アガメムノーン・ブラウニング訳
テレンス・ラティガン 作
能 美 武 功 訳
(題名に関する説明 この芝居の原題は Browning Version 。直訳すれば、「ブラウニング版」。アイスキュロスのアガメムノーンはこの芝居の主人公、アンドルー・クロッカーハリスの愛読書。それを昔、英国の詩人ブラウニングが英語に訳している。その翻訳版のこと。この芝居を一旦読んでしまえば、この「ブラウニング版」がピッタリの題名であることは分るのだが、題名だけでは想像がつきにくい。標題の「アガメムノーン・ブラウニング訳」を選んだ。)
登場人物
ジョン・タプロウ
フランク・ハンター
ミリー・クロッカーハリス
アンドルー・クロッカーハリス
フロビッシャー
ピーター・ギルバート
ミスィズ・ギルバート
(場 南イングランドのパブリック・スクール。その教官クロッカーハリス家の居間。七月の夕方六時から七時の間。クロッカーハリス家は、大きな四、五階建てのヴィクトリア朝の建物を改造してアパートにし、大小の区切りをつけ、既婚者、或は未婚者用の住居に作り変えた共同住宅の一階にある。その居間は多分、この住宅の中で最も大きな、そして最も陰気な部屋に違いない。しかし、左手にステンドグラスの扉があり、そこから小さな庭に出られるのは、他の部屋に比べて誇りに出来る点である。この扉は、ちゃちではあるが明るい装飾が施されている。右手にも扉がある。これは玄関ホール、そしてアパートの他の家へと繋がっている。その前方に衝立があり、扉はその衝立に隠されている。)
(幕が上ると、無人。玄関が開き、閉まる音。そして扉に、おづおづとしたノックの音。暫くしてまたノック。)
(やっと扉が開き、ジョン・タプロウ登場。丸顔で造りの悪い顔。十六歳。眼鏡をかけている。扉のところでどうしたものか考え、またホールに戻る。そこで誰かを呼ぶ。)
タプロウ(舞台裏で。)先生! 先生!
(暫くして戻って来る。グレイのフランネルの上下、濃紺のコート、白いスカーフ。庭に通じる扉へ進み、開け、また呼ぶ。)
タプロウ 先生!
(返事なし。タプロウ、扉のところで明るい太陽の光を浴びながら、情けない溜息をつく。扉をしっかりと閉め、テーブルに進み、本とノートとペンをその上に置く。)
(テーブルには小さなチョコレートの箱がある。多分、配給のチョコレート。タプロウ、箱を開け、中の数を数える。二つ取る。そのうちの一つを食べ、もう一つは彼の良心がそうさせたか、或は一つ以上だとばれてしまいそうだと判断したのか、元に戻す。部屋を眺め、隅にあった、把手の曲ったステッキを取り上げ、ゴルフのスイングをする。それに集中している様子。)
(フランク・ハンターが、右手の玄関ホールに通じる扉から登場。フランクは気取りのない若者。実は全く気取りがないのではない。故意にずけずけと正直なことを言ってしまう、のが気取りだとすれば。そして人気のある教師のもつ独特の自信に包まれている、のが気取りだとすれば。フランク、タプロウを見る。タプロウ、背中を扉の方に向けて、ステッキを上げ、スイング。)
フランク ボールから離れるに応じて手首を廻すんだ。ただ廻すんじゃ駄目だ。
(フランク、タプロウに素早く近づき、どぎまぎしているタプロウの手の上に自分の大きな手を置く。)
フランク さあ、スイングして。
(タプロウ、フランクの明らかにプロ級の腕前の手に導かれて、絨毯をさっきよりはもっと有効に叩くことに成功。)
フランク 速すぎだ。ゆっくりと引いて左腕を締める。ただボールをぶん殴ればいいっていうもんじゃない。君が校長で、ボールが君・・・と、そういう関係にあるんじゃないんだ。そんな叩き方じゃ、五十ヤードも飛びはしない。リズムだ、大事なのは。ゴルフのスイングは美学さ。野蛮な殴り合いとは訳が違う。
(タプロウ、フランクの言っている事には上の空。絨毯を見つめている。)
フランク どうしたんだ。
タプロウ 絨毯に傷をつけちゃったみたいなんです。
(フランク、絨毯を調べる。ひどくおざなりに。)
フランク 馬鹿な。前からだよ、この傷は。(ステッキを部屋の隅に戻す。)どこかで会ったことがあったかな?
タプロウ いいえ、ありません。
フランク 名前は何ていうの?
タプロウ タプロウです。
フランク タプロウ! いや、会ったことはないね。君は理科系じゃないね。文科だね、きっと。
タプロウ いいえ、まだ文科も理科もないんです。まだ五年生で、振り分け前です。・・・いえ、振り分け以前です。だって、五年が卒業出来るかどうか、まだ分っていませんから。
フランク ええ? 卒業が分ってないって?
タプロウ ええ、まだなんです。クロッカーハリス先生がまだ成績を教えてくれてないんです。他の先生だったら教えてくれているんですけど。
フランク ほほう、クロッカーハリス先生はどうして教えないんだ?
タプロウ エー、あの先生はいつもこうですから。・・・先生も御存知でしょう?
フランク うん、そうだ。規則があった筈だな。卒業の可否は、校長が、そして校長のみが、その学期の最後の日に学生に教える。
タプロウ ええ・・・でも、そんな規則、誰も守ってはいません。クロッカーハリス先生以外は。
フランク そうだ。私だって守っちゃいないな。しかし、私のことなど、この際何の判断基準にもならない。すると君は、卒業出来るかどうかは、明日まで待たなきゃならないという訳だ。そうか?
タプロウ ええ。
フランク で、もし卒業出来るということになれば、どうするつもりだ?
タプロウ ああ・・・理科です、勿論。
フランク(悲しそうに。)そうか。怠け者はみんな理科に来るか。
タプロウ(抗議して。)だって僕、科学にとても興味を持っているんです。
フランク ほほう、興味がある。私はないね、興味なんか。少なくとも今教えている科学には、全く興味はない。
タプロウ ええ。でも先生、科学はこんなゴミ(自分の本を見せて。)よりずっと面白いですよ。
フランク こんなゴミって、何だね。
タプロウ アイスキュロスです。アガメムノーン。
フランク フム。アガメムノーンがゴミか。熟慮の結果の結論かい? そのゴミっていうのは。
タプロウ いえ、それは・・・その芝居自身は決してゴミなんかじゃありません。僕はなかなか良い筋だと思っています。妻が愛人を持って・・・そして、夫を殺害する・・・いい話です。でも教え方です、ゴミなのは。次から次とギリシャ語の単語を覚えてこい、そして駄目なら五十行本文を写せの罰です。
フランク 教師に手厳しいんだね、君は。
タプロウ ええ、そうかもしれません。
フランク で、これは居残りの罰?
タプロウ いいえ、補習授業です。
フランク 補習授業? 修了式の前日にか?
タプロウ ええ、そうなんです。これがなきゃ、僕はゴルフをやっているところなんです。そうですよ、誰だって考える筈です。ここの先生に補習授業をする暇なんかある訳がないって。だって、今日でここを引き払うんですからね、ここの先生は。忙しくてそんなことしっこないって。だけど違うんです。僕は先週風邪を引いて、一日休んだんです。だからその時の授業を今・・・やれやれ、何ていい天気なんだ。
フランク 運が悪いね。しかしこれで却ってついてたってことになるかもしれないぞ。学期の最後の日まで補習授業を受けた真面目な学生だってことになって、卒業が約束されると・・・
タプロウ そんなに甘くないんじゃないかな。普通の先生ならきっとそうなんだろうけど。だって、補習を受けさせてまで卒業を許さなかったとなれば、評判に関りますからね。だけど、そんな話、ぐずクロックに・・・クロッカーハリス先生に通用する訳がないんだ。僕は昨日、先生に聞いたんです。僕が卒業出来るのかどうかを。そしたら、何て答えたと思います?
フランク 分らないな。何て?
タプロウ(非常に優しい、ちょっと喉声で、クロッカーハリスを真似て。)「タプロウ、君の卒業に関する私のつけた成績だがね、君の正に実力通り、低くもなく、勿論高くもなく、つけておいたよ。」ですから、この補習授業を受けることになって、その分だけ高くつけたなんてあり得ませんよ。むしろ低くしたんじゃないですか。あんな奴、人間じゃないんだ、全く。(急に言い止める。)あ、失礼しました。やり過ぎでしたか?
フランク そう。やり過ぎだね。酷くやり過ぎだ。
タプロウ すみません。ちょっと・・・調子にのってしまって。
フランク そうらしいな。(タイムズを取り上げ、広げる。)タプロウ・・・
タプロウ はい。
フランク 先生が君に言った言葉だがね・・・ちょっと、その・・・もう一度やってみてくれないか。
タプロウ(再び口真似。)「タプロウ、君の卒業に関する私のつけた成績だがね、君の正に実力通り、低くもなく、勿論高くもなく、つけておいたよ。」
(フランク、不満そうに鼻を鳴らす。そして厳しい顔になる。)
フランク 似ていないね、先生には。さあ、アイスキュロスを読んで静かにしているんだ。
タプロウ(アイスキュロスと聞いてうんざり。)アイスキュロス。
フランク そうだ。先生はここに何時に来いと言ったんだ?
タプロウ 六時半です。
フランク フン、もう十分も遅れている。もうさぼったらどうなんだ? 今から駆け付ければ、九ホールは打てるんじゃないか、クラブが閉まる前に。
タプロウ(本当にショックを受けて。)さぼるなんてとんでもない。ぐずクロックの・・・いや、クロッカーハリス先生の授業をさぼる? そんなこと、あの先生がこの学校にいた間、生徒が一度だってやったことのない話だと思います。そんなことを僕がしようものなら・・・そう、きっと先生は家まで追いかけて来ますよ。
フランク フーン、驚いたね。先生は授業でそんな強烈な印象を生徒に与えているのか。羨ましいな。君達誰もが死ぬほど怖れているっていう感じだね。先生はどんなことをしているんだ? 殴ったりするのか?
タプロウ とんでもない。先生はサディストなんかじゃありませんよ。そういう先生は他にはいるけど。
フランク えっ? 今、何て言った?
タプロウ サディスト・・・つまり、他人に苦痛を与えていい気持になる人のことです。
フランク なるほど。サディストは分った。だけど君、その後に何か言ったろう。
タプロウ ええ。そういう先生は他にいるって。いますよ。名前は言いませんけど。でも先生だって、誰がそうかは先刻御承知なんです。先生達は、生徒は何も知らないって思っているけど・・・いや、先生は違いますよ。先生は若いし・・・いえ、とにかく比較すれば若い方に入りますよ。・・・それに、理科の方の先生だし、選挙では労働党を応援したでしょう? それは、サディストが何かぐらい知っているに決っていますよ。
フランク(間の後。)驚いたね。パブリックスクールは今やどうなっているんだ?
タプロウ とにかくクロックの奴、サディストじゃないんです。僕はそれが言いたかったんです。もしサディストだったら、あんなには怖くないんですよ。少なくとも、感情はあるってことがそれで分りますからね。だけど、奴には感情がないんだ。感情をこわ張らせて、小さくして、胡桃(くるみ)のように固めて。心を開いてくる人間を寄せつけまいと努めている。そこが奇妙なんです。僕は好かれることが嫌いな先生って、他には誰も知りませんよ。
フランク 好かれれば誰だっていい気持になる。この弱点をついて来ない生徒というのも私は見たことがないね。
タプロウ ええ、勿論それはそうです。でもぐずクロックは・・・
フランク(先生対生徒という関係を正常に戻そうと、微かな努力をして。)クロッカーハリス先生。
タプロウ はい。クロッカーハリス先生。ええ、でも、奇妙なのは、そんな人なんですけど、僕は何故か、あの先生が好きなんです。好きでたまらないんです。で、時々先生はそれに気づくんです。すると、パッと殻の中に入ってしまう・・・
フランク 少し大袈裟なんじゃないか? それは。
タプロウ 大袈裟じゃありません。本当なんです。この間もそうでした。授業でラテン語の冗談を言ったんです。勿論誰も笑いませんでした。だって、誰一人分ったものはいないんですから。僕も分りませんでした。でも僕には、それが冗談だってことは分ったんです。だから笑いました。勿論胡麻すりじゃありません。普通の礼儀だと思って。本当です。これは神賭けて。先生が可哀相だったんです。折角の冗談が無駄になるのが。(タプロウ、テーブルに進み、椅子に坐る。)あの冗談が正確には何だったか覚えていません。でもまあ、これにしておきます。(クロッカーハリスの声を再び真似て。)ベネディクトゥス、ベネディカトゥール、ベネディクティンヌ・・・ここで笑って下さい、すみません・・・
(フランク、笑う。タプロウ、眼鏡越しに上目を使ってフランクを見て、非常に優しく、右手を上に向けて人差指を出し、それを曲げて、フランクに自分の所へ来るよう手招きをする。フランク、近づく。道化風ではなく、単純に。フランクは事の成り行きにひどく興味がある様子。)
タプロウ(優しい、喉声を出して真似る。)「タプロウ、どうやら君には、私の洒落が分ったようだ。君以外のクラスの全員が分らなかったのに、君一人がこれを分るとはね。君のラテン語は随分上達したようだ。正直なところ、私は自分の教え方が褒められたような気がする。さてところで、今のことをクラスの皆に説明してやってくれないか。君の楽しみを皆に分かち合えるようにね。」
(衝立の後ろの扉が押し開けられ、ミリー・クロッカーハリス登場。三十代後半の痩せた女。通常の教師の妻よりは、洋服の着こなしがよい。衝立の傍に立って、手袋を脱ぎながら、タプロウとフランクを眺めている。四五秒経って初めて二人、彼女に気づく。)
タプロウ 「どうしたタプロウ! いい冗談を自分だけ独り占めにしておくのは、利己的というものじゃないか。さあ、皆に話してやるんだ・・・」(突然黙る。)あっ!
(フランク、急いで振り向く。いたのがミリーだったので、ひどくほっとする。)
フランク ああ、今日は。
ミリー(表情なく。)今日は。
(持って来た二三の荷物をそこに置いて、帽子を脱ぐため、玄関ホールに戻って行く。)
タプロウ(必死にフランクに囁く。)あの人、聞いたでしょうか。
(フランク、全く心配する様子なく、頭を振る。)
タプロウ きっと聞いてましたよ。かなり前からいたんです。もし聞いていて、先生に話したら、僕の卒業はおじゃんですよ・・・
フランク 馬鹿な。
(ミリー、再び登場。)
ミリー(タプロウに。)うちの人を待っているのね?
タプロウ エー、・・はい。
ミリー 会計課に行ってるのよ。まだなかなか終らない筈。私だったら帰っちゃうわね。
タプロウ(とても帰るなんて無理、という表情。)ここへ来るようにって、きつく言われたんです。
ミリー そう。じゃ、十五分だけどこかへ行って、また戻って来たら?
タプロウ 僕より先生が早くいらしたら・・・
ミリー(微笑む。)私が責任を取るわ。そう、こうすればいい。あの人のための仕事をするの。この処方箋を薬局に持って行って、薬を受取って来なさい。
タプロウ 分りました、奥様。
ミリー 薬が出来るまでスチュアードに行ってアイスクリームでも食べていればいいわ。ほら、これ。(一シリング、バッグから取出し、タプロウに投げてやる。)
タプロウ 有難うございます、どうも。(扉の方に行く時、フランクの傍を通り抜ける。その時、囁き声で。)先生に真似のこと、話さないようにして。
フランク オーケー。
ミリー(タプロウが扉まで来た時に。)ああ、タプロウ・・・
タプロウ はい、奥様。
ミリー 今日お父さまから手紙が来たわ。私の父親、あなたのお母さんに会ったんだって書いてあった。
タプロウ(興味なし。しかし丁寧に。)ああ、そうでしたか。
ミリー そう。ブラッドフォードで何かお祭のようなことがあったのね。私の叔父は・・・御存知でしょう? サー・ウイリアム・バートップだけど・・・スピーチをしたの。それからあなたのお母さんも。それが終ってお茶の時、父はあなたのお母さんに会ったんだって・・・
タプロウ ああ、そうですか。
ミリー 魅力的な話し方をなさる人だって、書いてあったわ。
タプロウ ああ、母は演説などをやらせると、かなりうまくやりますから・・・(身内を褒めるなどと馬鹿なことをやったと気づいて。)つまり、エー・・・奥様のお父上のことも、きっと母は、魅力的な話し方をなさる人だと思った筈です。エー・・・僕はもう行かないと。失礼します。
(タプロウ退場。)
ミリー 来てくれたのね。有難う。
フランク ええ、それは当然・・・
ミリー 夕食は一緒ね?
フランク ええ、お邪魔でなければ。
ミリー お邪魔! 煙草を頂戴。
(フランク、自分のケースを差し出す。ミリー、一本取る。)
ミリー(ケースを指さして。)まだ誰にも譲ってないわね?
フランク 誰かに譲る? 僕が、これを?
ミリー ええ。誰かにね。運が良かったわ。それが男物で。女物だったら、誰かいい女の子にすぐ持って行かれるところ。
フランク 馬鹿なことを言うのは止めて下さい。
ミリー この一週間、何をしていたの?
フランク 試験の採点、成績の報告書。学期末の忙しさはよく御存知でしょう?
ミリー 学期末の忙しさは知っているわ。でもアンドルーでさえ暇な時間は拵えたわね。皆にさよならの挨拶回りのための・・・
フランク 本当に殺人的に忙しかったんですよ、僕は。それに、どうせブラッドフォードの新居にお邪魔することになっていますから・・・その時にゆっくり・・・
ミリー でもそれ、ひとつき以上も先の話になるわ。アンドルーの仕事は九月一日から始まるの。これ、あなたに言おうと思っていたことの一つ。
フランク ああ、でも九月は僕はデヴォンシャーに行くことになっている・・・
ミリー(みなまで言わせず。)誰と?
フランク 家族です。
ミリー 九月は止めるのね。八月になさい。
フランク ちょっと難しいな。
ミリー じゃ、仕方ないわ。こちらに来るのは八月にして。
フランク でもご主人がいるんでしょう?
ミリー そうよ。
(間。)
フランク なんとか九月に行けるようにします。
ミリー その方がいいわ、どの点から見ても。あなたに六週間も会えないという欠点はあるけど。
フランク(軽く。)六週間・・・まあ何とかなるでしょう。
ミリー ええ、何とかなるわ。・・・でも、何とかなるなり方は、あなたほど軽くないわね。
(フランク、返事をしない。)
ミリー 私、自尊心がないわね。(ミリー、フランクに近づく。)フランク、私、愛してるわ。
(フランク、ミリーにキスする。口に。しかし、少しおざなり。それからすぐ放す。誰かが部屋に入って来はしないかと怖れているかのように。)
ミリー(笑って。)心配性ね。
(間。)
フランク あの衝立の仕掛けが気になって。人が入って来るのが分らないんだ。
ミリー ああ、そうそう。それで思い出したわ。私が入って来た時、あなたとタプロウは何をやっていたの? 主人をだしに、何かやっていたのね。
フランク ええ。まあ、そうです。
ミリー とても上手な真似のようだったわ。あの子にまたいつかやらせなくちゃ。あなたも悪戯(いたずら)ね、生徒にそんなことを焚き付けたりして。
フランク そうでした。確かに。
ミリー(皮肉に。)しつけには悪いわね。
フランク そうです。それに、生徒に阿(おもね)っている。やれやれ、生徒の人気を集める・・・何て簡単なことなんだ。僕は教師になってまだ三年だ。それなのにもう、すっかり連中に気に入られるための仕種(しぐさ)と言葉が身についてしまっている。あのガキどもに対して、どうして自然な振るまいが出来ないんだろう。
ミリー 自然な振るまいなんか、生徒は嫌いなのよ。
フランク どうしてそんなことになるんだろう。自然な振るまい、それをやっている教師は見たことがない。多分、あのガキどもが内心怖いんだ。勢い僕みたいに空元気を出して陽気な人間に見せようとするか、或は、君の御主人みたいに意地悪根性を丸だしにするか、どっちかになってしまう。君の御主人は、五年生の奴らの攻撃に対処するため、カチンカチンの心しか持っていない振りをしているんだ。
ミリー(この話題は面白くない。)あの人、何をやったって、生徒の人気なんかとれないわ。
フランク そうかもしれない。だいたい教師になんかなったのがいけなかった。どうしてなったんです?
ミリー 自分では天職だって言っているわ。大成功を収めると思っていたようね。特にこの仕事についた最初の頃は。(苦々しそうに。)たいした成功よ、本当に。
フランク 教師はお止めなさいって言えばよかったのに。
ミリー そんなこと言える筈がなかったわ。家も持てるようになる、校長になるだろうって、言ってたんだから。
フランク ぐずクロックが校長! それは面白い考えだ。
ミリー でしょう? 今から考えると滑稽。でも、最初からあの人、ぐずクロックじゃなかった。溌溂としていた時もあったわ。少なくとも私はそう思っている。でも止めましょう、あの人の話はもう。気が滅入って来るわ。
フランク 可哀相に・・・ぐずクロック。
ミリー(無関心に。)あの人、ちっとも自分を可哀相とは思っていないわ。だからあなたが思ってやることないの。可哀相に思うんだったら、それより私のことね。
フランク 思っていますよ、僕は。
ミリー(微笑んで。)じゃ、それを見せて。
(ミリー、両手を広げる。フランク、素早く、そして軽くミリーをキスする。しかしミリー、貪欲にフランクを抱きしめる。フランク、引き離すのに少し乱暴にしなければならない。)
フランク 一日、何をしていたんです?
ミリー 教師の奥さん方の訪問。お別れの言葉を言いに。これで十二人すんだわ。明日もうあと七人。
フランク 可哀相に! 酷い運命ですね。
ミリー 持ち家のある教師の女房連よ、酷いのは。親切ぶって。それが却って人を馬鹿にしているの。皆が皆、一様にそう。ベティー・カーステアーの言い方!「あら、あなた方お二人、本当に運がお悪いわ。旦那様、こんな時に心臓をお悪くなさるなんて。もうほんの少しいらっしゃれば、ちゃんと家をお貰いになれるという時に。そうそう、旦那様ってうちのアーサーよりずっと先輩でいらっしゃるんでしょう? 執行部の人達、お宅を差し置いてこちらに先に家を下さったなんて、何を考えていたんでしょうね?」
フランク あの女を呼ぶのにピッタリの言葉があるんですが、これはちょっと淑女の前で言えるような代物ではないですね。
ミリー あの人、でも、あなたにちゃんと目をつけているわ。
フランク ベティー・カーステアーズが? まさか!
ミリー いいえ、目をつけています。この間のコンサートの時、あの人とあなたを、私、見てましたからね。きっちりと。
フランク ミリー! 酷い話ですよ、これは。僕はあの女、大嫌いなんですから。
ミリー じゃ、ローズ(Lords)競技場で、あの人のボックス席にいたのは何故?
フランク カーステアーズ夫妻が招待してくれたんです。試合を観るには良い場所ですからね、あそこは。
ミリー そうね、そうでしょうよ、きっと。一階席よりはずっとね。
フランク(急に何かを思い出したような振りをして。)あ、いけない!
ミリー いいのよフランク、謝らなくても。あの席はちゃんと他の人に譲ったんだから。
フランク 本当に申し訳ありません。
ミリー いいの。私達、ボックス席を取る余裕がないの。
フランク 違うんです。見える見えないじゃない。本当に・・・本当に、きれいに忘れていて・・・
ミリー あちらの招待は忘れていなかったのね。奇妙だこと。
フランク ミリー・・・馬鹿なことを言わないで。
ミリー 馬鹿なのはあなたの方よ。(縋るような調子。)ねえフランク、あなた、私を一度でも愛したことがある? あなたが今、私を愛してくれていないのは分っている・・・ええ。そう、でもあなた・・・一度でも・・・誰でもいい。誰かを、愛したことがあるの? そうしたら分る筈よ。あんなことをされたら、どんなに傷つくか、どんなに苦しむか。
フランク もう謝りの言葉は言いましたよ・・・これ以上、何を言っていいか、僕には分りませんよ。
ミリー どうして本当のことを言わないの?
フランク 本当のことは・・・すっかり忘れていた。
ミリー 本当のことは・・・もっといいことがあったから。・・・どうしてそう言わないの?
フランク 分りました。それを信じたいのならどうぞ。本当はそうじゃないけど、そちらの方を信じて下さい。とにかく、もうこれは止めて・・・
ミリー じゃ、私のこと、少しは同情して。お願い。忘れてすっぽかしたっていう方を信じて、私の気持が少しでも休まるの? そちらの方だって、私が傷つくのは同じでしょう?
(フランク、後ろを向く。)
ミリー ああ、何て私って馬鹿! 競技場のことは決して口にすまいって、泣き言は止めようって、堅く決心したのに。私って何てこと! ねえフランク、一つだけ約束して。私から逃げて行かないって。それだけ、私があなたの口から聞きたいのは。
フランク 僕はブラッドフォードに行きますよ。
ミリー 私・・・もしあなたが来なかったら・・・死ぬわ。
フランク 僕はブラッドフォードに行きますよ。
(扉が押し開けられる。この時までにフランク、ミリーの方へ歩みよっている。が、その音を聞き、立ち止まる。ミリーもこの時までに立ち止まっている。そこへアンドルー・クロッカーハリスが、衝立の後ろから登場。暑い陽射しにも拘らず、サージの洋服に堅いカラーをしている。折り鞄を持ち、いつものことであるが、折り目正しく、満ち足りた様子。落ち着いた態度。非常に優しい声で話し、めったに声を荒げない。)
アンドルー タプロウはどこだ?
ミリー あなたの処方箋を持って行かせましたわ、私が。
アンドルー 処方箋? 何の。
ミリー あなたの心臓の薬よ。言ってたでしょう? 今朝。切れてしまったって。
アンドルー 勿論覚えているよ、ミリー。しかし、タプロウを使いにやることはないだろう? 薬局に電話しさえすれば、配達してくれる筈だからね。処方は薬局の方で知っているんだ。私は忙しくて、時間を延長出来ないんだ。ここでタプロウが遅刻したんでは、補習を充分にやってやれないことになる。
(二人のこの会話は扉の近くでなされ、衝立とミリーの身体のせいで、アンドルーの身体は部屋から隠れている。台詞がここまで来た時、部屋の中にアンドルーの身体が現れ、フランクに気づく。)
アンドルー ああハンター、君か。どうだ? 調子は。
フランク はい、有難うございます。
(二人、握手。)
アンドルー よってくれてどうも有難う。しかし、ミリーがもう君に言ったと思うが、補習で生徒が来ることになっていてね・・・
ミリー 夕食をご一緒にって言ってあるのよ、あなた。
アンドルー なるほど。じゃあ、ちょっと話が出来るな。しかしこの時間はタプロウがやってきたら、君、すまないが・・・
フランク(動きかけて。)いや、勿論私は席を外します。それに、もしお忙しいのでしたら、僕は・・・
アンドルー いやいや、今は大丈夫だ。どうぞ坐って。煙草は? 私は御存知のように吸わないんだ。しかしミリーが吸うから。ミリー、お客様に煙草を差し上げて・・・
ミリー 切らしているの、悪いことに。さっきも私、戴いてしまったわ。
(フランク、箱を取出し、ミリーに差し出す。ミリー、一本取ると、目配せをする。)
アンドルー 競技場で君を待っていたんだがね、ハンター・・・
フランク え? あ、そうです。本当に失礼しました。私は・・・
ミリー すっかり忘れていたんですってよ、アンドルー。大変!
アンドルー 忘れた?
ミリー 誰もがあなたのような超人間的な記憶力があると思ったら間違いね。
フランク 本当に申し訳ありませんでした・・・
アンドルー いやいや、謝るには及ばない。二日前には、あそこの席を売ってしまってね。そうそう、ドクター・ランバートとか言ったな。敵方のチームの色の服装をしてやった来たのには驚いたがね。しかしそれを除けば、かなり楽しい人物だった。気に入ったんだろう? ミリー。君も。
ミリー(フランクを見ながら。)ええ、大変気に入ったわ。とても魅力のある人。
アンドルー そうだ。なかなか魅力的な人物だった。(フランクに。)君、お茶は?
フランク もう飲んで来たんです。すみません。
アンドルー 何かお出しするものはなかったかな。
フランク いえいえ、本当に結構です。
アンドルー 学校の、来学期のための時間割を作ってあるんだが、君、見てみたいかね?
フランク ええ、見たいです、大変。
(この時までにアンドルー、横罫のある計算用紙を縦に何枚も貼付けた長い巻紙を取り出している。アンドルーの小さな字で、いっぱいに書き込んである。)
フランク 今の今まで全然知りませんでした。学校の時間割は先生が作っていらしたんですか。
アンドルー そう、知らなかったか。この十五年間、ずっと私がやっていたんだ。そうだな。勿論、謄写版刷りで配られる時間割には、校長の署名があるからね。そう、君の受持ちは何だったかな。五年生の科学か・・・ほら、ここだ・・・こっち側は授業の全体像が掴めるようになっているが、ほら、裏側には科目別の分類で作ってある。・・・分るだろう?・・・私のアイディアなんだ、これは。
ミリー、ちょっと見て御覧。
ミリー(急に苛々とした鋭い声で。)私、大っ嫌い、そんなもの。よく御存知でしょう?
(フランク、見上げる。驚く。そして居心地が悪い。アンドルーは時間表から目を離さない。)
アンドルー ミリーはこういう仕事が嫌いでね。ほら、ここを見て。五年生の科学が週毎でどこにあるか、一目で分る。
フランク(指でそれを追いながら。)これは実によく出来ていますね。素晴らしいです。
アンドルー 有難う。一目瞭然というところが取柄だと思っているんだ。
フランク 先生がいなくなったら、どうなるんでしょう。
アンドルー(何の衒(てら)いもなく。)誰かまた見つけるさ、きっと。
(間。)
フランク 今度つかれる職はどういうものなんですか?
アンドルー(初めて妻の方を見て。)ミリーがもう話したんじゃないのか?
フランク 予備・・・アー、プライベート・スクールだと聞きましたが。
アンドルー 予備学校・・・進級の遅れた生徒のための学校だ。ドーセットに、オックスフォードの私の同級生がいてね。その男が経営しているんだ。ここよりは楽な勤務になる。それで医者も安心して勧められると言ってくれてね。心臓の危険なしに・・・
フランク(心から同情して。)本当に運がお悪いんです、先生は。残念です。
アンドルー(声が少し上る。)ハンター! 残念に思ってくれる必要など何もない。私は新しいこの職場を楽しみにしているんだ。
(扉にノックの音。)
アンドルー どうぞ。
(タプロウ登場。少し息を切らせている。良心が咎めている様子。包みに入ってシールされている薬の壜を持っている。)
アンドルー ああ、タプロウ。そうか、走って来てくれたのか。
タプロウ はい、先生。(ミリーに壜を渡す。)
アンドルー 薬局は行列だったんだね?
タプロウ はい、そうです。
アンドルー 人気のスチュアートの店の行列より長かったんだろうな? きっと。
タプロウ はい・・・エー、その・・・いいえ・・・エー・・・(ミリーの顔を見て。)はい、そうです、先生。
ミリー あなただって遅刻だったのよ、アンドルー。
アンドルー その通りだ。これは私が悪かった、タプロウ。
タプロウ いいえ、いいんです。
アンドルー 幸いなことに、まだ終了時間までには間がある。これからでも充分出来る。
フランク(ミリーに。)この時間を利用して、ちょっと帰っていいですか? 調べものが残っていて。
ミリー どうぞ。でも、すぐに帰って来て。ここの授業が終っていなかったら、庭でお喋りをしていましょう。(扉の方へ進んで。)私ちょっと、夕食の支度をしなくちゃ。
(ミリー退場。)
アンドルー(フランクに。)ハンター。タプロウはね、どうしても今期、私の科を卒業すると言うんだ。この学校の残りの時間を、君の、理科のコースで終らせたいと言ってね。ブンゼンバーナー、レトルト、それに坩堝(るつぼ)でやる実験が楽しいらしい。
フランク(扉のところで。)はは、すると、めでたく?
アンドルー めでたく、何だ?
フランク 卒業出来たということですか?
アンドルー(間の後。)彼の進級に関する私のつけた成績、それは正に、彼の実力通り、低くもなく、高くもなくつけておいたよ。
(タプロウ、噴き出しそうになるのを辛うじて堪える。)
(フランク、さもあろうという表情で頷き、庭の扉から退場。)
(アンドルー、タプロウの笑いを我慢している顔に気づくが、何も言わない。テーブルにつき、タプロウに自分の横に坐るよう指示する。アガメムノーンの教科書を取り上げる。タプロウも教科書を出す。)
アンドルー 第一三九九行。始めて。
タプロウ コーラス。あなたさまの言うことには・・・
アンドルー(自動的に。)あなたさまの仰ることには。
タプロウ あなたさまの仰ることには・・・驚くばかりだ・・・何という・・・
アンドルー 何とまあ。(アンドルーの遮り方は自動的。明らかに心は別のところにある。)
タプロウ 思い切った・・・
アンドルー 大胆な。
タプロウ 言葉か。
アンドルー 口か。
タプロウ 何という大胆な口か・・・(急にインスピレーションが沸いて。)御自分の殺害された、血まみれの夫の死体に対して、このような言葉を吐かれるとは。
(アンドルー、初めて自分の教科書を見下ろす。タプロウ、心配そうな顔。)
アンドルー タプロウ、君は私のと違うテキストを使っているようだね。
タプロウ いいえ、同じです。
アンドルー しかし、私のテキストでは、その行はこうなっている。「ヘーティス・トイオンデ・パンドゥリー・コンパゼイス・ロゴン」(右の傍線の部分を強く読む。)いくら目を皿にして捜しても、「御自分の殺害された」はない。「血まみれの」も「死体」もない。ただ「夫」だけだ。
タプロウ はい、そうです。
アンドルー では、どうしてだね? ない言葉をわざわざあるかのように作り上げるのは。
タプロウ こちらの方が響きがいいと思ったのです。もっと緊張感が高まるだろうと。とにかく、この女は、夫である王を殺したんですから。(調子にのって。)そして、丁度その死体と一緒に出て来たんです。傍にはカッサンドラーが血だらけになって、のたうっている・・・
アンドルー 私はねタプロウ、君がこの作品の、劇としての面白さ、特に、不気味な情景に興味があることを知って、大変嬉しい。しかし、君の注意を喚起しなければならないのだが、ここではギリシャ語の解釈をやっている。アイスキュロスと共同して劇を作ろうという場ではないんだ。
タプロウ(非常に大胆になって。)そうです。でも、翻訳者の権利というものがあります。僕はその点で間違っていない。それに、何といっても、これは劇です。ただのギリシャ語の解釈の練習問題じゃないんです。
アンドルー(ちょっとの間、当惑して。)私の最後の授業での話が、君のその発言に影響を与えているようだ。私は勿論、このアガメムノーンが芝居であることを否定するものではない。いや多分、世界中で、現在までに書かれた芝居で最高のものだ。
タプロウ(すぐに続けて。)僕らの学年で、そう思っている人間が何人いるでしょう。
(間。タプロウ、すぐに自分の言ったことの重大さを知り、小さくなる。)
タプロウ すみません。次に行きましょうか。
(アンドルー、答えない。自分の本を見つめたままじっと坐っている。)
タプロウ 次に行きましょうか、先生。
(また間。アンドルー、ゆっくりと自分の本から顔を上げる。)
アンドルー(優しく呟く。タプロウの顔は見ずに。)私がずっと若い頃のことだ。そう、今の君より二歳ぐらい下だったか。私は、自分の愉しみのために、アガメムノーンの翻訳を作った。・・・自由な訳だ・・・そう・・・全部に韻を踏ませた。
タプロウ アガメムノーンを全部?・・・詩ですか? それは大変な仕事だったんじゃありませんか。
アンドルー 大変な仕事だった。しかし、非常な愉しみを覚えた。この芝居が私に与えた感動と興奮はあまりに大きくてね。私は・・・たとえそれが不完全なものであっても・・・他の人とその感動を共有したいと思ったのだ。翻訳を終えた時、読み返してみて、私は非常に美しいと思った。殆ど、原作よりも、もっと美しいとね。
タプロウ それは出版されたのですか?
アンドルー されなかった。昨日私は、自分の書き物を整理している時、その原稿を捜したのだが・・・なかった。どうやらなくしてしまったらしい。他のいろんなものもなくしたがね。永久に失われたんだな。
タプロウ 運が悪いですね。
(アンドルー、再び沈黙。タプロウ、恐る恐るアンドルーの顔を盗み見る。)
タプロウ 次に行きましょうか、先生。
(アンドルー、授業に戻るのが厭。しかし、やっとテキストに目を落す。)
アンドルー(ちょっと声を上げて。)いや、次ではない。今やったところをもう一度。今度は正確に。
(タプロウ、鼻に皺を寄せる。憎らしそうな顔をアンドルーの方に向ける。勿論アンドルーには見えていないと思ってのことである。)
タプロウ 夫の殿に対して、このような言葉を高言されようとは。
アンドルー よろしい。ではこの台詞を最初から今のところまでもう一度。さっき君だけの感覚で必要と感じた、余計な夾雑物は抜きにして。
(タプロウ、その行を最初から訳そうとする。その時ミリー、急いで登場。エプロンをつけている。)
ミリー 校長先生よ。この建物に入って来るところ。私がいるって言わないで。今、手が離せないの。フィッシュ・パイをまだオーブンに入れてないから。
(ミリー退場。)
(ミリーが入って来た時にタプロウ、椅子から飛び上がる。この知らせを聞き、内心しめたという気持。アンドルーの方を見て。)
タプロウ 僕は行った方がいいんじゃないですか。つまりその・・・邪魔になっては・・・
アンドルー 私に会いに来られたのかどうか、まだはっきりしない。この建物には他にも住人がいるからね。
(扉にノック。)
アンドルー どうぞ。
(フロビッシャー登場。古典文学の博士というより、敏腕な外交官という風貌。五十代半ば。非常によい仕立ての背広。)
フロビッシャー ああ、クロッカーハリス。いてよかった。お邪魔ではないかね?
アンドルー 今丁度、補習授業をやっているところなのですが・・・
フロビッシャー 学期末の前日に? 教師の側の非常な良心のなせる業なのかな? それとも、生徒の側の非常な遅れのためか。
アンドルー 多分その両方が原因で・・・
フロビッシャー まあそういうことになるだろうな。しかし、話出来るのはこの機会しかないので。つまり、明日はもう修了式だ。悪いが君の生徒にお許しを願って・・・(礼儀正しくタプロウの方を向く。)
タプロウ ええ、構いません。全く大丈夫ですから。(自分の本を片付け、扉の方へ突進する。)
アンドルー 君には大変すまない、タプロウ。この補習授業が駄目になった事情を、どうかお父上に説明して欲しい。私からも手紙を書く。それから、これにかかる予定だった金額は、返却するよう手配するから・・・
タプロウ(急いで。)はい、分りました。でも手配など、それはいいです。父は気にしない筈です。どうかお構いなく。では失礼します。
(タプロウ、部屋を飛び出る。)
フロビッシャー ギルバート夫妻はもう来たのかな?
アンドルー ギルバート夫妻ですって? 誰でしょう、それは。
フロビッシャー 五年生の担任をやる、君の後任者だ。奥さんを連れて今日やって来ている。このアパートに住むことになっている。
予めちょっと、見させておいてやりたいと思って。構わないかな?
アンドルー ええ、勿論構いません。
フロビッシャー もう彼のことは話したと思うが、非常に優秀な青年だ。オックスフォードで大変な賞を受けている。
アンドルー そう聞いています。
フロビッシャー いや勿論、君の賞に較べれば、少し落ちるがね。例えば君は、ラテン語の詩に関するチャンセラー賞、ガイスフォード賞を取っている。しかし彼は取っていない。
アンドルー では、ラテン語に関するハートフォード賞は取っているということで?
フロビッシャー いや。(ちょっと驚いて。)すると君は、ハートフォード賞も?
(アンドルー、頷く。)
フロビッシャー 君はこの学校始まって以来の、最も優秀な古典の学者なんだね。時々それを忘れてしまうんだが・・・
アンドルー お褒めの言葉、恐縮です。
フロビッシャー(自分の失言を上手に言いくるめて。)忘れてしまう・・・つまり、君の他の分野での活躍のために、古典の方が影が薄くなるんだ。学校の時間割作成がその一つだ。それにあの、神経を磨り減らす、五年生達との長い英雄的な戦い・・・
アンドルー 五年生との長い付き合いを戦いを思ったことはありません、校長。それに、神経を磨り減らすことも。
フロビッシャー いや、冗談だ、勿論。
アンドルー ああ、そうですか。
フロビッシャー 奥さんは在宅かね?
アンドルー ああ・・・いえ、今は。
フロビッシャー 奥さんには明日さよならを言う機会もあるだろう。君が一人でいる時に来られて有難い気持だ。・・・その、ちょっと微妙な話が・・・つまり・・・二つあって・・・
アンドルー どうぞお坐り下さい。
フロビッシャー 有難う。(坐る。)君は、この学校へ来て、十八年になるんだね。
(アンドルー、頷く。)
フロビッシャー こんなに早い時期に・・・もう少し勤めていれば、年金が可能だというこの時期に・・・退職しなければならないというのは、実に運の悪いことだ、全く。
(フロビッシャー、この台詞を言う時、アンドルーの視線を外し、自分の爪を見ながら言い難そうに言う。)
アンドルー もう少し勤めていれば年金の・・・(間の後。)すると、私には年金を支給しないと校長は決めたのですね。
フロビッシャー いや、私が決めたのではない。私には関係のないことだ、これは。理事のみんなが、残念ながら、君の申請を却下せざるを得なかったんだ。私は会議で、出来るだけこの件を許可して欲しいと努めたのだが、実に残念なことに、規則に例外を設けることは出来ないと言ってな。
アンドルー ああ、しかし、私の考えでは・・・いや、女房の考えでは、五年ほど前に例外があったと・・・
フロビッシャー ああ、ブラー(「ブ」にアクセントあり。)の件だね? そう。あれは例外だった。しかし、ブラーの場合、事情が事情なのだ。彼があの傷を負ったのは、ラグビーの試合中で・・・
アンドルー ええ、覚えています。
フロビッシャー 理事会は、五百名以上の署名がある請願書を受取った。OBの学生達の、そして父兄の署名つきの請願書をね。
アンドルー 彼の年金請願書には、私も署名したかったのです。しかしどういう訳か、私のところには回って来なくて・・・
フロビッシャー いや、彼は素晴らしい人物だった、ブラーは。実に素晴らしい・・・いや、よくやってくれていた、本当に・・・
アンドルー そうですね。
フロビッシャー 君の場合も勿論、同様によくやってくれた・・・いやしかし、何と言ってもブラーはまだ若くて・・・いや、とにかくその・・・規則は規則で・・・四五年に一回のペースで例外を作る訳にはいかない。いや、少なくともそれが理事会の意見だ。
アンドルー 分ります、よく。
フロビッシャー 分ってくれると思っていた、君なら。それで大変失礼なことをお訊きするのだが・・・
アンドルー どうぞ。
フロビッシャー 君には個人的な資産があると聞いていたが?
アンドルー 女房にはあります。
フロビッシャー ああ、そう。奥さんはよく、ご自分の親戚の話をしてくれている。奥さんのお父上は確か、ブラッドフォードで大きな商売を・・・
アンドルー ええ。大きいかどうか。アーケードで紳士用品の店を開いています。
フロビッシャー ははあ。奥さんの話を聞いて、私はもっと大規模な販売を想像していたのだが・・・
アンドルー 結婚した時、私の義理の父親は、私の女房に財産の贈与を行いました。それにより彼女には、年三百ポンドの収入があります。私にはありません。これでご質問に対する答となっているでしょうか。
フロビッシャー いや、これはどうも、正直な答で・・・それで、今度行くプライベート・スクールでなんだが・・・
アンドルー 予備学校での私の給料は、年二百ポンドの予定です。
フロビッシャー ああ、そう。勿論住居手当てと食費手当ては別に出るんだね?
アンドルー 年八箇月分です。
フロビッシャー なるほど。(ちょっと考えて。)勿論ご存じの筈だが、この学校には慈善資金制度があって、本当に生活に困る場合には・・・
アンドルー 生活に困るようなことはありません、私の場合。
フロビッシャー フム。君がそういう意志であることは大変有難い。今まで奥さんに色々話を聞いていて、私の方で勝手に想像していたのだが、君の経済状態はもっとゆったりしたものだとばかり・・・
アンドルー 勿論年金は大歓迎だった筈です。しかし、理事会の決定に不服を申し立てる理由など、私には全くありません。で、もう一つ微妙な問題があるという話でしたが?
フロビッシャー これは明日の賞状授与式に関するものなんだが、勿論君は何か一言生徒に話をする予定なんだね?
アンドルー はい、きっとそちらから準備の要請があるものと思っていました。
フロビッシャー いや、それは勿論だ。いつもそうしている訳だし、生徒もこの習慣をよしとしている。
アンドルー 話の要点など、既にメモは作ってあります。ひょっとして校長は、それを予め知ってお置きになりたいと・・・
フロビッシャー いやいや、それは必要ない。不穏当な言葉が君の口から出るなどと思ってもいない。当然機知に溢れたものだろうし・・・君にとっては感動的な瞬間に違いない。いや、我々全員にとって感動的な瞬間だ、勿論。しかし、君には当然分っているだろうが、こういう場合、あまり悲しい気持が前面に出ない方がいい。生徒達は感傷的な気分をひどく嫌っている・・・
アンドルー ええ、それは分っています。
フロビッシャー だから、最後の挨拶で、私が君のことを紹介するスピーチは、かなり軽く、陽気なものにしてある。勿論こんな場面でなければ、もっと重々しいものにするつもりでいるのだが。
アンドルー ええ、分ります。私も自分のスピーチでは、二三、冗談や洒落を入れてあります。その一つにヴェイリーというのがあります。私のクラスの落第生で、ヴェイリーというのがいるのですが、それとラテン語の「さらば」にあたるヴェイリー。まあ、かなり面白いだろうと思って。
フロビッシャー うん。(ちょっと考えて、遅まきながら笑う。)ああ、非常にいい。これは受ける筈だ。
アンドルー 気に入って下さって嬉しいです。
フロビッシャー さてそこで、式の運びについて、君に特別なお願いがある。快く君はきいてくれると期待しているんだが・・・知っての通り、フレッチャーもここを去って行く。
アンドルー ええ、知っています。シティーに移るんだという話を聞きました。
フロビッシャー そう。フレッチャーは勿論、君よりはずっと年下だ。それに、この学校にも長くはない。・・・五年間だ。しかし、彼のクリケットでやった業績は非常に大きい。まさに瞠目すべき働きだ。彼が来る前のこの学校の停滞ぶりは君もよく知っているだろう。
アンドルー 今年のローズ競技場での優勝は、確かに驚異的でした。
フロビッシャー その通りだ。明日私が、彼の引退を発表し、彼が別れのスピーチをする。生徒達の感謝の拍手はすさまじいものになると思われる。喝采は数分間続き・・・生徒達のローズでの思い出を想像すれば、これは当然だ。・・・私はとてもそれを中止させる能力があるとは思えない。いや、中止させること自体が礼儀に適(かな)っていないだろう。すると、君の引退の紹介をどうすればよいか、私の立場は分ってくれるな?
アンドルー 分ります。つまり校長は、私の紹介及びスピーチを、フレッチャーの前にしたい、という意向なのですね?
フロビッシャー 実にその・・・順序からいって不都合で・・・私としては大変頼み難いのだが・・・結局はこの方が君自身のためにいいのではないかと・・・私やフレッチャーはたいして関係がないとも言える。結局のところ、こういう場合、クライマックスを最後に持って来るというのが、式のうまい運びなんだが。
アンドルー 仰る通りです、校長。私も折角のクライマックスを潰すようなことはしたくありません。
フロビッシャー 悪く取って貰っては困る、クロッカーハリス。フレッチャーの挨拶の後四五分拍手が続き、その後で君の挨拶が終って・・・アー・・・それほど長く拍手がない・・・というのは、君への敬意が欠けるというものだ。君に対して失礼だ。そう、実に失礼なことになる。
アンドルー 分ります。
フロビッシャー(暖かく。)分ってくれると思っていた。そう、この君の選択は実に賢明なものだと私は判断している。さて・・・用件はこれで全部終りだ。私は行かなければ。今日はとても忙しい一日で・・・いや、君にとってもそうだったと思うが・・・
アンドルー ええ、そうです。
(ミリー登場。エプロンを外して身繕いをしてある。)
ミリー(社交的な態度。)ああ、校長先生。御親切に、お寄り下さって。
フロビッシャー(アンドルーと対する時よりは気楽な調子で。)ああ、これはこれは奥さん。
(二人、握手。)
フロビッシャー とてもお元気そうですね。そうだ、クロッカーハリス、素晴らしい奥さんをお持ちだと、よく皆から言われるだろう。
アンドルー ええ。ということはつまり、もうこれ以上、言われる必要はないということでもありますが。
ミリー 如何でしょう、もう少しお引き留めすることは出来ませんかしら。そして何か一杯。滅多に来て戴けることはないのですから・・・
フロビッシャー 残念ながら奥さん、丁度出ようと思っていたところなのです。今日は両親が家に来ていまして。これがなかなか喧(やかま)しい親でして。明日の夕食はお二人と御一緒に・・・そうでしたな?
ミリー ええ、そうです・・・本当に楽しみにしておりますわ。
フロビッシャー それは嬉しいです。ではここでお別れを。(アンドルーに。)オ・ルヴワール、クロッカーハリス。どうも有難う。
(アンドルー、お辞儀。)
(ミリー、フロビッシャーのために扉を開けて支える。そして玄関ホールまで送る。)
ミリー(フロビッシャーと一緒に退場する時、アンドルーに。)薬を飲むのを忘れないで、あなた。
アンドルー うん。
フロビッシャー(舞台裏、玄関ホールから声。)幸せなご病人ですな。素敵な看護婦さんのお付きで・・・
ミリー まあ、お世辞がお上手ですこと、校長先生。そんなこと、これっぽっちも本気では思っていらっしゃらないのに。
フロビッシャー いやいや。本気ですよ、何から何まで。では、明日ですな? 失礼します。
(扉が閉まる音。アンドルー、窓の外を眺めている。ミリー登場。)
ミリー どうだったの? 貰えるの?
アンドルー(心ここにない様子。)何を。
ミリー 年金よ、勿論。貰えるの?
アンドルー いや。
ミリー まあ! どうして貰えないの。
アンドルー 規則に反するんだ。
ミリー だって、ブラーは貰ったんでしょう? ブラーが貰えて、どうしてあなたが貰えないの。何を考えてるの、一体。
アンドルー 理事会は前例を作るのが嫌なんだ。
ミリー けち! 何て厭らしい奴らなの。私、あいつらを罵る言葉ならいくらでもあるわ。(アンドルーの正面に回って。)それであなたは何て言ったの。ただそこに坐ってラテン語で冗談でも言ったんでしょう。
アンドルー 私の言える台詞など何もなかったね。ラテン語だろうと、他の言葉だろうとね。
ミリー あら、なかったの。私だったら言ってやったわね。あなたはただ左と右の親指をぐるぐる廻しながら、あのいかさま校長の言う事を、御無理御尤もと聞いていたんでしょう。私なら・・・言い返してやったのに。まあでも、私は男じゃないから。
(アンドルー、ミリーを見ず、アガメムノーンの頁を捲(めく)っている。)
ミリー あなたそれで、どうするつもり。私のお金をあてにしているのね。
アンドルー 今までだってそういうことはなかった。私は自分の面倒は自分で見る。
ミリー 自分の面倒を見る? 結婚式の誓いはどうなっていたか覚えていらっしゃらないの? 夫は妻の面倒を見るんでしょう? 違うの?
アンドルー 違わない。その通りだ。
ミリー 年二百ポンドでどうやって私の面倒が見られるというの。
アンドルー 私の方で倹約するさ。その残りで君はやって行く。出来る限りね。
ミリー 殆どゼロに近いお金ね。有難いわ。
(アンドルー、読んでいる本に、下線を引く。)
ミリー あの馬鹿、他に何を言ったの?
アンドルー 校長のことか? 明日のスピーチをフレッチャーの前にしてくれと。後ではなく。
ミリー ああ。それは頼みに来るって、知っていたわ。
アンドルー(驚きもせず。)知っていたのか。
ミリー ええ。一週間前、あの人私に訊いたもの。言ったらいいでしょう、って私、答えておいた。あなたが気に留めないのは分っていたし、フレッチャーに連れ合いがいれば、その女から私、馬鹿にされるかもしれないけれど、幸いいないんだから。私もちっとも構わない。
(扉にノックの音。)
ミリー どうぞ。
(ギルバート夫妻登場。ギルバートはおよそ二十二歳。妻の方はそれより一、二歳下。)
ギルバート ミスター・クロッカーハリス?
アンドルー(立上りながら。)ええ、ギルバートさん御夫妻ですか? 校長からお聞きしていました。
ミスィズ・ギルバート お邪魔でなければいいのですが。
アルバート いや、全く。こちら、女房です。
ミスィズ・ギルバート 始めまして。
アンドルー ギルバート夫妻は、我々の後、この家に住む予定なんだ。
ミリー ああ、そう。どうぞよろしく。
ギルバート 始めまして。本当にちょっとだけ・・・ここに来たついでに将来の自分達の住み家がどんなところか・・・見たいと思いまして。
ミスィズ・ギルバート(分りきっているが、会話のつなぎに。)ここが居間なんですのね? きっと。
ミリー ええ。本当は居間なんですけど、主人が書斎に使っているんですの。
ミスィズ・ギルバート まあ、お綺麗にお使いになっていらっしゃること!
ミリー あら、そう思って下さるの? 私、本当はもっと素敵にしたいと思っているんですけど・・・でも、教師の妻って、他に色々することがあって、落ち着いてカーテンや家具のカバーなどのことを考える暇などありませんのよ。生徒達は汚い靴で上がり込みますし、夫はインクの漏れる万年筆を使ったりして・・・
ミスィズ・ギルバート そうでしょうね。私も学校の教師の妻の経験はまだあまりありませんけど、想像はつきますわ。
ギルバート 何を言っているんだ。君はまだ教師の妻の経験など何もないじゃないか。
ミスィズ・ギルバート いいえ、ちゃんと経験はあります。・・・二箇月ね。結婚した時、あなたはもう教師でしたもの。
ギルバート 予備学校の先生は、教師の数に入らないんだ。
ミリー まあ。結婚してまだ二箇月ですの?
ミスィズ・ギルバート ええ。二箇月と十六日。
ギルバート 十七日。
ミリー(感傷的に。)あなた、今の聞いた? 結婚してまだ二箇月なんですって。
アンドルー そう。それしか経っていないのか。
ミスィズ・ギルバート(庭へ通じる扉のところで。)ほらあなた、庭があるのよ。この庭、ここの庭なんですね?
ミリー ええ。猫の額のようなものですけど。でも、うちの人にはとてもいいものでしたわ。よく庭いじりをしたんですのよ。そうね? あなた。
アンドルー うん、なかなかいいものだ、庭は。
ミリー お部屋を御覧になります? 汚くしていますけど、許して下さいね。
ミスィズ・ギルバート いいえ、汚いだなんて・・・
ミリー(扉に進みながら。)それに今、台所、とても酷いの。夕食の用意の最中で・・・
ミスィズ・ギルバート(息を呑む程驚いて。)あら、お料理を御自分で?
ミリー ええ。私がやらなきゃならないんですのよ。この五年間、女中はおいていませんの。
ミスィズ・ギルバート まあ。お料理がおできになるなんて、素敵だわ。ピーターに食事を作ることを考えると、私怖くなってしまうんです。私の作った最初の夕食で、結婚生活が壊れてしまうんじゃないかって・・・
ギルバート 充分にあるな、その可能性は。
ミリー(ミスィズ・ギルバートを扉の外に導きながら。)この頃では私達、色々なことをしなければなりませんわ。そういう育ちをしていなくてもね。
(二人退場。)
アンドルー(ギルバートに。)あなたは御覧になりませんか?
ギルバート いや、私はそういうことは全部妻任せです。あちらがうちのボスなんです。それに、五年生の教育について、何かお聞かせ戴けると思いまして。
アンドルー どんなことをですか。
ギルバート エー・・・その・・・正直なところ、私は戦々恐々としているんです。
アンドルー そんな心配は全くいりませんよ。少しシェリーは如何ですか?
ギルバート 有難うございます。
アンドルー 連中は十五歳から十六歳の少年達です。扱うのはそんなに難しいものではありませんよ。
ギルバート 校長先生の話ですと、先生は鉄の鞭で連中を統制しておられた、と。先生のことを、「五年生を統率するヒムラー」だと言っていらしたですよ。
アンドルー ほう、私がヒムラー・・・五年生を統率するヒムラーですか。校長も大袈裟な・・・いや、あなたへの私の紹介のために大袈裟に言った・・・そう、そう願いたいですね。・・・フム、ヒムラーか・・・
ギルバート(アンドルーの反応が不可解で。)いえ、ただ、生徒達を見事に統率していたと仰りたかっただけの筈です。私はそれだけでもう、先生を尊敬しています。私のおよそ十一歳下の子供達・・・うまくやって行けるかどうか・・・連中に囲まれた自分を想像すると、身の毛がよだって来ます。
アンドルー そんなに難しいものではありません。悪い子供達ではないんです。時々はやんちゃで思い遣りのない態度に出る場面もありますが・・・とにかく悪い子供達ではない。フム、五年生を統率するヒムラーか・・・やれやれ。
ギルバート すみません。言ってはいけないことでした。私の礼儀知らずでした。
アンドルー いえいえ、どうぞお坐り下さい。
ギルバート 有難うございます。
アンドルー 私は最初の最初から自分には人に好きになって貰う勘所(かんどころ)を欠いていることに気づきました。ああ、あなたにはそれがある。
ギルバート そうでしょうか。
アンドルー ありますね。私にははっきり分る。しかし、教師にとって、人に好かれる能力は重要な要素ではない。やってみればあなたにもすぐ分るでしょうが、その能力は、人に全く好かれない能力と同様、教師にとっては危険なものです。いや、これはお説教のような話になりました。
ギルバート どうぞどうぞ、お聞きしたいです。
アンドルー 全て、私の経験からお話出来るだけです。最初の二三年、私は非常な努力をして、過去の偉大な文学の喜びを生徒達に伝えようとしました。勿論私は失敗した。あなたも失敗するでしょう。まづ千のうち九百九十九はね。しかし、残りのそのたった一つの成功が、それまでにした山のような失敗を贖(あがな)ってくれるのです。そして時々・・・実にまれなことでした、確かに・・・しかし、時々その成功があったのです。最初の頃は。
ギルバート(熱心に聞いている。)ええ、それで?
アンドルー 最初の頃はまた、私が人気の代りになるものを見つけました。話をする時の口調にちょっとした癖、或は仕掛けを拵える・・・これは教師になると誰でもやるものですが・・・それで子供達は私の話に笑ってくれるようになる。私はお陰で非常に幸せになりました。その仕掛けに磨きをかけて、ますます笑わせようと努めました。生徒達との関係はこれによりずっと楽になったのです。連中は私を人間として好いてくれませんでしたが、可笑しいことを言う奴だ、とは思ってくれたようです。そして知識は真面目さよりは笑いによって、ずっと沢山のものが教えられるのです。・・・ただ、私のはユーモアのような高級なものではありませんでした。私にはもともとユーモアのセンスは全くなかったからです。ですから、最初の頃は、私は教師としてかなりの成功を収めていたのです・・・(間。)ああ、随分個人的なことをお話して仕舞いました。当惑なさったことでしょう。お許し下さい。とにかく、五年生についての心配など全く不要です。
ギルバート(間の後。)どうやら私は、先生を酷く傷つけることを言ってしまったようです。お許し願わなければならないのはこちらの方です。本当に心からお詫び致します。
アンドルー いえ、とんでもない。私自身、当然気づいていなければならないことでした、あれは。多分自分の心の中では分っていたんでしょう。ただ、私にはそれを認める勇気がなかった。勿論私は生徒に好かれていないのは知っていました。しかしはっきりと私は嫌われていたのだと、と。今・・・それに私は、かなりもう昔から、生徒達が私の話に笑わなくなっていることに気づいていました。何故私のことを笑いの種と思わなくなったのか・・・私の病気のせいかもしれない。いや、それは違う。それよりも根が深い。そう、身体の病気のためではない。魂が病んでいるせいだ。とにかく私が、教師として全くの失敗だったことは私にでも簡単に分ることだった。しかし、馬鹿なことだ。私は生徒達に怖れられてもいたとは・・・気がつきもしなかった。五年生のヒムラーだとは! これは私の墓碑銘になるな。
(ギルバートは今や酷く当惑して、非常に落ち着かない気分。しかし黙っている。)
アンドルー(静かに笑って。)おやおや、一面識もないあなたに、こんな自分の内面をさらけ出したりして。一体私がどうなったのか見当もつかない程です。長い間誰にもこんなことは話したことがありません。多分ここでの拙(つたな)い私の教師の役を引き継いで下さるあなたという人が現れて、急にほっとしたからでしょう。もしそうだとすれば、前任者の権利として、あなたの将来を占う預言者の役割も演じることにして、言いましょう。あなたはきっと、実によい五年生の担任になられますよ。
ギルバート 有難うございます。力の及ぶ限りやって見ます。
アンドルー 煙草を差し上げたいのですが、生憎(あいにく)私はやらないものですから。
ギルバート あ、結構です。私もやりませんから。
(ミリーとミスィズ・ギルバートが玄関ホールに入ってくる声が聞こえる。)
ミスィズ・ギルバート(舞台裏で。)いろいろ見せて下さって、どうも有難うございます。
(ミリーとミスィズ・ギルバート、登場。)
アンドルー 将来の住み家に何か大きな傷でも発見されたのではありませんか? 奥さんは。
ミスィズ・ギルバート いいえ、傷など全然。ねえ、ピーター、クロッカーハリス御夫妻は湖畔の別荘地区で最初お会いになったそうよ。何ていう偶然なんでしょう。
ギルバート(少し上の空。)ああ、なるほど。するとやはり、遠足か何か?・・・
ミリー アンドルーはそうでしたの。私は歩くのはちょっと得意でなくて・・・叔父の家にいたんです。・・・サー・ウイリアム・バートップ・・・名前はお聞きになったことがおありですわね?
(ギルバート夫妻、よく聞き知っているという顔を、取繕って、する。)
ミリー ウィンダーミアーの近くに家があるんですの。かなりの大邸宅なんです。・・・年寄りですからね、一人で住むには馬鹿げている大きさですけど・・・アンドルーがそこに通りかかって、玄関をノックして、召使に水を一杯頼んだのですわ。で、叔父がお茶に誘いましたの。
ミスィズ・ギルバート 私達の出会いはそんなにロマンチックではありませんでしたわ。
ギルバート 扉を押して、これの顔を殴ってしまったんです。
ミスィズ・ギルバート 一目惚れっていうのではないですわね、これ。ホテルのスイングドアでやられてしまったんですもの。勿論この人謝りましたわ。そして・・・
ギルバート(ぶっきら棒に。)止めよう。我々の出会いの話なんて、失礼だよ。やらなくちゃならないもっと大事なことがいっぱいおありになるんだ。金が目当てで僕は君と結婚した。その一言ですむだろう。さ、もうお暇しなくちゃ。
ミスィズ・ギルバート(ミリーに。)酷いでしょう? この人。
ミリー 男の人達って、思い遣りがないの。うちのも同じよ。
ミスィズ・ギルバート では失礼します、ミスター・クロッカーハリス。
アンドルー(お辞儀。)さようなら。
ミスィズ・ギルバート(ミリーと退場しながら。)食堂の模様替えのこと、参考になりましたわ・・・もし出来ましたら、私・・・
(ミリーとミスィズ・ギルバート、退場。その時までにギルバート、アンドルーに別れを告げるために少しぐずぐずしていたが、ここで。)
ギルバート では、私はこれで。
アンドルー アー、さっきの私の話だが、どうかご内分に・・・
ギルバート 勿論です。私をそんな人間だと、どうかお思いにならないで。
アンドルー あなたに気まづい思いをさせてしまって、申し訳ない。私はどうかしていたんです。ちょっとこのところ、身体の具合が悪くて。さようなら。どうかお達者で。
ギルバート 有難うございます。ご幸運を祈ります、次のお仕事での。
アンドルー 次の仕事? ああ、有難う。
ギルバート ではこれで失礼致します。
(ギルバート退場。)
(玄関ホールで三人の挨拶が聞こえる。玄関の扉が閉まると、その声止む。ミリー登場。)
ミリー 素敵な二人。
アンドルー そうだね。
ミリー 教師の素質あるわ、あの人。生徒達ともうまくやって行くんじゃない?
アンドルー 私もそう思っていた。
ミリー でも、たいした職業じゃないわね、教師なんて・・・あんな有望な若者なのに。
アンドルー 君はそう思うだろうね。
ミリー でも、賭けてもいいわ。あの人ががここを去る時は、必ず年金つきよ。薔薇、薔薇、薔薇の花道。涙と万歳のお別れ。「グッバイ・ミスター・チップス」ね。
アンドルー そうだろうね。
ミリー あなた、どうしたの?
アンドルー どうもしないよ。
ミリー また心臓の発作じゃないの? 酷い顔色よ。
アンドルー 私は大丈夫だ。
ミリー(無関心に。)自分のことは自分で一番よく分っているでしょう。薬はそこにあるし、必要なら飲むのね。
(ミリー退場。)
(一人残されてアンドルー、今まで読むふりをしていた教科書に、そのままじっと目を向けている。それから片手を目に当てる。)
(扉にノックの音。)
アンドルー どうぞ。
(タプロウ、衝立の後ろから、おづおづと登場。)
アンドルー(鋭く。)君か、タプロウ。何の用だね。
タプロウ 用はないんです。
アンドルー 用はないとはどういうことだ。
タプロウ(おづおづと。)僕はただ、さよならを言おうと思って・・・
アンドルー ああ。(立上る。)
タプロウ 校長先生のために僕、チャンスがなくて。ただ飛び出してしまったものですから。ちゃんと戻って「御多幸を」って言おうと思って・・・
アンドルー 有難う、タプロウ。それは優しい。
タプロウ 僕・・・これ・・・これに興味を持って下さるんじゃないかと思って・・・(アンドルーの手に小さな本を素早く差し出す。)
アンドルー 何だね? これは。
タプロウ アガメムノーンの韻文訳です。ブラウニング訳です。そんなに良い出来ではありませんが、僕、礼拝堂の庭で今読んでいたんです。
(アンドルー、非常に注意深く、本の頁を捲る。)
アンドルー うん、面白いね、タプロウ。(話すのが少し難しい。咳ばらいをし、それからいつもの、抑揚のない優しい声で。)勿論この翻訳のことは知っている。欠点も確かにある。しかし、彼の韻の使い方に慣れると、充分に楽しめる本だ。
(タプロウに本を返そうとする。タプロウ、慌ててそれを押し返す。)
タプロウ 先生に、なんです。
アンドルー 私に?
タプロウ ええ。中に僕、書いておきました。
(アンドルー、見開きを開け、そこに書かれているものを見る。)
アンドルー 君、これを自分で買ったのかね?
タプロウ はい。古本なんです。
アンドルー こんなことに君の小遣を使うものじゃないよ。
タプロウ いいんです。安いんですから。価格がまだ残ってはいないでしょうね?
(アンドルー、眼鏡を注意深く拭き、再びかける。)
アンドルー(やっと。)いや、君の書いたものだけだ。他には何もない。
タプロウ 良かった。でも、先生がもう持っていらっしゃっるのでは残念だったです。きっと先生は面白いと・・・
アンドルー いや、持ってはいない。一度は手に入れたことがあった。よく覚えていないが・・・ただ、今は持っていない。
タプロウ じゃ、良かったんだ。
(アンドルー、見開きに書かれたタプロウの記述をじっと見ている。)
タプロウ(間違っているかと心配して。)どこか、いけませんでしたか? 先生。「エウメノース」のアクセントの付け方、間違っていますか?
アンドルー いや。語尾のアクセント。正しくついている。
(アンドルー、本を下ろす。眼鏡を外す。その時非常な努力を伴い、両手が震える。観客にそれが分る。)
アンドルー タプロウ、すまないが、そこの薬瓶を取ってくれないか。君がさっき買って来てくれたやつだ。そして洗面所に行って、グラスに一回分注いで、持って来て欲しい。
タプロウ(何か具合が悪いらしいと感じて。)はい、先生。
(アンドルー、テーブルの傍の自分の椅子に坐る。)
アンドルー 一回分は瓶に印がついている。普通私は少し水で薄めるんだ。
タプロウ はい、先生。
(タプロウ、瓶を取り、慌てて洗面所に行く。)
(タプロウがいなくなるやアンドルー、抑えていた感情が一気に緩み、啜り泣き始める。暫く経ち、絶望的な努力でやっと自分を抑える。しかしタプロウが戻って来た時、その感情を隠しきれていない。)
アンドルー(グラスを受取って。)有難う。(タプロウに背を向けて、薬を飲む。やっと。)君にこんな醜態を見せて、実にすまないタプロウ。最近、心労が続いて、そのためなのだ。
タプロウ ええ、そうだと思います。分ります。
(庭に通じる扉にノックの音。)
アンドルー どうぞ。
(フランク登場。)
フランク ああ、失礼。もう終っている頃だと思って・・・
アンドルー どうぞ、ハンター。入ってくれ。もういいんだ。授業はもう大分前に終っている。タプロウはさよならを言うために親切にも戻って来てくれたのだ。
(フランク、タプロウの何か驚いたような表情とアンドルーの半べそをかいた顔を不思議そうに見て。)
フランク 本当にお邪魔じゃないんですか?
アンドルー いや、どうか入って。この本を見てくれ、ハンター。今、タプロウが私にくれたものなんだ。(ハンターに渡す。)ロバート・ブラウニングのアガメムノーンの翻訳だ。タプロウが見開きに書いてくれた献辞が見えるか?
フランク ええ。でも私にはこれは無理です。ギリシャ語は読めませんから。
アンドルー ではタプロウ、我々は彼のために訳をつけるとしよう。(暗記している。)「トン・クラトゥーンタ・マルタコース・テオス・プロソーテン・エウメノース・プロスデルケタイ」大雑把に訳すと、「神は遠くから慈悲深く、優しい教師を見守っている。」アガメムノーンがクリュタイムネーストラに言う台詞の一つだ。
フランク なるほど。気持のよい献辞ですね。実に適切だ。(本をアンドルーに返す。)
アンドルー うん、確かに気持がいい。しかし、適切ではないかもしれない。
(アンドルー、再び感情がこみ上げて来そうになり、二人に素早く背を向ける。フランク、呆気に取られているタプロウに、頭で「早く出ろ」と合図する。タプロウ、頷く。)
タプロウ さようなら、クロッカーハリス先生。どうぞお幸せに。
アンドルー さようなら、タプロウ。それから、どうも有難う。
(タプロウ、素早く退場。)
(フランク、アンドルーの背中を当惑と同情の籠った目で眺めている。)
アンドルー(やっと振り返って、少し動揺から恢復して。)全く、私としたことが、生徒の前であんな姿を見せてしまって。それに、君の前でもだ、ハンター。私のことを君がどう思っているか、全く恥ずかしいよ。
フランク そんなこと・・・何を仰います。
アンドルー 君も知っての通り、私は感情に溺れ易い人間ではないんだが、タプロウの行為には何かひどく優しくて、心打つものがあった。それも丁度私がヒ・・・(「ヒムラーと言われていたと知った時に」と言おうとして止める。それから、手の中にある本を見て。)嬉しいね、こういうものを貰うなんていうのは。
フランク 嬉しいです。
アンドルー あの、ギリシャ語の引用は、勿論彼一人の力で見つけたんじゃない。先日あの台詞について、授業でちょっとした冗談を言ったんだ。しかし彼はそれをとにかく覚えてくれていて、すぐに捜せたのだ。・・・ひょっとすると、本気でそう思っていてくれたかもしれない。
フランク ええ、勿論です。そうでなければ書きはしません。
(ミリー登場。)
ミリー ああフランク、時間通り来てくれたのね。(薬の瓶とグラスをテーブルから取り上げ、横の方に置く。フランクに。)煙草を下さらない? 一時間前から欲しくてたまらなくって・・・
(フランク、自分の箱を取り出す。ミリー、一本取る。フランク、火をつけてやる。)
フランク 先生は丁度今、素敵なプレゼントを贈って貰ったところなんです。
ミリー あら、誰から?
フランク タプロウです。
ミリー(微笑む。)ああ、タプロウ。見せて。(アンドルーから本を受取る。)
アンドルー 自分の小遣で買ってくれたんだよ、ミリー。それに、優しい献辞をしてくれた。本に。
フランク 神は遠くから優しく慈悲深い教師を見守っている。
アンドルー いや、慈悲深い教師ではない。・・・多分、・・・「トン・クラトゥーンタ・マルタコース・・・」そう、「優しい教師」の方がいい訳だな。今の私には、どんなものよりもこの本に勝る贈物はない。
(間。ミリー、突然ゲラゲラっと笑う。)
ミリー やるものだわね、なかなか。
フランク(慌てて。)ミリー・・・
アンドルー やるものだ? 何のことだ。
(ミリー、フランクを見る。フランク、意味を込めてじっとミリーを見つめている。)
アンドルー 何がやるものなのだ、ミリー。
(ミリー、再び笑う。非常に軽く。そしてフランクからアンドルーに目を移す。)
ミリー ねえあなた、さっき私がこの部屋に入って来た時、あの子は丁度フランクに、あなたの口真似をやっていたところだったわ。あの子、私があなたに話すんじゃないかと思って、戦々恐々だったのよ。もうこれで卒業も駄目だと思って。数シリング張り込んであなたに取繕いの贈物をしたって、あの子を責める気にはならないわね。
(ミリー、本をアンドルーに返す。アンドルー、本をじっと見て立っている。)
アンドルー(やっと。頷いて。)なるほど。(本を静かにテーブルの上に置いて、扉の方に進む。)
ミリー どこに行くの? あなた。もう食事の用意は出来ているのよ。
アンドルー ちょっとだけ私の部屋に。すぐに戻って来る。
(薬の瓶とグラスを取る。)
ミリー 今一回分飲んだばかりでしょう? もう一回分をすぐ飲むのは、私なら止めますけど。
アンドルー 一度に二回分までは許されているからね。
ミリー じゃ、二回分を越えないように。いいわね?
(アンドルー、扉のところで一瞬ミリーの目を見る。それから静かに退場。)
(ミリー、振り返ってフランクを見る。半分、挑戦的に、半分、恥じて。)
フランク(声に心からの嫌悪を込めて。)ミリー、何てことをするんだ! 君は。
ミリー あら、どうして? あの人なら、騙されたままいい気になっている権利があるっていうの? 私にはそんなものはないのよ。
フランク(近寄って。)よく聞くんだ、ミリー。今すぐあの人の部屋に行って、あれは嘘だったって言うんだ。
ミリー 勿論行かないわ。嘘じゃないんですからね。
フランク 君が行かないなら、僕が行く。
ミリー 私があなたなら行かないわね。事態は悪化するだけよ。あの人はあなたを信じないわ。
フランク(扉の方に進みながら。)やってみなきゃ、分らない。
ミリー おやりなさい。やってみることね。あの人は、私が嘘を言っていないことを知っているわ。私があの人に話したことが本当だと分っているの。あなたの同情を好まないわ。あなたもあの人のことを笑っていると思うわね。タプロウと同じように。
(フランク、扉のところで迷う。それからゆっくりと部屋に戻って来る。)
(ミリー、フランクをじっと見る。少し怖れている。)
フランク(やっと。)僕らは終りだ、ミリー。・・・君と僕は。
ミリー(笑う。)フランク! 何て話! 馬鹿なこと、言わないで。
フランク 馬鹿じゃない。これは本気だ。
ミリー(軽い調子で。)そうね、本気ね。勿論本気なのね。さあ、坐りましょう。少し落ち着いて。あんなやんちゃ坊主のことなんか、忘れましょう。それに、五シリングの贈物のことなんか。そして私に話をして。
(ミリー、フランクの腕に触る。フランク、それをさっと避ける。)
フランク 忘れる? 忘れるものか。僕が百歳まで生きたとしても。君は今、僕にちらりと見せたんだ。君の正体をね。
ミリー フランク、あなた間違っているわ。私のほんのちょっとした態度を見て、それで勝手に、私の酷い肖像画を拵えてしまっているのよ。
フランク 勿論そうだ。しかし、僕の心の中で作り上げた君の肖像画はあまりにも恐ろしい。そして、その元になった君の正体を現したあの言葉、その二つとも忘れてしまいたい。しかし、とても忘れることは出来ない。永久にだ。ミリー・・・この瞬間から、君と僕はもうお仕舞だ。
ミリー(静かに。)私を脅そうとしても駄目よ、フランク。あなた、私から逃げたいんでしょうけど、逃げられはしないわ。
フランク(静かに。)これは脅しじゃない、ミリー。僕はただ、本当のことを言っているんだ。僕はブラッドフォードには行かない。
ミリー(間の後。強がりを見せて。)そう。いいわ。あなたがそういう気持なら、ブラッドフォードに来なくても。
フランク よし、じゃ決りだ。さて、君は部屋に行って、あの人の面倒をみて上げて。僕は失礼する。
(ミリー、フランクに駆け寄り、止める。)
ミリー どうしたの、フランク。私、分らない。本当に分らない。私が何をしたっていうの?
フランク 何をしたかは分っている筈だ。さあ、行って。あの人の面倒を。
ミリー 面倒を? 何なの? 今になって急にあの人のことを心配するなんて。
フランク あの人は酷く傷ついている。本当に、とてつもなく傷ついている。そして、病気で興奮状態にある。だから君が行ってその状況をみて上げるんだ。
ミリー(軽蔑をこめて。)傷ついている? あの人が? 傷つくもんですか。あの人は死んでいる人間なのよ。
フランク 何故そんなにあの人を嫌うんです。
ミリー あなたに会えないのが、あの人のせいだからよ。
フランク それは違っている。
ミリー 言ったでしょう? あの人は死んでいるから。
フランク 違う。あの人は生きている。
ミリー あの人について、よくそんな立派なことが言えるわね。六箇月も平気で騙しておいて。
フランク 六箇月のうち、騙したのは二回です・・・そちらからの急な要請があって・・・
(ミリー、フランクの顔を殴る。怒りの急な爆発。)
フランク 有難う。殴られて当然なんだ。いや、もっと酷いことをされても、僕には当然なんだ。
ミリー(フランクに駆け寄って。)許して、フランク・・・そんなつもりじゃなかった・・・
フランク(静かに。)君にもう、打ち明けた方がよさそうだ、ミリー。早晩この時が来ることになっていた。僕はねミリー、君を愛したことは一度もない。愛しているって、僕は一度も言ったことはないんだ。
ミリー 分っているわ、フランク。分ってる。・・・私、それに甘んじて来たわ。
フランク さっき言ったね、「私から逃げたいんでしょう」って。そう。僕は君から逃げようとしていたんだ。
ミリー それも知っていたわ。
フランク だけど、ブラッドフォードには行くつもりだった。そこを最後にしようと思っていた。僕はブラッドフォードでそのことを言う予定にしていたんだ。
ミリー 予定でも、駄目だったわ。言えなかった筈。もう以前に何度もあなたは、それを言おうとしてきた。でも私、なんとか言わせないでここまで来たの。きっと今度も駄目だった筈。
フランク(静かに。)いやミリー、今度だけは違っていたな。
ミリー フランク、私、あなたがどんなに私を辱(はづかし)めても平気。あなたが私のことを人間としては三文の値打もないものと見ているのは知っているの。ずっと分っていたの。あなたが私を、女として好いていてくれさえすれば、そして・・・好いてくれているんでしょう? ね? フランク。ね? 女としては・・・
(フランク、黙っている。)
ミリー ブラッドフォードでは大丈夫。ね、きっと大丈夫よ。あそこでなら・・・
フランク 僕はブラッドフォードには行かないんだ、ミリー。
(扉がゆっくりと開き、アンドルー登場。薬の瓶を持っている。瓶をミリーに渡し、テーブルに進む。ミリー、すぐ瓶を光に当てて、透かして見る。アンドルー、振り返ってそれを見る。)
アンドルー(優しく。)もうお前にも分っていい頃だよ。私が薬の飲み過ぎなどする訳がないってことをね。
(ミリー、一言も言わず、瓶を置き、退場。)
(アンドルー、奥にある食器戸棚に行き、シェリーのデカンターとグラスを取る。)
フランク 残念ですが、私は夕食はご一緒しません。
アンドルー そう? それは残念だね。シェリーを一杯、どうかな?
フランク いいえ、結構です。
アンドルー 私は失礼して、一杯やりますが。
フランク どうぞ。
(アンドルー、自分のグラスに注ぐ。)
フランク あれから、私は考えたんですが・・・
(アンドルー、フランクのグラスにも注ぐ。)
フランク タプロウのことをです。
アンドルー ああ。何を?
フランク タプロウが先生の真似をしていたというのは本当です。でも一番いけないのは、この僕なんです。本当に申し訳ないと思っています。
アンドルー そんなことはいいんだ。彼の真似はうまかったのかね?
フランク いいえ。
アンドルー うまかったら良かったのに。生徒達は、真似が非常に巧妙なものだからね。
フランク 勿論その前に先生の話が出たんです。彼は言っていました。・・・多分信じては下さらないと思いますが。でも、お話しなければと思って・・・彼は言ったんです。先生のことが大変好きだと。
(アンドルー、微かに微笑む。)
アンドルー ああ、そう。
フランク 私は非常にはっきりと彼の言った通りの言葉を覚えています。「あの先生は心を開いて来る人間を寄せ付けまいと努めている。でも、そんな人なんですけど、僕は何故かあの先生が好きなんです。好きでたまらないんです」(軽い調子で。)お分りでしょう? ですから、あの本は、ただの・・・ただの取繕いの贈物なんかとは違うんです。
アンドルー 本だって?(本を取り上げる。)おやおや! たかが本一冊で大騒ぎをするものだ。それもたいした本でもありはしない。(テーブルにそれを落す。)
フランク 私の言ったことを信じて戴きたいのですけれど。
アンドルー フム。君は信じて貰いたいと思うかもしれない。しかし、私はタプロウの私の性格に関する味方などには興味がないのだ。そしてもっと言えば、君の私に対する見方にもだ。
フランク(取り付く島なし、という気持。)でも、とにかくあの本はとってお置きになるべきだと思います。必ず何かの思い出になる筈です。
アンドルー その通り。タプロウが今、この瞬間に、寮で仲間の連中を喜ばせている話を、この本を見る度に思い出すことになるさ。「クロックの奴に俺は本を贈ったんだ。買収さ。そうしたらあいつ、泣きやがった。クロックの奴が泣いたんだぜ。俺はその場に居合わせたんだ。俺は見たんだ。クロックの奴、泣いたんだぜ。」私の真似はタプロウのに較べるとうまくない。これは御勘弁願おう。さあ、この馬鹿げた話は止めにして、もっと楽しいことを話そうじゃないか。このシェリーはどうだね? この間ロンドンに行った時求めたものなんだが・・・
フランク もしタプロウが、今のような話を一言でも誰かに話したら、私はあいつを殺してやります。あいつはそんなことはしません。もしそんなことをするとお思いなら、あの男に対する侮辱です。そして、私に対する侮辱でもあります。(シェリーを一気に飲み干す。)私はこれで。
アンドルー ああ、もう帰るのかね? では、さようなら、フランク。
(アンドルー、立上りもしないし、握手の手も差し伸べない。フランク、窓のところへ行く。)
フランク 多分先生には、これ以後お会いすることは決してないと思います。それで一つ、先生にご忠告をしたいのです。
アンドルー(礼儀正しく。)そうですか。どうぞ。
フランク 奥さんとお別れになることです。
(間。アンドルー、シェリーを啜る。)
アンドルー(やっと。)私の妻との逢引を、もっと楽にしようというつもりなのかね?
(フランク、アンドルーを見つめる。それから部屋に戻って来る。)
フランク いつからご存じだったのです。
アンドルー 最初の最初から。
フランク どうやって見つけたのです。
アンドルー 人が教えてくれたからね。
フランク 誰がです。
アンドルー その人間の言葉を疑う訳には行かない人物の口からだ。
(間。)
フランク(ゆっくりと。おぞましいという気持で。)まさか。それはあまりに酷い。考えられない。
アンドルー 考えられない程酷いという事柄は、世の中にはないんだ、ハンター。事実を正視出来るかどうか、それだけのことだ。
フランク あの人は嘘を言ったのかも知れません。嘘を言ったという事実を正視したこともおありなんでしょう?
アンドルー あれは決して嘘を言わない。この二十年間、私にはただの一度も嘘は言わなかった。いつでも真実だ。
フランク 私とのことは嘘です。
アンドルー いや、違うんだ、ハンター君。では、その日付を言うことにしようか。
フランク(まだ信じられず。)じゃ、もう六箇月前に、あなたに話しているということなのですか?
アンドルー 七・・・箇月前・・・じゃなかったかな?
フランク(自棄(やけ)になって。)じゃ、どうして僕がお宅に来るのを、そのまま放置しておいたのです。どうして、何か手をおうちにならなかったのです。理事会に訴えるとか・・・私に怒鳴るとか、ぶん殴るとか・・・何かを。
アンドルー 君をぶん殴る?
フランク 夕食に招待などする必要はないのです。
アンドルー ねえハンター君、過去二十年間、夕食の招待の時に、毎回そのような下らない考慮を払わねばならなかったとすれば、どの教師をよび、どの教師をよぶべきでないか、酷くこんがらがった話になって、とても覚えきれなかったろうね。分るだろう? ハンター。君が最初の人間だと、自惚れてはいけない。君の得ている情報より、私の情報の方がずっとずっと正確なのだ。折り紙つきなんだからね、何しろ。
(間。)
フランク あの人は悪魔だ。
アンドルー それは酷い渾名だね。苟(いやしく)も君が結婚を申し込んだ婦人にそういう渾名をつけるのは親切とは言えない。
フランク そんなことまで話したんですか。
アンドルー あれは誠実な妻だ。私にみんな話す。
フランク 誠実・・・それは少なくとも嘘です。
アンドルー あれは決して嘘をつかない。
フランク それも嘘です。じゃ、本当のことを言いましょう。真実に耐えられますか? 先生は。
アンドルー 私は何事にも耐えられる。
フランク 私はあのことを、自分の弱さから、無知から、愚鈍な馬鹿さ加減から、やったのです。それも冷静そのもので。私は恥じています、心から。でも、もう御存知だったのだと知って、ほっとしています。勿論、あの人の口からではなく、それは私の口から是非ともやって置きたかった。私は許しを乞おうとは思いません。正直な、本当に正直なところを言いましょう。あの人は私に、今まで一度だって、何の感情も呼び起こしたことはない。本当にこれっぱかりもです。ただ、十分程前、初めて、本当に初めて、私にある感情を呼び起すことに成功しました。・・・強い、激烈な嫌悪感です。
アンドルー これはこれは。随分と騎士道精神溢れるお言葉ですね。
フランク 何が騎士道だ、クロック! お願いです。離婚の禁止などという掟は忘れるんです。あの人と別れるんです。それしか生きる道はない!
アンドルー あれは私の妻なんだよ、ハンター。君はそれを忘れているようだね。あれが私の妻であることを望んでいる限り、あれはその地位に留まっていられるのだ。
フランク いつか殺されるようなことになりますよ。
アンドルー ねえ、ハンター君。今では君にだって分っている筈だよ。もしあれの目的がそこにあったとしたら、もうとっくの昔にやっていただろうと。
フランク じゃ、どうして別れないんですか。
アンドルー 私があれに対して行った重大な過ちを、また誰かが繰り返すようなことがあってはならないからだ。
フランク 何ですか、あの人に対してやった過ちとは。
アンドルー あれと結婚したことだ。
(間。フランク、黙ってアンドルーを見る。)
アンドルー なあ、分るだろう? ハンター君。あれは私と同様に哀れむべき人間なのだ。君の顕微鏡で詳しく観察するには、我々夫婦は、良い材料だ。お互いに相手から何かの支えを必要としている。この人生を何とか切り抜けて行くために。しかしそれが、どちらにも与えられない。違った種類の愛情だからだ。あれが私に要求する愛と、私があれに要求する愛がだ。今では私にはよく分っている。世界が違うのだ。あれと結婚した時には、その二つがそれ程相い入れないものだとは気づかなかった。つまりあの頃は、あれの愛・・・あれが要求し、私がそれに応えることの出来ない種類の愛・・・が、そんなに重要なものであるとは思っていなかったのだ。つまりそれが実現しない場合には、私の愛・・・私が要求し、そして私は愚劣にも当時、あれの愛よりはずっと大きな愛であると信じていたものだが・・・その私の愛を破滅させるほど重要なものだとは思ってもいなかったのだ。私は有数のギリシャ・ローマ文学の学者になる筈だった。しかし哀れにも、人生とは何かについて全く無知だった。勿論今では以前よりは分っている。我々夫婦の間で、本来互いに相手に対して持っていてやらねばならない愛情が、憎悪に変ってしまったのだ。そこに問題の全てがある。別にひどく珍しいことではない。いや、君がどうやら思っているらしい悲劇でもない。満たされない妻と、尻に敷かれた亭主・・・ありふれた夫婦の関係だ。世界中どこにでもころがっている。これはもともと、茶番劇の題材だ。さて君はもう、帰ると言っていたね。お引き留めするのは悪い。どうぞ行ってくれ。
(アンドルー、フランクにわざと背を向ける。フランク、出て行こうとしない。)
フランク ブラッドフォードにはいらっしゃらないことです。ここにいらした方がいいです。新しい仕事が始まるまで。
アンドルー 君の忠告には、私は何の興味もないと、さっき言ったばかりだ。
フランク 別れるんです。それが唯一の道です。
アンドルー(激烈に。)もう、出て行くんだ!
フランク 分りました。ではちゃんと私に、別れの挨拶を言って下さい。お願いです。もう二度とお会いすることはないでしょうから。
(アンドルー、立上る。ゆっくりとフランクに近づく。)
フランク 私の同情は不要だということは分りました。しかし何とか、お力になりたいのです。
アンドルー 君のその親切心の表明で、私が、タプロウにさっきやった恥ずべき感情の吐露を、再び見せると思ったら間違いだ。あれは二度と起らない。あの本を見て私が起したヒステリー状態は、単なる精神の条件反射によるものだ。死んだ身体にも起る筋肉痙攣だ。もう起ることはない。
フランク 死んだ身体も生き返るんです。
アンドルー 私は奇跡を信じない。
フランク そうですか。不思議ですね。私は科学者ですが、信じます。
アンドルー 君の信仰は感動的だ。私にそれを感動する力があればの話だが。
フランク その力はおありになります。(間の後。)その予備学校に先生をお訪ねしたいのですが。
アンドルー それは馬鹿げた提案だね。
フランク ええ、少し。でもとにかくお訊ねしたいのです。いいですか?
アンドルー 勿論駄目だ。
フランク 新学期は九月一日に始まるのでしたね? 確か。
アンドルー 子供じみている、そんな考えは。
フランク 第二週目くらいに行けると思います。
アンドルー 君は死ぬほど退屈する筈だ。多分私の方もそうだろう。
フランク(ポケットカレンダーを見て。)では十二日の月曜日に・・・
アンドルー(両手が再び震え始める。)ハンター、勝手に喋るのは構わんが、もう行ってくれ。・・・頼む、もう行ってくれ。
フランク(手帳に書きとめる。アンドルーの方を見ずに。)では決りました。九月十二日月曜日に。覚えていて下さいますね?
アンドルー(間の後。喋るのがやっとの状態。)君が覚えている程度には私も覚えているだろうよ。
フランク じゃ、これで決まりです。(ポケットの中に手帳を入れ、片手を差し出す。)では、その時まで。これで失礼します。
(アンドルー、躊躇(ためら)った後、握手する。)
アンドルー さようなら。
フランク 庭を通って出ていいですか?
アンドルー(頷いて。)どうぞ。
フランク タプロウに一言話すことがあるんです。ところで先生からの言葉をあいつに伝えたいんですが・・・
アンドルー 何をだね。
フランク 卒業出来るのですか? あいつは。
アンドルー 出来る。
フランク 話してもいいですか? あいつに。
アンドルー 規則に外れるね。・・・うん、いい。
フランク 分りました。(振り返り、去ろうとする。また振り返って。)ああ、ところで予備学校の住所をお聞きしておいた方が・・・(手帳を取り出し、鉛筆で書き留める用意をする。)
(ミリー、盆と皿、それに食器を運んで登場。テーブルに置き始める。)
ミリー 夕食の用意が出来たわ。あなた、食べて行くわね? フランク。
フランク(礼儀正しく。)いいえ。残念ながら。(アンドルーに。)住所は?
アンドルー(ひどく躊躇った後。)オールド・ディーナリー、マルコーム、ドーセット。
フランク 手紙を出します。汽車の時間を教えて下されば有難いです。(ミリーに。)さようなら。(アンドルーに。)失礼します。
(フランク退場。)
(ミリー、暫く沈黙。それから笑う。)
ミリー 全くお笑いね。
アンドルー 何が。
ミリー あなたがあの人を招待するなんて。
アンドルー 私が招待したんじゃない。あちらが来ると言ったんだ。
ミリー あの人はブラッドフォードに来るのよ。
アンドルー うん、覚えている。君はそう言っていた。
(ミリー、アンドルーに寄り添うように近づく。)
ミリー あの人はブラッドフォードに来るの。あなたのところには来ません。
アンドルー まあ、一番あり得るのは、二人のうち、どちらの方にも来ないということだね。さ、食事にしようか。
ミリー あの人はブラッドフォードに来るの。
アンドルー そうかもしれないね。ああ、ところで、私はブラッドフォードには行かないからね。ここに暫くいて、それから直接ドーセットに行く。
ミリー(関心なく。)どうぞご勝手に。私、ドーセットに行くかどうか、決めていないわよ。いいのね?
アンドルー いいよ。
ミリー 来るかもしれないなんて、期待されては困るわ。
アンドルー 期待? 我々二人の間で、相手から何かを期待する権利など、もうないんじゃないのか?
(電話、鳴り始める。)
アンドルー 私にはないね。失礼。(受話器を取る。)もしもし・・・はい、校長先生。・・・時間割ですか?・・・ああ、それは簡単です。Bのカテゴリーに入っているクラスは火曜日に十分休憩を取って、水曜日には十五分休憩を取る。その反対にCのカテゴリーに入っているクラスは、火曜日に十五分休憩、水曜日に十分休憩となります。表の見方のところに充分な説明をしておいた筈ですが・・・ああ、そうですか。・・・いえいえ、そう言って戴くと恐縮です。・・・ええ、それでうまく行く筈です。・・・ああ、ついでで悪いのですが、さっきいらして、お話下さったスピーチの件について、私は考えを変えました。やはり私の方を後にして戴きます。フレッチャーの方を始めに。最初に決められていた通りに・・・ええ、それはよく分ります。しかし、事態を少し違った角度から見てみたのです。・・・ええ、分ります。しかし時々は尻すぼみの終り方もなかなか味があるものではないかと思いまして。では失礼致します。(受話器を下ろす。そしてテーブルにつく。)さあミリー、食事にしよう。折角の夕食が冷えてはいけない。
(ミリー、ゆっくりと坐り、食事の用意を始める。)
(幕)
平成十四年(二00二年)二月十五日 訳了
http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項 又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html
The Browning Version was first produced at the Phoenix Theatre, London, on September 8th, 1948, with the following cast:
John Taplow ........ Peter Scott
Frank Hunter ....... Hector Ross
Millie Crocker-Harris ....... Mary Ellis
Andrew Crocker-Harris ....... Eric Portman
Dr. Frobisher ....... Campbell Cotts
Peter Gilbert ....... Anthony Oliver
Mrs. Gilbert ....... Henryetta Edwards
The play directed by Peter Glenville
Rattigan Plays © The Trustees of the Terence Rattigan Trust
Agent: Alan Brodie Representation Ltd 211 Piccadilly London W1V 9LD
Agent-Japan: Martyn Naylor, Naylor Hara International KK 6-7-301
Nampeidaicho Shibuya-ku Tokyo 150 tel: (03) 3463-2560
These are literal translations and are not for performance. Any application for performances of any Rattigan play in the Japanese language should be made to Naylor Hara International KK at the above address.