愛するとは
テレンスラティガン 作
能 美 武 功 訳
作者による註
「愛するとは」と「夜明け前」の二つの芝居は、この順序で執筆され、この順序で最初公にされた。また私はこの順序で演じるものと決めていた。当時私の頭にあったのは、一九四八年「プレイビル」の名で発表した二つの芝居「ブラウニング版」と「ハーレクイナード」である。この芝居の時は観客に、まづ最初に真面目な芝居を観て貰い、次に軽いものを観て貰う。即ち、最初の芝居で堅くなった気持を、劇場から出る前に二つ目の芝居でほぐす。これが好い効果だと思っていた。「愛するとは」(この題名は最初、二つの芝居を総合した題名とするつもりであった。「プレイビル」も「銘々のテーブル」も、夫々二つの副題を持っている。(訳註 「銘々のテーブル」は、「窓際のテーブル」と「七番目のテーブル」の二つの副題あり。))のプレヴューで、試しに順序を変えて演じてみた。その結果、演出のジョン・デクスターも私も、真面目なものを後にすべきだという結論に達した。二人の共通した意見は、「愛するとは」の場合、真面目な方の芝居の印象があまりに強く、次に軽いものを観たいという気持が観客に起こらないだろうということであった。これは「プレイビル」の場合とは事情が異なった。この時は「ブラウニング版」の印象は「愛するとは」ほど強くなかったのだ。
この結果この芝居は、現在では「プレイビル」の場合とは逆の順序で演じられている。まづ短い、純粋に幕明けの芝居として「夜明け前」が演じられ、その後重い芝居が来る。しかし通常重い芝居が先に演じられるため、その誤解を避けるために、二つを総合した題名としても、副題の「愛するとは」を採用した。これは私が最初総合した題名として予め選んでおいた題名でもある。
一九七三年十月 テレンス・ラティガン
登場人物
リディア クラットウエル
セバスチアン クラットウエル
マーク ウォルターズ
ジョウイー クラットウエル
(場 ロンドン北部)
(時 現在)
第 一 幕
(アイリントンにあるクラットウエル家のアパート。 小さな玄関ホールと大きな居間が舞台に見える。時々引戸が開くが、その時には台所の一部も見える。階段が居間から上がっている。最初の二、三段を上がると台所に通じる。(ここでクラットウエル家の人間は食事もする。)それから急な階段になり、上部の部屋に通じる。窓も暖炉も不要。この部屋の特徴は、何と言っても本。本箱は限界まで広がっており、本箱に入らないで床の上に転がっている本もある。小さな玄関ホールにまで一個本箱あり。その上にこの部屋の雰囲気にそぐわない白い帽子箱あり。男ものの山高帽を入れる箱で、嘗てはその中に帽子が入っていたこともあり、現在も入っているかも知れないが、それは不明。それ以外の目立つものは、まづ小さなテーブル。上にチェスボードがのっていて、通常の白と黒の駒が置いてある。明らかに実際に使用する為のものであり、装飾ではない。それから飲み物の盆がのっている別の小さなテーブルあり。ソファ一個と肘掛け椅子三、四個。玄関ドアとホールは舞台奥。右手の扉はセバスチアンの仕事場に通じる。そこからタイプライターの音が間欠的に聞こえて来る。一ワード打つ度に間あり。また時にミスタイプでそこを消す怒った呟きあり。春の夕方六時頃。時代は現代。)
(リディアが鍵を使って玄関から登場。およそ五十歳。非常にシンプルな服装。肉体的にも精神的にもひどく打撃を受けている様子。肉体的の方は疲労困憊がその症状。居間に行く力がなく、ホールの椅子にまづ坐る。そして居間に辿り着いた時、再び坐る。包は持っていない。この部屋は二階(又は三階)にある。(エレベーターなし。これは、マークが登場する場面で台詞で示される。)その高さでしかないのに、息をきらしている。その息をきらしている様子も決して急いだためではない。それどころか、ゆっくり歩いてきたらしいことが見てとれる。精神的打撃の方は、ゆっくり瞬きもせず物を見つめる様子で示される。但し一点を見つめるのではなく、部屋のあらゆる物にその視線が向けられる。そして一渡り部屋全体を眺め、息が収まってきて、ぼんやりと前方の一点を見つめる。その様子で示される。)
(セバスチアンが仕事部屋から登場。銜え煙草。片手に空のグラス。鼻には眼鏡。)
セバスチアン ああ、帰って来た? 暖房が壊れてる。
リディア あ、そう。ここは大丈夫みたいよ。
(素早く椅子から立ち上がる。暖房器具に触る。大分古ぼけた器具。)
リディア やっぱり動いてるわ。
セバスチアン(本箱のところで。)こっちは寒いんだ。
(リディア、開いたドアを通って仕事場の方へ行く。セバスチアン、一人残される。セバスチアン、本を一冊引き出し、めくり、何かを捜す。見つからない。既に積み重ねてある本の山にそれを置く。次にまたそれを繰り返す。リディア登場。セバスチアンの手からグラスを静かに取る。)
セバスチアン あ、有難う。
(グラスに酒を注ぎに行く。眠っていても出来る動作。)
リディア ただつけるのを忘れていただけよ。
セバスチアン つける? 何を。
リディア 暖房よ。
セバスチアン(本に没頭していて。)あ、そう。
(非常な興味があるような、ひどく誇張された言い方。一言も相手の言葉を聞いていない確実な証拠。)
(リディア、グラスを持って戻って来る。)
セバスチアン 有難う、リディア。医者、長かったな。あ、そりゃそうか。あのシャイスターじゃあな。何て言った?
リディア シャイスターじゃないの。シュスターよ。経過はいいって。喜んでたわ。
セバスチアン そらみろ。言ってた通りだろう? で、バスのストに遭ったんだな。
リディア ええ。でも関係なかったわ。地下鉄で帰ったから。
セバスチアン(不満そうに。)地下鉄? そんなものを利用していいのか。
リディア そりゃいいでしょう。ストだ。あ、地下鉄って、すぐ思いついたわ。
セバスチアン そんなこと言ってるんじゃない。そんなことしたら、スト破りじゃないか。
リディア 私に歩けって言うの? あなたの社会的良心なのね、それが。
セバスチアン だって、そんなに遠くないだろ。
リディア ええ、遠くないわ。ここからフリート街までくらい。この三日間、あなたその距離を行くのにハイヤーを雇っていたわ。
セバスチアン ハイヤーは違うさ。
リディア どうして。
セバスチアン あれは新聞社のハイヤーだ。良心は新聞社の方で感じればいい。この話はここまで。えーと、捜していた本、やっと見つかったぞ。しかしひどい本箱になってるな、これは。めちゃくちゃじゃないか。
(一冊の本を取り出す。)
セバスチアン 詩のところにノーマン・メイラーがある。
(また何かを見付ける。)
セバスチアン 何だこれは、また。「ターザンは類人猿か」。どうなっているんだ、この本箱は。
リディア あなた、その本いつか見たでしょう?
セバスチアン 馬鹿なことを言うな・・・あ、思い出した。そうか、ルソーの「高貴なる野蛮」だ。あれをやってる時、確かに捜したな。
(その本を投げて。)
セバスチアン 君のいつも寄付する慈善団体にでも寄付してくれ。・・・えーと、あの団体、何て言ったかな。・・・「貧民救済修道女協会」。尼さんたちの教育になるかな? これは。
リディア 教育にはならないでしょう。でも、自分たちの務めのことを思い出す手段にはなるわ。
セバスチアン(本棚を指さして。)いいかい、これは酷い。めちゃくちゃだ。ミシズ・マッキンタイヤに頼んで・・・
リディア ミシズ・リーディーよ、あの人。ミシズ・マッキンタイヤーは三箇月前にもう辞めてるわ。
セバスチアン ミシズ・マッキンタイヤじゃないのか? それでちゃんと返事が返ってくるぞ。
リディア あの人、仕方なしによ。
(セバスチアン、歯を鳴らしながら、もう一冊引き出す。リディア、それを受け取る。)
セバスチアン 彼女に頼もう。とにかく。
リディア 駄目よ。あの人、思ってたのと違ったわ。図書資料管理の能力なし。でも考えてみればあの人、何の能力もなしね。
セバスチアン じゃあ、雇っておく価値あるのか。
リディア ええ。
セバスチアン 僕が言ってるのはね、そんなに金がかかるのなら・・・
リディア(大きな声で。)あの人には、いて貰います!
セバスチアン どうも二人とも苛々しているようだな、今日の午後は。
(セバスチアン、背を伸ばして、また別の本を取る。)
セバスチアン 「セックスについて気楽に話そう」。こんな本がピーター・パンの隣にあるぞ。
リディア それは私の。
セバスチアン 何だって一体そんなものを。
リディア 何時だったか、電車で読もうと思って。
セバスチアン(眼鏡を外しながら。)それは答になってないね。(読もうと思ったことは分かっている。何故かを聞きたいんだ。)若い時、ああいう生活だった君が、何故今さら・・・
リディア ちょっと磨きをかけたいと思って。
(間。)
セバスチアン(眼鏡を吹きながら。用心深く。)それは誰かに対する皮肉かな?
リディア いいえ。単なる感想。随分出したのね、本。どこに仕舞ったらいい?
セバスチアン 分類通りにやってくれ。君の分類は、僕の分類と違うかもしれないが・・・時間があったら、少しは目を通してみてくれ。
リディア そうね。時間があった時、いの一番にやりたい仕事だわ、それ。
セバスチアン 何か君、今日機嫌が悪いね。
リディア そうかしら。
セバスチアン 君の若い時の性生活についてちくりとやったのがまずかったかな。
リディア(微笑んで。)馬鹿ね。あなたには何時だってその権利があるのよ。あなたは龍から処女を救った英雄セント・ジョージ。時々その救った処女にそのことを思い出させるのはあなたの権利よ。三十年・・・もう三十年近いけど・・・経った後でもね。
セバスチアン(困って。)セント・ジョージか! だけど、セント・ジョージは処女を救う前に四、五回その・・・いたすなんてことはしていないからな。
リディア どうしてしてないって分かるの?
セバスチアン 聖者だからさ。セント・ジョージだ。無理だよ。
リディア 「皮肉」って言ったの、それ? 私が何かそれに対して・・・(嫌味を言おうとしたと思っているのね?)
セバスチアン だけど君は「単なる感想」と言ったからね。
リディア 意地悪な感想ばかりが感想じゃないわ。好意的な感想だってあるのよ。
セバスチアン 理屈から言えばそうだが、君は批評を職業にしている男と話をしているんだ。「感想」という言葉を使えば、それは当然厳しいものを意味している筈だ。さあ、もう抵抗は止めて、さっさと認めるんだ・・・
リディア 骸骨に突っ込むのはご免だ。そうだったわね。
セバスチアン リディア! いくら何でもそれは・・・酷い言い方だ。
リディア だってそう言ったのよ。そういう言い方がお好みだったの。
セバスチアン じゃあ、覚えておく方が悪い。そんなのを一言も間違えずに。
(セバスチアン、リディアを見る。)
セバスチアン 本当に「骸骨」って言ったのか、僕は?
リディア ええ、そうよ。(間。)私、この四週間で四ポンド肥ったの。だからって、えーと・・・誘ってるんじゃないのよ。単なる事実。
セバスチアン(再び例の「興味津々」という声・・・実は無関心の、例の。)ああ、そう? 肥ったの? 四ポンドもね! そりゃ良かった。実にいい。素晴らしいニュースだ、実際。
(セバスチアン、本を見ている。)
リディア あなた、気がつかなかった?
セバスチアン(本から目を上げて。)勿論気がついていたさ。この二、三箇月、僕は鷹のように君を見張っていたんだ。
(セバスチアン、また本に戻る。)
セバスチアン 体重が増えるということが、良い兆候だということも知ってるんだ。良い兆候どころじゃないな、懸念は晴れたと(言えるんだろう?)
リディア 懸念が晴れるよりもっと決定的よ。コンスタンチーン(私の主治医のシュスター先生が)、これをあなたに見せろって。
(リディア、バッグから紙を一枚取り出す。)
リディア この間の検査の結果。
セバスチアン へえー。何時だったんだい、検査。
リディア 二週間前。だいたいその頃の平均だって、それ。
セバスチアン 二週間前! そんなものしか出せやしないんだ、トーリー党の政権のもとでは。国立病院の従業員の賃金は低いし、おまけに過重労働を強いられている。当たり前さ。二週間前が(やっとだ)・・・
リディア でもあなた、今の政権、トーリーじゃないわ、ホイッグよ。
セバスチアン うん、まあね。だけど、連中どっちだって同じことさ、僕に言わせりゃ。
(紙をひらひらさせながら。)
セバスチアン いいかい、もしも国立の病院が本当にちゃんと経営されていたら・・・
リディア じゃあ、検査をソ連に頼んで、結果をクレムリンから特別製のロケットで送って貰うのね。いいから読んでご覧なさいよ。読み物としても良い筈よ。・・・きっと・・・
セバスチアン 数字、数字、数字・・・じゃないか。言葉、言葉、言葉、の方が僕には嬉しいね。
リディア(セバスチアンの肩ごしに指さしながら。)これがおしっこの検査。
セバスチアン ねえ君、こういうものに幼児言葉は止めてくれ。尿検査だろう? そしてこっちは便の検査。君の言葉で言えばうんこの検査か。
リディア そうね。それからこっちが腎臓、肝臓、心臓、などなどね。
(指さす。)
リディア じゃあ、数字は読まないで、言葉だけを読んで・・・
セバスチアン(読む。)正常、正常、正常、ほぼ正常、正常、正常・・・ こう単調だと文学作品にはならないな。
リディア(熱心に。)そしてほら・・・ここに総合所見・・・
セバスチアン(読む。)「患者の不断の努力により、経過良好。生体組織検査の結果が、他の結果と同様正常であれば、以後一月(ひとつき)毎に行なう検査は不要。患者は普通の生活に戻ってよろしい。」検査官が書いたんだな、これを。
リディア そうよ。
セバスチアン(頷く。)そりゃそうか。ああ、リディア、僕は嬉しいよ。素晴らしいじゃないか。素敵だよ、本当に。・・・まあ、僕にとって有り難いということだがね、勿論。
(セバスチアン、リディアの頭の上に上の空でちょっとキス。また一冊、本を取り上げる。)
セバスチアン シュスター先生も喜んだろう。
リディア ええ、喜んだわ。いいわ、これからは食餌療法も、禁酒もしなくていいの。それに夜更かしだって出来る。やりたいこと何でも出来るのよ。
セバスチアン(眉を上げて。)何でも?
リディア そう、ほとんど何でも。先生は、とにかくまづ休暇を取ることを薦めてくれたわ。
セバスチアン そうか。今何月だったかな・・・四月か。じゃあ、イタリアへ連れて行くよ。ただ、革命が起こらないことが条件だがね。
リディア 起こって欲しいんでしょう? あなた。
セバスチアン(本に夢中。)起こって欲しいって? 何が?
リディア 革命。
セバスチアン(怒っぽい声。)同じ革命でもイタリアは厭だね。うるさいよ、あそこがやると。朗々と響くテノールであっちからもこっちからもインターナショナル。 あれを聞かされるのはかなわない。・・・えーと、どこだったかな。うん、ここだった。よーし、ねえ君、(仕事場の扉の方を見て。)僕はちょっと三十分ほど・・・
リディア 駄目ね。
セバスチアン 何が駄目なんだい。
リディア 「ちょっと三十分ほど」が駄目なの。後五分したらマークが来るわ。
セバスチアン マーク? マーク・ウォルターズかい?
(リディア、頷く。)
セバスチアン あいつは今香港・・・いや、そうだ、帰ってるんだ。僕は昨日話をした。
リディア そして夕食に来るようにって誘った。
セバスチアン 木曜日にか? 僕の締切り日だぞ、木曜日は。そんな馬鹿なことを・・・
リディア やったのよ。おまけに御丁寧に一時間早く来い、時間厳守だって。
セバスチアン(爆発するように。)畜生! 何故君は止めなかったんだ。そうだ、思い出した。きっちりと思い出したぞ。君はそこに、何もしないで坐っていたんだ。ぼーっと笑顔を浮かべてね。それで何も・・・全く何もしなかった。全くいい忠誠心だ。
リディア 今週のは易しい問題らしいわ、と思って・・・
セバスチアン 易しい? やれやれ、シェイクスピアの心象風景について馬鹿な二人の教授が論争を始めたんだ。(そいつを論評しなきゃならん時に。)マークは今どこなんだ?
(セバスチアン、電話器に近づく。)
セバスチアン イートン・スクエアのあのおっそろしい建物、何とか宮殿とか言ったな、あそこか?
リディア いいえ、あそこには職人よ。今建増し中。サヴォイ・ホテルに滞在。
(リディア、セバスチアンから受話器を取って。)
リディア もう遅いわよ、あなた。バスのストライキ、他、交通の事情を考えて多分一時間以上も前にホテルは出ているわ。
セバスチアン 嫌な奴!
リディア(慰めるように。)私に任せといて。あの人が着いたら私、急な締切りで手が離せないからって言うわ。分かるわよあの人。自分だって作家なんですもの。
セバスチアン 自分だって作家?「作家」っていうのは曖昧な言い方だ。あいつに許してもいい。しかし「あいつだって」というのは、僕も同類だという意味だ。それは侮辱だぞ。
リディア 何故? 出版屋との契約期限が切れるまでに、百万部売って、五十万ポンドでその映画化の権利を売る・・・あなたがそうしても私、ちっとも構わないのよ。
セバスチアン 分かったよ。分かった。僕はそういうことを言われなきゃならないんだ。僕の書く小説なんか、精々五千部しか売れまいし、それによる稼ぎは高々七百ポンド・・・
リディア 馬鹿なこと言わないの! 小説なんか書きはしない癖に。私、書いてくれればと思ってる。でもあなた、書きはしないの。
(セバスチアン、何か言おうとする。)
リディア 二十五年前あなた確かに傑作を書いたわ。そしてその四年後にもう一つ傑作を・・・
セバスチアン あれは傑作じゃない。滓(かす)だった。
リディア いいえ、最初のと同じぐらい良かったわ。
セバスチアン いや、滓だった。
リディア 批評家はあなたがまた「夜の闇から」のようなものを書くと決めていたのよ。それが違っていたから、皆背を向けた。あなたったら、それでさっさと小説家は足を洗って批評家の仲間に入った。敵をやっつけられなきゃ、いっそ敵の仲間に入っちゃえ。分かるわ、それ。でも諦めが早過ぎたんじゃない?
セバスチアン それはどうも。(才能を買って戴いて。)
リディア マーク・ウォルターズは平ちゃらだったわ、何を言われても。でももし批評家の言うことをまともに受け取っていたら・・・
セバスチアン あいつが使っている連中が全部あぶれちゃってるよ。取材をする係、速記タイプの女の子、それにアクション場面以外の状況説明の部分を専門に書く係、そいつら全部馘首(くび)だ。だけどそれでもマークは百万長者だ。全く世の中ってのは不公平に出来てるよ。
(セバスチアン、グラスを差し出す。注いでくれという意味。リディア、受け取る。)
セバスチアン あいつの書くものといったら大抵は権力欲にとりつかれた実業界の大立者、それも精力絶倫のね。
リディア 大立者ばかりじゃなかったわ。一番最近のは、大統領候補者。
セバスチアン 精力絶倫のだろ?
リディア 半分ぐらいね。だけどその息子がそうなの。あたるを幸いなぎ倒すってところ。
セバスチアン 一章毎に一回? いつものように。
リディア 時々はそれ以上。まあ平均すると一回かな。でもサーカスの猛獣使いの女が出てきて・・・
セバスチアン もういいよ。彼の「傑作」とはかなりお付き合いしたんでね。それだけ聞くと後は分かるよ。
(セバスチアン、仕事場の方を見る。)
セバスチアン まあ、夜遅くにやることにするよ。するとまた僕の膀胱の調子がね・・・
リディア 今書いてしまいなさいよ。マークは大丈夫。夕食を遅く出すことにするわ。
(セバスチアン、陰気に頷いて、仕事場の方に進む。)
リディア そうそう、小説って言えば・・・
セバスチアン 言ってないよ、何も。
リディア あなたの小説のことよ。この間ちょっと見たらあそこにあったんだけど。あれ、新しい小説のためのメモ?
(間。)
セバスチアン 「ちょっと見たらあった」というのはいいよ。実にいい。道理で位置が少し狂っていると思った。(怒鳴って。)この部屋では僕は何も隠しておけないのか!
リディア あら、あれ、隠していたの? あなた。どうして?
セバスチアン それは当たり前だろう。君のそのエックス線の目に一旦引っ掛かったが最後、君は踊り上がって手を叩いて叫ぶんだ。「いい子、いい子。あの人、小説を書き出したわ。」
リディア そう。いい子、いい子だわ。
セバスチアン そうは問屋が卸さない。すぐ止めちゃうかも知れないからな。くだらん材料だ、と言ってね。いや、どうせ時間がない、駄目だ、とね。
リディア 問題は時間じゃないの。あなたはやる気にさえなれば・・・
セバスチアン それが馬鹿だっていうんだ、そのいつもの君の考えがね。
(玄関でベルの音。)
セバスチアン ああ、くそっ!
リディア 早く入って。マークには私からうまく言っとくわ。
セバスチアン いや、まづ挨拶だけはしとこう。
(リディア、玄関を開ける。マーク登場。四十代の始め。肉体的には少し前の会話にあった小説の主人公、権力欲に溢れた色情狂、に最も遠い。穏やかな優しい表情。それにひょろひょろの体。ちょっとした運動にもすぐ息を切らせる。そして今がそう。両の小脇に一つづつ包みを抱えている。)
リディア あら、マーク、よく来てくれたわ。嬉しい。
(リディア、両腕でマークの首を巻く。)
マーク ああ、こっちも嬉しいな。待って。ちょっと息をついてから。アイリントンにはエレベーターというものがないのかね。
セバスチアン ないね。
マーク そうだ、「エレベーター」というのは駄目か。イギリスでは「リフト」と言うんだ。僕はイギリス居住民なんだ。これぐらいは覚えておかないと。ハロー、セバスチアン。
(二人、短く抱擁。)
マーク 相変らず次から次と作家の文学的名声を叩き潰してるんだね?
セバスチアン 君のは大丈夫だ。
マーク 僕には名声なんかないよ。誰も見向きもしない。「すごい迫力」なんて言ってくれていたクリーブランド・プレイン・ディーラーの連中だって、今じゃあ「またウォルターズの奴書いたな」で終だ。
セバスチアン(包を取って。)これはお土産かい?
マーク そっちはリディアの。君のはこっちだ。
リディア まあ悪いわ、マーク。
セバスチアン 悪くなんかないさ、ちっとも。富の分配は彼の義務なんだからな。こいつ音がするぞ。
マーク(セバスチアンから包を取り返して。)音をさせちゃ駄目だよ。
セバスチアン 音をさせるとまづい程高価なのか? すまないが、これを開けるの、後でいいかな。ちょっとやりかけの書き物があって、締切りが今日なのをリディアが忘れていたんだ。
リディア 忘れていたのはこの人。
マーク 僕が邪魔なのならさっさとそう言って。僕はリディアを連れて夕食に出て、君の邪魔はしないから。
セバスチアン で、僕の夕食はどうなるんだい。
マーク スクランブル・エッグでも作るさ。
セバスチアン 僕が作る? 君今日、どうかしてるんじゃないか?
マーク ああ、そうか。どうかしてたな。君は正常な、普通の夫じゃなかったんだ。
セバスチアン その正常っていう言葉で思い出したんだがな、マーク、この間君がここに来た時、ひどく心配したろう? このおばさんのことで。本当の心配じゃないんだが、とにかく風邪ばかりひいて治りはしない。喉が痛くて、痛みがちっとも止らない・・・
リディア その「おばさん」ていうの止めて。ひどく年寄みたい。
セバスチアン しかし、年寄は事実なんだ。
リディア あなたより私が一歳下というのも事実なのよ。
セバスチアン そんな時に、他の人間を引合に出すやつがあるか。(マークに。)それでこれのかかりつけの医者が・・・リガとか何とかの出身の、これの友人なんだが・・・
リディア ターリン出身。
セバスチアン その医者のせいで、これは酷く動揺してね、東洋系の妙な病気に罹ってるっていうんだ。それも栄養失調のせいで・・・
リディア 東洋系なんて言ってないわ。それに動揺なんてちっとも。冷静なること林の如し、ね。
セバスチアン それは「静かなること」だ。冷静は、「冷静そのもの」かな。どっちもきまり文句だがね。だけど栄養失調の方は、マーク、いや、すごい努力だ。馬みたいに食いまくって。
リディア 若い時の影響が出たのね。一九三九年から四六年まで、エストニアでは馬みたいに食べるって無理だったから。
セバスチアン(穏やかに。)いいね、リディア、そこまでだからね、避難民時代の話は。その話はマークをひどく退屈させるんだ。(マークに。)さっきの動揺の話なんだが・・・
マーク 僕は知ってる、その動揺の話は。
セバスチアン 知ってる? しかし香港にいてちゃ・・・
リディア 香港にも郵便制度はあるのよ。
セバスチアン(本当に驚いて。)すると文通してたっていうことか? 驚いたな。まあいい。とにかく経過は良好でどんどん回復し、今日彼女は卒業証書を貰って来たんだ。到るところ「正常」と書いてある紙をね。リディア、マークに見せるんだ。(リディア、マークに血液検査の紙を渡す。マークがそれを読んでいる間に。)それだけじゃない。十ポンド肥ったんだ。
リディア 四ポンドよ。まあ、正確には三ポンドちょっと。
マーク ふーん、そりゃ良かったよ、リディア。(マーク、紙をリディアに返す。リディア、それをテーブルに置く。)
セバスチアン その最後のところに、もう何も気にすることはない。勝手に何でも好きなことをやれって書いてあるだろう? 手紙なんか書いて、君に余計な心配をかけることはなかったんだ。
マーク 余計な心配、大歓迎だね。
セバスチアン 僕は膀胱の調子が悪いんだ。君にこれを書いたことあったかな?
マーク いや。(礼儀正しく。)君、膀胱の調子、大丈夫?
セバスチアン いや、酷いね。時々そこに坐って、悲鳴を上げることがある。
マーク 何て?
セバスチアン 誰か助けてくれってね。君も調子よくなさそうだな。
マーク うん。僕のはいつものことだ。
セバスチアン 君は、君の書く主人公とはえらく違うね。何故なんだ?
マーク 僕が似てるとする。それでもやはり僕はああいう主人公しか書けない。すると自分のことを書くことになる。そんな本、売れやしないよ。
セバスチアン(笑った後。)僕はね、君がもう少し教育を受けていたら、ちゃんと文章が書けるのにと思うんだが。
マーク 僕は分かってるんだ。僕が少しでも教育を受けていたら、何一つ文章なんか書けないだろうってね。
セバスチアン(マークの頬にキスして。)いいこと言うよ。僕は君が気に入ってるんだ、少し。分かってる?(リディアに。)ちょっと君、また注いで来て。それからマークにも何か。
(リディア、グラスを受け取る。)
マーク ジョウイーはどう? 元気?
リディア(熱心に。)あの子、本当にちゃんとやってるのよ、マーク。
セバスチアン 本当にちゃんとやってる? そうかな。自由党の中央事務局で無報酬で働いているよ。自由党、こんな名前よくつけたもんだ。実際はファシストだっていうのに。(自由党、原文はリベラル。)
マーク えっ? グラッドストーンが嘗て党首だった、あの党がファシスト?
セバスチアン(発音を直して。)グラッドストンだ。グラッドストーンはホテルの名前だったな、慥かニューヨークにある。
マーク いや、ニューヨークにはない。それはそうと、今の話、本当なのか。この間の選挙の時、殆どの票をかっさらったあの党が、実はファシストだって言うのか?
リディア 冗談よ、マーク。
セバスチアン 冗談なんかじゃない。自由党などと左がかった名前をつけて、その実ただの票稼ぎにつけた名さ。今は本物の左翼の政策なんか薬にしたくてもありはしない。それだけじゃない。あいつらの経営の基礎は南アフリカの金だっていうんだからな。(もともとリベラルとは習慣、因習からの自由。従って左翼に近い名。)
リディア(あっけに取られたマークに。)あれも冗談なの。・・・ああ、マーク、ジョウイーが自分で職を捜すなんて、素敵でしょう? そう思わない?
セバスチアン 無報酬でね。
リディア 今だけよ、それは。補欠選挙が終ったら、お給料出るわ。
セバスチアン 銀三十枚。裏切りの金だ。(訳註 銀三十枚は、ユダがイエスを裏切った時の金額。)
マーク(まだ分からず。)補欠選挙?
(間。)
セバスチアン イギリスに住んでどのくらい経つんだい、マーク。
マーク そうだな。「裸の真実」を出版して、その時に来た・・・いや、あれは「持てる者の誇り」の時だったかな。
セバスチアン 「そうだな」なんて格好つけて言ったって、何も出てきやしないよ。補欠選挙というのは・・・
マーク(間髮を入れずに。)議員の誰かが死んだ時に、その後継者を選ぶんだ。アメリカにもあるよ。
セバスチアン で、アメリカではその選挙を何て言ってる?
マーク 補欠選挙だな、多分。
セバスチアン(やっと。)驚いたな。君は本というと「テリーと海賊達」の類(たぐい)しか読まないのか?
マーク いや、多分補欠選挙というのがアメリカではたいした重要性を持っていないんだ。だから印象が薄いんだ。イギリスではこの選挙、大事なのかい?
セバスチアン アメリカ、無知の国だからな。選挙は二年に一回だ。イギリス、それよりもさらに無知な国だ。五年に一回。まあ、だいたいそのペース。だから補欠選挙は政府のやり方に対して国民がどう思っているか、本選挙を占う指標になる。今回のこのイースト・ワーズリーで行なわれる補欠選挙を例にとってみよう。今そこで息子が働いているんだが・・・(急にまた思い出して。)自由党! 何が自由だ、マーク。左翼を分裂して、トーリーに組み込もうとする魂胆なんだ。ジョウイーがだぞ、マーク。あの僕の息子が・・・
マーク うん。そいつはいかんな。それで?
セバスチアン この選挙区は左翼で一議席堅いところなんだ。支持者は一万人を下らない。ところが自由党と名前をつけて、ジョウイーの奴の・・・いや、何百というジョウイーのような奴等の支持を受ければ事情は違う。髮を整えて、必勝の笑みを浮かべてタートルネックのセーターを着て、しみ一つない革のジャケットを着込んで・・・あれじゃあ誰でも騙されてしまう。しかしこれはあまりに酷い。俺の息子だぞ。正真正銘の俺の息子が、敵の手助けをしてトーリーを一人増やそうというのだ。
リディア 本当に酷いわね。(間の後、明るく。)ねえマーク、あの子三百ポンド、自分で稼いだのよ。テレビドラマを書いて。素敵でしょう?
(リディア、ウイスキーをセバスチアンに渡す。)
セバスチアン BBCの第二放送に、ある番組があって、懸賞テレビドラマの募集をしたんだ。その条件が二十一歳以下。それでジョウイーの書いたカフカまがいのぼろくそが入選したと・・・
リディア それでも入選は入選よ。誇りに思っていい筈だわ。
セバスチアン うん。それはまあ。(ウイスキーを少しすする。)少し水が多いな。
(リディア、怒ってグラスを取り戻す。)
マーク で、何時放送されるんだい。
リディア 明日、七時半。
マーク それは必ず見ないとな。
セバスチアン(呟く。)止めとけ。
リディア 明日来ない? マーク。一緒に見ましょうよ。
(リディア、ウイスキーを注ぎ足し、セバスチアンにグラスを渡す。)
セバスチアン 金がなくてテレビのない人間に言う台詞だぞ、今のは。ひどいぞ、リディア。
リディア ジョウイーに会えるからと思って言ったのよ。あの子、選挙の仕事が終ってから態々家に帰って私達と一緒に見るって言っているの。可愛いでしょう? 友達と一緒に見られるっていう時に、親と一緒に見るなんて。
セバスチアン 頭がいいよ。親は貶(けな)さないと知ってるんだ。
リディア 酷いわ、あなたったら。なんて酷いの。
(リディア、立って電気をつけて回る。)
セバスチアン 気にしないでくれ、マーク。彼女、最近ヒステリーなんだ。
リディア さっさと仕事場に行くの、あなたは。さあ。
セバスチアン(なだめるように。)分かった、分かった。行く行く。
(セバスチアン、仕事場の扉の方へ進む。)
リディア いらしてね、マーク。ジョウイー、喜ぶわ、本当に。心底(しんそこ)の心から。(訳註 Joey would be thrilled out of his mind. の訳。これは良い英語でないので、セバスチアンにつつかれる。)
セバスチアン 心底の心? 何だい、それ。
マーク 来ますよ。
セバスチアン やれやれ。
(セバスチアン退場。)
(マーク、リディアの顔を見つめる。間。)
マーク 「慌ててご免なさい、マーク。實は何でもなかったの。」と言ってくれないかな。
リディア 来て下さって嬉しいわ、マーカス。本当に有難う。
マーク じゃあ、手紙で言って来たことは事実なのか。
リディア 命がある限り、そしてマーカス・ウォルトがいる限り・・・(マークを抱擁して。)ああ、ああ、マーカス・ウォルト。希望がなくちゃいけないわ。
マーク 希望がなきゃならない。当然だよ。
(マーク、検査結果を眺める。)
(リディア、飲み物の盆の方に進む。自分用に一杯注ぐ。)
リディア ちょっと一杯戴くわ。この六箇月で初めてのお酒。あなた、本当にいらない?
マーク いらない。(紙を指差しながら。)「この報告書は偽物だ」、そう言いたいんだね。
リディア ええ。
マーク どうして分かるんだ。
リディア コンスタンチーンの持っているタイプライターはすぐ分かる。エスとイーがよく動かないの。
マーク コンスタンチーン?
リディア 手紙に書いたでしょう?(かかり付けの医者。)
マーク ああ。で、彼がタイプした?
リディア ええ。
マーク 何故そんなことを。
リディア 哀れな隣人には手を差し伸べよ、という精神ね。(少し疲れた様子。)でもあの人だって、公の書式に嘘は書けないわ。その公の方の数字は先月より悪いの。それから先々月と比べるとまたずっと悪くなっている。
マーク 公の書式が別にある? 君にはそれが分かるって言うのか。
リディア その技術があるの。
マーク その技術?
リディア 盗み見して、数字を覚えて、もとの引き出しに戻しておく。前あった通りに。
マーク 信じられないな。
リディア 信じて貰わなくていいの。どうでもいいことだから。
マーク どうでもよくはないな。
(間。)
リディア ご免なさい、マーカス。どうでもよくはないわね。私が二度強制収容所に入れられたのはご存じね。その間の自由があった時期に私、エストニア・レジスタンスの活動をした・・・それがレジスタンスと言えるほどのものかどうかは怪しいけれど、とにかく・・・三方からの敵の侵入・・・楽な仕事じゃなかった・・・
マーク(鋭く。)それは知ってる。さっきの話に戻って。
(間。)
リディア ご免なさい。避難民時代の話、退屈だったわね。
マーク 退屈なんかする訳ない。君もそれは知っている。だけど、さっきの話を頼む。
リディア だから私、数字を覚える技術を持っている。十八の時にこつを覚えると、忘れないものだわ、こういうことって。作戦計画の入っている引き出しはどれかを知って、書類を捜し出す。コンスタンチーンはゲシュタポでもKGBでも出世はしなかったわね、きっと。可哀相に。あそこに行く度に私、一ペニー払っておしっこの・・・失礼、尿の検査を受ける。その時に言うの。「私、部屋に誰かいると落ち着かなくって。」すると彼、悪いと思って出て行ってくれる。私は机を探る。丁度あのロシアの将軍の時にやったように。この話、いつかしたわね?
マーク 聞いた。それで?
リディア おしまい。続きはないわ。この六箇月間、あの人達が何を捜していたか、私には分かったの。
マーク どうやって?
リディア 盗み聞き。主にインターンの学生達の話。あの子達、こういう検査には全部関わっているの。熱心な可愛い顔・・・全部が全部可愛いとは限らないけど、とにかく熱心は熱心。あの子達には私、必ず流暢なエストニア語で話しかけるの。すると、この女は英語は話さないな、と思うらしいわ。で、(患者に聞かれて困ることを)時々英語で話すことがある。その時よ、あの言葉が出てきたのは。
マーク ポリ・アーティライティス。(結節性動脈周囲炎。)
リディア マーカス! あなたも気をつけないと駄目よ。うっかり口から出てしまう。でも偉いわ、そんなに見ないで言えるなんて。
マーク 下らない事で褒めるんじゃない。誰だって覚えるさ。
(マーク、手帳を取り出し、検査表に書かれている数字と手帳にある数字とを見比べる。)
リディア(叱られちゃったわね。)ちょっと傷ついたわ、私。ご免なさい。私、もう一杯飲むわ。
マーク(鋭く。)止められているんじゃないのか。
リディア 薦められてるのよ、それどころか。(リディア、すする。)酷い味だわ、アメリカ製ウオッカ。でもプルーンのジュースよりはまし。(もう少しすすって。)少しよくなった。・・・あなた、何やってるの?
マーク 僕は君の手紙を見るとすぐ、この方面の僕の調査員に・・・
リディア ああ、マーカス、愛してるわ。
マーク(ぼんやりと。)僕も君を愛してるよ。ところで、ひょっとして君、自分の血圧、どのくらいか知ってる?
リディア レジスタンス運動をしてたのよ。看護婦が書いている数字ぐらい、逆から見て読めるに決まってるでしょう?
マーク で?
リディア 高いわ。
マーク どの程度高いんだ?
リディア とても。
マーク そんな風になってからはどのくらい?
(間。)
リディア あなたの調査員、なかなか的を射てるわ。私も調査はやった。やってやって、結局何の希望もないってことが分かったけど。
マーク(激しく。)そんな言い方しちゃ駄目だ。
リディア(静かに。)駄目でもするわ。少なくともあなたには。そのためにあなた、ここへ来て下さったんでしょう? じゃ、私・・・(とグラスを上げて一人で乾杯。)
マーク そりゃね、リディア、君がもしこれに罹っていたとしたら、まづいよ。いや、酷くまづいよ。でもね・・・それで命がないってことにはまだ・・・
(間。)
リディア あなたの調査員が読んだ本と私のとは違う本のようね。勿論時間はかかるの。二年ぐらい大丈夫かも知れない。(リディア、ウオッカを飲み終える。)酷い味。ウオッカなんてものじゃないわ。でも味を気にすることなんかないわね。(再び注ぐ。)アルコールよ、アルコールでさえあればいいの。そしてそれが効きさえすれば。じゃ、これからの二年に!(グラスを上げて、一人で乾杯。)
マーク いいかい、これだけは僕はよく知っている。この病気は生体組織検査を行なうまでは、はっきりした判定は下せないんだ。これは君、よく知ってるんだろう?
リディア ええ。(飲んでから。)検査はすんだわ。
マーク(勝ち誇って。検査表を叩きながら。)それでまだ結果は出ていない。ここにちゃんと書いてある。
リディア そう、書いてある。他のことも沢山ね。
マーク じゃ、検査は終っているというのか。
リディア 終ってはいないわ、公けにはね。
マーク じゃあ・・・
リディア あなた忘れた? 私の仇名。「リディア、栄光あるエストニア・レジスタンスの英雄」!・・・英雄は良かったわ。そう、あの頃私と二人の男の子、この三人は六週間と命の保証はなかった。これが英雄!・・・脱線。昔話はいいの。「口頭でちゃんと分かっている時、書いたものに何の価値があるか」・・・そう、これ、昔のレジスタンスのマニュアルにもあったわ。担当の看護婦がスカンジナビア人。私のアクセントによく似た話し方。私、今日、その看護婦の口真似で、検査室に電話をした。「ドクター・シュスターが口頭で報告が欲しいとのことです。先生は今患者と話中。出られませんので、代わりに私が。」・・・検査室の人、私が看護婦だと思ってくれて、すぐ、「暫くお待ち下さい」だって。
マーク その電話を先生のいる部屋からかけたのか。
リディア まさか。公衆電話からよ。検査が終ってあんまりすぐだから、ばれるんじゃないかと心臓が破裂しそうだった。ばれなかったわ。結果を見てまた電話に戻って来て言ったわ。「ミシズ・リディア・クラットウエル。 ポリ・アーティライシス、陽性。」テキパキとした声。スエーデン訛りの・・・とても健康的な。さ、これで分かったでしょう?一杯やるわね?
マーク うん。
(リディア、注いで渡す。間。マーク、少しすする。リディア、マークの隣に坐る。)
マーク で、彼は何も知らない。
リディア ええ。
マーク 知らせた方がいいんじゃないのか。
リディア いいえ。
(間の後。)
リディア 香港はどうだったの?
マーク 想像通りだった。
リディア あそこにもここにもスージー・ウオン?
マーク いや。サミー・ウオンの方が多いな。意外?
リディア いいえ。
マーク こんな話は止めとこう。(扉の方へ進む。)彼は知るべきだ。
リディア(マークの頬にキスして。)私が何を言えばいいっていうの。
マーク 決まってるだろう。真実をだよ。夫に話すこと、それは真実に決まってるじゃないか。
リディア この夫は例外。
マーク しかし、いづれは知ることになるんだぞ。
リディア そう。救急車が来た時にね。それ以前は駄目。まあ、その時にも駄目ね。
(間。)
マーク 彼、言ってくれなかったと、後で憤慨するぞ。分かってるのか。
リディア そうかも知れない。いや、きっと憤慨するわね、きっと・・・
マーク じゃ、何故・・・
リディア あの人を退屈させたくないの。それを気遣うぐらいは充分にあの人を愛してるの、私。マーカス、いいわね。ごまかすのはよしましょう。一番身近な、最愛の人を一番簡単に退屈させる方法、それは不治の病でゆっくりとその人の前で死んでゆくことなのよ。
マーク しかし、一番身近な、最愛の人が何故必要かというと、そういう時のためなんじゃないのか。
リディア あなたはそういう人よ。だから御安心なさい。あなたには、御満足のいくようたっぷりと退屈させて上げるわ。息を引き取るまでね。イディオムはこれで良かったのかしら、「御満足のいくようたっぷりと」。
マーク 大丈夫。正しい使い方。
リディア だけどあの人はあなたとは違うの。
マーク そう。そこは図星だ。
リディア あの人、退屈となると我慢ならないの。あなた、分かってるでしょう?
マーク 分かってる。
リディア 勿論もし私が話せば心配はしてくれるでしょう・・・それも相当真剣にね。・・・でもせいぜい一週間かそこら。その間お行儀もよくしているでしょうね。「しきたりの遵守が人間を作る。」あの人の母校、ウインチェスター校のモットー。「身体を使っちゃ駄目だよ、君。疲れるからね。そこへ坐って。僕がお茶をいれて来るよ。」
(リディア、笑う。)
リディア あの人のこの言葉を聞くためだけにでも、言ってやれば良かったって気に時々なるわ。でも二年間は無理よ、マーク。二年間は。
(リディア、こっそりと木に触る。(訳註 幸運を、というまじない。))
リディア いいえ、マーカス。私、この道をもう選んでしまったの。一番いい道の筈よ。私にとっても、あの人にとっても。きっと。
(間。)
マーク 畜生、何故君はそんなに元気そうに見えるんだ。
リディア コーチゾンのお陰。コーチゾンの多量服用。コンスタンチーンはビタミン剤だなんて言ってるけど。あ、それで思い出した。そろそろ飲む時間。
(リディア、バッグから罎を取りだし、二錠手に出す。)
リディア 一日六回、二錠づつ。今までは一日四回だったんだけど。
(リディア、二錠飲み込む。)
リディア これ、経過が良好だから? それとも悪化してきたから? 多分悪化ね。でもどっちでも同じよ。そうそう、コーチゾンて素敵な薬よ、マーカス。十六歳になった気分。競争馬に薬物投与する時の薬がこれ。
マーク(罎をリディアから取り上げ、ラベルを見て。)コーチゾンなんて書いてないぞ。
リディア それは書いてないでしょう。そんなことに手落ちがあるようなコンスタンチーンではないわ。ちゃんと特殊なラベルに代えてある。
マーク それでどうしてコーチゾンだって分かるんだ。
リディア エストニア・レジスタンスの英雄リディア、英国薬局店に現わる。バルチック訛りのひどい英語で薬剤士に言う。「ちょっと、いいですか、お邪魔して。この薬、これ、何? 古い罎に入っていて、・・・私、飲もうと思って・・・アスピリン・・・ 違う? ・・・アスピリンの筈・・・待って? ・・・はい、待つ。・・・調べる? はい・・・アスピリン、違う? コーチゾン? ・・・強い薬? ああ、じゃ私、すぐポイポイ、おトイレに・・・」
(リディアの声、弱くなる。涙が出そうになって、話し終る。頭が胸に沈む。)
リディア 笑って貰おうと思って話したのに・・・
マーク そのようだね。
リディア ああ、マーカス、あなた思ってない? 地球の裏側にいるあなたを呼びたてて、来てくれたと思ったら私、ワンワン泣いちゃって。・・・私、たいした英雄。呆れた英雄。・・・私、誰かには話をせずにはいられなかった。あの人には駄目。そしたらあなた以外には誰もいなかった。・・・これ、また大袈裟って、叱られそう。
マーク 今、叱るのかな。
リディア 後で。ああ、マーカス、会えて嬉しい。来て下さって私、嬉しいわ。
マーク さっきも君、それを言ったよ。
リディア そう。私、言った。言ったわよね? 私、何故あなたしか本当の友達っていないのか、分からないの。
マーク 僕にも分からないな。
リディア あなたがリトアニア人だからかしら。
マーク 違うな。僕はアメリカ人だ。君だって違うだろう? イギリス人だ。
リディア そうじゃなくて、血よ。バルチック海の血が入っている・・・
マーク それなら僕の場合、バルチックというよりもユダヤの血だな。
リディア 自慢しなくていいの。私だっておじいさんはユダヤ人。覚えてる?
マーク 君の場合はナチが来るまではそんなこと知らなかったんだから・・・
リディア その時には思い知らされたんだから、いいでしょう?
(リディア、震えを抑える。)
リディア そう。とにかくイギリス人と友達になるなんて至難の技。それに私、一九四五年にここに来て、出だしを間違えちゃったんだから。
(リディア、思い出しながら、笑う。)
リディア イギリスに着いてから二三日後、私はもう有頂天、嬉しくて嬉しくて。愛するイギリス、夢にまで見たイギリス・・・
マーク イギリスのキャベツも?(訳註 イギリスのキャベツはまづい事で知られているのか。不明。)
リディア そう、キャベツだって。・・・あの人、自分の一番親しい友人十数人をよんで、私に会わせたわ。
マーク 結婚式の前?
リディア いいえ、あと。私達ベルリンで結婚したの。このこと知っていたんじゃない?(何かを思い出して。)違ったわ。あなたには教えてない理由があったもの。だから誰も知らないわ、このこと。・・・セバスチアンが人をよんだっていう話だったわね。いい? マーク。パーティーは九時に始まったの。そして十一時にはもう誰も残っている人はいなかった。誰もよ。私が全員をすっかり退屈させてしまったの。
マーク 避難民の話?
リディア(憤慨しながら。)禁じられている話とは知らなかった。あの人達、丁寧に私に訊いたのよ。一体どんな具合だったんでしょう、まづロシア人に占領され、次にドイツ人に、それからまたロシア人に侵入され、それで六年間も暮らすっていうのは。その時の私ったら。何て馬鹿だったんでしょう。全部話したの、全部。途中からあの人達全員が私を取り囲んで聞いたわ。あのイギリス人特有の、あの礼儀正しい熱心な目付き。あなた知ってるわよね、あの目付き。ああ、私、なんて嫌い、あの礼儀正しいイギリス人の目付き。
マーク 僕も礼儀正しいっての、嫌いだ。
リディア(くってかかる。)嫌いであるもんですか。あなたくらい礼儀正しい人、私見たことないもの。
マーク そうだ、僕は礼儀正しいんだ。だけど礼儀正しい目付きじゃないんだ。
リディア そうね。セバスチアンの友達はその目付きだった。退屈で退屈で、硝子玉のような目よ、勿論。でも私は気がつかなかった。あの人は気づいて私に止めさせようとした。だけど私が止める筈もないでしょう? 私全部話したわ、ぜーんぶ。
マーク あのロシアの将軍の話も?
リディア 将軍の話、それが一番の問題。・・・私、イギリス人のユーモアのセンス、それは信じていた。・・・よく言われることだもの、これ。 ・・・それで、その将軍が私を彼専用のお付きの運転手に選んだ話をして、その時の彼の理由が、「君はボディー・ワーク(車体の構造)がいいからね」と言った、という話。この時には大笑いに笑ってくれると思っていた、それが・・・
マーク クスリとも?
リディア にこりとも。
マーク そんなので笑う筈はないよ。洒落にもなりはしない。
リディア(苦々しく。)あの時は、あれが精一杯だった。
(間。)
リディア あの硝子玉の目! ああ、それからあの人の怒ったこと!(セバスチアンを真似て。)「いいかい、リディア。このイギリスでは自分の感情はそんなに開けっぱなしに広げて見せないことになってるんだ。イギリス人てのは人種としてどちらかというと、控え目に話すのが特徴なんだ。分かるね、リディア。」それに私、礼儀に叶ってないことをやってしまった。その時には気がついてなかったんだけど、話しながら、ちょっと泣いたの・・・ ああ、イギリス人て何ていやなの! 私、時々思うことがある。イギリス人が礼儀に叶ってないという時、あれは自分の感情を露(あらわ)にしてはいけないっていうだけじゃない。ひょっとすると、感情を持ってもいけないっていう意味じゃないかって。あなた、イギリス人好き?
マーク 僕は好きじゃないよ、勿論。だけどあいつらを好きな奴っているのかな。
リディア(悲しそうに。)いやしない、誰もいやしない。
マーク でも僕はこの国は好きなんだ。自分の国より好きなくらいだ。だから住んでいるんだけど。(自分のグラスを指して。)僕もいいかな?
リディア どうぞ・・・それから私にはもう少しウオッカ。
マーク(「大丈夫か?」という表情。)まだ? もう相当飲んだよ。
リディア まだよ。
マーク(ウオッカをわたしながら。)それだけ飲まなきゃならない理由は・・・
リディア なあに? そんなこと訊かなきゃいけないの?
マーク そうか。失敬。
(マーク、正面からリディアを見つめて。)
マーク ベルリンで結婚したのを隠していたの、何故なんだ。
(間。)
リディア それは話せないって言ったわ。
マーク だけど君がもう死ぬ、という話は出来たんだろう?
リディア(怒って。)死ぬなんて話じゃないでしょう? 二年、短くても十八箇月はもつのよ。十八箇月・・・ほとんど一生の長さよ。
(マーク笑う。リディア、マークを睨みつける。)
リディア どうして態々香港から出て来たりしたの。
マーク 君が来いと言ったからじゃないか。
(間。)
リディア ベルリンで私が結婚したというのが、何故そんなに大事なの。
マーク 分からない。だけどこの二十五年間君はそれを秘密にしていた。となると、これは知らなくちゃという気分だね。
リディア 出歯亀よ、それ。
マーク 大いにね。
(間。)
リディア 言わなかったの、ただ女のプライドのせい。それだけ。
マーク(驚いて。)えっ? はらんじゃったから?
リディア(怒って。)違う! それになんていう表現? それ。どこで習ってきたの、その言い方。
マーク スージー・ウオンからだ。香港ではみんなスラングで話すんでね。
リディア 眉を顰(ひそ)めたくなる生活ね。
マーク 君には眉を顰めて貰いたいけどね。
(間。)
リディア 私と少なくとも結婚するとなったら、ベルリンでしか出来なかったから。私はまだロシア国籍だった。エストニアはロシアに併合されて、無くなっていたから。それにあの人はイギリス諜報部員、それも現役のね。私、この結婚ではジューコフ元帥がうしろで糸を引いていたんじゃないかと、今でも考えることがある。(勇敢に。間の後。)
リディア 「幸せな時にも、苦しい時にも」なんてあの人、ちっとも言いたくはなかったのよ、マーク。 「病(やまい)の時も、健(すこ)やかな時も、お互いに愛し、慈(いつく)しみ、死が二人を分かつまで」なんてちっとも頭になかった。私にイギリスのパスポートを手に入れさせたい。それだけのための結婚だった。(間。)
マーク 勿論それに付随して、他に理由があるよね?
リディア まあね。つけ加えれば二つ。最初にあの人に会った時・・・いえ、その後だって、いつでも・・・私、ベッドで充分あの人を楽しませた。この時までに私、その技術は身につけていたわ。時々やって来るロシアの政治局員達にだって・・・そんな時、イギリスの若い士官は、ロシアのおじいちゃん達とは違ったわ。それに私、初めてこの仕事をして、楽しいと思った。私の奇妙な英語のせいで、あの人も随分笑ったわ、あの晩。その後の晩だって。それからあの人、私が奴隷のような生活をしていると思ったのね。慥にベッドその他、住み込みの金額しか払われてなかったんですから。あの人のこれまでのロシアの女達と比べたら・・・だから私を救おうと決心した。可哀相なセバスチアン! 最初想像していたのよりずっと大変な仕事だったの。でもあの人、一度決めたことはやりとげる性質(たち)。私はとうとうセバスチアン・クラットウエル夫人の名目でパスポートを受け取ったわ。到る所にイギリス植民地の印がベタベタと押してあった。・・・それからよく覚えていないけど、どうしても何か結婚式のようなものをしなくちゃならなかったらしいの。その式の中で私が覚えている事、それはあの人が大声でお付きの人に怒鳴ったことね。「従うだなどと言えるか」ってね。あの人、それが自分の台詞だと思ったの・・・
マーク それが君のだと分かった時は、勿論何の反対もなかったんだろう?
リディア そこは繰り返せって言ったわ。私達には暗黙の了解があった。イギリスに帰ったらすぐ離婚だと。でもその頃あの人は小説を書いていて、私はそれをタイプしていた。それにその材料を集める仕事も。それでだんだんと私がいなくては不便、いいえ、いなくては困るというようにして行ったの。意図的によ、マーク、意図的に。あなたには分かっていたわよね、マーク、私はあの人を愛していた、ずっと。
(突然マークに対して怒って。)
リディア 分かってる! 私、あなたと駈け落ちしそうになった。あなたがそう言ってくれた時。嘘は言わないわ。もうちょっと、もうちょっとで。
マーク どのくらい「もうちょっとで」だったか、怪しいもんだ。
リディア(再び怒って。)あなた、そんな風に思っているのね。あなたには分かりっこないわよ、あの人の妻でいるっていうのがどんなことか。
マーク そうだね。有り難いことに。
リディア それにあなたがあれを言ったの、まだ三年しか経っていなかった時だったし。今はもう二十八年よ。二十八年。やれやれだわ。
マーク やれやれだ、全く。
リディア それからジョウイーが生まれた。そのあとはもう問題はなくなった・・・
(急に言い止む。)
リディア ああ、何なの、一体。どうしてジョウイーのことなんか言い出したの、私。駄目、私、もう。泣くしかないわ。
(リディア、マークの胸に頭を埋めて泣く。)
マーク 知ってるの? ジョウイーは。
リディア(恐ろしい声で。)知ってる訳ないでしょう! それに知らせちゃいけないの、あの子には。セバスチアンにも、あの子にも。ああ、ジョウイー!
(間。)
マーク 分かった。確かに僕は来てよかった。僕でもいないよりはましだ、多分。
(マーク、しっかりとリディアを抱きしめる。)
(セバスチアン、扉を押して、頭を出す。)
セバスチアン ねえ君。僕の書き物机のランプがつかないんだがな。
(マークもリディアもこの親しい抱擁を見られても、何の当惑も示さない。)
セバスチアン ねえ君。僕の書き物机のね・・・
リディア 聞こえてるわ。それがどうしたの?
セバスチアン(単純に、またはっきりと。)つかないんだ。
リディア 電球(たま)でしょう、きっと。
(リディア、セバスチアンを通り抜けて仕事部屋に入る。)
セバスチアン すまない、マーク。あと二行書いたら終だ。ひどく退屈? それが心配なんだが。
マーク いや、全然。今週は何を書いてるんだい?
セバスチアン さっき言ったろう? ストラットフォード・オン・エイボンの自信たっぷりのおじさんについてだよ。全くこいつには頭にくる。既成の勢力様様(さまさま)なんだ。お陰でこっちの書くものにまでいろいろけちがついてしまう。な、そうだろう? マーク。
マーク えっ? 僕に訊くのか?
セバスチアン(呆れて。)何だ? 君は右翼なのか?
マーク(慌てて。)違う違う。左翼だよ。
セバスチアン 我々のように、心が正しいところになきゃいいものなんか書けっこない、と思っている人間には、あのシェイクスピアは読むと苛々してくる。いや、苛々してくる筈なんだ。
マーク 心が正しいところになきゃ・・・つまり、左にか?
セバスチアン(心臓をさわって。)そうか、心臓は左にあるのか。有難う、マーク、これをうまく使えばいい締めくくりになる。(訳註 英語の right 「正しい」と「左」の洒落。)
(リディア登場。)
セバスチアン どうだった?
リディア プラグが差し込んでなかったのよ。
セバスチアン 誰だ? 抜いた奴は。またミシズ・マクリーディーの仕業か。
リディア あの人の名前はリーディー。そうね。きっとあの人ね。
セバスチアン 言っとかなきゃ駄目だぞ、リディア。チェスの用意をしておいてくれ、マーク。
(セバスチアン、部屋に入る。)
(間。)
マーク それで彼は誰が面倒をみるんだ、もし君が・・・
リディア 「もし」は止めて。「死んだ時には」にして。この事態に慣れて欲しいの。
マーク(頑固に。)「時に」なんて言わないよ、僕は、悪いけど。こういう事には誰かが希望を持ってなくちゃいけない。全くの絶望に、君はもううちひしがれているように見えるぞ。
リディア 「うちひしがれる」? 私が? 何なの、その言い方。希望なんか私、とっくの昔にベンチンク・シュトラッセに捨てて来ているのよ。まさかあなた、私が死ぬのを怖がってると思っているんじゃないでしょうね。
マーク そりゃ君、諦めが早すぎだよ。もう少しは戦わなきゃ。
リディア 戦うってどういう意味があるの? 罹ったらもうこれは死なの。それでおしまい。でももし私の読んだ本が正しいなら、この死に方はおだやかだわ。「痛みなく、真夜中頃、臨終となる。」どこからも侵略されることなく、食べたいものを食べて幸せに育ったアメリカ人には到底想像出来ないわね。どれだけ沢山のヨーロッパの人達が、ただ楽な死に方をしたい、というだけの希望を持って生きたか・・・無理だわね・・・「うちひしがれる」、私が? 侮辱だわ。
マーク 分かった、分かった。だんだんとその話はしないように気をつけることにするよ。それでよければ。
(マーク、二つの包のうち一つを引っ張って、開け始める。)
リディア そうね。でも少しは話題にして。そのために来て貰ったんだったわ・・・
マーク 分かった。でも今は止めよう。いいね?
リディア 一つだけ。あなたが質問して、答えてないことが一つ残ってる。
(マーク、包から何かを取り出す。それは非常に奇麗な、彫刻の、中国製のチェスの駒。敵、味方は赤と白で色分けされている。マーク、隅にあるテーブルの上の白と黒の駒を白と赤の駒で置き換える。リディア、自分の問題にかまけていて、マークが脇目もふらずにやっていることに気づかない。)
リディア あの人のことを誰が世話するか。
(リディア、仕事部屋を指さす。)
リディア 私が出来なくなった時。それには私、考えがあるの。
マーク 自分で自分の面倒は見切れそうにないか。
リディア あの人に? 冗談でしょう。
マーク 一人で暮らすことって、なかったのかな。戦争中は多分・・・
リディア 卒業後すぐ陸軍諜報部員。従卒つき。あの人のことだから二人ついたかも知れないわ。そこであなた何をしてるの。
マーク まだ見ないで。二人もお付きをつけたりして、一体彼の標榜しているマルクシズムとはどう折り合いをつけてるんだ。
リディア あの人にとってはそんなこと、いとも簡単よ。話のつづきだけど、私に考えがあるの。プルネッラ・ラーキンという女がいる・・・ジャーナリスト。あの人、この女にすっかりまいっている。あの人にとってもお気に入りのタイプじゃないかしら。知的にも肉体的にも。とにかく最近、あの人この女によく会うの。この三箇月で二人の間にあれはあったんじゃないかしら。
マーク ちょっと結論が早すぎないか。あれがあったってどうして分かる。
リディア あの人、言い抜けは下手なの。すぐぼろが出る。このラーキン女史を夕食に連れて行く。「なあリディア、ちょっと仕事の話だったんだ。 それから雨に降られちゃってね。」雨なんか降ってはいない時なの、それが。「しようがないから僕は例のほら、知り合いの編集長の家に泊めて貰ったんだ。」翌日ちゃんとその編集長からあの人宛に絵葉書がきたわ、アフリカから。こんな調子。
マーク そういうのが一番よく分かっているのが、この僕だろうな。ただ僕の妻達はそれほどの手間もかけることをしない。そして僕が「君、誰と寝たんだい?」と訊く時に初めて困るのさ。
リディア そして今丁度かかりつけの医者が、休みでも取ったらどうかって言ってくれてるの。あなた、十日間私をどこかに連れて行ってくれない?
マーク いいよ。で、どこへ?
リディア ブライトンがいいわね。
マーク モンテカルロがもっといいよ。だけどそれとミス・ラーキンとはどういう関係にあるんだい?
リディア ミシズ・ラーキン。離婚してるけど。いい? 十日間マークと行って来るわ、って言うわね。するとあの人、「ああ、それはいいね。 だけど僕の世話は一体誰がやってくれるんだい?」そう言うと思わない?
マーク そりゃそうなるだろうな。それで?
リディア 「そうそう、あのしょっちゅう話題に出るプルネッラ女史はどうなの? 明朗闊達、それにあなたの書いたものに何時でも尊敬を払ってるじゃない。その人にここに来て貰ったら? 世話をして貰うの。それとも、あなたがあっちに行ってもいいし。」そう言えばあの人、勿論飛び付いて来るわ。それで、もしその十日が成功だったら・・・そのように将来設計をすればいいの。つまり、これで私の代わりを見付けたっていうこと。(間。)
マーク で、その計画の最後のあたりはどんな具合なのかな。
リディア 多分私、少し予定より早く舞台裏に下がらなきゃならないわね。少なくとも書き物机のランプはちゃんと差し込まれていることを確かめてね。・・・私の方は両足を机にのっけて、アガサ・クリスティーでも読むわ。
(また間。)
リディア ね? なかなかいい考えでしょう?
マーク 何とも言いようがないよ。セバスチアンが君にしょっちゅう言う台詞、それを繰り返すしか手がない。「君は驚いた女だよ。」さ、出来た。見ていいよ。
(マーク、駒を並べ終ったテーブルを、部屋の中央に運ぶ。)
(リディア、驚く。)
リディア(駒を一つ取って。)素敵じゃない、これ。
マーク 中国製だ。たいしたことはないよ。ただモダンだけどね。
リディア でも奇麗だわ。あの人、気に入るわ。惚れ込むわよ、きっと。あら、あの人のがこんなに素敵なら、私のも開けて見ようっと。
(リディア、もう一つの包をひったくるように取って、猛烈な勢いでほどき始める。)
マーク いいかい、もし気に入らなかったら僕はまた・・・
(この時までにリディア、包を解いて箱を出している。そして中の紙を開けて覗く。それから蓋を閉める。)
リディア これは駄目。持って返って。
マーク リディア。
リディア 今すぐ持って返って頂戴。
(そう言いながら包を堅く握って放さない。間。勇を鼓してリディア、中味を取り出す。銀色のミンクのコート。リディア、いとおしむようにそれを眺める。)
リディア 持って返って、って言ってるのよ。
マーク うん、聞こえているよ。
(マーク、コートを取り上げて、手を通せるように支え持つ。リディア、手を通す。)
リディア 欲しくってたまらないの。分かってるでしょう? でもあなたって酷い人。
マーク うん。
リディア 金のあるところを見せびらかして、若い子達に「ほら、さっさと離婚して僕と結婚しないと損だぞ」ってけしかけるの。
(リディア、自分の姿を鏡に映して、色々な角度から眺める。それからマークに熱烈なキス。次にマークの空の
グラスを取り上げる。)
リディア これはただの有難うじゃすまされないわね。エストニア語で言うわ。雰囲気も出るでしょう。Tanan vaga. 私がいつかこれを着なくなるなんて思ったら、あなた大間違いよ。マーカス、いい? もうこんなにお金をばらまくのは止めにするのよ。私、もしあなたの奥さんになってたとしたら、変な年寄の女友達にミンクのコートを買ってやるなんて、絶対にやらせないわ。
(リディア、グラスを渡す。)
マーク うん。でもなんとなく今度は特別らしいと感じてね・・・
リディア そう。確かに特別ではあったわ。有難う、マーカス。
(リディア、マークを再び接吻する。セバスチアン登場。)
セバスチアン なんだ、そればかりやって。他にすることはないのかい? 可哀相に、こっちは煙草を吸うきっかけもつかめないんだぞ。
リディア 半年も会っていないのよ。無理ないでしょう?
セバスチアン 僕だって会ってないぞ。いや、誰も会っちゃいない。あ、そうだ、君。この間買ってきた、君自慢の折り畳み式テーブルね、折れやしないぞ。
リディア(部屋を覗き見て。)タイプライターを置いた儘じゃ、それは無理でしょうね。
(ミンクのコートをセバスチアンの前でわざとひらひらさせる。セバスチアン、何の反応も見せない。怒ってリディア、仕事部屋に入る。)
セバスチアン(本気で呼びとめる風はなく。)じゃあ、もう一度僕に・・・(やらせてみろよ。)
(セバスチアン、仕事部屋にはいる様子を示すが、思い直して断固とした歩調で、飲み物の盆に進む。)
マーク 終った?
セバスチアン まあね。二人の教授殿には論駁の余地を与えず、奇麗に片付け、シェイクスピア御大(おんたい)大先生には、エイヴォンの湖の中に沈んで戴いて、二度と浮き上がれないように。
マーク もう二度とね。
セバスチアン うん。だが、そこが難点でね。あのおっさん、名誉欲フンプンで、小市民ヨクヨクの癖に、物を書くのはうまいんだ。シェイクスピアさまさまか。全く許し難いね。彼の全作品に、「忘れるべき戯言(たわごと)」と烙印を押しておくべきだったんだ。ところが彼が得たものと言えば・・・
マーク 君も何か得たんじゃなかったかな。
セバスチアン OBEだ。(怒って。)僕はこんなもの欲しくはなかった。リディアなんだ、いけないのは。坐り込みのストライキなんかやらかして、無理矢理に・・・(訳註 OBEは Officer (of the Order) of the British Empire.)
マーク OBEってのは、名誉な肩書なんだろう?
セバスチアン この件については僕は何も喋りたくないね。
(セバスチアン、チェスのテーブルにマークと向かいあって坐る。一方の手には白いポーン、もう一方に赤いポーンを握る。)
セバスチアン さあ、いつもの勝負と行くか?
(マーク、左拳を叩く。セバスチアン、開けると赤いポーン。)
セバスチアン よし来い。僕が戦って何時も有利なのは赤だからな・・・赤?
(セバスチアン、再びポーンを取り上げる。いとおしむように触り、次にチェスボードにのっている駒全部を眺める。一言も言わず立ち上がり、マークの方に進みより、熱烈なキスをマークの口一杯にする。)
セバスチアン 君を尊敬する。いや、熱烈にね。そうだ、僕の残りの人生を君と暮らしたっていい。
(セバスチアン、他の駒にも触れる。全部にでも触りたい様子。)
セバスチアン それだけじゃない。今まで君の小説について僕が書いてきた事、全部撤回だ。
マーク 撤回の必要はないな。君は僕の小説については何も書いたことなんかないんだから。
セバスチアン じゃ、次の小説だ。僕の担当している三つのコラム全部を使ってそれを・・・
マーク 僕はどっちかというと、キスの方が有り難いね。
セバスチアン 馬鹿な。僕はどんなものにでも褒めるべき場所を見付けることが出来る性質(たち)なんだ。君のそのいつまでも衰えることのない能力、善人嗜好のその主題、どの一つの挿話を取っても一幅の絵だ・・・(自分自身に。今の台詞が気に入って。)うん、これはうまい。覚えとかなきゃ。
(マーク、駒を動かす。)
セバスチアン クイーン・・・ポーン、四か? どうしたんだ、一体。キング側を動かすのに飽きたのか。
(セバスチアンも駒を動かす。)
マーク フィッシャー・スパスキーの棋譜を研究した結果だよ。
セバスチアン 研究した結果じゃないだろう? 研究させた結果だ。君の調査員か?
マーク 当たりだ。調査員のことだけどね、僕は君の「夜の闇から」と同じようなものが書けるんだったら、百万ドル出してもいいよ。
セバスチアン それは僕もだ。ただ僕は百万は持ってないがね。(キングとクイーンの駒をつまんで、いとおしむように触り。)こいつはとにかくすごいよ。勿論どっちがキングでどっちがクイーンか、これじゃ迷うけどね。しかし最近はどうせ男女の差なんか見分けがつきゃしないんだから・・・
マーク 君はもう小説は書かないのか?
セバスチアン どうかな。
マーク そうか。その返事は「脈あり」だ。
セバスチアン 違うんだ。「書く」という能動の気持では僕は書けない。僕は駆り立てられなきゃ駄目なんだ。戦争があって初めてあれが書けた。戦争で書く気を駆り立てられた。だから良いものが出来たんだ。トルストイとは違うなどと馬鹿な奴が言ったがね、あれはいいものだった。
マーク うん、あれはいい。
セバスチアン(食ってかかるように。)おいおい、いつから君は批評家になったんだ。
マーク 失敬。
セバスチアン 次の小説には実は期待している・・・ まあ出来ればの話だが。・・・ああ、(チェスに戻って。)クイーンズ・ギャンビットか。そいつは卒業したとばかり思っていたぞ。
マーク 新しい変化を研究してね。
セバスチアン そりゃ、その必要があるだろうな。クイーンズ・ギャンビットに対する僕の攻略法は相当強い奴でも震え上がるんだから。(中央のポーンを動かす。)よし、受けて立とう、クイーンズ・ギャンビット。
マーク へえー、そんな手ありか?
(リディア登場。男達は気づかない。)
セバスチアン あるさ。
マーク そんなことをしたら、中央の位が弱くならないか?
セバスチアン(機嫌よく。)構わん、構わん。その間そっちはポーン一個戦力ダウンだ。
(セバスチアン、リディアに。リディアが着ているものを見せびらかすように動き回るので。)
セバスチアン リディア、灰皿は暫くその儘にしておいてくれないかな。そのへんで動き回られると気が散っていけない。
(リディア、溜息をついて、じっと立ち止る。)
セバスチアン ああ、ところで、マークの僕への贈り物は見たかい?
リディア 私への贈り物には興味がないの? さっきから見て貰おうとしているのに。
セバスチアン(リディアを見上げて。)えっ? 君への贈り物?
(間の後。)
セバスチアン ああ、それ。
(間の後、マークに。)
セバスチアン 何の革なんだ、あれは。正確には。
リディア(大声で。)言っちゃ駄目!(やけくそになって。)兎の革よ。染めた。
セバスチアン ミンクか。ほほう。
(間。)
セバスチアン 奇麗だ。
(間。)
セバスチアン ちょっとその明るい色なんだけど・・・言い過ぎなら謝るけどね、リディア・・・少し若向きじゃないか?
(セバスチアンの言葉が終らないうちにリディア怒って、さっとコートを脱ぎ、セバスチアンの頭から被せる。その時チェスの駒が二、三個落ちる。)
セバスチアン おい、リディア、これは高価なものなんだぞ。
(男二人、駒を拾う。リディア、膨れ面をして向かいの椅子に坐る。手は拳を作っている。夫を憎しみをもって睨む。)
セバスチアン ポーンをキングの三に動かしたんだ。
(セバスチアン、ポーンを手に取って。)
セバスチアン まさに職人芸だ。
(マークが駒を並べ直しているのを手伝わずに。)
セバスチアン どこで手に入れたんだい?
マーク 香港でだよ。
セバスチアン あ、そりゃそうだな。
(セバスチアン、恐ろしい考えが浮かぶ。)
セバスチアン おお、そうだ、マーク。これは君に返すよ。(搾取された)労働者の汗が・・・
マーク 北京からの輸入品だよ。
セバスチアン(ほっと安堵の溜息をついて。)ああ、それなら。
マーク 北京では汗してもいいのか。
セバスチアン 北京では汗するようなことはないよ。
マーク 汗したら逮捕だからな。
セバスチアン 安っぽいよ、それは。そんな安っぽい冗談は止めてくれ。さあ、君の番だ。
(この時までに駒は元通り並べられている。リディア、マークに飲んでいいかと訊ねるような目つきをした後、
グラスに一杯に注ぐ。)
リディア あなた、マークがね、私を十日ばかりモンテカルロに連れて行ってくれるんですって。
セバスチアン モンテカルロ? 何のためだい。
リディア 休暇よ。少し休むの。お医者さん、そう言ってたでしょう?
セバスチアン 休むって? ここじゃ休めないのか。
リディア そうね。訊かれたから言うけど、ここじゃ駄目ね。あなたがモンテカルロに行けば話は別だけど。
セバスチアン ふん、そりゃいい考えかな。しかしそれで喜ぶのはあの編集長の奴じゃないか。あいつも今遠くにいるんだ。
リディア タンジールにね。
セバスチアン うん。えっ? どうして知ってるんだい? (ま、いい。それで君が行くとして)ミシズ・マクリーディーに毎日来て貰えるのかな。
リディア 無理だわね、それは。
セバスチアン そうか。まあ、来て貰えない方がいいかもしれない。金がかかり過ぎるよ。
リディア ええ。でもいい考えがあるのよ。まだ頼んでみてはいないけど、プルネッラを招んだらどうかと思って。あなたの世話をやいて貰うのに。
セバスチアン プルネッラ? プルネッラ・ラーキンのことか?
リディア ええ。十日間。ほんの短い時間。
(間。)
セバスチアン ほんの短い時間? プルネッラ・ラーキンと? ほんの短い時間なんか、あいつとあるわけはないんだ。あいつと一時間顔を合わせていてみろ、それは永遠の長さだ。十日間、毎日毎日十日もあいつと顔を合わせる・・・それが終った頃には、僕はよぼよぼになって、うわ言を口走っている。
リディア(少し嬉しそうな顔。)あら、最近二人でよく会っていたんじゃないの・・・だから私・・・
(間。)
セバスチアン(用心深く。)ミシズ・ラーキンと僕の間にはね、確かに共通の興味なるものがある。認めるよ。しかしそれは高々三十分間精神を集中した会話でけりがつく。この短い邂逅の後、僕がこのアイリントンの家へ帰らず、編集長のアパートに泊まる・・・僕はその鍵を預かっているんでね・・・そこに泊まることにしたって、僕の良心の問題にはなるかもしれないが、色っぽい疑いをかけられる筋合いはないね。だから君がその豪勢な旅に出ると言うなら、僕はサヴォイ行きだ。そしてつけはマークに回す。マークが払わないなら、このチェスの駒を売りとばすことにするさ。さ、これでこの話は終だな?
リディア(少し息を弾ませて。)ええ、ええ。終りね。
セバスチアン ならいい。(真面目な顔をして。)君の番だぞ、マーク。
(リディア、突然ゲラゲラと笑う。酔も手伝っている。そしてセバスチアンの頭にキス。)
セバスチアン リディア、頼むよ。この勝負は集中力を必要とするんだ。ボビー・フィッシャーは十ヤード離れた所から写真を取られる、そのシャッターの音でも厭がったんだぞ。ハイエナに耳元でキイキイやられたら勝負はどうなるんだ。
リディア ご免なさい。あなたにキスしようと思って。
セバスチアン 時と場所というものを考えてくれなくちゃ。
リディア 分かったわ、時も場所も。
(音を立てないよう極度の注意をしながらバッグの中に手を入れ、罎から二錠薬を取り出す。そうしている間にコップをひっくり返す。)
セバスチアン なあ、夕食の用意をしたら?
リディア はい。
(リディア、ウオッカで薬を流し込む。)
(マーク、それを見る。)
マーク(鋭く。)ついさっき二錠飲んだんじゃなかったのかな。
リディア ええ。でもお晝を食べた後に飲む二錠を忘れたから。
セバスチアン 飲む二錠って、何だ?
リディア ビタミン剤。
セバスチアン(手を考えながら。)そうか。鉄分とか何とか、あれだな。あれはよく効くんだ、マーク。体重、八ポンド増えたんだからな。
リディア(怒鳴る。)二ポンド。
(マーク、キャッスリングをする。両手を使うので観客からも分かる。)
セバスチアン 臆病者のやる手だ、それは。
(間の後。)
セバスチアン どうやって僕等、知り合いになったんだったかな、マーク。慥か、カリフォルニアじゃなかったか? ユー・シー・エル・エーで講義をしていた時。だけど正確にはどうだったか、全く忘れてしまったな。・・・チェスだったかな。
マーク いや、チェスじゃない。リディアだ。現代のトルストイ出現と聞いて、その講義を聞きに行った。そして坐った席の隣がそのトルストイ氏の奥方だったんだ。
セバスチアン そう。そうだった。それで君、暫くその奥方に惚れてたか何かしていたと思ってたんじゃないか?
マーク(リディアを見ながら。)いや、今でも惚れてるか何かしているように思ってるけど。
セバスチアン(チェスに没頭して。)ふーん。そりゃすごい。
(リディア、コートを取り上げて、また出て行こうとする。が、マークに身振りで止められる。)
セバスチアン いつだったかな。そういう夢のような話があったのは。
マーク 二十五年前だね。
セバスチアン ぐでんぐでんに酔っ払ったな。あれはロスアンジェルスのトップレスバーじゃなかったか?
マーク あの頃はまだトップレスバーなんかなかったよ。
セバスチアン じゃあ、どこだったかな。
マーク ただのバーだよ。
セバスチアン かなりトップレスに見えたがな。まあ、あの頃は何でもトップレス風だった。あの時のことをリディアに君、話したことあるかい?
(この時までにリディア、興味を惹かれて再び坐りこんでいる。)
リディア ないわよ。話してくれたこと、ない。
セバスチアン そりゃ話しておくべきだったな。いや、実際おかしい話なんだから。(マークに。)ナイト、キングビショップの四だ。
マーク(荒々しく。)言わなくても見える。
セバスチアン そうだ。あの晩君には何も見えなかった。それを言えば僕の方だって何も見えなかった。(リディアに。)朝の四時頃だったんだ。マークは急に両腕を僕の体にまわして、・・・その時そこにあったコップを全部がしゃーんと・・・
マーク 我々はテーブルにいた。とまり木にいたんじゃない。だからコップを壊したりはしない。
セバスチアン(しっかりと。)我々はとまり木にいたんだ。バーテンの前のな。君はあの時、最低六個はコップを壊している。それも最高級品だ。小ぶりのやつだったが。丁度そこに年輩の売春婦がいて、そいつが驚いたのなんの・・・
マーク 年輩のトップレスのね、勿論。こいつの言うことを聞いちゃ駄目だぞ、リディア。記憶がめちゃめちゃになってるんだ。悲しい事態だが。
セバスチアン(リディアに。)ちゃんとその図が浮かぶだろう、リディア。マークは僕に両腕を巻き付けてきた。その時また、がしゃーんと、今度はナイフ類だ・・・
リディア で、その時の台詞は?
セバスチアン 台詞ね・・・よーし、台詞はだ、彼のこの驚くべき行動に相応しい、驚くべき台詞だ。こいつは言った。「なんて残念なんだ、この僕が他のどんな作家より君を尊敬しているなんて。そして何て残念なんだ、僕が君をこんなに愛しているなんて。激しく、熱情的に・・・」
マーク 「熱情的に」・・・それはない、僕の台詞に。
セバスチアン その儘の言葉でなくったっていいじゃないか。とにかくこれで例の売春婦の奴、ぱっちりと目をさましたね。
マーク 売春婦なんかいなかったぞ。作り話なんだからな。いいね、リディア。
リディア(うっとりとして。)それで?
セバスチアン だから勿論僕は言ったさ。「それがどうして残念なことなんだ。」で、その返事は・・・(涙もろい酒飲みの調子を真似て。)「だってな、僕は君の・・・あの人が大好きなんだ。だから君への尊敬なんか邪魔なんだよ。出来れば、出来れば僕は君から・・・」(訳註 関係代名詞目的格 whom をマークはwho と言う。これを指摘するのだが、翻訳不可能。)
マーク 一つだけ確かなことがあるぞ。僕は「出来れば」などと言わない。
セバスチアン そうか。君の使う言葉じゃないか。僕の間違いだ。「僕は君からあの人を奪い取って、これから先一生あの人と暮らしたい。・・・暮らしたいんじゃない。暮らすつもりだぞ・・・」文章の後ろの方は文法的に正しくなかったがね・・・
(セバスチアン、リディアがこれに対して適切な笑いの反応をもって応えるだろうと暫く待つ。 しかしリディ
ア、行儀正しく坐った儘片手の上に頬をのせて、見つめている。)
リディア(やっと。)で、次は?
セバスチアン だから僕は言った。「じゃ何か、君はリディアに惚れているって言いたいのか?」
(間。)
リディア それ、ちょっと声の調子が違うわね、あなた。こう言ったのよ。「じゃ何か。君はリディアに惚れているって言いたいのか?」
(リディアの声の調子はよくその時のセバスチアンの調子を真似ている。非常な驚きの声、と同時に、愉快な気持も。それからマークは酔っているため多分、「メイヴィス」なる女性と間違えて言ったに決まっているという 調子。)
マーク 分かった、分かった。僕は指したぞ、セバスチアン。ナイト、クイーン・ビショップの三だ。
リディア 話の方にして。で、その続きは?
セバスチアン うん、続きは・・・僕達はバーにいる。朝の四時だ。喧嘩をしても始まらない。それに年寄を殴ったってしようがない。心臓に欠陥のある年寄をね。だからイギリス流のエチケットで礼儀正しく対応することにしたさ。僕は言った。「失礼だが君、これから先ずっとあれと暮らす、そんなこと少しでも脈があると思ってるのか? あれは好みもちゃんとしているし、分別もある女だ。それがマントヒヒのおっさんと? それも壁に「馬鹿やろう」と落書しようとすると、「やかばろう」と書き間違えるような、そんなおっさんと・・・」
リディア 攻撃としては上品ね。
セバスチアン 軽くいなすのが一番だと思ってね。僕は勘定をすませた。壊したコップの弁償もした。着いたところはビバリーヒルズのおっそろしく古ぼけたイギリス・チューダー朝の屋敷だ。優しく服を脱がせてやって、ベッドに寝かせた。この親切な行為に対して、また僕は熱情的な抱擁を受けたね。
マーク 熱情的じゃない! 僕はいつだって熱情的からは程遠いんだ。
セバスチアン 自分でそれを判断出来る状態じゃなかったぞ。
(チェスに戻って。)
セバスチアン ナイト、クイーン・ビショップの三? 面白い手だ。
リディア それで話はおしまい?
セバスチアン(リディアに背を向けた儘。)そうだよ、勿論。どんな終り方をすると思ったんだ?
(間。)
リディア そんな終り方だと思ったわよ、勿論。
(リディア、酒を飲み終る。チェスボードに屈み込んでいる二つの頭を見つめる。)
リディア 別の終り方なんてないわよね。
(間。)
セバスチアン ところでね、リディア。もうそろそろ夕食の時間じゃないのか?
リディア そうね。
(リディア、台所への階段を二、三段上がる。)
リディア 私、予感がするわ。へーんな味がするんじゃないかしら、今日の夕食。
(リディア、台所に入る。長い間。セバスチアン、放心したように椅子の背に凭れる。それから呟くように。)
セバスチアン
そうだ、みんな死んで行くのだ。
死んでどこへ行くのか。
塞がれた、冷たい場所、そこに横たわって、
腐って行く。
(訳註 「尺には尺を」より。)
(マーク、駒を動かそうとしたが、その儘駒の上に手をかけて、じっとセバスチアンを見る。)
セバスチアン
このしなやかな、意志を伴った動き、
それがただのこね上げられた粘土になってしまう。
そして喜びにみちた精神も
君の番だぞ、その触ってる駒、動かすのか。
マーク 考慮中だ。それはシェイクスピアかい?
セバスチアン
盲めっぽうに吹いてくる風に取り込められ、
恐ろしい勢いであっちに、こっちにと、
世界中を吹き飛ばされ、
引き回される。
触っているだけで永久に動かさないのか。そういう訳にはいかないぞ。
マーク よし。こう行く。
セバスチアン こいつは酷い手だ。そう言っては君には悪いがね。
(セバスチアン、考える。それから低い声で続ける。)
セバスチアン
重荷で押しひしがれた、
このやりきれない毎日の生活、
時には、寄る年なみに、怪我の痛みに、貧困に、 あるいは獄中の苦しみに、
もう耐えられないと弱音をはいても。それでも、
死後の恐ろしさに比べれば・・・(
このやりきれない毎日の生活も)天国だ。
そう。シェイクスピアさ。確かに認めざるを得ないか。名文を書く男であったことはね。しかし悲観主義のおいぼれだよ。
マーク さっきは、「名誉慾ふんぷん、小市民ヨクヨクの」じゃなかったのかい?
セバスチアン その両方なのさ。それがやっかいな所でね。
(セバスチアン、駒を動かす。)
セバスチアン この一発で、そっちは全軍ガタガタだ。
マーク クラットウエルの新手か? 味はあるがね。ただ深みのない手だ。
(マーク、じっと盤を見る。)
マーク しかし引用するにしても死の題材とはね。何か理由があるのかな。
セバスチアン いや。たださっき書いた僕の原稿の中にあってね。しかしあんな悲観的なことを書いた同じ男が、こうも書いたとはね。
吾等は夢と同じ絲で織られてゐるのだ
ささやかな一生は、
眠りによつてその輪を閉ぢる・・・
(訳註 「あらし」 福田恒存訳。)
セバスチアン(怒って。)「眠りによつてその輪を閉ぢる」か。いんちきな! そうであって欲しいとは思うさ。だけどどこにその保証がある。僕のは、だからシェイクスピア二人説だ。今のこの住み心地のいい、中産階級向けの、口当たりのいい、商業主義の男。それとこれだ。「盲めっぽうに吹いてくる風に取り込められ、恐ろしい勢いであっちに、こっちにと、世界中を吹き飛ばされ、引き回される。」どんな現代のヒッピー詩人を持って来ても、こいつを越えられるか? シェイクスピアは二人だ。でないと無理だ。
マーク(駒を動かして。)チェック。
(玄関の鍵が開いて、ジョウイー登場。長髪。しかし手入れがしてある。セーターとスラックスは普通の色。一見してリベラルを標榜している男と分かる。外泊用の荷物を入れる大きなバッグ。)
セバスチアン(ジョウイーを見ず。)どうやらこっちの罠にまともにひっかかったな。
ジョウイー 只今、お父さん。
(間。ジョウイー、セバスチアン、二人とも微笑まない。)
セバスチアン 今夜帰る予定になっていたか?
ジョウイー いいえ。(暖かい言い方で。)ハロー、ウオルターズさん。
マーク(立ち上がり、握手しながら。)ハロー、ジョウイー。この間会った時に比べると、十(とお)も年をとったって感じだな。
ジョウイー ええ。僕も十(とお)も年をとったって感じです。選挙活動って大変なんですよ。おじさんにはちょっと想像つかないんじゃないかな。
(ジョウイー、バッグを肩から下ろす。)
(セバスチアン、ジョウイーの台詞が気に入らない。 が、発音すれば「パーッ」という音になる口の格好を取り、それで満足する。)
マーク テレビで脚本が入選したんだってね。おめでとう。すごいじゃないか。
ジョウイー もう心配でたまらないんです。でもどうせ七時半始まりです。誰も見やしませんよ。おじさんも見やしないでしょう?
マーク いや、見るさ。そのためだけに態々明日また来る予定なんだ。
ジョウイー(驚いて。)僕の芝居を? 態々?
マーク そうだよ。
ジョウイー すごい。
セバスチアン(大きな声で。)選挙妨害男なんだ、そのうちの息子は。そんな奴とガタガタガタガタ喋らんで欲しいな。君は僕とチェスをやっているところなんだぞ。
ジョウイー どっちが勝ってるの?
セバスチアン 今罠にひっかけたところだ。後はどう締め上げてギュウと言わせるか、それだけが残っている。
(ジョウイー、盤を見つめる。)
ジョウイー それ、逆なんじゃないかな。
セバスチアン(怒鳴る。)何だ、おい。
ジョウイー 失礼。
(セバスチアン、駒に手をかける。ジョウイー、小さな声で「アアーッ」と言う。「それは悪い手だ」という合図。 セバスチアン、手を引っ込める。セバスチアン、再び他の駒に手を触れる。またジョウイー、声を上げる。)
セバスチアン コブラの真似か、その声は。見物には酷い手に見えても、俺は俺の勝負がしたいんだ。
ジョウイー ナイトがただになっちゃうもんだから。
セバスチアン(明らかに気づいていなかった。)ナイトが?
ジョウイー 二手先なんだけど。
セバスチアン(間のあと。)ナイトを犠牲にするのがこっちの手だったかもしれんぞ。こっちの読みがそうじゃないとお前、言いきれるか。
(と口では言うが、手を引っ込め、次に躊いなく駒を動かす。)
ジョウイー それでナイトは大丈夫だ。
セバスチアン(爆発して。)お前、そんなに上手いんなら、何故やらないんだ。
ジョウイー やってるよ。
セバスチアン 何故俺とやらないか、と言ってるんだ。
(間。)
ジョウイー 理由は二つあるな、多分。第一。やろうって言われたことがない。第二。もし僕が勝ったら、「このファシストの豚め」と言われるだろうから。
セバスチアン つまり俺が負けっぷりの悪い男だと言いたいんだな。
ジョウイー つまり相手が自分のエゴに踏み込んで来ると、「ファシストの豚」と怒鳴る人だということ。
セバスチアン もうあっちへ行け。エゴよりもっと辛いものに踏み込んで行きそうだ。
ジョウイー ちょっと見ていたいな。いいですか、ウオルターズさん。
マーク 勿論。
セバスチアン(叫ぶ。)リディア、リディア。
(リディア、台所から登場。)
セバスチアン 息子が帰って来てるんだ。ここから追い出してくれないか。僕が暴力を奮(ふる)うようになっちゃ困る。
リディア(嬉しそうに叫ぶ。)ジョウイー!
(リディア、階段を駆け降りそうになるが、思い留まり中程で待つ。ジョウイー、駆け上がり、腕に飛び込む。
暖かい抱擁。)
リディア ジョウイー、嬉しいわ。お帰り!
(リディア、再び抱擁。)
セバスチアン(マークに。)見られたざまはないが、まあ許してやってくれ。五日間も会っていないっていうんでね。
リディア どうして知らせてくれなかったの? 食事は?
ジョウイー 昼はすませた。他の連中には構わず一人で食べたんだ。選挙の日まで僕は用がないからって。
リディア 木曜日ね、選挙は。じゃ、その時までうち?
(ジョウイー頷く。セバスチアン、二人を見上げる。)
セバスチアン うち、うち。俺の目の前にうろうろうろうろ。
ジョウイー 大丈夫だよ、お父さん。お父さんの邪魔はしないから。
セバスチアン 選挙の日までお前がいらないっていうんだな。はっ! お前の候補者、諦めたのさ。
ジョウイー 逆なんだよ。安全圏に入ったんだ。一番最近の結果では、他の全ての候補者に十二パーセントの差をつけている。
セバスチアン まさか。
(飲み物を取るために立ち上がり。)
セバスチアン 確かに選挙民は全くの馬鹿だよ。しかしまだ気違いにはなっていないからな。
リディア(ジョウイーに。)お母さんにウオッカを持って来て貰えないかしら、ジョウイー。
ジョウイー ウオッカ? ウオッカなんか飲んでた? お母さん。
リディア ええ、この一時間、急に。
(リディア、階段のステップに坐る。)
(ジョウイー、階段を下りてグラスを取る。)
セバスチアン 訊きたいんだがね。正真正銘、バリバリの左翼陣営にいたものが、何故急に自由党だなどといういかがわしいものになってしまうんだ。さっぱり訳の分からない話じゃないか。
ジョウイー それは今では政治的には十分訳が分かる話なんだよ。選挙民は純粋な右とか、純粋な左に飽き飽きしたんだ。だから中間を選ぶんだよ。
セバスチアン 「今では」ね。「今では」・・・まるで俺が昨日の政治の中にしか生きていない白痴のような扱いだな。
ジョウイー 違うよ。でも「右」とか「左」とか、それはもう随分昔の話だよ、お父さん。ヒトラーが悪魔だった頃には、スターリンは神様だった。左でさえあれば、すべて世はこともなしと。もうその時代は変わったんだ。昔風のマルクシストの時代は終ったんだ。
(ジョウイー、ウオッカをリディアまで運ぶ。)
(リディア、ジョウイーの髮を撫でる。)
セバスチアン 「マルクシストの時代は終ったんだ」か。ええっ?
リディア(ジョウイーに。)気をつけてよ、ジョウイー。(セバスチアンに。)こんなに奇麗な髮してたことあるの? あなた。
セバスチアン それよりずっと奇麗だったな。しかし残念ながら僕は軍隊にいた。ファシズムと戦ってね。だから短く刈らなきゃならなかった。衛生のためだ。しらみがいたんでね。
ジョウイー ホワイト・ホールの諜報部にそんなにしらみがいたのかな。
セバスチアン 比喩だ。比喩で言ったんだ。
ジョウイー 比喩じらみか。
リディア(急いで。)お父さんに構わないの、ジョウイー。どうなるか分かってるでしょう?
ジョウイー(この忠告を無視して。)そちらの陣営のジム・グラントがどれくらい票を稼ぐか分かってるの?
セバスチアン グラント? こっちの陣営? 何だ、それは。
ジョウイー よくそれで政治に関与しているなんて言えるな。今年の補欠選挙で最も重要な人物の名も知らないで。
セバスチアン 勿論共産党さえ候補者を出していれば俺は・・・
ジョウイー(母親の方に戻りながら。)いるんだ、それが。それがジム・グラントだよ。
リディア(ジョウイーの耳に囁く。)気をつけて、ジョウイー。
セバスチアン で、得票がどのくらいになるんだ。
ジョウイー 四百。運がよければ。
セバスチアン 嘘っぱちだ。イースト・ワーズリーの労働者階級の票だけでも・・・
ジョウイー そんな階級がもういないんだよ。もう昔の公式は効きはしない。「万国の労働者よ、団結せよ。葉巻を銜(くわ)えた資本家に一票も入れるな。」こんなのはもう昔の話さ。
セバスチアン(自分の席に戻りながら。)もうこの話は聞きたくない。(威厳をもって。)木曜日まで待つんだな。この一言で充分だ。木曜日になってみろ。
セバスチアン(急に怒って。)もう止めたのか、おい!
マーク(驚いて。)あ、失敬。
(マーク、駒を動かす。)
ジョウイー これは言っておくけどね、お父さん。ジム・グラントっていい奴なんだ。それに演説も実にうまい。お父さんだって会ってみたくなるような人物だよ。誰にでも好かれるしね。だけど・・・あいつはお父さんと同じなんだ。もうその時代は終ったんだ。ただのお喋り。身体(からだ)をはって何かやろうっていう気は全くない。僕ら自由党にはそれがあるんだ。
セバスチアン(行動の時代ね。) 遠征してきた南アフリカのクリケットの選手に、試合中光を鏡で反射させて、邪魔をするか。(これだって行動だ。)
ジョウイー そんなことはやらない。でもあの遠征を中止させたのは僕らだ。で、お父さんは何をやったっていうんだ。ロンドンでの試合の切符でも予約したっていうのか。
セバスチアン(怒り狂って。)そうだ。その切符を買うのにひと財産使ったんだぞ。きっかり五十ポンドだ。それが中止だと? それもお前と、お前のあの長髪の仲間のために!(自分を取り戻して。)そう、こんなことを話していたんじゃない。選挙だ。中道の党だなどと。そんな党はどうせどこか敵方の党に奉仕させられるんだ。
リディア(楽しそうに、酒をすすって。)敵方に奉仕。危ない、危ない。私達、それをやると撃ち殺されたわ。・・・敵からも、味方からもね。
ジョウイー(母親の手を軽く叩いて。)ママ、それはもう随分昔の話だよ。
リディア そうね。昔話。でも時々つい最近のことのように思えるわ。
ジョウイー(セバスチアンに。)お父さんのその「敵」、それは現状そのもののことだろう?
セバスチアン(チェスの盤を見つめている。)何だって?(ジョウイーに。)そうだ。この腐った、悪臭ふんぷんたる今日のイギリス、それが敵だ。
ジョウイー 何? ママ。
(リディア、ジョウイーの耳に何か囁く。)
セバスチアン 何て言ってるんだ?
ジョウイー 「そうよ、酷いわよね、このイギリス」って。でもママはこの今日そのままのイギリスが好きなんだって。
セバスチアン くだらん。酔っ払ってるんだ。(そんな馬鹿なことを言うのは。)
ジョウイー(笑って。)そう? ママ。
リディア 酷い言い方ね、そんな・・・(しっかりと。)そう。酔っ払っちゃったわ。
ジョウイー えっ、そう?
マーク 今のアメリカ。その方が大変だよ。若い連中の落ちこぼれ率がどのぐらいになっているか。
リディア 落ちこぼれって?
マーク 現代の文明について行けなくなった少年、少女達。・・・つまり、落ちこぼれ。
リディア 誰かに押されるかなにかして? それともただ落ちこぼれるの?
マーク それは押されてではあるけれど。つまり今日のアメリカの生活、その不潔、堕落に押し出されてね。
リディア(幸せそうに独り言。)不潔、堕落?
ジョウイー(階段のステップから立ち上がって。)お父さん、確かに大西洋の両側で、我々全部が、今日悪夢の生活を送っていることは否定しないよ。だけど僕らは、何かをしようとしてしているんだ。
リディア(独り言。)悪夢の生活!
(リディア、一人で嬉しそうにくすくす笑う。)
セバスチアン ねえ君、そうやってそこにずっと坐っているつもりなのか? こっちの会話で妙なところをいちいち繰り返して。
リディア ええ。そうするつもり。
セバスチアン 夕食の準備が進まないんじゃないかって、チラとでも思わないのか。
リディア ここの議論が面白いもの。
セバスチアン 君は議論の構成員にはなっていないぞ。
リディア コウセイ?・・・ええ。議論には加わっていないわ。だって私、この国の人間じゃないんですもの。
ジョウイー お母さん、それは違うよ。
リディア いいえ、この国の人間になれたのはただの偶然。あるイギリスの諜報部員が、ベルリンの東側に立ち寄る機会があって、それもベンチンク・シュトラッセ十六に来るっていう偶然があったため。
セバスチアン 頼むよ、リディア。ジョウイーに態々知らせる必要なんかないんだ。我々が曖昧(宿)・・・いや、共同施設で出会ったなんてことをだ。
リディア 「メゾン・ドゥ・ランデヴ」っていったわ、普通、あの建物のことを。
ジョウイー(セバスチアンに。)心配しないでいいんだ、お父さん。僕はもうとっくに知ってるんだから。
セバスチアン そうか。しかしとにかくアイリントン中に響き渡るような声でふれ回るような話題じゃないな。
リディア 私、響き渡るような声でふれ回ってはいないわ。私が言っているのは、私の国籍は生まれた所、エストニア共和国っていうこと。小さな国よ。ウエールズの二倍くらいの大きさ。北側に接しているフィンランドよりは少しは気候がいいかしら。
(リディア、手摺りの助けを少し借りて立ち上がる。)
リディア そうね。皆様にどんな話し方をしたって分かって貰えないでしょうね。エストニアがどんなに悪夢かっていうこと。だってもうエストニアなんて国ないんですもの。その存在が消滅したの。だから私には祖国なんてない。全くないの。アメリカ人だってイギリス人だって、この話を聞いたらが涙がチョチョ切れるのよ。
セバスチアン その言葉は止めた方がいい。「涙がチョチョ切れる」は、品がない。
リディア そうね。きっと。この言葉、ターリンの学校で習ったの、私。(涙は「こぼれる」ものだわね。)だから今日のイギリス、これまで暮らしてきたけど、ちっとも悪くない。エストニア人にとってはかなり住みやすいところだったわ、さあ、行って食事の支度をしなくちゃ。
セバスチアン そうだ、リディア。いい考えだ。(マークに。小さな声で。)今日は許してくれ。普段はやらないんだが、また避難民時代の話。
ジョウイー(微笑んで。)「これまで暮らしてきたけど」? どうしたの、ママ。どこかへ行っちゃうの?
(リディア、急にジョウイーを抱きしめる。素早く、力強い動作。ジョウイー、驚く。)
(リディア、すぐに自分を取り戻す。)
リディア(「当たり前じゃない」という調子で。)そうよ。上に行くの。食事の用意に。
(リディア、回れ右をし、一、二歩しっかりした足取りで進む。次にぐらりと揺れる。酔ったためではない揺らぎ方。体を支えるために、しっかりと手摺りを握る。体を急に硬直させる。)
リディア えーと。・・・私・・・多分・・・
(ジョウイー、不思議な面持ち。母親に近づこうとする。が、セバスチアン、それより早く、邪魔なジョウイーを跳ねのけて駆け寄る。ジョウイー、このため危うく倒れそうになる。)
リディア(セバスチアンに。)やすんだ方がいい?
セバスチアン うん。その方がいい。
(セバスチアン、しっかりとリディアを支える。)
セバスチアン さあ、一歩踏み出して。
(リディア、辛うじて二、三歩歩く。)
セバスチアン よし。それでいい。これを「歩く」というんだ。
リディア 夕食・・・ジョウイー出来るかしら。
セバスチアン 勿論出来るさ。さあ、もう二段だ。
(リディア、何とか二段進む。)
セバスチアン そうだ。それでいい。夕食、大丈夫だな? ジョウイー。
ジョウイー いいよ、分かった。
リディア 私酔っ払っちゃったの。それだけ。
セバスチアン そうだ。さっきちゃんと僕はそう言っただろう? 君はイモリだよ、まるで。(他の二人に。)いや、驚いたですな、諸君。長年一緒に暮らしていたのに、自分の妻にアル中の問題があることに気づかないとは。僕の場合は違う。僕の場合はただの飲んだくれ。
リディア 愛してるわ、あなた。
リディア(ジョウイーに。)あなたも。
リディア(マークに。)そしてあなたもみーんな。
セバスチアン そうそう、リディア。嬉しいよ、君に愛されていると分かって。
リディア そしてイギリスも。(マークを見て。)アメリカも。(ジョウイーを見て。)左も右も、中道も。
セバスチアン そうそう。イギリス、アメリカ、どの政党もそれを聞いて喜ぶさ。正式なコミュニケはあとで出すことにして。今はこのお尻をこっちに回して・・・そうそう。(マークに。)次の差し手はポーン、クイーン・ルークの三だ。さあ、リディア、もう二歩小股で進んで・・・よしよし。さあ、そしてもう一歩。今度は左だ。・・・いいぞ。・・・なんだ、これは案外面白いじゃないか・・・ (暗くなる。)
(幕)
第 二 幕
(明るくなる。同じ部屋。次の日の夜。テレビが隅っこから引き出されていて、四個の椅子の前にある。その椅子の向きを今ジョウイーが整えているところ。前日と同じ服装。但しセーターの色は違っているかもしれない。ジョウイー、椅子の細かい調整を終えて、置かれている料理を調べる。明らかにこの時のためにリディアが用意したものである。)
ジョウイー(呼ぶ。)ママ!
リディア(台所から。)なあに。
ジョウイー みんな飲み物は何にするの。
リディア(台所から。)それは私に任せて。
ジョウイー 分かった。
(ジョウイー、テレビの前に行ってしゃがみ、スイッチを入れる。始め大きな音。次に小さ過ぎ。また少し大きくなる。)
声 そうですね。さっきお話したことを繰り返し申し上げるだけのようですね。つまり議会は法律を作るのが役目です。誰もそれを否定してはいません。しかし悪い法律は悪い法律であって、たとえ議会がそれを決めたとしても、そのこと自体が変わる訳はありません。・・・
(ジョウイー、声のボリュームを下げ、音を消す。それから別のつまみを回す。観客にその画面は見えないが、ジョウイーはそれを見て興味を示す。)
(リディア、飲み物の盆を持って登場。盆の上にはシャンペンの罎と三個のグラスあり。)
リディア これがみんなの飲み物。
ジョウイー 豪勢だな、ママ。やり過ぎだよ。
リディア この場合やり過ぎっていうのはないの。
(リディア、この機会を祝って、よく似合う長いドレスを着ている。)
(ジョウイー、リディアから盆を受け取る。)
リディア 落ち着かない?
ジョウイー うん。体が凍り付いたみたい。どうしてグラス三つしかないの?
(リディア、くたびれ果てて坐る。)
リディア 罎は氷をつめたバケツに入れなきゃいけないわ。バケツは台所。ちゃんと冷蔵庫に入れて冷やしておいたんだけど、その方がシャンペンらしいもの。
ジョウイー 大丈夫? ママ。気分はよくなった?
リディア ええ。でもアメリカでウオッカなんか作るからいけないのよ。さ、氷を入れて来て。
ジョウイー うん。それからグラスも、もう一つね。
リディア 分かったわ。じゃ、ちょっとね。あなたのお祝いに。
ジョウイー(時計を見て。)お父さん、忘れたんじゃないだろうな。
リディア 忘れてっこないわよ。一日中そのことばかり話してたわ。さ、氷を。
ジョウイー 今どこ、お父さん?
リディア 会社よ。死亡記事のことか何かで。今頃きっと帰りの電車よ。
ジョウイー 電話したの?
リディア ええ。「今帰る。充分時間はある。」って。
ジョウイー じゃあ大丈夫だ。
(ジョウイー、階段を駆け上がる。)
リディア それからね、ジョウイー。
(リディア、正しいサインを送る(訳註 意味不明。))
リディア メルド。(佛語「くそったれ」の意。意味不明。)
ジョウイー(微笑んで。)有難う。
(ジョウイー、台所に入る。)
(ジョウイーが見えなくなるや否や、リディア立ち上がり、部屋を横切って静かに電話に近づく。電話番号帳を見、急いでダイヤルを回す。)
リディア(受話器に。)ミシズ・ラーキン? こちらリディア・クラットウエル。電話なんかして申し訳ないんですけど、本当に急な用で。主人は今そちら? ああ。で、そのお喋りいつ終ったの? 一時間以上も前? 次にどこに行くって言ってました? ・・・お願い、ミシズ・ラーキン。浮気なんか気にしてるんじゃないの。その逆。嬉しいくらい。本当。でもこれは大事なの。ひどく大事なことで。・・・どこか全く見当がつかない? そのお喋りの中であの人、何か自分の息子のことを話してなかったかしら。今晩あの子の芝居がテレビでかかるとか何とか。・・・ええ、BBC、第二。七時三十分。・・・そう? じゃ、お騒がせしました。・・・ええ。まだ二十歳。・・・それはどうも。・・・ええ、そう。それが大事件なの。・・・「なあんだ、たいした事じゃない」って? それで何か悪いことでもって? これ以上悪いことなんかどこを捜したってないでしょう? あなたと会った後、あの人よく編集長のアパートに行くんだけど、何かそんなこと言ってなかったかしら。・・・え? 友達? どこの? ・・・じゃ、そのへんの友達であなたとの話の後、よく行くところは?・・・(リディアの顔、だんだん曇ってくる。)
リディア そんなに大勢電話出来ないわ。どうかお願い。よく考えて。誰が一番可能性が・・・
(リディア、急に言い止める。ジョウイーがバケツとグラスを一個、持って入って来たからである。リディア、陽気に笑って。)
リディア(受話器に。)ああ、それは御親切に。お声をかけて戴いて本当に感謝しますわ。でも主人はちょっと・・・夕方はこのところずっと仕事が詰まっていまして・・・あの人、夕方が仕事の時間なんですの。
(リディア、ジョウイーに明るく微笑む。)
リディア ええ。電話をかけさせますわ。今すぐにでも帰って来ますから。では。
(リディア、電話をきる。)
リディア(ジョウイーに。)なんて退屈な女!
ジョウイー 誰?
リディア あなたの知らない人。ローダ・ロビンスン。年寄りの女の人。いつもカクテル・パーティーにお誘いがかかるの。
ジョウイー 電話が鳴るの、聞こえなかったな。
リディア 氷をガラガラやっていると聞こえない時があるわね。私も時々そうよ。(玄関のベル、鳴る。他のことに気をとられながら。)あれ、マークよ。あなた、出て。
(ジョウイー、扉に駆け寄る。扉の外にマーク、この夜に敬意を表してディナー・ジャケットを着ている。)
マーク(握手して。)やあ、ジョウイー。成功を心から祈っている。
ジョウイー えっ? ウォルターズさん。まさか僕のための正装じゃないでしょうね。
マーク それは君に敬意を表(ひょう)してに決まってるだろう? 初日にはいつもこれと決めているんだ。ほら、エリカの枝。幸運を祈ってね。
(エリカの枝(これは幸運のを呼び込むしるし)の代わりに小さなカルチエの箱。)
(マーク、部屋に入ってきて、リディアにキス。)
マーク 今晩は、リディア。
リディア(感謝して。)マーカス。
(二人、キス。その間ジョウイー、贈り物を開ける。カフスである。)
ジョウイー これ、カフス?
リディア(見て。)違う。イヤリング。それ、私への贈り物。(マークに。)あなた一体これどういうこと? 私達三人、丸がかえで養おうっていうの?
マーク いや。今日は特別な日だからね。輝かしい若い劇作家のデビューだから。
ジョウイー 劇作家・・・あーあ・・・劇作家なんて、死んで初めて呼ばれる名でしょう?
リディア この子、「輝かしい」を言わなかったわ。
ジョウイー 言う筈ないよ。聞こえなかったもの。(カフスにうっとりとなって。)こんな素敵な贈り物、僕は初めてだ。(遅まきながら。)そうだ、ママからは素晴らしい物を貰ったことはあるけど・・・
リディア(片方の腕をジョウイーに回して。)素晴らしい物ね。ニッケル製の安物のライター、インディアンのビーズの飾り。私達が旅行に行ってる間、この子がセバスチアンの面倒を見てくれるの。
マーク あ、そう言えば、今あいつどこ?(仕事場を指さして。)あの中?
リディア(落ち着いて。)いいえ。(腕時計を見て。)事務所に行ったの。もう戻って来る時間。(ジョウイーに。)そのカフス、つけて芝居見た方がいいんじゃない? 運を呼び込むわ、きっと。
ジョウイー ワイシャツがないよ。・・・カフスに合う。
リディア お父さんのをお借りなさい。
ジョウイー(ちょっと困って。)じゃ、ネクタイもってこと?
リディア いいえ。主義まで変えろとは言わないわ。
(ジョウイー、階段を駆け上がる。リディア、すぐに緊張の顔つきになる。)
リディア セバスチアンがいないのよ、マーク。忘れたんだわ、きっと。
マーク えっ、それは大変だ。
リディア 下に行ってかけて来てくれない? 突き当たりに公衆電話があるの。小銭ある?
マーク(ポケットに手を入れて。)今はいくら?
リディア 二ペンス。
マーク ふん。インフレだな。小銭はある。
リディア ここにかけて。ここの番号、覚えてる?
マーク 勿論。
リディア で、こっちは私が出るから。
(リディア、その間にもマークを押しやって、扉の方へ行かせる。)
リディア あなたは車の駐車位置を変えに行ったとか何とか言っておくわ。
マーク 僕の言う台詞は?
リディア 何も言わなくていいの。話すのは私に任せて。あ、ちょっと待って。
(リディア、机に駆けより、封筒を出し、何か書く。マークにそれを見せる。)
リディア これで分かるかしら。あまり怒ってるもんだから、字が震えて。
マーク(読む。)「セバスチアンへ。帰宅が七時半以後だったら、時間をつぶして八時ずっと過ぎに帰ること。帰って来て最初に言う言葉は、「おめでとう、ジョウイー」。あとは私がやります。」
リディア まさかこれで分からないってことはないでしょう? いくらあの人でも。
(リディア、扉を開けて、封筒ののりしろを舐め、扉に張り付ける。)
マーク だけど、あいつ、時々変なことをやることがあるからな。
リディア あの人の時々やることったら。今度は何をやらかすかって思うと、こんな時でも笑えてくるわね。
(ジョウイー、階段を走り降りて来る。ブカブカのワイシャツを着ている。裾はズボンの外に出た儘。)
リディア(ジョウイーに聞かせるために。)警察が来たら外国人だっていうのよ、マーク。それが一番効くの。待って。ほら、ここの鍵。(ジョウイーに。)やっぱりアメリカ人ね。車を道路の真ん中にとめたんだって。
ジョウイー 間に合うかな、お父さん。
(ジョウイー、時計を見る。リディア、ゆっくりと彼に近づき、軽く手の甲を叩く。)
リディア 騒がないの。時間はまだ充分あるわ。あなた、これ、私につけて貰いたいのね?
ジョウイー うん。何だかややこしくて。
(リディア、カフスをつけてやる。)
ジョウイー あれ、やっぱり手が震えてるよ。
リディア それはそう。何だか緊張。
(間。)
ジョウイー お父さん、本当に忘れてないかな。
リディア 忘れてないの。
ジョウイー 遅れるとまづいんだがな。最初を逃すとひどく分かり難いんだ、あの話。
リディア お父さんの意見、気になるのね、あなたには。
ジョウイー それはね。なにしろ世界で有数の批評家だから。
リディア 「一番の」じゃないのね。
ジョウイー 全員読んでなきゃ、「一番」なんて言えないよ。僕は勿論読んでない。(カフスを見ながら。)だけど油ののっていた時のお父さんのもの、僕が読んだ中では最高だった。
リディア じゃあ、あなた、尊敬してるのね。
ジョウイー(苛々しながら。)今そう言ったばかりじゃないか。(カフスを褒めて。)うん。これはすごいよ。ね?
リディア(カフスを見て。)「すごい」って言うに価する代物ね。ジョウイー、今のあなたの批評を聞いたから言うんだけど、あなたに頼まれて欲しいことがあるの。
ジョウイー(警戒して。)僕はね、ただ「批評家」としてのお父さんの話をしたんだ。僕は・・・
リディア 私、「頼まれて欲しい」って言ったのよ、ジョウイー。
ジョウイー(心を許さない態度。)お父さんに関することで?
リディア そう。
ジョウイー どんなこと?
(間。)
リディア あなた、ゆうべ、私が、・・・あなたの母親が、・・・興奮し過ぎて倒れた時・・・ちゃんと後をやってくれたそうね。とてもおいしい夕食だったって・・・
ジョウイー ほとんど出来てたのを引き継いだだけだよ。
リディア お父さんは旨かったって言ってたわ。それからその後の洗い物だって実に立派に・・・
ジョウイー 洗い物なんか、やるかやらないか、どっちかだよ。「立派に」もへちまもありやしない。それにあの二人、チェスをやりながら怒鳴るんだ。相手を罵りあってね。あの調子じゃ、朝の五時までかかる。どうせ僕も寝られやしないし、一人で洗い物でもしようかっていう気になって。それだけだよ、ママ。サンデー・タイムズのコラムに載せる記事にははるかに及ばないさ。
リディア でもあなた、ちゃんとやったわ。
ジョウイー(ひどく用心深く。)やったはやったよ。それで?
(間。)
リディア そう。たしかゆうべ私言ったわね。来週私、休暇をとるんだって。
ジョウイー(いよいよ警戒して。)うん。言った。
リディア それはどういうことか分かる? あの人が十日間まるで一人っきりで暮らさなきゃならないっていうことなのよ。
(ジョウイーが返事をしないので。)
リディア 一人っきりでなければ誰かと二人で。
ジョウイー(金切声で。)駄目だ、それは。駄目だ、駄目だ。金輪際駄目だ。
リディア でもね、ジョウイー、あの人、喜ぶわ、きっと。もし・・・
ジョウイー 二十四時間であっちはへとへとだよ。こっちもそうだろうし。
リディア それは違うわ。ね、とにかく考えて。あなたこれから十日間、別に何もないんでしょう?
ジョウイー これからあるようにするさ。
リディア いつものあの部屋に泊まらせて貰うことになれば、あなた、ジェリーとスウに一晩一ポンド払うんでしょう?
ジョウイー 来週から始まる十日間のためだったら、一晩十ポンド払ったって安いもんだ。それだけの価値はあるよ。
(間。)
リディア(優しく笑って。)あのね、ジョウイー、もし十日、たった十日よ。あなたがお父さんと一緒に暮らしてくれたら、お父さん、あなたに感謝するわ、きっと。本当。感謝よ、ジョウイー。
(リディア本人も、すぐその「感謝」という言葉が嘘であることに気づく。言葉に出した途端、すぐ。)
ジョウイー(また金切声。)感謝? ママ、どうかしちゃったんじゃない? 感謝? あの父親が? いい? お父さんがね、バスに轢かれそうになったとする。で、僕が命を賭けて飛び込んで行く。でお父さんは助かる。お父さんは家に帰る。そしてママに言うんだ。
(リディアのする真似よりうまい。)
ジョウイー 「いや、驚いたよ。酷いことが起きるもんだ。危うくバスに轢き殺されるところだった。ロンドン交通を訴えなきゃいかんな。」で、ママは言う。「あなた、ジョウイーは?」そしたら言うんだ。「ジョウイー? あれっ? あいつどうしていないんだ? ああ、そうか。思いだした。あいつ、バスの下敷きだ。そうだったよ、慥か。」
リディア(怒ろうとするが、つい笑ってしまう。)あなた、創作の才能あるわ。やっぱり血筋ね。
ジョウイー(時計を見て。)どうやら今のが証明されそうだ。あと十七分しかない。(はっとして。)ママ、とにかく間に合うと思う?
リディア(しっかりと。)勿論間に合うわ。だってね、ジョウイー、あの人にとって、あなたは大事な人なんだから。
ジョウイー 「大事な人」? あの父親にとってそんなの誰もいやしない。ママが一番よく知ってる。ママだってあの人にとっちゃ、「大事な人」じゃないんだ。
リディア それは聞いて有り難くないことね。
ジョウイー うん。でもそれが真実なんだ。そして誰かは真実を言わなきゃいけない。
リディア 真実をね? そうかしら。
ジョウイー 正直であること、それだけなんだ。この世で問題としていいのは。
リディア そうかしら。
ジョウイー ママも僕も、二人ともよく知っている。お父さんに問題なのはお父さんだけなんだって。ママもよく僕にそう言ってきたじゃないか。
リディア 冗談にね。多分。
ジョウイー 違う。本気だよ。本当のことを言って、これだけは。(足音が聞こえて。真剣に。)あ、あれ、お父さん?
(ジョウイー、耳をすませる。リディアも耳をすませるふり。)
リディア 違う。上のジャクスンさんね。でもあの人、必ず帰って来るわ。心配しないで。
ジョウイー 心配なんか誰がするもんか。見たくなきゃ、見なきゃいいんだ。
リディア あの人見たいのよ、ジョウイー。あなた何か企んでるんじゃないの? お父さんに。
ジョウイー 企んでるさ。特別製のサンドバッグだ。一発食らわせればすっきり・・・
リディア(怒って。)何を言うんです、ジョウイー。あなた今まででも随分お父さんを殴っているのよ。殴られるのよりずっと多い筈よ。
ジョウイー そりゃそうだ。だって先方があんまりこっちのことを、まだ子供だって、まだジョウイーちゃんだって、思ってるからさ。時々そのちっちゃい頭に共産主義の真理を叩き込まなきゃ。こうなんだ。僕がもう大人だってことが、僕にもう自分で見付けた自分の真理があるってことが、分かってないんだ。だから時々は二、三発左フックを効かせて目を覚まして貰おうとするのさ。
リディア 時々はベルトの少し下の部分にでしょう?
ジョウイー そう。相手も攻撃されるのはその辺りだって予想しているからね。僕が子供で、あれくらいの(二フィートぐらいの高さの物を指さして。) 背の高さだと思ってるんだ。ねえママ、だいたいあの政治思想、どうなってるの? あれ、時代遅れなんてものじゃないよ。・・・スターリンを見て分からないのか・・・嘘のかたまりじゃないか。
リディア(電話を見つめながら。心ここにない様子で。)そして勿論その嘘っていうのが、あなたの考えでは最高の悪・・・
ジョウイー そうさ。お父さんはね、二言目には革命、革命って言うんだ。だけどそれはただ起こって欲しくないっていうおまじないなのさ。年寄りによく「死」について話す人がいる。あれと同じなんだ。
リディア そうね。私もちょっと同情することがあるわ。
ジョウイー ある理論が本当に実現したら厭でたまらないっていうことをちゃんと自覚していながら、その理論を支持するなんて、僕は全く汚いやり方だと思う。だいたいお父さんが国家で検閲を受けている日曜新聞から「イヴリン・ウオーは悪い作家だった」とか、「オーウエルはブルジョワジーの手先だった」などと書かされることを想像してご覧。お父さんなんか、一週間でたちまち強制収容所入りだよ。
リディア 今はその「強制収容所」っていう言葉、使わないんじゃない? 「メンタル・ホーム」とか何とか。
ジョウイー 失礼。この話はお母さんにいけなかった。
リディア いいの。もう古い話。 でもとにかくあの人に何か、統一のとれているものを認めてはいるんでしょう?
ジョウイー 文学ではね。・・・最高だ。でも政治に関しては・・・最低だよ。僕等二人が十日間一緒に暮らすなんて、それは破滅だ。本当なんだ、ママ。パリサイド(親殺し)か、その反対・・・何て言ったっけ。
リディア(電話を見ながら。)何のこと?
ジョウイー 父親が息子を殺すこと。
リディア(自動的に。)知らないわ。お父さんに訊いてみたら?
ジョウイー(同様に自動的に。)うん。訊いてみる。あ、多分フェリサイドだ。
リディア そうね。・・・ね、ジョウイー、あなた本当にやるのは駄目? 私が頼んでも?
ジョウイー ママ、僕、ママのためなら何でもやる。本当だ。大抵のこと。どんなことだって。でもこれはね。悪いけど。
(間。)
リディア ゆうべお父さん、あなたのやったことを見て、本当に喜んだんだけど。
ジョウイー(笑って。)何言ってるんだい、ママ。
(間。)
リディア(真剣に。)それにあの人一人で置いて行くの、私心配なの。
(間。)
ジョウイー 行かなきゃ、いけないの?
リディア ええ。これはどうしても。・・・それにもう一回その後で。今度のよりもっと長い・・・
ジョウイー それ、何時?
リディア それはまだ先。未定。でも私、何か自分でやるっていう話が出てきて、それで・・・
ジョウイー やるって、何を?
リディア ええ、まあ、・・・エストニアに帰って、エストニアのことを何か記事にするとか・・・本かもしれないし・・・ねえ、ジョウイー、そうなったらお父さん、どうしようもないのよ。
ジョウイー だってそれ、誰の責任?
リディア 「責任」なんて言ってるうちはただの議論よ。対策は何も出ないの。
(間。)
ジョウイー ママ、そうなったらね、徹底的な悲劇だよ。お父さんは昔から全く変わっちゃいないんだ。根っからの右翼、正体はトーリーなんだ。チェコで暴動が起こって、ソ連軍が鎮圧に行った時のことを覚えてる? 僕はあの時十五歳だった。だけどお父さんの言った言葉、あれはカールトンクラブの誰でもが言う台詞だなって思ってた。「何だあいつら。二、三台戦車でも送りこんでやるんだ。そうしたらチェコの奴等も思い知るんだ。」それからあのハンガリーの時だって、怒鳴ってたんだ。「砲艦を一隻送れ! ダニューブを遡(さかのぼ)らせるんだ。」
(リディア、夫への義理から笑わないよう努めるが、口を切る前に顔を綻(ほころば)せてしまう。)
リディア 言いそうなことね。
ジョウイー ご免なさい、ママ。僕はもう大人になっている。こういうのを黙って聞いていられないんだ。つい言い返す。それがお父さんには気に入らないんだ。暮らすのは駄目だ。うまくいかないよ。
リディア そんなに政治が大切なものかしら。私の人生ってかなり荒れた・・・そうね、猛烈なもの・・・だったわ。でもそれで私が学んだこと、それはたった一つ。信仰、信念、理想、理念、そんなものは全くたいしたものではない。大事なのは人間そのものだって。本当よ、ジョウイー。あなたにも必ずきっと分かるようになる。問題なのは人間だけなんだって。
(間。)
ジョウイー 僕は賛成しない。でも一歩譲ってそうだとしてみる。いい? お父さんは人間だ。僕だって人間。みんな人間なんだ。だけどそれぞれ波長が違ってるんだよ。そうだ、この話をしよう。お父さんはこのところ僕と話をしようとしている。時々は僕等の使う言葉でね。 「いかす」、「しぶい」、「かっこいい」、それに「きまってる」なんて。こんなの若い者の言葉だよ。そして僕がまたヒッピーの言葉つきで答えることを期待しているんだ。さばけた人間であることをみせようとしてね。(顔を覆う。)だけどママ、これは酷いよ。よく三十過ぎの男がこんなことやるけどね。お父さんは五十を越しているんだ。
リディア(鋭く。)丁度五十。三十歳以下だったらどういう話し方をするっていうの。
ジョウイー ママは僕の言葉を知ってる。それにママはジャッキーやスウの話し方も聞いてるからね。勿論僕等はちゃんとした英語を話そうとしているさ。お父さんが若かった頃とその点は変わりはしない。ただあの頃の方が僕等より傲慢で威張りくさった話し方だったろうけど。僕等の言葉だって英語は英語だ。
リディア でもそれは言い回しの問題だけでしょう?
ジョウイー ママ、ご免。とにかく僕は駄目だよ。一緒に暮らすのは無理だ。
リディア 息子っていうものはいつだって父親に反抗するものよ。それが歴史というもの。あの人だってきっと父親に・・・
ジョウイー ビショップにね?(笑う。)ビショップさん、可哀相だったな。
(ジョウイー、テレビをつけるために屈む。)
ジョウイー ウオームアップだ。
(電話、鳴る。リディア、受話器に進む。その時呟く。)
リディア ああ、やっと。(ジョウイーに。)いいわね、ジョウイー、お父さんはお前のことを愛してるんですからね。これは本当なのよ。(受話器に。)ハロー。ああ、あなた! 心配してたところよ。どこにいるの、今。・・・ああ、そちらで見るの?・・・編集長と一緒?・・・あら、編集長も見るって?
ジョウイー えっ? そう? テレビがカラーかどうか訊いて。
リディア それ、カラー? ジョウイーが知りたがってるの。・・・勿論最新のね。・・・
ジョウイー その他にも見る人いる?
リディア(受話器に。)他にも見る人いるって、ジョウイーが。(ジョウイーに。)他の人全員よ。中にはお偉いさんもいるって。
ジョウイー すごい・・・それはすごいや。
リディア ちゃんとテレビに戻って。最初を逃すと駄目なんだって。最初を逃すと後が分からなくなるらしいの。・・・いい? ちゃんと最初からよ。
(電話を切る。)
リディア ね、ジョウイー。分かったでしょう?
ジョウイー 驚きだ。これは驚きだ。
リディア ジョウイー、あなた恥ずかしいと思わなくちゃ。お父さん、あんなに気にかけてくれているじゃない。
ジョウイー ママだ。これを思いついたの。編集長に見させるだなんて、きっとこれはママの・・・
リディア いいえ。お父さんが自分で考えたの。
ジョウイー はっはっは。
リディア あなた、私が嘘をついているって?
ジョウイー 少なくとも圧力をかけたんだね。
リディア 何を言ってるの、ジョウイー。あの人に私がどんな圧力をかけられるっていうの。あの人、自分が厭となったら挺子でも動かないの、よく知ってるでしょう?
ジョウイー ほら見てごらん。自分で認めてるじゃないか。
リディア 自分で認めるって?
ジョウイー お父さんが自己中心主義のかたまりだってことをだよ。自分の都合でしか物を考えたことがないんだ、彼は。
リディア(鋭く。)何ですか、ジョウイー。お父さんに関してそんな言い方、私はして貰いたくないわね。
ジョウイー はい、分かりました。
リディア 特にあの人があんなに優しい態度をあなたに示してくれたこんな時に。あの人、態々フリート街まで行ったんじゃないの。
ジョウイー(母親を抱き締めながら。)うん、悪かったよ、ママ。
リディア(まだ怒りを示そうとして。)そして態々編集長に・・・
ジョウイー 分かった、分かったよ、ママ。悪かったよ。
(間。 リディア、ジョウイーの頭を見下ろす。もう少しでその髮を撫でてやろうとする。が、ぐっと我慢して。)
リディア じゃ、分かったわね、あなた。私がさっき頼んだことはやってくれるわね?
(ジョウイーからの返事なし。リディア、それを承諾の意志表示と理解する。また、その理解は正しい。)
リディア じゃ、分かったわ。その十日間、あなたずいぶんお父さんについて分かることがあるわよ。
ジョウイー(顔はリディアの肩の上にある。)ああ、そんなの、分かりたくないよ。
リディア あの人の本当の正体、それが分かる筈だって思うのよ。
ジョウイー(元気のない声。)ああ、正体なんてとっくに分かってるんだ。
リディア 分かってないの。分かってないって、今証明してみせたばかりじゃない。違う?
(間。ジョウイー、リディアから離れて。)
ジョウイー 何かこれ、怪しいな。 陰謀の臭いがする。だってお父さんは僕と一緒に十日間も暮らしたいなんて、絶対思わない筈なんだから。
リディア 絶対って? そんなこと言える?
ジョウイー 十日間丸々。そんなのあり得ないんだよ。
リディア この世にはね、あり得ないことなんか何もないのよ、ジョウイー。
ジョウイー これだけはあり得ない。僕が口を開く度にお父さんは怒り狂うんだからね。
リディア じゃ、口を開かなければ。
ジョウイー だけど時々は仕方がないんだよ。
リディア じゃ、何か相手が喜ぶようなことを言ったら。
ジョウイー(疑わしそうに。)例えば?
リディア 例えばお父さんは世界で有数の批評家だとか。
(間。)
ジョウイー やってみようとしたことはあるんだ。だけどどうなったと思う? 急にぶん殴られたんだ。歯が痛くなる程。
リディア 歯はくいしばればいいの。痛くなった歯はポケットに仕舞うのね。それなら心も傷つかないわ。
ジョウイー いつもママ、それをやってるの?
(リディア、肩をすくめる。)
ジョウイー だけどそれ、正直じゃないよ。
リディア ええ。勿論。
ジョウイー だけど正直っていうのが・・・
リディア ただ一つ問題にしていいことなのね。分かってる。でもそれは間違いよ、ジョウイー。お互いに愛し合っている二人にとって・・・いいえ、お互いに愛し合わねばならない二人にとってと言うべきかしら。その二人にとって、正直であるということは一番重要でないことなの。
ジョウイー(怒って。)じゃあ、振りをしろっていうのか。
リディア そう。振りをするの。それも徹底的にね。
ジョウイー そしたら、あのどこかのインチキな政治理論も、大変御立派な偉大な真実でございますと、信服している振りをしなきゃならないのか!
リディア いいじゃない、それで。あなたさえしっかりと、それは違うと分かっていれば。
ジョウイー 賛成していないのに、賛成している振りをしろって言うのか。
リディア いいじゃない。あなたが賛成していないということをよく自覚していさえすれば。
ジョウイー だってそれ、単なる儀礼的な付き合いじゃないか。
リディア 何かそれで悪いことある?
ジョウイー この今っていう時代だよ。悪いに決まってる。儀礼っていうのは・・・
リディア 不正直。まあま、(正直、正直ってうるさいことね。)少しは不正直ってものに立ち戻って考えたら? 自分達のことについて少しづつ嘘をついて暮らしたら、もっとずっと住みやすい世の中になるんじゃないかしら。
ジョウイー 次にまさか、「しきたりの遵守」が出て来るんじゃないだろうな。
リディア そう。言おうと思っていたこと、それが。
ジョウイー(軽蔑の口調。)何だ、ママ。「しきたりの遵守が人間を作る」か。
リディア(怒って。)そう。それが人間を作るの。それに他の人達を気持ちよくさせるの。この、人を気持ちよくさせること、それがさっき私が言ったこと。問題なのは人間なんだって。物じゃないの。マークを見てご覧なさい。(呟く。)どうしたのかしら、長いわね、あの人。・・・でもとにかく、マークをご覧なさい。あの地位にある作家が、はるばるアイリントンくんだりまで、二十歳の知り合いの男が、初めて三十分もののテレビ用劇映画を書いたからって、それを態々見に来る。黒いネクタイを締めてよ。そして有能な若い劇作家のデビューだ、だとか何とか嬉しいことを言ってくれて。それにあのカフス。あなたそれで気分よくない? それともあなたには正直が一番大切なことなんだから、あの人がこんなことはうっちゃっておいて、ブロンドの売春婦三人ひっかけて、曖昧宿にでもしけこんで貰った方がずっと嬉しかったの?
(扉が開いてマーク、息を切らしながら登場。)
リディア(明るく。)ああ、マーク、丁度今あなたの噂をしていたところ。
マーク(椅子に倒れこんで。)いい噂と願いたいな。
リディア(ジョウイーに。)あれはいい噂なんでしょう? ジョウイー。
ジョウイー(急に向きを変えて。)話していたのはママ。僕は聞き役だったんだ。
マーク で、お母さんに賛成してくれていたんだね?
(ジョウイー、テレビの前に坐っている。が、明らかに困っている様子。返事をしない。)
リディア あなた、賛成だったのよね、ジョウイー。
ジョウイー(静かに。)ええ、ママ。
(ジョウイー、ダイヤルをいじくっている。)
リディア そうそう、マーク、私、代役を見つけたの。
マーク(相変らず息を切らしている。呟く。)代役・・・えーと、代役ね。(やっと意味が分かって。)ああ、代役が?
リディア 自分からやるって。進んで・・・喜んでやるって言ってくれたわ。
マーク ほう、そりゃすごい。
(ジョウイー、熱心にテレビの調整をやっている。どうやら調整はうまくいったらしい。ボリュームも小さくなる。)
ジョウイー この顔、緑色が強過ぎるかな。
マーク 丁度いいようだけど。
(間。)
リディア(かなり大きな声。)あなたがいない間にあの人から電話があったわ。
マーク えっ? あいつから? そうか。
リディア ええ。これよりずっといいテレビで見るんだって。
マーク(大きな声過ぎる。リディア、顔をしかめる。)えっ、本当? どこで?
ジョウイー(振り向いて。しっかりとした声。)編集長の部屋で。
マーク(普通の大きさに戻って。)へえー、そりゃたいしたもんだ。
リディア マーク、あなたここに坐って。
ジョウイー そこ、ママの席にして。(肘掛け椅子を指さす。)それからウオルターズさんはあそこ。(少し坐り心地の悪そうなスツールを指さす。)
リディア こっちの方がいい椅子よ。
ジョウイー 分かってる。それはママだ。
マーク ああ、そうか。椅子が悪いと注意は画面に集中するからね。
リディア 私だって集中するつもりよ。
マーク(悪い席について。)まあ君は彼の母親だからね。
ジョウイー(席から。)シッ!
(ジョウイー、ボリュームを上げる。)
アナウンサー BBC第一放送では三十秒ほどでサッカーの実況をお送りします・・・
ジョウイー まあだいたいみんな、あっちの方を見るさ。
リディア そんなことないわよ。
アナウンサー (リディアの声に重ねて続いている。)その間第二放送では、シリーズ「青春劇場」が始まります。今夜はジョセフ・クラットウエル作「マックスウエル・ヘンリー・ピーボディー裁判」(音楽。)
リディア(鋭く。)ジョセフ! どうしてジョセフ?
ジョウイー ジョセフの方が作家らしい名前だと思ったんだ。
マーク うん。いい名前じゃないか、リディア。ジョウイーじゃちょっと・・・ジョセフ・クラットウエルはいいよ。
ジョウイー 有難う、ウオルターズさん。
(音楽止む。)
第一の声(大きく。)マックスウエル・ヘンリー・ピーボディー、入廷せよ。
(コツコツと入廷する足音。リディアとマーク、非常に緊張した表情で芝居を見つめている。作家が傍にいて様子を窺っているのだから当然の態度。ジョウイーはスクリーンと観客を同時に見ることができる場所に坐っている。)
(場、一瞬暗くなる。本当に一瞬間の暗転。すぐ明るくなる。三人とも以前と全く同じ姿勢。鼻の頭をかくために指を持ち上げることさえしなかったのではないかと疑われるほど。)
第一の声 被告に不利な判決が下ったことに対して、ここで被告の発言を許可する。
第二の声 これは馬鹿げている。私は何もしなかった。何も、何も、何もしなかったのに。
第一の声 その通り。君は何もしなかった。君の同胞である人類一般に対して何も。深い淵に落ちて行こうとしているこの世界、それに対して何も。君自身の物質的利益を追求すること以外には何も。
第二の声 私自身だけじゃない。妻の利益もだ。妻は私の会社いくつかの経営をやってくれている。
第一の声 それで君は、君の子供を救うためには何をやったんだね。
(嘲けるような笑い声。その後音楽が大きく響く。明らかに芝居終了の音楽。その後画面に、作家、制作者等の名前が出ているらしい。なぜならジョウイー、テレビの真ん前に膝まづいて、鼻がくっつかんばかりに見ているから。リディア、一緒に傍にしゃがむ。)
リディア ほら、この子の名前、大きく出てるわ、マーク。そうね、ジョセフの方がいいわね。
(リディア、ジョウイーを抱擁する。)
リディア ジョウイー、私、誇らしい気持ちよ。
ジョウイー(苛々と。)でも、どうだったの? 良かったって思う?
リディア 良かったわよ、ジョウイー。
ジョウイー(リディアを見て、不思議そうに。)あれを見て泣いたの?
リディア ええ。少し。泣かせるものじゃなかったの?
ジョウイー(意図が伝わらなかったかと心配。)観客に怒って貰おうというのが意図だったんだけど。
リディア(安心させるように。)そりゃ、怒りもしたわ。
マーク(言葉を選びながら。)おめでとう、若い劇作家君。いや、素晴らしい・・・
(玄関の扉が開いて、セバスチアン登場。怒りの表情。手に扉から剥がしたリディアの伝言の手紙。)
セバスチアン 一体全体何だこれは。もし八時過ぎなら帰って来るな。あとは私がうまくやる?
(セバスチアン、ここで言い止む。目立つ場所に置かれてあるテレビ、正装のリディア、ディナージャケットのマーク、セバスチアンのワイシャツを着ているジョウイー、それらが各人各様の表情をして、自分のことを見つめているからである。)
セバスチアン あ、そうか。
(ジョウイー、最初にセバスチアンから目を離す。)
ジョウイー お休みなさい、ママ。見てくれて有難う。
リディア でもシャンペンが・・・
ジョウイー ああ、いらない。お休みなさい、ウオルターズさん。態々来て下さって。それにお祝いまで。(カフスを指さして。)それから好意的な批評も。
マーク 良かったよ。本当に良かったよ、ジョウイー。嘘じゃない。
ジョウイー 有難うございます。
(あと無言で階段を上がる。威厳は保っているところを見せようと努力して。しかし階段の終りに近づき、つい足を速めてしまう。それが彼の内心を表す。リディア、目でそれを追う。)
セバスチアン ああ、何てことだ。
(リディア、拳を握ってセバスチアンの頬を殴る。そしてもう片方。二つとも強い一撃。本物の怒りが伴っている。セバスチアン、体のバランスを崩して足元が乱れ、倒れる。テーブルが押し倒される。)
リディア(深い嫌悪の情。)恥知らず!
(リディア、回れ右をし、ジョウイーの後を追って階段を駆け上がる。セバスチアン、その場に留まった儘、頬に手をやり、頭を振る。マーク、手を貸して立たせてやる。)
セバスチアン(テレビを指さして。)酷かった?
マーク かなりね。
セバスチアン(椅子に腰掛けて。)飲み物を頼む。
マーク ものは? スコッチ?
セバスチアン(怒って。)当たり前だろう。(深い溜息。)やれやれ。紙にも書いた。到る所に結び目も作っておいた。昼飯まではちゃんと覚えていたんだ。(マークからスコッチを受け取る。)それから昼飯後に何かが起きた。(間。グラスを見つめる。)非のうちどころのない理由なんだ。もしそれが使えれば。だけど使うことは出来ない。
マーク どういう理由なんだ。
セバスチアン 君にも言えない。ただ・・・(またグラスを見つめる。)君には言わなくちゃならんだろう。・・・しかし、言い訳として言うんじゃない。(大きな声で。)俺に言い訳なんかある訳がない。どうせ俺はこんな奴なんだ。自分のことさえ良ければそれでいいっていう、全く人間の屑なんだ。糞っ! リディアの奴、可哀相に。取り繕ってくれたんだな?
マーク 編集長と一緒に見てるんだと。
セバスチアン タンジールにいるんだぞ、先方は。
マーク ジョウイーには、ばれないだろうからな。
セバスチアン 馬鹿な取り繕いだ。だけど効いたかもしれない。あいつのことだからな。うまくやったかもしれない。確かに左フックを受ける価値はあったか。しかしあんなに強かったっていうのは何か特別な理由があったのかな。
マーク 本当にその理由を知りたいのか。
セバスチアン うん。
マーク あの十日間の旅行の間、君と一緒に暮らすよう、やっとジョウイーを説得したところだったんだ。
セバスチアン 僕と暮らす? 何のために。
マーク 彼女のつもりでは・・・えーと、君が相棒を欲しがるだろうからと。
セバスチアン その相棒というのがジョウイーなのか? 何故なんだ。
マーク 君が喜ぶだろうからってね。
(間。かなり長い。)
セバスチアン しかしあいつは厭がるぞ。
マーク それを無理矢理やるって言わせたんだ。
(また間。)
セバスチアン(顔を覆って。)何ていう話だ。
マーク そう。
セバスチアン 彼女、その他の点ではどうだったのかな。出だしはノーベル平和賞受賞の意気込み、最後はモハメッド・アリのストレートパンチ、だったけど、それ以外の点では。
マーク ああ、上々じゃないのかな。そう思ったけど。
セバスチアン 上々? そう思った? だいたい君はあれのことが見えているのか?
マーク うん。そりゃ本当の意味では上々ではないよ。だけど、ゆうべのことがあった後だからな。あれぐらいなら上々なんじゃないか? 二日酔のあとで。
セバスチアン 二日酔ね。よし、君にはちょっと心の準備をして貰わなきゃならんだろうな。一杯飲まないか。
(マーク、自分のグラスを持ち上げる。)
セバスチアン 君はあれのこと、好きなんだろう?
マーク 愛してるんだよ。
セバスチアン そして君は僕の最良の友人の一人だ。まあ冗談にでもこう言えるような間柄だ。
(自分の方は飲み干して。)
セバスチアン 注いでくれないか。
マーク うん。
セバスチアン どうなんだ? そういう間柄だな?
マーク 君はさっき、自分で自分の評価をしていたな。そういう男かも知れない。しかし僕はそれほど自分勝手じゃないからな。友人を選ぶにもそんなに気は使わないのさ。
セバスチアン 俺だって使わないさ。いや、俺は無知な、文章も書けない、マントヒヒのおっさんなど・・・
マーク(グラスに注ぎ終って、帰って来ながら。)分かった、分かった。さあ、心の準備は出来ている。どうぞ。
セバスチアン ゆうべのあれの飲み過ぎだが、あれは普通に言う飲み過ぎじゃない。あれは発作なんだ。
(間。)
マーク どうして分かる。
セバスチアン 前にもやったことがある。それに、この二、三箇月だんだん回数が増えてきている。これは注意してくれと言われていることでね。他にも注意しなきゃならんことがあるが・・・それに、君が一緒に旅行するとなれば、君にも注意して貰わなけりゃならん。どこかにその事項のリストがあった筈だが・・・
マーク そりゃ、ウオッカは・・・
セバスチアン 余計体に悪いさ。それにコーチゾンもね。だからどんどん飲むのをゆうべの僕みたいに黙って見ていちゃいけない。この六箇月間、アルコールは断(た)っていたんだからね。それは気をつけてくれ。単に酔っ払うだけなら問題はない。ああ、これがリストだ。それから万一の時のモンテカルロの医者の住所もどこかにあったな。
(セバスチアン、ポケットを探る。)
マーク(静かに。)君、コーチゾンって言った?
セバスチアン え? ああ。この六箇月間、そいつを飲んでるんだ。勿論本人は知らない。鉄分補給のための錠剤か何かだと思っている。あれのかかりつけの医者、コニー・シュスター。リディアはコンスタンチーンなどと呼んでいるが、彼女と同じエストニア出身でね。うまいんだ、やり方が。あれを騙すのはお手のものでね。手品だよ、まるで。どこにいったかな、あの住所。あ、あった。ドクトール・ヴィロレだ。ここに住所もある。(マーク、紙を受け取る。)コニー・シュスターはその医者に今日の昼電話してくれてね。だから今じゃ、ドクトール・ヴィロレも「事情に通じている」んだ。君のアメリカ流の酷い表現で言うとね。
マーク じゃ、僕にも「事情に通じ」させて欲しいな。
(間。セバスチアン、マークを見上げる。)
セバスチアン そうする他はなさそうだな。今まで伸ばし伸ばしにしてきたが、これ以上は伸ばせない。(また間。)彼女はポリ・アーティライリシスに罹っている。それも末期段階だ。こんな病気は聞いたことがないだろう。無理はない。珍しい病気なんだ。小さい時に栄養失調を経験するとなることがあるらしい。
(間。セバスチアン、立ち上がり、マークのグラスを取って注ぎに行く。その時軽くマークの腕を叩く。)
セバスチアン こんなことを君に話して悪いと思っている。だけど、コニー・シュスターは僕が一緒でなきゃ、旅行など許さんと言うんだ。僕がどうしても駄目なら、同伴者には必ず一部始終を知らせろとね。僕は勿論事態をよく知らされている。何だった? 君の飲んでる酷い物は。
マーク バーボンだ。末期段階って言ったか?
セバスチアン うん。
マーク で、あとどのくらいなんだ。
セバスチアン 三、四箇月だ。一番長くて六箇月。
(セバスチアン、マークにグラスを渡す。)
マーク 確実な話なんだな?
(セバスチアン、笑う。)
セバスチアン そう。確実。残念ながらね。
(セバスチアン、もう一枚の紙を取りだし、マークに渡す。)
セバスチアン これが今日の午後、僕の事務所でコニー・シュスターから手渡されたリディアの検査結果だ。シュスターは今朝早く検査室から受け取っていたんだが、家にあれがいるもんだから電話出来なかった。ここにあるだろう? 「ポリ・アーティライシス」「末期段階」・・・これほど確実なことはない。
(マーク、紙を見つめる。見えてはいない。内容は結局分かっているのだから。マーク、紙を返す。)
(間。)
マーク(やっと。)そうか。これが昼飯の後に起こったことだったんだな。
セバスチアン (心ここにないという状態。) 何だって? ああ、そう。それだ。だけどうすうす感づいていた。シュスターは駄目だと言っていたんだ。事実この三箇月、経過は全くよくなかった。
マーク 他の医者に見せてはいないのか。シュスターだけなのか。
セバスチアン この国の最高の権威が見ている。勿論あれには分からないようにしてある。あの病院であれを見てくれた医者は全部特別に選ばれて来てくれた連中なんだ。勿論あれに接する時は何気ない風だし、名前もあかしはしない。だけど全員、僕がコラムを担当しているあの日曜新聞の好意で来てくれた医者達だ。新聞が捜してくれた、この病気の第一人者ばかりなんだ。
マーク 治る見込みなし?
セバスチアン コロラドのデンバーに七十パーセントの成功率を誇る医者がいた。しかし冒険はしたがらない。こんなに進んだのは手掛けたくないんだ。
マーク どうしてそれが分かった。
セバスチアン 直接に訊いたんだ。必要な情報はすべて電話で知らせた。こちらの検査官にも話させた。駄目だったんだ、マーク。この男は全く乗り気にならなかった。進み過ぎてるんだ。(苦い調子で。)手掛けて失敗すると経歴に響くからな。
マーク 他にはいないのか。
セバスチアン 信仰療法、鍼灸、いくらでもある。みんないんちきだ。なあマーク、治ると言ってくる人物がわんさといるもんだ。こうやればいい、ああやればいいとね。ほんの少しでも治る可能性ありと見れば、僕はあれをチンブクツーにでも連れて行っただろう。仕事で、その辺での取材が必要だからと理由をつけてね。実際、デンバー用には話を用意したくらいだ。小さな田舎の大学で、文学の講義を受け持つという。実際、想像してもみてくれ。・・・おい、そこのウィニー・スロバーヴィックス君、お喋りは止めて話を聞いてくれないかな。「ボールズ・エイク」、そう発音したいところだろうけど、それは違うんだ。これは「きんたま痛い」なんていう意味じゃなくて、バルザックという立派なフランスの作家の名なんだ。分かるね。(訳註 Balzac の綴りからはBalls ache は無理だが・・・)・・・(それはそうと、)君はあれが一人でいる時を見ている。何か僕があれに対して感付いているっていうことをあれは気づいちゃいないかな。
マーク それはない。
セバスチアン 誓ってないか。
マーク 誓ってない。
セバスチアン あれが医者に何時行ったか、僕は決して覚えていない。そのようにしてきた。かかりつけの医者の名前さえ時々間違える。あれの気分の悪い時も、気づいていない振りだ。それから一番大切なこと。「ああ、君、それは僕がやる。君、ほっといていいから。」とは決して言わないことだ。この台詞ぐらい僕が感付いていることを暴露する言葉はないからね。
マーク 成程。それはそうだな。
セバスチアン 君も賛成してくれたが、僕は実に自分勝手に生きてきた。これが僕の人生だ。しかし、死の宣告を受けた妻に対しては、この僕の生き方っていうのが、有り難い隠れ簑になっていてね。
(セバスチアン、マークがどこかそこらに置いたリディアの検査表を手に取って、じっと眺める。)
セバスチアン これも他のと一緒に保管しとかなきゃ。
マーク 他のと?
セバスチアン そう。他の検査表と一緒にね。記録は全部とってある。
(セバスチアン、二、三個の踏み台を取って来て、本棚の或る位置に置く。それは丁度帽子箱の下にある。)
セバスチアン あれが階段を降りて来たら、頼む。「ハロー、リディア」と大きな声で言ってくれ。
(セバスチアン、踏み台を繋ぎ合わせて高くする。特別な技術を要するものと思われる。)
セバスチアン そうなんだ。コニー・シュスターは毎日僕に報告書を送って来る。ひどく変化が激しいんだ。回復したり、また悪くなったり。徐々に悪くなる一方、といったものじゃないんだ、この病気は。少し良くなって希望を持つ。すると次の月にはドスンだ。その前の月の落ち方よりもっとひどかったりする。それでがっくりさせられるんだ。
(セバスチアン、最新の記録を振って見せる。それから踏み台を上がり、帽子箱に近づく。)
マーク 何のためなんだ。その帽子箱は?
セバスチアン 帽子を入れるためじゃないか。何て下らない質問だ。
(セバスチアン、箱を開ける。山高帽を取りだし、帽子の中に手を入れ、記録類の紙を取り出す。それから帽子をかぶる。)
セバスチアン OBEの集まりだとか、何だとかで、宮殿に行く。その時の帽子だ。
マーク 驚いたな。どうしてそんなところに入れておくんだ。
セバスチアン 安全のためだよ。事務所には到底駄目だ。弥次馬が多過ぎる。
(最後の報告を紙の束の最後にクリップで止める。帽子を脱ぎ、帽子と紙を箱の中に仕舞う。)
マーク そいつはうまい考えだ。
セバスチアン だろ? エドガー・アラン・ポーからヒントを得てね。
マーク しかし鍵のついた金庫の方がもっと安全なんじゃないか。
セバスチアン 持ってないのでね。・・・いや、持っていてもすぐあれには見られてしまう。どんなものにでもあれは首をつっこむんだ。新しい小説を書こうとして覚え書を作っていたら、もう昨日見つかってしまった。ギボンの「ローマ帝国衰亡史」の間に挟めておいたものをだぞ。(降りながら。)埃を払おうと思って、と言うんだが、ギボンにかかっている埃を下心なく払うやつがいるかって言うんだ。
マーク その箱も埃を払いたいって思われちゃうんじゃないのか。
セバスチアン それだがね。この台がなきゃ、あれには決して届かない。それに、この台を高く出来る技術は、僕だけにあってね。
(セバスチアン、踏み台をもとに戻す。彼の言う通り、確かに箱まで届こうとしても、高くした台を使わなければリディアには到底無理。)
セバスチアン あののっぽのミシズ・マクリーディーでも・・・ミシズ・マクリーディー・・・名前、マクリーディーだったな、慥か。・・・彼女がはたきを持って背伸(せのび)しても、はたきの先端しかあそこには届かないさ。
(セバスチアン、一人で悦に入っている。)
セバスチアン そう。僕が諜報部にいたというのは無駄じゃなかったな。
(セバスチアン、台を全部片付ける。そしてマークのところによる。そして箱を見上げる。)
セバスチアン あの生体組織検査の結果がでて仕舞ったんじゃ、もうあの箱には何も入れるものがないな。
マーク なあ、セバスチアン。君、あの人に話した方がいいと思わないのか。
セバスチアン 思わないね。昔あれは六年間もの長い間、死というものしか考えられなかったんだ。百通りもの恐ろしい死に方、それに常に直面していたんだ。ナチにとって、バルト海三国の人間など、「人間以下のもの」だった。ガス室にさえ価しない。ガス室は南の方のアウシュヴィッツとブーヒェンヴァルトの幸運な連中だけに施された贅沢だった。北の方の「人間以下のもの」達と比べれば、三つ星つきの豪勢な死に方だったんだ。(セバスチアン、急いで坐り、飲む。)
セバスチアン あれが避難民時代の話をする度に僕はからかってきた。だけど本当の避難民時代の話をあれはしたことがない。彼女自身の本当の経験はね。
(この時までにセバスチアン、空のグラスを前に突き出している。マーク、自動的にそれを受け取る。)
セバスチアン ああ、すまない。・・・そう。北の方では露天の墓だ。それと機関銃。充分な機関銃がない時もある。その時は、生きながら埋められる。ナチの死刑執行人にとっては、そんなことは問題じゃない。ただ「全員死亡」と報告出来ればそれでいいんだ。
(マーク、グラスにスコッチを注いで持って来る。)
セバスチアン 有難う。リディアは「死亡」と報告されている。だから生きのびられた。ロシア人が入り込んで来た時、彼女は公けには「存在しない人間」だったんだ。強制収容所の付属物、の地位だったか、とにかく殺す価値のない存在だった。しかしあれがどうやってそういう存在になったか、その話をあれは、君にしたことがあるか?
マーク いや、ない。
セバスチアン うん。多分ないだろう。僕にも昔一度話したことがあるだけだ。ベンチンク・シュトラッセの曖昧宿でね。話はこうだ。一度に約千人、野っぱらに連れて行かれる。それから溝を掘らされるんだ。でかいでかい溝だ。千人の死骸を入れなきゃならんからな。勿論掘る方じゃ何のためか分かっている。説明はあるさ。「しらみを取るための風呂の用意だ」とね。丁度ガス室に入れる時の説明と同じさ。しかし「人間以下のもの」達は掘っている物が何か、よく知っている。
(セバスチアン、飲む。)
セバスチアン これくらいで入りそうだとなって、「掘り方止め」と合図がある。次に約百名づつの組に分けられ、すっ裸にされる。金の入れ歯は勿論そこで抜かれる。リディアは十八歳、入れ歯はなかった。
(セバスチアン、もう一杯注いで貰う。)
セバスチアン そこで煌々とライトがつけられ、一組づつ溝に面して一列に並ばされ、機関銃でバリバリと溝になぎ倒される。 溝の両側に二人づつ射撃兵を配置し、まだ生きていると思われる奴をそこでまた掃射する。・・・そしてまた次の一組が並ばされる。リディアは殆ど最後の組にいた。順番が来るまでみんながどのようにして死んでいくのか、じっと観察していた。だから、機関銃の動きが飲み込めてきたのだ。・・・「撃て」の合図と実際に撃つまでの間隔、それは一秒の半分くらいだ。十八歳で彼女は一流の水泳の選手だった。殆どオリンピッククラスの。ピストルの音で飛び込むのには慣れていたんだ。「撃て」の合図で彼女は溝に飛び込んだ。かすり傷ひとつなく着地。「ピストルを負かす」とあれは言っていた。それから体をかき分けて下に潜りこんだ。死んだ体、死にかけている体をかき分けてだ。溝の両側から来る弾は彼女に当たらなかった。彼女の上、左右にある体に弾は当たった。暫くしてブルドーザーがその上に土をかけ、彼女は二時間、土の下に埋まっていた。二時間たち、もう大丈夫と判断し、死体をかき分けて地上に出た。時計もなく、それが二時間だとどうして分かるんだと僕はいつか訊いたことがある。「一秒一秒数えたわ」が答だった。それは可能かも知れない。だけどあのバルチックの冬の夜の寒さの中で、どうやって生き残れたのか、彼女は裸だったんだからな。・・・しかしとにかく生き残った。そして朝、ある百姓が家に入れてくれた。この救助には彼の命がかかっていたがね。そして衣服を貰った。その百姓の息子のだ、きっと。・・・そしてターリンまでの足と、新しい人生も貰ったことになる。・・・その後、今度はロシアが侵入してきたのだが、これはまた別の話だ。
(セバスチアン、自分で立ち上がり、飲み物を注ぎに行く。マーク、心配そうにそれを見る。)
セバスチアン だからな、マーク、君だってそう思うだろう。生きるか死ぬかのこんな経験をしてきた女に、「君、君は死にかかってるんだ」なんて言えるか? それも奇妙な病気、幼い時、ケロッグのケイを朝食に充分食べていなかったせいで罹(かか)ったなんていう、くだらん病気でだ。そうだろう?
(間。)
マーク うん。そうかも知れない。
セバスチアン(坐り直して。)それからまだあるんだ、マーク。あれがちょっとでも自分の病気を感付いたとする。するとジョウイーのことを猛烈に心配するんだ。
マーク 君のことはどうなんだ。
セバスチアン 俺のこと? 何で心配する必要があるんだ、俺のことなんか。僕が自分のことぐらい自分で始末がつけられると、あれはちゃんと知っているさ。
マーク ほほう。
セバスチアン ミシズ・マクリーディーはいるし。まあ、プルネッラもね。
マーク あれはたしか、マクはなかったんじゃないのか。ただのリーディー・・・
セバスチアン そんなもの、ミシズ・コルモンデリー・ジョンスン・スミスでも構わんだろう! 君に関係のないことには口を出さんでくれ!
マーク 失敬。
(間。)
マーク そのプルネッラ女史のことだけど、昨日君はあんなやつ、とても我慢出来ないと・・・
セバスチアン そう言った。よく覚えている。それも君の知ったことじゃないね。
(マーク、自分のグラスに注ぎに行く。)
セバスチアン バーボンは右の方だ。ゆうべに続く今日だからな。もう空に近いぞ。
マーク(凶暴に。)こいつは僕のバーボンだ。リディアが僕のために買っておいてくれたんだ。(これは勝手に飲ませて貰う。)
セバスチアン(急に涙が出そうになる。)それなのに君はあれの行きつけの慈善団体、「貧民救済修道女協会」に何も残してやらないのか・・・
(セバスチアン、マークに背を向けているので自分の感情はうまく隠せたと思っている。しかし実は見抜かれている。)
マーク(飲み物のテーブルのところで。)このプルネッラ女史のことだが・・・
セバスチアン うん。
マーク 君、ゆうべは彼女のこと随分粗末に扱っていたな。本当はもう少し大事な関係にあるんだろう?
セバスチアン(声を出すのが難しい。相手に心情を見抜かれそう。)どうしてそう思うんだ。
マーク 見抜くのはそう難しくないよ。あ、そうか、そうリディアに見えるように芝居をしていたのか。
セバスチアン まさか見え見えだったんじゃないだろうな。(訳註 老婆心ながら註をつける必要ありと判断。つまりセバスチアンのそっけなさは、実はリディアに疑わせたいため。しかしそのやり方が見え見えだったのではないかとセバスチアンは心配している。)
マーク(急いで。)大丈夫だ。リディアは気づいちゃいない。
セバスチアン 確かだな?
マーク 確かだ。
セバスチアン それが見抜かれていたらえらいことなんだ。勿論プルネッラは大事な人物ではあるんだが・・・
マーク 彼女のところに行ってシュスター医師からの通知を受け取ったということを話す程度には充分大事な女性ということか。
(間。)
セバスチアン そう。その程度にはね。
マーク 今夜七時半から息子のテレビ劇が始まることを忘れさせる程度には充分?
セバスチアン いや、それは違う。彼女がそのことを知っていたら、無理矢理にでも僕をここに七時半に間に合わせたろう。・・・プルネッラは大丈夫な女だ。・・・リディアとまではいかないが、あれは大丈夫な女だ。(セバスチアン、ハンカチを探って、取り出す。)リディアがいなくなる。(セバスチアン、泣き始める。)マーク、この僕の酷い状態を許してくれ。・・・自己憐愍だ、勿論。・・・なあ、マーク。実に酷い話だ。 涙を流す、感傷的になる、自己憐愍にひたる、そんなことをする資格もない男だ、俺って奴は。あれを本当に愛し始めたのは、死ぬと分かってからなんだ。(あれがいなくなると知ってからなんだからな。)
マーク(相手を甘やかさない口調。)うん。そういうことはある。
セバスチアン 君だったらこうはならんな。僕とは違うからな。君はあれをずっと愛していたんだったな?
マーク そのようだな。
セバスチアン ところが僕はたったのこの六箇月だ。僕以外のどんな奴だって、二十八年前に、とっくにそうなっていた筈なんだ。
(セバスチアン、グラスの手を伸ばす。マーク、それを受け取る。セバスチアン、呟く。)
セバスチアン リディアがいなくなる。
「彼女は来ない。もう決して。
決して、決して、決して、決して。」
くそっ、僕はもうあのくそいまいましいシェイクスピアの批評なんかしないぞ。批評など、どんな奴のもしてやるものか。結局連中に泣かされるだけだ。但し良いものの時にはだが。もう他人は終だ。僕は自分で書く。自分に泣かされた方がまだしもだ。
マーク いい考えだ。
セバスチアン 映画化の話がきたって、権利を売りはしないぞ。前払いで一千万でもな。誰かみたいに。
マーク 一千万じゃない。たった百万・・・いや、百五十万だ、新しい小説は。しかしこんな金勘定をやったって・・・
セバスチアン それから利益が出ても決して至る所に宮殿を建てたりしないぞ、僕は。イートン街に、東七十八番に、ビバリー・ドライヴに、トンガに・・・
マーク(怒って。)トンガになんかないぞ。
セバスチアン そのうち建てるのさ。いや、僕は二十世紀で第二番目の傑作を書いてみせる。
マーク 第一番目は何なんだ?
セバスチアン 言わない。僕にも謙遜の気持はあるんだ。君も登場するぞ。それからリディアを奪おうという君のはかない試みも。
マーク もっと良いテーマはないのかな。
セバスチアン いや、君なんかテーマじゃないさ。単なる周辺の人物だ。それに誰も君とは分からない。すっかり変形している。
マーク リディアがテーマなんだろう?
セバスチアン 違う。リディアじゃない。書こうと思っても無理だ。駄目に決まってるだろ、アホ!
マーク じゃあ、ジョウイーか。
セバスチアン(急に。しっかりと。)うん、ジョウイーだ、多分。可愛いリベラルのジョウイー。あの若い連中の時代になるのか、これから。
(急にまた涙が出そうになる。新しい小説の構想によって気持を高めようとするが、充分な効果なし。)
セバスチアン あの馬鹿たれ奴!・・・可哀相な奴・・・母親を尊敬していやがって・・・心理的な打撃、耐えられないんじゃないのか・・・しかしあいつを非難は出来ない。それはそうだな? マーク。
マーク うん、仕方がない。
セバスチアン あいつがこの俺と十日間我慢出来るとあれは思ったっていうんだな?
マーク なにしろ楽観的なんだ、彼女は。
セバスチアン 今夜はその楽観主義にもけちがついたようだがな。・・・可哀相な奴・・・十日間母親がいないんだぞ。ああ、あまり考えたくないな。
マーク じゃ、君も一緒に来るか?
セバスチアン いや、なんとか・・・慣れなければ・・・いや、慣れるよう努力しなければ。・・・ああ、くそっ、最初からあれにこういう感情を持っていたのか。持っていた。そうかも知れない。そして自分を露わにしたくないもんだから。そうだ。そうかも知れないんだ。(怒って)「ル・ヴィッス・アングレ」・・・君は知ってるね? イギリス人の悪徳、それが本当は一体何なのか。刻苦勉励、男色、そんなものは違う。フランスの連中はこれだと思ってるがね。それは「自分の感情を押し殺すこと」にあるんだ。あからさまに出すと品がなくなる、そう思ってるんだ。 (両手で顔を覆う。)ああ、その罰がこれだ。今の僕だ。一生分の罰だ。ヴィクトリア朝の小説の、道徳的結末だ。どうも涙もろくなってるな。いかん。しかしマーク、リディアのいない人生、惨めなものだ。そしてそれは果てしなく続く。
(セバスチアン、階段からリディアが降りて来るのを見る。椅子から跳び上がり、背を向ける。今までの感情をうまくすねている気持のように見せかける。リディア、長い間セバスチアンの背中を見つめる。セバスチアン、向きを変え、リディアの方を向く。涙の跡なし。痛そうに顎に手をあてる。)
セバスチアン(威厳をもって。)夫を殴り倒す妻とはな。
リディア 私、ご免なさいを言いに。
セバスチアン 弁護士にはそう言っておこう。じゃ、これで、マーク。
マーク あっ、僕が出るのか?
セバスチアン いや、僕が出る。
(セバスチアン、再びうらめしそうな顔でリディアを見、頬をさすり、仕事部屋に進む。歩く時少しびっこをひいて。)
リディア あなた、お仕事? もう遅過ぎはしない?
セバスチアン そう、お仕事。それから、遅過ぎはしない。
リディア 少し何か食べて行ったら?
セバスチアン 口の中で灰に変わるだけさ。
(セバスチアン退場。)
リディア 殴り方、きつかったかしら。
マーク いや、まだ足りないね。
リディア もっと強く殴れたんだけど。それに足だって使えたわ、倒れた時に。「倒れた奴は殴らない」クイーンズベリー・ルールなんてのがあったわね。あんなのくそくらえよ。あの人、本当に仕事? それともすねてるだけ?
マーク すねてるだけだな。もう僕は行かなきゃ。
リディア(仕事場の扉を心配そうに見ながら。)そうね。もう行った方がいいかも知れないわ。(リディア、マークにキス。)有難う、マーカス。あの子本当に感謝していたわ。
マーク 今どうしてる?
リディア 勿論最悪の状態。(怒って扉の方に向かって。)自分の息子にあんなことが出来るなんて。そんな人いると思う? あの人、何て思っているのかしら。どんな言い訳があるっていうの。
マーク 忘れたんだな。
リディア その忘れた言い訳よ、私の言ってるのは。
(間。)
マーク 考えつく中では、一番良い理由だろうな。
リディア(驚く。)あの人の肩を持つの?
マーク うん。この件に関してはね。
リディア じゃあ、何だったっていうの。理由は。
マーク お休み、リディア。
(マーク、玄関に進む。リディアをけむに巻いた儘。そして振り返る。)
マーク ああ、あれは酷いな。誰も触ったものがいないんじゃないか。あれ、見て。(マーク、帽子箱を指さす。)あの上のもの。あれは埃を払わなきゃ。
リディア 帽子箱?
マーク うん。ここからでも埃が見えるぞ。
リディア でも、届かないもの。
(マーク、散らばっている台を指さす。リディア、何のことか分からない儘、それを取りに行く。マーク、受け取り、ゴロゴロ転がして行く。どうやらセバスチアンがやった時、延長する方法を覚えていたらしい。注意深く台をつなげてゆき、高くする。二、又は三フィート。)
マーク いや、今じゃなく、明日。・・・あいつが外出した時。埃を払うのが終ったら・・・外も中も両方だよ。・・・そのあとの演技は二人で決めればいい。そのあと、一緒にでも、二人で別々にでも、とにかく僕の演ずる役割を教えて欲しい。
(マーク、再び台をばらばらにし、元の高さに直す。)
リディア 分かったわ。あそこに何か隠してあるのね。
マーク そう。
リディア あの人が私に見せたくない何かを。
マーク そう。
リディア 何ていう人! ラブレターね。
マーク まあ、そのようなもの。
リディア(あっけに取られて。)それ・・・真面目な話?
マーク そう。これは猛烈に真面目な話。
リディア ラーキンね・・・きっと。
マーク いや。別の誰か。
リディア ああ、蹴飛ばしてやれば良かった。殺してやれば良か・・・(急に気がついて。)でも変だわ。何故あの人のことを告げ口したりするの? あの人、あなたの友達なんでしょう?
マーク あなたの友達でもあるんだ、リディア。そのためにこの二日間、ちょっと僕の人生はこんがらがってしまったが・・・じゃあ、明日また。
(マーク退場。リディア、最初呪いの言葉を呟く。帽子箱を見る。しっかりと誘惑に抵抗することに決める。ソファのところに行き、落ち着きはらって坐る。それから再び帽子箱を見る。そして台を。次に用心深く立ち上がり、仕事場からの音を聴く。タイプライターの音が響いている。観客にもそれが聞こえる。リディア、台に飛び付き、くっつけ、帽子箱のところまで引っ張って来る。帽子箱を開け、中を手で探る。紙に指が触れ、一束の書類を取り出す。急いで蓋をしめ、帽子箱を元に戻す。台はその儘にして、眼鏡をかけ、ソファに坐る。書類を捲る。それらは全て同じ大きさ。ちょっと見ただけでもう見る必要はない。リディアには結局お馴染みのもの。一、二秒後、足ががくがくになり、立っていられない。ソファに身を投げだす。(訳註 この時までに坐っている筈だが。)セバスチアン、仕事場の扉を開ける。この時までにリディア、バッグに手を突っ込んでハンカチを取り出している。辛うじて間にあって紙の束をバッグに押し込め、バッグを閉じる。涙はそれとは別に処理せねばならない。それも辛うじて間にあって拭く。置きっぱなしになっている台のことも心配。)
セバスチアン(陰気に。)あいつに手紙を書いていたんだ。扉からそっと君に突っ込んで貰おうと思ってね。しかしうまくいかない。相変らず僕の高飛車な調子が邪魔をする。
リディア でしょうね、きっと。
(リディア、台をスカートに隠すために玄関ホールの方に歩いて行く。)
セバスチアン あほんだれに会ってやった方がいいかな。
リディア 何? あほんだれって。
セバスチアン この家に二人いるか、そんなのが。あいつは今どこだ。
リディア それ、私達の息子・・・劇作家、ジョセフ・クラットウエル氏・・・のこと? 彼のことなら、ベッドでしょう、きっと。
セバスチアン おい、リディア。泣くのは止めてくれ。僕がそれを一番嫌ってるのを知ってるだろう?
リディア 泣いてはいないわ。
セバスチアン 泣いていた。あそこの中からでも聞こえたぞ。(これは嘘である。)それにその目の下にあるのは、涙じゃないのか。(セバスチアン、遠くから窺う。)おっと、間合いに入らないよう気をつけなきゃな。僕は副編集長を一度殴ったことがあった。そいつは一週間休んだよ。そいつ、君より小さいことはなかったぞ。しかしまあ、この話は終だ。ジョウイーについてだが、やって仕舞ったことは仕方がない。圧倒的な僕の魅力、それを使って関係を修復して見せるよ。一対一で話してみる。
リディア 頼りにならないわね、あなたの圧倒的魅力。
セバスチアン 有難う。
リディア 自分の正体を一度くらいあの子に晒して見せたらどうなの。
セバスチアン それは謎の発言だ。意味不明だね。父親として息子に言わねばならぬ台詞ぐらい自分で分かっているつもりだがね、君に教えて貰わなくても。どうだ?
リディア そうね。きっと。
セバスチアン 君、あいつに強喝したんだそうだな。僕と一緒に暮らせと。自分はモンテカルロでのうのうと日向ぼっこをしてる間に。
リディア 強喝は不要だったわ。あの子、自分で志願したもの。喜んでやるよって。
セバスチアン やれやれ、君ってのは時々酷い嘘つきになるもんだね。
リディア 私、嘘つきじゃない! 私、ただ・・・
(リディア、言い止める。)
セバスチアン ただ、何だい?
リディア ただの楽観主義。
セバスチアン それが嘘つきっていうことじゃないのか。
リディア そうとも限らないでしょう? 十日間、ここであなたと暮らすって言ってたわ。
(間。)
セバスチアン 今夜からでもいいのか?
リディア(勇敢に。)勿論。
(間。)
セバスチアン そこに寄りかかっているその姿、まるでマダム・レカミエだな。どうしたんだ。
リディア 御主人様の御命令に従い、本を分類通りに仕舞っていたところよ。
セバスチアン ふん、気分を変えるにはいい方法だ。さ、あいつに言いに行ってくれ。降りて来いと。
リディア いや。
セバスチアン いや?
リディア あなたが行くの。
セバスチアン(怒って。)俺が行く? あいつの部屋の戸をおそるおそるノックして、部屋に入る許しを乞う。壁いっぱいにリベラル派の候補者のポスターが貼ってあるあの部屋に。俺は懺悔する男か。絨毯に這いつくばって、まるでカノッサの屈辱のヘンリー四世。自分の体に笞をあてて。分かった分かった。行くよ行くよ。(セバスチアン、階段を上がる。嫌々ながら。)
セバスチアン 何だい。じっと見て。
リディア 猫でも王様を崇め見守ることはあるわ。
セバスチアン また酔っ払ったのか。
リディア ええ。
セバスチアン ウオッカか。
リディア 何か、それより・・・強いもの。(訳註 老婆心ながら。隠してあった書類のこと。)
セバスチアン キルシュか? スリヴォーヴィッシュか? 何だ? リディア。君、最後はアル中だぞ。
(セバスチアン退場。すぐにリディア、玄関ホールに行き、台に登り、書類を箱に仕舞う。辛うじて台を戻し終えた時セバスチアン、再び登場。)
セバスチアン 行ってみた。あいつめ、寝てるんだ。(ほっとした表情。)明日だ。いいだろう?
(セバスチアン、皿に料理を取り、フォークでかきこむ。)
セバスチアン ふん、旨いな、これは。誰が作ったんだ? ジョウイーか?
(リディア、今では動ける状態。右手で殴る構え。)
セバスチアン ああ、君か? 作ったの。
リディア 私。クラブ・ムースじゃないの。何百万回って作ったわ。
セバスチアン うん。いつもより旨いよ、これ。
(ジョウイー、夜着を着て、階段を降りて来る。二人、じっと彼を見つめる。その間ジョウイー、威厳のある足取りで父親の傍を通る。父親を完全に無視。母親に近づく。)
ジョウイー ご免よ、ママ。あと片付けを一人でやらせて。
リディア 大丈夫。一人で出来るから。
ジョウイー 僕、手伝うよ。
(ジョウイー、皿二つを取り上げ、台所に運ぶ。セバスチアン、リディアと目配せを交わす。)
セバスチアン(大きな声で。)リディア、君、あの部屋の隙間風、何とかしてくれないか。
リディア いいわ。見て来る。
(ジョウイー、再び登場。相変らず威厳をもって歩いている。)
セバスチアン 窓の方からだと思う。
リディア そうでしょうね、きっと。
(リディア、仕事部屋に入る。)
セバスチアン ジョウイー。それはいい。
(ジョウイー、最初反抗しようとするが、セバスチアン、手を伸ばし、皿を取る。)
セバスチアン とにかく、私はその皿で食べていたんだ。
ジョウイー すみません。分かっていたら触りはしなかった。
セバスチアン 私にどんな無礼な態度を取っても今は許されるよ。それに思い付くどんな酷い名前で私を呼んでもね。今夜の私は酷かった。父親が息子に対して出来る最悪の行為だ。私がお前の年で、私の父親があれをやったとしたら、すぐさま家出だろう。そして二度と父親とは口をきかない。
ジョウイー そうだったんでしょう? 実際。
セバスチアン いや、追い出されたんだ。お前には自分から家出したと話したかも知れない。その方が聞こえがいいからな。そう、実際はほうり出されたんだ。女中とちょっとあってね。いや、ジョウイー、今日の私は酷かった。 「恥知らず」とお前の母親は言ったが、その通りだ。 私は認める。マークは、「滓(カス)」と言った。「どうしようもない滓」それも本気でね。そう。私は時々こうなって仕舞う。時々酷いことを。「しょっ中じゃないか」とお前が言いたけりゃそうかも知れない。いや、「年がら年中」なのかも知れない、本当は。しかし今日のは最悪だった。これほど酷いことはこれ以前にはなかった。これからもない。これは断言出来る。そりゃ、お前にまた酷いことをやってのけるかも知れない。・・・まあ我々が一緒に暮らすとしての話だが。・・・しかし、一つだけ確実なことがある。それは、今夜やったこの行為ほど酷い事は決してしないということだ。いくら私でも世界記録を二度破ることは出来ないからね。
ジョウイー 忘れたっていうのが信じられないんだ。僕はわざとだろうと思ってる。
セバスチアン うん。お前としてはそう考えたいだろう。分かる。私もそう思いたいからな。その方が傷つき方が少なくてすむんだ、お互いに。しかし事実は、全く汚いことに、忘れたんだ。
ジョウイー どうしてそんなことが・・・
セバスチアン 出来たんだ、私には。これには全く言い訳がない。だがまあ、聞いてくれ。私はテレビ局の人間に言って、もう一度放送して貰う。そうするつもりでいる。
ジョウイー ああ、そんなの、口だけさ。
セバスチアン テレビセンターでももう一度見たい筈だ。私も、マークも、・・・タンジールにいるから編集長は駄目だが・・・他に見たい奴は沢山いる筈だ。お前だってそうだろう。私の新聞のテレビ劇の批評家だってそういう筈だ。あいつが何て言うか、それに放送が来週にしかならないだろうが、とにかく必ずあいつは批評を載せる。約束するよ。
ジョウイー これ、本気なの? それともまた忘れるの?
セバスチアン どう侮辱しても構わない。さっきそう言った。だけど殴り倒す必要はない。これは言っておく。ところで私がこの約束を守ったら、何か私にやってくれるとそちらも約束してくれないかな。
ジョウイー(疑い深く。)何か?
セバスチアン まあ、そこに坐って。
(セバスチアン、ジョウイーを前の椅子に坐らせ、そこにチェスのテーブルを引っ張って来る。)
セバスチアン 私の前で証明して欲しいんだよ。お前が椅子の後ろで「ああっ」などと言うだけの力があることを。
ジョウイー もう遅いよ、お父さん。
セバスチアン リベラルの連中にはな。しかし大人ならまだ宵の口だ。さあ、お前は白だ。五十ペンス。いいな?
ジョウイー ポーン二つハンディだ。
セバスチアン 一個だ。
ジョウイー よし。
(セバスチアン、ポーンを一個取る。ジョウイー、指す。セバスチアン、指す。ジョウイー、指す。)
セバスチアン ほほう、これは私の「初心者のための十二のオープニング」にない手だぞ。
(セバスチアン、指す。ジョウイー、考える。リディア、この時までずっと仕事場の鍵穴から成り行きを見守っていたが、出て来る。リディア、二人を眺める。ジョウイー、指す。セバスチアン、指す。)
ジョウイー(立ち上がる。)それまで。僕の勝だ。
セバスチアン 勝? どういうことだ。
ジョウイー キングを三桝動かした。
セバスチアン キングじゃない。これはクイーンだ。(はっとなって。)えっ? これがキング? くそっ、あのマーク・ウオルターズの奴! この駒はまっすぐ香港につっ返すべきだと言ったんだ。あいつに何度も言ったのに・・・
(セバスチアン、動かした駒を全部もとに戻す。この時までにジョウイー、立ち上がっている。)
ジョウイー はい、五十ペンス。
セバスチアン 今のゲームはなしだろう?
ジョウイー 規則は規則だからね。
リディア あなた、約束は守るのよ。
セバスチアン 君は黙ってろ! もっとましなことをやってろ。こんなもの見るより。そう。もう寝るんだな。
ジョウイー そうだよ、ママ。後片付けは僕等がやる。
セバスチアン うん。ジョウイーがやるさ。
リディア この子に五十ペンスは?
セバスチアン この! うるさいな、二人とも。
(セバスチアン、支払う。)
リディア 負けっぷりのいい人だわ、ね?
セバスチアン 何が負けっぷりだ。負けてなんかいないぞ。分かり難い駒だ。そいつをただ並べ間違えただけなんだぞ。
(ジョウイー、去ろうとする。セバスチアン、袖を捕まえる。)
セバスチアン いや、この儘は返さん。そのままその五十ペンスをベッドに持って行けると思ったら大間違いだぞ。もう一回最初からだ。そいつが倍になるか、ゼロになるか。但し、今度は最初から駒は正しい位置にある。
(二人黙って指す。指し方、速い。リディア、二人を眺める。セバスチアンの肩に軽く手を置く。)
リディア じゃあ、あなた、お休みなさい。
(ジョウイー、ぱっと立ち上がり、母親にキスしようと進む。)
セバスチアン(苛々して。)そいつは止めてくれ。集中出来ない。母親の方が背を低くしてやって貰いたいな。
(セバスチアン、優しく後ろからリディアの背を叩いて背を低くさせる。リディア、ジョウイーに近づく。セバスチアン、盤面に集中している。ジョウイーに。)
セバスチアン どうやらリベラルの陣営はかなり敵の圧迫を受けているようだな。
ジョウイー クレムリンの牙城もそう威張れた状態ではなさそうだよ、お父さん。
(リディア、振り向いて二人を見る。)
セバスチアン(ジョウイーに。)ふふーん、なかなかやるじゃないか。これなら十日間母親がいなくても結構楽しめるぞ。
(セバスチアン、ふと見上げる。観客がもし彼の秘密を知らなかったとしたら、次の彼の台詞を真に受けそうな程。)
セバスチアン ああ、失敬。君、まだいたの? 気がつかなかったよ。
(リディア、微笑む。事実、こぼれるような笑み。)
リディア そう。気がついていないと思ったわ。
セバスチアン さあ、指すんだ、ジョウイー。
(リディア、ゆっくりと階段を上がる。)
セバスチアン 徹夜をするわけにはいかんのだからな。
(リディア退場。)
セバスチアン 一晩中でもまあ、構いはしないか。
(幕)
平成七年(一九九五年)十一月十日 訳了
http:/www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html
http:/www.aozora.ne.jp 「能美」の項
In Praise of Love was first produced at the Duchess Theatre, London, on September 27th, 1973, with the following cast:
LYDIA CRUTTWELL Joan Greenwood
SEBASTIAN CRUTTWELL Donald Sinden
MARK WALTERS Don Fellows
JOEY CRUTTWELL Richard Warwick
Directed by John Dexter
Designer: Desmond Healey
Rattigan Plays © The Trustees of the Terence Rattigan Trust
Agent: Alan Brodie Representation Ltd 211 Piccadilly London W1V 9LD
Agent-Japan: Martyn Naylor, Naylor Hara International KK 6-7-301
Nampeidaicho Shibuya-ku Tokyo 150 tel: (03) 3463-2560
These are literal translations and are not for performance. Any application for performances of any Rattigan play in the Japanese language should be made to Naylor Hara International KK at the above address.