シルヴィアって誰(Who is Sylvia?) テレンス・ラティガン作 (1950年)
 
 題名は、シェイクスピアの「ヴェローナの二紳士」の中に出てくるセレナーデ(Who is Sylvia?)による。シューベルトに同名の歌曲あり。
 1949年12月書き始める。高校生の時に好きになった女の子のイメージを追って、次々に恋人を作っては別れてゆく既婚の男マークが主人公。夫の浮気を知り、遠隔操作で見張っている妻。父親から外交官になれと強要されているが、自分の好きな役者の道を選ぶ息子。ラティガンの自伝である。主役のマークはレックス・ハリソンにやって貰おうと決めて書いた。ハリソンは最初のヒット作「涙なしのフランス語」の主役アランを演じた時からラティガンの信用を得ていた。
 しかし両親及び自分の人生を喜劇仕立てにすることは難しかった。12月に書き始めたものを、クリスマスの直前に全部破り棄て、再び書き始めた。書けば書く程、登場人物から現実味が消えて行くように感じられた。
 やっと書き上げるや、すぐハリソンに送った。「この芝居はあまりリアルな味付けをすると失敗する。(wouldn't work in too realistic a vein)」と書いて。
 1950年2月14日、ハリソンはニューヨークから手紙を書いた。「興奮して読みました。大変笑える、素晴らしい(glorious)喜劇ですね。」しかし自分が演じることには難色を示した。芝居では「理想の女性像」シルヴィアに似た三人の女に言い寄る。そして次々と離れてゆく。ハリソン自身も女性の誘惑者として知られていた。それをロンドンの劇場でわざわざ見せることをはばかったのだ。
 「マークは上流の魅力的な女性といくらでも付き合える地位にあるのです。それがいくら「シルヴィア」に似ているからといって、あのような蓮っ葉な女に惹かれるとはどうしても考えられません。」
 ラティガンは返事を書く。「シルヴィアはマークにとって単なる空想であって、現実ではないのです。フロイド流に言えば、エディプス・コンプレックスの一種なのです。母親を上半身と下半身に分け、上半身を妻に、下半身をシルヴィアに托している。しかし常に上半身が下半身に勝つのです。」
 ラティガンが三人のシルヴィアを蓮っ葉に作ったのは勿論、彼女らがマークに棄てられた後のことを観客が心配するようであっては、喜劇にならないからであった。ハリソンはすぐに電報をよこした。「ロンドン公演にもニューヨーク公演にも喜んで出演します。」ラティガンは電報を打った。「あれ(涙なし)から14年。久しぶりですね。実に楽しみです。」
 しかしこれは糠喜びだった。二日後にハリソンはまた、「多少の変更」を望んできた。ラティガンは断り、ハロルド・フリードマンを通じてその旨をハリソンに伝えた。ハリソンは再び考えを変え、電報を打った。「来年の4月にお会いします。それまで待って下さい。大変やってみたいのです。」
 しかし、後に再び断りの電報を打ってきた。「妻リリー・パルマーとアメリカに留まることに決めました。」
 興行主のビンキー・ボーマンは素早く動いた。「お日様のあるうちに」で主役を演じて大変好評だったマイケル・ワイルディングに接触した。しかし彼には映画の仕事があった。「残念です(my broken heart)。本当に素敵な芝居なのに(your beautiful play)」。デイヴィッド・ニヴェン、次にジョン・ミルズにあたった。が、二人とも断ってきた。やっと、「涙なしの」で、キット・ネイランを演じたロバート・フレミングがどうかという話になった。同じ「涙なしの」で、ロジャーズ中尉を演じたローランド・カルヴァーがマークの相棒オスカーを演じることに決まったじゃないか、それなら・・・と。フレミングは当時ニューヨークで急に成長株(burgeoning)になっていたのだ。
 5月の第一週にフレミングは引き受けた。しかし引き受ける前に、彼もハリソンと全く同じ疑問を作者に投げ掛けた。いわく、「マークのような知性のある男が、何故あんな蓮っ葉な女達を・・・」
 1950年10月9日ケンブリッジで試し公演(short try-out)が行われた。ラティガンはフレミングの演ずるマークが気に入らなかった。彼はレックス・ハリソンとは違う。演技に「のび」がなく、作者の持っているマーク像、観客に現実より空想を与える役割、を出せない。ボーモンと相談。ロンドン公演の直前ではあるが、ナイジェル・パトリックに主役を変更しようかとも考えた。が、まだフレミングの方が安全であると決定した。
 1950年10月24日、クライテリオンでの初演。観客は最後の幕が降りた時、気のない拍手を送っただけであった。新聞評もさんざんであった。

(この「シルヴィアって誰」は381回。但し、ラティガンの自腹切りでやっと公演を続けることが出来たものである。)
  
(St. Martin's Press社, Geoffrey Wansell 著 Terence Rattigan  による。)
        (能美武功 平成11年5月28日 記)