愛するとは(In Praise of Love)テレンス・ラティガン作(1973年)
ロンドン公演の話は「夜明け前」の項で説明したので、ここではレックス・ハリソンとの関わりを記す。
1957年ラティガンはビバリー・ヒルズのレックス・ハリソン宅に滞在した。ハリソンが結婚する予定になっていたケイ・ケンドールが白血病の末期であり、長くて2年の命であると診断された。しかしハリソンはこれをケンドールには隠し、結婚した。これは「愛するとは」の芝居がかかれる契機となった。
1874年7月までにはアメリカ公演の話は随分進んでいた。ロンドンでの経験から、この芝居は単独で演じられるべきだと決め、「夜明け前」の長さが「愛するとは」に書き加えられた。特にリディアが、自分が処刑から脱出するところを説明する部分である。一番の問題はやはり、セバスチアンを誰が演じるかである。考慮の結果、ラティガンはハリソンに頼むことに決め、手紙を書いた。丁度運の悪いことにロンドンの新聞が、「ハリソン、ブロードウエイで自分自身を演ずる」という記事を書きたてた。
ハリソンは怒った。ラティガンは宥めた。
「自分自身を演ずるなんてとんでもない。セバスチアンはハリソンとは違うのだ。セバスチアンは利己的な男。ウィンチェスター・バリオル仕込みの諜報部員、かって小説家、今は批評家である。(私はスィリル・コノリーを頭に置いて書いた。)ベルリンの売春宿で買ったエストニアの女に、パスポートを入手させる為にと、芝居が始まる28年前に結婚し、芝居が始まる6箇月前に初めて自分が妻を愛していることに気づき、彼女なしに自分が生きてゆけるかどうかさえ心配になる。しかし、彼女にその病気のことは決して知らせてはならない。そこで彼は今まで通りの冷たい、乱暴な態度で妻にあたる。
ねえ、レックス、君とは大違いなんだ、この男は。君の方は一目惚れして結婚することを考え、医者に病気のことを話され、それでも結婚した。パスポートなんかの為じゃない、愛が理由でだ。その後も夫として出来る限りの面倒をみた。この人間とセバスチアンは距離にして何百マイルも離れている・・・勿論この芝居は君たち二人の間に起こったある事柄にインスピレーションを受けている。しかし、人物の「性格」は違う。多少とも似ていると言えば、それは事柄だけなのだ。」
ラティガンの説得は成功し、ハリソンはブロードウエイで演ずることを承諾した。リディアにはジュリー・ハリス、演出はフレッド・コウに決まった。
その後ラティガンは風邪をこじらせて3箇月間練習及び地方巡業を見に行くことが出来なかった。
3箇月後、やっとワシントン公演を見たが、ラティガンは驚き呆れた。ハリソンは芝居を滅茶滅茶にしていたのだ。優しい、愛情あふれるセバスチアンなのである。おまけにリディアの診断書を芝居の最初に見る。観客は彼のリディアに対する心配を最初から知らされるのだ。最後の幕でマークに、自分はそのことを知っていたと言う瞬間、ハロルド・ホブソンが、「英国演劇史における最も偉大な瞬間の一つ」と呼んだこの部分を全くのナンセンスに変えてしまったのだ。ここはラティガン自身がハリソンに、芝居の核になる「驚き」なのだと説明したところなのに。
しかしハリソンは自分の演技を変えなかった。「そんなことをしたら、観客は僕のことをとんでもない嫌な野郎(a shit)だと思うだろう」と抗弁した。ラティガンは再び説得を始めた。しかしハリソンはこれを無視し、更にラティガンに、リディアの台詞をもう少しカットして欲しいと言った。自分よりリディアの方に注目が集められていると感じたのだ。ラティガンは断った。
ハロルド・フレンチもワシントンに寄った時、ラティガンの意見をハリソンに伝えた。が、うまく行かなかった。フレンチはラティガンにもハリソンの意見を伝え、新しく書き加えたリディアの台詞のカットを説得しようとしたが、駄目であった。
1974年12月10日、モロスコ劇場でニューヨークにおける初日があった。優しいセバスチアン、ちょっと長たらしいエストニア難民女性の話。しかし、ここでの批評は、ロンドンでのものより良かった。ヴァライアティーは、「心を打つ、しかし気が重くなることのない喜劇(a touching, but not depressing comedy drama)、デイリー・ポストは、「心を打つ、美しい芝居(moving and beautiful)」、デイリー・ニュースのレックス・リードは、「稀に見る完璧さを持つ、素晴らしい夕べ(an extraordinary evening of rare perfection)」と。
ニューヨークでは199回であった。
(St. Martin's Press社, Geoffrey Wansell 著 Terence Rattigan による。)
(能美武功 平成11年6月9日 記)