聖家族
            アンドレ・ルッサン 作
             能 美 武 功 訳

(題名に関する訳註 原題は "La Sainte Famille" 「聖家族」で、原題そのまま。)

  登場人物
ミシェル
その妻(スィモンヌ)
その恋人(イザベル)(仏語ではイザベッルと発音)
その父
その叔父(オギュスト)
その義理の母
その息子 マックス(十歳まで)
その息子 マックス(二十歳まで)
その私生児 ベルナール(十歳まで)
その私生児 ベルナール(二十歳まで)
その最後の恋人(ジネット)
その叔父 ミミ(デュ・アーヴル)
その伯母 トト
その伯母 ティティ
医者
新聞記者

(場 控え室。側面の二つの壁の奥に、それぞれ出入り出来る空間。舞台前面、右と左にそれぞれ扉。舞台奥、左手に大窓。右手に、廊下に続く扉。)

     第 一 幕
(幕が開くと無人。ベルの音。ミシェル、左手前面の扉から急いで登場。すぐに右手奥の出入口から退場。数秒後、電報を読みながら戻って来る。左手前面の扉から、若い魅力的な看護婦登場。)
 看護婦 今のベルの音、先生?
 ミシェル いや、まだだ。電報だった。義理の母からの。アルジェーで船の故障があって、帰るのは三日後になるって。「出産に間に合うよう帰るつもり」だって。三日も待てると思ってるんだからな、生まれるのが。後一時間だ、多分・・・だろう?
 看護婦 はい。順調ですとそのぐらいです。
 ミシェル だけど医者の奴、遅いな。どうしてなんだ?
 看護婦 でも先生は、昨日のお昼からもう二度もいらしてますわ。
 ミシェル そうか。そうだったな。だけど医者が来る時には赤ん坊の方で死んだふり。赤ん坊の方で出て来る気配を見せると、今度は医者がいない。こんな時にかくれんぼをやったってしようがないだろう? 生まれようと死のうと、医者は何とも思ってないのか。赤ん坊を放っておくだなんて! ここにいたためしがないぞ。一体今どこにいるんだ、あいつは。今この瞬間、あいつはここにいなきゃならないんだ。全く・・・今どこにいると思う?
 看護婦 きっと他の赤ん坊のところでしょう。
 ミシェル パリに他の赤ん坊なんて、今この瞬間にいると思う?
 看護婦(微笑んで。)ええ、まあ。
 ミシェル そんなの許されないぞ! だいたい、医者がそんなに引受けるのがおかしいんだ。同時にいろんな場所にいられっこないじゃないか。
 看護婦 ええ、まあ。
 ミシェル 医者は今、ここにいるべきなんだ!
 看護婦 もくすぐいらっしゃいますわ。電話がありましたもの。すぐ行くって。
 ミシェル 今出て来たらどうするんだ。
 看護婦 出て来たら? 先生がですか?
 ミシェル 違う。僕の息子だ。
 看護婦 あなたの「息子」ですって?
 ミシェル 生れて来てもおかしくないぞ。僕だってこういう状態で生れたんだ。母親ともども、あわや死ぬという目にあったんだからな。
 看護婦 少しお休みになった方がいいですわ。
 ミシェル 僕は、何か変なことを言ったかな?
 看護婦 いいえ。でも、この四十八時間、寝ていらっしゃいませんから。気持が高ぶって・・・それに、疲れてらっしゃるのですわ。
 ミシェル 可哀想に。女房もこの四十八時間、寝ていないんだ。
 看護婦 ええ、でも、あちらは苦しんでいらっしゃいますから。
 ミシェル そう、あいつは苦しんでいる。そうだ、あっちに行ってやってくれ。その方が思いやりがあるというものだ。違うかな?
 看護婦 まだ危険はありませんわ、有難いことに。(看護婦、それでも扉に進む。)
 ミシェル ねえ、看護婦さん・・・男か女か、まだ分らないでしょうね?
 看護婦 ええ、それは。
 ミシェル そうだよね、勿論。でも、君の意見では、男の可能性あると思う?
 看護婦 ええ・・・奥様はかなり大きなお腹でした。ということは・・・
 ミシェル うん、そういうことだ。男、ね? 僕は男がいいんだ。僕がそう思う、ということも、大事なことなんだろう?
 看護婦 そういうことは私にはちょっと・・・
 ミシェル それはそうだな。失礼。有難う、看護婦さん。今また唸ったような気がする。早く行ってやって。お医者さんは僕が出る。
(看護婦、部屋に入る。)
 ミシェル(一人になって、器用に身体を一回転させて。)自分一人でこの世に出て来る、こいつは素晴しい。三四年経った後でなければ、それは分らないんだからな・・・今何時だ? 十時十五分か。ああ、あの看護婦の言っていた通りだ。ちょっと休んだ方がいい。少し落着くかもしれない。
(ミシェル、坐る。五六秒して、すぐパッと立上がる。)
 ミシェル クラクションの音?(窓の方に行く。)そうだったらしい。しかし、医者じゃない。(元に戻る。)馬鹿な話だ、自動車にクラクションをつけるのは。どうして医者だけなんだ? 着いた時分るように? まるで消防自動車じゃないか。・・・よし、電話しよう、あの医者に。(ダイヤルを回す。)生れて来る子供が双子でなきゃいいが・・・(電話をするのを思い留まって。)待てよ、もう出てたら、電話しても意味ないな。(受話器を置く。)こうやっているうちにあの子供、へその緒で首を絞めてやしないかな。あの年じゃ、何も分らない。触(さは)れる物には何でも触るぞ!(思い直してまた受話器を取る。)医者が家にいないとは限らないぞ。看護婦にだって分るわけないんだ!(ダイヤルを回す。)ああ、逆子(さかご)になっているかもしれない。足から先に!・・・糞っ、話中だ。(受話器をかける。窓の方に行く。窓の外を見ながら。)特別なことを待っている時にはタクシーしか通らない・・・タクシーで来るかもしれない・・・と思うと、タクシーさえ通らなくなる・・・(受話器に戻る。坐ってダイヤルを回す。)ああ、疲れて死にそうだ。・・・相変らず話し中か・・・よし、このまま待ってやるぞ。あっちが切れば繋がるからな。・・・(耳に受話器をあてがったまま、医者に話しかけるように話す。半分寝ている。暫く喋った後、ソファに倒れて寝る。)あいつに言ってやることがある。・・・「今日は、先生。・・・酷いですよ、先生は・・・先生に僕は悪いことなんか何もしていませんよ。それなのに、何ですか、この僕への仕打ちは・・・先生にとっちゃ、赤ん坊なんてみんな似たり寄ったりのものでしょうがね、でも、それは、僕の赤ん坊以外の赤ん坊です。僕の赤ん坊は僕の息子ですからね・・・僕を慰めてくれる筈なんです、この赤ん坊は。この僕の馬鹿な人生をね。だって僕は船乗りにも、探検家にもならなかったんですから・・・ベルナルダン嬢と結婚したのは、この息子を生むためだったんです・・・僕は恋愛で結婚したんじゃない、正直なところ。父性愛のためなんですよ・・・僕は「息子」って言ってるでしょう? マックスです、息子のマックス。もう名前まで決っているんです、先生。先生が一時間もそこで長話をしている代りに、さっさと来て生ませて下さっていれば、名前まで(は、まだだったかもしれませんがね)・・・そう、男! 男ですよ・・・女だったら悲劇です。父親は娘の親にはなれない。娘が結婚して、その相手の男の父親になるだけです。女ってのは、自分の惚れた男の考えしか受入れないんだから、女なんて勘定には入らないんですよ。息子・・・それですよ、男親がその精神と肉体を形成してやり、馬鹿な奴らが妙な教育をしようとした時、守ってやれるのは・・・息子を立派な、幸せな大人に育ててやるんです。これこそが人生の目的じゃありませんか・・・僕は発見もしていない、探険もなし、芸術作品も拵えてはいない。しかし、幸せな男を拵えてやろうとしているんです。お分りですね?・・・そして、始まりはもう始まっている。僕はやったんだ・・・あれは僕の息子、僕の子供だ・・・幸せな人間・・・自由な・・・僕の息子は・・・僕がなれたような幸せな人間に・・・もう僕の家が、僕に・・・
(ミシェル、寝てしまう。)
(看護婦登場。)
 看護婦 誰か玄関のベルを鳴らしました?(ミシェルが寝ているのに気づく。)あら・・・(看護婦、ミシェルが握っている受話器をそっと手から取り、電話機に置く。)寝なさい、あなた。幸せな人。男の子をとても欲しがっているあなた・・・可愛いわね、あなた。とてもお父さんだなんて思えない・・・今生れてくる赤ちゃんとあなた、同じような生れ方をしたのね。羽根のはえた妖精に取巻かれて・・・あなた、他人の苦労など知らない人ね・・・看護婦の苦労なんか・・・ぬるま湯の、居心地のよい生活しか知らない、可愛いエゴイストさん・・・羨ましいわ、私。幸せにつつまれた、何の疑いも抱いていない、若い父親さん・・・
 ミシェル(眠りながら。)お嬢さん・・・
 看護婦 私を呼んだのかしら?
 ミシェル 綺麗なお嬢さん・・・
 看護婦 あらあら、眠っている人と話をするのかしら、私・・・なあに?
 ミシェル 本当に・・・君?
 看護婦 ええ、私。
 ミシェル 来てくれたの、嬉しいよ・・・僕の人生は悲しいものなんだ・・・
 看護婦 何ですって?
 ミシェル 看護婦のつけるベールを上げてくれて、僕は嬉しいな。
 看護婦(自分のベールに触って。)ベール?
 ミシェル ベールはとても他人行儀でね。でも、君の目は僕を騙せない。ベールがないと君、もっと素敵だ・・・僕の女房より、ずっとずっと君、いいよ・・・
 看護婦 シッ!
 ミシェル 本当なんだ。女房に今のこと、僕からだって話していいよ。
 看護婦 そんなこと、するものじゃありませんわ。
 ミシェル 僕は言っちゃいない。考えただけだよ。
 看護婦 そういうことは考えるものでもありません。
 ミシェル 君も? 君もかい? 「するものではありません」って? 「するものではありません」で人生はつまっているんだ・・・「探検家になど、なるものではありません」「船乗りになど、なるものではありません」「愛するなんて、するものではありません」・・・人生とは、「するものではない」と他人に教えるためにあるようなものさ。ああ、もし僕がもっと早く君を知っていたら、君だったな、僕が結婚したのは・・・
 看護婦 シッ!
 ミシェル 君、しょっ中「シッ!」って言ってるんだね?
 看護婦 私の仕事ですから、それが。
 ミシェル 僕は今、子供を生んでいるんじゃないんだよ。
 看護婦 ああ、ご免なさい。
(間。)
 ミシェル 結婚した時、僕は本当に悲しくてね。
 看護婦 何故結婚なさったの?
 ミシェル 悲しかったからなんだ・・・
 看護婦 分りませんわ。
 ミシェル 他の女の人のことでね・・・それで悲しかったんだ。
 看護婦 ああ・・・
 ミシェル それから、僕は子供が欲しかったから。
 看護婦 子供が慰めになるから?
 ミシェル そう。それに、僕は探検家になりたかったんだけど・・・
 看護婦 じゃ、探検家になりたくて結婚したのね?
 ミシェル いや、なれなかったから、結婚したんだ。
(ベルの音が聞える。)
 ミシェル ああ、時計が十二時を打った・・・
(看護婦、微笑み、つま先立ちで舞台奥左手の扉から退場。)
(看護婦、医者と共に登場。医者は五十歳代。次の台詞の間に外套を脱ぐ。)
 医者 どんな具合?
 看護婦 今度は無駄足ではない筈ですわ、先生。
 医者 だいぶ辛そう?
 看護婦 ええ。
 医者 遅刻してしまった。若い女性でね。そのお産をすませたんだが、その後、もの凄い喧嘩だ。夫が騙されていて、酷く怒ったんだ。
 看護婦 可哀想に!
 医者 別の男の子供だったんだ。父親の友達に瓜二つの赤ん坊でね。
 看護婦 可笑しい!
 医者(かなり大きな声で笑い。)その父親はそうは思わなくて。
 看護婦 シッ!
 医者 どうしたの?
 看護婦 ドゥヌワイエさんが眠っています。
 医者 よろしい。眠らせておこう。騙されていようといまいと、夫ってものはこういう時厄介なものだ。今晩はさっきので、もう充分。必要になったら起せばいいんだから。
 看護婦 シッ!
(二人、部屋に入る。)
(照明、二三度、暗くなったり明るくなったりする。音楽が聞える。ミシェル、大きく息を吸う。眠りながら苦しそうに喋る。ぎくしゃくした調子の喋り方。)
 ミシェル 「騙された! 騙された! 騙された夫だ! 別の男の子供! シッ! シッ! シッ! 夫ってものは厄介な代物だ。シッ! シッ! シッ! グー、グー・・・」
(照明、普通の明るさに戻る。ゆっくりと音楽も止る。)
(ミシェル、身体をゆったりとさせる。)
 ミシェル(相変らず目を閉じたまま。)「騙した」?・・・「騙した」・・・どういうことだ、これは。だいたい、今何時だ?・・・十時二十分・・・そうか、やっぱり僕は寝ちゃいない。僕は全部聞いたぞ。「夫なんて厄介なもの」・・・「別の男の子供」・・・「シッ! シッ! シッ!」・・・「シッ!」と言ったのは女房だな。あいつはいつも「シッ!」か、「するものではありません」だ。しかし、今の「シッ!」は、理由があるぞ。「子供があの人のでないって分ったら駄目」・・・そういうことだ。誰かが扉を開けて・・・声が聞えてはまづいから「シッ!」と言ったんだ。そうだ! 丁度僕は目をつぶっていた。何も見えなかった。その時に僕に耳があったのは運がよかった。いい加減にしろって言うんだ! 八箇月間僕は子供の誕生を待ち望んでいた。まるで大馬鹿だ! その間連中はみんなこの僕を虚仮(こけ)にしていたんだ。僕の息子、大事な大事な・・・それが・・・えっ? 誰の子供だ? 結婚してから八箇月、それらしい男は誰も思いつかない・・・八箇月・・・しかし・・・誕生までは普通九箇月・・・一箇月早まった・・・(ミシェル、大きく目を開く。)その前だったんだ!
(急に静かになり、小さな声で。)
 ミシェル マドゥムワゼッル・ベルナルダン・・・君が僕と結婚したのは・・・そうか・・・君のおふくろさんは急いでいたなあ。やっと分った。それに、四月四日のあの結婚式・・・何ていう大発見だ、これは・・・マドゥムワゼッル・ベルナルダン。結婚式当日の、あのうっとりした目・・・あれは、安心して母親になれるという安堵(あんど)の目だったんだ。
(医者登場。自分の外套の方に進む。)
 ミシェル ああ、先生、先生、あなたもグルですね? この件では。この商売じゃ、いつものことなんでしょう? さっき女どもが噂話をしていて、それを聞いたんですよ。僕には分っている。あの子供の本当の父親を僕が世に出してやる。あの子供の父親をね。さあ、言って下さい、先生の口から。先生が生ませるんですからね。僕はちゃんと先生の話を聞きますよ。ここには女中もいない。家族の者は誰もいない。女房の母親だっていませんよ。電報をくれましたからね。アルジェで事故に遭って遅れるからって。三日後です、着くのは。だから、今がチャンス。さ、先生、言って下さい!
(医者、この時までにマントから箱を取出しているが、勿論ミシェルには何の注意も払うことなく、隣の部屋へと進む。ミシェルは医者の目の前にはいても、実際は眠っている。)
 ミシェル ええい、糞っ! この声が聞えないのか!
(医者、ソファの方へ目をやるが、寝ている人間を起さないようにと、つま先立ちでそこを離れる。)
 ミシェル どうしたんだ? これは。先生、どうしてソファなんか見てるんです。僕はここですよ。僕が見えないんですか?
(医者、この時までに、既に隣の部屋に入っている。)
 ミシェル こいつはいいや! 僕は何なんだ? 一体。生れて来る赤ん坊の父親じゃないのか? 父親じゃなくても、少なくとも母親の夫ではあるんだぞ!
(ミシェル、部屋の扉を開ける。看護婦、ベールなしでミシェルの前に現れる。)
 ミシェル 看護婦さん!
 看護婦 私のこと、呼びました?
 ミシェル ねえ、連中、ぐるになってるんじゃない? でも、君は違うね? 君も「とっくに知ってましたわ」なんて言うんじゃないだろうね? 僕のことを笑いはしないね?
(看護婦、回れ右をして、診察室に入る。)
 ミシェル えっ? 君も無視? ああ、彼女も無視だ。ハツカネズミのような可愛い目をした子だと思っていたのに、大違い! ハゲ鼠、モグラ、あばずれだ、あんな奴! どこかの隅でこそこそっとやっては子供を孕(はら)む、そこいらにころがっている女と何の変りもあるもんか! 腰を捻(ひね)って、尻を捻って、目をぐるぐるっと回して、何でもかんでも捻り回して、落着くところはいつだってそこだ! そして、誰か馬鹿な男に貧乏くじを引かせて、あと始末をさせるんだ。
(ミシェル、振返る。その時までに、別の場所から看護婦、登場している。)
 ミシェル お嬢さん・・・君、さっきからいたの? 診察室じゃなかった?
 看護婦 私、ずっとここでしたわ。
 ミシェル ああ、そうだと思ったよ。君が奴らの共犯者ではありえないからね・・・僕は危なく君を連中と一緒くたにしてしまうところだった。君の悪口さえ言いかねなかったよ、全く!
 看護婦 あら、私、また指輪を落っことして・・・
(看護婦、屈んで、それから、退場。)
 ミシェル メリザンドだな、まるで・・・指輪は見つけたの? 婚約指輪? 君、婚約してるの? お嬢さん。そんなこと、僕に話してくれなかったよ、君。本当に婚約してるの? 愛してるの? 相手の男を。君、どうして返事をしてくれないんだ? 池に落ちたの? 指輪を捜して・・・
(この時までに看護婦、ミシェルの真後ろに戻って来ている。看護婦、ミシェルの耳元に言う。)
 看護婦 私、ここ。
 ミシェル(振り向いて。喜んで。)ああ、そこにいたの・・・さっきからそこにいたんだね? 同時に、いろんな場所に、君、いるんだね? ああ、その指輪・・・それ、さっき落したやつ?
 看護婦 これ、私の指にはちょっと大き過ぎる・・・姉の指輪だったの。
 ミシェル 姉さん、亡くなったの?
 看護婦 二人で川に泳ぎに行って、姉が水に入る時、私に預けたの。
 ミシェル 姉さんはそれで、戻らなかった・・・
 看護婦 ええ、川が姉をさらって行った・・・
 ミシェル オフィーリアだ!
 看護婦 友達だったわ、幼い頃の・・・
 ミシェル 友達・・・姉さんに対してそれが言えるなんて、いいね。姉さん、君に似てた?
 看護婦 双子だったの、私達。姉の名はレジンヌ。
 ミシェル で、君は?
 看護婦 イザベル。私のことを姉はよく「燕ちゃん」って呼んでいたわ。
 ミシェル 「燕」・・・ここへ来て三日間。僕は君がここにいるのを知っていたけど、君のことをよく見ていなかったな。眉の傍に小さな傷跡があるね。それから、左のこめかみのところに血管の青い筋がある。でも、全体的に君は、ぼけて見えていた。そうしたら、何かが現れてきて、君の歩みを止め、僕のところに近づかせた。君との間を遮っていた幕が落ち、ガラスが壊れ、君を自由にしたんだ。イザベル! 君を覆っていたベールはなくなり、看護婦という公的な性質は消えてしまった。君は僕の前にはっきりと姿を現したんだ。暫くの間、僕は君の姿しか見えなかった。どこを向いても君がいる。右にも左にも、ここにもあそこにも・・・君が口にする言葉はただ一つ、それに、そのただ一つの言葉に君の全てがある・・・「ほら、見て私を。灰色の目、そしてこの微笑み」・・・ああ、燕ちゃん! 開け放たれた窓からさっと、君は僕の人生に今登場したんだ。さあ、これで僕の人生は晴れ渡った。もう自分の子供の父親が誰かなんて、思い迷ったりしないぞ。
 イザベル じゃあなた、もう子供はいないの?
 ミシェル 女房は子供を生むだろうがね、もう僕はその方面じゃ何も期待しない。この三日間、僕の頼りはその扉の向こうにしかなかった。だけど、今じゃもう、すっかり分ってしまった。生れて来る子供は僕のじゃない。その扉はもう開かない。扉じゃない、それは。壁だ。さあ、これで僕は自由だ! イザベル、僕らは幸せになるんだ! 今の今まで僕の希望は子供にあった。この瞬間、子供は僕の人生から消えて、君が生れたんだ! 僕は自由だ、イザベル! 僕は若返った。今二十歳だ! 愛を犠牲にするような真似は決してしないぞ。とは言っても、愛を捨てたことがあったな、若い時。
 イザベル その人、あなたを悩ませたの?
 ミシェル 誰?
 イザベル その、あなたが愛した人。
 ミシェル ああ、愛したなあ・・・
 イザベル その人もあなたを?
 ミシェル うん。
 イザベル 誰? 別れさせたのは。
 ミシェル 父親。叔父達のうちの一人。女の従姉妹。家族中でもめた。うちの家は女優が嫌いでね。
 イザベル 女優だったの? あなたが愛した人。
 ミシェル うん。
 イザベル 十五歳の時、私、女優志願だった。
 ミシェル 本当?
 イザベル 家族が反対して・・・
 ミシェル お母さん?
 イザベル 父親。
 ミシェル 叔父さん達もだ。
 イザベル 叔母。みんな一緒に反対。
 ミシェル 君が堕落すると思って・・・
 イザベル 私の性格が危険だって。
 ミシェル 君が危険で、劇場が壊れる・・・
 イザベル それから、劇場が危険で、私が壊れる・・・
 ミシェル そう! 病院の看護婦詰め所はもっと安全な場所だと思ってるんだ! 夜中にお産をする女性のベッドに屈みこむ方を連中は好むのさ。ジュリエットやメリザンドを演じるのは堕落・・・そうさ、人間が口に出来る最も純粋な台詞を心に思い、口で喋る、それは連中には罪悪・・・その癖、酷い臭いのする薬品がどっさり入った容器を、若い女の子に運ばせるのは全く平チャラなんだ。いや、平チャラどころか、これこそが女性の義務を全(まっと)うする最適の仕事だと思っているんだ。
 イザベル ええ、うちの家庭もそう。女優は駄目。あなたが言った通り。
 ミシェル 女優は駄目。愛は駄目。探検家は駄目。何もかも駄目!
 イザベル 本当! あなた、探検家になりたかったの?
 ミシェル 僕は探検家か、それとも聖者になりたかった。
 イザベル 私も。
 ミシェル ええっ?
 イザベル 私、聖者か、女優に。
 ミシェル それで君は看護婦に、僕は女房持ち・・・僕らはお互い、出逢う運命にあったんだ! 君は今そこにいる。僕らは愛し合っている。もう誰も問題じゃない。僕はもう女房はいないし、君はもう看護婦じゃない。僕らの人生は僕らのものなんだ! 他の人間は全部、僕らの愛の周りを回るだけだ。僕の女房も、あいつの息子も、あいつの母親も。あいつの母親・・・君はまだ知らなかったね? 憲兵だ、あれは。明後日にならなきゃ来ない。さっき受取った電報がこれだ。ここだけの話、この方がいい。あの母親が来たら何もかもぶち壊しだ。生れかかっている子供も流産、今生れたばかりの君との幸せもぶち壊しだ。
(声が聞えて来る。)
 声 ミシェル!
 ミシェル 誰か呼んだ?
 声 ミシェル!
 ミシェル えっ? あいつの母親だ!
 声 私ですよ、ミシェル! ここに来なさい!
 ミシェル ご登場だ! この電報、どういうことなんだ?
 イザベル 義理のお母さん?
 ミシェル そう。憲兵。鼻髭を生やした女傑!
 イザベル 私、行ってましょうか?
 ミシェル もう時間がない。足音が聞える。
 イザベル そう?
 ミシェル 愛してるよ。
(義理の母、怒濤のような登場。)
 義理の母 何てエレベーター! もたもたして! 坊や、コンチワ。何てニュース!
 ミシェル お義母(かあ)さん、自分で分ってますか? 僕らが会って、最初にお義母さんが言う言葉、それはいつだって、「何てニュース」なんですよ。
 義理の母 当り前でしょう。ニュースがなきゃ、こんなに慌てて来っこないですからね。
 ミシェル アルジェから電報をくれたでしょう? 明後日にならなきゃ着かないって。ぬか喜びをさせないで下さいよ。
 義理の母 それで? 坊や。二人はうまく行ってるの? さ、挨拶のキス。さっさとやって!(イザベルに。)あなたもよ!・・・それで、あれ、本当なのね?
 ミシェル 本当って?・・・何が?
 義理の母(陽気に。)何? 冗談を言ってる時じゃないでしょう? 浮気よ。
 ミシェル 何ですって?
 イザベル 何ですって?
 義理の母 そうなんですね? ミシェル。
 ミシェル ええ、まあ、考えていたところですが・・・
 義理の母 いいじゃないの、それ!
 ミシェル 嬉しいんですか? お義母さんは。
 義理の母 嬉しいに決ってるでしょう。わざわざそのために急いで帰って来たんですから。
 ミシェル でも、船は?
 義理の母 船なんてものは故障がつきもの。私、待ったりはしません。出発したいと私が思えば、船なしでも出発する。それだけのこと。
 ミシェル 泳ぎがそんなに達者だとは知りませんでした。
 義理の母 もうびしょびしょ・・・
 ミシェル えっ? 本当に泳いで?
 義理の母(扇ぎながら。)急いだからね。汗をかいて・・・
 ミシェル ああ。
 義理の母 本当に驚きね、これ。
 ミシェル 驚きですよ、実際。
 義理の母 あんたの浮気のことを言ってるのよ、私は!
 ミシェル 何だ。僕は生れて来る子供のことかと思った。
 義理の母 あらあら、私がこんなに早く現れたのを驚いたと思っているのに。
 ミシェル 相手の考えを見抜くのは難しいものですね。何かいい方法を捜さなきゃ。・・・そうだ、こんなのはどうです? 僕があなたの娘さんについて、どういう風に考えているか、それをあなたがあてるっていうのは。
 義理の母 私の娘? 婿が私に、そんなに娘のことを話したいなんて、妙な趣味ね。まるで私が娘に関心がある筈だ、っていう言い方よ、それ。でもね、いいですか? 娘に関心があるのはあんただけ。私じゃないの。
 ミシェル それは親切な言い方ですけど・・・
 義理の母 それから、婿に関心があるのは、娘の母親だけ。娘なんかに何も分るわけはないの。
 ミシェル それは聞いて嬉しいことだな。随分優しい言い方ですよ、それ。・・・何かお義母さん、変りました? もう髭の生えた憲兵さんじゃなくなったんですか? つまり、あなたの大事な娘さんを、僕が誰か他のお嬢さんに乗り換えても、そんなこと普通だって思って下さるんですか?
 義理の母 うちの子供が赤ちゃんを生もうっていうこの瞬間。そしておまけに、ここはあの子の家。その家の中で、その夫のあなたの田園恋愛劇・・・いいじゃないの。素敵よ。
 ミシェル ええっ? 何て酷い。お義母さん、それ、気違いの言う言葉ですよ。どうなんです?
 義理の母 あなた、分ってないのね。私、正真正銘の気違い。どうしてあなた、いつも私のことを尊敬を込めて丁重に扱ってるの? それが私には分らないわね。
 ミシェル だって、いつもこの家を取り仕切っている仕切り屋と思っていましたから。
 義理の母 とんでもない! 何て言ったって、私はまづあなたの味方。それから私はね、スィモンヌに騙されたことは一度もないの。あの子は父親似。そう言えばもう全部分るでしょう? 意地悪じゃないけど、頭はちょっと弱いの。
 ミシェル 何だかおかしな話を聞かされている気分ですね。尋常でないことが何か起っているような印象を受けていますよ、僕は。
 義理の母 尋常でない何か?
 ミシェル ええ。実はお母さん、一つお話したいことが。お母さんの言動一つ一つに、僕は随分感心してきたものです。でも、一度だけ、いや、もう何度となく、これだけはやってみたいと思って、それを実行出来なかったことがあって・・・それでも僕のこの手はそれをしたくてうづうづしているんですよ。
 義理の母 あら、そう? 何? それ。
 ミシェル(義理の母が背中を見せている隙に、後ろから思い切りひっぱたく構えをして。)・・・言葉ではちょっと・・・(義理の母、振り返るのでミシェル、さっと手をおろす。)
 義理の母(興味をもって。)やりなさいよ、すぐ。あなた、やりたいんでしょう?
 ミシェル ええっ?
 義理の母 さあ、やるの!
 ミシェル もういいです。ちょっと重々しい雰囲気になった時有効なんですから。
 義理の母 その時が来たら遠慮はいらないわ。やるのよ。面白そう。
 ミシェル 分りました。僕は寝ます。
 義理の母 何ですって?
 ミシェル 僕は寝なきゃ。
 義理の母 何故。
 ミシェル さっきからの僕達のこのやりとり、普通じゃありませんからね。僕は夢でも見ます。
 義理の母 それだけ繰り返されると、普通でないと思ってくるわね。でもこれは本当に普通のこと。
(義理の母、これを、後ろを振向きながら言う。その隙を狙ってミシェル、義理の母のお尻を猛烈にひっぱたく。)
 義理の母(喜んで。)やったわね。このいたづら坊主!
 ミシェル やったでしょう? お義母さん、うまく!
 義理の母 全く、やるもんだわね、あんたも。
(二人、笑う。)
 ミシェル さあ、そこでちょっと・・・お義母さんは僕に話していないことがありますね?
 義理の母 話してないって? 何を?
 ミシェル 去年の八月四日、僕に委(ゆだ)ねられた処女殿は、実はもうその時、妊娠していたという話。
 義理の母 そんな細かい事を話したら、だってあなた、結婚を取りやめにするかもしれないでしょう?
 ミシェル 素晴しい。つまりお義母さんは認めるんですね?
 義理の母 何をです?
 ミシェル 妊娠していたっていう事実をですよ。
 義理の母(軽い調子で。)そうらしいとは思っていました。初期ですからね、確かなことは分りません。でも、そうらしいとは思っていましたよ。
 ミシェル つまり、僕を騙した、ということを認めるんですね?
 義理の母 そんなこと、認めませんよ。第一相手のあの男の子、それは素敵だったから。
 ミシェル 死んだのですか?
 義理の母 いいえ。でも、過去形で話すのは、そのことが起ったのが、去年の六月だったから。
 ミシェル じゃ、何故娘さんをその男と結婚させなかったんです。娘さんはその男に汚(けが)されたんでしょう? それなら・・・
 義理の母 汚される? とんでもない!
 ミシェル お互い、合意の上だったというんですか?
 義理の母 合意も合意、大合意。
 ミシェル 随分不道徳な話ですね、お義母さん。
 義理の母 私が? とんでもない。私は何も知りませんでしたよ。あの頃私はスィモンヌを見張ったりしてはいませんでしたからね。あの子はしたい放題をやっていたんです。私があの子から目を放さなくなったのは、あの子が身ごもったことを知ってからです。いいですか? 娘が母親の手によって守らねばならないのはその瞬間からなのです。なぜなら、それからは手早く事を運ばねばならないからです。結婚相手は遅くともそれから三箇月以内には見つける必要があります。おまけに手際よくね!
 ミシェル 素晴しい考えだ! しかし、だからといって、スィモンヌがその当の相手と結婚してはならない、ってことにはならない筈ですが?
 義理の母 ええ。でも、相手が嫌がりましてね。
 ミシェル それで僕ということに?
 義理の母 ええ、あなた・・・そう。
 ミシェル そう。
 義理の母 だってそうでしょう? あなた、うちの子ととても結婚したがってたでしょう?
 ミシェル 最初に会った時、僕は彼女に訊きました。母親になるのが嬉しいかどうかを。娘さんは、とてもなりたいと答えましたよ。
 義理の母 でしょう? 当然じゃありませんか。
 ミシェル(一瞬呆気にとられて。)なるほど・・・ちょっとその・・・何かお飲みになりますか?
 義理の母 アプサンを生(き)で。
 ミシェル ここにはないな・・・
 義理の母 じゃ、いらない。他の飲物はみんな水と同じ!
 ミシェル ちょっとお話ししたいことがあります。坐りましょう。
 義理の母 いいわよ。
 イザベル では、私はあちらへ・・・
 ミシェル 駄目だよ。君はここにいるんだ。この話、君にはきっと面白い筈だ。
 義理の母 私ならいいのよ。あなたがいて下さって嬉しいわ、本当に。
 ミシェル 僕の横に坐って、君。
 義理の母 あなた、何てお名前?
 イザベル イザベルです。
 義理の母 何て綺麗な名前! ねえ、ミシェル、この子、可愛いわね?
 ミシェル 僕の質問は簡単明瞭なものです、お母さん。お母さんは僕に、これから生れて来る子供の、父親を名乗ることを要求しているのですか?
 義理の母 当り前でしょう? それを逃れることがあなたに出来る筈がないじゃありませんか。夫は子供の父親。それが法というものです。これぐらいの法律は知っていますよ、私も。
 ミシェル 僕が言いたいのは・・・
 義理の母 言いたいもへちまもないでしょう! はっきりと言ったらどうなんです。つい十分前までは、あなたはとても魅力的だった。このお嬢さんをすっかり好きになっている様子で。優しい口調だった。私に対してもね。ところが何? 今の、奥歯に物が挟まったようなその言い方。
 ミシェル 奥歯に物・・・?
 義理の母 そうですよ。この私に質問をして、追いつめてやろうだなんて。だいたい私に質問とはどういうことです! あなたは私の娘の夫。即ち私の娘の子供の父親です。一体この事に何の不都合があるんです、あなたにとって。もともとあなたは、子供を育ててみたいと思っていたんでしょう? その、子供を持つ身になるんですよ!
 ミシェル 持つ身にはなります。でも、その子供には、僕の指はない!
 義理の母 あなたの指?
 ミシェル 僕の親指、それに小指。奴のは違うでしょう? 僕の髪の毛でもない。鼻も違う。探検家になりたいなどと決して思わない・・・
 義理の母 何をあなた、そこでガタガタ言ってるの? あなたの子供を探検家にしたいんですって? 私の夫のことを思い出すわね、全く。あの人、子供の頃ヴァイオリンを少し齧ったからって、自分の子供は名ヴァイオリニストにさせたかった。婚約時代、あの人、その話ばっかり。私が身籠るとすぐあの人、週に四回は演奏会に連れて行った。胎教ね。世界中のヴァイオリン弾き全員。お腹(なか)の大きかった九箇月丸々・・・。お腹で子供が動いていると、私が感じたのは足じゃなくて、ヴァイオリンの弓。やっとスィモンヌが生まれる。でもこの子、全音符と十六分音符の違いさえ覚えることが出来なかった。
 ミシェル お義母さんがその九箇月、お腹からヴァイオリンが生れてくるんじゃないかって思ったかどうか知りませんがね、僕の方は、僕の子供が生れてくると期待していたんです。僕は今までの人生で何もして来ませんでしたが・・・
 義理の母 そう! それはよく分っているわ! 二人の結婚以来、私、あなたの義理の母親の役割よりは、あなたの銀行の役割の方を、果して来ましたからね。
 ミシェル だって、ちゃんと僕が文(もん)なしで、地位もないことを、承知の上だったんでしょう? そっちは。
 義理の母 そう。仕方なくね!
 ミシェル まあ好きなように言って下さい。僕の方でもそちらの事情は分ったことですし。しかし、僕が人生で何もしなかったと言ったって、何もしない方がいいというこの結論が出るまでには、血のにじむような犠牲と努力があったんです。僕が悩み苦しんで、何年もかかって、誠実に自分を探求した結果ですよ、僕が世の中には何の役にも立たないということが分ったのは。
 義理の母 さっきも言ったでしょう、それはよく分っていると。
 ミシェル ある日僕は突然分ったんです。僕に出来ることが唯一つある。つまり、子供を作ることが出来るんだ、と。
 義理の母 まあ、あなた、芸術家ね! でも、そういう条件でなら、そういう芸術家、沢山いるわ。
 ミシェル 失礼ですが・・・
(舞台裏から叫び声。)
 義理の母 あっ、あの子だわ。いいかしら、私、失礼して。娘が出産の時、婿とその情婦と三人で食前酒を飲んでいるなんて、聞いたことがありませんからね。実際私は何も飲んではいませんよ!
(義理の母、隣の部屋に退場。)
 ミシェル 分るだろう? あれが義理の母親・・・あばずれだ! ねえ君、僕らは出発だ!
(ミシェル、イザベルの手を取り、舞台前面に出る。並んで立ち、片手を上げ、旅行パンフレットにある旅立ちの格好。)
 イザベル どこへ?
 ミシェル 分らない。真直ぐ目の前を出る。トランクの上に飛び乗る。さあ、僕らはトランクの上にいるぞ。二人、手を取合って、目をつぶって・・・トランクが飛ぶ・・・壁を突抜けて、パリを突抜けて、海を越えて・・・僕らは自由だ。僕らは遠くまで来たぞ。二人は幸せだ、イザベル・・・
二十歳の時に愛を夢見た、その時の気持で、僕は君を愛している!
 イザベル 私、旅立ちなんかしなくても、あなたを愛してるわ。
 ミシェル だけど、自分の嫌いなものから遠く離れているっていう気分はなかなかいいよ。知らない國で、知っているのは唯一人、自分がその人にしか関心がない、当のその人だけ。いいじゃないか、ね? イザベル。
 イザベル それ、夢だわ。
(義理の母、登場。)
 義理の母 出産じゃなかった、さっきの声。でも、順調。あのお医者様、腕がいいわ。あら? 何なの? それ、ミシェル。
 ミシェル 僕らはトランクの上にいるんです。ほっといて下さい、僕らのことは。
 義理の母 トランクの上? まあいいでしょう。でも、トランクの上に乗ってどこへ行こうって言うの?
 ミシェル 旅に出るんです。僕らは自由なんだ! 幸せなんだ!
 義理の母 素敵ね。でも、申訳ないけど、ちょっと船を降りて下さらない? あなた、旅に出るって?
 ミシェル そうです。
 義理の母 じゃ、離婚しようって言うの?
 ミシェル 離婚して何かいいこと、ありますか? それに、暇がかかるなあ。決着がつくまでには、我々はとっくに旅に出ていますよ。さ、そのトランクを!
 義理の母 それであなた、何を携(たづさ)えて行くつもり?
 ミシェル 携える? 一緒に行く人のことですか?
 義理の母 いいえ。携える物。お金。あなた、お金ある?
 ミシェル いいえ。
 義理の母 トランクの上に立って旅行するよりは、船で行く旅行の方が高くつくのよ。はっきり言いましょう。あなたには一銭もないの。それに、地位だってなし。強いて言えば、あなた、広告代理店で働いていることになっているけど、収入の面じゃ、ただ同然。出して上げるのは高くつくし、それにあなた、私の娘の夫なんですからね。その旅は嬉しくありません。だからあなたは留まるのです。私が行かせません。そのお嬢さんと好きなようになさい。私はそれには立入りません。でも、あなたが家を出るのは好みません。私には主義というものがあって、今お話したのがそれです。さあ、トランクは元あった所に返して。私は私の血を分けた者の所へ戻ります。
(義理の母、部屋に入る。)
 イザベル どうする? ミシェル。
 ミシェル これが人生だ・・・ね? 僕らは旅に出て・・・そして今ここにいる。
 イザベル 私、「それ、夢だわ」って言ったのよ。
 ミシェル うん、夢だった。今目が醒めたんだ。
 イザベル でも、幸せになるためだったら、わざわざ旅に出ることなんかないわ。二十歳の時の夢だったって言ってたけど、それだけのものでしょう? 私達の幸せは目の前にあるの。二人で・・・手の届くところに。
 ミシェル じゃ、僕の申出を受入れてくれるのかな?
 イザベル 私、お辞儀をして、掌(てのひら)を拡げるだけでいいんでしょう? あなたが、私にお辞儀をした時、その前で私、跪(ひざまづ)くだけでいいんでしょう?
 ミシェル そう、イザベル、それだけでいい。僕の幸せ、君の幸せ、それは一つだ。誰もそれには触れない。君にこんな無茶なことを頼んでご免よ。でも君、分ってくれるね? 僕の趣味は探険・・・昔も今もそれなんだ!
 イザベル 私、その探険が旅に出ないですむものだから好き。
 ミシェル 本当?
 イザベル あなたがここにいて動かないから好き。
 ミシェル じゃ、ここに留まるんだね?
 イザベル ええ。
 ミシェル そして、愛しあう・・・
 イザベル ええ。
 ミシェル いい考えがある!
 イザベル いい考え?
 ミシェル 愛しあったら? 期待出来るものは?
 イザベル 何かしら。
 ミシェル 子供!
 イザベル 私、処女よ。
 ミシェル だから、僕の愛じゃないか。二人で一人を!
 イザベル 二人で?
 ミシェル そう、君と僕とで。(隣の部屋から叫び声。)ああ、ご免!
 イザベル 何が?
 ミシェル あの叫び声。君をがっかりさせたんじゃないかと思って。
 イザベル 私、馴れてるわ。
 ミシェル そうだった。君の予想では、生まれるの、何時?
 イザベル えっ?
 ミシェル 僕らのだよ。だって、君、馴れているだろう?
 イザベル(たしなめる声。)ミシェル!
 ミシェル 名前はエルネストにしよう!
 イザベル どうして?
 ミシェル だって、綺麗な名前だから。
 イザベル もしあなたの親指とあなたの小指がなかったら?
 ミシェル あるようにするんだ! それから、その子を凄い人間にするんだ! 僕がやろうとして出来なかったことを・・・いいかい? それをみんなやらせるんだ!
 イザベル あなた、したいことが出来なかったの? ミシェル。
 ミシェル 僕? ああ、何もかもだ。皆でよってたかって出来なくした。僕には可能性はうんとあった。皆が駄目にしたんだ。負け惜しみじゃないぞ、これは。僕は船乗りになろうと思えばなれたんだ。それなのに父親が騎兵隊員で、陸のことしか頭になかった。だから僕はなれなかった。船乗り、それに探検家だよ、勿論、なりたかったのは。探検家も駄目だった。伯母さんのデデがいつも家にいて、しょっ中マフラーを編んでいた。僕が窓を開ける度にその伯母さんが頭巾つきのマントを僕の頭からすっぽり包むんだ。
 イザベル 風邪を引き易かったの?
 ミシェル しょっ中。北極の氷の中に六箇月いるには、そんな弱い鼻じゃ駄目だからね。
 イザベル じゃ、アフリカ探険ね!
 ミシェル 駄目だ。僕は恐がりだから。
 イザベル ライオン? 怖いのは。
 ミシェル 怖い。獣(けもの)はみんな怖い。ちょっと物音がしただけで、すぐビクッとする。夜が怖い。何もかも怖い。オーギュスト叔父さんがいけなかったんだ。居候の叔父さん。僕が小さい時いつでも物陰に隠れていて、僕が来ると幽霊の真似をして奇妙な声を出すんだ。
 イザベル まあ、怖い。
 ミシェル でも、こんなのは序の口だよ。十二年間僕は一週のうち二度懺悔をしなきゃいけなかったんだ。それから毎日、父親の前でお説教を聞かされる。父親は自分の机に新聞を開いて、必ずこういう、「私が直接教育していたら、こうはならなかった筈だが・・・」その説教の間、僕は父親から六歩離れた場所に、両手の小指をきちんと半ズボンの折目にあてて「気をつけ」の姿勢。勿論食事中は、話は禁止。雑誌は「フランス軍年鑑」しか読ませられない。結果はどうか。僕は家出。ある女優にすっかり惚れて、彼女と駆落ち。結婚したかったが、家族の反対で駄目。僕は家に戻される。また家を出る。例の女優はもう僕のことを見向きもしない。あちこち職業を転々として、その度毎に馬鹿なことをしでかして、結局今の広告の仕事だ。そしてベルナルダン嬢の夫となる。なぜなら彼女は乞食ほど貧乏じゃなかったし、子供を生むことに意欲があるように見えたから・・・これが今までの僕の経歴だ。ここで大事なのは、ちょっとした年金で暮している父親、それも半分墓場に足を突っ込んでいるこの父親が、まるで息子の船乗り志望に理解がなかったこと。叔母のジャンヌもその甥が生れつきの探検家であるとは露(つゆ)思わなかったこと。それに、間抜けな叔父のオーギュストが、扉の陰に隠れて幽霊の真似をすることが、いかにその甥に悪影響を及ぼすか知らなかったこと。お陰で僕は暗い部屋には一人で一分といられなくなったんだ!
 イザベル 分るわ、それ、ミシェル。
 声(強い、男の声。)ミシェル!
 ミシェル 親父の声だ!
 声 ミシェル!
 ミシェル 親父だ、南無三! 君、隠れて!
(イザベル、隠れる。)
 父(登場して。)呼んだ時にさっさと来るんだ!
 ミシェル 来ましたよ、お父さん。
 父 お前の話には少々文句がある。
 ミシェル まあ坐って下さい。
 父 長居はしない。私は全く認めないぞ、お前の馬鹿な話は。それから、お前の結婚もだ。あれはお前には相応しくない。だいたい私がまるで尊敬出来ない人間のいる家に、私がおちおち坐っていられると思っているのか、お前は。
 ミシェル 義理の母は尊敬出来る人間です。
 父 私の知っている限りでは、赤毛の人間に尊敬出来る奴など誰もおらんぞ。まあこの点はいい。お前はうちの家族のものに対していろいろ不満を述べたな。おまけにとても聞いていられない言葉遣いだった。ただ、これだけは言っておく。船乗りになりたかったとお前は言うか。お前、算数はいつだってクラスでビリから二番目だったじゃないか。
 ミシェル 違う!
 父 違わない!
 ミシェル 一回だけ!
 父 確かに一回だけお前は二番を取った。しかし、あまり奇妙なことだったから、調べがあった。そうしたら、お前は、同級生が持っていないある本を持っていて、それにその問題の答が載っていたことが明らかになった。つまり算数は全く駄目だったということだ。地理もまるで駄目。デデ叔母さんもお前は非難したな? 今ここに出て来て、自分を弁護したいだろう、きっと。それが出来ないんだから叔母さんを非難したって始まらない。お前は地理も駄目だったが、生物も駄目。要するにお前は、探検家の素質はない。だから叔母さんを頭巾マントのせいで恨んでもそれは筋違いだ。
 ミシェル 僕は強くはなかった。でも、地理の味は僕に与えてくれてもよかったんだ!
 父 地理の味など、与えられるものか! 軍隊での命令の味、突撃と勝利の味、それは与えられるものだ。しかし地理、それは味わうものじゃない。習うものだ!
 ミシェル じゃお父さん、叔父さんのこと、あの脅かし、あれもお父さんは弁護出来るの。
 父 お前はわんぱくだった。学校では体育でしかいい成績は取れなかった。うちの家庭では、ジュワンビルの体育学校に入れるなど及びもつかなかったから、お前は役立たずのまま世に出たということだ。私に責任などあろう筈がない。
 ミシェル でも、叔父さんは! オーギュスト叔父さんは!
 父 ああ、あいつは昔から馬鹿だった。あいつの責任など、語るにも足らん。
(奇妙な叫び声。それから、毛布を被ったものが現れる。)
(ミシェル、大きく飛び退(すさ)る。)
 幽霊 カッコー! 誰だ、出て来たのは! カエサルの幽霊だぞ! カエサルとは何だ? ローマの皇帝だ! そしてカエサルは何と言った・・・カエサルは言ったぞ・・・「今日は!」
(オーギュスト、陽気に毛布から現れる。頭にローマ時代の帽子。)
 ミシェル(爆発するような声。)これだ! 扉の後ろでいつも聞かされたのは!
 父 オーギュスト、頼む。出て行ってくれ!
 オーギュスト 死んだ者っていうのは、好き勝手に出たり入ったり出来るんでね。扉がきちんと締まっているところには隙間風はない。さもないと、私が隙間風ということになる。それから、カエサルにはちゃんとした礼を尽くして貰いたい。「出て行け」とは何事だ。礼を尽くさないとあらば、あんたを護衛に逮捕させるぞ。それは嬉しくないだろう? あんただって。
 父 私を逮捕だと? いいか、私は昔、騎兵連隊を指揮していたんだぞ!
 オーギュスト 分っている、連隊長。しかし、カエサルは将軍だ!
 父 おい、オーギュスト、ここは冗談の場ではないぞ。
 オーギュスト やれやれ、リリ、あんたは生涯冗談とは縁がなかったからな。
 父 お前は冗談以外は何もやったことのない男だ。今のその格好が、お前の、馬鹿騒ぎで終った一生を証明している。それからな、私はアンリだ。リリは止めろ。
 オーギュスト 私の一生は無欲で寛容の行為で終始したのだ、リリ。それは、最後の審判の時、イエスの前に我々二人が呼び出された時、お前に分ることだ。まあ、イエスが私に既に聞かせてくれたことだがな。
 父 お前の一生は、秩序と法への反逆だった。だいたい服装からして世間の人間とは違っていた。いつだってお前は放浪の旅をする男、或いは密猟者、のような格好だった。それでも、害のない男であってくれればまだしもだった。しかしお前は、国家転覆、アウトロー、それに人生の落伍者にしか同情を持たなかった。
 オーギュスト おいおい、私自身がその落伍者という奴だぞ!
 父 お前、それを自分で自慢にしているのか!
 オーギュスト 立派な落伍者には、誰もがなれるとは限らんぞ! この私は、それをかなりな高水準にまで持って行ったんだ。そう、お前さんの話にも一理はある。私はカラーとネクタイはとても我慢出来なかった。単に流行が好きなだけだったのかな。まあ、私がキリスト教的慈悲の精神のかたまりだと思って諦めるんだ。落伍者と呼ばれる者の特性なんだ、このキリスト教的慈悲の精神は。
 父 軽々しくその言葉を口に出すものではない! どこの家庭でも、お前のような頭の狂った男が一人や二人いて、そいつらがキリスト教に対する然るべき敬意と良き伝統の火を消しているんだ!
 オーギュスト どこの家庭にも、お前のような尊大なだけのアホがいて、そのために若者が父親の家を出てしまうのだ!
 父 また言うぞ、オーギュスト! 私はお前の兄なんだぞ!
 オーギュスト お前の論点は弱いが、全く変らないところに良さがある。その話は私が八歳の時に既に聞いた。
 父 おまえの有害な影響がなければ、妹のキキは、決して離婚などしなかった筈だ!
 オーギュスト キキは今、新しい夫と楽しく暮している。そもそも最初の夫と無理矢理お前が結婚させたのが不幸の始まりなのだ。お前のその所謂(いわゆる)、無私無欲の慈悲の精神の影響でな!
 父 私は命令することに慣れている。命令したいのだ!
 オーギュスト 大佐殿、お陰でお前の家族はめちゃめちゃだ。用心した方がいいぞ! カッコー!
 父 糞っ! ステッキでその骨を砕いてやる!(オーギュストの方へ進む。)
 オーギュスト やれるものならやってみろ。こっちは幽霊だぞ! ヒヒヒ!
(オーギュスト、逃げ、父、それを追いかける。二人退場。)
 ミシェル(隠れているイザベルのところへ行き、イザベル、出て来て。)分ったろう? あれが僕の家庭なんだ。ね、イザベル、勇気を持とう! 幸せになろう。あの惨めさのまっただ中で、僕ら二人、幸せを築くんだ。赤ん坊を世に出しておきながら、それが不幸になるのを放っておくなんて、そんな権利は親にないんだ。僕には考えがある。いい? 僕は二人子供を持つことになる。あそこと(部屋の扉を指す。)つまり、法律上の正規の子供・・・僕の子供じゃないよ・・・その子には、僕の受けたあらゆる正規の教育を叩き込む。生れの良いちゃんとした子供だから、反動などある訳がない。育ちの良い、礼儀正しい、我家に相応しい息子になる筈だ。そして十歳になると、船乗りの格好をし、二十歳になると、ベルナルダン嬢のような女と結婚する。一方君との間に出来た息子は、僕の一番の友達になる。自由で幸せな、僕に愛され、理解される子供になる。それから僕の青春、僕の生きる喜び、を持つ子供になる。素晴しい飛行機乗り、世界をあっと驚かせる探検家・・・つまり僕が夢みて出来なかったこと全てを実現するんだ。名前はバプティスト!
 イザベル エルネストて言わなかった?
 ミシェル ああ、そうか。じゃ、ベルナールだ!
 イザベル ベルナール?
 ミシェル ベルナールだ! さあ、僕にキスして!
(ミシェル、両手を拡げる。義理の母、登場。)
 義理の母 男の子よ! 男の子だったのよ、ミシェル! あなたにそっくり!
 ミシェル 僕にそっくり? 父親には必ずそう言うんでしょう? 神様だって時々は「これはまづいかな」と思うことだってありますよ。
 義理の母 だけど本当なのよ! 中ぐらいの額に中ぐらいの鼻、それに中ぐらいの口。本当よ!
 ミシェル 生れて来る時に何か言いませんでしたか?
 義理の母 滑舌(かつぜつ)が悪くて聞取れなかったけれど、言いたいことは沢山あるようね。
 ミシェル(叫ぶ。)えっ? じゃ、怒鳴ったんですか?
 義理の母(叫ぶ。)そうね。かなりな声でね。
 ミシェル(叫ぶ。)それで、スィモンヌは?
 義理の母(叫ぶ。)あの子も怒鳴った。
 ミシェル(叫ぶ。)お母さんもでしょう?
 義理の母 私もそう。あなたもそう。みんなで怒鳴るのね! 何て言ったって、子供の誕生だもの!
 ミシェル(右手の方に隠れたイザベルの方を振り返って。)・・・ちょっと失礼・・・
(ミシェル、イザベルがいなくなっているのに気づく。)
 義理の母 じゃあ、あなた、子供を見たくないの?
 ミシェル その子が九歳か十歳になった時に初めて見ることにしますよ。その時から僕の教育を始めます。ドゥヌワイエ家に相応しい理想的な教育をね。九か十までは、子供は僕なんかいらないんです。
 義理の母 まあ、あなたのお好きなように。ちょっと待って。九年や十年、すぐに経ちますよ!
(二人坐る。間。九年か十年経つ。)
(スィモンヌ、部屋から登場。自分の前にマックスを押しながら。マックスは十歳。)
 スィモンヌ ミシェル、マックスを連れて来ましたわ。ひと月前に地理の試験があって、今日、クラスでビリだってことが分ったの。
 ミシェル 何の努力もしなかったな、マックス。
 マックス 出来るだけのことはやりました。
 ミシェル 地理なんか馬鹿にしているんだろう?
 マックス 地理で悩んだことはありません。・・・僕にはどうでもいいこと。あんたに言ってもしようがないけど。
 スィモンヌ お父さんには「お父さん」、「あんた」は駄目って、もう何度も言ってるでしょう?
 マックス 僕は出来ない。
 スィモンヌ 無理にでも言うの。
 マックス お父さ・・・駄目だな、この人には。
 スィモンヌ 「この人」・・・あなたも言わせておくからいけないの! それから、地理の成績でこの子の言わなきゃならないの、それだけ?
 ミシェル なあマックス、ビリっていうのは、なかなかたいしたもんだ。しかし、その場所が一番いいと思うのはあまり感心しないな。(マックス、笑う。)何がおかしい。
 マックス だって、その言い方、おかしいじゃない。
 スィモンヌ 見て御覧なさい!
 ミシェル おい、待ってくれ。(義理の母に。)だいたい、そこで何をやっているんです、お義理さん。(スィモンヌに。)それにお前もだ。僕は今マックスに話をしているんです。男と男の話ですよ。女はいらないんだ。あっちに行きやがれ!
 スィモンヌ まあまあ、馬方が子供に言う言葉!
 義理の母 育ちの良い子になるわ、この子。
(医者、登場。)(訳註 医者の登場は不要に思えるが?)
(スィモンヌと義理の母、退場。)
(ミシェル、マックスと二人だけになる。)
 ミシェル 私を見るんだ、マックス。
(それからミシェル、自分は鏡を見に行く。)
 マックス 何を見てるんです。
 ミシェル 何も。
 マックス 美男だと思ってるんですか。
 ミシェル 何?
 マックス あんた、耳、悪いの?
 ミシェル いや。
 マックス じゃ、聞えてるんでしょう?
 ミシェル うん。
 マックス じゃ、どうして僕に繰返し言わせるんです。
 ミシェル 分らない。
 マックス じゃあんたは、自分で言ってることが分ってないんですか。
 ミシェル おいマックス、少しは礼儀正しく物を言ったらどうなんだ。
 マックス 僕は無礼なことはしてない。ただあんたと会話をしているだけだ。
 ミシェル その会話、もっとどうにかならんのか。
 マックス こういう喋り方が駄目だって言うのか? あんたは僕の先生じゃないんだろう?
 ミシェル 先生じゃない。
 マックス じゃ、先生じゃない人間に、先生に話すような話し方は必要ないじゃないか。
 ミシェル 何だって?
 マックス 四歩下って、半ズボンの折目にきちんと小指をあてるなんて、必要ないだろう?
 ミシェル 分った。だがお前はまだ、何故地理でビリだったか、それを説明していないぞ!
 マックス 地理が好きじゃないからだ。
 ミシェル 好きである必要はないだろう!
 マックス どうして? 僕は喧嘩は好きだ。だけど地理が好きになれるなんて・・・
 ミシェル そうだ。命令したり、喧嘩したり、それは人間が好きになったり嫌いになったりするものだ。しかし地理は好いたり嫌ったりするものじゃない。それは、学ぶものだ。
 マックス じゃ、地理をあんたは小さい頃から知っていたんですか。
 ミシェル うん。
 マックス それからもずっと?
 ミシェル うん。
 マックス じゃ、マルヌ河が通る都市、全部言えますか。
 ミシェル(その知識は確かでなく。)おいマックス、地理でビリだったのはお前なのか、この私か。どうなんだ。
 マックス 僕は算数は一番です。
 ミシェル それは分ってる。
 マックス 算数ではいつでも一番だ。簡単だからね。これからだってずっと一番だ。
 ミシェル そう思うか。
 マックス だって何でもないからな。僕にはすぐ分るんだ。あんたも算数じゃ、一番だった?
 ミシェル ああ・・・よくな・・・まあ。
 マックス じゃ、僕は父親似なんだ。
 ミシェル うん・・・そうか。
 マックス ビー玉でも僕はいつも勝つ。どうしてか分る? 僕のビー玉には仕掛けがあるんだ。
 ミシェル 仕掛け?
 マックス そう。仕掛け。他の奴のビー玉を使っているようなふりをして、僕がやる時はいつも僕のを使う。連中のやつよりは重いんだ、僕のは。
 ミシェル それで?
 マックス だから勝つんだよ! うまいだろう? 誰も気がつかないんだからな。
(ミシェル、マックスの顔をじっと見た後、立上がって鏡を見に行く。)
 マックス ニキビだな?
 ミシェル ええっ?
 マックス あんた、ニキビが出て来たかどうか、確かめてるんだな?
 ミシェル おいマックス、お前、大きくなったら何になろうと考えたことがあるんだろう?
 マックス 飛行機乗りだ。
 ミシェル 飛行機乗り?
 マックス そして、競馬馬を買う。
 ミシェル ほう!
 マックス これで確実に儲けられる。
 ミシェル どうして。
 マックス 自分の馬に賭ければいいからさ!
 ミシェル ビー玉と同じような細工を、まさかするんじゃないだろうな?
 マックス どうしてしちゃいけない。
 ミシェル 悪いことだからだ! それは詐欺だぞ!
 マックス サギ(鷺)も飛ぶ。飛行機乗りも飛ぶからね。
(スィモンヌ、怒って登場。)
 スィモンヌ マックス、来なさい。あなたにちょっと言うことがあります!
 マックス 言うこと・・・そいつはちょっとじゃなさそうだな。まあいい、どうせたいしたことはない。
(スィモンヌ、マックスを連れて退場。)
(イザベル、右手から登場。九歳の子供を連れている。マックスとは身体つきからも正反対の子供。)
 イザベル 丁度いいわ。一人でいらっしゃる。私達、悲しいのね? ベルナール。算数でビリだったから。さ、「今日は」は?
 ベルナール 今日は、お父様。
 ミシェル それで、地理は?
 イザベル ビリから二番目。
 ミシェル ほう、それは大記録だ。
 イザベル 私達、悲しいのね? ベルナール。
 ベルナール うん。
 ミシェル 泣くんじゃない、ベルナール。
 ベルナール はい、お父様。
 ミシェル 「お父様」も止めるんだ。
 ベルナール はい、お父様。
 ミシェル お前、聞いてるのか?
 ベルナール はい。
 ミシェル 「中庸(ちゅうよう)を行く」というのが出来ないのか? 「はい、パパ」あるいは、「はい、お父さん」。どうなんだ? こういうのはどうも私は苛々する。お前、地理でどうしてビリなんだ。
 ベルナール 地理は分らないんです。
 ミシェル それは勉強しなきゃ。
 ベルナール すぐ飽きてきて・・・
 ミシェル そこをがんばるんだ。地理が面白い人間なんてどこにもいやしない。人に命令したりやらせたり、そういうのは面白いものだ。地理など面白いわけがない。地理は無理矢理やるものだ!
 ベルナール はい。
 ミシェル お前、大きくなったら何になるんだ? ベルナール。
 ベルナール 今よりは賢くなります。
 ミシェル そうか、それはいい。しかし、何をする。船乗りか? 探検家か?
 ベルナール いいえ、とんでもない!
 ミシェル どうして。
 ベルナール 金持ちになります。
 ミシェル 金持ち?
 ベルナール そして、家の中にいるんです。
 ミシェル お前、だらけているぞ、ベルナール! 軟弱だ。もっと活動的にならなきゃ!
 ベルナール はい、お父様。
 ミシェル なあベルナール、もしお前の友達がビー玉をお前とやっていて、そいつがずるをやったとしたら、お前、どうする?
 ベルナール そいつとはもう一言も喋りません。そいつは悪い奴です。
 ミシェル そうだなあ・・・
 イザベル じゃ、終ね? ね、ベルナール、私達ちょっと公園まで散歩ね?
 ベルナール はい、お母様。
 イザベル じゃ、さよならを言って。
 ベルナール さようなら、お父様。
 ミシェル さようなら、ベルナール。
(イザベルとベルナール、退場。)
(スィモンヌ登場。)
 スィモンヌ 聞いて頂戴。あの子、またいたずら。あなたのパジャマに内側からとげとげの毛を縫い込んで。それから牛乳に漂白剤を入れて・・・。私達が胃を壊すかどうか見てやろうっていうつもり!
 ミシェル ああ、もういい。うんざりだ。行ってくれ。もう怒鳴らないでくれ!
 スィモンヌ 呆れた。あなた、それしか言うことがないの?
(スィモンヌ、扉をバタンと音をさせ、退場。)
(ミシェル、疲れきって、片手で両目を押さえる。再び目を開くとベルナールとマックスが、自分の目の前、観客には背を向けて立っている。ミシェル、怯(おび)えた目で二人を代わる代わる見詰める。)
                    (幕)

     第 二 幕
(幕が開くとミシェル、ソファに坐っている。手に手紙あり。突然舞台を横切って、毛布を被った物が通り過ぎる。その時「カッコー」という声がする。そして幽霊は去る。ミシェル、びっくりして叫ぶ。「何だ、あれは」。それから呼ぶ。「今の、オーギュスト叔父さん? どこへ隠れたの?」ミシェル、四つん這いになって「叔父さん、オーギュスト叔父さん」と言いながら、家具の下をあちこち捜す。)
(義理の母、登場。出かける服装。)
 義理の母 あなた、家族の人を誰か亡くしたの?
 ミシェル オーギュスト叔父さんが・・・
 義理の母 その叔父さん、いざりだったの? 四つん這いになって捜しているなんて。階段で出逢ったら、知らせてあげるわ。
 ミシェル まだ出ないんでしょう?
 義理の母 いいえ、すぐ出かけます。
 ミシェル 「僕、話があるんです」とさっき言った筈ですよ。その時「用意が出来たらね」と言ったでしょう? 僕は知りたいんです。すぐは出かけないで下さい!
 義理の母 頭にはもう帽子があるの。それなのに出かけないなんて、生れて初めて! そうそう、二十年前、孫が生れる時に、アルジェから船なしで帰った。あれも生れて初めてだったけど。でもあれ一回で沢山。今日はあなたのお許しなしで、さっさと出かけます。
 ミシェル あれから二十も年をとったんでしょう? 進歩しているんでしょう?
 義理の母 あなたの方も進歩なしね、二十年経っているのに。今もう二時半。行きます。さよなら!
 ミシェル この手紙を見て下さい!
 義理の母 請求書? 夜にして。私、ゲーリー・クーパーを見に行くの。
 ミシェル 請求書じゃありません! スィモンヌ宛の手紙です。つまり、私の妻宛の、つまり、あなたの娘宛の、です。そして差出人は彼女の恋人です。即ち、スィモンヌ、つまり、私の妻には、恋人がいるんです!
 義理の母 それで?
 ミシェル それから先のことなんか、僕には分りません!
 義理の母 あなたに分らない?
 ミシェル するとお義母さんには分っているようですね?
 義理の母 こういう場合の筋書き通りでしょう?
 ミシェル いつからです。
 義理の母 十五年前からね。
 ミシェル たった?
 義理の母 それであなた、そのせいなのね? この二日間、私達に酷いあたり方をしていたのは。
 ミシェル そのせいですよ、僕があなたとスィモンヌにうるさく訊いたでしょう、「誰です、僕の息子の父親は」と。それで二人とも答えなかったでしょう? 
 義理の母 あら、ミシェル、あなた、面白い人だったのね。気がつかなかったわ。私、ゲーリー・クーパー大好きだけど、あなたの方が彼を何馬身も離してるわ。あなたは勿論クーパーより醜男だけど、面白いもの。私、映画は止めにする。もう行かない。帽子をとるわ。あなた、その価値充分ありよ。
 ミシェル どうぞ、いいように馬鹿にして。でも、訊いていることには答えて下さい。
 義理の母 この二十年間、あなたは別にマックスの父親なんか、全く興味がなかった。それが、四十八時間前、スィモンヌに恋人がいると分ると、突然荒れ狂って、さっきの質問を繰返すようになった。どうなっているの? これ。私にはさっぱり分らない。
 ミシェル 分りませんか?
 義理の母 どうして狂ったようになるのか、私には分らないわね。
 ミシェル 何故かというとですね、四十八時間前、スィモンヌの机の後ろにこの手紙を見つけたからですよ。ちゃんと署名もしてある。名前はきっとお義母さん、ご存知でしょう。
 義理の母(人差指を意地悪くミシェルの方に差して。)シャルル!
 ミシェル いいえ、お義母さん、シャルルじゃありません! 真面目な話に茶々を入れないで下さい。手紙にはクロード、そして封筒にはちゃんとフルネームで、クロード・ジェルバルと書いてあります。この名前に心あたりあるでしょう。
 義理の母 善良なフランス人で、その名前に心あたりのない人間など、どこにもいないわ。そして私は善良なフランス人なんですからね。クロード・ジェルバルと言えば、この美しい我がフランスを飛行機で初めて一周した男。グライダーで大西洋を越えた男。ダカール・キャップ間をガソリンたった十九リットルで走り切った男・・・これは大変な記録よ! クロード・ジェルバルを知らない人なんて、どこにもいやしない! それに、北極と南極を制覇して、レジオン・ドノールを授勲、二十六歳で大佐の地位を得た男! この男の正体を訊くなんて、私にナポレオンは誰かって訊くようなものよ!
 ミシェル いくらクロード・ジェルバルが何者かを知っていたって、それが僕の子供の父親だと知っている人間はいやしない!
 義理の母 あなただってそれは分っていないでしょう!
 ミシェル しかし僕は、話は聞いたぞ! 今度ばかりはお義母さん、あなたも認める以外ないでしょう。
 義理の母 ええ、ええ、認めますとも。御安心なさい。マックスは確かにあの偉大な男の息子。そう、その偉大な男が二十歳の時、ヴィシーでスィモンヌを見初(そ)めた。その頃私、身体を壊してヴィシーで療養中だった。それであの子もヴィシーにいたの。相思相愛。その結果はあなた、よくご存知。スィモンヌと結婚したのはあなた。
 ミシェル 僕は妊娠数週間のスィモンヌと結婚した。それとは知らずに。
 義理の母 クロード・ジェルバルは、二十歳でもう有名人。そういう男ですからね。自分が身ごもったことをスィモンヌが知った時にはもう、二人の運命は離ればなれ。だいたいあの男は、旅立つ時に行く先を知らせる暇さえないの。そういう星に生まれたのね、二人は。
 ミシェル もし奴が、大西洋をグライダーで越えなかったら、もしダカール・キャップ間を九リットルのガソリンで・・・
 義理の母 十九です。話を大きくしないの!
 ミシェル 十九リットルのガソリンで走破しなかったら、言い訳はないでしょう!
 義理の母 二十歳の時の話を今蒸し返してあなた、何だって言うの? ミシェル。それから、もう一度言いますがね、あなたの子供の父親の話が分ったからって、どうしてあなたがそんな風になるのか、私には分りませんね。一八0五年当時の父親は、大抵誰もが、自分の妻がナポレオンの子供を生んで欲しいと望んでいた筈ですからね。
 ミシェル ナポレオンが何の関係があるんです、これと。いいですか、ジェルバルはただの女たらしです!
 義理の母 ナポレオンもそう。
 ミシェル ジェルバル・・・ただの機械工です。何だっていうんだ!
 義理の母 二十歳でジェルバルは太陽のように光り輝いていたんです。若い女性を誘惑することにかけては、悪魔そこのけ。誰もその誘惑には負けたんです。それに、機械工だなんて! 何てことを言うんです。ジェルバルは機械工などに何の関係もありません! そのジェルバルにマックスは瓜二つなんですからね。あなたは運がいいの。素晴しい息子を持って。ホッケーの名手。二十歳と六箇月で飛行機学校を一番で卒業。それに何ていう競馬馬の知識! それを利用して・・・競馬で儲けた金を母親と祖母にプレゼント。十分間あの子を見た女の子はみんな百日咳にかかる。そんな息子を持ってあなた・・・
 ミシェル 何です、一体。それがどうしたって言うんです。
 義理の母 だから、そんな素敵な息子を持って、何が不満なのかと訊いているの! あなたの友達で、あなたが自分の息子の話を十五分でもしてみせて、それであなたを羨ましいと思わない人がいたら、私はお目にかかりたいわね! あなたみたいな大騒ぎをする人間、いる訳がないわ!
 ミシェル だけどあいつは、僕の息子じゃないんだ!
 義理の母 ハッ! あなたって、貴族じゃないわね。
 ミシェル 貴族?
 義理の母 そう。貴族じゃないの。
(スィモンヌ登場。)
 義理の母 貴族どころか、平民でも最低の部類(ぶるい)。
 スィモンヌ どうしたの?
 義理の母 二人だけで話をつけるのね。私はゲーリー・クーパーを見に行きます!
 ミシェル みんな分ってしまったということさ! マックスは探検家ジェルバルの息子で、君はこの二十年間、あいつの情婦だったんだ!
 スィモンヌ あなた、気が狂ったの?
 義理の母 そう、これなのよ。これしか頭にないの。他のことには全く気が行かない!
(義理の母、退場。)
 ミシェル この通りなのか。
 スィモンヌ 私の質問が先。「あなた、気が狂ったの?」
 ミシェル そうだ。気が狂ってるんだ! 僕はな、この家では、よそ者なんだ。どこかから拾って来た犬みたいなもんだ。この家では、何もかも、お前と、お前の母親と、マックスで過ぎて行く。こっちはつんぼ桟敷だ。時々は漏れ聞えて来ることもある。お前に情夫がいるとか、マックスが競馬で稼いだ金でお前達二人がプレゼントに与(あづか)るだとか、マックスがジェルバルの息子だとか。マックスはこのことをとっくの昔に知っているんだな? 答えろ。知っているんだな?
 スィモンヌ 知らないわ。
 ミシェル 知らない?
 スィモンヌ 知らない。
 ミシェル それから、お前だ。二十年間、この僕の傍で暮していて、お前に情夫がいたなどと、僕にお前、言ったことがないじゃないか。
 スィモンヌ 聞かれませんでしたから、そんなこと。
 ミシェル この二十年間、ずっとお前はジェルバルと・・・
 スィモンヌ この二十年間、一度もジェルバルとは会っていませんわ。ジェルバルとは、あれから二度と会ったことはないの。あの人、私があの人の子供を生んだことだって知らないわ。
 ミシェル なるほど。すると別の男なんだな、その後は。
 スィモンヌ それはそうでしょう。
 ミシェル この十五年間だな?
 スィモンヌ そう、よく知ってるじゃない。
 ミシェル 偉いもんだ!
 スィモンヌ それでミシェル、あなたに何かそれが関係あるって言うの?
 ミシェル 大ありだ。今から二分間のうちに、爆弾が破裂して、この家が吹っ飛んで、それと同時に僕らも一緒に吹っ飛ぶんだ。
 スィモンヌ じゃ、逃げましょう! あなた、吹っ飛びたいなら、残っていて。お好きなように。
 ミシェル いや、君は残るんだ! 君もお義母さんも今日は、僕が何か言おうとすると、すぐ逃げたがる。
 スィモンヌ じゃ、言いなさい。でも、その言い方! 何とかならないの?
 ミシェル マックスか僕か、どちらかがこの家を出る! 今晩にも、だ!
 スィモンヌ 分ったわ。決ったら教えて。
 ミシェル お前、僕の言ってることが分ったのか?(スィモンヌの腕を掴む。)
 スィモンヌ 痛いわね! 放して! 私に恋人がいるからって、喧嘩をしたいの? 変なことでしょう? それ。マックスが生れてからこっち、あなたと私、親密な関係は何もなかったのよ!
 あの子が生れてから五年間、私はあなたの部屋の扉が夜に開くのを待ったわ。五年間私は、私にもあの子にも全く無関心な男の人の傍で、あの子を育てた。その男の人というのは、あなた・・・私の夫・・・ガラスの塊(かたまり)・・・背広とチョッキとズボン・・・食事と食事の間にこの家を歩き回る人。あの子が生れた日から、私の夫は、唖(おし)、盲(めくら)、ツンボ、になった。五年待ったら、目もあり、耳もあり、話が出来る人が私の目の前に現れた。いい? 耳があって、話が出来る人よ! それかずっと、その人は私の恋人。あれから十五年経ったの! そうしたら、今日になって、私の「唖(おし)さん」は、急に話が出来るようになった。それも、悪魔に取り憑かれたように。おまけに腕も使えるようになって、私の手を取って捻り上げる。馬鹿な時に「偉いもんだ」なんて言って、余裕のあるところを見せようとする!
 ミシェル スィモンヌ、黙るんだ!
 スィモンヌ そして私に「スィモンヌ、黙るんだ!」って言えるようになったの。いたづらをした子供に言うようにね。いいえ、私は黙りません。二十年間も黙っていたんですからね。こんなの、実際聞いたこともない話よ。ですから私には言うことがある。ちゃんとここに(胸を叩いて。)あるの! 二十年も黙っていれば当然でしょう? 二つ三つ考えたことがあったって。あなたは喋っていた時もあった、私にね。結婚した最初の頃。喋り過ぎるくらい。それも、いつだって同じ話。あなたの家族のこと。私との結婚を認めなかったあなたの家族の。ジュピターの腿(もも)の肉から出て来たって信じているあなたの家系の。あなたの父親、叔父、叔母、従姉妹、義理の兄弟、義理の姉妹。全員、名前を短く呼ぶ馬鹿な愛称のある、凡庸な、下らない、成上がりの一家。あなたはそれを、徹底的に非難した。「あいつらの馬鹿な考え、あいつらの馬鹿な行動」って。でもいい? あなたはその「あいつら」そのものなのよ、ミシェル! あなたは「あいつら」の息子、「あいつら」の甥、「あいつら」のいとこ。「あいつら」の血があなたの身体に流れている。凡庸な中産階級・・・これ、あなたの上手な言い方・・・その血が流れているの。あなた、よく言っていたわね「人は自分の家系からは逃れられない、なんていう馬鹿がいる」って。馬鹿じゃないの、そう言っている人は。あなた自身よ、そのことを身をもって証明しているのが。「家系から逃れられない」、これは正しいの。人は父親から逃げられない。叔父からも、叔母からも。父親の鼻、母親の目、髪を右に分けるか左に分けるか、それはいとこの分け方。オクタビ叔母さんの0脚(おーきゃく)の足、セレスタン叔父さんの糸切り歯、みんな受継いでいる。それから、自分の女房に情夫がいると怒る、名誉を毀損されたと思う・・・これは世界中のあらゆる男から受継いでいる! 威丈高(いたけだか)になって怒鳴るの「俺の女房だぞ! 女房が俺を騙した! 女房には情夫がいる!」
 ミシェル お前にはいるのか、情夫が。
 スィモンヌ 情夫って何? 一体。だいたい私はこの二十年間、あなたの妻だったの? 名前が知りたいのなら、私は今、ジャンという男の妻。でも一緒に住んでいる男の名前はミシェル。何故なら、私にはマックスという名の息子がいるから!
 ミシェル アデッルという名の母親ともな!
 スィモンヌ そう、アデッルという名の母親とも住んでいる・・・私の知る限りでは、あなたは私を愛してはいない。じゃあこうなっても、何の違いがあるっていうの? あなたの私生活を非難したことは、私、一度もない。イザベルも、イザベルとの間に出来た子のことも、一度だって話題にしたことはないの。イザベルには限らない。セスィッルも、ギャピィも、ポーラも、レイモンドも、一番最近のジネットだって話題にしたことはないわ。
 ミシェル どうやって知ったんだ。
 スィモンヌ とにかく分ってるの。だから、侮辱された夫の真似をしたって、それは駄目。
 ミシェル 僕のことなんかどうだっていいんだ、お前のことだ! そんな言い抜けなど意味はない。問題はマックスだ!
 スィモンヌ マックス? あの子、私を尊敬してくれているわ。それに、あなたが本当の父親じゃないってこと、未だに知らないわ、あの子は。
 ミシェル しかし、僕のことを虚仮(こけ)にしているぞ! あいつは。
 スィモンヌ あなた、あの子のことは全く興味がないんでしょう?
 ミシェル あいつにはちゃんとした教育をしてやろうと思っているんだ。
 スィモンヌ あなたは、昔受けた馬鹿な教育をそのままあの子に植えつけようとしている。それも、朝から晩まで。その教育っていうのを、あなた自身はまるで実行に移したことがない癖に。
 ミシェル マックスは僕の名前を受け継いでいるんだ。だからあいつには、曲芸師なんかになって欲しくないんだ。
 スィモンヌ 何になって欲しくないって?
 ミシェル あいつは、今や、具にもつかないサーカスの曲芸師だ。先月は三つも軽犯罪を犯した。真夜中に騒ぎを起して、一晩中留置所に入れられた。三箇月前には泥酔状態で、コメディー・フランセーズに行って、「あの司祭の奴め、髭を剃ってやる!」と怒鳴ったんだ。アタリの上演中だったんだぞ! この話を君は忘れたのか? 翌日新聞はみんな、あいつの名前を書き立てて、お陰で三箇月の実刑判決を食らったんだ。(バシュランの文化庁へのとりなしもなくな。)
 スィモンヌ でもその午後、ボクシングの試合。それに勝って、あの子は一躍花形。翌日の新聞はみんなそれを書きたてて、コメディー・フランセーズでの冗談は却ってあの子の人気を高める材料になった。あなた、このことを忘れてるわ。
 ミシェル マックスは会計検査員議長の娘を誘惑して、そのフィアンセにぶん殴られた。まあ当然の報(むく)いだがね。私は仮にも彼の制度上の父親だ! あいつには少し心配な材料がある。だから私がそれを矯正しようという努力をする時ぐらい、君も君の母親も、私に任せておくのが当然の態度だと思うがね。
 スィモンヌ マックスは若いの。マックスは生きる喜びに溢れている。二十歳の、あの子と同年代のどの子供とも同じように、武者震いしている。それも無理はないの。だってあの子は、その誰よりも勇敢で、本能的で、やる気満々なんですから。マックスは太陽よ!
 ミシェル 父親そっくり、と言うんだな。
 スィモンヌ ええ、そっくり! あの子の父親は単純な夢想家じゃないの。詩人。そしてそれを、実行に移す男だったの。
 ミシェル そうだ、よく実行に移す男だった。温泉街のヴィシーで、母親達が温泉の水を飲んでいる隙(すき)に、その娘達を押し倒しては実行に移した・・・
 スィモンヌ そんな下品な話にいちいちつき合ってはいられないの、私は。とにかくマックスは父親に似ているの! いいですか、私とマックスにあなたが辛くあたるのは何故か。マックスの父親が分ってから、あなたが何故急に荒れだしたのか、教えて上げましょうか。それはね、あの子の父親、或はあの子の前に出ると、あなたは恥を感じるからよ。
 ミシェル マックスの前に出ると僕が恥を感じる?
 スィモンヌ そう。恥を感じるの! そして怖くなるの! 結婚した当座、あなたは私に話をしたわ。その時何て言った? あなたは探検家になりたかった。強烈な、感動的な人生を送りたかった。そう言ったわね! あなたは自分のこせこせした小さな社会から一歩も外へ出たことはなかった。焼けつくような、或は、凍りつくような、大地を踏んで、初めて男だ。そう言っていた。でも自分はエアコンの効いた部屋の一角(いっかく)から、安逸な自分の部屋から、出ることはなかった。自分の夢を実現することはなかったの! そうしたら、今、自分の目の前にお手本が現れた。マックスは夢なんか見ない。マックスは生きている。マックスは本能で動く。それであなたは、厳格な父親の態度をとってみせる。あの子を保護し、正常な発育をと願う。本当は違う。あなたはあの子を窒息させ、縮小させ、自分の大きさに、自分に似た者に、作り上げたいだけ。あなたはやっかんでるのよ、ミシェル! マックスはあなたの若い頃の夢、あなたが持ちたかった青春そのもの。これが種明かし。これが何故あなたがマックスに「あなたの父親があなたに話したような」話をするのか、これが何故あなたのマックスを「あなたの父親があなたを苛々させたように」苛々させるのか、その理由なの! あなたは自分の昔の夢と今の自分との間の勘定の清算がすんでいないの。それでマックスをだしに清算しようとしている。あなたはマックスがあなたの夢を実現しているの見ていられないのよ! マックスは強いの。そしてあなたは弱いの!
 ミシェル ほう、僕は弱いのか!
 スィモンヌ 「弱い」なんかですまされないわ。「弱さ」そのものよ!
 ミシェル よし分った。マックスか、僕か、どちらがより正当なことを言うか試してみよう。今日にもマックスには、あいつが僕の子供でないことを知らせる。今日にもマックスには僕の人生がどういうもので、僕がその人生から何を受け入れて来たかを話して聞かせる。マックスがそれで、君が今やったように僕を非難するかどうか試してみようじゃないか。それから、僕はマックスの正常な発育を願って色々と言ってきた。それをマックスが理解しているかどうか。もう一つ。僕は、僕の父親が僕に話しているようには(君はこういう表現が好きだからこの表現を使うが)、マックスには話していない。一人の男として、友達としてマックスには話しかけている。このことをあいつが理解しているか。それを見てみよう。もし僕が間違っていて、もし僕の人生が単純な失敗、或はもし僕が余計者だったとしたら、僕はもう君達のところには一分も留まりはしない。しかし、もしそうじゃないなら、ここから去るのはあいつだ。僕は、僕を軽蔑する人間と一緒に暮すなどまっぴらご免だ。見ていろ! この僕がどういう男か、目にもの見せてくれん! 洟垂(はなた)れ小僧めが! 僕は父親なんだぞ。少しは敬意を払うもんだ!
 スィモンヌ あらあら、さっきの言葉と違うのね!
 ミシェル 糞っ! 父親じゃないならなおさらだ!
 スィモンヌ マックスが来たわ。どうぞ御勝手に主導権争いを。私の用はすんだわ。
(スィモンヌ退場。)
(マックス登場。)
 マックス ああ、お父さん、今一人?
 ミシェル お前を待っていたんだ。話すことがある。
 マックス 長いの?
 ミシェル 二つ三つ、大事なことがある。急いでいるのか?
 マックス 荷造りをしているんだ。今夜発つから。
 ミシェル どこへ行く。
 マックス モロッコに三週間。でも、今は時間ある。話は聞くよ。僕はお父さんの忠実な息子だ。
 ミシェル お前は私に、何が不満なんだ、マックス。
 マックス 不満? 僕が?
 ミシェル そうだ。今お前の母親とかなり酷い言い合いをやった。私はお前と直接話がしたい。何が不満なんだ。
 マックス 不満なんて何もないよ。可哀想に。僕に何の不満があるっていうの。
 ミシェル 私のしつけが厳し過ぎると思っているんだろう。
 マックス とんでもない。
 ミシェル お前を分ってやらない。友達でいてやらない。父親としてお高くとまっているだけだと。
 マックス お母さん? そう言ったの。
 ミシェル お母さんは関係ない。お前自身がどう思っているかだ、問題は。
 マックス 可哀想に、パパ。僕はどうも思ってないんだよ。僕はパパを非難なんかしていない。誰かを非難するためには、その誰かと同じ言葉を使っていなきゃね。パパはパパの思う通りに思っているし、物を見る時にも、僕の角度からは見ないし。
 ミシェル そら、そこだ。どうして私の角度は違うんだ、お前のと。
 マックス 僕には分らないや。どう答えたらいい? そんな質問に。誰もが同じ角度で物を見る必要はないんだからね。パパにはパパの人生があり、考えがある。職業だってパパは僕より二十五年も昔についている。だから二人の間でいろんな違いが出て来るのは当り前じゃないか。どうしてパパは僕ら二人が似ていなきゃならないと思ってるんだ? パパはパパ、僕は僕、それでいいじゃないか。今パパは僕に「お前は私に何が不満なんだ」と訊いたけど、何故そんなことを訊くんだ。僕は不満なんかない。パパを認めているんだ。パパの方だろう? 今の僕のことを非難するのは。僕にはそれが分らないんだ。何故なの?
 ミシェル 私は非難などしてはいない。お前に言い聞かせているだけだ。用心しろってな。
 マックス 何故。
 ミシェル それは、私がお前を愛しているから。お前が私の息子だからだ。
 マックス 可哀想に、パパ。またそれを・・・
 ミシェル おい、マックス、その「可哀想に」とはどういうことなんだ。
 マックス どうしてかって? それは僕がパパを愛しているからだよ。そして愛しているからこそ、パパにあれをしろ、これをしろ、ああやる努力を、こうする努力を、と言いたくないんだよ。
 ミシェル それは何故なんだ?
 マックス 何故って? 何が何故?
 ミシェル 何故お前、私に忠告をしない。
 マックス 忠告? 何の?
 ミシェル 私のしていることに、だ、例えば。私は広告の仕事をしている。お前、アイディアが出せるだろう。
 マックス だって、僕のやっているのは飛行機だよ。広告と飛行機は似ていないからね。
 ミシェル そんなことはない。広告のキャンペーンと飛行機がやる急襲、これは似ている。お前、そう思ったことはないか? 想像力と冒険心が両方同時に関(かかは)ってくるただ一つの職業、それが広告なんだ。勝負なんだ、広告は。大衆、見知らぬ人間を対象にした一種の探険であるとも言える。広告は常に無知から出発する。手探りで計画を練り既知の部分の損得勘定をやり、ある日それを一挙に公開する。それが成功したり、失敗したり。丁度、たった一人で出発する探検家と同じだ。処女地を切り拓(ひら)く開拓者だ!
 マックス そう言いたければ、そういうことも・・・
 ミシェル そう言いたいんだ、私は! それなんだ、それが私の人生、それが私の仕事なんだ!
 マックス ええ、分ってます・・・それで、僕がその・・・いや、駄目だ。広告について僕が何か口出しなんか・・・駄目ですよ。パパは充分一人でやっていけるんだ。大衆、見知らぬ人間の計算をちゃんとやる・・・僕なしでやるんだよ、パパは。その方がやり易い筈だ。僕はその気にならない!
 ミシェル 仕事として、格が下だというのか。
 マックス 格なんかの問題じゃないよ。僕に合わない。僕には探険そのものが合ってる。僕の仕事は広告にはない。餅は餅屋だ!
 ミシェル 私の仕事だって、軽蔑されるようなものじゃないぞ!
 マックス 別に僕は軽蔑されるようなものだなんて言ってやしないよ。僕はただ、僕に合わないと言ってるだけだ。僕は広告用には人間が出来てないんだ!
 ミシェル お前には危険が必要なんだな? 飛行機でサハラを越えなきゃ、砂漠の真中で不時着して、五日間砂の上を這い回ってベドウィンを捜さなきゃ、気がすまないんだ!
 マックス 確かにそれは職業上の危険だ。でも、何かそこにだって魅力はあるだろう? 国家は勇敢な若者を必要としている。パパだって二十歳の頃は、世界を渡り歩いてみたかったんだろう?
 ミシェル 二十歳の時・・・私がな、二十歳の時には、もう落着いていた!
 マックス だから、僕がパパに何か言うなんて間違っているに決ってるんだ。僕らは出発点から違ってるんだ。パパは三十歳の時にはもう落着いていた。広告の仕事をやろうと思って、冒険なんか頭になかった。危険なことなんて嫌いだったんだ。僕は違う。僕は二十歳で、もう飛び込んでしまったんだ。僕は「あれをやってみたい、これをやってみたい」とさえ思ったことがない。自分がすべきこと、すべきでないことに疑問を持ったこともない。すべきことは自分で見つけた。選ぶことさえしなかった。僕はマックス・ドゥヌワイエだ。リンドバーグがリンドバーグであったように、ジェルバルがジェルバルであったように。ジャンヌ・ダルクが・・・
 ミシェル それでお前は、この私が広告なんかやっているから、馬鹿にしているんだな! 皮肉と憐れみでこの私、ミシェル・ドゥヌワイエを見ているんだな! ミシェル・ドゥヌワイエは、今ある通りのこのドゥヌワイエ。どうしようもない奴、可哀想な奴、哀れな奴! そんな奴と議論したって始まらない。・・・まあ、たいした奴さ。・・・一緒に住んでやるのは構わないが、興味をもってやるにはあまりにも腹がない。勇気がない。冒険心がない。・・・もういい、もうひと言も言うな。マックス! 出て行け!
 マックス でも、パパ・・・
 ミシェル 出て行け! 頼む、出て行ってくれ!・・・この、糞野郎!
(マックス、退場。)
(ベルナール、十九歳。右手に登場。)
 ベルナール パパ。
 ミシェル あれ? お前、どこから出て来た。
 ベルナール 僕、パパに早く会いたくて・・・
 ミシェル どうしたんだ。
 ベルナール 落っこちたんです。
 ミシェル 口頭試問か? 駄目だったのは。
 ベルナール はい。
 ミシェル そうか。じゃこれで終だな。お前はもう十九歳と半年だ。バカロレアは諦めるしか手はない。やったって無駄だ。(訳註 バカロレアは、大学入学資格証。)
 ベルナール ・・・
 ミシェル それで、何か言うことがあるのか。
 ベルナール 言うことって・・・僕は一生懸命やったんです。でも・・・
 ミシェル でも、何だ。
 ベルナール やはりやり方が足りなかったとしか・・・
 ミシェル 問題は難しかったのか。
 ベルナール それほどではなかったんです。
 ミシェル じゃ、どうしたんだ。
 ベルナール つまりその・・・口頭試問では、僕は上がってしまって・・・みんな忘れるんです。おまけに今日は、今までのうちの最低で・・・霧です。霧がかかって、何も見えなくなって・・・何もかもごちゃまぜ。分らないんです。何故だか。でも僕はいつでもこうで・・・これでもちゃんと年代は覚えてるんです。アンキアール・スケリッスィ条約は一八八七年、カンポ・フォルミオ条約が一七九六年。・・・それに、幾何の定理のこれだって・・・「円外の一点からその円に引いた接線の二乗は、その点からその円に二つの交点が出来るように引いた時の二本の割線の長さの積に等しい。」僕はこれを知っているんだ! 今朝だって分っていたし、今日の午後だって。だけど試験になると駄目。空っぽ!
 ミシェル 疲れていたのか? 試験の時。
 ベルナール 上の空だったんです。さっき言ったけど、霧がかかって。夜、卵を食べた時のように。
 ミシェル お前、夕べ卵を食べたのか。
 ベルナール 夕べ?・・・ええ・・・ええ、食べました。
 ミシェル 食べただと?
 ベルナール 夕べ、皿の上に卵があったんです。僕は気にもとめずに・・
 ミシェル お前、それが肝臓に来たんだ。可哀想に、ベルナール。
 ベルナール 肝臓に来たか、どこに来たか知りませんが、とにかく僕は落っこちたんです。
 ミシェル 分る、分る。お前の肝臓は私のやつだ。私の疾患をそのまま受け継いでいる。元気溌溂(はつらつ)、自分に自信があって、矢でも鉄砲でも持って来い、という気持になっている。ところが卵を食う。或は何かちょっとした障害物に出逢う。するとバタッと来る。もう何もしたくない。頭は空っぽ。そのちょっと前の気分はすっかりどこかへ飛んでしまっている。親父はそれが胃だった。肝臓はオーギュスト叔父・・・家族の中で私に一番よく似ている人だ。お前は私と叔父によく似ている。陽気と無気力、それから、活力と落胆が交互に来るんだ。お前を見てよく分っていた。お前は叔父と私の血だ。お前は私の子、そしてオーギュスト叔父の甥の子だ。
 ベルナール それは嬉しいです。
 ミシェル 肝臓でなければ心臓、心臓でなければリウマチだ。これがうちの家系の血だ。思いもかけない時に、突然ガクッと来る。肩甲骨に鋭い痛み、でなければ足に、或は腰に。何が起きたんだ? 考えると思い当る。ああ、親父だ、祖父だ、或は叔父だ。笑ったものだ、こっちが若い時、連中が座骨神経痛、或はリウマチ性の腰痛で、椅子から立上がれなくて、手を尻にあてて唸りながらびっこをひいていた時・・・
 ベルナール パパ、その年でリウマチ?
 ミシェル これは年には関係ない。腰が急に、短刀で刺されたように痛む、と私が言う時があるのを、お前もよく知っているだろう。それは消化不良の時か、何かで苛々した時にやって来る。肝臓の障害が原因だ。オーギュスト叔父さんの血だ! お前も今朝、短刀にやられたんだ。そうだろう?
 ベルナール ええ、まあそうです。
 ミシェル よし! この話はここまでだ。可哀想にベルナール。それでお前、何をするつもりだ?
 ベルナール 僕には分りません。僕は・・・
 ミシェル 分らないじゃ駄目なんだ。「これがやりたい、あれがやりたい」と言うのも駄目だ。お前がどういう人間であるかを感じとって、そして行動に移すんだ。おまえ、何に惹かれる?
 ベルナール エー・・・
 ミシェル 何だ? 何に惹かれる。
 ベルナール 何かを発見してみたいんです。遠くにある何か・・・例えば、植民地か、どこかで。ただ・・・
 ミシェル 「ただ」どうした。植民地、いいじゃないか!
 ベルナール ええ・・・でも、植民地に行って何をするかとなると・・・
 ミシェル お前、行く意志があるのか? ないのか。どっちなんだ。
 ベルナール 行ってはみたいんです。でも、とにかく、行って良いことも、悪いこともあって・・・
 ミシェル 可哀想に、ベルナール! お前のは単なる夢だ。優柔不断だな、結局。
 ベルナール 可哀想に、ベルナール・・・どうしてです、僕のことをこんな風に・・・
 ミシェル 何故ならな、お前は自分のやりたいことが分っていないからだ! もうお前の年になれば、自分が冒険のための人間かどうかは分っている筈だからだ。冒険、探険、その他不測の事態に立ち向かうように出来ている人間か、或は生涯事務所で働くように出来ている人間か、お前のその年なら感じている筈なんだ。自分の人生を決める年なんだ、その今のお前の年が!
 ベルナール 言うのは簡単ですよ。「選べ」だなんて。実際に選んでいる人間をパパは知っているんですか? パパはいつでも言ってるでしょう? うちの家系では、だいたい父親の職業をそのまま自分の職業にしているって。公証人が父親なら自分も公証人、代理人なら代理人、弁護士なら弁護士、行政官なら行政官。二十歳でもう、自分から公証人、代理人、弁護士、行政官、になりたいって思う人間が、パパはいると思っているんですか? 誰も選んだりしちゃいないんだ。パパだって、ママがよく言ってたけど、二十歳の時には、僕と同じように植民地行きが希望だったんだ。探検家になりたかったんだ。だけど、今は違う。広告だ。事務所で暮してるんだ。
 ミシェル 私は、自分が広告をやっていて、恥づかしくはないぞ!
 ベルナール 分ってます、それは。でもとにかく、パパは二十歳の時、探検家になりたかった・・・
 ミシェル それがどうしたんだ。
 ベルナール だから・・・何でもないです。もし僕がパパに似てるのなら、僕も多分、探険には行かないんでしょう。・・・理由なんかないよ! でも、自分が誰に似ているかを知っていなかったら、もっと勇気があったかもしれない。
 ミシェル お前は、この私が父親で、恥づかしいんだな? この私を恥と思っているんだな!
 ベルナール 僕、恥と思ってなんかいないよ。
 ミシェル つまりお前に何かを期待する理由が私にはないと言いたいんだな? この私がお前に「最初から諦めろ」と言っている。そう言いたいのか! 出て行け! すぐ出て行くんだ! もうひと言も許さん。分ったな。出て行け!
(ミシェル、ベルナールを部屋から押し出す。)
(ミシェル、電話に走りより、ダイヤルを回す。)
 ミシェル もしもし、ジネット? 僕だよ、僕・・・えっ? 何もないよ。・・・いや、あると言った方がいいか。・・・うん、そう。もう他はどうでもいいんだ。聞える? 君だけだ。・・・僕を愛してくれているのは君だけ。僕が愛しているのは君だけ。除(の)け者にされている僕らのこのささやかな愛を、そのまま除け者にしておきたくなくなったんだ、僕は。この愛だけで、僕は生きて行きたくなったんだ。旅に出よう! ジネット。二人で。君と僕。・・・どこへだって? 僕にもまだ分らない。でも、今夜にも二人で発つんだ。用意をして。僕は待ってる。・・・そうだよ。ここ、僕の家でだ。・・・そうだよ! 電話で話せっこないだろう? 用意ったって、一つしかない。トランクだ。大きい、大きいトランク一個。長旅なんだからね。・・・そう。・・・そう。一時間後。十五分後、とにかく君が用意できたらすぐだ。・・・タクシーに飛び乗って、すぐここに・・・タクシーにトランクは置いて、家に入る。いいね? 僕はここで待っている。・・・一人だよ、僕は。・・・女房? 関係ない、関係ない、あんなの。・・・すぐだよ。愛してるよ、ジネット。これで晴れて僕らは自由だ! 二人だけだ! 早く来て!
(この時までにイザベル、奥から登場。電話の会話を聞いている。)
 イザベル あなた、ここを発って、帰らないつもり?
 ミシェル あ、それを最初に知る権利が君にはあるというものだ。
 イザベル 妻が浮気をしていることを見つける最後の人が夫。夫がその浮気相手に捨てられるのを最初に知るのがその妻ってこと。
 ミシェル イザベル、僕は本当に発たなきゃならない。ここでの生活はもう僕には堪え難い。僕はまだ若い。これで人生を終には出来ないんだ。
 イザベル あの子を愛しているの? あなた。
 ミシェル うん。
 イザベル その子と新しい人生を始めて、その新しい人生を続けて行ける自信があるの? 本当に。
 ミシェル 何故そんなことを訊く。
 イザベル だって、あなたは私を愛したの、ミシェル。それから、私以外の女の人達もね。そして、いつの間にかあなたに捨てられている。あなたは自分を救ってくれる新しい力が欲しくなると、いつでもそれを愛に求めるの。そしてその度に、その新しい力に裏切られて、女を捨てるの。自分の背信のくせに、女の涙など見向きもせずに。
 ミシェル 黙れ、イザベル。確かに僕は君を幸せに出来なかった。君は君の人生を僕に与えてくれ、僕の方は自分の人生を自分のために使った。貸し借りなしの取引という訳には行かなかった。君が僕と出逢ったことを、ある時から君が後悔するようになったのを、僕は知っている。
 イザベル あなたを信じたことを後悔しているわ、私は。女の運命として特別変ったものではないけれど、これは。
 ミシェル 君に分って貰いたいんだ、僕は・・・
 イザベル ちゃーんと分っているわ、あなたのことは。あなたって、愛したことなど一度もないの、ミシェル。これから先だって、愛す、なんて、ある筈がないわ。
 ミシェル 僕は君を愛したよ、イザベル。人生そのもののように君を愛したんだ、僕は。
 イザベル あなたの人生そのもののように愛したのね。その「あなたの人生そのもの」だって、あなた、愛してやしない。本当に掴んではいないの。私のことだって、ちょっと夢みて、そして触った程度。私にはその「ちょっと触った程度」で充分だったけど。あなたがちょっと触って、そして過ぎ去って行く過程で、私、目覚めたの。あなたにとっては、その「ちょっと触った」ことがもう、愛の終。本当はそこからが始まりなの。私に執着して、私との絆(きづな)を強めることが残っているの。あなたはその仕事を中途までしかやっていないの。職業でもあなた、同じだったでしょう? 愛も中途、幸せも中途、人生も中途、私との関係も中途で終にしようっていうの、あなたは。
 ミシェル 黙るんだ、イザベル。
 イザベル 今日あなた、出て行くのね。あなたのその新しい女の子、今のことを分って、あなたをもう捨てるんじゃないかしら。大丈夫?
 ミシェル 僕のことをあれこれ思う権利は、もう君にはないんだ、イザベル。僕の人生は、すべて僕の弱さとの戦いなんだ。自分が最高の気分になっている時に、それに水をさす権利は君にはないぞ! 
 イザベル 水をさしたりはしないわ。ご安心なさい。今言ったこと、私があなたの傍でいつも呟いていた言葉。今はちゃんと口に出して言ったけど、今までで一番愛情が籠(こも)っていたわ。
(イザベル、出て行こうとする。)
 ミシェル イザベル! イザベル、お願いだ。もう少しいてくれ! 僕のことを分ってくれ。僕は全てを失った男だ。僕は生涯で二人の子供を持った。僕らが最初に会った時の、僕が話した計画は覚えているね? 僕の子供じゃない、僕の正式の息子には、現在流布している理想の教育すべてを叩き込むつもりだ。そして、僕の本当の子、君との子供には、僕は自分が夢みて叶えられなかったすべてを実現させるつもりだ、と言ったね? それでどうだ、マックスは僕の目の前で、ちゃんとやっている。あいつは生き生きとした幹だ。花だ。あいつは本能的に、与えられた教育の中で、偽物を見抜いてしまう。そしてそれを拒絶するんだ。あいつは二十歳という年に相応しい幸せと、喜びと、心の平静を見つけている。そのマックスはジェルバルの子だ! あいつの血管には本物の男の血が流れている! ベルナールはどうだ。僕らの子、ベルナールは! 僕はあいつには、習慣や規則の埒外(らちがい)で育てようとした。熱意と勇気を持たせようとした。あいつの才能が開花してゆくままに、自由に生きさせようとした。それが全く何の役にも立たなかった。ベルナールはあの年になっても、二十歳に相応しい太陽を見ていない。はち切れる意志の力がない。そのベルナールは僕の実の子なんだ、イザベル! 僕はあの時、間違っていた。僕は自分に、僕がベルナールに与えたような教育をしていてくれさえしたら、と思っていたんだ。僕の弱さは、僕が受けた教育に由来すると、あの時は思っていた・・・僕は間違っていた! 弱さはどうしようもないものなんだ! 僕は、なるべくしてこの今の僕になったんだ。この筋肉、この神経、を与えられて、いや、知性、弱さ、物を欲する力、様々な刺激にどう反応するか、その傾向、それら全てを受け継いで、この僕になったんだ。これを与えてくれた人間を責めることは出来ないんだ! 誰に文句をつけることも出来ない! 自分の運命に抗(あらが)って叫ぶ権利などないんだ! その叫ぶこと自体が、既にその男の弱さなんだ! 強い人間は、自分の限界、自分の不幸をそのまま受入れる。その限界そのものの中に、連中は偉大さを発見するんだ!
 イザベル 落着いて、ミシェル。
 ミシェル(おさまり、少し落着いて。)ベルナールは僕に酷いことを言った。「自分が誰に似ているかを知っていなかったら、もっと勇気があったかもしれない」・・・親が誰か、全く知らないように巣箱の外で子供が育って行けば・・・そうすれば勿論、その子供は、(親のことをよく知っている)その家族の公証人など誰も知らない。・・・そういう子供がいいと思ったことがあった。そう思っていたのを忘れていたよ、イザベル。・・・こんな欠点を親から受け継いだと言っては子供は親を恨み、親は子供が、自分の持っている良い性質を受け継いでいるという理由で子供が好きになるんだ。
 イザベル それ、酷いんじゃない? ミシェル。親に気に入るようなことを子供がしなくても、やはり親はその子が可愛いんでしょう?
 ミシェル いや、自分の弱さを子供に見るのは好きじゃないんだ。
 イザベル ベルナールはあなたが恥と思うようなものは何も持ってないわ。
 ミシェル 僕を慰めてくれるようなものも、何もね。
 イザベル やり直しはきかないの、ミシェル。受入れなくちゃ。
 ミシェル 二十年前、僕は受入れた・・・生きるためにね。
 イザベル じゃ、これでお別れね、ミシェル。私、行くわ。今あなた、幸福を信じられるのね? それならどうぞ。お幸せに。
(イザベル、ゆっくりと退場。)
 ミシェル(一人になって。)僕が愛していなかったなんて、そんなことは言わせないぞ! 神様なんか僕は信じない。しかし僕は、愛は信じるんだ。全ての人の心の中にある愛は! たとえそれは神様が手づから人間の中に入れたものであったとしても。愛のあの乾き、愛する時のあの心の高揚、愛のために全てを抛(なげう)とうというあの気持、愛の出逢いの、あの全てを許す気持、両手を拡げて受入れるあの気持、そして、毎日際限もなく人が空中に撒き散らす愛の誓いの言葉・・・それら全てを、僕は信じているんだ!
 ジネット、ジネット、可愛い人! 僕が人を愛せないなんて、そんなことがあるものか! その全く逆だ。僕は愛すことしか出来ないんだ。ああ、ジネット、僕は君をこの両手で抱きしめる。熱く! 熱く! 僕は待っているぞ、ジネット!
(この時までにミシェル、大きな動作をしているが、急に立止まり、苦痛の声を上げ、片手を腰にあて、もう片方の手は、迫って来る見えない亡霊を遮る。そしてゆっくりソファに後ずさりする。溜息をつき、酔いが醒めたように言う。)
 ミシェル オーギュスト叔父さん!
(その時、ジネットとマックス、それぞれ別の方向から登場。マックス、片手にトランクを持っている。)
 マックス 凄い! 美人だ! 荷造りをして、旅に出ようとして、部屋を出たとたん、第一歩がこれだ! なんて美人! 君、誰?
 ジネット 私、ジネット。
 マックス 僕はマックス。ひょっとして、君も旅に出るところじゃない?
 ジネット ええ、トランクはタクシーに置いてあるわ。
 マックス どこに行くの?
 ジネット 分らない。
 マックス 僕ら、きっと同い年だ。
 ジネット そう思う?
 マックス 君の目にそう書いてある。
 ジネット 私、あなたの目、見えない。
 マックス どうして。
 ジネット 光ってて・・・
 マックス ジネット、君、二十歳?
 ジネット ええ、二十歳。
 マックス 君の好きな人、誰?
 ジネット 誰でも。綺麗な人なら。
 マックス 僕ら、会ってからどのくらい経つ?
 ジネット 私達、どこか別の世界で会ってるのね?
 マックス 君、そう思う?
 ジネット 私、奇跡だって、自分の目で見たら信じるわ。
 マックス 僕はモロッコに行く。君、予期できないこと、怖くない?
 ジネット 私、何が起るか分らない時は、愛だけを信じるの。
 マックス 君は、自分の思う通りに生きられる境遇?
 ジネット 私、たった今さっきから、もう、自分一人では生きられなくなった・・・
 マックス ジネット!
 ジネット マックス!
(二人、長いキス。)
(この間ずっとミシェル、二人の注意を自分の方に向けようと足掻(あが)く。また、大声で叫ぼうとしている。(但し、夢でのように、一向に声は出てこない。)二人のキスの時ミシェル、立上がって両手を拡げようとするが、これも駄目。大声でマックスとジネットの名を呼ぶが、これも聞えない。)
(マックスとジネット、やっとキスを止める。が、抱き合ったまま。)
 マックス 君、本当に荷物、あっちにあるんだね?
 ジネット ええ。
 マックス じゃ、出発だ。
 ジネット 愛してるわ、マックス。
(二人、抱き合って退場。)
(証明、急に落ちる。)
(ミシェル、二三度、「助けてくれ!」と叫ぶ。最後になってやっと声が出る。大声で「助けてくれ!」。それから、疲れ切って、倒れる。)
 ミシェル 僕は叫んだ。連中の名前を叫んだ。それなのに聞えない。僕は足掻(あが)いた。それなのに連中には見えない。ジネット、ジネット、僕は君をきっと愛しただろうに・・・どんなことがあっても。死なないために、愛した筈なのに・・・ああ、僕は一人だ・・・一人ぼっち・・・真夜中に・・・夜!・・・そうだ、夜よ、やって来い! ああ、神様、もしあなたがいるのなら、僕に夜を! 少なくとも約束して! いつかは夜が来るからと・・・
(遠くから微かな甘い声。)
 声 夜は来るぞ、ミシェル。我々みんな、夜を待っているんだ。
 ミシェル 夜が来たって、眠りが来てくれなきゃ。眠りは来ますか? 起きていようと思っても、抗(あらが)えない眠り、何の苦しみも入り込んでこない眠りはやって来ますか?
 声 完全な眠りだ。
 ミシェル 愛もないんですね?
 声 愛もない、女もない、郷愁もない、疑問もない・・・
 ミシェル 有難う、神様。
 声 お前は小さい子供の時のように眠る。お前が私を「オーギュスト叔父ちゃん」と呼んでいた頃のように。
 ミシェル オーギュスト?
 声 お前、私のことを初めて「神」と呼んでくれたな。
 ミシェル ああ、オーギュスト叔父さんだったのか。今どこ? 叔父さん。
 声 いつでもここだ。壁の中、天井の中、空気の中・・・
 ミシェル 幽霊ごっこ?
 声 幽霊ごっこも、神様ごっこもやる。私は甥のミシェルが好きだからね。呼びかけるんだ。
 ミシェル 僕は今惨(みじ)めなんだ、叔父さん。僕は男でさえないんだよ、今。
 声 眠るんだ、ミシェル。愛するんだ。苦しむんだ。幸せを信じる。時々は死ぬことも欲しなきゃな。厭なことを忘れるために、幽霊ごっこもやるんだ。神様だってやはり、人生をいろいろ考える人間がお好きだ。人生を前にして、自分の卑小さを実感する人間がね。
 ミシェル 神様はそういう人間を憐れんで下さる?
 声 神様はそういう人間を面白がるのさ。
(ミシェル、ゆったりとソファに坐る。その位置、姿勢は、第一幕の最後にミシェルが取った位置、姿勢、と同じ。)
                 (幕)

     第 三 幕
(場は、ミシェルがソファに坐っているところ。ミシェルの傍にオーギュスト叔父。肩に毛布をかけて立っている。)
 オーギュスト 寝取られた男にはいろんな種類があるんだ、ミシェル。論文風な言い方をすれば、「寝取られ男の変種は無限」だ。どんな家庭にも、何らかの種類の寝取られ男がいる。
 百日咳、おたふく風邪、猩紅熱、その他幼年時代に罹(かか)る色々な病気がある。次は青年時代に罹る性病。その次だ、年を取るにつれて男に罹る陰険な病気・・・それも、罹る前に決して予測が出来ず、また罹ってもそれに気づかない・・・こういう特殊な性質を持った病気、それがこれなんだ。
 足取りも軽く会社へと家を出る。仕事・・・午後二時・・・それから仕事。夜、元気に帰宅する。自覚症状は何もない。皮膚にニキビも出ない。湿疹さえ現れない。帰宅した時ちょっと普段より陽気だったりすることもある。たまたまだが、いつもより充実感があったり・・・ところが、この日のお昼頃、この男は既にこの病気に罹っているのだ。病気の発見までの期間は、人様々(さまざま)だ。二日で発見、一年でやっと発見。それから治療にかかる。そういう場合もあれば、死ぬまで見つからない・・・これもかなり多いが・・・場合もある。この場合は、患者は健全な死を迎えることになり、最も病原菌の害を受けなくてすんだケースとなる。病気駆除のための余計な手続きは不要、生命の維持も楽である。つまり、幸せな寝取られ男のケースだ。
 ミシェル 相変らず冗談ですね? オーギュスト叔父さん。愛による苦しみぐらい深刻で、冗談の入る隙のないものは、この世にないんじゃありませんか?
 オーギュスト そう。ない。だからこそ私は、冗談めかして話しているんだ。いいか、ミシェル。今、この瞬間、私はお前に、効き目最大の解毒剤、最高の救い、を与えてやろうと思っている。この病気の最大の特徴は、その、眉を顰(しか)めるところにある。病気の発見から数箇月も経つと、必ず眉間に皺が出来る。病原菌が非常に特殊で、怒りっぽくて、皮肉な冗談には抵抗力がないからだ。寝取られ男を直したいと思ったら、こっそり笑う、これ以上の特効薬はない。これだけは言える。
 ミシェル 言うのは簡単ですよ。
 オーギュスト お前は寝取られ男。私もそうだった。安心しろ。仲間は何百万といる。お前も町中で出逢うことがあるだろう? 「何だ? あれは。一体何て顔をしているんだ」と思う男が。そういうのは決って胃が悪い。この病気に罹っていて、消化が悪いんだ。二十歳の頃には、そいつは魅力的な男だった。二十五か三十でこの病気に罹る。四十になると酷い男に成下がってしまう。消化が悪いんだ。笑いが足りないんだ。私のことは昔から知っているな? ミシェル。お前はこの私が、幽霊の真似をしてお前を怖がらせると、不満を言っていたが、お前を面白がらせていたのはいつでも、他でもない、この私だった。お前の父親の鼻眼鏡で悪戯(いたづら)をし、トランプの手品をやって見せた。その私の正体を、お前は道化だと思っていたろう。気が狂った叔父さんとね。お前はこの私の正体が「寝取られ男」だったとは気づかなかったろう。どうだ。
 ミシェル それは・・・ええ、確かに。
 オーギュスト この病気の正体はな・・・これは、お前が私の血を引き、その血管にリウマチの気(け)があれば、信じてくれると思うが・・・本物の寝取られ男、それは、我から進んでなりたい奴がなるんだ。
 ミシェル やれやれ、何て法則!
 オーギュスト 逆説だ、確かに。しかし、実に、現実にあっている。
 ミシェル 僕の場合、女を取って行ったのは、僕の息子なんですよ!
 オーギュスト いや、無様(ぶざま)な話だ。不愉快極まりない。夢では起きる。夢だ。理由を拵えなくちゃな。ただこの場合、実にいい奴がある。簡単だ。「息子は父親より年が若い」。これだな。
 ミシェル 腹を立てている相手は息子じゃないんです。あの浮気女、ジネットにです。女ってみんなズベ公だ!
 オーギュスト そう、女っていうのは皆、浮気に出来ている。それが女の定義でもある。一旦この定義を認めてしまえば、女というのは可愛いものだ。
 ミシェル 叔父さんは昔から放蕩者で通っていましたからね。
 オーギュスト うん、家ではそういうことになっていた。しかし、放蕩者と寝取られ男とは酷く違う。寝取られ男どもからは、私は随分驚かれたものだ。確かに私は美男子でもない。金もない。酒の匂いをいつもプンプンさせている。それでも結構女には持てたんだからな。
 ミシェル そう。それに、少なくとも一人は叔父さんについて来る女もいた。
 オーギュスト そういうのは誰にでも一人はいるものさ。こちらが最初について行こうと思った女とは普通違うものだがね。
 ミシェル 叔父さんはそれで苦労した・・・
 オーギュスト そう。酷い奴だったよ。
(舞台裏で「マタン・スワール・・・マタン・スワール、第六版! マタン・スワールは如何!」)
 オーギュスト 「マタン・スワールは如何」か! セーヌに飛び込んだ奴、ピストル自殺、その女の離婚・・・こういうのを隅から隅まで加えると、マタン・スワール一紙だけで五十人はいるな、寝取られ男が。こういう事件は、いわゆる「その他もろもろ」の項目に入るやつで、昔から今に至る迄状況は変りはしない。
(義理の母、登場。)
 義理の母 ミシェル!
 ミシェル バーン!
 義理の母 バーン? 何? それ。
 ミシェル 気分をすっきりさせるための方法ですよ。本当に殺すわけには行きませんからね。お義母さんの現れる度に心の中で殺すんですよ、バーンとね。するとお義母さんは死んでいる。
 義理の母 面白い婿さんね、あなたは。心の中で殺したいならいくらでも殺しなさい。でも、今は後悔するわ。だって、面白いニュースを持って来たんだから。
 ミシェル どんなニュースだろうと、驚きはしないぞ、僕は。
 義理の母 ベッドから出て来たこの方、誰?
 オーギュスト オーギュスト・ドゥヌワイエです、奥様。お会い出来て光栄に存じます。
 ミシェル 叔父のオーギュストです。
 義理の母 分った! 家族の集結ね。
 オーギュスト えっ? 何と言いましたか?
 義理の母 家族の集結と言ったんです。聖家族、ミシェルのね! 二十年間、お近づきになることを禁じられていて、事態が華々しくなって今、姿を現すってこと。
 ミシェル オーギュスト叔父は、例外的にしか、家族の一員としては考えられていないんです、お義母さん。
 オーギュスト 「例外的に」はよかったな。しかし奥様、「変人」としてしか考えられていないというのが、最も真実に近い。我々の聖家族の間で私は、絶望的な人間、スキャンダルでしかない。奥様のその二十年間の恨みの対象ではあり得ません、私は。
 義理の母 でもあなた、ミシェルの叔父なんでしょう?
 オーギュスト ええ、まあ、それはそうで。
 義理の母 ミシェルの父親の弟?
 オーギュスト ミシェルの父親の恥づべき弟。
 義理の母 何様だと思っているのかしら。
 オーギュスト 兄のことで?
 義理の母 そう。ミシェルの父親のこと。この二十世紀の時代に、家族の誰かが、家族の他の誰からも認められないなんて、そんな馬鹿な!
 オーギュスト ええ、まあ、二十世紀に、そんな馬鹿な・・・
 義理の母 それも、何が聖家族。ケチな考えを持った、鼻眼鏡の、細いズボンの、信心に凝り固まった生意気な家族。ドゥの称号さえつかない、年金生活者の癖に、自分の血管には青い血が流れていると信じこんでいる・・・
 オーギュスト 奥様、それが本物のブルジョアの家系というものではありませんか? 我々の家系の者達をそういう風にただ貶(けな)すだけでは、奥様ご自身が私の目から低い者に見えてしまいます。ある家系をよく知るためには、まづその家系の一員にならなければ。
 義理の母 まあまあ、そんな話なら聞き飽きていますわ。あなたの家系なら、この掌(たなごころ)を指すように存じておりますわ私、実際にお会いしていなくても。ところであなたも、例のカカだのキキだのの「愛称」を持っていらっしゃるんですの?
 オーギュスト それに抵抗したのはこの私一人でして。私はオーギュスト。ギュギュッスなどという愛称は持っていません。
 義理の母 それは変り者!
 オーギュスト その点は一番最初にお話した筈。私はオーギュスト。ギュギュッスではない。これだけでも我が家系では変り者です。
 私の兄アンリ・・・つまり、ミシェルの父親・・・彼は騎兵隊の大佐で、現在六十四ですが、これがリリ。上の姉がトト。その子がティティ。他にココもいれば、キキもジョジョも。私の弟の一人はアーヴルで公証人をしています。六十代の男、既婚、四人の子供の父親で、家族全員からミミと呼ばれています。他にレオン、これはロンロン。ですから、キキ、ケケ、ココ、ロンロン、ドド、ディディ、ザザ、ズズ、ズィズィ、とまあ、音声学上から言うと、あらゆる音のごたまぜで・・・
 昔、六十年前、たが回しをして遊んだ二人、ティティとトゥトゥは、今は墓の中。そのティティとトゥトゥは未だにティティとトゥトゥと呼ばれている。これが伝統というものでしょう。さもなければ伝統などあり得ません。
 義理の母 そういう馬鹿な人達が、この二十年間、私に背を向けていたのね。生れの悪い女として。呆れたお笑い!
 オーギュスト 全く! 呆れたお笑い。
 義理の母 あなたはそう言えるわね。
 ミシェル バーン!
 義理の母 またそれ? バーンはもううんざり!
 ミシェル 僕の家族の愛称など考察しても無駄なことです。何かニュースがあるという話でしたけど?
 義理の母 ニュース?
 ミシェル 忘れたんですか?
 義理の母 あ、そうそう、聞きたいというんでしたら話は別ですけど、聞きたくないんでしょう? 私、行きます。
 ミシェル 聞きたいですよ。もう、一時間前から待っているんです、そのニュースが聞きたくて。さっき「事態が華々しくなった今」って言いましたね。だから、聞きましょう。面白そうです。さ、何です?
 義理の母 さっきラジオで、あなたの息子の話が出たんです。
 ミシェル 息子の話?
 義理の母 マックスですよ。何人もいるわけじゃないでしょう? すぐ分る筈。
 ミシェル ラジオで?
 義理の母 そう。私、部屋にいたら、急にラジオが鳴って、「今日の午後、ニューヨークから、驚くべきニュースが入りました。二十歳の、フランスの若者、マックス・ドゥヌワイエは・・・」
 ミシェル それから?
 義理の母 それで切れて・・・
 ミシェル 「切れて」? 何です、「切れて」とは。
 義理の母 アナウンサーが言うのを止めたか、それとも放送が途絶えたか、私には分らないわ。それ以上はとにかく聞えなくなった。
 ミシェル じゃ、その、ニュースっていうのは?
 義理の母 分らない。ニューヨークでマックスのことが話題になっている。そこまで。
 ミシェル 何だ、それは。バーン! バーン!
 義理の母 またそれ? うるさいわね。
 ミシェル お義母さんもスィモンヌも、マックスが出て行ってからこっち、頭がどうかなったんじゃありませんか? 人が口を開けばすぐもう、マックスの名前が聞えたと思っている。
 義理の母 マックス・ドゥヌワイエの名前がはっきり私に聞えていなかったと言うつもりなの? あなたは。いいですか? ミシェル・ドゥヌワイエ、どうやらあなたは、私のことがよくお分りでないようですから申し上げますがね、私はラジオで発音されている音を聞き間違えるような人間じゃありませんよ。これだけは申上げておきます。
 オーギュスト ええええ、それはそうでしょうとも。
 義理の母 ほら、ご覧なさい!
(舞台裏で声「マタン・スワールは如何? マタン・スワール、第六版。マタン・スワールは如何?」)
 義理の母 ほら、あれで分る!
 ミシェル 何がです。
 義理の母 新聞ですよ! さ、ミシェル、買ってらっしゃい。きっとマックスのことが出てるわ!
 ミシェル マックスはもうモロッコに発ったんですよ。どうして今になってニューヨークが、あいつのことで何か喋ることがあるんです。聞いたっていうのは勘違いに決っています!
 義理の母 分りました。私が行きます!
 オーギュスト では、この私、オーギュスト・ドゥヌワイエ・・・家族の一員としては実に取るにたらないこの不肖私(わたくし)めが・・・お使いにまいりましょうか? 奥様。
 義理の母 ああ、あなた、少なくともあなたは大貴族でいらっしゃる。フランス流礼儀というものを心得ていらっしゃるわ!
 オーギュスト フランス流礼儀など、もうとっくに死んでいます、奥様。しかし、私のような育ちの悪い者のみが、辛(から)うじてそれを時には支えるという次第で。ではひとっ飛び、行って参ります。
(オーギュスト、窓の方へ進む。)
 義理の母 あなた、何をやっているの?
 オーギュスト ひとっ飛び、行って来ようと・・・
 義理の母 まさか、窓から?
 オーギュスト この方が早いですから。
 義理の母 自殺行為ですよ! 危ない!
 オーギュスト でも、美的です!
(オーギュスト、消える。)
 義理の母 ここ、七階よ! 今は中世? 魔法の時代? まあ、あなたの家族、何ていう人種? 叔父さん、まるで中世の騎士。そんな人を家族中でのけものにするなんて! あの人、本当のジェントルマン。いいえ、それ以上! この時代には滅多にお目にかかれない人!
 ミシェル そんなに興奮しないで。叔父はどうせ、生娘(きむすめ)しか好きになりませんよ。
 義理の母 ミシェル! あなたって何て品のない人! あの人が私にと、窓から飛び出したのに、あなた、それをからかうの? 私に新聞をと、あの人死ぬ危険を冒して窓から・・・何てシックな、何てフランス的な、何ていう騎士道・・・それをあなたは笑うの?
(スィモンヌ登場。)
 スィモンヌ ママ! ミシェル! いたのね? 今ラジオで聞いたの、私。マックスが・・・何をしたと思う?
 ミシェル ああ、マックスがどうした。
 義理の母 ニューヨークからのニュースでしょう?
 スィモンヌ サンフランシスコで出ていた懸賞金、百万ドルを獲得したのよ!
 義理の母 百万ドル! マックスが取った! 聞いた? ミシェル。これでもあなた、贋神様のお告げを聞くジャンヌ・ダルクだっていうの? 私にはちゃんと分っていたの。ちゃんと、ちゃんと・・・
 スィモンヌ そんな話、どうかしているわ。マックスはひと言もこんな話、したことはないんですからね。
 ミシェル ところでその、サンフランシスコの懸賞金というのは一体何なんだ。
 義理の母 私も知らない。何なの? それ。
(オーギュスト、毛布姿で登場。)
 オーギュスト(郵便配達の帽子を被っている。)カッコー!
 全員(驚いて。)ああ!
 オーギュスト 私ですよ。
 義理の母 助けて! 死んだ筈よ。あなた、幽霊!
 オーギュスト 奥様、お求めの「マタン・スワール」です。
 義理の母 地獄から「マタン・スワール」? まあ怖い! 助けて!
 ミシェル ちょっとその悲鳴、止めてくれないかな?
 義理の母 ええ、止めます。
 スィモンヌ ミシェル、うちの母には、もっと丁寧な口をきいて!
 義理の母 そうそう、そうよ。私には礼儀正しく! ラザルス叔父さんが、あの世から生き返って、私が狼狽しているのをいいことに、私に乱暴な口をきいたりして!
 オーギュスト 私はラザルスではなく、オーギュストですが。
 義理の母 あなた、死んだんでしょう? 本当に。
 オーギュスト ええ、七年前です、死んだのは。
 義理の母 若くして死んだのね!
 オーギュスト またお世辞ですか? でも、言われれば嬉しいものです。
 義理の母(全く納得していない。)そう? でも、死んだ話はまたあとで!
 スィモンヌ 新聞には何て?
 オーギュスト 見出しを見て下さい。それだけですぐ分ります。息子さんは英雄ですよ、奥様。失礼。(スィモンヌに新聞を渡す。)では、私はこのへんで失礼を。
 義理の母 もう少しいらっしゃれば?
 オーギュスト 奥様は先ほど、ニュースを我々の家族に送ったでしょう? 全員集まって来ますよ。大騒動になります。高い所から見てやらなきゃ。じゃ、私は階段の上の方に・・・
(オーギュスト、退場。)
 義理の母 じゃ、またすぐいらして!
 スィモンヌ そう、また!(新聞を読み上げる。)「二十歳のフランスの若者、マックス・ドゥヌワイエは、今日、偉大な無着陸飛行に成功した。彼は、カサブランカ=サンフランシスコ間を、平均時速三千キロの連続飛行で、敢行した。これは、今日まで試みられた飛行の、最長距離である。二十歳の、このフランスの英雄、マックス・ドゥヌワイエは、アメリカに着陸するや、前例のない熱狂的な歓迎を受けた。何十人という空の勇士によって試みられ、失敗してきた、かの有名なDASF賞を、かくして彼が勝取ったのである。この賞は、アフリカからアメリカの都市まで無着陸で飛行を敢行した最初の人間に、CCPAQGから与えられるものであるが、その賞金百万ドルを、マックス・ドゥヌワイエは、アメリカ着陸と同時に手にしたのである。」
 義理の母 今の、聞いた? ミシェル。私、もう一度ジャンヌ・ダルクになった気分。百万ドルだって! アメリカが熱狂的歓迎! 胴上げの時骨折しなかったかしら。アメリカ人て、やることが大げさだから・・・さ、スィモンヌ、続きは私読む。それからが知りたいわ。(義理の母、スィモンヌから新聞をひったくる。スィモンヌが読終わった所を探す。)エート、CCPAG・・・全く、アメリカって何? この略号! ああ、ここ!(読む。)「いかにしてこの若いマックス・ドゥヌワイエが、前人未到のこの長距離飛行を試みたか。それは全て余人(よじん)に知らせず行われた。彼の家族にさえ知らされなかったのである。」まあ、私達のことだわ!
 ミシェル 我々に知らされなかったと、どうして分るんだ。誰もここにインタビューに来てはいないぞ!
 義理の母 それはマックスがアメリカで喋ったのよ。そして、アメリカの通信社からフランスの新聞へ打電した・・・
 スィモンヌ それから? 次は?
 義理の母 どうせここにもインタビューに来るに決っているわ。
 ミシェル 冗談じゃない。そいつはご免だ!
 義理の母 あなた、自分の息子が誇らしくないの? 私はあなたとは違う。新聞記者に来て貰いたいわ。私、あの人達に会いたい。私、言ってやる、「三歳で、もうあの子、父親に言ってましたわ、『パパ、僕、時速三千キロで大西洋を越えるんだ』って。そして、三歳半になったら、飛行機が飛んでいるのを見ると、必ずこう言ったの・・・」
 スィモンヌ ママ、この人にそんなことを言っても無意味なの!
 ミシェル 無意味とは何だ! とにかく新聞記者はたった一人でもご免だ。管理人にその旨言って来る!
(ミシェル、行きかける。)
(オーギュスト登場。)
 オーギュスト(山高帽を被って。)カッコー!
 全員(叫び声。)ああ!
 義理の母 この部屋から抜け出す時、あなた、どうやったの?
 オーギュスト 仕切り壁を間違えて、階段の天辺(てっぺん)に出ました。それで、下が見えにくくて。自分がどこにいるか分らないまま、建物中をうろつきましたよ。やっとここに辿(たど)り着いた!
 義理の母 ずっと壁を突っ切って?
 オーギュスト ミシェル、連中がやって来たぞ!
 スィモンヌ 新聞記者達?
 義理の母 万歳!
 ミシェル 僕は厭だ!
 オーギュスト いや、親戚だ!
 スィモンヌ ここへ?
 義理の母 言わないことじゃない!
 ミシェル 誰? 親戚の。
 オーギュスト お前の親父だ。その左右に、トトとティティ。
 ミシェル トト叔母さんにティティ叔母さん? 親父と?
 オーギュスト それにミミもだ。
 ミシェル ルアーヴルからミミ叔父さんが?
 オーギュスト 公証人御大、自らお出ましだ。親戚中で一番身の軽い連中が真っ先に。もう階段を上がって来ている。
 義理の母 まあ、呆れた。はしたないこと! 成金連中のやることね!
 スィモンヌ 少なくとも私は見られるのは厭。さようなら!
(スィモンヌ退場。)
 義理の母 私は喜んで会うわ! 二十年も待っていたんだから。
 ミシェル 叔父さん、早く行って、壁を突っ切って。間にあえば連中を止める。連中に間に合わないなら仕方がない、新聞記者は入れないようにする。管理人に言って!
 オーギュスト 親戚の者はもう手遅れだ。押し寄せて来ている。新聞記者と警察は、この私に任せるんだ。ああ、カルチエラタンで警官隊とやりあったな。懐かしい思い出だ!
(オーギュスト、窓から飛び出る。)
 義理の母 また自殺! 病気ね、あの人の・・・首の骨を折っちゃうわよ!
(どやどやっと、まづ、父親とルアーヴルのミミ叔父、登場。次にミミの二人の年取った娘、トトとティティ。全員「マタン・スワール」を手に持っている。)
 父 おお、ミシェル。さ、この腕に!(両腕を拡げて、ミシェルの飛び込んで来るのを待つ。)
 ミミ でかしたぞ、ミシェル。親戚一同にとって偉大な日だ、今日は。
 トト 私達、とてもあなたが誇らしいわ、ミシェル。
 ティティ あの子、正確には何歳? この計画のこと、話してた? 一番誰に似てる? マックスは。
 トト ハンサムな子ね、とても。勿論あなた、自慢の子でしょう? もう婚約してるの?
 義理の母 私のアパートに侵入して来て! 私、名前を知る権利はある筈ですよ!
 父 親愛なる奥様、ただの侵入ではありません。祝福の言葉を述べる光栄をお許し戴こうと・・・
 ミミ 奥様、きっと奥様は、お孫さんのこの偉業を、本当に誇らしく思っていらっしゃるでしょうね。それも当然のことですけど・・・
 ティティ だって、フランスの旗を外国に堂々と打ち立てたんですから・・・
 父 ティティ、私に喋らせろ!
 トト 私も同じ言葉。外国人にフランスの旗を堂々と。何て自慢出来ることなんでしょう!
 ミミ 我々は幸せだ・・・
 ティティ パリ中の噂よ。マックス・ドゥヌワイエのことを口にしないパリの人なんて、誰も・・・
 父 私が思うには、お前達、祝いを言うにしても、まづ順序というものがある。親戚一同ここに来た。マックスの祖父、叔父達、叔母達・・・まづ全員、ミシェルとその連れ合いを祝わねばならん。しかし、度を越してはいかんのだ。ミシェル、お前は若い頃、随分失敗をやらかしたが・・・
 ティティ あなた、私達に色々迷惑をかけたのよ、ミシェル・・・
 トト ねえ、ミシュー、私達あなたを愛してるからこそ・・・
 トトとティティ そうよ、あなた、私達、神様に聞いて戴こうと、それは二人で祈ったのよ・・・
 父 トト、喋るのは私だぞ!
 トト でもリリ、私じゃないのよ。喋ってるのはティティよ!
 ティティ 違うわリリ、トトよ、喋ってるのは。この人、いつも私にかぶせて喋るの!
 父 黙るんだ! 家族の長はこの私だぞ! それに、何度言ったら分るんだ、私をリリと呼ぶな! 他に人がいる時には。
 ティティ 私から見たらあなた、いつだってちっちゃなリリよ。木剣を持って、兵隊ごっこしているリリ・・・
 父 それはそうかも知れん。しかし私は大佐になったんだ!
 ティティ 知ってるわリリ、あなたたいした出世よ。
 トト あなた、親戚中でただ一人、本物の軍人だもの。
 義理の母 私、ちょっと口を挟んでいいかしら?
 父 奥様、ちょっとその前に、私に歴史的名言の引用をさせて下さい。「さあ、これでピレネー山脈はなくなったぞ!」
 義理の母 二十年前、歴史的名言ではないけれど、あなたこう言ったわ「お前との全ての絆(きづな)はなくなったぞ、婿どの」ってね。
 ミミ おお、そいつは名言だな。
 父 親愛なる奥様、名家と言われるものにとって、名声の保持ぐらい骨の折れるものはありません。名声を保つための義務、とは従って、最も厳しい自己犠牲にも怯(ひる)まぬこと。しかし、今までの無為、汚名を挽回するチャンスがあれば、親戚一同団結しているところを国家に見せてやる、これも義務なのです。家族、それは団結です。
 ミミ そう、マックスはドゥヌワイエの名を持っているわけだから・・・
 義理の母 マックスはもう二十年もドゥヌワイエの名を持っていましたわ。それに、あなた方がお気づきになったのは、今になって初めて! それまではマックスも私も、まるで背を向けられていた。それがどう! 成功、それに、多分賞金の百万ドルで、コロリと向きが変る。そして家族中が微笑みを見せる。それじゃ、家族なんて、風見鶏。風向き次第で向きが変るのね!
 ティティ 家族って、風見鶏じゃないわ。家族って、屋根!
 トト 家族って、庭よ。良い雑草と悪い雑草の生えた!
 ミミ 家族、それは具体物としては存在しないが、法律上の実体なんだ!
 ミシェル 家族は家族だ! さあ、皆でやって来て、一体何がお望みなんだ!
 父 それはいくら何でも、家族全体に対する無関心な言葉だぞ、ミシェル。私は悲しいね。それに、その言葉つきも息子にあるまじきものだ。お前だって分るだろう、今日のこの日、私がいかに自分の息子を誇りに思っているか・・・
 ミシェル 誇りに思う・・・誇り、誇り、誇り。誇りさえあればお父さんは満足なんでしょう。胸をそらせて、そっくり返れる材料を、息子が、親戚の誰かが与えてくれさえすれば、それで万事オーケーなんでしょう。僕らがマックスを誇りに思うだって? この僕ら親戚が! いいですか? マックスは僕らに似ていますか? マックスはドゥヌワイエ家の人間ですか?
 ティティ そりゃそうでしょう! それに、ドゥヌワイエと言えば、ロヴィゾンおばあさんの方からすれば、シャストラン家に繋がっているんですからね。
 ミミ それはそうだ! それに、シャストラン家と言えば、第二帝政のもので、たいした息子を輩出した家柄だ。
 父 シャストラン家を持ち出すまでもなく、ドゥヌワイエ家はエリートを多数輩出している家柄だ。シュロンザック家と私の母は繋がっていて、従って、レイモン家との繋がりもあり、つまりはレイモノ家とも・・・
 トト レイモノ家って言えばリリ、ガストン・レイモノは、バリュザ家の親戚でしょう? ジャンヌ・バリュザはレイモノ家で有名だったもの。ということは、だから・・・
 父 だからだ、ミシェル、お前、マックスと我々の間に何らかの心の繋がりがあることを疑う訳には行かんだろう。彼の大胆な飛行により、彼が我々の直接の孫であることを見事に・・・
 ミシェル マックスはパパに似ていますか? マックスは僕に似ているって言うんですか?
 トト 電送写真から見てみると、かなり似ているわ。
 ミミ 我々ドゥヌワイエ家のものから見れば、あれはドゥヌワイエ家の人間だよ!
 義理の母 笑っちゃうわね!
 ミシェル いいですか、パパ、ミミ叔父さん、それにトト叔母さんとティティ叔母さん、よく聞いて下さい。これから僕の言うことを親戚中に伝えるんですよ。みんなの燃え上がった赤血球も、すぐ縮こまってしまう筈ですからね。マックスは僕の息子じゃないんです!
(雷と稲妻。それから太鼓の音。)
 ミシェル 晴天の霹靂(へきれき)だ、これこそ!
 トト 何ですって?
 ティティ 今、何て?
 ミミ もう一度頼む。
 ミシェル 聞こえましたか?
 父 いや、聞こえなかった。聞きたくなかった。私には何のことかさっぱりだ。
 ミシェル マックスが僕の子供じゃない、と言ったんです!
 父 家族が集まっている時に、何てことを言い出すんだ、お前は。許しがたい。酷い悪趣味な話だ、ミシェル。お前の叔母達は、まだうら若い娘だ。それを忘れちゃいかん。マックスはお前の名で、私の名で、通っている。それに、國中、その名で知られているんだ。
 ミミ 國中どころか、世界中だ。
 父 それで、お前のほのめかしているのは・・・
 ミシェル 僕はほのめかしてなんかいません。僕の子供じゃないと言いきっているんです! 僕は叫んでいる、怒鳴っているんだ。それを聞きたい人間にも、聞きたくない人間にも、誰にでも、かれにでも! マックスは探検家ジェルバルの息子です。マックスはその血管に、パパの血も、僕の血も、入っていやしません。マックスがどんな英雄だろうと、その栄光には、パパには何の関係もない! パパどころか、僕にも何の関係もない!
 パパも僕も、「その他大勢」なんだ。何百といる成金の中の一つに過ぎないんだ! 僕らはゼロなんだ。ゼロ、ゼロ。いくら良い着物を着たって、鼻髭を生やしたって、天才など毛ほどもない。偉大さの欠片(かけら)もない。もう一度よく自分達の顔を見てみるんだ! 猿だ! 猿の勇気、猿の威厳、猿の誇り。僕らの正体だ、この猿ってやつが! 成金の家族だ。ジャンヌダルクを尊敬しない家はどこにもない。しかし、そのために自分が危うくなれば、さっさとその尊敬を否定する。成金の家族で、自分の息子がナポレオンになることを望まない家はどこにもない。だけど一旦息子が夜、街頭でデモに出ると言うと、すぐ、そんな危ないことは止めて、と泣いて頼む。偉い人になって頂戴、と頼むけど、その実、なって貰いたいのは、腹のない偉い人、感激のない、ふやけた、スリッパ履きの、風邪をひくのさえ怖がる、ちょっとした不幸でも避けたがる、そんな偉い人なのだ。・・・ああ、家族よ、お前は全てを犠牲にして神聖なものを求めることを標榜しているくせに、その実、一体何を考えているのだ。何一つ自分から捨てようとはしないじゃないか!
 もう諦めるんだ、英雄も、聖者も、我々のような家族から生まれる訳がない! こんなヤワな身体から何が出て来るというんだ! もっとがっちりした、腹の坐った人間であって初めて出て来るのだ! だから、天から降って湧いた、あの英雄も、諦めるんだ。マックスは僕の子供じゃない!
 義理の母 ところが、そのマックスは私の孫! 二十年間も背を向けられて、家族扱いされなかった家族にも、時々は腹の坐った偉い人物が出るということ!
 父 戸籍法で登録されている名前から言うと、マックスはちゃんと我が家の苗字を持っている。反証が上がらない限り、彼はお前の息子、我々の家族の一員だ。
 ミシェル 反証? これはマックスの父親からの手紙です。二十年前、スィモンヌ宛出された手紙・・・これにはうんざりするほど反証が詰っていますよ。僕が結婚した時には、もう既に僕の妻は身籠っていたんです。
 父 下品な真似は止めろ、ミシェル。たとえそんなスキャンダラスな手紙がお前の手に入っても、そんなものは破り捨てればいいんだ!
 ミシェル そう、そうやっていつもズルをやるんだ!
 父 家庭とは、秩序と名誉なんだ! お前の息子は公けには、相変らず、お前の息子だぞ、栄光ある・・・
 義理の母 それに、百万ドルの所有者ですわ!
 ミミ 家庭とは、論理でもある。登録されていれば、それは正式な息子なんだ。
 義理の母 ミミ、あなた、素敵! ご立派!
 トト 喋り方が早過ぎだよ。みんな、何を言ってるの?
 ティティ 家庭とは、分り切ったものだって。
 トト 分り切っているって・・・やっぱり、庭?
 ティティ 分らない。
 父 それでお前、どうしたいんだ。
 ミシェル 笑いたいんだ、ゲラゲラっと!
 トト ミシューって、元気いいわね。
 父 黙るんだ、トト!
(オーギュスト、登場。)
 オーギュスト(大佐の帽子を被って。)カッコー!
 全員(叫ぶ。)ああ!
 トトとティティ ああ、幽霊・・・オーギュストの・・・トト、行こう。ティティ、行こう。
(二人、驚いて退場。)
 オーギュスト 家族会議のようだな。こんちわ、ミミ、こんちわ、リリ!
 父 オーギュスト、何度言ったら分るんだ。私はお前より年長者だぞ。リリは止めろ!
 オーギュスト 了解! 将軍殿。
 父 私は大佐だ。
 オーギュスト 知ってる。ちょっとばかり胡麻をすっただけ。
 父 お前、また私の帽子を取ったな! 何度言ったら分るんだ、私の帽子はどこかの飾り物とは違うんだ! さ、帽子を返せ。すぐ!
 オーギュスト もうやらないからね、リリ。
(オーギュスト、帽子を返す。)
 オーギュスト いい時に雨が降ってくれた。新聞記者達は散って行った。連中とのやりあいは、私もかなり厳しかったな。一人だけ、うまくすり抜けた奴がいる。貨物のエレベーターに潜りこんだ。そいつが来るぞ、きっと。用心しろよ!
(右手から、髪の毛がぼうぼうに立ち、服が千切れた新聞記者、登場。)
 新聞記者 ここは、例の英雄の家ですね?
 義理の母(新聞記者を右手に引っ張って。)そうです、ここです。家族ですよ、私が!
 ミミ(新聞記者を左手に引っ張って。)我々です、家族は。我々がドゥヌワイエ家です!
 ミシェル 出て行け! 貨物用エレベーターでやって来る奴など、誰も許しはしないぞ!
 新聞記者 でも、でも、情報は集めないと!
 ミシェル 情報など糞くらえだ!
(ミシェル、新聞記者を出口に追出す。)
 義理の母 でも私、新聞記者の人と話さないと・・・
 ミミ ドゥヌワイエ家も言うことがある。我々がドゥヌワイエ家なのだ!
 オーギュスト 私も・・・私の写真、撮って。お願い!
(新聞記者他、ミシェルと父親を除いて全員退場。)
 ミシェル 家長の言葉を新聞記者に聞かせる必要はないんですか?
 父 私は、お前に話がある。
 ミシェル 長いの?
 父 二つ三つ、大事なことがある。それを話す時間が必要だ。お前、急いでいるのか?
 ミシェル いいえ、全然。話は聞くよ、パパ。僕はパパの忠実な息子だ。
 父 お前は私に、何が不満なんだ、ミシェル。
 ミシェル 不満? 僕が?
 父 お前の私への言葉を聞くと、深い恨みがあるように聞える。それも積もり積もったな。お前の心にそんな憎悪が溜っていたとは知らなかった。私の何が不満なのだ。
 ミシェル 何もありませんよ。可哀想に、お父さん。僕がお父さんに何が不満だって言うんです。だいたい僕らは、同じ言葉を喋ってはいません。それに、お父さんがそもそも僕と人間の話す言葉で僕に話しかけたのは、これが初めてですよ。つまり、お父さんが僕以外の人間に話しかける言葉で僕に話しかけたのは。今まで僕は、お父さんからは、大佐が一兵卒に「気をつけ」をした後、命令する言葉しか聞いたことはないんですから。
 父 それか? お前が私に不満を持っているのは。
 ミシェル もう一回言いますけど、大佐と一兵卒の間では、議論など不可能なんです。一兵卒は大佐に不満を言う訳がありません。お父さんはお父さん、僕は僕。それで二人、うまく行っているんです。それ以上何があるって言うんです。今初めてですよ、お父さんが僕に質問などしたのは。今までは命令しか下したことはなかった。お父さんが僕のお父さんであるのは、戸籍法の戸籍でだけです!
 父 おお、うまいことを言ったな。それがどんなに図星か、自分でも気がついていないだろう。実はそのことを言うために来たんだ。
 ミシェル 何ですって?
 父 もう今更お前に真実を隠しておく理由はないからな・・・
 ミシェル 随分言い古された言い方ですよ、それは。
 父 お前が自分の息子についてその出生を明らかにしようと言うのだから、私だってそうな訳だ・・・
 ミシェル まさか、お父さんが僕の本当の父親じゃないと・・・
 父 いや、そうなんだ。その通りなんだ、ミシェル。
 ミシェル ママ・・・聖女のママ・・・
 父 ああ、本当の聖女になるにはまだかなり時間がかかったな。二十三歳の時のお前の母親、若くてピチピチしていた。ロン・ル・ソルニエの駐屯地では退屈しきっていたんだ。きっと面白くない人生だったろう。笑うのが好きで、ダンスが好き、コンサートが好きだった・・・
 ミシェル お父さんよりダンスのうまい中尉が誘惑したんですね?
 父 違う。ある日、お前の母親は夜逃げをしたんだ。私は一箇月間、何の知らせも受取らなかった。ひと月経って「ご免なさい」と言って帰って来た。出て行った時とまるで同じ、悪びれない態度だった。
 ミシェル (お父さんは落着いていたんですね。)お父さんにそういう態度が取れるとは、思ってもいませんでした。
 父 私はあれを愛していた。それに、大佐の前に中尉の経験だってある。妻を許すと言うのは、民間より軍隊での方が楽だしな。駐屯地は簡単に変る。ロン・ル・ソルニエでうまく行かなかった夫婦も、ロマランタンでは申し分のない夫婦だ。軍隊では誰だってそんなことは知っている。
 ミシェル じゃ、同僚と決闘をしたんですね?
 父 そいつは軍人じゃなかった。カジノに偶々来ていたテノール歌手だ。
 ミシェル テノール歌手?
 父 お前は、母親が家に帰って来て、八箇月して生れた。
 ミシェル 僕はテノール歌手の子供?
 父 勿論わざわざ戻って決闘するような奴じゃない。言うまでもないが、臆病で、卑怯な、大根役者のドンジュアンだ。子供を生ませておいて、後は知らん顔だ。
 ミシェル 僕が生まれる、その僕が、自分の子供じゃないと分っていて、ママを許したの? お父さんは。
 父 私は愛する女性と家庭を作るために結婚したんだ。私は一人の女しか愛さなかった。そして私は、自分の子供が欲しかったんだ。
 ミシェル 出だしが悪かったね。
 父 その通り! しかし、私は状況を受入れた。家庭と秩序を守るためにだ。お前には兄弟姉妹、合わせて四人いる。忘れるな、四人とも私の子だ。別の男との間に子供が出来る度に妻と別れたりしていたら、家系は三代と持たない。十字軍の時がよい手本だ。お前に話したいと言ったことは以上だ。一つだけ大事なことがある。威厳と名誉をもって生きることだ。だいたい、妻が夫より他のふやけた美男子を好んだところで、それは夫にとって何の不名誉にもならない。妻の不名誉になるだけだ。妻というものは愚かなことに向って走る瞬間があるものだ。それだけのことさ。
 ミシェル もし妻が選んだ男がふやけた美男子どころか、ちゃんとした男だったらどうなんです。それでもいいと思うんですか。
 父 それで、生まれてきた私生児が六人、みんな立派な子供だったとする。そうであれば、自分の本当の子供で、馬鹿でろくでもない奴が一人いるより、私はずっと嬉しい。私は、お前にはずっと厳しくあたって来た、ミシェル。それはお前に素晴しい男になって欲しかったからだ。お前がもし私の言う、男の中の男になっていたとしたら、私はどんなに愛(いと)おしくお前をこの腕に抱きしめたことか! お前が私の本当の子供でないからこそ、余計可愛かった筈だ。お前をこの世に出した、その当の男に、仕返しに言ってやれるのだ「この勇敢な子供、この非の打ち所のない騎兵、この子は、お前が作り、そして捨てた子だ。それが今や、私の家族の一員となっている。その子が大事に思っているのは、この私の家族なのだ。そして、お前のお陰で、この家族の中で際立っている子供なのだ」とな。残念なことに、お前はそういう男ではなかった。ある時期には、私は思ったことがある。お前は良い声をしているのではないかと。しかし違った。お前の歌はなっていない。お前の父親のテノール氏は、芸術的天才のうち、お前には女優に対する浮気心しか遺伝させなかったようだ。いや、そんな言い方じゃ足りない。お前はまるで勇気というもののない、女の腐ったような奴だ。植民地行きを夢見るだけで、実際に出来たことと言えば、ただ街中で、既に孕んだ女と結婚する・・・それだけだ!
 ミシェル よくもそんなことを! 僕に自殺しろと言いたいんですか! 武装した心を持たない人間の気持なんか、まるで分らないんでしょう。運よく、強い気持の持主として生まれた人なんですからね、お父さんは。
 父 お前だって運はあったのだ。今話した、男の中の男を息子として持つことが出来たんだからな。逞(たくま)しく、勇気のある、物事に挑戦する精神をもった、そしてこのドゥヌワイエ家に栄光を齎(もたら)す息子を。今お前は、声を大にして、あれが自分の息子でないと明言した。私だったら『うまく行った』と思うところだ。もしあれが、お前の本当の子だったら、あんな長所はもっていなかったろうからな。惨めな男だったろうよ。私はあのマックスを自分の孫として認めるぞ、ミシェル。考えてみろ、あいつのお陰じゃないか、我々一族が光り輝くのは。あいつのお陰でお前がい、私がいるんだ。お前の、そして私の、兄弟、姉妹、親戚全員が、突然、固く結ばれたように感じたんだ。だから、お前の妻にあの子供を孕ませた男に、感謝するんだ。そいつもトンマな奴だ! まあ、血気盛んな男だったんだ。丁度この國に名誉を齎(もたら)したうちのマックスと同じようにな。
 ミシェル やれやれ、フランス国高揚のためのバラッドですね。僕にマルセイエーズを歌って貰いたいんじゃないでしょうね。親父の喉を持っていたら、僕もここで一つやるところですがね。
 父 馬鹿なことを言うのはよせ。これでお前に言うことは全部終った。マックスの件で、よく義理の母親と話すんだな。我々の間に、もう溝はない筈だ。問題は個々人じゃない。家族だ。家族としての発言を聞くんだ。それから、分るな? 今までに、今日ほどお前がしっかりと私の息子になった時はないんだからな。キスさせてくれ、ミシェル。(ミシェル、仕方なく、不格好に、額を差出す。父親、キス。)さて、私は新聞記者に会わなきゃならん。放っておくと、お前の叔父のミミが、公証人とはいかなるものか、ベラベラやりだすだろうからな。
(父親、退場。)
(一人残り、ミシェル、何か考えている。それから、歌を歌おうとする。ちょっとやるが、自分で気に入らない。)
(再びやってみる。)
(オーギュスト登場。)
 オーギュスト カッコー!
(ミシェル、歌を急いで止め、驚いた声を出す。)
 オーギュスト(チロリの帽子を被っている。)喉の調子がおかしいのか?
 ミシェル 今、大変なことを聞いたんです、僕。
 オーギュスト ほほう、何をだ。
 ミシェル 僕はテノール歌手の子供なんだって。
 オーギュスト フーン、厭な話だ。それでお前、何て言った。
 ミシェル 父親なんです、それを言ったのは。
 オーギュスト なるほど・・・そういうことにかけては、あいつの言うことを信じるしか手はないな。
 ミシェル じゃ、叔父さんは信じるの? この話。
 オーギュスト あいつが言ったとはな。驚きだ。
 ミシェル 驚きは僕の方ですよ。じゃ、叔父さんはテノール氏の子供だと思ってもいい気分なんですね?
 オーギュスト お前を一目(ひとめ)見ただけじゃ、無理だな。ゲーテのウェルテルに変装すれば少しは信じられるか・・・
 ミシェル 僕がテノール氏の子供だと分って、それが僕にどういう意味があるか、叔父さんには分らないんですか?
 オーギュスト 何だか悲壮な顔だな!
 ミシェル 僕はもう叔父さんの甥じゃないんですよ! もう僕は家族の一員じゃないんだ! 叔父さんから教わったいろんなこと、それ全部、叔父さんのお陰なんだ。僕は弱い。僕は敗残者だ。でも、その惨めさの中ででも、僕は一人じゃなかった。それを誰かのせいに出来たんだ。言い訳があったんだ。僕はベルナールに言った「お前にそういう悪い資質を与えた親を、少なくとも恨むことが出来るんだ」と。そう! 少なくとも恨むことが出来るんだ! 叔父さんも敗残者だ。何の役にも立たない人間。僕ら二人がこの家族で同類だって、僕には分っていた! それから叔父さん、話してくれたね? 覚えてる? たとえ叔父さんが馬鹿で脳みそが少し足りなくても、叔父さんの叔父さん、ココ叔父さんからそれを受け継いでいるんだ。大統領の行列があった時、マクマオンの車に、木に登って飛び込んだ、あのココ叔父さんの血をね。だから、家族に三人いるんだ、僕の仲間が! そしてその三人とも、十九歳の時、好きな女優を追いかけて家出したんだ! 
 オーギュスト そうそう、私の女は「ジョジョ・ラ・フュメ」と言ったな。
 ミシェル 僕は今、もうテノール氏の子供だ。すると叔父さん、どういうことになるか、分りますか? 僕は拾われた子供、鞄の中から生まれた子供なんですよ。この世でたった一人の人間なんです、叔父さん。母親の深い気持なんて、僕には分ってないし、父親の記憶だってない。僕が生れるのを見たくもなかった父親なんだからな。辛うじてその血が僕の血管に流れているだけだ。僕は地上に映(うつ)った僕の影でしかない。僕の息子ベルナールも同じだ。大きな夢を見て、そのくせ、僕と御同様、哀れな奴でしかない。やる気だけはある。最初の出だしは結構、その後は全て腰砕け! 人生の最初の、出だしの時から、もう既に、人生はたいして辛いものではなくなってしまっている。その「至る所に手助けがある」ということが、残酷なことなんだ。僕みたいな人間には、自分の平衡を保つための松葉杖一本、ただの棒っきれでさえ、人生は残してくれていちゃ、いけなかったんだ! オーギュスト叔父さん、パパは正しかった。家庭というものは、何かと支えになって・・・
 オーギュスト その家庭の支えというものの正体はな、ミシェル、家庭には、隠しておきたい犯罪、どこかの隅に押し込めておきたい大事件、明るみに出れば大笑いのもと、があるものだが、それを偽善という手段で守ることなんだ。我々の家庭について言えばな、この四十年間、我々はお互い、憎み合ってきているんだ。しかし、私から見れば、その四十年間、それが全部笑いの種だったのさ。この笑いっていうやつが、家庭の唯一のあり方だよ。笑いが一番効き目がある。他の誰が何と言ったって、笑いを生み出す奴を嫌うことは結局出来ないんだ。
 ミシェル 笑いを生み出す奴の話を聞いたってちっとも可笑しくない、僕は。連中には僕は共感が持てないんだ。たとえ自分の家庭を笑いとばしている奴がいたとしても、他の家庭はどうなんだ。ただ厭らしく不吉なだけじゃないか。死ぬほど不吉なんだ、きっと。
 オーギュスト お前の絶望には私は慣れているよ、ミシェル。それに、お前が「死」に愛着を持っていることもな。お前を生命(いのち)の方に戻すのも、この私の役目だ。
 ミシェル 苦しみを笑いに変える技術を持っていた年は、僕にはもう過ぎてしまった。僕は幻想なんか、今や、持てないんだ、叔父さん。僕を説得しようったって無駄だよ。
 オーギュスト しかしとにかく、お前はこの私というものが分りさえすればいいんだ。ちょっと分りさえすれば、お前はすぐゲラゲラっと来ることが出来る。もう聞えているような気がするよ、お前のその笑い声が。しかし、あんまりはしたなくやらないで欲しい。それは頼むよ。仕掛けはちゃんとここに持っている。
 ミシェル じゃ、まあ、やってみて。お代は見てのお帰りだ。
 オーギュスト あれは私だったんだ、ミシェル、例のテノール、あれはこの私。
 ミシェル ???
 オーギュスト 歌が下手なのも無理はないだろう?
 ミシェル(ゲラゲラと笑って。)僕をからかってるんだね?
 オーギュスト 笑うって言ったろう? 本当に私だったんだ。彼女が家出をして会った男、それは、彼女の義理の弟だったんだ。お前の父親はテノールのバージョンしか知らない。お前の母親は、自分が妊娠したと知った時、それはもうパニックに陥(おちい)った。義理の弟に打明けても、彼は全く家庭生活には縁のない男だからね。何の助けにもならない。彼女は夫の足元に身を投出して、テノール氏なるものを拵(こしら)えて謝ったんだ。お前の父親は到底(とうてい)私のことを認めはしまいが、彼女を捨てた見知らぬテノール氏なら、簡単に許せたのさ。これがその成行きだ。まあ、お前の実の父親の話を信用するんだな。お前はまた自信をもって、この聖家族を暖かい気持で見てやるんだ。お前のリウマチ、肝臓障害も、これで本当に納得が行くだろう。肝臓病と気違いの直接の血を引いているんだからな。ココ叔父だって、あのマク・マオンの車から、お前に手を差伸べて、握手してくれるさ。
 声(舞台裏から。)「マタン・スワールは如何! マタン・スワール、最終版! 一大、大事件!」
 オーギュスト マタン・スワールの最終版か。あれを見たら、お前の義理の母親とミミ叔父はおったまげるぞ。親戚全員、マックスの正体を知って愕然となる。なかなかいい、これは。
(スィモンヌ登場。)
 スィモンヌ ミシェル! ママはどこ? 恐ろしいこと! マックス!
 ミシェル マックスがどうした。大西洋横断は、時速六千キロじゃなかったのか? 平均時速が落ちたのか?
 声「マタン・スワールは如何! 一大、大事件! 大詐欺事件! 前代未聞の大スキャンダル! マタン・スワール、最終版、特別号!」
 オーギュスト ちょっとニュースを確かめに。ひとっ飛び!
(オーギュスト、窓から退場。)
 スィモンヌ 私、マックスのせいで殺される! 私達みんな、殺されちゃう! ラジオが言ってたけど・・・
(義理の母、マタン・スワールを持って登場。)
 義理の母 スィモンヌ!
 スィモンヌ 酷い話!
 義理の母 まさか、あんなの・・・嘘に決ってる!
 ミシェル 新聞をよこして!
(ミシェル、新聞を引ったくり、読む。)
 ミシェル 「現代の大詐欺師、マックス・ドゥヌワイエ。偽英雄の偽勝利の後、一時間も経たない間に、そのペテンが明らかとなった。マックス・ドゥヌワイエは、有名な飛行家ギャルデの飛行機に隠れ乗り、サンフランシスコ着陸の数分前にギャルデの前に現れ、彼を縛り、猿ぐつわを嵌め、自分がトロフィーの獲得者として名乗り出た。百万ドルの賞金を手にし、群衆の拍手に応えたこのペテン師は、群衆の中にいた花形スター、ミリアム・キーツを攫(さら)って飛び去って行った。警察は現在、この第一級詐欺師、マックス・ドゥヌワイエとその犠牲者を捜索中。かくの如きとんでもないペテン師は、アメリカにおいて前代未聞であり・・・」
 義理の母 何ていうスキャンダル! でも、新聞も分っていない、自分が報道していることを! 私、マックスの祖母がこの私だと言ってやる。そしてマックスにそんなことが出来る訳がないって!
 スィモンヌ 馬鹿よ、マックスは!
 ミシェル ジェルバルは冒険家だったんです、お義母さん! 今になってそれを否定は出来ない筈ですよ。
 義理の母 あなたの育て方がいけなかったの。育て方さえよければこんなこと、起きっこなかったのよ!
 ミシェル いけないのこの僕ですか、今度は!
 義理の母 怒鳴らなくてもいいの。ほら、スィモンヌが気絶しそう!
 スィモンヌ いいえ、私、大丈夫。でも、ママの言う通り。もしマックスにあんな悪い癖がついてなかったら・・・競馬、女遊び・・・
 ミシェル 僕? 僕? この僕?
(トトとティティ、父親とミミに従って登場。)
 トト 大スキャンダル! 
 ティティ 大大スキャンダル!
 トト 大スキャンダル!
 ティティ 大大スキャンダル!
 父 いかがわしい結婚の結論がこれだ!
 ミミ 国家的恥!
 父 おい、ミシェル、事がここまで来れば、名誉ある家庭も断固たる行動を取らねばならぬ。お前にも想像つくな?
 スィモンヌ そういうことをお話しになっているあなたは一体どなた?
 義理の母 この二十年というもの、お近づきになることを許してなど戴いておりませんでしたわ。
 父 家庭とは、秩序と名誉だ! 私生児がスキャンダラスな行為でドゥヌワイエの名を穢(けが)すなど、断じて私は許さん!
 トト 大スキャンダル!
 ティティ 大大スキャンダル!
 トト 大スキャンダル!
 ティティ 大大スキャンダル!
 ミミ 条件が違ってきた。問題のあり場所も違う。家庭とは論理だから・・・
 父 黙れ、ミミ! 家庭とは、統合だ。スキャンダルのあるところに統合なしだ。ミシェル、お前、マックスがお前の息子でないことを証明する手紙を持っていたな? それを公けにするんだ。さっき話したことをお前、覚えているな?
 ティティ 家庭、それは屋根。
 トト 家庭、それは庭。いい雑草も、悪い雑草も生えるの。
 父 私が認めていない結婚のせいで、いつか厄介事が起るだろうと思っていた。ミシェル、お前の名前の名誉に賭けて、例の手紙を公けにするんだ!
 義理の母 正式に承認された息子を否定するなんて、出来ません。法とは形式なんです! 
 スィモンヌ ミシェルはもう自分の名前に恥をかかせているんです。恥の上塗りをすることはないでしょう。
 父 ミシェルは私の息子だ!
 スィモンヌ ミシェルは私の夫です! 
 トトとティティ ミシェルは私達の甥!
 ミミ ミシェルは私の名づけ子だ。
 父 ミシェルと例の手紙を裁判所に持って行くぞ。この結婚を白紙にしてやる! 私の一族が国際的スキャンダルの原因だなどと、世間に言わせるものか! マックスの正体を先祖に戻って暴(あば)いてやる!
 義理の母 先祖に戻って?・・・それは、お手伝いします!
(群衆の叫び声。)
 義理の母 まあ大変。私達のことを罵倒してる! 野次ってる!
 スィモンヌ 厭なこと! あんなの聞いていられない!
(スィモンヌ、走って右手に退場。)
 義理の母 スィモンヌ、スィモンヌ! あなただけ逃げたりして!
(義理の母、その後を追って退場。)
(群衆の声。)
 ミミ 暴動だ! 革命だ! 一七八九年だ!
 トト ギロチンにかけられてしまう!
 ティティ 私いつも、マリー・アントワネットに似てるって言われてる。真っ先にギロチンだわ、私!
 父 これは深刻な事態だ。さあ、みんな、元気を出して。私は群衆というものを知っている。私の後に続け! 地下室だ! 進め! 足並み・・・揃え!
 トト リリがついていてくれて良かった! 早く!
 父 私が一列縦隊の先頭に立つ!
(ミシェルを残して全員、父親の後に続き、退場。)
(ミシェル、一人残る。)
(義理の母、登場。)
 義理の母 貸して、早く、その新聞を!
 ミシェル 僕が読んだのでは、まだ足りないんですか?
 義理の母 読むんじゃないの。スィモンヌを扇ぐの。扇いでやらなきゃならないって言う時に、あなた、何て冷たい! 何てエゴイストなの、男って!
(義理の母、退場。)
 父(再び現れて。)エゴイストなどとは言わせん! 必ず戻って来る!
(父、退場。)
 義理の母(再び現れて。)じゃ、待っててあげる! 何よ、威張り腐った大公さん! 全く嫌な奴!
 ミシェル うるさい! もう大抵に引込んでいて下さい!
 義理の母 でもね、ミシェル、考えてもご覧、私はもう娘を扇ぐためにここに新聞を取りに来ることさえ出来ないのよ。孫がアメリカ中を騒がすスキャンダルを引起したんだからね。このアパートを自分の好き勝手に歩き回れる日がいつ来るっていうの?
(義理の母、退場。)
 ミシェル 僕が何をやったって言うんだ!
(奥からベルナール登場。エコル・ポリテックニックの制服を着ている。)
 ベルナール パパ。
 ミシェル 誰だ。何か用か。
 ベルナール パパ、僕だよ。
 ミシェル ベルナールか。何だ、その格好は。
 ベルナール ポリテクニックの制服だよ。
 ミシェル 見りゃ分る。だから、どうしてそんなものを着ているのか、と言ってるんだ。お前はバカロレアにさえ通っていないんだぞ。
 ベルナール 写真を撮ろうと思って。
 ミシェル その制服を着てか? 何のためだ。
 ベルナール ママが嬉しがると思って。
 ミシェル 馬鹿なことを! お前、頭がおかしくなったのか?
 ベルナール でもまだ、写真は撮ってない。
 ミシェル じゃ、まだ救いはあるな。
 ベルナール 写真屋に行く途中で、女友達に会ったんだ。モンマルトルのダンスパーティーで知り合った・・・
 ミシェル お前、モンマルトルのダンスパーティーなんかに行ったのか?
 ベルナール その女はその・・・つまり・・・
 ミシェル 何だ? 淫売なのか?
 ベルナール 違う、それは。・・・黒人なんだ、パパ。
 ミシェル お前、黒人の女と踊ったのか。
 ベルナール うん、一、二度。
 ミシェル それでどうした。
 ベルナール それとさっき道で会って、すぐ僕と分って・・・僕の方も分ったんだ。それで・・・それで、僕がそうだって言うんだ。
 ミシェル 何がそうなんだ。はっきり言え!
 ベルナール だから・・・僕らに子供が出来るって。
 ミシェル 何だって?
 ベルナール 父親は僕だって言うんだ。
 ミシェル 父親?
 ベルナール うん。
 ミシェル お前って奴は全く、やることに事欠いて、いかがわしいダンス場で踊って来て、黒人女との間に子供を作っただと?
 ベルナール わざとじゃないんだ、これは。
 ミシェル それで「わざとじゃない」だと? 出て行け、ベルナール! そんな制服はさっさと脱ぐんだ。全く、豚の足にカフスだ、その格好は。家に帰ってじっとしていろ。私が帰るまで一歩も出るんじゃないぞ。いいか!
(ミシェル、部屋から押出すようにしてベルナールを退出させる。)
(オーギュスト登場。)
 オーギュスト(頭に花の冠。)カッコー!
 ミシェル ああ、オーギュスト叔父さん、馬鹿な真似は止めて! 癇癪玉が破裂しそうだ、僕は!
 オーギュスト ほう、ご機嫌斜めだな。
 ミシェル 斜めにもなりますよ。当り前でしょう。一日中家族親戚六人がギャアギャア、ギャアギャア、僕の耳元で怒鳴って、息子のうちの一人は僕の愛人をかすめ取って、おまけにアメリカ中の警察に、前代未聞の詐欺行為で追われている。女房は隣の部屋で気絶していて、その母親はコマネズミのようにあちこち走り回っては、気絶した娘を新聞で扇いでやっている。僕の叔父と二人の叔母は地下室に閉じ籠って群衆の仕返しを怖れて震えている。そこへもって来て、このたったの五分間に僕が聞かされたこと・・・僕はテノール氏の子供だった。いや、実のところ、僕の叔父の子供だった・・・二人の息子のうちの一人ベルナールは、ポリテクニックの制服を着て、こともあろうに黒人に子供を孕ませたと言う。一日でこれだけの事が起きればもう充分だ。僕の家庭サービスはこれで終だ!
 オーギュスト 外で黒人の大男がお前に話があると言っているぞ。
 ミシェル 何ですって?
(と言うが早いか、テーブルの引出しに突進し、そこからピストルを取出す。)
 ミシェル さあ、入ってみろ。即座に撃ち殺すぞ!
 トトとティティ 暴動、終ったようね! 今日は、ミシェル!
(ミシェル、ピストルを空に向けてぶっ放す。叫び声。混乱。トトとティティの後から入って来た父親とミミ、慌ててトトとティティと共に退場。)
 父 お前とはまだ話がある。さっきの話はすんでいないぞ!
 オーギュスト 外の黒人もピストルを出したぞ。私があいつの耳元にこっそり何か喋ってやる。
(オーギュスト、退場。)
 義理の母(登場。)暴動? 殺しに来るの? 私達を。
 ミシェル バーン!
 義理の母 ああ!(叫び声を上げて、走って退場。)助けて! 警察を!
(ミシェル、ピストルを机の上に置き、元の位置に戻る。へとへとになってソファまで来て、坐る。頭を背もたれにあて、両目を閉じる。)
(照明が四、五度、チカチカとする。そしてまた普通の明るさに戻る。)
(部屋の扉が開き、第一幕の看護婦登場。ミシェルに近づき、囁き声で言う。)
 看護婦 もしもし・・・
 ミシェル 家族はいらない。家族はまっぴらだ・・・
 看護婦 もしもし・・・
 ミシェル イザベル・・・今、君、どこ?
 看護婦 どうか、目を覚まして・・・
 ミシェル ええっ? 何? イザベ・・・
 看護婦 おめでとうございます。お二人ですよ!
 ミシェル 二人? 二人とは・・・何が・・・
 看護婦 ええ、お二人・・・双子です。
 ミシェル 双子?
 看護婦 ええ、双子! ご家族の繁栄の印ですわ! 母子共に順調です。まだお医者さまはいらしてます。
 ミシェル だけど・・・
(三秒経ち、ミシェル、すっかり意識を取戻す。一瞬「イザベル!」と声を上げようとするが、おさえる。)
 ミシェル 男なんだね? 二人とも。
 看護婦 ええ。素敵ですわ!
 ミシェル(呆れて。喜劇的に。)おお! おお!
(ミシェル、隣の部屋へと進む。)
                  (幕)


  平成十九年(二00七年)六月二十四日 訳了





http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.htm




La Sainte Famille a ete representee pour la premiere fois le 10 mai 1946 sur la scene du Theatre Saint-Georges, a Paris, avec la distribution suivante;

Michel... MM. Robert Murzeau
Le Pere... Leon Walter
L'oncle Auguste... Robert Seller
Max (10 ans)... Jack Grandjon
Bernard (10 ans)... Claude Groell
Max (20 ans)... Jean Piat
Bernard (20 ans)... Louis Velle
L'oncle Mimi... Henri Mairet
Un Docteur... Pierre Regy
Un Journaliste... Robert Durran
La Belle-Mere... Mmes Marguerote Pierry
Simone... Suzet Mais
Isabelle... Marcelle Dambremont
Ginette... Noelle Fougeres
Tante Toto... Germaine Grainval
Tante Titi... Florence Briere

(Decor de Georges Wakh\'evich)
(Mise en scene de Jean Meyer)