麦秋


      監督 小津安二郎  
      脚本 野田高梧  
         小津安二郎  
          間宮周吉 菅井一郎  
            志げ 東山千栄子  
            康一 笠 智衆  
            史子 三宅邦子 
            紀子 原 節子 
            実  村瀬 禅  
            勇  城沢 勇  
            茂吉 高堂国典  
          田村アヤ 淡島千景
            のぶ 高橋豊子
          矢部謙吉 二本柳寛  
            たみ 杉村春子  
          西脇宏三 宮口精二 
          安田高子 井川邦子  
          高梨マリ 志賀真津子 
          佐竹宗太郎 佐野周二
          
  1 由比ヶ浜
春の朝ーー。
しずかな朝凪(な)ぎの海。渚で犬が遊んでいる。
 
  2 北鎌倉の山(窓ごしに)
朝の光が鮮やかに映えてーー。  
 
  3 間宮家の二階
廊下にローラーカナリヤの籠ーー目白の籠もかけてある。
そのスリ餌をこしらえている周吉、老齢六十八の植物学者である。
孫の実(十二)が上がってくる。
 実「おじいちゃん、ご飯ーー」
 周吉「 ああ、お早よう」 
 実「おいでよ、早く」
 周吉「ああいくよ」
実、おりてゆく。

  4 台所
周吉の老妻志げ(六十)と長男康一の細君史子(三十五)が朝の仕事に忙しい。
実がそこの廊下を通りかかって、
 実「言って来たよ」
と声をかける。
 史子「あ、ちょいとこれ持ってって」
とお香物(こうこ)の丼を渡す。

  5 部屋
康一(三十八)が服を着替え、その妹の紀子(のりこ)(二十八)がご飯をたべている。
 実「おコウコ」(と渡す)
 紀子「ありがとう」
実、すぐすわって茶碗を出す。
 紀子(よそってやりながら)「勇(いさむ)ちゃんは?」
実、すわったまま子供部屋の方へ「イサムーッ!(と呼び)いただきまアす」(とたべはじめる)
 紀子(呼ぶ)「勇ちゃん――」
玄関脇の子供部屋から、実の弟の勇(六つ)が寝起の顔でモソモソと出て来て、食卓につく。
 紀子「勇ちゃん、お顔洗った?」
 勇「洗ったよ」(と茶碗を出す)
 紀子「駄目駄目! ゆうべの卵、まだお口のまわりについてる」
勇、恨めしそうに立ってゆく。

  6 玄関の廊下
勇が通りかかると、
 史子(台所から)「勇ちゃん、さっさとしなさい」

  7 洗面所
勇、来て、タオルを水道で濡らすと口のまわりだけ拭いて、出てゆく。

  8 部屋
勇、戻って来る。
 紀子「もう洗って来たの?」
 勇「洗ったよ。嘘だと思ったらタオル濡れてるよ」
 紀子(笑って)「そう」
 勇「いただきまアす」
とたべはじめる。が、その子の行動はすべての点でゆったりしている。
周吉が来る。
 紀子「お先に・・・」
 周吉「ああ――(と封筒を卓上に出して)これ、出しといてくれ」
 紀子「はい」
 周吉(子供たちに)「よく噛んでおあがり――(そして康一に)早いんだね、今朝は」
 康一「ええ。ちょっと気になる患者があるもんですから」
 周吉「そう」
史子がお味噌汁(みおつけ)を持って来て、
 史子「はい」
と周吉に渡して、すぐ康一のところへゆき、ハンケチなど取ってやる。
 康一(仕度を終って、周吉に)「じゃ、帰りに東京駅にお迎いに行きますから・・・」
 周吉「ああ、ご苦労だね」
 康一「行って来ます」
 実「行ってらっしゃい」
 勇「行ってらっしゃい」
史子、康一を送ってゆく。
 紀子「お兄さん、いそがないとあと七分よ」

  玄関
康一、史子に見送られて――
 康一「お前もくるのか」
 史子「ええ」
 康一「どこで逢う?」
 史子「いいの、もう紀子さんと打合せてあるの」
 康一「そうか」
 史子「行ってらっしゃい」
 康一「ああ」
と出てゆく。

  10 部屋
紀子がお茶をのみながら、勇の面倒を見てやっている。勇、グズグズたべている。史子が戻って来る。
 実「ご馳走さまア」
と立ってゆく。
 史子「勇ちゃん、さっさとおあがんなさい」
と言いながら、ご飯をつける。
志げがお味噌汁を持って出て来て、食卓にすわる。
史子がご飯を渡す。
 志げ「ありがとう」
 史子「おじいちゃま、大和のおじいさまどんなものが好きなんでしょうか」
 周吉「ウーム、別にご馳走はいらんだろう。――好きなのはおカラなんだけどね」
 勇「ボクも好き」
 史子「いいから黙っておあがり」
 紀子(笑って)「グズねえ勇ちゃん――。ご馳走さま」
と立つ。
そして箸箱を茶箪笥にしまい、二階へ上ってゆく。

  11 二階
老夫婦の部屋の隣が紀子の部屋である。
紀子、来ると、化粧を直し、出勤の仕度をして、書類鞄に岩波文庫などを入れて出てゆく。

 12 下の部屋
周吉はもうお茶をのんでいるが、志げと史子と、勇もまだご飯を食べている。
紀子が来て、
 紀子「行ってまいります」
 史子「行ってらっしゃい」
両親も目で送る。
 紀子「じゃお姉さん、五時半――」
 史子「はい」
紀子、出てゆく。

 13 玄関
紀子、子供部屋をのぞいて、実が汽車をいじっているのを見、
 紀子「早く行かないとおくれるわよ」
と声をかけて、靴をはく。
史子が封筒を持って出てくる。
 史子「忘れもの、お父さまの原稿――」
 紀子「ああ、どうも・・・(と受取り)――行ってまいります」
と出かけてゆく。
 史子「行ってらっしゃい」
と見送り、戻りかけて子供部屋をのぞき、
 史子「兄イちゃん、何してンの!」
と声をかけてゆく。

  14 部屋
史子が戻ってくると、勇が食事を終って子供部屋へ戻ってゆく。
と、子供部屋から実がランドセルを背負って出て来て、ついでに勇の頭をコツンと叩き、
 実「行ってまいりまアす」
 志げ「行ってらっしゃい」
 周吉(新聞を読みながら)「ああ、行っといで」
 史子「忘れものないのね」
 実(答えず、大きい声で)「行ってまいりまアす!」
ガラガラピシャリと乱暴に出てゆく。

  15 驀進する電車の側面
戸塚、保土ケ谷の間あたり――。

  16 車内
康一とその友達の西脇宏三(40)が並んで腰かけている。新聞を取り換えて読む。

  17 北鎌倉駅のホーム
紀子が電車を待って、コツコツ歩いている。ふと見る。
矢部謙吉(34、ガッシリした感じの青年)がこれも電車を待って、本を読んでいる。
 紀子(歩み寄って)「お早よう・・・」
 謙吉(顔をあげて)「あ、お早よう。――お兄さんは?」
 紀子「前の電車――。なんだか心配な患者さんが・・・」
 謙吉「アア、そうなんです。僕アゆうべ帰ったら十一時だった。――(話題を変えて)面白いですね「チボー家の人々」――」
 紀子「どこまでお読みンなって?」
 謙吉「まだ四巻目の半分です」
 紀子「そう」
上り電車が轟然と這入って来る。

  18 北鎌倉の山(窓ごしに)
長閑な日があたって――ローラーカナリヤの声・・・。

  19 間宮家の二階
周吉が、勇の爪を切ってやっている。
 周吉「ホラ、よし。綺麗になっただろう?」
 勇「うん」
 周吉「ホラ、ご褒美やるぞ――(罐からビスケットを出しながら)おじいちゃん好きか」
 勇「うん」
 周吉(渡しながら)「大好きならもっとやるぞ」
 勇「大好き」
 周吉「そうか、ホラ・・・」(とあと二つ三つやる)
 勇(貰うと立って、襖際で)「キライダヨーッ」(と去る)
 周吉「こら!」
と笑って、今度は自分の爪を切りはじめる。

  20 東京 丸ノ内 あるビルディングの外景
昼過ぎの明るい日があたって――。

  21 事務所
みごとな速度でタイプライターを打っている紀子――
打ち終って綴じる。
専務の佐竹宗太郎(39)が書類を見ながら来る。
 佐竹(その書類を紀子のデスクに投げて)「これ、決まったよ。日新製紙のオーダーだ」
 紀子(受取って)「旭化工の方、どうなったんでしょう」
 佐竹「ありゃ、まだペンディングだ」
と自席に着いて仕事にかかる。
紀子も書類を整理する。
 佐竹(仕事をつづけながら)「・・・このごろ、コーヒー、どこがうまいんだい」
 紀子(仕事をつづけながら)「さアー・・・ルナなんかどうなんでしょう、西銀座の・・・狭い店(うち)なんですけど・・・」
 佐竹「ルナか・・・あ、君、(と顔を上げて)さっきの、もう社長に渡したかい?」
 紀子「ええ。――何か?」
 佐竹「そうか、そんならいいんだ」
で、また二人とも仕事をつづける。
と、コツコツとノックの音――
 佐竹「はい」
ドアがあいて田村アヤ(28、築地の料亭「田むら」の娘、紀子の同窓生)が這入って来る。
 アヤ「こんにちは」
 佐竹(見迎えて)「よウ、来たな、借金取り――」
 アヤ(笑って、紀子に)「こんにちは」
 紀子(ニコニコして)「こんにちは」
 アヤ「おいそがしい? 専務さん――」
 佐竹「ああ、いそがしいね」
 アヤ「結構ですわ、いそがしくて」
 佐竹「ありがとう。――どうしたんだいこないだ、あれから・・・」
 アヤ「大へん! ヤーさんがまた例の長唄はじめちゃって・・・」
 佐竹(笑って)「ついに泣かぬ弁慶もか・・・」
 アヤ「そう、お蔭でお母さんの心臓、また悪くなったらしいわ」
 佐竹「大丈夫だよ、死にゃしないよ、あの婆ア」
 アヤ「まア・・・」
佐竹、ハッハッハハハと大きく笑って仕事をつづける。
 アヤ(紀子に)「ねえ、聞いた? チャア子結婚するんだって」
 紀子「ううん、知らない。――誰と?」
 アヤ「ホラ、知らないかな、津村さんて・・・」
 紀子「津村さん?」
 アヤ「うん、早稲田のバスケットの・・・」
 紀子「知らない。――恋愛?」
 アヤ「うん。チャア子、モヤモヤしてたのよ、長いこと・・・」
 佐竹(自席から)「そねめそねめ! 売れ残りがふたり集まって・・・」
紀子とアヤ、顔を見合わせて笑う。
佐竹、立って来て、アヤに、
 佐竹「はい――(と小切手を出して)不渡りでも知らないよ」
 アヤ(受取って)「すみません」
 佐竹「どう致しまして――(紀子に)出かけるよ」
 紀子「どちらへ?」
 佐竹「ホテル――ロバートさんから電話があったら、二時までに伺うって・・・」
 紀子「はい」
 アヤ「専務さん、あたしもそこまで乗せてって」
 佐竹「違うよ、方向が」
 アヤ「いいの、ホテルから廻ってもらう(紀子に)ねえ、帰りに寄らない?」
 紀子「今日は駄目」
 アヤ「そう、じゃ、さようなら」
 紀子「さよなら」
アヤ、佐竹を追って、いそいで出てゆく。
紀子、また仕事をつづける。

  22 夕暮の空
広告塔が明滅して――

  23 小料理「多喜川」の灯入れ看板

  24 その店内
女中が天ぷらの大皿を運んで来て――
 女中「お待遠さま・・・相済みません」
と土間から小座敷へ出す。

  25 そこの小座敷
康一、史子、紀子――すでに二、三品の料理が並んでいる。
天ぷらを受取った史子が、それを卓上に置きながら――
 史子「なんだろう、これ」
 康一「ギャレッジ」
 紀子「ああ、蝦蛄(しゃこ)」
 康一(史子に、ビールをさして)「どうだい」
 史子「もう沢山」
で、紀子にさすと、黙って受けるので、
 史子「ずいぶんのめるのね、紀子さん」
 紀子「だっておいしいんだもの。お姉さん、どう、もう少し・・・」
 康一「よせよせ、無駄だよ。無理にのむこたアない」
史子と紀子、顔を見合わせてクスリと笑う。
 康一「なんだい?」
 紀子「そういう人よ、お兄さんて」
 康一「何が?」
 紀子(史子に)「ねえエ」(と笑う)
 康一「何がさ?」
 紀子「そういったとこがあンのよ、お兄さんには。――自分ですすめといて、すぐ、よせよせなんて・・・」
 康一「だって、もう沢山てものを無駄じゃないか」
 紀子「でもそこがエティケットってものよ」
 康一「どこが?」
 紀子(取合わず)「お姉さん、天ぷらおいしい?」
 史子「とてもおいしい」
 紀子「そう」(とたべはじめる)
 康一(ビールをのみながら)「お前たちはね、何かっていうと、すぐエティケットって、まるで男が女に親切にする法律か何かみたいに思ってるけど、そりゃそういうもんじゃないんだ。男にしろ、女にしろ、決して他人に迷惑をかけない――いかなる意味においてもだよ――それがエティケットっていうものの真義なんだよ」
 紀子「わかっちゃいるのねお兄さん、感心に・・・」
 史子「わかっていないのかと思ってた・・・」
 康一(苦笑して)「バカ・・・」
 史子「紀子さん、ご飯にする?」
 紀子「うん、頂くわ」
史子、ご飯をつける。
 康一「――飯を食うのもいいが、とにかく、終戦後、女がエティケットを悪用して、益々図々しくなって来つつあることだけは確かだね」
 紀子「そんなことない。これでやっと普通になって来たの。今まで男が図々しすぎたのよ」
 史子(ニコニコして)「しっかりしっかり・・・」
 康一(紀子に)「お前、そんなこと思ってるから、いつまでたってもお嫁にいけないんだ」
 紀子「いけないんじゃない、いかないの。いこうと思ったら、いつだっていけます」
 康一「うそつけ」
 史子「でもお医者さんだけはおよしなさいね」
 紀子「勿論よ」
 康一「何を言う・・・困った奴等だ・・・」
 紀子(時計を見て)「お兄さん、銀座歩くんだったら、もうそろそろご飯にしないと・・・」
 康一「そうか(と自分も時計を見て)・・・九時四十五分だったね。まだ大丈夫だね」
 史子(康一のご飯をよそいながら)「大和のおじいさま、この前はいつだったかしら・・・」
 紀子「終戦後の翌年よ。まだ入場券がなくて、東京駅でまごまごしちゃったじゃないの」
 史子「そうそう、あたしまだモンペはいてた」
 康一「なかなか、達者なお爺さんだよ」
とご飯をたべはじめる。
 史子「やわらかいおいしいご飯・・・」

  26 朝 北鎌倉 間宮家の庭
竿に干された洗濯物に朝の光が明るい。

  27 同 二階
のんびりとキセルで煙草をふかしている茂吉老人(周吉の兄、73)。
一方、周吉が古画の軸を鴨居にかけている。
 周吉(眺めて)「これ、大和の家の離れにかかってたの覚えてますよ」
茂吉老人は耳が遠い。
 周吉「――もう一本、兄さん、山水のがありましたね、やっぱり大雅堂ので・・・」
 茂吉「ウム?」(と振り向く)
 周吉(少し大きい声で)「大雅堂の扇面の・・・」
 茂吉(コクリコクリ頷いて)「・・・あれは売ってしもうた・・・」
 周吉「そうですか。――これもなかなかいいなア・・・」
 茂吉「・・・何もかも高うなりよって・・・えらい世の中じゃ・・・」

  28 下の部屋
志げがお茶を焙じている。
 志げ「ご苦労ねえ、日曜なのに・・・」
康一が出勤の仕度をしている。
 康一「いやア――。帰りに何か買ってきましょうか、おじいさんのご馳走・・・」
 志げ「でも、固いもんだと召上れないから・・・」
 康一「そうですね。――じゃ行ってきます」
 志げ「ご苦労さま」
康一、出てゆく。「行ってらっしゃい」「行ってらっしゃい」と送り出す声。
志げ、お茶を二つ持って立ってゆく。

  29 台所
史子と紀子が顔をよせて何か計算している。
志げがお茶を持って来て、
 志げ「紀ちゃん、これおじいさまに――」
 紀子「はい」
志げ、渡して風呂場の方へ出てゆく。
 紀子「じゃお姉さんそれでいいのね?」
 史子「ええ」
紀子、お茶を持って出てゆく。

  30 二階
紀子がお茶を持ってくる。
 紀子(茂吉に)「おじいさま、お茶――」
 茂吉「アア・・・紀子さん、いくつになンなさった?」
 紀子「二十八です」
 茂吉(聞えず)「アア?」
 周吉「二十八になりましたよ」
 茂吉「ああ、そうかい」
 周吉「もうそろそろやらないと・・・」
 茂吉(聞えたのかどうか)「ウーム・・・嫁にゆこじゃなし壻取ろじゃなし、鯛の浜焼き食おじゃなし・・・ハハハハハ」
周吉、笑って紀子を見る。
紀子、苦笑して立ち、自分の机の上のハンドバッグを持っておりてゆく。

  31 台所
史子が洗濯をしている。紀子が戻って来る。
 紀子(百円札を幾枚か出して)「じゃお姉さん、五百七十円――」
 史子(手を拭きながら)「おつりね?」
 紀子「いいわよ」
 史子「よかないわよ。あるのよ(とエプロンのポケットから十円札を出して、中の三枚を渡す)はい」
 紀子「どうも・・・」
 史子「でも、あんなご馳走、うちでこしらえりゃ三分の一で出来ちゃうわね」
 紀子(笑って)「だけどあんなにおいしくない」
 史子「だけどみんなでたべられる(と笑って)――あ、忘れてた。銀座でコーヒーのんだの、いくらだった?」
 紀子「いいのよ。あれ、あたしのおごり」
 史子「駄目よ。いくら?」
 紀子「いいってば」
と出てゆく。
 史子「じゃご馳走さま」

  32 部屋
紀子、来て、ハンドバッグをそこのミシンの上に置き、また台所へ戻りかける。
「叔母ちゃん――」と、実の声。
 紀子(見て)「なアに?」
実が子供部屋から顔を出して手招きしている。
 紀子「何よ?」
と行く。

  33 子供部屋の前
紀子、来て、
 紀子「なに?」
 実「大和のおじいちゃんツンボかい?」
 紀子「ツンボじゃないわよ」
 実「だって、さっき聞えなかったよ」
 紀子「聞えるわよ」
と台所へ戻ってゆく。
二階から茂吉老人がおりてくる。

  34 部屋
茂吉、座敷に来て、ぼんやり庭を眺めてたたずむ。
勇がチョコチョコと出てくるが、茂吉は気がつかない。
 勇(茂吉を見上げて)「バカ・・・」
茂吉、聞えない。
 勇(もう一度)「バカ・・・」
まだ聞えない。勇、廊下の方を振り返り、戻ってゆく。
廊下に実がいて、勇を唆(そそのか)す。
 実「もっとデッカイ声で言えよ」
勇、またチョコチョコと茂吉のところへ戻って、
 勇(一層大きい声で)「バカ・・・」
茂吉、初めて気がついたらしく振り返る。勇、驚き、あわてて逃げてゆく。
 茂吉「ハハハハハハハ」
と笑って、また庭を眺める。
鴬の声――。

  35 長谷大仏の境内
実と勇が石蹴りか何かして遊んでいる。
茂吉と紀子がそこの石に腰かけて休んでいる。
 紀子「おじいちゃま、お疲れにならない?」
 茂吉「・・・そうかい・・・紀子さん、幾つになったい?」
 紀子(笑って、耳のそばで)「二十八です」
 茂吉「ウーム・・・もう嫁さんに行かにゃいかんなア」
 紀子(いたずらっぽく)「おじいさま、いいとこありません? 大和に――」
茂吉、聞えないらしく、黙って景色を眺めている。
 紀子(笑って)「とてもお金持で、一生なんにもしないで遊んでられるようなとこ・・・おじいちゃまご存じありません?」
 茂吉(聞えず)「――ああ、いい天気だ」
紀子、笑いながら、ふと向うに誰かを認め、会釈して立ってゆく。
矢部謙吉の母親たみ(54)が孫の光子(3)をつれて、実たちのところに立っている。
 紀子「こんにちは」
 たみ「こんにちは」
 紀子(蹲んで)「みっちゃん、いいわねえ、おばアちゃまと、――どこ行くの?」
 たみ「あんまりお天気がいいもんですから・・・」
 紀子(頷いて、光子に)「お父ちゃま、お留守番?」
 たみ「いいえ、お宅のお兄さまと・・・」
 紀子「ああ、学会ね、今日・・・」
 たみ「なんですか、あれでお役に立つんでしょうか、さぞお兄さま、ご迷惑だろうと思ってねえ・・・」
 紀子「そりゃ謙吉さんの方がよっぽどご迷惑よ。――(そして再び光子に)綺麗なおべべねえ・・・」
 たみ「ああ、大和からお客さま、おいでンなったそうで・・・」
 紀子「ええ、今そのお伴・・・」
 たみ「そうですか」
その茂吉の両側に、いつのまにか実と勇が腰かけて、足をブラブラさせている。
 実「勇、またおじいちゃんにキャラメル食わしてみろよ」
勇、茂吉にキャラメルを出す。
茂吉、一つ取って口に入れる。
 実(見て)「あ、また紙食っちゃった!」
――長閑(のどか)な春の一日である。

  36 芝居の絵看板

  37 歌舞伎座の玄関前
「夜の部」の開演中である。

  38 その客席
茂吉老人と周吉夫婦――茂吉は耳に手屏風をして一心に見ている。
舞台から聞える名調子・・・。

  39 ラジオ
それが中継されている。

  40 築地の料亭「田むら」のアヤの部屋
アヤと紀子がそれを聞いている。
 アヤ「おじいさん、びっくりしちゃってるわよ、きっと」
 紀子「でも、聞えるかな、ずいぶん耳遠いのよ」
 アヤ「大丈夫よ。だから前の方のいい席取ったんだもの」
と立って行ってラジオのスイッチを切る。
 アヤ「おそいわねえおタカ、いつまでお風呂這入ってンだろう」
 紀子「おタカ、なんだって飛び出して来ちゃったの?」
 アヤ「なんだか・・・あたしがちょいと丸ノ内まで行って帰って来たら、ここにすわって、目真っ赤にしてンの。どうしたのって聞いたら、今晩泊めてね、って言うの。(と両手の人差指を戦わせて)やったらしいのよ」
 紀子「だって評判だったじゃないの、おタカんとこ円満だって」
 アヤ「円満すぎたんだよ、きっと」
障子がありて、その話題の安田高子(28)が湯上り姿で現れる。
 高子「アア、紀子来てたの?――いいお湯だった・・・。いつ来たの?」
 紀子「さっき――」(と笑って見返している)
 高子「何よ。何見てンのよ」
 アヤ「円満すぎたのよ、ねえ」
 高子「何が?」
 アヤ「あんたンとこ」
 高子「円満なもんか!」
 紀子「なんで喧嘩したの?」
 アヤ「つまんないことなのよ!」
 高子「つまんなかないわよ!」
 紀子「どうしたの?」
 高子「犬がいるでしょ?」
 紀子「どこに?」
 高子「うちによ、チビ――」
 アヤ「その犬が旦那さまのパイプ噛っちゃったんだって」
 高子「だって置きっ放しにしとくんだもの、犬だって噛るわよ」
 アヤ「いいパイプなんだって、ロンドンかどっかの」
 高子「それがあたしの責任だってのよ。しゃくにさわったから毎日ニンジンばっかり食べさせてやった・・・」
 紀子「犬、ニンジンきらい?」
 高子「犬じゃないわよ、うちによ」
 アヤ「馬なら張り切っちゃうんだけどね」
 高子「バカア!――それでとうとう、今朝ぶつかっちゃったの正面衝突――」
 紀子「なんだ、そんなこと?」
 高子「そういうけど、くやしかったわよ」
 紀子「そりゃがまんしなきゃ、そのくらいのこと」
 アヤ「あんた、お嫁に行ったんでしょ?」
 高子「そうよ」
 アヤ「だったらそのくらいのこと、ねえエ」(と紀子を見る)
 紀子「そうよ、あたりまえよ、ねえエ」
 アヤ「旦那さまなんて、みんなそんなもんよ。だから、あたしたちお嫁にいかないのよ、ねえエ」
 紀子「そうよ。ねえエ」
 高子「何言ってンの! 実績もないくせに!」
 アヤ「実績?」
 高子「お嫁に行かなきゃわかンないのよ!」
 アヤ「行ってからわかったんじゃおそいのよ! ねえエ」
 紀子「ねえエ」
 高子「あたし帰ろっと!」
 アヤ「そりゃ、帰ンなきゃ、ねえエ」
 紀子「そうよ、あたりまえよ、ねえエ」
 アヤ「ニンジンたべたんだもの、ねえエ」
 高子「あたしいるっ!」
 紀子「帰ンないの?」
 高子「帰ンないわよ!」
 アヤ「えらいえらい! 泊ってらっしゃいね」
 高子「いやよ!」
 アヤ「じゃ帰ンの?」
 高子「いやよ!」
 アヤ「どっちよ?」
そこへアヤの母親のぶ(52「田むら」の女将)が来る。
 のぶ「高子さん、お宅からお電話よ」
 高子(急にすまして)「あ、そうですか、どうも・・・」
と、いそいそ出てゆく。
アヤと紀子、笑って見送る。
 のぶ「ねえアヤちゃん、どうだろうねえ、あのこと・・・」
 アヤ「なアに?」
 のぶ「あのことさ、お願いしてみようか。ねえ、紀子さんに――」
 アヤ「なんのこと?」
 のぶ(左の胸を叩いて)「ここだよ、ここ」
 アヤ「ああ、心臓」
 のぶ「うむ」
 アヤ「ねえ紀子、お兄さんに一度診ていただきたいって言うのよ。伺っていいかしら、病院――」
 紀子「小母さま?」(とのぶを見返る)
 のぶ「ええ、なんですか、ここんとこ、ちょいとご酒いただくでしょ、これッくらいの小ちゃなお猪口に二、三杯でもう・・・」
 アヤ「飲まなきゃいいのよ」
 のぶ「そうはいきませんよ、お客さまの相手だもの。――もうドッキンドッキンして(と胸の上で手を動かし)こんななの。温灸がいいって聞いたもんだから、ホラ、横浜の先の、なんてッたッけ、ホラ・・・」
 アヤ「わかったわよ、もう」
 のぶ「あんたじゃありませんよ。紀子さんですよ」
 アヤ「いいわよ。あたしから話しとく。ねえ紀子・・・」
 紀子「ええ、そう言っとくわ」
 のぶ「そうですか、すみませんねえ。お願いしますわ。――(と戻りかけて)そうそう、専務さんがいらしってるわよお二階・・・」
 紀子「お一人で?」
 のぶ「ええ。――たった今・・・」
と出てゆく。
 紀子「ちょっと行って会ってこようかな」
 アヤ「なアに?」
 紀子「――(時計を見て)まだ大丈夫ね」(と立つ)
高子が帰り仕度で這入ってくる。
 高子「紀子、まだいる?」
 紀子「帰ンの? あんた――」
 高子(それには答えず、アヤに)帰るわよ、あたし。――どうもいろいろ・・・」
 アヤ「何言ってンの。ま、一ぺんおすわんなさいよ」
 高子「そうしちゃいられないの。待ってンのよ、尾張町の角で・・・」
その間に、紀子は笑いながら出てゆく。
 アヤ「誰が? ニンジン?」
 高子(上機嫌で)「そう。ごめんなさい」
 アヤ(いささかむくれて)「帰んなさい! さっさと!」
 高子「チャア子の結婚式、あんた、行くわね?」
 アヤ「行くもんか、そんなとこ!」

  41 二階の廊下
紀子が来る。

  42 そこの座敷
専務の佐竹が一人――
紀子、這入って来る。
 紀子「ごめん下さい」
 佐竹「おウ、来てたのか。――こっちおいで」
 紀子「ええ。――お出かけになったあとヒル・エンタプライズからお電話がありました」
 佐竹「ああ、どうしたい?」
 紀子「おっしゃったように返事しときました」
 佐竹「ありがとう、そうかい。――ま、一杯いこう」(と盃をさす)
 紀子(受けて乾し)「どうも・・・」(と返す)
 佐竹「お・・・(と受けて)ちょうどよかった、ちょいと話があるんだ。――ねえ君・・・」
 紀子「なんですの?」
 佐竹「どうだい、お嫁にいかないか?」
 紀子「・・・?」(笑っている)
 佐竹「いけよ、好い加減に・・・、いいのいるんだ」
 紀子「・・・」(ニコニコしている}
 佐竹「おれのちょいと先輩で、やっぱり商大出た奴でね、長いことカルカッタに行ってたんだ。真鍋って、なかなか出来る奴なんだよ。――童貞のほどは保証しないが、初婚なんだ。おお写真があるんだ」
と鞄を取って、四、五枚の写真を出し選ぶ。
 佐竹「よくわかンねえな――(と中から一枚)――こいつだよ(そしてまた一枚――)これもそうだ」(と出す)
ゴルフの写真で、クラブを携えてうつむき、二枚とも全然顔がわからない。
 佐竹「ゴルフもおれよりうまいし、男前も・・・おれよりちょいといいかな」
 紀子(笑いながら時計を見て)「あたし・・・」
 佐竹「なんだい?」
 紀子「ちょいと人を迎えに行かなきゃなりませんから・・・」
 佐竹「なんだい、逃げるなよ」
 紀子「いいえ、母たち歌舞伎座へ来てるもんですから・・・」
 佐竹「そうか。――じゃ、おれの自動車(くるま)使えよ」
 紀子「じゃ、新橋まで・・・」
 佐竹「ああ、いいよ」
 紀子「では、ごめん下さい」(と立ちかける)
 佐竹「オイ、これ(とそこの写真を取って)持ってけよ。持ってって、よく相談してみろよ。いいからさ、持ってけよ」
 紀子「じゃ、拝借して・・・(と受取り)ごめん下さい」
 佐竹「ああ」

  43 廊下
紀子、出て来て、階段をおりてゆく。

  44 同夜 間宮家 台所
史子がガスの湯を土瓶についで、持ってゆく。

  45 部屋
東京から帰って来たままの茂吉、周吉夫婦、紀子、それに康一も加わって、それぞれ歌舞伎座の筋書を見たり、夕刊を読んだり、お菓子をたべたりして、くつろいでいる。子供たちはもう寝たらしい。史子がお茶を持って来る。
 史子「お待遠さま・・・」
 志げ「あ、どうも・・・」
 史子(茂吉がぼんやりしているのを見て志げに)「大和のおじいさま、もうおねむいんじゃありません?」
 志げ(茂吉に)「お兄さま、お疲れになったでしょう?」
 茂吉「いやア・・・」
 志げ「おやすみになりましたら? ――明日お早いんですし」
 茂吉「――よかったねえ、今日の芝居は・・・若いもんがなかなかようやりよる。どうしてどうして、えらいもんじゃ」
 康一「そうですか。じゃ僕も一度見るかな」
 志げ「ようござんしたわ、お気に召して・・・」
 周吉「うん」
 茂吉「――寝ようか・・・」
 周吉「寝ましょうか」
 茂吉「――一度、大和へもこんかな」
 周吉「ええ、行きますよ。これで紀子でも片づいたら・・・」
 茂吉「ウム? ウーム、来た方がええ。お志げさんもな。大和はいいぞ。まほろばじゃ。――いつまでも若いもんの邪魔しとることない・・・」
 周吉「そうですよ、この頃は康一がなにもかもやっててくれるんで・・・」
 志げ「伺いますわ、是非・・・」
 茂吉「――ドラ、寝るか・・・。おやすみ」
 康一「おやすみなさい」
 史子「おやすみなさい」
 紀子「おやすみなさい」
 周吉「おやすみ」
 志げ「おやすみ」
で、茂吉と周吉夫婦が立ってゆくと、史子と紀子もあとを片づけて、台所へ運んでゆく。

  46 台所
史子と紀子――。
 紀子「ねえお姉さん、今日専務さんからお嫁にいかないかって言われちゃったの」
 史子「そう。大和のおじいさまにもあンのよ、そんなお話」
 紀子「あ、そう。急に売れッ子だな、凄いな」(と笑う)
 史子「どうなの? 専務さんのお話って――」
 紀子「よく聞かなかった、いそいでたから・・・。いい、このお湯いただいて――?」
 史子「ええ、いいわ」
紀子、そこのヤカンを持って出てゆく。
史子も片づけ終って電灯をピチンと消す。

  47 病院の窓外
青桐の並木の若芽が清々しい。

  48 同 研究室
康一と謙吉、ほかに二、三人の医員がそれぞれ何か調べている。
看護婦が来る。
 看護婦「間宮先生、ご面会です」
 康一(顕微鏡をのぞいたままで)「だれ?」
 看護婦「築地の田村さんておっしゃるご婦人の方で・・・」
 康一「ああそう、隣へお通しして――」
看護婦、出てゆく。
 康一(立上って、謙吉に)「あ、君、六号室の、反応出たかい?」
 謙吉(首をかしげて)「出ませんが・・・」
 康一「おかしいな」
と首をかしげながら出てゆく。

  49 隣室
のぶが待っている。
康一が来る。
 康一「あ、いらっしゃい。初めまして。間宮です。」
 のぶ「初めまして・・・。アヤ子の母でございます」
 康一「さ、どうぞ」
 のぶ「はあ、ありがとうございます(と腰をおろしながら)――なんですか、いつもいつもアヤ子がもう、紀子さんに・・・」
 康一「いやア・・・なんですか、心臓がお悪いとか・・・」
 のぶ「はあ・・・それでね、ぜひ一度先生に診ていただきたいと存じましてね」
 康一「いやア、僕でわかるかどうですか・・・」
 のぶ「いいえ、そんな・・・。それでね、おいそがしいのにかえってご面倒かとも存じましたけどね・・・」
 康一「いや、そんなことありません」
 のぶ「さようですか。――でも、先生、紀子さんもほんとにいいお話で、アヤ子とも、よかったよかったって、お噂してるんでございますよ」
 康一「なんでしょうか」
 のぶ「アラ、先生、専務さんからのご縁談・・・」
 康一「ああそうですか」
 のぶ「とてもいい方なんでございますよ。お立派な・・・。お若いのに松川商事の常務さんでね、とても評判のいい切れる方なんでございますよ」
 康一「そうですか」
 のぶ「お国はたしか四国の善通寺で、なんですか、とても旧家だとかって・・・まだお邸がそのまま残ってるなんておっしゃってましたわ」
 康一「そうですか。――じゃ拝見しましょうか」
 のぶ「はあ」
 康一「どうぞ・・・」(と立つ)
 のぶ「さよですか。ほんとにおいそがしいとこ、申し訳ございませんですねえ・・・」
 康一「いやア」
と先に立って出てゆく。

  50 廊下
康一「どうぞ」とのぶを案内して、向うの診察室へ這入ってゆく。

  51 夕方 北鎌倉 間宮家の前
康一が帰って来る。

  52 玄関
康一、這入って来る。
 康一「ただ今――」
史子が出迎える。
 史子「お帰ンなさい。お早かったのね」
 康一「うむ」

  53 部屋
康一と史子、来る。
さっそく、着更えにかかりながら――
 康一「紀子、まだかい?」
 史子「ええ、今日はお友達のご婚礼――」
 康一「だれ?」
 史子「チャア子さんて、あんた、ご存じないわ。――お風呂沸いてンのよ」
 康一「そうか」
 史子「今お父さま這入ってらっしゃる」
 康一「そうか。――今日、来たよ、築地の・・・」
 史子「ああ、アヤ子さんのお母さん?」
 康一「うん、大へんな奴だよ」
 史子「よっぽどお悪いの? 心臓――」
 康一「いやア、耳鼻科へ廻してやった。鼻が悪いんだよ」
 史子「まア・・・」
と笑って、康一のぬいだワイシャツを丸めて持ってゆく。

  54 風呂場の前
史子、来て、風呂場へ声をかける。
 史子「お父さま、いかがです? お加減――」
 周吉「ああ、いい湯だよ、ちょうどいい」
 史子「そうですか」
とワイシャツを洗濯籠に入れ、洗面所の棚の小さな薬瓶を持って戻ってゆく。

  55 部屋
康一、着更え終っている。史子、来て、薬瓶を渡す。
康一、受取って、足の指に塗る。
 康一「なアおい、紀子の話、専務からの・・・」
 史子「――?」
 康一「なかなかよさそうなんだよ」
 史子「お聞きンなったの?」
 康一「うん、築地の婆さんが、今日そう言ったんだが、どっかの会社の常務なんだそうだ」
 史子「そうですか。――見たとこ、とても立派そうな方・・・」
 康一「見たのか」
 史子「ええ、写真で・・・」
 康一「写真持ってるのか、紀子――?」
 史子「ええ」
勇がブラッと出て来る。
 史子「勇ちゃん、あッち行ってらっしゃい」
 康一「どんな男だい?」
 史子「ゴルフの写真で、顔はよく見えないんだけど・・・(と見ると、勇がまだ立っている)あっち行ってらっしゃい」
 康一「そりゃよさそうじゃないか」
 史子「あたしもそう思うの」
 康一「もう一度だれかに聞いてみようか」
 史子「ええ。きっといいんじゃないかと思うのよ。なんだかそんな気がするの。――(と見ると、まだ勇が立っているので)あッち行ってらっしゃい! 勇ちゃん!」
勇、おこられてブラリと出てゆく。

  56 階段の下
勇、来て、二階へ上ってゆく。

  57 二階
実が声を出して勘定しながら、志げの肩を叩いている。
勇が来て、黙ってそれを見て立つ。
 実「・・・二、三、四、五、六、七、八、九、百! ――叩いたよ、二百、二十円・・・」
 志げ「もう少しお負けしてくれなきゃ・・・」
 実「勇、おばアちゃんの肩叩けよ、お負けの分――」
勇、黙って叩きはじめる。
 志げ「こんだ勇ちゃん叩いてくれるの、ありがとう」
 実「ねえおばアちゃん、二十円貰うだろう、三百円になっちゃうんだよ」
 志げ「そう。――そんなにお金ためてどうするの?」
 実「レール買うんだよ、汽車の」
 志げ「持ってるじゃないの、あんなに」
 実「うんと長くするんだよ。なア勇」
 勇「うん」(と頷いて叩きつづける)

  58 下の部屋
湯上りの周吉が縁側の竿に手拭をかけている。史子の姿はもう見えない。
 周吉「ああ、いいお湯だった・・・いまちょうどいい・・・」
 康一「ねえお父さん――」
 周吉「ウム?」
 康一「紀子に縁談があるんですがね」
 周吉「ああ、そうかい」
 康一「なかなかよさそうなんですよ」
 周吉「そう。そりゃいいね。――もうやらないといけないよ」
 康一「二十八ですからね」
 周吉「そうだよ。いい話だといいね」
 康一「いいんですよ。調べてみようと思うんですが・・・」
 周吉「そりゃア調べとくれよ、ご苦労だけど・・・さっそくね」

  59 卓の上
パラピン紙包の花束、三つ四つ――
そこに明るい笑い声が聞えて・・・

  60 同夜 銀座の喫茶店
披露宴からの帰りの紀子、アヤ、高子、それに同じ仲間の高梨マリ(二十八)が明るく談笑している。ショートケーキに紅茶――。
 マリ(笑いながら)「――でも、そんなこと言っちゃ可哀そうよ。」
 アヤ「そうかしら」
 高子「そりゃ誰だって澄ますわよ」
 紀子「でもチャア子のあんな澄ました顔、初めてよ。ねえ」(とアヤを見る)
 アヤ「うん。いやに気取っちゃって、おチョボ口しちゃってさ」
 マリ(高子に)「あんた、どこだった? 新婚旅行――」
 高子「修禅寺・・・」
 マリ「あたし熱海・・・。行ったら雨に降られちゃって、その晩から三日間、どッこへも出られないのよ。それで、何していいかわかンないでしょ。毎日雨降ってンだもの」
 アヤ「ちょとマリ、あんた何言おうと思ってンの?」
 マリ「報告よ、ドキュメンタリー。――(つづけて高子に)だから、番頭さんにそう言ってコマ買って来て貰ったの」
 高子「コマ?」
 マリ「うん。あるじゃない。ホラ、国旗かなんか描いてある・・・あれ廻しッこしてたのよ」
 アヤ(横から)「あ、そう」
 マリ「とても、うち、強いのよ」
 アヤ「あ、そう」
 マリ「だもんだから・・・」
 アヤ「あ、そう」
マリ、変な顔をして話を切る。
 高子「駄目よ。未婚者のいる前で、毒よ」
 アヤ「バカバカしい。あたしたち、コマなんか廻さないわよ。ねえエ」
 紀子「赤ン坊じゃないんですものねえエ」
 高子「わかンないのよ、ねえエ、未婚者には、ねえエ」
 マリ「そうよ。ねえエ」
 高子「可哀そうなもんよ、ねえエ」
 アヤ「おタカ! あんた言うことないよ! 何さ!」
 マリ「どうしたの?」
 アヤ「だらしがないのよ、こいつ」
 高子「あたし帰ろッ!」
と立上って、みんなが本当かなと見ている前で、向うの席に腰かける。
 高子「結婚してみなきゃ、人間のほんとの幸福なんてものはわかンないのよ! 未婚者にはとやかく言う権利なし!」
 アヤ「おっしゃいますわね、ニンジン女史――」
 高子「未婚者には権利なし!」
 アヤ「――幸福なんて何さ! 単なる楽しい予想じゃないの! 競馬にいく前の晩みたいなもんよ。明日はこれとこれ買って、大穴が出たら何買おうなんてひとりでワクワクしてるようなもんよ」
 高子「違う! 権利なアし!」
 マリ「権利なアし!」
 アヤ(マリに向き直って)「あんた何さ!」
 紀子「しっかりしっかり!」
 マリ「あたしも帰ろッ!」(と立上る)
 アヤ「帰れ帰れ! 幸福なる種族!」
マリ、高子の席へ行って腰かける。
 高子「ねえ、一ぺん鎌倉行かない? 紀子ンとこ――」
 紀子「いらっしゃいよ! いいわよ、これから・・・」
 マリ「今度の次の日曜日、どう?」
 アヤ「あたしはいつだっていいわよ、未婚者だもの、ねえエ」
 高子「まだ言ってる!」
で、みんな、明るく笑う。

  61 同夜 間宮家 茶の間
みんな寝静まって、座敷との境の襖もしまり、史子だけがひとり翻訳小説か何かを読みながら、紀子の帰りを待っている。
玄関があく。
 紀子の声「ただ今――」
 史子「紀子さん?」
 紀子「もうしめていい?」
 史子「ええ」
紀子、花束やお菓子の小箱などを持って、来る。
 紀子「ただ今」
 史子「お帰ンなさい。どうだった? チャア子さん――」
 紀子「とても可愛かった。立派なご披露・・・」
 史子「お洋服?」
 紀子「ううん、お振袖・・・。(土産のショートケーキを出して)お姉さん、たべない? ほんの少し・・・」
 史子「まア、ショートケーキ、おいしそうねえ」
 紀子「帰りに銀座へ出たの。――(と茶箪笥から皿やフォークを出しながら)今度の第二日曜、みんなで鎌倉へ来るって言うのよ」
 史子「そう。じゃ何かご馳走考えなきゃ」
 紀子(皿とフォークを出して)「はい、どうぞ」
 史子「あなたは?」
 紀子「あたしいいの」
 史子「そう。じゃあたし頂こう」(と食べはじめる)
 紀子「面白いのよお姉さん、あたしたち。集まるでしょ、いつも二タ組に分れちゃうの、お嫁に行った組と行かない組と。――今日もアヤがひとりで大奮戦――」
 史子「どうして?」
 紀子「だって、あたしたちのこと未婚者、未婚者って軽べつするんだもの」
 史子「だったら、あなたも早くお嫁に行けばいい」
 紀子「お姉さんも向こう組?」
 史子「そうよ」
 紀子「なアんだ。――じゃあたしも行っちゃおうかな」
 史子「行っちゃいなさいよ。――どうなの? 専務さんのお話――」
 紀子(いたずらっぽく)「いいんだって・・・とってもいいんだって専務さんおッしゃンのよ」
と笑って、花束を持って立ってゆく。
と、座敷の襖がスーッとあいて、寝巻姿の康一が顔を出す。
 史子(ハッと見て)「ああびっくりした。起きてらしッたの?」
 康一(あわてて制し、ヒソヒソ声で)「おい、専務の話、いやでもなさそうじゃないか」
 史子(これも声をひそめて)「そうなのよ大丈夫らしいわ」
 康一(ヒソヒソと)「紀子、乗気らしいね。ちょいと聞いてみろよ」
とたんにハッとし、あわてて引ッこむ。
紀子、戻って来て、なんにも気にせず、開いている襖をしめる。
 史子(わざと、ショートケーキをたべてごまかす)「おいしいわ、ほんとうにおいしいわ、昔の味・・・」
 紀子「そう。じゃ今度沢山買ってくる」
 史子「どうぞ」
紀子、そこの湯飲みを持って出てゆく。
と、またスーッと襖があいて、康一が顔を出す。
 史子「――?」
 康一(またヒソヒソと)「おい、紀子の奴ヘソ曲りだから、うまく聞くんだぞ」
 史子(これもヒソヒソと)「ええ、わかってる。まかせといて」
 康一(なおも小さく)「お父さんも大体賛成なんだってこと言ってみろよ。あんまりくどくなくな」
 史子(頷いて)「ええ、大丈夫」
とたんにまた、康一、ハッとして引ッこみ、ソーッと襖をしめる。
史子も取り澄ます。
向うの廊下へ紀子が来て、タオルをはたいて掛け、部屋へ戻って来る。

  62 昼下り 間宮家の玄関前
謙吉の母のたみが、小さな風呂敷包みなど持って、やって来る。

  63 玄関
たみ、這入って来る。
 たみ「ごめん下さいまし・・・ごめん下さい」
 志げの声「どなた?」
 たみ(乗りだしてのぞき)「こんにちは。どうもご無沙汰いたしまして・・・」
 志げ(台所から)「ああ、おばさん、さアどうぞ・・・」
 たみ「そうですか、じゃちょいと・・・」
と上って部屋へゆく。
つづいて志げも手を拭きながら、部屋へゆく。

  64 部屋
たみと志げ――
 たみ「どうもいつもご無沙汰ばっかりして・・・今日、若奥さまは?」
 志げ「あ、ちょいと買物・・・。さ、おあてンなってよ」
 たみ「は――(蓋物を出して)なんですか、こんなものお口にあいますかどうですか、今日土浦から送ってまいりましたんですよ」
 志げ「まア、なんでしょう、いつもいつも・・・」
 たみ「いいえ、とんでもない。――今朝ね奥さま、妙な人がまいりましたんですよ、宅へ」
 志げ「へえ、どなた?」
 たみ「いいえね、わたしも初めてなんでございますよ。ちょいとこう頭わけてね、眼鏡かけて、このくらいの黒い鞄持ってね。――ですからわたくし、ははア税務署かなと思ったんでございますよ。ところが奥さま大違い・・・」
 志げ「どなたでしたの」
 たみ「ホラ、よくあるじゃございません興信所・・・」
 志げ「へえ・・・」
 たみ「お宅の紀子さんのこと聞きにまいったんでございますよ」
 志げ「まア、そうですか」
 たみ「ですからわたしね、ははアこりゃきっと紀子さんにご縁談があって、その下調べに来たんだなと思いましてね、先方はどなたさま?って聞いてやりましたんですよ」
 志げ(微笑して)「そう」
 たみ「そしたら、へへへへなんてごまかしてるんで、わたくししゃくにさわっちゃって、あんな立派ないいお嬢さまって滅多にないわよッ!ッておこりつけてやったんでございますよ」
 志げ「まア・・・」
 たみ「いやな奴でねえ、なんでもよく調べるんでございますよ、こちらの省二さんとうちの謙吉が同じ高等学校だなんてことまで・・・」
そこへ周吉が来る。
 たみ「まア・・・こんにちは」
 周吉「やア・・・いらっしゃい」
 たみ「いつも謙吉がごやっかいになりまして・・・」
 周吉「いやア・・・どうです、御元気ですか」
 たみ「はあ、おかげさまで・・・」
志げがお茶をいれる。
 周吉「謙吉君も立派になられて、あなたもお楽しみだ」
 たみ「いいえ、もう、なんですか、嫁が亡くなりましてから本ばっかり読んどりまして・・・」
 周吉「一昨年(おととし)でしたかな?」
 たみ(さすがにしんみりと)「はあ・・・早いもんで・・・」
 周吉「ウーム」
 たみ「お宅の省二さんも・・・」
 周吉(ふと寂しく)いやア・・・あれはもう帰って来ませんわ・・・」
 たみ「でも、このごろになってまたボツボツ南方から・・・」
 周吉「いやア・・・もう諦めてますよ」
 志げ(お茶を出す)「どうぞ」
 たみ「はあ・・・」
 周吉「これ(志げ)は省二がまだどっかで生きてると思ってるようですがね・・・」
 たみ「ご無理ございませんわ、ほんとにねえ奥さま・・・」
 志げ「・・・」
 周吉「根気よく、毎日、まだラジオのたずね人の時間なんか聞いてますよ」
 志げ「・・・人間って不思議なもんですねえ・・・今あったことをすぐ忘れるくせに、省二が元気だった時分のことハッキリ覚えてるなんて・・・」
 周吉「いやア・・・もう帰ってこないよ・・・」
みんな、しんみり、寂しくなる。

  65 五月の空
鯉のぼりの矢車がカラカラ廻っている。

  66 塀(鎌倉の小路)
その鯉のぼりの影が流れて、塀に、「夜間診察、西脇医院、内科」と横書きした看板がかかっている。

  67 その診察室
康一が主人の西脇宏三と碁を打っている。
 康一(打ちながら)「君アたしか、兵隊、善通寺だったね・・・?」
 西脇「うん、善通寺だ・・・」(と打つ)
 康一「――真鍋って男知らないかな? 松川商事の・・・」
 西脇「いやア、知らん。――なんだい・・・?」
 康一「ううん・・・知らなきゃいいんだ」
 西脇(ふと顔を上げて)「坂口は善通寺だぞ」
 康一「そうかい、坂口・・・」
 西脇「あいつに聞きゃわかるだろう、なかなか顔もひろいし・・・(盤面に見入って)――こりゃセキだな」
 康一「うん」
 西脇「この石はここか」
 康一「いや、ここだ」
で、西脇が目を探して打つと、今度は康一が考える。
表から子供の声がにぎやかに聞える。
 西脇「――ここんとこ、また、バカに子供が増えたね・・・」
 康一「うん・・・」
 西脇「日曜は殊にうるさい」
 康一「うちなんか今日は大へんだよ、大ぜい集まって来て・・・。とてもいられたもんじゃない・・・」

  68 間宮家 台所
史子と紀子が、サンドイッチを沢山こしらえている。
 紀子「お姉さん、もうこれいい?」
 史子「いいわ。持ってって」
紀子、サンドイッチの一と皿を持ってゆく。

  69 部屋
茶の間から座敷へかけてレールを敷き、本をトンネルにしたりして、子供たちが六、七人、汽車を走らせている。
紀子が来て、
 紀子「まア! たいへんねえ! ――はい、お弁当・・・(と駅売りの口まねで)お弁当ウ・・・サンドイッチイ・・・」
 実(汽車をとめて)おい、食おう、サンドイッチ! おいでよ、食べよう!」
そこへ史子がさらに次の皿を持ってくる。
 史子「はい」(と置く)
 実(仲間に)「おい、レール踏むなよ!」
みんな、サンドイッチに集まる。
 実(史子に)「ねえお母さん、レール買ってよ!」
 史子「あるじゃないの、そんなに」
 実「これ、みんなンだい。僕の八本しきゃないんだもん。買ってよ! ねえ」
 紀子(横から)「あんたのお小づかいで買やいいじゃないの」
 実「たりないよ! もっと長アくするんだい、なア勇。買ってよね、お母さん」
 史子「お父さんに伺ってみる」(と立ってゆく)
 実「頼んでよね、お父さんに。三十二ミリ・ゲージのだよ。忘れないでね、きっとだよ」
 紀子「ずるっこいの!」
 実「だまってろ! ――叔母ちゃんも買ってくれよ!」
 紀子「いやよ!」
玄関があく。紀子、立ってゆく。

  70 玄関
アヤである。紀子が出て来る。
 アヤ「こんちは!」
 紀子「あ、いらっしゃい!」
 アヤ(上りながら)「マリ、こられないんだって。電話かかって来たのよ、出がけに」
 紀子「あ、そう」
 アヤ「おタカ、まだ?」
 紀子「うん、まだ・・・」

  71 廊下
通りすがりに部屋を見て、
 アヤ「まア! 凄いわねえ!」
そして台所の史子に、
 アヤ「お邪魔にあがりました」
 史子「ようこそ・・・さアどうぞ・・・」
 アヤ「はあ・・・」
と二階へ上ってゆく。

  72 二階
卓にテーブルクロスをかけ、花、サンドイッチ、お菓子など、すでに客を迎える仕度がしてある。
アヤと紀子、上ってくる。
 アヤ「まア綺麗、これつまんないもんだけどお母さまに」
 紀子「そう、どうもありがとう」
アヤ、廊下へ出て外を眺め、
 アヤ「いいわねえ、綺麗な空! ――うちなんかまるで空ないみたい・・・」
そして部屋へ入りながら――
 アヤ「お父さまは?」
 紀子「お母さまと博物館。――マリ、なんだって?」
 アヤ「旦那さま急に出張なんだって――とっても来たがってたけど・・・」
 紀子「そう」
 アヤ「不自由なもんねえ、あたしだったら来ちゃうんだけど・・・」
 紀子「そうもいかないのよ、きっと」
 アヤ「だって、こようと思えばこられるのよ、女中だっているんですもの」
 紀子「でも、いろんなことがあるんじゃないかしら、お嫁にいくと・・・」
 アヤ(笑って)「未婚者にはわからないけど・・・」
 紀子「そう(と笑って頷き)――ね、食べない?」
 アヤ「うん。(外に目を移して)いいわねえ、鎌倉・・・。あたしもこんなとこに住みたいなア・・・」
 史子の声(階下から)「紀子さん、お電話・・・」
 紀子「はい」
と立ってゆく。

  73 階段の下
そこに電話がある。紀子が来ると、史子が台所から顔を出して、
 史子「大磯からよ」
 紀子「そう」
と電話にかかる。
 紀子「モシモシ、ああ、おタカ? どうしたの? ・・・え? ・・・あ、そう。うん・・・うん・・・あ、そう・・・」

  74 二階
アヤがまた廊下に出て空を眺めている。
紀子が戻って来る。
 紀子「おタカからよ、電話。――大磯へ行ってるんだって」
 アヤ「大磯?」
 紀子「お父さんお悪いんだって・・・」
 アヤ「うそだア! ――一昨日(おととい)の新聞に出てたわよ、おタカのお父さんの車中談・・・」
 紀子「そう? ――なアんだ、自分で言い出しといて・・・どうしてこないんだろう・・・」
言いながら、二人、部屋へ這入ってすわる。
 アヤ「振られちゃったのよ、あたしたち・・・」
 紀子「・・・」
 アヤ「ちょいとした小姑だもんねえ・・・」
 紀子「ウーム。学校時分あんなに仲よかったのに、みんな、だんだん遠くなってっちゃうのねえ・・・」(と寂しい)
 アヤ「・・・仕様がないのよ・・・そういうもんらしいわ・・・」(とこれも寂しい)
 紀子「・・・いやアねえ・・・。(気を変えて)ねえ、あとで海行ってみない?」
 アヤ「うん、行こうか」
 紀子「ね、食べない」
 アヤ「うん、食べよう」
しかし、二人とも、なんとなく気が滅入ってくる。

  75 東京 国立博物館の庭
周吉と志げがそこの芝生に腰をおろし、膝にサンドイッチを開いて、休んでいる。
 周吉「しかし、なんだねえ、うちも今が一番いい時かも知れないねえ・・・。これで紀子でも嫁にいけばまた寂しくなるし・・・」
 志げ「そうですねえ・・・。専務さんのお話、どうなんでしょう?」
 周吉「ウム・・・よきゃいいが・・・もうやらなきゃいけないよ」
 志げ「ええ・・・」
 周吉「早いもんだ・・・。康一が嫁を貰う孫が生れる、紀子が嫁に行く。――今が一番たのしい時かも知れないよ」
 志げ「そうでしょうか・・・でもこれからだってまだ・・・」
 周吉「いやア、慾を言やアきりがないよ。――ああ、今日はいい日曜だった・・・」
 志げ「ちょいとあなた――」(と向うの空をさす)
 周吉「ウム?」(と見る)
糸の切れたゴム風船が空へ上ってゆく。
 周吉「どッかで、飛ばした子が、きっと泣いてるねえ・・・康一にもあったじゃないか、こんなことが・・・」
 志げ「ええ・・・」
見上げている老夫婦。
空高く上ってゆく風船・・・

  76 夜 病院の窓外
研究室の窓が明るい。

  77 研究室
電話が鳴って、助手が出る。
 助手「ああモシモシ、そうです(そして一方へ)鎌倉お出になりました」
ほかに助手が一人。康一は本を読んでいる。
 康一「ありがとう」
と立って電話に出る。
 康一「ああモシモシ、史子か、おれだ。今晩帰らないがね。・・・うん、ちょいと気になる患者があるんだ。紀子帰って来たか。・・・そうか。専務の方の話なかなかいいんだよ。坂口に聞いたんだ。・・・ああ、帰ったら話する。・・・うん、それだけだ」

  78 間宮家の電話
史子が出ている。
 史子「そう。・・・ええ、わかりました。じゃ、おやすみなさい」
と切って台所へ戻ってゆく。

  79 台所
紀子がショートケーキを箱から出して切っている。
史子が来る。
 紀子「お兄さんお泊り?」
 史子「ええ。――(ショートケーキを見て)まア、立派ねえ、とてもおいしそう。――いくら? これ」
 紀子(切りながら)「九百円――」
 史子(おどろいて)「九百円? これ」
 紀子「そうよ」
 史子「これが? ・・・高いのねえ! そんなに高いものなの」
 紀子「そうよ」
 史子(ガッカリしたようにそこの踏台に腰をおろして)「――あたしもう食べるのいやンなっちゃった・・・」
 紀子(笑って)「何言ってンの! お皿出して――」
 史子(動かず)「――あたし、頼むんじゃなかった・・・」
 紀子(笑って)「お皿お皿――」
 史子「――ゆううつねえ。なんだってこんなもん頼んだんだろう、大失敗・・・」
と立って、戸棚から皿を出しながら、
 史子「紀子さん、半分出してね」
 紀子「あたし? いやアよ」
史子、一度出した皿をまたしまいかける。
 紀子(見て)「ああ、出す出す」
 史子(笑って)「ほんとに出すのよ」
 紀子「ええ」
 史子「はい(と皿を渡して)――でも高いなア・・・」
 紀子「でもここのが一番おいしいのよ」
 史子「でも高い。いい毛糸が半ポンド買えるじゃない。――でもいいか、たまだから」
等々、その間にショートケーキを二タ切お皿にのせ、あとを片づけて、部屋へゆく。
と、玄関があいて、男の声で――
   「こんばんは」
 紀子「どなた?」
   「矢部です」

  80 玄関
謙吉が立っている。
紀子が来る。
 紀子「いらっしゃい」
 謙吉「お兄さん今晩ひょいとすると・・・」
 紀子「ああ、今、電話があったの。お泊りですって」
 謙吉「ああそうですか」
 紀子「どうぞ――さ、お上りなさいよ」

  81 部屋(茶の間)
史子がショートケーキの皿を前に置いてすわっている。紀子と謙吉が来る。
 謙吉「こんばんは」
 史子「どうもわざわざ・・・」
 謙吉「いやア、どう致しまして――。小父さん小母さんは?」
 史子「もうおやすみ」
 紀子(自分の分のショートケーキをすすめる)「どうぞ」
 謙吉「やア、いいとこへ来ちゃったな。いいんですか、これ頂いて」
 紀子「どうぞ」
と立ってゆく。
 謙吉「今日何かあったんですか」
 史子「なアに?」
 謙吉「こんなの、お宅じゃちょいちょい召し上がるんですか」
 史子「そうちょいちょいでもないけど・・・」
 謙吉「ちょいちょい食いたいなアこんなの」
そこへ紀子が自分の分のショートケーキを持って戻って来ると――
 謙吉(紀子に)「高いんでしょうね、これ」
 紀子「ううん、安いの。ねえ」(と史子を見る)
 史子「うん、安い安い、平気平気――」
 謙吉「うまいなあ(と食べて)――紀子さんおめでたいお話あるんですってね」
 紀子「そう?」(ととぼける)
 謙吉「聞きましたよ、あるんだって」
 紀子「そう? 素敵ねえ! どこに?」
 謙吉「ねえ奥さん、あるんでしょう?」
 史子(曖昧に)「そうねえ・・・(と言葉をそらして)あんたにもあるんだってじゃないの?」
 謙吉「僕にですか?」
 史子「小母さん、そう言ってらしったわ」
 謙吉「いやア、そりゃおふくろ一人で考えてるんですよ」
 紀子「でもいいと思うな。お貰いなさいよ。ねえお姉さん」
 史子「そうよ、みッ子ちゃんにだってその方がいいわ。いいお話らしいじゃないの?」
 謙吉「いやア、おふくろが一人でヤキモキしてるんですよ。――(そして史子のショートケーキが減っていないのを見て)奥さん、召し上がらないんですか、それ。召し上らなきゃ頂きますよ」
 史子(慌てて)「食べるのよ、あたし」
 謙吉「そうですか。そうだろうなア。――しかしうまいですねえ」
 史子(ふと聴き耳を立て、緊張し)「ちょいと隠してッ!」
で、みんながショートケーキを隠すと、実が半分眠ったままフラフラ出て来て、みんなの見ている前を、寝呆け顔で便所へ行く。

  82 翌日の夕方 間宮家の前
康一が鞄のほかに細長い紙包みを小脇に抱えて帰って来る。

  83 玄関
康一、這入って来る。
 康一「ただ今――」
史子が出て来る。
 史子「お帰んなさい」
子供部屋から実が出て来る。
 実「お帰んなさい。――(紙包みを見て)あ、すごい!(と手に取り、嬉しそうに)お母さん、これ! すごいなア」
と子供部屋へ駆け戻る。

  84 子供部屋
レールや汽車を散らかした中に、勇がいる。
実が駆けこんで来る。
 実「おい、勇! レールだぞ。レール買って来たぞお父さん! しめしめ、凄いなア、凄い凄い!」
と包みをほどきかかり、勇がそばへ来て手を出すのを払いのけて、
 実「待ってろ! あわてンな! ヘヘ、ありがてえな、しめしめ!」
と包みをあけると、レールではなくパンが出てくる。
 実(一度にガッカリして)「なアんだ、チェッ!」
 勇「パンだねえ・・・」
 実(かんしゃくを起して)「やかましいやい!」
と邪険にパンを放り出す。
ころがるパン――。

  85 部屋
史子が手伝って、康一が着更えをしている。
 康一「お母さんは?」
 史子「お台所――」
 康一(呼ぶ)「お母さん・・・お母さん・・・(史子に)おい、帯――」
志げが来る。
 康一「ああ、紀子の話ですがね、なかなかいいんですよ」
 志げ「そうだってね、ゆうべ電話で・・・」
 康一「坂口の話だと、善通寺でも指折りの名家で(史子に)そこの次男なんだそうだ」
 史子「そう」
 康一(再び志げに)「紳士録にも出てるんですが、なかなか遣り手な、しっかりした人らしいんですよ」
 志げ「あ、そう。結構なお話ね。――お年は?」
 康一「明治四十三年だから・・・いくつになるかな・・・四十二ですか」
 志げ「四十二・・・?」
 康一「満だと四十ですかね」
 志げ「四十ねえ・・・」(と浮かない顔になる)
 史子「そんなお年の方なの?」
 康一「しかし年は問題にならんと思うんだ」
 志げ「でも、一ト廻りの余も違うとねえ・・・」
 史子「そうですねえ・・・」
 康一(急に不愉快になって)「じゃ幾つならいいんだい。紀子だってもう若いとは言えませんよ。そんなこと言ってた日にゃ、いつまでたったってお嫁になんかやれやしない。立派な相手ならいいじゃありませんか。こっちだってそう、ぜいたくを言える身分じゃないんだ」
 志げ「・・・でも、なんだか可哀そうな気がして・・・」
 康一「可哀そう? 何がです?」
 志げ「・・・」
 康一「何が可哀そうなんです? ――お母さんがそんなふうに考えてらっしゃるんじゃ、紀子の方がよっぽど可哀そうだ」
 志げ「・・・そうかしら・・・」
 康一「そうですよ。そうじゃありませんか。――お母さん、少し慾張りすぎてやしませんか? 今までだってそうだ」
 史子「だって、そりゃア・・・」
 康一「だって、なんだ!」
 史子「紀子さんどう思ってらっしゃるか・・・」
 康一「紀子の気持はわかってるじゃないか。お前、そう言ったじゃないか」
 史子「そりゃアあなたが・・・」
 康一「馬鹿ッ! そんなこと言うか! 好い加減なこと言うなッ!」
それで史子も口を噤(つぐ)む、三人の間に気まずい沈黙が来る。
 志げ(溜息まじりに)「――慾張りかねえあたし・・・」
康一、腹立たしげにつと立ち上って出てゆく。

  86 洗面所
康一、来て、癇癪半分、乱暴に水道をひねって、手を洗う。

  87 二階
周吉が机上に参考書などひろげて、原稿を書いている。
志げが力なく来る。
 周吉(見て)「――どうしたい?」
 志げ「――叱られちゃって・・・」
 周吉(労るように)「いいさ・・・みんなが本気で心配してるんだよ」
 志げ「・・・」

  88 下の部屋
康一が不機嫌な顔で机の前にすわっている。
実が子供部屋からパンを持って出て来る。
そしてわざと注意をひくようにパンを放り出す。
康一、つと見送る。
 実「嘘つき!」
康一、にらみつける。
 実「嘘つき! なんだい、レールじゃないじゃないか! なんだい、こんなもん!」
とパンを蹴飛ばす。
 康一「なんだ、こらッ!」
 実「なんだい、こんなもん!」
とまた蹴飛ばす。
 康一「こらッ! 何をするッ!」
といきなり立ち上って実を掴まえる。
 実「なんだい! なんだい!」
 康一「何をするかッ! 食べる物を足で蹴るやつがあるかッ!」
と殴る。実、あばれて、
 実「なんだい! なんだい!」
と振り切って、子供部屋へ駆けこんでゆく。

  89 子供部屋
実、その場にドカンとすわる。
勇がポカンとして見ている。
 実「勇・・・こい」
と勇を呼んで出てゆく。勇、ついてゆく。

  90 玄関
子供たちが出ようとすると、向うから格子戸があいて、
 「ただ今――」
と紀子が帰って来る。
 紀子「どこへ行くの? ・・・叱られたの?」
実、答えず、不機嫌に紀子を押しのけて出てゆく。
勇もついてゆく。
紀子、格子戸をしめて上る。

  91 部屋
紀子が来て、
 紀子「ただ今。――お兄さん、また子供叱ったの?」
 康一「・・・」(不機嫌に黙っている)
 紀子「ご機嫌悪いのね。――お兄さん駄目よ、自分の感情だけでおこるから・・・。可哀そうよ」
 康一(見返して)「何が?」
 紀子「そんなことしたら、子供たちいじけちゃうわ」
 康一「余計なこと言うな!」
 紀子「余計なことじゃないわ。お兄さんいつだって・・・」
 康一「人のことはいいんだ! お前、自分の心配しろ!」
 紀子(笑って)「はいはい」
と出てゆく。

  92 廊下
紀子、二階へ上りかけに台所へ声をかける。
 紀子「ただ今――」
 史子の声(台所から)「お帰んなさい」

  93 部屋
康一が不機嫌にじっと机の前にすわっている。

  94 夕暮れ時の海岸
物の影が長く砂の上に曳いて――
実と勇が海に向って踞んでいる。
実の顔が涙と砂でよごれている。
 実(海に向って)バカヤローッ! ・・・バカヤローッ!」
と叫んで、握った砂を叩きつけ、立ち上って、
 実「勇! こい!」
とドンドン向うへ歩いてゆく。勇がチョコチョコついてゆく。

  95 夜 間宮家
子供たちの食事だけがお膳の上に残してある。

  96 同 台所
志げと史子が心配そうに話している。
 志げ「・・・どこへ行ったんだろうねえ・・・」
 史子「・・・どこ行っちゃったんでしょう・・・もうお腹もすくでしょうに・・・」
 志げ「そうよ、可哀そうに・・・」

  97 そこの廊下
周吉が二階からおりて来て、台所を覗き、
 周吉「まだ帰って来ないかい?」
 志げ「ええ・・・。どこ行ったんでしょう・・・」
 周吉「ウム・・・おそいねえ・・・」

  98 部屋
周吉、来て、そこにすわるが、落ち着かず――
 周吉「もう一度見てくるよ」
と台所の方へ声をかけて立ち上る。
 史子「でもお父さま・・・」
 周吉「いや、見てこよう」
と玄関へ出てゆく。史子が送って出る。

  99 同時刻 矢部の家の前
紀子が来る。

  100 同 玄関
紀子、這入って来て、
 紀子「こんばんは――小母さん――」

  101 同部屋
たみが光子を寝かしつけている。
 たみ(身を起して)「ああ、紀子さん?」
 紀子「ええ」

  102 玄関
たみが出て来る。
 紀子「あ、小母さん、うちの子供たちお邪魔してません?」
 たみ「いいえ」
 紀子「来ませんでした?」
 たみ「ええ。――どうかなすった?」
 紀子「夕方出たっきり、まだ帰って来ないの」
 たみ「まア・・・どこにいらしったんでしょう」
そこへ謙吉が二階からおりて来る。
 謙吉「どうしたんです?」
 たみ「ねえお前、一緒に探してあげたら?」
 謙吉「そうですね、行きましょう」
 紀子「すみません」
 たみ「お前、その下駄、鼻緒ゆるいよ」
 謙吉「大丈夫だ」
 紀子「じゃア・・・」
と会釈して出かける。たみも下駄をつっかけて出て――
 たみ「もうこんなに暗いんだからね、八幡前から長谷の方の通り、ズーッと探してごらんよ。ひょいとしたら駅の近所か、待合室なんかよく見てごらん。裏駅の方もね」
と二人を送り出す。

  103 同夜 西脇医院の診察室
碁盤をはさんで康一が西脇と向いあっている。もう時間過ぎで、ほかの部屋の電灯は消してある。康一は何かゆううつそうで元気がない。
 西脇「――お前だよ」
 康一「おれか・・・」(と気がついたように、石を置く)
 西脇(打ちながら)「――しかし、なんだってそんなにおこったんだ・・・」
 康一(曖昧に)「ウーム・・・」
 西脇「あんまりおこるなよ、子供は感じ易いからな」
 康一「ウーム」(と考えている)
 西脇「おこっちゃいかん」
 康一「ウム、おこっちゃいかん」(と打つ)
 西脇(打って)「むずかしいもんだ・・・」
 康一「ウム、むずかしいもんだ・・・」
奥で電話のベルが鳴る。

  104 中廊下
電話が鳴っている。西脇の細君富子(三十六)が出て来て、聞く。
 富子「あ、モシモシ・・・ああ、さようです・・・ああ、間宮さんですか、ああどうも・・・はあ、いらしってます」
康一が来る。
 康一「僕ですか」
 富子「ええ、お宅から・・・」
 康一「どうも・・・」
と受話器を受取る。富子は奥へ戻る。
 康一「ああモシモシ、おれだ。・・・ああ・・・ああ・・・(明るく)そうか、帰って来たか・・・ああ・・・ああそりゃよかった・・・うむ・・・うむ・・・(と笑顔になって)そうか・・・うむ、じゃ、もう少ししたら帰る・・・ああ」
と受話器をかける。

  105 診察室
康一、戻って来る。
 康一(明るく)「おい、帰って来たそうだ」
 西脇「そうか、よかったな」
 康一「二人とも腹へらして、駅前のベンチにボンヤリ腰かけてたそうだ」
 西脇「そうか、可哀そうに・・・」
 康一「うん、困った奴等だよ。――(不意に)失敬するよ」
 西脇「ああ、そりゃ帰ってやった方がいい」
 康一(石を片づけながら)「――どうもだんだんおれに似てくるよ・・・悪いとこばかり似てくる・・・困ったもんだ・・・」
 西脇「そんなもんだよ――(とこれも石を片づけながら、ふと思い出して)オオ、さっきの話」
 康一「何?」
 西脇「秋田行きの・・・早速聞いてみてくれないか、向うでも急いでるんだ」
 康一「ああ、明日にでも聞いてみよう。――じゃ・・・」
と立ち上る。
 西脇「そうか」
と送って出てゆく。

  106 翌日 夕方 矢部の家の前
謙吉が帰って来る。何か気にかかることでもありそうな様子である。

  107 玄関
謙吉、這入って来る。
 謙吉「ただ今――」

  108 部屋
光子がひとりで遊んでいる。謙吉、上って来て、
 謙吉「みッ子、お利口だな」
たみが台所から出て来る。
 たみ「早かったのね」
 謙吉「うん・・・」
 たみ「お腹すいてる?」
 謙吉「うん・・・」
 たみ「いいかい、焼飯なんだけど・・・」
 謙吉「ああ」
で、たみが台所へ戻りかけると、
 謙吉「ね、おッ母さん――」
 たみ「なに?」(と振り返る)
 謙吉「話があるんだ」
 たみ「なんだい」
 謙吉「ちょいとすわってくれよ」
 たみ「なんだよ」(とすわる)
 謙吉「秋田へ行こうと思うんだけど・・・」
 たみ「秋田?」
 謙吉「うん」
 たみ「出張かい?」
 謙吉「いや、県立病院の内科部長にならないかって話なんだ」
 たみ「お前がかい?」
 謙吉「そうだよ。――今日、間宮さんから話があったんだ。出してある論文も通りそうだし、長くて三、四年の辛抱だっていうんだけど・・・」
 たみ「・・・」(考えている)
 謙吉「どうだろう?」
 たみ(気が乗らないらしい)「お前はどうなの?」
 謙吉「おれは行くつもりでいるけど・・・なんならおれだけ行ったっていいんだよ」
 たみ「そうはいかないよ」
 謙吉「じゃおッ母さんも行ってくれるかい?」
 たみ「・・・」
 謙吉「どうなんだい」
 たみ「・・・そうねえ・・・秋田ねえ・・・」
 謙吉「いやかい? 金だって今迄よりずっと多いんだよ」
 たみ「どっか東京でないものかねえ、そんなお話・・・」
 謙吉「ないよ。地方へ出るからあるんだよ。――ね、おッ母さん、おれにはいい話なんだよ」
 たみ「そりゃわかってるけど・・・」
 謙吉「それに、秋田へ行きゃア恙虫(つつがむし)もいるし、リケッチヤの研究も出来るんだ」
 たみ「・・・」
 謙吉「長くて三、四年でまた帰ってこられるんだ。初めッからそういう約束なんだよ」
 たみ「・・・」
 謙吉「断ればまたいつあるかわからない話なんだ。どうなんだ、おッ母さん」
 たみ「・・・」
 謙吉「おれは行くよ。いいね」
と立ち上る。たみは項垂れている。
 謙吉「気に入らないとむくれて物言わなくなる・・・おッ母さん、悪いくせだよ」
と二階へ上ってゆく。
たみ、悲しく鼻をすする。
光子が無心に遊んでいる。

  109 東京 ビルディングの外景
午後――三時すぎの明るい日があたって・・・

  110 専務室
専務の佐竹が、ひとり、事務を執っている。
ノックの音でドアがあいて、アヤが顔を出す。
 佐竹「よウ!」
 アヤ(明るく)「こんにちは――」
 佐竹「今日はなんだい?」
 アヤ「ちょいとそこまで来たもんだから・・・」
 佐竹「そう。ま、おかけなさい」
 アヤ「紀子は?」
 佐竹「ちょいと出てる」
 アヤ「そう――(と腰をおろして)ああゆうべいらしったわ、真鍋さん・・・」
 佐竹「ああ、ナベ。――何か言ってたかい?」
と席を立って来る。
 アヤ「別に・・・どうなの? 紀子・・・」
 佐竹「何?」
 アヤ「真鍋さんのお話――」
 佐竹「ああ、まだハッキリしないんだ。一度聞いてみてくれないかな、君から」
 アヤ「あたしから」
 佐竹「うん。――しかし、どうなんだいあいつ、一体・・・」
 アヤ「何が?」
 佐竹「あるのかい、いろ気――」
 アヤ「専務さんごらんになって、どう?」
 佐竹「さア・・・あるような、ないようなおッかしな奴だよ。――昔からあんな奴かい?」
 アヤ「そう」
 佐竹「だれかに惚れたことないのかい?」
 アヤ「さア、ないでしょ、あの人。――学校時分ヘップバーン好きで、ブロマイドこんなに集めてたけど・・・」
 佐竹「なんだい、ヘップバーンて」
 アヤ「アメリカの女優よ」
 佐竹「じゃ女じゃないか」
 アヤ「そうよ」
 佐竹「変態か?」
 アヤ「まさか!」
 佐竹「いやア、そんなとこだよ。おかしな奴だよ。――少し教えてやれよ」
 アヤ「なに?」
 佐竹「いろんなこと」
 アヤ「いろんなことって?」
 佐竹(笑ってアヤの肩を叩き)「おとぼけでないよ」
 アヤ「何さ! バカにしてるわ!」(とツンとする)
 佐竹「ハッハッハハハ」(と大きく笑う)
 アヤ「失礼よ、専務さん!」
 佐竹「どう致しまして、ハッハッハハ」
と立って行ってドアをあけ、
 佐竹「給仕! お茶! ――(振り返って)おい、コーヒー取ろうか」
 アヤ(切り口上で)「結構! いらない!」
 佐竹「ハッハッハハハ」
と笑いながら戻って来る。
 アヤ「おそいわね、紀子――」
 佐竹「帰ってこんかも知れんぞ、兄貴の病院へ寄るって言ってたから」
 アヤ「なアんだ、意地悪る! だったらさッきそう言ってくれりゃいいのに・・・」
佐竹、自席へ戻りながら――
 佐竹「どうだい、すしでも食いに行かないか」
 アヤ「そうね」
 佐竹(机上を片づけながら)「すし、何好きだい」
 アヤ「まア、トロね」
 佐竹「トロか・・・ハマどうだい? ハマグリ」
 アヤ「すきよ」
 佐竹「海苔巻どうだい? 海苔巻」
 アヤ「きらい」
 佐竹「君も変態だよ、ハッハッハハハ」
とまた大きく笑う。

  111 お茶ノ水附近の坂道
紀子が謙吉と一緒に歩いて来る。
向うに見えるニコライ堂――。

  112 ある喫茶店
窓から見えるニコライ堂――。
紀子と謙吉がお茶をのんでいる。
 謙吉「――昔、学生時分、よく省二君と来たんだよ、ここへ」
 紀子「そう」
 謙吉「ンで、いつもここにすわったんですよ」
 紀子「そう」
 謙吉「やっぱりあの額がかかってた・・・」
ミレーの「落ち穂拾い」の古ぼけた額――
 謙吉「早いものだなア・・・」
 紀子「そうねえ――よく喧嘩もしたけど、あたし省兄さんとても好きだった・・・」
 謙吉「ああ、省二君の手紙があるんですよ。徐州戦の時、向うから来た軍事郵便で、中に麦の穂が這入ってたんですよ」
 紀子「――?」
 謙吉「その時分、僕アちょうど「麦と兵隊」を読んでて・・・」
 紀子「その手紙頂けない?」
 謙吉「ああ、上げますよ。上げようと思ってたんだ・・・」
 紀子「頂だい! ――(ふと見て)あ、来たわ」
 謙吉「――?」(と見る)
康一が来る。
 康一「待ったかい?」
 紀子「ううん、そうでもない」
 康一「行こうか――(謙吉に)何食う?」
 謙吉「僕アなんでも結構です」
 紀子「おわかれなんだから、ウンとご馳走してお貰いなさいよ」
 康一「ああ、するよ。でも、あんまり高いもん駄目だぞ」
 紀子(笑って)「ケチ・・・」
 謙吉「なんでも結構ですよ」
 康一「高いもの必ずしもうまいとは限らんからね」

  113 夜 矢部の家
光子が眠っている。
将校用の行李などが出してあって、たみが謙吉の靴下を繕っている。玄関があいて、
 紀子「こんばんは――」
 たみ「どなた?」
 紀子の声「あたし――」
 たみ「ああ、紀子さん?」
と立ってゆく。
 たみ「いらっしゃい。さアどうぞ・・・」
 紀子「ごめんなさい」
と上って来る。
 紀子「みッちゃんおねんね?」
 たみ「ええ」
 紀子「お仕度ね?」
 たみ「ええ、なんですか、ちっとも手につかなくて・・・」
紀子、風呂敷包みをあけて、水引きのかかった餞別の金包みと品物を出す。
 紀子「つまらないものですけれど、これ、うちから・・・」
 たみ「まア、そうですか、ご丁寧に・・・(と頂いて)どうもすみません」
 紀子「謙吉さんは?」
 たみ「送別会で、まだ帰って来ないんですよ、明日発つっていうのに」
 紀子「小母さん、いついらっしゃるの?」
 たみ「ぼちぼち片づけて、片づき次第・・・」(と何か元気がない)
 紀子「そう。大へんねえ・・・」
 たみ(しんみりと)「――長い間いろいろお世話になりまして・・・」(と涙を拭く)
 紀子「ううん。――小母さん、向う初めて?」
 たみ「ええ・・・うちが鉄道にいたもんだから、宇都宮までは行ったことあるんですけど・・・」
 紀子「そう。でもじきよ。またすぐ帰ってこられるわよ」
 たみ「謙吉もそう言うんですけどね・・・」
 紀子「そりゃそうよ」
 たみ「そうでしょうか・・・あたしゃもうこのまま、謙吉に嫁でも貰って、一生ここにいたいと思ってたんですけど・・・」
 紀子「・・・」
 たみ「実はね。――紀子さんおこらないでね、謙吉にも内証にしといてよ」
 紀子「なアに?」
 たみ「いいえね、ヘヘヘ、虫のいいお話なんだけど、あんたのような方に謙吉のお嫁さんになって頂けたらどんなにいいだろうなんて、そんなこと考えたりしてね」
 紀子「そう」
 たみ「ごめんなさい。こりゃあたしがお肚ン中だけで考えてた夢みたいな話・・・。おこっちゃ駄目よ」
 紀子「ほんと? 小母さん――」
 たみ「何が?」
 紀子「ほんとにそう思ってらしった? あたしのこと」
 たみ「ごめんなさい。だから怒らないでって言ったのよ」
 紀子「ねえ小母さん、あたしみたいな売れ残りでいい?」
 たみ「え?」(と耳を疑うように見る)
 紀子「あたしでよかったら・・・」
 たみ(思わず)「ほんと?」(と声が大きくなる)
 紀子「ええ」
 たみ(乗り出して)「ほんとね?」
 紀子「ええ」
 たみ「ほんとよ! ほんとにするわよ!」(と思わず紀子の膝をつかむ)
 紀子「ええ」
 たみ「ああ嬉しい! ほんとね?(と涙ぐんで)ああ、よかった、よかった! ・・・ありがとう・・・ありがとう・・・」
 紀子「・・・」
 たみ「ものは言ってみるもんねえ。もし言わなかったら、このまんまだったかも知れなかった・・・。やっぱりよかったよ、あたしおしゃべりで・・・。よかったよかった。あたしもうすっかり安心しちゃった。――紀子さん、パン食べない? アンパン」
 紀子「いいえ・・・。あたしもうおいとまするわ」
 たみ「どうして? もう少し待ってよ、もう帰って来るわよ謙吉――」
 紀子「でも・・・あたしもう帰らないと・・・」
と立ちかかる。たみも立つ。
 たみ「ほんとね、今の話――」
 紀子「ええ」
と玄関へ出てゆく。
 たみ「ほんとなのね? いいのね?」
 紀子「ええ」

  114 玄関
紀子、土間へおりて、
 紀子「さよなら」
 たみ「そう。おやすみなさい。――ああよかったよかった・・・ありがとうありがとう・・・」
紀子、出てゆく。

  115 家の前の道
紀子、帰ってゆく。
と、向うから、謙吉が酒に酔った足どりでブラリブラリ帰って来る。
 紀子「お帰んなさい」
 謙吉「ああ、昨日はどうも・・・」
 紀子「明日、何時、上野――?」
 謙吉「八時四十五分の青森行ですよ」
 紀子「そう。――じゃ、おやすみ・・・」
 謙吉「やア、おやすみなさい」
紀子、いそぎ足に帰ってゆく。
謙吉、またブラブラ歩き出す。

  116 玄関
謙吉、帰って来る。
 謙吉「ただ今――」
たみが飛んで出てくる。
 たみ「お前、そこで紀子さんに会ったろう?」
 謙吉「うん」
 たみ「紀子さん、なんとか言ってた」
 謙吉「イヤ別に・・・」
上る。たみ、いそいそとついてゆく。

  117 部屋
謙吉とたみが来る。
 たみ「ねえお前、紀子さんが来てくれるって! ねえ、うちへ来てくれるってさ!」
謙吉、ドカリとそこへすわる。たみもすわって――。
 たみ「ねえお前、あたし言ってみたんだよ紀子さんに! 言ってみるもんんだよ! そしたら来てくれるってさ!」
 謙吉「どこへ――」
 たみ「うちへだよ!」
 謙吉「何しに――」
 たみ「何しにじゃないよ! お前ンとこへだよ! お嫁さんにだよ!」
 謙吉「嫁に?」
 たみ「そうだよ、嬉しいじゃないか! よかったねえ・・・」
 謙吉「・・・」(ぼんやりしている)
 たみ「あたしゃもう嬉しくって、嬉しくって・・・(と涙を浮かべて)ねえ、嬉しいだろう? あたしゃ、お前がどんなに嬉しいだろうと思ってさ・・・」(と泣く)
 謙吉「泣かなくったっていいよ」
 たみ「だってお前、そうはいかないよ・・・(と泣きながら)お前だって、嬉しかったら喜んだらいいじゃないか・・・。嬉しいんだろう? ねえ、嬉しいんだろう?」
 謙吉(ボソリと)「嬉しいさ」
 たみ「じゃ、もっと喜んだらいいじゃないか、お喜びよ。――変な子だよ、お前は・・・」
と鼻を啜り上げる。

  118 同夜 間宮家の二階
周吉と志げが寝巻に着更えて床の上にすわっている。
 周吉「紀子、まだかな」
 志げ「さっき帰ったようでしたけど・・・」
 周吉「フーム・・・」
史子がいそぎ足に上って来る。
 史子「ちょいと、お父さま――」
 周吉「なんだい?」
 史子「お母さまも――」
 志げ「なアに?」
 史子「ちょいと下へいらしって・・・」
とおりてゆく。
周吉と志げ、顔を見合わせて、立ってゆく。

  119 下の部屋
康一と、少し離れて紀子がすわっている。史子もそこにすわる。
周吉と志げが来る。
 周吉「なんだい・・・」
 康一「まアどうぞ・・・」
で周吉と志げもそこにすわる。
 康一「紀子が矢部と結婚するって言うんです」
 周吉「謙吉君と?」
 康一「ええ、いま矢部さんの小母さんと会って決めて来たって言うんです」
 志げ「・・・だって、謙吉さん、明日お発ちンなるンじゃないの?」
 康一「ええ」
 紀子「だからあたしお話して来たの」
 志げ「・・・だって、そんな大事なお話、あんた、よく考えたの?」
 康一「矢部には子供もあるんだぞ」
 紀子(頷いて)「・・・」
 康一「お前の結婚についちゃ、うちじゅう、みんなが心配してるんだ。みんなの心配がお前にわからんことはないだろう。どうしてお父さんお母さんだけにでも相談しなかったんだ。お前、よく考えたのか? 軽率じゃないか」
 紀子「・・・」
 康一「お父さん、お母さん、なんとおっしゃるか知らんけど、おれは不賛成だね」
 紀子「だけどあたし、小母さんから言われた時、すーッと素直にその気持になれたの。なんだか急に幸福になれるような気がしたの。――だからいいんだと思ったの」
 志げ「・・・だけどあんた、先イ行って後悔しないかい・・・」
 紀子「しないと思います」
 康一「きっとしないな? あとで、しまったと思うようなことないんだな?」
 紀子「ありません」
 康一「ないな?」
 紀子「・・・」
 康一「きっとないんだな?」
 紀子「ありません」
で、そのままみんなが口を噤んでしまう。白けた空気――。
 志げ「お父さん、お寒くありません?」
 周吉「ウム・・・」
 志げ「おやすみになったら――?」
 周吉「ウム・・・」
 志げ「おやすみになったら――?」
 周吉「ウム・・・寝ようか・・・」
周吉、志げ、力なく立って出てゆく。

  120 二階
周吉、志げ、上って来る。力なく床の上にすわる。
 志げ「――のんきな子・・・ひとりで決めちゃって・・・」
 周吉「ウム・・・」
 志げ「――自分ひとりで大きくなったような気になって・・・」
 周吉「ウム・・・」
紀子が上って来る。
周吉も志げもハタと口を噤む。
紀子、自分の部屋へ這入り、鏡台に向って黙って口紅を落す。

  121 下の部屋
康一と史子がまだそのまますわっている。
 史子「――ねえ、どうなんでしょう? ・・・いいんでしょうか・・・?」
 康一(不機嫌に)「いいんだろう。本人がそう言ってるんだ」
 史子「でも、今のうちだったらまだ・・・」
 康一「今だったらどうにかなるって言うのか! 本人がその気なら仕様がないじゃないか!」
 史子「・・・」
 康一「そんな奴だよ、あいつは!」
 史子「・・・」

  122 翌日 昼近くの丸ノ内のビル内
たみがセカセカと歩いて来る。
車道を突ッ切ッて、向う側のビルへ這入ってゆく。

  123 会社 専務室
ノックの音――女給仕が這入って来る。
今日は紀子ひとりで、佐竹の姿は見えない。紙片を紀子に出して。
 女給仕「ご面会です。応接室にお通ししました」
 紀子「そう」
と立つ。

  124 応接室
たみが待っている。
紀子が来る。
 たみ「ああ、先ほどはどうも・・・」
 紀子「いいあんばいに腰かけられてよかったわね」
 たみ「ほんと! あれで秋田まで立って行くんじゃ大へんですものね。運がいいのよ、あの子!」
 紀子「何かご用? 小母さん」
 たみ「いいえね、さっきあんまり混んでたもんだから、上野の停車場・・・」
 紀子「なアに」
 たみ「まわりに人がウヨウヨいるでしょう? まさかねえ、そんなところで聞けもしないし、今もデパート歩きながら考えたのよ」
 紀子「なんのお話?」
 たみ「ゆうべのこと・・・。だってあんまりうますぎちゃって、なんだか夢みたいで・・・。ねえ、お父さまお母さま、もうご承知かしら?」
 紀子「ええ」
 たみ「お兄さまも」
 紀子「大丈夫――」
 たみ「そう。ほんとね?」
 紀子(頷く)「・・・」
 たみ「そう。ああ、よかったよかった」
 紀子「でも、謙吉さん、なんと思ってらっしゃるか・・・」
 たみ「だれ? 謙吉?」
 紀子(頷く)「・・・」
 たみ「もう大へん! あの子だってゆうべよく寝てやしませんよ。夜中にまた一緒にご飯たべちゃったの」
 紀子(微笑して)「そう」
 たみ「おかげさまで、あたし長生きするわ。もうスッカリ安心しちゃった! ――(突如)じゃ、あたし帰ります。よかったよかった」
と帰りかける。
 紀子「あ、小母さん、お帰りこッちよ」
 たみ「ああこッちか・・・あ、よかったよかった」
と出てゆく。紀子、送ってゆく。

  125 鎌倉 間宮家 二階
周吉がカナリヤに餌をやっている。

  126 下の部屋
志げと史子が夏布団の綿を入れている。
 志げ「――史さん、ちょいとそこ引っ張って・・・。(そして愚痴っぽく)いいのかねえ、あんなふうにひとりで決めちゃって・・・」 史子「そうですねえ・・・何もお子さんのあるところでなくったって・・・」
 志げ「そうですよ。本人はよくったってあたしたちがついてて、なんだか可哀そうな気がしちゃって・・・」
 史子「・・・」
 志げ「――あたしもねえ、あの子が女学校出た時分から、いいお嬢さんだって言われるたんびに、どんなところへお嫁に行くんだろうと思ってたんだけど・・・」
 史子(針を受取って糸を通す)「・・・」
 志げ「田園調布の篠田さんねえ」
 史子「ええ」(と針を渡す)
 志げ「あすこへ伺うたんびに、紀子もあんな芝生のあるハイカラな家の奥さんになるんじゃないかなんて思ってたけど・・・」
 史子「そうですねえ・・・」
 志げ「――これだったら、専務さんからのお話の方がまだよかったんじゃないかしらねえ・・・」
 史子「そうですねえ・・・」
 志げ「見当もつきませんよ。このごろの若い人は・・・」
周吉、おりてくる。
 志げ「お出かけ?」
 周吉「ウム、カナリヤのエサ買ってくる」
史子、立ちかかる。
 志げ「いいわ、史さん」
とおさえて、自分だけ送ってゆく。

  127 玄関
周吉、志げに見送られて――
 周吉「何かないかい、ほかに買物――?」
 志げ「別に・・・。行ってらっしゃい」
 周吉「ウム」
と出てゆく。
志げ、見送り、部屋へ戻ってゆく。

  128 道(踏切の近く)
周吉、トボトボ歩いて来る。
向うの踏切がおりる。
周吉、そこの捨て石に腰をおろして待つ。
なんとなく嘆息がもれる。
電車が轟然と通り過ぎる。
周吉、それには無関心に空を仰ぐ。
明るい空にフワリと白い雲が浮いている。

  129 東京 築地「田むら」の廊下
女中がお銚子を運んでゆく。

  130 アヤの部屋
アヤと紀子が話している。
 アヤ「それで、もう、あんた、その話、決めちゃったの」
 紀子「うん」
 アヤ「ずいぶん急だったのね、いつ行くの」
 紀子「もう一度秋田から出てくるのよ。それからのことよ」
 アヤ「よく思い切ったわね。あんたなんて人、とても東京離れられないんじゃないかと思ってた」
 紀子「どうして?」
 アヤ「だって、あんたって人、庭に白い草花か何か植えちゃって、ショパンか何かかけちゃって、タイルの台所に電気冷蔵庫か何か置いちゃって、こうあけるとコカコーラか何か並んじゃって・・・そんな奥さんになるんじゃないかと思ってたのよ」
 紀子(笑って)「そう」
 アヤ「あたしが遊びに行くでしょ? そしたら、ホラ、だんだらの日除けのあるポーチか何かでさ、あんた、真ッ白なセーターか何か着ちゃってさ、スコッチ・テリヤか何かと遊んでて、垣根越しに、Hallo! How do you do? なんて言っちゃって・・・」
 紀子「まさかア・・・」
 アヤ「ううん、あたし、そんなふうに決めちゃってたのよ。秋田ってオバコでしょ」
 紀子「うん」
 アヤ「モンペ穿くのよ、あんた」
 紀子「穿くわよ」
 アヤ「まンずまンずおはやなんし、となりのあねさん、このごろ毎日いいお天気ばかりつづいてほんとにええあんべアだんすな――そんなこと言える?」
 紀子「それぐれしゃべれねえでなんとすけなまンず」
 アヤ「あーや、おらたまげた、東京がらここさ来たばかりで言葉もちゃんとおべエてるし、まンずあねさん、みかけによらねえンすごとご」
 紀子「ンだたって、おら秋田さ嫁ンなって行くなだもの、そんこばししゃべれねえでなんとすけなおめエ」
 アヤ「よく知ってるわねえ、あんた!」
 紀子「だって学校ン時、佐々木さん、そうだったじゃないの?」
 アヤ「ああそうか――(話題を替えて)ねえ、ホラ、いつかお宅の省二さんまだスマトラへ行く前、みんなで城ケ島へ行った事あったでしょ。――あの時の人?」
 紀子「一緒だったかしら、あの時・・・」
 アヤ「あの時分から好きだったの?」
 紀子「ううん、あの時分は好きでも嫌いでもなかったわ」
 アヤ「じゃ、いつから?」
 紀子「いつからって・・・だんだんよ」
 アヤ「そう。――ちっとも知らなかった」
 紀子「そうよ、あたしだって、結婚するなんて思わなかったんだもの」
 アヤ「じゃ、どうしてそんな気になったの?」
 紀子「偶然よ」
 アヤ「偶然?}
 紀子「とも言えないんだけど・・・なんてったらいいのかな・・・洋裁なんかしてて、ハサミどこかへ置いちゃって、方々探して、なくて、目の前にあるじゃないの」
 アヤ「うん、うちのお母さんなんかしょっちゅうよ。眼鏡かけて、眼鏡探してンの」
 紀子「つまりあれね」
 アヤ「何が?」
 紀子「あんまり近すぎて、あの人に気がつかなかったのよ」
 アヤ「じゃ、やっぱり好きだったんじゃないの!」
 紀子「ううん、好きとか嫌いとかじゃないのよ。昔ッから一番よく知ってるしこの人なら信頼出来ると思ったのよ」
 アヤ「それじゃやっぱり好きだったんじゃないの!」
 紀子「ううん、違う! この人なら心から安心出来るって気持――あんた、わからない?」
 アヤ「何言ってンの! それが好きだっていうことなのよ!」
 紀子「そうじゃない!」
 アヤ「そうよ! 好きなのよ! 惚れちゃったのよ、あんた! 本惚れよ!」
 紀子「・・・そうかしら・・・」
 アヤ「そうさ! ――ぶつよ! ブン殴りますよ!」
 紀子(笑って)「いやよ! あんたじゃ痛い!」
 アヤ「よし!」
と殴りにかかる。紀子、笑って逃げる。
のぶが這這入って来る。
 アヤ「ちょいとお母さん、つかまえてよ!」
 のぶ「何さ? ――ねえアヤちゃん、あれどこだっけ?」
 アヤ「なあに?」
 のぶ「ホラ、こないだの、あれよ。こんなの、あったじゃないの、黄いろいの。――あたし、たしかにどッかへ置いといたんだけど・・・」
 女中「おかみさん、ちょいと・・・」
 のぶ「あいよ、はいはい」
とソワソワ出てゆく。
 紀子「何探しにいらしったの?」
 アヤ「わかンない。いつもああなのよ。またくるわよ。――ねえ、そういうのかしら、ああいうの。あれじゃ、心配で、あたしなかなかお嫁にも行けやしない・・・」
 紀子「でも、あんたなんかお婿さん貰う人よ」
 アヤ「いやアよ。今時お婿さんにくるような人にろくな人いやしない」
のぶがまたソワソワ這這入って来る。
そしてなんとなく見廻して、そのまま出て行ってしまう。
 アヤ「ホラね、いつもならもう一ぺんぐらい来るのよ」
 紀子(笑って)「そう」
 アヤ「でも、よかったわね、あんた。そんなに気に入った人があって」
 紀子「――でも大へんだと思うわ、これから・・・。いろいろなことが不自由だろうし、月々の心配だって容易なことじゃないし・・・。お鍋の底ガリガリこすって、真ッ黒になって働くのよ」
 アヤ「それで、専務さんの話どうしたの?」
 紀子「断ったの、今朝――」
 アヤ「なんてった? 専務さん・・・」
 紀子「大へん古風なアプレ・ゲールだって笑ってたわ」
 アヤ「うまいこと言うわね。――いま来てるのよ、二階に」
 紀子「そう」
 アヤ「その人も一緒よ、真鍋さん。――ちょいと見てみない? 隣の部屋からのぞけンのよ。どお?」
 紀子「いやよ」
 アヤ「いいじゃないの、面白いじゃないの。ちょいといい男よ」(と立ちかかる)
 紀子「やめとく」
 アヤ「いいわよ。さ、行こう! 大丈夫よ!」
 紀子「もう沢山! もういいのよ。そう何人もお婿さんいらないの」
 アヤ「いいってば! さ、行こう行こう! あまったらあたしが貰ってやる!」
と紀子を押し出すようにして、ふたり出てゆく。

  131 廊下(階段下)
アヤと紀子、来て、いたずらっぽく忍び足で二階へ上って行く。

  132 二階廊下
アヤと紀子、足音を忍ばせて・・・

  133 夜 鎌倉 間宮家 部屋
もう十時近い。――老夫婦と康一がそれぞれの思いに浸って、ボンヤリ考えている。
 志げ(嘆息して)「・・・いいのかねえ、決めちゃって・・・」
 康一「・・・困った奴ですよ」
 周吉「ウーム・・・どんなもんか」
 志げ「なんだか可哀そうな気がして・・・」
 康一「とにかく、もう一度あいつの気持よく聞いてみるんですね」
 周吉「まアそうだねえ」
 康一「あいつだって、決めちゃったものの、また考えてるかも知れませんよ」
 周吉「ウーム・・・」
玄関があいて、
 「ただ今――」
と言う紀子の声。――周吉と志げ、つと立って、黙って出て行く。
康一も立って机の前へゆく。史子だけがそこに残る。
紀子が這入って来る。
 紀子「ただ今――おそくなっちゃって・・・」
 史子「お帰んなさい」
 紀子「アヤんとこへ寄って来たの」
 史子「そう。ご飯は?」
 紀子「少しお茶漬け食べようかしら」
 史子「そう」(と立ちかける)
 紀子「お姉さん、いいの。あたしします」
 史子「アノ、蝿帳に這入ってます、コロッケ・・・」
 紀子「そう、すみません」
と出て行く。
康一、振り向きもせず、黙って机に向っている。
史子もそのまま火鉢に向って灰文字など書いている。

  134 台所
そういう、なんとなく冷たい空気の中で、紀子は淡々としてお茶漬けを食べる。

  135 海岸
砂の上に足跡がズーッとつづいて――紀子と史子が歩いてゆく。
そして砂丘に腰をおろすと――
 紀子「ねえ・・・あの人に子供があることを心配してらっしゃるんじゃない?」
 史子「それもあるわ」
 紀子「でもいいの。それはいいの」
 史子「でも、お母さまなんか、とてもあなたが可哀そうだって、ゆうべもご飯のあと、台所で涙ふいてらしった・・・」
 紀子(さすがに胸を打たれる。が――)「・・・あたし、子供大好きだし・・・」
 史子「だけどお父さまお母さま、そうお思いにならないわ。みッ子ちゃんだってだんだん大きくなるでしょうし、あなたに赤ちゃんでも出来れば・・・」
 紀子「大丈夫――そのことも、あたし、よく考えたわ。きっとうまくやってけるわ。どこにだってよくあることだしあたしに出来ないことないと思うの」
 史子「でも・・・」
 紀子「大丈夫、大丈夫よお姉さん――(微笑を浮かべて)自信があるの、あたし」
 史子「そう。――そんならいいけど・・・」
 紀子「それに、あたしのんきなのかしら、お金のないことだって、人が言うほど苦労にならないと思うの。平気なのよ」
 史子「じゃ、いいのね?」
 紀子「ええ」
 史子「だったら、あたし、もうなんにも心配しない」
 紀子(微笑を浮べて)「ほんとはねお姉さん、あたし、四十になってまだ一人でブラブラしているような男の人って、あんまり信用出来ないの。子供ぐらいある人の方がかえって信用出来ると思うのよ」
 史子「・・・えらいわ、紀子さん――」
 紀子「どうして?」
 史子「あたしなんか、なんにも考えないでお嫁に来ちゃった・・・」
と立ち上る。紀子も立って、一緒に渚の方へ歩きながら――
 紀子「でも・・・あたしが行っちゃったら、うちの方どうなるのかしら・・・?」
 史子「そんなこと気にしなくていいのよ。お父さまお母さま、あなたの幸せだけを考えていらっしゃるのよ。そんなこと心配しなくっていいのよ」
 紀子「だけど・・・お姉さん大へんだと思うわ、いろんなこと・・・」
 史子「ううん、平気よ。――競争よ、これから、あんたと」
 紀子「なアに?」
 史子「やりくり競争! ――敗けないわよ、あたし」
 紀子「あたしも敗けない」
 史子「もう食べちゃ駄目よ、ショートケーキ」
 紀子「あたりまえよ、あんな高いもの! ・・・でも貰ったら食べる」
と笑って、駆けてゆく。
そして渚でサンダルをぬいて跣足(はだし)になる。
 紀子「お姉さん! いらっしゃい! いい気持よ」
そして明るく笑いながら、渚づたいに、二人、歩いてゆく。

  136 東京 会社 事務室
紀子がおわかれに来ている。
 佐竹「そうかい、よく来てくれたな――おめでとう」
と席を立って来る。
 紀子「どうも長い間、いろいろお世話になりまして・・・」
 佐竹「いやア、こッちこそどうも・・・。どうだい、アヤでも呼んで、どッか飯でも食おうか」
 紀子「ええ・・・折角ですけど、あたし・・・」
 佐竹「そうかい。――じゃ、まあアせいぜい大事にしてやれよ、旦那さま・・・」
 紀子(笑って頷く)「・・・」
 佐竹「ナベの奴、ガッカリするかも知れんけど、まアいいや、ハッハッハ。――しかし、もしおれだったらどうだい。もっと若くて独り者だったら・・・」
 紀子(笑っている)「・・・」
 佐竹「駄目か、やっぱり、ハッハッハハハ」
と笑って、窓際へ行き、外を眺めて、
 佐竹「おい、よく見とけよ」
 紀子「――?」
 佐竹「東京もなかなかいいぞ・・・」
と後姿で腰を叩く。

  137 鎌倉 間宮家 部屋
両親を中心に、康一夫婦、紀子、子供たちが並んで――写真屋が三脚を立てて、今それを写そうとしている。
 写真屋「どうぞこちらをご覧下さいまして」
 史子「勇ちゃん、動いちゃだめよ」
 写真屋「はい、まいります。――お母さま、もう少しこちら・・・はい、まいります」
とシャッターを切る。
 康一「やア・・・」
 志げ「どうも・・・」
でみんながくつろいで、散りかかると――
 紀子「写真屋さん、もう一枚お願いしたいの」
と、両親の方へ、
 紀子「お父さまとお母さまだけ・・・」
 康一「ああ、そりゃいい」
 周吉「そうかい。(と志げを顧みて)じゃ・・・」
 志げ「そうですか・・・」
と寄り添って、老夫婦並ぶ。
写真屋カブリをかぶって、のぞく。
みんな、ニコニコして見ている。
 紀子「素敵よ、お父さまお母さま」
 周吉「冷やかしちゃいけないよ」
 志げ「何年ぶりかしら・・・」
 周吉「ウーム・・・」

  138 海辺の波 夜
ザザーッと静かに寄せて・・・

  139 夜 間宮家 部屋
おわかれのスキヤキの宴である。それももう終って、みんな箸を置いているのに、実だけがまだ食べている。
 実(ようやく食べ終って)「ご馳走さまア!」
と箸を放り出す。
 周吉(笑って)「ずいぶん食べたねえ・・・」
勇が急に立って、トコトコ出てゆく。
 史子「勇ちゃん、どこ行くの?」
 勇「ウンコ――」
これもずいぶん食べたらしい。みんなが明るく笑う。
史子が立ってついてゆく。
 実「ご馳走さまア!」
と史子と一緒に立って出て行く。
それで静かになると――
 康一「こんなことなら、矢部を秋田へやるんじゃなかったよ」
 紀子「でも、そりゃいいのよお兄さん。――遠くへ行くんで、あたしの気持も決まったの・・・」
 周吉「いやア、三、四年なんて、すぐだよ」
 康一「そうですねえ・・・早いからなア・・・」
 周吉「この家へ来てからだって、もう足かけ十六年になるものねえ・・・」
 志げ「そうですねえ・・・紀ちゃんが小学校出た年の春でしたからねえ・・・」
 周吉「そうだよ。実よりちょいと大きいくらいだったからねえ」
 康一「こんなとこへちょこんとリボンなんかくっつけて、よく雨ふりお月さんなんか歌っていましたよ」
 志げ「可愛かったわねえ」
史子が戻って来て、そこにすわる。
 周吉「いやア・・・みんな大きくなってくよ。――康一はどうするんだい?」
 康一「やっぱりここで開業しようと思うんです」
 志げ「じゃ、今のお勤めの方は?」
 康一「いや、あれはあれで、夜だけでも・・・」
 志げ「そう・・・」
 周吉「いやア、わかれわかれになるけどまたいつか一緒になるさ。・・・――いつまでもみんなでこうしていられりゃいいんだけど・・・そうもいかんしねえ・・・」
 康一「お父さんもお母さんも、また時々は大和から出て来て下さいよ」
 周吉「ウム・・・」
 紀子「すみません、あたしのために・・・」
 周吉「いやア、お前のせいじゃないよ。いつかはこうなるんだよ」
 志げ「紀ちゃん、身体を大事にね、秋田は寒いんだっていうから・・・」
 紀子「ええ・・・」
 周吉「ああ、ほんとに気をつけておくれよ・・・大事にな・・・そうすりゃ、またみんな会えるさ」
紀子、頷いて、顔を上げる。涙が溢れている。
堪えられなくなって、つと立って遁れるように出てゆく。

  140 二階
紀子、来て、ひとり声を忍んで泣く。

  141 大和の麦秋
サヤサヤと風にそよぐ麦の穂波・・・

  142 そこの旧家
長押(なげし)にかけてある提灯の箱、槍――。
ガランとした広い部屋の向うで、茂吉老人がひとり、肩を丸くして、のんびり煙草を吸っている。囲炉裏端で、周吉と志げが静かにお茶をのんでいる。
 周吉(ふと外を見て、志げに)「おい、ちょっと見てごらん、お嫁さんが行くよ」
で見ると――

  143 麦畑の中の道(遠く)
五人ばかりの付人に付添われた花嫁が通って行く。

  144 囲炉裏端(いろりばた)
じっと眺めている周吉と志げ――
 志げ「――どんなところへ片づくんでしょうねえ・・・」
 周吉「ウーム・・・」
 志げ「――紀子、どうしてるでしょう・・・」
 周吉「ウーム・・・みんなはなればなれになっちゃったけど・・・しかしまア、あたしたちはいい方だよ・・・」
 志げ「・・・いろんなことがあって・・・長い間・・・」
 周吉「ウム・・・慾を言やア切りがないが・・・」
 志げ「ええ・・・でも、ほんとうにしあわせでした・・・」
 周吉「ウーム・・・」

  145 麦畑
よく熟れた麦の穂末を、サヤサヤと渡る六月の微風――。
大和は今、豊穰な麦の秋である。
                      終