アダムとイヴ (四幕の劇)
                    
          ミハイール・ブルガーコフ 作
           能 美 武 功    訳
           城 田  俊   監 修

 毒ガスなんか何でもないさ、と思っている勇者達の運命はいつでも同じだった。それは死だった。                                                 「毒ガス」より

 我再び人の故(ゆゑ)に因(より)て地を詛(のろ)ふことをせじ。其(その)幼少(をさなき)時よりして悪(あし)かればなり。又我曾(かつ)て為(なし)たる如く再び諸(もろもろ)の生(いけ)る物を撃ち滅(ほろぼ)さじ。地のあらん限りは播種時(たねまきどき)、収穫時(かりいれどき)、寒熱(さむさあつさ)夏冬(なつふゆ)および日(ひる)と夜、息(やむ)ことあらじ。        
  マルキーゾフによって発見された、作者不明の本より

     登場人物
イェーヴァ・アルテーミエヴナ・ヴォイケーヴィッチ
     二十三歳
アダーム・ニコラーエヴィッチ・クラソーフスキー
      技師  二十八歳
エフロシーモフ(アレクサーンドル・イッポリートヴィッチ) 
       学士院会員(化学者) 四十一歳
ダラガーン(アンドレーイ・フョードロヴィッチ) 
飛行士 三十七歳
パーヴェル・ポーンチック・ニェパヴェーダ 
文学士 三十五歳
ザハール・セバスチヤーノヴィッチ・マルキーゾフ 
労働組合から追放された人物 三十二歳
アーニャ 女中 二十三歳
トゥーレル一
トゥーレル二  トゥーレル一のいとこ
クラーヴヂヤ・ペトローヴナ  精神科医
マーリヤ・ヴィールエス 女性の飛行士 二十八歳
ドゥ・チモネーダ 飛行士
ゼーヴァルト 飛行士
パーヴロフ 飛行士

     第 一 幕
(五月。レニングラード。二階の部屋。窓は中庭に向って開いている。小道具の中で最も注目すべきものは、天井から机の上に吊るされているランプ。これには色の濃い笠がついている。机はなかなか広く、トランプの一人遊び、ペイシェンスをするのにもってこいである。が、そんな考えはエフロシーモフが登場するやいなや、とんでもないということが、観客には分かる。マリインスキー劇場からグノーのファウストがラジオで流れてくる。中庭から時々アコーデオンの音が聞こえる。部屋の隣に玄関あり。そこに電話がある。)
 アダーム(イェーヴァをキスして。)ファウストか。いいオペラだ。・・・君、僕のこと、愛してる?
 イェーヴァ 愛してるわ。
 アダーム 今日はファウスト、明日の夜はゼリョーヌイ・ムイス行きか! 幸せだなあ。この間切符を買うために行列していたんだ。全身汗だくになってね。その時分かったんだ、人生はいいなあって。
 アーニャ(突然入ってきて。)あっ!
 アダーム アーニャ! なんだい、君! どういうことなんだ。ノックぐらいするもんだぜ。
 アーニャ アダーム・ニコラーエヴィッチ! 私、てっきり台所にいらっしゃるとばかり・・・
 アダーム 台所? 台所だって? どうして僕が台所になんかいるんだ。今、ファウストをやってるっていうのに。
(アーニャ、テーブルの上に食器を並べ始める。)
 アダーム 一と月半ゼリョーヌイ・ムイスか。いいな・・・(グラスをお手玉のように上にほうり投げて取ろうとするが、取り損ねて、割る。)
 イェーヴァ やっちゃった!
 アーニャ やっちゃった! ご自分のじゃないわ。このグラス、ダラガーンの・・・
 アダーム 買うさ。買やあいいんだ、ダラガーンに。五個でも六個でも。
 アーニャ どこでお買いになるっていうんですの。どこにもグラスなんか売ってないですわ。
 アダーム 天地がひっくり返ったような顔はよしてくれよ。政府の経済五箇年計画が終わる頃にはグラスは出来るようになるさ。そうか、アーニャ、君の言う通りだ。僕は今は台所に行ってなきゃいけなかったのかも知れない。あの黄色の靴を磨いておこうって、さっき思っていたんだからな。(退場。)
 アーニャ イェーヴァさん、私、イェーヴァさんのことうらやましい。あの人美男子、それに技師。それに共産党員!
 イェーヴァ(ねえ、アーニャ、)そう、私本当に幸せ。でも、もうちょっと・・・まあいいわ、そんなことどうだって・・・あなたそんなに結婚したいっていうんなら、結婚すればいいじゃないの。どうしてしないの。
 アーニャ 私によって来る男って、みんなやくざな人達ばかり。他の人にはいい人があたるわ。でも私には変な人ばかり。私、籖(くじ)でもそうだけど、今のあのマルキーゾフだって、酒ばっかり飲んで・・・
 イェーヴァ お酒ばかり?
 アーニャ ラクダの下着姿で歩き回って、青い鼻眼鏡なんかかけちゃって、読むものといったら「岩窟王」。いつもクービックと飲んでいる。
 イェーヴァ 確かにあの人、ちょっと不良。でも個性的じゃない。
 アーニャ 個性的! どこが個性的かしら。アコーデオンを弾くやくざ、これがあの人よ。いいえ、結婚なんかしない。先週あの人、十号室に住んでいるお役人の人がいるでしょう? あの人を殴って、労働組合から除名されたわ。それからバラノーヴァには子供を産ませて、養育費を払えっていう命令が出てるのよ。これで人生? 人生なんて言えるかしら。
 イェーヴァ そうね。そんなこと考えると、私、幸せっていうことになるのかしらね。
 アーニャ あなたが幸せ、だからダラガーンは不幸せ、
 イェーヴァ えっ? もう知ってるの? あの人。
 アーニャ 話したんですもの、私。
 イェーヴァ ひどいわ、それ、アーニャ。
 アーニャ ひどいって言ったって・・・どうせあの人、分かるに決まってますわ。今日私に訊いたんですよ、あの人。 「なあ、アーニャ、イェーヴァさん、今日アダームのところに行くんだってな。」「ええ、そうよ。そして泊まって行くの。」「何だって?」「だって今日二人は結婚したんだもの。」「ええっ?」あ、赤くなって! そりゃそうでしょうよね。このアパート中の人をその気にさせていたんですもの。
 イェーヴァ その気にさせる? いつ私が。それに、誰を。
 アーニャ いつだって。今日だってきっとそう。それからポーンチックが今日も来る。あの人にも分かるわね。
 イェーヴァ さあ、ゼリョーヌイ・ムイスへ行くの! ポーンチックなんてどうでもいい。もう一秒だってこんなところにぐずぐずしていないの。明日はもう汽車の中。素敵なワゴンの中・・・
(アーニャ、硝子の破片を片付け、退場。)
 アダーム(走って登場。)どうだい、この僕の部屋。気に入った?
 イェーヴァ まあ気にいったといった所かしら。
(アダーム、イェーヴァにキスする。)
 イェーヴァ アーニャが入って来るわ。・・・待って!
 アダーム 誰も入って来ないさ。誰も。(キス。)
(突然窓の外で怒鳴り声。マルキーゾフの声「ブルジョワの犬め!」エフロシーモフの声「乱暴な。このよたものめ!」マルキーゾフの声「なんだと。よたものとは何だ。誰のことを言ってるんだ、あ?」中庭から窓の敷居を駆け上がるようによじ登って、エフロシーモフ登場。ひどく興奮して体中が震えている。エフロシーモフは痩せていて、髭は生やしていない。興奮状態で目が霞んでいる。が、目にピカリと光るものあり。ひどく上等な背広。そのため一目で、最近外国出張から帰って来た男であることが見てとれる。また、ワイシャツが真白。これにより、この男が独身で、自分では決して着替えなどしたことがなく、彼のことを人間でなく神としてあがめているばあやのような人物がいて、アイロンをかけ、毎朝「これとこれを着て、ああして、こうして・・・」と指図していることが分かる。彼の肩からベルトで、何かカメラに似た器械が下げられている。エフロシーモフには独特の言葉の言い回しと身振りがあって、これが周囲の人々を驚かせる。)
 エフロシーモフ ちょっと失礼。失礼しますよ。
 アダーム(エエッ? これは・・・)何ですか、これは。
 エフロシーモフ 酔っ払いのよたものに襲われて・・・追っかけて来るんです。(窓の敷居から部屋に飛び降りる。)
(窓の敷居にマルキーゾフ登場。アーニャの描写通り、ラクダの下着姿で、青い鼻眼鏡。そして、暑苦しい夏の夜なのに、毛皮の襟のついた外套を着ている。)
 マルキーゾフ よたものたあ何だ。(窓から。)諸君、諸君にも聞こえたな、この俺様のことをよたものと言ったんだ、こいつは。(エフロシーモフに。)よーし、今から貴様のほっぺたをぶん殴ってやる。そうしたらお前か俺か、どっちがよたものか、はっきりすらあ。
 アダーム マルキーゾフ! 今すぐ出て行くんだ。ここは私の部屋だ。出て行け!
 マルキーゾフ こいつ、帽子を被ってるんだ、な!
 エフロシーモフ お願いです。この器械を壊そうとするんです。
 イェーヴァ 部屋から出て行って!(アダームに。)警察に電話して、すぐ。
 アーニャ(走って登場。)ザハール、またやってるの?
 マルキーゾフ ご免、アーニャ。僕は侮辱された方なんだ。侮辱した方じゃないんだ。(イェーヴァに。)警察がすぐ来て呉れるわけないだろ。超過勤務手当ても出ないのに。あいつら、労働組合員なんだぜ。
 アーニャ 出て行って、ザハール!
 マルキーゾフ 出て行きますよ。(窓から外に向かって。)おーい、ヴァセーニカ、それからクービック! 決闘の際の俺の二人の介添人! ここの出口にちゃんと立ってるんだぞ。青い背広を着た寄生虫がそこから出て行くからな。アルコール中毒のカメラ気違いがな。俺はそいつと決闘なんだ。(エフロシーモフに。)だけどな、おい、外国かぶれの伯爵さんよ。お前さん、外に出ない方が身の為だぜ。その部屋にハンモックでも吊ってな、借家人組合に同居人として登録するんだな。じゃあ、あばよ。(退場。)
 エフロシーモフ 実に残念だ。ソ連政府の要人に、是非ともこの場面を目撃して貰いたかった。我が政府はいかなる材料により、階級のない(理想の)社会を作ろうとしているのかを、この光景によってまざまざと見せてやることが出来たのに。
(窓に煉瓦のかけらが飛んで来る。)
 アダーム マルキーゾフ、止めるんだ。止めないと牢屋にぶちこんでやるぞ。
 イェーヴァ 何でしょう。やくざな人!
 エフロシーモフ 私がアルコール中毒?・・・ アル中? 酒なんかこの咽を通ったことがないんだ。本当ですよ! たしかにそりゃ、煙草は吸います。煙草はたーくさん吸いますがね。
 イェーヴァ 落ち着いて。どうか、落ち着いて! あんな奴、どうせ無教養の人物じゃないですか。
 エフロシーモフ(姿勢を正して。)大丈夫。もう私は落ち着いています。全く! 私が心配しているのはただ・・・お二人に御迷惑じゃないかと。この包囲状態はどのくらい続くんでしょうか。
 アダーム いいえ、迷惑なんて・・・ほんのちょっとの時間ですよ。決闘の介添人など、すぐいなくなります。いよいよとなれば私が適当な手段をとりましょう。
 エフロシーモフ えーと、その、ここに、透明の・・・液体の・・・例の・・・エー、水・・・は、ありませんか?
 イェーヴァ どうぞ、さあ、どうぞ。
 エフロシーモフ(十分に飲んでから。)失礼ですが、自己紹介を。私の名は・・・エー、・・・アレクサーンドル・イッポリートヴィッチ・・・あー、苗字、苗字を忘れた!
 アダーム 自分の、苗字を・・・?(お忘れに?)
 エフロシーモフ あー、こいつはひどい。何だ、くそっ、これは。苗字が出て来ないぞ。有名なんだがな、これは。エル・・・エル・・・ちょっと失礼。シアン・ブローム・・・フェニール・ディ・クロール・アールシン・・・エフロシーモフ! そう。これが私の苗字。エフロシーモフ。
 アダーム じゃあ、じゃあ、・・・失礼ですが、あなたが・・・
 エフロシーモフ そうそう。そうなんです。(水を飲む。)私がその・・・一言で言えば、化学教授、学士院会員のエフロシーモフ。あなた、異論、ありませんな。
 イェーヴァ 始めまして、光栄ですわ。
 エフロシーモフ で、お二人は? 窓から闖入(ちんにゅう)しましたが、あなた方は?
 アダーム アダーム・クラソーフスキーです。
 エフロシーモフ で、共産党員?
 アダーム ええ。
 エフロシーモフ それはいい。(イェーヴァに。)で、あなたは?
 イェーヴァ 私・・・イェーヴァ・ヴォイケーヴィッチ。
 エフロシーモフ 党員ですか?
 イェーヴァ いいえ、私は。
 エフロシーモフ 大変、大変、よろしい。待って。名前、今、何て言いました?
 イェーヴァ イェーヴァ・ヴォイケーヴィッチ。
 エフロシーモフ まさか!
 イェーヴァ 何故ですの?
 エフロシーモフ で、あなたは・・・その・・・
 イェーヴァ ええ、この人の妻ですわ。今日私達、結婚したんです。ええ、そう。そうなんです。アダームとイェーヴァ。
 エフロシーモフ ははあ、私はすぐ気がつきましたよ。それなのにお二人は私を気違い扱い・・・
 イェーヴァ 気違い! そんなこと言ってませんわ。
 エフロシーモフ 言ってなくても思ってるのが見えています。いやいや、どうか御心配なく。私は正常です。そう、私は慥に外見は・・・そう、認めます。道を歩いていても、ほら・・・小さい・・・また忘れた・・・あの、学校へ行く・・・例の・・・
 イェーヴァ 子供?
 エフロシーモフ そう、子供! 子供達、ですよ。連中が、私に口笛を吹いたり、・・・それから、ほら・・・咬む・・・赤茶色の・・・ワンワン・・・
 アダーム 犬?
 エフロシーモフ そう。犬。あれが私に飛び付いて来る。それから、あの・・・ほら・・・いつも角(かど)にいる・・・
 アダームとイェーヴァ (声を揃えて。)警察!
 エフロシーモフ そう。 警察が、私を横目でじろりと見る。しようがないから、道を歩く時にもこれらを避けて、ジグザグに。このアパートに来たのは、ブースロフ博士に会おうと思ってなんですが、あいにく不在で。「ファウスト」を聴きに行っちゃってたんです。どうかもう暫くここで休ませて下さい。私は疲労困憊して・・・
 イェーヴァ どうぞ、どうぞ。ここでブースロフさんをお待ちになればいいですわ。
 アダーム 丁度今僕達、何か食べようと思っていたところで・・・
 エフロシーモフ ああ、それは有り難い。それは御親切に。
 アダーム その、下げていらっしゃる器械・・・それはカメラですか?
 エフロシーモフ いいえ。・・・あっ、ええ、そうです。勿論カメラです。そうだ、袖すり合うも他生の縁。写真を取らせて下さい。
 イェーヴァ 私、写真は・・・
 アダーム 僕もちょっと、写真は・・・
 エフロシーモフ いいじゃないですか。ほら、坐って、坐って。いや、ちょっと待って下さいよ・・・(アダームに。)あなたの奥さん、性格のいい人?
 アダーム そりゃもう天使のように。
 エフロシーモフ それはよかった。取りましょう、取りましょう。生きて貰わなきゃ。
 アダーム(小声で。)変な男。家に引っ込んでろ。写真はいやなんだ。
 エフロシーモフ いいんですね、イェーヴァ。生きるのは。生きていた方が・・・?
 イェーヴァ 生きる方が? それは生きていたいわ、私。死ぬよりずっと。
 エフロシーモフ えらい、えらい。それはえらいです。さあ、坐って!
 アダーム(小声で。)くそっ、ひどい話だ。写真なんかお断りだ。おまけに相手は気違いじゃないか。
 イェーヴァ(小声で。)あの人、気違いじゃないわ。変わってるだけよ。化学者にはよくあるじゃないの。取って貰えばそれでいいのよ! (大きな声で。)さあ、アダーム。取って戴きましょう!
(アダーム、しぶしぶイェーヴァの隣に坐る。扉にノックの音。しかしエフロシーモフ、器械の操作中。アダームとイェーヴァもポーズのまま。扉、開いてポーンチック登場。窓には用心深くマルキーゾフが登って、顔を出している。)
 エフロシーモフ チーズ!
(器械から、目も眩むような光。)
 ポーンチック あっ。(目が眩んで、また扉の後ろに隠れる。)
 マルキーゾフ あ、何だ、これは。(窓の後ろに隠れる。)
(光、消える。)
 イェーヴァ すごいわね、このマグネシウム。
 ポーンチック(再びノックして。)アダーム、入っていいかな。
 アダーム いいよ、いいよ。入って、パーヴェル。
(ポーンチック登場。小さい男。だが小さな目はキラキラ輝く。角細工の縁のサングラス。ショートパンツ。チェックの長靴下。)
 ポーンチック おお、どうだい、大将。ああ、イェーヴァも一緒か。写真? 二人で?へっへっへ。なーるほどね。いや、こりゃ失礼。ちょっと着替えて来る。(退場。)
 イェーヴァ すみませんけど、名刺を・・・
 エフロシーモフ そりゃ勿論、勿論。でもちょっと待って、すぐ出します。
 アダーム 何て奇妙なカメラなんだ。外国製ですか? こんなの、僕は初めてだ。
(遠くで悲しそうな犬の吠え声が聞こえる。)
 エフロシーモフ(不安な声で。)犬は何を吠えているんだろう・・・ところであなた、学生? それとももうお仕事? イェーヴァ・・・
 イェーヴァ アルテーミエヴナです。(訳註 これは父称。エフロシーモフの質問の仕方が、「イェーヴァ何々」と何々を問うている言い方。日本ではここは省略か。)まだ学生ですわ。外国語学科に。
 エフロシーモフ で、あなたは? アダーム・・・
 アダーム ニコラーエヴィッチです。(訳註 これも父称。)僕は(学校は終。)技師です。
 エフロシーモフ 技師なら分かるでしょうね。簡単な化学式。そう、例えばクロロフォルムの。言ってみて下さい。
 アダーム クロロフォルム? 化学式? イェーヴァ、君、クロロフォルムの化学式、覚えてない?
 イェーヴァ 知らないわ、私。習ったことないもの。
 アダーム エー、僕は橋梁・・・橋を作るのが専門で、化学は・・・
 エフロシーモフ あ、それはもうくだらん。橋なんか、今となっちゃもう下らないものです。止めちゃうんです、橋梁なんか! こと、ここに到って、橋梁のことなんかに誰が構うっていうんですか。実際お笑いですよ・・・あなたが二年間もかけてやっと橋を作ったとしましょう。私はそれを三分でぶっこわしてみせますよ。大切な材料と年月をそんなものにかけて何になるっていうんです。いや、暑いな! それにあの犬の鳴き方、あれが気になるな。えー、実はその、私は二箇月間実験室に閉じこもりっきりでして、今日はじめて外の空気にあたったところなんです。(すみません。)だからちょっとこんな風に奇妙で・・・簡単な言葉も忘れたり・・・(笑う。)しかし西側の連中の顔が見たいよ。あいつらの鼻をあかしてやったんだからな。アダーム君、あなた、世界戦争が起こると思ってますか。
 アダーム 勿論起こるでしょう、そりゃ。だって、資本主義陣営は、共産主義陣営に対してひどく敵意を持ってるんですから。
 エフロシーモフ そう。資本主義陣営は共産主義陣営に対してひどい敵意あり。共産主義陣営は資本主義陣営に対してひどい敵意あり、か。で、橋梁エンジニア君、クロロフォルムの化学式はね、CHCL3! 戦争はおこるぞ。何故なら今日は暑いから。戦争は起こるぞ。何故なら毎日私は、「あれを見ろ。帽子を被っている奴がいる。」と言われるから。戦争は起こるぞ。何故なら、新聞を読むと、(内ポケットから二部新聞を取り出す。) 身の毛がよだってくるから。悪夢を見たような気分になるから。(新聞を指差して。)さあ、ここに何が書いてあるか。「何が何でも資本主義を倒さねばならない。」いいですか。で、あっちでは、(遠くの方を指差して。)何が書いてあるか。「何が何でも共産主義は倒さねばならない。」悪夢だ。(ほら、ここを見て。)電気椅子で黒人を処刑。ほらまた別のところ。何だ一体これはどこなんだ・・・ああ、ボンベイ州で、か。何者かによって、電報を送るための電線がズタズタに切られた。ユーゴスラビアでも死刑。スペインでも銃殺刑。ベルリンでも銃殺刑。明日はペンシルバニアでもきっと銃殺刑がある。悪夢だ! 武器を持った女が・・・君、女性だよ! ここの通りを、すぐ窓の下を歩いて、「ライフル銃、撃て、撃て、撃て・・・ブルジョワを、やっつけろ。」と歌うんだ。毎日ね。釜の下は火だ。ボウボウ燃えている。水は泡を出してきた。ポツン、ポツン、と泡だ。この水が煮えたぎってくることは、どんな盲にだって見えるじゃないか。
 アダーム ちょっとすみません、教授。エフロシーモフ教授。お言葉ですが・・・たしかに黒人の処刑、あれはまずい。それはそうですが、「ライフル銃、撃て、撃て、撃て。」は、その通りじゃないですか。教授はこの歌に反対なんですか。
 エフロシーモフ 反対です。なにしろ、通りで歌を歌うこと、それからして反対です。
 アダーム はっはっは。しかしですよ。最後に大爆発が起こる。それは必然じゃありませんか。すべてを一掃してしまう最後の大爆発・・・だってこの共産主義国家、ソ連邦には、偉大なる理想というものがあるんですからね。
 エフロシーモフ そう。偉大なる理想。それは慥にこの国にあるでしょうな。しかし問題は、この世界には別の国があって、そこにはやはり偉大なる理想が存するという点ですよ。その理想というのが、我が国民を、その偉大なる理想もろとも、一掃すべきだ、という理想なんですからね。
 アダーム なあに、今に見てろ。
 エフロシーモフ 今に見てろ、と言っても、見ていられる人間がどれだけ残っているか、心配ですね。我々すべての命は例のおじさん達に掌握されているんですから。
 イェーヴァ 例のおじさん達って?
 エフロシーモフ(秘密を打ち明けるという調子で。)奇麗好きのおじさん達ですよ。いつもシルクハットを被っている。(英訳では、「折り目のきちんとついたズボンをはいてね。」となっている。化学者のイメージを出したいところ。)本質的には連中には理想なんてまるで興味がないんです。せいぜいが、賄(まかない)のおばさんにちゃんと時間通り珈琲を出して貰いたい。この程度の理想です。好き嫌いがあまりない性質(たち)なんです。さていいですか? こういった連中のうちの一人が、自分の研究室に坐って、誰からも特に指示されるんじゃない、ただ自分の子供っぽい好奇心に任せて、馬鹿なことをやってみる気になる。試験官の中にくだらないがらくた・・・ほら、さっき言ったクロロフォルムだとか、硫酸だとか、その他もろもろ・・・そいつをほうりこんでかき混ぜる。さあ、何が出てくるか。出された珈琲を飲み干す間もなく、現われたのは死体だ。あんずのような赤黒い斑点の出た、何千もの死体が荒野に並んでいる。それをトラックで運んでは穴に埋めている。死体は全部若者だ。ね、アダーム。面白いじゃないか。理想なんてものには何の責任もない若者達なんだ。私は理想が怖い。理想はどれ一つを取ってみても、なるほどごもっとも、といったもんだ。(何の害もありゃしない。)しかし一旦それに学者おじさん達が技術で武装させたが最後・・・ いいですか、あなたにはただの理想でも、学者がそれに手を加えれば、青酸カリなんですからね!
 イェーヴァ(スタンドの光の下で、悲しそうに。)私、怖くなったわ。あなた、ガスでやられちゃうんじゃないかしら、アダーム。
 アダーム 怖がることはないよ、イェーヴァ。大丈夫だ。僕は防毒マスクをつけて立ち向かうんだ。
 エフロシーモフ 防毒マスク! 大発明なんですよ。何の役に立ちますか。帽子で顔を覆った方がましなくらいです。ねえ、君。これを表現するには、「超、大」っていう言葉しかないんです。「超、大・・・」ある人物を想像して下さい。人物・・・いや、英雄ですね。いや、普通の時は「馬鹿」・・・「超、大馬鹿」と言うべきか。その男の、物を見る時のその格好。お茶を飲む時のその姿・・・だけどやった事といったら・・・「超、大英雄」? (何と言ったらいいか、私には)わからない。夢という夢が真青になるような代物ですよ。問題はね、どんな臭いがするかっていうことです。この学者おじさんがいくら頑張っても、何かの臭いがしたんです。辛(からし)の臭い、あんず・・・時には腐ったキャベツのね。とうとう甘いゼラニウムの臭いになった。これは不吉な臭いですよ、(ゼラニウムなんて。)だから勿論、「超、大」なんかじゃない。「超、大」・・・それは実験室で何も臭わなくなった時です。音もしない。ただその効き目だけが出る。その時そのおじさんはその試験官に黒い十字の印をつける。うっかりぶっつけて壊したりしないようにね。そしてぼそりと呟くんだ。「さあ、やることはやったぞ。あとは私の仕事じゃない。理想よ、あとは好きなように羽ばたくんだ。」(囁き声で。)さあ、アダーム君、これが現在の状態だ。もう何の臭いもしない。爆発なんか、勿論しない。そして效くんだ、これが。
 イェーヴァ 私、死にたくない。どうしたらいいかしら。
 エフロシーモフ 地下です。もぐるんです! おお、人類の祖、イェーヴァ! 穴を掘って入るんです! そうだ。橋なんか作るのはやめて、地下都市建設だ。そこに住むんだ!
 イェーヴァ いやだわ、そんなこと。アダーム、すぐ行きましょう。ゼリョーヌイ・ムイスへ。
 エフロシーモフ あ、これはいけなかった。余計な恐怖感を与えてしまった。大丈夫、大丈夫です! 今の話は全部忘れて下さい。戦争は起きません。何故かっていうと、今、次から次と恐ろしい考えをお話しましたね、アダーム君まですっかり脅えてしまった・・・その成り行きをどうやっても止められないとなれば、その学者おじさんのやる事に先手をうてばいいんですよ。そう言ってくれる人物が必ず現われる筈です。だけど防毒マスクなんて駄目ですよ。そんなもの被って学者おじさんを追っかけようったって、そうはいきません。もっと強力なもの、もっとドラスチックなものを考えなきゃ。こんなやつです。(こぶしを見せる。それをもう一方の手で覆う。)これが人間の細胞です。さあ、(覆った指を動かして、指と指の間を閉める。)細胞は前と変わりゃしません。しかしその小部分の隙間がなくなるんです。いいですか。おじさんのガスは、この隙間から入ることが出来たんですからね。わからない? いいです。わからなくたって。ゼリョーヌイ・ムイスへ行けばいいんです、さっさと。さあ行ってらっしゃい、アダームとイェーヴァ。
(ダラガーン、音もなく扉のところに登場。黒い服。その服の胸一面に、銀色の夏の鳥が刺繍してある。)
 エフロシーモフ この指をこう閉める方法を発見する人物がいたらね、アダーム君、化学戦争は起こらないんだ。ということは、どんな戦争も起こり得ないということなんだ。しかしこんな発明は一体誰の手に委ねたらいいものか。それが問題だ・・・
 ダラガーン(突然。)そんな簡単な問題はありゃしないですよ、教授。ソ連邦軍事技術開発部にすぐ報告すればいいんです。
 アダーム ああ、ダラガーン。教授、こいつはアンドレーイ・ダラガーンです。
 ダラガーン こっちは知ってる。始めまして。
 アダーム それからね、ダラガーン。実はイェーヴァと僕は結婚したんだ。
 ダラガーン そいつも知ってるよ。いや、おめでとう、イェーヴァ。こっちに引っ越すんだね。お互い、隣同志になるわけだ。教授、あなたの講演を聞いたことがあるんです、私は。お偉方にした講演を。あれは「毒ガスの早期発見について」でした。素晴らしい講演でした。
 エフロシーモフ ああ、そうそう。・・・「早期発見」・・・「早期発見」なんて出来るもんですかね。
 ダラガーン この労働者団結の国家に、あなたのような科学知識の巨大なる塊(かたまり)が存在するってことを誇りに思いますよ。
 エフロシーモフ お褒めに預かって! ところであなたはどういう職におつきで?
 ダラガーン 私ですか? 空軍です。戦闘機乗りです。
 エフロシーモフ ほうほう。
 ダラガーン 教授、さっきの話ですが、化学戦争を停止させる発明が可能だと言う・・・
 エフロシーモフ はい。
 ダラガーン 大発明じゃないですか。それから、それをどこに報告したらいいかと・・・
 エフロシーモフ(額に皺をよせて。)そう。それが悩みの種で・・・戦争の悲惨さから人類を救う為にこのような発明はただちに全世界に知ってもらわねばならない。
 ダラガーン(陰気に。)何ですって?(間。)全世界に? 教授、これは一体どういう話ですか。資本主義陣営に軍事機密を、それも第一級の軍事機密を教えるって言うんですか。
 エフロシーモフ ええ。それともあなたには何か別の名案でもありますか。
 ダラガーン これは驚いた。私の名案・・・失礼ですが、教授。そんなこと、おくびにも出しちゃいけないんじゃないですか・・・一体何を考えて・・・
(アダーム、エフロシーモフの背後に立って、ダラガーンに「こいつは気違いだ。」の合図をする。)
 ダラガーン(エフロシーモフの器械を横目で眺めて。)複雑な問題。(これはおいておきましょう。)で、・・・その発明、扱いは簡単なんですか。
 エフロシーモフ まあ簡単と言えるでしょうな・・・比較的。
 ポーンチック(騒々しく登場。)やあ、同志諸君。 今日は! 今日は! ほーら、着替えてきた。イェーヴァ!
(イェーヴァの片手にキス。)
 イェーヴァ 御紹介しますわ・・・
 ポーンチック 文学者。ポーンチック・ニェパヴェーダ。
 エフロシーモフ エフロシーモフです。
(全員テーブルにつく。)
 ポーンチック 喜んで下さい、諸君! 文学界の一大ニュースですよ。レニングラードで。
 イェーヴァ 一大ニュース?
 ポーンチック 僕の小説が出版! 出版してもらえるんだ。六百頁・・・つまり・・・
 アダーム 読んでみてくれよ。
 イェーヴァ でも丁度これから食事にしようと・・・
 ポーンチック 食事中に読むよ。それでもいい、僕は。
 アダーム 文学の話題になるようなニュースが、こっちにもあるんだ、ポーンチック。僕らは結婚したんだ。
 ポーンチック どこで?
 アダーム どこでって・・・そりゃ、戸籍登録課だよ。
 ポーンチック ふーん・・・(間。)おめでとう。
 ダラガーン 教授、あなたはどこにお住まいなんですか。
 エフロシーモフ お住まい・・・えーと・・・つまり、十六番地ですが・・・茶色い建物です・・・ちょっと失礼。(手帳を取り出す。)ああ、ここだ。ここにあった。ジュコーフスキー通りです・・・やれやれ、こりゃ面倒だな。
 ダラガーン そこへ越されたの、最近なんですか。
 エフロシーモフ いえいえ。もう二年以上住んでいます。この通りにです。通りの名前を忘れて。
 イェーヴァ 誰にでもありますわ。
 ダラガーン ふーむ。
(ポーンチック、胡散くさそうにエフロシーモフを見る。)
 アダーム さあ、小説、小説!
 ポーンチック(原稿を構える。ランプの下ですぐ読む用意が出来る。読む。)「赤い緑」。長編小説。第一章。かってバリャチーンスキー公爵の農奴達が土気色の顔で畔(あぜ)を作っていた、その痩せた土地に、今は女性コルホーズ員達の(希望に満ちた)明るい頬が見えている。畔の上で声がした。「おーい、ヴァーニャ、ヴァーニャ。」
 エフロシーモフ(途中で口を挟んで。)誠にすまないが・・・質問が。一つだけ。その小説は昨日の「夕刊モスクワ」にもう載せましたか。
 ポーンチック え? 夕刊に載ってるかって? 僕は原稿を読んでるんですよ。
 エフロシーモフ ちょいとこれを。(新聞を取り出す。ポーンチックに見せる。)
 ポーンチック(新聞を見て。)ひどい奴だ。この犬野郎!
 アダーム 犬って、誰が?
 ポーンチック マーリイン・ローシチンだよ。こいつが犬野郎なんだ。ちょっと聞いてみてくれ。(新聞を読む。)かってシェレメーチェフ伯爵の、腹をすかせた農夫達が耕作していた、その痩せた畑に、今は女性コルホーズ員達が、(希望に満ちた表情で)赤いスカーフをして働いている。畔の上で声がした。「エゴールカ!」・・・畜生め!
 イェーヴァ 剽窃?
 ポーンチック どうやって写したんだ。いや、違う。あいつとは同じ農村訪問団で、あのコルホーズに行ったんだ。いつでも影みたいに僕の後にぴったりくっついていた。だからあいつは僕と全く同じものを見ているんだ。
 ダラガーン それで、その領地ってのは、昔誰のものだったんだい? シェレメーチェフ? バリャチーンスキー? どっちなんだ。
 ポーンチック ドンドゥーコフ・コールサコフのさ。
 エフロシーモフ それじゃあ、もう読者に決めて貰うしかないですね。この二つのうちどちらがいい描写か。
 ポーンチック そう・・・そうだ。二つのうちどちらがいい描写か・・・大袈裟な形容、それをまたごてごてと塗りたくる乱作家の描写か、それともこのパーヴェル・ポーンチック・ニェパヴェーダの描写か・・・
 エフロシーモフ(あっさりと。)乱作家の方だな、そりゃ。
(英訳註 慌ててアダーム、ポーンチックに酒を注ぐ。)
ポーンチック 有難う、アダーム。これはすまない。(エフロシーモフに。)モスクワで、アポローン・アキーモヴィッチが僕に個人的に言ってくれたんだ。「すごい! これはがっちりした作品だ。」とね。
 エフロシーモフ で、そのアポローン・アキーモヴィッチというのは何者ですかな。
(英訳註 またアダーム、酒を注ぐ。)
 ポーンチック(エフロシーモフに。)何?(アダームに。)あ、すまない、アダーム。これはどうも。(エフロシーモフに。)アポローンを知らない? それじゃ何も知らないんじゃないか。サヴェーリイ・サヴェーリエヴィッチだって知りはしないぞ。ひょっとすると「戦争と平和」だって読んだことがないんだ。検閲局に行ったこともないくせに、批評だけは一人前にやるんだからな・・・
 イェーヴァ パーヴェル!
 ダラガーン 同志諸君! 乾杯といこう。
(玄関に電話のベル。ダラガーン、玄関に走り出て、カーテンを引く。居間に声が聞こえなくするため。)
 ダラガーン もしもし。はっ、私です。(間。青くなる。)何ですって? 器械完成?(間。)はっ、(すぐ行動に移ります。)(受話器を置く。小声で呼ぶ。)ポーンチック、ポーンチック・ニェパヴェーダ。
 ポーンチック(玄関に出て。)何だい、一体。
 ダラガーン あいつはエフロシーモフなんだ。あの有名な化学者の。
 ポーンチック なーんだ、くそったれ。じゃ試薬の混合でも考えていりゃいいんだ。
 ダラガーン ちょっと聞くんだ、ポーンチック。僕は急用で空港へ行く。お前さんは次のことをする。いいな。まづアダームに言うんだ。どんなことがあっても教授をここから出しちゃいかんと。それから、お前さんはここを出て、例のところへ行く。例のところ、分かってるな。電話は駄目だぞ、電話は。そして説明するんだ。一つは、エフロシーモフ教授が私の推察では、軍事上実に重要な発明をしたらしい。その発明品は、カメラのような器械に作ってあって、彼の肩に掛かっている。彼はここにいる。これが一つだ。二つめは、私の見たところ、教授は精神的に不安定な状態にある。従って、とてつもない馬鹿をやらかすかも知れない。例えば国外通報あるいは国外逃亡。三つめに、すぐにしかるべき人間をここへよこして、今言ったことを確かめてほしい、と。これで全部だ。だがな、いいか、ポーンチック。万一教授がその器械を持ってここから逃げ出したりしたら、お前さんは、その責任で、軍事裁判にかかることになるんだからな。(それをしっかり頭に入れておくんだ。いいな。)
 ポーンチック 同志ダラガーン。急にそんな・・・
(扉に鋭いノックの音。)(英訳註によると、このノックはおつきの運転手が叩いている音。)
 ダラガーン(扉を開けて、ポーンチックに。)「そんな」もへちまもない。俺は行くぞ。
(軍帽を被らず退場。)
 ポーンチック 同志ダラガーン。帽子を!
 ダラガーン(扉の後ろで。)何が帽子だ。(それどころじゃないんだ。)
 ポーンチック ああ、大変だ。どうしよう。どうしよう。えらいことになったぞ。(小声で。)アダーム。アダーム!
 アダーム(玄関に出て。)何だい。
 ポーンチック いいか、アダーム。今から僕は行かなきゃならないところがある。その間工夫して、あの気違い化学者とあいつの肩に掛かっている器械がここから決して出ないようにするんだ。絶対に出しちゃいかんぞ。
 アダーム 何だ、これは。一体。
 ポーンチック あの肩に掛かっている器械はな、軍事上の大発明なんだ。俺とダラガーンが見抜いたんだ。
 アダーム 軍事上?・・・カメラじゃないか。
 ポーンチック カメラ・・・何がカメラだ。
 アダーム ははーあ。
 ポーンチック その筋の人間を連れて来るんだからな。いいか。万一不手際があったら、そのお前の首がだ、その首がとぶんだぞ! (扉に突進する。)
 アダーム(扉に向かって。)ダラガーンはどこなんだ。
 ポーンチック(扉の後ろから。)知らん。
 アダーム くそったれ。何ていう日だ、今日は。(ひどく不審な面持ちで部屋に帰る。)
 イェーヴァ ポーンチックとダラガーンは?
 アダーム 店だ。何か買うと言ってた。
 イェーヴァ 変な人。何でもここに揃ってるっていうのに。
 アダーム すぐ帰って来るさ。
(間。)
 エフロシーモフ(突然。)ああっ。大変だ。ジャック、ジャック! ああ、私はなんて馬鹿なんだ。ジャックのことを撮ってやるのをすっかり忘れていた。一番にやらなきゃいけなかったのに。ああ、神様! この頭。どうかしていたんだ。しかし、そんなに早くは起きないだろう。そんなに突然には。今すぐ、なんてことは! お願いだ、イェーヴァ。ファウスト、まだやっているだろうか。ああ、ああ、ああ。(窓に進み、窓から外を眺める。)
 アダーム(小声で、イェーヴァに。)あの人大丈夫なのかな。気違いだとは思わない?
 イェーヴァ 思わないわ。正常ね。完全に正常。
 エフロシーモフ ファウストはまだやってますか?
 イェーヴァ ちょっと待って下さい。(ラジオのスイッチをひねる。ファウストの最後の場面、大聖堂の場の曲が聞こえてくる。そして次に行進曲。)やってますわ。
 エフロシーモフ ああ、ブースロフ、ブースロフ。なんであいつ、ファウストになんか行ったんだ。
 イェーヴァ どうか落ち着いて、教授。どうなさったんですか? そんなに興奮なさると体に毒ですわ。さあ、ワインを飲んで、気を落ち着けて・・・
 エフロシーモフ 待って、待って。ああ、またあの鳴き声がする。
 アダーム(苛々して。)どうしたっていうんですか、教授。アコーデオンのせいですよ、犬が吠え出したのは。それで苛々したんです。
 エフロシーモフ 違います。それは違う。連中は今日は一日中鳴いている。ああ、心配だ。ああ、君方(きみがた)に分かったらな、この私の心配が。ブースロフを待っているか、それとも放っておいてジャックのところに今すぐ帰ってやるか。ああ、体が二つあったら・・・
 アダーム ジャックって誰なんですか。
 エフロシーモフ ああ、ジャックがいなかったら、私はこの世で独りぼっち。だって叔母なんか数にはいりませんからね。ワイシャツにアイロンをかけてはくれますが・・・ジャックは私の人生を明るくしてくれているんです。・・・(間。)ジャック、それは私が飼っている犬なんです。(あれは三年前だった。)子供が四人、小犬を引っ張って・・・笑って・・・首に縄をかけて、吊るそうと・・・吊るすのは止めてやってくれと、私は十二ルーブリ払った。今はもう大きくなって、私はあれがいなきゃ生きてゆけない。毒物を扱わない日には、私と一緒に実験室にはいる。私の傍にちょこなんと坐って、私の働きぶりを見ている。何故犬を吊るしたりするんだ・・・
 イェーヴァ 結婚なさらなくっちゃいけませんわ、教授・・・
 エフロシーモフ ああ、私は結婚なんか決してしません。犬が何故こんなにワンワン鳴いているか、分かるまでは。そうだ、さあ、教えて下さい。私はブースロフを待っていた方がいいでしょうか、それともジャックのところに今すぐ駆け付けた方が・・・
 イェーヴァ どうなさったんですか。そんなに興奮なさらないで。ジャックは無事ですわ。何も起こってはいません。神経ですわ。神経がまいってらっしゃるの。勿論ブースロフ博士をお待ちにならなければ。博士とお話になって、それから家にお帰りになるんですわ。
(呼び鈴。アダーム、扉を開けに玄関に行く。トゥーレル一、二、クラーヴディア・ペトローヴナ登場。最後に心配な顔をしながら、ポーンチック登場。)
 トゥーレル一 今日は、アダーム。君の結婚のことを知ってね。どうしてもお祝いを言いに来なきゃと思って・・・御結婚おめでとう。末永くお幸せに。
 アダーム(当惑する。トゥーレルを見たのは、生まれて初めて。)有難う・・・まあ、入って・・・
(四人、部屋に入る。)
 トゥーレル一 奥さんに紹介してくれよ。
 アダーム 妻です。(名前は)イェーヴァ・・・えー・・・
 トゥーレル一 トゥーレルです。アダームの友人。ひょっとすると、僕のことはアダームは何も言っていなかったんじゃないかな。
 イェーヴァ ええ。一言も。
 トゥーレル一 ひどい奴だ! これからは是非お近づきに。これはいとこで、名前はやはりトゥーレル。
 トゥーレル二 トゥーレルです。
 トゥーレル一 我々はね、イェーヴァ、このクラーヴディアも連れて来たんだ。紹介する。彼女も学者でね。医者なんだ。精神分析医でね。なあんだ、アダーム。君、彼女のことも、何も話してないんだろう。いや、あっぱれな友人だよ。(イェーヴァに。)招待もされていないのに上がりこんで・・・怒ってない?
 イェーヴァ いいえ、いいえ、とんでもない。アダームの友達はみんないい人ばかり。アーニャ、アーニャ!
 トゥーレル一 いえいえ、どうぞお構いなく。自分達でやりますから。このトゥーレルはそれに、こういったことのプロなんです。
 トゥーレル二 そう。客の扱いはお任せ。(持って来た包をとく。)
 イェーヴァ そんなお気を使うことはありませんでしたのに。何でもありましたわ。
(アーニャ登場。包を受け取って退場。)
 イェーヴァ ポーンチック、坐って! ダラガーンはどこに行ったのかしら。さあどうぞ、みなさん、お坐り下さい。
 クラーヴディア 暑いわ。なんて暑いんでしょう。
 イェーヴァ アダーム、紹介して・・・
 トゥーレル一 紹介って、誰を? ああ、エフロシーモフ教授ですか。そんなの不要です。教授とは顔見知りなんですよ、我々は。
 トゥーレル二 トゥーレル! 教授は君のこと、知らないって言ってるぞ。
 トゥーレル一 まさか。そんな馬鹿な。
 エフロシーモフ 失礼ですが、・・・どうも私は今頭が混乱していまして・・・本当にどなた様か、ちょっと・・・
 トゥーレル一 そんな話って・・・
 クラーヴディア ちょっと待ちなさい、トゥーレル。こんな暑さじゃあ、親戚だって見分けがつかなくなるわ!私なんて八月には必ず脳味噌が溶けちゃうの。あーあ、この八月っていう月!
 エフロシーモフ 失礼。その・・・今八月ではない筈ですが・・・
 クラーヴディア 今が八月じゃないって? ではあなたのご意見では、今は何月?
 トゥーレル一 ほーらね、クラーヴディアは暑さで頭がまいっちゃったんですよ。教授、教えてやって下さい、こいつに。今何月か。
 エフロシーモフ それはその・・・今は八月でないことは確かですが、その・・・何月かということになると・・・えー・・・
(間。)
 トゥーレル一(静かに、勿体ぶって。)今は五月ですな、ソ連では。五月なんですよ、教授。・・・(陽気に。)思いだして下さいよ、教授。去年のことです。時期も丁度五月。セストラレーツクでしたよ、あれは。教授は(未亡人の)マーリヤ・パーヴロヴナさんの別荘で休暇をとっていらっしゃいましたね。私はお隣の、ほら、コーズロフさんの別荘にいたんです。ジャックとよく水浴びにいらしたじゃありませんか。私はジャックの写真を撮ったこともありましたよ。
 エフロシーモフ ああ、そうだったな・・・慥に。マーリヤ・パーヴロヴナの別荘か・・・僕は頭がどうかしちゃったんだな、どうやら。
 トゥーレル二 ほら、その時の写真ですよ。この写真、どうも教授がぱっとしませんね。おい、見ろよ。教授のあのカメラ。すごいじゃないか。
 トゥーレル一 何言ってるんだ、トゥーレル。あれはカメラなんかじゃないんだぜ。
 トゥーレル二 何を言ってるんだ、お前は。外国製のカメラって、ああなんだぜ。(知らないのか。)
 トゥーレル一 トゥーレル!
 トゥーレル二 カメラだって言ったら・・・
 トゥーレル一 これは俺が請け合う。あれはカメラじゃない!
 トゥーレル二 カ、メ、ラ!
 エフロシーモフ トゥーレルさん、実はこの器械はカメラ・・・
 トゥーレル一 待って、待って、教授。こいつに少しは懲りたっていう目にあわせなきゃ。どうだ、おい、賭けるか。十五ルーブリ。どうだ。
 トゥーレル二 よし。十五ルーブリ。賭け、成立だ。
 トゥーレル一 さあて、教授、この器械は何ですか。カメラですか。
 エフロシーモフ 実はこれはカメラじゃなくて・・・
 イェーヴァ 何ですって!
(アーニャ登場。サイドボードから食器を取り出し、テーブルに並べ始める。ラジオからオーケストラのバックで、力強い合唱が聞こえてくる。「国家の名誉を辱めまいぞ。」(英訳では「インターナショナル」の歌とある。不明。)
 トゥーレル一 見ろ。さあ、十五ルーブリだ。少しは懲りたろう。
 トゥーレル二 お前、デクの言うことを信用するのか。
 トゥーレル一 デク? デクはお前じゃないか。
(突然犬の悲鳴が聞こえる。次に女性の号泣。)
 アーニャ(食器を落とす。)ああ、苦しい! (倒れ、死ぬ。)
(この時までに、窓の外で短い叫び声が次々に上がり、すぐに消える。アコーデオンの音も消えている。)
 トゥーレル一 あっ。(倒れ、死ぬ。)
 トゥーレル二 バグダーノフ!(訳註 トゥーレル一の本名らしい。)その器械を取れ!(倒れ、死ぬ。)
 クラーヴディア ああ、駄目! (倒れ、死ぬ。)
 ポーンチック 何だ、これは。どうしたんだ!(あとずさりする。急に走りだし、扉をばたんと閉め、部屋から飛び出す。)
(この時までにラジオの音楽、めちゃめちゃになっている。合唱の人の呻き声が聞こえていたが、今ではもうすっかり止んでいる。辺りは完全な沈黙。)
 エフロシーモフ ああ、やっぱりそうか! ジャック! (半狂乱で。)ジャック!
 アダーム(クラーヴディアに駆け寄る。顔を覗く。次にゆっくりとエフロシーモフに近づく。ものすごい表情になり。)あの器械は何なのですか。あなたが殺したんですね!(狂乱の体で。)手を貸してくれ! この男を捕まえるんだ! 器械を抑えるんだ!
 イェーヴァ アダーム! 何なの、一体!
 エフロシーモフ 馬鹿な! 止めるんだ! 頭を使いなさい、少しは! イェーヴァ、この人を放して。この気違いを!
 イェーヴァ(窓から外を見て。) ああ、どうしたんでしょう。アダーム、ほら、見て! 子供達が倒れている!
 アダーム(エフロシーモフを放し、窓に駆け寄る。)説明するんです。何ですか、あれは!
 エフロシーモフ 「あれ」?(エフロシーモフ、目はぼんやりしている。)「あれ」・・・つまり、理想ですよ。黒人を電気椅子にかけたんです。「あれ」・・・それは私の不幸。「あれ」・・・それは「ライフル銃、撃て、撃て、撃て。」です。「あれ」・・・それは戦争。「あれ」・・・それは皆殺しの毒ガスです。
 アダーム 何? よく聞こえなかったな。何だって・・・毒ガス!(イェーヴァの手をぎゅっと握る。)僕について来るんだ! 地下室だ!(イェーヴァを出口へと引っ張る。)
 イェーヴァ ああ、アダーム、私、怖い! 助けて!
 エフロシーモフ 止めなさい! 逃げることはありません。お二人はもう大丈夫なんです。もう分かってもいい頃じゃありませんか。この器械は毒ガスから身を守るものなんです。私が発明したんです! 私ですよ。この私、エフロシーモフがです! お二人は助かったんです。あ、奥さんをちゃんとさせて・・・でないと気が狂ってしまう。
 アダーム じゃあ、この人達は全部死んでる?
 エフロシーモフ 死んでいます。
 イェーヴァ アダーム、アダーム! (エフロシーモフを指差して。)この人、天才よ! 予言者よ!
 エフロシーモフ もう一度お願いします。天才? 天才? まだ誰か他に、生きている人がいるかも知れない。もう一度言って。「天才」と。
 イェーヴァ(恐怖に襲われて。)死体! 怖いわ! 助けて! 地下室! (走り退場。)
 アダーム どこへ行くんだ。待って! 待って!(イェーヴァの後を追い、退場。)
 エフロシーモフ(一人になって。)死んだか! 子供達も! 子供達もか! 大人になれたろうに。理想を持てたろうに・・・理想? どんな。小犬を吊るしたいという理想か・・・(ああ、ジャック、)お前の理想は簡単なことだったのに。誰にも悪いことをしないで、私の足元にひれ伏して、私の目を見つめる。そして腹一杯食べる、それだけだったのに。・・・どうして小犬を吊るすんだ。
(照明、ゆっくりと減じ始める。そしてレニングラードは闇となる。)
                     (幕)

     第 二 幕
(レニングラード。大きなデパート。中央に階段。その上部に巨大なガラス、下部は壊れている。店の中に電車が入り込んで、その儘になっている。運転手(女性)が死んでいる。左手に別の階段。そこに男の売り子が手にワイシャツを持った儘死んでいる。売り場で物を売っていた女の売り子が死んでいる。また出口で、立った儘死んでいる男。しかしこの四人以外には死体はない。おそらく客達は全員、通りに殺到し、通りで死んでいるのであろう。床中に、踏み潰された買い物の箱、袋、が散らばっている。大きなショーウインドウに、天国と地獄のディスプレーが見える。天国は朝の太陽に照らされた空、地獄は地上のくすぶっている火。その天国と地獄の間に煙。その煙の中に、即ち廃墟と火の上に、古代ローマの四頭立て二輪馬車が幻のように浮かんでいる。死の沈黙が真に迫って漂う。)
 イェーヴァ(通りから壊れたガラスを通ってイェーヴァ登場。着ている衣服はボロボロ。精神的にひどく参っている。通りの方を見ながら次の台詞を言う。)でもちゃんと言っておきますからね。十五分以上は一人でいるなんて絶対いや! 聞こえるわね。私、ジャックよりはまともな扱いを受けていいんじゃないかしら。思いやりだって、同情だって・・・私、人間なの、若い女なのよ! 臆病で弱い女なの。ねえ、お願い、博士、アダーム、ポーンチック! 分かったわ。何でもする。でも遠くへ行かないで。人の気配がしてないと私、怖くって・・・お願い!・・・ああ、行っちゃった。(階段に坐る。)煙草、煙草を吸わなくっちゃ・・・マッチが・・・(死んでいる男の売り子の方を見る。)マッチ! (男のポケットを探る。マッチを取り出して煙草に火をつける。)女のお客さんと喧嘩したのね、きっと。あなた、子供はいるの? ああ、そうなの・・・(棚にかけてある小さなはしごを少し登って、ワイシャツを選び始める。)
(上の方に物の落ちる音がする。ガラスの上部が割れて破片が階段に落ちる。ダラガーン、階段を上の方から走って下りて来る。全身油で汚れた制服に包まれている。制服はあちこち破れて、血がついている。胸にランプあり。 顔はできもので覆われ、髪は灰色。下りて来る時、両手で前方を探るような手付き。目が見えないのである。)
 ダラガーン 誰か! 誰か来てくれ! おい、同志達! 誰かいないか、頼む!(走って階段の下に来て倒れる。)
 イェーヴァ(我に返って、金切声を上げる。)人がいる!(両手で顔を覆う。)生きている人だわ!(通りに向かって叫ぶ。)おーい、みんな帰って来て! アダーム!まだ生きている人がいたのよ!(ダラガーンに。)今助けに来ますからね。怪我をしているんですか?
 ダラガーン 女の声か? えっ? 女か? もう少し大きな声で頼む。聞こえないんだ。
 イェーヴァ 私、女よ。そう、女よ!
 ダラガーン そうだ。近寄っちゃいけない! 俺に近寄るな! うつるぞ! 死ぬぞ!
 イェーヴァ 私、毒ガスはもう大丈夫なの!
 ダラガーン 下がれ! 下がらないと撃つぞ! ここはどこだ。
 イェーヴァ デパートよ!
 ダラガーン じゃあ、レニングラードか、ここは。
 イェーヴァ そうよ。そう。
 ダラガーン 誰か兵隊をよこしてくれ! 早く! 頼む、兵隊を!
 イェーヴァ 誰もいないの、ここには!
 ダラガーン じゃ、頼む。紙と鉛筆を! (言うことを書き取ってくれ。)
 イェーヴァ ないわ、ここには。紙も鉛筆も!
 ダラガーン くそったれ! 本当に誰もいないのか。読み書きも出来ないこの掃除女しかいないのか!
 イェーヴァ えっ? あなた、見えないの? 目が見えないの?
 ダラガーン えーい、この大馬鹿野郎! 俺は盲なんだ。盲になっちまったんだ! もうこの世が見えないんだ!
 イェーヴァ(気がついて。)ダラガーン! ダラガーンじゃないの!
 ダラガーン ああ、苦しい・・・(横になる。)毒が体に・・・
 イェーヴァ ダラガーン! ダラガーン!
 ダラガーン そうだ、ひょっとすると俺は・・・言ったろう。近づいちゃいかんと・・・いいか、あんた。聞くんだ。俺は毒にやられている。気も狂って、死ぬ一歩手前だ。ああ、(呻く。)紙と鉛筆を頼む・・・紙、鉛筆。字は書けるんだろ?
 イェーヴァ その飛行服をまづ脱がなくちゃ! 血だらけなのよ。手伝うわ!
 ダラガーン(激怒して。)ロシア語が分からないのか! 下がれ! 下がるんだ! 危険なんだ、この体は!
 イェーヴァ どうしたの、この人? アダーム、アダーム!・・・ダラガーン、あなた、私が声で分からないの?
 ダラガーン あ? 大きな声で! つんぼになってるんだ! いいか、書いてくれ。報告してくれ・・・我々爆撃機大隊は、敵のバルーン防衛線を突破し、目的地に達した。しかし味方は一機一機と落とされ、残るは我が一機となった。その間敵都市は燃え上がり、ファシストの巣は炎に包まれた。炎にだ! それから我々空軍の最大の敵、クラブのエースは、私がやっつけた。このダラガーンがやったんだ! しかしそのダラガーン自身も毒ガスにやられて目が見えなくなり、レニングラードに不時着。もはや祖国に奉仕すること不可能なり。彼は独身なり。俺は独身なんだ! 年金は祖国に寄付する。何故ならダラガーンは独り身だからだ。勲章を彼の墓の中に入れて欲しい。それから、それから次のことを頼む・・・必ず・・・捜してくれ・・・ええい、名前を忘れたぞ・・・イェーヴァだ。イェーヴァを捜してくれ。そして伝えて欲しい。ダラガーンは世界一強い男だったと! 今日の日付、時刻。参謀本部宛て。(叫ぶ。)おーい、おーい。同志諸君!(立ち上がる。両手を下り曲げて、よたよた歩く。)誰か! お慈悲だ、俺を撃ち殺してくれ。お慈悲だ。この苦しさはもう堪えられない。拳銃を、拳銃を呉れ! 水! 水!
 イェーヴァ 拳銃は渡さないわ。さあ飲んで!
 ダラガーン(水筒の口から水を飲もうとするが、飲み込むことが出来ない。)拳銃を!(手探りする。)ホルスターにあるんだ!
 イェーヴァ 駄目。駄目よ! もう少し我慢して! 今人が来るわ!
 ダラガーン 体の中が燃えている。燃えてるんだ!
(スピーカーから突然喇叭の音が響く。)
 イェーヴァ また。またあの音!(叫ぶ。)その音、どこからなの?
(スピーカー、静かになる。)
 ダラガーン 医者はいらんぞ。医者など来たら撃つぞ。だけど何故哀れな盲に同情してくれないんだ。誰か呼んでくれ! それとも俺は捕虜になったのか。
 イェーヴァ 分からないの? 私よ。私、イェーヴァよ。イェーヴァなのよ。私のこと、覚えてるわよね、ダラガーン。ああ、私、こんなに苦しんでいる姿、見ていられない。ねえ、イェーヴァなのよ!
 ダラガーン 何も覚えてない。誰も知らない。助けてくれ!
(自動車が近づく音。)
 イェーヴァ ああ、やっと。よかった! アダーム! アダーム! ここよ。こっちよ! 生きている人がいたのよ!
(アダームとエフロシーモフ、走って登場。)
 エフロシーモフ ああ、神様!
 アダーム 教授!(訳註 「神様」と言ったことをたしなめる言葉。共産主義では神という言葉は禁句。)ええっ、ダラガーンじゃないか。どこから・・・どうやって・・・
 イェーヴァ 空から、飛行機と一緒に落っこちて来たの!
 ダラガーン 下がれ! 下がるんだ。近づくと死ぬぞ。俺は毒ガスをかぶってるんだ!
 エフロシーモフ どの毒ガスだった? 臭うやつか、臭わないやつか? (訳註 英訳によった。)
 イェーヴァ もっと大きな声で。この人、つんぼになってる。
 エフロシーモフ つんぼ?(器械の押ボタンを操作する。)
 ダラガーン 同志諸君、私は報告する。火の柱が上がっていた。数知れず、到るところに!
 イェーヴァ この人、頭がおかしくなっているの、アダーム。何も分からなくなっているのよ。ねえ、アダーム。なんとかしてあげて。でないと死んじゃうわ!
(エフロシーモフ、器械をダラガーンの方に向け光を出す。 ダラガーン、暫くの間じっと横になった儘呻き声をあげている。それから動き始める。顔のできものがひいてくる。坐る。)
 イェーヴァ(泣く。エフロシーモフの手を取る。)ああ、優しい人。可愛い人。偉大な人。奇跡の人。ライラックの香り。この小さな目。なんて可愛い、可愛い目! (エフロシーモフの頭を掴んでキスする。)なんて偉い人、なんて偉いの・・・
 エフロシーモフ よーし、もう一人だ。もう一人試してみよう。(器械を操作して、死んでいる売り子(男の方)に光をあてる。)駄目だ。完全に死んでる。駄目だ! ああ、ジャックも駄目だ!
 アダーム 教授! どうしたんですか、教授! 落ち着いて。落ち着いて下さい。
 エフロシーモフ そう。そうだ。有難う。落ち着かなくちゃ。(坐る。)
 ダラガーン 目が見えてきたぞ。どうしたんだ。何が起こったんだ・・・あんた、誰?(間。)イェーヴァ?
 イェーヴァ そうよ、私。私なのよ。
 ダラガーン 近寄らないで。自分で脱ぐ。(飛行服を脱ぐ。)アダームか?
 アダーム そう。僕だ。
 ダラガーン 待って。近づいちゃいかん。毒ガスにやられる。君達、どうしてこんなところに? ああ、そうか。分かった。君達は偶々このデパートに来ていた。僕がそこに落ちたんだ。・・・ああ、耳鳴りがする。ひどい音だ。で、君達はここに来て・・・それで・・・
 アダーム 違うんだ、ダラガーン。そうじゃないんだ。
 エフロシーモフ 一度に本当の事を言ってはいけない。ショックがひどくて手に負えなくなる・・・
 アダーム そうだ。慥に。
 ダラガーン ふん。しかしどうもはっきりしないな・・・(水を飲む。)
 アダーム で、君、どこから・・・
 ダラガーン あそこから帰ってくるところだった。 あそこ・・・まあいい。爆撃機護送の終了後、帰国中だった。その時、ファシストの戦闘機を見つけた。世界のチャンピオン、クラブのエースだ。そいつが雲の間から、突然出て来た、機体にはっきりとクラブのエースとあるのが見えた。
(スピーカーから急に戦争の行進曲が鳴り出す。)
 ダラガーン 音楽? どうなってるんだ。
 イェーヴァ(泣きだす。)またよ、また! あれは死神。死神達が群をなして、世界中を飛んでいる。変な外国語を喚き散らして。それが音楽みたいに鳴っているのよ!
 アダーム 黙れ、イェーヴァ。黙るんだ。(イェーヴァの肩を掴んで揺する。)黙らないと、気が変になっちゃうぞ、イェーヴァ。お前が狂ったら、誰が直すんだ!
 イェーヴァ そうね。そうね。(静まる。)ダラガーン そいつは煙をつかった、空にコンミューンと書きやがった。次に機銃でモールスだ。「墜落」それから最後にまた空に煙でクラブのエース。俺は勿論信号の意味が分かった。「共産党員よ、撃ち落とされるのはお前だ。俺はクラブのエースだぞ。」俺は胸のあたりが寒くなってくるのを感じた。あっちか、こっちか。どちらかは生きては帰れない。敵のエンジンの性能は知っていた。機関銃も。一秒間に四十発撃てるやつだ。奴は俺の前でデモンストレーションをやって見せた。錐もみ、インメルマン回転、バレルロール。どんな空軍の勇士でも、クラブのエースに会ってこいつを見せられると、体がすくんでしまう代物だ。だが俺は違った。反対に体は伸び伸びしてきて、武者ぶるいしたんだ。敵はすぐ俺の後ろに回った。丁度俺の死角にあたる場所だ。一瞬俺の頭は煮えたぎった。敵は正確に撃ってきた。当たったのが分かった。毒ガスだ! 俺は自分がどうやったのか、よく覚えていない。とにかく俺は向きを変え、離れた。そして自分は死ぬ。もう飛べない、と分かった。距離は離れていた。が、撃った。そして見たんだ。クラブのエースが捩れて、火を吹いたのを。そして空中を斜に滑って下に落ちて行った。火のついた藁の束のようだった。今時分はネヴァ河かフィンランド湾(訳註 バルト海東部の湾)に沈んでいるだろう。俺は毒にやられ、体の中は火だった。目が見えなくなり、ここに不時着したんだ。・・・あれは・・・エフロシーモフ?
(ラジオの音楽、止む。)
 アダーム うん。
 ダラガーン そうだ。 そう言えば・・・発明したんじゃなかったか、彼は。器械を。・・・今はもう戦争なんだ。多分君達はもう知っていると思うが・・・(辺りを見回す。電車を見る。)何だ、これは。・・・(立ち上がる。運転手(女性)に近づき、見る。)え? 死んでいるのか。脱線して? 爆撃にあって? そうなんだな? 参謀本部に、俺を。頼む。
 アダーム 実はな、ダラガーン、このレニングラードに、もう人間はいないんだ。
 ダラガーン 人間はいない? 何のことだ・・・頭がまだはっきりしていないらしいぞ、どうやら・・・待てよ、少しずつ分かってきた・・・いつ飛びたったんだ、俺は。そう、誰かが何か朗読したんだった。何とか公爵の農奴がどうとかこうとか・・・いいか、(それどころじゃないんだ。)世界中が戦争しているんだ!
 イェーヴァ ダラガーン、レニングラードには、もう誰もいないのよ。ここの、この私達だけ! でも落ち着いて聞いて、ダラガーン、この話を。気違いにならないよう気をつけて。
 ダラガーン(元気なく。)みんなどこへ行ったんだ。
 イェーヴァ 昨日の夜、あなたが出て行くか行かないうちに、敵が毒ガスを・・・それでみんな死んだの。
 エフロシーモフ 残ったのはイェーヴァとアダーム、それに私だけ。
 ダラガーン アダムとイヴ!・・・それはそうと教授、あなたは昨日、もうすでにおかしかった。精神的にやられているようだった・・・
 エフロシーモフ いやいや、私は神経がまいってはいた。しかし気違いにはなっていなかった。(これからも気違いにはならないですみそうだ。)どうも目が坐っていたらしい。それでみんなが心配してくれた・・・もう考えるのはやめるんだ。坐って、毛布をかけて・・・
 ダラガーン(皮肉に笑って。)レニングラードの人口は二百万だ。それが全員死んだ? はっ。空襲のことは諸君よりよっぽどよく知ってるんだ。全員死ぬなんて訳がない。教授に聞けばいいんだ。ちゃんと話してくれるさ。・・・レニングラードを全滅させるにはどんなガスが必要なのか。
 イェーヴァ 知ってる。もう説明は聞いたわ。(指で十字を作る。)黒い・・・これ。(泣く。)
(ダラガーン、心配そうにあたりを見まわす。何か考える。窓へ進む。歩くのが辛そう。長い間外を見る。それから頭を抱える。)
 アダーム(心配そうに。)ダラガーン、ダラガーン。止めろ。
 ダラガーン(小さく、唸るように。)くそっ。飛行機だ! 飛行機を俺に! 隊長の俺に飛行機を貸すんだ!(ポケットを探る。小さなボンボン入れのような容器を取り出す。エフロシーモフに見せる。)見覚えがあるな、教授。どうですか。くそっ、敵の奴、ソ連の人間を何と思っていやがる。鼠ぐらいにしか思っちゃいなかったんだ。無知蒙昧(もうまい)だと思っていやがる。(泥の中を這い回る、腐ったものを食う人間だと・・・)二百万人? 工場も、子供達も・・・教授、見覚えがあるな、この黒い十字の印! 命令されたんだ、直接本部からの指令がない限り、こいつは落としちゃいかんと。ええい、俺が命令する。こいつを開けて、落とすんだ!
 アダーム どこへ、どこへ落とすんだ。
 ダラガーン くそっ、あそこだ。あそこへまっすぐに行くんだ。目的地は分かっている。一足飛びだ。
 イェーヴァ 抑えて、アダーム、この人を!
 ダラガーン(容器を隠す。力無くなり、坐る。厳しい声で。)何故町は燃えている。
 アダーム 電車も車も運転手が死んだ儘一時間以上も走り続けて、お互いに衝突、ガソリンが燃え上がったんだ。
 ダラガーン 君達はどうやって助かった。
 アダーム 教授があの器械で光をあててくれたんだ。その後には、もうどんなガスも細胞にしみこまない。
 ダラガーン(体を持ち上げて。)裏切り者! 祖国への裏切りだ!
 イェーヴァ 何を言ってるの、ダラガーン!
 ダラガーン 拳銃をかせ。
 アダーム 駄目だ!
 ダラガーン 何だと。(上着を探って、把手のついた爆弾(手榴弾)を取り出す。)教授、今から訊問だ。はっきり答えるんだ。あんたが何か発明した、それは昨日の晩すぐに俺は見抜いた。いいか、このレニングラードに他に誰も生き残ってはいないかもしれん。しかしあんたら二人が証人だ。このダラガーンの質問に、教授がどう答えるか、こいつはどうやら大悪党なんだ!
 エフロシーモフ(顔色を変えて。)何ですか、これは。
 ダラガーン 怒っても無駄だ。すぐ分かることだ。反逆罪が明らかになったら、この建物から即刻出て行くんだ。(木端微塵になってな。)何故その器械の発明が祖国にとって間に合うように出来なかったんだ。
 エフロシーモフ(むっとして。)質問の意味がよく分からない。「間に合うように」とは・・・
 ダラガーン 答えるんだ!
 イェーヴァ アダーム、アダーム、何をぼんやりつっ立ってるの。教授、あなた、どうして黙ってらっしゃるの。
 アダーム やめろ! 私は命令する。ダラガーン、その手榴弾を放すんだ!
 ダラガーン 命令する? 俺に? 何の権利で。
 アダーム 私はこのレニングラードで生き残った唯一の党員だ。従って、このアダーム・クラソーフスキーが、レニングラード市に対して全責任、全権限を有する。この件はもう調査完了だ。エフロシーモフを攻撃することを禁ずる! それから教授、この男に分かるように説明してやって下さい。
 エフロシーモフ 彼が私をおばら・・・おだら・・・おどろかせて・・・
 イェーヴァ(ダラガーンに。)あなたがいけないの。教授を驚かせたりして。
 エフロシーモフ あの発明は五月一日に完成した。これさえあれば、毒ガスという毒ガスはすべて無効になることが分かった。もうあんなものは、ゴミ溜めに捨てるしかないのだ。この光をあてたら、生きている細胞は、毒のある成分を決して吸収しない。またたとえ毒に冒された細胞であっても、それが死んでさえいなければ、光をあてることによって、再び蘇るのだ。もう毒ガスによる戦争など終だ。私はまづ自分に光をあてた。しかしいくら待っても箱が来なかった。過マンガン酸溶液を入れた罎とポラライズした光を出す装置をはめ込む箱が。これが出来上がって持って来てくれたのが十五日の朝。早速組み立てて通りに出た。そして夕方近く、アダーム君のところへ到着。それから一時間後にレニングラードは毒ガスの攻撃を受けたのだ。
 ダラガーン しかしあんたはその光線を外国に引き渡そうと思ったんじゃないか。
 エフロシーモフ 私が何を思おうと、私の勝手だ。
 ダラガーン(横になる。)な、アダーム、今の教授殿の言葉を聞いたろう。ああ、全身の力が抜けたようだ。震えが来ている。・・・くそっ、立ち上がって飛ばなければ・・・俺の飛行機は? 飛行機はどうなんだ。無事なのか。(力が入らない。)骨がばらばらになっている感じだ。しかし何故か、もう苦しくないぞ。・・・待てよ、どうしてなんだ。クロンシュタットの上空で、敵爆撃機隊を迎え撃って、追っぱらったんだ。それがどうして・・・
 アダーム(ダラガーンに。屈みこんで。) ダラガーン、レニングラードを攻撃したのはそいつらじゃないんだ。もっと高いところ、成層圏を飛んでやって来た奴が・・・
 ダラガーン そうか、そうだったのか・・・俺は行く。飛ばなければ・・・
 エフロシーモフ どこへも行けやしない。戦闘機乗り君! 飛ぶ理由もありはしない。全ては終わったのだ。
 ダラガーン 何が終わったって言うんだ。俺は知りたい。何が終わったんだ! こんな終り方があってたまるか。黙ってろ!
 エフロシーモフ 飛べるどころか、君には坐るのも無理なんだ。君に出来るのはな、戦闘機乗り君、ただ、じっと横になっていることだけなんだ。死にたくなかったらな。
 ダラガーン 俺は女に縁がなかった。 女性が傍にいてくれたことなど、一度もない。ああ、奇麗な寝床に寝たい。そのそばのテーブルに、レモンティーがあったら・・・えーい、今度立てるようになったらな、六千メートル上がってやる。太陽が沈む時に、空の天井にぶち当たってやる・・・(アダームに。)モスクワは?
 アダーム モスクワも出ない!
 イェーヴァ 聞こえるのは、切れ切れの音楽の音。それに何語か分からない言葉、それだけ。いろんな言葉で何か分からないことを怒鳴りあって。世界中戦争。お互いに。
 アダーム 明け方、車で五十キロばかり出てみた。死体だ。死体しかない。それに毒ガス爆弾のガラスの破片。教授の話では、この毒はペスト菌だそうだ。
 ダラガーン ああ、もう聞きたくない。充分聞いた。もういい。(アダームを指差して。)命令はお前が出せ。俺は何でも聞く。
 アダーム イェーヴァ、手を貸してくれ。こいつを運ぶんだ。
(二人の男、ダラガーンを持ち上げる。イェーヴァ、荷物を持つ。)
 ダラガーン どこへ連れて行くんだ。
 アダーム 森に行く。ガソリンがあるんだ。
 ダラガーン そうか。じゃあ飛べるんだな。
 アダーム うん。まづガソリンだ。それから飛行場に行く。行けるかどうかやってみる。それがうまくいけば、ここに帰って、細々したものを積み込んで、飛行機でここを出るんだ。さもないと、もう一生ここを出られないぞ!
(四人、退場。)
(長い間。車に乗り込む音。車の去って行く音。暫くの間のあと、ポーンチック登場。着ている背広、破れて泥だらけ。)
 ポーンチック(半狂乱の体。)一番大事なこと、それは気を確かに持って、考えないようにすることだ。考えると気が変になってくる。何故僕が、僕一人が残ったんだ。ああ、神様、神様!(十字をきる。)どうぞお許し下さい。私があの「月刊無神論」の編集にたずさわったことを。どうぞ、どうぞ、神様! 人の前ではしらをきり通せます。何故なら私はペンネームで物を書いているんですから。でも神様、あなた様には嘘はつけません。だって、あなたの前では、(ペンネームを使ったって)私は私なんですから。「月刊無神論」の編集、あれはいい加減な気持でやっていたんです。(本気じゃないんです。)本当のことを言います、神様。心底、骨の髄まで、私は信心深い人間なんです。共産主義なんて、だいっきらいなんです。これら死んだ人達も証人です、神様。もしあなたが教えて下されば・・・どうやったらこの町から出られるか、どうやったら命が助かるか、それを教えて下されば、お約束します、神様・・・私は(原稿を取り出す。)ああ、マリヤ様、あなたはコルホーズはお嫌いじゃないでしょうね。コルホーズなんてどうってことないじゃありませんか。昔はバラバラに住んでいた農民達、それが今一緒に住んでいる。たいした違いじゃないですよね。いずれにしたって連中は破滅なんかしっこないんですよ。ああ、神様、あなたのしもべ、死に行くこのポーンチック・ニェパヴェーダをよみし、お救い下さい!  私は正教徒なんです、神様! 私の祖父はギリシャ正教主教監督局に務めていたんです! (膝を立てて立ち上がる。)俺はどうしたんだ。恐ろしさで気が狂ってきたようだぞ。(叫ぶ。)気を狂わせないで下さい! くそっ、俺が欲しいのは何なんだ。ああ、誰か人がいたら・・・俺に教えてくれる誰かが・・・
(遠くからマルキーゾフの弱い声「助けてくれ」が聞こえる。)
 ポーンチック まさか! こいつは夢だ! レニングラードに、生きている人間なんかいる筈がない。
(マルキーゾフ、這って登場。背中に背嚢。片方の足はむき出し。できものが沢山ふきでているのが見える。)
 マルキーゾフ ああ、やっと着いた、ここで死のう。苦しい! 涙も涸れちまった。助けに来てくれる奴なんかいる訳がないし、足は腐ってくる。神様、あなたは他の連中はみんなあっという間もなく死なせた。それなのに、どうして僕だけをこんな生殺しに・・・ああ、しかし叫ぶしかない。不幸な囚人みたいに叫んで助けを呼ぶしか。声の出せるうちに・・・(弱々しく叫ぶ。)助けてくれ!
 ポーンチック 人間だ! 生きている人間だぞ。僕の祈りが届いたんだ!(マルキーゾフのところへ駆け寄る。抱き起こす。)マルキーゾフじゃないか。
 マルキーゾフ そう。俺はマルキーゾフ。見てくれ。今死ぬところだ。(ポーンチックにすがって泣く。)
 ポーンチック 待てよ。まだ僕は気違いにはなっていないらしいぞ。こいつが誰か分かったんだからな。おい、僕が分からないか。
 マルキーゾフ あんたが誰か、だって?
 ポーンチック そうだよ。この僕が分かるだろう? 分かってくれ、頼む! 頼むよ!そうすれば少しは胸が軽くなるんだ。
 マルキーゾフ すまないがね、あんたさん。俺はどういう訳か、よく見えないんだ。
 ポーンチック ポーンチック・ニェパヴェーダだよ。あの有名な作家の! 君とは同じアパートに住んでいたじゃないか! 思い出してくれよ。僕は君のことはよく覚えている。破廉恥罪で労働組合を追放されて・・・あ、とにかく君は一言で言うとマルキーゾフだよ。
 マルキーゾフ 何故俺を追放したんだ。組合の奴らめ。何故だ! 役員をぶん殴ったからか? 何を言ってる。あんな爬虫類、俺がぶん殴らなければ誰が殴るっていうんだ。誰が天罰を下す?(その俺を追放・・・)何故だ。俺が飲むからか?(何を言ってる。)パン屋が飲んでどこが悪い。パン屋はみんな飲んできたんだ。おじいさんだって、ひいおじいさんだって。(パン屋だてらに)本なんか読むからだと? だけど本を読まなきゃパン屋なんかに誰が物を教えてくれる。まあいい。みんなくだらん。もう少しの辛抱だ。俺は死ぬ。それで終だ。あんたの姿も闇がかかってきた。目がやられてきたんだ。もう終だ・・・
 ポーンチック 神様、私は今はもう自分のためじゃない、他人のためにお願い致します。どうかこのマルキーゾフの命をお救い下さい。神様、これは他人のためのお祈りなんです。
 マルキーゾフ 窓から外を見てみるんだ、あんた。神様なんかいっこないって。一目瞭然じゃないか。
 ポーンチック この罪深い世界を滅ぼされたのだ。(そんなことをする人は)神様以外に誰がいる。
 マルキーゾフ(弱々しく。)違う。奴等が毒ガスを蒔きやがったんだ。そしてソ連を抹殺したんだ。共産主義がけしからんと言ってな・・・ああ、目が・・・もう何も見えない・・・ああ、なんて残酷なんだ、こんな死に方をしなきゃならないとは。
 ポーンチック 起きろ。目を覚ましてくれ、マルキーゾフ! ああ、残酷な・・・折角人が現われたと思ったら、僕の目の前で死んで行く。
(エフロシーモフ登場。左肩に背嚢、右肩に例のカメラに似た器械をかけている。ポーンチックとマルキーゾフの姿を見て立ちすくむ。ポーンチック、エフロシーモフを見て感極まって泣く。)
 エフロシーモフ どうして諸君が・・・どうして生き残れたんですか、このレニングラードで。
 ポーンチック エフロシーモフ・・・教授?
 エフロシーモフ(ポーンチックに。)失礼ですが、あなたはあの夕方、アダーム君の家にいた人じゃないですか・・・女性コルホーズ員の話を書いた・・・
 ポーンチック そう、そうです、私です。ポーンチック・ニェパヴェーダです。
 エフロシーモフ(マルキーゾフに屈みこんで。)そしてこれは? この人もどうして・・・えっ? 私に殴りかかったあいつじゃないか。つまりあの大惨事の時レニングラードにいたんじゃないか。どうして生き残れたんだ。
 マルキーゾフ(陰欝に。)夢中で通りを走って、地下室に潜りこんで、それから、(缶詰の)魚で腹を満たして・・・今死ぬところ・・・
 エフロシーモフ ああ、そうだ。あの時、ドアにノックが。思い出してきたぞ。(ポーンチックに。)答えてくれ。私がアダームとイェーヴァの写真を撮っていた時、君、あの部屋に入って来たんじゃありませんか?
 ポーンチック ええ。目が眩むような光で・・・
 エフロシーモフ それで分かった。(マルキーゾフに。)しかし君、君のは分からないな。君は光線なんかにあたらなかったんだろう? あの部屋には、いなかった筈なんだ。
 マルキーゾフ(弱々しく。)光線? ああ、あの時、丁度窓によじ登っていて・・・
 エフロシーモフ ははあ・・・なるほど。これが運命というものか。(器械から光を出し、マルキーゾフにあてる。マルキーゾフ、身震いし、目を開ける。上半身を起こし、坐る。)私が見えるね?
 マルキーゾフ 見えます。今は。
 エフロシーモフ 足は?
 マルキーゾフ 楽になりました。ああ、息がつける!
 エフロシーモフ そーら、これで分かったろう。私のことを君はブルジョワと呼んだ。私はブルジョワなんかじゃないんだ! それからこれはカメラじゃない。私はカメラ気違いじゃないんだ。それからアル中でもない。分かったか!
(スピーカーから音楽が響く。)
 マルキーゾフ ああ、あんたは学者だ。(偉い人だ。)アル中なんかじゃない。手を、手を・・・手にキスさせて・・・詩が出来ました。こんなのです。・・・毒ガスで、レニングラード全滅よ。だけど学者さん、僕を救って、僕の命、点滅よ。・・・手を、手をだして。お祝いに一杯いきましょう。 エフロシーモフ この・・・馬鹿言うな、お前なんか。私は飲まないと言ってるだろう。私は煙草だけなんだ。
 マルキーゾフ どうしてそんなに怒鳴ったりして・・・煙草の方が? じゃあ煙草を吸ってお祝いだ!
 エフロシーモフ(ヒステリックに。)私のことをアル中だなどと。それに突然顔に殴りかかってきたり。君に何の権利があるというんだ。私は研究室から一歩も出たことがない。(だから)結婚もしたことがない。君はもう結婚なんか三度目だろう・・・君こそアル中じゃないか。私は君を裁判にかけてやる。
 ポーンチック どうしたんですか、教授。落ち着いて!
 マルキーゾフ 教授殿! どうぞ落ち着いて下さい。結婚が三度だなんて。だけど裁判にはかけられたな。いやがる俺を引きずって行きやがった。ああ、偉大なる教授殿。ああ、息が出来るぞ。・・・どうか一杯やって下さい。
 エフロシーモフ 飲まん、私は。
 マルキーゾフ どうして飲まないんですか。飲むぐらいしないと神経がやられてしまいますよ。
(スピーカーの音楽、止む。)
 マルキーゾフ 思いだしたぞ。市電に飛び乗って・・・車掌は死んでいたんだ。だけど俺は電車賃をむりやりそいつに押しつけて・・・
(エフロシーモフの口にウオッカを注ぎこむ。)
 エフロシーモフ 息は出来るんですね。
 マルキーゾフ 息は大丈夫。(大きく息をする。)問題なし。ああ、さっきまで咽をかき切って死のうとしていたんだ、俺は。
 エフロシーモフ(足を指差して。)それ、君、壊疽(えそ)ですよ。
 マルキーゾフ 壊疽か。何ですか壊疽が・・・なるほど壊疽か。まあいい。結婚するまでに治るさ。
 エフロシーモフ 壊疽だよ、君。冗談じゃない。こんな時誰が手術できる。やるとすれば私か。だけど私は医者じゃないんだ!
 マルキーゾフ 任せます。切って下さい。
 エフロシーモフ だいたい馬鹿なんだよ。片方の足だけ乗せるなんて。窓の敷居にはね、両方の足を乗せとくべきだったんだ!(もう片方に)光が届きやしないじゃないか。
 マルキーゾフ そうなんだ。 俺も丁度そのことを考えていたんだ! しかしどうせ俺って男は馬鹿なんだからな。馬鹿は片足しか上げない・・・えーい、くそっ。足が何だ。片足なくったって・・・(演説口調。)ああ、偉大なる学者、エフロシーモフ教授。なれの名前こそ永遠なれ。
 エフロシーモフ ちょっと大きな声はやめて下さい。いいですか、気を確かに持って下さい。(ちゃんとしないと)気違いになりますよ。さあ、私がするようにして・・・
 ポーンチック(突然大声で。)教授! どうして僕に光をあててくれないんです! 僕のことは何故忘れてるんです!
 エフロシーモフ あなた頭がどうかしたんですか。もうあなたには光をあてたじゃないですか。落ち着いて・・・器械に触らないで!
 マルキーゾフ この野郎。器械に触るなと言ってるだろう。壊れるじゃないか。
 ポーンチック 教えて下さい。これだけは。あんな奇跡が出来る秘密を!
 エフロシーモフ 奇跡でも何でもありゃしません。過マンガン酸とポラライズした光線です。
 マルキーゾフ なるほど。過マンガン酸ね。何をやってるんだ、お前。器械から手を放すんだ。分かってもいない物には触るなってんだ。ああ、息が出来る。息が出来るぞ。
 エフロシーモフ 止めて下さい、そんな目で見るのは。何ですかその目は。こっちを食い殺そうっていう目ですよ、それは。恐ろしい。胸が悪くなる。さあ、紙と鉛筆を貸して。デパートから持って行くものを書きとめておかなきゃ。でないと忘れてしまう。(ポーンチックに。)ポケットにあるでしょう。
 ポーンチック これはその、例の小説の原稿ですから・・・
 エフロシーモフ そんなもの、もういいでしょう。あのアポローン・アキーモヴィッチが何か言うとでも。
 マルキーゾフ 紙がないんだ。早く渡すんだ!(ポーンチックから原稿をひったくる。)
 エフロシーモフ 書いて。まづ最初に・・・えー、ホラ、あれ、薪を割る・・・
 ポーンチック 斧?
 マルキーゾフ 斧だ。
 エフロシーモフ 斧。薬。・・・えーい、全部だ。全部、何でも手当たり次第、生活に必要なものはみんな・・・
(トラックの音がする。)
 エフロシーモフ あ、連中が帰って来たぞ!(窓に駆け寄る。叫ぶ。)イェーヴァ! アダーム! 生き残り、もう二人見つけたぞ!
(これに答えるアダームの声、遠くから聞こえる。)
 エフロシーモフ そうなんだ。二人生き残っていた! ここにいる!(走り退場。)
 ポーンチック(エフロシーモフに縋(すが)り付く。)そうだ。生き残りだ、僕は!(エフロシーモフの後に走って退場。)
 マルキーゾフ そうだ。俺も生き残りだぞ!(走ろうとするが駄目。)俺も、俺のことも忘れないでくれ。俺も生きてるんだ。生きてるんだぞ。逃げないでくれ。頼む。もう走れない。駄目だ。このマルキーゾフを置いてきぼりにしないでくれ。(叫ぶ。)待ってくれ、ほっとかないで。頼む!
(窓の向こうで、音もなく建物が崩れてゆく。すると窓にまた新たに建物の柱の列が現われる。それから奇妙な光の中に、何か馬の列。(訳註 黙示録))
 マルキーゾフ あ、何だこれは。みんな、窓を見てみろ。
                     (幕)

     第 三 幕
(鬱蒼と茂った森の中の空き地。その空き地にテントがはってあり、その内部が舞台。テントは物でいっぱい。人が坐るための切り株、テーブル、ラジオ、食器、アコーデオン、機関銃。それに、理由は不明だが、王様が坐るに相応しい玉座のような椅子。テント自体は有り合わせの布で出来ている。防水布、それに錦、絹のような高級布、それに油布、のつぎはぎ。テントの側面が開いていて、森の向こうにきらきら光る虹が見える。玉座に、松葉杖を一本抱えて、青い鼻眼鏡をかけて、マルキーゾフが坐っている。手に、半分焼け焦げた、頁の破れた本を持っている。)
 マルキーゾフ(読む。)「・・・ヱホバ神言ひたまひけるは、人独りなるは善(よか)らず。 我彼に適(かな)ふ助者(たすけ)を彼のために造(つく)らん・・・」(助者(たすけ)ね。)立派な議論だ。だけど、どこから連れて来るっていうんだ。そのつづきは穴があって読めないぞ。(先を読む。)「・・・アダムと其妻は二人倶(とも)に裸体(はだか)にして愧(はぢ)ざりき・・・」そのあと、焼けていて見えない。一番面白いところなのにな。(読む。)「・・・ヱホバ神の造(つく)りたまひし野の生物(いきもの)の中に蛇最も狡猾(さが)し。・・・」まる。そして次からは、頁が千切れている。
(ポーンチック登場。マルキーゾフと同様、不精髭。ボロボロの衣服。雨にうたれたらしく濡れている。猟銃を肩から下ろし、取って来た獲物の鳥を隅に投げる。)
 マルキーゾフ こいつはお前のことだぜ。「ヱホバ神の造(つく)りたまひし野の生物(いきもの)の中に蛇最も狡猾(さが)し。・・・」
 ポーンチック 蛇が何だって? 馬鹿な話だ! 飯の用意は?
 マルキーゾフ 三十分後に、閣下。
 ポーンチック そうか。おい、一杯だけやろう、一杯だけ。
 マルキーゾフ お前、分かってるんだろう? アダームはアルコールの残量を全部チェックしてるんだぜ。
 ポーンチック ヘッ、アダームのやつ、何を考えているんだ。何にでも鼻を突っ込んで。自分の部署のことは自分に責任と権限があるんだろう? お前には呆れてるんだ、僕は。どうしてあいつに首根っこを抑えられて、黙ってるんだ。食料をお前、任されてるんだろう? 全責任、全権限がお前さんにあるんだ。(分かってるのかな。)俺様だってちゃんと働いている。ちゃんと。そりゃ勿論アダーム達に負けずに働いている。以上にとは言わんがね。その俺様は食事前に一杯やるのが習慣なんだぜ。
 マルキーゾフ 成程、尤もだ。蛇大明神殿。(鼻眼鏡を外す。)
(二人、純粋アルコールを注いで、つまみを食べる。)
 ポーンチック(不意に。)ちょっと待て。(ラジオに駆け寄り、ランプをつけ、ラジオのスイッチをひねる。)
 マルキーゾフ 何にもないよ。朝からずっと聞いてたんだがね、蛇大明神殿。何もないんだ。
 ポーンチック 僕を蛇、蛇、と言うのは止めてくれ。
(二人、飲む。)
 マルキーゾフ どうも本を読まないでいると・・・変な話なんだが、気が滅入ってくる。「巌窟王」、あれをどうして俺はなくしたんだ。ああ、残念なことをした! こいつは地下室にあったんだが、・・・本といやあこれしかなかった。その本に俺達のことが書いてあるとはなあ。アダームとイェーヴァの・・・
 ポーンチック(本をちらと見て。)探偵小説なんだろ。
 マルキーゾフ 何もない世界ってのは退屈だなあ!
 ポーンチック 君が、あの滅亡の日からすっかり変わったってことは、気がついていた。喜ばしいことさ。それから、そうなったのは、誰が何て言ったって、この僕の影響なんだからな。文学、この偉大なるもの、だ。
 マルキーゾフ まあ、この足のせいだな。びっこになったんじゃ、喧嘩も出来ない。手あたり次第に本を読む。それぐらいしか手がないからな。ただ、手当たり次第と言ったって、手に当たったのはこのぼろぼろの本だけ。他には何も当たりはしない。
 ポーンチック だから、もう一回僕の本を読めばいいんだ。
 マルキーゾフ あれはもう二回も読んだよ。
 ポーンチック じゃ、もう一回。読むから聞くんだ。聞いたって、耳がもげるわけでもないだろう?(原稿を取り出し、読む。)「赤い緑」。小説。第一章。「かってバルコーンスキー公爵の農奴達が・・・」長い考察の結果、バリャチーンスキーよりはバルコーンスキーの方がいいと分かったんだ。響くよな?
 マルキーゾフ 響く。
 ポーンチック 「憔悴しきった顔で畔を作っていた、その痩せた土地に、」・・・憔悴しきった、いいだろう、この言葉。変えたんだ。いい響きだろう?
 マルキーゾフ 響く、響く。・・・響きさえすりゃいいんだからな。
 ポーンチック そう、響けばいいんだ。「今ではコルホーズ員達の明るい顔がある。「おーい、ヴァーニャ、ヴァーニャ」。畔の上で声がした。」(訳註 二幕デパートの場面の売り子、車掌、小説中のコルホーズ員、全部原文では女。作者は低賃金で女性の労働力を使った政府に批判的か? 城田註。)
 マルキーゾフ ストップ! 休憩だ。分かったよ。確かに君は偉大な人間だ。素晴らしい文章だ。君は天才だよ。しかし、説明してくれないかな、どうして文学ってのは、いつでもこんなに退屈なのか。
 ポーンチック 退屈! それはな、お前が馬鹿だからさ。
 マルキーゾフ 印刷されたものはいいんだがな。印刷されてれば、何とか読めるんだ。だけど、文学ときた日にゃ・・・「おーい、ヴァーニャ、ヴァーニャ」。それに畔とコルホーズ・・・それだけさ。
 ポーンチック 呆れたね。あれだけ教育してやっても、この頭にはそんなくだらないことしか分かっていないのか。手書きだけが文学? 畔とコルホーズしか文学にはない? 全く何を読んでるのか。
 マルキーゾフ そりゃもう、いろんなものを読んでるさ。
 ポーンチック 豚箱に入っていた時にだろう? 組合から除名されたのは、沢山読んだからって訳か?(よく言うよ。)
 マルキーゾフ 人のいやがることばかりよくそんなに思い付くな。「野の生物(いきもの)蛇」、この本には君のことをこう書いてるけど、実に正確な表現だな。この俺のことを、本にはどう書いてあったか。(思い出しながら。)「おお、伯爵、我が過去は死滅せり。」
 ポーンチック ああ、あの亡くなったアポローン・アキーモヴィッチの言っていた通りだな。「豚に真珠をやってもな、諸君、無駄なんだ。」その通り。実に名言だよ。(原稿を地面に投げつけて、酒をあおる。)
(間。)
 マルキーゾフ 彼女は彼を愛してない。
 ポーンチック 愛してない・・・何だい、それは。
 マルキーゾフ(秘密をこっそり打ち明ける、といった顔で。)イェーヴァはアダームを愛してない。
 ポーンチック それがお前と何の関係がある。
 マルキーゾフ 俺にはにおってくるんだ。彼女は俺を愛すようになる。
 ポーンチック なーんだって?
 マルキーゾフ(囁く。)アダームのことを愛しちゃいないんだ、彼女は。夜、俺はあの二人のテントの近くに行ってみた。すると彼女が泣いているのが聞こえたんだ。
 ポーンチック お前、夜中に盗み聞きに行くのか。
 マルキーゾフ 彼女はダラガーンのことも愛しちゃいない。勿論お前さんのこともな。偉大なる教授殿だが・・・偉大すぎだ、彼は。惚れたの、はれたのには関係ない。すると残りは、この俺ということになる。
 ポーンチック だけどな・・・えーと・・・いいか、マルキーゾフ、あの火事のとき、僕はレニングラードにとって帰した。銀行に行ったんだ。口座を持っていたからな。そして自分の貸し金庫から、あるだけのものを取って来たんだ。(包を出す。)これがそれだ。ドルだぞ、これは。この中からお前に千ドルやる、もしこの件から手を引いてくれれば。
 マルキーゾフ ドルなんて俺に何の役に立つ。
 ポーンチック もう地球上でドルなんか価値がなくなる、なんて言うがな・・・アダームも言うし、ダラガーンも。だけど信じちゃ駄目だ。ソ連のルーブリはな・・・お前さんにはこっそり教えてやるが・・・一文の価値もありはしない。だが心配はいらない。あっちには、(遠くを指さす。)人間がまだ残っている。そして人間が最低二人生き残っていれば、ドルは価値を失わないんだ。そいつらの生命がなくなるまでな。見ろよ、この顔。(ドル紙幣を指さす。)こいつは偉い男なんだぜ。(ジョージ・ワシントンという男なんだ。)いいか、こいつさえありゃあな、ダラガーンがあっちの残っている連中とわたりをつけた時、お前さん、女なんかよりどりみどりだあ。あの死んじまったアーニャどころじゃないぜ。よだれのたれそうな女でもだぜ。イェーヴァはどうせお前さんにゃ無理だ。そのびっこじゃあな。この世にはな、二つしか力なるものは存在しない。一つはドル。もう一つが文学さ。
 マルキーゾフ びっこびっこ、びっこは邪魔か。お前さんは人をうまく押し退ける天才だよ。(紙幣をポケットにしまう。アコーデオンでワルツをひく。それからアコーデオンを投げだす。)続きを読んでくれ。
 ポーンチック ほいきた。(読む。)「コルホーズ員達の明るい頬がある。「おーい、ヴァーニャ、ヴァーニャ」。」
イェーヴァ (不意に現われる。)「畔の上で声がした。その魔法の土地の。」呆れたわ、あなた方には。こんな時によく本なんか読んでいられるわね。そんな悠長な気分、どっかにふっ飛んで行っている筈じゃないの。
(野原の遠くの方から、飛行機のエンジンのゴウゴウという音が聞こえてくる。)
 イェーヴァ 聞こえる?
(エンジン止る。)
(イェーヴァ、ラジオに近づき、ランプをつけ、スイッチを入れる。聴く。)
 イェーヴァ 何も聞こえない!
 マルキーゾフ 何も聞こえない。朝から僕は番をしているけど。(花束を取り出す。)花をこんなに沢山つんで来たんだ、イェーヴァ。
 イェーヴァ いらないわ。私のテント、もう花でいっぱい。水をやる暇もない。それどころか、捨てる暇さえないわ。
 ポーンチック そうさ。そんな暇があるわけないんだ! それに何だい、この花束。まるで馬の尻尾だ。それにテントを花で埋める? 馬鹿なことだ。・・・(マルキーゾフから花束をひったくり、地面に投げる。低い声で喋る。)僕をペテンにかけるつもりか。 金は受け取っただろ。道徳ってものを知らないのか、お前。
 イェーヴァ 一体何の話、それ?
 マルキーゾフ 何でもない、何でもない。俺は沈黙だ。買収されているんだからな。
 イェーヴァ 何て嫌な人達、二人とも! 最近のあなた方の話ったら何? 胡散くさいことばかり。もう飽き飽きだわ! 食事の用意は?
 マルキーゾフ あ、今スープを見てくる。
 ポーンチック コック! みんな腹をすかしているんだ。焦がすんじゃないぞ、スープを。
 イェーヴァ 物を習おうとしている人に手を貸してやりたいのなら、間違ったことを教えては駄目。料理人はコックではなくて、クック。
 ポーンチック 色々あるんだろう、発音は。
 イェーヴァ コックは駄目。クック。
 マルキーゾフ 料理人・・・クック。書いとこう。(書き留める。)何語で?
 イェーヴァ 英語。
 マルキーゾフ じゃあ、スープを・・・(退場。)
 ポーンチック ちょっと話があるんだ、イェーヴァ。
 イェーヴァ 聞きたくないわ。
 ポーンチック 頼む。聞いてくれ!
 イェーヴァ 仕方ないわね。
 ポーンチック 森の奥で君と話している人物は誰なんだ。なあ、誰なんだ。この大惨事が起きる前、僕はソヴィエト文学界で、ある地位を保っていた。そして現在、もしモスクワが、レニングラード同様の運命に遭い、全滅していたら、この私が同国文学界で残存せる唯一の人物となる。神のみぞ知る、この私が選ばれたのだ。この大惨事の歴史を記録し、後世に遺す役割を果たすため。君、聞いてるの?
 イェーヴァ 聞いてるわ。この話は面白いもの。私、あなたが、「僕はあなたを愛します、おお、イェーヴァ。」なんて言うんだろうと思っていたから。でもこの話なら面白いわ。
 ポーンチック(低い声で。)僕は君の秘密を知ってる。
 イェーヴァ 何、秘密って?
 ポーンチック アダームと一緒にいて、君は不幸なんだ。
 イェーヴァ あなたにそれが何の関係があるの。それに何を根拠にそんなことを言うの。
 ポーンチック 僕はよく寝つかれないことがあるんだ。分かるだろう、何故か。色々考えてね。まあいいや、これは。そうしたらある晩、小さい声で女性の泣き声が聞こえてね。この呪われた森で泣くなんて、一体誰なのか。それに女性の声。それは君に決まってるよね。ここには女性は君しかいないんだから。
 イェーヴァ 残念ながら。残念ながらね。
 ポーンチック 何が原因で泣いているんだろう。この優しい、たった一人の女性。おお、僕のイェーヴァよ。
 イェーヴァ 生きている町が見たいの。ああ、生きている人はどこ?
 ポーンチック 彼女は苦しんでいる。彼女はアダームを愛していない!(抱擁しようとする。)
 イェーヴァ (力なく。)あっちに行って。
 ポーンチック 分からないな。
 イェーヴァ あっちに行って。
 ポーンチック 何をやってるんだろう、あいつら。飛行機をいじくりまわして。(退場。)
 イェーヴァ(ラジオのレシーバーを取り上げて、聴く。)何も、何も聞こえない!
 マルキーゾフ(登場して。)食事の用意、完了。ポーンチックは?
 イェーヴァ 私が追い払ったの。
 マルキーゾフ ねえ、聞いて。話したいことがあるんだ。大事なニュースなんだよ。
 イェーヴァ ニュース? ここでニュースなんて、私、知らないことなんてないわ。
 マルキーゾフ いや、これは知らない。秘密なんだ。(小声で。)俺はね、実は金持ちなんだ。
 イェーヴァ ああ、とうとう暑さで頭にきたのね。でも、さっき雨が降っていたし・・・あ、臭うわ。ウオッカだわ!
 マルキーゾフ ウオッカ? ウオッカじゃない。鎮静剤。この足がまた痛んできて。いいか、聞いてくれ、イェーヴァ。金ってやつは、価値がなくなることはないんだ。アダーム、 ダラガーン、あいつらの言うことを聞いちゃ駄目だぜ。この世界に最低二人人間がいる限り、取引は必ずある。これは議論の余地がない。定理だ! それはそうと、俺はこの間本を見つけて、そいつを読んだんだが、・・・著者が誰か、さっぱり分からないんだがね。それにはこう書いてあった。世界にはたった二人しか人間はいなかった。それはアダームとイェーヴァ。二人はとても愛しあっていた。それから先ははっきりしないんだ。あとが破れていてね。分かるかい?
 イェーヴァ 何の話? さっぱり。
 マルキーゾフ だけどね、この理論はここには当て嵌まらないんだ。何故なら、君が自分のアダームを愛していないからだ。だから別のアダームが君には必要なんだ。 あのアダームじゃない、別の。(怒鳴らないで!)俺のこと、いやな奴と思っているんだね。違うんだ。いやな奴じゃない。謎の人物なんだ。それにおっそろしく金持ちでね。さあ、ここに千ドル置く。君の足元に。取って!
 イェーヴァ ザハール! これドルじゃない。どこで取ってきたの。
 マルキーゾフ 老後のために貯めて置いたんだ。
 イェーヴァ ザハール! どこで取って来たの。レニングラードで盗んで来たのね。アダームに知られたら大変よ。死体から略奪して来るなんて、ザハール。あなた、なんてことを!
 マルキーゾフ 誓って言う。俺は盗んじゃいない。
 イェーヴァ 分かった。じゃあポーンチックだわ。ポーンチックがくれたのね。
 マルキーゾフ うん。
 イェーヴァ どうして?
(間。)
 イェーヴァ さあ、どうして。
 マルキーゾフ 君から手を引けって。
 イェーヴァ それであなたはお金を私に? まあ、感動的な協力体制だわ。ねえ、分かってるの。二人でそんなことをして、結局私を苦しめてるのよ。毎晩ねどこに入る。目をつぶる。すると必ず同じ夢を見るの。黒い馬、いつでも同じ黒いたてがみ。その馬が私を乗せて、この森から出て行く。ああ、不幸な運命! どうしてたった一人しか、女性が助からなかったの。あの可哀相なアーニャ。どうしてあの人、光にあたらなかったの。ねえ! あなた、あの人と結婚して、幸せになれたかも知れないじゃない。
(マルキーゾフ、急に啜り泣き始める。)
 イェーヴァ どうしたの。どうしたの、マルキーゾフ。止めて頂戴。
 マルキーゾフ アーニャはぶち殺されたんだ!
 イェーヴァ  もう忘れるの、忘れるのよ、ザハール。思い出させないで。でないと私まで泣きだしそう。泣いて何になるっていうの。止めて!
(間。)
 イェーヴァ 黒い馬が私を乗せて行く。でも私一人じゃないの。
 マルキーゾフ 誰が一緒なんだ。
 イェーヴァ 違う。一人。今のは冗談。忘れて。でもとにかく、あなたは悪い人じゃないわ。約束して。・・・もう私のことを追い掛けたりはしないって。あなた、私が森の中で死んだ方がいいとは思っていないでしょう?
 マルキーゾフ 何を言うんだ、イェーヴァ、とんでもない。
 イェーヴァ それならいいけど。ねえ、ザハール、話は違うけど、その青い鼻眼鏡、何とかならないの? ひどいわよ、それ。
 マルキーゾフ 俺は視力が弱いんだ。それに俺だって学者と同じように偉そうな顔がしてみたいんだ。
 イェーヴァ 視力だなんて嘘のかわ。それからね、そんなものかけて学者に見えると思ったら大間違い。どこかの詐欺師に見えるだけよ。悪いことは言わない。捨てるの、そんなもの。
 マルキーゾフ 悪いことは言わない?
 イェーヴァ そう。
 マルキーゾフ 分かった。(鼻眼鏡を渡す。)
(イェーヴァ、それを遠くに投げ捨てる。再び飛行機のエンジンの音。)
 イェーヴァ(あのエンジンの音!)(生きなきゃって)体がぞくぞくして来るわ。・・・ザハール、記念すべき日ね、今日は。ほら、そのしるしに、花! 分かった? 仲直りよ。
 マルキーゾフ 仲直り、仲直り。
 イェーヴァ 喇叭(らっぱ)をならして、ザハール。もう食事の時間。
 マルキーゾフ(喇叭を手に取る。)必要ないようだな。皆やって来る。
(ダラガーンとアダーム、登場。アダームは髭を落としている。表情も一変。男どもの中では一番年寄に見える。汚く日焼けしている。ダラガーンも髭をそっている。白髪。顔にはあばたの跡があり、醜い。二人の後はポーンチック。スープ用の深皿を運ぶ。)
 イェーヴァ 早く聞かせて、ダラガーン。うまくいったの?
 ダラガーン うん。
 イェーヴァ(抱擁して。)すごいわ、ダラガーン。・・・教授、教授! どこなの。食事ですよ!
 アダーム 私に提案がある。この記念すべき偉大なる日を祝して乾杯したい。勿論ダラガーンは除くが・・・ザハール、アルコールの残量は?
 マルキーゾフ 気にすることはない。ミニマムです。
 エフロシーモフ(テントの外から。)ザハール、気にすることがないなら、多いのか、少ないのか。
 マルキーゾフ えーと、多い!
 エフロシーモフ 多いならマクシマムだ!(タオルで手を拭きながら登場。白いが泥のついたワイシャツ。ズボンは破れている。髭はそってある。)
 イェーヴァ さあ、皆坐って!
(全員坐る。飲む。食べる。)
 ポーンチック ふん、このスープは悪くない。メインディッシュは何なんだ。
 マルキーゾフ 鳥。
 エフロシーモフ 何だ? この不快な気分は。待ってくれ・・・そう、ウオッカ・・・そうだ、マクシマムとミニマムだ! 単純に言えばすむことじゃないか。ウオッカが沢山ある。ウオッカが少ない。単純がいいんだ、単純が。どんな場合にもこの定理は適用出来るんだ。ミニマムは最小の量。マクシマムは最大の量。意味が違うんだ!
 マルキーゾフ この頭、こんがらがっていやがって・・・また教えて下さい、教授。さあ、皿を。スープのお替わりは如何がです?
(間。)
 マルキーゾフ 二人の兄弟が・・・弟がミニマム・・・小さくって、痩せていて、党員じゃない。裁判にかけられている。兄さんはマクシマム・・・肥っていて、赤い頬髭・・・一箇師団を指揮する大佐殿。
 アダーム 理解出来たことにはおめでとうと言おう。しかし諸君、今の例は不穏当だ!
 エフロシーモフ 違う違う。物を覚えるには、今のようなやり方が一番いいんだ。
 アダーム 諸君、丁度正午だ。では、会議を始める。ポーンチック・ニェパヴェーダ、書記を頼む。議題 ダラガーンの出発について。目的、世界の現状を調査するため。この件につき、何か問題は?
 イェーヴァ 手・・・手は?
 ダラガーン 諸君、私は完全に健康だ。これは保証する。
 イェーヴァ 手を見せて、ダラガーン。
 ダラガーン 諸君、諸君は医者じゃない筈だ。そんなことをして何に・・・分かった。分かりましたよ。
(ダラガーン、両手を見せる。全員それを見る。)
 イェーヴァ そうね。震えてないわ・・・教授、よく見て。震えていないか。
 エフロシーモフ うん、震えてない。これなら飛べる。
 ポーンチック 万歳、万歳、万歳。
 イェーヴァ 万歳、ダラガーンは飛べるのね。
 アダーム よし。ではダラガーンの出発を許可する。さて、 ダラガーン。君は飛んで行く。もし戦争が継続していたらどうする。
 ダラガーン もし戦争が継続中なら、敵機を発見したその場で、すぐさま交戦状態にはいる積もりだ。
 アダーム そうだ、それで行くんだ。まさかこの意見に反対の人間はいないだろうな。
 ダラガーン どうしたんだ、教授。あんた、何故黙ってる。え? まさかこのソ連邦が負けるなんて思っているんじゃないだろうな。ラジオの切れ切れの情報から、世界中内戦になっていることは分かってるんだ。そのことからだって明らかじゃないか。我がソ連邦の方に理があるっていうことは。これでもまだ黙ってるな。その顔には何の反応も見えない。その無表情な面(つら)。しかしこの距離からでもそこに坐っている奴の正体は見えるぞ。そいつは他所者(よそもの)なんだ。勘で分かる。・・・いや、学者の用語があったな。・・・そうだ、本能だ。本能で分かる。まあいい。(着替える。油布の服を着、双眼鏡をつけ、拳銃をつけ、胸のランプを試す。消す。)教授、あんたは平和主義者だ。くそっ、俺にあんたのその学があったら、その鋭い頭、巨大な知識、それがあったら。俺なら、俺だったら・・・まあいい。今こんなことを言っても始まらない。俺もその平和主義の線で何か示威行為をしなきゃな。静かに、謙遜な態度で、我がソ連邦は充分な防衛力があることを外国に示してやろう。我が国の都市に、これ以上指一本触れることはならんとな。さあ教授、その器械を。
 エフロシーモフ 分かった。(肩から外し、ダラガーンに渡す。)
 ダラガーン それから例の黒い十字のやつを。
 エフロシーモフ あれは持っては行かせない。この人殺し! 毒ガス爆弾は持っては行けない。
 ダラガーン 何? 持って行けないだと!
 エフロシーモフ 私が元の溶液に戻した。
(間。)
 アダーム まさか。本当か。
 ダラガーン 冗談では通らないぞ、それは。
 エフロシーモフ 冗談じゃない。本当だ。・・・元の毒のない溶液に戻した。・・・そら、どれもこれも空だ。・・・嘘は言わない。(机の上に光った小球(複数)をほうり出す。)
 ダラガーン 何だと! (モーゼル(拳銃)を取り出す。)
 ポーンチック 何? 何だ、何だ?
 イェーヴァ 止めて。アダーム! アダーム!
(ダラガーン、拳銃を構える。マルキーゾフ、松葉杖で拳銃を叩き、ダラガーンに組つく。)
 ダラガーン(発砲する。ラジオの電球(複数)、消える。)このびっこめ。畜生! おい、アダーム、その松葉杖でこいつを殴るんだ。くそっ、ザハール、殺してやる!
 マルキーゾフ(息を切らしながら。)簡単にやられてたまるか。お前なんぞに。
 ポーンチック ダラガーン、俺を撃つな!
 イェーヴァ(エフロシーモフを体で庇いながら。)殺すなら二人とも殺すのね!(ブラウニング(拳銃)を構えて叫ぶ。)撃ってご覧なさい。こっちも!
(間。)
 ダラガーン 何だ、一体、これは。
 アダーム 森のけものが襲って来た時の為に渡したピストルだぞ、それは。それなのに何だ、罪人を庇って、そいつをこっちに向けるのか、お前は。
 イェーヴァ 人殺し! 助けて! 助けて!
 ダラガーン(マルキーゾフに。)放せ、この野郎。放すんだ。(マルキーゾフを引き離す。)人殺しじゃないんだ、イェーヴァ。これは違うんだ。アダーム、こいつは銃殺刑だ。銃殺刑の判決だ。こいつは裏切者なんだ。
 エフロシーモフ 狂気錯乱の状態で衝突し、人間が殺しあっている。それでもまだ足りないんだな。復讐で頭が一杯なんだ。それで世界人口の中で、もう一単位人口をどうしても減少させたいという。彼に誰かその馬鹿さ加減を説明してやれないのか。
 ダラガーン そいつを庇うな、イェーヴァ。どうせ無駄だ。死刑は逃れられない。一分早いか遅いか、それだけの差なんだ。
 エフロシーモフ 隠れようなどと思っちゃいない。しかし銃殺するならその前にちゃんと裁判を要求する。
 ダラガーン アダーム、お前がここでは委員長だ。裁判を開くんだ!
 アダーム うん。今初めて、彼がやったことの意味が分かった。ニェパヴェーダ、ザハール、席についてくれ。裏切者の裁判だ。
 ポーンチック みんな、ちょっと待ってくれ。僕はなんだか気分が悪くなってきた。
(マルキーゾフ、動揺してウオッカを一杯飲み干す。)
 アダーム 諸君! 静粛に願う。腐敗せる資本主義陣営、反動と搾取の資本主義国家は、労働者主権のこの我が共産主義国家を攻撃した。これは何故なのだ。諸君・・・イェーヴァ、もう彼から離れるんだ。もう庇うな、イェーヴァ。ああ、頼む。
 イェーヴァ 離れないわ。ダラガーンがまだ銃を構えているじゃない。
 アダーム 収めるんだ、ダラガーン。ここのところは収めてくれ。頼む。
(ダラガーン、モーゼルを収める。)
 アダーム 何故連中は我々を攻撃したか。それは、我々労働者の国が、あらゆる人間に解放を齎(もたら)しそうだと見てとったからだ。我々は明るい社会の建設のため、着々と足場を築いてきた。そして最後のゴールが間近に見えていたのだ。連中は脅威を感じた。その最後のゴールに、自分達の破滅を見たのだ。その為だ、文字通り一瞬にして地球の表面からレニングラードは消え去ったのだ。いや、きっとレニングラードだけじゃない。二百万人の死体、それが現在腐りつつあるのだ! その折も折、このダラガーンが、彼の存在すべてを賭けて、命を抛(なげう)って、この世界の唯一の真理、我等の真理に身を捧げ、あの危険な爬虫類、資本主義社会を叩き潰す為、飛び立とうと決心したのだ。その時に(一体何が起こったか。)裏切者、アナキスト、政治に関しては全く何の知識もない夢想家が、あろうことか、我々を守る武器、掛け替えのない大切な武器、それを破壊したのだ。このような反逆罪に対し、どのような情状が酌量されようか、酌量などとんでもない。これは第一級の犯罪だ!
 ダラガーン アナキスト、夢想家? アダーム、それは違う。こいつは敵だ。ファシストだ! こいつの、これが顔だと思うか。いや、よく見てみろ。これは顔じゃない。厚紙で作った面(めん)だ。俺にはその面の下にはっきりとファシストの印が見えるぞ!
 エフロシーモフ 憤怒で目が見えなくなっているんだ。共産主義だろうとファシズムだろうと、私には関係ない。私にはどうでもいいことだ。だが、私は君方(きみがた)の命を救った。救った器械はそれだ。今君の肩に掛かっている。
 ダラガーン 貴様の器械じゃないんだ、これは。これはソ連邦の所有なんだ! それからいいか、俺の命を誰が救ったか、そんなことはどうでもいい! 俺は生きているんだ。そして祖国を救おうとしているんだ!
 アダーム さあ、それでは表決を行う。この民衆の敵に対して、第一級の犯罪を認める者の挙手を求める。(片手を上げる。)ポーンチック、マルキーゾフ。挙手しないのか!
 ポーンチック 同志諸君、私は心臓の発作で・・・
 イェーヴァ アダーム、私、発言を求めます。
 アダーム 君は何も言わない方がいい。ああ、イェーヴァ、あとでよく説明してやるから。
 イェーヴァ あんたは幽霊よ、アダーム。
 アダーム 幽霊? 何を言いだすんだ。
 イェーヴァ 幻(まぼろし)、蜃気楼。他の人達も同じ。私、ここに坐っていて突然分かった。この森、鳥の声、虹、これは本当にこの世のもの。でも、あなた方のその体、怒鳴り声、それはみんな幻なんだわ。
 アダーム 何だ、このうわ言は。何が言いたいんだ。
 イェーヴァ うわ言じゃない。あなた方は私にはみんな夢だわ。奇跡、大魔術。だってあなた方の誰一人、この世に生きてはいなかった筈。それが偉い偉い魔法使いが偶々いたため、あの世から呼び戻された。そして今は、(恩などすっかり忘れて、)大声で。「奴を殺せ。」と怒鳴っている。
(間。)
 ポーンチック 諸君、これは酷い話だ。(エフロシーモフに。)教授、あんたは何故ガス爆弾を駄目にしたんだ。
 イェーヴァ いずれにしても私は正式に、この会議に、議長である私の夫、アダームに、次の申し立てを行います。戦闘機乗りダラガーンはガス爆弾を口実に、エフロシーモフ殺害を計画した。エフロシーモフは彼の恋敵(こいがたき)だったからである。そうよ、そうなの。
(間。)
 アダーム お前、頭がどうかしたんだ。
 イェーヴァ 違うわ。正気よ。空軍飛行士さん、あなた、三日の日、私に愛していると言ったわ。皆の前で、そのことを説明して下さい。
(ポーンチック、ぎょっとして立ち上がる。マルキーゾフ、ウオッカをまた一杯あおる。)
 ダラガーン 私は抗議する! これはエフロシーモフの件には何の関係もない!
 イェーヴァ あるわ。ちゃんとある。あの時に私に言ったこと、それを皆の前で言うのがあなたは怖いのね。ということは、何か都合の悪いことを言っているんだわ。
 ダラガーン 怖がってなんかいるもんか、俺は!
 イェーヴァ じゃあ言いましょう。あなたが川のほとりで私に言った言葉。「君、アダームのこと、好きじゃないんじゃない、イェーヴァ。」
 アダーム(陰気に。)それで君は何と答えたんだ。
 イェーヴァ 「あなたの知ったことじゃないでしょう。」と。そしたら囁いたわね。「僕は身も心も生涯あなたに捧げる。」って。
 アダーム それで何と答えた。
 イェーヴァ 「愛してないわ、あなたのことを。」と。そしたら私の手をぐっと掴んで、捻り上げたわね。そして訊いた。「じゃあエフロシーモフを愛しているのか。」って。そして繰り返して言った。「えーい、あのエフロシーモフの奴。」だからこの人、エフロシーモフを撃とうとした。私、皆さんの前ではっきり言う。(エフロシーモフを指さして。)あの人、静かな人、魅力的な人。他の人達はみんな、どういう訳か、私にズボンのボタンを付け直してくれと頼んだわ。でもあの人には頼まれたことがない。見て、ズボンはずり落ちそうなのに。あなた方にはもううんざり! みんな撃ち合いをやって、死ねばいいの。それとも今日の夜、私が自分を撃ち殺すの。それが一番いい。アダーム、あなた昨日の朝、私に訊いたわね。「お前、ダラガーンのことが好きなのか。」 そして、夜、もう寝ようと思っていた時、うるさく訊いたわ。「お前、エフロシーモフのことをどう思っているんだ。」今日の昼は、うるさい、しつこい、ポーンチック・ニェパヴェーダ・・・
 アダーム 何。ポーンチックが何をやったんだ。
 イェーヴァ あの退屈な退屈な、自分の小説を、私に読んで聞かせたの。ほら、あの・・・畔の上で声がした。(「おーい、ヴァーニャ、ヴァーニャ」)よく覚えていないけど・・・泥にまみれた顔が畔を切っている。スカーフをして・・・だったかしら・・・耕している。私、あの小説、もう怖い! みんなで私をいじめている!
(長い間。)
 エフロシーモフ 今、海に太陽が登っている。(その海に)超弩級の戦艦が艦隊を組んで浮かんでいる。(戦争は終わった。)もうどこにも戦闘はない。あの鳥の声でそれが感じられる。ガス爆弾で毒殺する必要はなくなったのだ。
 マルキーゾフ 片足を潰されたびっこのおんどり・・・ 尋常でない知識をもったおんどり・・・あのおんどりが、不安の表情を表していない。(落ち着かない表情で)空を眺めるのを止めた。戦争が終わったことの証明だ。
 ダラガーン この女が言ったことを皆信じるのか。俺が個人的理由でエフロシーモフを殺そうとしたというあの話を。
(間。)
 エフロシーモフ いや、誰も。
(間。)
 ダラガーン この毒ガス対抗器、焼夷弾(しょういだん)五個、機関銃・・・これが残っていることに感謝しよう。教授、ソ連邦が再び息を吹き返した時、あなたはこの発明の功績で、勲章授与だ。(器械を指さして。)なんていうすごい頭脳なんだ! その後、爆弾廃棄罪で裁判にかけられ、多分銃殺刑だ。では再会を期して。しかし今度会う時は、国家が我々を裁く時だ。(時計を見る。)時間だ。
 アダーム まだ他に議題があるか? あるなら早くしてくれ。そして簡潔に。ダラガーンが出発する時間だ。
 マルキーゾフ 承認して貰いたい事項がある。(一枚の紙を取り出し、読む。)小生のこのザハールという名前を、ヘンリーに改名したい。よろしいか。
(沈黙。)
 アダーム 理由は。
 マルキーゾフ 新しく生まれ変わった世界で、昔ながらの馬鹿な名前、ザハールなどと呼ばれたくないんだ。
 アダーム(当惑の体。)反対は?(誰も声なし。)では承認する。
 マルキーゾフ 承認のサインを。
(アダーム、サインする。マルキーゾフ、紙をポケットに入れる。)
 ダラガーン では諸君、さらばだ。三時間後にはモスクワだ。
 イェーヴァ 私、怖い。
 ダラガーン アダーム!
(間。)
 ダラガーン 俺が生きていたらの話だが、もう彼女を追いかけるのは止す。俺は惚れていた。彼女の言った事は本当だ。もう決してやらない。俺は一旦約束したら守る性質(たち)だ。忘れてくれるか?
 アダーム 分かった。お前は約束を守る男だ。忘れよう。(ダラガーンを抱擁する。)
 ダラガーン(ラジオを見る。)ラジオからのニュースはもう聞けないな。
 ポーンチック 弾がラジオに当たったからな。
 ダラガーン(俺はいつ帰れるか分からない。)俺または俺の消息を、二十日間、つまり八月一日までは待っていてくれ。 (待てというのはつまり、)その二十日間、毎日火をたいて煙を出して欲しい。特に八月一日、いや、二日、三日は空から見えるような、大きな煙を上げて欲しい。しかし三日までに帰らなかったら、もう待たなくていい。俺からの知らせも待つことはない。(さあ、行くぞ。)空から機関銃の音を聞いてくれ。喇叭もならす。インメルマン回転も見てくれ。
(走って退場。)
(アダームとポーンチックも退場。)
 エフロシーモフ イェーヴァ! イェーヴァ!
 イェーヴァ サーシャ!(訳註 アレキサーンドルの愛称。)
 エフロシーモフ イェーヴァ、私はもうここを出て行く!
 イェーヴァ 何ておっしゃって? 出て行くんですって? 何かをほうっておいて? 大切なものがある筈よ。行かないで! 行くなんてひどいわ! (退場。)
(エフロシーモフも退場。)
 マルキーゾフ(一人。)なあんだ。そういうことか。(間。)ドルをくれたりして馬鹿な話だ。(間。)ヘンリー・マルキーゾフ。響く。これは響くぞ。
(地響きがするようなエンジンの音。合図の喇叭。)
 マルキーゾフ 離陸したぞ!(空を見る。)飛んだ。飛んだ。
(空で機関銃の音がする。)
 マルキーゾフ そうだ。モスクワへ。モスクワへ。行って来るんだ。(アコーデオンを取り上げる。)どうしたんだ、あれは。尻尾が振れているぞ。尻尾から落ちるんじゃないだろうな。しっかりしろ、チャンピオン。インメルマン回転か? あ、違った。行っちゃった。
(飛行場から、照明弾のシューシューいう音が聞こえ、ズドンと飛ぶ。次にまた一発。)
 マルキーゾフ やった、やった。(アコーデオンを弾く。陽気な行進曲。)「おーい、ヴァーニャ、ヴァーニャ。畔の上で声がした。」
                      (幕)

     第 四 幕
(八月十日。日の出前。古い樫の木(複数)。テントの側面が見える。テントの傍に焚火。遠くにも焚火が点々と見える。樫の木の上から縄梯をつたってマルキーゾフがびっこをひきながら降りて来る。片手にたいまつ。)
 マルキーゾフ やれやれ・・・(手帳を取り出し、焚火の傍で書き始める。)「巡回兵ヘンリーがいくら目を凝らして見つめても無駄だった。暗い空があるばかりだ。闇のほかは何もない。木に止っているふくろうの目がところどころに見えるばかり。そうだ。この真っ暗闇の中、一人の勇者(訳註 これはダラガーンのことらしい。文章が故意になのか、すぐには分からないように出来ている。)は世界のどこかで戦死し、残りの彼らはそのまま森の中に、永久に放置されるのだ。」(手帳をポケットにしまう。)森の中の生活。退屈。やりきれない退屈さだ。皆でここを出なきゃ。そして一度死に絶えたあの空間に戻るんだ!(テントの中を覗く。)おい、起きろ、ポーンチック。起きるんだ。
 ポーンチック(テントから。)誰だ。何か用か。
 マルキーゾフ 俺だ。ヘンリーだ。起きろ。
 ポーンチック(テントから。)誰だ、くそったれ。ヘンリーだと? 丁度うとうとしかけたのに、ヘンリー、ヘンリーとうるせえな! (テントから出て来る。手が出るよう、穴がくり抜いてある衣装。)まだ早いぞ。一体何の用だ。
 マルキーゾフ もうお前の番なんだ。また次の当番さ。
 ポーンチック 俺はもう嫌だ。(間。)嫌だ、嫌だ。もう十日も我々は寝ちゃいないんだぞ。毎晩油の多い木を探してきては焚く。それも四方の隅全部にだ。
 マルキーゾフ 全くだ。それに昼間は燃え難い木で煙を出す。
 ポーンチック 帰って来るなんていうのは連中のデマだ。専横極まりない。今日は何日なんだ、一体。
 マルキーゾフ ちゃんと言えば、八月九日日曜日だ。
 ポーンチック 何が九日だ。違うぞ。空を見てみろ、空を。
 マルキーゾフ うん、白んで来たな。
 ポーンチック そうだ。だからもう十日なんだ。もう沢山だ。ダラガーンははっきり言ったじゃないか・・・もし三週間たって帰らなかったら、つまり八月の三日になっても帰らなかったら、俺はもう帰らない。(そう言ったんだ。)今日は八月の十日だぞ。期限を過ぎて一週間もアダームのせいでこの重労働だ。この為に小屋まで建てたんだからな。俺はもううんざりだ。
 マルキーゾフ うんざりでも止める訳にはいかない。なにしろアダームはここではお頭なんだからな。
 ポーンチック 嫌だ。もう止めだ。うんざりだ。(やらせようったって)もうやるもんか。今日の朝にも会議を召集して貰う。こんな場所は引き払ってもっと広々とした所へ行くよう決議するんだ。何だ、あれは?
 マルキーゾフ え? ああ、蜘蛛の巣だ。
 ポーンチック 森に蜘蛛の巣か。秋だ! 三週間もしてみろ、雨の季節だ。霧が出てきて、それから寒くなってくる。そうなったらどうやってこの森から抜け出せるんだ。(たとえ出られても)それからどうなるんだ、どこへ行くんだ。フン、ここが別荘の建てられる緑の多い町? アダームの森? いやはや、呆れたもんだ。
 マルキーゾフ 何を言ってるんだ、お前は。毒ガスによる汚染が酷くて、流れ流れてここに行きついたんじゃないか。
 ポーンチック 逃げるんだったら西だった。ヨーロッパにすべきだったんだ。都市と文明のある場所、灯(ともしび)のある場所に。
 マルキーゾフ あそこに灯があるだと?(冗談じゃない。)あそこも死体の山。(生きている奴だって)できものだらけ。物資だって、何もないという話じゃないか。
 ポーンチック そんなこと! 何も分かっちゃいないんだ。何も。(間。)共産主義陣営が依怙地になって言っているだけじゃないか。ソ連邦が必ず最後の勝利を得るだなどと、まったく馬鹿げた思い込みだ。俺の考えを言えばダラガーンなんてもう死んでるに決まっているさ。たった一機で敵機、それもヨーロッパ勢力に出会って、交戦状態にはいって・・・ファナチックだ。あいつら全部ファナチックだ。
 マルキーゾフ ファナチック? 何だい、それは。説明してくれよ。書いとくから。
 ポーンチック 止めとけ。下らん。(ダラガーン、何だ、あいつ。)共産主義のために、共産主義のために・・・実際は自分の野心だけじゃないか。あいつはクラブのエースをやっつけた。だから世界のチャンピオンだ。そのチャンピオンは今どこにいる。(飛行機の残骸と一緒に、)どっかに転がっているのさ・・・(間。)ああ、僕の神経、神経がまいっている。・・・
 マルキーゾフ コニャックを一杯やるか。
 ポーンチック いいな、ブルルルル・・・寒くなってきやがった。朝だ、朝だ。陰気な、厳しい夜明けだ。
(二人、焚火の傍でコニャックを飲む。)
 マルキーゾフ どうだ、神経は?
 ポーンチック 神経か、俺の神経はピリピリしていてな。物が見え過ぎるんだ。共産主義は何をもたらしたか。世界の震撼(しんかん)だ。俺達は全世界を震え上がらせたんだ。「俺達」と言ったって、我々インテリゲンチアじゃない。他の連中だ。あのプロパガンダ、あの我々がやった価値の破壊、西欧世界が文明をその上に築いてきた価値・・・その価値を我々は破壊したんだ。西欧は我慢した。耐えて、耐えて、そしてとうとう耐え切れなくなったんだ。野蛮人ども、死ね! そしてそれがダラガーンの運命さ。今じゃあいつは死んでいる。ダラガーンはここにいた。しかし今はいない。生還はおぼつかない。そしてかっての労働組合員、ザハール・マルキーゾフは今森の中で、野鳥のように、ふくろうのように、木の枝の上に坐っている。そして空を眺めている。
 マルキーゾフ 俺はヘンリーだ。ザハールじゃない! あれはサインされて、合法的にもう承認されたんだぞ。もうザハールとは呼んで貰いたくない!
 ポーンチック 何を怒ってるんだ。まあいい、どうでもいいんだ。・・・分かった分かった。下らない幻影だ。ヘンリー、ヘンリーが響くとはな。ああ、分かった、分かった。・・・何か一言言うと後も聞かないで、咬みついて来る。こうなったらもう終だな。
 マルキーゾフ 俺は他のどんな人間とも平等なんだ。いいか、他のどんな人間ともだ!今はもうブルジョアなんかいないんだ。
 ポーンチック そんなにガミガミ怒鳴らなくたっていいんだ。さあ、コニャックでもどうだ、ヘンリー四世殿! いいか、ソ連邦というものがあった。そして今はないんだ。無人空間は柵で仕切られ、立札が立っている。「伝染病蔓延。立入禁止。」野蛮と文明が衝突するとこうなるんだ。ヨーロッパもこんな風にめちゃめちゃになっている、なんて僕が思っていると思ったら大間違いだ。なあ兄弟、ヘンリー四世殿。あっちじゃ、電気がちゃんと通(かよ)っている。アスファルトの上に車が飛ぶように走ってるんだ。ところが俺達はどうだ。犬みたいに焚火の傍で骨を齧(かじ)って、ここから出られないでいる。どうしてか。川の向こうが、伝染病だからさ。・・・共産主義? そんなものは犬に食われてしまえばいいんだ。
 マルキーゾフ へえー、誰だったかな、書いたのは。「おーい、ヴァーニャ、ヴァーニャ。 畔の上で声がした。」お前さん、共産主義礼賛だったんじゃないのか。そう思ってたがな。
 ポーンチック 黙れ! お前なんかにこんな微妙な問題が分かってたまるか。
 マルキーゾフ そうそう。・・・蛇大明神殿だからな。居心地よく、アダームの懐(ふところ)に抱えられている。蛇みたいにな。
 ポーンチック 蛇はやめろと言ったろう。このどあほ! 詩人の傷つきやすい(繊細な)神経に触るなと言うんだ!
 マルキーゾフ 今はもうこの頭はごちゃごちゃなんだ。何を信用したらいいんだ。共産主義か、反共産主義か。
 ポーンチック そんなものは死んだんだ。いいか、本当に死んだんだ。ふん、共産主義か。(しかし、強い。)死んでも、亡霊を遺すんだからな。憲兵の制服を着た亡霊を・・・
 マルキーゾフ 誰のことを言ってるんだ。言えよ。誰のことなんだ。
 ポーンチック アダームさ。
(間。遠くからピストルの音。ポーンチックとマルキーゾフ、飛び上がる。)
 マルキーゾフ 何だ、あれは。
(二人、耳をすませる。)
 ポーンチック ああ、・・・心配はいらない。射撃の練習だ。降霊術か。人類の父アダームが空に向かって撃ったんだ。死んだ祖先の霊を呼びだそうとな。(叫ぶ。)呼べ、呼べ。(呼んだってどうせ)ダラガーンは帰っちゃ来ない! もう八月の十日だぞ! うんざりだ!
(沈黙。)
 マルキーゾフ なあ、蛇大明神、あんまり退屈なんで、僕は小説を書いたんだ。
 ポーンチック(へえー)読んでみろよ。
 マルキーゾフ(ポケットから手帳を取り出し、読む。)「第一章。地球上の人類が死に絶え、アダームとイェーヴァだけが生き残った時、ヘンリーも生き残っていた。そしてイェーヴァを愛した。熱烈に愛した。ヘンリーは毎日松葉杖をついて、雄鶏のところへ行き、雄鶏にイェーヴァの話をして聞かせた。何故なら、他には誰も話して聞かせる人間がいなかったからである。」
 ポーンチック ふん、それで?
 マルキーゾフ これで終だ。第一章はこれでおしまい。
 ポーンチック 分かったよ。だから、その先は。
 マルキーゾフ その先は第二章になる。
 ポーンチック いいからはやくやれ!
 マルキーゾフ (読む。)「第二章。「イェーヴァ、イェーヴァ。」畔の上で声がした。」
 ポーンチック 何だって? そこはすぐ消すんだ。
 マルキーゾフ 自分で言ってたじゃないか。人は学ばねばならない。
 ポーンチック 学ばねばならない。そうだ。しかし盗めとは言わなかったぞ。それからな、だいたいどうなってるんだ。ヘンリーはイェーヴァを愛せない約束じゃないか。あの千ドルはどうしてくれる。(耳をすませる。)待てよ、あれは・・・
 マルキーゾフ(飛び上がる。)爆音だ。空から爆音が聞こえるぞ。
 ポーンチック 何が爆音だ。お前の頭の中が鳴っているだけさ。
 マルキーゾフ 誰か来るぞ。
 ポーンチック 誰だ!
(森が明るくなってくる。)
 アダーム(遠くから。)焚火の傍にいるのは誰だ。
 マルキーゾフ 俺達だ!
 アダーム(登場。)どうしたんだ、同志ニェパヴェーダ。エフロシーモフと交替しないのか。もう時間だぞ。
 ポーンチック 俺は行かない。
 アダーム 自分のやっていることが分かっているのか、ニェパヴェーダ。
 ポーンチック 俺はお前の奴隷じゃないんだ、アダーム委員長!
 アダーム 私はこの開拓地の委員長だ。君に服従を要求する。
 ポーンチック ヘンリー、お前、いるな? よく聞け。委員長が無茶苦茶をやり始めれば服従の要はない。逆に疑問を呈する権利があるんだ。いいか、お前のやらせていることは無茶なんだ。ただ疲労に疲労を加えているだけなんだ!
 アダーム(黙れ!) 私は党の意を体して・・・
 ポーンチック 何が党だ。党が何処にある。そんなもの世界中捜したってありはしない!
 アダーム(ピストルを取り出す。)何だと。もう一度言ってみろ。ただじゃおかんぞ。
 ポーンチック(木の陰にさっと隠れて。)ヘンリー、お前聞いたな、あの脅迫を。おまけにピストルまで突き付けて。暴力だ、暴力。もう、うんざりだ。
 アダーム ポーンチック、君はインテリだ、知識人じゃないか。ソ連を代表する作家なんだ。私にこんなことまでさせないでくれ。私は疲れているんだ。火の番を頼む。交替してくれ。
 ポーンチック(木の陰から出て来て。)俺がソ連を代表する作家だと? 見ろ!(原稿を取り出して引き千切る。)泥にまみれた顔・・・こうだ。ふっくらとした頬・・・こうだ。バルコーンスキー、バリャチーンスキー公爵・・・こうだ。ふん、知識人、才能ある人物、ポーンチック・ニェパヴェーダか。見ろ。書いたものといやあ政府へのおべっかだ。 (マルキーゾフに。)「畔の上で声がした。」これはお前に譲る。書きやいいんだ!(俺はもうどうでもいい。)アダームの暴力に屈するだけだ。(退場。)
 アダーム ヘンリー、ヘンリー。
 マルキーゾフ あんたはもう寝た方がいい。これで二晩まるまる寝てないんだろう?
 アダーム(君、見張りをまた頼む。)もう一度木に登って貰えるかな?
 マルキーゾフ 登りますとも。山にでも。
 アダーム どう思う、君は。帰って来るのかな、ダラガーンは。
 マルキーゾフ 原則的には・・・帰るんだろう。なにしろ原則が大事なんだろうからな。(退場。)
(アダームも退場。)
(森、明るくなる。暫くしてエフロシーモフ登場。ぼろぼろの衣服。煤だらけ。テントに入る。テントの隙間から、エフロシーモフがともした灯が見える。間。イェーヴァ、忍び足で登場。頭にスカーフを巻いている。片手に背嚢、片手に編んだ篭。(訳註 英訳では背嚢は背負っている。))
 イェーヴァ サーシャ!
(テントの隙間が開き、エフロシーモフが顔を出す。)
 エフロシーモフ(両手を差し伸べて。)イェーヴァ、君、もう起きてるの?
 イェーヴァ 灯を消して。もう明るいわ。
 エフロシーモフ(灯を消す。)君、怖くない? 僕達二人がこんなにいつも二人だけでいるのが。アダームが見たら怒るんじゃないか。
 イゥーヴァ 私怖くないわ。私達二人がこんなにいつも二人だけでいるの。そしてアダームが見て怒ったって。あなた、顔洗ったの?
 エフロシーモフ 洗ってない。テントに水がないんだ。
 イェーヴァ さあ、顔を出して。ざっと拭いて置くくらいはしなくちゃ。(優しく顔を拭いてやる。)サーシャ、サーシャ! ああ、この服。こんなにぼろぼろ。それにあの火で煤だらけ。
(間。)
 イェーヴァ あなた何を考えているの? 夜。教えて!
 エフロシーモフ 灯をじっと見ていると、ジャックが現われて来る。ああ、生き残った人間の中で私が一番不幸せだ。連中は誰も何も失ってはいない。せいぜいマルキーゾフが足を失ったぐらいのものだ。私が失ったもの、それは何もかもだ。私の心は壊れてしまったんだ、イェーヴァ。みんなのこんな姿を見て。だが一番の打撃、それはジャックを失ったことだ。
 イェーヴァ ああ、サーシャ、そんなに犬を愛するなんて、あっていいことかしら、本当に。酷いわ、酷いわ!
(静かにアダーム登場。 二人を見て身震いする。 それから陰に隠れ、聞く。話している二人には彼は見えない。)
 イェーヴァ それは、犬は死んだわ。でもどうしようもないことでしょう? 今ここには、この薄暗い森には、女性がいるのよ。それもどういう女性でしょう。ひょっとすると、世界でただ一人の女性かも知れない。その女性が、睡眠の時間に眠らないで、男の窓辺にやって来て、その目をじっと見ている。それなのにその人、死んだ自分の犬のことを思い出すだけ。ああ、なんて悲しいんでしょう。その男の人だって哀れだわ!
 エフロシーモフ(突然イェーヴァを抱擁する。)イェーヴァ、イェーヴァ、イェーヴァ!
 イェーヴァ ああ、やっと、やっと分かったのね!
(アダーム、手の甲で目を抑える。首を振る。)
 イェーヴァ 私、ジャックより駄目なのかしら。その人、窓の敷居をよじ登って来た。その時、その人の目、カッと光った。その光で私、目が眩んだ。今ではクロロフォルムの化学式も言える。その人の下着だって、出来れば洗いたい。戦争なんて大嫌い。私達、気持ちが同じだわ。もともとは同じ一つの心、それが今まで半分に切り離されていただけ。それに私、その人の命を救ったの。それを考えて。(女の私が、)武器を取って! ああ、酷いわ。随分な差別よ。その私より、口も利けないジャックの方を愛するなんて。
 エフロシーモフ ああ、イェーヴァ、愛していた。ずっと前から、君を。
 イェーヴァ どうして、じゃ、黙っていたの? ね、どうして?
 エフロシーモフ 自分で自分の感じていることがよく分からなかった。私は生きていちゃいけないんじゃないかと・・・だって、アダームが・・・(いるんだから、私は不要なんだ。)ああ、アダーム。彼が私を苦しめている? (とんでもない。)私は彼が可哀相なんじゃないか。
 イェーヴァ あなたは天才だわ。お馬鹿さんの天才。(そんなことまで考えるなんて。)私、アダームのこと嫌い。どうしてあんな人と結婚したのかしら。分からない。どうしても。あの時は多分好きだったんだわ。・・・そしたら途端にあの大惨事。それで急に分かったの。あの人の顎骨が石で出来ていて、戦闘的で、徒党を組んで何かするのが好きな人だっていうことが。そして、聞かされる言葉はいつも、戦争、毒ガス、伝染病、人類、「ここに都市を建設しよう」、人的資源の発掘! 私、人的資源なんていらないわ。人間が欲しいだけ。人間て言っても、たった一人でいいの。それからスイスに家が一軒。戦争、階級、秘密協定、・・・みんなうんざり、うんざりだわ。私あなたのこと好きだわ。それから化学も・・・
 エフロシーモフ ああ、君は私の妻だ! さあ、全部アダームに話そう。それから、どうする?
 イェーヴァ ほら、背嚢の中に食料。それから籠には足を怪我した鶏が一羽。あなたに鶏の世話をして貰うわ。ジャックのことは忘れて貰いたいから! ・・・一時間で車の所まで行ける。運転して。・・・私を連れて行って・・・
 エフロシーモフ この馬鹿な私の頭に、今太陽が照っている。ああ、君なしでは私はもう生きられない。好きだ。好きだよ、イェーヴァ。
 イェーヴァ 私はイェーヴァ。でも、あのアダームはアダームじゃない。本当のアダームはあなただわ。私達は山に住むのよ。(エフロシーモフにキスする。)
 エフロシーモフ さあ、アダームに会いに行こう。
 アダーム(登場。)私を捜すことはない。ここにいる。
 イェーヴァ アダーム、あなた盗み聞きしていたのね! 盗み聞きはいけないわ。絶対いけないわ。それは私の信念よ。(それに)これは公的な陰謀ではないわ。私的な話よ。一人の男と、一人の女の。盗み聞きが許されるような問題じゃないわ。おまけに手にはピストルなんか持って。脅しね。はやくあっちへ行って頂戴。
 エフロシーモフ いや、イェーヴァ、あれは本気なんだ。私は一度撃たれたことだってある。だからもう演技なんかじゃない。今度は演技じゃ効き目はないからね。
 イェーヴァ 行って。早く!
 アダーム 盗み聞きしたんじゃない。聞こえてきたんだ。それも丁度君たち二人が僕に伝えたいと言っていたことだ。(手間が省けたじゃないか。)ピストルはいつだって持っている。今撃ったばかりだ。死んだダラガーンを記念してね。彼はもう戻って来ない。あの焚火の仕事もこれで終だ。君は僕の顎骨のことを言った。石で出来ているとね。馬鹿な話だ。誰の顎骨だってみんな同じだ。(それから)君たち二人だけが人間だなんて言っていたな。鶏のことを思いやれるからと。しかし我々の思考は、鶏よりはもう少し広いものを対象にしているんだ。違うか? まあいい。こんなことは君たちには大事じゃないんだから。これは死んだダラガーンに対して大事なんだ。あいつは英雄だ。掛け値なしの! イェーヴァ、あの晩のことを覚えている? アーニャ、トゥーレル、その他みんなが死んだあの晩のことを。あの時から僕はずっとポケットにゼリョーヌイ・ムイス行きの切符を持っている。七号車だ・・・ああ、こんな話の時、鶏なんか出る幕であるもんか。僕の顎骨が何で出来ていようと、それも関係ない。妻が僕を捨てようとしている。この世に僕をたった一人残して・・・これに対して僕に何が出来る。何も出来はしない。さあ、切符だ。受け取ってくれ。そして行くんだ。君は自由だ。どこへ行ってもいい。
 イェーヴァ(啜り泣きしながら。)アダーム、ご免なさい。でも私、あなたを愛してないわ。さようなら。
 アダーム 教授! あなたは僕の妻を連れて行くんだ。僕の名前も持って行って欲しい。これからは、あなたがアダームだ。それから頼みがある。今すぐここを立ち去ってくれ。ポーンチックとマルキーゾフが来たら、僕は苦しい。しかし車のところで一時間待っていてくれ。二人が一緒に行きたいと言うかも知れない。さあ、行って!
 エフロシーモフ では、これで・・・(イェーヴァと退場。)
(アダーム、喇叭を取り、吹く。マルキーゾフとポーンチック、登場。)
 アダーム 諸君! 種々の状況から推定して、あの飛行士、ダラガーン・・・我が敬愛する、かのダラガーンは死亡したと判断する。しかし、我がソ連邦は、彼の功績を深く心に遺すものである。いづれにせよ諸君はこれで自由だ。希望するものはこの森から出て、対岸に行ってよろしい。かの地での疫病を怖れなければ。希望するものはこの私とここにまだ暫く残っていてもよろしい。この都会に。(テントを指差す。)
 ポーンチック これを、エフロシーモフには伝えないのか。
 アダーム エフロシーモフは彼の妻イェーヴァと・・・私は彼女と離婚したんだ・・・イェーヴァと二人で、もうここを出て行った。今ごろはあのけもの道を通って・・・(ポーンチック、不安な様子を見せる。)大丈夫だ、ポーンチック、心配はいらない。車のところで二人は君たちを待っている。
 ポーンチック 僕は連中と行く・・・(背嚢と武器を取り上げ、急ぎ退場の様子を示す。)
 アダーム で、君はどうする、ヘンリー。
 マルキーゾフ 僕?
 ポーンチック ヘンリー、おい、びっこ王ヘンリー! お前、変な気を起こすんじゃない。こんなところに残ってどうしたいんだ。森のけものに変身したいのか。
 マルキーゾフ なあ、アダーム。一緒に行こう。森の中で一人でいるのはまづいよ。
 アダーム 何故だ。
 マルキーゾフ 飲んだくれるだけさ。ああ・・・イェーヴァと一緒に行くのが厭なんだな。
 ポーンチック 違う。こいつには誇りがあるんだ。「俺は負けちゃいないんだ。」という悪魔の誇りが。まだダラガーンが空から降りて来ると信じている。そう。誇りは持ち続けて貰いましょう。あの森の、共産主義掘立小屋に対しても。どうせ雪が降って来るまでの間さ、それも。じゃあな。ヘンリー、行こう!
 マルキーゾフ 一緒に行こう、アダーム。
 アダーム さらばだ。行ってくれ。
(マルキーゾフとポーンチック、退場。間。)
 アダーム 陽が照ってきた。連中のために自分を騙してきた。が、それももう不要だ。火も煙も出したって意味はない。ここにはもう誰もいないんだ。ああ、今はもう何も考えたくない。俺だって人間なんだぞ。眠りたい。俺は眠りたいんだ。(テントに入る。)
(間。暫くして飛行機の着陸する音。うなるような爆音。暫くして聞こえなくなる。ついで機関銃の音。アダーム、テントから飛び出して来る。躓く。心臓を抑える。走ることが出来ず、坐りこむ。喇叭の音。遠くから人間の声。それからヴィールエス(女性)、走って登場。飛行服を着ている。ヘルメットを脱ぎ捨てる。顔にはできものの跡あり。)
 ヴィールエス Adam! Efrossimoff! (アダームを見て。)Buenos dias! Ole! Ole!
 アダーム(しゃがれ声で。)何だ、これ・・・君、誰?
 ヴィールエス Escolta!(護衛隊。)(空を指差して。)Gobierno mundial.(世界連邦の。)Soy aviador espanol! (私、スペイン人の飛行士。)Ou est-ce que se trouve Adam? (アダームはどこ?)
(二機目が着陸する音。アダーム、ピストルを掴んであとずさりする。)
 ヴィールエス Non, non! Je ne suis pas ennemie fasciste! Etes-vous Adam?(違う、違う。ファシストじゃない。敵じゃない。あなた、アダーム?)
(喇叭の合図。)
 アダーム 僕はアダーム。ダラガーンは? Ou est Daragane? (ダラガーンはどこだ。)
 ヴィールエス Daragane viendra, viendara!(ダラガーンはすぐ来るわ。)
(森に太陽があたる。ティモネーダ、走って登場。アダームと握手。ヘルメットを投げ捨て、がぶがぶと水を飲む。それからダラガーン登場。)
 アダーム(叫ぶ。)ダラガーン!(心臓を抑える。)
(三機目が着陸。再び喇叭の合図。)
 ダラガーン 生きていたか。委員長は。
 アダーム(ダラガーンの胸に頭を埋める。)ダラガーン、 ダラガーン!
 ダラガーン 遅くなってしまった。(すまん。)フィンランド上空の闘いに参加していたんだ。
 ゼーヴァルト(走って登場。叫ぶ。) Russenn! Hoch! (ああ、ロシア人!)(ダラガーンに訊く。)Ist das Professor Efrossimoff? (この人、エフロシーモフ教授?)
 ダラガーン Nein, nein!(違う、違う。)これはアダームだ。
 ゼーヴァルト Adam! Adam!(アダームの手を握る。)
 ダラガーン イェーヴァは? びっこは? どこなんだ。
 アダーム 遅かった。みんな我慢しきれなくて出て行った。私が一人残ったんだ。
 ダラガーン で、エフロシーモフは?
 アダーム イェーヴァと一緒に出て行った。イェーヴァはもう私の妻じゃない。私は一人だ。
 ダラガーン どっちの方へ?
 アダーム けもの道だ。車のある方へ。
 ダラガーン 同志パーヴロフ!
 パーヴロフ 何だ!
 ダラガーン 残りの四人は、そこの小路を行った。連れ戻して来てくれ。その中にエフロシーモフもいる。
(パーヴロフ、走って退場。)
 ダラガーン(突然アダームを抱擁する。)元気を出せ、アダーム。見ろ。俺の妻だ。ぶっ倒れて死にかけていたんだ。毒にやられて。体中できものが出来て。ここから遠く離れた場所だ。(ヴィールエスに。)マリーヤ、こいつを抱擁してやれ。こいつはアダームなんだ。
 ヴィールエス Abrazar?(抱擁?)(アダームを抱擁する。)
(アダーム、ヴィールエスの肩にすがって泣き始める。)
 ダラガーン おい、おい。
 ゼーヴァルト(アダームに水を渡す。)ほらほら。
 アダーム(切り株に腰を下ろして。)人間だ。人間だ・・・ここへ来てくれ、ダラガーン。そうだ。モスクワはどうなっているんだ。
 ダラガーン 人が帰って来ている。ウラルから集団で。
 アダーム(空襲で)全焼?
 ダラガーン 全焼じゃない。一部だ。通常の爆弾だ。
 アダーム 全員死亡?
 ゼーヴァルト Nein, nein!(違う、違う。)
 ダラガーン 違う。あの毒ガスは使わなかった。普通のやつだ。死亡者約三十万人。
 アダーム(頭を振る。)三十万か。
(マルキーゾフとポーンチック、走って登場。)
 マルキーゾフ(興奮して。)人間だ! 外国人だ! (大声で。)新しい時代の到来だ!
 ダラガーン 暫くだったな、ヘンリー!
 ポーンチック 勝利だ! 勝利だ。我々は勝ったんだな、ダラガーン。
(遠くに、重い爆音が聞こえる。)
 ダラガーン さあ、彼も着いたぞ。(叫ぶ。)迎えに行ってくれ!
 ゼーヴァルト Zu den Apparaten!(飛行機のところへ!)(走り、退場。)
(チモネーダも、走り退場。)
 アダーム おお、ポーンチック、ポーンチック!
 ポーンチック 同志アダーム! あれは一時の発作です。気弱さからきた、臆病からきた発作です。ああ、私は嬉しい。嬉しくって嬉しくって、天にも登る心地です。私は再び人間を見た。勇気が出ました。ああ、どうして原稿を捨ててしまったんだ。アポローンがまた私を呼んでくれるところなのに。
 マルキーゾフ アキーモヴィッチがね・・・
 ポーンチック うるさい、黙れ、びっこ!
(イェーヴァとエフロシーモフ、登場。イェーヴァ、エフロシーモフの手をひいている。エフロシーモフは鶏の
籠を持っている。二人、木陰にはいる。)
 アダーム ああ、あの二人を見るのは辛い。
 ダラガーン 空港に帰っていた方がいい。
(アダーム退場。沈黙。ダラガーンは陽のあたる場所にいる。制服の装備がチカチカと光る。エフロシーモフ、木陰に立っている。)
 ダラガーン 暫くだな、教授。
 エフロシーモフ 暫くだ、人殺し殿。(顔に皺を寄せる。震える。)
 ダラガーン 私は人殺しではない。私は護衛隊の指揮官だ。レニングラードまで書記長と同道するところだ。人を殺す必要はもうなくなった。我々には敵というものがいなくなったのだ。教授、あなたに喜んで貰えることがある。あの例の毒ガスを発明した男を私は撃ち殺してやった。
 エフロシーモフ(身をすくめて。)君が誰かを撃ち殺したと聞いて私が嬉しいと思うのか。
 ヴィールエス(突然。)Efrossimoff?
 ダラガーン そうそうそう。彼がエフロシーモフなんだ。よく見るんだ、彼を。君の命を救ったのは彼なんだから。(器械を指差す。)
 ヴィールエス Hombre genial!(自分の顔のできものの跡を見せる。)
 イェーヴァ サーシャ、お願い。喧嘩しないで。この人を怒らせないで。無駄なことよ! 勝利者とは争わないの。(ダラガーンに。)この人をどうしようって言うの。私達の行く道を何故阻むの? 私達は大人しい人間、他の人への悪巧みなんか何にもないわ。私達の好きなようにさせて! (突然ヴィールエスに。)女の人だわ! 女の人! 女の人に会えたわ、やっと!(泣く)
 ダラガーン 彼女を落ち着かせて。水を飲ませて。彼をどうこうしようなんて何も私は思っちゃいない。(エフロシーモフに。)教授、あなたは我々と一緒に(モスクワまで)飛んでくれなきゃ困る。そうだ言い忘れていた。・・・今の話で脱線してしまったんだ。・・・教授、あなたを狙って撃ったことを、私は後悔している。命中しなかったのは実に幸運だった。(マルキーゾフに。)君のお陰だ、ヘンリー。君に礼を言うよ。
 マルキーゾフ そんなことは分かってたんだ。もともと頭のいい男なんだからな、俺は。ダラガーン、ちょっと教えてくれないか。今はドルはどうなっている。
 ポーンチック 馬鹿たれ!(退場。)
 ダラガーン ドルだと? 何だい、それは。
 マルキーゾフ いや、ちょっとその・・・ただ気になったのでね。おーい、蛇大明神・・・(退場。)
 ダラガーン(エフロシーモフに。)引退したいっていう話なんだがね、教授。勿論許可するに決まっているんだが・・・ただ最後に一つ仕事をして貰いたいんだ。ネヴァ河にもうあなたの為に水上飛行機が待機している。明日早速酸素で毒ガスを焼却して貰いたい。あなたの助力で、汚染されたモスクワを復興させたいんだ。その後はお好きなように。地球上どの場所でも構わない。それにあなたにはヴィザは不要だ。
エフロシーモフ 私には一つしか望みはない。もう爆弾を落とすことをやめて欲しい。それから行く場所はスイス。
(喇叭の合図。巨大な飛行船の影が森に落ちる。)
 ダラガーン さあ行こう、教授!
 エフロシーモフ あの毒ガス爆弾の破棄のかどで、裁判にかけられるのか。
 ダラガーン ああ、教授、教授! 人間の組織の話となるとあなたには何も分からないんですね。まあいい。とにかく、少なくともあなたの才能を私達に提供してさえくれれば。さあ、行きましょう。書記長がお会いしたいとのことです。
                     (幕)

                             一九三一年
          
  平成五年(一九九三年)十一月二十九日訳了

http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html