シルヴィアって誰?
テレンスラティガン 作
能 美 武 功 訳
(題名に関する訳註 原題は Who is Sylvia? 。これはシェイクスピアの「ヴェローナの二紳士」の中に出てくるセレナーデの名前。ドイツ語に訳されて、シューベルトがこれを作曲している。)
登場人物
マーク
ウイリアムズ
ダフニ(プレンティス)
シドニー
イースル
オスカー(フィリップスン)
バブルズ(フェアーウエザー)
ノラ(パタスン)
デニス
ウィルバーフォース
ドリス
クロウイー
キャロライン
第 一 幕 一九一七年 夏 午後八時頃
第 二 幕 一九二九年 春 午後六時頃
第 三 幕 一九五0年 冬 午後六時頃
(すべての場はナイツブリッジにあるアパートの一室)
第 一 幕
(場 ナイツブリッジにあるアパートの二階の一室。左手に大きな窓。静かな通りに面している。奥の扉は玄関ホールに、右手の扉は寝室に通じている。独身の男が住んでいるらしい部屋。家具の選び方は一流だが、飾り 類は単調で、ありふれている。即ち、名画のコピー。主にオランダの風景画。それから、少女の頭部のブロンズが、あまり人目につかないように置いてある。)
(時は一九一七年夏、夕方の八時頃。薄暗くなり始めているが、それでも幕が開くと部屋の中央に、食事用のテーブル、そしてその上に二人分の食器類が置かれてあるのが見て取れる。部屋は現在のところ、無人。)
(玄関の扉が開く音がし、暫くしてマーク登場。三十二歳。いつも背広はサヴィル・ロウ、あるいはその付近で仕立てている。シングル・ブレストのディナージャケット、それに白いチョッキを着ている。小脇に何か抱えていて、その紙袋を取ると、それがシャンペンであることが分かる。それをサイドボードの上に置く。それからテーブルの上のものを調べる。二、三細かい変更を行なう。次に部屋の全体を眺め、ソファを念入りに調べ、クッションの位置を直す。それから急に思い付いたように窓へ行き、重いカーテンを引く。部屋は一瞬暗くなる。が、スイッチを捻り、再び明るくなる。それが明る過ぎると見てか、少し考えた後、また少し明るさを絞り、薄暗くする。テーブルの上にある花瓶の花の位置を変える。その効果を見るために立って後ろに下がる。あまり効果ないという表情で、再び椅子に坐る。そこからもう一つの椅子のある席に向かって、声は出さず、口だけを動かして、生き生きした会話を実行する。その時相手を見るためには花が邪魔で、首を曲げる必要があることに 付く。そこで花瓶の位置を少しずらせる。)
(さて、もう一度部屋を一渡り眺め、「これぐらいで良かろう」という表情。シガレットケースから煙草を取りだし、火をつけ、きびきびと電話器の方に進む。)
マーク(受話器に向かって。)ハロー・・・スローン七八三八を頼む。(返事を待つ間、相変らず部屋を眺め回す。)カンリッフか?・・・そうだ。・・・奥様はそこか?・・・うん、頼む。・・・ああ、キャロライン・・・実はね、急に酷い事が起こってしまって。丁度今メソポタミアから長い電報が入ってね、夜遅くならないと帰れそうにないんだ。・・・そうだな、一番早くても夜中の十二時だ。まづそれよりはずっと遅くなると見た方がいい。ひょっとすると・・・え? 君の親父さん? 頼むよ。会えなくて残念だって僕から・・・いいんだ、そんな事は、キャロライン。そんな事は不要だ。事務所でいくらでも軽食は取れるんだから。・・・いいんだ、大丈夫なんだから。戦争中だ。こういうことには慣れておかなきゃ。・・・メソポタミアって言ったけど?・・・ うん。暗号の名前だ。これは世界中で一番複雑なんだ、この暗号は。・・・デニスには僕の代わりにキスを頼む。お利口にするんだ、と言っておいてくれ。・・・え?そんなことをか。(相手の言いなりになって。)分かる分かる、キャロライン。君の言う通りだ。そいつは我儘だ。明日の朝僕から言って聞かせるよ。・・・うん、きつく言うよ、必ず。・・・今夜は悪い、本当に。・・・じゃ、お休み。(電話を切る。再び交換手を呼び出すためにハンドルを回す。)ハロー、交換手? ああ、今のは終わった。ヴィクトリア八四四0を頼む。・・・もしもし、外務省? こちら子爵のセント・ネオッツ。今夜の中東局の当直は誰なんだ?・・・簡単な質問だぞ、これは。君はただ答えさえすればいいんだ。・・・ねえ、君。こちらは子爵、セント・ネオッツなんだ。外務省の。もう九年も勤めているんだ。 今私が知りたいのは・・・身分を証明しろって言ったって、電話でどうやれっていうんだ。 私は子爵、セント・ネオッツ。ビンフィールド侯爵の息子。既婚。息子が一人。五歳。名前はデニス。住所、ベルグレイヴ・スクエアー五十八番。これぐらいでどうだ? その他、確かめたいことがあれば何でも訊いてくれればいい。・・・(怒って。)上司のモールが許さんだと? モールに言うんだ。貴様は大馬鹿だとな。私がドイツのスパイなら、態々外務省になんか電話するか。それも中東局の今夜の当直を訊くなどと。とっくに知ってる筈だ。スパイなら、そんなことぐらい。だいたいそのスパイが中東局で働いているかも知れないじゃないか。(この最後の冗談は自分でも気に入った様子。満足そうにくすくす笑う。)・・・ああ、切っていいよ。言いたいことは言った。(再びハンドルを回す。)ハロー、交換手?・・・もう一回ヴィクトリア八四四0を頼む。途中で切れたんだ。・・・(怪しい作り声の、がらがら声で。)中東局に繋いでくれ。もしもし、中東局?・・・(普通の声で。)今夜の当直は?・・・ ミスター・セイモア? よし。じゃ、繋いでくれ。・・・チャーリーか。マークだ。ちょっと頼みがあるんだ。家から電話がかかって来たら、僕は君と一緒だ。メソポタミア暗号解読中と願いたい。僕は解読のまっ最中で手が離せないと。・・・何?・・・そうか。その方がいいか。ちょっとコーヒーで席を外してるね。さては経験あるな?・・・いや、僕はない。本当、一度もないんだ。この七年間で初めてだ。信じてくれなくてもいいが、本当なんだ。・・・いや、別に恥とは思ってない、まだ。明日になったらそうなるかな。今は何とも。・・・あ、そうだ、チャーリー。家から電話があった時、ここの番号を知っといた方がいい。ここはスローンの・・・畜生、忘れてるぞ。あんなによく覚えていたのに。いや、受話器に書いてない。・・・そうだ。電話帳にあるから調べておいてくれ。オスカー・フリップスンの名前で登録されてる。 いいな、オスカー・フィリップスンだ。住所はナイツブリッジだ。ウイルブラーム・テラス十二番。有難う、チャーリー。いつかまた。今度は僕が今の君の役をやるから。・・・(遅ればせながら。)あ、ところで、奥さんに僕からよろしくと。
(オスカー・フィリップスンの召使い、ウイリアムズ登場。背が低く、身ぎれいな服装。態度はごつごつしている。従卒あがりの為、「畏まりました」「ミロード(My lord旦那様)」の言い方は召使いのそれよりも軍隊でのそれ。)
ウイリアムズ あ、もうお着きでありましたか、ミロード。
マーク ハロー、ウイリアムズ。
ウイリアムズ この時間とは存じませんで。出掛けようとしていた所でありました。で、こんなものでよろしいでありますか。
マーク(立ち上がりながら。)うん、いい。有難う、ウイリアムズ。完璧だ。うん。
ウイリアムズ 勿論もう少し前もって分かっていましたら、私もなんとか都合をつけて、留まるところでありましたが。
マーク それはいいんだよ。実際、君が出て行ってくれるんで有り難いくらいだ。えーと、いや、その、ここまでやってくれるとは実に有り難いということで・・・
ウイリアムズ ああ、それはいいのであります、ミロード。正直を申しまして、こういうことが出来て嬉しいのであります。一日中何もすることがないとなると、これもまたつまらないもので。・・・あそこの台所で一人ぽつねんとただ坐っている。大尉の次の休暇が何時かと期待しながら・・・
マーク 彼から便りは? ウイリアムズ。
ウイリアムズ 一週間前、一行だけ。休暇が取れたとか言う話でありまして。勿論冗談であります。ご存じの通り、大尉は何時でも・・・
マーク で、それに対する君の対応は?
ウイリアムズ この間の手紙にこう書いたであります。「聞くところによりますと、戦争はこちらの優勢のうちに推移しているとのこと。多分、クリスマスには必ずお帰りになれるでしょう」と。
マーク そりゃあいつ、怒ったろうな。
ウイリアムズ ええ。フランスにいて見るのと、こっちで見るのとでは戦局は大違いであります。自分はソンムに配属になっておりましたが、小包を受け取る前に家人から必ず手紙が届いておりまして、それには、「快進撃、洵に喜ばしう存じます」と。こっちはもう三週間も同じ塹壕に釘付けになっている時にです。
マーク 君、ソンムに配属になっていたのか。そいつは知らなかったな。・・・僕はソンムには行き損なった。
ウイリアムズ 負傷でありますか? それで本国送還に?
マーク いや。外務省の特別な計らいで行かせて貰った。そして去年その計らいの期限が切れたのでね。
ウイリアムズ 肝が冷えたでありますか。
マーク 冷えたな。冷えきって、冷凍肝だ。
ウイリアムズ 自分もであります。地下鉄でこの間、変なばあさんが自分に話しかけてきたであります。「あんた、若いのに何だね。軍服は着とらんのかね。」自分は言ったであります。「こんな酷い戦争に誰が従軍するもんか。このお節介ばばあ。」いや、ばあさん、怒りました。車掌を呼んだり、大騒ぎだったであります。(思い出し笑いをする。)さて、ミロード、他に何か? 自分はもう出なければならんであります。
マーク いや、何もない。有難う、ウイリアムズ。
ウイリアムズ えー、像を出しましたのは自分でありますが、お気がつかれましたか。
マーク ぞう?
ウイリアムズ は。ブロンズであります。
(ウイリアムズ、台の上にのったブロンズ像を指さす。)
マーク ああ。
ウイリアムズ ここの主(あるじ)が物置にしまい込んでいて。どうやら、あまり良いとは思っていない様子であります。自分は良いと思っておるであります。
マーク 有難う、ウイリアムズ。
ウイリアムズ このようなことが出来るのは素晴らしいであります。
マーク いや、ただの趣味でね。
ウイリアムズ ただの趣味とは言えんであります。プロになるべきであります。自分がもし、彫刻なり、絵画なり、その他何か出来さえすれば、一日中かかりっきりでやるであります。勿論自分は読書はやるでありますが、これは彫刻などとは違うであります。(シャンペンを見て。)シャンペンは御持参でありますか。この家のを使うべきであります。オスカー・フィリップスン大尉はお使い戴くのを喜ぶ筈であります。
(シャンペンの罎を氷のバケツに入れる。)
マーク いや、それは好意に甘え過ぎだ。ところで今夜のことは手紙で大尉には連絡ずみなんだが・・・
ウイリアムズ はい、ミロード。
マーク うん。それでな、ウイリアムズ。(急に当惑の表情で。)何か事が起こって・・・つまりその、急に嵐が来るとか何とか。・・・それで一晩泊まりたいということになった時のことだが・・・それは大丈夫なんだな?
ウイリアムズ はい、ミロード、それはちゃんと。ベッドも用意がしてあるであります。
マーク 勿論その必要は多分ないが・・・
ウイリアムズ いえ、それは分かりません、ミロード。今夜はとても蒸し暑く上空では相当雷が発生していると思われます。玄関にメモを残しておいて下されば、自分はそのように動くであります。
マーク そうしよう。ああ、ウイリアムズ。・・・これで会わないといけないから・・・(財布を取り出す。)
ウイリアムズ いえ、ミロード。その必要はないであります。
(マーク、一ポンド紙幣を渡す。)
ウイリアムズ あ、そうでありますか。それはどうも有難うございます。
マーク 女の娘(こ)と約束か。
ウイリアムズ 女の娘はいないであります。つまりその、決めている女の娘は。決めない主義であります。
マーク 決めない主義?
ウイリアムズ はあ。一生一人の女に縛られるのは男の意気に関わるであります。・・・つまりその、これは自分の意見でありますが、男の精神を蝕んでくる。つまり、年より早く老けるということで・・・
マーク おいおい、ウイリアムズ。私は結婚している男なんだがね。
ウイリアムズ ええ、それは、chacun a son gout(シャッカン・ア・ソン・グウ 人は好き好き)ですから。自分はその、うまく行っている人間のことを言っているんではないので。うまくさえ行っていれば・・・ただ、どうも結婚している男を見ますと大抵はその・・・問題があるようであります。
マーク 尤もなところがあるぞ、ウイリアムズ、その言には。
ウイリアムズ いえ、これは私の言ではないので。これはエイチ・ジー・ウエルズの、あの頭のいいエイチ・ジー・ウエルズの言でありまして。
(玄関にノックの音。)
マーク あっ、あれは私の客だぞ。
ウイリアムズ もっと前から鳴ってたかな。ここからはベルが聞こえ難いであります。では自分が出るであります。
マーク(上の空で。)いや、差し支えなければ、玄関には私が出よう、ウイリアムズ。あの娘が家を間違えたと思ってはまずい。住所だけしか教えていないんだ。
ウイリアムズ 住所だけ? つまり名前もお教えにはなっていない?
マーク うん、名前も言ってないな。
ウイリアムズ 全くなしで? 偽名もでありますか?
マーク 偽名もだ。何もなしだ。そういうことを話す暇がその時になくてな。バスでホワイトホールからハイドパークコーナーまで。短い時間だ。あれは相当短い時間だ。
ウイリアムズ ははあ、例のあれですな、ミロード。では自分はキッチンに暫く退避します。お二人が部屋に入った頃を見計らって退散するであります。
マーク そうしてくれ。(玄関の方に進みかけ、途中で戻って来る。)
(玄関にまたノックの音。)
マーク ウイリアムズ、名前は何かつけた方がいいかな。
ウイリアムズ それはその方が・・・
マーク じゃ、どんなのが・・・
ウイリアムズ(ちょっと考えた後。)大尉はメイスンが専門で。
マーク メイスンか。好きじゃないな。ありふれてる。ロビンスンはどうだ。
ウイリアムズ ロビンスンというお顔ではありません、ミロード。
マーク スミスは?
ウイリアムズ スミス? それはひどいです。(考えた後。)フェザーストンホー?
マーク 何だいその名前は。
(三度目のノックの音。)
マーク 参ったな。ほっとくと逃げられちゃうぞ。・・・そうだ、ライトだ。これならいいだろう? 悪くない。な? うん。ライトで行こう。
ウイリアムズ ええ、ミロード、それなら。じゃ、ミスター・ライト、Bonne chance (ボヌ・シャーンス 仏語 「成功を」)
(二人、退場。マークが先に。暫くして玄関の閉まる音が聞こえ、ホールに声がする。)
マーク(舞台裏で。)ここ、すぐ分かりましたか?
ダフニ(舞台裏で。)ええ、すぐ。地下鉄でノッティングヒルから二つ目ですもの。すぐ分かったわ。
(マークに導かれ、ダフニ登場。二十二、三歳。イヴニング・ドレスでないので、帽子を被っている。そのため 顔がはっきりとは見えないが、傍にあるブロンズの頭部像にそっくり。声は少し警戒ぎみ。)
ダフニ あらまあ、それ、夜会服じゃないの。酷いわ、私には・・・
マーク 違う違う、これはただのディナー・ジャケットだよ。平服と同じなんだから。
(ダフニ、部屋を見回す。)
ダフニ(うっとりして。)まあ、絵だわ! 私、絵って大好き。あなたは? そうね。勿論好きに決まってるわね。あ、あれ、家にあるのと同じだわ。(ある絵の前に立ち、通の目でそれを眺める。)
マーク(その後に立ち。)オランダ派だ、これは。
ダフニ そう。(眺める。)ああ、でも、家のとは少し色が違うわ。それに家のはもっと牛が多い。「高地の夜明け」っていう題。何ていう画家なのかしら。
マーク そうだな・・・よってたかって描いたんじゃないかな。
ダフニ(少し軽蔑の色を表して。)フォーテスキューさんに訊いてみるわ。あの人なら知ってる。会社の私の上司なの。素敵なのよ、その人。何でも知ってるの。訊けば何だって答えてくれる。
マーク へえー、偉いんだね。
ダフニ そうよ。(秘密を言う、という調子で。小さな声で。)あのー、ちょっと・・・ウージャーはどこかしら。
マーク ウージャー?
ダフニ そう。オム・ティドゥリー・オム・ポム。
(マーク、相変らずけむにまかれた儘。)
ダフニ ウムティー・プー。
マーク(やっと分かって。)ああ、ウムティー・プーか。ご免。気がつかなくて。このドアを通ってまっすぐ行って、右側だ。(寝室のドアを開けてやる。)
ダフニ(マークの傍を通る時に。)気にしないわよね、こんなことあからさまに訊いたって。若い娘は今は近代的にしなくちゃ。
マーク(力を入れて。)そう。近代的がいい。近代的が。
(ダフニ退場。 マーク、サイドボードに進み、キャビアの罎を開けようとする。ホールの扉に小さなノックの音。それからウイリアムズ登場。)
ウイリアムズ 入ったでありますか、あの娘。
マーク うん。ウージャーだ。
ウイリアムズ 電気がついたのを見たであります。これをお持ちしました。焼き立てのトースト。キャビアに合うであります。
マーク 有難う、ウイリアムズ。
ウイリアムズ ミロード、あの娘、入って来る時にちょっと顔を見たであります。驚きました。瓜二つであります。
マーク 瓜二つ? 何のことだ。
ウイリアムズ それとであります。(ブロンズ像を指さす。)
マーク ああ、そう思うか。
ウイリアムズ 間違いなしであります。それとも・・・そうだ、あの娘がモデルだ! あの娘に坐って貰ったでありますね、ミロード。
マーク それは違う、ウイリアムズ。あれはモデルはなしだ。
ウイリアムズ では想像で、でありますか?
マーク 記憶だ。
ウイリアムズ どなたので?
マーク 昔の知り合いだ。
ウイリアムズ(頷く。それから。)酷い帽子ですな、あれは。帽子の役割というものを知らんであります、女っていうものは。
マーク そうだな。(苛々して。)ああ、ウイリアムズ、もうそろそろ・・・
ウイリアムズ 大丈夫であります、ミロード。まだあそこにいるであります。ここから光が見えるであります。自分はいつも言っておるであります。女ってのは美人に見せる為なら何でもやると。大尉の最近の女をご存じでありますか。イースルと言うんでありますが、お会いになったことは? ミロード。
マーク(上の空。)さあ、どうかな、ウイリアムズ。大尉の女達は皆イースルという名前だったじゃないか。
ウイリアムズ このイースルは間違いっこなしであります。あの女の着るものと言ったら。まあとにかくすごい、とだけ言える代物であります。いや、すごいという言葉ぐらいではすまないであります。いつかなど ・・・あ、ミロード、灯が消えました。じゃ Vive le sport. (ヴィーヴ・ル・スポール 仏語「お楽しみ!」)
(ウイリアムズ、扉から退場。後ろ手に静かに扉を閉める。暫くしてダフニ、寝室の扉から登場。)
マーク ああ、ハロー。
ダフニ 外のあれ、あなたの庭?
マーク え? ああ。ここのアパートのね。
ダフニ 庭があるっていいわ。特にこの季節。
マーク じゃ、後で庭に出よう。
ダフニ ええ。素敵だわ。どこから出るの?
マーク 寝室からだ。
ダフニ ああ。(少しの間。)ええ、いいわね、それは。
マーク さ、坐ろうか。残念ながら、温かいものが出せなくてね。使っている男が、夜、休みをくれって言うもんだから。
ダフニ(坐りながら。)最近召使いって本当に問題よね。みんな共産主義のせいなのよ。
(マーク、ダフニを坐らせたあと、キャビアを皿に取り分ける。少し勿体をつけた手付き。ダフニ、取り分けられたものを目を丸くして眺める。しかしそれが何か、と訊くのは控える。)
マーク そうだね。
ダフニ(キャビアを用心深く調べながら。)ひどいわよね、ロシア人のやること。ツァーの首を斬っちゃうなんて。長い間あの人、国を治めてきたんでしょう? それを。でもどんな事でも裏からも見られるわね。その目から見れば当然とも言えるわ。毎日毎日あんな暮らしをして、それにラスプーチンをあんなに取り立てたり。それに国には経済の問題っていうものがあるわ。ね?
マーク あ、失礼。ちょっと聞いてなくて。
ダフニ ロシアで起こったことについて私の考えを述べてたの。
マーク ああ、あれか。あれなら君の意見に全く賛成だ。国には経済の問題ってもんが・・・(この時までにシャンペンを開けようと苦心していたが、ここで開く。)ああ、開いたよ。(少しダフニのグラスに、その後自分のグラスに注ぐ。)
ダフニ まあ、素敵。スパークリング・ゲラゲラ・ヴァッサー。
マーク はあ?
ダフニ シャンペンのこと。ゲラゲラ・ウオーター。ウオーターってドイツ語でヴァッサーって言うでしょう? だから、ゲラゲラ・ヴァッサー。
マーク でもこれはドイツ製じゃないけど。
ダフニ そんなこと言ってないわよ。ただの名前。フォーテスキューさんが発明したの。
マーク ああ、フォーテスキューさんね。(ダフニの向かいに坐る。)実は・・・これはランソンの一九0四年ものなんだ。(ダフニ、少しすする。)
ダフニ(やっと。)そう。これが一九0四年もの。あら、まあ。
(マーク、ダフニを見るが、何も言わない。 ダフニがキャビアに手をつけていないのを見て、その理由を見抜く。)
マーク キャビアがお気に召すといいんだけど。さもないと、この製造会社の社長二人、責任を取らされて首を斬られちゃうぞ。
(ダフニ、ケラケラと笑う。マーク、自分の冗談が効を奏したことに気をよくする。)
ダフニ あなた、そんなこと言う時、フォーテスキューさんとそっくり。
(マークの顔から微笑が消える。)
マーク そっくり? そう?
ダフニ これ内緒だけど言っちゃうわ。私、キャビアって食べた事ないの。これが初めて。
マーク 何でも「初めて」から始めるしか手がないんじゃない? トーストは?
ダフニ まあそうね。(スプーンでキャビアをすくう。)さあ、行くわよ。(キャビアを頬ばる。一瞬、「酷い味!」という顔。しかしすぐ立ち直る。)あら、美味しいわ。ね?
マーク うん。そう思うがね。(グラスを上げて。)さあ、僕の生涯で出会った瞳の中で一番美しいつぶらな瞳、それに乾杯!
ダフニ まあ、オスカー・ワイルド流ね。(少し飲んで、ゲラゲラと笑う。)
マーク(立ち上がる。)ねえ、見てたけど、君、そのキャビアあまり気に入らないようだね。
ダフニ そう言って下さったから白状するけど、私、魚介類ってちょっと苦手なの。
マーク そうか。じゃ、次のに行こう。(二つの皿を引き上げる。)
ダフニ でも残念ね。だってそれ、ひどく高いんでしょう?
マーク だけど高い安いってのは、相対的なもんだからね。
ダフニ そう。絶対相対的よ。ね?(マーク、次の皿をダフニの前に置く。)あら、チキンだわ。素敵!
マーク チキンなら安全か。良かった、良かった。(シャンペンをもう一杯注ごうとする。)
ダフニ 止めて。私、酔っ払いたくないのよ。酔うとひどいの、私。
マーク ひどいって、想像つかないね。一度見てみたいよ。
ダフニ(目を上げて。)私、後悔するような事、してしまうかもしれない。
マーク(誘惑するように。)君は後悔するかもしれない。でも、僕は?
ダフニ あなた、お上手ね。独特のスタイルだわ。じゃ、ほんのちょっと。ここまで。
(ダフニ、グラスの、ある位置を指さす。そこまでは注いでいいという場所。)
ダフニ あーら、奇麗な色! さ。(グラスを上げて。)
何に対して乾杯する?
生きることに? 死ぬことに?
笑うことに? 泣くことに?
まあいい、あれにでも、これにでも。
でもまあ、あれにしとこう。乾杯!
マーク フォーテスキューさんの発明だね?
ダフニ そうよ。どうして分かった?
(マーク、シャンペンの罎を氷のバケツに入れ、テーブルに戻り、坐る。)
マーク さあ、どうしてかな。(グラスを上げて。)今度はこっちの乾杯。僕の言うのはこれだけ。・・・愛に対して、乾杯!
(ダフニ、ゲラゲラ笑う。二人が食べている間、適当な間あり。)
ダフニ ねえ、私、あまりあなたのこと知らないわ。だって、名前も知らないのよ。
マーク そうだったかな。
ダフニ 何ていうの?
マーク マークだ。
ダフニ マーク?(少し考えて。)ああ、いい名前ね。
マーク そう? いいと思う?
ダフニ(しっかりと。)いい名前。マーク。気に入ったわ。で、苗字は?
(マーク、シャンペンを飲んでいる途中だったが、急に咳こむ。答えるまでに必要以上の間あり。彼の真剣な顔つきから、どうやら決めた名前を忘れたらしい。)
マーク(やっと。)えーと、その・・・君の想像では?
ダフニ 私の想像? 無理でしょう、そんなの。だって名前なんていくらでもあるんだもの。
マーク うん。いくらでもあるけど?
ダフニ(少し軽蔑的に。)まさか、スミスじゃないでしょうね。
マーク 勿論スミスじゃない。スミスは駄目だ。
ダフニ 平凡過ぎるもの、ね?
マーク(思い出せない。やけぎみに。)君の名前はいいよ。ダフニ・プレンティス・・・いい名前だ。
ダフニ 嬉しいわ、そう言って下さって。私も少し気に入ってるの。まあ、当たり前って言えば当たり前のことだけど。
マーク いいよ、その名前。リズムがある・・・そうだ、ライトだ!
ダフニ ライト? 何? それ。
マーク(軽い調子で。)ライト。マーク・ライト。これが僕の名前。気に入った?
ダフニ 気に入らないわね。
マーク(少し笑って。)駄目? どうして?
ダフニ 気に入らない。それだけよ。
マーク(少しからんで。)じゃあ、どんな名前がいいって言うんだい。
(マーク、扉の方を見て。)
マーク フェザーストーンホー?
ダフニ 何それ? 変な名前?
マーク それは賛成だ。
(間。)
ダフニ(考えながら。)パーシー・ペニーフェザー。これはいいわ。ね?
マーク うん、いいね。フォーテスキューもいい。だけどね、ダフニ、今の二つよりライトの方が本当はずっといいんだ。ほら、もう少しシャンペン飲んで。そしたらライトが光ってくる筈なんだ。さあ。
(ダフニ、飲む。グラスを下ろす。すぐにマーク、そのグラスに注ぐ。)
ダフニ まあ、あなたって。油断ならないわ。
マーク さあ、少し飲んだらよくなってきたろう? ライト。
ダフニ そうね。まあね。マーク・ライト、マーク・ライト。言ってるうちに慣れてくるっていうのかしら。とにかく単刀直入って感じね。
マーク 単純で、正直で、直接的。そうね? 飾りなしだ。マーク・ライト。この名前は実に気に入ってる。本当だ。マーク・ライト。(この最後の「マーク・ライト」で、マーク、こっそりこの新しい名前のために杯を上げる。)
ダフニ で、あなた、何をしてる人?
(マーク、ゆっくりとグラスを置く。)
マーク そうだな、何だと思う?
ダフニ あなたってあてっこが好きなのね。
マーク あてっこって言ったって、名前より易しいよ、これは。だって職業の数は名前ほど多くないからね。(いい考えが浮かぶ。英語で職業は occupation ・・・「占めるもの」「時間をとるもの」の意から思い付く。)その気になったら君、あてられる筈なんだがね。
(ダフニ、当てることに興味なし。)
マーク 分かったよ。手間を省いてあげよう。僕は彫刻家なんだ。
ダフニ 彫刻家?
(ダフニ、眉を蹙めて考える。間。)
マーク(心配そうに。)いいだろう? この職業。駄目かい?
(ダフニ、まだ考えている。)
ダフニ(やっと。)いい。いい職業だわ。彫刻家。
マーク よかった。
ダフニ で、どんなものを彫るの?
マーク 例えば、(立ち上がってブロンズの方へ進む。)あれ。
ダフニ(頭を回して。)あれ?(黙ってブロンズを見る。)
マーク(再び心配そうに。)いい・・・と思わない?
ダフニ(覗きこむ姿勢を取って。)よく見えないわ。
マーク 持って来て上げるよ。
(マーク、ブロンズを運び、テーブルに置く。ダフニ、それを見る。)
ダフニ 誰? これ。
マーク 女の子。
ダフニ ただの?
マーク 違う。特別な。これ、君に似ているって思わない?
ダフニ そう言われても、褒められたって気はしないわね。
マーク(少し鋭く。)褒められたんだよ。君がそう思わなかったら、僕の腕が悪いんだ。この子は猛烈な美人だった。
ダフニ だった? 死んだの?
マーク 死んではいない。だけど、これとは随分違うだろうな、今は。これは記憶を辿って彫ったものなんだ。待ってくれよ・・・あれは僕が十七の時だった。今僕は三十二。十五年前のことか。(ブロンズを見ながら感慨にふける。)
ダフニ ねえ、つづき、話してよ。
マーク 残念ながら、あまり話すことはないんだ。君が、がっかりするだけだよ。
ダフニ そんなことないわよ。私、お話って大好き。
マーク そう言うなら・・・今も言ったけど、僕は十七歳だった。あの子は十六。会ったのは、何と、ガーデン・パーティーさ。若い者はテニスをやらされるんだ。主催者側が僕ら二人をペアーにした。で、僕ら二人、かなりうまく戦ったんだ。僕はテニスなんか大の苦手だったんだけどね。そして勝った。六ー三、六ー二でね。その後、二人で散歩した。あまり遠くには行かなかったんだ。だって、両親達はガーデン・パーティーなんか嫌いで、さっさと帰ろうと思ってるのが見え見えだったからね。僕らは柵のところまで来た。そこには枯れた木もあったな。そこでその子、僕にキスをさせてくれたんだ。・・・一回だけ。それからパーティーの場所に戻った。そこから家に帰る時、車の中で僕らはオペラの話をした。彼女の家の前で両親と彼女は降りた。それが僕が彼女を見た最後さ。一箇月後、彼女は家族ともども南アフリカに行ったって聞いた。それから後、ずっとそこに住んでる。ウィローピー・グラントという男と結婚して、ケイプタウンの近くに今もいるんだ。奇麗な家らしい。海の近くにあるって・・・そういう話を聞いたよ。
(マーク、言葉を切る。ダフニ、奇妙な顔をしてマークを見つめる。)
ダフニ それだけ?
マーク そう。それだけ。
ダフニ あらまあ。おやおやだわ。さっき、がっかりするだろうって言ったけど・・・そうね・・・
マーク もっと動きのあるお話の方がいい?
ダフニ そうね。とにかく、ハッピーエンドの方がいいわね。
マーク(微笑んで。)でも、これはハッピーエンドになる筈だよ。
(間。その後、電話のベルが鳴る。)
マーク くそっ!(立ち上がる。)失礼。(電話まで行き、受話器に。)ハロー・・・うん・・・分かった。有難う、チャーリー。(受話器を置く。立った儘、困った表情。ダフニを見る。)あー、ね、君、ちょっと頼みたいことがあるんだけど。
ダフニ(用心深く。)それは勿論、ことによるけど。
マーク うん。これは難しいことじゃない。ちょっと僕、電話をかけたいんだ。その間、席をはずしてくれないかな。これはひどく内密なものでね。
ダフニ 内密? ええ、いいわ。・・・そんなの何でもないわ。(立ち上がる。)私、分かった。大事なことが。
マーク 大事なこと? 何だい?
ダフニ 後で教えて上げる。(寝室に退場。)
(マーク、受話器を取る。)
マーク スローン七八三八を頼む。・・・(明らかに苛々しながら返事を待つ。しかし声を発する時には、落ち着きを取り戻している。)ああ、キャロライン、僕に電話した?ちょっとコーヒーとパンをかじりに出てたところでね。・・・うん。そりゃ進んでる。なかなか進まんがね。少しづつ。誰?・・・君の親父さん?・・・あ、そう。分た。・・・ああ、今晩は、お義父さん。・・・えっ? 満月? ああ、そうですか。・・あ?・・・ツェッペリン?・・・いえいえ、お義父さん、もうツェッペリンの襲撃はありません。あれは完全に終です。・・・地下壕? いえ、大丈夫です。警報が鳴らない限り、あの子は家にいて全く大丈夫です。・・・ですけど、あの子はツェッペリンなんかちっとも怖いと思ってないんですよ。それどころか、どうやらあれを面白がっている風です。・・・そりゃ、あの子の言う通りでもあるんです。空にはサーチライト、バンバンと音がして。子供にはもってこいの光景ですからね。・・・あの子に愛情がない? 違いますよ。デニスは自分でそう言ってましたよ。・・・そうです。あの子が私に話しましたよ。お祈りの時、ばあやが、「神様、どうぞツェッペリンが来ないように」とあの子に言わせる。だけどその度に、あの子はこっそり、「神様、どうかそんなことはしないで」と、付け加えるだって。・・・(ギョッとして。)お義父さん、それは止めて下さい。・・・神に対する冒涜(ぼうとく)じゃありません。・・・いや、止めて。あの子には何も言わないで下さい。そんなこと言ったって、どうせあの子には分かりはしませんから。・・・分かりました。もし来たら、ですね。でも私が保証します。決して来ません。・・・お休みなさい。
(マーク、受話器を置く。今の会話で少しぼうっとなっている。少し上の空で寝室の扉を開け、呼ぶ。)
マーク もういいよ。終わった。
(ダフニ登場。マーク、ダフニがテーブルにつけるよう椅子を引いてやる。)
マーク 中断して申し訳ない。
ダフニ 大丈夫よ、そんなこと。
マーク ちょっと失礼。(窓のところに行き、燈火管制に気をつけながら、カーテンの隙間から外を覗く。)
(ダフニ、じっとマークを見る。)
マーク サーチライトがついているかどうかが見たくてね。
ダフニ 何か怪しいもの、見付けた?
マーク(カーテンの間に頭を入れて。)いや、何もない。さっきの電話でちょっと気になることがあったもんだから。思った通り、何もないよ。(窓から戻って来る。)
(マークが次の料理を用意している間、ダフニ、鋭くマークを見つめる。)
ダフニ 私、さっき分かったって言ったけど、ただ分かっただけじゃないわ。これはもう決定よ。
(マーク、少し奇妙な表情で振り向く。)
マーク 決定? 何だい、それは?
ダフニ あなたは三十二歳。軍服を着ていない。彫刻家だって逃れられない筈よ、兵役は。それにとにかく彫刻だけで食べていけるなんて、あり得ないわ。
マーク そうかな。彫刻だけでやって行ける人もいるぞ。例えばロダンはどうだ?
ダフニ ロダンがシャンペンにキャビア?
(マーク、ダフニの前に料理を置く。)
マーク そうさ。
ダフニ(軽蔑的に。)何言ってるの! 芸術家の生活って私、知ってるわ。こんなじゃないの。違う。あなた、私に隠してることがあるのよ。あ、慌てなくていいの。私は大丈夫だから。
マーク そう。
ダフニ あなた、諜報部員ね。
マーク 諜報部員?
ダフニ(遮って。)いいの。言わなくて。本当のこと言っちゃいけないって、そのぐらい私にも分かってるわ。
マーク(間の後。)君はじゃあ、諜報部員はシャンペンにキャビアで暮らしてる、そう思ってるのか。
ダフニ そりゃそうよ。高給が支払われなくっちゃ。だって危険がいっぱい・・・そうでしょう?
マーク(軽く。)そうかな。そんなに危険が多いかな。職業って、どんなものでも危険なんだ。それと同程度なんじゃないか。
ダフニ まさか! 大変な筈よ。私、知ってる。でもスリル満点。すごいでしょうね。(畏怖の念でマークを見つめる。)
マーク ねえ君、それ、全然手をつけてないよ。
ダフニ 駄目。もう駄目よ。何も入らない。興奮すると私、何時でもこうなの。すぐ胃に来ちゃうの。
マーク ああ、それは悪かった。(立ち上がってダフニの方に進む。悪いことをした、という気持。)ねえ君、思い切ってこれだけは言っておきたいんだ・・・
ダフニ(耳に指で栓をして。)駄目、言っちゃ駄目。だってそれ、悪いことだもの。あなた、撃ち殺されるわ、そんなことしたら。
(マーク、ダフニを見下ろす。本気で言っているのか、疑いの気持。ダフニ、見上げて微笑む。マーク、優しく耳から指をはずしてやる。)
マーク 大丈夫だ、耳に栓なんかしなくても。これから言うことは違うんだから。いいかい? 僕はね、君が世界で一番魅力的で素敵な人だと思ってるんだ。そして、もし君が許してさえくれれば、僕は君を好きに、大好きになってみせるよ。
ダフニ(優しく。)いい台詞だわ。
(ダフニ、目を閉じ、後頭部を椅子の背につけ、キスを受ける姿勢。マーク、キス。最初優しく、次に温かく。)
マーク(呟く。)ダフニ・・・可愛いダフニ・・・
(窓に突然鋭い音がする。投げた石が窓ガラスに当たる音。)
マーク 何だ?
ダフニ 窓に石が当たったみたい。
(通りから、「おーい」という声がする。)
ダフニ 外で誰かが怒鳴ってるわ。(立ち上がる。)
声(舞台裏で。)おーい!
(マーク、部屋を横切って、窓のところへ行く。)
マーク 何だ。どうしたんだ。
声(舞台裏から。)誰かいるだろう?
マーク 何だって?
声(舞台裏から。)僕はダフニ・プレンティスを捜してるんだ。
マーク 聞こえないな。
(マーク、カーテンを開け、窓を開ける。空はもう暗くなっている。)
マーク(窓から外へ。)何の用だ。
声(甲高い、コックニーのアクセントで。)ベルは鳴らしたんだ、何度も。だけど、誰も出て来やしない。
マーク 何だ君は。うろうろするんじゃない。早く行っちまえ。
声(舞台裏で。)ダフニ、いるのか、ダフ! おい、姉さん!
ダフニ あら、大変。シドニーだ。
マーク シドニー? 誰なんだ。
ダフニ 弟。あら、まあ。どうしたのかしら。ライトさん、あの子入れてやれない?
マーク それはまあ。
(マーク、窓によりかかる。)
マーク いいか。受けろよ。
(マーク、鍵束を投げる。)
マーク 大きいやつが一階の鍵だ。上がって来て、ここは二階の二号室だからな。
シドニー(舞台裏で。)オーケー。
ダフニ まあ、何かしら。一体何が起こったのかしら。
マーク ここに夕食を食べに来たんじゃないだろうな、まさか。
ダフニ さあ。夕食は知らないけど、家に誰もいなくなって淋しくなったのかな。
マーク やれやれ。
ダフニ あの子偉いのよ。年の割には賢いの。今は軍需工場で働いているわ。
マーク そう。(玄関の扉がバタンと音を立てる。)あ、来た。
ダフニ きっとあの子のこと、気に入るわよ。
マーク うん、まあね。
(マーク、扉を開ける。シドニー登場。マークに鍵束を返す。それからダフニの方を向く。)
ダフニ シドニー、お前何してるの、こんな所で。
シドニー パパが帰れってさ。ママが急に家に帰ったんだ。帰ると思っちゃいなかったんだ、こっちは。そして例のギャアギャアを・・・
ダフニ(怒って)まあ、ママったら。酷いわ。またギャアギャア? いつもの通り?
シドニー それがひどいんだ。パパに食ってかかってね。「あんたがちゃんと監視しないからいけないのよ。この儘ほっといてごらん、あの子はメイベル叔母さんみたいに売春婦になっちまうんだから」って。
ダフニ お黙り、シドニー。(急に家族の一員としての義務に気付いて。)ああ、ライトさん、ご免なさい。家庭内の口喧嘩、分かって下さるわね。(シドニーの方を振り向く。口調、変わる。)いいわね、シドニー、ママのところに今すぐ帰って言うの。パパもママも何の心配もいらないんだからって。私は大丈夫なんだからって。だけどほら、夕食が終わってないの。ね? 終わったらすぐ帰る。終わるまでは帰りませんって。
シドニー だけど僕は待ってて、一緒に帰らなきゃ駄目って、ママに言われたんだ。
ダフニ そんなの馬鹿なことよ。ライトさんがちゃんと家まで送って下さるんだから・・・ね、ライトさん?
マーク 勿論。
シドニー 送ってもらっても駄目だって、ママは言ってる。この間ペニーフェザーさんが家まで送ってくれた時のことを考えろって。
ダフニ 何よ、シドニー、それ!(マークの方を見て。)ライトさん、私、何て言っていいか分からないわ。ご免なさい。私、帰った方がいいみたい。
マーク えーと、どうかな、こういうの。良い考えと思うんだが。その・・・シドニーに、帰ってパパとママに言って貰うんだ。住所がよく分からなかったって。
シドニー だってそれ、嘘じゃないか。
マーク ちょっと君、嘘も方便だ。想像力を働かしてくれなきゃ。
ダフニ 私、やっぱり帰った方がいいと思う。あーあ、いやになっちゃうわね。本当にご免なさい。帽子を取って来るわ。(寝室に行く。)
マーク そう? 君がそう思うんじゃしようがないな。じゃ、シドニー、行ってタクシーを拾って来て。
シドニー タクシー? 何のために。
マーク 姉さんを家に送るためじゃないか。
シドニー 誰がその金を払うんだ。
マーク それは私に決まっているだろう。
シドニー どうして。
マーク(シドニーを玄関の外に連れ出しながら。)どうしてもこうしてもないだろう。こういうエチケットの問題は深遠なんだ。さあ、行ってとにかくタクシーを拾って来てくれ。そこを右に曲がって、次にまた右に曲がる。その角で待ってると来るから。
(ダフニ、寝室から登場。マーク、玄関から再び登場。)
マーク 今シドニーにタクシーを頼んだから。
ダフニ(心配そうに。)シドニー、さっきペニーフェザーさんなんて言ったけど、あれ、本気に取らないでね。
マーク 何言ってるんだ、ダフニ。ペニーフェザーさんなんて、今問題じゃないよ。安心して。今夜こんなにちぐはぐなことになっちゃって、僕は残念でたまらないんだよ。
ダフニ ええ・・・でもまた何時か。ね? 大丈夫な時。ね?
マーク うんそうだ。また何時か。今度がある。
(マーク、ダフニにキス。)
マーク シドニーのやつ!
ダフニ いけないのはシドニーじゃないわ。ママよ。ママのやつって言わなくちゃ。
マーク ママには会ってないからな。顔を見たシドニーの方にあたりたいね。(扉に進み。)台所に行って来る。使っている男にちょっと出て来るって書いておいてやらなきゃ。(扉のところで。)タクシーは二台頼んだ方がいいかな。一台は僕達、一台はシドニー。変かな。
ダフニ ちょっと変ね。
マーク だけど一台だと、シドニーを屋根に上げとかなきゃならないぞ。それも変だよ。
(マーク退場。扉は開けた儘。)
(一人残ってダフニ、溜息をつき、ソファに坐り、嫌々帽子を被る。玄関の扉がバタンと開き、非常に存在感のある女(イースル)登場。ひどく肌が露出しているイヴニングドレス。異国風の顔。明らかに自分で鍵を開け、入って来たらしい。何故なら部屋に入りながら、鍵をバッグに入れているから。イースル、陽気にダフニに頭を軽く下げる挨拶。ダフニ、この時までに、この予期せぬ闖入者に驚いて立ち上がっている。)
イースル 暑いわね。
ダフニ ええ、本当に・・・蒸すわ・・・
(後を続けようとするが、声が飲み込まれてしまう。イースルが慣れた様子で戸棚に進み、開け、そこからウイスキーとコップを取り出したからである。イースル、コップに三分の一ウイスキーを注ぎ、小指を少し曲げてヴェールを上げる。次に、あっという間の早業で、一息にウイスキーを飲み干す。その儘の姿勢で数秒間顔色を変えずじっと立った儘、味を楽しんでいる様子。それからダフニに罎を丁寧に差し出す。)
イースル(眉を挨拶のためにぐっと上げて。)一杯どう?
ダフニ ええ・・・私、いいわ。
(イースル、「そう?」というように頷き、もう一杯、たっぷりと注ぐ。それを今度はすぐは飲まず、手に持っ
た儘、暖炉の方に進む。箱から煙草を一本取り、火をつけようとする。)
ダフニ あのー、ちょっとお訊きしていいかしら。・・・あなた、だーれ?
イースル(次のことだけ言えば全ては明らかと言わんばかりに。)イースル。
ダフニ あら、そう。でも悪いけどもう少し御自分のことを説明して下さらなきゃ。苗字は?
イースル(暫く考えて。)あるわ。
ダフニ 何? もしお訊きするのが失礼でなければ。
イースル スケフィントン・リヴァーズ・・・だったと思う。ええ、きっとそうよ。(また一息にウイスキーを飲む。コップと罎を戸棚に戻す。それから寝室の扉に進む。自分の言っていることは当然相手に分かっているという調子で。)あの人、ボルネオに行ったんだって。
(イースル、微かにダフニに微笑み、寝室に退場。)
ダフニ(あっけにとられて。)何、一体!
(マーク、玄関ホールから登場。)
マーク さて、これでよしと。
ダフニ ねえ、ライトさん。あなたって奇妙なお友達をお持ちね。変わってる。
マーク そうかい?
ダフニ 今寝室に入って行った女の人がいるけど、あれ、誰?
マーク 寝室に? 誰か入ったの?
ダフニ ええ。それだけじゃないわ。まるでここの住人みたいな顔をして・・・ここの鍵も持ってたわ。
マーク で、その人、名前を言った?
ダフニ ええ。苗字には自信なかったみたい。でも名前の方は自信ありそうだったわ。イースルだって。
マーク イースル、イースル、ね。(急に事情が分かって。)そうか、イースルか!(対策を考えつくまでに間あり。それから笑う。)そんなの、説明は簡単だよ。イースルなんて僕の友達じゃない。会ったこともないよ。
ダフニ じゃ、どうしてこのアパートを我がもの顔に歩き回るの? それにあなたのウイスキーだって勝手に飲んだのよ。
マーク それはオスカー・フィリップスンの友達だよ。オスカーは僕の友人でね。休暇になると、よくここに泊まりに来るんだ。どうやらその女にあいつ、鍵を渡したらしいな。
ダフニ それは随分迂闊なことじゃない? でもそのオスカーっていう人、今は休暇じゃないんでしょう?
マーク うん。休暇じゃないんだ。だけど・・・
(マーク、言葉を切る。その時玄関ホールに音がする。)
オスカー(舞台裏で。)ああ、荷物はそこ。中に入れなくていい。そこに立てかけといて。手伝いの男に後はやらせる。じゃあ、どうも有難う。
(玄関を閉める音がする。)
マーク どうやら錯覚っていうやつの一番良い見本らしいよ、これは。オスカー・フィリップスンは休暇中なんだ。
(オスカー登場。マークより三歳上。コールドストリーム・ガードの大尉の制服を着ている。)
オスカー(驚いて。)ハロー、マーク。えらい親切だな、お迎えとは。どうして分かった。
マーク 分かっちゃいなかったんだ。それが問題さ。
(二人、握手する。)
マーク(厳しく。)どうしてウイリアムズに言っておかなかったんだ。
オスカー えっ? 言っといたがな。
マーク 言ってないんだよ、このアホ。だいたい何を考えてるんだ、休暇になったことを誰にも知らせないで、急に真夜中に帰って来たりして。
オスカー 真夜中? 真夜中とは違うな。今八時三十五分だ、丁度。それにイースルにはちゃんと電報を打っといたぞ。あいつまだなのか?
マーク 来てる。あそこだ。
オスカー そうか。
マーク だけどイースルにだけ電報を打つってのはどういうんだい。僕にはなしか。
オスカー まあ、こう言っちゃあ何だが、六箇月塹壕暮らしなんだ。最初はイースルとの夜の方が陽気でいいと思ってね。
マーク 成程。あ、そうだ、紹介しよう。ミス・プレンティス・・・フィリップスン大尉。
オスカー(「おお、なかなか美人だ」という表情。)始めまして。
ダフニ 始めまして。
マーク(相手にこちらの状況を説明する意図で、慎重に。)ミス・プレンティスと僕は一緒に夕食を取っていたところでね。・・・この僕のアパートで。
オスカー 君のアパ・・・
マーク(しっかりと。オスカーの言葉を遮って。)ところがこの人、この私のアパートがことのほか気に入ってくれてね。そうだな、ダフニ。
ダフニ ええ。素敵なアパートだわ。
オスカー 成程。
マーク それで僕の言ってたのは、ミス・プレンティスと僕は一緒に夕食を取っていた、この僕の・・・
オスカー アパートでね。うん、そこまでは分かった。
マーク そして丁度今さっき、君の話になっていたところなんだ。休暇になると必ず君はここに泊まりに来るんだって。
オスカー 成程。泊まりに来るね。
マーク それで、君が大事なこの部屋の鍵をイースルみたいな女に預けるというのは、ちょっと軽率なんじゃないかって、この人が言うもんだから、僕は言った・・・いや、言おうと思っていた・・・つまり、君と僕とはイートン以来の親しい友人なんだから・・・それに実際、僕が彫刻家になったというのも、君の一言があったからなんだ・・・
オスカー(注意深く聴きながら。)成程。僕が君に一言ね。よく覚えているよ。
マーク 君はいつだって僕の彫刻の腕を褒めてくれていた。そうだな?
オスカー そう、君の腕をね。
マーク 彼はね、僕にこう言ってくれたことがあるんだ・・・マーク・ライト、この名前が有名になる日がいつか来るだろう。通りで人々が僕に行き合う。すると人々は肘をつつきあって、「ほら、マーク・ライトだ・・・彫刻家の」、そう言うだろうってね。
オスカー(ゆっくりと。話を了解して。)そして、このアパート、ウイルブラーム・テラス十二番の玄関には看板が立つだろう。「彫刻家マーク・ライト、嘗てこのアパートに住む」とね。
マーク そうだよ。君はそう言ったんだ。
オスカー そうだろうな。さてと、一杯やっていいかな。
マーク 一杯? ああ、勿論だ、オスカー。自分の家だと思っていいんだからな、このアパート。まあ、こんなこと、態々言うことはないが。
オスカー いや、御親切、いたみいるよ。
(イースル、寝室から登場。)
オスカー ああ、イースル。嬉しいよ。また会えて。
(イースル、微かな、また堂々とした微笑。片頬を差し出し、オスカーにキスさせる。彼の姉といった態度。)
オスカー このお二人に、もう会ってるね、君。
イースル 女の人の方はね。男の人はこれが全くの初めて。
オスカー そうか。こちらはマーク・ライト。有名な彫刻家だ。こちら、イースル。イースル! いい考えが浮かんだよ。暑いよね、今夜は。女性二人でちょっと庭に出てみたらどうだ? マークと僕はここで話が(あって・・・)
マーク な、オスカー、実はこの人と僕、丁度出ようとしていたところなんだ。この人の弟がタクシーを拾いに出ていてね・・・
オスカー(状況が分からない。)この人の弟?
マーク そう。弟。シドニーっていうんだ。
オスカー ふーん、弟ね。まあいいじゃないか、その話はあとで。ミス・プレンティス、こいつが何を言おうと、僕とイースルは君達二人を追い出すように返す訳にはいかないからね。だいたい今日は休暇の第一日目じゃないか。もう少しはいて、シャンペン一杯飲むぐらいのことはしなくちゃ。さあ、イースル、この人を庭に案内して。満月だ。奇麗だよ。(マークに。)いいだろう? マーク。
マーク うん。いい考えだ。最高だ。
ダフニ でもそんな暇ある? シドニー、今すぐでも戻って来るわよ。
マーク タクシーを待たせておくさ。実はねダフニ、(声を低めて。)オスカーと大事な話があるんだ・・・例の内密の。
ダフニ(何のことか分かって。)あ、内密のね。(オスカーを指さして。)あの人も例の?・・・
マーク そう。例のだ。
オスカー 例の? 何の?
ダフニ いいのよ、とぼけなくて、フィリップスン大尉。マークは何も言ってないんですからね。それは私、保証するわ。
オスカー あ、それを聞いて安心したよ。
ダフニ(イースルに。)じゃ、行きましょうか。えーと・・・あなた。庭を見に行きましょう。
(女二人、寝室に進む。)
イースル お先にどうぞ。
(ダフニ、礼儀を守り、躊躇する。)
イースル いいえ、本当にどうぞ。
(ダフニ、先に退場。イースル、後に続く。オスカー、ちょっとマークを見た後、二人の後を追う。)
オスカー(舞台裏で。)イースル、ちょっと話がある。
(暫くしてオスカー、再び登場。)
オスカー イースルにここの持主が変わったことを知らせておいた方がいいと思ってね。さてと、本題に入る前に、まづ「例の」何なのかを知っておかなきゃな。何なんだ? 例の?
マーク 諜報部員だ。
オスカー ええっ? 彫刻家じゃないのか?
マーク 諜報で彫刻。
オスカー ほほう、そりゃすごい。能ある鷹は爪を隠していたわけだ。その調子だと、ひょっとすると、実は映画の大スター、ゴルフの世界チャンピオン、世界的クラシックバレーの名手だったなんてことになるんじゃないのか。
マーク いや、冗談は止めだ、この際。どうだ? あの娘。
オスカー 魅力的だ。またシルヴィアだな。(ブロンズを指さす。)
マーク そう。驚くべく似てる。な?
オスカー そう。驚くべき追っかけだよ。あの顔と見るや、誰でもいい、一直線。逃がしはしない、ときてる。まさか本当に恋しているんじゃないだろうな、あの娘に。
マーク おいおい、オスカー、そりゃあの娘は魅力的だ。だけど遊びだ。本気の恋愛じゃない。
オスカー 災難が待ち受けているんだぞ、君には。それを考えるとぞっとするよ。だいたい君は感情の面では幼稚園を卒業していない。いや、卒業しようとしていないんだ。十七歳の時に会った女がまだ忘れられない。自分が何か、君には分かっているのか、マーク。君はピーター・パンなんだ、感情的には。
マーク いいじゃないか、ピーター・パンで。感情的に幼稚園、大歓迎だ。感情的大人よりずっと良い。
オスカー 結婚以来七年間、ずっと忠実な夫。それがここにきて突然色事師か。そうだ、それじゃ色事師だ。
マーク いいじゃないか、色事師。
オスカー 君にはその才能がないんだよ。悪いことは言わない。忠実な夫に戻った方がいい。ややこしくて、危険な色事師、この仕事はこっちに任せておいてくれればいいんだ。練達の独身者にね。
マーク 既婚者の邪魔は許さん、という訳か。
オスカー 馬鹿なことを。既婚者と競争、大歓迎だ。連中が泥沼に嵌まって行くのを見るのは楽しいからね。
マーク 泥沼などないよ、オスカー。僕は君と違って、色魔でも放蕩でもない。ただのロマンティストだ。僕はこのロマンティックな気分にこれからは自由な風を当ててやりたいんだ。
オスカー で、このダフニ・プレンティス嬢とはどこまで行ったんだい。
マーク 行くも何もないよ。彼女のママのおかげでね。ママの機嫌が悪いのさ。
オスカー ママの機嫌ね。そいつはことだぞ。パパの機嫌ならまだしも、ママの機嫌は最悪だ。
マーク 邪魔になんかなるもんか。ママぐらいちゃんと始末するさ。
オスカー 始末? 笑わせてはいけないよ、とうしろう君。この道でママの始末ぐらい難しいものはないんだ。複雑で危険なんだぞ。一体この今の場合、君は何か対策を立てたのか?
マーク いや、何もまだ。
オスカー 何もまだね。よし、君がそれだけ火遊びの決心が固まっているなら、ひとつ僕が手本を見せてやろう。あの子の電話番号は?
マーク 知らない。
オスカー 知らない! 呆れたもんだ。(窓に石が当たる音。)えっ? 何だあれは。
マーク シドニーだ。用がある時は何時もあれだ。
オスカー いくつぐらいの子なんだ。
マーク 十五歳かな、見たところ。(窓際へ行き。)おい、シドニーか?
シドニー(舞台裏で。)おーい。
マーク そうだな、やっぱり。いいか、受けるんだぞ。(マーク、鍵束を投げる。)
オスカー さ、君は女達とあっちへ行ってろ。シドニーは僕に任せるんだ。
マーク 任せる?
オスカー そうだ。シドニーは僕がうまくやる。
マーク うまくやる?
オスカー いいから任せておけったら。どんな奴だ? シドニー。
マーク ああ、君には気に入る筈だ。頭がよくって。軍需工場で働いてるって・・・(扉の開く音がする。)あ、入って来た!(マーク、寝室へ進む。丁度そのあとにシドニー登場。)
オスカー ああ、シドニー、タクシーはつかまったか?
シドニー さっきから僕はベルの鳴らし続けだ。今も三十分は鳴らしていたな。ここの家のもんは、ベルには知らん振りをするのか。それともみんなつんぼなのか。
オスカー なかなかうまいこと言うじゃないか。な、シドニー、二、三シリング儲けたいと思わないか。
シドニー 何しろって言うんだ。
オスカー 口にチャックをするんだ。それでいい。
シドニー あんた、誰なんだ。
オスカー 誰でもいいだろう? どうだ、シドニー。
シドニー(間の後。)五シルだ。
オスカー 三シル六ペンス。それ以上は駄目だ。
シドニー 五シルだ。
オスカー 分かった分かった。よし、五シルだ。漁夫の利ってやつか。商売のうまい奴だ。いいか、今からまっすぐ家に帰って、親父さんに言うんだ。アパートは確かに見つかった。だけどベルを、鳴らしても鳴らしても、誰も出て来やしない。それだけを言うんだ。これは嘘じゃないからな。それに親父さんにこの話で通すって、面白いじゃないか。分かったな。
シドニー 五シルは?
オスカー ほら。
シドニー うまく行った! さいなら。(退場。)
オスカー(追い掛けるように怒鳴る。)そいつで煙草でも買うんだろう。その煙草でニコチン中毒にでもかかっちまえ!
(オスカー、窓のところへ行く。)
オスカー おい、タクシー。
(この時までにマークと二人の女、部屋に入って来ている。)
イースル それからその子、すっかり変わっちゃったのよ。
オスカー(タクシーの運転手に。)ちょっと待っててくれ。今すぐ出る。
マーク そう?(イースルへの返事。)
イースル 本当に、すっかり。
オスカー ああ、ミス・プレンティス。マークから聞いた? これから四人でサヴォイに行こう。そしてダンスでもしようって。
ダフニ ああ、残念だけど私駄目。家で私のこと、待ってるの。
オスカー 家の問題はすぐなんとかするさ。家の電話番号は? ミス・プレンティス?
ダフニ ベイズ・ウオーター四三0二。一階の新聞販売店の番号。そこから呼び出しなの。
オスカー ああ、分かった。(受話器に。)ハロー。ベイズ・ウオーター四三0二を頼む。
ダフニ(マークに。驚いて。)どうしよう・・・電話なんかして。面倒なことになるわ。いやだわ。
マーク 任せておけばいい。こういうことには慣れているんだ、彼は。
オスカー ちょっと嘘が混ざっている話をするけど、気にしないで、ミス・プレンティス。
ダフニ 嘘・・・いやだわ。
オスカー(受話器に。)呼び出しを頼みたいんだが。ミシズ・プレンティスを。・・・ああ、頼む。
ダフニ でもサヴォイにでしょう? この服では行けないわ。
オスカー 着るものなんて何とでもなるさ。イースル、お前よそ行き、ちょっと大きなやつ持ってるだろう?
イースル 大き過ぎるかも知れないけど。
オスカー うん、君の服は大きくなるさ、僕の休暇がきれるずっと前にね。(受話器に。)ああ、ミシズ・プレンティス? こちら、准将のメイスンだがね。いや、お会いしたことはない、残念ながら。ただ、私の友人のマーク・ライト・・・名前はお聞きになったことがおありの筈だが・・・彫刻家の・・・彼があなたの娘さんを私のアパートに連れて来てね。私が小さなパーティーを開いたもんだから。・・・えっ? 帰って来た?・・・ああ、そりゃ多分息子さん、ライトのアパートのベルを鳴らしていたんだな、それは。だから返事なんかありっこない。そりゃ、私がベルを鳴らしてたって同じことだったでしょうな。ハッハッハ。可哀相に、シドニー。それは悪いことをした。・・・それは駄目ですな、ミシズ・プレンティス。今返すなんて、そんな。随分楽しそうにしていらっしゃるんですよ、娘さん。今丁度、オスカー・フィリップスンが歌うところ・・・オスカー・フィリップスン。ほら、有名なバリトンの・・・そう。それから娘さんにどうしても会って欲しい人物がいるんです。暫くしたら来ることになってるんですがね。名前はきっとお聞きになっていると思いますよ。セント・ネオッツ卿、外務省の。
(マーク、ギョッとなる。ダフニ、ゲラゲラ笑う。)
オスカー 彼に会っておくってのは娘さんにとっていいことじゃないかと思うんですがね。・・・ああ、お許しになる。それはそれは、ミシズ・プレンティス。一時間ほどで必ずお返ししますから・・・ええ・・・娘さんと話がしたい? いいですよ。では・・・
(ダフニ、どぎまぎしている様子。オスカーから受話器を受け取る。)
ダフニ(受話器に。)ハロー、マム。・・・ええ、ここ楽しいわ。・・・ええ、あの人素敵。・・・ええ、そうよ、マム。女の人と話していたの。素敵な女の人よ。名前は・・・エー・・・ミシズ・ウィニントン・ピゴット・・・だったと思う。仲良しになったわ、私達。・・・ええ、マム。分かったわ。・・・チェリオー。お休みなさい。(ダフニ、電話を切る。ほっと安心の溜息をつく。オスカーに。)すごいわ、大尉さん、あなたって。本当にすごい腕。ママがあんなに機嫌がいいの、私、見たことがないわ。
オスカー(気楽な調子。)どうってことはないよ。本当にどうってことない。
(オスカー、マークと目が合う。マークの目、オスカーを睨んでいる。)
ダフニ それに何、あの変な名前。なんとか卿っていうの。
オスカー セント・ネオッツ卿。そうだ、どうしてかな、この名前がポンと口から出てしまった。何なんだろう。さあ、女性軍はタクシーに乗って、イースルのアパートで着替え。三十分後にサヴォイで落ち合うんだ、いいな?
ダフニ まあ、素敵。素敵! どきどきするわ。行きましょう、イースル。(自分の荷物をまとめ、扉の方に突進する。イースルはそれほど熱心な様子なく、後に続く。)
イースル どんな格好にする?
ダフニ 格好はいいわ、どうでも。とにかく私に入るのがあるかどうか、それが問題よ。でもまあシンプルなものがいいわ。そんなのある?
イースル シンプルっていうもの、私、あまり買わないから。でもそうね、金属をちりばめたサテンの服があったわ。真紅の。首の形が清純なのよ・・・
(二人の声小さくなり、玄関の扉が閉まる音。)
マーク(爆発するように。)僕が感情的には幼稚園だなんていうさっきの話、あれはみんなナンセンスだ。結婚して七年も経ってみろ。神秘的と名のつくものは一切合財、影も形もなくなって、今までだって、何時大爆発が起こっていても不思議じゃない状態なんだ。そしてその後は破局だ。しかしな、オスカー、僕は安全弁を発見したぞ。二重生活だ。名案だろう、オスカー。実に名案だ。どうしてなんだ、これを思い付く人間は多くないように見えるな。何故なんだ。
オスカー いくらでもいるんだよ、思い付く奴は。どうやら君は、夕刊の日曜版は読んでいないようだな。
マーク そうだ、オスカー。君、このアパートにいくら払ってる?
オスカー 年二百五十。
マーク 家具つきで年五百。僕に譲らないか。
オスカー いやだよ。
マーク なら、七百五十だ。
オスカー その辺で止めとけ。うん、と言いそうだ。
マーク 八百。
オスカー 酷いことになるぞ、マーク。それこそ破局だ。新聞の見出しが見えるようだ。「子爵の愛の巣発覚。信じられないこの事実」。キャロラインのことを考えてみろよ。それにデニスのことを。(調子が変わって。)ウイリアムズもいるのか。
マーク うん。
オスカー じゃ、もう二百だ。
マーク 千だな。よし、これで成立だ。
オスカー やれやれ。いいか、マーク、僕は好んでやったんじゃないからな、この取引。僕の貧困がさせたんだ。ヴェニスの商人だ。
マーク いや、ロミオとジュリエットだ。勿論泊まりたい時は君、何時でもここに泊まっていい。
オスカー 真面目な話、なあ、マーク。お説教じみたことを言うのはいやなんだが・・・うまく行きっこないんだ。二つの生活をうまく働かせるなんて、出来っこない。二つは早晩衝突して、両方とも木端微塵になるんだ。そりゃ僕は、マーク・ライトが吹き飛ばされるのは一向に構わないがね。マーク・セント・ネオッツ卿が粉々になるのは見ていられないんだ。
マーク 必ず衝突するなんて限っちゃいない。僕は二つの生活を厳然と区別するさ。
オスカー そいつは無理だ。必ずしっぺ返しが来る。そういうものなんだ、世間てやつは。この言葉、よく覚えておいた方がいい。
マーク トマス・ハーディーの登場人物みたいなことを言うな。えっ? あれは何だ。(立ち上がり、扉の方に進む。その途中で立ち止る。)
(観客にも今や聞こえる。 ヒューッという音と共に爆発音。遠くに叫び声。外の通りではっきりと、「危ないぞ、避難しろ!」と怒鳴る声がする。)
オスカー ツェッペリンだ。
マーク 一体何だ、これは。選りに選って今夜! デニスの祈りが効いたのか。
オスカー 何をぶつぶつ言ってるんだ。
マーク オスカー、頼む、必ず後でサヴォイに行く。今は家に帰らなきゃならん。
オスカー 家に? どうしたんだ、一体。
マーク 今は説明する時間がない。デニスが危ないんだ。
オスカー 危ない? デニスに爆弾が当たるのを君が助けるっていうのか。
マーク 危ないのは爆弾じゃないんだ。キャロラインの親父だよ。変なお祈りをするからだとか、神への冒涜だとか、デニスの奴、酷い目に会うぞ。走って帰らなきゃ。オスカー、頼む。僕が家で捕まって出られなくなったら、ダフニによろしく言ってくれ。明日必ず電話するからと。(マーク、半分扉から出ている。その時、オスカーが笑っているのに気付く。)何を笑ってるんだ。
オスカー 厳然と分離した二つの生活か。
マーク これはな、いいか、オスカー。偶然なんだ。独立事象だ。純粋な独立事象なんだ。こんなことで何かが分かってたまるか。(オスカー、笑い止らず。)くそったれ!
(マーク、部屋を跳びだす。)
(幕)
第 二 幕
(場 同じ。幕が上がる前から、小規模のジャズバンドの音が聞こえる。この時代の流行りの曲(Makin' Whoopee )。幕が上がり、その音は階下でパーティーをやっているためのものだと分かる。曲と共に、パーティーの人声が聞こえてくるからである。)
(年は一九二九年。春のある日。六時三十分頃。)
(一九一七年以来この部屋は少し変化あり。新しいカーテン、それに家具類のカバーに、女性の影響が窺える。(おそらくは「ジャズスクール」の。)そして家具の配置替えにより、嘗ての独身者の生活の厳しさが全くとれている。)
(幕が上がるとウイリアムズ・・・第一幕より十五歳年をとっているが、嘗てと同様、きちんと青いサージの服を、それに白い上着・・・が、電話をかけている。呼び出しがすむまで、階下のメロディー、Makin' Whoopeeを口ずさんでいる。)
ウイリアムズ スローン七八三七?・・・こちら、外務省。レイディー・ビンフィールドをお願いします。・・・ああ、レイディー・ビンフィールド。こちら、外務省です。・・・実は・・・
(扉が開き、女の子(バブルズ)登場。非常に短いスカート。髪形はボーイッシュ。)
バブルズ(この部屋でいいのか、自信なさそうに。)ハロー?
ウイリアムズ(鋭く。)おい、あんた。ここは違うよ、この部屋は。パーティーは下のスタジオだ。ほら、ドアを閉めて! (受話器の口に手で蓋をする。)
バブルズ ネアンデルタール人!(退場。扉を後ろ手に閉めて、何かぶつくさ言う声。)
ウイリアムズ(受話器に。)失礼しました、レイディー・ビンフィールド。・・・急なお知らせで申し訳ないのですが、電話が入りまして・・・いえ、御主人様にです。急なことで、御本人がお電話する時間がありませんで。 すぐチェルトナムへお発ちになりました。・・・チェルトナムです。・・・二、三日の予定です。・・・さあ、それは。私はただの事務の者ですので。でも多分軍縮会議に関わることではないかと・・・はい。・・・いえ、電話番号はその、マル秘事項ですので・・・勿論急用でしたら御伝言致しますが・・・ええ、それはもう。・・・はい、それは出来るだけやってみます。・・・はい、ではすぐにそちらにお電話を、と。では失礼致します、レイディー・ビンフィールド。
(バブルズ、扉のところに登場。)
バブルズ ハロー。私達どこかで会ってない?
ウイリアムズ さっき私は言っただろう? あんた。パーティーは下なんだ。
バブルズ 分かってるわよ。だって下に行ってみたんだもの。最高、下のパーティー。でもウオッカがないのよ。
ウイリアムズ 分かった分かった。おとなしく下に戻ってくれれば、私が一罎買って来てやるから・・・だけどな、あんた、パーティー客はここには来ないことになってるんだ。いいね。
バブルズ (ウイリアムズに抱き付いて。)ネアンデルタール人、素敵!(キスする。)それに何か怪しい雰囲気。あそこなーに?(寝室を指さして。)寝室だわ、きっと。
ウイリアムズ ミス・パタスンが着替えをしている最中。悪いことは言わない、下へ行って・・・
バブルズ 構わない、構わない。(寝室のドアを開ける。)ノラ、天使ちゃん。ハラハラドキドキのパーティーね。あなた、どうしてまだなの。
ノラ(舞台裏で。)あっちに行って、バブルズ。今やっと下塗りなんだから。
バブルズ ねえ、天使ちゃん。私にちょっとベッド使わせてよ。私、頭が痛いの。ちょっと横になったら治るんだけど。
ノラ いつもの手じゃないの、それ。まあいいわ。じゃ、入って。
バブルズ やっぱり天使ちゃんだわ!(ウイリアムズに。)じゃあね、あなた、バイバイね。ありがとさん。
(バブルズ、寝室に退場。 ウイリアムズ、困ったもんだ、というように溜息。サイドボードまで行き、盆を取る。 オスカー登場。 平服を着ていて、非常に上品に見える。但し胴のあたり、肥って一回り大きくなっている。)
オスカー(片手を差し出して。)ハロー、ウイリアムズ。
ウイリアムズ お帰りなさい、大佐殿。
オスカー 暫くだったな、ウイリアムズ。
ウイリアムズ 調子は如何でありますか、大佐殿。
オスカー いや、好調だ、ウイリアムズ。実に好調だ。
ウイリアムズ そのようにお見受け致します。腰のあたりも一回り大きくなって・・・違うでありますか。
オスカー いや、それは違う。(本能的に腹を引き締める。)
ウイリアムズ いえ、でも、ちょっとこのあたり。(胃のところを指差す。)
オスカー 馬鹿なことを言うな。目の錯覚だ。丁度光線の具合が悪い。この位置がいかん。(オスカー、帽子とステッキを窓のところにあるテーブルに置く。)さて、パーティーはどこなんだ。
ウイリアムズ この二階へ上がる前にお気がつかれた筈であります。あの音で。
オスカー あの大騒ぎがそうなのか。
ウイリアムズ さようであります。スタジオでパーティーであります。
オスカー スタジオ?
ウイリアムズ はあ。ここだけでなく、下もお借り上げになり、そこをスタジオに。
オスカー 下も。驚いたな。で、スタジオって一体何をするんだ。
ウイリアムズ さあ、多分彫刻をなさる為の部屋だと思われますが。勿論ミス・パタスンの御発案です。なにしろミス・パタスンは芸術家肌で・・・あ、そうです。今はちゃんと職業にもついて・・・ストランド座の新しい芝居に役がつきましたから・・・
オスカー なあウイリアムズ。その女、どんな風なんだ。
ウイリアムズ はあ、その、自分はパリパリの現代っ子というのは、よく分かりませんが・・・
オスカー しかし、どのくらいパリパリかに依るだろう。どうなんだ、この女は。
ウイリアムズ(パーティーから話し声に混じってピアノの音が聞こえて来る。)パリパリという点ではみんな同じであります。ミス・パタスンも例外ではありません。第一、この彼女主催のパーティー、下で何をやらかしているか、分かったもんではないであります。ポンペイ最期の日、と言いますか・・・あ、それで思い出したであります。もう自分は下に降りませんと・・・動きが取れなくなるであります。
オスカー 成程、突撃開始か。
ウイリアムズ は、正に突撃であります。それから、討死は厳禁。いらっしゃいますか?
オスカー うん。行くとするか。(立ち止って。)そうだ、待てよ。戦場に入る前に一つ。まだライト氏なんだな? ウイリアムズ。
ウイリアムズ はい。マーク・ライト。ウィルブラーム・テラス十二、サヴェッジ・クラブ。これが名刺にある名前と住所です。
オスカー 呆れたね。マーク・ライトには、今や名刺があるのか。
ウイリアムズ はい。形式は全て踏んでおります。
(寝室の扉が蹴って開けられ、ノラ登場。裸足。背中のボタンを留めようとしながら。ウイリアムズより寝室の
近くにいたオスカーに、背中を差し出して、ノラが言う。)
ノラ 留めるの、やって。私、届かないの。
オスカー お易い御用。(オスカー、留めにかかる。)
ノラ(ウイリアムズに。)ミス・フェアーウエザーに濃いコーヒーを出して、ウイリアムズ。
ウイリアムズ ミス・フェアーウエザー? 誰ですか、それ。
ノラ あそこで伸びちゃってるの、ベッドの上で。(オスカーに。)バブルズったら可哀相に。あの子ウオッカしか飲めないっていうの、私、すっかり忘れてた。ジンを飲ませるとあの子、アルコールが頭に直行なの。
オスカー(まだボタンを留めている。)ははあ、すると、ウオッカだと何処に直行?
ノラ 知りたい? 知りたくないわよね、そんなこと。
(オスカー、留め終わる。)
ノラ ありがと。御親切に。
(ノラ、寝室に戻る。)
オスカー Tiens, tiens. (「チアン、チアン」 仏語 「おやおや」)
ウイリアムズ 全くで。
オスカー そうだ。そう言えば、ウイリアムズ、あの女の子はどうなったんだ。あの、例の、ミス・・・何だったかな(名前は。)
ウイリアムズ ミス・プリッグズですね。以前と変わらないであります。・・・ただちょっと旦那様のことをいろいろ知りたがるようになって・・・旦那様に会いたいとうるさく・・・あとはいつもの伝で。
オスカー 「いつもの伝」は知っている。
ウイリアムズ 今では店を持って。帽子屋ですが。名前もダーリアと。勿論旦那様がお買い与えになったもので。なかなかうまくやっているようです。仲もおよろしくて。ただ、仲のおよろしいのと、いい仲というのは、別物であります。当然でありますが。
オスカー それはそうだ、ウイリアムズ。そこを区別するというのが、この私の信条でもあるんだ。
(マーク登場。顔も体形もほとんど変化なし。ただ、少し髪が白くなっている。)
マーク 何を油売ってるんだ、ウイリアムズ。下ではてんてこ舞だぞ。やあ、オスカー。
オスカー ハロー、マーク。
ウイリアムズ 失礼しました。丁度今、ミス・フェアーウエザーにコーヒーをと・・・
マーク ミス・・・誰だって?
ウイリアムズ 客の一人であります。・・・気分が悪くなって、あそこで・・・
マーク ああ・・・そうだ、ウイリアムズ。下に変な奴が来てる。髪が白くて赭ら顔、それに鼻髭だ。大佐とか言っていたな。名前は分からない。そいつめ、私を部屋の向こうから「ハロー、ビンフィールド」と、大声で呼び掛けやがる。これにはまいるよ。何か手を使って追い出してくれ。シェイカーでも振り損なって水でも引っ掛けてやるんだ。
ウイリアムズ やって見ます、ミロード。
マーク それから・・・家には電話してくれたな?
ウイリアムズ はい、ミロード。必ず御自宅にお電話をと。急用とのことです、奥様から。
マーク 今日は私は何処にいることになってるんだったかな?
ウイリアムズ チェルトナムであります、ミロード。
マーク そうか。市外に掛ける手順はどうだったかな、ウイリアムズ。
ウイリアムズ(オスカーの方を手で指し示すようにして。)大佐にまづ、お宅にかけて貰います。そして電話交換手の声で、「市外です。チェルトナムから」と言って貰います。三秒おいて、クリック、クリックという音をさせて、次に御本人が出ます。
オスカー 市外で三分を越した時のピッピッピッはどうするんだ。
ウイリアムズ 三分以内に話は収めた方がいいです。ピッピッピッは危険であります。いつか自分は試したことがありますが、奥様がおっしゃいました。「この電話機混線かしら。変な女がピーピー言っている声が聞こえるわ。」と。
(ウイリアムズ退場。)
マーク そうだ、オスカー、エジプトはどうだった。
オスカー とにかく、暑い。
マーク これでお役ご免か?
オスカー いやいや、ただの休暇。それも一箇月だけ。やれやれ。
マーク 何故あっさりと辞めてしまわないんだ。兵隊さんなんかやってたって、将来はないぞ。我々外交官は、もう戦争なんか起こらないように努力しているんだからな。
オスカー おいおい、近衛は潰さないんだろう? 僕は今近衛連隊にいるんだ。陸軍か何かみたいに言わんでくれ。
マーク おい、それはそうと、腹がえらい出て来たんじゃないか。
オスカー 出てる? そんなことはない。見ろ!(腹を凹ませる。)
マーク するとほら、ここが出る。
(マーク、オスカーの広げた胸を指さす。確かにそう言えばそこが出ている。それからマーク、オスカーに近寄って、かなり真直な自分の腹を見せる。)
マーク 触って見ろよ。
オスカー(触る。)当たり前じゃないか。コルセットで絞めていりゃあな。
マーク コルセットとは言わんのだ、これは。まあ、強いて言えば下着だ。三十五歳に達した男の健康を保つ為の、謂わば下着なんだ。
オスカー 三十五・・・と言った?
マーク そうだ。三十五だ。
オスカー やれやれ、マーク、それで通ると思っているのか。しかし待てよ、君が三十五なら、僕は三十八だ。君より三歳上なんだからな。
マーク 四歳だ。
オスカー いや、三歳だ。今は三月だ。誕生日はまだだからな。驚いたね。僕だって、若く通そうと思っているが、これでも最低で四十二だ。それ以下ではやったことがない。
マーク そう。君にはそれぐらいが適当だよ。(電話に。)ハロー、スローン七八三八を頼む。さて、そのへんのことにお互い納得したら、一つ君の得意な市外電話っていうやつのお手並を拝見したいな。
(オスカー、いやいや電話に近づく。)
オスカー 三十五ね。もう外交官になろうというでっかい息子がいてね。
マーク でっかくはない。それに外交官になるにはまだあと四年ある。まあ、あいつがその気になったらの話だが。
オスカー(電話を指さして。)話し中だ。
マーク くそっ。あいつ誰と話してるんだ。
オスカー そりゃデニスとじゃないのか。デニス・・・あいつは切れる子だ。なにしろ僕が名付け親なんだからな。忘れちゃ困るぜ。
マーク 怠け者だよ、あいつは。今トゥールにいるんだ、フランスの。三箇月たつ。それなのに、一行だってちゃんとしたフランス語で手紙が書けないんだ。それで書くことと言えば、下宿している家の娘が自分に惚れて困ってると。
オスカー へえー。それでシルヴィアはどうだ? 僕の知らない内にもうシルヴィアを見付けたって言うんじゃないだろうな。
マーク いや、見付けた。嘆かわしいシルヴィアだ。なにしろ、アーシュラ・カルペパーなんだ。
オスカー アーシュラ・カルペパー? やれやれ。
マーク 知ってるのか、君は、彼女を。勿論役者でない彼女という意味でだが。
オスカー あの女を知らないですむという訳にはいくまい。これはちょっとデニスにお灸を据えないといかんな。やれやれ、今時の子供ときたら、あんな女の一体どこが好いっていうんだ。
マーク どこがって、全部だろ。塀に落書きして、それでやっと表に出せるような言葉を、あの女は平気で、それも大声で喋るんだ。それが魅力なのさ。
オスカー シルヴィアとしては、まづい選択だな、確かに。
マーク まづいよ、実にまづい。今まで厳しくして来たんだが・・・あの調子じゃ、それも当然だが。これからはあの女に会うのは厳禁だ。
オスカー うん。あ、ところでマーク、昇進おめでとう。
マーク 有難う。どうして分かった。
オスカー ロンドナーズ・ダイヤリーに載ってたよ。読んでないのか。
マーク まだだ。何て書いてあった?
オスカー ビンフィールド卿、ラ・パース公使に任命さる。
マーク ふん。他には?
オスカー 他には別になかったと思う。
マーク(意地悪く。)別になかった、ね。これを読めば君の記憶も蘇るかな。(ポケットから新聞の切り抜きを取りだし、読む。)「一九二六年以来ベルギー大使であり、その活躍により良く知られ、また、人気の高いビンフィールド侯爵は・・・」
オスカー 読んでないと言ったじゃないか。
マーク ところが読んでいたのさ。「本日、その活躍に相応しい昇進を獲得した。」
オスカー(不機嫌に。)分かった分かった。そうだったな。
マーク 次がどうなるか、覚えているか?
オスカー 痩せてるとか、何とか・・・
マーク 「すらりとして、ハンサムで、機知溢れるビンフィールド卿は、一九二三年、父親からこの称号を受け継ぎ・・・」
オスカー 分かった分かった。もう一度電話を掛けてみるからな。(受話器に進み。)スローン七八三八を頼む。もう一度だ。その担当の記者、君の友達なんだな。
マーク いや。一度も会ったことがない。(切り抜きをポケットに入れる。)
オスカー それに似た記事が出たことがあったな、僕にも。
マーク どんなやつだ。
オスカー 近衛連隊で最もハンサムな士官、だとか何だとか・・・とにかくこういう事を書かれるってのはバツの悪いもんだよ。(急いで。)そうだ君、えーっと、何番だったかな。・・・(マークに教えられながら。)スローン七八三八・・・繋がった? よし、どこからかって?・・・チェルトナム・・・そう、チェルトナムから。・・・お待ち下さい。
(マーク、オスカーを睨み付けながら(訳註 交換手としての言葉が下手だかららしい。)受話器を取る。)
オスカー(必死に擬音を出す。)クリック、クリック。
マーク(囁き声で。)クリックは終だ。(間の後、受話器に。)ハロー・・・ハロー、キャロライン。・・・ちゃんと聞こえるか?・・・ああ、良く聞こえる。電話してくれって・・・何なんだ?・・・何? 帰ってる? 今どこにいるんだ。・・・何故帰らせたりしたんだ、君は。・・・スクオッシュをやってるって? そんなこと、してるもんか。ブルームズベリーのバーで飲んでるんだ。アーシュラ・カルペパーとね。それに彼女に金魚の糞みたいにくっついている連中とね。
オスカー デニスのことか?
マーク そうだ。(受話器に。)それでどうなんだ。御夕食にはお帰り遊ばすのか。・・・ふん、そうは思わない? そいつはよかった。・・・あの子が可哀相だ? そりゃ可哀相さ。しかしそんなことをしたらあいつは勘当だ。そうなりゃ、もっと可哀相だぞ。・・・それで私に何をしろって言うんだ。肩を優しくたたいてやって、「よくやった、デニス。外交官なんか辞めちまうんだな。いや、立派な息子を持ったよ。」そう言うのか?・・・いや、こっちも手が離せないんだ。しかし明日の朝一番で帰る。二、三時間でも。・・・いや、今夜は駄目だ。・・・駄目だ。それは全く不可能だ。いいか、あいつに言うんだ。「そんなインタヴューなんか止めちまえ」、それから、「明日の朝一番でフランス行きの切符を買え」とね。・・・じゃあな。・・・頑固じじい? 何を馬鹿なことを。・・・もしもし、もしもし。
(マーク、受話器を耳から外し、ゆっくりと置く。パーティーの声が聞こえる。)
マーク じじい? この僕が?
オスカー 三十五歳でね。
マーク うるさい。(陰気に。)デニスの奴め!
オスカー さぼりか?
マーク 厭でたまらんらしい。役者になるっていうんだ。
オスカー へえー、演技が出来るのか?
マーク 出来っこないさ。
オスカー 何で分かる。
マーク 見たことがあるからな。
オスカー 何をやったのを。
マーク シャイロックだ。
オスカー それで?
マーク 酷いもんだ。見ちゃいられなかった。
オスカー 合わない役だったんじゃないか?
マーク(食ってかかるように。)何だ? あっちの肩を持つのか?
オスカー(急いで。)いや、そうじゃない。ただその・・・どんな物事にも、両面があるからな。だろ?
マーク 誰が言ったんだ、そんな馬鹿なことを。
オスカー(悠々と。)誰って名前が残っちゃいないさ。まあ、一般に認められた定理っていうかな。
マーク くだらん定理だ。くそっ。学校で子供達に芝居なんかやらせるってのは、一体どういう神経なんだ。親への反抗を薦めているようなもんじゃないか。
オスカー(思い出して。)学校で芝居か。俺もやったな。マクベス夫人だ。
マーク(意地悪く。)さぞかし御粗末極まるマクベス夫人だったろうな。観客は地獄の苦しみだ、多分。
オスカー(威厳をもって。)イートンの新聞ではなかなか好評だったな。押し出しも立派だし、雰囲気もあるし、と。
マーク その新聞、頭がおかしくなっていたのさ。
(扉が開き、ノラ登場。衣装、ひどく露なパーティー用ドレス。'Dance Littile Lady' の曲が階下から聞こえる。)
ノラ ハロー、可愛い子ちゃん達。
マーク ハロー、可愛い子ちゃん。君、このオスカー・フィリップスンは初めてだったよね。僕の古くからの親しい友人なんだ。
ノラ ええ、初めて。始めまして。
オスカー 本当のことを言うと、さっき会ったんだけど。
ノラ あら、そう?
オスカー 「留めるの」やったのは僕。・・・覚えてる?
ノラ あらま。上手な、慣れた手だったわ、そう言えば。
オスカー そう思った? それは有難う。
ノラ あなたがあの人だったのね。よくマークから噂は聞いたわ。
オスカー こいつの言うこと、みんな真に受けちゃ駄目だよ。
ノラ それは大丈夫。今分かったから。噂で聞いてたあなたって、年寄りでただ真面目なだけの人。でも実物はどう、夢の王子様だわ、まるで。
オスカー(喜んで。)夢の王子様? 本当かい、君。
ノラ 本当、王子様その儘。でも私達こんなところで何をぼやぼやしてるの。どこかでパーティーがあるんじゃないの。それともそんなものないの?
マーク いや、ある。ある筈だよ。
ノラ あらあら、主人役が全然いなくて? 伊達についてる名前じゃない筈よ、主人役。持ち場を離れるってどういうこと? いけない人ね。
マーク 砲火に晒されて仕方なくだよ。嫌な奴が下にいてね。
ノラ 嫌な奴なんて何処にでもゴロゴロしてるでしょう? 私に言わせれば嫌な奴だらけよ。ここの下にだけ少ないと思ったら大間違いなんじゃない? さあ、降りましょう。社会的義務ってものを果たさなくっちゃ。
マーク あの大佐がいなくなるまでは駄目だね。オスカー、頼む。あいつまだいるか、下に行って見て来てくれ。
オスカー うん。だけど、どんな奴なんだ。
マーク 赭ら顔、白い髪、白い髭、大きな声。間違えっこない。あのパーティーに一番相応しくない人物を捜しさえすればいいんだ。
オスカー(扉のところで。)しかし、相応しいっていう方も分からんな。
マーク ウィンディーだ。あれが模範だ。(ウィンディーは不明。当時の漫画の主人公か。)
オスカー(ウィンディーのことを考えて。)頭が切れて、すらりとして、ハンサムで、ロンドンっ子か。(しかめっ面をして退場。)
ノラ 何? 今の。
マーク なーに、ちょっとした冗談でね。(ノラにキス。)どうだい? このところ。丸々三日間会わなかったね。
ノラ もうこの週末が待ち遠しくて、待ち遠しくて。・・・(衣装を見せて。)まだだったわ、感想。
マーク ははあ、新品の衣装か。
(ノラ、歩きまわって衣装を見せる。)
マーク うん、こいつはいい。
ノラ 値段もいいのよ。あなた、構う?
(マーク、微笑んでノラを見る。)
ノラ それとも、構わない?
マーク(抱きしめながら。)構わないさ。
ノラ あなたって大好き、ライトさん。(マークの両手を掴んで。)でもあなたって金持ちなのね、気違いみたいに。
マーク 気違いじゃないけど。
ノラ どこから入ってくるの? まさか彫刻でなんて言うんじゃないでしょうね。
マーク まあね。もう一つの仕事もあるからね。
ノラ 諜報部員? だけどあれの報酬って、安いものじゃない。まるでただよ。フロッシー・フィリップスをご覧なさいよ。
マーク フロッシー・フィリップス?
ノラ 女スパイ。知らないの? あの関係では大事な女よ。ゼロゼロ・ファイヴとか何とか。格好いい名前つけちゃって。でもバス賃にも困る時があるってよ。だからあなたの場合、どこからお金が出てくるのかしら。私がこんなにたかっているのにへいちゃらって、不思議だわ。
マーク それ、構う?
ノラ 構わない、本当は。謎だわ、あなたって。でも心配しないで。いつか正体を見破っちゃうんだから。だけどあの話は何なの? ラ・パースとかどこかに行っちゃうって。どこか狂ってるわ。
マーク 狂ってても本当なんだ、それは。
ノラ でも何故ラ・パースになんか。
マーク 行く場所はあっちが決めるんだ。こっちじゃないよ。
ノラ でもラ・パースだなんて。あんなとこ、地の果よ。そう、ベルギーはそんなに悪くなかった。週末には帰れたもの。でもラ・パース!
マーク(優しく。)駄目かい?
ノラ 駄目駄目。行かないって言ってやるのよ。まあま、ラ・パース! 諜報部員にあんなところで何の仕事があるって言うの? ロンドンよ、仕事があるのは。言っておやりなさいよ、ロンドンに残りますって。
マーク 言ったんだ。連中、聞かなくてね。
ノラ 「くそっ、俺は辞めた」って言ってやるのよ。
マーク それも考えたんだが。
ノラ え? 真面目に?
マーク うん。
ノラ 言うつもり?
マーク 分からない。決心がいるな、これは。
ノラ 私、力になれるかしら、その決心の。
マーク うん。
ノラ どうやって?
マーク その目だよ、今僕を見てくれている。
ノラ シルヴィアみたいに?
マーク いや、シルヴィアじゃない。君その儘でいいんだ。
(間。)
ノラ 私、もうパーティーに行かなくちゃ。そう思わない?
マーク うん、思う。だけど他にまだ思うことがあるな。君の今のその目つき、それを今夜遅くまた僕にするんだ。そのじっと僕を見つめるその目つきをね。(間の後マーク、ノラの向きを変えてやり、扉の方に向かせる。)
ノラ(扉のところで。)私、いいこと思いついたわ、ライトさん。どうしてこれに、もっと早く気がつかなかったのかしら。
マーク いいこと?
ノラ フロッシー・フィリップスに頼むのよ。
マーク(激しく。)駄目だ、それだけはいかん!
ノラ だけどフロッシーから一言あればあなた、ロンドン駐在は確実なのよ。
マーク ねえ君、フロッシーから一言あれば、僕は一生豚箱だよ。駄目だ、ノラ。お志は有り難いがね。とにかくこんな話はしちゃいけないことになってるんだ。そんなこと一言でも話してご覧、僕は本当に酷いことになるんだ。分かってくれ、ノラ。これは金輪際駄目なんだ。
ノラ 分かった。言わない。でも条件があるわ。
マーク 何だい、条件て。
ノラ 知ってる筈よ。
(間。)
マーク じゃあ一つ質問をする。これに真面目に答えてくれ。
ノラ いいわ。
マーク もし僕がその条件を満たしたら、君は僕の傍に一生いてくれる?
(間。)
ノラ ええ。
マーク 有難う。じゃあ僕もすぐ後に行く。
(ノラ、扉を開ける。下からのパーティーの音が入ってくる。)
ノラ(耳をすませて。)何、あの音楽。まるでお葬式ね。バブルズに言って、扇のダンスでもやらせなきゃ。・・・ただ、あの子、立っていられるかな。ねえ、ライトちゃん、早く降りて来るのよ。
(ノラ退場。ほとんど同時にバブルズ、縺れた髪に裸足、の姿で、寝室の扉に現われる。眠そうに、開かない目を開けてマークを見ながら。)
バブルズ ウオッカはまだかな。ポンソンビー、遅いわ。
マーク(礼儀正しく。)ポンソンビーって誰? それにウオッカなんて、何のため?
バブルズ 私のいい人。・・・私、知らない人とは口をきかない。
マーク どうしてこんなところにいるの、君?
バブルズ 知らないわ。(再び寝室に退場。扉を閉める。)
(オスカー、玄関扉から飛び込んで来る。)
オスカー(不安な面持ちで。)驚いたよ、マーク。例の大佐って誰か知ってるか?
マーク 誰なんだ。
オスカー あいつはいかん。逃げるが勝だ。
マーク どうしたんだ、一体。
オスカー 夫問題だ、情事の相手の。
マーク それなら身から出た錆だ。しかし原則に反するじゃないか。夫問題は起こさない主義だった筈だぞ。
オスカー 主義なんてあるものか、こんなことに。僕はただ勝手気儘にやっているだけなんだからな。カクテルを一杯、いいかな?
マーク カクテル? ここで?
オスカー 下にはとても行けそうにないんでね。
マーク なーるほど。そこに何でも揃っている筈だ。僕にも一杯頼む。
オスカー(サイドボードに進みながら。)ウィルバーフォースっていうんだ、あの大佐。運がよかったよ、見つからないで。馬鹿な奴がいたもんだ。僕があそこにいるって言い付けたらしい。「フィリップスン! 青二才の色男め! 貴様に話がある」と、大声で怒鳴りだしやがった。
マーク 青二才? ああ、そうか。君の顔を敵はまだ見ていないんだな。
オスカー それでまた僕のユーモアのセンスを貶(けな)すんだな。あれ? 氷がないぞ。
マーク 勿論ここには氷はないさ。
オスカー 僕の頃には氷はちゃんとあったぞ。「真空なんとか」と言ったな、あの入れ物。どうしたんだ、あれは。
マーク 自分で持って行ったじゃないか。
オスカー ああ、そうだった。さてと、この我々の共通の敵、ウィルバーフォース殿についてだが、どうやら飛んだ誤解をしているらしい。ピラミッドからカイロ・オペラハウスに行くタクシーの中で僕が、かの奥方に対して馴れ馴れしい行為に及んだとね。(カクテルを飲む。)うん、これはいける。氷なしの方がうまいくらいだ。
マーク その話のどこが誤解なんだい。
オスカー 全然違うさ。第一タクシーでなんかじゃない。
マーク ははあ、駱駝の上でか。
オスカー 駄目だ。ユーモアのセンス、二十点だ。奇麗な庭だった。月夜でね。それに「馴れ馴れしい行為に及んだ」んじゃない。先方に導かれたんだ。
マーク 成程。ところでこれに何を入れたんだ。(カクテルを少し舐めた後の台詞。)
オスカー 普通のジンとベルモットだ。レモンを効かせているからな。それで味が違うんだ。
マーク 何か変な味だな。・・・腐った大根のような。
オスカー 馬鹿な。うまいよ。
(オスカー、自分のを飲み干す。マークは置く。)
マーク オスカー、実は真面目な話がある。よく聴いてくれ。いいか? (オスカー頷く。)あの娘、どう思う。
オスカー あの娘? いいよ。なかなかいい。・・・勿論シルヴィアだ。一九二九年版のね。最新型だ。
マーク 今回はシルヴィアはなしなんだがな。
オスカー なしってことはないよ。今度もそっくりじゃないか。
マーク うん、そっくりはそっくりだ。しかしそれは関係ない。僕は思い出に惚れちゃいない。ノラ・パタスンに惚れているんだ。
オスカー いつかはこんなことになると思っていたよ。ちゃんと僕は警告した筈だぜ。そうか、証拠の提出を求められるぞ、こいつは。
マーク 提出? 何だいそれは。
オスカー(サイドボードの方に行き、もう一杯カクテルを作る用意。)離婚の法廷でだよ。
マーク 離婚? 誰が。
オスカー 君がだよ、勿論。
マーク メロドラマだな、まるで。誰が離婚なんて言った。
オスカー 君だよ。惚れてるって・・・
マーク そう。惚れてる。で、その程度なんだが、離婚までじゃない。外交官を辞めるまで、だ。
(間。)
オスカー Tiens, tiens. (チアン、チアン。仏語「あらまあ」)
マーク 何て言った?
オスカー Tiens, tiens. ってね。これはフランス語でね、「まあ、止せよ。」という意味なんだ。(訳註 tiens は原語に戻れば keep で、「保て」の意。外交官のマークにはこのフランス語の知識は常識。)
マーク 他には何かないのか。
オスカー ある。あれは随分昔になるな。僕は丁度このソファに坐って君に警告した。僕はよく覚えている。君の二つの世界はいつかは衝突して、両方とも木端微塵になるってね。僕は言った。そりゃマーク・ライトの方が粉々になるのは一向に構いはしない。だけど、マーク・ビンフィールドが吹っ飛ばされるのは悲劇だ。破局だとね。いいかい?・・・変だな、こいつ。何か変なものを入れたみたいだ。(カクテルを指差す。)
マーク(自分のを啜って。)なあーんだ。やったな、こいつ。君はベルモットじゃなくて、ブランデーを入れたんだ。
オスカー 馬鹿な。僕がそんなへまをする筈が・・・(サイドボードに行く。)これがジンだ。そしてこれが・・・(二番目の容器を嗅ぐ。怒って。)何だ、これは。ブランデーじゃないか。ベルモット入れに君はブランデーを入れたんだな。
マーク それはブランデー入れなんだ。ベルモット入れなんて聞いたことがないぞ。
オスカー 聞いたことがない? あるに決まってるじゃないか。現にここにあるのがそれだ。これに僕はいつもベルモットを入れていたんだ。
マーク 僕はブランデーを入れてたね。
オスカー そのお陰で一体僕はどうなったと思う。普段よりはずっと早い時間に酔っ払うだけじゃない、肝臓に強烈な一撃をくらってるんだ。(機嫌悪く。)何を話していたんだったかな。
マーク 僕のことだ。外交官を辞める話。
オスカー そうだよ、破局だ。(驚いて。)そうだ、あの時も丁度この言葉を使ったぜ。
マーク 馬鹿なことだ。
オスカー(怒って。)言ったぞ、僕は。ちゃんと破局と。
マーク 言ったかも知れないがね。破局破局と繰り返し言って何になるんだ。それが馬鹿げていると言ってるんだ。
オスカー(陰気に。)今に分かるんだ、すぐにな。そうだ、もう一つ大事なことがあった。短い言葉だがな、これは君の心に浸透し、貫通するんだ。
マーク 浸透、貫通か。
オスカー まづ洞察だな。その後、浸透、貫通だ。
マーク ふん。言ってみろ。
オスカー デニスだ。君はデニスと同じだよ。
マーク デニス? あいつはまだ十八だ。何も分かっちゃいない。だいたい自分の考えていることも分かっちゃいないんだ。ところがこっちはちゃんと自分のやっていることは分かってるんだからな。
オスカー ふん。自覚のない自殺と自覚のある自殺の差か。・・・おい、これ、なかなかの名文だったぞ。誰か聴いていてくれたら良かったな。
マーク 僕がちゃんと聴いていたさ。馬鹿な台詞だ。それにな、デニスは役者になると言っている。つまり自分でないものになりたいと言ってるんだ。が、一方この僕はだ・・・
オスカー ふん。僕の方は?
マーク 自分自身になるのさ。それ以上でもそれ以下でもない。彫刻に以前より少し身を入れて、少しものでも書いて、読まなきゃならなかった本を読んで・・・
オスカー ラ・パースで出来るじゃないか、そんなこと。
マーク だけどどうしてラ・パースくんだりでだ。それも人生の華っていうこの時期に。
オスカー すらりとして、ハンサムで機知溢れる・・・
マーク もういいよ、それは。僕はどうして自分自身をそんなところに幽閉しなきゃならないんだ。ラ・パース。 一旦あんなところへ行ったら何年も帰っては来られない。追放だ。辱められ、忘れられ、無視される。それもしょぼくれた南アメリカの、ゴミの山の中にね。
オスカー ラ・パース、なかなか楽しい国じゃないか。
マーク 行って来たことがあるんだな、すると。
オスカー いや。絵葉書を持ってるんだ。
マーク ラ・パース公使! いいか、オスカー、ここで僕が譲るってことは何を意味するか。それはこの十三年間、マーク・ライトを発明して以来、こういうものには負けまいと懸命になって努力してきたもの全部に白旗を上げることなんだ。老けこんで、御身安泰だけを事とし、退屈で自分の地位を笠に着る男になることなんだ。まあいい。君の言う通りだ。二つの世界は衝突した。それがどうした。ビンフィールドを吹っ飛ばせばそれで終じゃないか。それでライトを生かしておけばいい。ビンフィールドのような奴はいくらでもいる。もっともらしい顔をして、女房に飼い慣らされて、野心も何もない退屈な男、そしてそのことに気付いてもいない、死んだも同然の男じゃないか。だけどライトは生きている。生きる力を持っている。そうだ、人生は大海原の大きな潮にのって生きるものだ。どぶ池の臭い淀みにのって生きるものじゃない。なあオスカー、僕は今、人生の岐路にある。誰にでも来るんだが、一生に一度しか来はしない。乾坤一擲の賭けをしなきゃならない。この賭けに勝つか負けるか、それが僕の後半生を決定するんだ。僕はもう態度は決めた。賭けはなされたんだ。明日僕は辞表を出す。
(オスカー、マークをじっと見つめている。)
マーク 何か言うことがあるのか。
オスカー うん。興奮すると君、随分眉毛が動くんだね。
マーク 他にはないのか。
オスカー いや、ある。
マーク それは?
オスカー 悲劇だ。はきょ・・・いや、悲劇だ。
(ウイリアムズ、盆を持って登場。盆の上にはコーヒーポット、ウオッカの罎、コーヒーカップあり。)
マーク 大佐はどうした。退散したか。
ウイリアムズ いえ。まだであります。御命令通りトマトジュースをぶっかけたでありますが、御自分が何をされたか、お気付きにならない御様子で。
(ウイリアムズ、寝室の方へ行く。)
マーク どうしたら追い出せるんだ、一体。
(間の後、二人同時に名案を思い付く。それも同じ名案を。二人、振り向き、シェイカーを見る。立ち上がり、サイドボードに進む。)
マーク 混合比は忘れてないな?
オスカー 忘れる訳がない、普通のドライマテニと同じだからな。(オスカー、カクテルを作る。前と同じ容器を使う。)ジン二杯とベルモット一杯。ベルモットはもう少し効かせてと。けちけちすることはない。それからレモンをちょっと絞って・・・これが人生に華やかな味を添える。よしと。(ちょっと舐めて。)うん、これだ。これを本物中の本物と言う。「夫撃退カクテル」、特許所有者フィリップスン、名前は「ビンフィールド、やっかい払いカクテル」の方がいいかな。
(ウイリアムズ、寝室から出て来る。マーク、オスカーからシェイカーを取り、ウイリアムズに渡す。)
マーク ああ、ウイリアムズ。これはウィルバーフォース大佐用のカクテルだ。彼個人のためなんだからな。分かるな。
ウイリアムズ はい、ミロード。
マーク いいか、そいつをこぼすなよ。床に穴があくとまづいからな。
オスカー 今寝室に運んだものは何なんだ、ウイリアムズ。
ウイリアムズ コーヒーとウオッカであります。下の客が一人あそこへ。
オスカー ははあ、男か?
ウイリアムズ 女性であります。
オスカー 三十歳以下の?
ウイリアムズ はあ。
オスカー 名前は?
ウイリアムズ ミス・パタスンの呼び方ですと、慥か、バブルズと。
オスカー バブルズ? よし。もう一個カップを頼む。
(オスカー、寝室に入る。(訳註 ここですぐウイリアムズ、持って行く。ウイリアムズが出て来た時マーク、ウイリアムズに言う。))
マーク いいな、ウィルバーフォース大佐がひっくり返ったら、タクシーに無理矢理押し込むんだ。それが終わったら私に知らせろ。
ウイリアムズ 畏まりました、ミロード。
(ノラ登場。)
ノラ あなた何やってるの。酷いわ。下では大騒ぎよ。みんな怒鳴ってる。主人役を出せって。
マーク ねえ、ノラ。僕はまだちょっと降りられないんだ。本当に無理なんだ。だけどウイリアムズが今からうまくやってくれる予定だ。 もう後二、三分の辛抱だよ。その間、頼む。いいか、ウイリアムズ、頼んだぞ。
(マーク、ウイリアムズに頭の動きで行けと合図。ウイリアムズ退場。)
ノラ そうお。でも本当に二、三分よ。そうでないと下ではマーク・ライトなんか架空の人物、いやしないんだって思っちゃうわ。
マーク 架空の人物なんかじゃない。厳然として存在するんだ。存在するだけじゃない、彼は一大決心をしたぞ。
ノラ ラ・パースは、無しなのね。
マーク そうだ、無しだ。
ノラ 有難う。これ以上言葉にならないわ。有難う。私、下にもう戻らなきゃ。下に、どうしてもあなたに会わせろってきかない人がいるの。私、あなたの彫刻を見せたの。そしたらその人、ちゃんと知ってたのよ、あなたの彫刻を。
マーク(喜んで。)へえー。誰なんだろう。
ノラ 名前が難しいの。覚えられなくて。何とか子爵って言ったわ。その人、アーシュラ・カルペパーと一緒に来たの。ここに上げていい?
マーク(優しく。)あのね、その話で君に、二つ言っておきたい事があるんだ。一つはね、アーシュラ・カルペパーはご免だっていうこと。あの女はこのパーティーには呼ばないんだ。いいね。僕はあいつが大嫌いで・・・
ノラ あの人をしめだすなんて無理よ。だってあの人、このパーティーの主役なのよ。そんなこと知らないから予めあなたに相談なんかしなかったけど。で、二つ目のことって?
マーク これはちょっと貴族の社会での習慣で、気障なことなんだが・・・君はいつも、こういうことはみんな知っておきたいと言ってたから・・・
ノラ そうよ。何なの?
マーク 普通僕等はね、何とか子爵なんて言わない。必ず何とか卿という・・・(恐ろしい考えが頭に浮かぶ。あたかも銃で撃たれたかのように言葉を切る。)何子爵って、君言った?
ノラ セント・・・何とか。
マーク(苦しそうに。)アーシュラ・カルペパーとか?
ノラ そうよ。
マーク 歳は?
ノラ そうね。十八か十九かしら。
マーク そうか。(恐ろしい目つきで部屋を眺める。まるで窓から飛び降りようとでもしているような。)ねえ君、僕が今突然散歩に出たら、ひどくまづいことになるかな。
ノラ 散歩? 私のパーティーをどうするつもり?
マーク それは分かってる。だけどね、僕は時々パーティーとなると、急に閉所恐怖症になることがあって・・・
(デニス登場。マーク、氷ついたようになり、言葉が続かない。)
ノラ この子よ、今話してた子。(デニスに。)あなた名前、もう一度言ってみて。
デニス セント・ネオッツ。
ノラ そう。そうだったわ。セント・ネオッツ子爵・・・あ、セント・ネオッツ卿よ、ライトさん。じゃあ二人で仲よくね。(マークに。)私、下に行って来るわ。(ノラ、マークの頬にキス。)さあ、もうさっさと降りて来るのよ。本当に素敵な恋人を皆にパーティーで見せびらかそうとしている時に、全然姿も見せないなんて、恥ずかしいわ。酷いことよ。(ノラ退場。去った後、永遠に続くかと思われる程の間あり。)
マーク(やっと。)最近若い女の子の間には、ああいう馴れ馴れしい言い方が流行っているのかな。
デニス そのようですね。
マーク あれで連中、現代風だと思っているんだ。そうだろう?
デニス そのようですね。(間。)本当は古めかしいんですね。そうでしょう?
マーク そのようだな。(間。)肌がえらい黒いじゃないか。
デニス 陽に焼いたんです。
マーク そのようだな。(間。)なあデニス。見かけで判断しちゃいかん。見かけでは騙されることが多いんだからな。
デニス はい、分かっています。
マーク お前が知っているかどうか・・・まあ知らん筈だが・・・実はその、私はかなり以前から、その・・・政府の内密な仕事に携わっていてな。これ以上このことについては言えないが、その・・・私の言っていることはおよそ想像がつくな?
デニス ええ、およそ。
マーク よし。それならいい。ところでお前まさかここで、私の本名を明かすようなことはしないだろうな。
デニス そんなことは。勿論。
マーク ミス・パタスンと私は古い友達なんだ。いいな。昔からのだ。
デニス ええ。まあ、そうだろうと・・・
マーク いいか、その彼女でさえ、私の本当の正体は知らないんだ。
(オスカー、寝室の扉に現われる。バブルズに抱えられるようにして。)
オスカー 俺は妖精だ。俺の正体は妖精だったんだぞ。それにウオッカはな、最高だ。世界で最高のアルコールだぞ。(真面目な顔をしているデニスと顔が合う。)Tiens, tiens.
デニス 今日は、おじさん。
(間。)
オスカー(元気よく。)やあやあ、デニス。えらい黒いな。
マーク 陽焼けにこれ努めたって訳だ。
オスカー なるほど。それで説明がつくな。なーるほど、なるほど。(やや間があって。)なーるほど、なるほど。
バブルズ(オスカーに。)あなたその「なーるほど」ってのはもういいわ。そんなの繰り返し言って何になるの。それよりほら、私の首の後ろ、くすぐる、あれやって。気持ちいいわ、あれ。
オスカー あー、ミス・フェアーウェザー。ちょっと悪いけど、またあっちに入っていてくれないか。(バブルズを寝室に押しやる。)
バブルズ 私のウオッカ、貸して。(ウオッカを受け取り、オスカーの頬にキス。)女の子って、一人でほうって置かれるものじゃないのよ。(扉のところで。)待ってるんだからね私、あなたのこと待ってるのよ、本当に。
(バブルズ、寝室に退場。)
オスカー いや、驚いたね。最近の若い女の子ってのは随分馴れ馴れしい言い方をするもんだな。
マーク ああ、そうだな。
オスカー いや、驚いた。(また元気よく。)ああ、デニス。こんなところで会うなんて、偶然だな。
デニス ええ、本当に。
オスカー(用心深く。)親父さんに君、もう聞いたと思うけど、僕等偶々クラブで出くわしてね。丁度僕はライトという男が主催するパーティーに行こうと思ってたんで、親父さんを誘ったんだ。面白がるだろうと思ってね。それに僕は古くからミス・パタスンを知っていて・・・親父さんは勿論彼女なんか知ってはいないよ・・・だからきっと・・・(言い止める。マークの顔色を見て、何か具合が悪そうだと判断したからである。)えーと、親父さんの話と違うかな?
デニス ええ、ちょっと。
オスカー(困って。)どうしてかな。こういう話の筈なんだが。
マーク 話半分に聴くんだ、おじさんの言う事は。カクテルを作る時おじさん、調合を間違えてね。ベルモットの替わりにブランデーを入れたんだ。分かるだろう、その結果は。
デニス それはひどいです。その上にウオッカときては・・・ねえ、お父さん、こんなことになって僕、申し訳ないと思っています。わざとやったんじゃないんです、本当に。ただこのパーティーに来たら、ミス・パタスンがいろいろ彫刻を見せてくれて・・・そしたら勿論僕の見覚えのある彫刻です。変だな、このライトっていう男、お父さんの作品を騙っているのかって。だから彼に是非会って話をつけたいと・・・
マーク いいんだ、デニス。分かった、よく分かったよ。
デニス でも後で考えるとそんなの馬鹿なことだったんです。すぐに事情は分かっていい筈だったんですから。
マーク 分かっていい筈? どういうことだい?
デニス ミス・パタスンを見ればすぐ分かることだったんですから。
マーク どうも分からんな。
デニス だってあの人の顔、シルヴィアなんですから。
マーク シルヴィア?
デニス お父さんがいつも彫る・・・十七歳の時に恋した女の人・・・
マーク 恋した? 誰が。
デニス お父さんです。
マーク そんな事、言った覚えはないぞ、私は。
デニス あれぐらい話を聴けばそれぐらいすぐ想像つくでしょう?
マーク そうかな。私には分からん。
デニス おかしなものですね。人って、だいたいいつも同じ顔に恋するものなんですね。
マーク そういうものらしいな。
デニス 固定観念の一種ですね、きっと。
マーク そうかな。
デニス ナルシシズムなんですよ。
マーク ナルシシズム?
デニス ええ。自分を愛しているんです、消え去った過去の自分を。
(オスカー、奇妙な声を出す。)
マーク(オスカーに向かって、怒って。)何か言ったか?
オスカー いや、ちょっとくしゃみを。
デニス だからお父さん、お父さんの恋しているのは十七歳の時の御自分なんです。
マーク そうかな。
デニス そうですよ。(明るく微笑んで。)でも心配なんかすることはありませんよ。
マーク それならいいんだが。
デニス 精神分析学者とか心理学者とか、そんなところへ行く必要はないっていうことですけど。
マーク それは有り難い。あれは高くつきそうだからな。
デニス 偶々僕、安くしてくれるところをウィグモア街にあるのを知っているんです。まあどうしても気になるっていうんでしたらの話ですけど。だけど本当、気にすることはありませんよ。固定観念なんて全くありふれたことですから。実際誰だって多少は持っているんです。
マーク 例えばこのオスカーでもか。
デニス ええ。非常によくその兆候が出ています。
オスカー そうか?
デニス 女の子の首の後ろをくすぐるなんて。子供の遊びですよ、これは。勿論厳密にフロイド的な意味でです。
オスカー なあデニス、そのウィグモア街の男の住所、教えてくれないか。
デニス ここには持っていないんです。でもお父さん、本当に必要ありません。シルヴィアを捜すっていうのは全く害はないんですから。えーと、どうも僕、ここにいては邪魔みたいですし、そろそろお暇(いとま)します。アーシュラを夕食に連れて行くと約束してますし・・・
マーク アーシュラ・カルペパーか?
デニス そうです。
(間あり。マーク、攻撃に移る構え。)
マーク あの女には二度と会うなとかたく言っておいた筈だがな。
オスカー(呟く。)「我、敵の攻勢にあへり。正面は破られ、側面もあやふし。我、反撃す。マーシャル・フォック。」
マーク(オスカーを睨みつけながら。)どうなんだ、デニス、私はそう言った筈だが。
デニス ええ。確かに。でも僕は約束はしませんでした。それに僕、この話はお父さんに賛成出来ません。
マーク ふん。賛成出来ない。しかし賛成した方が身のためだ。ロンドン中で最も悪名高い女と私の息子が付き合っている、などというのは実に好ましくないからな。
デニス あの人は悪名高くならざるを得ないんです。有名な女優なんですからね。素晴らしい女優でもあります。あの人のものを観たことがありますか、お父さん。
マーク 有り難いことに、その光栄に浴していないな。
デニス 変ですね、それは。ミス・パタスンが出て、好演している芝居に彼女も出ているんですから・・・
(間。)
オスカー 脇腹に隙があったようだな・・・見事な向かえ撃ちだ。
マーク(オスカーをぐっと睨んだ後。)考えはある女かも知れないがな、町の女の言葉を使う女なんだ、あれは。
デニス 分かっています、お父さん。あの馴れ馴れしさは止めた方がいいと、よく僕も彼女に言っているんです。でもそれは僕達がついさっき、ミス・パタスンについて言ってたことじゃないですか。
オスカー お見事。お突き一本!
マーク オスカー、君には部屋を出て行って貰わねばならないようだな。
オスカー 失敬。ウオッカが効き過ぎて・・・
マーク(デニスに。)暫くアーシュラ・カルペパーの話は置くとしよう。但し終わったんじゃないぞ。・・・デニス、私はお前の説明を求める。何の予告もなく、トゥールを飛び出してロンドンに帰る、これは一体どういうことなんだね。
デニス すみません、お父さん。もうあそこには一秒も留まっているのは厭なんです。僕はこれで三箇月あそこにいましたが・・・
マーク この三箇月間で、どれだけのフランス語を君が学んだか訊きたいものだね。Dites-moi quelque chose en francais. (仏語 「何かフランス語で言ってみるんだ。」)
デニス Que voulez-vous que je dis? (「どんなことを言えって言うんですか」但し、次に指摘される文法上の誤りあり。)
マーク(勝ち誇って。)ディーズだ。Que je dise. 接続法だぞ。それに何ていう発音だ。
オスカー おお、かすりだ。勿論一本にはならない。しかし、確かにかすったぞ。
マーク(憤然となって。)オスカー・・・静かにしてくれ。
デニス でもお父さん、今さら僕がフランス語を勉強したって、しようがないでしょう? だって僕、役者になるって決めたんですから。
マーク ふん、決めた。決めたね、役者になると。
(ノラ登場。)
ノラ 戴いた帽子、被りに来たの。皆に見せようと思って。(寝室に進む。)何してるの、ここで。三人揃って。
マーク 別に。何も。
ノラ あなた、今すぐ下に降りなきゃ、私怒るわよ。本当は私、今日はどうしても怒りたくないんだけど。だってあなた、諦めて下さったんですものね今日、あの嫌なラ・パース行きを。
マーク あー、そのことについては、また後で話そう。
(ノラ、寝室に退場。)
デニス(父親を責める口調。)お父さん! お父さんは外交官を辞めるんですか。
(間。)
オスカー(マークに。)また逆襲だぞ。これは一時撤退した方が良さそうだぜ、マーク。
マーク オスカー、今すぐここを出るんだ!
オスカー うん、そうしようと思っていたところだ。言われなくてもね。とにかくこれは見ちゃいられない。
(ウィルバーフォース大佐の陽気な顔が扉に現われる。 オスカー、慌てて部屋の隅に行き、絵を眺めている振り。)
ウィルバーフォース ああ、ビンフィールド、こんなところに隠れていたのか。まあ無理もないな。酷いパーティーだ。
マーク そうか。酷いかな。
ウィルバーフォース うんざりだ。全くうんざりしてるんだ。勿論妻が来なきゃ、わしだって来はしなかったんだが。あいつ、芝居に出たもんだからな。(デニスを見て。)ああ、これは君の息子じゃないか。
マーク うん。
ウィルバーフォース そうだろうな。さっき親父さんにくってかかった所を見たよ。いかんぞ、あれは。親父にとってはかなりな打撃だ。うん。妻の話だが、あの芝居、トプシー・ターヴィーに出ていたんだ。あれは見たんだろう? 最後に出て来て、「あら、パーシー卿の正体はあなただったの? まあ。」という台詞を言う役だったんだが、覚えてるかい?
マーク 勿論。
ウィルバーフォース そうか。で、台詞は聞こえたかい?
マーク そりゃもう、はっきりと。
ウィルバーフォース いや、聞き取れないって言う連中もいるもんだから。勿論わしにはその判断は無理だ。台詞を知っているからな。
マーク うん、なるほど。それは・・・
(オスカー、見たところ非常に引きつけられている様子で絵を眺めている。ウィルバーフォース、少し疑いの目 付きでそれを見る。)
ウィルバーフォース ここにフィリップスンという名前の男はいないかな。とんだくわせものなんだが。
(これをオスカーに向かって言う。オスカー、曖昧に首を振る。)
ウィルバーフォース このパーティーに来てるって聞いたんだがな。そいつにわしは一言話がある。何が何でも言わなきゃならん。
(少しの間の後デニス、前に出て。)
デニス 御紹介します。こちら、メイスン連隊長。こちらはウィルバー・・・
ウィルバーフォース ウィルバーフォースです。始めまして。連隊長にしては随分若いな。
オスカー 皆がそう言っててね。
(通りで女の歌っている声。しゃがれた大声。酔っ払っている。)
ウィルバーフォース あ、ちょっと失礼。妻の声らしい。(窓へ進み。)やはりそうか。これは驚いた。酒なんか飲んだことがないんだが。精々パーティーでわしのグラスを取って舐める程度なのに。
マーク ほほう、舐める程度。あなたのグラスから。
ウィルバーフォース そうだ。何が何だかさっぱり分からんな。(窓から。妻に向かって。)おーい、わしだ。おーい、ヨーッホー。(女の声がする。これに答える声。)おーい、お前。そこにいるのはウイリアムズか。
ウイリアムズ(舞台裏で。)はい。ウイリアムズです。
ウィルバーフォース 頼む、ウイリアムズ。抑えておいてくれ。(女の抵抗する声が聞こえる。)逃がすなよ。あ、そのタクシーに詰め込むんだ。(タクシーの扉の閉まる音がする。それから沈黙。)無事詰め込み完了。 芝居ではこういうのかな。ウイリアムズがやってくれたか。有り難い。(デニスに。)や、失敬した、君。正義感もいいが、父親に怒鳴るのはまづい。この次に会う時はなしだぞ。失礼、連隊長。失敬、ビンフィールド。会えて良かった。
(ノラ、寝室から登場。)
ウィルバーフォース おやおや、これはこれは。女御主人役、ここにおられましたか。わしは丁度退散するところで。
ノラ あら、もうお帰り?
ウィルバーフォース ちょっとベティーの奴が酔っ払ってね。何だか訳の分からん話なんだが・・・まあ、失敬。好いパーティーだった。主人役の男に会っていないのが心残りだが、まあ代わりによろしくと言っておいてくれ。
ノラ 主人役の男? ほら、(マークを指さして。)今言ったらどう?
ウィルバーフォース 何だって? ビンフィールド、ビンフィールドが主人役? こいつはいいや。いや、最高だ。じゃあみんな、わしは失敬する。そうだ、ビンフィールド、ラ・パース公使就任、おめでとう。いい地位じゃないか。素晴らしいよ。じゃあな。(退場。その後、残った四人に深い沈黙を残して。)
ノラ ねえ、私、あなたを問い詰めたいなどと思ってはいないのよ。でも・・・
(間。マーク、諦めたように咳払いする。)
マーク ちょっとね、ノラ、これから僕の言う台詞は、君の出た芝居のトプシー・ターヴィーに似てるんだが、つまり、私はマーク・ライトじゃなくてビンフィールドでね。ここにいるのは私の息子、デニスなんだ。
ノラ(一番驚いた点を捉え。)息子?(ノラ、デニスを見、次にまたマークを見る。)まあ、これがあなたの? 無理だわ。
マーク いや、年も嘘だった。私は三十五じゃなくて、四十四なんだ。
ノラ まあ。三つぐらいならまだ許せるわ。でも九つ! やり過ぎだわ。まるで嘘みたい。信じられないわ。まあ、これが人生っていうものかしらね。でもゆっくり話してなんかいられないわ。パーティーが・・・私、下に降りなくっちゃ。(扉に進む。)あ、そうそう、皆さん、こういうことにちょっと興味をお持ちかも知れませんから申し上げますけど、私、実はアマリア皇女ですわ、ボトルバーヴの。そしてバブルズ・フェアーウエザー・・・今まで私の名前だって言ってましたこれは、母なんですの。あのフェアーウエザー大公妃。
(ノラ退場。長い間。)
オスカー(やっと。) Tiens, tiens.
(マーク、深く椅子に坐る。頭を両手で抱える。)
オスカー(再び。) Tiens, tiens.
(デニス、マークの椅子に近づく。マーク、見上げてデニスを睨みつける。)
デニス お父さん、僕、お父さんに言うことがあるんだけど。いいかな。(マーク、見上げ、黙っている。)これ、僕なんかの言うことじゃないって分かってるけど、でもお父さん、外交官を辞めちゃうのはまづいよ。(非常に誠意を込めて。) 僕今、お父さんの気持、分かる。辛いだろうなって思う。本当に。だけど、今まであんな立派な経歴だったじゃない。ね? 今になってそれ全部捨てちゃうのって、僕は損だと思う。(マーク、まだ何も言わない。少し心を動かされた様子。)・・・僕と一緒に食事しない? 今
夜。ね、お父さん。
マーク アーシュラ・カルペパーと約束があるんじゃないのか。
デニス いいんだ、あれは。またにする。あっちも気にしやしないし。ね、お父さん。
マーク 私にも先約がある。
デニス またに出来ない? ねえ、僕のクラブに行こう。料理はたいしたことはないけど、ゆっくり話が出来るし、決して邪魔は入らない。ちょっと僕、下に行って来る。アーシュラに説明するんだ。ね、いいね、お父さん。
(間。)
マーク どうかな、デニス。どうしたものか。辞めといた方がいいんじゃないか。
デニス(陽気に。) まあ、とにかく僕、アーシュラに言って来るよ。すぐ上がって来るからね。(デニス退場。)
(オスカー、じっとこの成り行きを見ていたが、ここでマークを見る。マークもオスカーを。マーク、ゆっくり
と立ち上がり、玄関ホールに行き、再び戻って来る。帽子を被り、手袋、コートは手に持って。オスカー、コートを着るのを手伝う。黙った儘。マーク、ゆっくりと玄関ホールに進む。)
オスカー マーク。
マーク 何だい。
オスカー イギリス外交の痛手だね、デニスが外交官にならないのは。
マーク 痛手?(オスカーの言った意味が分かるまでに数秒を要する。)いいか、オスカー、私が賛成するとでも思っているのか。あいつがちょっとでもそんなこと思ってみろ・・・
(デニス登場。)
デニス タクシーを呼んでおいたから。
マーク(デニスの方を向いて。怒って。)いいんだな、デニス、この夕食はお前にとって楽しいものにはならないぞ。いいんだな。私は相当強い言葉を言わねばならんのだ。
デニス はい、お父さん。
マーク 役者! 何を考えてるんだ、一体。お前が役者になれるだなんて、一体どこのどいつが考えてるんだ。
デニス 僕以外の誰が考えてるか、それは分かりません。でも僕はなれると思ってるんです。それだけです。
マーク お前は私の名前を継ぐことになっているんだ。お前はそのことを忘れたのか。
デニス 忘れてはいません。役者には芸名があります。僕はそれを、デニス・ライトとするつもりなんです。
(間。オスカー、両手を空中に投げだすように上げる。)
オスカー やったー! これは急所にぐさりだ。立ち直る余地なしだな。停戦要求あるのみだ、マーク。停戦の要求だ。
(マーク、威嚇するようにオスカーに近づく。)
マーク こいつ、殴り飛ばして窓からほうりだすぞ。
オスカー いいよ。さあ、どうぞ。
マーク(声、怒りで締め付けられる。)肥りやがって、豚のように。それも出来はしないや。(急にデニスの方を向いて。)いいか、デニス、そんな馬鹿は出来ないんだ。世の中には逆立ちしたって出来ないことがあるんだ、いいな。そんなことが可能だなんて、ちょっとでも考えてみろ、いいか、その考え自体が大間違いなんだ。
(二人が玄関ホールに着くまでに、幕が降りる。)
第 三 幕
(場 同じ。時 一九五0年。)
(部屋はもう一度模様替えがされている。どちらかというと、一幕の独身者の部屋に戻っている。ただ、ところどころに愛の巣(一九五0年版の)にしたかったが失敗した、形跡が見える。それも住人の育ちの良さが邪魔をした結果であるらしいことが見てとれる。)
(冬の午後六時頃。 幕が開くとウイリアムズが電話をかけている。夕食のためにテーブルの上に四人分のナイフ、フォーク類が置かれてある。料理はどうやら牡蛎のみ。それにシャンペンであるらしい。ラジオは 'Harry Lime'のテーマを流している。)
ウイリアムズ(電話に。)スローン七八三八?・・・カンリッフを頼む。・・・ああ、カンリッフか。私だ。今日の話を言うからな。鉛筆あるか。・・・ああ、書きとらなきゃ駄目だね。・・・いいか、(ゆっくりと書き取らせる。)私はクラブの執事だ、今日は。・・・そうだ。・・・旦那様はここ。・・・つまりクラブで夕食。フィリップスン大将と一緒だ。・・・そう、その方が楽だ。それは後にくる。・・・分かったな、いいか。・・・クラブで大将と夕食、デニスさんの初舞台にまっすぐ行って、そこでベイズウオーター卿と会う。それから陸軍大臣・・・陸軍だよ・・・芝居がはねてからベイズウオーター卿宅へ食事に。十二時三十分頃帰宅の予定・・・そう・・・まてよ、一時の方が安全だな・・・そうだ、これを訊かなきゃ。奥様のお風邪の具合は?・・・ああ、大分いい?・・・おひるには起きられたって? うん、旦那様に話しておく。安心されるだろう。で、あれはうまくやったか? そうか。そうそう・・・よし、じゃあな。(ウイリアムズ、電話を切る。)
(ドリスとクロウイー、一緒に話しながら登場。ドリスは鍵をバッグに仕舞っている。二人ともイヴニングドレス姿。モデルのような歩き方。実際二人はモデル。ドリスは一九五0年版のシルヴィア。クロウイーは美人。彫像のよう。)
ドリス だから私、奥さんに言ってやったのよ。私、お昼の休み時間が一時間で足りるって思ったこと、一度もありませんわ。それに、私が十分遅れたからって、このお店が潰れるってわけじゃないでしょうって。(ウイリアムズに。)今晩は、ウイリアムズ。この人クロウイー。・・・ウイリアムズよ。この子もファビアの売り子。
ウイリアムズ(クロウイーに。)これは・・・始めまして。
クロウイー 今晩は。
ドリス あの子も連れて来てって言われたのは、ついさっきだったのよ。この子親切だって思わない? パーティーを盛り上げる為だけなのに、来てくれたの。それにデイトもあったのよ、他の男の人と。
クロウイー それは違う。ママと。
ドリス あら、ママとだった? いいわね。(ウイリアムズに。)ライトさんったら、あんなにぎりぎりになって電話を下さるんですもの、私達、何の用意をする暇もなかったわ。二人とも酷い格好・・・
ウイリアムズ 酷いなんて、そんな。御立派なお支度で。それにこちらさまも豪華絢爛。お二人ともただ見ているだけで目の保養ですよ。
ドリス 私達ただ慌てて洋服をひっかけて来ただけ。ね、クロウイー?
クロウイー ええ、そう。ただそこらに転がってたのをその儘巻きつけて来たの。きっと酷い格好・・・
(二人、こう話しながら、ドリスの方は部屋を横切ってテーブルに進む。満足のいく着飾り方をして、自分でも
それに自信がある女のとる、ゆっくりした、堂々たる足取り。クロウイーも同様。王女でもあるかのような優美
さと威厳をもって椅子に坐る。)
ドリス(テーブルの上のものを眺めて。)牡蛎だわ。あなた、牡蛎好き? クロウイー。
クロウイー あんまり。あなたはどう? ドリス。
ウイリアムズ(クロウイーに。)すみませんね。お気に召さなくて。でもあるものというとこれだけで。お芝居の前の軽い食事ですから。お許し願います。芝居がはねた後には勿論・・・
クロウイー(仕方ないという声。)そうね、これしかないっていうんじゃ・・・
ドリス それ、何を読んでいるの、ウイリアムズ。
ウイリアムズ トレヴェリアンの「人間の歴史」ですけど。
ドリス どうしてそんなもの読むの?
ウイリアムズ 面白いんです。それにいろいろ教えられまして。さてと、私はそろそろ退散します。デニスさんを見に行くんです。オールド・ヴィック座というのがまた、分かり難い場所でしてね。
ドリス で、誰と一緒に?
ウイリアムズ それはもう、私一人で。
ドリス 女嫌いなのね、あなた。
ウイリアムズ 年を取り過ぎましたよ。好きだったこともありましたよ。勿論・・・場所柄を弁(わきま)える女ならね。
ドリス 女の場所柄・・・それ、どこ?
(ウイリアムズ、答の代わりにただ微笑。)
ウイリアムズ ではこれで。皆さん、失礼しますよ。(退場。)
クロウイー(物憂い調子。)何だったっけ、出し物。
ドリス 慥か、ジュリアス・シーザーよ、シェイクスピアの。
クロウイー(がっかりして。)シェイクスピア? あなた最初からそう言ってた?
ドリス その筈よ。きっと良いわよ。シェイクスピアって大抵いいんだから。時々、はっと驚くようなことがあるわ。
クロウイー 私、この間観た。あんなの嫌いだわ。ほら、この間ウエザービーさんが連れて行ってくれたようなの。
ドリス あれはシェイクスピアじゃなかったわ。最近書かれたものよ、あれ。ウエザービーさん、そう言ってたわ。それに書いた人、まだ生きているって。
クロウイー あれ、最近のものじゃないわよ。だって詩で書かれていた。それに登場人物は皆中世の衣装を着ていたわ。
ドリス 詩で書かれていたって、衣装が古くったって、現代の芝居ってのがあるのよ。書いた人が生きてれば現代なの。
クロウイー ま、いいけど、どうでも。とにかくあれ、ちっとも分からなかったわ、私。
ドリス(辛抱強く。)私も。ひとっことも分からなかった。でも、だからシェイクスピアってことにはならないわ。
クロウイー(諦めて。)分かったわ。でもとにかく今夜のはシェイクスピアだって教えてくれていた方が良かった。だったら私、どうしていたか分からないわ。
ドリス そうね。あなたのことだからさっさと断わってたかも知れないわね。でも私、出るのはデニス・ライトよって言う。そしたら・・・
クロウイー でも、ジュリアス・シーザーにでしょう?(恐ろしいことに気がついて。)えっ? これ紀元前じゃない?
ドリス どうしてそんなに紀元前を気にするの。紀元前だって、面白いものは面白いわよ。少しはこんなのも観なくちゃ。
クロウイー デニスは何になるの? シーザー?
ドリス 違う・・・と思う。慥か、「友よ、ローマ市民よ。同胞諸君。耳を貸して戴きたい」という人よ。
クロウイー(少し明るくなって。)ああ、それがある芝居? 私知ってるわ、それ。そこのところ、聴き逃さないようにする。ライトさんて、デニス・ライトのお父さんだって言ったわね?
ドリス そうよ。マーク・ライトさん。本当はビンフィールド卿なんだけど・・・
クロウイー まあ!
ドリス パリ駐在、英国の大使。
クロウイー あらあら。
ドリス だけど、それ知らない振りするのよ。いいわね? あのお爺さん、ただのライトさんだって思われてるのが好きなの。
クロウイー どうして?
ドリス どうしてかしらね。ああいう地位にいる人ってみんなそう。本当の名前で自分の奥さんを騙すのが不道徳だって思ってるみたい。他の名前でなら平気なのよ。子供みたいにはしゃいじゃったりして・・・
クロウイー でも侯爵だの、大使だのって、そんな大袈裟な地位にいたら、他の名前で通そうったって、無理じゃないの?
ドリス そうなのよ。とても通りっこないの。知らない振りをするのが大変。だから時々私、盲で唖で、馬鹿の真似をしなきゃならないのよ。でもあの人達、その方がいいの。だからあなたも気をつけてね。
クロウイー もう一人の人はどうなの。大将だっていう人。
ドリス ああ、あの人もいい人よ。人畜無害。そうそう、あの人の方はメイスン少佐って呼んで欲しいの。
クロウイー 少佐? どうして?
ドリス その方が若く見えると思ってるの。可愛いわね。
クロウイー(陰気に。)おじいちゃん達のこと、可愛いと思ったこと一度もない。私、年寄は嫌いなの。
ドリス おじいちゃんって私、若い人より好きよ。第一気が楽なのよ。例えば頭痛の時なんか、「頭痛がするの」でいいの。余計な小細工は全然いらない。あら、私、自分には小細工をしなくちゃ。あなた、鼻に白粉あてなくていい?
クロウイー そうね、いい考えだわ。
ドリス じゃあ、こっちよ、クロウイー。(ドリス、堂々と寝室の扉に進み、クロウイーのために扉を開けてやる。)
クロウイー あーら、素敵な寝室!
ドリス そうよ、いいでしょう? それに考えてみて、まだ一度も使われたことないの。だから余計・・・こっちよ、クロウイー。この右。(クロウイーを通してから、自分も入る。)
(暫くして玄関ホールに声。マークとオスカー登場。マークは現在六十四。オスカーは六十七。二人ともきちんとした服装。ディナージャケットにオーバーコート。二人、オーバーを脱いでかけているところ。オスカー、しきりに咳。)
マーク オスカー、君はシェイクスピアの台詞なんか知らないんだ。やっぱりただの兵隊さんだよ。ああ、そこにオーバーは掛けて。・・・「朱に染まった一塊の土くれ」だよ。「おお、許してくれ、朱に染った一塊の土くれ」なんだ。 「このいまいましい一塊の土くれ」じゃない。(訳註 bleeding と bloody の差。bloody はイギリスの上流の芝居では使ってはならない言葉であった。バーナード・ショウが初めてその禁を破った。但しジュリアス・シーザーに他の場面で bloody を使っている。この少し前の部分 render me his bloody hand ショウ以前にこの部分をイギリスでどう扱っていたか、訳者には不明。)君には正確な引用は無理なのさ。
オスカー いや、「このいまいましい」だ。「おお、許してくれ、このいまいましい一塊の土くれ」・・・(咳が出て、あとが続かない。)
マーク 馬鹿な。だけど、オスカー、その咳はちょっと心配だな。大丈夫か。
オスカー 何が心配だ。私は心配などしとらん。心配は無用だ。
マーク コートを着ておいた方がよくはないか。
オスカー 馬鹿言え。
マーク そうだ。膝掛けを持って来てやるよ。
オスカー 女の子二人と一緒に牡蛎とシャンペンをお上がり遊ばすんだぞ。その時に膝掛け? お前さん、頭がどうかしたんじゃないのか。
マーク 態々危険を冒す必要はないんだ。二人とも昔のように若くはないんだからな。
オスカー 何て馬鹿な言い草だ。二人ともこれから先もっと老いぼれるんだ。その時程には今はまだ老いぼれちゃいない。そうも言えるぞ。
マーク 臍まがりの言い方だ。その素直でないところは大将という地位に実に相応しい。見てると日一日と大将らしくなっているぞ。
オスカー そっちだって、お決まりの言葉だけを繰り返す男、大使閣下に日一日となっているじゃないか。ところで覚えておいてくれ。今日は大将じゃない、少佐なんだからな。
マーク 君ね、僕はそういうことは決して忘れない主義なんだからね。そちらこそ僕の年のことを忘れては困るぜ。
オスカー 何歳だったかな。
マーク 何十何ときっちりしちゃいない。五十の半ばだ。
オスカー はっ!
マーク 何か言ったか?
オスカー 「はっ!」とね。それでデニスはどうなんだ、調子は。
マーク(考えながら。)いいか、オスカー、私はだな、物事を大袈裟に考える傾向などないと自分では思っている。
オスカー ほほう。
マーク だからな、たとえ僕がデニスのマーク・アントニーの出来栄えを褒めちぎったとしてもだな、それは別に親の贔屓目ということにはならない。僕は冷静なんだから。たとえその出来が、アーヴィング以来の好演だったと言ってもだ。
オスカー お前さん、アーヴィングのアントニーは観てないよ。(訳註 アーヴィングは名優。)
マーク どうして分かるんだ、そんなことが。
オスカー アーヴィングはアントニーをやってないんだ。
マーク じゃ黙ってればいい。君だってアーヴィングのアントニーを観てないんだからな。比べようがないよ。
オスカー(少し自信なさそうに。)で、それからの計画なんだが・・・どうなってるんだ。
マーク ドリスと私はここで夕食を取る。君も同じような計画があるんだろう?
オスカー 僕の部屋に給仕の必要のない、軽い食事を一応用意してはおいたがね。
マーク 一応・・・用意してはおいた・・・どうしたんだ。勇気がなくなったのか。
オスカー(悲しそうに。)いや、勇気はある。なくなったのは若さだ。
マーク 馬鹿な。「なげるな、最後まで。」これが僕のモットーだ。
オスカー モットーはモットーでいいが、いつかはなげる時が来る。それももうすぐだ。死ねば終だからな。
マーク それはそうだ。しかしその死ぬ瞬間、僕は実によく整理された僕の人生、実にうまく操ってきた僕の二つの人生を振り返ることになるんだ。
オスカー そうだ。二つの人生。しかしよくまあここまでばれもせず通して来られたな。驚くよ。
マーク 驚くことは何もないさ。いつも言ってきたろう? ああいうことを着実に実行すれば、必ず切り抜けて行けるものなんだ。技術、応用力、洗練された感覚、組織力さ。これがなければな、オスカー、僕はとっくの昔に二つの人生には躓いていた筈なんだ。
オスカー フーム。(実績があるんじゃな。言わせておくしか手はないか。)
マーク 生きる空間を二つに分ける。合法と非合法、ロマンチックで危険なものと、平凡で安全なもの。これをきちんと区別して、その両方を最大限に活かすんだ。もう昔になるが、君は丁度この部屋で言ったな。そんなことは不可能だと。僕はやってきたぞ。ここロンドンでだけじゃない。パリでも、ローマでも、ストックホルムでも、ラ・パースでも。
オスカー パリでは何様だったんだい。ムッシュウ・ドゥルワ、ゼロゼロ・サーンク?(訳註 ドゥルワは仏語「右・・・ライト」。ゼロゼロ・サーンクは意訳、「005」)
マーク いや、ただのミスター・ライト。イギリスの彫刻家。モンパルナッス、四階のスタジオ。可愛いモデルがいて・・・
オスカー 名前はミミ。((訳註 ミミは歌劇「ラ・ボエーム」の女主人公。)
マーク いや。アルベルチンヌ。
オスカー 肺結核で死にかけて? (訳註 歌劇のミミがそう。)
マーク いや。ただの実存主義者。ミスター・ライトはパリで幸せだった。そして勿論ビンフィールド卿もだ。
オスカー 運がよかったのさ。最初から最後まで。ただの運だよ。
マーク 運、それは僕の辞書にはない。
オスカー しかしな、考えてみろよ。大変な危険を冒しているんだぜ、君はいつだって。今夜だってそうだ・・・
マーク 今夜? 今夜っていうのは見事に僕の計画能力を発揮できた好例だよ。これでこの計画は駄目だっていうぎりぎりの瞬間に、キャロラインが流感にかかって医者が外出を止めていることを知ったんだ。それからの僕の行動の素早かったこと。すぐさまチャーリー・ベイズウオーター(訳註 一幕にでたチャーリーか?)に電話だ。彼が陸軍大臣と芝居に行く予定だったのを知っていたからな。我々二人、それにその二人はちゃんと芝居開始五分前にカメラマンのフラッシュを浴びるという訳だ。連中わんさとたむろしているのは分かっているし、こちら四人は連中のいい餌食になる筈なんだ。(勝ち誇って。)タトラーに我が写真はのり、それを僕は水曜日に妻に見せる。完璧なアリバイだ。
オスカー 女の子達は?
マーク ちゃんと別に指示がしてあるよ。写真を取られた後、君と僕は我々の席につく。するとその席の丁度隣の二つに、先週我々がオランダ大使館で偶然出会ったあの二人の女の子がちゃんと坐っているという訳さ。どうだい。細かいところに気を配って用意周到にやれば、うまく行くものさ。こういうのを、細工は流々仕上げを・・・(電話が鳴る。立ち上がって受話器を取る。)(受話器に。)ハロー・・・ハロー・・・えっ? 誰?・・・(マークの顔、さっと変わる。ひどく下手なコックニーアクセントで。)ああ、いないね。誰からって言えばいいんだ?・・・ああ、ミラディー・・・畏まりました、ミラディー。・・・ああ、大将もいない。・・・いいや、ミラディー。・・・いや、あっしは知りません、ミラディー。・・・(電話を切る。囁き声で。)一体どうしてあいつ、ここの番号が分かったんだ。
オスカー キャロライン?
(マーク、放心したように頷く。)
マーク そうだ。あれの電話番号帳に君の昔のアパートの番号がまだあったということか。
オスカー しかし僕がここにもうずっと前から住んじゃいないってことは、彼女はよく知っている筈だぞ。それに番号も変わってる。
マーク 熱に浮かされたのかな。
オスカー 熱に浮かされたような口調だったか?
マーク いや。しかし電話じゃ分からん。どうかな、帰るべきだろうか。
オスカー まづは電話してみるんだな。
マーク うん。あ、まずい。これは駄目だ。(電話に近づこうとした時、寝室の扉開き、ドリスとクロウイーが出て来る。)
ドリス(登場しながら。)襟が刳(く)れてるのよ。でも勿論一九五0年型なんだから・・・ああ、ハロー、来てたの?
マーク そこにいるとは気がつかなかったな。
ドリス ちょっと大きな声だしてくれれば良かったのよ。そうそう、クロウイー、あなたまだライトさんを知らなかったわね。
マーク 始めまして。
クロウイー 始めまして。光栄ですわ。デニス・ライトのお父さんにお会い出来て。
マーク かってはあの子の方が私の息子として知られていたもんだが。今は私があの子の父親として知られるわけか。こいつはどちらかというと、「恥辱」かな。
クロウイー 恥辱? まあま、大袈裟ね。でも好きだわ、古めかしい言い方。あなたどう? ドリス、恥辱。
ドリス そうね。こちらは大将の・・・あー、メイスン少佐よ。クロウイー、覚えてるでしょう? 噂したもの。ぜーんぶ。
オスカー(喜んで。)ぜーんぶじゃないことを望みますなあ。(誘惑の目付をもって言うが、咳に邪魔されてしまう。)
マーク 少佐はちょっと風邪をひいていて。鴨を撃ちに行ってひいたんだ。な、少佐?
オスカー そう。沼は少し寒くってね。私より若い連中も随分肺炎にかかりおって。
クロウイー じゃあ、鴨なんて撃ちに行くの、馬鹿げてるわ、ね?
オスカー いや、それだけの犠牲を払う価値は充分ありと判断しますな。戸外における躍動的な享楽、それのためなんですからな。
クロウイー 肺炎にかかったら楽しみだって台無しじゃないの。近くに来ないで。風邪を貰っちゃうわ。
オスカー 小生から貰って戴けるものがあれば、小生愚考しますに、たとえそれが風邪でありましょうとも、小生最大の幸福者だと・・・
マーク えー、どうだ、坐らないか。
ドリス(坐りながら。)さあ、クロウイー、坐りましょう。
マーク さあ、少佐、手伝ってくれ。(訳註 カクテルを作るのを手伝えと言っている。)
オスカー うん。いや、御婦人方のためにガニミードの役目を果たすのは光栄ですな。(訳註 ガニミードはゼウスの酒を混ぜる仕事を持つ美少年・・・ギリシャ神話。)
クロウイー(ドリスに。坐りながら、囁き声で。)いやね、あの人。教養をひけらかしたりして。
ドリス あの人達、みんなそうよ。面白いじゃない。
クロウイー 面白いことなんかちっともない。なんだか、そうね・・・いやらしいわ。
オスカー(マークに。)ちょっと抜けて、キャロラインに電話したらどうだ。
マーク(オスカーに、囁き声で。)いや、劇場からかけることにする。さあ、ドリス、牡蛎だよ。それにクロウイー、こう言って許されるなら・・・
クロウイー(ドリスに。)許されるならって、何のこと?
ドリス(囁き声で。)クロウイーって呼んでいいかって。
クロウイー そんなこと、許すも許さないもないでしょう?
ドリス シッ。
(オスカー、席に坐る。その時また咳。)
マーク 寒いんじゃないか。肩に何かかけるものはいらないか、少佐。
オスカー いや、いらないよ、ライト。そんなものかけて魔法使いのお婆さんに間違えられるのはいやだからね。(ドリス、陽気に笑う。訳註 Whistler は不明。魔法使いのお婆さんと訳しておいた。)
ドリス 魔法使いのお婆さんはよかったわ。可笑しい。可笑しいわね、クロウイー。
クロウイー(ひどくタイミング悪く。)そうね。(ケラケラと笑う。)可笑しいわね。そうそう、あなた、さっきの話、ほら、店の奥さんにしたっていう、あの続き、話して。
(その間にマーク、シャンペンを開けている。一方、オスカーは、女達から見捨てられた形で、ぼんやり坐っている。)
ドリス ええ・・・それで私、言ってやったわ。「十分なんて、たいした時間じゃない筈ですわ。だって、あのカズバック皇女ったら、何時だって朝三十分遅れて来るじゃありませんか。それなのに奥様はあの人にはなんにもおっしゃらない」って。
クロウイー そうよ。私、あの奥さんの正体、ちゃーんと分かってるんだから。俗物よ、あんなの。とにかく貴族じゃないわよ。本当の貴族じゃね。
ドリス さあ、それはどうかしら。あの人、アナトリア出身なのよ。
クロウイー 私だって、ピナー出身よ。でもいくらピナー出身だからって、それで伯爵夫人になれる訳ないじゃない。それにもしあの人が本当の貴族なら、あの店じゃなくてハートネルで働いてる筈だわ。(マークが注いでいるのを見て、その罎を指差して。)それ、ボランジェ?
マーク いや。モエ・エ・シャンドンの三十七年もの。ボランジェの方が良かった?
クロウイー 注いでしまったんでしょう? だからもういいのよ。(マーク、グラスをドリス、オスカー、と自分に配る。)(ドリスに。)そうよ、あの奥さん、あんたの言う通りよ。嫌味の極よ。クロードさんを扱うあの態度。それに勿論フレディーさんとは出来てるのよ。ちゃんと分かってるわよ、ね、私達。それに時々あの奥さんたら・・・
マーク(坐ってグラスを上げながら。)さて、御婦人方、乾杯なんだが、単純に行こう。愛に・・・乾杯!
ドリスとクロウイー(呟き声で。)乾杯!(舐める程度の形だけの乾杯。)
クロウイー(ドリスに。)この間、クロードさんに、本当に何でもないことで奥さん怒鳴ってたわ。
ドリス そうよ。金糸のラメの入った織物で、ギャーギャー叫んでたわね、覚えてる?
クロウイー 覚えてるわよ。あれを金切り声って言うのよね? あの声を。(二人、陽気に笑う。)
ドリス(どうやら店の奥さんの声色で。)その袖を下ろして、すぐ袖を下ろすんです。今すぐに!
クロウイー(どうやらクロードさん(男)の声色で。)奥様、それはあまりにひどいおっしゃり方。私は本当にどうしていいか。どうぞお止めになって。どうぞ。(二人再び笑う。 オスカー、テーブル越しにマークと話。男達の会話の最中にも女二人の会話は続く。)
オスカー 最近ゴルフはどうだい? よく行くのか?
マーク いや、そんなには。時々サンクルーで一ラウンドするぐらいだな。
オスカー サンクルー? 僕もやったことがあるぞ、あそこは。いいコースじゃないか。
マーク 悪くない。ちょっと短いかな、コースとしては。
オスカー 九番を覚えてる。グリーンの後ろに木がある。右手には大きなバンカーがあってな。
マーク それは十一番じゃないか、そのホールは。
オスカー 十一番だったかな。九番だと思ったが。
(同時にドリスとクロウイー。)
ドリス そうよね、あんなこと言うなんてひどいのよ。だってあのドレス、そんなに悪くなかったじゃない。ボディスは形とれていたし、それにクリノラインのスカート、悪くなかったわ。
クロウイー そう。私もよーく覚えてるわ。奥さんがあんな叱り方をするなんて、本当に酷いわよ。
ドリス そう。ほんと。あんな叱り方、絶対ないわ。そうよ。昨日のグラディスを叱った時だって・・・
クロウイー あ、それは聞いてないわ。何て言ったの、奥さん。
ドリス 酷かったわよ、あれ。「出て行け」って。「出て行け」、それからあとね、「お前なんかただの・・・」(その後は囁き声になる。有り難いことにそれはクロウイーにしか聞こえない。この時までに男達はゴルフの話をすませている。)
クロウイー まさか!
ドリス 本当よ。本当に言ったんだから。(三つの言葉を繰り返す。最初の言葉は B (ビー)で始まる単語なら何でもよい。二つ目の言葉は little(小さな)最後は口を丸めて突き出す単語。(訳註 どうやらwhore (売春婦)という単語らしい。))
クロウイー まあ、なんて酷い。
ドリス 酷いでしょう? とにかく酷いの。(その酷さを顔を蹙(しかめ)ることによってクロウイーに表現して見せた後、男達へのエチケットを思い出し、マークに。)あら、今日は、ライトさん。ご機嫌いかが?
マーク ああ、ご機嫌うるわしいよ。有難う。
ドリス そう。それはよかったわ。
マーク で、そちらの方は?
ドリス まあまあっていうところね。私またいつもの頭痛がしてきてしまって・・・
マーク(いやな顔。)そりゃまずいな。(間。)
クロウイー 変だわね、ドリス。あなたが頭痛っていうもんだから、私も気がついてみたら頭痛だわ。それも割れるような痛み。
ドリス あらまあ、可哀相に。
オスカー(クロウイーに。)それはいけませんな。具体的には頭のどの部分ですか? ここ?(額に触る。)
クロウイー そうね、頭中、全体。
オスカー 頭全体? 分かった、それに效くやつを知っていますよ。最近出来たばかりの頭痛薬。そうだ、芝居がはねて、マークとドリスがいなくなったら、小生のアパートでちょっとした食事を。小生、最大の光栄ですなあ。
クロウイー まあ、(微かに。)素敵!(テーブルの向こうにいるドリスに「絶望!」という表情をする。)
マーク(窓のところで。)車が来てる。
オスカー(自分の時計を見て。)まだ充分時間がある。ゆうに三十分以上あるな。
マーク ちょっと早く着いておきたいからな、今夜は。じゃあ少佐、支度をするか。
(オスカー、立ち上がろうとするが、うまく立てない。坐りこんでしまう。)
オスカー 変だな。足がテーブルの足にひっかかって・・・
(オスカー、陽気に笑う。が、その笑い、再び咳となる。マーク、近寄って立ち上がるのを助けようとする。)
マーク さあ、手を貸そう。
オスカー(嫌がって。)いいんだ。自分で出来るんだから。(勢いよく立ち上がり、寝室の方へ進む。)彼の私への扱いを見ると、まるで私がちんばのおいぼれみたいだ。全くかなわんよ。(オスカー、陽気に笑い、女達に手を振り、寝室に入る。 とすぐ、寝室から大きな音がする。オスカーが何かにぶつかり、倒れる音。)
マーク(驚いて。)どうした、少佐! 何をやったんだ。(マークも寝室に入る。)
ドリス ね、言ってた通りでしょう? あの人達、気がいいのよ。気がよくって、可愛くて・・・
クロウイー(明らかにうんざりしている。)私の人の方、ちっとも気がいいことなんてありゃしない。
ドリス 気がいいのよ、あの大将だって、本当は。よく付き合ってみれば分かるわ。
クロウイー 私、よく付き合ってみたいなんて気にならないわ。
ドリス あの紳士ぶってる話し方、気にしちゃ駄目よ。言ったでしょう? あの人達みんなああなんだって。
クロウイー(真似をして。)「小生、最大の光栄ですなあ、小生のアパートでちょっとした食事を・・・小生、愚考しますに、最大の幸福者だと・・・」なにあれ、バイロンのつもり?
ドリス 面白いじゃないの。そう思わない?
クロウイー ちっとも。私、家に帰りたい。
ドリス まあ、あなた、帰りたいの?
クロウイー 最初から来るんじゃなかったわ。洗い物、ママに手伝うって約束してたのよ。そしたらこんなのじゃなくってジャンパーでいられたんだから。
ドリス 分かったわ、クロウイー。じゃ、お帰りなさい。あの人達気にしない。紳士ってそういうこと気にしないの。それがいいところなんだから。あの人達、何に対しても決して気にしないの。(男二人、寝室の扉の方に近づいて来たことが話声で分かる。)ほら、出て来るわ。あなたは何も言わないのよ。私が全部やるから。(マークとオスカー、寝室から登場。)
マーク(入って来ながら。)だけどここで電話しなきゃならんことはないだろう? あいつは、僕がクラブにいると思っているんだし。しかしそれにしても分からん話だな。どうしてここの番号が分かったんだ・・・
オスカー そんなこと、僕に訊かれても分からんさ。
マーク さあ、用意は出来た?
ドリス ねえ、ライトさん。困ったわ。クロウイー、急に調子が悪くなっちゃって。
マーク そりゃいけないな。
ドリス 牡蛎が少しいたんでたんじゃないかって。ね、クロウイー?
クロウイー そうみたい。いたんでたのよ、きっと。
マーク いたんでいる訳がない。あれは僕のクラブから直接取り寄せた・・・
ドリス 可哀相なクロウイー。すぐ家に帰らなきゃ。そうなんでしょう?
オスカー それは駄目だよ。
クロウイー そう、家に帰らなきゃ。劇場のいい椅子にそそうしたら大変だわ。そうでしょう?
ドリス 私、車で送るわ。五分もかからないから・・・
オスカー 私に送らせて欲しいが・・・
クロウイー(鋭く。)それは駄目。(悪かったと、思い直して。)いいえ、いけませんわ、少佐。どうぞ、お構いなく。
オスカー(自信たっぷりに。)おお、我がいとしの君よ。この我々の短き出会いのしばしの延長を。ただ五分、ただ五分の延長、それで小生は大満足・・・(クロウイー、オスカーを見つめる。一時的にバイロンに変身しているおぞましい蛇を見るような目つき。微かに体を震わせてマークの方を見る。)
クロウイー ええ。お呼び下さって嬉しかったわ、ライトさん。いつかまた呼んで下さいね。さ、ドリス、行きましょう。
オスカー(クロウイーに進み寄って。)この邂逅の更改をいかにして小生は持てましょうや。
クロウイー(どうしようもないという表情。)かいこうのこうかい? ああ、私の電話番号を知りたいのね。
オスカー 小生の栄誉といたすところで。
クロウイー ファビアに電話して下さればいいの。でも奥さんが、仕事中の電話、本当に嫌うの。奥さんをわざと怒らせるのって、私いやだもの。分かって下さるわよね、私、あそこは仕事時間中しかいないの。だから・・・行きましょう、ドリス。
(クロウイー、飛び出すように退場。ドリス、扉のところで少し躊って。)
ドリス(オスカーに。)心配しないで、少佐、私うまくやって上げるから。(クロウイーの後を追って退場。オスカー、諦めたように肩をすくめる。)
マーク(くすくす笑って。)可哀相に、オスカー。運が悪いな。
オスカー 何が可笑しいんだ。客の一人に毒をしかけといて。
マーク(笑って。)馬鹿な。毒なんかじゃないよ。君から逃げただけさ。
オスカー 笑うことはないぜ。僕が笑いの種なら、君だってそうなんだ。
マーク 笑いの種? 自分のことだろう?
オスカー 二人ともなのさ。俺達は何者か。ただのお笑い漫画の主人公さ。年齢からくる貫禄だって、何の役にも立ちはしない。
マーク 馬鹿な。役に立っているさ。その貫禄があって初めて、大将にも大使にもなれているんじゃないか。
オスカー 普通はな。しかし俺のような大将でもない。お前のような大使でもないんだ、そいつは。貫禄のある大将、貫禄のある大使・・・くそっ、そんな奴はいくらでもそこいらにころがっている。生温い水を飲んで、擦り下ろした人参を食べて、オックスブリッジ仕込みの模範的英語を喋って。なんだ、あいつら。俺は貫禄なんて大嫌いだ。お前はどうだ。
マーク 嫌う訳にはいかないな、僕は。貫禄そのものが僕なんだからな。(窓に石があたる音がする。)何だ、あれは。
オスカー 窓に石があたってるんだ。(もう一個あたる音。)まただ。
(マーク、窓のところに行く。)
マーク 多分ドリスだ。鍵でも忘れたんだろう。(外を見て。)ドリス?
声(外から。)マーク!
マーク(はっと後ずさりする。言葉が出ない。)何だ、これは。オスカー・・・どうなってるんだ、これは。
オスカー どうした。
マーク キャロラインなんだ。
オスカー(立ち上がりながら。)まさか。
マーク それが、そうなんだ。
(女性の声が呼んでいるのが聞こえる。)
キャロライン(外から。)マーク! マーク! 変な真似しないで。早く入れて。
マーク(恐慌を起こして。)僕は見られた。僕は終だ。
オスカー 僕のアパートだと言えばいい。二人だけで食事をしていたと。
マーク ドリスが帰って来る。そしたら・・・
キャロライン(外から。)寒いのよ、ここは。凍えてしまうわ。風邪なのよ、私。早く開けて、マーク。お願い。
オスカー ドリスは僕の友達だって言えばいい。入れるんだ、マーク。
マーク(半分泣きながら。)どうしよう、オスカー。どうしよう。(ゆっくりと窓に近づく。窓の外に、大袈裟に冷静を装い。)おーい、誰だ? ああ、キャロラインじゃないか。これは驚いた。家で寝てるんじゃなかったのか。
キャロライン(外で。)家じゃないわ、マーク。私、今ここ。だけどすぐ入れてくれなきゃ明日の朝はお棺の中だわ。
マーク(驚いた様子を見せて。)入れてくれ? そりゃそうだ。(オスカーにわざと大声で。)オスカー、オスカー。キャロラインを君のアパートに入れてやってくれ。今行くからな、キャロライン。
オスカー 熱に浮かされて来たのかな。
マーク どうもそうは見えないが。
オスカー 部屋着か何か着ているのか? どうなんだ。
マーク よく見えなかった。
オスカー 見えた筈だぞ、それぐらい。
マーク とにかく行って入れてやってくれよ。
(オスカー退場。一人残ってマーク、二人の女性の痕跡を消そうとやっきになる。引き出しの中に皿を手あたり次第に投げ込んでいる最中に、玄関の扉が開く音が聞こえる。キャロライン登場。その後にオスカー。キャロラインは堂々とした老婦人。美人。イヴニングドレスにコートを着ている。)
キャロライン 今晩は、あなた。
マーク 今晩は、キャロライン。寝床に入っていなきゃいけないんじゃないのか。
キャロライン お昼に熱をはかったら、下がっていたの。で、起きたの。五時にまたはかって、やはりなかったわ。それでデニスの初日に行ってやることに決めました。私の席は慥かチャーリー・ベイズウオーターに譲ってしまっていたわね、あなた。
マーク うん。しかしチャーリーは行けなくなってね。
キャロライン あら、運がいいこと。
マーク 僕をここで見付けるなんて運がいいよ、キャロライン・・・オスカーのアパートで。
キャロライン そうね。クラブに電話したら、いないって言うから。
マーク 実は役所で遅くなってね。帰ろうと思った丁度その時、長い電話が入ったもんだから。
キャロライン 複雑な暗号で書かれたのじゃないんでしょうね。
マーク それがそうなんだ。ひどくこみいった暗号でね。
キャロライン メソポタミアからの? 今は勿論違ってる・・・別の名前がついている筈ね。
オスカー 窓に石を投げて合図とはお手数をおかけしました。どうも玄関のベルがここからは聞こえ難くて。
(キャロライン、部屋をなんとなく眺めまわす。)
キャロライン(ラジオに目を止めて。)なあんだ、ここにこのラジオあったの。どこに行ったのかと思っていたわ。
マーク そのラジオは・・・あー・・・僕がオスカーに貸したんだ。言っておくべきだったな。
オスカー いや、実に助かるんです、このラジオは。実に。六時のニュースがあって・・・
キャロライン 芝居が始まる丁度二十分前になら、電話していいってデニスが言っていたわ。今何時かしら。あ、あの時計、うちの居間にあったのだわ。約二十五分前ね。でもあれ、いつも一週間に三分進んでいたけど、あなた、毎週直してる?
マーク どうなんだ、オスカー。
オスカー うんうん、定期的にやってるよ。そう言えば君のプレゼントだったな。重宝してるよ。
キャロライン あと出発までに七分半ね。車は頼んだのね、あなた。
マーク うん。
キャロライン じゃあそれをキャンセルして。私、ダイムラーで来たの。
マーク ああ、そうだったの。そいつはいい。(囁き声で、オスカーに。)ドリス、ドリス。
オスカー ああ、キャロライン。実はその、僕の友達が一緒に来ることになっていて・・・
キャロライン そうだったわね。陸軍大臣ね。
マーク 違うんだ。彼も行けなくなって・・・
キャロライン 「行けなくなって」が多いわね。
マーク 実はそのオスカーの友達っていうのが、女性でね。
キャロライン メイベル・ブライトニングシー? 懐かしいメイベル。でもあの人、来られるの? あんな年で。
オスカー いや、実はメイベルではなくてね、キャロライン、君が知ってる女性じゃないんだ。若い女でね。ちょっと彼女におごろうかと思って、用意したんだが。 (シャンペンの方に進み。)そうだ、キャロライン、君も一杯どうかな。モエ・エ・シャンドンの三十七年ものなんだ。(玄関の扉が開いて閉まる音。)これがその女性・・・
(ドリス登場。)
ドリス 送って来たわよ。遅すぎはしなかったでしょう? 少佐。
キャロライン ドリス! 嬉しいわね。デニスの初日に私、お前と一緒に行けるのよ。
ドリス(振り返ってキャロラインを見る。)あっ!
キャロライン そう。私、熱下がったの。だから起きて来たわ。ほら、この服、お前ファビアで見せてくれたわね。この白と合うだろう?
ドリス ええ。合いますわ。
キャロライン 初日に着て行けるなんて運がよかった。それに丁度一個席が明いてたって。
ドリス ええ。クロウイーのが。
キャロライン クロウイー?
ドリス ええ。背の高い、フィリップスン大将はきっとお気に入るだろうって、私奥様にお話しましたわ。
キャロライン ああ、そうだったわね。
ドリス それが急に頭痛がして・・・牡蛎にあたったんですの。・・・じゃあ、行くの、この四人なんですね。まあ素敵。デニスさんもきっとお喜びですわ、パパとママが揃って最前列なんですもの。
キャロライン お前、すぐ出られるの?
ドリス ちょっとだけ。髪を直しに。すぐすみますから。(寝室に退場。)
キャロライン いい子だわ、あの子。パリでのあの実存主義の女の子よりずっといい。
マーク(呻く。)キャロライン! キャロライン!
キャロライン 何? あなた。
マーク 君は爆破して吹っとばしたよ、この僕の全存在を。
キャロライン そうかしら。それなら謝りますわ。私、出来ればこういうのは避けたかった。でもさっきのあの電話、あれを聞いてはね。「いや、あっしは知りません、ミラディー」。何? あれ。あれでもコックニー・アクセントのつもり? 本当に呆れて・・・ちょっと荒療治をしないととてもデニスの初日にあなたと一緒には行けないと思って・・・
マーク 何時から知ってたんだ。何時からなんだ。
キャロライン そうね、待って頂戴。(オスカーに。)あれは何時のことだったかしら、オスカー。マーク・ライトにアパートを貸すっていうの。もう随分前のことじゃない、あなた、あれ。
オスカー 三十三年前。たった三十三年前のこと。
キャロライン あら、もう? あっという間に過ぎるものね、時って。あの時ウィルブラーム・テラス十二番の模様替えの請求書が私の机にまわって来たわ。
マーク うーん、そいつは・・・
キャロライン それからマーク・ライト氏宛の手紙ね。何通も来たわ。あなた、大使館で秘密書類をあんな風に無造作に扱ってはいないでしょうね。マーク・ライト氏宛の手紙はまるっきりフリーパスだったわ。
マーク 君にはマーク・ライトは僕の古い親友だと説明しておいたから・・・
キャロライン あなた、いろんなことを言ったわ。私に変なことを信じて貰おうと思っていろんなことをね。外国の外務大臣にあんな下手な嘘を話していたのかしらね。私、心配。国際連合に行ったら、私達に話しかけてくれる人、誰もいないんじゃないかしら。
オスカー 随分複雑な蜘蛛の巣をはっていたものだなあ、我々は。
キャロライン 複雑なことなんかちっとも。単純な蜘蛛の巣ね。おまけにあなたったら、私がドレスを買いに行く、行きつけの店の売り子にいつも目をつけるの。それも私が特別に贔屓にしている女の子にね。
マーク ドリスはひとっことだってそんなこと言ったことがないぞ。
キャロライン それは当たり前でしょう。堅く口止めしてありましたからね。それにあの子、いい子なの。裏切るなんて、決して。
マーク キャロライン、君は僕をこの三十三年間騙し続けたんだ。君の今まで言ったことは全部、不埒、不道徳な、僕が生まれてからこのかた聞いたこともないけしからん話なんだぞ。
キャロライン 不埒、不道徳でけしからん? あなたどう思って? オスカー。
オスカー 私も、どうもこれは、いや、驚きましたな。マークと同じで。
キャロライン すると私は不埒で不道徳なんですわ、きっと。私、普通の意味での不道徳っていうの、昔から好きじゃなかったけれど、そうね、今までのこと振り返ってみると、二、三度、ほんの二、三度、私、自分をキャロライン・ライトと名乗りたいと思ったこと、あったわ。
マーク(茫然と。)ああ、キャロライン!
キャロライン でも本当に名乗ったことはないわ。一度も。
マーク ふん、それはまあ、良かった。
キャロライン(明るく。)その他のことでは不道徳だったことは一度もないわね。マーク・ライト氏が問題を起こさないよう、色々な手をうったこと、これはあなたの言い方で言うと、ちょっとした私の気晴らしね。不道徳なんてものではないわ。
マーク なあ、オスカー、君に訊くが・・・
キャロライン でも私から問題を起こしそうになったこと、ないことはないの。それは最初のあの女。何て言った? あの馬鹿なフラッパー。あの子の名前。マーク、あの子の名前は何なの?(マーク、答えない。)
オスカー、何なの、バスでこの人が出会ったあの馬鹿な子?・・・そう、ダフニ・プレンティスよ。(マーク、呻く。)そう。あの子には問題を起こしそうになった。でも私考えたわ。私がもしここで何かしたら、それはあの人、ちゃんと言うことをきいてあの子を諦めるでしょう。でもその後一生私を恨むわ。だからそんなことしたって何にもなりはしない。それから外交官を辞める気になったことがあった。それも馬鹿な女のために。何だったかしら、あの子の名・・・そう、ノラ・パタスン。あの時はさすがに私も一悶着起こす決心を固めたわ。でも突然あなたその考えを捨ててしまった。あの時は私、本当にほっとした。
マーク そうだ、デニスが話したんだな。
キャロライン(不思議そうな顔。)デニスですって? マーク、あなたまさか、あなたに翻意させたのはデニスだったって言うんじゃないでしょうね。ああ、そうだったの。私には分かっていた。あなたっていう人は、決して自分で翻意なんか出来る人じゃないって。でも今の今まで、救ったのはオスカーだと思っていたわ。そう、デニスだったの。(優しく。)えらい子だわ。それに母親にもちゃんと言わないでおくなんて。
マーク なあ、オスカー、これが僕の妻だ。僕が終始、正直さと実直さを金科玉条としている女だと思って、僕が崇めてきた女なんだ。
キャロライン 正直で実直・・・いかにも頭が悪そう。でも少し違っていたかしらね。とにかく私はノラ・パタスンに何もしなかった。実際、その必要がなかったわ。それから他にも沢山あった。でもそれはちっとも気にならなかった。
マーク(唸る。)うーん。
キャロライン 私、最初からこう思った。自分を誰か別の人物にしたいっていうこの願望は、きっと根が深いんだわ。私はあの人の妻。それで時々あの人が、マーク・ライトになりたいとしたら、それは何か私に足りないところがある。 あの人に私からは与えられない何か、そして他のところでなら見つけられる何か。私、マーク・ライト夫人になれたらと思った。でもそれは無理。私はマーク・ビンフィールドの妻以外のものにはなれない。なれないんじゃない、私はビンフィールド夫人でいたいのだ、という自分の気持ちが分かったの。それでマーク・ライトに対する権利はすっかり放棄しようと決心した。そしてそれを実行したわ。勿論マーク・ライトがあまり羽目を外さないように細心の注意を払いましたけれど。例えばパリでは、大使館の探偵に何時でもあなたを尾行させました。仕方がなかったわ。(オスカーに。)モンパルナッスで何を仕出かすか、心配だったもの。(マーク、再び呻き声を上げ、両手で顔を覆う。キャロライン、自分の時計を見る。)そろそろデニスに電話をかける時間。オスカー、呼びだして。お願い。ウオータールー・六八四九よ。
(オスカー、受話器に進む。)
キャロライン あなた、デニス、ちゃんとやるかしら。私、心配。私の手を握っていて下さるわね、隣で。あら、あなた、ディナージャケットに硬いカラーなんかつけて。それじゃまるで旧式、古くさいわ。(マーク、最後の呻き声。キャロライン、マークの手を取る。)
オスカー ハロー、楽屋?・・・ライトさんに繋いで。こちら母親なんだ。
(キャロライン、立ち上がり、受話器に近づく。 オスカー、マークに近づく。マーク、陰気に椅子に坐っている。)
キャロライン (電話に。)デニス?・・・うまくいくよう祈ってるわ。頑張ってね。・・・いいえ、行くの、私。熱は下がったの。
オスカー 二つの世界を自由自在にか。その才能さえあれば、こんな簡単なことはありはしない!
マーク 参ったよ、オスカー。恥だ。恥だけだ。
キャロライン(電話に。)まあデニス、有難う。それは私達嬉しいわ。(マークに。)あの子、初日のパーティーは欠席して、私達と食事をしたいって言うの。優しい子だわ、ね?(電話に。)デニス、どう? 調子。(マーク、立ち上がる。)心配はいらないわ。きっと素敵なアントニーよ。じゃあ、頑張ってね。お父さんよ。(マークに受話器を渡す。マーク、ぼうっとした儘受け取る。)
ドリス(部屋に入りながら。)髮、これでいいかしら。
マーク(電話に。)デニスか。・・・いや、幸運を祈る。それを言おうと思ってな。・・・そうだ、さっきオスカーに言っていたんだ。 お前のマーク・アントニーは絶品だ。・・・(マーク、オスカーの合図に気付き。)トゥリー以来の出来だと思っている。
オスカー(囁き声で。)「朱に染まった」かどうか、訊いてみろ。
マーク 黙ってろ。(電話に。)何だって?・・・ああ、お母さん? そうだよ。お前が喜ぶだろうって・・・
オスカー(前より大きな声で。)「朱に染まった」かどうか、訊いてみろ。
マーク もう止めとけよ。・・・(電話に。)おじさんだよ。オスカーの奴だ。「朱に染まった一塊の土くれ」か、「いまいましいこの土くれ」か訊いてくれなんて。 馬鹿な考えを起こしおって・・・(オスカーに。)そら見ろ、オスカー、あいつ混乱して分からなくなったぞ。どうしても思い出せないって言ってる・・・
オスカー ああっ。そいつはいかん。(受話器をひったくる。必死の勢いで受話器に。)おい、いいんだぞ、デニス、あんなこと関係ないんだからな。頭に浮かんで来た台詞をただ言ってりゃいいんだから。「朱に染まった」だろうが、「いまいましい」だろうが、問題じゃない。いいな、問題じゃないんだからな。
(マーク、また受話器をひったくる。)
マーク おじさんの言う事を気にするな、デニス。あいつ酔っ払ってるんだ。・・・うん、これ以上邪魔はしない。ベストを尽くすんだ。
ドリス 私からも頑張ってって・・・
マーク ああ、ドリスからも激励の言葉だ。・・・大丈夫なんだ、デニス。そんなに小さな声で言わなくても。ごまかす必要はない。もうばれるっていうのはなくてね。・・・いや、長い話だ、これは。後で話すよ。
(電話を切る。)
キャロライン さあ、行きましょう。遅くなるわ。オスカー、あなたドリスを車までね。私のバッグはどこだったかしら。
ドリス さあ、少佐。今夜の私のお伴は少佐ね。
オスカー それは光栄至極。
ドリス 後でダンスも付き合うのよ。
(ドリスとオスカー、退場。)
キャロライン(ラジオの上に指を走らせながら。)ウイリアムズに訊いてみなくちゃ、このアパートのやっていき方。
マーク(全くお手上げ。)ウイリアムズに訊いてみなくちゃ、ね。
キャロライン そう。ウイリアムズのことではあなたに白状しなくちゃ。召使いの事情、最近ひどく厳しいの。それで、ウイリアムズをただ遊ばせておくのは、と思って。時々ベルグレイヴ・スクエアーに来て貰っていたの。ほんの時たまだけど。
マーク ほんの時たまね。
キャロライン あなた、多分構わないって言うだろうと思って。
マーク 僕が構わないって、ね。
(キャロライン、ブロンズのシルヴィアの頭を眺める。)
キャロライン シルヴィアって、本当に可愛い顔をしていたのね。あなた、シルヴィア、今でも少しこの面影あるわよ。
マーク 何だって?
キャロライン 勿論年をとってるわよ。そうね、何歳かしら。あなたより一つ下よね。だから、六十三。そう、あの人やっぱり六十三歳の顔をしているわ。残念だけど。
マーク(呆れて。)と言うと・・・君は知ってるのか、あの女を。
キャロライン シルヴィア・グラントを? だって私達時々ブリッジをしているんですもの。
マーク(ヒステリーに笑って。)それは無理だ、キャロライン。そいつはいくら何でも。いくら僕でもその手にはのらない。彼女は南アフリカにいるんだからな。
キャロライン あなた、知らなかったの? あの人、もう何年も前に帰っているのよ。戦争前に。今チェスター・スクエアーに住んでるわ。そうだ、あなたにいいことがして上げられるわ。来週あの人を食事によびましょう。
マーク 食事に・・・よぶ!
キャロライン 本当にあの人可愛いわよ。何年も会ってなくて、また会えるなんて素敵じゃない、ね?
マーク キャロライン、君は実際酷いやつだ。全く酷いやつだ。僕は降伏だよ、無条件降伏だ。シルヴィアもマーク・ライトの運命に引きずられて仮面を剥がされる末路となるか。
キャロライン それは仕方がないんじゃないかしら、あなた。今までずっとマーク・ライトはシルヴィアに引きずられてきたんですからね。(少しはお付き合いをしなくちゃ。)(オスカー、出て来る。オーバーコートを着て、マークのオーバーコートを手に持っている。)分かりました、オスカー。今行きます。あなた、そんなにがっくりした顔をしないで。会えばきっと気に入るわよ。素敵な可愛いお婆さん。(マークに微笑む。間の後マーク、微笑み返す。キャロライン退場。)
オスカー(マークにコートを着せてやりながら。)どんな気分だ? 十七歳から五分間の間に六十四歳になるっていうのは。細工は流々仕上げをごろうじろって訳だ。(くすくす笑う。)
マーク 僕に言えることはだ、細工も流々だったし、仕上げもまあまあだったってことさ。普通の人間だったら、これ以上のことは言えないさ。君を含めてね。
オスカー 大使訓練所の小学校を卒業というところかな、その言い草は。
マーク この言い草は大使のものじゃない。マーク・ライト氏が彼の生涯で吐いた最後の台詞さ。(部屋を眺めて。)失敗だったか。面白かったな。まあいい、最後までなげるな、まあ、これだな。(二人、扉の方へ進む。オスカー、灯を消す。)さあ、行こう、オスカー。(二人一緒に玄関ホールに退場。)
(幕)
平成七年(一九九五年)六月十日 訳了
http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項 又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html
Who is Sylvia? was first produced at the Criterion Theatre, London, on October 24th, 1950, with
the following cast:
MARK Robert Flemyng
WILLIAMS Esmond Knight
DAPHNE Diane Hart
SIDNEY Alan Woolston
ETHEL Diana Allen
OSCAR Roland Culver
BUBBLES Diana Hope
NORA Diane Hart
DENIS David Aylmer
WILBERFORCE Roger Maxwell
DORIS Diane Hart
CHLOE Joan Benham
CAROLINE Athene Seyler
The play directed by ANTHONY QUAYLE Settings and costumes by WILLIAM CHAPPELL
Rattigan Plays © The Trustees of the Terence Rattigan Trust
Agent: Alan Brodie Representation Ltd 211 Piccadilly London W1V 9LD
Agent-Japan: Martyn Naylor, Naylor Hara International KK 6-7-301
Nampeidaicho Shibuya-ku Tokyo 150 tel: (03) 3463-2560
These are literal translations and are not for performance. Any application for performances of any Rattigan play in the Japanese language should be made to Naylor Hara International KK at the above address.