありませんでした。その友人達の開いた会にも「行かない」と返事を出しました。でも、その日遅くなって・・・自暴自棄な気持になって・・・結局自分自身から逃げ出したかったのですね・・・行ったのです。
 ガブリエッル そしてそこで出逢った素敵な男性と、また会おうとなさったのね?
 エレーヌ いいえ、その会で私はその人を知り、尊敬するようになりました。でも、会うことを求めて来たのはあちらなんです。(間。)その人は私を本当に幸せにしてくれました。あらゆる点から見て素敵な人だったのです・・・
 ガブリエッル(傷ついて。)うちの人より随分高いところにいる人だったようですね、その人。
 エレーヌ まあそんな。私、そんなことを・・・
 ガブリエッル(遮って。)うちの人はどう見ても「あらゆる点から見て素敵な人」とは言えませんからね。それでも、あなたが惹かれる何かはあったのでしょう。それに・・・惹かれた人はあなた一人ではなかったようですし・・・
 エレーヌ 「素敵な」というのは一列に並べて比べられるようなものではありませんわ。旦那様だって勿論「素敵な」男性、「素敵な」夫なのですわ。
 ガブリエッル それ、皮肉でなく・・・?
 エレーヌ 勿論。私が誰かをご存知なければ、きっとそうお話になった筈ですわ。「素敵な夫ですよ」と。そうでしょう?・・・ね?
 ガブリエッル(和らいで。)そうね。そうかもしれない。そうそう、昨日私、友人に手紙を書いて・・・その通りの言葉を・・・でも、状況次第ではそんな言葉、単なる挨拶のようなもの・・・
 エレーヌ(遮って。)もうそれ以上は仰らないで。その言葉で私は退散します。でも、最後に一つお願いを・・・
(コトゥレッル、茂みの中からもっとよく聞こうと姿を現す。茂みが揺れる。)
 ガブリエッル(後ろを振向こうとして。)誰? 木を揺すっているのは? 誰がいるの? 後ろに。
 エレーヌ(茂みを見る。もう何も動いていない。)いいえ、きっと小鳥。
 ガブリエッル 何か話の途中でしたね?「お願い」とか・・・
 エレーヌ ええ、お願いがあります。どうか私が、黙っていられず、つい漏らしてしまった今の話を、旦那様にお話にならないよう。・・・昔の辛いお話をお聞かせして奥様の平静な気持を破ってしまいました。これ以上また・・・(旦那様に・・・)
 ガブリエッル どうぞご安心を。ジュネーブの女の話は内緒にしておきます。それから、この雑誌、この本を貸して下さった女性の名前も言いません。必要な時には、適当な名前を言っておきます。でもこの本・・・これはお返しした方が・・・
 エレーヌ マダム・オビエからは何も受取りたくない・・・そうお思いですの?
 ガブリエッル いいえ、お借りします! 一週間後に、ホテルのフロントに届けさせます。それから、さっき約束して戴いたことをもう一度・・・うちの人と会おうとなさらないこと。またふと見かけた時には、避けるようなことはなさらないこと。いづれにしろ、たいしたことではないことは分っています。でも・・・
 エレーヌ ええ、それはもう勿論。私、旦那様に、今のこの私の姿は何に替えても見られたくありません。こんなに老けてしまったこの姿は。・・・さようなら、マダッム。
 ガブリエッル さようなら。・・・そうそう、あなたと私、パリで二人だけで偶然出逢った時は、私を避けたりなさらないでしょうね? 私、とても気持よくお話出来ると・・・
 エレーヌ あら、本当? でもさっき、奥様はご自分で、「少し無理をしてでも言う癖がある」と仰いませんでしたか?
 ガブリエッル(笑って。)ええ、そうね。では、これで。夫がもう来るかもしれません。
(エレーヌ、右手から退場。その時軽く会釈。ガブリエッル、その姿を目で追い、雑誌を開く。見るが読めず。コトゥレッル、音を立てずに茂みから出る。抜き足差し足、左手奥へ退場。少し経って、舞台前面左手から散歩をよそおい、登場。ガブリエッル、それを見て雑誌に没頭しているふり。)

     第 五 場
 コトゥレッル 遠くから君一人なのが見えてね。一人になってかなり経つ?
 ガブリエッル ええ、かなり・・・
 コトゥレッル(坐って。)それで・・・どうだった?
 ガブリエッル どうもこうもなかったわ。どうやら私のことは知らなかったよう。
 コトゥレッル それで、君が正体を明かしたっていうこと?
 ガブリエッル ええ、ちょっとその気になった時もあったわ。
 コトゥレッル しかし、言わないと僕に誓ったからね。
 ガブリエッル 最初は。でも、話題を変えようとしてもなかなかうまく行かなくて・・・あの人、ここに泊ったことを話題にして、自分の亡くなった亭主の話しかしないの。どんなに愛していたか、あらゆる点から見て欠点のない夫だったとか・・・それについての自分の思い出を次から次と・・・夫との結婚生活がいかに素晴しかったか・・・私、あなたの名前を思い出させたらどうだろうって考えてしまった。
 コトゥレッル そんなことをして相手の幸せを試すなんて、悪い趣味だ。ああ、椅子を横にしたんだね? 足、それで具合いい?
 ガブリエッル ええ、ずっと。私が思いついて、そしてやって貰った・・・あなたの・・・エーと、つまり・・・
 コトゥレッル ベレットに?
 ガブリエッル ベレット・・・「いたち」。・・・いたちなんてあの人には合わない名前。マダム・オビエに。
 コトゥレッル それはよかった! すっかり分ったろう? 彼女が、人のものを盗むいたちなんかじゃないってことが。
 ガブリエッル ええ、今ではね。少なくとも。
 コトゥレッル そう、あれはいたちなんかじゃない・・・
 ガブリエッル 分ったわ、ジョルジュ。まあ「りす」ね。
 コトゥレッル まあせいぜいが「蝶々」だ。
 ガブリエッル りすでも蝶々でもいいけど・・・一つだけ約束して、ジョルジュ。
 コトゥレッル 何を?
 ガブリエッル あの人にわざわざ会おうとしないこと。それから、散歩でたまたま見かけたら、避けようとしないこと。
 コトゥレッル ああ、それは安心していい。僕は見られたくないよ、こんなに老けてしまったこの姿はね。
(ガブリエッル、げらげらっと笑う。)
 コトゥレッル えっ? 何か可笑しい?
 ガブリエッル 老けた蝶々、それが可笑しかったの。
 コトゥレッル(パイプを詰めながら。)蝶々か・・・蝶々は老けない。綺麗なまま死ぬんだ・・・
                  (幕)


平成十八年(二00六年)十一月二十八日 訳了
 


 この芝居 (Belette) は一九五八年九月二十二日、ポストナショナルフランス(三)座で初演された。配役は次。

Gabrielle Cotterel Agnes di Veraldi
Helene Aubier Isabelle Anderson
Georges Cotterel Jean Daguerre


http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html