愚かな女

             マルセル・アシャール 作

               能美武功 訳

 

 

登場人物

カミーユ・セヴィニエ  予審判事

instruction~~~予審

バンジャマン・ボールヴェール  

エドゥアール・ラブラーンシュ  検事

substitut~~~代理人 ここでは検事

ジュリアン・モレスタン  書記 

greffier~~~書記

エリー・カルディナッル  弁護士

ジョセファ・ラントゥネ

アントゥワネット・セヴィニエ

マリー・ドミニック・ボールヴェール

 

この芝居の初日は、テアトル・アントゥワンヌ(スィモンヌ・ベリオ)において、1960年9月22日に、舞台装置、ヴァケヴィッチ、演出、ジャン・メイエールで演じられた。

 

      第 一 幕

一二三幕とも、同じ舞台装置

パリの予審判事の事務所

質素といふよりは、派手な感じの装飾

crasseux~~~垢だらけの

奥の扉は廊下に面してゐる。順番で待つてゐる被疑者、証人たちが坐つてゐるベンチが見える。

inculpé~~~被疑者、容疑者

大きなテーブルが二個、二つとも書類の山で埋まつてゐる。それが正面に見える。

左手のテーブルが判事の、右手のものが、書記の坐るテーブル。

(訳註:これはどうやら、向つて左、向つて右、の意らしい。)

書記の机の後ろにある窓から電気の光が入つて来て、判事の机とその前

に坐つてゐる被疑者の椅子を照らしてゐる。

 判事の後ろにテーブルあり。(これは奇妙なこと。テーブルは二個と最初に書いてある。)その上に、裁判を意味する大きなアンピール(これはメーカーの名前か)の振子時計がある。但し、時計の針はない。

 ファイルのキャビネット、押入れ、が到る所に置いてある。キャビネットからは、書類がはみ出してゐる。

classeur~~~書類整理箱

placard~~~押入れ

dossier~~~書類

 壁に旅行会社の広告が数枚。そのうちの一つは、告解者たちが黒と赤のカグールを着た、聖者の週間を示す広告。

pénitent~~~告解者

cagoule~~~(目と口の部分だけ開いた)頭巾つき袖なし外套

 1958年12月の午後。外は陽は照つてゐるが寒い。

 午後3時。

 

 判事セヴィニエは34歳、しかしその年よりはずつと若く見える。

 迫力あり、活力ある。本当の若さ。その笑ひは心底明るく、皮肉と陽気さにあふれてゐる。出世に対する意欲、あり。しかし、出世のために仕事をそちらの方向に持つて行くやうなことはしない。(仕事は仕事できちんとやる。)

arriviste~~~出世主義者

 書記のモレスタンも同じ年。しかしこちらは役人風。物事をテキパキとやらうとする意欲、なし。そのせゐでセヴィニエがよけい楽しい男に見える。

 判事と書記は自分の席についてゐる。二人はかなり離れた場所にゐる。そのため、二人が会話するときは声を大きくする必要がある。それど、耳の聞こえない同士の会話のやうに聞こえる。

 

セヴィニエ しかし、調書によれば・・・

interrogatoire~~~調書

モレスタン(公式の発言の口調)彼女の姉さんです、それは・・・

セヴィニエ ああ、さうだな。

モレスタン 義理の兄のはうは否定してゐます、そのことを。

セヴィニエ しかし、子供は・・・

モレスタン 子供・・・子供は否定しないでせう。決つてゐます。

セヴィニエ (それみろ、といふ調子で)それで?

モレスタン だから、違ひます。

セヴィニエ 違ふつて、何がだ。

モレスタン パリ祭の7月14日だつたからです。

セヴィニエ パリ祭で、どうだつて言ふんだ。

モレスタン パリ祭で、その子がおばあさんを殴つたんです。

セヴィニエ 殴らうと何をしやうと、関係ないだらう?

モレスタン 場所です、その殴つた。シャティヨン・スウ・バニヨでなのです。

セヴィニエ 何度も言ふな、それを。

モレスタン でもそれしかありませんからね。

セヴィニエ それ以上のことがある、と言ふ言い方だな、それは。

モレスタン それ以上のことがなければ、ことは簡単ですがね。

セヴィニエ よく分らんな。

モレスタン 判事さん、靴直しのことを考へたこと、ないんですか?

セヴィニエ 勿論ときどきは考へたさ。

モレスタン あいつですよ、事の起りは。

codonnier~~~靴直し

セヴィニエ それがどうやつて分つた。

モレスタン コラ警部が電話したんです。

セヴィニエ(勢ひよく)リーベルクランツにか。

モレスタン 違ひます。

セヴィニエ ホッホテッターにか。

モレスタン 違ひます。

セヴィニエ ヴィニエットにか。

モレスタン 違ひますよ。

セヴィニエ ブレモンチエにか。

モレスタン 見当違ひもいいところです。どうして聞かないんです、単純に。あいつはブロックトに会つたのか、と。

セヴィニエ(ハツとして)何だつて? あいつ、ブロックトに会つたのか?

モレスタン いいえ。

セヴィニエ なんだ。さつぱりだな。

モレスタン コラ警部は、電話した後、オーベルパンに会つたんです。オーベルパンはブロックトに会つてますからね。

セヴィニエ それで?

モレスタン 否定してゐます。

セヴィニエ フン、あいつもか。

モレスタン 誰もが否定してゐます。シャリニオン以外はすべて。

セヴィニエ 偉いな、シャリニオンは。

モレスタン ただ、どうもこのシャリニオンといふ男は信用が出来なくて。

セヴィニエ 当り前だ。こつちから聞きもしないのに「さうだ」と言ふんだからな。

モレスタン(皮肉に)さうです。

(少しの間)

セヴィニエ こいつは案外厄介な問題だぞ。

モレスタン 判事さん、事件といふものはすべて厄介なものです。一番よくご存知なのは勿論判事さんですが。こんな小さな問題だつて厄介なものですよ。

セヴィニエ あいつがなあ、「寝取られ男」だつたら、事は簡単なんだが。

モレスタン(熱を込めて)あいつはそれです。それに決つてゐます。

セヴィニエ それで、あいつは気づいてゐるといふのかな?

モレスタン 「いふのかな?」 とは?

セヴィニエ 気づいてゐるのか、ゐないのか。

モレスタン 気づいてつこないですよ!

セヴィニエ すると息子のことは? 世間は、あの男の子供と見てゐるのか。

モレスタン あの子がおばあさんを殴つてからは、さう見てゐますね。

(少しの間)

セヴィニエ なるほど。君のお蔭だな。二人で共同で働いてゐるんだな、私は。

モレスタン(非常に協力的に)ああ、それ、私も今思つてゐたところです。

セヴィニエ うん。頼むよ、私が脱線しさうだつたら・・・

embarquer~~~乗り込む、だが、(船が)水をかぶる、巻き込む。

モレスタン 安心して下さい、判事殿。そのために私がここにゐるんですから。二人だと、間違ひを冒す可能性は少し減りますからね。

セヴィニエ ありがたいことに、すべての事件がこのシャリニオンのやうに込み入つてはゐない。例へば、フザンドリ通りの事件など、澄みきつたものだつた。

モレスタン 澄みきつたもの!

(扉が開く)

(アントゥワネット、登場)

(アントゥワネットはセヴィニエの妻。若くて美人、そして陽気。両手に花を沢山抱へてゐる。)

アントゥワネット 今日は。

セヴィニエ ああ、アントゥワネット。君、モレスタンは知つてゐたね? 僕の書記だ。

アントゥワネット(愛想よく)夕べ、チラとお見かけしましたわ。

モレスタン 今日は、マダーム。

セヴィニエ 家でやるやうに部屋に入るのはもう止めなきやならんな。ここで起ることは重要なんだ。時々は深刻なこともある。

アントゥワネット あ、さう、分つたわ。

セヴィニエ どうしたんだ、その花は。

アントゥワネット 花瓶に入れるのよ。あなたの部屋のことですからね。どうせ陰気なものだらうと思つて。

lugubre~~~陰鬱な

セヴィニエ 予審判事の部屋は、お祭りといふわけにはゆかないからな。その花は持つて帰つて貰はう。

(アントゥワネット、机の上にある写真の額を指さして)

ぢや、私の写真も花なしなのね?

セヴィニエ 申訳ない。

アントゥワネット(外套の襟を立てて)ここ、寒いわね。

セヴィニエ 君、それを誰に言つてるんだ?

モレスタン 判事さんに、温まつていただくために、あつちこつち歩きまはるのをお奨めしてゐるんです。身体によいですし、被疑者にある印象を与へることも出来ますからね。

アントゥワネット(冷たい口調で)ああ!

(少しの間)

モレスタン シャリニオンの口述書を誰かにとつてきて貰つてはどうかと思ふのですが。如何です?

セヴィニエ ああ、仕事の話は、あとで二人でやらう。

(モレスタン、退場)

アントゥワネット(つくづくと部屋を眺めて、軽蔑をこめて)あなた、こんな部屋で仕事、成功すると思つてるの?

セヴィニエ 部屋が成功の鍵だとは思つてないが・・・しかし、これは酷いな、たしかに。

アントゥワネット やれやれ、ね。それから、他にエレベーターはないの?

セヴィニエ(仕方なし、の身振り)ないね。

アントゥワネット 楽しいこと! 一階で待つてたとき、17人もゐたわ。ブルゴーニュ通りの人殺しと一緒に上つてきたのよ。

セヴィニエ それはないだらう。被疑者には別のエレベーターがあるからね。

prévenu~~~被疑者

アントゥワネット でもやつぱりさういふ人相だつたわね、その人。怖い、怖い。半分カジモド、半分フランケンシュタイン。隣の人が舌打ちをしてゐたわ。

セヴィニエ(面白がつて)可哀想に、アントゥワネット。

アントゥワネット その人、私に「その花、私のために、ですか?」つて聞いたわ。

セヴィニエ 言つたらう? 花なんか、この部屋には必要ない、と。

アントゥワネット あなたのお母さんのところに持つて行くわ、私。

セヴィニエ 自分が死ぬのか、と思ふな、きつと。

アントゥワネット 私、説明するわ。一昨日人がくれたんだけど、もう枯れてきたからつて。

セヴィニエ(皮肉に)僕の母親のこと、君、嫌ひなの?

アントゥワネット(自分のまはりの様子を眺めて)ヴェルサイユのあなたの事務所、よかつたわ。

セヴィニエ ここはパリだぞ。分つてゐるんだらうな? パ リ だ! それに僕はまだ34歳なんだからね。

アントゥワネット あなた、成功する気なのね?

セヴィニエ まあね。

アントゥワネット あなたのその年だと、未来はすぐそばなのよ。分つてゐるんでせうね?

セヴィニエ 分つてる。

アントゥワネット あなたのことしか考へてゐない人、あなたの母親、がゐるんですからね。

セヴィニエ それも分つてゐる。

アントゥワネット 私の両親のことも考へて下さらなくつちや。あなたの母親よりもつと、ずつとくたびれてゐる私の両親・・・

セヴィニエ うん。あの二人のことしか考へてゐないよ。

アントゥワネット 検事とはどうなの? あなた。 

procureur~~~検事

セヴィニエ うん、うまく行つてゐる。

アントゥワネット 私、検事総長のことを言つてゐるのよ。

セヴィニエ うん、彼とのことを、今言つた。

アントゥワネット 優しくしてあげるのよ。

セヴィニエ(面白がつて)分つたよ!

アントゥワネット さからつては駄目。はいはいと言ふことを聞くの。

セヴィニエ はいはい。

アントゥワネット だいたいさういふ人は、正しいことしか言はないんだから。

セヴィニエ さう。裁判となると、自由といふことの意味は、服従、といふことだからね。

アントゥワネット 馬鹿なことを言はないの!

セヴィニエ(怒つて)僕は真面目に言つたんだ!(電話、この言葉にかぶせて鳴る。受話器を取り、非常に冷たく)はい、こちら、セヴィニエです。(突然友好的に)はい、検事殿!

アントゥワネット さうさう、その調子!

セヴィニエ(もつと友好的に)分りました、検事殿!

アントゥワネット よろしい!

セヴィニエ 承知いたしました、検事殿!

アントゥワネット その調子よ!

セヴィニエ それは光栄です。喜んで。

(受話器を下す)

アントゥワネット 分つたわ。検事ね? 何て?

セヴィニエ 土曜日の夜、二人、食事に誘はれた。

アントゥワネット(満面に笑みを湛へて)検事総長が夕食を招待?

セヴィニエ いや、地方局の検事殿だ。

アントゥワネット(がつかりして)それでもたいしたものだわ。

セヴィニエ(心配しながら)まづいんだ。僕はロシュフォールとの先約がある。

アントゥワネット あなた、承諾したの? しなかつたの?

セヴィニエ ロシュフォールは古い友達だ。それにあいつは大好きなんだ。

アントゥワネット あなた、承諾したの? しなかつたの?

セヴィニエ アルビに発つ、すると六箇月は会へない。

アントゥワネット 検事とアルビのちつちやな判事の間であなた、迷つてるの?

セヴィニエ 迷つてはゐない。しかし、あまり品はよくないな。

アントゥワネット(冗談を飛ばす)裁判となると、自由といふことの意味は、服従、といふことだからね。

セヴィニエ お前だぞ、ロシュフォールに電話するのは。

アントゥワネット 狡さを隠す勇気もないのね。

セヴィニエ あいつに辛い思ひをさせるのが厭なのでね。お前だつたらへいちやらだ。

アントゥワネット ええ、それはへつちやら・・・あなた今日、何時ごろ終るの?

セヴィニエ 分らないね。まあ8時・・・うん、8時かな。

アントゥワネット(誠実に、優しく)私、もう少し長くてもいいわ。ええ、ほんと。もう少し長くつたつて・・・

セヴィニエ(その言葉に心を打たれて)ああ、僕のよき妻!(両手で彼女を抱く)あのね、僕はね、君までは、知らなかつたよ、愛つていふものを。

アントゥワネット 私も。(陽気に)でも私、想像してゐたものに、これ、近かつたわ。

セヴィニエ アントゥワネット!

アントゥワネット キスして頂戴!

セヴィニエ 扉の後ろがあるよ! もし誰か入つてきてごらん。目のやり場に困るぞ。(この訳、自信なし)

アントゥワネット(近づいてくる夫に)あなた、成功する? 偉大な判事さんになる? ここより高い階に上る?

セヴィニエ(少し怒つた調子で)お前、この僕の平凡さが厭なんだな? 五階でエレベーターなし、薄べつたい鉄板のあの車、贋の革で出来たお前の外套、それが厭なんだらう?

アントゥワネット 怒らないで。そんなのたいしたことぢやないわ!

セヴィニエ あの、馬鹿検事総長のパロデの奴。あいつのことを思ふと・・・

アントゥワネット ええ、でも、ペコペコをずゐぶんやつたのね、あの人。

courbette~~~平身低頭

セヴィニエ ペコペコに関して言へばな、僕に誰にだつてへいちやらだぞ。艶出しブラシの王様になつてみせる。土曜日にそれが君にも分るさ。

brosse à reluire~~~艶出しブラシ

アントゥワネット あら、変な目つきだこと!

セヴィニエ どんなことでもやるぞ。この穴蔵から抜けだすためなら。

アントゥワネット 悪いことも?

セヴィニエ(それには答へず)放つといてくれ。当面その問題はないからね。

(二人、キス。かなり長い。ノックの音。二人、慌てて離れる。)

セヴィニエ どうぞ。

(モレスタン、登場)

モレスタン 書類が見当たらないのです。ここに置いてきたらしくて。

セヴィニエ(威厳をすつかり抜いて)どうしたんだあれは、モレスタン。今ここに入るとき、ノックをしたな?

モレスタン ええ・・・

セヴィニエ この事務所は、君のものでもあるのだ。いいか、私には隠すものなど何もない。

モレスタン(いぢわるい顔で、セヴィニエの口紅のついた唇を指さし)ああ、お怪我でも?

アントゥワネット(笑ふ)この人、をかしい!

(セヴィニエ、ポケットのハンカチで唇を拭く)

セヴィニエ(アントゥワネットに)4時20分前だ。遅刻しないやうにする、僕は。

アントゥワネット(優しく誠実に)私ぢやないの、あなたよ、いつも遅刻するのは。

(投げキスを送り、退場)

モレスタン 素敵な奥様ですね。

セヴィニエ(煙草に火をつけて)ありがたう!

モレスタン 時々はここに来て戴きたいです。

セヴィニエ そこを君は強調した、と女房には言つておくよ。(二人、笑ふ。ノックの音)どうぞ!

(ラブラーンシュ、登場)

(ラブラーンシュは地方検事の代理人。セヴィニエより地位は高くない。しかしセヴィニエは誰に対しても機嫌よく応対する主義。ラブラーンシュに対してもその態度)

(ラブラーンシュはセヴィニエより若い。身だしなみよし。洒落た格好)

(ラブラーンシュは繊細といふよりも腹黒いはう。何となく横柄、人を不快にさせる態度あり)

matoi~~~腹黒い

モレスタン(急いで立ち上る)ああ、代理人さん・・・

ラブラーンシュ(握手のための手を出し)ラブラーンシュです。

セヴィニエ(こちらも立ち上り)ああ、よくいらつしやいました。煙草は?

ラブラーンシュ(冷たく)いいえ、いりません。

セヴィニエ ああ、困つたな、まだ尋問まで行つてゐないのですが・・・

ラブラーンシュ(偽の、人のよさ)あの素敵な女性を尋問なさつたのではないでせうね? さつきここから出て行つた、花を一杯かかへた、あの人を。

セヴィニエ(わざとつきはなしたやうな傲慢な言ひ方で)あれは妻だ。

détachement~~~離脱、平然たる態度

ラブラーンシュ ああ、それはおめでたうございます。

セヴィニエ 引越の最後の点検にやつて来たんです。

ラブラーンシュ では土曜日にまたお逢ひ出来ますね。検事さんとの食事には、私も同席しますので。

セヴィニエ ああ、それはよかつた。

(ラブラーンシュに椅子を勧める)

ラブラーンシュ(坐りながら)ここに来ましたのは、引越のお祝を述べるだけではなくて、ちよつと・・・

セヴィニエ(突然緊張する)何か?・・・

ラブラーンシュ フザンドリ街の殺人に関する訊問をなさるんでしたね?

セヴィニエ 4時にここへ、最初の証人たちが来ることになつてゐます。

convoquer~~~召集する、呼び出す

ラブラーンシュ(はつきりと、高飛車に)まつたくつまらん事件だ、あれは。

cassant~~~高飛車な

セヴィニエ そんなことはない!

ラブラーンシュ(喜びのない微笑)こんな比較を持ち出すのはどうかと思ひますが、あれはコンビニ。ありふれたものです。

セヴィニエ(こちらは本当の笑ひ)平和通りの? まさか、さういふ風には行かないでせう。(自信なし)

Uniprix~~~コンビニ。価格統一、の意

ラブラーンシュ 素つ裸で死体の傍に横たはつてゐた若い女、死体はその女の恋人だつたんですからね。これは明らかですよ。

セヴィニエ おまけにその男を撃ち殺した拳銃を手に握つてゐたんぢやな。

ラブラーンシュ(言訳でもするやうに)まあ、気絶してゐるのも当然でせう。

セヴィニエ(皮肉に)撃つて倒れたのが自分だつたとはな。

ラブラーンシュ しかし、彼女の話といふのがまつたく辻褄が合はないんですからね。彼女はその殺害者を見たと言ふのですが、それが男かどうかも分らない。奇妙な影が扉を開け、発砲し、跡形もなく消えた。

セヴィニエ(さつきと同様な皮肉な調子)うん、当然と言へば当然だが。

ラブラーンシュ その殺人者が、通りに出たとき、誰も止めなかつた、それはどうしてか、と思つてしまひます。

セヴィニエ 二三細かいところで辻褄が確かに合はない。これからすぐ尋問だが、一時間すれば、拘留は確かだ。

ラブラーンシュ 情事がらみの殺人です、当然。

セヴィニエ 当然ね!

ラブラーンシュ 新聞が三行でこの事件を片づけたのは適切でしたよ。こんなありふれたものを、根絶やしにすることは無理ですからね。

セヴィニエ(自信なく)まあね。

(原文は Ce serait bête.  訳に自信なし)

ラブラーンシュ 女、誰とでも寝る女、だ、まあ。自分では、ファム・ドゥ・シャーンブルとでも言つてゐるかもしれないが。

セヴィニエ さう、上部屋の女、とね。

ラブラーンシュ 男のはうは、上部屋の男、と言つてゐるか。まあ、真の意味で、何でも屋だ。(エスカレートして)フランス人でもないね。

surenchérissant~~~エスカレートして

セヴィニエ 勿論!

ラブラーンシュ スペインで死刑を宣告され、飛行船で逃げやうとして怪我をし、同郷の人間とナイフでの決闘をして・・・まあ、下らん男だ。

exigeant~~~多くを要求する

compatriote~~~同国人

セヴィニエ 君、想像、たくましいね。

ラブラーンシュ ええ、まあ。とにかくそんな死に方をする男ですよ。

セヴィニエ 最後は死体解剖の目に遭ふ・・・

autopsie~~~死体解剖、検死

(モレスタン、ゲラゲラつと笑ふ)

(ラブラーンシュ、それを見る)

(モレスタン、笑ふのを止める)

ラブラーンシュ(セヴィニエに)テキパキと始末して貰ひたいですな。

rondement~~~テキパキと

セヴィニエ テキパキと、ね。

ラブラーンシュ 彼女は有罪です。

セヴィニエ ええ、私もさう思ひます。

ラブラーンシュ(再び強く)有罪。きつかりと有罪。

セヴィニエ さうでせう。

ラブラーンシュ 無罪ではあり得ません。

セヴィニエ ええ、分ります。

ラブラーンシュ 地方検事殿は、あなたがこの件を出来るだけすみやかに処置することを望んでゐます。裁判といふものは高くつきます。政府の負担を出来るだけ軽くしてやらねば。

(立上る)

セヴィニエ さうさう、さうです。

ラブラーンシュ それに、できるだけ速やかな処置、にはもう一つ理由があります。

セヴィニエ ほほう。

ラブラーンシュ 被害者も加害者も、ボー・ルヴェール銀行の職員だつたのです。

セヴィニエ(意味が通じない)よく分りませんが。

ラブラーンシュ ボールヴェールを知りませんか? フザンドリ通りの。

セヴィニエ いや、申し訳ありません。

ラブラーンシュ ボー・ルヴェールですよ。外貨で儲けた。日の出の勢ひの。

モレスタン(感嘆の声を上げる)ピニュロレースのサン・モールです、その銀行は。

(ピニュロレースのサン・モール、不明。多分「成金」の別名と思はれる)

セヴィニエ ほほう、さうだつたのか。

ラブラーンシュ あの事件は、ボー・ルヴェールの持つてゐるホテルの使用人の部屋で始つたのです。一般に広く知られて嬉しいものではありません。ボー・ルヴェール関係者たちはみんな、この事件が広まることを恐れてゐます。

pâture~~~牧草地

セヴィニエ ほほう。

ラブラーンシュ 地方検事殿も、勿論そんなことがあつてはならないと思つていらつしやいます。

セヴィニエ 分つた、分つた。

ラブラーンシュ お偉方の何人もの人が、同じ意見です。

セヴィニエ 手元にある書類全部、その意見に満足の行く答が出て来る方向にあります。

ラブラーンシュ それは良かつた。

セヴィニエ(冗談まぢりに)私のボー・ルヴェールの側にゐます。まあ、私自身がそこの女中のやうなものだな。

ラブラーンシュ 彼女は全てを否定してゐます。しかしボー・ルヴェールはもつと。全面否定です。

セヴィニエ シャリニオンを除いてはね。

ラブラーンシュ(扉の方に進んでゐて、この言葉を聞いてゐない)自白を引き出して下さい。あの女は馬鹿です。だから、たいした手間はかからないと思ひます。

セヴィニエ さう。多分。

ラブラーンシュ(扉の傍まで来て)あの女の子のやうな犯人なら、警察だつたら、お手のものです。裁判所なら、便利がよい、といつたところでせう。

セヴィニエ ええ、まあ。

ラブラーンシュ(笑ひのない陽気さで)良心の出る幕などない事件ですからね。お願ひします。

セヴィニエ はいはい、それほど片輪なものといふことですね?

ラブラーンシュ(セヴィニエの手に握手して)あんた、なかなか良いですね。寒いな、ここは。妙なことを考へると余計寒い。あなた、成功しますよ。

セヴィニエ さうあつて欲しいがな。ぢや、土曜日。

ラブラーンシュ ぢや、土曜日に。

モレスタン 失礼します。代理人殿。

(しかし、ラブラーンシュは、この挨拶を無視し、去る)

セヴィニエ シックな男だな。だけど、寒いと言つたな。僕はここが寒いとはちつとも思はないが。

(註:このラブラーンシュが、「この部屋が寒い」といふのも、自分が犯人側にゐるので、寒く感じる、といふ作者の意図がある、と思ふ)

モレスタン(答を避けて)もうすぐ4時ですよ!

セヴィニエ ああ、さうだ!

モレスタン(優しく)判事殿、あなた、あれに影響を受けたんぢやないでせうね?

セヴィニエ いやいや、別の方向だね、考へてゐたのは。判事は検事より上位にある。その優越性があるからね。

モレスタン 言ひますね!

セヴィニエ 私はね、今の会話であの女の子のことを初めて考へたよ。彼女のはうは僕のことをこの三日、考へ続けていてくれたと思ふがね。

モレスタン(冗談に)しよつてますね!(セヴィニエの目つきを見て)あ、失礼!

veinard~~~運の良い人

セヴィニエ いやいや、私は冗談で言つたんぢやない。彼女はおどおどしてここにやつて来る筈だ。おどおどを隠す余裕もない。こちらが質問して来さうなあらゆる問に全て答を用意してね。

モレスタン さうですね。

セヴィニエ 分つてゐないやうだね、君には。大事なことは、あの子に我を忘れるやうにしむけることなんだ。それをする絶好の機会といふものを拵へる必要がある。我々は彼女のことなど忘れてしまつた、といふふりをする。最初はあちらのはうに話させる。お人よしを演じ、あの子のパパになつてやる。そしてあちらが予想もしてゐない時に突然、轡(くつわ)をはめてやるんだ。

affoler~~~逆上する

ferrer~~~鉄具をはめる、

モレスタン(夢みるやうに、誠実に)なるほど、くつわをはめる、か。

セヴィニエ こんなことで驚いてはいけない。本質の前にまづ二義的なことを問ひつめる。

モレスタン それで?

セヴィニエ 事実の前に、まづ人間そのものがある。

モレスタン と言つても、事実は・・・

セヴィニエ 事実は袋のやうなものだ。中が空だときちんと立たない。事実を引き起こした動機、感情といふものがある。

モレスタン(懐疑的に)ええ、それで、袋は立ちますかね?

セヴィニエ この娘は何者か。どういふものが行動のきつかけになつてゐるか。その感情は。さういふことをまづ知らねばならない。

モレスタン ここの前任者は・・・

セヴィニエ(途中で口を入れる)前任者は彼のやり方があつたらう。私には私のやり方がある。一時間後には、私は本質を知るやうになる。

モレスタン しかし・・・

セヴィニエ ああ、入つて貰へ。

(セヴィニエ、机について、何か書くふりをする)

(モレスタン、扉を開ける)

(扉の後ろに、観客から、ベンチに坐つてゐるジョゼファが見える。警察官がついてゐる)

(書記の合図で、ジョゼファ・ラントゥネ、部屋に入る)

(ジョゼファは非常な美人。そして出が悪いにも拘らず、とても上品)

(落ち着いた声。上品ではないが、決して俗ではない話し方)

(機智があるとは言へないが、非常な率直さ、そして本当の意味での良識、機智よりずつと度外れたもの)

(非常な性的魅力。自分でそれを出さうといふ気持が全くないのに)

(ただ、非常に短いスカート)

déroutant~~~度外れの

モレスタン(目を上げず)坐つて。

(モレスタン、中央の椅子を示す。ジョゼファ、坐る)

(長い間)

(モレスタン、自分の席につく。時々ジョゼファを盗み見する)

(セヴィニエ、熱心に机で、何か書き物をしてゐる)

(ジョゼファ、全く表情を変へず、真直ぐ前を見てゐる)

(沈黙があまりに長いので、)

ジョゼファ(周囲には全く影響されず)煙草吸つていいかしら。

モレスタン(そつけなく)駄目です。

(また沈黙。だんだんと辛くなつて来る)

ジョゼファ(もう我慢できず)今日ぢやなかつたの? 明日なの?(二人、何も言はない。また沈黙)ジュイーヴと傘の話、あなた、知つてる?(二人、怒つた表情で、ジョゼファを睨む)ああ、分つた。まだ判事さんが来てゐないのね?

セヴィニエ 私だ、判事は!

ジョゼファ(あてがはづれて)あら、分らなかつたわ!

セヴィニエ(鋭く)何故。

ジョゼファ(用心深く)分らない。

(セヴィニエ、肩をすくめる。ジョゼファを沈黙で驚かさうとした計画は、これで失敗。セヴィニエ、作戦変更を余儀なくされる。受話器をあげ、ダイヤルを回す)

ジョゼファ 私、この三日、判事さんのことを考へる暇なんて、全然なかつたわ。

(と、判事のはうを見る)

(セヴィニエ、モレスタンを見る:二人のジョゼファに対する予想は違つてゐましたね、といふ目つき)

dément~~~démentir~~~裏切る

prévision~~~予想

セヴィニエ(受話器に)もしもし、レスパール? 新聞に何も出てないな? 何を言つてるんだ、違ふ。フザンドリ事件だ。まだか?(怒つて)『足踏み状態』? 何だその言ひ方は。冗談は止めろ。面白くもなんともない!

piétine~~~足踏みする

(受話器を下す)

ジョゼファ あなた、とつつき難い人ね!

commode~~~(主に否定で)とつつき易い

セヴィニエ 君が判断することぢやない。

ジョゼファ(笑つて)いいえ、私の判断すること。

セヴィニエ(厳しく)名前は?

ジョゼファ ジョゼファ・ラントゥネ

セヴィニエ 生れは?

ジョゼファ ええ、生れてゐるわ。

セヴィニエ 分つてゐるのに、はぐらかすのは駄目だ。どこだ、生れは。

ジョゼファ ドゥロームのエスポレット。

セヴィニエ 年は?

ジョゼファ 二十四歳。でも普通は、その年には見えません。ここでは違ふでせうけど。

セヴィニエ 職業は?

ジョゼファ ファム・ドゥ・シャーンブル。話は違ひますけど、ここ、あまり良い部屋ぢやないわね。

セヴィニエ(嘲笑的に)さうかね?

ジョゼファ ここに午後に来るやうに言はれたけど、午後でないととても駄目ね、これぢや。

(セヴィニエ、書類を見ながら尋問をする。これは最後まで続く)

セヴィニエ 君の雇主は、君のことを「働き者」と言つてゐる。

ジョゼファ 怠け者つて、とても、とても、とても金持でなければなれないわ。さうでなければ、とても、とても、とても貧乏でなければ、ね。

セヴィニエ マゼット、お前は頭がいい。

(能美註: マゼットはドン・ジョヴァンニの登場人物)

ジョゼファ (褒められて)嬉しいわ。掃除、洗濯、料理、全部好き! でも、どういふ訳か、私、縫ひ物は嫌ひなの。

セヴィニエ ほう、それは面白い。

ジョゼファ 縫ひ物はうんざり、俗な言ひ方だけど。それにあそこでは乳母がゐてみんなやつてくれる。縫ひ物なんかしなくてもいいの。

fastidieux~~~うんざりする

nourrice~~~乳母

セヴィニエ 生れてからずつとファム・ドゥ・シャーンブル?

ジョゼファ いいえ。父はドゥロームのエスポレットで農業と葡萄畑。私はだから、畑と葡萄の仕事。ボールヴェール夫妻のお城から二キロのところ。

セヴィニエ 被害者を知つたのは、そこでだつたんだね?

ジョゼファ ミゲルは下男兼運転手だつた。自然知るやうになるわね。

セヴィニエ(急に、話題を変へ)まだ両親はゐるの? どうやら・・・

ジョゼファ 母はゐないわ。普通と違ふわね、これ。父親のはうがゐないのが普通だから。

セヴィニエ 説明して。

ジョゼファ 母は鉄道の人と駆落ちしたの。私の今よりちよつと下ぐらゐの時に。

セヴィニエ 「若い」と言ふな。

ジョゼファ 「若い」なんて、つまらないわ。

セヴィニエ いいから「若い」と言ひなさい。

ジョゼファ 私の今よりちよつと若い時に。

セヴィニエ 父親は?

ジョゼファ 父、好き、私。もう会ふことないけど、とても好き。えんどう豆みたい。

セヴィニエ え?

ジョゼファ あなただつて父のこと好きになるわ。自分の娘のことを、何て自慢にしてたんでせう! 喫茶店のお兄ちやんたちにまで自慢するの。

セヴィニエ ああ、これは脱線だ。

ジョゼファ 父は、私とミゲルの間に何かあつたといふ噂を聞いたの。さうしたら私に電報をくれたわ、「決して帰つて来るな。さうすれば無事に収まる」つて。

(モレスタンとセヴィニエ、笑ひをこらへる。)

réprimer~~~抑へる

セヴィニエ ははは・・・

ジョゼファ 父つたら可笑しい人。でも、父が電報した・・・父が、よ・・・電報をよ! だから私、分つたの。これは無事には収まらないなつて。」

セヴィニエ 田舎の友達に言つて、父親に事情を話して貰つたらよかつたんだ。

ジョゼファ 田舎には私、友達はゐないの。あそこの方言、とても難しくて、喋れなかつた。

セヴィニエ(お人よしの感じで)それで、ミゲルと君の間には、何かあつたんだね?

ジョゼファ まあ、馬鹿な質問!

セヴィニエ 答へて。

ジョゼファ 私とミゲルは素つ裸で倒れてゐるのを見つかつたわ。男と女が裸でベッドにゐるなんて、仲が悪かつたら、ないことでせう?

セヴィニエ まあね。

ジョゼファ たとへ女が売春婦でもね。それから私のやうな「楽しみの娘」でも。

セヴィニエ 自分のことを「楽しみの娘」つて言ふの? 何故?

ジョゼファ 警察が私につけた名前。

セヴィニエ それは警察の間違ひだ!

ジョゼファ(笑ふ)「楽しみの娘」(夢見るやうに)娘・・・楽しみ。それをくつつけるの! そして「楽しみの娘」。馬鹿よ、警察なんて!

fille de joie

セヴィニエ ああ、表現に気をつけて。警察を馬鹿呼ばはりはまづい。

ジョゼファ あばずれだつたら、やはり言ふわね。ミゲルの田舎では、言ひまはしがあるわ、あばずれのこと。「若いあばずれ、老いた聖女」

garce~~~あばずれ

セヴィニエ ああ、また脱線だ。

ジョゼファ(モレスタンに)私にね、過去があるものだから、何を言つてもいいつて思つてるの、警察は。

セヴィニエ その「過去」といふのを少し話してくれないかな。

ジョゼファ ええ、勿論。

セヴィニエ(書類を見ながら)これによると、ミゲル・オストスは、君を手籠めにした、とある。

ジョゼファ おやおや!

セヴィニエ オートリ―ヴでの証人によれば、君がミゲルのことを話すのに、「私を手籠めにしたあの馬鹿」と言つた、と。

ジョゼファ 会話ではいろいろ言ふわね。

セヴィニエ(苛々して)それで、手籠めだつたのか、さうでなかつたのか。

ジョゼファ 手籠めだなんて、馬鹿な言ひ方。

セヴィニエ イエスかノーかを聞いてゐる。

ジョゼファ イエスよ! 手籠めだつたの!

セヴィニエ それ以前は、君は処女だつたんだな?

ジョゼファ 田舎ではね、さうなの。

セヴィニエ もつとはつきり!

ジョゼファ 七月になるとね、お尻まるだしになるの。私は特に。

cuisse~~~股(もも)、尻

セヴィニエ どうして「特に」なんだ。

ジョゼファ どうしてもないでせう。暑いからよ。暑いのつて、男にはそれほどぢやないの! 私を欲しくなるつて気持、暑さでは弱まらないの。男は。それに私つたら、「どうでもいい」つていふ気持が外に出てゐるらしいの。

セヴィニエ また脱線か!

ジョゼファ(詩的に)夕暮れの鐘の音が鳴り終る。ミゲルと私は羊を家に連れ帰る。二人は川岸にそつて歩いて行く。

セヴィニエ(苛々して)おいおい! まただぞ。

ジョゼファ 私が根つこにつまづく。私、パンツをいつもはいてないの。

セヴィニエ(思はず)その時にも?

ジョゼファ 勿論。聞いてないの? 話を。

セヴィニエ(モレスタンに)ああ、今の質問は抜いてくれ。

モレスタン(わざと分らないふり)え? どの質問ですか?

セヴィニエ「その時にも?」だ。これは省略。質問の本題からそれてゐる。

モレスタン それは当然です、判事殿。

セヴィニエ(ジョゼファに)根つこにつまづく。転んだんだな?

ジョゼファ 詳しく言ふことはないんでせう?

セヴィニエ それはさうだ。それで君は、抵抗もしなかつたんだな?

ジョゼファ 私つてこんな調子でせう? 最初すぐには何もしなかつたわ。

セヴィニエ ふむ、なるほど。

ジョゼファ 気に入ることが始まるのかどうか、それ次第だから。

セヴィニエ で、その夕方、草は柔らかだつた・・

ジョゼファ(反対して)藁だつた。

セヴィニエ(面白がつて)ああ、これは失礼。

ジョゼファ それから後悔なんかしないわ。自分でしたことで満足の行かなかつたことはいくらでもあるわ。でも、自分で何かしてゐるとき、その時満足してゐないことは、私、決してないの。さうでなければ、そんなことしないもの。

セヴィニエ ああ、それは覚えておく。

ジョゼファ あのとき、あの子優しいことを言つてくれたんだから、余計よ。「君を生んでくれたお母さん、万歳」つて言つたのよ。私、驚いた! でせう? だつて、お母さんなんて、私、知らないんだから。

セヴィニエ 君のその話で、情状酌量の余地はなくなつたな。

ジョゼファ あら、そんなこと、話した? 私。

セヴィニエ さうだらう? あれが手籠めでなかつたと認めたんだからね。情状酌量はなしだ。

ジョゼファ 情状酌量があつたはうがいいと・・・(思つてるのね? あなた。)

セヴィニエ(途中で遮つて)自分の希望を言つてゐるんぢやない。君に説明してゐるんだ。

ジョゼファ 情状酌量なんて欲しくないわ。自分が寝たい男が誰か、それを知らないやうな馬鹿女だと思はれたくありませんからね。

セヴィニエ ご勝手に。

ジョゼファ それに、酌量するのは何? 裁判といふものがあるんでせう?

セヴィニエ(書類から目を上げて)勿論!

ジョゼファ 裁判、それはあなたの役目でせう? 私の役目ぢやないわ。だから、さつさとやつて!

セヴィニエ(書類を見ながら)あの子は自殺したのかな?

ジョゼファ 馬鹿なこと!

セヴィニエ まあ、自殺はとても考へられない。君がピストルを持つてゐたんだからね。

ジョゼファ それは質問ではないわね。でもまづ自殺の話。それは悪よ。あの子、スペイン人。カトリックよ。恋をする前にもうとつくに、カトリックの署名はすんでゐるの。

セヴィニエ これは変つてゐる、この話は。

ジョゼファ それが罪である、といふ事実があるから、あの人満足してゐたの。

セヴィニエ 脱線だな、これは。

ジョゼファ いいえ。これはあの人が決して自殺はしないと言ふこと。たとへ百歳まで生きたとしても。

セヴィニエ すると君も自殺はよいと思つてゐないんだね?

ジョゼファ ええ、いけないこと。だつて、簡単すぎ。

セヴィニエ しかし、証人たちは・・・

ジョゼファ 証人なんて、何とでも話すわ。

セヴィニエ 台所で彼が「死にさへすれば、全てから逃げられるからな」と言つてゐるのを聞いた証人もゐる。

ジョゼファ スペイン人なら誰でも言ふこと。

セヴィニエ ペルゴレーゼ通りのガソリンスタンドの男に、「この車が俺のものなら、立木にぶつかつてやる」とも。

ジョゼファ 本当にやる気なら、言葉には出さないわね。機嫌が悪かつたんだわ。

セヴィニエ 友人のカルロス・イバリッツに一箇月間、毎朝、「糞つたれ、俺はまだ死んでゐない」と言つてゐた。

ジョゼファ 本気ぢやない。もう止めて、そんな話。

セヴィニエ(モレスタンと目を交して)ああ、止めやう。(書類に目を移して)君のことを殴つたことがある。

ジョゼファ ああ、愛情からね。

セヴィニエ 愛情から、殴る、ね。

ジョゼファ よくあること、あの人には。

セヴィニエ よく?

ジョゼファ ええ、かなりしばしば。スペイン人の血ね、あれは。自分のロバも叩く。まあロバは女性とは違ふけど。

セヴィニエ 君と話すと学ぶことが多いね。

ジョゼファ(突然)ね、その助手さんに言つて。スカートの中を覗かないで、つて。

(モレスタン、その言葉通り、屈んでゐる)

モレスタン(非難されて、どもりながら)ううう! 万年筆を落したからです!

ジョゼファ(嘲笑して)万年筆! 確かめたかつたのよ。さう!

モレスタン 判事殿、この次からはもつとうまくやります。しかしとにかく、ううう!

セヴィニエ(尋問に戻り)九月に、君の腕、顔に打撲の痕(あと)があるのを見た、といふ証言がある。

ジョゼファ その証人はきつと、煙草屋の娘ね。

セヴィニエ さう、マドゥムワゼッル・ロビヤール。

ジョゼファ 私のことを一体何て・・・

セヴィニエ 君の有利になると思つての証言だ!

ジョゼファ あの子、三箇月半前に子供を産んだわ。私、それ、普通のことだと思つてゐた。私のはうは噂を立てるやうなことはしなかつたのに!

セヴィニエ 確実に言へることは、君とオストスは、しよつ中口喧嘩をしてゐた、といふことだ。

ジョゼファ しよつ中!

セヴィニエ それがあまりに激しかつたので、となり近所の人達は眠れなかつた、と。

ジョゼファ あらあら。(と、笑ふ)

セヴィニエ 何故笑ふ。

ジョゼファ 二人の喧嘩なんか、あの人たち、何でもないの。眠れないのは、二人が仲直りしてからよ。

セヴィニエ(感心したふり)ほう。

ジョゼファ あなた方パリジャンは、手よりも口が先。よく知られてゐるけどね、これは。でもあの人は口より手が早いの。

セヴィニエ なるほど。

ジョゼファ でもあの煙草屋の娘の話、少な過ぎるわ。私はあの子に何でも話す、悪いことだつて、何だつて。だけど、あの子のはうは私に何も言はない。良いことだつて。人それぞれ。

セヴィニエ まあさうだな。

ジョゼファ でもあの人、パリでは窓のそばで一日中外を眺めてゐた。夜も。そして時々、私に襲ひかかつた。

セヴィニエ 退屈になつた時にね。

ジョゼファ(皮肉に気づかず)あの人、闘牛の話しかしなかつた。パリでは二三回しか闘牛は見なかつた。でも闘牛士の名前は全部知つてゐた。その話をしてくれたわ。ロンダの闘牛学校、セヴィリアの、コルドヴァの、マノレットの、ベルモンテの。二週間ぐらゐ前だつたわ、あの人メキシコのリュエドの闘牛場でルイ・ミゲル・ドミンゴが戦つた話を読んでくれたわ。(闘牛の通が話すやうな口調で)マンソの牛だつた、戦ふ相手は。仕留める場面は物凄いものだつた。ルイ・ミゲル自身がとどめの場も演じた。バンドリーユ(飾りのついた槍)を、牛に自分で突き立てた。ミュレータの手をすべて、バレーラの前で披露した。

corrida~~~闘牛

torero~~~闘牛士

faena~~~闘牛を死においやる最後の段階

banderille~~~闘牛で、飾りのついた槍

barrera~~~

セヴィニエ(愛情の籠つた口調で)ああ、すごい話だね。

ジョゼファ 牛の耳二つ、尻尾、足のところを一つ、貰へたの。こんなこと、珍しいのよ、メキシコでも。(それから本当にかすれた小さな声で)オレ―、ドミンゴ!

(ジョゼファ、泣く)

(ジョゼファ、モレスタンに頭を振つて何かの意志を伝へやうとする。モレスタン、その意味が分からない)

セヴィニエ(ジョゼファに聞えないやうに、モレスタンに)何だ・・・?

モレスタン 全部、芝居です。

(ジョゼファ、静かに泣いてゐたが、急に鼻をすする。大きな音)

renifler~~~鼻をすする

セヴィニエ(乱暴に、しかし心配して)鼻をかんで!

ジョゼファ ハンカチがないわ。

モレスタン ああ、布は持たない主義か。

rire entre cuir et chair~~~こつそり笑ふ

セヴィニエ 何だつて?

モレスタン(これは声をはつきり)何でもありません、判事殿。何でも。

(セヴィニエ、ジョゼファに胸のポケットにあるハンカチを出さうとする。

が、遠慮かもつたいないと思つてか・・・妻とのキスをこのハンカチでぬ拭つたのを思ひ出す。

 普通の(胸でない)ポケットからハンカチを出し、ジョゼファに渡す)

ジョゼファ ありがたう。(大きな音を立てて鼻をかむ)私、泣くのは嫌ひ。

セヴィニエ 気分はよくなつた?

ジョゼファ ええ。ご免なさい。もうやらないわ。これ(ハンカチを手渡さうと出して)、お返しするわ。

セヴィニエ とつておいて。また必要になるかもしれない。(突然)で、オストスは近々結婚するつて、君、知つてたんだね?

ジョゼファ ええ。

セヴィニエ 誰に聞いた。

ジョゼファ あの人に。二日前に。

セヴィニエ 殺人の?

ジョゼファ(自分が犯人でないことを言ふために)誰かが殺した。その殺人の二日前。

セヴィニエ 君がやつたのか。

ジョゼファ 馬鹿なこと、言はないで。

セヴィニエ オストスが抜け出て行くのに気づいた・・・

ジョゼファ(途中で遮つて)さう、私のベッドから抜け出るのに気づいたの。

セヴィニエ 抜け出るぐらゐなら・・・

ジョゼファ(再び遮る)いいえ、とりかへすことが出来る。私の持つてゐる何かで。私、行かせたくなかつた。

セヴィニエ(口調を変へて)君にはそれ相応の理由があつた。

(この質問に大きな意味がある、と観客に感じさせる調子)

ジョゼファ 私のはうがいいの、あの人には。

セヴィニエ(皮肉に)君は心の大きい女性だ。

ジョゼファ ええ、心だけで出来てゐるやうな女。「おはやう」と同じぐらゐ単純。頭は針の先ぐらゐしかないけど、心は大きいの。

モレスタン(こつそり呟く)まあ、見てみないとな。

ジョゼファ 私、あの人にしよつ中言つた、「あなたには婚約者がゐる。金持で、美人の」(「美人」への解説あり)美人と言つたのはあの人を喜ばせるため。そんなには綺麗ぢやないの。

セヴィニエ(非難するやうに)君はオストスを憎んだね。君のことを騙したから。

ジョゼファ(苦い口調)騙したつて、誰と? お金が共謀者?(ジョゼファ、椅子の後ろ脚でバランスを取る)彼女の家、あの町で乾物屋をやつてゐる。このこと、あなたが知つてゐるかどうか知らないけど。

épicerie~~~乾物屋

セヴィニエ ああ、椅子をそんな風にしては駄目だ。ここにある椅子は頑丈ぢやない。そんな風に我々のことを信用してゐると・・・

ジョゼファ(バランスを止めて)あ、失礼!

(両膝の上にスカートを伸ばす)

セヴィニエ オストスは、彼女のことが好きぢやなかつたんだね?

ジョゼファ 誰を?

セヴィニエ 婚約者だよ。

ジョゼファ それは知らないわ。私に分つてゐるのは、私たち二人が愛し合つてゐたつていふこと。誰よりも負けないぐらゐ。

セヴィニエ 婚約者がゐても、彼はあの晩、君の部屋に来た。さうだね?

ジョゼファ それが最後だ、と決めてゐたから。

セヴィニ(非常な厳しさで)さう、それが彼の最後になつた。君のせゐで。

cingler~~~(鞭などできびしく)打つ

ジョゼファ さよならを言ひに来たのよ、あの人!

セヴィニエ それが君には耐へられなかつた!

ジョゼファ 耐へられたわ。私、もつと辛いことでも耐へてきた。私、幸せな人生を送つては来なかつた。私、何故か分らない。

セヴィニエ 決定的な、あの夜の話に戻らう。

ジョゼファ ああ、決定的・・・

セヴィニエ さ、話して。

ジョゼファ あの人、最初ずゐぶん泣いた。それから私の服を脱がせ始めた。

セヴィニエ うん、さうだらう。

ジョゼファ 私の服をあの人、そこいら中に放り投げた。私は怒つた。物を粗末にするの、私、大嫌ひ。

セヴィニエ その通り!

ジョゼファ 特にあの晩、時間はたつぷりあつたんだから。

セヴィニエ さういふことが君には大事なんだね?

ジョゼファ さう!

(ジョゼファ、何か考へこむ)

セヴィニエ 何を考へてゐる。

ジョゼファ(怒つて)私が? 考へてゐる?

セヴィニエ 怒るな、怒るな! 君を侮辱したんぢやない。

ジョゼファ 可哀想に、ミゲル!

セヴィニエ(非常に優しく)奇妙だね。さつきまでは君を黙らせやうと大変だつたのに、今度は一言も引きだせない。

ジョゼファ(夢みるやうに)ええ、思ひ出すことがあつて・・・

セヴィニエ 何をだ。

ジョゼファ 私がやつた馬鹿なこと。

(これはいろんな男との関係のこと)

セヴィニエ はつはつは。

ジョゼファ ミゲルに話したの、私、馬鹿なことをやつたつて。

セヴィニエ はつはつ。

ジョゼファ ミゲルつたら、ずゐぶん私のことを悪くとつた。それで言つたわ。でも、そんなに酷いことぢやないつて。

セヴィニエ ミゲルはそれを信じた?

ジョゼファ ええ、いつときは。だつて私、私のパパの頭にかけて誓つたから。可哀想なパパ!

セヴィニエ その「馬鹿」は誰なんだ、相手は。

ジョゼファ そんなこと、関係ないでせう、あなたに。

モレスタン(セヴィニエが悪いと思つて)ああ、判事殿!

セヴィニエ 無礼は返答にならない。

ジョゼファ 私の馬鹿は、この裁判には関係ないでせう。

セヴィニエ 関係があるかもしれないから聞いてゐる。

ジョゼファ 馬鹿さへ落着いて出来ないつていふことね?

セヴィニエ さうだ。君の場合はな。

ジョゼファ(非常に心配になり)その人にも疑ひがかかるの?

セヴィニエ(厳しく)疑ひは君にだ。そつちには薄い。

ジョゼファ ミゲルにその人のことを私、何故話したのか分らない。私のことを早く忘れさせやうと思つたのね、きつと。

セヴィニエ さう。君は心の大きい人間だからね。

ジョゼファ 冗談にしないで、それを。勿論私、この世で一番酷い人よりもつとひどい人間、でも一番よい人間よりもつとよい人間。

セヴィニエ まあ、さういふことにしておかう。

ジョゼファ 笑はないで。私、あの人に親切にしやうと思つて言つたんだから。あの人、とても不幸。

セヴィニエ え? あいつが不幸だつた?

ジョゼファ 勿論よ! あの人私の顔に唾をはいたんだから。でも私、こんな話をここでして。あなたうんざりなんでせう?

セヴィニエ 全然。それは保証する。

ジョゼファ 違ふ。あなた、うんざりしてゐる。私には分る。

セヴィニエ そんなことはない。なあ、モレスタン、二人とも熱心に聞いてゐるな?

モレスタン 勿論。熱心に。

ジョゼファ あの人私の顔に唾を吐いた。私に悪口雑言を浴びせた。それから上着を取つて、私に言つた、「あいつを殺してやる」と。

セヴィニエ 君を全然愛してゐない、その男がさう言つたんだね?

ジョゼファ ええ。あの人の言葉、全く分らないけど。私のことを何も言はないで、しばらくじーつと見て。それから部屋の奥にオーバーを取りに行つた。その時扉が開いて、誰かが撃つた。私は気絶した。それでをしまひ。

セヴィニエ ありがたう。

ジョゼファ 何にお礼?

セヴィニエ 君の動機がこれで分つたんだ。

ジョゼファ え? 私、何か言つたの?

セヴィニエ これで君がオストスを殺したことが明らかになつた。しかし、何故殺したか、それはまだ不明だ。ありがたう、教へてくれて。

ジョゼファ でも私、何も言つてないわ!

(セヴィニエ、口調をすつかり変へる。ジョゼファに対し非常に厳しくなる。観客には、セヴィニエがジョゼファに「鉄具をはめた」ことが見てとれる)

セヴィニエ 黙れ! こちらが訊いたときに答へるんだ。君が話したことを要約する。(モレスタンに)書きとつて!

モレスタン はい、判事殿。

セヴィニエ(ジョゼファに)答は「はい」と「いいえ」のどちらかでするのだ。いいな。

ジョゼファ お好きなやうに。

セヴィニエ 「判事殿」と言ふんだ!

ジョゼファ お好きなやうに、判事殿!

セヴィニエ ジョゼファ・ラントゥネ、君をミゲル・オストスの殺人犯の容疑者とする。

ジョゼファ(まだまつたく心配してゐない)私が? そんなの無理、判事殿! 理由を言つて頂戴!

セヴィニエ 君には不幸なことだが、理由がある。

ジョゼファ そんなの嘘よ! 私、また騙されちやつた。嘘つきよ、あなたは!

panneau~~~羽目板~~~tomber dans le panneau~~~騙される

セヴィニエ(厳しく)裁判官を嘘つき呼ばはりはいけない!

ジョゼファ 嘘つきだから嘘つきつて言つてゐるの。私裁判しか信用してゐないのに。

セヴィニエ 君は尋問を受けたことがないのか。「はい」と「いいえ」のどちらかで答へなさい。

ジョゼファ いいえ。

(註:これは尋問を受けたことがない、といふ意味)

モレスタン 強制猥褻罪でも?

attentat à la pudeur~~~強制猥褻罪

セヴィニエ(たしなめて)モレスタン!

réprobateur~~~非難するやうに

セヴィニエ よし、これからはよく考へて。間違へないやうに!

ジョゼファ 私、間違へないわ。

セヴィニエ オストスが君を捨てた。それは結婚するためになんだな?

ジョゼファ(確信なく)はい。

セヴィニエ (確実に)「かつくじつ」にさうなんだな?

ジョゼファ オストスに聞いてみればいいでせう?

セヴィニエ 当然こちらでは聞いた。

ジョゼファ 「かつくじつさ」が足りなかつたのよ。

セヴィニエ とんでもない。ヂュヴァル家の三人に聞いた。両親と娘の三人だ。結婚の話など全く出てこなかつた。

ジョゼファ 商売に差し支へが出ると思つたからよ。

セヴィニエ ああ、君はさう思ふのか。

ジョゼファ それにあのソラーンジュの馬鹿、被害者の婚約者だつてことになるといやだと思つて!

セヴィニエ(書類を棒読みにして)ミゲル・オストスはソラーンジュ・ヂュヴァルとただ一度だけしか外出しなかつた。

ジョゼファ あらあら、大嘘つき!

セヴィニエ 彼はソラーンジュを映画館に連れて行つた。そして映画の間中ずつと、君のことしか話さなかつた。

ジョゼファ あらまあ!

セヴィニエ 君のこと、そして君への嫉妬!

ジョゼファ 嘘つき! ソラーンジュはオストスに、映画館でずーつと言ひ寄つてゐたのよ。だからミゲルは私に言つたわ、「あいつとなんか、もう二度と会ふものか」つて。

セヴィニエ(鋭く)すると君は、あの二人が一度しか一緒に外出しなかつた、といふことを認めるんだな?

ジョゼファ(困つて)ええ、それは・・・

セヴィニエ(大声で)君は赤くなつたぞ!

ジョゼファ(同じ調子で)ぢやあなた、私が青くなつてたら何て言つた?

モレスタン 判事殿!  それで、女性のコックの話を!

セヴィニエ ああ、さうだつた。どうもありがたう、モレスタン。ボールヴェールの女性のコック、マダム・マルト・エルボー・・・

ジョゼファ あんな奴、何だつて言ふの!

セヴィニエ(冷淡に)口を出さないで。彼女の調書を読む。(読む)「ミゲルは嫉妬に狂つてゐた。彼はジョゼファが自分を裏切つたのを知つてゐた。しかし、彼女のその相手が誰かは、知らなかつた。」

ジョゼファ まつたくいい加減なことを。何よ、それ。

セヴィニエ 警視コラの質問に答へて、マダム・エルボーははつきりと答へた、「ジョゼファは、売春婦ではない。まあ、尻軽女程度のもの。」

grue~~~鶴、売春婦

sauteuse~~~尻軽女

ジョゼファ(意味慎重に)もし私が、人間といふものをこんなに愛してゐなかつたら、どんなに私、人間を嫌ふことだらう!

(セヴィニエ、ジョゼファを驚いた顔で見つめる。短い間。)

セヴィニエ(書類に戻り)マダム・エルボーは再び言つた、「ミゲルはソラーンジュ・ヂュヴァルなど問題にしなかつた。下女以下の扱ひだつた。」

ジョゼファ まあ、女性コックの言ひさうなことね。

セヴィニエ 続けるが、いいかな?(読む)「ミゲルは私に怒鳴つた。いいか、マルト、僕にはジョゼファしかゐないんだ。ああ、もしいつか、ジョゼファが誰とつきあつてゐたのか分つたら・・・うん、それもそのうち分るさ・・・パン! パン! でをしまひさ。(つまりピストルで撃ち殺してやる、といふ意味)」

ジョゼファ マルトなんて、めつた打ちにしてやる!

trempes~~~焼き入れ、めつた打ち

セヴィニエ すぐにはとても駄目だね、それは。どうせ今夜、君は牢屋入りだ。今夜入つて、出て来るにはかなりの日数がかかる。

ジョゼファ(ここで初めて自分の立場を理解する)牢屋! 私が、牢屋入り!

セヴィニエ 裁判官に嘘を言つた。今の結婚の話だ。贋の陳述は罪だ。

ジョゼファ(少し心配になつて)嘘ぢやないわ!

セヴィニエ(これだけは確かだ、といふ言い方)君はオストスを殺したんだ!

ジョゼファ 違ふ! 違ふ!

セヴィニエ 君が死ぬほど恋ひこがれてゐる別の男を救ふためにだ。

ジョゼファ(確信なく)え? 私がその男を恋ひこがれてゐる?

セヴィニエ(説得力あり)何故なら、それは君にとつて、並の色恋ではないからだ。君がオストスや我々に信じさせやうとしてゐる、その並の色恋ではないのだ。本物、本気の恋なのだ。

ジョゼファ(顔が青白くなる。そして微笑)本物、本気!(挑戦的に)ええ、さう! 私、その人を愛してゐる。

セヴィニエ ありがたう。

ジョゼファ それで筋が通つたの?

セヴィニエ(殺人の証明を行ふ)全ては明らかだ。君はその男を愛してゐる。その男の命が危なくなつた。それで君はオストスを殺したんだ。

ジョゼファ 違ふ、違ふ。

セヴィニエ(善人ぶる)さあ、白状するんだ。色情のあげくだ。判事はこの類のことだととても寛容になる。

ジョゼファ 違ひます! 信じて下さい!

セヴィニエ(非常に厳しく)信じることは出来ない。さつき嘘をついた。

ジョゼファ ほんのちよつとした嘘よ、あれは。

セヴィニエ そら御覧。判事を馬鹿扱ひしてゐるんだ。廊下を通つた気のよい男、そいつがパンと撃つて、逃げた。何ていふ話だ。

ジョゼファ(強く)本当なのよ、それが!

セヴィニエ(こちらも、強く)そんな馬鹿な話はない!

ジョゼファ 誓ひます。本当です。

セヴィニエ(皮肉に)君の父親の頭にかけて、だな? 可哀想に親父さん。

ジョゼファ(傷ついて)まあ!

セヴィニエ その男が誰か分つたのか。

ジョゼファ 撃つた人? いいえ、蔭だけしか見えなかつた。

セヴィニエ さうだらうな。

ジョゼファ そして私、その後すぐ、気絶しちやつたから。

セヴィニエ オストスの政敵だな、すると。

ジョゼファ 馬鹿なこと、言はないで!

セヴィニエ ぢや、ナイフで斬り合ひをやつた、あの男か?

ジョゼファ ペペ? とんでもない。あの後二人は仲良しになつたんだから。

セヴィニエ(戦略を変へて)君の部屋の鍵を誰が持つてゐた。

ジョゼファ 誰も持つてないわ。ミゲルだつて持つてない!

セヴィニエ(狡猾に)君の新しい恋人もか? 

insidieux~~~狡猾な

ジョゼファ(乱暴に、大声で)何てことを言ふの! 私辛抱強いはうぢやない。言ひすぎよ、それ! でも、誰が私の部屋に入つたのか、それは知りたいわ。

セヴィニエ さう。だから、その男が君の部屋の鍵をどうやつて開けたのか、だ。

ジョゼファ ええ。私には分らない。

セヴィニエ(皮肉に)壁抜けの術でも知つてゐたか!

ジョゼファ 分らない。

セヴィニエ 何も聞こえなかつたんだな? 勿論。

ジョゼファ ええ、何も。

セヴィニエ(怒つたふり)そんなことしか君には思ひつかないのか。十歳の子供でも、もつとましな嘘がつけるぞ。君は映画にも行かないのか。

ジョゼファ ええ、あまり。

セヴィニエ その夜、他に訪問者はゐなかつたのか?

ジョゼファ(紐を結ぶために身を屈めてゐる)何て? よく聞えなかつた。

lacet~~~

セヴィニエ(一語一語区切つて)その夜、他に訪問者はゐなかつたのか。

ジョゼファ 覚えてないわ。そんなことどうして聞くのか、私分らない。

セヴィニエ 真実だ。簡単なことだ!

ジョゼファ(怒つて)真実! 何? 真実つて。私は自分の知つてゐることを話してゐる。知つてゐると思つてゐることを。それが真実かどうかなんて、知らない。

セヴィニエ(厳かに)真実とはな、ジョゼファ・ラントゥネ、君が有罪だ、といふことだ。

ジョゼファ(目を空に向けて)可哀想に、ミゲル、みんなが私のことをいぢめてゐるのをあなたが見たら・・・それもあなたのせゐで。

セヴィニエ 君はオストスを殺した。それは確かなんだ。

ジョゼファ(悲しさうに)また始つた。

plaintivement~~~悲しさうに

セヴィニエ しかし多分、故意にではない。

ジョゼファ 故意だらうと何だらうと、殺してないわ。誰かが扉を開けたの。

モレスタン 実にもつともな話だ!

セヴィニエ(仄めかして)それよりも、自分でオストスを麻痺させやうとした、とは思はないかな。

ジョゼファ(呆れて)何ですつて?

セヴィニエ オストスはその時までに拳銃を出してゐた。君は彼に飛びかかつた。格闘してゐるうちに、弾丸が自然に飛び出た。

ジョゼファ まあまあ、御親切なこと、私のことを思つて・・・

(二人の男、びつくりする。少しの間)

セヴィニエ 今何と言つた?

ジョゼファ 部屋の中で、どうして、ミゲルが拳銃を振り回したりしたの。馬鹿なこと。

セヴィニエ 引出から出したかもしれないからね。

ジョゼファ そんなこと、あり得ない! あの人も私も拳銃なんか持つてない。ミゲルは私の恋人をナイフで殺してやるつて言つてたわ。

navaja~~~湾曲した大型のナイフ

セヴィニエ ナイフは「パン、パン」と音がしない。

ジョゼファ(ひどく驚いて)何故そんなことを言ふの?

セヴィニエ 女性料理人の証言があつてね。

ジョゼファ ああ、あの女!

セヴィニエ 記録した。君は故意に、殺人を犯した。(これはさつき「故意だらうと何だらうと」と言つたから。

ジョゼファ(引き伸ばして発音)いーえ。

セヴィニエ 君は曖昧なことを言つてごまかすことをしないね。

ジョゼファ(切り返して)私のやり方に、そんなものはないの。

du tac au tac~~~丁々発止と切り返す

セヴィニエ もみあひの拍子で撃たれたわけではない。そんな近くの距離ではなかつた。3mはある。

ジョゼファ 丁度扉からの距離だわ。私の言つた通り!

セヴィニエ 少なくとも3メートルはある。そして君の手で撃たれた。

ジョゼファ 固定観念よ、それは!

セヴィニエ 君が気絶したのは、私は認める!

ジョゼファ どうして気絶だけは認めるの? 他のことは認めないくせに。

セヴィニエ 何故なら君の失神は15分以上続いたことが分つてゐるからだ。それに、ボールヴェール夫妻の証言もある。

ジョゼファ お蔭様ね!

セヴィニエ(説明調で)君は発砲する勇気はあつた。しかし自分のしたことの恐ろしさで、気を失つたのだ。

ジョゼファ(嘲笑的に)後悔ね?

セヴィニエ 陪審員は、心を打たれるだらう。

ジョゼファ それは間違ひね。だつてベッドの柱で頭をぶつつけたからだもの。大きなコブができた。後悔つてこのコブね。

cogner~~~ぶつつける

セヴィニエ 君はそれをわざとやつたな。

ジョゼファ(真面目に)わざと、何を?

セヴィニエ 普通ぢやないだろ? そんなこと。そこまで君は馬鹿ぢやない。

ジョゼファ 私をからかつてるのね?

セヴィニエ いいか、これは君の事件なのだ! しかし君に忠告する。弁護士をつけたはうがいい。

ジョゼファ 私は無罪。弁護士なんか必要ないわ。

セヴィニエ(しつこく)弁護士をつけたまへ。

ジョゼファ いらない!

セヴィニエ(さらにしつこく)いいか、分つてくれ・・・弁護士をつけたはうがいい!

ジョゼファ 繰り返し言ひますけど、私は無罪なの。

セヴィニエ もう一つ理由がある。有罪になるには、判事だけで十分なんだ。

ジョゼファ 噂ではその反対のことを言つてるわ。

セヴィニエ 君のこの事件は、君が思つてゐるよりずつとずつと深刻なんだ。

ジョゼファ あらまあ!

セヴィニエ 私はね、君の喋つてゐることの矛盾、嘘・・・大きくても小さくても・・・それだけを言つてゐるんぢやない。君に不利な、決定的な証言がある。ミゲル・オストスの、彼の証言なんだ。

ジョゼファ あの人、すぐに死んだんぢやなかつたの?

セヴィニエ 君には残念だが、すぐぢやなかつた。

(間)

ジョゼファ(心からの叫び)可哀想に、ミゲル! 死ぬまでに、苦しんだんだわ。

セヴィニエ 「ジョゼファ、何故お前、そんなことをしたんだ」と、言ふ暇があり、それを聞いた者がゐるんだ。

ジョゼファ(絶望的に)あの人、さう思つて死んだのね。私だと思つたのね。可哀想に、ミゲル!

セヴィニエ 可哀想なのはミゲルだけぢやない。

ジョゼファ(椅子の上で後ろを向き、絶望的に)ああ、可哀想に! あの人、私だと思つて、私だと・・・可哀想に! 可哀想に!

セヴィニエ それを信じてゐるのは彼だけぢやない。

ジョゼファ ああ、ほかの人! ほかの人なんか糞くらへだわ。かわいそうにミゲル! 可哀想に!

セヴィニエ それを否定する気持が、君にはないのか。

ジョゼファ(悲しみにのみ気が行つて)ミゲル、あなた、どうしてそんな・・・あなた、よく分つてゐたぢやない、私ぢやないつてこと。ね?

セヴィニエ 君、まだ弁護士に頼む気はないの?

ジョゼファ ええ、いりません。

セヴィニエ 紹介できる事務所はあるが・・・

ジョゼファ そんなにつけたいの、弁護士を!

(セヴィニエ、諦める)

セヴィニエ 君の陳述だが、読む?

ジョゼファ 何の役に立つの? 裁判つてものがあるんでせう? 少なくとも私、それに期待してゐる。どこに署名?

モレスタン(誠実に)読んだはうがいいですよ。間違つたことを私、書いてゐるかもしれない。

ジョゼファ 間違ひは、私を逮捕したこと。どこ? 署名は。

モレスタン ここです。『以上、私は主張し、ここに署名する』の下に。

ジョゼファ 私は主張し、ここに署名する。

(セヴィニエとモレスタンも署名する)

モレスタン ありがたう。

ジョゼファ 私に礼を言ふことはないわ。あなた方は馬鹿なことをしてゐるの。そして私はそれをやらせておく。だつて私、ミゲルを殺してはゐないんだから。(ジョゼファ、初めて叫ぶ。殆ど吠え声)わたし、殺してなんか、ゐない!

セヴィニエ まあ、分るさ。

(セヴィニエ、モレスタンに仕草で合図。モレスタン、扉に進み、出る)

ジョゼファ(落着いて)私、好きなのは・・・(名前を言ひかけるが、すぐには出て来ない。セヴィニエ、本能的に、「言へ」といふ仕草。ジョゼファ、ハツと気づき、言ふべきでないことを思ひ出す)私、好きなのは、別の人。死んでもいいくらゐ。でも殺したいほどぢやない!

セヴィニエ ああ、それはありうる。

ジョゼファ さ、このあなたのハンカチ返す。まごころのない人のハンカチなんて! こんなもので私の涙を拭くなんて、恥だわ。

(モレスタン、戻つて来る。守衛を連れて)

セヴィニエ(守衛に)収監状はこれだ。

mandat de dépot~~~収監状

ジョゼファ(連れて行かうとする守衛に)触らないで! 蹴つ飛ばすよ!

守衛(不満さうに)判事殿!

セヴィニエ(苛々して、席につきながら)ああ、さつさとやつてくれ!

ジョゼファ(セヴィニエに)あんたなんか嫌ひ。だいつ嫌ひ!

(ジョゼファ、退場。少しの間)

セヴィニエ(立上る。怒つて)糞つ! 糞つ! 糞つたれ!

モレスタン(驚いて)どうしたんです?

セヴィニエ この、私の、血だ、血のせゐだ! ああ、こんなことが私に起きるとは! この私に!

モレスタン どうなさつたのです、判事殿! どうなさつたのです。

セヴィニエ 糞つ・・・糞つ・・・あの馬鹿女め、あいつは無実なんだ!

モレスタン よく分りませんが・・・

セヴィニエ 無実! 無実! 無実だつて言つてるんだ、私は!

モレスタン ぢや何故逮捕なんかしたんです。

セヴィニエ 弁護士が雇へるやうにと、逮捕したんだ。あいつの相談相手に。陳述の仕方、あんな馬鹿を言はないやうにさせる、相談相手として。

モレスタン(信じられない)彼女が無実?

セヴィニエ 無実が目に飛込んで来る。

crever les yeux~~~明らか

モレスタン 私の目には飛込みませんが。

セヴィニエ やれやれ、厄介なことになつた。酷いぞ、これは。

(再び坐る)

モレスタン それは怖いです。

セヴィニエ 告訴した人間を、この私が無実だと信じる! 何てことだ!

(両手で頭を抱へる)

          (幕)

 

 

          第 二 幕

(同じ舞台装置)

(翌日。午後3時)

(冬の良い天気)

(幕が上ると、舞台は無人)

(短い間)

(セヴィニエとアントゥワネット、登場)

(二人、とても陽気)

 

アントゥワネット なんてこと、あなたつたら私の贈物、折角あげたのに、開けることも出来ないつて言ふの?

セヴィニエ だつてね、あのキャビネット、完璧過ぎだよ。あれを開けるには、ログの表を首つぴきで引かなきや駄目、つていふ代物だぞ。

classeur~~~書類整理箱

アントゥワネット(キャビネットに進み、開ける)ほらね。何が難しいの。

セヴィニエ ほほう、結局、開けようと思つた時には、君を呼べばいいつてことか。

アントゥワネット ここを押せばいいのよ。魔法ぢやないの、これは。

セヴィニエ(両手を組んで、感心して)いやいや、君はとにかく、器用だよ。

アントゥワネット 器用でなくつちやね。馬鹿と一緒に暮すんだから。

(セヴィニエにキス)

gourde~~~馬鹿

セヴィニエ 率直でもあるな。

(アントゥワネットにキス)

アントゥワネット 私のこと、よく分つてるわね? 剣(つるぎ)と同じ、切れ味は。

セヴィニエ うん、栓抜きと同じだ、切れ味は。

(アントゥワネットにキス)

アントゥワネット やはりあなたつて、女性にはうまいこと言ふのね。

(キスしながらアントゥワネット、セヴィニエの足を蹴つ飛ばす)

décocher~~~蹴つ飛ばす

セヴィニエ 痛つ! 君の母親に良く似てゐるな、やつぱり。(向う脛をさすりながら)衝撃的、つていふやつだな。

tibia~~~向う脛

(足を引きずりながら机まで行き、アントゥワネットの写真にキスする)

clopiner~~~足を引きずる

アントゥワネット(憤慨して)私、ここにゐるのよ!

セヴィニエ 分つてる。

アントゥワネット さ、仲直りのキス! 今すぐよ。

セヴィニエ(酷く痛い、といふふりをして)歩けないんだ。向う脛が痛くてね。

アントゥワネット(近づいて)らくだ!

(キスする)

セヴィニエ へび!

(キスする)

アントゥワネット おざなりよ、このキス。

セヴィニエ (論理的に)悪口を言つたからね。

アントゥワネット とても下手なキスだつたわ。

セヴィニエ 何てことを君は言ふんだ! 君、嘘まで言ふやうになつたんだな?

アントゥワネット あなた、夕べからキス、下手になつたわ!

セヴィニエ(メロドラマ風に)恩知らず! 嘘つき! 栓抜きだ、君は!

アントゥワネット あの子を尋問してから、あなた顔つきが違つてきた!

セヴィニエ 君は、夕べ11時3分に僕に言つたことを思ひ出させたいの?

アントゥワネット(驚いて)何? その時刻。あなた、時計を見たの?

セヴィニエ 終つてからだよ、それは。

アントゥワネット いいわ、時間なんかどうでも。あなたはね、あの子を尋問してから、前とは違う人間なの。冗談を言ふときだつて、前とは違ふの。

(セヴィニエ、鼻歌を歌ふ)

channtoner~~~鼻歌を歌ふ

セヴィニエ(心配さうなふりをして)僕は冗談を言ふときだつてもう違ふ人間なんだ。(苦悩の叫び)ああ、これは酷い!

アントゥワネット あの子が気に入つたの? さう?

セヴィニエ(冗談に、冷たい声で)何だそれは。あやまれ、すぐ。

アントゥワネット(反抗して)私が?

セヴィニエ まづ僕の向う脛、次に今の馬鹿な質問!

アントゥワネット 謝らない!

セヴィニエ いいか、君が謝らないなら、今夜11時3分に、僕に言ふ言葉なんか、ないぞ!

アントゥワネット(大げさに謝罪の意)ごめんなさい!

セヴィニエ それから今度は、すぐに謝らなかつたことに対して、謝罪するんだ。

アントゥワネット 私、悪かつたわ。ご免なさい!

(二人、キス)

セヴィニエ さ、これでよし!

アントゥワネット(判事の机に坐つて)あら、ここ、午後になつたら陽が照るわ。まぶしいんぢやない?

セヴィニエ いや。(独特の仕草)君を見てゐるからね。大丈夫だ。

アントゥワネット さう。といふことはやはり困るのね?

セヴィニエ 何故そんなことを言ふんだ。君に優しいからか?

アントゥワネット あなたは優しい。だからあの子は無実。

セヴィニエ(心からの悲鳴)ああ、あれ。可哀想に! 優しいから無実、とはな。しかし君に何の関係がある。

アントゥワネット でもやつぱり気になる。でせう?

(セヴィニエ、答へないことに決める。優しく妻を押し、電話を取り、ダイヤルする。二個の数字だけ)

セヴィニエ もしもし。ポスト86? 君か、アルドゥワン。郵便局で聞いたんだが、君、車があるんだつてね。4時から6時まで貸してくれないかな? 頼むよ。僕の車は今直しに出してるんだ。ロッドが駄目になつてね・・・(急に怒る)何だつて? それはどういふことなんだ! 君、用なんか何もないぢやないか!(急に優しくなつて)ありがたう、アルドゥワン! 今度何かあつたらこちらが・・・

(受話器を置く)

bielle~~~コネクティング・ロッド。couler la bielle~~~不明

à charge de revanche~~~同じやうにしてくれるといふ条件で

アントゥワネット 今日は6時に終るの?

セヴィニエ 6時にまたここに帰る。調書を作るんだ。

procès verbal~~~調書

アントゥワネット といふことは、9時いや9時半でも家には着けないといふことね?

セヴィニエ(二ツコリ笑ひ)さう。ご免ね。謝るよ、これは。

charmeur~~~魅惑する(形容詞)

アントゥワネット あなたまだ駆け出しだものね。一生懸命やらないと。分るわ、私。馬鹿ぢやないから。

セヴィニエ(鼻歌を歌ふ)彼女は馬鹿ではない! これは有難い。

アントゥワネット 鼻歌なんか歌つても駄目。ちやんと分つてるんだから。

セヴィニエ(優しく、そして誠実に)そんなこと、言はないで!

アントゥワネット 被告は強力なのね? とても強力!

(モレスタン、登場)

モレスタン(お辞儀をして)マダーム、そして判事殿!

(外套と帽子を丁寧にかける)

アントゥワネット おはやう、ムスィユ・モレスタン。

セヴィニエ 君、早いんだね、今日は。

モレスタン(時計を証拠のために出して)14時丁度。一秒も狂ひなし。我々書記は、時間より遅く着くことはあつても、早く着くことは決してありません。

アントゥワネット(夫に)あの子が有罪でないとしたら、あなた、困るんぢやないの?

モレスタン 勿論!

セヴィニエ 君の意見を誰が訊いた。

モレスタン 有罪だとしたら、悲しいことだし。

アントゥワネット え? 有罪なの?

セヴィニエ(高飛車に)モレスタン!

モレスタン 失礼しました、判事殿。ただ、お言ひつけによれば、私が、判事殿の行き過ぎを諌めるやうにと・・・

アントゥワネット(大声で)さうだつたのね、やつぱり! あの子が気に入つたのね!

セヴィニエ またこれだ!

アントゥワネット あの子、それがよく分つてゐるの。だから下に何も履いてないなんて言つたのよ!

セヴィニエ あの子は無実。それだけだ。

アントゥワネット 無実の人間を逮捕するのはあなたの仕事ぢやないのよ!

セヴィニエ ぢやね、また。

アントゥワネット ぢやなければ、あなたにも弁護士をつけなきや。

セヴィニエ(つつけんどんに)ぢや、また。

アントゥワネット(モレスタンに)あなたは知つてるの? この人が誰を犯人にしてゐるか。

モレスタン(誠実に)いいえ。それに私は犯人なんて、想像もしたことがありません。

セヴィニエ ムスィユ・モレスタン、有難う、意見を聞かせてくれて。

(少しの間)

アントゥワネット(後悔して)ご免なさい、あなたの仕事に口なんか出して。

セヴィニエ 謝ることはないよ、アントゥワネット。僕の仕事は君の仕事でもあるんだ。君には可哀想だがね。

アントゥワネット(言葉尻をとらへて)可哀想? 私に?

セヴィニエ ぢや、今夜9時・・・さよなら。

アントゥワネット(非常に優しく)勿論私、あなたを愛し過ぎ。もう少し愛し方を少なくしなくちや。

(アントゥワネット、投げキスを送り、退場)

モレスタン(不審な気持で)9時に、つて言ひましたか?

écoerer~~~吐気をもよおす

セヴィニエ 9時・・・9時半・・・家宅捜索のあと、またここで仕事があるからな。

perquisition~~~家宅捜索

モレスタン ちよつと別の件で、面倒なことがあるのですが。

セヴィニエ 別の件?

モレスタン 今朝の「ロロール」(新聞の名)に我々のことが出てゐるんです。『無実の女』の綺麗な写真つきで。

(モレスタン、新聞を見せる)

セヴィニエ 一面にか。

モレスタン いいえ、幸運なことに三面です。「オストス事件」などと名前までついてしまひましたよ。

セヴィニエ(囲み記事を一瞥し、新聞を畳みなほし)やれやれ!(調子を変へて)ああさうさう、モレスタン、証人をこれから呼ぶことになるが、その時、少し時間をかけてくれないか。

entrefilet~~~囲み記事

モレスタン(驚いて)時間をかける・・・ですか?

セヴィニエ 机の上の物の整理、足踏み、糸のもつれ解(ほど)き、何でもいい。時間をかけてくれ。(ノックの音)どうぞ!

piétiner~~~足踏みする

débrouiller~~~もつれをほどく

(エリ・カルディナッル、扉から頭を出し、それから入る)

(カルディナッルは国選弁護士。その衣裳を着てゐる。若い。善良が顔に出てゐる。誠実で魅力あり)

カルディナッル(以下のところ、非常に素早く演じる)今日は、書記さん!

モレスタン ああ、今日は・・・

カルディナッル(セヴィニエに自己紹介)エリ・カルディナッルです。

セヴィニエ ああ、カルディナッル、被告よりも君、先に来てくれて嬉しいよ。君、ロケット(監獄)で彼女を見たね?

カルディナッル ええ、昨日。それから今、廊下のベンチで見ましたよ。

セヴィニエ ああ、さうか。

カルディナッル 昨日のあの子の私への扱ひ、酷いものでしたよ。弁護士などいらないと。もう少しで蹴つ飛ばされるところでした。

セヴィニエ 向う脛をね! 女つて、すぐあれだ。(モレスタンの呆れたやうな顔に出逢ふ。モレスタンに)ああ、君にはどうせ分らないさ。

カルディナッル 可哀想に、あの子。酷い目にあつて。監獄は雑魚寝(ざこね)ですからね。三日間、まつたく眠れなかつたんぢやないでせうか。

promiscuité~~~雑居、

セヴィニエ いや、こつちもだ。

カルディナッル あの子の気持、分ります。あれは裁判には全く向きませんよ。あの子の弁護は、相当なやり手でないと駄目ですね。

セヴィニエ 判事といふものを信用してゐないね、君は。

カルディナッル(小さい声で)いえ、そんなことは・・・

セヴィニエ もつとうまく弁護してくれないかな。

カルディナッル 勿論信用したいのはやまやまですよ。でも、弁護士仲間ぢや、あなたはもう、有罪と決めてゐる、つて話でしたから。

セヴィニエ 彼女は無罪だ。

(短い間)

カルディナッル(非常に元気が出て)えつ? これは失礼しました! それなら話は別だ! よーし、それなら目にもの見せてくれる! 弁護といふものがどんなものかを!

セヴィニエ おいおい、急にはりきることはないよ。

カルディナッル ギャロの理論を、私は暗記してゐます。

セヴィニエ(微笑んで)私もだ。

カルディナッル 非常に簡潔なものですね。『判事の欲するところ、神の欲するものなり』

セヴィニエ 言葉通りかどうか、怪しいがね。

カルディナッル 私の知る限り、かうです。

セヴィニエ いいかい、カルディナッル、君はつい2分前までは、意気消沈してゐた。ところが今は天にも昇る気持だ。少し程といふものを心得ねば。

カルディナッル 『程』!

セヴィニエ 私の意見に引きずられるのはよくない! 私はジョゼファ・ラントゥネが無実である、と言つてゐるのではない。ただ、彼女が有罪であることに疑問を持つてゐると言つてゐるのだ。

カルディナッル 私よりもつと、ずつと、それを確信してゐる、と私は感じますね。(頭を上げて)それにあの子があなたのことを嫌つてゐると事実を考慮すると、これはいよいよ確かです。

セヴィニエ(話題を変へる)ああ、モレスタン、彼女を入れて。

(守衛、ジョゼファを入れる)

(守衛、入れるために扉のところで身をひく)

(ジョゼファ、ひと晩牢獄の中で過ごし、様子が変つてゐる。青白い顔。目は以前より大きく見える。唇も青い。拘留された人間には、口紅、白粉が禁じられてゐるせゐだけではない。彼女自身にその気がないせゐ。しかし、化粧なしの彼女の顔は、ある時よりももつと輝いて見える)

détenu~~~拘留された人

poudre de riz~~~白粉(古)

ジョゼファ(セヴィニエに、苦悩を見せて)私、あなたに嫌はれてゐるのは分つてる。でも、あそこから出して! あの穴から出して! 私、知つてゐることはみんな言ふ。でも私は無実。私、牢屋にはゐたくない。

セヴィニエ(守衛に)ここにゐる必要はない。廊下で待つてゐてよろしい。(ジョゼファに)坐りなさい!

(守衛、お辞儀。退場)

ジョゼファ(怒りを込めて)あんなところに入れて! 蛇の生殺しよ、まるで。

crever~~~破裂させる、へとへとにさせる

セヴィニエ さあさあ。(優しく)お坐りなさい、マドゥムワゼッル。

ジョゼファ(驚く)マドゥムワゼッル! 生れて初めて呼ばれた言葉よ、それ。

(セヴィニエとモレスタン、びつくりして、顔を見合はせる)

セヴィニ(疑はしさうに)まさか。

ジョゼファ 田舎では「ジョゼファ」か「お前」。お城では「あなた」か「娘さん」。「マドゥムワゼッル」は、決して言はない。ありがたう、判事さん。

セヴィニエ 坐りなさい!

ジョゼファ (夢見るやうに、おとなしく坐る)「マドゥムワゼッル」、何て素敵! それに牢屋に入つてゐる女性に言つてくれるなんて!

セヴィニエ また脱線だ!

ジョゼファ(同じ筋道で考へながら)「ロロール」では私、「ラントネの娘」。あの新聞では「楽しみの娘」までは行かなかつたわ。

セヴィニエ 何だつて? 君は「ロロール」を見たのか。

ジョゼファ 見るだけぢやない、ここにあるわ。(上着の下から13頁を取出す)ほら、この写真、見て。なんて恥づかしい!

セヴィニエ どうやつてそれを手に入れたんだ。

ジョゼファ(憂鬱な表情)見てご覧なさい、その13頁を。ラグーニュ小母さんよ、まるで。80歳の。

セヴィニエ(辛抱強く、しかし質問を固執する)その新聞をどうやつて手に入れた。

ジョゼファ 監獄では、最初の日には、欲しいものは何でも手に入る。

セヴィニエ(驚いて)何だ? 守衛がくれるのか?

ジョゼファ 私以外の女たちはね。でも、今日の夜か明日・・・どつちにしたつて近いうちに、その報ひが来るわね。

(嫌悪で身を震はせる)

セヴィニエ 君は本当に質問しにくい女だ・・・

ジョゼファ(途中で遮つて)ここ、昨日は寒くて震へたけど、今日は暑くて息がつまりさう!

(ジョゼファ、上に羽織つてゐるマントを脱ぎ、非常に丁寧に、椅子の背にかける)

モレスタン 判事殿、窓を開けませうか?

セヴィニエ(同意して)うん。(ジョゼファに)繰り返す。この最初の質問が実に重要なのだ。君の恋人の名前だ。

acquiescer~~~同意する

ジョゼファ ミゲル・オストス。

セヴィニエ(苛々して)馬鹿な真似をよすんだ。君は「率直」と自分のことを言つてゐるが、これが君のその「率直」なのか? 勿論私の聞いてゐるのは、もう一人のはうの恋人だ。(ジョゼファ、黙つてゐる)答へたくないんだな?

(ジョゼファ、黙つてゐる)

カルディナッル ねえ君、答へるんだ。(ジョゼファ、黙つてゐる)もう君には言つてあるね・・・

セヴィニエ(素気なく)君は黙つてゐてくれ。覚えておいてくれ。尋問の時には、君は、君の依頼人の代行は出来ないんだ。

カルディナッル しかし・・・

セヴィニエ 被告に助言を与へてはならない。(カルディナッル、不満の仕草)私を助けるためでも駄目だ。

カルディナッル(微笑んで)ああ、分つてゐます。秘書がゐたら、私の代りに秘書をここに出席させればよかつた。

(突然扉が開き、アントゥワネット、登場)

アントゥワネット お邪魔?

セヴィニエ(怒つて)邪魔だ。非常に。

(アントゥワネットは、ただジョゼファを知りたいだけのために戻つて来た。従つて、夫に話してゐるときでさへ、ジョゼファを当惑させるまでじろじろと彼女を見る。ジョゼファ、スカートの裾を伸ばす。ジョゼファの知つてゐるしとやかさのただ一つの所作)

アントゥワネット(ジョゼファをじろじろと見て)一分だけ! 検事を夕食に招くんでせう? だからそのとき説明して下さらない?・・・

セヴィニエ(そつけなく)頼む、ここは放つといてくれ。

アントゥワネット(ジョゼファを見て)ああ、さうね・・・これで分つたわ!

セヴィニエ(歯を食ひしばつて)すぐに出て行けと言つたらう!

アントゥワネット(出て行きながら)可愛いカミーユさん、今夜、家で、あなたの頭が落ち着いてから、話をしませうね? カミーユさん。

(アントゥワネット、扉を猛烈な勢ひで閉め、去る)

ジョゼファ あれ、奥さんね?

セヴィニエ 私の質問に答へなさい!

ジョゼファ(売り言葉に買ひ言葉)そちらも答へてくれてないわ。

セヴィニエ 君の恋人の名前を待つてゐる。

ジョゼファ あれ、きつと奥様よ。それに、だいたい判事なんてもの、女と言へばすぐ自分の奥様にしてしまふもの。(フランス語では「ファンム」は女と妻、両方の意あり。原文は、「判事は女(妻)しか持たない」)

セヴィニエ 君の恋人の名前は何だ。

ジョゼファ カミーユ!

(と言つて、ゲラゲラつと笑ふ)

モレスタン(怒つて)判事殿!

セヴィニエ(こちらは全く可笑しくない)五分経たないうちに名前は分る、と言つたぞ。

ジョゼファ 分るわけないわ。

(間)

セヴィニエ(椅子に戻り)雇ひ主たちのことを、君はどう思つてゐる。

ジョゼファ ボールヴェール夫妻のこと?

セヴィニエ さうだ。他にはゐないぞ、雇ひ主は。

ジョゼファ 二人とも優しいわ。特に奥様は。

セヴィニエ 特に奥様?

ジョゼファ だつて、美人、上品、それに、きりつとしてゐる。それなのに高飛車ぢやないわ。

セヴィニエ そんなに美人?

ジョゼファ それはもう。

セヴィニエ コラ警部への調書には、「あの方は悪くないわ。あの方を愛してゐる人にとつては」だつたぞ。

ジョゼファ ええ。でも私、愛してゐる人間だから。よく唐辛子を批評して人が言ふでせう? 「絵に描いたやうに新鮮」つて。あれ。

セヴィニエ つまり「化粧が強い」つて言ひたいのか?

ジョゼファ 「新鮮」つて言ひたかつただけ。あの目! たいしたものよ、あの目ときたら。父親がよく言つてた。あの目、パイプに火でもつけられさうだ、つて。

セヴィニエ やれやれ。

ジョゼファ ミゲルも何かあの目について格言を持つてゐたわ。何だつたつけ・・・「女の瞼(まぶた)は扇かカーテンだ」だつたわ。

セヴィニエ いろんなことを言ふもんだな、全く。

ジョゼファ ええ、あの奥さん、本当にたいした人なんだから。あの厭な女の料理人だつて、すごい、つて言つてるの・・・それぐらゐ!

(少しの間)

セヴィニエ そして旦那様のはうは?

ジョゼファ 旦那様?

セヴィニエ さうだ。旦那だ! 私の質問が分らないのか!

ジョゼファ 旦那様も同じよ。当然だけど。

セヴィニエ こちらも素敵・・・つて言ふんだな?

ジョゼファ 勿論!(少し訂正して)でもちよつとお高く止つてゐるかな?

Colet monté~~~お高くとまつた、ハイ・カラー

セヴィニエ 書いたか、モレスタン!

モレスタン はい、勿論。判事殿。全部書いてあります!

ジョゼファ それにお叱言なんかなし。私、ある日旦那様に言つたわ、「私に何もかも満足してゐるなんて、そんなこと無理よね」つて。

セヴィニエ 何と言つたんだ、旦那は。

ジョゼファ(しつかりと覚えてゐるに決つてゐるが)よく覚えてゐないわ。旦那衆のいつものお世辞。

(短い間)

セヴィニエ(椅子に背を持たせて)以前は、君とオストスでは、仕事の休みが曜日で違つてゐた。さうだな?

ジョゼファ ええ。私は水曜日。あの人は木曜日。仕事の違ひからよ、それは。

セヴィニエ オストスとの最初のつき合ひが始つた。そしてその一年ちよつとの間、君達二人は毎水曜日、ダンスか映画に行つた。

ジョゼファ 毎、水曜日にね!

セヴィニエ さう。毎、水曜日だ。女友達のときもあつたが、とにかく、毎、水曜日。

ジョゼファ(攻撃的に)私の権利でせう? したいことをするのは。

セヴィニエ 九月に、ミゲル・オストスはバスク地方に休暇を取つた。君はオートリ―ヴに行つた。

ジョゼファ ええ、その通り。

セヴィニエ 十月、みんなパリに戻つて来た。それからは、君は毎水曜日、部屋にゐた。

ジョゼファ あらあら、毎、水曜日にね!

セヴィニエ さう、毎、水曜日だ! 「オストスの焼き餅にも拘はらず・・・」これは例の女料理人の証言による。

ジョゼファ(自動的に)ああ、またあの女・・・

セヴィニエ(調書を読む)オストスはジョゼファに言つた、「ジョゼファ、それぢや、虚弱になるぞ」と。

étioler~~~虚弱にする

ジョゼファ(嘲(あざ)笑つて)「虚弱」、女料理人の言葉ね、それ。ミゲルはそんな言葉、知りもしないわ!

(長い間。セヴィニエ、ジョゼファを見る)

セヴィニエ(突然、モレスタンに)証人ボールヴェールを呼べ。

ジョゼファ(呆気にとられて)何ですつて? 旦那さまがここへ?

(さつきセヴィニエからあつた指示を守り、モレスタン、書類を整へたり、余計なことをし、時間をかける)

coche~~~faire la mouche du coche~~~余計なお節介をする、coche~~は、駅馬車。(この表現はラ・フォンテーヌによる)

セヴィニエ(気のないふりをしながら)君たち二人を一対一で会はせやうと思つてね。

(セヴィニエ、書類に没頭する)

ジョゼファ(苦しい。その苦しさが増す)あの人、この事件には何の関係もないわ。

セヴィニエ おい、モレスタン、何をやつてゐるんだ。

モレスタン(相変らず、急ぐ様子なく)すぐにをはります、判事殿!

(無意識にジョゼファ、窓のガラスに近づき、自分の顔を見る。鏡の代り)

ジョゼファ(弱い声で)酷い顔! 鼻が光つてる、目は落ちくぼんで。看守が全部取上げたの。白粉も口紅も。(しかし出来るだけの顔の整へをする)バラ色のショールも取上げたわ。首を吊るといけないからつて。馬鹿なこと!(窓のところで振り返る。三人の看守、すぐ後ろに立つてゐて、ジョゼファを見てゐる。ジョゼファ、その意味が分る)ああ!

(モレスタン、退場)

セヴィニエ 君には言つたぞ、5分経てば君の秘密は分る、と。

ジョゼファ(それには答へず)私、マントは着るわ。女中の恰好は厭。(カルディナッル、マントを着るのを手伝つてやる)ありがたう。(セヴィニエに)私、あんたなんか大嫌ひ。私、心の底からあんたを嫌つてやる。こんなこと、今までに誰にだつて私、言つたことないわ。

(マリ・ドミニック・ボールヴェール、竜巻のやうに登場する。モレスタンの制止など全く無視して)

trombe~~~竜巻

(マリ・ドミニックは美人、毅然としてゐる)

(ジョゼファの、彼女の完璧であるといふ描写は、少しも大げさでなかつたことが分る)

マリ・ドミニック(陽気に)さ、来ましたよ、判事さん!

モレスタン(途中で相手の言葉を遮らうと)マダーム、繰り返しますが、判事の尋問はもつと後です!

マリ・ドミニック それ、何かの間違ひね!

モレスタン いいえ!

(この騒動を利用して、エリ・カルディナッルがジョゼファに囁く)

カルディナッル(小声で)判事は君を助けやうとしてゐるんだ。それを君は、侮辱するなんて!

ジョゼファ(驚いて)えつ、本当?

カルディナッル 間違ひない! さつき僕に言つた。本当だ。(セヴィニエの目に気づき)ウフ(と咳払ひ)

(ボールヴェール、登場。彼も、その妻と同様、上品。また、その上品さに、常に非常な注意を払つてゐる。その気取りは、昔風の大げさなものなのだが、彼の日常になつてゐるため、キザな感じがない。上品、沈着、感情を顔に出さない)

racé~~~上品

flégmatique~~~沈着な

blasé~~~食傷してゐる、無感動

マリ・ドミニック 判事さん、あなた、私のゐないところで、私の夫の尋問をなさりたいつて言ふのですね? こんなの大問題ですわ。

セヴィニエ いいえ、マダーンム、それこそが重大な事柄なのです。

マリ・ドミニック 私が聞いていけないどんなことを、この人に聞かうつて言ふんです、あなたは。

セヴィニエ(冷たく)この部屋では、質問をするのはこの私なのです、マダーム。どうぞこの部屋から出て行つて下さい、私の言ふことを聞いて。

マリ・ドミニック(夫に)バンジャマン、今の、聞えた?

ボールヴェール 聞えたよ、お前。

マリ・ドミニック 何、それだけ? あんたの反応は。

ボールヴェール 勿論判事殿は、もつと親切にも出来たらうが。まあ、暇がなかつたんだ。

ジョゼファ(ジョゼファ、セヴィニエに対して丁寧になつてゐる)驚きでせう? 判事さん。今の言葉、半分も分らなかつたでせう?

セヴィニエ マダーム、あなたへの尋問も、次にすぐ行ひます。

マリ・ドミニック(横柄に)あなた、私にも尋問するの?

セヴィニエ そして言つておきますが、その時御主人の同席は許されません。

マリ・ドミニック こんな簡単な事件に、まあまあ、大層なこと。

セヴィニエ ご想像とは違ひ、それほど簡単ではないのです。

マリ・ドミニック(怒つて)ジョゼファ、みんなあんたのせゐなんですからね。

ジョゼファ(熱のない言ひ方)ええ、なんだか、そのやう。

マリ・ドミニック(苦い叱責)こんなに信用してやつてゐたジョゼファ、そのお前が!

ジョゼファ 非難を受けてゐること、私には何の関係もない!

セヴィニエ(苛々して)モレスタン、マダム・ボールヴェールにお引取りを願つて。

マリ・ドミニック どのくらゐ待たせておくつもり?

セヴィニエ 分りません、マダーム。多分美容院には間に合ひますまい。

マリ・ドミニック(怒つて)まあ! 何、この裁判て!

(退場)

ボールヴェール 坐つていいかな? 疲労困憊だ。

recru~~~疲労困憊した

セヴィニエ どうぞ。(ジョゼファに)君もだ!(ボールヴェールに)失礼ながら、決まりですので。お名前と職業を。

ボールヴェール ボールヴェール、バンジャマン、銀行家、住所、フザンドリ通り、112番地。

ジョゼファ(ボールヴェールにしか気をとめてゐない)旦那様、お痩せになつたわ! 本当にお痩せに!

(この幕の間中、ジョゼファの発する「旦那様」の言葉は、親しい同士の「あなた」の言ひ方)

ボールヴェール 君も元気な顔をしてゐないね、可哀想に、ジョゼファ。

ジョゼファ 牢屋で、白粉も紅も取り上げられたからですわ。

ボールヴェール 私もウィスキーを取上げられたからだ。

ジョゼファ お可哀想に、旦那様。あんなにウィスキーがお好きなのに!

ボールヴェール さう、私は衰弱した。お前の言ふ通りだ。

concéder~~~授与する、認可する

セヴィニエ(じつと二人の様子を見つめてゐたが)いいですか、お二人とも。ここは判事の部屋なのです。

ボールヴェール それは常に私の意識の下にあります。

ジョゼファ(ボールヴェールに。セヴィニエを指さして)ほらね、この人、とても親切なの。

(ジョゼファ、ボールヴェールに対し、友達に対するやうな手の仕草をする。それを見てセヴィニエ、驚く)

セヴィニエ(質問の仕方を探りながら)よろしいでせうか、ムスィユ・ボールヴェール・・・これから尋問を行ひますが・・・その・・・

ボールヴェール(相手を労(いた)はるやうに)ああ、どうぞご心配なく。私は至つて単純な男で。

セヴィニエ(怒つて)分つてゐます。結婚なさつて長いのですか?

ボールヴェール(曖昧に)さう、長いと言へばさう。

ジョゼファ(正確に)二十六箇月。

ボールヴェール(驚いて)たつたそれだけ?

セヴィニエ(皮肉に)長い時間に思へるんですね? あなたには。

ボールヴェール マリ・ドミニックは、子供の頃からの友人で。六歳の頃から一緒だといふ気分です。

セヴィニエ 幼児の頃のその結びつきに、あまり期待をかけてはなりませんね。

ボールヴェール(難解な言葉)期待できると期待したいな。

hermétique~~~密閉した、難解な

セヴィニエ(突然)ジョゼファ・ラントゥネが十月に解雇になつた後、水曜日には決して外へ出なかつた理由をご存知ですか?

(ジョゼファとボールヴェール、目を交す。これは誰の目にも見える)

ジョゼファ(セヴィニエに目配せをして)判事さんは何とでも言へますわ。何でもご存知なのですもの。

ボールヴェール(ジョゼファに冷たい目つきを浴びせた後)週の使用の自由は、使用人に完全に許可してゐるもので。

hebdomadaire~~~週ごとの

セヴィニエ もつと分り易くご説明願へませんか?

ボールヴェール さうしたいところだが、他にどう言へばよいか・・・

(金細工のボンボン入れを出し、そこから一つドロップを取り出す)

pastille~~~ドロップ

ジョゼファ(熱心に)旦那様の命令はいつでも、何度か聞き直さないと分らないのです。

セヴィニエ フザンドリ通りのその下宿に、あなたとジョゼファ以外の人間があの時、ゐましたか?

ボールヴェール いいえ。(皮肉に)この答では、簡単すぎましたかな?

セヴィニエ しかし、我々の調べの結果により、ジョゼファ・ラントゥネには別の恋人がゐると、我々は確信してゐるのですが。

ボールヴェール(微かな非難)おいおい、ジョゼファ!

(ジョゼファ、両手を顔を覆ふ。吹き出すのを見られないやうにする

ため)

セヴィニエ その「別の恋人」といふのはあなたに他ならない! さうですね?

(間)

ボールヴェール 何と答へたものですかな?

セヴィニエ 本当のことを、です。

ボールヴェール 妻がこのことを知るやうになるのは、まづいんだがな。

セヴィニエ お知らせするやうなことには、ならないですむやうにしませう。

ボールヴェール(決心して)よろしい。その通りです。

ジョゼファ(喜んで。カルディナッルに)ほらほら、ほらね? 旦那様、ありがたう。

セヴィニエ 書いたか? モレスタン。

モレスタン 勿論。下線つきです、判事殿。

セヴィニエ どこで。そしていつからです。

ボールヴェール(諦めて自分の義務を果たす気持)最初はオートリ―ヴ、9月。

austère~~~厳しい、厳格な、

chevaucher~~~騎行する、馬に乗る

vaux~~~veau, veaux~~小牛、のことと思ふ

セヴィニエ なるほど。

ジョゼファ(陽気に)ありがたうございます、判事さま。

ボールヴェール(ジョゼファに)大げさに言ふものではない。(判事に)9月はオートリ―ヴではもう相当な寒さだ。マリ・ドミニックは・・・これは私の妻だが・・・闘士とも言ふべき女で、馬でも牛でも乗りこなし、私をつけてゐる。私の仲間の、ムスィユ・アゼルグなる人物といつでも一緒に。

セヴィニエ(なげやりに)誰です、そのムスィユ・アゼルグとは。

détaché~~~どうでもいい、といふ調子で

ボールヴェール 可哀想な宿無しで、少しびつこ、まあ、宿無しといふものは大抵がびつこなものだが。しかし立派な騎士で。私が宿を提供してやつてゐる・・・まあ一種の慈悲で。

boiteux~~~びつこの、ちぐはぐな、精神的に不安定な

héberger~~~宿泊所を提供する 

セヴィニエ なるほど。

ボールヴェール お分りにならうが、私は常に、つまり一日中絶え間なく、自分の傍に、動物胃の第四胃なるものをつき添はせてゐる。

caillette~~~動物胃の第四胃

ジョゼファ(判事に)ね、判事さん、お分りでせう? この人には、女性の持つ「勘」つていふものがあるの。

セヴィニエ なるほど。

ジョゼファ 私にもその「勘」があるの。だから私、この人に気に入られてゐるつて、すぐ分つた。

ボールヴェール これでお分りでせうな(「いつ、どこで」の答は)。男は、女が男を確保するまで、追ひかけるものです。これ以上つけ加へることは何もないでせう。チャンスが与へられる、若草は柔らかい(そして)・・・

ジョゼファ(文章を直して)いいえ、書斎でしたから・・・

ボールヴェール 好機、それとも不幸、といふべきか、・・・言ひ方はいろいろだが、その「好機」がこの子に、その書斎の床を磨かせてゐた。床の広さは18メートルに16メートル四方。とてもよく磨かれてゐて、そこで彼女は滑つた。

モレスタン(歯の間で発音)勿論ね。

ボールヴェール 正直のところをお話しすべきでせうな、この際。この子は上着の下には殆ど何も身につけてゐなかつた。

ジョゼファ(仕草でセヴィニエとモレスタンを指し)みんなそれ、知つてるわ!

ボールヴェール(非常に驚いて。皮肉に、セヴィニエに)ずゐぶん深い調査まで行ふものですな。

セヴィニエ あなたはお高く留つてゐるといふ内縁の人の話でしたが、それほどでもありませんな、今の話では。

ボールヴェール(誠実に)内縁の人と言ふと?

ジョゼファ(優しく)私のことよ、旦那さま。

ボールヴェール ああ、さうか、君は私の内縁なんだな。

ジョゼファ(快活に)裁判のときだけ。

ボールヴェール 滑稽だが、まあ事実だ。

cocasse~~~珍妙な

セヴィニエ 事実です!

ボールヴェール 私にしてみれば、原つぱに生えてゐる小さな花、ですが。

ジョゼファ そんな! 原つぱの花なんて、匂ひもないし、すぐに萎れるぢやない!

セヴィニエ あなたが、このジョゼファ・ラントゥネに手紙を書きましたね?

ボールヴェール(陽気に)私が? まさか。

hilare~~~陽気な

ジョゼファ(傷ついて)まあ!

セヴィニエ 警部コラが、彼女の部屋であなたの手紙の一つを見つけました。

ボールヴェール おやおや!

セヴィニエ(引出から手品師の優雅な手つきで、手紙を取り出す)これです。

prestidigiteur~~~手品師

ジョゼファ(親しい口調で)後で返してね?

セヴィニエ 文面は、「可愛いジョゼファ、私は土曜日に帰る。準備を頼むよ。ボールヴェール」

ボールヴェール 危険なものではないですな? それは。

ジョゼファ(ほつとため息) ちつとも。

ボールヴェール(嘲笑的に)「準備を頼む」と言つても、その解釈はさまざまだからな。

ジョゼファ(セヴィニエに)この人パリにゐたの、二週間。それで手紙を。私によ。

セヴィニエ 興奮しないで。

ジョゼファ(ボールヴェールに)嬉しかつた。嬉しかつたわ、私! 二日間、私、その郵便配達の人に恋してゐたつて気持。

facteur~~~郵便配達人

セヴィニエ ねえ、カルディナッル、私は君の依頼人に、多少の節度くらゐは持つて貰ふやう言つてくれてゐたらと思ふんだが。

カルディナッル(ジョゼファに)頼むよ。君自身のためにもね。

ジョゼファ(小声で。しかしセヴィニエには聞えることを期待して)私黙るわ。でも、この判事さん素敵ね。

モレスタン(唸る)やれやれ、今度はセックス・アピールか。

セヴィニエ(ボールヴェールに。ボールヴェール、二個目のドロップにパリパリと音を立ててゐる)で、土曜日に帰つたんですね?

croque~~~パリパリと音を立てる

ボールヴェール さう、土曜日に。

セヴィニエ 勿論その土曜日に、すぐ二人は・・・

ジョゼファ(につこり笑つて)準備は出来てゐたわ。

ボールヴェール マリ・ドミニックは、パリから出やうとはしなかつたしな。

ジョゼファ(急に真面目な口調でボールヴェールに)それからの四日、下さつたあの四日、あれ、私一生忘れない。

subite~~~突然の

ボールヴェール(その情熱は醒めてゐて)さう、全くその通り。

ジョゼファ ええ、一生! 決して!(セヴィニエ、ジョゼファを睨む。間)

セヴィニエ それから後、何度も会つたんですね?

ボールヴェール(へいちやらな調子で)思つたよりこの娘(こ)は、しつこくてね。

ジョゼファ(判事に、陽気に)ええ、さうね。時々はとても厭らしい女になつた。(ボールヴェールに)ご免なさい!

ボールヴェール いいさ。教育のない女にありがちだが、この娘(こ)は嫉妬が強い。しかしまあ、私を愛してゐる証拠とも言へる。

ジョゼファ(セヴィニエに)旦那様はすぐ怒るの、私が少しでもしつこくすると。

セヴィニエ ああ、怒りつぽいたちで?

ジョゼファ(セヴィニエに)ええ、年がら年中。

セヴィニエ(もつと聞きたいところ。だが、仕事がら、ボールヴェールに)で、オストスは? 

ボールヴェール ああ、オストス?

セヴィニエ オストスのことは気になりませんでしたか?

ボールヴェール 全然。パリの外れの郵便局に、私が自分で局留めの手紙、それも香水を振りかけた手紙、を出して、それを取りに行かせたよ。

poste restante~~~局留めの手紙

ジョゼファ(セヴィニエに)プロヴァンスまで取りに行かせたことも、何度もあるわ。

ボールヴェール あいつは私に不平を言つたよ、自分の妻への恋のためにこんな用事でわざわざ行かせるなんて、とね。馬鹿だ、あいつは。

セヴィニエ(強く)そんなに厭でしたか?

exécrer~~~嫌悪する

ボールヴェール ああ、大嫌ひだつたね。

セヴィニエ ほほう。するとそれは前から、それとも、後で?

ボールヴェール(正直に意味が分らず)失礼ですが?

ジョゼファ 判事さんの質問は、「私の、前からか? それとも後か、つて。」

ボールヴェール ああ、ずつともう前からだ。

ジョゼファ さうだらうと思つてゐた。

ボールヴェール まづ第一に、あいつは私より頭がいい、それもずつとずつとだ。けものの頭だ、あいつのは。男を感じさせる。それに無口。ほとんど啞(おし)だ。それに無礼。人を当惑させるほど無礼だ。女性の前でしか自分を出さない。あいつを片づけることをよく考へたものだ。

confondant~~~当惑させる

セヴィニエ(わざと相手の言葉を繰返す)「あいつを片づける」ですか?

ボールヴェール 一週間の休暇を取らせればいい。しかしジョゼファを一緒に連れて行くらしいと気がついて、それは止めた。

ジョゼファ(カルディナッルに)旦那さまは私のことを自分で気づかいほど愛してくれてゐたのよ。

カルディナッル シツ!

セヴィニエ(攻撃に移る)犯行の現場に最初に着いたのはあなたでしたね?

ボールヴェール(不意をつかれ、驚いて)さう、私、だと思ふ。

セヴィニエ 思ふ、ですか? 確かではないのですか?

ボールヴェール(踏みとどまり)いや、確かだ。妻の来たのは私の後だつた。

セヴィニエ 目撃したものは?

ボールヴェール ジョゼファがベッドの足のところにーーーこれを言ふ必要がありますか? 全裸で。

ジョゼファ 困るわ、私。

ボールヴェール(平静な口調)綺麗だつた、とにかく。

ジョゼファ 旦那さまは優しいわ。

ボールヴェール まづ目に入つたのは彼女だ。

セヴィニエ まあ、さうでせうな。

ボールヴェール しかし私は、すぐに安心した。胸が規則正しく動いてゐたからね。

ジョゼファ 胸! 私の一番よいところ!

ボールヴェール そこでオストスに近づいた。

セヴィニエ どこにゐました?

ボールヴェール 部屋の奥です。顔を床につけてゐた。

セヴィニエ それで、喋つたのですね?

ボールヴェール さうだ。

セヴィニエ で、彼の言つてゐることが、あなたには分つた。

ボールヴェール さう、分つた。

セヴィニエ すると、まだ元気があつた、といふことですね?

ボールヴェール 元気、といふところまでは言はないがね。

セヴィニエ(しつこく、無遠慮に)どこまでは言へるんですか?

ボールヴェール(その無遠慮さに気づかないふりをして)一つの文章しか言はなかつた。しかし何度も繰り替へした。それで分つた。

セヴィニエ その文章をもう一度お願ひします。

ボールヴェール(そつけなく)厭です。

セヴィニエ 何故です。

ジョゼファ 私の前で? 旦那さまをあなた、何と思つてゐるんです。

ボールヴェール(ジョゼファに)ああ、君は私のことを分つてくれてゐるのか。ありがたう。

ジョゼファ(厳しい言ひ方で、セヴィニエに)この方は、女中と寝てもきちんと心を入れるんですよ!

セヴィニエ(命令口調で)ムスィユ・ボールヴェール、さつきの文章をここで繰り替へして言つて下さい。

ジョゼファ 私が言ひます! ミゲルは繰り替へし言ひました、『ジョゼファ、何故こんなことをしたんだ』と。あの人は、私が、旦那さまを救ふためにあの人を撃つた、と思つてゐたのです。ああ、それが出来たら、やつてゐたわ、私!

カルディナッル そんなことを言つちや駄目だ!(謝つて)失礼、判事殿。

セヴィニエ(これには応へず)ジョゼファ・ラントネ、その文章を君は、あの男が言つたのを聞いたのか?

ジョゼファ いいえ。判事さんが言つたのを繰り替へしただけです。

セヴィニエ 私は、ムスィユ・ボールヴェールが言つたのを繰り替へしたのだ。

ジョゼファ ああ。

セヴィニエ(ボールヴェールに)何故これをわざわざあなたに言ふのかと言ひますとね、この非難を聞いたのは、あなただけだからです。

ボールヴェール(答へるまでの時間かせぎに)今、何と?

セヴィニエ ミゲルがこの言葉を発したとき、あなたの奥さんは部屋に入つてゐましたか?

ボールヴェール 分らないね。さうは思はない。

セヴィニエ それが私の言ひたかつたことです。あの言葉はあなただけが聞いたのだ、と。

ボールヴェール 多分さうだ。

セヴィニエ 従つて、それを人に話さないですむことも出来たのですね?

(少しの間)

ボールヴェール 確かに。

ジョゼファ(ボールヴェールを助けるために)でも、旦那さまがそれを聞いたのは事実で、その事実を話しただけでせう?

セヴィニエ(ボールヴェールに)よく分らないですね、あなたの態度は。あなたの恋人を失ふ可能性のある事実をわざわざ人に喋るとは。

ジョゼファ 私、平気。だつて私、無実なんですから。

セヴィニエ(ボールヴェールに、続けて)そしてコラ警部に、あなたは急いでこのことを繰り返し述べてゐます。

ボールヴェール 『急いで』など述べてはゐないね、私は。君は私が真実を真実として述べたことを非難してゐるのかね?

セヴィニエ 愛してゐる女性なのに、その人を非難してゐることに、私は驚いてゐるのです。

ジョゼファ(途中で遮つて)旦那さまはよいことをなさつたの。私には何も怖れることなどないことをご存知なんですから。

セヴィニエ(前の台詞に繋げて)おまけにその非難の仕方が、死に直結してゐる。

ボールヴェール その「直結」といふ言葉が気に食はない。

セヴィニエ 悪いが、その他の言ひ方が思ひつかないのでね。

ボールヴェール (「ジョゼファ、何故こんなことをしたんだ」といふのは、)私が拵へた台詞だと言ひたいのだな?

セヴィニエ そこまで言ふつもりはない。

ボールヴェール(セヴィニエの言ひ方を真似て)ぢやどこまでなら言ふつもりなのだ。

セヴィニエ 「拵へやうとすれば出来た」台詞だ、とまで、だ。

ジョゼファ ねえ、聞いて、聞いて!

ボールヴェール(脅しの言葉)君は誰と話してゐるのか、分つてゐるんだらうな?

セヴィニエ ・・・つまり、被疑者が気絶、そしてあなたの連合ひのゐない間なら、あなたは自分の都合のよいどんな台詞でもオストスに言はせることが出来る、といふことです。

ボールヴェール(遮つて)「都合のよい」だと? 私がオストスに、自分の「都合のよい」台詞を言はせねばならない理由があるとでも、君は言ふのか。

ジョゼファ(セヴィニエに)止めて、もう黙つて!

retenir~~~留める、止めさせる

セヴィニエ 「大変都合のよい」です。何故なら、あなたとジョゼファの関係をミゲルは気づいてゐたからです。

ボールヴェール 気づいてゐなかつた、あいつは!

ジョゼファ いいえ、気づいてゐました。でも旦那様はそれをご存知なかつた!

ボールヴェール うん、知らなかつた。

セヴィニエ それは奇妙ですね。マルト・エルボーの供述がここにあります。

(セヴィニエ、いつもの手品師の手つきでファイルから取り出す)

ジョゼファ ああ、あのマルト!

セヴィニエ 犯行の少し前、彼女はあなたに、ジョゼファ・ラントネと切れることを勧めてゐます。

ジョゼファ あらあら、あの人がね。

セヴィニエ その時のあなたの答、ずゐぶん普通のあなたの口調とは違ひます。(書類を読む)『お前、私にどうしろと言ふんだ? 私はもう骨の随(ずゐ)まであいつのものなんだ』

ジョゼファ(ボールヴェールに)どうして私にこの話、して下さらなかつたの?

ボールヴェール(肩をすくめて)こんな告白を何故私が女料理人ごときにしなくちやならない。

セヴィニエ マルトがずゐぶんあなたを驚かせたといふことですね?

ジョゼファ ああ、厭な女!

セヴィニエ ・・・そしてひと月5万フランで、口止めさせた。

ジョゼファ 私よ、それは。私があの人に5万フランただで稼がせてやつた。私、自分に悪い噂がたつのが厭だつたの。

セヴィニエ 口止め料は、彼女が要求した。ジョゼファとは切れろと言つたただけではなく、あなたへの忠告にまで及んだのですからね、(セヴィニエ、書類で確かめながら)『ミゲルには十分気をつけなければ』とね。

ボールヴェール(平然と)覚えてゐませんな。

セヴィニエ ほほう、覚えてをられない・・・

ジョゼファ(饒舌に)さう、記憶つてさういふものよ。例へば私だつて、頭の中に穴が出来たことがある。それ、でも、暫くして癒つたから良かつたけど。その頃よく物忘れしたわ。ただ私の場合、忘れたつてことは、覚えてゐるから、まだまし。

(カルディナッル、モレスタン、セヴィニエ三人のまなざしに合ひ、ジョゼファ、まごつく)

セヴィニエ(ボールヴェールに、短い間の後)どうです? 今の言葉。あなたを助けやうといふ被疑者の努力ですが。お気に召しましたか?

ボールヴェール(力を込めて)大変気に入つた。犯人はこいつだ、と言つてゐるこの私を助けやうといふんですからな。たいしたものだ。ありがたう、ジョゼファ。

ジョゼファ どういたしまして。

セヴィニエ さてと、マルト・エルボーに、「気をつけろ」と言はれたことを、あなたは覚えてゐないのですな?

ボールヴェール 全く。

セヴィニエ すると勿論、あなたのそれに対する返答も覚えてはをられませんな? (供述書を読み)『先手を打つ、ことが大事だ、強く打つ、ことよりも』ですが。

ボールヴェール だから、覚えてゐない。

セヴィニエ その後また「ナイフは拳銃ほど武器として確かぢやない」と言つたのも・・・

ボールヴェール こけおどしだ、そんなこと!

bouffon~~~おどけ、道化

ジョゼファ(ジョゼファがここに至り、心配になつてきたらしいと観客には分る)かまどの熱で、料理人の頭がをかしくなるつて、皆が知つてゐることだわ。マルトは自分でその台詞を編み出したのよ。それに証人は誰一人ゐないんでせう?

fourneau~~~かまど

セヴィニエ(ジョゼファに、乱暴に)もう一言余計なことを言つてみろ。ここからつまみ出してやる!

ボールヴェール さう。確かに証人はゐなかつた!

セヴィニエ いつもさううまくは行かない。ギヨーム・アンスニとあなたとの会話にはちやんと三四人の証人がゐる。

ボールヴェール ああ、あの野郎!

セヴィニエ 「野郎」ですか。これはこれは。みんなと同じやうな言葉づかひですな、それは。

ボールヴェール アンスニを尋問したのか?

セヴィニエ 偶々(たまたま)ですが、証人になつて・・・

(ファイルから一枚の紙を取り出す)

ジョゼファ アンスニつて、手のとても冷たい人ね?

セヴィニエ(ボールヴェールに)あなたはこの男に、或る晩ヴォルネ(バーの名らしい)でジョジョが好きだと言つたことがありますね?

ジョゼファ ああ、ジョジョ・・・

セヴィニエ ジョジョはあなたの部屋つきの女中ジョゼファだ、と説明しなかつた。どうやら説明は不要だと思つたやうだ。しかし、彼女を守るために次のやうに言つた・・・(読む)『あいつのためならどんな馬鹿でも出来る・・・離婚でも、犯罪でもだ。』

ジョゼファ(非常に喜んで)判事さん、私、旦那さまにキスしていいでせう?

セヴィニエ(ボールヴェールのはうに身体を寄せ、ジョゼファを押し退けて)あなたはこれを大声で言つた。そのため、バーテンとムスィユ・チュルメールは、ムスィユ・アンスニの裏付けもあり、あなたのこの言葉は実証されたのです。(すり顔負けの鮮やかな手並みで、ファイルの中から二枚、紙を取り出す。間)また、ご記憶にない話でしたかな?

corroborer~~~裏づける、実証する

escamoteur~~~スリ

ボールヴェール うん、それは覚えてゐる。

セヴィニエ さて、何故あなたが犯行現場に最初に到着したのか、思ひ出しましたか?

ボールヴェール いや、それは思ひ出さない。

セヴィニエ 何故なら必要な事柄にすべてあなたは、手を打つておいたからです。あなたには手筈が最も大事なものですからね。マルト・エルボーをパリのはづれに予め追いやつておいた。

ボールヴェール あいつの外出日だつたのだ。

セヴィニエ わざわざその日に、あなたが決めたのです。金もそのために払つた。

ジョゼファ(さつきより元気なく)外出のときにはお金。それは決り。

écoeuré~~~吐気をもよほす、士気を失つて、

セヴィニエ アスニエールの古い女友達と寝るときにも、金。朝9時までに帰らないやうにするためにも、金。犯行現場に最初に到着するためにも、金。

ボールヴェール マルト・エルボーがそれを仄(ほの)めかしたのか。

セヴィニエ 仄めかしたもの、そしてあなたが否定するだらうことを、他に沢山言つてゐますね、彼女は。犯行の前夜にも、です。(優雅に、ファイルから一枚紙を取出し)「旦那さまはまた、奇妙な声で仰いました、『ミゲルとあいつが・・・そんなことあつてたまるか』と」

ボールヴェール そんなこと、そんなことを私が言ふものか。

ジョゼファ さう、旦那さまはあのことを立派に我慢なさつてゐたもの。

ボールヴェール 私が金まで出してやつてゐる惨めな女が、私にこつそり何か悪いことなど、出来る筈はない。

s’acharner~~~襲ひかかる、夢中になる

ジョゼファ(ボールヴェールに対して「tu(あんた)」呼ばはりするのはこれが生涯でただ一度)誰か私に金を出した者がゐるのよ。あんたより沢山ね。

セヴィニエ(突然ジョゼファのはうに向きなほり)ジョゼファ・ラントネ、君は私の沢山の質問に答へてくれた。しかしこれは、訊いてもゐない質問への答だつたぞ。

ジョゼファ 私のはうだつて、言ひたいことぢやなかつたわ。黙つてゐたかつた。だつて、何も喋らないことぐらゐよいことはない筈なんだから。

セヴィニエ だがね、君が答へないでそのままにしてゐるこちらの質問が一つある。

ジョゼファ 何よ、それ。

セヴィニエ これを聞いたとき、君は身体ごと下に下した。顔色の変化さへ見られるのが厭だつたらしい。

ジョゼファ ええつ? 何? それ。

セヴィニエ その質問を今もう一度やつて見る。『その晩、ミゲル・オストス以外に君を訪問した者はゐなかつたか』だ。

ジョゼファ(本当の疲れが見えて)私、分らない。あなたが私に何を言つてゐるのか。

セヴィニエ その晩、ミゲル・オストス以外に君を訪問した者はゐなかつたか。

ジョゼファ(立上る)私を牢屋に戻して。

ボールヴェール ジョゼファ、言ひなさい。

ジョゼファ(反射的に)旦那様つて、馬鹿よ。(謝つて)あ、ご免なさい!

ボールヴェール 私だ。8時から10時までジョゼファと一緒だつた。

ジョゼファ(心からの叫び)ああ、何て素敵!

ボールヴェール(セヴィニエに)これで満足か?

セヴィニエ(「満足」を訂正して、無関心な調子で)まあまあといふところ。

rectifier~~~訂正する

ボールヴェール 私に対する嫌疑をもう一つ提供しよう。

セヴィニエ(非常な慇懃さをもつて)どうぞ。

ボールヴェール ジョゼファと私の、最初の約束は11時だつた。

セヴィニエ オストス殺害の時間ですね、それは。

ボールヴェール さうだ。

セヴィニエ なるほど。

モレスタン(このときまで、少し忘れられてゐる存在)安心して下さい、判事殿。ちやんと書きました。

ボールヴェール しかしその時、8時頃だつたが、妻から電話があつた。友人と夕食をとることにした、友人宅にまだゐる、と。それで考へた。「11時までボーつと待つてゐることはない」と。

ジョゼファ ちやんと席に坐つて!

ボールヴェール それにジョゼファは、あのとき特に、素晴らしかつた。

ジョゼファ(思ひ出の中)よかつたわ!

(ジョゼファ、坐り直す)

セヴィニエ そこは省略だ!(ボールヴェールに、信じられないといふ調子で)それで10時には家に戻つたと?

ボールヴェール 分る、君の考へは。私の用心からジョゼファには着物を脱がせなかつたことも、オストスが我々を襲ふこともなかつた。しかし、誰もそれを証明できない。

セヴィニエ 誰も、です。オストスをあなたは、追ひやつておいたのですね? 予め。

ボールヴェール さう。リヨンにだ。私の妹をそこまで送れと。

セヴィニエ(また手品師の手つきで紙を出し)コラ警部がそれを確認してゐます。

(ファイルにその紙を戻す)

ボールヴェール 私の計算によれば、どんなに上手な運転手でも、真夜中までにそこからここに戻つて来ることは出来ない。

セヴィニエ ところがオストスは、何をどうやつたのか、殺されるために戻つて来た。

ボールヴェール(皮肉に)君が私に提案するお話、といふのが見え見えだね。遅まきながらジョゼファと私のお遊びが始る。オストスが急襲する。私を亡き者のしやうと。私は発砲する。ここで正当防衛が発生する。

セヴィニエ 私のはうからは何も言ふことはありません。ただ聞くだけです。今の話も大変面白い。

ボールヴェール(激しい口調)いいか! あいつは我々を襲はなかつた。そして私はあいつを殺してゐない!

セヴィニエ(柔らかに)私は糾弾してはゐませんよ。

mollement~~~柔らかに

ボールヴェール(猛烈な勢ひで)私は殺してゐない! 本当だ。心底惚れてゐる。昔からの友人にもさう言つてゐる。女料理人にも多分言つた。

モレスタン(書き取りながら繰り返す)・・・にも多分言つた・・・

ボールヴェール(ジョゼファに近づき、目と目を合はせんばかりにして)欲しかつた、気違ひのやうに。そして得た。そしてまだ欲しいんだ。

ジョゼファ(驚いて)え? 今?

ボールヴェール(興奮が高まる)私の中の獣(けだもの)がこれを言はせてゐる。この娘(こ)の身体は美術品だ。(傲慢に)君には分りつこない!

セヴィニエ いや、それは分る。分りますよ!

ボールヴェール(つつけんどんに)いや、分るわけがない。

セヴィニエ やれやれ、よく言ひますね。

ボールヴェール こいつには迫力がある! 君に分るかな、欲望で震へが来る、と言ふ意味が。

ジョゼファ(陽気に)まあまあ、分るといふところ。

ボールヴェール 息も出来なくなるぐらゐ。そのただの一瞥、そのちよつとした微笑み、それでこちらは右往左往。不快極まりない。しかしこの女の前では私もそれだ。

ジョゼファ(謙遜に)申し訳ありません!

ボールヴェール しかしそれでこの女のために殺人を! 冗談ぢやない。私はこれを愛してゐるんぢやないんだ。情欲、それだけだ。他に何もありはしない。

ジョゼファ(青い顔で、それを認める)旦那さまは私を愛してはゐないわ。

ボールヴェール ギヨーム・アンスニがどう思はうと、離婚はしないね、私は。今の妻に、問題はいくらでもある。しかし、ジョゼファと暮す! この女のふくれつ面のダンマリと焼き餅につきあふ! 厭だね!

ジョゼファ 旦那さまの言ふ通り。私を愛してくれたのはミゲルだつたわ。

ボールヴェール それに、私が誰かを殺すとなれば、それはこの女だ。厄介払ひだ! 私がかつて男だつた、その男に戻るのだ!

ジョゼファ(突然、悲しみをもつて、ボールヴェールに)寂しくなるわ、旦那さまは。まだ分つてゐないでせうけど、寂しくなる、きつと・・・誰かアスピリンを持つてない?

カルディナッル 持つてる!(瓶を出す。モレスタンは急いでグラスと水差しの用意。その二つは、モレスタンの後方のテーブルにあつたもの)可哀想に。何ていふ辛い試練だ。

épreuve~~~試験、試練

ジョゼファ 人生に、こんな日があるなんて・・・

(ジョゼファ、ボールヴェールを見つめる。ボールヴェールは、セヴィニエの机の前に棒立ち、そして誰をも見てゐない)

ジョゼファ(手にグラスを持つたまま)私頭痛がしてきた。(自分を嘲るやうに)さう、何か辛いことを言はれると私、いつだつてこれ、頭痛。

(ジョゼファ、ゆつくりと飲む。カルディナッル、モレスタン、それを同情をもつて見てゐる。ボールヴェール、相変らず動かない。電話が鳴る)

セヴィニエ もしもし(すぐに相手に)はい、検事殿。しかし、検事殿・・・分りました、検事殿・・・しかし、オストス事件では、こちらでは新しい容疑者が出てきまして。(もう一度これを強調する)アルドゥアンには、車を四時に寄越すやう言つておきました。計画してゐる尋問のためです。(強く)しかし検事殿、私は・・・(諦めて)分りました。お邪魔はいたしません、検事殿。

qui-vive~~~誰だ、誰何(すいか)

(セヴィニエ、聴く。諦める。このときまでにジョゼファ、アスピリンの瓶の蓋を閉めてゐる。そしてボールヴェールから目を放さず、ゆつくりと水を飲み干す。テーブルの熟れに静かにグラスを置く。そしてボールヴェールに近づき、その顔をじつと見る)

ジョゼファ(低い声で)よくないわ、怖れつて。そしてどんなにこれ、怖いことでせう!(だんだん声が大きくなり最後には叫び声になる)。私、震へてらつしやるのが分る。さう、旦那さまの言つた通り。私たちの間では、肉体の関係だけ。そしてこの震へ、肉体的なもの。私、だからそれが分る。そしてそれが情欲のためでないことも!

セヴィニエ(電話に)はい、聴いてをります、検事殿!

カルディナッル 譲つては駄目です!

ジョゼファ 私をあなたの女にしてゐることを、恥だとは思はないつて言つてたけど、それは嘘。(怒つて)ずーつと私のことで心配してゐたの、旦那さまは。私に唾を吐きかけるのが厭だと言つてゐたけど、それは必要だつたのよ、結局。

ボールヴェール(頭を上げず)さうだ。それは厭だつた。

ジョゼファ(ボールヴェールの真似をして)それから『私は彼女を愛してゐない』、『片をつけるために私が殺すとすれば、それは彼女だ』・・・こんなこと、オートリ―ヴで9月にはそんなことを私に仰る旦那さまぢやなかつたわ。(また急に怒りがこみ上げ)嘘つき!

セヴィニエ(電話に)よろしうございます、検事殿!

ジョゼファ(自分への憐憫で)「偉大な愛」つてあなた、言つたことがあつたわね。私、その時、馬鹿ぢやない、つて思つた。

カルディナッル ちよつと。言ひ過ぎだよ、それは。

ジョゼファ でも馬鹿は私。歯も抜けるほどのキス、あんなのを信じたなんて!

カルディナッル そんなことを言つてゐると、余計気分が悪くなるよ。

セヴィニエ(電話に)それが私の意見です、検事殿!

ジョゼファ(怒つて)どうやらそれ、「後頭部の痛み」ね? それ、私があなたにあげたもの、「後頭部の痛み」! 分つたでせう?

カルディナッル(ボールヴェールに)どうなさいました? 感覚がなくなつたんですか?

(ボールヴェール、相変わらず不動)

ジョゼファ ご免なさいね、旦那さま。その痛みもそのたいろいろも。私の欠点を許して。さう、それから私の長所も。(大声で)それに私のことを気に入つて下さつたこと、それも私が悪いの。ご免なさい。

セヴィニエ(こちらも怒鳴る)もう少し静かに出来ないのか! 聞えないぢやないか! (電話に)失礼、検事殿! ボールヴェールなる人物が何者であるか、それはよく承知してをります。気持としては勿論、彼を容疑者にするなど、とても無理だと。しかし・・・しかし、私の調べでは・・・分りました、検事殿。最善を尽くします、検事殿。

(セヴィニエ、受話器を下す)

ジョゼファ この人、有罪であるわけないわ。私を信じて。

セヴィニエ やれやれ!

ジョゼファ ムスィユ・ギヨームにこの人、言つたでせう? 私を助けるためになら、犯罪だつてやつてやる、つて。でもこれ、ウィスキーを六杯飲んだあとの言葉よ。

セヴィニエ イン・ヴィーノー・ヴェリタス。

ジョゼファ それはさうかも知れない。だつてこの人、私のことを愛してゐないんだから。私なんか、愛されたことなんかないのよ。

セヴィニエ 君がさう言ふなら・・・

ジョゼファ(大きく出て)誓ふわ、私。牢屋に入れられたつていい!

セヴィニエ 君の言ふことを信じるのは、こちらにとつても都合がいいんだよ。

ジョゼファ エスポレットで言はれた言葉つていふのがあつたでせう? 二人は二頭の馬のやうなものだつた。厩(うまや)の中でだけ分り合ふ二頭の馬。

ボールヴェール(怒つて)何ていふ比喩だ!

ジョゼファ(力をこめて)奥さんよ、この人、奥さんを愛してゐるの。

セヴィニエ(信じてゐない)ほほう、これは初耳だ。

ボールヴェール(上品に)私は妻を敬愛してゐましてね。

ジョゼファ 長い間この人、奥さんとの関係は兄妹(きやうだい)のやうなものだ、と私に信じこませやうとした。それ、他のものと同じで、嘘だつたの。

ボールヴェール 何だつて?

ジョゼファ 兄妹よ、兄弟。それを信じやうとしたの。それはミゲルと私が兄妹だつていふのと同じ。嘘なのよ。

ボールヴェール 何? 何だ、それは!

ジョゼファ あれは犯行のあつた前の日、さう、朝の2時。私は窓際に立つてゐた。旦那さま夫妻がタクシーから降りて来た。そして歩道のところで、お二人、唇と唇を合せる熱烈なキス。結婚してゐるのに!

ボールヴェール 火曜日に?

ジョゼファ ええ、火曜日に。

ボールヴェール それは私ぢやない!

(居合せた人々全員の、驚き)

ジョゼファ 私、よく覚えてゐる。奥様は灰色のイヴニング・ドレス。

ボールヴェール で、男は。男は家に入つたのか。

ジョゼファ 何? 男つて。

ボールヴェール 私だ。その、君が私と思つたその男だ。

ジョゼファ 分らない。あなたのあのキスを見て、私、すつかり呆れてしまつた。すぐに窓を閉めたわ。

ボールヴェール 火曜日? 犯行の前日? それは確かか。

ジョゼファ これは確かよ。だつて私、その翌日だつてがつかりが続いてゐたもの。そしてあなたつたら、いくら起しても起きやしない。それぐらゐあなた、疲れてゐた。

ボールヴェール 一晩中ポーカーをやつてゐたんだ。当然だらう。

ジョゼファ ぢや、あれは?

ボールヴェール あれ? 妻のことか? あり得ない!

ジョゼファ(ボールヴェールよりも強く)あり得ない!

ボールヴェール しかし・・・しかし、いろいろ符合するな! ああ、あいつめ! ふしだらな! 糞つ! よし、いいか、全部話してやる!

セヴィニエ まだ全部話してゐませんでしたか?

ボールヴェール ここを話せば、君は驚くね。

セヴィニエ(厳しく)書き取るんだ、モレスタン。

モレスタン 言はれなくとも、判事殿。これは面白くなりました。

(モレスタン、とりつかれたやうに筆記)

ジョゼファ(心底呆れて)騙されちやつたわ、この人! たうとう騙されて! 騙すなんて、よくやすものね! 呆れた!

(ジョゼファ、最初はプツと吹き出す。次に、大声で笑ひ出す)

      (幕)

 

      第 3 幕

(同じ日の夕方。5時から6時の間。)

(セヴィニエとラブラーンシュ、部屋の中を行つたり来たり、そして坐つたり立つたりしてゐる。モレスタン一人、机についてゐる。)

ラブラーンシュ(からかつて)犯人を君、どうやらまた、変へたのか? 

goguenard~~~嘲笑的に

セヴィニエ(冷たく)そのどこが可笑しいのか、私には分りませんね。

ラブラーンシュ 一日に二人! ちよつとついて行けないね、君には。今やり玉にあがつてゐるのは、マダム・ボールヴェールだと言つたな?

セヴィニエ その通り!

ラブラーンシュ やれやれ!

セヴィニエ 笑ひ事ぢやありません!

ラブラーンシュ いや、笑へるよ、これは。三時間前には、その夫を犯人だと言つてゐたんだからね。

セヴィニエ 新事実が出て来たからです。

ラブラーンシュ(皮肉に)「新事実」の専門家だね、君は。

persifleur~~~揶揄して、皮肉に

セヴィニエ 妻が自分を騙してゐた・・・それが夫に分つて。

ラブラーンシュ よくあることだらう? そんなことは。

(笑ふ)

セヴィニエ 他人にはあつてもボールヴェールには、これは初めてだつた! 初めてで、烈火の如く怒り、我を忘れて新しい事実を喋り始めた。

ラブラーンシュ(軽い調子で)裏切られた夫は、今度は復讐の念に燃ゑる、か。

セヴィニエ 読むんだ、モレスタン!

モレスタン(感情を入れないで読む)糞! このあばずれめ!(ラブラーンシュに)お許し下さい、悪い言葉を。これは朗読ですので。

ラブラーンシュ(驚いて)ボールベールが「あばずれ」と! 奥さんに?

モレスタン(感情を入れない朗読を続ける)さう、奥さんに、です。それから、「よし、それなら全部ぶちまけてやる」

質問:全部を話してはゐない、といふことですね?

答:これを話せば、君は驚く筈だ。

ラブラーンシュ 朗読でなく、驚く場所に直接、願ひたいな。

セヴィニエ すぐにそこに行きます。さ、モレスタン、続けて。

(モレスタンに、続けるやう仕草)

モレスタン(読む)犯行現場に最初に着いたのは私ではありません。それは妻でした。

ラブラーンシュ 何だつて?

セヴィニエ(今度はこちらが嘲笑的に)どうです? これは。驚きでせう?

モレスタン(読む)彼女は、みなさんもご存知のやうに、赤いイヴニング・ドレスを着てゐた。ここでみなさんのご注意を喚起したいのですが、彼女は手袋を外してゐなかつたのです。

ラブラーンシュ おやおや!

セヴィニエ 初歩的な用心です、これは!

モレスタン(読む)質問:あなたは最初の尋問のとき、このことは話しませんでしたね?

答:自分が「寝取られ男」とは知らなかつたからだ!

質問:あなたが部屋に入つたとき、彼女は何をしてゐましたか?

答:ジョゼファの上に屈(かが)んで覗きこむやうな姿勢でした。最初は彼女の言つたことを、私は信じました。ジョゼファがたつた今、自分の恋人を殺したところだ、と。しかし今では、彼女のしてゐたことは、ジョゼファにピストルを握らせてゐた、といふ印象です。彼女の手袋のお蔭で、ピストルには彼女の指紋はついてゐないのです。

セヴィニエ 復讐心の強い男だ、彼は。

(モレスタンに、「続きを」といふ仕草)

モレスタン(読む)質問:あなたは自分の妻がオストス殺しの犯人だと糾弾してゐるのですね?

答:ええ、公式に。

ラブラーンシュ しかし、それは酷い!

モレスタン(ラブラーンシュの言葉は無視して)質問:あなたの妻がオストスを殺さねばならぬ、どういふ理由があるのですか?

答:理由なしだ!

ラブラーンシュ そらみろ。理由なしだ!

セヴィニエ(自信を持つて)モレスタン! 

(次を読め、といふ仕草)

モレスタン オストスを殺す理由は何もない。私を殺す理由なら、ある。

セヴィニエ あなたの贔屓のボールヴェール一家、なかなかのものですね。

ラブラーンシュ(強く)「私の」贔屓ではないぞ!

モレスタン(朗読に戻り)午後、私はジョゼファと夜11時に会ふ約束をした。その時間には、二階の寝室に妻がゐるのは分つてゐた。11時15分にならなければ下りてはこないと知つてゐたから、心配はしてゐなかつた。それも大変な上機嫌でね。ところが、私は心配しておくべきだつたのだ。あれは私の声を聞いた! 誓つてもいい、あれは私の声を聞いたのだ!

ラブラーンシュ(心配して)こいつはえらいことになつたぞ。

guêpier~~~雀蜂の巣,  fourrer dans un guêpier~~~窮地に陥る

fourrer~~~突つ込む

セヴィニエ(モレスタンに)それで?

モレスタン 妻はオストスを殺した。何故なら、妻はそれが私だと思つたからだ。

質問:証言ではしかし、オストスはあなたより頭一つ大きいといふことでした。あなたの妻はとてもあなたとオストスと取り違へさうにもありませんが?

ラブラーンシュ(セヴィニエに)素晴らしい質問です。

セヴィニエ ありがたうございます。

モレスタン 答:スペイン人の用心深さが致命的だつた。部屋は全くの暗闇だつた。マリ・ドミニックは、部屋の奥でのうごめいてゐる、薄暗い影を狙つて撃つた。私の主義でやつてゐれば、オストスはまだ生きてゐたらう。何故なら、私なら煌煌(かうかう)と明かりをつけてやつてゐたらうからね。私は自分のやることは自分で見たい主義なんだ。(モレスタン、みんなに謝る)ご免なさい。私は読んでゐるだけですので。

ラブラーンシュ(心配になつてきて)どうか、その先を。

モレスタン(読む)あいつは夫なしの身になりたいがために、撃つたのだ。自由になり、恋人と一緒になりたかつたのだ。ただ、的がはづれてゐた。やれやれ、オストスだと知つたときのあいつの顔が見たかつたよ!

(短い間)

ラブラーンシュ(考へながら)この話はどうも腑に落ちない。聞いたときの第一印象は、驚きだ。しかし、何故最初、部屋に最初に入つたのは自分だと証言したのだ。

セヴィニエ もう暫くご辛抱を!

(セヴィニエ、モレスタンに合図)

モレスタン(読む)質問:犯行現場には、自分が最初に着いた、と何故証言したのです。

答:私は混乱してゐた。彼女は、これしか方法はないと断言し、それからくりかへし私に言つた。『早く決めて! ぼやぼやしてゐると、ジョゼファが正気に戻ります』と。私は彼女に全幅の信頼をおいてゐた。それに、繰り返すが、この証言のとき、私はまだ自分が「寝取られ男」だとは知らなかつたのだ。

(少しの間)

セヴィニエ 混乱の只中(ただなか)における悪魔の助言です、これは。被害者と気絶した女性のゐるところでの。

ラブラーンシュ 君はそれで、夫人にも尋問したのだね?

セヴィニエ 勿論です。

ラブラーンシュ ボールヴェール氏のゐないところでだね?

セヴィニエ さうです。

ラブラーンシュ つまり、君の尋問は正統でないときがある、といふことだな? で、彼女は夫を騙してゐたことを認めたのか?

セヴィニエ 否定しました。野蛮な言葉で。

ラブラーンシュ そしてボールヴェール氏、ですが、彼は共犯者がゐると証言したのかね?

セヴィニエ いいえ。

ラブラーンシュ それなら彼に対する容疑は無効だらう? 動機がない。

セヴィニエ ジョゼファ・ラントネは無実です。

formel~~~明白な、ここでは「無実が明白」

ラブラーンシュ またか、君のラントネだ!・・・

セヴィニエ マダム・ボールヴェールの喋るのをお聞きになれば、彼女が倫理観の持主だとはとてもお思ひにはならない筈です。

ラブラーンシュ そんなことは分らない。

セヴィニエ 彼女は危険な人物です。夫よりずつとずつと危険な。

ラブラーンシュ まづ第一に、美人だからね。

セヴィニエ さう。そして自分でそれを知つてゐます。ここでの訊問の間中、彼女は白粉(おしろひ)を塗つてゐました。そして「ご免なさい。私、愛人が盲(めくら)だつて、爪にはちやんとマニキュアをするわ」ですからね。

ラブラーンシュ ほほう、それは明言だ。

セヴィニエ 名言と言へば、彼女の答はすべて名言づくしでしたよ。ある質問をするまではね。(とモレスタンに合図)

モレスタン(読む)質問:その夜あなたは手袋をしてゐましたか?

セヴィニエ ここで、長い間があつて、その後・・・

モレスタン メモは取つてあります。長い間。

答:何故そんなことを私に訊くのです。

質問:部屋に入つて来たときに、まだ手袋を嵌めてゐたのですか?

答:分りません。あり得ます。友人のところから戻つて来たところでした。その時銃声が聞こえたのです。手袋を外す手間を取らなかつた可能性はあります。

ラブラーンシュ 素晴らしい答だ。

セヴィニエ 次のやうにつけ加へましたからね。更に立派な答です。「さうです。手袋は嵌めてゐました。それは確かです。コラ警部の最初の尋問のときにさう答へてあります。

ラブラーンシュ そら見てみろ!

セヴィニエ しかしその瞬間から彼女の態度は変りました。陽気な気分は消え、急にコケットリーはなくなりました。夫が話したと分つたからです。

minaudière~~~媚態を示す女

ラブラーンシュ(その話を信じない)ああ・・・

セヴィニエ(微笑んで)夫が話したといふことを確信させるやうに、私は非常な努力をしました。しかしどうも下手だつたやうです。言ひ過ぎたか、言ひ足りなかつたか。きちんとした文章にならなくて。それで途中で言葉を切りました。

モレスタン 判事殿のなさり方は実に巧妙でした!

ラブラーンシュ 巧妙の話はもういい。で、彼女は騙されて、何と言つたんだ。

セヴィニエ 全く害のない質問だつたのですがね。かう訊いたのです。あなたの同席なしであなたの旦那さまを尋問することを酷く嫌がりましたね? それは、ちやんと拵へて教へこんだあなたの話を、旦那さまがうまく話せないと心配したからなんでせう? と。

anodin~~~害のない

ラブラーンシュ 全く子供だましの手だ。

traquenard~~~

セヴィニエ しかしまあ、この手にうまく彼女はひつかつた。

(セヴィニエ、モレスタンに合図)

モレスタン(読む)答: ぢや夫なのね、私が手袋をしてゐたと証言したのは。そして「私がさう言へと言つた」と証言したのね。分つてるわ、私。

セヴィニエ 夫人がここまでよく見てゐるとは。残念ながら脱帽だつた。そこで私は夫の証言を彼女に読んで聞かせた。

ラブラーンシュ ほう、さう・・・

セヴィニエ 涙を誘はれましたね、これには。

モレスタン 彼女はずゐぶん涙をこぼしたでせう。

vitriol~~~硫酸

セヴィニエ 彼を犯人にすることが出来ない、と諦めたところで、その涙も止つたことだらう、(皮肉に)心ならずもね。彼女も可哀想に。さ、モレスタン、読んで。ここは素敵なところだ。

モレスタン 答:私が部屋に入ると、夫はジョゼファに覆ひかぶさるやうな姿勢をしてゐた。私は一瞬、夫も(私と同様人殺しを、つまり)ジョゼファを、殺したのではないかと心配した。夫は狩りで傷を負つた獲物のやうによたよたと歩み寄つて来た。私は彼が哀れになつた。彼を愛してゐた頃のことを思ひ出した。そして(ここでもう既に、あなた方は私を殺人者扱ひしてもよいぐらゐなのだが)、私は彼の共犯者になつた。私を糾弾してゐるその人物の共犯者に。夫があなた方に話したこの私の手袋で、私はピストルの台尻を拭ひ始めた。そしてジョゼファの手にピストルを握らせた。私が使用したと糾弾されてゐる、そのピストルを。

se dandiner~~ぶざまに腰を揺らせて歩く

traquer~~~(獲物を)狩り出す、

crosses~~~ピストルの銃床

ラブラーンシュ(モレスタンに)やれやれ、君、まづいね、その朗読の仕方は。

モレスタン(ムツとして)書記としての朗読です。さうでなければ、映画の仕事でもしてゐますよ。みんなと同じにね。

ラブラーンシュ(冷たく)まづくてもいい。次を読んで。

モレスタン 夫は私に予告してゐました。(マダム・ボーヴェールの言葉です)その言葉は、『私が見つかれば、私は君を告発するからね』と。私の金に、失敗した自分の人生に、私なしでは人生のなかつた自分の人生に、仇(かたき)をうつ積(つも)りだつたのです、あの人は。

ラブラーンシュ 妻の言ひ方のはうが私は好きだね、夫のよりは。

セヴィニエ ああ、さうですか。

ラブラーンシュ 二人を対決させたんだね、勿論君は。

セヴィニエ すぐにです。凄いものでした! 二人の台詞をそのまま筆記させました。

(モレスタンに合図)

モレスタン(読む)夫:お前は誇り高き汚物だ!

妻:そしてあんたは・・・あんたつて言ふ人は・・・(中途で止め)申し訳ありませんが、これは読めません。二人は早口に、そして同時に喋りましたから。そこは単に悪口の言ひ合ひでした。

ラブラーンシュ 言ひ合ひは抜かせ!

モレスタン(読む)夫:だいたいお前は自分の夫を殺さうとしたんだ。

妻:自分の妻に自分の犯罪を押しつけやうとしたのね、あなたは。

refiler~~~(粗悪品を、偽物を)つかませる

ラブラーンシュ これは酷い。

セヴィニエ(坐つて、非常に静かに)私も同じ感想です。

モレスタン(読む)夫:このあばずれが幼児期からの私の友達だつたとは!

妻:こんな男と生涯を共にしてゐたなんて・・・この赤毛の女中と・・・あ、これは違ふな・・・

rousseur~~~赤毛の

trousseur de jopon~~~女たらし

セヴィニエ うん、違ふ。

ラブラーンシュ 何を読んどる!

モレスタン 失礼しました。混乱して。この・・・この・・・(やつと分る)この女たらしめが・・・

ラブラーンシュ 酷い読み方だ。その紙を寄越せ。自分で読むはうがずつとましだ。(モレスタン、渡す。ラブラーンシュ、読む。少しづつ分つてくる。椅子に坐る。読む)おお! (読む)信じられん!(モレスタンに)この字は何だ?

モレスタン(ラブラーンシュの肩越しに見て)天国です!(説明して)そんなことしたつて、天国には送りこめない!

ラブラーンシュ(読む)二人ともこれに署名したのか! モレスタン、アルドゥアン判事に連絡をとつてくれ。今モーティマー事件を扱つてゐるアルドゥアン判事だ。

モレスタン(その人物が分り)畏まりました、検事殿!

(モレスタン、退場)

セヴィニエ 調書を読むかぎり、夫は憎悪を腹に含んでゐる。さうですね?

procès verbal~~~調書、議事録

ラブラーンシュ(相変らず読みながら)うん。

セヴィニエ 質問と答に考へを集中してゐるが、腹の中は憎悪だ。その憎悪がまた、なかなか良い。

ラブラーンシュ(紙を戻しながら)しかしまだ結論には至つてゐない。

セヴィニエ(陽気に)いえいえ、結論は出てゐます。最初に入室したのが夫で、彼が殺した。そして妻は共犯者。でなければ、最初に入室は妻で、二人の役柄が交替になる。それだけの違ひです。

ラブラーンシュ 忘れないで貰ひたいね。夫、或は妻の証言は常に無効なのだ。

セヴィニエ(鋭く)あの調書をきちんと読んだのですか?

acuité~~~鋭さ

ラブラーンシュ 注意深くね。二人とも嘘をついてゐる可能性がある。

セヴィニエ(再びラブラーンシュをからかふ調子で)で、面白い調書でしたでせうか?

ラブラーンシュ(冷たく)妻のはうは、少なくとも、事実の正確な陳述だ。彼女は彼を糾弾し、彼は・・・

セヴィニエ(言葉を継いで)理解しやうとしてゐる。そして自問してゐる。何故彼女が自分を殺したくなつたのか。何のために、また誰のために。夫は可哀想です。

ラブラーンシュ そこは君に賛成だ。

セヴィニエ それに悲劇的です。妻は事細かに事実を述べ、夫はそれに何の反論も出来ない。さう、確かにあなたの仰る通り、彼女は事実を正確に陳述してゐる。(ニヤリと笑ひ)後でそのことで悔やむことになりませうがね。

accabler~~~打ちひしぐ、苦しめる

(二人、お互いの顔を見つめる。相手の考へを読む。間)

ラブラーンシュ これからどうする。

セヴィニエ まづは、ジョゼファ・ラントネの釈放です。

ラブラーンシュ さうだな。

セヴィニエ さうですよ。

ラブラーンシュ さうだ、確かに。最初にすべきことはそれだ。

セヴィニエ ありがたうございます。

ラブラーンシュ(奇妙な口調で)もう少し公的でなく、しかし即刻にすべきことは、担当の司法官に責任を取らせることだ。

réflexe~~~素早い反応、反射神経、条件反射

magistrat~~~司法官

soucieux~~~気づかはしげな、心配してゐる

セヴィニエ しかし、即刻にすべきこと、といふのは時に良くないことがある。

ラブラーンシュ 私のことを君はよく理解してくれてゐるな。

セヴィニエ 即刻にすべきこと、は、最初にすべきことで、ない場合がある。

ラブラーンシュ さう。

セヴィニエ 検事殿。といふことは、あなたが私なら、ジョゼファをすぐには釈放しない、んですね?

ラブラーンシュ よく分つてゐるね、君は。

セヴィニエ さう、さういふことか。

ラブラーンシュ 彼女を逮捕したといふことがそもそも間違ひだつた!

セヴィニエ 私です、逮捕は。意図的に。

ラブラーンシュ(よく分つてゐる人間の言葉)しかし、実に有効だつた。彼女を釈放することにより、その有効性はもつと明らかになる。スキャンダルはもつとはつきりと明るみに出る。

セヴィニエ まあ、仕方がありませんね。

ラブラーンシュ だから、待てないかな! スキャンダルといふのは泥だ。乾く時間を与へれば、そのうちただの埃(ほこり)になる。

セヴィニエ ボールヴェールを守りたいんですね?

ラブラーンシュ(狡く)事をこのままに放つておけば・・・(急に強く)さう、被告にも有利になる。彼女の無実はもつと明らかになる。

onctueux~~~ぬるぬるした

セヴィニエ(途中で遮り)しかし、彼女はその間牢屋入りです。

ラブラーンシュ(曖昧に)二三日、いや、二三週間。

セヴィニエ(軽蔑の調子)二三週間?

ラブラーンシュ もつと少なくてすむ。もしこのオストス事件を運転手と女中の間の話にしておけば、二箇月で彼女は誰の関心もひかなくなる。

セヴィニエ 女中を除けばの話です、それは。

ラブラーンシュ いいか、セヴィニエ・・・

セヴィニエ 仰ることは分つてゐます。その汚名を着るぐらゐなら、私はこの職を辞めます。

ラブラーンシュ 君は非常に若くしてこのパリ担当に任命されたのだ。あらゆる昇進の道が君には開けてゐる。

セヴィニエ さう願ひたいところです。しかし、目標としてはもつと高いところを狙ふべきでせう、きつと。

ラブラーンシュ それは目標を高めることではない。空砲を撃つことだ!

セヴィニエ 仰ることをかいつまんで言へば、裁判官の昇進は、正しい裁判を捨てることにある、です。

ラブラーンシュ 君には野望があると思つてゐたが。

セヴィニエ そこまで捨てて、は、厭です。身をかがめて初めて地位が得られる。と言つてもそれはかがめ過ぎです。

ラブラーンシュ(皮肉な賞賛)ブラーヴォ!

セヴィニエ それに、穢(けが)れた犯罪の度ごとに、少しづつ安全を捨てることになるのです。

ラブラーンシュ これを「穢れた犯罪」と言ふのか! けしからん!

セヴィニエ(誠実に)出来ませんこれは、今、私には。地位は上げたい。私は他の人間と同じ、厭な奴です。地位を棒に振るやうな真似はしたくなありません。

ラブラーンシュ さうだらうな。

セヴィニエ(さうと思つてゐない)さう、思はれるのですか?

ラブラーンシュ(それには答へず)それに、君には連れ合ひがゐる。マダーム・セヴィニエは、厭だらうね!

セヴィニエ(繰り返す、更に強い調子で)厭です、マダーム・セヴィニエは!

ラブラーンシュ それで?

セヴィニエ いいですか、検事殿、この女中は、ボールヴェール家に何の借りもないのです。

ラブラーンシュ 牢屋にほんの少しの間・・・

セヴィニエ 一日でも駄目! 一時間でも駄目です!

ラブラーンシュ 頼むよ・・・ほんの二週間だけ・・・

セヴィニエ(途中で遮り)検事殿が頼んでゐるのは私にではないのです。

ラブラーンシュ 好きにしろ! どうなるか知らんぞ!

(ラブラーンシュ、退場。セヴィニエ、何か考へながら、机につく。妻の写真をじつと見る。それからダイヤルを回す)

セヴィニエ アントゥワネット? いやいや、万事異常なしだ。ただ君の声が聞きたくてね―――いやいや、君の声で元気が出るんだーーー勿論それで十分ぢやないが、それでも、ずゐぶん違ふーーーねえ、アントゥワネット、君、幸せ?―――笑はないで。君が幸せつて言つてくれると嬉しいんだーーー真面目に。真面目に頼むーーーありがたう。それだけなんだ、僕が知りたいのは。

(受話器を置く)

(モレスタン、登場)

セヴィニエ(書類を調べながら)アルドゥアンに会つたのか?

モレスタン 会ひました。運がいいといふことでせうか。もう一人犯人が出てきました。犯人など、捜せばいくらでも出て来ると言つた調子です。このモルティメール、何もかもペラペラと調子よく。証拠あり、証人あり。私が部屋に入つたとき、彼は自分の共犯者の住所を書き取らせてゐましたよ。やれやれ、何て馬鹿な仕事! 我々にだつてもう二人、犯人がゐるんですからね。

veinard~~~運のよい人

receleur~~~隠匿者

セヴィニエ(落着いて)勿論。あの二人で十分だ。後はよけいだ。(自分の書類に目を移して)ジョゼファ・ラントネは廊下で待つてゐるね?

モレスタン はい。

セヴィニエ 怒り狂つてゐるね? きつと。

モレスタン いいえ、眠つてゐました。

セヴィニエ ぢや、ここに。(書類を叩き)ちよつとした考へがあつてね。

モレスタン(いらだつた声)彼女に不利になることですか?

hérissé~~~逆立つ、いらだつ

セヴィニエ いいから入れろ!

(モレスタン、退場。すぐジョゼファを連れて入る。弁護士と守衛、その後から登場。守衛はボールヴェールに非常によく似てゐる。二人の違ひは、守衛のはうが少し背が高いこと、そして所謂アメリカ風の鼻鬚があることだけ。守衛の制服は形が崩れてゐる、が、帽子は新品。二人はよく似てゐるので、同じ役者が演じてもよい。ジョゼファもその類似に驚く。

avachir~~~形を崩す

ジョゼファ(守衛に)をかしいわね、あなたを見ると誰かを思ひ出すわ。

守衛(コルシカ島訛で)人殺しだな、それは。

ジョゼファ(非常に誠実に)冗談ぢやないの、これ。私、廊下にゐるときは気がつかなかつた。眠つてゐたからだわ、きつと。でも誰かに似てゐる。をかしい。

守衛(冷たく)笑へるね。

セヴィニエ その会話はまた後で。

ジョゼファ ええ。でも、こんなに似てるなんて、ホントに笑へる。ドゥローム出身ぢやないわね? あなた。

守衛 いいや。(セヴィニエに)失礼、判事殿。質問があつたのでつい。

セヴィニエ(守衛に)坐つて!(カルディナッルに)あなたもどうぞ。時間はかかりません。マドゥムワゼッルの口から、一言だけ確かめのために言つて貰ひたいことがあつて。これは重要なのです。ムスィユ・ボールヴェールは・・・

ジョゼファ(途中で遮つて)もういいです。私、自白します。

セヴィニエ 自白?

カルディナッルとモレスタン(同時に)何を言ひ出すんだ。どうかしてゐるぞ。

ジョゼファ 自白します。ミゲルを殺したのはあの人ぢやありません。私です。

(守衛、ジョゼファから身を避ける、椅子をずらせて)

モレスタン(セヴィニエに)これで犯人は三人です!

セヴィニエ 今まで君は否定してゐたぢやないか。

ジョゼファ もう黙つてゐられなくなつたんです。嘘はもう厭。私の代りに他の人を犯人にするなんて、駄目。

セヴィニエ しかし・・・

ジョゼファ 私、殺したの。私が殺したんです。判事さんの理由、今まで通りですむでせう? 私でも。

カルディナッル 君は嘘をついてゐる! 判事殿、この子は嘘をついてゐます!

ジョゼファ 勿論私、そんなことが出来る女だなんて、思つてもゐなかつたわ。でも、人間て、自分が思つてゐるよりも悪いものなのね。

セヴィニエ いいですか。しつかりと私を見て。君はミゲル・オストスを殺した。殺したんだね?

ジョゼファ(しつかりとセヴィニエを見て)しつかり見てゐますよ。しつかり言ひますよ:「私はミゲル・オストスを殺した」

セヴィニエ 目を伏せた!

ジョゼファ 恥づかしくなつたからよ。そんなに近くから私を・・・キスされるんぢやないかと思つて。

(モレスタンと守衛、笑ふ)

(セヴィニエ、二人を睨みつける)

カルディナッル 替へ玉を演じてゐるんです。誰かを助けやうとして。

ジョゼファ(疲れた声)違ふわ。スペインの諺があるわ、「君を助ける者は君を裏切る」つて。

セヴィニエ 素晴らしい諺だ!

ジョゼファ ミゲルはいろいろ教へてくれたわ、私に。可哀想なミゲル! あの人、私を愛してくれた、本当に。これが人生ね。自分を愛する者を人は殺す、自分を馬鹿にする者のために!

セヴィニエ それでまだ、君はあいつを庇(かば)はうと言ふんだね?

ジョゼファ いいえ、違ふ! 庇つてやつたつて何にもならないわ。ただ、私のためにあの人が酷い目にあふ、それは良くないの。

trinquer~~~乾杯する、ここでは「迷惑を被る」

セヴィニエ 君がオストスを殺した! そして今、あそこの廊下で寝てゐた。君、寝られたのか?

ジョゼファ 私、何もかも白状する決心をしたの、だから心は平静。(守衛とカルディナッルを指さし)それにこの二人、静かにしてくれてゐたし。

セヴィニエ しかし奇妙だ。君は普段とても自然だ。だけど今は何だか不自然だ。

ジョゼファ(仕草で、胸のロケットを指さし)これのせゐ!

(能美:ここ自信なし。前からつけてゐる物なので)

セヴィニエ 君はこの事件の犯人だと言ふんだね?

ジョゼファ 少しは道理を考へたら? だつてピストルを持つてゐたのは私よ。

セヴィニエ それは分つてゐる。確かに君はピストルを・・・

ジョゼファ(遮つて)だつて私、白状してゐるのよ。言ひたくもないことを言つてゐるんだから、信用できるでせう?

セヴィニエ(譲つたふりをして)まあね、可能性はある。

ジョゼファ(勝利の叫び)ああ、やつと! ここで犯人になるのつて、とても難しいんだから!

カルディナッル 判事殿、そんなことあなた、信じないでせう? こんな馬鹿な話!

セヴィニエ 悪いが、カルディナッル、こんな自白があつたんでは・・・

ジョゼファ ね?

セヴィニエ(意地わるく)聞いてゐるよ。どういふ具合にやつたんだね?

ジョゼファ 何ですつて? 話すの?

セヴィニエ 詳しくね。話して欲しい。ミゲル・オストスが言つた、「ボールヴェールの奴、殺してやる」と。そして彼は部屋の奥に進んだ。ここまではいいね? それで君は何をした?

ジョゼファ(不確かな調子)発砲して、彼を倒した。

セヴィニエ(からかふように)「彼を倒した」ね。どこから?

ジョゼファ 「どこから」つて、何?

セヴィニエ どの場所からつていふこと。

ジョゼファ 私がゐた場所から。

セヴィニエ 君はベッドの上にゐたんだよ。

ジョゼファ ぢや、ベッドの上からよ!

セヴィニエ(しつかりと)それは無理だ。

ジョゼファ 無理? どうして。

セヴィニエ どうしてかといふとね、ベッドから彼までの間に箪笥があつた。

armoire~~~箪笥

ジョゼファ 細かいことは言はないで。ぢや、ベッドを下りて。

broutille~~~些細なこと

セヴィニエ(最初のときと同様の調子で)それは無理だ。

ジョゼファ(苛々して)どうして。

セヴィニエ 専門家なら別のことを言ふ。

ジョゼファ 私、多分、一二歩前に行つて。

セヴィニエ(前よりもつとしつかりと)それは無理だ。

ジョゼファ 無理やり「無理」つて言つてゐるのね? どうして?

セヴィニエ 君がゐた場所からすると無理だからだ。

ジョゼファ その場所に何かあつたの?

セヴィニエ 前に進んで撃たうとしても、まづ少し後ろに下らないとね、そこからだと。

ジョゼファ ぢやまづ下つたんだわ、機械的に。

セヴィニエ 機械的にね?

ジョゼファ さう。

セヴィニエ まあ、それは今のところ受け入れておかう。

ジョゼファ さう、さうしておいてくれなくつちや。

セヴィニエ 君を喜ばせるためにだ、これは。君は彼を「撃ち倒した」、ベッドからか、ベッドの足からか、ベッドから二三歩行つたところからか。かうしておかう。それで、何で撃つた?

ジョゼファ 馬鹿な質問ね、それ。

セヴィニエ それほどでもないよ。

ジョゼファ だつて、ピストルを持つてゐたのは誰?

セヴィニエ ピストルつて、どんな?

ジョゼファ 「どんな?」つて、どういふ意味? 分つてるぢやないの!

セヴィニエ どこから持つてきた。

ジョゼファ(狼狽はその表情から明らか)どこから?

セヴィニエ 次のことは確認されてゐる。つまり、どのピストルはオストスがキャディラックの物入れにいつも保管してゐたものだ、と。君はガレージに行つて取つてきたのか?

ジョゼファ 多分。

セヴィニエ よろしい。で、それをどこに置いた?

ジョゼファ(肩をすくめて)どこにも「置き」はしないわ。

セヴィニエ(皮肉に)ミゲルがすぐ見える場所、テーブルの上に置いたのか。

ジョゼファ 勿論違ふわ。隠したわ。

セヴィニエ どこへ。とにかく君の寝間着の中ではない筈だ。君は裸だつたんだからね。

ジョゼファ ええ、さう。裸。

セヴィニエ で、どこにだ。枕の下かな?

traversin~~~ベッドの長枕

ジョゼファ あー、違ふわね。いちやいちやしてゐるうちに暴発したら気の毒だもの。

セヴィニエ ははあ、怪我を考へた・・・それは相手に対して親切だ。

ジョゼファ さうでせう? だつて私、ミゲルを愛してゐたんだから。

(セヴィニエ、ジョゼファをじつと見る)

セヴィニエ さう、それで? どこにだ。

ジョゼファ(表情を変へずに)どこに、つて?

セヴィニエ どこだつたか、分るはずがないね、君には。

ジョゼファ 分るわ。決つてるでせう? 引出しの中によ。

セヴィニエ 何の引出し?

ジョゼファ 何の? 物入れの引出しよ。

セヴィニエ(皮肉に)やれやれ、ずゐぶん事を難しくするもんだ。

ジョゼファ 引出しからピストルを取り出すのがどうして難しいの。

セヴィニエ いや、難しい。寝ている時だからね。部屋の向うまで走つて行つてベッドの傍までとつて返さなきやならない。身体の後ろにピストルを隠して。勿論相手に見つけられないやうにだ。これは難しい。

ジョゼファ 意地悪ね、こんなことを私に訊くのは。

セヴィニエ(冷たく)君は私に無駄な時間を使はせやうとしてゐる。さつきも言つたがね、裁判は時間単価た高いんだよ。

ジョゼファ だから(みんな税金を払ふために)節約してゐるんぢやない。

セヴィニエ ジョゼファ・ラントネ、これが最後だ。本当に君、ミゲル・オストスを殺したのか。

ジョゼファ 最初の頃、あなた、こんな長話はしなかつたわ。

セヴィニエ そこに質問があるんぢやない。

ジョゼファ あなたは私が、嘘をついても信じない、嘘をつかなくても信じない、わ。

セヴィニエ いいか、私は君がとても優しくて、気持のよい人間だと思つてゐるんだ。

ジョゼファ(皮肉に)私がミゲルを殺したから?

セヴィニエ 違ふ。君が「殺した」などと言ふから、優しい人間だと言つてゐるんだ。私がわざわざ、そんなことはあり得ないと言つてゐるにも拘らずにね。

ジョゼファ ぢや、私の言つてることを信じないのね。

セヴィニエ 勿論だよ。

ジョゼファ 頑固ね。変なの。

セヴィニエ 仕方がないね。

ジョゼファ 私もあなたと同じよ:自分の言つてゐることしか、信じないんだから。

カルディナッル ここで言つておくけどね、私も君の言つてゐることは信じない。

モレスタン 私もです。

ジョゼファ(守衛に)あなたは?

守衛 私もだね。

ジョゼファ(話題を変へて)でも、何て似てゐるんでせう。でも、誰となの? 一体。

セヴィニエ 分らないの? 君。女つていふものはいつでも、同じタイプの人間に惚れるんだ。君に一つだけ言つておかう。誰も君の今の言葉を信じるものはゐない。かへつて君に同情するだけだ。

ジョゼファ あなたつてをかしいわ。私が少なくとも二箇月牢屋に入つてゐなきやならない、そんなことを好きこのんでわたしがすると思ふ?

セヴィニエ ムスィユ・ボールヴェールのためなら、やるね!

ジョゼファ 今日のお昼、あの人が言つたのを聞いたでせう? あんなことを言はれてこの私が自分を犠牲にすると、あなた思つてるの?

セヴィニエ 女つていふものは、何をするか予測がつかないからね。

ジョゼファ(意味深長に)ありがたうございます。

セヴィニエ(誠実に)どういたしまして。

ジョゼファ 私の言ふことを信じないのね? お可哀想に。でも、ミゲル。ミゲルの言ふことだつたら、あなた、信じるのね?

セヴィニエ 原則的には、「その通り」だ。原則は、被害者の言葉は信じろ、だからね。

ジョゼファ ぢや、あの人、「ジョゼファ、何故こんなことをしたんだ」つて言つたけど、それを信じるの?

セヴィニエ その言葉をミゲルは言つてないからね。

ジョゼファ(びつくりして)何ですつて?

セヴィニエ それを言つてゐないのはほぼ確かなんだ。

ジョゼファ でも、ムスィユ・ボールヴェールはそれを聞いたと。

セヴィニエ さう、それが、どつこい、聞いてゐないんだ。

ジョゼファ ぢやあの人、なぜ二度もそれを言つたの?

セヴィニエ 何故なら、マダム・ボールヴェールが、「それを聞いた、と言へ」と夫に言つたからだ。

ジョゼファ(非常に大きな含みを込めて)マダーム、が?

セヴィニエ(説明する)君も覚えてゐるね? ムスィユ・ボールヴェールが自分の不運を知つたとき(訳註:つまり妻の浮気を知つたとき、といふ意味)・・・

ジョゼファ(笑つて)さうさう、いい気味!

セヴィニエ(続けて)私は君を、この部屋から退出させた。

ジョゼファ 意地悪なんだから。私、あのとき、一口話を聞きたかつたわ。

vache~~~意地のわるい、冷たい、ついてない

rigolade~~~冗談

セヴィニエ(続けて)君のゐないときにムスィユ・ボールヴェールが私に話したことによると、犯行の時、自分が来る前に妻がもうあの部屋にゐたさうだ。

ジョゼファ(二つ前のジョゼファの台詞の言ひ方と同じに)マダーム、が?

セヴィニエ さう。

ジョゼファ ああ・・・! それなら話は全く別。何故つて、マダームの言ふことは全く信用ならないもの。

セヴィニエ さう、それは私と同じ意見だ。

ジョゼファ 私、明け透けに言つちやふわ。もう私、最初つからあの人の言ふことを信じたことなかつた。美容院の美容師と同じ、あの人。嘘ばつかり。

セヴィニエ その考へ、私も賛成だ。

ジョゼファ(滑稽を含んだ憤慨で)いい? 私、もう取り消し。私が今言つたことをあなた、他の人になんか言はないわね? 私、あなたにだけは嘘をつきたくないの。私がミゲルを殺す・・・私の古いカスタネット、可愛い可愛いカスタネットを殺す・・・こんなことを言つて、私、気分が良い筈がないでせう? 勿論もう一人の馬鹿を助けるためにやつただけよ。もし私に分つてゐたら・・・あなた、分つてなかつたのよ。犯人を変へたときにはあなたもう分つてゐたんでせう? ほのめかしてゐたもの。

セヴィニエ それは悪かつた。

ジョゼファ だからもう今言つたことは取り消し。私、何も言はなかつたことにして。

セヴィニエ それは約束する。

ジョゼファ あの女、あれには罰(ばち)を当てなくちや! 殺すのよ!(思ひ直して)いいえ、殺すなんて、単純。ロケットの監獄行き! ロケット行きよ、あの女は。ジュリ・ラ・シャテーニュ、ミミ・マルクマッルと一緒のところへね。牢屋で一緒だつた二人よ、これ。

セヴィニエ まあさうなるだらうね。

(少しの間。その間ジョゼファ、夢見るやうな目つき。急にジョゼファ、悲しさうな微笑)

ジョゼファ でも、さうしたら・・・可哀想に、ミゲル・・・あの女と寝たの?

セヴィニエ それはなかつた。

ジョゼファ ぢや、あの女がミゲルを撃つたのは、私のことを焼いてゐたから?

セヴィニエ 違ふね。

ジョゼファ あの女が犯人だつて言ふのなら、それしか考へられないけど。ぢや、何故なの?

セヴィニエ 彼女は、オストスのことを自分の夫と見間違へて、発砲したんだ。

ジョゼファ(驚く)ああ、さうだつたの! 旦那様が十一時の逢引きを私に言ひわたしてゐるのを聞いたのね。

セヴィニエ さう、その通り。

ジョゼファ(公平な判断)旦那様が私に言つてた通りだわ。あの女、げす!

セヴィニエ それはきついね。しかし事実とはよく符合してゐる。

ジョゼファ(引き千切れるやうな喜びの叫び)ぢや、ミゲルは、私がやつたなんて、思つてゐなかつたんだ!(目を天に向けて)ああ、神様、有難うございます!(セヴィニエに)私、嬉しい。あの人、言つてなかつたのね、『ジョゼファ、何故こんなことを』なんて。

セヴィニエ 言つてゐないだらうね。

ジョゼファ(力強く)あの言葉を聞いたといふのが、もしあの女だつたとしたら、それはミゲルが言つてなかつたといふことなのよ。

セヴィニエ まあ、理由としては奇妙なものだけどね。

ジョゼファ もしミゲルが言つてないとしたら、それはあの女のでつち上げよ。

セヴィニエ それはさうだ。

ジョゼファ(ゆつくりと)その言葉がどんなに私を苦しめるか、それをあの女はよく知つてゐた・・・

セヴィニエ(途中で遮つて)苦しみと憂鬱をね。

ジョゼファ 憂鬱・・・そんなものぢやきかないわ。(心から湧き出て来る強さで)恐ろしい悲しみ・・・だわ。あの人、こんなことを簡単に思ひつく女。

セヴィニエ うん、これはかなりの酷さだ。

ジョゼファ 『ひどい』? 酷いなんかぢやすまされないわ。ミゲルは私の命なのよ。

セヴィニエ そいつはどうかな。

ジョゼファ 私あの人を騙した。でも、命なの。

セヴィニエ 女つて、分らないものだ。

ジョゼファ(説明しやうとして)肉体的には、あの人とは合はなかつた。よく分らないけど、あの人つて、他の人とはとても変つてゐた。それで、残念だけど私の身体の中であの人には、頭しか働かなかつたの。(守衛、笑ふ。ジョゼファ、キツと睨みつける)笑ふこと、ないでせう?

inouï~~~途方もない、驚くべき

守衛 失礼!

ジョゼファ(セヴィニエに熱を込めて説明)愛が大きいときには、小さな楽しいことなんか消えてしまふの。あの人、私を愛し過ぎた。それが不幸の原因。私のことを尊敬するんだもの。だから大事な瞬間に、私、我を忘れるつてことが出来なくなるの。愛を上手にするためには、尊敬は邪魔なの。でせう?

セヴィニエ(困つて)何とも言ひやうがないね。

ジョゼファ 偽善者!

(守衛、笑ふ。セヴィニエ、恐ろしい目つきで守衛を睨みつける)

セヴィニエ(守衛に)うるさいぞ!

守衛 失礼!

ジョゼファ でもいいの。あんな女、いつかは報ひが来るの。さ、私を尋問して頂戴。きつと私、鍵を知つてゐると思ふ。

セヴィニエ 何の鍵?

ジョゼファ あなたが欲しいと思つてゐる鍵。それが何だか、勿論今は分らない。あの女を特に見張つてゐたわけぢやないもの。あんな女を何で私が見張る必要があるつて言ふの。でも、女つて言ふものは知らないうちに人をよく見てゐるものよ。さ、尋問して!

セヴィニエ ピストルだけど・・・

ジョゼファ そんな話ぢやないの。女の手管(てくだ)について。

セヴィニエ 何? 手管?

ジョゼファ(守衛を指さして)席をはづしてもらつて。この人がゐると考へられないの。(守衛に)あなたが傍にゐると駄目なの。

守衛(動かない)これはお褒めにあづかり・・・

セヴィニエ(守衛に)では、頼む。

(守衛、隅にひつこむ)

ジョゼファ(両手で頭を抱へて)用意が出来たわ。さ、やつて!

セヴィニエ それでは。マダム・ボールヴェールの着てゐたものに、少し食違ひがあるんだ。

ジョゼファ(熱を入れて話す)女のやり口ね! いいわ。着物のことね。それ、私の勘では、とても良いところ突いてる。

セヴィニエ 犯行の夜、彼女は外出するのに、最初灰色のアンサンブルを出せと言つた。

ジョゼファ ええ、前の夜来たのと同じもの、キスのときの着物(ここ不明。キスとは?)。さ、言つて、言つて。それ、何かあるわ。

セヴィニエ しかし、夫と証人たちの言葉では、赤の着物になつてゐる。

(少しの間)

ジョゼファ そこには何の仕掛けもないわね。ただ気分が変つただけ。

セヴィニエ 何故?

ジョゼファ 何故も何もないの。女にはよくあること。理由を考へても無駄。

セヴィニエ それは残念!

ジョゼファ(ある考へが浮び)待つて!(ゆつくりと)私、馬鹿。その反対。いつでも、理由は考へなくつちや。(勝利の叫び)分つた!(丁寧に訂正する)私たち、理由が分つたわね!

セヴィニエ(驚いて)君、分つたの?

ジョゼファ あの女、足が出た! つひに足を出したわ! 変なこと! 着物で足がつくなんて! 結局これ、ピストルに関係するの。

セヴィニエ ピストルに?

ジョゼファ あの女を呼び出して。私をここにゐさせて。隅つこでいいわ。そして、観客たちを驚かせる機会をあの女に与へてやるの。背中にいつぱい、とどめの槍を突き刺される姿を見せてね。(天井を見上げ、ミゲルに話しかけるやうに)最後の一突きはこの私がやるわ、ミゲル。

épater~~~びつくりする、

banderille~~~闘牛で、飾りのついた槍

estocade~~~(剣での)突き

カルディナッル(セヴィニエに)この女(こ)凄いですね。

ジョゼファ(笑つて)さ、入れて! さ。

セヴィニエ(真面目な顔)今度はこの私に命令か?

ジョゼファ あなたの仕事を、私がやつてあげるの。何故つて、私、善い女だから。マダームが犯人だつて証明しても、私には何の得もないもの。

セヴィニエ(言葉が出てこない)私にも、何の得もないね。

ジョゼファ 何ですつて?

セヴィニエ それを説明するには、ひどく暇がかかるな。

ジョゼファ 真実をあなた、怖がるの?

セヴィニエ 私は、自分の影を怖がるやうな男ぢやない。

カルディナッル(慣用句に馴れた男の言葉で)これはいい!

セヴィニエ 守衛、マダム・ボールヴェールを入れて。

カルディナッル 判事殿、これは私のための大変な授業です! 私だつて一件書類はすべて目を通してゐるんですがね。全く何も見えてゐないのです。

セヴィニエ(謙遜に)まあ、慣れだね!

カルディナッル でも、判事殿にはお可哀想に、と申しあげます。こんな大成功の後、馬鹿な馬鹿な書類で押しつぶされてをしまひになるのでせうからね。

セヴィニエ 決つてはゐないよ、そんなこと。

(モレスタン、退場)

(ジョゼファ、坐る。マダム・ボールベール、モレスタンに続いて登場。観客には、一幕で出てきた守衛が坐る様子、そして、その守衛の隣で、廊下のベンチで寝てゐた、ボールヴェールにそつくりな守衛、が、ベンチに坐り足を組む様子、が見える。この守衛の役には、服装しか見ない観客、用の役者を使ふこと)

マリ・ドミニック(横柄に)お手数をかけてすまないわね。

セヴィニエ(書類に没頭しながら)どうぞお坐り下さい、マダーム。

マリ・ドミニック(坐らず)あの二人の守衛に、田舎料理はもう止めにしろと命じておいて欲しいわね。あのブイヤベースの臭ひ、全く閉口。

cerner~~~取り巻く、

セヴィニエ(聞えないふり)どうぞお坐り下さい、マダーム。

マリ・ドミニック それからね、うるさい蚤が一匹。しつこく私、やられてしまつた。こんな汚い部屋の廊下なんですから、当り前のことですけど。

セヴィニエ(皮肉に)ああ、失礼しました! お坐り下さいと申しあげませんでしたね。これはこれは本当に失礼をば。

マリ・ドミニック(坐つて)それだけぢやなかつたわ。夫のいびきが煩くて。それを我慢するのが一苦労だつた。

セヴィニエ いびきは良心のやましさのない証拠だと言ひますが?

マリ・ドミニック 良心? やれやれ!(ジョゼファに気づき)あら、ジョゼファ!

ジョゼファ(奇妙な発音)今日は、マダーム。

マリ・ドミニック あらあら、私の下女が私の尋問に立ち会ふとはね。

セヴィニエ それはつまり・・・

マリ・ドミニック この子にあまり辛くあたらないでね。この子、あばずれだけど、良いあばずれなの。だから。

ジョゼファ(につこりとマリ・ドミニックに微笑み)ありがたうございます、マダーム。

セヴィニエ これはもう尋問ではありません。対決、です。

マリ・ドミニック もうここまで来れば、夫と私だけで十分なんでせう?

セヴィニエ まあ、そんなところです。

マリ・ドミニック(ジョゼファを指さして)この子の手にピストルがあつた、そしてオストスの言葉「ジョゼファ、何故こんなことを」。この二つのことで十分な筈です。

ジョゼファ いいえ。

セヴィニエ その二つの事実は、もう私には意味がないのです。死者の証言は検証不可能ですからね。

マリ・ドミニック 「検証不可能」といふ言葉、私、好きぢやないわね。

セヴィニエ 旦那様にも嫌はれてゐましたね、この言葉は。

マリ・ドミニック さつさと言つたらどうです? 「この言葉は旦那様のご発明です」と。

セヴィニエ お二人のうちどちらかが「ご発明」になつたといふのが適切でせうな。

マリ・ドミニック 何故かと言へば、この私が今被疑者になつてゐるからだわね?

セヴィニエ 妻、夫、二人とも被疑者です。

マリ・ドミニック 男は虚栄心の塊。あの人も騙されたと思つた。そして気のすむやうに仇(かたき)を討つた。

セヴィニエ 騙されたと思つたのが誤りだ、といふんですか?

マリ・ドミニック あなたの質問といつたら、いつでも・・・

セヴィニエ(遮つて)まづ答へて下さい、こちらの質問に。

マリ・ドミニック さう。誤りです。大きな誤り。

セヴィニエ しかし、あのキスはこの女性を驚かせたほどですよ。

マリ・ドミニック よく見てゐなかつたからよ。

ジョゼファ(ゆつくりと)あのときの着物は灰色の夜会服。そしてあの人との接吻は心ゆくまでのものでした。

マリ・ドミニック ここでの尋問は誰がするの? あなた? それともこの子?

セヴィニエ 失礼ですが、マダーム。私が尋問者です。この女性は自分の知つてゐることを話します。或は、知つてゐると思つてゐることを。

ジョゼファ 私、分つてるの! 思つてゐるより、ずつとずつと多く、分つてるの!

マリ・ドミニック あら、ま、さうなの。

ジョゼファ さう、分つてる。でもそれ、本当に簡単なこと。みんな分つてるわ、私。

マリ・ドミニック(皮肉に)この子、みんな分つてるつて!

ジョゼファ さ、私に質問して頂戴、判事さん!

マリ・ドミニック 何のことを?

ジョゼファ 奥様のこの通り、賛成していらつしやる。さ、訊いて。例へば、どうして自分の夫を殺したかつたか。

マリ・ドミニック それ、私も聞きたいわね。

ジョゼファ あの時の、キスの男。

セヴィニエ(ゆつくりと)ムスィユ・ダゼルグ。

(マリ・ドミニック、身震ひする)

ジョゼファ ああ、私つて何て馬鹿。さう、モスィユ・アンリ・ダゼルグ。思ひつきもしなかつたわ。でも、これは思ひつかなくつちや。

マリ・ドミニック 馬鹿な思ひつき!

ジョゼファ(セヴィニエに)でも、どうしてこれ、思ひついたの?

セヴィニエ(紙をファイルから引出して)ムスィユ・シュトゥルマーの証言から。ダゼルグのマダームに対する熱情。そして、マダームのムスィユ・ダゼルグに対する熱情!

マリ・ドミニック またまた! そんなの理由にはならないわ。恋人が別にゐるからつて、夫を殺すとは限りませんからね。

セヴィニエ(同意して)さう。殺すとは限りません。

ジョゼファ 殺す理由が一つあります。ムスィユ・ダゼルグは大変貧乏です。そして奥様のお金を非常に必要としてゐます。

マリ・ドミニック またまた。

ジョゼファ(セヴィニエに)あなた、ポーカー、おやりになる?

セヴィニエ 知つてゐる程度。

マリ・ドミニック 何の関係があるの、ポーカーと殺人と。

ジョゼファ(セヴィニエに)フォア・キングとスリー・エースのどつちが強いか。それだけ知つてゐればいいんだけど。

セヴィニエ ああ、それはフォア・キングが強い。

守衛 うん、フォア・キング。さうだらうと思つた。

(三人とも非難の目を守衛に浴びせる)

ジョゼファ いつか皆が家に揃つてゐて・・・家つて言ふのは、フザンドリ通りの・・・ポーカーをやつてゐた。ムスィユ・ダゼルグがスリー・エース、と札を見せる。マダームが言つたわ。「残念」つて。そしてこちらも札を出す。マダームはフォア・キングだつた。お金を受取らせる手ね、これ。

セヴィニエ どうしてそれを知つてゐるんだ、君は。

ジョゼファ 私、奥様の後ろにゐたから。スコッチを皆に出してゐたの。

マリ・ドミニック 作り話よ、そんなのみんな!

ジョゼファ 奥様の、「ジョゼファ、何故こんなことを」と同じにね。いいえ、違ふの、マダーム。こつちには証人がゐます。ムスィユ・シュトゥルマー。その勝負をこの人も見てゐて、ムスィユ・ボールヴェールに言ひつけた、「奥様はポーカーを知りません。あなたの財産をポーカーですつてしまひますよ」と。

マリ・ドミニック 勝負には私、弱いの。

ジョゼファ 特にムスィユ・ダゼルグにはね。勿論分るわね? ムスィユ・ボールヴェールが亡くなれば、ムスィユ・ダゼルグはマダームのお金と結婚できるもの。

マリ・ドミニック 私にそれだけ魅力がないとでも言ふつもり?

ジョゼファ さうは言ひません。でも何百万フラン、それは助けになるわ。ムスィユ・ダゼルグに!

セヴィニエ 君はマダームとムスィユ・ダゼルグの関係をよーく知つてゐた。それなのに犯行の夜、マダームとキスしてゐた相手が彼女の夫だと思つたのは何故なのかな?

マリ・ドミニック 素晴らしい質問! ありがたう、判事さん。

ジョゼファ 嫉妬心からね。それに、ムスィユ・ダゼルグは少しびつこだから。

マリ・ドミニック(思はず、傲慢な気持から)パラシュートで降りたときの衝撃のせゐ。

ジョゼファ でせう? でもあの晩、あの人、びつこは引かなかつた。女性とキスするときには、びつこは引かないわ。だから私、キスの相手をムスィユ・ボールヴェールだと思つた。

セヴィニエ(マリ・ドミニックに)勿論あのキスを、あなたは否定しますね?

マリ・ドミニック 勿論。

ジョゼファ(怒つて)ああ、あの熱烈なキス、無我夢中の。あれを否定するなんて!

マリ・ドミニック 言明します。そんなものはありません。

セヴィニエ(同意したやうなふりで)マダームは否定してゐます。別のことを話して。

ジョゼファ ああ、あれが駄目でがつかりするやうな私ぢやないわ。犯行の夜、赤い着物にしたのは何故?

マリ・ドミニック 赤が似合ふから。

ジョゼファ(セヴィニエに)ね、理由を聞いて、私に!

マリ・ドミニック(セヴィニエに)この子に聞いてやつて。質問だつてこの子がしたものなんですからね。

ジョゼファ 灰色のアンサンブルは、クリーニング屋に出したからよ。さ、訊いて、何故クリーニング屋に、つて。(間)ぢや、言ひませう。誰も私に聞かないけど。それは裾の長い服で、汚れた機械油が下のはうにべつとりついてゐたからよ。

cambouis~~~汚れた機械油

セヴィニエ(驚いて)機械油?

ジョゼファ 詳しく調べたんぢやないわ。たつた今頭に浮んだ考へ。車庫に行つて車から、誰でもピストルが取り出せる、つて話が出たので分つた。

rapprochement~~~近づくこと

マリ・ドミニック 何てことを考へる子! この子。

infâme~~~おぞましい

ジョゼファ ミゲルが私に話したわ。キャディラックが油漏れしてゐるんだつて。だからマダームがピストルを取りに車に行つたとき、服の裾が機械油でべつとり。だからその翌日マダームは私に、赤い服を、つて言つたのよ。

fuite~~~(液体などの)流出

carter~~~機械覆ひ

マリ・ドミニック お前なんて、殺してやる!

ジョゼファ(嘲笑的に)あら、私も?

goguenard~~~嘲笑的に

セヴィニエ マダーム、今の話にどうお答へになりますか?

ジョゼファ ラコストかバルジュトンが答へられるわ。ラコスト・バルジュトン・クリーニング店、ヴィクトル・ユゴ通り56。今日は喪中で休業。それが機械油かどうかは二人が教へてくれるわ。

セヴィニエ(苛々して)マダームに話させるんだ!

マリ・ドミニック(非常に自然に)さう、機械油のシミ。あの晩車庫に入りましたわ、私。

ジョゼファ(喜ぶ)ほらね!

マリ・ドミニック 手袋を捜しに、車に。それが入つてゐる箱を見に。でもそこからピストルを出したのではありません。忘れた手袋を取つただけです。私にとつては、あの箱は手袋入れなんですからね。

 ジョゼファ 手袋をね。(ピストル入れではなく・・・)

マリ・ドミニック(皮肉に)ええ、新しい手袋を、です、判事さん。その日、サン・トノレ街で買つてきた。

ジョゼファ(しつかりと)違ふわね。

マリ・ドミニック 何が違ふの。(セヴィニエに)その店を調べさせるのね。ちやんと(新しい仕入れのものが)押入れに入つてゐるわ。

placard~~~押入れ

ジョゼファ あら、考へたわね。すぐ働く頭ね。あなたには悪いけど、私もさうなの。

マリ・ドミニック(まさか、といふ口ぶり)あら、さうなの。

ジョゼファ その手袋は、犯行の日にあなたが買ひ求めたもの。

マリ・ドミニック(ジョゼファの口ぶりで)違ふわね。

ジョゼファ 水曜日よ。水曜日にあの手袋が置いてあつた!

マリ・ドミニック(説明口調)水曜日に場所をあそこに変へました。

ジョゼファ ぢや、変へる前はどこに?

マリ・ドミニック 玄関よ。

ジョゼファ 玄関? 私、掃除の時気がつかなかつた。どういふこと? これ。どうしてなの? 一体どうして?

セヴィニエ 確実なことが一つあります、マダーム。火曜日の夜、あなたは車庫に行つた。そこから手袋を取り出した。

ジョゼファ さう、さう自分で言つたもの!

セヴィニエ ですからその時、ピストルも出さうと思へば出せた。さういふことですね?

マリ・ドミニック さう。もしありさへすればね。

セヴィニエ(無表情に)なかつたのですね?

マリ・ドミニック なかつたわね。夫ね、或はこの子、が取つたのよ。

subtiliser~~~かすめ取る、くすねる

セヴィニエ それで、ムスィユ・ボールヴェールにはピストルがなかつたことを話さなかつたのですか?

マリ・ドミニック あー・・・いいえ。

セヴィニエ ほう。何故です。

マリ・ドミニック 知りません。

(間)

セヴィニエ マダーム、一つ気がかりなことがあります。コラ警部の尋問に対して、あなたはこの手袋について言及してゐるのです!

マリ・ドミニック ええ、それで?

セヴィニエ そこで、このマドゥムワゼッルの話てゐることを裏打ちする言葉を発してゐるのです。

マリ・ドミニック(横柄に)何と言つたのです、私が。

セヴィニエ それは・・・モレスタン、読んで!

モレスタン(読む)マダームB:血に染(そま)つた手袋を、私は持つてゐました。真新しい手袋です。その日の午後、買つたばかりの。

(間。驚きの沈黙)

ジョゼファ やれやれ。女つて、お喋り。喋り過ぎるのね!

セヴィニエ 覚えておいでですね? お気をつけて物を言つて下さいと、私はご注意申しあげた筈です。詳細に過ぎる・・・人はよくこれでつまづく・・・詳細に過ぎることを言つて。

マリ・ドミニック これで、ぢや、私はをしまひといふことね?

セヴィニエ(それには答へず)あなたは車庫に行つた。そして手袋もピストルも取つて来なかつた。では、何をしに行つたのですか?

マリ・ドミニック そこで手袋と言つてゐますが、あなたの言つてゐるその手袋とは全然違ふ手袋だつたかもしれないわね。

ジョゼファ(誠実な賞賛の気持で)ここの働き、いいのね!

(と、自分の額に触る)

マリ・ドミニック 火曜日に一つ買ひ、また水曜日に別のを買ふ、さういふことだつてあり得るでせう?

セヴィニエ 二分前ならその論拠は効いたかもしれませんがね。もう今では遅すぎです。

マリ・ドミニック 何故でせうね。私、知りたいわ。

ジョゼファ(思はず)私も。

セヴィニエ 何故なら、二分前、あなたは全く別の説明をしたからです。この子があなたに「水曜日に玄関に置いておいたのね」と言つたとき、あなたは「私は置き場所を変へた」と言ひました。この時に、「それは違ふ手袋だつたの」と答へるべきだつたのです。(間)「べきだつた」と言つても、「置き場所を変へた」でもすむかもしれません。しかしこれはあやふやです。何かここにはあると私は判断しました。

acquit~~~受領書、 負債の返済。

par acquit de conscience~~~気がかりをなくすために

par acquit~~~いやいや、不承不承、仕方なく 

マリ・ドミニック ご勝手に。

セヴィニエ(すぐに攻撃に移り)あなたはホテルの全部屋の合鍵を持つてゐますね?

マリ・ドミニック いいえ。

セヴィニエ(驚いて)あなたはこの子の部屋の鍵を持つてゐないと言ふのですか?

マリ・ドミニック(まつたくいい加減な調子)夫は持つてゐるでせうがね、わたしにはないわ。

détendu~~~ゆるんだ

ジョゼファ(叫ぶ)何よ、それ!

マリ・ドミニック 何が、何よ!

ジョゼファ 二週間くらゐ前、マルト・エルボー(と、セヴィニエを見て)女の料理人、が、部屋に鍵を忘れたわ。あの人、鍵屋を呼ぶつて言ひだした。マダームが来て、その必要はないつて。そして合鍵で開けたわ。

セヴィニエ その鍵はこの子の部屋も開けられるんですね?

マリ・ドミニック 知りません。その必要に迫られたことがないですからね。

ジョゼファ さう、犯行の時まではね!

セヴィニエ(ジョゼファに)黙つて!(マリ・ドミニックに)試してみるのは簡単です。

マリ・ドミニック いいえ。失くしましたからね。

セヴィニエ ほほう。

マリ・ドミニック 一週間前、或はもつと前に。

ジョゼファ そんなことだらうと思つた。

セヴィニエ それは困つた。

マリ・ドミニック 本当に困つたこと。でも夫は持つてゐるわ、その鍵!

ジョゼファ(セヴィニエに、力をこめて)私誓ふ。持つてる。最初の日だつて持つてたのよ。まだ鍵が重要な意味を持つてゐないときにも。

セヴィニエ(優しく)またですね? この子の言葉に反対、は。

suave~~~甘美な、優しい

マリ・ドミニック こいつの言ふことをあなたは信じるのね?

セヴィニエ(それには答へず)質問はそこにはありません。

マリ・ドミニック 私への嫌疑は一体何なのです。

セヴィニエ 今のところは何もありません。確かめられた事実は、あなたが車庫に入つた、それは手袋のためではなかつた、ピストルがそこになかつたことを夫には話さなかつた。そして犯行のあつた部屋への鍵は持つてゐた。従つて、あなたの夫がその部屋に入る前に、あなたはその部屋にもう入つてゐた、と信じることは出来る、といふことです。

マリ・ドミニック 偶然の一致ね、残念ながら。

セヴィニエ(しつかりと)いいですか? マダーム。これからお聞きする事柄に答へるとき、十分な注意をお願ひします。その答次第ではあなたにとても不利な事態が生じるからです。

マリ・ドミニック 犯人に話してゐる口調ですね、それは。私は真実を話すだけですわ。

セヴィニエ(今までの口調を変へず)残念ながら、「偶然の一致」が、これまであなたを救つてゐます。いいですか、本当のことを言つて下さい。いいか、モレスタン。

モレスタン 勿論です、判事殿。ちやんと書き取つてゐます。

セヴィニエ あなたは、あなたの夫の後に、部屋に入つたのですね?

マリ・ドミニック(精神を集中させた返答)ええ。

セヴィニエ あなたが見たものは何ですか。(マリ・ドミニックがすぐ答へさうなのを止めるやうに)詳細に、お願ひします。

マリ・ドミニック 部屋の奥に、ミゲル・オストスの死体がありました。そして、手にピストルを持つた夫が、素つ裸のジョゼファの上に覆ひ被さるやうな恰好をしてゐました。(守衛が頭を上げる)夫は狩り出された獲物のやうに身体をゆり動かしてゐました。顔は青ざめ、とり乱した表情でした。両眼は飛び出さんばかりでした。時々夫は、汗にまみれた額に手をやつてゐました。私はそれを見て気の毒に思ひました・・・

dandiner~~~振る、揺り動かす

traquer~~~狩り出す

hagard~~~とり乱した

セヴィニエ(遮り)よろしいです。今の供述は、以前やつたものと全く同じで・・・

マリ・ドミニック(ホツとして、またしてやつたりと)私は真実を述べたのです。ですから勿論、自然に同じ供述になります。

セヴィニエ(重要なことではないかのやうに)で、扉には鍵があつたのですね?

マリ・ドミニック ええ。

セヴィニエ 電気はついていた・・・

マリ・ドミニック(少し崩れた調子)ええ。

セヴィニエ あなたの夫が青ざめてゐたのを見るためには、そして額に汗、震へて、ゆらめいてゐた、それを見るためには、電気はついてゐなければ。

マリ・ドミニック ええ、ついてゐたわ。

セヴィニエ するとムスィユ・ボールヴェールの指紋がスイッチになかつたのはどうしてでせう。

interrupteur~~~スイッチ

マリ・ドミニク 知りません。

セヴィニエ ああ、ここであなたが次のやうに答へれば、無罪放免だつたのですがね。かう言へばよかつたのです、『私は夫を救ふために、鍵を手袋で拭き取りました。そしてその後、ピストルの指紋も』と、です。あなたが本当にその二つのことをやつてゐたとすれば、忘れる筈はありません。あなたはその答をしませんでした。言つた言葉はただ、『知りません』です。

ジョゼファ(カルディナッルに)これ、素敵ね!

セヴィニエ 私が残念に思つてゐることを信じて下さればよいのですが。

ジョゼファ(下女がやるやうな、品のない言ひ方)マダームはこれでをしまひ。

ancillaire~~~下女の

セヴィニエ あなたの犯行をここでお話しする必要はもうないと思ひます。合鍵とピストルを持つてゐた。部屋には、あなたが最初に入つた。

マリ・ドミニック(激しく)この子がゐたわ、この子が。オストスがこの子を犯人だと言つてゐたぢやない! この子がやつたのよ!

セヴィニエ ええ、この子は自分でさう言ひました。

マリ・ドミニック(呆気にとられて)自分で言つた?

セヴィニエ あなたの夫が犯人だと信じて、です。しかし、彼女には出来る筈がない、と証明して見せました。たとへ彼女がピストルを持つてゐたとしても、です。

ジョゼファ(正直に)ええ、証明されてしまひました。私には無理だつたと。

マリ・ドミニック(狂気のやうに)ぢや、動機はどうなの! 私には動機がないわ。私、自分で離婚すればそれですむぢやない。

セヴィニエ 「憎しみ」があります。あなたが夫に対して抱いてゐた憎しみ、あなたの憎しみの言葉、はいたるところに証拠があります。離婚だけではすまない。その憎しみは大変なものです。検事殿もそれには驚いてゐました。「消してやる」とまで言つたのですからね。

マリ・ドミニック そんなの証拠でも何でもありはしない。

セヴィニエ 証拠、それはあるんです! 一つだけお教へしませう。マルト・エルボを尋問したときの言葉です。(書類の中から一枚の紙を取り出し)『あいつ、私の金を取り、部屋つきの女中と関係―――それも私の家で、私の建物の中でーーー関係して、私をいいやうに馬鹿にした。あんな奴、嫌ひ、大嫌ひ。殺してやる!』

マリ・ドミニック そんなことは、誰だつて・・・

セヴィニエ 分つてゐます。しかし私は、あなたに自首することを薦めます。

マリ・ドミニック 厭よ。駄目。決して。自首なんか。

セヴィニエ 痴情による犯罪には、陪審員は甘いです。本人に過ちがある場合でもです。自分が雇つてゐる運転手を殺した、ただそれだけなら、陪審員は厳しいものです。考へたはうがいい。

ジョゼファ ああ、この人考へるわ!

セヴィニエ 情痴による犯行、それは情状酌量が確実です。それにあなたの場合、事情が事情です。しかし、単なる殺人、それは・・・

マリ・ドミニック(遮つて)私を、あなたは逮捕するのね?

セヴィニエ あなたの場合、もうすぐ決定です。しかし、私は白状を薦めます。(マリ・ドミニック、扉のはうへ進む。セヴィニエ、その前に扉に着き、扉を開けてやる。一幕の守衛に合図をする)守衛! この部屋で、マダームにつき添つて。(セヴィニエ、小部屋を指さす)どんな口実があつても、彼女を外には出さないこと!

devanser~~~先着する

cagibi~~~小部屋

マリ・ドミニック(挑むやうに)ここだとゆつくり考へられるわ。

(マリ・ドミニック、守衛の後について小部屋に入る)

カルディナッル すると、「われわれ」(つまり自分とジョゼファのこと)は、これで無罪放免といふことでせうか?

セヴィニエ 個人的には、その通りだ。さ、これが命令書だ。

ordonnance~~~命令、決定

ジョゼファ(叫び)私、放免?

セヴィニエ 殆ど。モレスタンがこの紙を検事に持つて行く。この決定に検事は異を唱へないといふ感じがする。―――君はロケット(牢屋の名)に守衛と行き、そこで釈放の手続きを受ける。

levée d’écrou~~~釈放状

écrou~~~入監記録(台帳)

モレスタン 何となく、検事局が何か言つて来さうですが・・・?

parquet~~~検事局、検事総長

カルディナッル(苛々して)よし、それは自分の目で見る。(モレスタンに)私が一緒に行く。それから判事殿、信じて戴きたいです。私は理不尽に踏みつけにされるやうな男ではありません。

hérissé~~~逆立てる、苛々する

(カルディナッルとモレスタン、退場)

ジョゼファ(セヴィニエに)素敵! 判事さん! ああ、これ、お世辞ぢやないわよ! 本当に正義を果して下さつたわ!

セヴィニエ ありがたう。

ジョゼファ あのマダーム、悪い人!―――でも、偶然に当つた人が悪かつたの。―――ざまを見ろだわ! その同じ当つた人が私には最高。何て運がよかつたんでせう!

セヴィニエ(微笑む)うん。

ジョゼファ 私の身元保証人になつてくれる人、誰かしら!

(これは次の就職(ストリッパー)のための保証人)

セヴィニエ(モレスタンが書類を忘れてゐるのを見つけて)大事なものを忘れたな!(守衛に)今出て行つた二人を追ひかけて、この書類を渡してくれ。二人は12番の事務所にゐる。そこで検事がサインをしてくれる。そしてここに持つて帰つてくれ。

守衛 分りました、判事殿!

セヴィニエ 急いでくれ!

(守衛、退場)

ジョゼファ あなた、私と二人だけでゐるのが怖いのね?

セヴィニエ(誠実に)怖い? どうして。

ジョゼファ 分らない。

セヴィニエ(礼儀正しく)無罪放免だね。これからどうするの?

ジョゼファ 分らない。私、今は寡婦の身、それから捨てられた女。

セヴィニエ さうだね。

ジョゼファ 捨てる・・・違ふわね、放り出されたんだわ。汚い手で。(思ひ出すやうに)をかしなこと。二箇月前に私たち二人、ミゲルと私、一緒に寝てゐた。そして同じ夢を見てゐた。

plaquer~~~かぶせる、メッキする、押し付ける、撫でつける、捨てる

セヴィニエ(相変らず礼儀正しく)さう。

ジョゼファ 誰かが私をピストルで撃ち殺してくれないかな。これがミゲルの夢。誰かがミゲルに毒を飲ませてくれないかな。これが私の夢。この夢を見ながら、二人が大声を挙げる。そして二人同時に目が覚める。

セヴィニエ(興味をひかれて)同じ叫び、そして同時に?

ジョゼファ ただ、現実では逆だつた。ミゲルがピストル、私のはうは、毒。

セヴィニエ 毒? ボールヴェール・・・なるほど、毒か。

ジョゼファ(意味慎重に)十八箇月前から今を見ると、萎れた薔薇ね。

セヴィニエ(ジョゼファを元気づけやうと、明るく)別のところで働くんだね?

ジョゼファ(大きな声で)ありがたう! 私、お蔭で助かつたわ! 仕事? いいえ、私、ストリップ。

セヴィニエ 何だつて?

ジョゼファ ストリップティーズよ! 牢屋で、ストリップの女の子たち、私を見て、お似合ひよ、つて言つたわ。私も同感。

セヴィニエ でも、それだけの理由ぢやね。

ジョゼファ とんでもない! いい商売! 一週二万フラン! 一日にたつた六回しか脱がなくていいのよ!

セヴィニエ(誠実に)残念だね。君はそれよりもつと値打があるのに。

ジョゼファ 父親がよく言つてた、『物の値段は、その値打とは関係ないものだ』つて。さう、その通り!

セヴィニエ さう、その通り!

(非常に短い間)

ジョゼファ 判事さん!

セヴィニエ 何?

ジョゼファ 私と一緒で・・・何ともない?

セヴィニエ(驚いて)えつ? 何? それ。

ジョゼファ 私、あなたがゐなかつたら、とても無罪になんかなれつこなかつたつて、分つてゐるんだけど。でもこれ、あなたにしたら、私への最低限度のことなんでせう?

セヴィニエ(一瞬ハツとするが、微笑んで)君と、この私のこと?

ジョゼファ さう、お礼。

セヴィニエ 君は親切なんだね。

ジョゼファ 私、持つてるもの何もない。あげるつて言つたつて、これ、施しぢやない。私にはこれしかないの。

aumône~~~施し

セヴィニエ 心から感謝する、本当に。有難う。だけど、駄目。

ジョゼファ 残念ね!

セヴィニエ 二年前だつたら・・・結婚前の。・・・ああ、出来ないなんて!・・・でも、少なくとも、私は、これを後から思ひ出して、残念に思ふことぐらゐは出来る。

ジョゼファ(目に涙を浮べて)あなた、女性に話が出来る人なのね。

セヴィニエ ああ、なんていふ魅力だ、これは!

ジョゼファ ああ、その魅力。それが私にありさへすれば。(素早く)でもあなたのその態度、それはよく分るわ。こんな機会、いくらでもあるでせうからね。何て言つたつて、こんな風に女性をいくらでも助けてやれるんだから。

セヴィニエ(心を打たれて)ジョゼファ・ラントネ、あの牢屋の中の女たちの話を聞いちや駄目だ。君はあの子たちとは違ふ。

ジョゼファ 私のこと、正直な、いい子だつて思ふ?

セヴィニエ うん、思ふ。

ジョゼファ あなたが? 判事さんが?

セヴィニエ(微笑んで、優しく)さう、わたしが。判事さんが。

ジョゼファ そして私の今まで言つたいろんなこと、聞いた後でも?

セヴィニエ うん。聞いた後でも。

ジョゼファ(熱つぽく)あなたに何かあげたいの、思ひ出に。(憑かれたやうに袋を探る)何もないの。父がナポレオン3世の肖像の一スウの硬貨をくれたんだけど、それ、裁判が始まるとき預けなきやいけなくつて。このハンカチしかないわ。

fébrile~~~熱のある、熱つぽい

greffe~~~裁判所の記録保存所

セヴィニエ いいよ、大丈夫・・・

ジョゼファ ああ、洗つてあるわよ。どうしてか分らないけど、今まで涙なんか出なかつたから、拭いてないわ。

セヴィニエ(心を打たれて)君、本当にさう言ふのなら・・・

ジョゼファ たつた4スウのハンカチ。でも、面白いのよ、これ。闘牛の絵があるの。ミゲルがベイヨンヌで貰つて来たの。

ramener~~~連れて来る

セヴィニエ(ハンカチを見て)綺麗だね、これ。ありがたう、本当に。

(アントゥワネット、登場)

アントゥワネット ハンカチを貰つたのね、今度は!

セヴィニエ おいおいアントゥワネット、頼むよ!

アントゥワネット 電話をくれたでせう? 私が幸せかどうかつて。勿論私、心配になつたわ。そして着いてみたら、ハンカチを貰つてゐるところ。

ジョゼファ これ、当り前のことよ、マダーム。

アントゥワネット あなた、困り物になつてゐるのよ、マドゥムワゼッル。

encombrant~~~厄介者

ジョゼファ どうして?

アントゥワネット どうしてつてね、うちの人、あなたを知つてから、今までとはすつかり違ふの。満足させるためにはね、欲望で震へるほどにしないと駄目、そして頭蓋骨の後ろに痛みを感じるまでにならないと。

セヴィニエ 冗談で言つたんだ、それは。

アントゥワネット ・・・そして今度はまた、ハンカチ!

ジョゼファ(セヴィニエに)奥さん、とても優しいのね。これであなたのことも分つたわ。(アントゥワネットに)私を助けてくれたお礼なの、ハンカチは。

アントゥワネット(夫に)大事に、失くさないやうにしなくちやね。失くすと高くつくわ。

セヴィニエ(ジョゼファに)大事にとつておくよ。

アントゥワネット(すまなさうに)高くつくから?

セヴィニエ 怖いのさ。

アントゥワネット(怖さうに)夫だつたの?

セヴィニエ 妻のはうだつた。

アントゥワネット(優しく、慰めるやうに)あなた、可哀想に。

セヴィニエ(同意して)さうだな。さ、君はこれで何も言はずに帰るんだ。なるべく早くすませられるやう努力するよ。その間君は、あの粗末な家、車、それに君の古いマント、それで我慢できるやう、心を落着かせるんだね。(犯人を)変更する準備は全く整つてゐないからね!

acquiesçant~~~同意する

アントゥワネット それ、正義に悖(もと)るわ!

セヴィニエ 市役所で宣誓したらう?『汝がたとへ貧乏で、不幸で、落ちぶれやうと、汝を愛するであらう』つて。その言葉を守る決心の時間だ。

アントゥワネット(真面目に)大丈夫! ただね、私たちそれを、十一時のまた話し合ふのよ。

(アントゥワネット、退場)

ジョゼファ(短い間の後)連中、あなたに何が出来るの?

セヴィニエ ああ、その話はやめだ。

ジョゼファ 私、私がやつたつて言へるわ。それであなたが大丈夫なら。

セヴィニエ(きつぱりと)そんなことで私は大丈夫にはならない!

ジョゼファ 私、あなたのために、何もしてあげられないのね! 困つたわ!(ジョゼファ、窓の近くに行き、下を見、振り返り、セヴィニエに言ふ)ここ、十分高くないわ!

セヴィニエ(窓に突進して)高くない、高くない。十分高くはないぞ。

se ruer~~~飛びかかる

ジョゼファ 飛び込む。それでどうなる?

セヴィニエ うん、それでどうなる?

ジョゼファ 私、相変わらず不幸。おまけに、不具になるわ!

infirme~~~不具の

セヴィニエ おまけに、だ!(窓を閉める)だからね、もう(変な考へはよして)素敵な男性を幸せにしてやることを考へるんだ。

ジョゼファ やれやれ、素敵な男性をね。私、男を不幸にしかしないの。ミゲルを見てご覧なさい。みんな私のことを言ふわ、食器を壊す女、役立たず、始末におへない人間!

(守衛、登場)

守衛(軍隊式に敬礼した後)書類です、これが。

セヴィニエ マドゥムワゼッルを弁護士のところへ頼む。それから釈放の書類のために、監獄の事務所に。

守衛 畏まりました、判事殿!

セヴィニエ(ジョゼファに)私は、マダーム・ボールヴェールから、告白の書類を貰ひに行く。

ジョゼファ あの人、書いてゐるかしら。

セヴィニエ 勿論。彼女は強い。そしてよく分つてゐる。君、馬鹿なことをしないね?

ジョゼファ 私、誓ふ。

セヴィニエ 何に?

ジョゼファ(誠実に)私たちの、あのハンカチに・・・

セヴィニエ(守衛に)それでもいいか、ちやんと見張るんだぞ!

守衛 畏まりました、判事殿。

ジョゼファ(陽気に)幸運を、ね!

セヴィニエ ありがたう。(これから何が起きても)後悔はしないよ。これは面白い事件だつたからね。(小部屋を開けながら)君にも、幸運を、ね。

(セヴィニエ、小部屋に入る)

守衛(不審に思つて) 何故判事さんは、ちやんと見張れ、と言つたのかな?

ジョゼファ さ、行きませう。

守衛 それから、馬鹿なことをするな、つて、あれは何だ? 自由の身になるのに、何の馬鹿をするんだ?

ジョゼファ 人生、それはただ自由が大事だけぢやないの。

守衛 私には、それだけが大事だね。原則として、私が生きてゐるのは日曜日だけだ。

ジョゼファ(繰り返す)さ、行きませう。

守衛 あんた、自分のことをファム・ドゥ・シャーンブルだと言つてゐたね。

ジョゼファ さうよ。

守衛 ぢや、料理は出来るんだね?

ジョゼファ 家事、料理、私、大好き! ただ、あなたが信じてくれるかどうか・・・私、縫ひ物が嫌ひなの。

守衛(非常に乱暴な言ひ方)駄目ぢやないか! お前には考へることは(思ひ出すことは)禁止だ!

casseur~~~粗忽者、乱暴者

ジョゼファ 何? それ。

守衛(優しい声で)ほら、さつき言はれたね? お前には考へることは禁止だ、つて。

moelleux~~~柔らかい

ジョゼファ(思ひ出して)ああ、さうね。

守衛 言ふことはないよ、こんなこと。却つて嬉しいぢやないか。

ジョゼファ さう? あなたを見てゐると誰かを思ひ出すから。

守衛(自分がドンファンになりきつて)ああ、そりや親切だ。

ジョゼファ 知らない。

守衛 君のいい男(ひと)だね、きつと。

ジョゼファ 違ふ。それとは違ふ人。さ、行きませう。(守衛、動かない)どうしたの? じろじろ人のことを見て。

守衛 凄いね。頭もいいが、身体も素敵だ。

ジョゼファ(いぢわるに、しかしとげはない)何を言つてもいいと思つてるのね。

守衛(一歩踏み込んで)いやいや。だけどね、わたしや、あんたが欲しいと思つてるものはみんな持つてる男だよ。あんたは気に入つたね。大きな愛つていふやつぢやないんだ、わたしの愛つてのはね。小さな、面白いことつてのが、わたしの好みさ。今私の考へてることを言葉にしたらね、わたしや、おまはりさんにひつぱられて、監獄行きさ。

ジョゼファ(笑ふ。もう一本取られてゐる)やるわね、あなた。

守衛 わたしや、マリオつて言ふんだ。どうだい? いつか日曜日、どこかへ一緒に行かうや。

(守衛、ジョゼファを通すために、身体を引く)

ジョゼファ いいわね。

          (幕)