晩春


      監督 小津安二郎
      原作 広津和郎  
      脚本 野田高梧  
         小津安二郎  
          曾宮周吉 笠 智衆  
            紀子 原 節子
          田口まさ 杉村春子
            勝義 青木放屁
          服部昌一 宇佐美淳
          北川アヤ 月丘夢路
          小野寺譲 三島雅夫
            きく 坪内美子
           美佐子 桂木邦子
          三輪秋子 三宅邦子
          林 清造 谷崎 純
            しげ 高橋豊子
   「多喜川」の亭主    清水一郎

  1 北鎌倉の駅
晩春の昼さがり――
空も澄んで明るく、葉桜の影もようやく濃い。下り横須賀行の電車は、ここのホームを出はずれると、すぐ円覚寺の石段前にさしかかる。

  2 円覚寺の参道
杉木立の間をその電車が通過する。

  3 同境内
今日は月例の茶会の日である。参会の女客がゆく。二人、三人――

  4 庫裡(くり)の一室(控えの間)
客がボツボツ集まって来る。
曽宮紀子(二十七)が来て、すでに来合せている叔母の田口まさ(四十九)と並んですわる。
 紀子「叔母さん、お早かったの?」
 まさ「ううん、ほんの少し前――今日はお父さんは?」
 紀子「内でお仕事、昨日までの原稿がまだ出来なくて」
 まさ「そう――(紀子の帯を軽く直してやりながら)ねえ、叔父さんの縞のズボン、ところどころ虫が食っちゃったんだけど、勝義のに直らないかしら?」
 紀子「でもブーちゃん、縞のズボン穿いたらおかしかない?」
 まさ「なんだっていいのよ。膝から下切っちゃって、どう?」
 紀子「そりゃ直るでしょうけど」
 まさ「やってみてよ(と風呂敷包みを出し)これ」
 紀子「アラ、持ってらしったの?」
 まさ「ちょこちょこッとでいいの、どうせすぐ駄目にしちゃうんだから。(と渡して)お尻ンとこ二重にしといてね」
 紀子「ええ」
三輪秋子(三十八)が来る。身についた気品――
 まさ(身迎えて会釈する)「お先に――」
秋子、会釈を返し、間に人をへだててすわる。
 まさ「またご一緒かと思って、ちょっと新橋でお待ちしてみたんですけど・・・」
 秋子「ひと電車おくれまして・・・」(と、しとやかに礼を返す)
と内弟子が来て、
 「お待たせ致しました。皆さまどうぞ――」
で、一同立ってゆく。

  5 静かな寺内
庭のつつじが陽に映えて、鴬の声も長閑(のどか)である。

  6 茶室
しずかにお点前が始まっている。秋子を正客に四、五人――
ほかの者は、まさも紀子も、つつましく次の間に控えて、お点前を見ている。
正客としての秋子の端麗な姿――

  7 寺庭
日ざしも長閑に、鴬の声がつづいている。

  8 鎌倉 曽宮家の庭
ここにも長閑な日があたって――
鴬の声・・・

  9 室内
紀子の父の周吉(東大教授、五十六)が老眼鏡をかけて原稿を書き、助手の服部昌一(三十五)が、その清書を手伝って、洋書の人名辞典を引いている。
 周吉「ないかい?」
 服部「――(指でたどって)ああありました、フリードリッヒ・リスト、やっぱり Z はありませんね、LIST ・・・」
 周吉「そうだろう? LISZT のリストは音楽家の方だよ」
 服部(辞典を読みながら呟く)「――一八一一年から一八八六年・・・」
裏口の鈴が鳴って――
 声「電灯会社です、メートル拝見します」
 周吉(書きつづけながら)「ああどうぞ」
 声「踏台貸して下さい」
 周吉「ああ」(と立ちかかる)
 服部「どこです」
 周吉「廊下の突き当たりにあるんだがね、すまんね」
 服部「いいえ・・・」
と立ってゆく。
で、周吉がひとり書きつづけていると、やがて戻ってきて――
 服部「先生、リストっていうのは殆ど独学だったんですね」
 周吉(書きつづけながら)「ああ、それでいて歴史派の経済学者としちゃたいしたもんだったんだ、官僚主義がたいへん嫌いな男でね」
服部もペンを取る。
 声「三キロ超過です。ここへ置いときます」
 服部「ああご苦労さん・・・」
電灯屋の出てゆく鈴音。
 周吉「今までのとこ、何枚ぐらいになるかな」
 服部(数えて)「十三枚ですね」
 周吉「そうか、あと六、七枚だね」

  10 家の表
紀子が帰って来る。這入る。

  11 室内
紀子が這入って来る。
 紀子「ただ今――あ、服部さん、いらっしゃい」
 服部「や、お邪魔してます」
 紀子(その手元をのぞいて)「ああ、お清書? すみません、助かったわ」
 服部「いやア・・・」
 周吉「叔母さんは?」
 紀子「今日はおいそぎなんですって、まっすぐお帰りになったわ」
 周吉「お茶入れとくれよ」
 紀子「はい――服部さん、ゆっくりしていいんでしょう?」
 服部「いや、今日はおいとまします」
 紀子「いいじゃないの、明日だったらあたしも一緒に東京へゆくわ」
 周吉「なんだい東京・・・?」
 紀子「病院・・・それからお父さんのカラーも買って来たいし・・・」
と別室へ去る。
周吉と服部、また書きつづけながら――
 服部(ふと思い出して)「あ、先生、いつかの麻雀、嶺上開花(りんしゃんかいほー)、やっぱり自模(つも)の点はつかないんだそうですよ」
 周吉「そうかい(と向き直って)じゃ八本十六本だね」
 服部「ですから、やっぱりトップは僕だったんですよ」
 周吉「ふウん――(呼ぶ)おい、紀子・・・」
セーターに着替えた紀子が出て来る。
 周吉「清(せい)さんいないかな」
 紀子「何かご用?」
 周吉「ちょいと見といでよ、一圏(イーチャン)やろう」
 紀子「もうお書けになったの?」
 周吉「あと少しなんだ」
 紀子(笑って)「駄目よ」
と台所の方へ去る。
 周吉「おい!」
返事がない。
 周吉「おい! ――おいッ!」
で紀子が顔を出すと、
 周吉(癇癪声で)「お茶お茶ッ!」
紀子、笑って引込む。服部、微笑して清書をつづけ、周吉も再び机に向う。

  12 翌日 鎌倉駅のホーム
上り東京行の電車が出たばかりで――駅員が水を撒いている。
時計――十時三十八分あたり。

  13 亀ヶ谷トンネル附近
上り電車が驀進してゆく。
そしてトンネルを出ると――

  14 三等車内
混んだ中に周吉と紀子が立って揺られている。
 周吉「お前、原稿持って来てくれたね?」
 紀子「ええ、だいじょうぶ」

  15 驀進する電車
流れ去る架線――流れ去る沿線風景――丘陵地帯を過ぎ、横浜地区を過ぎ、更に鶴見、川崎を過ぎて――

  16 車内
周吉が腰かけ、紀子が立っている。
 周吉「おい、代ってやろうか」
 紀子「ううん、いいわ、だいじょうぶ」

  17 驀進する電車
六郷の鉄橋を越え、品川を過ぎて、浜松町附近。

  18 車内
紀子も周吉と並んで腰かけて、本を読んでいる。
 紀子(本を閉じて)「お父さん、今日お帰り、いつもとおんなじ?」
 周吉「ああ、教授会でもなけりゃね」
で、紀子は本を買物袋にしまう。
 周吉「気をつけてな」
 紀子「ええ」

  19 新橋駅のホーム
電車が這入って来る。

  20 有楽町附近の高架線(俯瞰)
電車の去来――都心的な雰囲気――

  21 銀座の舗道
紀子が歩いて来る。
と、そこのショウ・ウインドーを中老の紳士がのぞいている。周吉の親友小野寺譲(京大教授・五十五)である。
 紀子(通りすがりに気がついて)「小父さま――」
 小野寺「あ、紀ちゃんか――」
 紀子「いつ出てらしったの?」
 小野寺「昨日の朝来たんだよ――肥ったね、紀ちゃん」
 紀子「そうですか」
 小野寺「どこ行くんだい」
 紀子「買いもの」
 小野寺「じゃ一緒に行こうか」
 紀子「小父さま、ご用は?」
 小野寺「イヤ、もういいんだ」
と一緒に歩き出して――ふと、そこに張られたポスターに目を止める。
 小野寺「ああ、やってるんだね春陽会――行ってみないか」
 紀子「あたし、ミシンの針買いたいんだけど・・・」
 小野寺「どこだい、行こう行こう」

  22 春陽会のポスター

  23 上野の美術館
その入口の丸柱、等々、描写一、二――

  24 公園の街路灯
それに灯がつく。

  25 小料理屋「多喜川」
小野寺と紀子が鍋前に腰をおろしている。
箸と盃、つまみものなど。
 小野寺「疲れたろう」
 紀子(首を振って)「でも行ってよかったわ、あたし上野ひさしぶりよ」
 小野寺「だけど、なんだね、ひどい奴がいるもんだねえ、西郷さんの頭にとまってる鳩を、空気銃で打ってる奴がいたじゃないか、あれじゃまるでウィリアム・ハトだ」
紀子、クスクス笑う。
お燗がつく。
 亭主「お待遠さま(と出して)昨晩重野先生がおみえになりました」
 小野寺「そう、重野まだいたの」
 亭主「なんですか、今朝の急行でお帰りになるとか・・・」
 小野寺「そう――あ、これ曽宮の娘だよ」
 亭主「あ、そうですか――大へんお立派におなりになって・・・アノ、西片町のころお河童になすってらしたお嬢さんでしょう?」
 小野寺「ああ、そうだよ」
 亭主「そうですか、こりゃどうも・・・(と会釈して)先生に毎度ごひいきになっております。(と挨拶しながら、そこへ這入って来た客を迎える)あ、いらっしゃい」
 小野寺「紀ちゃん、どうだい一つ――」
 紀子「あたし頂かないの」
 小野寺「じゃ何か貰おうか、先ご飯にするかい?」
 紀子「まだいいわ、お酌してあげましょう」
 小野寺「そうかい(と紀子に徳利を渡しながら、亭主の方へ)何か貰おうか」
 亭主「はい、只今」
 小野寺(お酌をしながら)「ねえ小父さま――」
 小野寺「うむ?」
 紀子「小父さまねえ――」
 小野寺「なんだい」
 紀子「奥さまお貰いになったんですってね?」
 小野寺「ああ貰ったよ」
 紀子「美佐子さんお可哀そうだわ」
 小野寺「どうして」
 紀子「だって・・・やっぱり変じゃないかしら」
 小野寺「そうでもなさそうだよ、うまくいってるらしいよ」
 紀子「そうかしら――でも何だかいやねえ」
 小野寺「何が? 今度の奥さんかい?」
 紀子「ううん、小父さまがよ」
 小野寺「どうして」
 紀子「何だか――不潔よ」
 小野寺「不潔?」
 紀子「きたならしいわ」
 小野寺「きたならしい――(笑って)ひどいことになったな、きたならしいか・・・(とそこのお絞りを取って顔を拭き、突き出して)どうだい?」
 紀子「駄目駄目」
 小野寺「そうかい、駄目かい、そりゃ困ったな」
 紀子(笑いながら徳利を取って)「はい」(とさす)
 小野寺(受けながら)「そうかい、不潔かい」
 紀子「そうよ!」
 小野寺「そりゃ弱ったな」

  26 夜 鎌倉 曽宮の家
周吉がひとりで外字雑誌を読んでいる。
表戸のあく音。――
紀子が這入って来る。
 紀子「ただ今――お客さまよ」
 周吉「誰?」
小野寺が這入って来る。
 小野寺「やア――」
 周吉「よウ!」
 小野寺「寄らないで帰ろうと思ったんだけど、銀座で紀ちゃんに逢ってね」
 周吉「今度は何だい」
 小野寺「また文部省だよ」
 紀子「お父さん(買物袋から手袋を出して)お土産――」
 周吉「ああ、これどこにあったい」
 紀子(小野寺と顔を見合わせて微笑しながら)「家中さがしてもない筈よ」
と折詰を出して置く。
 周吉「ああ、多喜川か――行ったのかい」
 小野寺「今日は紀ちゃんをすっかりつき合わさしちゃったよ」
 紀子「小父さま、もっとお召し上りたいんでしょ? お酒――」
 小野寺「ああ、いいね」
 周吉「あるのかい?」
 紀子「ええ」
 小野寺「熱くしてね」
 紀子「はい」
と行きかけるのへ、
 周吉「お前、どうだったい、血沈――?」
 紀子「十五に下ったわ」
 周吉「そうかい、そりゃよかった」
で、紀子が去ると――
 小野寺「もうすっかり元気だな」
 周吉「うん」
 小野寺「やっぱり戦争中海軍なんかで働かされたのがたたったんだね」
 周吉「その上、たまの休みには買出しで、芋の五、六貫目も背負って来たからな」
 小野寺「ひどかったな――いたむわけですよ」
紀子がお盆に箸や盃、蓋物、小皿などをのせて運んで来る。
 周吉(折詰を開きながら)「京都の方、みんなお達者かい、奥さん・・・」
 小野寺「ああ――どうも悪いもの貰っちゃったよ」
 周吉「何が?」
 小野寺「いやア、紀ちゃんに大へん不潔扱いされちゃってね」
 周吉「誰が?」
 小野寺「おれがだよ、きたならしいって云われちゃったよ、ねえ紀ちゃん――」
 紀子「そうよ」
と微笑を残して去っていく。二人とも明るく哄笑する。
 周吉「美佐ちゃん、元気かい」
 小野寺「ああ、あいつもね、どこで聞いて来たのか、結婚は人生の墓場なりなんて云やがってね、二十四まではお嫁にいかないって云やがるんだよ」
 周吉「ふウん」
 小野寺「そう云われりゃ、成る程そんな気もするしね、まあ、仕様がないと思ってるんだよ――紀ちゃんどうなんだい」
 周吉「うーむ、あいつもそろそろなんとかしなきゃいけないんだがね・・・」
紀子がお銚子を持って来る。
 周吉(受取って)「少しぬるいな」
 紀子「じゃ・・・」
 周吉「あとの熱くして――」
 紀子「はい」(と立ってゆく)
 小野寺「ここ、海近いのかい」
 周吉「歩いて十四、五分かな」
 小野寺「割に遠いんだね、こっちかい海」
 周吉「イヤこっちだ」
 小野寺「ふウん――八幡様はこっちだね?」
 周吉「イヤこっちだ」
 小野寺「東京はどっちだい」
 周吉「東京はこっちだよ」
 小野寺「すると東はこっちだね」
 周吉「いやア、東はこっちだよ」
 小野寺「ふウん、昔からかい」
 周吉「ああそうだよ」
 小野寺「こりゃア頼朝公が幕府を開くわけですよ、要害堅固の地だよ」

  27 渚に打ち寄せる波
七里ヶ浜である。遠く江ノ島が見える。

  28 海に沿うドライブ・ウエイ
微風を切って、爽やかに自転車を走らせてゆく紀子と服部――
 服部「大丈夫ですか、疲れませんか?」
 紀子「ううん、平気よ」

  29 砂丘
乗り捨ててある二人の自転車。

  30 その近く
砂の上に腰をおろしている二人――
 紀子(明るく)「じゃ、あたしはどっちだとお思いになる?」
 服部「そうだな・・・あなたはヤキモチなんか焼く人じゃないな」
 紀子(微笑して)「ところがヤキモチヤキよ」
 服部「そうかなア」
 紀子「だって、あたしがお沢庵切ると、いつだってつながってるんですもの」
 服部「そりゃアしかし包丁と俎板の相対的な関係で、沢庵とヤキモチの間には何ら有機的な関連はないんじゃないですか?」
 紀子「それじゃお好き、つながったお沢庵――?」
 服部「たまにはいいですよ、つながった沢庵も――」
 紀子「そう?」(と微笑)

  31 東京 田口の家 茶の間
周吉が来ている。まさが紋服をたたんでタトウに包みながら話している。
 まさ「昔からみりゃ、近頃の若い人は随分変ったもんよ――ゆうべのお嫁さんなんか、相当お里もいいんだけど、出てくるご馳走はあらまし食べちゃうしお酒ものむのよ」
 周吉「ふウむ」
 まさ「真ッ紅な口して、おサシミぺろッと食べちゃうんですもの、驚いちゃったわ」
 周吉「そりゃ食うさ、久しく無かったんだもの」
 まさ「だって、あたしなんか胸が一ぱいで、お色直しの時おムスビ一つ食べられなかったもんよ」
 周吉「今なら食べるよお前だって」
 まさ「まさか――でも、なってみなきゃわからないけど・・・」
 周吉「そりゃ食うよ」
 まさ「そうかしら」
 周吉「そりゃ食うよ」
 まさ「そうねえ、でもおサシミまでは食べないわよ」
 周吉「イヤ食うよ」
 まさ「そうかしら」
 周吉「そりゃ食うよ」
 まさ「――でも、メソメソされるのも困るけど、ああシャアシャアと行かれちゃうんじゃ、親だって育て甲斐がないわねえ・・・」
 周吉「そりゃまアご時世で仕様がないさ」
 まさ「紀ちゃんどうなの?」
 周吉「あれだってメソメソなんかしやしないよ」
 まさ「いいえさ、お嫁の話よ――もう身体の方もすっかりいいんでしょう?」
 周吉「ああ、あおりゃいいんだがね・・・」
 まさ「ほんとなら、もうとうに行ってなくちゃ・・・」
 周吉「ウム・・・」
 まさ「あの人なんかどうなの、ほら――」
 周吉「誰だっけ」
 まさ「兄さんの助手の・・・」
 周吉「ああ、服部かい?」
 まさ「どうなの、あの人なんか」
 周吉「ウム、――いい男だがね、紀子がどう思ってるか・・・なんともなさそうだよ、大へんあたりまえに、アッサリつきあってるようだがね」
 まさ「そうよ、そういうもんよ、今時の若い人達ですもの」
 周吉「そうかね」
 まさ「そりゃわからないわよ、そんなこと、おなかンなかで何を思ってるか」
 周吉「そうかねえ」
 まさ「一度聞いてごらんなさいよ」
 周吉「誰に?」
 まさ「紀ちゃんによ」
 周吉「なんて?」
 まさ「服部さんをどう思うって」
 周吉「なるほどね・・・じゃ聞いてみようか」
 まさ「そうよ、そりゃわからないもんよ」
 周吉「うむ」
 まさ「案外そんなもんよ」
 周吉「うーむ・・・」(と考える)

  32 夕方 鎌倉 曽宮の家の表
周吉が帰ってくる。

  33 玄関
周吉、這入って来る。
 周吉「ただ今――」
 紀子「お帰んなさい(と夕食の仕度中らしい様子で現れて)お早かったのね」
 周吉「うむ」
と紀子にカバンを渡す。

  34 茶の間
お膳の仕度がしてある。
紀子が来る。つづいて周吉――
 周吉「叔母さんとこで奈良漬貰って来た、カバンにはいってる」
 紀子「そう(とカバンから出し、机の上の葉書を取って)二十八日ペン・クラブですって――」(と渡す)
 周吉(受取って)「ああ、カントリー・クラブでやるのか、今度は――」
 紀子「今度の土曜日よ」
 周吉「うん」
 紀子「うち、服部さんいらしったのよ」
 周吉(と見て)「いつ?」
 紀子「お昼ちょっと過ぎ――すぐご飯召し上がる?」
 周吉「ああ」
 紀子「散歩に行ったのよ、自転車で」
 周吉(明るく)「服部とかい?」
 紀子「いい気持だったわ、七里ヶ浜――」
と云い捨てて台所の方へ去る。
周吉、何か心たのしく、上衣とズボンをぬいで、台所の方へ出てゆく。

  35 中廊下
周吉が来ると、出合い頭に紀子が台所から鍋を持って出て来る。
 周吉「服部、なんだって?」
 紀子「ううん、別に・・・」
と茶の間へ這入ってゆく。
で、周吉はそのまま突き当たりの洗面所へゆく。

  36 洗面所
そこで手を洗いながら――
 周吉「紀子、タオル――」
紀子がタオルを持って来て、
 紀子「はい」
と渡すと――
 周吉「自転車、二人で乗っていったのかい?」
 紀子「まさか――借りたのよ、清さんのとこのを」
と台所へ去り、お櫃を持って茶の間へゆく。

  37 茶の間
紀子、お櫃をそこへ置くと、脱ぎ捨てられた服を片づける。
周吉が戻って来る。
紀子が着物を着せかけてやる。
 周吉「シャボン、もうないぞ――帯・・・」
 紀子「はい」(と帯をとって渡す)
周吉、食卓の前にすわる。
 周吉「今日はよかったろう、七里ヶ浜」
 紀子「ええ――(と向い合ってすわりながら)茅ケ崎の方まで行っちゃったのよ」
 周吉「そうかい」
で、紀子はご飯をつけ、周吉もおつゆをよそう。
 紀子(ご飯を渡しながら)「なんだか黒いもの・・・」
 周吉「うむ――(そして食事を始めながら)お前、服部さんどう思う?」
 紀子「どうって?」
 周吉「服部だよ」
 紀子「いい方じゃないの」
 周吉(黙々と食事をつづけながら)「ああいうのは、亭主としてどうなんだろう?」
 紀子「いいでしょう屹度」
 周吉「いいかい」
 紀子「やさしいし・・・」
 周吉「そうか・・・そうだね」
 紀子「あたし好きよ、ああいう方」
 周吉「ふウン――叔母さんがね、どうだろうっていうんだけど・・・」
 紀子「何が?」
 周吉「お前をさ、服部に」
紀子、途端に吹き出しそうになり、茶碗と箸を置いて、笑いを忍ぶ。
 周吉「なんだい?」
 紀子「お茶・・・お茶頂戴・・・」
 周吉(お茶をついでやりながら)「どうしたんだ」
 紀子「だって、服部さん、奥さんお貰いになるのよ、もうとうからきまってるのよ」
 周吉「――そうか・・・」
 紀子「とても可愛い綺麗な方――第一あたしより三ッ年下の・・・」
 周吉「――そうか・・・」
 紀子「いずれお父さんにもお話あるわよ、その方よく知ってるのよ、あたし――」
 周吉「そうか・・・」
 紀子「お祝い何あげようと思ってるんだけど・・・」
 周吉「そうかい・・・結婚するのか、服部・・・」
 紀子「ねえ、何がいい?」
 周吉「うーむ・・・きまってたのかい、お嫁さん・・・」
食事をつづける二人。

  38 銀座の舗道
風景一、二――

  39 喫茶店
明るく向い合っている紀子と服部――
 紀子「ねえ、何がいいの?」
 服部「そうですね・・・」
 紀子「どんなもの?」
 服部「そりゃ先生から頂くんなら、何か記念になるものがいいな」
 紀子「せいぜい二、三千円までのものよ、高くて」
 服部「何がいいかな」
 紀子「ある? そんなもの――」
 服部「ありますよ、考えますよ」
 紀子(ニッコリして)「お二人でね」
 服部「そうしましょう」
 紀子「まア・・・」
 服部「ね、紀子さん、巖本真理のヴァイオリン聴きに行きませんか」
 紀子「いつ?」
 服部「今日、切符があるんですがね」
 紀子「いいわね」
服部、切符を二枚出して、見せる。
 紀子(微笑して)「これ、あたしのために取って下すったの?」
 服部「そうですよ」
 紀子「ほんと?」
 服部(微笑して)「ほんとですよ」
 紀子「そうかしら――でもよすわ、恨まれるから」(と返す)
 服部「いいですよ、行きましょうよ」
 紀子「いやよ」
 服部「恨みませんよ」
 紀子「でもよしとくわ」
 服部(微笑して)「繋がってますね、お沢庵」
 紀子(明るく)「そう、包丁がよく切れないの」

  40 劇場の廊下
開演中で、ヒッソリと静まり、ただ扉の前に女給仕が佇んでいるだけである。
場内から聞えるヴァイオリン・ソロ――

  41 場内
服部がそのヴァイオリン・ソロに聴き入っている。
隣の席があいている。

  42 黄昏の丸の内の舗道
(ヴァイオリン・ソロをここまでかぶせて――)なんとなく寂しそうに、紀子が一人で歩いている・・・。

  43 夜 鎌倉 曽宮の家 茶の間
周吉がひとり夕刊を読んでいる。
表の戸があく。
 女の声「こんばんは――」
 周吉「誰?」
 女の声「小父さま?」
 周吉「アヤちゃんか」
 女の声「ええ」
で、周吉が立ってゆくと――

  44 玄関
紀子の同窓の北川アヤ(二十七)が訪ねて来ている。
 周吉「ああ、お上りよ」
 アヤ「ええ――紀ちゃんは?」
 周吉「もう帰ってくるよ、まアお上り」
 アヤ「ええ」

  45 茶の間
周吉、来て、座蒲団を敷く。アヤが這這入って来る。
 アヤ「こんばんは――」
 周吉「さ、こっちへおいでよ」
 アヤ「葉山の姉のとこへ行ったもんですから・・・」
 周吉「ああそう――アヤちゃん、近頃盛んなんだってね」
 アヤ「何がですの?」
 周吉「なかなかいそがしいんだっていうじゃないか」
 アヤ「そうでもありませんわ」
 周吉「ひっぱり凧なんだって? タイピスト――」
 アヤ「タイピストっていうんじゃないのよ。ステノグラファーよ」
 周吉「ああそうか、そりゃ失礼――じゃ英語の速記もやるんだね?」
 アヤ「やるわよ」
 周吉「偉いんだね」
 アヤ「偉くもないけど・・・」
 周吉「イヤ偉いよ――もう小遣いには困らないね」
 アヤ「まアまアね」
 周吉「その後、あれかい、お父さんお母さん、なんともおっしゃらないかい?」
 アヤ「何を?」
 周吉「お嫁の話――」
 アヤ「ええ、ここんとこ暫く――いいあんばい」
 周吉(微笑して)「一度で懲々(こりごり)かい?」
 アヤ「何? 結婚?」
 周吉「うん」
 アヤ「そうでもないけど・・・」
 周吉「なんとか云ったね?」
 アヤ「誰?」
 周吉「ほら、前の――」
 アヤ「ああ、健?」
 周吉「ああ、謙吉君か――逢わないかい、その後」
 アヤ「ええ、一度も」
 周吉「逢ったら、アヤちゃん、どうする?」
 アヤ「睨みつけてやるわ」
 周吉「そんなにイヤかい」
 アヤ「逃げ出しちゃうわ、とっても嫌い」
 周吉「そうかね」
表の戸があく。
 紀子「ただ今――」
 アヤ「お帰んなさい!」
と勢いよく立上ろうとするとシビレがきれている。
 周吉「どうしたい?」
 アヤ「シビレきれちゃって・・・」
紀子が這這入って来る。
 紀子(明るく)「ああ、来てたの、アヤ――(周吉に)ただ今」
 周吉「ああお帰り」
 アヤ「お父さまと懇談しちゃった」
 紀子「泊ってくんでしょ?」
 アヤ「うん」
 紀子「二階行かない?」
 周吉「お前、ご飯は?」
 紀子「いいの、お父さんおすみになったんでしょう?」
 周吉「うん、おれは食った」
 紀子「じゃ・・・」
と会釈して出てゆく。

  46 階段
二人、上ってゆく。

  47 二階
二人、来る。
 アヤ「紀子、こないだのクラス会、どうして来なかったの」
 紀子「大勢来た?」
 アヤ「十四、五人――椿姫も来たわ」
 紀子「ああ村瀬先生もいらしったの? 相変わらず口角泡を飛ばしてた?」
 アヤ「うん、ツバキだらけ。それが紅茶に這入るのよ、だから、まわりの人だアれも飲まないの。あたしは遠くにいたから飲んだけど――」
 紀子「あの人来た? ほら――」
 アヤ「誰?」
 紀子「学校出てすぐお嫁に行った――」
 アヤ「ああ池上さん? 来たわ――ずるいのよ、あの人、椿姫がお子さんおいくたり? って聞いたら、三人でございます、って澄ましてるの、ほんとは四人いるのよ、一人サバよんでるの」
 紀子「もう四人?」
 アヤ「うん、そうなのよ――それからスケソーダラね――」
 紀子「ああ、篠田さん?」
 アヤ「うん、あの人放送局やめてお嫁に行くんだって」
 紀子「どこへ?」
 アヤ「三河島第一班――」
 紀子「ほんと?」
 アヤ「なんとなくそんな気がするじゃないの?」
で二人が面白そうに笑っていると、襖があいて周吉がパンと紅茶の仕度をして持って来る。
 紀子「あ、どうも・・・」
 周吉「パンに紅茶だ」
 アヤ「小父さま、すみません」
 周吉「いや――これでいいのかな」
 紀子「あ、お砂糖がない・・・」
 周吉「ああそうか」(と戻りかける)
 紀子「お父さん、いいのよ、あたし取りに行きますわ」
 周吉「そうかい、じゃお父さん先に寝るよ。アヤちゃん、おやすみ」
 アヤ「おやすみなさいませ」
 紀子「おやすみ・・・」
 周吉「おやすみ」
周吉、出ていく。
 紀子「食べる? パン」
 アヤ「もっとあとで――ちょいと、スプーンもないじゃないの?」
 紀子「そうなのよ――あの人来てた? 渡辺さん・・・」
 アヤ「あ、クロちゃん来なかった。あの人今これなんだって、ラージポンポン。七ケ月・・・」
 紀子「ふウん、あの人いつお嫁にいったの?」
 アヤ「まだいかないのよ」
 紀子「まあいやだ」
 アヤ「いやだって仕方がないわよ、すべては摂理よ、神様の・・・もうあんたと広川さんだけよ、お嫁に行かないの」
 紀子(平然と)「そお?」
 アヤ「いつ行くのよ、あんた」
 紀子「行かないわよ」
 アヤ「行っちゃいなさいよ早く」
 紀子「いやよ」
 アヤ「行っちゃえ行っちゃえ」
 紀子「何云ってんのよ。あんた、そんなこと云う資格ないわよ」
 アヤ「あるわよ。大ありよ」
 紀子「ないない、出戻り!」
 アヤ「あるある! まだワン・ダンだ! これからよ、ヒット打つの」
 紀子「あんた、まだヒット打つつもり?」
 アヤ「そうよ。第一回は選球の失敗だもの、今度はいい球打つわよ。行っちゃいなさい、あんたも早く!」
 紀子「・・・」(呆れ顔で笑っている)
 アヤ「何笑ってんのよ! 真面目な話よ」
 紀子「ねえちょいと、パン食べない?」
 アヤ「パン、あとあと」
 紀子「お腹すいちゃった・・・」
 アヤ「すいてもいいの!」
 紀子「じゃ、あたしだけ食べる」(と立つ)
 アヤ(慌てて)「あたしも食べるんだ、実は」
 紀子「仕度してくるわね」(と行く)
 アヤ「ジャムない?」
 紀子「ある」
 アヤ「持って来て、少し」
 紀子「どっさり、実は」
 アヤ「そう」
と、紀子出てゆく。

  48 階下の部屋
暗い――。紀子がおりて来て電灯をひねり、足音をひそめて台所の方へ去る。
空っぽの部屋で時計が十二時を打つ。

  49 東京 焼跡の空き地
子供たちが三角野球をやっている。

  50 田口家の子供部屋
まさの息子の勝義(愛称ブーちゃん、十二)が何か不機嫌な顔でグローヴに油を塗っている。
紀子が相手になっている。
 紀子「ブーちゃん・・・」
 勝義「・・・」(返事もしない)
 紀子「ブーちゃん、どうして野球しないの? 喧嘩でもしたの?」
 勝義「・・・」(まだムッツリしている)
 紀子「何おこってんのよ」
 勝義「乾かないんだよ、エナメル」
 紀子「何のエナメル」
 勝義「バットだよウ」
見ると、エナメルを塗ったバットが机の上に立てかけて、乾かしてある。
 紀子「ああ、赤バットにしたのね」
 勝義(突慳貪(つっけんどん)に)「そうだよウ」
 紀子「アラアラ、廊下エナメルだらけにして、おこられるわよ! お母さんに!」
 勝義「もうおこられちゃったい!」
 紀子「泣いたんだろ」
 勝義「泣きゃしないやい! あっち行け、ゴムノリ!」
 紀子「なんだいブー! 泣いたくせに!」
 勝義(いきなり、油のグローヴを突き出して)「くっつけちゃうぞ、あっち行けエ、ゴムノリ!」
紀子がハッと身を避けると、そこへ襖があいて、まさが顔を出す。
 まさ「紀ちゃん――」
 紀子(ふり返って)「お客様お帰りになって?」
 まさ「いまお帰りになるとこ。ちょいと来てよ」

  51 玄関
三輪秋子が土間にたたずんでいる。
まさと紀子が来る。
 まさ「アノ、これ曽宮の紀子です。こちら三輪さん――」
 紀子「・・・」(しとやかにお辞儀する)
 秋子「三輪でございます、いつも北鎌倉で・・・」
 紀子「はあ・・・」(と会釈)
 秋子(改めてまさに)「どうも大へんお邪魔してしまって――」
 まさ「いいえ、どういたしまして」
 秋子(紀子に)「では、いずれまた」
 紀子「はあ・・・」
 秋子「ごめん下さいませ」
 まさ「失礼申し上げました」
で、秋子が帰っていくと――
 まさ「紀ちゃん、ちょいと」
と先に立って奥へ――。

  52 茶の間
まさと紀子が来る。
 まさ「ちょいとそこへすわってよ」
 紀子(すわりながら)「何、叔母さん――?」
 まさ「ううん、ね、あんたもそろそろお嫁に行かなきゃならない時だし・・・」
 紀子「ああ、そのこと? いいのよ、叔母さん」
と立ちかかる。
 まさ「よかないわよ、おすわんなさいよ」
 紀子「――?」(再びすわる)
 まさ「実はいい人があるんだけど、一度あんた会ってみない?」
 紀子「・・・」
 まさ「佐竹さんって、東大の理科出た人で、おうちは伊予の松山の旧家なの、いま丸ノ内の日東化成にお勤めでね、その方のお父さんも戦争前まではそこの重役してらしったの。年も三十四で、あんたとはちょうどいいし、会社でもとても評判のいい人なのよ。どお?」
 紀子「・・・」
 まさ「ほら、なんてったっけ、アメリカの・・・」
 紀子「――?」
 まさ「こないだ来た野球映画のさ、あの男・・・」
 紀子「ゲーリー・クーパー?」
 まさ「そうそう、クーパーか、あの男に似てるの、口元なんかそっくりよ」
 紀子「・・・」(笑っている)
 まさ(自分の額から上を手でさえぎって)「この辺から上違うけど・・・」
紀子、クスクス笑う。
 まさ「ねえ、一度会ってみない? ほんとに立派ないい人よ」
 紀子「・・・」
 まさ「ねえ、どお?」
 紀子「あたしまだお嫁に行きたくないの」
 まさ「まだってあんた、どうしてさ」
 紀子「どうしてって・・・あたしがお嫁に行くと困るのよ」
 まさ「だれが?」
 紀子「お父さんよ、あたしは馴れてるから平気だけど、あれで変に気むずかしいところもあるの。あたしがいなくなると、お父さん屹度困るわよ」
と立って縁側へ出る。
 まさ「困るったって仕様がないわよ」
 紀子(縁側の椅子に腰かけて)「だけどお父さんのこと、あたしが一番よく知ってるのよ」
 まさ「でも、お父さんはお父さんのこととして、あんたはどうなのさ?」
 紀子「あたしそれじゃいやなの」
 まさ「そんなこと云ってたら、あんた一生お嫁に行けやしないよ」
 紀子「それでいいの」
で、言葉が途絶える。
 まさ「――ねえ紀ちゃん、さっきの三輪さんねえ・・・」
 紀子「――?」
 まさ「お父さんにどう?」
 紀子「どうって?」
 まさ「あんたがいなくなりゃ、お父さんも困るだろうし・・・」
 紀子(じっと見返して)「――?」
 まさ(つづけて)「どうせ誰かに来て貰うんなら、あの人なんかどうかしら――ちょいと、も一度ここへ来てすわってよ」
紀子、立ってゆく。
 まさ「あの人も、いいお宅の奥様だったんだけど、旦那さま亡くして、子供さんもいないし、気の毒な人なのよ。ねえ、どうかしら? ――しっかりした人だし、好みもいいし・・・」
 紀子(真剣な顔で)「そのお話、お父さん知ってらっしゃるの」
 まさ「こないだ、ちょっと話してみたんだけど・・・」
 紀子「お父さん、なんておっしゃって?」
 まさ「フンフンってパイプ磨いてたけど、別にいやでもなさそうだった」
 紀子(急に不機嫌に)「だったらあたしにお聞きになることないわ」
 まさ「でも、あんたの気持も聞いときたいしさ、どう?」
 紀子(素ッ気なく)「いいんでしょ、お父さんさえよかったら」

  53 鎌倉 午後 線路ぎわの道
紀子がボンヤリ考えながら帰って来る。
線路を上り電車が轟然と通過してゆく。

  54 家の表
紀子、帰って来る。あけて這入る。

  55 家の中
縁側で、湯上がりの周吉が爪を切っている。
紀子が黙って部屋へ這入って来る。
 周吉「あ、お帰り。どうだったい、叔母さんとこ?」
 紀子(冷たく)「別に・・・」
 周吉「お風呂沸かしてもらったよ、いまちょうどいいよ」
紀子、答えず、茶の間へ這入ってゆく。
周吉、その様子を見て、気にして立ってゆく。

  56 茶の間
紀子が火鉢の前で考えている。
 周吉「おい・・・」
 紀子(振り向いて冷たく)「なに?」
 周吉「なんだったい、叔母さんとこ?」
 紀子「・・・」
 周吉「どうしたんだい」
 紀子「・・・」
 周吉「どうかしたのか」
紀子、答えず、スーッと立って出て行きかける。
 周吉「どこ行くんだい、おい」
 紀子(冷たく)「買いもの・・・」
と出てゆく。
周吉、不審げに見送る。

  57 家の表
紀子が買物籠を下げて出て来る。
力なく考えこみながら歩いて行く。

  58 明るい麻 鎌倉 竹薮の前の畑
隣家の主人、林清造(四十七)が野良仕事をしている。
――鴬の声――

  59 曽宮の家
縁側の近くで清造の女房しげ(四十四)が布巾を刺している。
表の戸があく。
 男の声「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」
しげ、立ってゆく。

  60 玄関
しげが出て来ると、服部が立っている。
 しげ「あれ、ま、今日はどなたさんもお留守でしたよ。皆さん朝からお出かけで」
 服部「ああ、そうですか」
 しげ「お能へ行くとかって、せえなすってね。出かけて行きなせいましたですよ」
 服部「ああそうですか。じゃ、お帰りになったらこれを――」
と風呂敷包みから、結婚祝いのお返しの品物を出し、それに写真を添えて差し出す。
 しげ「ああさいですか、かしこまりましたです」
 服部「お礼に伺ったと云って下さい」
 しげ「さいですか、お気の毒さんでしたよ」
 服部「いいえ、じゃ――」
 しげ「ごめんなせいまし」
服部、帰ってゆく。
しげ、品物を持って奥へ戻る。

  61 座敷
しげ、来て、品物を机の上へ置き、ふと、それに添えられた写真を取って見る。
服部の新婚写真である。
と、庭先きへ清造が来る。
 清造「ちっとべえ薪でも割っとくかな」
 しげ「ああ――なアあんた、見てみなよ、これ」
と写真を出す。
清造、縁側に乗り出してのぞく。
 清造「アレ、服部さんだな、これ」
 しげ「この人、紀子さんの旦那さんになるかと思ってたによ」
 清造「ほんとだ」
 しげ「うめえこと写すもんだね、そっくりだね、嫁さん別嬪だしよ」
 清造「うーむ」
と二人で見入っている。

  62 能楽堂
観劇中の周吉と紀子――大鼓小鼓の響き・・・。
周吉、謡本を見ながら、ふと向うを見て誰かに会釈する。
紀子、それで気がついて、その方を見ると――
向うの席に三輪秋子が来ている。
で、紀子も会釈する。
秋子もしとやかに黙礼を返す。
周吉はそのまままた謡本と舞台とに気を取られているが、紀子にしてみると、何か父と秋子との間のつながりが心にかかるので、またそれとなく秋子の方を見る。
舞台に見入っている綺麗な秋子の姿。
父もそれっきり秋子の方を見ないし、秋子も再び父の方を見ようとはしないが、しかし紀子だけは何か心が穏やかでない。
だんだん不愉快になってくる。
舞台では地謡が始まり、能がつづいている。

  63 帰りの路(戦災を受けた閑な邸町
周吉と紀子が来る。
紀子の胸には先刻のこだわりが重く残っている。
 周吉(淡々と)「――今日のお能はなかなかよかったよ・・・」
 紀子「・・・」
 周吉「多喜川でご飯でも食べて帰ろうか」
 紀子「・・・」
 周吉「どうする?」
 紀子(冷たくキッパリと)「あたしちょっと寄り道があるの」
 周吉(気軽に)「どこだい?」
 紀子(不機嫌に)「いいの」
 周吉(初めてその不機嫌に気がついて)「帰りはおそいのか?」
 紀子(冷たく)「わからない」
云い捨てると、紀子はそこの路を斜めに向う側へ小走りに横切ってゆく。
周吉、さすがに険しく見送る。

  64 向う側
そこまで来ると、紀子はまた考えながら歩く。

  65 こっち側
遠く向うに紀子の姿を見ながら、周吉もコツコツ歩いてゆく。

  66 洋館の一角
そこに夕陽があたって――

  67 北川邸の応接室
紀子が窓から庭を眺めてボンヤリたたずんでいる。その後姿が寂しい。
庭の芝生に仔犬が一ぴき嬉々として独り戯れている。
紀子、やがて力なく椅子に戻って腰をおろす。
アヤが元気よく這入って来る。
 アヤ「ごめんね、待たせて」
 紀子「ううん・・・」
 アヤ「ちょいと手が放せなかったのよ。ショートケーキこさえてたの。バニラ少し入れすぎちゃった。でもおいしいわよ(と前掛を取りながら)――あっちの部屋へ行かない?」
 紀子(曖昧(あいまい)に)「うん・・・」
 アヤ「さ、行こう!(と女中を呼んで、ドア口で女中に)あ、今のお菓子ね、あっちの部屋へ持って来て――」
と前掛けを投げ渡し、紀子の背を押して去る。
ウェストミンスターの時計が綺麗な音で時を打つ・・・。

  68 小ぢんまりした瀟洒な洋室
テーブルの上に紅茶の仕度がされ、ショートケーキが置いてある。
紀子とアヤが窓ぎわの椅子に着いている。
 アヤ「どうしてそんな気になったのさ――?」
 紀子(考えている)「・・・」
 アヤ「ねえ、どうして?」
 紀子(元気なく)「ただ、なんとなしに・・・」
アヤ、その様子を見て立ち、テーブルのショートケーキを持って来て、
 アヤ「食べない?」
 紀子「ね、むずかしいもの?」
 アヤ「何が?」
 紀子「ステノグラファーになるの」
 アヤ「そりゃ大してむずかしいもんじゃないわよ、あたしだってやってるんだもの――ねえ、食べない? おいしいわよ(とショートケーキを手渡して)――だけどあんた、今からそんなことしてどうするつもり? ――ねえ、どうするつもりなの?」
 紀子「だから、ただなんとなしに・・・」
 アヤ「なんとなしにやられちゃかなわないわよ!(そしてショートケーキを食べながら)あたしだって健があんな奴でなかったら、今時分こんなことしてやしないわ。出戻りでしきいが高いから始めたのよ。あんたなんかさッさとお嫁に行きゃいいのよ!」
 紀子「そんなこと聞いてやしないわよ!」
 アヤ「聞いてなくったって教えてあげるのよ!」
 紀子「教えてほしくないわ、そんなこと」
 アヤ「いいから只なんとなしに行っちゃいなさい!」
で、紀子は一旦手にしていた菓子皿をそのまま手もつけずに腹立たしげにポンと置く。
 アヤ「食べないの?」
 紀子「ほしくないの!」
 アヤ「お上んなさいよ!」
 紀子「食べたくないの!」
 アヤ「おいしんだったら!」
 紀子「沢山!」
 アヤ「何さ、これッくらい! あたしがこさえたんじゃないの、お上んなさいよ!」
 紀子「いやなの!」
 アヤ「何さヒス! いやならいいわよ!」
 紀子(言葉がグッと咽につかえる)「・・・」
 アヤ「だからあんた、早くお嫁に行きゃいいのよ」
紀子、黙って立ち上り、バンドバッグを手にとる。
 アヤ「どこ行くのよ」
 紀子「帰る」
 アヤ「帰る? ほんとに帰るの?」
 紀子「・・・」(行く)
 アヤ「あんた泊って行くんじゃなかったの? 泊ってらっしゃいよ」
と追って出ていく。あとに残されたショートケーキ。

  69 夜 鎌倉 曽宮の家 茶の間
周吉がチャブ台で何か調べ物をしている。

  70 玄関
紀子が元気なく帰って来る。

  71 茶の間
――紀子が来る。
 周吉(調べ物をつづけながら)「お帰り!」
 紀子(冷たく)「ただ今・・・」
 周吉「どこ行ったんだい?」
 紀子「アヤのとこ」
と答えてそのまま別室へ去ろうとする。
 周吉「おい――叔母さんとこから手紙が来たんだがな」
 紀子「――?」
 周吉「土曜日にお前に来てくれって云ってるんだ、明後日・・・」
紀子、なんとも答えず、去る。
周吉、見送って、また調べ物にかかる。
と、紀子が出て来る。
 周吉(調べ物をつづけながら)「あらましの話はこないだ行った時聞いたんだろう?」
 紀子「・・・」
 周吉「一度会ってごらん、その人もくるんだそうだ」(とそこにある速達を押しやる)
 紀子「そのお話、お断り出来ないの?」
 周吉「まあ一度会ってごらん、いやならその上で断ったっていいじゃないか」
紀子、答えず、再び黙って去りかける。
 周吉「紀子――」
 紀子「――?」
 周吉「ちょいとおすわり」
紀子、冷やかな顔で、戻ってすわる。
 周吉「叔母さんからも聞いたろうが佐竹っていうんだがね、その男。――お父さんも会ってみたが、なかなか立派ないい男なんだ。あれならお前としても、まア不満はなかろうと思うんだが、とにかく明後日行って会ってごらんよ」
 紀子「・・・」
 周吉「お前もいつまでもこのままでいられまいし、いずれはお嫁に行ってもわらなきゃならないんだ。ちょうどいい時だと思うんだが・・・」
 紀子「・・・」
 周吉「どうだろう。叔母さんも大へん心配してくれてるんだよ。なア――?」
 紀子「でもあたし・・・」
 周吉「うむ?」
 紀子「このままお父さんと一緒にいたいの・・・」
 周吉「そうもいかんさ」
 紀子「・・・」
 周吉「そりゃお前がいてくれりゃ何かにつけてお父さんだって重宝なんだが・・・」
 紀子「だったらあたしこのまま・・・」
 周吉「いや、そりゃいかんよ。お父さんも今まであんまりお前を重宝に使いすぎて、つい手放しにくくなっちゃって・・・すまんことだと思ってるんだ」
 紀子「・・・」
 周吉「もう行ってもらわないと、お父さんにしたって困るんだよ」
 紀子「だけど、あたしが行っちゃったら、お父さんどうなさるの?」
 周吉「お父さんはいいさ」
 紀子「いいって?」
 周吉「どうにかなるさ」
 紀子「それじゃあたし行けないわ」
 周吉「どうして?」
 紀子「ワイシャツだってカラーだって、お父さん汚れたままで平気だし、朝だってきっとお髭お剃りにならないわ」
 周吉(苦笑して)「髭くらい剃るさ」
 紀子「だけど、あたしが片づけなきゃ、机の上だっていつまでたってもゴタゴタだし、それに、いつかご自分でお炊きになった時みたいに、おコゲのご飯毎日召上るのよ。お父さんお困りになるの目に見えるわ」
 周吉「うむ・・・。だが、もし例えばだ、そんなことでお前に心配をかけないとしたらどうだろう? 仮りに、誰かお父さんの世話をしてくれるものがあったら・・・」
 紀子「誰かって?」
 周吉「例えばだよ」
 紀子「じゃお父さん、小野寺の小父さまみたいに・・・」
 周吉(曖昧に)「うん・・・」
 紀子「奥さんお貰いになるの?」
 周吉「うん・・・」
 紀子(愈々鋭く)「お貰いになるのね、奥さん」
 周吉「うん」
 紀子「じゃ今日の方?」
 周吉「うん」
 紀子「もうおきめになったのね?」
 周吉「うん」
 紀子「ほんとなのね? ・・・ほんとなのね?」
 周吉「うん」
 紀子「・・・」(堪えられなくなる)
そしてさッと立ち上がると、逃げるように出てゆく。

  72 階段
紀子、駆けるように上ってゆく。

  73 二階
紀子、駆け上っては来たものの、ここまでくると足が緩くなり、ドッカリと椅子にかけて、じっと考えこむ。と、やがて周吉が階段を上って来る気配がする。
 紀子(父が来た気配に)「こないでお父さん!」
そこのしきいぎわに立ってじっと見ている周吉・・・。
 紀子「下行ってて! ・・・下行ってて!」
周吉、静かに近づく。
 周吉「ま、とにかく明後日行っとくれね」
 紀子「・・・」
 周吉「みんながお前のこと心配してくれてるんだから・・・」
 紀子「・・・」
 周吉「いいね? 行ってくれるね? ――頼むよ・・・」
 紀子「・・・」
周吉、静かに出てゆきながら、ふと、階段の上の窓から夜空を見上げて――
 周吉「ああ、明日も好い天気だ・・・」
と呟いておりてゆく。
紀子、その足音を聞いている間に、ぐっと胸が迫って来て、さッと両手で顔をおおい、声を忍ばせて泣き入る。

  74 鎌倉 八幡宮の境内
拝殿のあたりを散歩姿の周吉とまさが来る。
 まさ「紀ちゃん、なんて云ってるの?」
 周吉「別になんとも云わないんだよ」
 まさ「なんとも云わないって、もうお見合いがすんで一週間にもなるのに・・・(と立ち止って)お返事しないわけにもいかないわよ」
 周吉「うむ・・・そうなんだがね、あんまりしつこく聞いて、こじれられても困るしね」
 まさ「先方じゃ大へん乗り気なのよ、あの人なら紀ちゃんもいうことないと思うんだけど・・・」
 周吉「うむ・・・」
そしてふと見ると、向うで写真屋が、地方から見物に来たらしい若い男と女の写真を写している。
それを見て歩きながら、
 まさ「紀ちゃんまたなんだって今日東京へ行ったの? のんきすぎるわよ兄さんも・・・」
 周吉「・・・」
 まさ「今日はどうしても返事を聞いてかなきゃ・・・。紀ちゃん何時ごろ帰るって?」
 周吉「さア・・・」
と、不意に、まさがチョコチョコと横へ切れて何か拾う。
 まさ「兄さん、蟇口拾っちゃった・・・」
そして、戻って来て中をあけてみて、
 まさ「こりゃ運がいいわよ、きっとこの話うまくいくわよ」(と蟇口をふところへ入れる)
 周吉「お前、届けないのかい」
 まさ「そりゃ届けるけどさ、だって縁起がいいじゃないの(とふところを叩いて)行きましょう!」
と急にトコトコ先に立って石段を上ってゆく。
そのあとから周吉がゆっくり上ってゆく。まさは中途で振り返って手招きするが恰度そこをお巡りさんが通りかかったのを見ると、急にまたセカセカ上ってゆく。

  75 東京 北川家 洋室
紀子が来て、アヤと話している。
 アヤ「ふうん、どんな人だった?」
 紀子「・・・」
 アヤ「どんなタイプよ」
 紀子「・・・」
 アヤ「肥ってンの?」
 紀子「ううん」
 アヤ「じゃ痩せっぽち?」
 紀子「ううん」
 アヤ「じゃどっちさ」
 紀子「学生時分、バスケットボールの選手だったんだって・・・」
 アヤ「ふウん――好い男?」
 紀子「・・・」(笑っている)
 アヤ「どんな人よ」
 紀子「叔母さんはゲーリー・クーパーに似てるって云うんだけど・・・」
 アヤ「じゃ凄いじゃないの」
 紀子「でも、あたしはうちにくる電気屋さんに似てると思うの」
 アヤ「その電気屋さんクーパーに似てる?」
 紀子「うん、とてもよく似てるわ」
 アヤ「じゃその人とクーパーと似てるんじゃないの! 何さ!」
と邪慳に紀子の肩を突いて、一方のテーブルへゆき、そこで紅茶を入れてながら――
 アヤ「――でも、あんたにしちゃ感心よ。よくやったわね、お見合い。――いいじゃないの、なかなか――考えることないじゃないの、行っちゃいなさいよ」
と云いながら紅茶を運んで――
 アヤ「今時そんな人って滅多にいやしないわよ。いうことないわよ」
 紀子「――でも、いやねえ・・・」
 アヤ「何がさ」
 紀子「お見合いなんて・・・」
 アヤ「ぜいたく云ってるわ。あんたなんて、お見合いでもしなかったらお嫁に行けやしないじゃないの!」
 紀子「だって・・・」
 アヤ「だってそうじゃないの! じゃあんた、好きな人が出来たら自分で出かけてって結婚申し込める? そんな度胸ないじゃないの! 赤い顔してお尻モジモジさせるだけじゃないの!」
 紀子「そりゃそうだけど・・・」
 アヤ「見合いでいいのよ、あんたなんか! ――あたしは云えたけどさ、その代りみてごらんなさい、ちっともよかなかったじゃないの」
 紀子「・・・」
 アヤ「大体、男なんて駄目よ。ずるいわよ。結婚するまではうまいこと云っていいとこばっかり見せてるけど、結婚してしまうと、とてもいやなとこばかり出して見せるんだもの。恋愛結婚だってアテになりゃしないわよ」
 紀子「そうかしら・・・」
 アヤ「そうよ、おんなしことよ。行ってみるのよ。いやだったら出てくるのよ」
 紀子「・・・」(笑う)
 アヤ「平気よ。平気々々イ。とにかく行ってみるのよ。で、ニッコリ笑ってやンのよ。すると旦那様きっと惚れてくるから、そしたらチョコッとお尻の下に敷いてやンのよ」
 紀子「まさか」
 アヤ「そうよ、そういうもンなのよ。冗談だとおもってンの、あんた」
 紀子「そうかしら・・・」(とニッコリする)
 アヤ「そう! そういう顔すりゃいいのよ!」
 紀子「まア――」
 アヤ「試してごらんなさい、きっと巧くいくわよ」

  76 夜 鎌倉 曽宮の家 茶の間
周吉とまさ――
 まさ「紀ちゃんおそいわねえ・・・」
 周吉「うむ・・・」
 まさ「あたし、またこようかしら」
 周吉「もう少し待ってごらんよ。今度の電車で帰るよ」
 まさ「そうかしら・・・」
 周吉「いい返事してくれるといいけどね」
 まさ「大丈夫よ、紀ちゃん気に入ってんのよ」
 周吉「そうかな」
 まさ「てれてンのよ、大体今時分の娘にしちゃ旧式なのよ、あのこ」
 周吉「そうかな、うむ」
 まさ「あれで、紀ちゃん、つまンないこと気にしてんじゃないかしら」
 周吉「何?」
 まさ「名前、佐竹さんの」
 周吉「佐竹熊太郎か」
 まさ「ウム、熊太郎・・・」
 周吉「いいじゃないか熊太郎、強そうで・・・そりゃお前の方がよっぽど旧式だよ、そんなこと気にしてやしないよ」
 まさ「だって、熊太郎なんて、なんとなくこの辺(と胸のあたりをさして)モジャモジャ毛が生えてるみたいじゃないの。若い人って案外そんなこと気にするもんよ。それに紀ちゃんが行くでしょう? そしたら、あたし、なんて呼んだらいいの? 熊太郎さアんなんて、まるで山賊みたいだし、熊さんて云や八さんみたいだし、だからって、熊ちゃんとも呼べないじゃないの?」
 周吉「うむ。でもなんとかいって呼ばなきゃ仕様がないだろう」
 まさ「そうなのよ、だからあたし、クーちゃんて云おうと思ってるんだけど・・・」
 周吉「クーちゃん?」
 まさ「ウム、どう?」
表の戸があく。
 まさ(急に緊張して声をひそめ)「あ、帰って来た!」
 紀子「ただいま・・・」
 まさ「来たわよ!」(と囁いて居ずまいを正す)
紀子が這入って来る。
 紀子(冷たく)「ただいま・・・」
 周吉「お帰り」
 まさ「お帰んなさい」
紀子、そのまま黙って二階へ去る。
 まさ(見送り、固唾をのんで)「どうなんだろう」
 周吉「うむ・・・」
 まさ「あたし、聞いてくるわね」(と立つ)
 周吉「おい」
 まさ「何?」
 周吉「うまく聞いてな」
 まさ(のみこんで)「大丈夫だよ」

  77 階段
まさ、緊張して上ってゆく。

  78 二階
紀子が外出着をぬいでいる。
まさが来る。
 まさ「紀ちゃんお帰り・・・」
 紀子「ただいま」
 まさ「あのウ、こないだの返事ねえ――」
紀子、みなまで聞かず、ぬいだ物を持って一方へ――
まさ、そのあとにつづく。
 まさ「どうだろう? ・・・考えといてくれた?」
紀子答えず、椅子のところへ行って腰かけ、靴下をぬぐ。
まさはまたそのあとにつづいて、自分も椅子にかける。
 まさ「ほんとにいいご縁だと思うんだけど・・・ねえ、どうなの?」
と不安そうに様子をうかがう。
紀子、それにも答えず、ぬいだ靴下を持ってまた立ってゆく。
まさもまたそれにつづいて立って行く。
 まさ「ねえ、どう? 行ってくれる? ――ねえ、どうなの?」
 紀子(気乗りもなく)「ええ・・・」
 まさ(目を輝かして)「行ってくれるの?」
 紀子「ええ・・・」
 まさ(パッと明るく)「そう? ほんとね? 行ってくれるのね?」
 紀子(頷く)「・・・」
 まさ「ありがとう! あちらへそうお返事するわよ! いいのね? ああよかった、これでほっとしたわ」
とセカセカ出てゆく。

  79 階段
まさ、セカセカおりて来る。

  80 茶の間
まさが来る。
 周吉(見迎えて)「どうだった・・・?」
 まさ「行ってくれるって! 思った通り」
 周吉「そうかい、そりゃよかった!」
 まさ「待っててよかったわ。(と帰り仕度をしながら)じゃ兄さん、あたしおいとまするわ。ああよかった」
と玄関の方へ行く。周吉も立ってゆく。
 まさ「さっそく先方へお返事しとくわ」
 周吉「うん、ご苦労さんだったな」

  81 玄関
まさ、コートを着ながら・・・
 まさ「まだ間に合うわね、九時三十五分――」
 周吉「ああ、少しいそいだ方がいいよ」
 まさ「そう・・・これでもう、あたしすっかり安心しちゃった。今度からよく寝られるわ。日取りのことやなんか、いずれまたあたし来ますからね。兄さんもついでにまた寄ってよ」
 周吉「ああ、行くよ」
そういう間に土間におりて・・・
 まさ「やっぱり蟇口ひろったのよかったのよ」
 周吉「あああれ届けときね」
 まさ「大丈夫よ、届けるわよ。じゃ閉めないで帰ります。さよなら」
 周吉「ああ、ありがとう、気を付けてな」
 まさ「ええ」
とセカセカ帰ってゆく。
周吉、土間へおりて鍵をかける。

  82 茶の間
周吉、ほっとした気持で戻って来る。
と、見ると、紀子が来るので、
 周吉「叔母さん、いま帰ったよ」
 紀子(冷たく)「そう・・・」
 周吉「大へん喜んでたよ」
 紀子「・・・」(と何か元気がない)
 周吉「だけど、お前、あきらめて行くんじゃないだろうね?」
 紀子(冷たく)「ええ・・・」
 周吉「いやいや行くんじゃないんだね?」
 紀子(腹立たしげに)「そうじゃないわ」
 周吉「そうかい、それならいいんだけど・・・」
紀子、つと立って出てゆく。
周吉、見送って――じっと考える。

  83 晩春の京都
朝まだき東山の塔記号――

  84 宿屋の洗面所
着いたばかりの周吉が歯を磨き、紀子が手を洗っている。
 周吉「ゆうべの汽車の中、お前よく寝られたかい?」
 紀子「ええ・・・」
 周吉「お父さんもよく寝たよ。目が覚めたらもう瀬田の鉄橋だった」
 紀子「あたしも名古屋から米原まで知らなかったわ」

  85 二階の部屋
二人のカバン等が置いてある。
小野寺が来て待っている。二人が戻って来る。
 周吉「やあお待遠・・・さっぱりしたよ」
 小野寺「疲れたろう紀ちゃん・・・?」
 紀子「いいえ、そんなでも・・・」(と鏡台の前にゆく)
 小野寺「そうかい・・・(周吉に)しかし、よくやって来たね」
 周吉「うん、紀子がね、急にお嫁に行くことになって・・・」
 小野寺「ふん」
 周吉「それでお別れに遊びに来たんだ――」
 小野寺「そうかい、そりゃお目出度いな。そりゃよかった――(と紀子を見返って)お目出度う紀ちゃん、おい紀ちゃん、どんなお婿さんだい、小父さんとどうだい」
 周吉「そりゃ比べものにならんよ」
 小野寺「どっちだい」
 紀子「そりゃ小父さんの方が素敵よ」
 小野寺「そうかい、ほんとかい――ご馳走するかな紀ちゃんに・・・(周吉に)どうだい、きょう昼――?」
 周吉「うん」
 小野寺「行こうか、瓢亭・・・」
 周吉「いいな」
 小野寺(紀子に)「美佐子も紀ちゃんに会いたがってるんだよ」
 紀子(明るく)「そう? あたしもお目にかかりたいわ」
 小野寺「その代り、きたならしいのもくるんだよ」
 紀子「まア・・・」
 小野寺「いいかい?」
紀子、困ったように笑って立ち上る。

  86 その宿屋の二階から見た東山

  87 清水寺

  88 その舞台
周吉と小野寺の後妻きく(三十八)――少し離れて小野寺と紀子と美佐子(二十一)が欄干に倚って景色を眺めている。
きくは、しとやかでもあり、美しくもあり、見るからにいい奥さんである。
 周吉(きくに)「京都はいいですねえ、のんびりしてて・・・」
 きく「ええ・・・」
 周吉「東京にはこんなとこありませんよ、焼跡ばかりで・・・」
 きく「先生、時々おいでになりますの、京都――?」
 周吉「いやア、何年ぶりですかなア・・・終戦後初めてですよ」
 きく「まアそうですか」
その一方で――
 小野寺「紀ちゃん、どうだい、きたならしいの・・・」
 紀子(ハッと見て)「いやよ小父さま――」(と澄ます)
 小野寺(微笑して)「聞かしてくれよ感想――」
 紀子「・・・」(顔をそむけて澄ましている)
 美佐子「なアに、お父さま、きたならしいのって――」
 小野寺「うむ? 不潔なんだよ、ねえ紀ちゃん」
紀子、困って、小野寺を軽く叩いてその場を逃れ、向うへ行って、そこでまた澄まして景色を眺める。そしてそっと振り返ると、こっちを見ていた小野寺がニコニコしながら手招きする。
紀子、首を振って、また澄まして景色を眺める。
――清水寺の舞台は長閑である。

  89 夜 宿屋の洗面所
水栓からポトリポトリしずかに水が落ちている。

  90 部屋
底に床が敷かれ、寝巻に着がえた周吉が床の上にあぐらをかいて、膝をなでている。紀子も寝仕度を整えて床の上にいる。
 周吉「・・・今日はずいぶん歩いたな――お前、疲れなかったか?」
 紀子(何か考えている様子)「いいえ・・・」
 周吉「この前高台寺に行った時は、萩が盛りでなかなか綺麗だった・・・。明日はお前どうするんだい?」
 紀子「十時ころ美佐子さんが来てくれって・・・」
 周吉「どこ行くの? なんだったら、博物館へも行ってみるといい」
 紀子「ええ・・・」
 周吉「寝ようか」
 紀子「ええ・・・消しましょうか?」
 周吉「ああ」
で、紀子が立って電灯を消すと、暗くなった部屋の窓に竹の影が映る。
周吉、床に這入る。紀子も床につく。
 紀子「――ねえ・・・」
 周吉「うむ?」
 紀子「あたし、知らないで、小野寺の小父さまに悪いこと云っちゃって・・・」
 周吉「何を――?」
 紀子「・・・小母さまって、とってもいい方だわ、小父さまともよくお似合いだし・・・きたならしいなんて、あたし云うンじゃなかった・・・」
 周吉「いいさ、そんなこと・・・」
 紀子「とんでもないこと云っちゃった・・・」
 周吉「本気にしてやしないよ」
 紀子「そうかしら・・・」
 周吉「いいよ、いいんだよ・・・」
で、紀子はそのまま口を噤んで、じっと天井を見つめて考えつづける・・・。
 紀子「・・・ねえお父さん・・・お父さんのこと、あたし、とてもいやだったんだけど」
返事がない。
で、見ると、周吉はもう眠りに落ちている。
紀子はそのままじっと天井を見つめて考えつづける。
周吉の静かな鼾(いびき)が聞えてくる。

  91 龍安寺 方丈の前庭
所謂、相阿弥作「虎の子渡し」の石庭である。
そこの方丈の縁側に、周吉と小野寺が腰をかけて休んでいる。
 小野寺「――しかし、よく紀ちゃんやる気になったね」
 周吉「うむ・・・」(と考えている)
 小野寺「あの子ならきっといい奥さんになるよ」
 周吉「うむ・・・持つならやっぱり男の子だね、女の子はつまらんよ――せっかく育てると嫁にやるんだから・・・」
 小野寺「うむ・・・」
 周吉「行かなきゃ行かないで心配だし・・・いざ行くとなると、やっぱり、なんだかつまらないよ・・・」
 小野寺「そりゃ仕方がないさ、われわれだって育ったのを貰ったんだもの」
 周吉「そりゃまアそうだ――」
と笑うが、その笑いにはどこか寂しい影がある。
――石庭のたたづまい。

  92 宿屋の庭
石燈籠に灯が這入って――。

  93 夜 部屋
紀子がカバンに荷物をつめ、周吉は紀子が買って来たらしい絵葉書などを見ている。
 紀子「お父さん、それ取って頂だい」
 周吉「うん?(とそばの何かを取って渡し)早いもんだね、来たと思うともう帰るんだね」
 紀子(頷いて)「でも、とても愉しかった、京都・・・」
 周吉「うむ、来てよかったよ――ぜいたくいえばきりがないが、奈良へも一日行きたかったね」
 紀子「ええ・・・」
 周吉(見ていた絵葉書を渡す)「オイ、これ」
紀子、受取ってカバンに入れる。
 周吉(手廻り品などをゴソゴソ片づけながら)「こんなことなら、今までにもっとお前と方々行っとくんだったよ、もうこれでお父さんとはおしまいだね」
 紀子「・・・」(荷物をつめていた手がふと止る)
 周吉「帰ると今度はいそがしくなるぞお前は――叔母さん待っているだろう・・・」
 紀子「・・・」(項垂(うなだ)れている)
 周吉「明日の急行もいいあんばいにすわれるといいがね」
 紀子「・・・」
 周吉「まア、どこへもつれてってやれなかったけど、これからつれてって貰うさ。――佐竹君に可愛がって貰うんだよ――(そして紀子の様子に気がつき)どうした?」
 紀子「・・・」
 周吉「どうしたんだい?」
 紀子「あたし・・・」
 周吉「うむ?」
 紀子「このままお父さんといたいの・・・」
 周吉「・・・?」
 紀子「どこへも行きたくないの。こうしてお父さんと一緒にいるだけでいいの、それだけであたし嬉しいのお。お嫁に行ったって、これ以上の愉しさはないと思うの――このままでいいの・・・」
 周吉「だけど、お前、そんなこといったって・・・」
 紀子「いいえ、いいの、お父さん奥さんお貰いになったっていいのよ。やっぱりあたしお父さんのそばにいたいの。お父さんが好きなの。お父さんとこうしていることが、あたしには一番しあわせなの・・・。お父さん、お願い、このままにさせといて・・・。お嫁に行ったって、これ以上のしあわせがあるとは、あたし思えないの・・・」
 周吉「だけど、そりゃ違うよ。そんなもんじゃないさ」
 紀子「・・・?」
 周吉「――お父さんはもう五十六だ。お父さんの人生はもう終りに近いんだよ。だけどお前たちはこれからだ。これからようやく新しい人生が始まるんだよ。つまり佐竹君と、二人で創り上げて行くんだよ。お父さんには関係のないことなんだ。それが人間生活の歴史の順序というものなんだよ」
 紀子「・・・」
 周吉「そりゃ、結婚したって初めから幸せじゃないかもしれないさ。結婚していきなり幸せになれると思う考え方がむしろ間違ってるんだよ。幸せは待ってるもんじゃなくて、やっぱり自分たちで創り出すものなんだよ。結婚することが幸せなんじゃない。――新しい夫婦が、新しい一つの人生を創り上げてゆくことに幸せがあるんだよ。それでこそ初めて本当の夫婦になれるんだよ。――お前のお母さんだって初めから幸せじゃなかったんだ。長い間にいろんなことがあった。台所の隅っこで泣いているのを、お父さん幾度も見たことがある。でもお母さんよく辛抱してくれたんだよ――お互いに信頼するんだ。お互いに愛情を持つんだ。お前が今までお父さんに持ってくれたような温かい心を、今度は佐竹君に持つんだよ――いいね?」
 紀子「・・・」
 周吉「そこにお前の本当に新しい幸せが生れてくるんだよ。――わかってくれるね?」
 紀子「・・・」(頷く)
 周吉「わかってくれたね?」
 紀子「ええ・・・我儘(わがまま)いってすみませんでした・・・」
 周吉「そうかい・・・わかってくれたかい・・・」
 紀子「ええ・・・ほんとに我儘いって・・・」
 周吉「イヤ、わかっってくれてよかったよ。お父さんもお前にそんな気持でお嫁に行って貰いたくなかったんだ。まア行ってごらん。お前ならきっと幸せになれるよ。むずかしいもんじゃないさ・・・」
 紀子「・・・ええ・・・」
 周吉「きっと佐竹君といい夫婦になるよ。お父さん愉しみにしているからね」
 紀子「・・・」(頷く)
 周吉「そのうちには、今晩ここでこんな話をしたことがきっと笑い話になるさ」
 紀子(微笑を浮べた顔に羞(はじら)いを見せて)「すみません・・・いろいろご心配かけて・・・」
 周吉「イヤ――なるんだよ、幸せに・・・いいね?」
 紀子「ええ、きっとなって見せますわ」
 周吉「うん――なるよ、きっとなれるよ、お前ならきっとなれる。お父さん安心しているよ、なるんだよ幸せに」
 紀子「ええ・・・」
と明るい微笑でそっと涙を拭く。

  94 鎌倉 曽宮の家の表
今日は紀子の婚礼の日である。
自動車が二台――そのそばで、まさの息子の勝義が一人で遊んでいる。
近所のおかみさんなどが四、五人、物見高く家の前に集まっている。

  95 座敷
周吉と服部が二人ともモーニングを着て、煙草など吸いながら話している。
 服部「ゆうべパラパラッと来たんで、どうかと思ってましたが・・・」
 周吉「ああ、いいあんばいだったよ、お天気になって、――降られちゃ大変だからね」
 服部「そうですねえ」
 周吉「君は新婚旅行どこ行ったっけ?」
 服部「湯河原でした」
 周吉「そう――紀子たちも湯河原へ行くんだが、あすこは駅からバスだけかい」
 服部「いいえ、ハイヤもあります」
 周吉「そう、ハイヤもあるの」
しげが来る。しげも今日はきちんと着更えている。
 しげ「先生――お二階で呼んでなせいますですよ」
 周吉「ああそう」
 しげ「お嬢さん、綺麗にお仕度出来なせいましてね――まア一ぺん行って、見てあげなせいましよ」
 周吉「そうですか、じゃ――」
と立ってゆく。

  96 階段の下
周吉がくると、まさがおりてくる。
 まさ「兄さん、お仕度出来たわよ」
 周吉「そうか」
 まさ「自動車もう来てるかしら――?」
 周吉「ああ、来てる」
で、まさは再び先に立って二階へ上って行く。周吉もつづく。

  97 二階
花嫁姿の紀子が姿見の前で椅子に腰かけている。
美容師がその角隠しの形などを直し、助手の女が一隅で道具を片づけている。
まさと周吉が来る。
 周吉(美容師に)「どうもご苦労さん――(と会釈して、鏡の中の紀子に)やア出来たな・・・」
と微笑みかけて、そこに腰をおろす。
 美容師(まさに)「では私共はお先に・・・」
 まさ「ああどうぞ・・・」
で、美容師は去りぎわに、そこの唐草模様の衣装包みを手にして、
 美容師「では、これお持ち致しますから・・・」
 まさ「ああ、すみません」
そして美容師が助手と一緒に出てゆくと、そのあと、三人の間に短い沈黙がくる。
目を伏せている鏡の中の紀子――
それを見守っている周吉――
なんとなく涙ぐましくなってくるまさ――
 まさ「紀ちゃん、持っているわね、お扇子・・・」
 紀子「ええ・・・」
 まさ「・・・綺麗なお嫁さんになって・・・亡くなったお母さんに一目見せてあげたかった・・・」
とそっと目を拭く。
 周吉「じゃ、そろそろ出かけようか」
 まさ「ええ」
 周吉「途中ゆっくり行った方がいいからね」
 まさ「兄さん、何か紀ちゃんに・・・」
 周吉「イヤ、もうなんにもいうことないんだ」
 まさ「そう――じゃ紀ちゃん、行きましょう」
で、紀子が静かに立ち上るろ、まさは片隅の手廻り品などを入れた小カバンを持つ。
と、紀子がそこにすわって、
 紀子「お父さん・・・」
――で一旦立ち上った周吉も、紀子の前に中腰にしゃがむ。
 紀子「・・・長い間・・・いろいろ・・・お世話になりました・・・」
 周吉「ウム・・・幸せに・・・いい奥さんになるんだよ・・・」
 紀子「ええ・・・」
 周吉「幸せにな・・・」
 紀子「・・・」(深く頷く)
 周吉「なるんだよ、いい奥さんに」
 紀子「ええ」
 周吉「さ・・・行こうか」
紀子、頷いて立つ。周吉、手を添えて、いたわりながら、並んで出て行く。
まさ、見送り、改めて室内を一廻り見廻って、二人のあとから出てゆく。

  98 家の前
近所の人たちが前よりも一層ふえて、紀子の花嫁姿を見ようと群がっている。

  99 二階
誰もいなくなった部屋に、残されている姿見と椅子・・・

  100 その晩 小料理屋「多喜川」
披露宴からの帰りの周吉とアヤが来ている。アヤの傍にはパラピン紙に包んだ花束が置いてある。
 周吉(手酌で一ぱい注ぎ、アヤに)「アヤちゃん、どう?」
 アヤ「ええ(と受けて)これで三杯目よ」
 周吉「うむ」
 アヤ「あたし五杯までだいじょうぶなの。いつか六杯のんだら引っくり返っちゃった」
 周吉「そうかい」(と微笑する)
 亭主(小鉢を出して)「お待ち遠さま――先日小野寺先生とご一緒にお嬢さまいらっしゃいまして・・・」
 周吉「そうだってね」
 亭主「驚きましたよ。すっかり大きくおなりになって――」
 周吉「ああ・・・」
 亭主「今日はお嬢様は――?」
 周吉「いま東京駅で送って来たとこだ・・・嫁に行ったよ――」
 亭主「左様ですか。そのお帰りで? ――そりゃお目出度う存じます」
 周吉「ああ、ありがとう・・・」
 亭主「――左様ですか・・・」
と次の料理に移る。
いつか他の客もいなくなり、周吉とアヤだけになっている。
 アヤ(徳利をとって)「小父さま――(と酌をしてやりながら)紀ちゃん、もうどの辺かしら?」
 周吉「うむ・・・大船あたりかな・・・」
 アヤ「そうね・・・小父さまもこれから当分お寂しいわねえ」
 周吉「ウム――そうでもないさ、じき馴れる、・・・(と徳利をとって)どう、アヤちゃん、四杯目」(とさす)
 アヤ「ええ(と受けながら)――ねえ小父さま・・・」
 周吉「うむ?」
 アヤ「小父さま、奥さんお貰いになるの?」
 周吉「どうして?」
 アヤ「だって紀子気にしてたわ、一ばんそのこと気になってたらしいわ」
 周吉「・・・」
 アヤ「およしなさいよ、そんなものお貰いになるの! 駄目よ貰っちゃ! いい?」
 周吉(微笑して)「うむ・・・」
 アヤ「ほんとよ!」
 周吉「ああ、ほんとだよ――でも、ああでもいわなきゃ、紀子はお嫁に行ってくれなかったんだよ・・・」
アヤ、感激、じっと見て、いきなり周吉の首を引き寄せ、その額にチュッと接吻する。
周吉、あっけにとられている。額に口紅のあとがついている。
 アヤ「小父さまいいところあるわ! とても素敵! 感激しちゃった!」
周吉、ニコニコ笑っている。
 アヤ「いいわよ、寂しくないわよ。寂しかったら、あたし時々行ってあげるわよ。ほんとよ」
 周吉「ああ、ほんとに遊びに来ておくれね、アヤちゃん」
 アヤ「ええ行くわ――ああいい気持――」
と頬をなで、そこに残っている杯を乾して、
 アヤ「五杯目――」(と出す)
で、周吉が酌をしてやると、それを勢いよくぐっと乾して、
 アヤ「おしまい」(と盃を伏せる)
 周吉「アヤちゃん、ほんとだよ、ほんとに来ておくれね・・・小父さん待ってるよ」
 アヤ「ええ行く、きっと行くわ。あたし小父さまみたいに嘘つかないわ」
 周吉「なに?」
 アヤ「そんな上手な嘘つけないもの」
 周吉「ハハハハ――(そして寂しく)仕様がないさ、小父さんだって一生一代の嘘だったんだ・・・」

  101 鎌倉 その晩 曽宮の家の前
周吉がションボリひとり帰って来る。
這入る。

  102 部屋
留守をしていたしげがその音で出迎えに立ってゆく。
 しげ「ああお帰りなさいまし」
 周吉「ああ、ただ今――」
そして、二人、這入って来る。
 しげ「お嬢さん、ご無事でお立ちなせいましたですか」
 周吉「ええ、お蔭さまで・・・」(と帽子をぬいでかける)
 しげ「さいですか・・・ほんとにお目出度うございましたですよ」
 周吉「どうもいろいろありがとう・・・」(とオーバーをぬいでかける)
 しげ「いいえ――ではおやすみなせいまし」
 周吉「イヤどうも・・・清さんによろしくね」
 しげ「へえ・・・」
 周吉「おやすみ」
で、しげが帰っていくと、周吉はひとり寂しくモーニングの上衣をぬいで鴨居の洋服掛けにかけ、ハタハタとその埃を払って、そのまま力なくそこの椅子へ行って腰をおろす。ふと机の上の林檎を見て手にとり、むく。林檎の皮は長くつづかない。そのままじっと動かない周吉の姿。

  103 夜の海
ゆったりと大きくうねって、ザ、ザ、ザーッと渚に崩れる波・・・。