若き医師の手記
          
           ミハイール・ブルガーコフ 作
            能 美 武 功 訳

   雄鶏の刺繍のある手拭
 荒涼たるロシアの田舎道を馬車で言ったことのない人にその話をしても無駄だ。どうせ分っては貰えない。ところで、この経験のある人にも私は話したくない。思い出させるのが気の毒だからだ。
 しかし、手短に話そう。私と私の御者は、丁度一昼夜かけて、グラチョーフカ市からムリョーヴァ病院までの四十キロを馬車で行った。一昼夜と言ったが、それは正に、可笑しいぐらいの正確な二十四時間だった。一九一七年九月一六日午後二時に我々二人は、かの立派な町グラチョーフカ市の外れにある最後の粉売り場を離れ、忘れもしない一九一七年九月一七日二時五分に、私はムリョーヴァ病院の中庭、九月の雨で地面に押えつけられグニャグニャになった草の上、に立っていたのだ。中庭で突っ立っていたが、それはこんな状態だった・・・寒さで凍(こご)えて筋肉が硬直化していたので、不安な気持になり、心の中で教科書の頁をめくりながら、確かにあった筈だと思い出そうとしていた・・・あった筈だ。それともこれは、夕べ、グラビローフカ村で見た夢に出てきただけのことだったか・・・人間の筋肉が凍えて骨に変ってしまう病気が、確かに。糞っ! この病気はラテン語で何ていうんだったか! どこもかしこも、筋肉という筋肉が痛む。歯の痛さと同じ、耐えきれない痛さだ。白状する。私はあまりに弱気になって、私が医学を選んだこと、私が五年前、大学の学長宛、医師になるという宣誓書を提出したことに対する呪いの言葉を小声で吐いた。この間ずっと、篩(ふるい)をかけたような小糠雨(こぬかあめ)が降っていた。私の外套は海綿のように水を含んで膨(ふく)れている。さっきから右手の指でトランクの把手(とって)を掴もうといろいろやっていたが、ついに駄目。湿った草の上に私は唾を吐く。私の指は何も掴むことが出来ないのだ。その時だ、確かにあった筈だと、いろんな面白い医学書の頁を心の中でめくっていた私が、ついにその言葉に行き当たったのは! 「麻痺」・・・「パラリスィス」、これだ! 私は狼狽しながら、頭の中で、この言葉を呪いとともに呟く。何故こんなことを! 自分でもよく分らない。
 「あ・・・あの道路は・・・」と私は、青くなって硬直した唇をやっとのことで動しながら御者に話しかける。「経験しているうちに・・・きっと馴れるんだろうな。」
 こう言って、うらめしそうな目で、私はじっと相手を見る。この御者は、道路には何の責任もないのに。
 「それが・・・先生」と御者は、その色の薄い鼻髭を殆ど動かさずに、答える。「もう私は十五年もここを行き来していますが、馴れませんので、全然。」
 私はブルッと身震いする。憂鬱な目で建物を見る。最初に見えたのは、白く塗ってあるが所々剥げている二階建て。これは病院。次が裸の丸太の壁の、助手の家。最後に、これから私が住むことになる、大層清潔な二階建て。但し、謎めいた棺(ひつぎ)のように薄気味悪い窓がついている。私は長い溜息をつく。突然私の、揺られて寒さでボウッとなった、頭の中にラテン語ではなく甘い言葉・・・青いパッチを穿いた太腿(ふともも)のテノール歌手が歌う歌詞・・・が、チラチラと浮ぶ。
 『さようならお前、住み心地のよい私の安らぎの場所よ』
 「ああ、長のお別れだ、金色に光っている美しいバリショーイ劇場、モスクワ、ショーウィンドー、ああ、さようなら。」
 『次に旅に出る時は、羊の毛皮外套を着てやるぞ・・・』やけ気味の腹立たしさで、私は思う。そして、よく曲らない指を使ってトランクを革紐で引寄せる。『次の旅はまだ先の十月だが、必ず羊の毛皮外套を、それも二枚重ねて着てやるぞ。それにグラチョーフカにひと月も経たないのに行くなんて、そんなことするものか・・・考えてもみろ・・・この旅行では、ここにつくのに途中で一晩泊らなきゃならなかったんだぞ! まづ二十キロ進んだ。すると墓場にいるような真っ暗闇だ・・・夜だ・・・それでグラビローフカに宿泊・・・どこかの先生が泊らせてくれる・・・そして七時に出発・・・そして馬車の中・・・それがまた難儀なこと・・・歩くよりも遅い速さだ。片方の車輪が穴に落っこち、もう一方が宙に浮ぶ。トランクが足の上に落ちる・・・ドスン・・・左に大きく揺れ、次に右に揺れる。前方に大きく揺れ、鼻をしたたかに打つ、かと思うと、次は後ろに揺れ、後頭部を打つ。外は雨、雨。冷たさが骨まで凍(し)みる。まだ黒ではない灰色の、まだ舌を刺すほどではない酸っぱい味の秋、九月半ばに、厳しい冬と同じように野原で凍え死ぬなど、あり得る話なのか。ああ、どうやらあり得ることらしい。それも、その死ときたら単調そのもの、見えるもの全てが、何の変化もない、そんな死だ。右手には瘤(こぶ)のある、所々剥げた野っ原、左手はいじけた小さな林、その傍に五軒或は六軒か、壁に穴の開いた、灰色の百姓家。そのどれにも、人っ子一人いなさそうだ。辺りは静寂、何も聞えない。
 トランクがやっとのことで出て来る。御者が、腹をトランクにあて、私の方にそれを真直ぐ押出す。私は革紐を掴もうとするが、手が言うことをきかない。一方、本その他の見回り品で膨れ上がっているトランクは、受け止めようとする私の手など委細構わず、私の足の上にドサッと落ちる。
 「ああっ! これは・・・」と驚いた御者は言う。が、私は何の苦情も発しない。私の足は、投げ捨てられたもの同然だったから。
 「おい、誰か、誰かいないか」と、御者は叫ぶ。そして雄鶏が羽ばたく時のような手つきで手を叩く。「おーい、お医者様をお連れしたんだ!」
 すると助手の家の、暗い窓から顔が現れる。二三人こちらを覗き込む。ガラスに顔をピッタリくっつけて。そして扉がバタンと開き、ボロボロの外套に長靴姿の男が、ビッコをひきながら私の方にやって来る。私まで二歩、のところまで近づき、恭(うやうや)しくそしてまたいそいそと帽子を脱ぎ、何故か恥かしそうに微笑んで、嗄(しゃが)れ声で私に挨拶する。
 「今日は、先生。」
 「あなたはどなたで?」と、私は訊く。
 「イェゴールイッチです。ここの守衛でして。お待ちしておりました。」と、その男は自己紹介をする。
 そしてすぐに私のトランクを掴み、肩に担(かつ)ぎ上げ、運んで行く。私はビッコをひきながらその後に続く。チップのためにズボンのポケットから財布を取出そうとするが、うまく指が動かない。
 人間に必要なものはそう多くはない。まづ第一に火だ。僻地のムリョーヴォへ来ると決った時から、モスクワでしっかり心に決めたことがある。どっしりした態度をとらねばならない、と。私は若く見える。医者になりたての頃、これがどれだけ私に厄介だったことか。私は必ず自己紹介する時、
 「医師、何何です。」
と言った。すると間違いなく相手は、眉を上げ、訊く。
 「おやおや、私はてっきり学生だと思っていましたよ。」
 「いいえ、学生はもう終りました」と、私は少しムッとして答える。そして考える、『うん、これは眼鏡をかけなきゃ駄目だな。』しかし私には、全く眼鏡が必要でない。よく見える。まだ日常の些事(さじ)によって目が曇らされていないのだ。人々・・・特に初対面の・・・の、思い遣りのある微笑、医者として認めてやろうという鷹揚な態度、から、自分を守るため、眼鏡の助けを借りることは、遂に諦め、私は、自分に尊敬を集められる(と、私が思った)、特別に勿体振った様子をとることに努める。つまり、喋る時は抑揚をつけず平坦に、重々しく。動作は出来るだけ急な動きを避け、悠然と。大学を出たての二十三歳の学生がやるような、廊下を走るような真似は決してせず、必ず、歩く。あれから何年も経った今、こういう努力を振返ってみると、全く役に立っていなかった、と私にははっきり分る。
 ただ、今この瞬間、私のやっていたことといえば、文書になっていない私のこの『行動法典』は、すっかり破られていた。私は背中を丸め、靴を脱ぎ捨て、靴下ばきになり、私のいるべき居室にはいず、台所に座り込み、インスピレーションを与えられた拝火教徒さながら、竃(かまど)の中で燃えている白樺の薪に必死に手を伸ばしていた。さて、私の右手には、逆(さか)さまにした手桶(ておけ)があり、その上に私の長靴がのせてある。そしてその手桶の横には、羽根が抜かれて裸の皮膚姿になった血だらけの首のついた、シャモ、そしてその傍には、シャモの、引き抜かれた様々の色の、羽根の山がある。『行動法典』には従わなかったが、私は、自分の生活に必要な一連の行動は、硬直した身体の状態でありながら、立派にやりとげていた。ここへ来る前にコックとして任命しておいたイェゴールイッチの妻、尖った鼻をしたアクスィーニア・・・その任命に従って彼女は自分の手でシャモを殺し、そして私はそれを食べる運命にあるのだが・・・そのアクスィーニアに会い、他の面々・・・助手ヂェミヤーン・ルーキッチ、助産婦ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナとアーンナ・ニカラーイェヴナ・・・に会った。病院を一周し、非常にはっきりと、ここには器具が実に豊富に取り揃えられていることを確認する。それと同時に、これまたはっきりと、次のことを認めざるを得なかった。(勿論口に出さなかったが)つまり、汚れが全くなく、ピカピカに光った沢山の器具は、私にはその名前も分らなかったし、また、何に使用されるものかも不明だった。過去に私は、手に取ったこともなければ・・・正直に告白すれば・・・見たこともなかった。
 「フム、これはよく器具が揃っている。凄いな、フム・・・」と、私は意味深長にモゴモゴと呟く。
 「ええ、そうです」と、私の助手、ヂェミヤーン・ルーキッチは嬉しそうに返事をする。「全部、前任のリェオポーリド・リェオポーリドヴィッチのお蔭なんです。あの方は朝から晩まで手術のし通しでした。」
 私の背中に冷たい汗が滲み出る。厭な気持でピカピカ光ったガラス戸棚を眺める。
 それから我々は、誰もいない病棟を一回りする。悠(ゆう)に四十人は収容出来ると分り、安心する。
 「前任の先生は、ここに五十人収容したことがあります」と、ヂェミヤーン・ルーキッチは、私を喜ばせるように、言う。その時、白髪を王冠のように結ったアーンナ・ニカラーエィヴナが、どういう気なのか、
 「先生、先生はとてもお若いですね・・・本当にお若いわ・・・びっくりするくらい。学生のようなお若さ・・・」と言う。
 『糞っ! またこれか』と、私は思う。『全く、揃いも揃って、申し合わせたかのように。』
 私は口をきっと結んで、歯の隙間から息を押し出すようにして言う。
 「いや、私は・・・つまりその・・・ええ、若いです。」
 次に我々は階段を降り、薬局室に行く。私はすぐ、この薬局室に揃っていないものは何一つないと見てとる。薄暗い二つの部屋には、薬草の匂いが漂(ただよ)い、棚には必要な薬品がずらりと並んでいる。外国製の特許薬まである。これらは、今更言うまでもないが、全て、私が見たこともなければ、聞いたこともない薬だ。
 「リェオポーリド・リェオポーリドヴィッチが、取寄せたんです」と、誇らしそうにピェラゲーヤ・イヴァーノヴナ
が報告する。
 『このリェオポーリドという人物、正に天才だな』と、私は思う。そして、この謎に満ちた、静かな村ムリョーヴォを去って行った、リェオポーリド氏に対する畏敬の念が胸に湧く。
 人間には火の他に必要なものがある。日常の生活・・・住居、食事・・・だ。夕食の軍鶏(シャモ)はもう大分前に食べてしまった。部屋の中の藁布団には、イェゴールが藁を詰めてくれて、ちゃんとシーツが敷いてある。ランプも灯(とも)っている。私は椅子に坐り、魔法にかかったように、伝説の人物リェオポーリド氏の三つ目の達成物を眺めている。本棚が本でぎっしり詰っているのだ。ロシア語、及びドイツ語で書かれた外科手術の教科書だけで、ざっと見て約三十冊はある。それに、内科治療学の本! 何冊もの革表紙の解剖図鑑!
 夜が来て、私には少し、日常の生活が戻って来る。
 『僕は何にも悪くないぞ。ちゃんと卒業証書はある。成績だって、五を十五も取っているんだ』と、私は執拗(しつよう)に、そして不満たらたら、考える。『卒業する時、ちゃんと先生達には言ったんだ。医師の助手として働きたいと。だけど駄目だった。みんなにっこり笑って、大丈夫、すぐ馴れるよ、と言ったんだ。さあ、すると僕は馴れなくちゃならない。しかし、もし脱腸の患者が来たらどうする。説明してくれ。どうやれば脱腸に「馴れる」ことが出来る。脱腸患者がこの僕の手に渡されて、一体どう思うだろう。「これはもう、あの世行きだ。」そう思うのか。』(ここで私はぞっとする。寒くなる。)
 『それとも、盲腸炎? この僕に何が出来る! 村の子供がジフテリアに罹(かか)ったら・・・ああ、器官切開の演習は何時やったっんだったか。いや、気管切開の必要がなくてもこっちがオタオタするのは分っている。それから、分娩! ああ、分娩を忘れた! 逆子(さかご)が来たらどうするんだ! ああ、僕はどうしたらいいんだ! ええっ? 実際この僕って奴は、何て軽々しい男なんだ。こんな仕事は断らなきゃ駄目だったんだ! 引受けちゃいけなかったんだ。リェオポーリドのような人物を連中は捜すべきだったんだ。』
 薄暗がりの中で悶々(もんもん)としながら私は部屋の中を歩き回る。ランプの傍まで来た時、鏡に写った自分の青白い顔が見える。それは、深い深い野原の、黒い闇をバックに、部屋の灯りでチラチラしている。
 『やれやれ、僕は偽ドミートリーだ。あの僭称王だぞ』と、急に私は思う。そして椅子にどっかと腰を下す。
 約二時間、たった一人で、私は自分を苦しめる。苦しめて、苦しめて、自分の拵えた恐怖で、もう、二進(にっち)も三進(さっち)も行かないところまで来る。そしてやっと気持が収まる。そしてある計画を考案するまでに到る。
 つまりだ、こんな時には、誰も病人なんて来やしない。村では亜麻を打っている。外に出る者などいないんだ。だから・・・『だから、ヘルニアを運んで来るかもしれないって言うんだ』と、厳しい声が私の胸に響き渡る。『こんな時には、鼻風邪(つまり易しい病気)の人間を誰が連れて来るか。だが、ヘルニアなら、しようことなしに、連れて来るかもしれないだろう? なあ、親愛なる新米のお医者さんよ』
 その声は確かに馬鹿じゃない。そうでしょう? 皆さん。私はぎくりとなる。
 『黙れ!』と、私はその声に言う。『ヘルニアと限ったわけじゃないだろう。そんなに神経質になるな。一旦引受けたんだ。後には退(ひ)けないだろう。』
 『エーイ、乗りかかった船だ。どうともなれ、か?』と、意地悪く声が答える。
 だから、片時も教科書を手放さないようにするのさ・・・処方箋を書く時だって、その前に手ぐらい洗うだろう? その時に考える。患者のカルテのすぐ傍に教科書を拡げておくさ。薬だって厄介なものは処方しない。必ず役に立つと分っているものだけだ。そう、例えば粉末のサリチル酸ナトリウム、0・五グラム。これを一日に三回・・・
 「いっそのこと、重曹でも処方したら?」と、内心の声が、あからさまに嘲笑って答える。
 重曹が何になるっていうんだ。よしそれなら、吐根(とこん)を煎じて与える・・・一八0グラム・・・いや、二00にするか。それでいいだろう!
 ここで私はたった一人なのだから、誰も吐根を要求してはいないのに、弱気になって、処方便覧の頁をめくる。「吐根」を確かめる。そしてついでに、全く機械的に、その辺りを読む。『インスィピーン』なるものがこの世に存在することが分る。そしてそれが、硫化エーテル・キニーネ・ダイグリコーリック酸に他ならぬことを知る。どうやらキニーネの味はしないらしい! しかし、何に効くのだ。何に処方するのだ。粉末なのか? ええい、糞っ、どうともなれ!
 『インスィピーンはインスィピーンでいいさ。しかしヘルニアは一体お前、どうするつもりなんだ』と、執拗に声の形をとった怖れが、私に問うてくる。
 『風呂に入れるさ。』猛(たけ)り立って私は防衛する。『風呂だ。風呂に入れて、元の位置に戻してやる』
 『狭窄(きょうさ)ヘルニアだぞ! 風呂に入れてどうなるっていうんだ! 狭窄なんだぞ!』と、悪魔のように、恐怖の声が歌う。『切るより他には手はない・・・』
 ここで私はすっかり降参し、泣き出しそうになる。そして、窓の外の闇に祈りを送る。『何でも来るがいい。ただ、狭窄ヘルニアだけは勘弁して・・・』
 すると疲れが、小声で歌ってくれる。
 『眠るがいい、お前、不幸な医者の卵よ。眠るがいい。朝が来るさ。さあ、落着いて、若いノイローゼ患者さん。ほら、窓の外を御覧。暗闇だ。冷たい野原が眠っている。ヘルニアなんか、どこにもない。朝が来る。また日常が戻って来る・・・眠るんだ・・・図鑑などうっちゃって・・・どうせ見たって何も分りはしない。ヘルニアなど・・・』

 彼がどう飛び込んで来たのか、私はさっぱり覚えていない。覚えているのは、扉のボルトがガタゴト鳴り、アクスクィーニヤが何か怒鳴っていたこと、ああ、それから、四輪馬車が窓の外でギーギーと音をたてていたこと、それだけだ。
 彼は帽子を被っていなかった。羊の皮の外套はボタンが外れており、縺(もつ)れた顎髭、それに、狂人のような目・・・
 私を見るや、十字を切り、両膝を着き、床に額を打ちつける。私を拝(おが)んでいるのだ。
 『もう僕は駄目だ』と、私は考える。実に惨めな気持だ。
 「どうしたんです、あなた。どうしたんです? どうしたんです」と、私は呟き、毛皮外套の灰色の袖を引っ張る。
 その顔は歪み、息を吸い込み吸い込み、切れ切れの言葉で返答を呟く。
 「先生・・・先生・・・たった一人の・・・たった一人・・・たった一人の・・・」彼は突然大声で怒鳴り始める。若い声だ。そのせいでランプの傘がブルブルと震える。「ああ、神様・・・ああ・・・」苦しそうに両手を揉(も)みしだき、再び床板に額をぶっつける。床板を壊さんばかりだ。「どうして・・・どうして私がこんな罰を。神を怒らせる何をしたというんだ、この私が。」
 「どうしたんです。何が起ったんです」と、私は叫ぶ。顔から血がひいて、寒くなって行くのが分る。
 彼はさっと立上る。私の方に駆寄り、囁く。
 「先生・・・何でも、何でも欲しいものは・・・金、金は出します・・・欲しいだけ取って下さい。金を、好きなだけ。食料の方が? いいです。いくらでも届けます。どうか、どうか、死なせないで。死なせないで。お願いです。片輪でも、片輪になっても・・・構わない。構うもんか!」彼は天井に向って怒鳴る。「食べさせて行けるんです、私は・・・私は食べさせて・・・やれるんだ!」
 アクスィーニヤの青白い顔が扉の四角い枠から覗いている。苦痛が私を捕え、胸を締めつける。
 「どうしたんです・・・さあ、話して下さい。」熱に浮かされたように私は怒鳴る。
 彼は収まる。囁き声で、まるで内緒事のように私に言う。その目は深く、深く、底なしの穴のようになる。
 「打ち器に落ちたんです・・・」
 「打ち器? 打ち器って?・・・」私は訊く。「何ですか、それは。」
 「亜麻を打つ機械です」と、囁き声でアクスィーニヤが説明する。「みんなで亜麻を打っていたんです、先生。」
 『最初の仕事がこれか。酷いことになったものだ。どうしてこんなところに僕はやって来たんだ。』恐怖に襲われながら、私は思う。
 「誰が。」
 「娘です、私の。」彼は囁く。それから、怒鳴る。「助けて下さい!」と。そして再び床に膝まづく。昔の農民風のおかっぱに切った髪が目にかかる。

 稲妻型ランプ・・・二本の角(つの)が生えていて、均衡がとれていず傾(かし)いだ、傘のついた・・・が、熱い光線を落している。手術台の上の白い、洗ったばかりの、よい匂いのする防水布の上に横たわっている女の子を見たとたん、私の記憶からヘルニアは消え去る。
 明るい、ほとんど赤とも言える髪の毛が、固まって乾いた塊のように、手術台から下に、垂れている。(訳註 「固まった、乾いた、ポーランド地方の風土病、糾髪病の髪の毛のように」が直訳だが。)編んだ長い髪の毛は、異様に大きく、その端は床に触っている。更紗(さらさ)のスカートはひき千切れていて、血のシミがついている・・・褐色、脂まじりの白、深紅・・・それが斑(まだら)に。稲妻型のランプの光線は、黄色く、私には生きているように見え、女の子の顔は白く、鼻は尖って、死んだ紙のように見える。
 全く動かない石膏のようなその白い顔から、その稀(まれ)にしか見られない真の美しさが消えかかっている。こんなに、こんなに美しい顔には、そうはお目にかかれない。
 手術台にはおよそ十秒間、全くの沈黙がある。しかし、閉ざされた扉の後から、誰かの、大声で叫ぶ声、それと共に、激しく執拗に頭を床にぶっつける音が聞える。
 『気違いだ』と、私は思う。『しかし大丈夫だろう。看護婦達がうまく処理してくれるさ。それにしてもどうしてこんなに綺麗なのか。確かにあの父親、顔の輪郭はいい。まあ、母親が美人だったんだな・・・彼はやもめか?・・・』
 「あの父親は、妻を亡くしている?」と、私は機械的に囁く。
 「ええ、そうです」と、ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナが答える。
 その時、ヂェミヤーン・ルーキッチが、鋭い、怒ったような動きで、女の子のスカートの裾から上まで、さっと切り上げ、女の子の足を露(あらわ)にする。私はそれを見、思っていたより事態が酷いことを知る。右の足は予想以上、なきに等しかった。砕かれた膝から下は、血に染(そま)ったボロ、つまり、潰(つぶ)れた赤い筋肉が横(よこたわ)り、骨が見えている。そして、脛(すね)のところで幹の骨が折れ、その両端が皮膚に穴をあけ、外に飛び出している。踝(くるぶし)から下の足は生きたものではなく、身体から外されたもののようにそっぽを向いて横(よこた)わっている。
 「ウム」と、助手は唸り、それ以上何も言わない。
 そこで私はハッと我に返り、女の子の脈をとるために手首を握る。その冷たい手首からは何の信号も来ない。ただ五、六秒握っているうちに、やっと判別出来る何かの波動を捕える。と・・・消える。その途切れた数秒間、私は、彼女の鼻の、青い色をした、両方のふくらみと、白い唇を眺める。「臨終だ」と言いたくなる。しかし、幸運なことに、思い留まる。再び波動の細い切れ端が、私の指に届く。
 『ああ、こうやって、機械に押し潰(つぶ)された人間は死んで行くのか。もう処置の仕様もないな』と、私は考える。
 しかし、突然、自分の声とはとても信じられない、思いもかけない厳しい声が発せられる。
 「カンフル!」
 その時、アーンナ・ニカラーイェヴナが、身体を屈(かが)めて私の耳元に囁く。
 「どうしてです? 先生。これ以上この子を虐(いじ)めることはありませんわ。もうすぐ死にます・・・どうせ助からないんですから・・・」
 私はキッと彼女を睨んで言う。
 「言ったでしょう? カンフルです。」
 さっと顔つきが変り、次に真っ赤になって、アーンナ・ニカラーイェヴナは急いで机に向い、アンプルの口を切る。
 助手もどうやらカンフル注射には不賛成らしい。しかし彼は抜け目なく、機敏に注射器を準備する。そして黄色い液体が女の子の肩の皮膚の下に流れて行く。
 『ああ、死んでくれ。早く死んでくれ。頼む』と、私は思う。『もし死ななかったら、この私は君をどうすればいいんんだ。』
 「もうじき死ぬ」と、私の心を見抜いたかのように、ヂェミヤーン・ルーキッチは呟く。シーツをチラと見る。下半身をシーツで覆ってやった方がよい、と思ったらしい。そして思いなおす。シーツが汚れるだけ無駄だ。しかし結局、数秒後に、彼は覆ってやる。私の指示があったからだ。女の子は死骸のように横(よこた)わっている。しかし、死なない。私の頭は急にはっきりとなる。まるで遠い昔医学部でやった実習の時のガラス張りの部屋の中にいるように。
 「もう一本カンフルを」と、かすれた声で、私は言う。
 そして再び助手が従順に、液体を注射する。
 『どうしたんだ。死なないのか』と、私は狼狽(うろた)えながら、考える。『本当にやらなきゃならないのか・・・』
 頭はいよいよはっきりしてくる。そして突然私は悟る・・・鉄のように動(うごか)し難い確信をもって・・・悟る。私は今、教科書もなく、相談する人間もなく、生れて初めて、死にかかっている人間に、切断手術を実行せねばならないことを。そして、当のこの女の子は、私のメスのもとで死ぬのだ。そう、メスにかかって死なねばならない。何故か。何故なら、もうこの子には血液がないのだ! 十キロもの距離。砕かれた足は、その間ずっと血を流し続けていたのだ。女の子が今何か感じているか。何か聞えているのか。それさえ分らない。黙ったままなのだ。ああ、どうして死んでくれないのか。あの半狂乱の父親は、私に何と言うだろう。
 「切断手術の準備」と、私は助手に言う。まるで他人の声だ。
 助産婦は私に獰猛な目を向ける。しかしヂェミヤーン・ルーキッチの目には、キラリと同情の光が現れ、いそいそと器具を整え始める。足元でストーブがゴウゴウと唸り出す。
 十五分経つ。幽霊でも見えはしまいかと怖れながら私は、女の子の、冷たい瞼(まぶた)をめくり、その死にかけた目の中を覗く。死んではいない。どういうことだ。半死人がどうして生きていられるのだ。汗が私の白い帽子の下から額に落ちて来る。ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナが急いでガーゼで拭く。女の子の血管に、残っていた血液とカフェインが、今浮き出て来ている。カンフルを打ったのがよかったのかどうか。アーンナ・ニカラーイェヴナが、カンフルで太腿(ふともも)のところに出来た隆起に時々触り、さすっている。女の子はまだ生きている。
 私はメスを執(と)る。誰かの(切断の手術を大学で見たのは、生涯にただ一度だけだ)真似をしようとして・・・私は運命に祈る。これからの三十分間は、どうか女の子を生かしておいて欲しいと・・・
 私を動かしているものは、医学ではない、常識だ。この緊急の事態を任されたどんな人間でも行うだろうことを、そのまま実行するだけだ。私は熟練した肉屋のように、円滑に、機敏に、鋭いメスで腿(もも)の周りに帯状の跡をつける。皮膚は開いて行く。一滴の血も流さず。『血管から血が出てきたらどうしよう』と、私は考える。ぞっとして、血止めのピンセットの山に手を触れる。女の子の腿の肉を切り割いて行く。そして血管の一つを・・・管は白い色で、一滴も血は流れない。血止めのピンセットでそれを挟み、次に進む。血管があると思われるところには、所構わず血止めのピンセットを挟んで行く。『何脈だったか・・・血管の名前は・・・ああ、糞っ!・・・ああ・・・』手術の光景はだんだんと本物らしく見えてくる。血止めのピンセットが房になってぶら下がっている。助手達がそれらを肉と一緒に上に持上げる。私はピカピカ光る、目の細かい鋸(のこぎり)で、太い、丸い骨を切って行く。『どうしてまだ死なないんだ・・・驚くべきことだ・・・人間て、何てしぶといんだ。』
 骨が切取られる。ヂェミヤーン・ルーキッチの両手に、さっきまでは女の子の足であったもの、が残る。肉と骨の残骸! これら全てが取りのけられ、手術台の上には、以前の三分の一に見える女の子の身体が、切断された足の付け根の傍に、横わっている。『もうあと少し、あと少しだ・・・死なないでくれ、病棟に行き着くまで、それまで何とか。私の人生の、この酷い出来事から、何とか私を無事に救い出して・・・頼む』と、霊感に打たれたように、私は考える。
 それから私は、結紮糸(けっさついと)を取り、膝をガクガクさせながら、皮膚を縫い始める。酷く荒い縫い目だ。終に近づき、ハッと思いつく。中止する・・・出口を作っておかなければ・・・少し開けたままにし、そこにガーゼをつめておく・・・汗で目が見えない。まるで風呂の中にいるようだ・・・
 大きく息をつく。足の、切断された付け根。女の子の鑞(ろう)のような冷たい顔を見るのは辛い。私は訊ねる。
 「生きてるか。」
 「はい、生きています。」助手とアーンナ・ニカラーイェヴナが同時に、そしてすぐに、木霊(こだま)のように答える。しかしその声は、聞えないほど小さい。
 「もうあと数分はきっと持ちます。」私の耳に、殆ど声にならない唇の動きで、ヂェミヤーン・ルーキッチが囁く。そして、内緒事のように忠告してくれる。「右足は放っておきましょう、先生。包帯だけしておいて。そうでもしないと、病棟まで持ちませんよ。手術室で亡くなるという事態だけは避けた方が・・・」
 「石膏を」と、何か私には分らない力に押されて、掠(かす)れた声で私は答える。
 床一面に石膏の白い斑点(はんてん)がついている。我々は全員、汗だくだ。半死人は全く動かず横わっている。右足はギプスで固められている。そして、その脛(すね)に、開いた窓から丁度風があたっている。手術中、ふと霊感を受けたように、私が窓を開けたのだ。
 「生きている・・・」と、驚いた、嗄れた声で、ヂェミヤーン・ルーキッチが言う。
 それから皆で、女の子をベッドから持上げる。ベッドの上には大きな残骸が見える。我々は彼女の三分の一を手術室に残して行く。
 病棟へ続く廊下に人影が進む。付添い看護婦がそそくさと、行ったり来たりする。髪をもじゃもじゃにした男の姿が壁に現れ、そこから呻(うめ)き声が発せられる。しかしそれも遠ざけられる。そして静かになる。
 手術室で私は、両肘の上まで血だらけになった手を洗う。
「先生、先生は今まで、もう切断手術を何度も経験なさったのですね?」と、突然アーンナ・ニカラーイェヴナが訊く。「本当に・・・本当にお上手ですわ・・・前任の先生にも負けないぐらい・・・」
 「前任の先生」という言葉は、まるで「医学部長」という言葉を発する時のような尊敬が籠っている。
 私は眉をひそめ、胡散(うさん)臭そうにアーンナ・ニカラーイェヴナを見る。そしてその他の顔を・・・ヂェミヤーン・ルーキッチとピェラゲーヤ・イヴァーノヴナの・・・三人ともその目に畏怖の色がある。
 「ウム・・・私は・・・今までにたった二度だけだ・・・」
 何故私は嘘をついたのか、今でもよく分らない。
 病院は静かになる。全くの静寂。
 「死んだ時には、必ず誰かに言って私を起すように」と、私は助手に囁き声で命じる。ヂェミヤーン・ルーキッチは、どういう訳か『分りました』と言う代りに、尊敬を込めて言う、
 「畏まりました。」
 それから四五分後に、私は自分の住処(すみか)の書斎の、緑色のランプの下に坐っている。家中、何の物音もしない。
 青白い顔が真暗な窓ガラスに映っている。
 『いや、僕はドミートリー僭称王とは違うぞ。それから、見てみろ。僕は少し年をとった・・・眉と眉の間に皺(しわ)が出来ている・・・ああ、もう少しで扉がノックされる・・・「死にました」と言うんだ・・・』
 『うん、そうしたら仕方がない。最後にひと目、見に行こう・・・ああ、ノックが・・・もうすぐ・・・』

 扉にノックがある。あれから二箇月半経った時のことだ。窓には明るい冬の初めの太陽が輝いている。
 彼が入って来る。私はこの時初めて彼の顔を見る。うん、確かに輪郭のはっきりしたいい顔だ。年は四十五、六だろう。目が輝いている。
 それから、布のサラサラいう音がする。松葉杖をついて、赤い縁取りの裾のついた、幅広のスカートをはいた、片足の女性・・・恐ろしいほどの美人・・・が入って来る。
 彼女は私にお辞儀をする。その両頬が薔薇色に染まる。
 「ああ、モスクワに・・・モスクワに・・・今、住所を書いて上げます。人口器官・・・義手、義足など・・・を作るところがあります・・・」
 「手にキスをして」と、突然、思いもかけず、父親が言う。
 私はあまりに狼狽して、唇の代りに、女の子の鼻にキスをする。
 それから彼女は、松葉杖に縋(すが)りながら、何か布の巻いた物を拡げる。パラリと広がって落ちる。長い、雪のように白い、あどけない真っ赤な雄鶏の刺繍がしてある手拭(てぬぐい)の端が床に触る。ああ、検診に回った時、枕の下にいつも隠していたのはこれだったのか。そういえば、机の上には赤い糸が置いてあったな。
 「戴くわけには行きません」と、厳しく私は言う。そして首を横に振る。しかし、その時の彼女のあの顔、あの目・・・それで私は、受取る。
 何年もの間その手拭は、ムリョーヴォの私の寝室に掛かっており、そして後には、旅行の時にも私と一緒に行った。しかし、とうとう擦り切れて薄くなり、穴が開き、最後には無くなってしまった。丁度記憶が擦り切れて無くなって行くように。

   鉄ののど笛
 このようにして私は、ここに一人残る。私の周りには十一月の暗い闇・・・ぐるぐる回っている雪、雪に閉じ込められた家、吠える煙突。私の今までの生涯、二十四年間、は、大きな都市で過ぎたのだ。だから私は、吹雪は小説の中だけで吠えるのだと思っていた。どうやら実生活でも吹雪は吠えるらしい。ここでは夜は異様に長い。青い笠のランプが暗い窓に映(うつ)され、私の左手に光っている。その影を眺めながらぼんやりと考える。ここから四十キロ離れた町のことを。なんとかして私は、この場所からそこへ移りたい。あそこには電気がある。医者が四人いる。困った時には相談出来る。とにかくここにいるよりはずっと安心だ。しかしここを逃げ出すことは不可能だ。そう、時々は私にも分る。それは卑怯なことなのだ、と。こういうことをやる為に、私は医学部で勉強してきたのではないか・・・
 『・・・しかし、もしここに女性が運ばれて来たら。それで奇妙な病気だったら・・・いや、彼女がもし強度のヘルニアだったら・・・僕はどうしたらいいんだ。誰か、お願いだ。教えてくれ。
 今から四十八日前に、僕は優等生の賞状つきで医学部を卒業した。しかし優等は優等、ヘルニアはヘルニア、話は別だ。一度だけ僕は教授が強度のヘルニアの手術をしたのを見た。半円の階段教室で見たのだ。ただ、僕がどうしてそれを・・・』
 ヘルニアのことを想像して、私は何度背筋に冷たい汗を流したことか。毎晩私は、お茶を飲みながら、左手に助産婦学の手術便覧を取っ替え引っ替え、そしてその上に、「ドーデルライン」の縮小版を置いて、坐った。坐る姿勢も全く同じ。そして、右側には、絵付きの外科手術の本十冊を並べて。私は呻(うめ)き、煙草を吸い、濃い紅茶を、ブラックのまま飲んだ。
 それから私は眠る。・・・十一月二十九日のことだ。この日の夜はよく覚えている。私は扉が、割れるように叩かれる音で目を醒す。五分後私は、祈るような目で、神聖な外科手術の本を眺めながら、ズボンを穿いている。中庭に、橇(そり)の滑って来る音が聞える。私の耳は異様に鋭くなっている。ヘルニアより、逆子(さかご)より恐ろしいことが出来(しゅったい)する。私のところへ、よりによってこのムリョーヴォの病院へ、夜の十一時に、女の子を送り込んできたのだ。看護婦が低い声で私に言う。
 「女の子です。弱っています。死にかけて・・・どうか先生、病院まで・・・」
 私は中庭を横切ったのを覚えている。灯油ランプで照らされた病院の玄関を通り抜ける。そのランプがどんな具合に点滅していたかを、魔法にかけられたように眺めたことを覚えている。診察室は既に灯がつけられ、助手達は全員白い上っ張りを着て私を待っている。助手達、即ち、まだ若いが非常に有能な男、助手のヂェミヤーン・ルーキッチ、それに二人の助産婦、ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナとアーンナ・ニカラーイェヴナ、この三人だ。私といえば、弱冠二十四歳の医者、二箇月前に大学を卒業し、このムリョーヴォの病院一切の管理を任された男。
 助手が厳(おごそ)かに扉を開ける。と、母親がいる。母親はフェルトの防寒長靴を床の上に滑らせるように、部屋に飛び込んで来る。肩にかけたショールに雪がまだ融けていない。彼女の手には、何かを巻いた包があり、その包が規則正しくヒーッヒーッと音を立てている。母親の顔は歪み、声もなく泣いている。毛皮の外套とショールを脱ぎ、その巻いた包を解(ほど)くと、そこに三歳ぐらいだろう、女の子が見える。その顔を見たとたん、私は一瞬、外科手術のこと、私の孤独、下らない、大学で詰め込んだ、有象無象をすっかり忘れる。何もかも・・・その女の子の美しさに見とれて。この顔を何に例えたらよいのか。お菓子の箱に時々、このような顔が描かれている・・・お菓子の箱にしかない・・・髪は自然に、しっかりと巻かれ、熟したライ麦の色をしている。目は大きくて青く、頬は人形のようだ。そうだ、天使もこのように描かれる。ただ、その目の奥に、奇妙なおりが巣くっている。それは怖れだ、きっと・・・どうしても息が出来ないからだ。『一時間後には死ぬな』と、私は確信する。そして私の胸は締めつけられ、痛む。
 息をする度に女の子の喉(のど)は奥に入り込み、血管が膨らみ、顔の色が薔薇色から少しづつ紫色になって行く。その、色の変化を私はすぐに理解し、意味するところを知る。そう、私には即座に女の子に起ったことが分り、正しく病名が浮ぶ。しかし大切なことは、私と全く同時に二人の助産婦にも・・・彼女らは二人とも経験豊かなのだ。『この子はジフテリアだ。喉は既に膜で覆われ、もうすぐすっかり塞がってしまう・・・』
 「何日です、病気にかかってから」と、私は助手達の緊張した沈黙を破って、訊ねる。
 「今日で五日目です」と母親は言い、乾いた目でじっと私を見つめる。
 「ジフテリアなのに」と、私は歯を食いしばってヂェミヤーン・ルーキッチに言い、次に母親に言う。「何を考えてこんなになるまで・・・何を考えて・・・」
 丁度その時、哀れっぽい声が私の背後から聞えて来る。
 「五日目です、先生。五日目なんです。」
 私は振返り、音もなく入って来た年寄りの女を見る。丸顔でショールをしている。『あーあ、こんな婆さん、世の中に一人もいなきゃ、どんなにいいか』と、私は危険を予感して気が滅入り、心の中で呟く。
 「おばあさん、あなたは黙っていて下さい。邪魔になります」と、私は言い、母親にもう一度言う、「何を考えていたんです、五日も。ええっ?」
 母親は突然、機械的な動きで祖母に子供を渡し、私の前に膝まづく。
 「お願いです、お薬を。どうか。」そして床に額をぶっつけ始める。「もしこの子が死ぬようなことがあれば、私も死にます。」
 「起きるんです、すぐに」と、私は答える。「さもないと私は、もうひと言も口をききませんよ。」
 母親はスカートをサラサラいわせ、即座に立上がる。祖母から子供を受取り、子供をあやし始める。祖母は窓枠に縋(すが)ってお祈りを始める。子供は相変らず、例の、蛇のようなヒューヒューという音を出している。ヂェミヤーン・ルーキッチが言う。
 「いつでもあれだ。民衆ってやつは、いつでも」と、母親をキッと見る。そして私を見て言う。その目に憎悪が籠っているのを私は見てとる。
 「死にます」と、低い声で、しかしキッパリと、私は言う。
 祖母はパッとスカートの裾をつまみ上げ、それで涙を拭き始める。母親は厭らしい声で叫ぶ。
 「どうかこの子を助けて。何か薬を。薬を・・・」
 この母親から期待されているものが何であるかは、はっきりと私に分る。しかし私はしっかりと言う。
 「今更どんな薬を出せと言うんです。ええっ? どんな薬をです。この子はもう息が出来ないでいます。喉が詰ったんです。五日間もこの子が苦しむのをほったらかしにいていて、私の手のつけようがないようにしておいて、そのあげく私に一体何をしろと言うんです。」
 「それは先生、先生の方がよくご存知の筈でしょう?」と、私の右肩の方から、厭らしい作り声で祖母が泣き言を言う。私はすぐにこの女が嫌いになる。
 「黙りなさい」と、私は祖母に言う。そして助手の方を向き、子供をこちらに連れて来るよう命じる。母親は助産婦に女の子を渡す。女の子はもがき、どうやら泣き叫ぼうとしているらしい。しかしもう、声は出ない。母親が女の子を取返そうとする。が、我々は彼女を押退(おしの)ける。やっとのことで私は、女の子の喉に稲妻型のランプの光線を当てることが出来る。私は今までジフテリアは、ほんの軽いものか、すぐ忘れてしまうような程度のものしか、見たことがなかった。今見ているこの喉は、煮えたぎっている。ぼろぼろになった白い滓(かす)がいっぱいに喉を塞いでいる。突然女の子は吐き、私にその白いものをぶち当てる。しかし私はどういうわけか・・・きっと自分の考えに浸り切っていたせいだろう・・・全く怯(ひる)まない。
 「そう、こういうことか」と、私は言う。言ったとたん、自分のその落着いた声に、我ながら驚く。「もう手遅れだ。この子は死ぬ。助ける手段は何もない・・・ただ一つ、あるのは手術だけだ。」
 そして私は恐怖に襲われる。何故こんなことを言ったのか。しかし言わないわけには行かなかった。『親達が承諾したらどうする。』心の中でこの言葉がチカチカ光る。
 「手術って、何です」と、母親が訊く。
 「喉を下まで切り開いて、銀の管をとりつけるのです。娘さんに息が出来るように。そうすれば助かるかもしれません」と、私は説明する。
 母親は私を、まるで気違いを見るような目つきで見、両手で娘を私から隠す。祖母は再びブツブツ言う。
 「何てことを! 切らせたりするもんですか。全く、喉を切るなどと・・・」
 「おばあさん、あなた、出て行って下さい」と、嫌悪をこめて私は言う。そして助手に命じる。「カンフルを打って。」
 母親は注射器を見ると娘をこちらに渡さない。我々は、これは怖いことではないと彼女に説明する。
 「それをすると娘は助かるんですか?」と、母親は訊く。
 「いいえ、助かりません。」
 すると母親は泣き出す。
 「泣くのは止めて下さい」と、私は言う。そして懐中時計をとり出し、つけ加える。「五分間の猶予を与えます。五分経って同意がなければ、私はもう、手術はしません。」
 「同意などしません!」と、激しく母親が言う。
 「するもんですか、同意など」と、祖母が母親の言葉を重ねて、言う。
「それはそっちの勝手だが・・・」と、私はブツブツと口ごもり、そして心の中で思う、「やれやれ、これで終った。これで肩の荷が降りた。私は言うだけのことは言った。提案したんだ。二人の助産婦の、あのびっくりした顔。しかしとにかく、相手は拒否した。僕はこれで、助かったんだ』と考えたとたん、私でない誰かが、私の代りに私のではない声で、言っている。
 「何ですって? 頭がおかしくなったんですか? あなた方は『同意しない』ということの意味が分っているのですか? 娘さんは死ぬのですよ。さ、同意するんです。子供が可哀相だと思わないんですか?」
 「同意しません」と、再び母親が叫ぶ。
 私は思う、『僕は何をやろうとしているんだ。女の子を殺すことになるぞ!』しかし喋っている言葉は違った。
 「さ、早く! 早く同意するんです。今すぐ。見て御覧なさい、爪を。色が変ってきています。」
 「いいえ、いいえ!」
 「よし、では仕方がない。三人とも病棟に。しばらくあっちで。」
 助手達が三人を、暗くなった廊下に導く。二人の女性の泣声、それに女の子のヒーヒー言う音が聞えて来る。ヂェミヤーン・ルーキッチが、たちまち戻って来て言う。
 「同意しました!」
 身体全身が石になったかのようだった。しかし私ははっきりと言う。
 「すぐ消毒して下さい。メス、鋏、ピンセット、探針を。」
 二三分経つ。私は中庭を横切って走っている。吹雪が、気が狂ったように、私の顔、手足に吹きつける。自分の部屋に走り込み、分を数えながら本を掴む。頁をめくる。気管切開の図を見つける。実に簡単なものだ。喉が切り開かれ、メスが気管に突き刺されている。私は教科書を読み始める。何も分らない。文字がチカチカと目の前で踊っている。気管切開は、私は今までに一度も見たことがないのだ。『ああ、こんな時間だ。もう遅い』と、私は考える。憂鬱な気持で電灯の緑色の光、手術の絵、を眺める。私の両肩に、ずしりと重い、何かとても恐ろしい物が落ちて来たようだった。私は病院に戻る。吹雪は続いていた筈だが、何も覚えていない。
 控室まで来るや、丸いスカートが私の足元に纏(まと)いつく。そして不平を並べたてる。
 「先生、一体これはどういう話です。あの子の喉を切り割くですって? そんな馬鹿なこと、どうして出来ます。あの母親はどうかしているんです。同意するったって、私は決して同意などしませんからね。薬で治すのなら、それは構いません。でも、喉を切るなんて、そんなこと、決して。」
 「おばあさんをどこかへ連れて行くんだ!」と、私はカッとなって叫ぶ。そして、「馬鹿なのはあなたの方です。いいですか! あの母親の方がずっと賢明なんです。あなたの言うことなど誰が聞きますか。おい! 早くこの人を連れて行くんだ!」
 助産婦がしっかりと祖母を捕まえ、部屋から連れ出す。
 「用意、完了しました!」と突然助手が言う。
 我々は小さな手術室に入る。眩(まぶ)しいランプの光、防水布、ピカピカに磨かれた手術用器具。私はそれらを、何かの膜を通してみているような気分だ。母親のところへ・・・これが最後だ・・・行く。子供をやっとのことで母親から引き剥がす。かすれ声で彼女は言う。「夫は留守。町へ行っています。帰って来て、私のしたことを知ったら・・・私は殺される!」
 「殺されるよ」と、祖母も言う。そして恐ろしそうに私の顔を見る。
 「手術室に入室厳禁だ、いいな」と、私は命じる。
 手術室には我々・・・私と助手達、それに女の子、リートゥカ・・・だけとなる。リートゥカは裸にされて手術台の上に坐り、声も出ず泣いている。それを仰向けに寝かせ、頭を押しつけ、喉を洗い、ヨードチンキを塗る。私はメスを執る。その時私は考える、『俺は一体、何をやっているんだ。』手術室の中はシーンとしている。私はメスを握り、喉に直角にメスを当て、むくんだ白い部分の、膨らんだところに沿って、メスを滑らせて行く。一滴も血は出ない。メスを上げ、今度は、切られた皮膚の間の白い縞になった部分に沿ってメスを滑らせる。再び一滴も血は出ない。ゆっくりと、図鑑に出ていた何かの絵を思い出しながら、鈍い探針で非常に薄い繊維を引き分ける。と、その裂けた穴の下から、黒い血がどっと流れ出て来る。裂け目はすぐに血でいっぱいになり、首に流れ落ちる。助手はガーゼで拭き始めるが、血は止らない。私は大学で見たことを思い出し、ピンセットで傷の端を挟む。しかし血は相変らず止らない。私はぞっとする。額が冷汗(ひやあせ)で湿ってくる。後悔する。何故医学部などに入ったんだ。何故こんな僻地に送りこまれたのだ。狼狽(うろた)えて私は、ピンセットを当てずっぽうに傷の近い辺りに突っ込み、挟む。突然血の流出が止る。助手と二人でガーゼの塊を傷にあて、血を含ませては出す。さて、綺麗になった喉をじっと見る。しかし何が何だか全く分らない。気管がどこを見てもないのだ。いや、気管だけではない、図鑑にあったどの絵とも、この喉は違う。二分・・・あるいは三分だったろうか、私は全く機械的に、気管を捜して支離滅裂に、切り裂いた穴を、メスで、あるいは探針で、ほじくる。きっちり二分が過ぎる。私は絶望する。気管は見つからない。『終だ』と、私は考える。『何故僕はこんなことを始めたんだ。こんな手術を申出るなんて! 何て馬鹿な。止めておきさえすれば、リートゥカは病棟で安らかに死ねたんだ! こんなことを申出たばっかりに、喉を切り開かれて、彼女は死なねばならない。そしてこの僕は、どうせ彼女は助からなかった。僕の手術で余計悪くなったわけではない、とは証明できないのだ・・・』助産婦が黙って私の額を拭いてくれる。『メスを置け。そして言うんだ、どうやったらいいか、もう分らない、と。』こう考えた時、あの母親の目が私の前に現れる。私は再びメスを取上げ、リートゥカに、深く、鋭く、帯状の痕(あと)をつける。繊維が切り開かれ、思いがけず私の前に気管が現れる。
 「フックを」と、かすれ声で私は怒鳴る。
 助手がフックを私に手渡す。一つのフックで片側を突き刺し、もう一つのフックでもう片側を。そして一つの方を助手に持たせる。今はもう、たった一つのことしか私の目には入っていない。喉の、灰色の、小さな輪だ。私は鋭いメスを取り、そこに差し込もうとする・・・と、呆然とする。輪が浮き上がっているのだ。一瞬私は、助手が気が狂ったのかと思う。こともあろうに、突然彼は、その部分を毟(むし)り取るようにフックを上に上げたのだ。私の背後で二人の助産婦が「アッ」と、声を上げる。私は目を上げ、事態を理解する。部屋の蒸し暑さのため、ヂェミヤーン・ルーキッチは気を失って倒れたのだ。その時フックを手から放さなかったため、気管を破ったのだ。『ああ、俺はついてない』と、私は思う。『どうやら我々はリートゥカを殺してしまった』そして厳かに自分に胸に言う。『自分の部屋に帰って、ピストルで自殺だ。』その時、年とった方の助産婦・・・明らかに非常に経験豊かな・・・が、助手の方に突進し、彼からフックを奪い取る。それから、歯を食いしばって私に言う。
 「先生、続きを。」
 ヂェミヤーン・ルーキッチは椅子から落ち、床に横(よこた)わる。しかし、我々は彼のことを見向きもしない。私はメスを喉に差し込み、銀製のパイプをそこに入れる。パイプはすらりと入ってくれる。しかしリートゥカはピクリとも動かない。気管から空気が入って行かないのだ。どうしたらいい。私は大きく息をし、動かなくなる。万事休すだ。誰かに謝罪をしたくなる。軽率にも医学部に入学してしまったことをだ。沈黙が続く。リートゥカの顔色がどんどん青くなって行くのが見える。何もかも放り投げ、ワッと泣き出したくなる。その時、銀の気管を通って、汚い血の塊と空気が、ビューッという音とともに喉から噴水のように吹上げられる。それから彼女は息をし始め、唸り声を出し始める。この瞬間、ヂェミヤーン・ルーキッチは目をさまし、青白い、汗だらけの顔で立上がり、恐怖の表情でリートゥカの喉を見る。そして慌てて、私が縫っているのを手伝う。
 夢うつつで、目には汗が入り、ぼんやりとしか見えないまま、私は二人の助産婦のほっとした顔を見つめる。助産婦の一人が言う。
 「先生、目の覚めるようなお手際でしたわ、手術。」
 『私をからかうのか』と、私はムッツリし、眉を顰(ひそ)めて彼女を見る。その時扉が開き、涼しい風が入ってくる。人が入って来て、リートゥカをシーツにくるみ、運び出す。そこにすかさず母親が現れる。その目は野獣の目のように光っている。私に訊く。
 「どうだったんです。」
 その声を聞いて私の背中にぞっと冷たい汗が滲(し)み出る。この瞬間初めて私は、もし手術台でリートゥカが死んでいたらどうなっていたかを実感する。しかし母親への私の声は静かだった。
 「どうぞ御安心下さい。生きています。そしてきっとこれからも死にません。ただ気管にパイプが入っている間は、喋ることが出来ません。当分喋れないのを御心配なさらないように。」
 そこへ、どこからともなく祖母が現れる。そして十字を切る。扉の把手にも、私にも、そして天井にも。しかし私はもうこの女に腹が立たない。私は助手達の方に振返り、リートゥカにカンフル注射を打つよう、そして交替で彼女につき添うよう命じる。そして中庭を通り、自分の住処(すみか)に戻る。私の部屋には緑色の灯(あかり)が灯っており、ドーデルラインの教科書が机の上に置かれ、その他色々な本があたり一面に散らばっている。私は服を着たままソファに近づき、そこに倒れ伏し、それから何も見えなくなる。夢も見ずぐっすり眠る。
 ひと月経つ。ふた月経つ。その間私はかなりの経験を積む。その中には、リートゥカの喉より恐ろしかったものもある。リートゥカの喉も忘れてしまう。あたりは雪。外来の患者は日に日に増加する。そして、新しい年が来た時、受付に女性がやって来る。女性は小さな樽のように厚く服を着せた女の子の手を引いている。女性の目は輝いている。私はじっと見る。そしてそれが誰か分る。
 「ああ、リートゥカ! どう? 具合は。」
 「ええ、大変いいです。」(母親が代りに答える。)
 母親はリートゥカの喉に巻いてあるものを取る。リートゥカは恥づかしがり、心配して、なかなか喉を見させない。が、やっとのこと私は、彼女の顎を上げ、覗くことに成功する。薔薇色の首には褐色の縦縞の痕(あと)があり、それを横切って二本、細い縫い目の跡がついている。
 「順調です、これは」と、私は言う。「もうここに来なくてもいいですよ。」
 「有難うございます、先生。本当に」と、母親は言い、リートゥカに命じる。
 「先生にお礼を言いなさい!」
 しかしリートゥカは私に何も言いたくなかったようだ。これがリートゥカを見た最後となった。私は彼女のことを忘れ始める。私の外来患者は増える一方だった。ついにある日、その数が百十を越える。我々は、朝九時から治療を開始し、夜八時に終えた。私は疲労でよろめきながら、上っ張りを脱ぐ。年寄りの看護婦が私に言う。
 「この、患者増加は、咽喉切開のお陰なんですよ。あの手術が、ここらあたりの村全体の評判になっているのをご存知ですか? 先生はリートゥカに、自分の喉の代りに鉄の喉をつけて、それを縫いつけたって。わざわざよその村からリートゥカを見るために、あの村に馬車で来るんです。有名になられたんですよ、先生は。おめでとうございます。」
 「すると、今でも鉄の喉で生きていると、みんな思っているのかな」と、私は尋ねる。
 「ええ、そう思っているようですわ。でもとにかく先生、先生はお偉いわ! 本当に冷静そのもので手術をおやりになるんですもの。それに、その手際といったら、たいしたものですわ。」
 「うん、まあね。私は手術の時、全く心配なんかしないからな。」何故こんなとんでもない事を言うのか、自分でも分らないまま、そして恥かしさを感じる余裕もなく疲れ・・・ただ目だけは誤摩化しのためあらぬ方を眺め・・・答える。そして「お休み」を言い、自分の住処(すみか)に戻る。外はシンシンと雪が降っている。あたりは静寂。外灯がついている。私の家は静かに、孤独に、そして重々しく見える。私は家に入る。したいことは唯一つ・・・眠ることだ。

   逆立ちの洗礼
 ムリョーヴォ病院での日々が過ぎて行き、私は少しづつ生活に馴れてくる。
 村々では、冬はいつもそうだが、麻を打っている。道路は通行不能。私の外来患者は日に五人を越えることはない。夜は全く自由だ。私は図書室をあさり、外科の教科書を取出してきては、シューシュー音を出しているサモワールの傍でそれを読む。
 昼となく夜となく雨が降り続く。屋根に水滴の落ちる音、窓に打ちつけてくる水、それが樋(とい)、天水桶(おけ)へと流れて行く。中庭はぬかるみになり、霧が立ちこめ、暗い。その暗闇を通して、助手の家の窓の灯と、病院の門の石油ランプがぼんやりくすんで斑点のように見える。
 このような日が続いていたある晩、私は書斎で椅子に坐り、局所解剖学の図鑑を調べていた。あたりは森閑と物音一つなく、ただ時々、食堂で鼠が食器棚のうしろでガタゴト喧嘩をし、静けさを破るだけだった。
 私は調べを続けていたが、瞼(まぶた)が次第に重くなり、くっつきそうになってきた。ついに私はあくびをし、図鑑を傍(かたわ)らに置き、眠ることに決める。伸びをし、雨の音を聞きながら眠る楽しみを思い描きながら寝室に行き、寝間着に着替え、横になる。
 頭を枕にあて、うとうととしかけると、眠い私の目の前にアーンナ・プラフハローヴァの顔が現れる。アーンナは十七歳。タラポーヴァ村から歯を抜きにやって来たのだ。私の眠い目にヂェミヤーン・ルーキッチの姿が音もなく現れる。両手に抜歯用のペンチを握っている。そうだ、デェミヤーン・ルーキッチは、「このように」という代りに、「かくのごとくして」と言う癖がある。重みのある表現の方が良いと思っているので。私は微笑む。そして眠りに落ちる。
 ところが三十分と経たないうちに、私は突然目を醒す。誰かが私の耳を急に引っ張ったように感じて、私は半身を起し、あぐらをかく。暗闇を不思議な気持で見渡す。そして耳をすます。
 誰かが外の玄関をドンドンと大きく、執拗に叩いている。私にはその音が、悪い前兆であるとすぐにピンとくる。
 それから今度は、私の住処の扉へのノックだ。
 扉を叩く音は止み、閂(かんぬき)を開けるガチャガチャという音。料理女の声が聞え、それに答えて何か聞き取れない返事。それから誰か階段をきしませながら上って来る。静かに書斎を通り過ぎ、寝室の扉を叩く。
 「誰?」
 「私です。」礼儀正しい囁き声が返る。「アクスィーニヤ、付添看護婦です。」
 「どうした。」
 「アーンナ・ニカラーイェヴナからのことづてです。どうか病院まで。すぐに、と。」
 「で、どうしたんだ」と、私は訊く。そしてはっきりと自分の心臓の鼓動が聞える。
 「ドゥーリツェヴォ村から、女の人が運ばれて来たんです。分娩がうまくゆかないと。」
 『そーら来たぞ。始まったか!』頭の中でチカチカっとこの言葉が閃(ひらめ)く。スリッパを引っ掛けようとするが、どうもうまく行かない。『糞っ! マッチまでうまくついてくれないぞ。エーイ、遅かれ早かれこれは起らなきゃならなかったんだ。喉頭炎、胃カタル、そんな易しい病気だけ来て一生を終えるわけには行かないんだ。』
 「分った。すぐ行くと言ってくれ。」ベッドから立上がりながら私は怒鳴る。パタパタというアクスィーニヤの足音が扉の外へ遠ざかる。閂(かんぬき)が閉まる。一瞬のうちに眠気が醒める。急いで、震える指でランプに火をつけ、服を着る。十一時半・・・難産というこの婦人、一体どこがどうなっているんだ。うん・・・赤ん坊の位置が悪いか・・・骨盤が狭いのか・・・いや、何かもっと酷いことなのか。ひょっとすると鉗子(かんし)を使わなきゃならなくなるか。いっそのことすぐに町へ転送するか。いや、それは無理だ。『やれやれ、何て素晴しいお医者様だ』と言われるのが落ちだ。とにかくそんなことをする権利は私にはない。どうしても自分でやらなければ。しかし、何がこの私に出来る。神のみぞ知るだ。落着きを失うと失敗する。助産婦の前で恥をかくことになるぞ。いやいや、先に心配して何になる。まづはよく見てみることだ。
 私は服を着る。外套を引っ掛ける。そして全てが上首尾に終るよう祈りながら、雨の中を、水が溢れてピチャピチャ音をたてている溝をまたぎ、小走りに病院へと向う。病院の玄関のところに、薄暗がりの中で、馬車がとめてある。馬が腐った板を蹄(ひづめ)で叩いている。
 「おい、君、妊婦を運んで来たのか?」と馬の傍で何かしている人影に、私は訊く。
 「ええ・・・奥さんを、私達が・・・」と、悲しそうな女の声が返って来る。
 病院では、普通なら寝静まっているこの時刻に、忙(せわ)しない、緊張した動きがある。手術室は、稲妻型ランプが灯り、チカチカ光っている。分娩室に通じる廊下で、アクスィーニヤが洗面器を持って、私の傍を通り過ぎる。扉の内側からか細いうめき声が聞えてき、そしてまた聞えなくなる。私は扉を開け、分娩室に入る。あまり大きくない、白く塗ったその部屋は、天井にかかっているランプで明るく照らされている。手術台の隣のベッドの上で、若い女性が顎まで毛布を被って横たわっている。痛みで顔は歪み、汗で濡れた髪の毛が額にべっとりとくっついている。アーンナ・ニカラーイェヴナは手に体温計を持って、目盛のついたジャグに溶液を準備している。二番目の助産婦ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナは、戸棚から清潔なシーツを出そうとしている。助手はナポレオンのポーズをとって壁に寄りかかって立っている。私を見るや、三人ともパッと動作が機敏になる。妊婦は目を開け、両手を揉み、再びあわれな苦しいうめき声を出す。
 「うん、どうしたんだ?」と、私は訊く。そのとたん、自分の声の調子に驚く。それほど自信に満ちた、静かな調子だったのだ。
 「逆子(さかご)です」と、溶液に水を注ぎ入れる手は休めず、すぐにアーンナ・ニカラーイェヴナが答える。
 「そう・・・か」と、私は言葉を引き延ばし、顔を顰める。「うん、まづ見てみよう。」
 「アクスィーニヤ、先生の手を洗って。」アーンナ・ニカラーイェヴナがすぐに大声で言う。顔は厳粛で真剣だ。
 ブラシで擦(こす)られて赤くなった手から泡を、流れる水で落しながら、私はアーンナ・ニカラーイェヴナに意味のない質問をする。例えば、いつ妊婦がここに運ばれたか、彼女はどこから来たのか、等々。ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナの手で毛布が剥がされる。私はベッドの端に坐り、静かに妊婦の膨(ふく)れた腹を触り始める。妊婦は唸り、身体を延し、指をシーツに絡ませ、くしゃくしゃにする。
 「ほーら・・・ほーら・・・我慢して」と、私は言う。そして突っ張った、熱のある、乾いた皮膚に、用心深く手を置く。
 正直な話、実は老練なアーンナ・ニカラーイェヴナが既に、問題の所在を明らかにしてくれている。今私が、妊婦の腹に触る必要など全くない。調べなど不要なのだ。私がいくら調べてみたところで、アーンナ・ニカラーイェヴナ以上のことが分る筈がないのだから。彼女の診断は勿論正しかった。逆子(さかご)だ。逆子そのものだ。さて、それからどうする・・・
 顔を顰めながら私は、あらゆる角度から腹を触り続ける。そして横目でチラチラと二人の助産婦の顔色を窺う。二つの顔は両方とも、緊張した真剣なものだ。その目には、私の行動への賛成の意が籠っている。私の動きは正確で、自信に満ちたものだった・・・ろうが、不安を押隠し、外に現れないようにしようという私の努力も大変なものだった。
 「よし」と、私は言い、ベッドから立上がる。外部からの観測はこれで終だ。「内部を調べてみよう。」
 アーンナ・ニカラーイェヴナの目に再び賛成の意が閃(ひらめ)く。
 「アクスィーニヤ!」
 再び水が流される。
 『ああ、ドーデルラインが読めればなあ』と、手を洗いながら、私は悲しく考える。残念、そんなことが今出来るわけがない。それに、今この瞬間ドーデルラインが何の役に立とう。私は濃い石鹸の泡を洗い流し、指にヨードチンキを塗る。ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナの手の下で、清潔なシーツがガサゴソ音をたてる。そして私は妊婦の上に屈み込み、用心深く、そしておづおづと、内部の調べを始める。我にもあらず、産科医実習の手術室での光景が浮んで来る。明るく輝いている電球、その光を受けて光っているタイルばりの床、水道の蛇口、器具類。雪のように白い上っ張りを着た助手が、妊婦を抱え、動かしている。その傍には三人の医局員、そして老練な医師。それを、学生及び監督官の集団が見守っている。安全だ。何の心配もいらない。
 ここで私は・・・全くの独りぼっち。私の目の前には、苦しみ喘(あえ)いでいる女性がい、その女性に対して私は責任があるのだ。しかしどうすれば助けになるのか、私は何も知らない。何故なら、産院で間近に出産を見たのは生涯でただ二度だけ。それも全く正常な出産だったのだ。今私は調べをやっている。しかしこれも、私には何の役にもたたない。ということは、妊婦にとっても全くの無駄なのだ。私は何も分っていず、そして内部の何を調べるべきか、それを知らないのだから。
 いや、もう何かを決める時だ。
 逆子・・・逆子であることははっきりしている。すると・・・すると、何をどうするのだ!
 「足を廻して取り出す。」アーンナ・ニカラーイェヴナが我慢しきれず、つい言葉が口から出てしまう。
 老練な古い医者なら、ぐっと横目で彼女を睨むところだ。出しゃばって、自分の判断を口に出すなど・・・しかし私は、怒りっぽい男ではない。
 「そう」と、私は意味深長に呟く。「足を廻して取り出す。」
 そして私の目の前に、ドーデルラインのあそこ・・・あそこ・・絵つきの解説、骨盤・・・大きな頭のため押えつけられ、曲った胎児・・・ぶら下がった手、それに臍の緒(お)が巻きついている・・・
 そんなに昔読んだわけではない。ちゃんと下線を引き、一つ一つの言葉をよく考えながら、身体の各部分の相互関係とその処置方法を想像しながら読んだのだ。そして読んでいる時には、全ての文章がきっちり頭に入ったと思っていたのに。
 それで、読み上げた全てのもののうちから、今頭に浮んでくるものと言ったら、『・・・逆子とは、実に有難くない胎児の位置である・・・』なのだ。
 いや全くこれは正しい。当の妊婦にとっても、医者にとっても、実に有難くない。特に大学をたった六箇月前に終えた医者にとっては。
 「さて、どうするか」と、私は立上がりながら言う。
 アーンナ・ニカラーイェヴナの顔に生気が戻る。
 「ヂェミヤーン・ルーキッチ」と、彼女は助手の方を振向き、言う。「クロロホルムの用意。」
 有難い、よく言ってくれた。私はまだはっきりしていなかったのだ、麻酔をかけて手術を行うのかどうか! いや、勿論、麻酔の状態で行うに決っている。他にどんな手があるというのだ!
 しかし何はともあれ、ドーデルラインをちらりとでも見なければ・・・
 そして私は手を洗い、言う。
 「よし、では・・・麻酔の用意を頼む。そして、妊婦は寝かせて。私はちょっと部屋に帰って煙草を取って来る。」
 「分りました、先生。それまでには用意しておきます」と、アーンナ・ニカラーイェヴナが答える。
 私は手を拭く。アーンナ・ニカラーイェヴナが私の肩に外套をかける。私は袖も通さず、走って家に帰る。
 書斎に入るや、私はランプをつけ、帽子を脱ぐのも忘れ、本棚に飛びつく。
 あった、ドーデルライン『産科手術便覧』だ。ドーデルラインの艶のある頁を、私は慌ただしくめくる。
 『・・・逆子の手術は、母親にとって、常に危険である』
 冷たいものがゾクゾクっと私の脊椎のあたりを這う。
 『・・・最も危険な点は、何かの拍子に、子宮が破裂する可能性があることである。』
 な・に・か・の・拍・子・に・・・』
 『手を子宮に入れる際、子宮の空間が充分にない、或は、子宮の壁の微小な影響で、胎児の足にまで手を入れられないことがある。その時には、直ちに逆子の手術は中止せねばならない・・・』
 分った。しかし万一私が、何かの奇跡でそういう不都合に気がつくとする。そして逆子の手術は中止せねばならないとする。それで私は一体、今ここで麻酔をかけられているドゥーリツェヴォ村から来たこの婦人を、どうすればいいというのだ。
 それに、
 『・・・胎児の足を掴もうとして、胎児の背中から手を伸ばすのは最も危険で、これはしてはならない・・・』
 「まとめ」のところに、また、
 『・・・胎児の足の上部(つまり腿(もも)の辺り)を掴むのも誤りである。何故なら、ここを掴み、廻すと、廻し過ぎの原因になり易く、その結果、胎児に最も悲しむべき結果を与えることになる・・・』
 『最も悲しむべき結果』。はっきりしない言い方だ。しかし何ていう不吉な! もしドゥーリツェヴォ村のあの婦人の夫が男やもめにでもなったら・・・私は額の汗を拭く。気を取り直す。こんな恐ろしい場所は早く通り過ぎて、最も肝腎なことだけを覚えておこう。即ち、どこにどのように手を入れなければならないか、を。しかし、黒い活字を目で追っていると、またもや新しい、怖い、事柄に出くわす。事柄の活字が、ページから飛び出て来て、こちらの目を打つ。
 『子宮破裂の重大な危険に際し・・・』
 『・・・内部又は混合方式は、母体が蒙る最も危険な方式に属し・・・』
 そして、とどめを刺すように、
 『・・・遅滞の一刻一刻が、危険の可能性を大きくし・・・』
 もういい! ドーデルラインを読むことで、私も一つの結論が得られた。即ち、私には全く何も分らない。頭の中はごちゃごちゃだ。そして何よりもかによりも、私が何をしたらよいか、内部方式なのか外部方式なのか、それとも混合方式なのかさっぱり分っていない、ということだ!
 私はドーデルラインは諦め、肘掛椅子にどっかと坐る。あちこちに散らばってしまったいろんな考えを整理しようと努力する・・・そして時計を見る。糞っ! この俺はもう家に二十分もいるぞ。あっちではこの私を待っている・・・
 『遅滞の一刻一刻が、危険の可能性を大きくして・・・』
 一時間は一分一分から成立っている。そしてその一分は、こういう場合、凶暴に過ぎて行く。私はドーデルラインを投げ捨て、病院へと走り戻る。
 病院では既に準備は整っている。助手は机の傍に立ち、麻酔用マスクをかけ、クロロホルムの壜を用意している。妊婦は手術台の上に横(よこたわ)っている。病院中に彼女の唸り声が響き渡っている。
 「我慢して、我慢して。」ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナが妊婦に屈み込んで優しく囁いている。「先生が今すぐ楽にして下さいますからね・・・」
 「ああー、もう駄目・・・もう・・・私、そんな力・・・ない!・・・私、もう我慢出来ない!」
 「もうすぐ・・・もうすぐよ」と、助産婦が囁く。「もうちょっとの辛抱。ね。今楽になる蒸気をあげる。それを吸いこめばすぐに・・・すぐに痛さを忘れますからね。」
 蛇口から勢いよく水が流れ出る。アーンナ・ニカラーイェヴナと私は、肘まで露(あらわ)にした手を、そこで綺麗に洗い流す。泣声、そして唸り声をバックに、アーンナ・ニカラーイェヴナは私に、私の前任者・・・老練な外科医・・・が、どのように逆子を扱ったかを話す。この十分間の話は、私に、産科医の国家試験のために私が読んだ全ての産科医術の教科書・・・私はこの試験で「優」を取ったのだが・・・よりも多くのことを教えてくれる。断片的な言葉、終まで行かない文章、話のついでに出てくるその時々のヒント・・・そういう彼女の話から、私は、どんな教科書にも書かれていない、最も重要な事柄を知ったのだ。そして、理想的な白さ、清潔さになった自分の腕を、消毒したガーゼで拭き取っている間に、私にはきっぱりした決意が漲(みなぎ)っていた。そして断固たる、非常にはっきりした手術方法が頭に浮んでいた。そこには、混合方式も、非混合方式もありはしない。そんな「方法」など私は、考える必要もなかった。
 そんな学者の使う言葉など、私にはこの瞬間、全く無意味だった。大事なことは唯一つ・・・片手を中に入れ、片手は外で回転を助ける。そして教科書には頼らず、普通の常識を頼りに・・・これなくしてどんな医者もやって行けるものではないが・・・用心深く、しかし粘り強く、まづ片方の足を引出し、それに続き、胎児全体を引出すのだ。
 私は落着いて、用心深く、しかし怖気づかず、不退転の決意をもってあたらねばならない。
 「じゃ、始める」と、私は助手に命じ、指にヨードチンキを塗る。
 すぐにピェラゲーヤ・イヴァーノヴナが妊婦の両手を胸に組ませる。助手は苦しそうな妊婦の顔にマスクをつける。濃い黄色のガラス壜からゆっくりとクロロホルムが滴(したた)り落ちる。甘い、吐気を催す蒸気が、部屋に充満する。助手と二人の助産婦の顔が、霊感にうたれたように厳しくなる。
 「ああ・・・ああ!」と、突然妊婦が叫ぶ。そして、暫くの間痙攣のような動きでもがく。マスクを剥がそうとする。
 「抑えて!」
 ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナが妊婦の両手を掴み、胸のところに押しつける。マスクを顔からどけようと、妊婦は暫くの間もがき、呻くが、次第に静かになり、深く息をして呟く。
 「ああ・・・離して・・・ああ!」
 それからだんだんと力が弱まる。白い手術室の中はシーンと静り返る。透き通ったクロロホルムの水滴が、白いガーゼの上に一滴、一滴と落ちて行く。
 「ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナ、脈は?」
 「正常です。」
 ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナが妊婦の片手を持ち上げ、手を放す。手は、生きてなく、物体・・・革紐・・・のようにシーツの上にバタリと落ちる。助手が、妊婦の口からマスクを外し、瞳孔を見る。
 「麻酔が効いています。」


 到るところ血だらけだ。私の手は両方とも肘まで血だ。シーツにも血の斑点。ガーゼが血に濡れて、大小の塊となって散らばっている。しかしピェラゲーヤ・イヴァーノヴナは既に赤ん坊を手にとって、軽く時々叩いている。アクスィーニアがバケツを持ち、水をバタバタと洗面器に入れている。赤ん坊を水に、そして湯に、何度も交替に漬(つ)ける。赤ん坊は何も声を発しない。死んだような表情。糸のように、動かす毎に、ただあっちに、こっちに、揺れるだけ。しかし、突然叫びとも溜息ともつかない弱々しい嗄れた第一声が出る。
 「生きてる・・・生きてる」と、ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナが赤ん坊を枕の上に寝かせる。
 母親も生きている。幸運にも、危険なことは何も起らなかった。私は自分で母体の脈をとる。よし、正常だ。しっかりした脈だ。助手が静かに母親の肩を揺(ゆす)り、言う。
 「ね、おばさん、おばさん、起きて。」
 血まみれのシーツが外され、綺麗なシーツで素早く母親はくるまれ、助手とアクスィーニアの二人によって病室へ運ばれる。おむつをあてられた赤ん坊も、枕に乗せられ、運ばれる。褐色の、皺だらけの顔が、枕の縁(ふち)から見える。運ばれている間中ずっとその顔から、か細いピーピーという泣声が聞えてくる。
 洗面台の蛇口から水が流れ出る。アーンナ・ニカラーイェヴナが煙草を待ちきれなかった様子で、大きく吸い込む。煙に目を細め、咳をする。そして言う。
 「先生、逆子の手術、とてもお上手でしたわ。本当に。」
 私はブラシで両手を懸命に擦(こす)る。そして横目でアーンナ・ニカラーイェヴナを見る。笑っているんじゃないだろうか。しかし、彼女の顔は真面目で、誇らしげで、満足そうだ。私の心は喜びでいっぱいになる。私は部屋の中あたり一面の、乱脈な、赤と白のまだらを、洗面器の赤い水を、見る。勝利の気持が湧いて来る。しかし、心の底、どこかに、何か疑惑の虫が蠢(うごめ)いている。
 「もう少し様子を見てからだな、安心するのは」と、私は言う。
 アーンナ・ニカラーイェヴナは驚いたように目を上げ、私を見る。
 「まだ何かがあると仰るんですか? もう安心です。うまく行きました。」
 私は何か、意味不明の言葉を呟く。本当のことを言えば、次のようなことが言いたかったのだ。母体はあれで完全に大丈夫なのか。手術中私は、何かまづいことをしはしなかったか・・・それが気になって。しかし、私の産科に関する知識はあまりにあやふやで断片的だった。破裂・・・破裂はいつ現れるものなのか。破裂があるとすれば、予め分るものなのか・・・そして、それが今でなければもう後になっては現れはしないのか・・・いや、この問題について話すのは止めた方が良さそうだ。
 「まあいい」と、私は言う。「感染の怖れをゼロにするのは難しいからね。」何かの教科書にある文章で最初に頭に浮んだものを口に出してその場を凌(しの)ぐ。
 「ああ、感染・・・」と、アーンナ・ニカラーイェヴナは言葉を伸ばして言い、「大丈夫ですわ。だってどこからだって言うんです? どこもかしこも殺菌してあります。清潔ですわ。」
 私が家に帰ったのは一時過ぎだった。書斎の机の上、ランプに光の中にドーデルラインが、丁度「逆子の危険性について」のページが開かれて置いてある。冷めた茶を啜(すす)りながら私は、それから約一時間、机について、そのあたりを読む。それを面白いことと発見する。以前分らなかった部分が全て明らかなのだ。まるですっかり光に照らされているかのように。人里離れたこの辺鄙な土地で、夜、私には本物の知識とは何か、が分ったのだ。
 『辺鄙な田舎ででも大きな経験は得られる』と、私はうとうとしながら考える。『しかしただ、本は読まなければ、よーく読まなければ・・・よーく・・・』

   吹雪
     それは、時には獣(けもの)のように吠え、
     また時には、子供のように啜り泣く。
 村で起ったことなら何でも知っているアクスィーニアの話によれば、事は全て、シャラミーチエヴォ村の事務員パーリチコフが農業技師の娘に恋をしたことから始まる。この恋は炎のように燃え上り、可哀相なこのパーリチコフの心を干上がらせた。彼は近くのグラチョーフカ村へ行き、背広を誂える。この背広はパーリチコフに実によく似合った。そのズボンの灰色の縞が、この男の運命を決定し、農業技師の娘は彼の妻になることを承諾した。
 私は麻の打ち器に落ちた娘の足を切断して以来、あまりにも有名になり、その名声のせいで、殆ど死ぬ目にあっていた。一日に、農民百人が私のところへ、橇(そり)で踏みならした道を、馬車でやって来る。私は昼食をとる時間もなかった。算数は無慈悲な科学だ。患者百人を診るのに、一人五分・・・たった五分・・・しかかけなかったと仮定しよう。それでも五百分・・・即ち八時間二十分だ。休みなしでだ。考えてみて欲しい。その他私には入院患者三十人がいる。そしてまた手術もあるのだ。
 簡単に言えば、夜九時に病院から帰ると、私はもう食べたくなく、飲みたくもなく、眠りたくもない。つまり何もしたくない。ただ夜中にお産で叩き起されないことを希(ねが)うだけだ。それなのに、二週間の間に五回、夜、橇(そり)でお産のために連れ出される。
 私の両眼には黒い目脂(めやに)が現れ、眉間(みけん)には出っ張ったウジ虫のような縦縞が出て来る。夜中、目を凝らして闇の中を見ると、失敗した手術の後の露(あらわ)になった肋骨が見え、自分の手を見ると、人間の血がこびりついている。そして朝、目が醒めると、タイル張りのオランダ風ストーブが、充分に部屋を暖めてくれているのに、粘着性の冷たい汗をびっしょりとかいている。
 回診。私は威風堂々と、三人の助手・・・一人は男性、二人は助産婦・・・を連れて病棟の中を進む。熱でふにゃふにゃになっている、或はやっとのこと息をしている、患者の、横たわっているベッドの傍に立止まり、私は自分の脳みそにある全てのものを絞り出す。私の指は熱で燃えている乾いた皮膚を探る。瞳孔を覗きこむ。肋骨を叩く。心臓の奥底で、神秘的に脈打つ音を聴診器で聞く。その間私の胸にあるものは唯一つ、どうしたらこの患者を助けられるか。そして次の患者を。そして全員を!
 戦争だ。その戦争は毎朝、青白い雪の光が見える頃から始り稲妻型ランプが気まぐれに黄色い光を出すようになった頃、終る。
 『知りたいものだ、この戦争はどんな具合に終るのか』と、私はある夜、独り言を言う。『この調子では、患者は来続けるぞ、橇(そり)で。一月も、二月も、三月も。』
 私はグラチョーフカ市に手紙を書き、N県の病院には二人目の医者を置く予定ではなかったのかと、丁重に訊ねる。
 手紙は平らな雪の大洋を四十里、荷橇(にぞり)に乗せられて走る。三日後に返事が返って来る。次のように書かれている。「勿論、勿論・・・必ず・・・ただ、今すぐは無理・・・今のところ誰もそちらには行かない・・・」
 手紙の最後に、私の仕事ぶりに対するお世辞が二言三言あり、これからも成功を祈っている、と。
 火曜日。外来患者は百人ではすまない。百十一人来る。診察が終ったのが夜の九時。明日水曜日には一体何人来るのか、それを考えながら眠りにつく。九百人来た、という夢を見る。
 窓に何か異常に白いものを感じて目を醒す。目を醒させたのは直接には何だったかのかと、少し考え、それからノックだったか、と分る。
 「先生」と、助産婦のピェラゲーヤ・イヴァーノヴナの声がする。「起きられましたか?」
 「うん」と、寝ぼけて、妙な声で答える。
 「お伝えしにまいりました。今日は急いで病院にいらっしゃらなくてもよいと。全部で二人しか今日はいません。」
 「ええっ。冗談か? これは。」
 「いいえ、本当です。吹雪なんです、先生。吹雪です。」ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナが鍵穴から嬉しそうに「吹雪」を二度言う。「それに、その二人の患者も虫歯です。ヂェミヤーン・ルーキッチが抜いてくれます。」
 「うん、しかし・・・」と、私は何故か自分でも分らず、既にベッドから飛び起きている。
 驚くべき一日になった。巡回を終えると私は、一日中自分の住処(すみか)で、(医者の住居は六部屋からなり、どういう訳か、二階建になっている。二階に三部屋、一階に台所と三部屋。)オペラのアリアを口ずさみ、煙草を吸い、窓枠を指で叩く・・・窓の外と言えば、何事かは起っているのだが、私には全く何も見えない。空は存在せず、大地もない。白いものがぐるぐる回っている。回りながら、あるものは斜めに、横に、縦に、そして滅茶苦茶に。まるで悪魔が歯磨粉で、ふざけて遊んでいるように。
 正午に私は、アクスィーニヤに命じる。医者の、住居つきの掃除夫と、料理女に言って、バケツ一杯大鍋一杯、湯を湧かすようにと。私はこの一箇月、身体を洗っていない。
 私はアクスィーニヤと二人で、桶を納屋から引っ張り出す。(恐ろしく大きな桶で、以前から目をつけていたのだ。)それを台所の床の上に据える。(N県では勿論、風呂桶の話は出来ない。風呂桶(複数)は、病院そのものの付属品であり、それもとっくの昔にみんな壊れている。)
 午後、およそ二時、窓の外のくるくる回る雪の網は、いちじるしく勢いが弱まり、私は裸になって桶に坐っている。頭は石鹸の泡だ。
 『これが人生というものだ』と、私は熱い湯を背中に跳ねかけながら、満足して呟く。『そう、これこそが。それからみんなで食事をして、次に眠る。そして朝、目を醒す。明日には百五十人患者が来たって構うものか』「ああ、アクスィーニヤ、何だ?」
 アクスィーニヤは扉の向こうで、風呂が終るのを待ってくれている。
 「シャラミェーチエヴァ屋敷の使用人が結婚するんです」と、アクスィーニヤが答える。
 「ほう、それで女の方はうんと言ったのか?」
 「ええ、そうはもう・・・あれだけ好かれていたら・・・」と歌うようにアクスィーニヤが言う。その合間に食器を洗う音がカチャカチャと聞える。
 「花嫁は綺麗な人?」
 「それはもう。飛切りの美人! ブロンドで、すらっとしていて・・・」
 「おいおい、本当かい?」
 その時、扉を叩くドンドンという大きな音がする。私は顔を顰め、湯をかけ、洗い始める。
 「先生は今、身体を洗っている所です」と、アクスィーニヤが歌うように言う。
 「ブツブツ・・・ブツブツ・・・」と、低い声がする。
 「先生、お手紙です」と、アクスィーニヤが扉の隙間から黄色い声を出す。
 「扉から渡して。」
 私は桶から這出て、寒さで身体を縮め、運命を呪いながら、アクスィーニヤの手から湿った封筒を受取る。
 「冗談じゃない。桶から出ないぞ、俺は。俺だって人間なんだ」と、あまり確信は持てないながらもこう呟いて、桶の中で封筒を開ける。
 『尊敬する先生(その次に大きな感嘆詞がついている)、お願い・・・(と、ここまで書いて消してある)すぐ来て下さるようお願い致します。ある婦人が、頭を強く打ち、鼻腔(と書いて消してある)鼻と口から出血しています。意識はありません。私には対処出来ません。どうか来て下さい。馬車の用意をします。優秀な馬です。脈は弱まっています。カンフル注射はしてあります。医師・・・(サイン、不明瞭。)』
 『どうも俺はついてない。』私はストーブの中の明るく燃えている薪を見ながら悲しく考える。
 「この手紙を持って来たのは男?」
 「男です。」
 「ここに入れて。」
 入って来た男は、そのピカピカ光る兜(かぶと)で、古代ローマ人そのものだった。兜は耳覆いの大きな防寒帽の上にしっかりと乗っている。着ているものは狼の毛皮外套。一筋の冷たい風が裸の私の肌を打つ。
 「その兜は?」と、私はまだ洗い終えていない身体をタオルで覆いながら訊く。
 「消防士だからです。シャラミーチイェヴォ村の。村には消防団がありまして」と、古代ローマ人が答える。
 「どんな医者だ、この手紙を書いたのは。」
 「農業技師の所に泊っていた客です。若い医者で。ええ、大変な仕事です、医者というのは・・・本当に・・・」
 「誰なんだ、『ある婦人』とは。」
 「農業技師の許婚(いいなづけ)です。」
 扉の外でアクスィーニヤの「ああ!」という声が聞える。
 「どうしたんだ。」(アクスィーニヤの身体が扉にピッタリ寄せられる音が聞える。)
 「昨日が婚約披露宴でした。宴が終って農業技師は、許婚と一緒に橇で遊ぼうと、足の速い馬を橇につけ、彼女を乗せ、門の方へと・・・ところが馬は、止っているその場から急に発進、そのため許婚は額を側柱(わきばしら)にいやというほどぶっつけ・・・それほど一気に彼女は飛んでしまったのです。何という不幸か、言う言葉もありません。人々が集まって、農業技師を抑えました。自殺させないようにです。すっかり狂気のようになって・・・
 「私は今、身体を洗っている。どうして彼女をここに連れて来なかったんだ」と、恨みがましく私は言い、頭から湯をかける。その拍子に石鹸が桶の中に落ちる。
 「それがどうしても無理でして、先生」と、すまなそうに消防士は言い、両手を擦(こす)りあわせる。「とてもそんなことは。着くまでに死んでしまいます。」
 「どうやって行くんだ。外は吹雪だぞ!」
 「もう静りました。ええ、本当に止んでいます。それに、馬はいいのを二頭、縦に繋いでいます。一時間で着きます。」
 私は低い唸り声を出し、桶から這い出る。桶二杯、激怒しながら湯をかける。それからストーブの正面の暗い穴の前にしゃがんで、その前で髪を乾かす。少しは乾くと有難いと思いながら。
 『肺炎になってしまうぞ、この俺は。それに、こんな強行軍の後では、クループ性肺炎だ、きっと。だいたいそんな風になって、俺に一体何が出来るっていうんだ。この医者はどうやら俺よりもっと経験が少ないらしい。俺だって何も知らない。半年医者をやっただけだ。しかし彼はもっと未熟なのか。大学を出たばかりのようだぞ。この俺を随分老練な医者だと思っているらしいな・・・』
 こんなことを考えながら私は、自分で何をやっているか分らないまま、支度をする。着物を着るのも楽ではない。ズボンにシャツ、防寒長靴、シャツの上に革ジャンパー、その上に外套、そしてその上に羊皮の毛皮外套、帽子、バッグ、バッグの中にはカフェイン、カンフル、モルヒネ、アドレナリン、ピンセット、消毒したガーゼ類、注射器、探針、ピストル、煙草、マッチ、時計、聴診器。
 吹雪はもう峠を越えている。ただ、暗くなった。村を出た時は、もう陽は落ちていた。吹雪はまた少し弱まったようだ。しかし一定の方向から、風が斜めに私の右頬を打って来る。消防夫の大きな身体のせいで、後方の馬の尻さえ見えない。馬は恐ろしい勢いで橇を引く。大きなストライド、路上の窪みを飛んで進む。私は座席に沈み、すぐに身体が熱くなる。クループ性の肺炎のことを考える。そして、あの許婚は、頭蓋骨が割れ、その破片が脳に突き刺さったのではないかと考える。
 「消防署の馬か? これは」と、私は羊の毛皮の襟の間から声を出して訊く。
 「うう・・・うう・・・」と御者は振り向きもせず、ブツブツと言う。
 「それで医者は何をやっているんだ。」
 「うう・・・うう・・・それが、その・・・性病の勉強しかして来なかったそうで・・・うう・・・うう・・・」
 うう・・・うう・・・と、吹雪も森の中で唸る。馬車の横で、口笛を吹くような音を立てる。雪が顔にあたる。私は身体が揺れてくる・・・揺れる・・・揺れる・・・揺れる。そしていつのまにか私は、モスクワのサンドゥノーフスキーのサウナの前にいる。毛皮外套を着たまま、すぐさま脱衣所に向う。汗がどっと出てくる。それから松明がともり、浴場に冷たい水が入る。私は目を開ける。真っ赤な兜がチカチカ光っている。火事だ、と思う。それから目がさめ、橇が目的地に着いたことに気づく。私は円柱つきの建物の前にいる。どうやらニコライ一世時代の建物だ。辺りは一面の闇。消防夫達が大勢出迎えてくれている。皆松明を頭の上に掲げている。私は外套のポケットから時計を引出して、見る。五時だ。一時間では来なかった。二時間半だ。
 「帰りの馬を今すぐ用意しておいてくれ」と、私は言う。
 「畏まりました」と、御者が答える。
 夢現(ゆめうつつ)で、また、コンプレッサーの中から出てきたように、毛皮のジャンパーの下に汗をびっしょりかいて、私は建物に入る。横からランプの光があたり、私の影がペンキ塗りの床に、縞のように細長く落ちる。そこに、追いつめられた目つきをした金髪の若い男が、走ってやって来る。折目がきっちりとついたズボンだ。白地に黒いエンドウ豆を散らした絵柄のネクタイを結んでいるが、それがそっぽを向いている。しかし上衣それ自体は、仕立卸(おろ)し。私の毛皮外套にしがみつき、身体を寄せ、小さな声で唸り始める。
 「お医者様・・・先生・・・早く・・・彼女は死んでしまいます。私です、人殺しは。」彼はあらぬ方を眺め、厳粛な暗い目を見開き、誰に言うともなく呟く。「人殺しです、私は。」
 それから泣き始める。細い髪の毛を掴んで引っ張る。見ている間に髪を指でからめ、本当に引き抜こうとする。
 「止めなさい」と、私は、彼の手を頭に押しつける。
 誰かが来て、彼をどこかに引っ張って行く。女性が二三人奥から走って出て来る。
 誰かが私の毛皮外套を脱がせてくれる。よく磨かれた床板の廊下を通り、白いベッドのある部屋へ案内される。若い医者が私を迎えて椅子から立上がる。一瞬彼の目に驚きの色が浮ぶ。私が彼と同じく、若いからだ。実際、横から見ると、我々二人は、ある同一人物の二つの肖像画に見えたであろう。年も全く同じだ。しかしすぐ彼は破顔になる。あまりの安堵で、涙でむせぶほど・・・
 「嬉しい・・・よかった・・・よく来てくれました・・・ほら、見て、見て下さい。脈が落ちています。私は性病が専門で・・・ああ、来て下さって、何て嬉しい・・・」
 机の上に一切(ひときれ)のガーゼがあり、その上に注射器がのっている。黄色い液体の入ったアンプルが四、五個ある。農業技師の泣声がこの部屋にまで届く。明るい色の髪の毛が房になって下(さが)り、床の上にばらばらに落ちている。鼻が既に尖って見え、鼻穴には、血で赤くなった綿が詰めてある。
 「脈を」と、私に、若い医者が囁く。
 私は、死んだようになっている手を取る。そして、習慣になっている手つきで、指をあてる。そして身震いする。私の指の下で、脈は細かく、速く、次に暫く消え、また、細かい糸のように繋がる。私は、みぞおちの下あたりが、いつものように冷えてくる。死を目の当たりにする時は常にこうなのだ。私は死が嫌いだ。私はやっとのことで、アンプルの端を切り、どろっとした液体を自分の注射器に吸い取る。しかし注射針を女の子の腕に差し込み、注入する私の動作は、単なる機械でしかない。
 女の子の下顎が震える。喉が何かでつかえたように、身体が毛布の下で一瞬ピンと張る。そのままで暫く動かず、次に身体が弛緩する。私の指の下で、脈の最後の糸が切れる。
 「死んだ」と、若い医者の耳に、そっと私は言う。
 灰色の髪の白い顔が、平らな毛布の上でがっくりと垂れ、死後の痙攣が起きる。
 「黙って、黙って」と、白衣を着た女性の耳に、私は囁く。若い医者は扉の方を向いて、苦しそうな、不安そうな表情を見せる。
 「あの男、何かと私の邪魔をして」と、若い医者が私にそっと言う。
 若い医者とは、次の手筈にする。即ち、泣き崩れている母親はベッドに置いておく。その他の人間には何も話さない。農業技師を別の部屋に連れて行く。
 別の部屋で私は農業技師に言う。
 「鎮静剤を打たせて欲しい。そうでないと、我々は何も出来ない。君は我々の仕事の邪魔になるんだ!」
 やっと彼は同意する。静かに、泣きながら、上衣を脱ぐ。若い医者と私は、彼の結婚衣裳のシャツの袖をまくり上げ、モルヒネを注射する。若い医者はそれから、死んだ女の子の部屋へ戻る。何かすることでもあるようなふりをして。私は農業技師のところに留まる。モルヒネは私が思っていたよりよく効く。十五分経つと農業技師はだんだん静かになり、支離滅裂な囈言を呟き、泣き、まどろみ始める。それから、泣き顔を両手の上に置き、寝始める。部屋の外から、泣声、囁き、騒ぎ、抑えた啜り泣き、が聞えて来るが、農業技師にはもう聞えない・・・
 「行くのは危険です、先生。道に迷ってしまいます」と、玄関で若い医者は私に繰返し言う。「どうぞ残って。一晩泊って・・・」
 「いや、それは出来ない。何が何でも私は行かなければ。それに、御者も、今すぐ返してやると約束してくれている。」
 「それは返してくれるでしょうが、しかし、何と言ってもこの吹雪・・・」
 「あちらで三人、チフス患者がいる。放ってはおけない。毎晩私が見てやっているんだ。」
 「ああ、そういう事情なら・・・」
 玄関ホールで若い医者は、ウオッカを水で薄め、勧めてくれる。私は飲み、ハムの切端を食べる。胃が少し暖かくなり、心の憂さが少し晴れる。最後にもう一度ベッドに戻り、死体を見、次に農業技師のいる部屋へ行く。若い医者にモルヒネのアンプルを渡し、身支度を整え、玄関に出る。
 ヒューヒューという風。二頭の馬はうなだれてふさぎ込んでいる。馬へ雪が打つようにあたる。松明がチカチカと光っている。
 「道は分っているな?」と、私は口をしっかりとマフラーで覆いながら訊く。
 「はい、分っています。」御者は非常に悲しそうに答える。(ヘルメットはもう被っていない。)「でも、一晩ここでお泊りになった方が・・・」
 御者の防寒帽の耳までが、死んでも行きたくないと語っている。
 「泊った方がいいのに」と、怒り狂った松明を持っている二人目の消防士も言う。(御者は一人。この消防士は橇には乗らない。)「酷い荒れようです、外は。」
 「十二里だ」と、私は不機嫌に呟く。「辿り着けるさ。病人を抱えているんだ、私は。重い病人をな」と言って、橇に乗込む。
 正直に言うと私にはこの時、一つだけ、他人には言えないある感情があった。あの家にはいたたまれなかったのだ。あの不幸に対し、自分が全く無力で、何も出来なかった、そのことを思って。御者は仕方なく御者台にどさりと坐り、姿勢を正し、手綱を引く。橇は反動でグイと私を後ろに押し、それから門を駆け抜ける。松明は消える。火が消えたのではない。まるで穴にでも落ちたかのように、無くなってしまう。しかし、その後一分間は、他のことに興味をひかれる。何とか苦労して後ろを振向いてみると、松明がなくなっただけではない、シャラミーチエヴォの町が、その建物ごとすっかり、まるで夢にみていたかのように、消えている。あまりよい気持がしない。
 「こいつは奇妙だ・・・」呟くでもなく、考えるでもなく、頭にこの言葉が浮ぶ。もう少しよく見ようと、顔を少し外に覗かせる。すぐひっこめる。そんなことをしていられる天候ではない。全世界が巻き取られて球になり、それがまたあちこちから引っ張られてクルクル回っている。
 「引き返そうか」と、ふと思う。しかし、その考えを追い払い、橇の奥深くに、ボートの底に引込むように隠れ、身を縮め、目を閉じる。と、すぐに、ランプの上の緑色の布と、あの白い顔が目に浮ぶ。急にはっきりと分る『あれは頭蓋骨骨折なんだ。・・・そうだ、そうなのだ。・・・ああ、そうだったのか。』急に納得が行く。これが正しい診断なのだ。やっと思いついたか。しかしそれが何の役に立つ。今も役に立たないが、あの時だって何の役にも立ちはしない。何てひどいことが起きるものだ! この世に生きるということは何て脆(もろ)い、そして何て恐ろしいことなんだ! あの農業技師の家では、今どうなっているだろう。考えるだけでもうんざりだ。それから自分が哀れになる。俺の人生は何て酷いものなんだ。今は誰もが眠っている。ストーブがあかあかと燃えている。俺はもう、風呂に入ることさえ出来ないだろう。吹雪がこの俺を、葉っぱのように吹き飛ばす。たとえ家に着いたとしても、今度またどこへ行かされるやら知れたものではない。吹雪でまたどこかへ吹き飛ばされるだろう。俺は一人、患者は何千といる。肺炎にでもかかって、ここで死ぬかもしれない・・・自己憐憫にひたり、暗闇に落込む・・・そして、どれだけ時間が経ったか分らない。熱い風呂の夢は見なかった。寒くなったからだ。そしてどんどん寒くなる・・・寒い!
 目を醒すと、御者の黒い背中が見える。そして気がつく、橇が動いていない。止っている。
 「着いたのか」と、やっとのことで目を見開きながら、私は訊く。
 黒いコートの御者は、嫌々ながら身体を動かす。そして急に橇を降りる。風に吹きまくられて、彼の姿がぐるぐる廻っているように、私には見える。そして全く私への敬語は無視して、喋る。
 「何が『着いたか』だ! 人の言うことを聞くとこれだ! 一体どういうことだ、これは! 俺は死んぢまうぞ! 馬ももろともだ!」
 「まさか、道に迷ったんじゃ・・・」私は背中が寒くなる。
 「道? 何が道だ!」うちひしがれた声で御者は反論する。「どこを見たって雪だけだ。これで何が道だ! こんな時に出て来たなんて! 四時間走り続けて・・・人の言うことを聞いているととんでもない目に・・・」
 四時間。私はもぞもぞと時計を探る。マッチを取り出す。擦(す)る。しかし何本擦ってもうまく行かない。シュッと音がし、一旦は火がつく。しかし一瞬のうちに消える。
 「言ったでしょう? 四時間ですよ。」御者は悲しそうに呟く。「これからどうします?」
 「ここはどこなんだ。」
 質問があまりに馬鹿げていて、御者は答える必要を認めない。向きを色々と変え、あちこち見ている。しかし私はその彼を見ていて、彼の方が全く動かず、こちらの方が橇ごと彼の回りを廻っているように感じる。私は橇を降りる。そしてすぐ分る。足が膝のところまで雪で埋まり、膝が橇の滑り木のところにある。橇に近い方の馬を見ると、腹が、雪の吹きだまりにくっついている。そしてたてがみは女の子のお下げのように、垂れ下がっている。
 「馬は二頭とも自分から止ったのか。」
 「自分からです。疲れたんでしょう、連中・・・」敬語を取戻し、御者は答える。
 私は突然、トルストイの、ある短篇を思出し、急に腹が立って来る。
 『あいつめ、ヤースナヤ・パリャーナで良い目を見ていたんだ』と、私は考える。『きっと死にかけた人間のために呼出しを食ったことなどなかったのさ。』
 私は御者とこの私に、哀れを催す。そして再びこれから先のことを思い、ぞっとする。しかし、ぐっとその恐怖を押し殺す。
 「卑怯だぞ、そんなことを考えるのは・・・」私は歯の間から小さな声で言う。
 何糞っという力が腹の底から湧いて来る。
 「ねえ君」と、歯が冷たくなるのを感じながら、私は御者に言う。「ここで気を抜いたら駄目だ。放っておくと、本当にこれで終だぞ。馬達二頭、少しは息をついた。休んだんだ。少し先に行かせなきゃ。君、先を歩いてくれ。先頭の馬の轡(くつわ)を取って誘導するんだ。私が御者台に乗る。少しでも歩こう。さもないと雪に閉込められる。
 御者の防寒帽の耳が、猛烈な抵抗を示す。が、しかし、御者は這うようにして先頭の馬に進む。雪に落込み、また起上がり、先頭の馬に辿り着く。私達の新たな出発は、いつまでたっても始まらないと思えた。御者の姿が私の目から消える。目に吹いて来る雪が刺すように中(あた)り、見えなくするからだ。
 「さあ、行け!」と、御者が怒鳴る。
 「行け、行け!」と、私は鞭で馬を叩きながら怒鳴る。
 二頭の馬がほんの少しづつ雪をかき分けて進む。橇は揺れる。波の中のボートだ。先頭にいる御者の姿が、大きくなったり小さくなったり。少しづつ前へ進む。
 およそ十五分、こんな具合に、よろめき、進む。そしてやっと何か平らな場所へ来たように、橇がきしみ始める。私は嬉しくなる。後の馬の蹄(ひづめ)が見えたのだ。
 「浅くなったぞ。道だ。」私は叫ぶ。
 「道、道」と、御者が答える。馬を止め、御者がこちらへフラフラと歩いて来る。その姿が急に大きくなる。
 「どうやら道です」と、御者は、喜びの震え声を混ぜて私に言う。「もう一度迷わなければ・・・何とか・・・」
 私達は元の席に戻る。二頭の馬は快適に進む。吹雪は確かに弱まる。収まってきたように思える。しかし辺りは相変らず真っ暗。何も見えない。私はもう、病院に着くことはすっかり諦めている。どこかに着けばいい、とにかく、人の住んでいるどこかに。
 馬が急にグイッと橇を強く引き、勢いよく走り出す。私は喜ぶ。馬の元気な理由をまだ知らずに。
 「人のいる場所を馬は感じ取ったのかな?」と、私は訊く。
 御者は答えない。私は橇の中で立上り、周囲を見回す。悲しそうで狡そうな、奇妙な声が暗闇から聞えて来る。しかしすぐ止む。何故か私は不愉快になる。そしてあの農業技師が両手に顔を埋めて哀れっぽく泣いていたのを思い出す。右手に私は突然、黒い点を見つける。それがだんだん大きくなり、黒い猫になる。そして、もう少し大きくなって、近づいて来る。消防士が急に私の方を向く。その顎がガタガタと震えている。私に訊く。
 「見ましたか? 先生。」
 一頭の馬が右へ逸(そ)れ、もう一頭は左に逸れようとする。消防士は一瞬私の膝にもたれかかり、「ああ」と大声で叫ぶ。そしてまたすぐ、姿勢を正し、馬の方を向き、手綱をぐいと引く。二頭の馬は荒い息をして速度を早める。雪の塊を蹴り、それを空中に飛(とば)す。しかし走り方は神経質で動きが滑らかでない。
 三度か四度、私は身体に震えが来るのを感じる。気を取り直し、私は懐(ふところ)に手を入れ、ブラウニングを取り出す。そして、予備の弾倉を持って来なかったことに呪いの声を上げる。それに、どうせシャラミーチエヴァに泊らないと決めたのなら、どうして松明を持って来なかったんだ! 新聞に書かれる私と、この可哀相な消防退院の短い記事のことが頭にちらつく。
 猫は犬の大きさになり、橇からそれほど遠くないところを走っている。振向いてじっと見ると、二頭目の四つ足動物が橇の後ろにいるのが見える。誓ってもいい、尖った耳を持っている。そして橇の後を軽々と、まるで平らな床の上でもあるかのように走っている。その走り方は不敵で、ずうずうしくさえ見える。『群(むれ)なのか、それとも二頭だけなのか』と、私は考え、この『群』という言葉の時、毛皮外套の下に熱湯を入れられたように感じる。そして両足も一瞬冷たさを感じなくなる。
 「いいか、撃つぞ。身構えて・・・馬を止めろ!」と、私は言う。その声が自分のものとはとても思えない。
 御者はただ「おう」と言い、首を両肩の間に縮める。目に明るくパッと光り、轟音がする。二発目、三発目。それから何分橇の下に踞(うづくま)っていたか覚えていない。私は二頭の馬の甲高い鼻息を聞き、ブラウニングを握りしめ、立とうとする。頭をいやという程ぶっつける。やっとのこと橇から出た、と思ったとたん恐怖のあまり、大きな筋肉質の動物が突然私に躍りかかった、と感じる。自分の引きちぎられた腸が見えたように・・・
 その時御者が大声で叫ぶ。
 「ああ・・・あそこに・・・逃げて行く・・・行け、行け、行っちまえ・・・」
 私はやっとのことで毛皮外套の襟を正し、ブラウニングを懐(ふところ)に収め、立上る。後方にも両側にも、黒い獣(けもの)は見えない。吹雪は収(をさま)り、規則正しい降り方になっている。薄くなった靄(もや)を通して魅力的な目が・・・千個の目からでもその目は見分けられる・・・今だってその目は瞼(まぶた)に浮ぶ・・・その目、つまり病院の灯(あか)りが・・・瞬(またた)いている。その目の後ろにごたごたと積重ねられたような建物がある。『ああ、我が家ほど綺麗なものはない・・・』私は思う。突然、嬉しさのあまり、二発ピストルを、狼の消えて行った方向にぶっ放す。
 
 消防夫は、目も醒めるように豪勢な、私の部屋に続く、階段の途中に立ち、私はその天辺、アクスィーニヤは毛皮の長外套を着て一番下に立っている。
 「この次、勲章をやるからと言ったって、もう二度と・・・」消防夫は言い終らないうちに、水で割ったウオッカを一息に飲む。そしてアクスィーニアの方を向き、ガアガアと怒鳴る。ぎこちなく自分の身体一杯に両手を拡げ、「こんな大きさだったんだ・・・」
 「死んだの? 治して上げられなかったの?」とアクスィーニアが私に訊く。
 「死んだ」と、私は単調に答える。
 十五分経つと、全ては静かになる。階下の灯も消える。私は自分の部屋で一人になる。何故か発作的にゲラゲラっと笑う。シャツのボタンを外す。またボタンをかける。本棚に行き、外科の本を引出す。頭蓋骨骨折の記述を見たくなったからだ。しかし、本を投げ捨てる。
 服を脱ぎ、毛布の下に潜り込む。三十秒も経たないうちに震えが来る。止む。暖かさが全身に回って来る。
 「勲章を貰ったって」と、微睡(まどろ)みながら、私はブツブツ言う。「行くもんか、もう・・・」
 「行くさ・・・ああ、行くに決ってる・・・」と、嘲笑うように吹雪が吹く。
 吹雪は暫く屋根の上をガサガサ、次に煙突に入り、そこから出て、窓の外へシューシュー言いながら出て行き、静かになる。
 「行くさ・・・ああ、行くに決ってる・・・」と時計が打つ。しかし、低い声で・・・もっと低い声で・・・
 そして何も聞えなくなる。沈黙。夢。


   エジプトの闇
 私の誕生日に、世界は一体どこに行ったのか。モスクワの電灯はどこだ? 人々は? 空は? 窓の外には何もない。闇だ・・・
 我々は人々から隔絶されている。ここから一番近いケロシンランプは、九里離れた鉄道の駅にかかっているやつだろう。きっとそこで、猛吹雪の中を、かぼそく瞬(またた)いている。真夜中に汽笛と共にモスクワ行きの急行列車が通るだろうが、その駅には止らない。吹雪に埋もれた忘れられた駅など、急行列車には不要なのだ。もっとも線路が不通になれば、その存在は思い出されるが。
 ここから一番近い電気の灯(ともしび)は、郡庁所在地、四十里離れたところだ。そこには甘い生活がある。映画がある。雑誌がある。野原で雪が唸り、吹きまくっている時、きっとスクリーンの上には葦がそよぎ、椰子の木が揺れ、熱帯の島がチラチラと光っているのだろう。
 我々は、我々四人だけだ。
 「エジプトの闇だな。」助手のヂェミヤーン・ルーキッチが、ブラインドを上げながら言う。
 大袈裟な表現だ。しかし的確だ。エジプトとは、うまく言った。
 「もう一杯どうです?」と、私は勧める。(ああ、非難は止めて欲しい。いくら医者、助手、助産婦、と言ったって、これでも人間なのだ! 何箇月も我々は、患者が何百人いようと、患者以外には誰とも会っていないのだ。我々は働く、雪に埋れながら。担当医の誕生日に、郡庁所在地から仕入れた鰯(いわし)を肴(さかな)に、処方通りの薄め方をしたアルコールを二杯飲むことぐらいは許されてもいいだろう。)
 「先生の健康を祈って」と、ヂェミヤーン・ルーキッチが、感情をこめて言う。
 「この病院に馴れて下さるように!」と、花模様の晴着の皺を伸ばして、アーンナ・ニカラーイェヴナが言い、盃(さかづき)を合わせる。
 二番目の助産婦、ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナも盃を合わせ、ちょっと飲み、すぐにしゃがんで、火掻き棒でストーブの火を掻き廻す。暖かい光が我々の顔を照(てら)し、身体の外側を暖め、ウオッカが身体の内部を暖める。
 「私は全く理解出来ない」と、火掻き棒で勢いが出た炎の塊を見ながら、私は喋り始める。「あの小母さん、ベラドンナを一体何に使ったんだ。私にはこれは悪夢だ!」
 助手と助産婦の顔に微笑が浮ぶ。
 話はこうだ。今日午前の外来に、年齢およそ三十の、赤ら顔をした女性がやって来た。診察室に入り、産科用の肘掛椅子に深々とお辞儀をし、私の背に立つと、懐(ふところ)から大型の薬瓶を取出し、歌うような、諂(へつら)い声で言う。
 「本当に有難うございました、先生、飲み薬を。よく効きました。その効き目と言ったら・・・すみませんが、もう一瓶出して下さいませんでしょうか・・・」
 私は彼女から薬瓶を受取り、適要を読む。私は目の前がさっと、緑色になる。摘要には、ヂェミヤーン・ルーキッチのきびきびした筆跡で、「飲み薬。ベラドンナ・・・云々。一九一七年十二月十六日。」
 つまり、簡単に言うと、昨日私はこの女性に、ベラドンナを適量処方し、今日、私の誕生日十二月十六日に、空の瓶を持って来て、もう一瓶それを要求したのだ。
 「あなたは・・・あなたは・・・昨日一日で、全部飲んだのですか?」と、私は思わず大声で訊く。
 「ええ、先生。全部です。全部。」明るい、陽気な声で、歌うように答える。「この飲み薬のお陰です、神様・・・家に帰って瓶の半分、そして寝る前にまた半分。そうしたら、綺麗に痛みが取れて・・・」
 私は産科用の肘掛椅子に縋(すが)り、倒れるのを防ぐ。
 「一回に何滴と言ったか、覚えていないんですか?」と、私は、怒鳴り声になるのを抑えながら、やっとのことで言う。「五滴と言った筈です。何てことをしてくれたんです、あなたは・・・あなたは・・・」
 「ええ、勿論仰る通りに飲みました。本当に飲みましたよ」と、女性は言う。まるで私が、彼女が飲んでいない、と思っているかのようだ。
 私は両手で患者の両頬を押し、その瞳(ひとみ)をじっと見る。しかし瞳は普通の瞳、充分に澄んでいて、全く正常だ。脈も申し分ない。全体に、ベラドンナ中毒の何の兆候も見られない。
 「そんな馬鹿な!」と、私は呟き、大声で叫ぶ。「ヂェミヤーン・ルーキッチ!」
 ヂェミヤーン・ルーキッチが、白い上っ張り姿で、薬局の廊下から現れる。
 「ヂェミヤーン・ルーキッチ、この美人さんが何をしでかしたか、考えてもみてくれ。私には何が何やらさっぱり分らない。」
 当の美人女史は驚いてこちらに頭を向ける。何か悪いことをしたらしいと感づいた顔だ。
 ヂェミヤーン・ルーキッチは薬瓶を握り、匂いを嗅ぎ、瓶を両手でぐるぐると廻す。そして、厳しい声で言う。
 「あんた、嘘を言ってるね。薬なんか飲んじゃいないんだ、あんたは!」
 「まあ、何てことを・・・」と、美人女史。
 「なああんた、私達を騙そうったって、そうは行きませんよ」と、口を歪(ゆが)めながら、厳しくヂェミヤーン・ルーキッチは詰問する。「私達にはとっくに分っているんです。さ、白状して下さい。飲薬を誰に飲ませたんです。」
 美人女史は、彼女の、正常そのものの瞳(ひとみ)を上に向け、真っ白に塗った天井を見上げる。そして十字を切る。
 「私、嘘なんか、ちっとも・・・」
 「もういい、もういい・・・」と、ヂェミヤーン・ルーキッチ。そして、私の方を見て、
 「先生、連中の遣り口はこうなんです。こういう芝居上手な人間を病院に送り込んで、こちらが薬を出すと、村に帰ってみんなに配るんです。」
 「何てことを、助手様・・・」
 「うるさい!」と、助手は怒鳴る。「私はここでもう、八年勤めている。分っているんだ。」そして、私に再び、「勿論村中に瓶の中身は全部配ったんですよ。」
 「もう一瓶、同じものが欲しいんです」と、優しい声で、美人女史が言う。
 「いえ、駄目です」と私は、額から汗を拭(ぬぐ)いながら答える。「あの薬は、もうあなたに処方するわけには行きません。痛みは取れたんですからね。」
 「ええ、そうなんです、本当に。痛みは嘘のように、綺麗さっぱり・・・」
 「それはよかった。では、別の薬を処方しましょう。これも大変よく効きます。」
 私は、今度はカノコソウチンキを処方する。美人女史はがっかりした顔で退出する。
 そう、だから、この件についてなのだ。窓の外がエジプトの闇になっている時、担当医の部屋で、我々四人が議論していたのは。
 「そうなんです」と、ヂェミヤーン・ルーキッチは、上品にオイル・サーディンを噛み下しながら言う。「もう我々はここに馴れきっています。でも先生、先生は大学から来たばかり。そして大都会から。だから余計、ここに・・・この田舎に・・・馴れなくちゃいけません。」
 「そう、何ていう田舎、僻地なんでしょう、ここは」と、アーンナ・ニカラーイェヴナが木霊(こだま)のように言葉を継ぐ。
 煙突に繋がる、家の中の煙道のどこかで、吹雪がゴウと鳴り、壁の裏側へと音が逃げて行く。ストーブの黒い鉄板が、赤紫色に照り輝く。この僻地で医療に携(たづさ)わる四人を暖めてくれる火に、感謝せねば!
 「先生の前任者、リェオポールド・リェオポールドヴィッチのことを、何かお聞きでいらっしゃいますか?」と、助手が、まづ煙草を礼儀正しくアーンナ・ニカラーイェヴナに勧め、次に自分の煙草に火をつけ、私に話しかける。
 「驚くべき人でしたわ、あの方は」と、ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナが感に耐えたように呟く。そしてストーブの火を、キラキラ光る目でじっと見る。髪に刺さっている晴着用の櫛の、イミテーションの石がピカッと光り、消える。
 「そう、優秀な人でした」と、助手が保証する。「百姓達の尊敬の的(まと)でした。あの人は、連中に近づく方法を知っていました。リポーンチイの手術でベッドに横(よこたわ)るのに、連中には何の躊躇もありませんでした。そうそう、あの人の名前、リェオポールド・リェオポールドヴィッチの代りに、連中はみんな、リポーンチイ・リポーンチイェヴィッチと呼んでいました。信頼されていましたね。連中と話す術を知っていたんです。そうそう、こんな話があります。ドゥーリツェヴォ村のフョードル・カソーイが、或る時診察を受けました。「リポーンチイ・リポーンチイェヴィッチ、俺、胸が苦しいんです。大きな息が出来ないんです。それに喉が掻きむしられるようで・・・」
 「喉頭炎」と、機械的に私は呟く。電光石火、診断を下すという、この村に来て一箇月のうちに早くも身につけた癖だ。
 「ええ、喉頭炎です。そこでリポーンチイは言いました。『よし、治してやろう。二日経ったら全快だ。ほら見ろ、これはフランス製の湿布(しっぷ)だぞ。これを、一つは背中に、一つは胸に貼る。そのまま十分貼っておいて、それから剥ぐんだ。いいな。さ、行け。』カソーイは湿布を受取って、出て行きました。二日経って、カソーイが診察室に入って来ました。『どうだ?』と、リポーンチイが訊きます。するとカソーイは、
 『ええ、それが・・・リポーンチイッチ。戴いた湿布は、まるで効きませんので。』
 『嘘を言うな』と、リポーンチイが答えます。『フランス製のあの湿布が、効かない訳がない。さてはお前、貼らなかったな?』
 『貼らない?』と、カソーイ。『とんでもない。貼りましたよ。今でもついてます・・・』
 そう言って、回れ右をします。すると、毛皮外套の上にその湿布がついていたんです。」
 私は大笑いする。ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナもゲラゲラ笑い、火掻棒で激しくストーブの薪を突っつく。
 「いや、まあ、これは面白いが、作り話だろう」と、私は言う。「まさか本当にこんなことは・・・」
 「作り話ですって?」と、二人、声を合わせて助産婦が叫ぶ。
 「とんでもない!」と、助手も、苦々しく叫ぶ。「ここではこんな嘘のような話の連続で成立っているんです。あらゆることがこんな調子なんです。」
 「そうそう、砂糖の話は?」と、アーンナ・ニカラーイェヴナが叫ぶ。「そうよ、ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナ、砂糖の話をしてあげたら?」
 ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナはストーブの蓋を閉め、目を伏せながら話し始める。
 「やはり、ドゥーリツェヴォ村ですけど、或る時私、そこにお産に行きました。」
 「あのドゥーリツェヴォ村ってのは、本当にとんでもないところで・・・」と、つい我慢が出来ず助手が口を挟む。「あ、失礼、続けて、続けて。」
 「私は勿論、さっそく行って、まづお腹を調べました」と、ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナが話を続ける。「指に何か触るものがあって、奇妙な感触なんです。サラサラしたような、少し塊(かたまり)のような・・・そうしたら何と、角砂糖なんですよ!」
 「そう、全く、作り話のような話です」と、ヂェミヤーン・ルーキッチが荘厳な声を出す。
 「失礼だが、私にはさっぱり分らない」と、私。
 「村の物知り女が、妊婦に教えるんですよ」と、ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナが言う。
 「そう。あんた、難産なのね。赤ん坊がお腹から外へ出たがらないからなのよ。エサで釣ってやらなくちゃ、と言って、誘いのエサを入れるんです。砂糖を!」
 「酷い話だ」と、私。
 「それから、髪の毛を妊婦に噛ませたりします」と、アーンナ・ニカラーイェヴナ。
 「何故?」
 「迷信です。三度か四度ありましたよ。この病院へ運ばれて来た妊婦が、しきりに唾を吐いているんです。可哀相に。こわい(固い)毛が口の中一杯。お産がそれで楽になるっていうんです。」
 火とお茶を囲んで、二人の助産婦の目は、思い出で輝く。私は話に引き込まれる。「村からこの病院へ妊婦を橇で連れて来る時には、」と、ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナ。「私の橇は、必ず妊婦の橇の後ろを走ります。途中で妊婦が思い直して自分の母親のところへ引き返さないように。」「それから、逆子だと分って、赤ん坊を正常な方法に戻そうと、妊婦を天井から逆さに吊るしたり、」「これはカローボフ村の妊婦でしたが、産婦人科医が子宮を突き刺すという噂を聞いて、テーブルナイフで赤ん坊の頭をめちゃめちゃに切ってしまった。さすがの名医リポーンチイも、赤ん坊は助けることが出来ず、母親の命を救うのがやっとだった」云々、云々。
 ストーブの蓋はもうとっくに閉まっている。私の客三人はそれぞれ、自分の住処へ帰る。アーンナ・ニカラーイェヴナの窓が暫く薄く明るかったが、それも消える。真っ暗。吹雪に、十二月の夜の、暗い闇が加わる。窓にも、大地にも、黒い幕がかかる。
 私は部屋の中をゆっくりと行ったり来たりする。足の下で、床がきしむ。オランダ製のストーブのお陰で、暖かい。どこかで元気のよい鼠が、何かを齧る音がする。
 「いやいや」と、私は考える。「いや、運命が私を、この僻地に置く限り、このエジプトの闇とも闘うぞ。しかし、角砂糖が・・・いやはや・・・」
 緑色の笠のランプの光の中でぼうーっとしていると、大きな都市、その中の大学が目に浮んで来る。そして、その大学付属の医学生実習室が。巨大な部屋、タイル張りの床、キラキラ光る水道の蛇口、真っ白い、殺菌したシーツ、先の尖った、賢そうな、灰色の顎髭、を生やした助手が・・・
 こういう時のノックの音には、いつもびっくりさせられる。心配になる・・・
 「誰なんだ? アクスィーニア」と、私は家の中の階段の手すりに寄りかかりながら訊ねる。(医者の部屋は二階にある・・・書斎と寝室だ。そして階下は・・・食堂ともう一室・・・この部屋の名前は知らない・・・そしてコックのアクスィーニアと、病院の唯一人の守衛であるアクスィーニアの夫が住んでいる。
 重い閂(かんぬき)のガタゴトいう音がし、ランプがつき、階下に揺らめき、冷たい風が入って来る。それからアクスィーニアが報告する。
 「患者さんです。」
 正直なところ、私は嬉しかった。丁度、もう眠る気にならなかったのだ。鼠が物を齧(かじ)る音、それに、大学のことを思い出して、少し淋しくなってきたのだ。そして患者は男。女ではない。つまり、一番恐ろしいお産でないことが確実なのだ。
 「歩いて来たのか?」
 「はい、歩きです」と、あくびまじりにアクスィーニアが答える。
 「書斎に通して。」
 階段が長い間きしむ。がっちりした、恰幅(かっぷく)のよい男が上って来る。この時までに私は、書き物机についている。医術の神エスクレピウスの外面(そとづら)を取り繕っている。その外面に、この私の本性・・・二十四歳の青二才・・・が、現れ出ないように、極力努めながら。右手には聴診器が、ピストルのように置かれてある。
 扉に、羊革の毛皮外套を着た男の姿が現れる。防寒長靴、そして手に、防寒帽。
 「一体どうしたんです。こんなに遅く」と、有難いと思った手前、照れ隠しに、重々しくこう言う。
 「すみません、先生」と男は、柔らかいバスの声を響かせて答える。「吹雪で・・・とても痛くなって・・・我慢出来ず、本当に申訳ありません!」
 『礼儀正しいぞ』と、満足して私は思う。風体も大変気に入る。そしてその濃い顎髭も、私に良い印象を与える。どうやらこの髭は、その持主に相当な手間をかけさせているらしい。ただ刈るだけではなく、何かつけているらしい。その物体が、植物油らしい、とは、この村に来てあまり長くない、新米の医者にも、簡単に見抜くことが出来る。
 「どうしました? とにかく外套をお脱ぎなさい。どこから来ました?」毛皮外套が椅子の上に置かれる。大きな外套で、椅子が小さく見える。
 「高熱です。痛むんです」と、病人は言い、悲しそうにあたりを見る。
 「高熱・・・フム。ドゥーリツェヴォ村から来ましたか?」
 「ええ、そうです。粉屋です。」
 「どんな高熱です? 説明して下さい。」
 「毎日、十二時になると頭痛が始ります。そして熱です。・・・それから二時間ほどの痛み。それから止みます。」
 『ああ、これで病名は分った。』私の頭の中で、勝利の『ガチャリ』という音が鳴る。
 「その他の時間は何でもないんですね?」
 「足がフラフラして。」
 「フム・・・シャツを脱いで・・・フム・・・なるほど。」
 診察が終る頃になると、私はこの患者にすっかり惚れ込んでしまう。筋の通らぬ話をする老人、「口をアーンと開けて」とパレットで舌を押(おさ)えようとすると驚いて飛び退(の)く若い男、今朝のベラドンナの女性、等々の後で、この粉屋は、私にとって心からの慰めだ。
 この粉屋の話にはセンスがある。本もよく読んでいるようだ。一つ一つの仕草に、科学に対する尊敬の念が溢れている。ということはつまり、私が献身している『医学』に、理解があるということだ。
 「いや、あなたはですね」と私は、彼の幅の広い、熱い胸を叩いて言う。「マラリアに罹(かか)ったんですよ。その熱はマラリアの間歇(かんけつ)熱です。今丁度、この病院の病棟は全室空いています。ここで療養なさることをお勧めしますよ。病状の監視もきちんとやります。粉薬(こなぐすり)の服用で、最初やってみますが、駄目なようなら注射にします。すぐ治りますよ。どうでしょう。ここにしますか?」
 「有難うございます。」大変礼儀正しく粉屋は答える。「こちらの病院の噂はよく聞いてをります。行き届いていて、親切だと。治りさえすれば、注射でも何でも、お願いします。」
 『いやいや、実にこれは、闇夜に一筋の光だ』と、私は思う。そして机につく。私の心は踊る。赤の他人の粉屋ではなく、実の弟がこの私の病院を訪ねて来てくれたような気分だ。
 私は処方箋の用紙に書く。

  Chinini mur. 0.5
  D.T. dos No. 10
 粉屋 フドーフ殿
 午前0時に、粉末一、服用

そして勢いよく署名する。
 備考欄に、
 『ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナ!
 フドーフ殿を第二病棟に。彼はマラリアです。発作四時間前、即ち夜中の十二時に、指定通り一服飲ませて下さい。
 この人は例外。インテリの粉屋です!』
 そして眠る・・・

 「ええっ? 何だって? どうしたんだ、アクスィーニア!」と、私は呟く。
 黒い地に水玉模様のあるスカートを恥かしそうに着て、アクスィーニアが立っている。ステアリン・ロウソクが、震える光で、彼女の眠そうな、心配そうな顔を照らしている。
 「マーリアがついさっき、駆け込んで来たんです。ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナが、先生にすぐ来て欲しいとのことです、と。」
 「どうしたんだ?」
 「粉屋です。第二病棟の。粉屋が死にそうだって。」
 「何だって? 死にかけて? どうして死にかけるんだ!」
 瞬間に私の両足が、スリッパに当らず、冷たい床を探っている。マッチを何本も擦(す)り損(そこ)ない、また、折角火がついても、それを灯心に当てることが出来ず、やっとのことでランプに火がつく。時計は丁度六時を指している。
 『何だって言うんだ?・・・一体何だって・・・マラリアじゃなかったっていうのか?・・・じゃ、何だったんだ。脈は正常で・・・』
 五分はかからなかった筈だ。私は靴下を裏返しに履き、上衣のボタンもかけず、髪はぼさぼさで、防寒長靴をひっかけ、中庭を走る。中庭はまだ真っ暗。第二病棟へ走り込む。 裸のベッドに粉屋が坐っている。その横に、クシャクシャになったシーツ類が重ねてある。小さなケロシン・ランプが粉屋を照らしている。茶色の、彼の顎髭は乱れ、目は異様に大きく、黒く見える。身体が、酔っているかのように、グラグラと揺れる。呼吸はやっと出来るようで、恐怖の表情でまわりを見ている。
 看護婦のマーリアが、ぽかんと口をあけ、彼の赤紫色の顔を見つめている。ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナが、白い上っ張りを片方の肩にだけ着て、髪は纏(まと)めず下がったまま、私の方へ慌てて駆寄って来る。
 「先生!」と、少し嗄れた声で、彼女が言う。「私が悪いんじゃありません、先生! こんなことが起きるなんて、どうして想像できます。先生だって処方箋の傍にわざわざ、『彼はインテリだ』って書いたじゃありませんか。」
 「どうしたんです。」
 ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナは両手を打ち合わせ、言う。
 「とんでもない話です、先生。この人、キニーネを十服、一ぺんに飲んだんです。十二時に。」
 
 ぼんやりした冬の夜明けだ。ヂェミヤーン・ルーキッチが胃ゾンデを片づけている。カンフル液の匂いが漂(ただよ)っている。床の上の洗面器は暗褐色の液体で一杯だ。粉屋は衰弱して、青い顔をして、真っ白なシーツを顎まで被せている。赤茶色の顎髭が逆立って、上に突き出ている。私は屈んで脈を取る。そして粉屋が、有難いことに、危機を脱したと確信する。
 「どうですか?」と、私は訊く。
 「目にエジプトの闇がかかっているようです・・・ああ・・・ああ・・・」と、弱いバスの声で粉屋が答える。
 「私にもエジプトの闇がかかっていますよ」と、私は苛立たしく答える。
 「ええっ? 何です?」と、粉屋が答える。(耳がよく聞えないのだ。)
 「ねえあなた、一つだけ教えて欲しいんです。どうしてあんなことをしたんですか?」私は、彼の耳に口を近づけ、怒鳴る。
 粉屋は、敵意あるバスで答える。
 「一服づつ飲んで、ここでぐずぐずしていることはないでしょう? 一回で飲めば、それで終なんですから。」
 「酷い話だ!」と、私は大声で言う。
 「全く、作り話だ、これは!」と、助手が毒々しく呟く。

 『いやいや・・・この闘いは、やり抜くぞ、私は・・・必ず・・・』辛い夜が終り、甘い眠りが襲って来る。帳(とばり)のように、エジプトの闇が降りて来る。その闇に向って私は進む。手に刀を持って。いや、聴診器を持って。進め! 闘うんだ! あの暗闇の奥へ! しかし、私一人ではないぞ。私には一部隊がついている。ヂェミヤーン・ルーキッチ、アーンナ・ニカラーイェヴナ、ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナ。四人とも、白い上っ張りを着て。前進、前進だ!
 眠り・・・ああ、有難い眠り・・・。

   失われた目
 このようにして一年が過ぎる。この家に馬車で着いてから丁度一年だ。一年前、丁度このように雨の靄がかかり、丁度このように白樺の最後の黄色い葉が悲しそうに萎(しを)れていた。周囲のもので、何一つ一年前と変ったものはないように見える。しかし、私自身は変った。たった一人で今夜は一周年を記念して祝うことにしよう。
 きしむ床を踏んで私は、自分の寝室に行き、鏡を見る。一年前、荷物から取出した鏡は、私の綺麗に剃った顔を映していた。七三に分けた髪が、当時二十三歳の私の顔を飾っていた。今はその分け目はない。頭髪は洒落っ気なしに、放り投げてある。汽車で三十里四方、どこにも私を魅惑してくれそうな物はない。そんなところでは、髪の分け方など無用なのだ。髭剃りも同様。上唇には、強固な、髭で出来た黄味がかった歯ブラシの帯があり、頬は卸(おろ)し金のようで、仕事中右腕がかゆくなると、その頬で擦(こす)ると実にホッとする。常にこういう状態だ。何しろ一週間に三日でも剃れればいいのだが、せいぜいが一回だからだ。
 私はどこかでいつか読んだことがある・・・どこでだか・・・忘れた。あるイギリス人が無人島に難破した。このイギリス人が傑作なのだ。無人島にあまりにも長くいたため、最後には幻影が現れる。そしてある船がその島に着き、救命艇を出し、助けようとした時、この男・・・長い隠遁生活を送ったこの男・・・は、無人の大海原が拵えあげた蜃気楼だと思い込み、救助隊にピストルをお見舞したのだ。しかし彼は髭を剃っていた。無人のこの島で、毎日髭を剃っていたのだ。この話を読んだ時の、大英帝国のこの誇り高き子孫への私の無限の尊敬の気持を、今でも覚えている。私がここへやって来た時、荷物の中には安全剃刀と一ダースの刃、そして西洋剃刀、それに髭剃り用ブラシがちゃんと入っていた。そして私は、毎日欠かさず髭を剃ろうと決心していたのだ。何故ならここは、無人島とそう変らない場所だと分っていたから。
 ところがある日、それは晴れた四月のある日だった。私のイギリス財宝を、斜めに当って来る黄金色の日の光の下に、置き、右の頬がつるつるに滑るようになるまで綺麗に剃り上げる。とその時、ドタドタっと馬の足音のような音を立てて人が入って来る。イェゴールイッチだ。破れかけた長靴を穿いたまま報告する。禁漁区の川の傍(そば)、藪の中、で、お産が始まった、と。今でも覚えている。私は左側の頬につけた泡をタオルで拭取り、イェゴールイッチと一緒に飛び出す。ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナを加え三人で、歯の落ちた柳の木立の間を、服を風にはらんで膨らませ、産婦のことを気にしながら、川の方へと走る。助産婦はピンセット、包帯一巻、ヨードチンキの壜、を持ち、私は両目を膨らませ、後ろにイェゴールイッチを従えて。イェゴールイッチは五歩走る度に地面にしゃがみ、罵りながら左足の靴を引っ張る。靴底が取れかかっているのだ。風は正面から吹いて来る。ロシアの春の、野性的な、気持のよい、風だ。ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナの髪から櫛がもうとっくに落ち、くしゃくしゃになった髪の結目はほどけ、肩に当っている。
 「どうしてお前は稼いだ金を全部飲んでしまうんだ」と、走りながら私はイェゴールイッチに呟く。「しようもない奴だ。病院の門番だぞ、お前は。それなのに不浪人だぞ、その格好は。」
 「あれで金ですかい」と、イェゴールイッチが毒づく。「月たったの二十ルーブリ。何の足しにもなりゃしない。・・・糞っ、何だ、これは」と、足を地面に打ちつける。まるで馬だ。「金・・・飲むにも足りないのに、靴がどうして買えるっていうんです。」
 腐った橋の傍から、哀れな、微かな叫び声が、春の増水の音を通して聞えて来(き)、そして消える。三人が駆けつける。くしゃくしゃの髪の女性が痙攣を起しているのを見つける。スカーフは頭から落ち、髪は、汗びっしょりの額にくっついている。苦しさで目がぐるぐると回り、爪で毛皮外套を引っ掻いている。真っ赤な血が、岸辺の水に、濡れた地面から、生えたばかりの瑞々しい緑色の草の上に流れている。
 「間に合わなかったのね、病院に」と、忙(せわ)しなく助産婦が言う。助産婦も、まるで魔女のように髪がくしゃくしゃ。急いで包帯を用意する。
 そして、この川のほとり、黒ずんだ丸太の橋桁(はしげた)の下で、春の増水の音を聞きながら、私とピェラゲーヤ・イヴァーノヴナは、男の子の赤ん坊を取上げる。赤ん坊も命があり、産婦も無事。二人の産婆(一人は私のこと)とイェゴールイッチは、産婦を担架に乗せ担架に乗せて、病院まで運ぶ。イェゴールイッチはついに、忌わしい、腐った、左足の靴底を捨て、左足は裸足だ。
 産婦がやっと落着き、青ざめた顔でシーツに包(くる)まって横になった時、そして赤ん坊がその傍のゆりかごの中に置かれ、総てが順調に終った時、私は産婦に訊く。
 「ねえあなた、橋の下なんかより、もっとお産が楽に出来るところがある筈ですよ。どうして馬で来なかったんです?」
 産婦が答える。
 「舅(しうと)が馬を出してくれなかったんです。『たったの五里だ。歩いて行ける。お前は丈夫な女だ。無駄に馬を出す必要はない』と。」
 「あんたの舅は馬鹿だ。豚野郎だ」と、私は言う。
 「まあなんてお優しい人なんでしょうね」と、優しくピェラゲーヤ・イヴァーノヴナが言い、何故かクスクス笑う。
 私は彼女の視線の方向を捕える。私の左頬にその視線は落ちている。
 私は部屋を出、分娩室に入り、鏡を見る。鏡は、いつも映し出すものを私に見せている。明らかに痴呆症の、歪(ゆが)んだ顔。そして左目が、殴られて青染(じ)みの痕がある、例の顔だ。しかし、今日のこの顔は、鏡に責任はない。この、痴呆の男の右頬は、ピカピカに磨かれたダンスホールで踊っても大丈夫なほど綺麗に剃られている。ただ、左の頬は、濃い赤茶けた体毛がくっついている。その境目(さかいめ)が勿論顎だ。「サハーリン」という題名の、黄色い表紙の本を私は思い出す。そこには、様々な犯罪者の写真が載っている。
 『強盗、殺人、血にまみれた斧』と、私は考える。『十年だな・・・この無人島では、実に奇妙な人生を送ることが出来るものだ。さ、髭を剃り終らなきゃ・・・』
 広い耕作地から運ばれる四月の風を胸に吸い込みながら私は、白樺の天辺でうるさくないている烏(からす)の声を聞き、春の太陽の光を、目を細めて、見る。そして、髭剃りを終えるため、中庭を横切る。これがほぼ午後三時だ。そして、剃り終えたのが、何と夜九時なのだ。叢(くさむら)の中でのお産のような事件があった時、私の観察によればこのムリョーヴォ村では、この一件で終る筈がない。私の家の玄関ホールの扉の把手(とって)を握った瞬間、馬車の馬面(うまづら)が病院の入口に現れる。前面に泥を跳ね散らかした荷車がその後ろに、揺れながらついて来る。百姓の女が、馬を御(ぎょ)し、金切声で怒鳴る。
 「ホーレ、止るんだ、こいつめ!」
 荷車のボロ切れの山の間から、子供の泣声が聞えて来る。
 勿論子供は足の骨折だ。私と助手は、それから二時間、子供にギプスを嵌めるため奮闘する。その二時間の間中、子供は泣き喚(わめ)いている。それから夕食だ。夕食が終る。と、すぐには髭を剃る気がしない。何か本が読みたくなる。夕闇が迫る。遠くに靄(もや)がかかる。私はうんざりして、顔を顰(しか)めながらやっとのことで髭を剃り終る。しかし「ジレット」は石鹸水の中で放っておかれたため、春の橋の下でのお産の記念に、永久に錆(さび)の縞がつく。
 そう、一週間に三度など、とても無理だ。時折、雪に全く閉込められることがある。途方もない吹雪で、丸二日、この病院に。九里離れたヴァスニェスェーンスクに新聞を取りに行かせることも出来ない。私は、長い夜を自室でウロウロと歩き回る。無性に新聞が読みたい。丁度子供の頃、クピェローフスキーの連載していた「狩人」の続きを読みたくてたまらなかったように。しかし、とは言え、かのイギリスのよき伝統はこの無人島、ムリョーヴォにおいて、すっかり消えたわけではない。時には私は、黒いケースから、光り輝く玩具(おもちゃ)を取出し、髭を剃る。私の顎は滑らかに、清潔になる。誇り高き、かの島国の人々のように。ただしかし、残念なことに、この私の心意気を褒めてくれる者は誰もいない。ああ、そうだ・・・うん・・・こういうこともあった。髭剃りの道具を取出し、アクスィーニアが私の部屋へ熱い湯を入れたマグカップを持って来た丁度その時、扉をドンドンと、雷が落ちるような勢いで叩く者がいる。結局私とピェラゲーヤ・イヴァーノヴナは、恐ろしい遠方へと出発せねばならぬ。羊の毛皮外套にくるまり、馬、御者、そして我々二人、まるで真っ黒い幽霊のような格好で、荒れ狂う白い大洋へと乗り出す。吹雪が魔女のようにヒューヒューと声をたてる。唸る。唾を吐く。大声で笑う。すべては白一色の中に消える。私はいつものひんやりとしたものを鳩尾(みぞおち)の辺りに感じる。ひょっとしてピェラゲーヤ・イヴァーノヴナ、御者、二頭の馬、そして私、全員が、この悪魔のような、クルクル回る靄(もや)の中に落込み、二度と起上がれないのではないかと。そして次のような馬鹿な考えがふと心に浮ぶ。我々全員が半分雪に埋まり、死にかかった時、私、助産婦、そして御者に、私はモルヒネを注射するのではあるまいか、と・・・何故?・・・勿論、苦しまないため・・・『おいおい、お医者さんよ、馬鹿なことは止せ』と、乾いた健全な精神が私に言う。『モルヒネよりずっとずっと凍死の方が楽なんだぞ。』「ウーウーウー・ハーッハーッハーッ」と、魔女が声を上げる。その度に我々は橇の中で右に左に押しつけられる。モスクワの新聞ではどう書くか。『医者の義務を果すべく雪の中を出張。凍え死ぬ。医師だれそれ、ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナ、御者、それに馬二頭。雪国のこれら屍(しかばね)よ、安らかに眠れ。』やれやれ・・・所謂、「医者の義務」が、橇でお前を運びに運んでいる時、お前の頭には何てことが浮んで来るのだ・・・
 我々は死ぬこともなく、道に迷うこともなく、無事グリーチシェヴォ村に着く。ここで私は、生涯で二度目の逆子の出産を行う。産婦はこの村の女性の教師。そして、私と助産婦が、肘まで血だらけになり、目に汗が入り、ランプの光の下で逆子と格闘している間、産婦の夫が真っ暗な別室で、哀れな声を出し、歩き回っている。その足音が板の扉を通して間断なく聞えて来る。産婦の呻きとその夫の泣声のせいで私は・・・これは秘密・・・赤ん坊の手を折る。この赤ん坊を死産にしてしまう。背中にどっと汗が出る。頭にふと幻影が現れる。巨大な、黒い、陰気な姿が、家に入って来て、冷たい、石の用な声で言う。『ヨーシ、この男から免状を取上げろ!』
 私は疲れ果て、黄色い、死んだ赤ん坊を眺める。そしてクロロホルムで意識不明になってじっと動かない、蝋(ろう)のような顔色の母親を見つめる。吹雪の細い流れが通風口を叩いている。私達は、重苦しいクロロホルムの蒸気を消すため、二三分通風口を開ける。そしてまたバタンとこれを閉める。そして再び助産婦の腕に抱かれた赤ん坊の、だらりと力なく垂れた手を眺める。母親の世話はピェラゲーヤ・イヴァーノヴナに任せて私は一人で自宅へ向う。ああ、あの時の無力感をどう表現していいか。小止みになった吹雪の中を橇のあちこちに頭をぶっつけている間、黒い森が私を、怒ったように、非難するように、そして何の希望も与えず、じっと見ている。私は、打たれ、押し潰され、運命と戦う気力がなくなっているのを感じる。運命は私を、この僻地に投込み、支援も助言もなく、たった一人で戦うよう命じたのだ。何という辛さだ、この運命と戦って、生きて行かねばならないとは。どんな微妙な、そして複雑なものが・・・大抵は外科手術だが・・・持込まれても、私はそれに立ち向い、この、剃っていない顔を前に突出し、それを克服しなければならない。もし失敗すれば、今のこの状態だ。母親と死んだ赤ん坊を後に残し、橇の中で悩まねばならない。明日、もし吹雪が収まれば、ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナは母親を私のところに連れて来るだろう。そこで大きな問題だ。母親をうまく立直らせることが出来るのか。うまく立直らせる? 冗談じゃない、そんなうまい言葉がどこにあるというのだ。実際、私は何も知らず、ただあてずっぽうにやって来ただけなのだ。確かに今まではついていた。恐るべきことに、幸運にも、難関を切抜けて来られたのだ。しかし今日は駄目だった。孤独で、寒い、そして誰も傍にいてくれない。ああ、胸が締めつけられるようだ。それに私は、罪まで犯している。あの赤ん坊の手。どこかに出頭せねば。誰かの前に膝まづき、医師何某は、これこれにより赤ん坊の手を折ってしまいました。どうか医者の免状を取上げて下さい。私はその価値がありません。どうかサハーリンに私を島流しにして下さい。・・・やれやれ、何というノイローゼだ!
 私は寒さを避けるため、橇の奥底に小さくなって横(よこたわ)る。そして、自分が哀れな子犬に、哀れな宿無しに、哀れな能無しに、見えて来る。
 長い長い距離を我々は走る。そして、小さな、しかし心躍らせる、病院の玄関の、灯りが見えて来る。それは瞬(またた)き、小さくなり、急に燃上がり、そして再び消え、玄関の方へと我々を手招きする。その灯りを見ると、私の孤独な心も少し楽になる。そして灯りが大きくなり、私の目に、しっかりとした灯りだと確認でき、病院の壁が黒から白へと変り、私の身体が門の中に入る頃になると、私はやっと自分に言い聞かせている。
 『馬鹿な。赤ん坊の手がどうだって言うんだ。たいしたことじゃない。お前が手を折った時、もう既に赤ん坊は死んでいたかもしれないじゃないか。赤ん坊の手のことよりも、母親が生きていたことを考えるんだ。』
 灯りが、そして勝手知ったる門の様子が、私を勇気づける。そして何よりも、自分の住処へ入り、部屋に落着き、ストーブの暖かさを感じ、あらゆる苦悩の救済者、眠り、がやって来るのを予感すると、私はほっとして呟く。
 『そう、母親が生きていたのは確かに有難い。しかしやはり辛い。孤独だ。本当に孤独だ。』
 髭剃りの道具が机の上に置いてある。熱湯の醒めた水、の入ったジョッキがある。私は髭剃りの道具を、腹立ち紛れに引出しの中に投入れる。ああ、しかし、髭を剃りたい。どんなにかさっぱりするだろうに・・・
 こうして一年が過ぎた。過ぎて行く途中、この一年は何て多様に、何て複雑に、何て恐ろしく、その時々の顔を見せたことか。そして今、私は、それが暴風のように、あっという間に過ぎて行ったことを感じる。自分の顔を鏡でじっと見る。するとその顔に、途中経過の痕跡がちゃんと残っている。目は以前より厳しく、そして不安を表し、口は以前より自信のある、そして男らしい『へ』の字に。鼻柱の上の皺(しわ)、これは生涯残るだろう。私の記憶にこの村が残っている限り。私は再びその皺を鏡で見る。皺はお互いに競争のようにいきり立って走っているようだ。無理もない。医者の免状を召上げられるのではないかと心の底で震えていた時もあったのだから。その時には、いつ私を裁く裁判が開かれ、厳しい顔をした裁判官がいつ私に詰問するか、おどおどしていたのだ。
 『それで、例の兵士の顎はどうなった。答えろ、この悪党! 大学出たてのホヤホヤ医者め!』と。
 忘れられようか! ヂェミヤーン・ルーキッチなる助手が、この病院にいる。古い薄板から錆(さび)た釘を引抜く大工のように、実に易々(やすやす)と抜歯(ばっし)をする男だ。とは言っても、私にも威厳というものがある。私がこのムリョーヴォに来て少し経った頃、もう既に私は、抜歯は自分でも出来なければならぬと心に決めた。ヂェミヤーン・ルーキッチだって、休みを取るかもしれない。病気になるかもしれないのだ。そして助産婦は何でもやってくれるが、ただ一つ、抜歯だけは職務ではありませんので、と断っているのだ。
 さてそこで・・・ある日私の目の前のスツールに、実に健康そうな赤い顔をした、但し、疲れきった顔をした男が坐る。革命後、部隊が解散になり退役となった兵士だ。よく覚えている、健康そのものの、顎にしっかりとついた、頑丈な、歯を。ただ、それは虫がくっている。私は自信ありそうに見せるため、わざと目を細め、何か無理にブツブツと呟き、歯の上にペンチを載せる。そうしながら私は、チェーホフの、かの有名な、寺男の、歯を抜く話を思い出している。そしてこの時初めて、この話は全く面白可笑しいものではないことに気づく。兵士の口の中で、何か大きな、砕(くだ)ける音がし、兵士が短く、「アアーッ」と叫ぶ。
 それから後、私の手に、全く抵抗がなくなり、ペンチが、血だらけの白い何かの物体と共に、口から飛出す。ここで私の心臓はギクリと音を立てる。何故なら、出て来た物体は、いかなる歯よりも容積が大なのだ。勿論、兵士の臼歯だとて、これほど大きくはあり得ない。最初私は、ただ訳が分らないだけ。しかし、次に私は、泣きたい気持になる。確かにペンチの先には、長い根のついた歯がある。しかし、その歯に、明るい、白色の巨大な骨がぶら下がっている。
 『俺はこの男の顎を壊してしまったぞ』と、私は考え、足がふらついて来る。幸運にも、私の傍に、助手も助産婦もいない。私はこそこそと、自分の恐しい労働の成果の物体を、ガーゼで包み、ポケットに突っ込む。兵士はスツールの上でよろめき、一方の手で助産婦の椅子の足を掴み、もう一方の手でスツールの足を掴む。そして茫然自失の目で私を見つめる。私は狼狽(うろたえ)ながら彼に、過マンガン酸カリウムの溶液の入ったグラスを突き出し、命じる。
 「口を濯(ゆす)いで。」
 これは馬鹿げた命令だった。濯ぐも何も、彼は溶液を口に含むや、すぐにボールに、口の中にあるものを吐出す。まづ、兵士の血に混(まじ)って何とも言いようのない色をした、粘っこい液体がこぼれ出す。次に、血が、大量に、私は自分が気絶するのではないかと疑う程、迸(ほとばし)り出る。私がたとえ、この兵士の喉を剃刀で切ったとしても、これほど勢いよく血は流れ出ない筈だ。私は、過マンガン酸カリウムのグラスを机の上に置き、兵士に飛びつき、パックリ口を開けた彼の顎の穴にガーゼの塊を詰込む。一瞬のうちにガーゼは血を含み、ブヨブヨになる。それを取除き、穴を見る。何とその穴はゆうに李(すもも)が入る程の大きさがあるのだ。
 『俺はこの兵士を御六字(おろくじ)(「南無阿弥陀仏」)にしてしまったぞ」と、私は狼狽(うろた)えて、ガーゼを束(たば)から長く引出しながら思う。やっと血は止る。私はその穴にヨードチンキを塗る。
 「三時間ほどは、何も食べないで下さい」と、私は震える声でこの患者に告げる。
 「どうも有難うございました」と、兵士は言う。そして、何か驚いたような目で、自分の血で一杯になっているボールを眺める。
 「ねえ君」と私は、奇妙な声を出しながら言う。「実はその・・・明日か明後日、私に見せに来て欲しいんだが。実はその・・・もうちょっと見たいところが・・・怪しい歯がその隣にあって・・・いいですか?」
 「有難うございます」と、兵士は答え、頬を押えながら去る。私は待合室によろめきながら入り、そこに暫く坐る。両手で頭を抱える。まるで自分の歯が痛いという姿勢だ。およそ五回、私はポケットから血だらけの堅い塊(かたまり)を取出し、そしてまたポケットにしまう。
 それから一週間、私は夢の中で生きているようだった。気分が悪く、痩せてゆく。
 「あの兵士、壊疽(えそ)を起すぞ。さもなければ敗血症だ・・・ああ、糞っ! 何故考えもせずすぐにペンチを使ったんだ!」
 ひどくまづい光景が浮んでくる。あの兵士が震え始める。しかしまだ健全だ。歩き、喋る。ケレーンスキーでの戦闘の話、前線でのこと、そしてだんだんと言葉少なになる。もうケレーンスキーどころではない。兵士は更紗(さらさ)の枕に頭を載せ、囈言(うわごと)を言う。四十度の熱だ。それから彼は、聖像のもとに寝かされる。鼻が痩せて、尖っている。
 村では陰口がたたかれる。
 『一体どうなっているんだ?』
 『医者が歯を抜いたんだ。』
 『そうか、それでこうなったか。』
 云々、云々。そして調査が始まる。厳(いか)めしい顔の検査官が来る。
 『君か、歯を抜いたのは。』
 『はい、私です。』
 兵士が埋葬される。裁判。私は負ける。私が彼の死の原因。そして私はもう医者ではない。お払い箱になった人間。いや、それより悪い。もう人間扱いされない人間だ。
 兵士は歯を見せに来ない。私は心配する。ガーゼに包んだ塊は、机の上で腐蝕し、乾燥する。一週間後に私は、この病院の従業員に支払う給料を、郡の役場に取りに行く必要があった。一週間は待てず、私は、五日後に病院を出、何はともあれ、郡の病院の医者のところへ行く。この医者は煙草のやにで色の変った小さな口髭のある人物で、郡の病院に二十五年勤めている。その顔を私は何度も見ている。夕方私は、彼の書斎に行き、うかぬ顔でテーブルクロスをもじもじしながら触り、レモンティーを飲む。到頭我慢出来ず、霧のかかったようなインチキ臭い話し方をする。「エート、こういうことってあるものでしょうか・・・その・・・誰かが歯を抜く・・・すると、顎が壊れて・・・壊疽(えそ)を惹き起す・・・つまりその・・・顎の骨が取れて・・・どこかで読んだ気もしますが・・・」
 この医者は熱心に聞く。太いもじゃもじゃの眉、色のさめた眼鏡の奥からじっと私を見ながら。そして突然言う。
 「君はね、患者の歯槽を壊したんだよ。・・・まあ、そのうち抜歯はうまくなります。ああ、お茶なんか止めにしよう。夕食前に一杯やりませんか。」
 私はこのひと言で、例の兵士への心配は頭から永久に吹っ飛んでしまう。
 ああ、記憶を映す鏡! 一年経つ。この歯槽の話を思い出すと、私は心から笑えて来る。勿論私は、ヂェミヤーン・ルーキッチのようにうまく抜歯が出来るよにはなれない。いや、とても。彼は毎日平均五回は抜歯をやっている。私は二週間に一度だけだ。しかしそれでも、大勢の医者から羨ましがられる程度に上手に、抜くことが出来る。そして歯槽を壊すようなことはしない。そして、たとえ壊したとしても、狼狽えはしない。
 しかし、歯などもう問題ではない。この貴重な、二度と経験出来ない一年に、私が見なかった何があろうか。私がしなかった何があろう。あらゆることを見、した気がする。
 夕闇が部屋に忍び込んで来る。もうランプが灯っている。煙草の濃い煙の中を泳ぎながら、私は総括する。私の心は誇りに満ちあふれる。腿(もも)からの切断を二回、指の切断は数え切れない。掻爬(そうは)、これは十八回。すべて成功。腫瘍の手術も何度やったか。骨折で、ギプス或はスターチ、脱臼の矯正、呼吸困難の患者への挿管、お産、何でもござれ、だ。さすがに帝王切開は出来ない。これは町まで送らねばならない。しかし、鉗子、逆子・・・いくらでもどうぞ。
 大学卒業のための最後の口頭試問を覚えている。教授が訊く。
 「至近距離で撃たれた傷について述べよ。」
 私はあてずっぽうに述べ始める。そして長々と。私の目の前に、厚い教科書の頁の記憶が、次々と現れる。ついに私は言い止む。教授は私を、嫌悪に満ちた表情で見、そして、金切声で言う。
 「君の言ったこと一つとして、至近距離で撃たれた傷であるものはない。君は今までいくつ五を取っている。」
 「十五です」と、私は答える。
 教授は私の名前の横に三をつける。私は恥辱にまみれて去る。
 卒業試験に合格。まもなく私はムリョーヴォにやって来る。ここで私はたった一人だ。至近距離での傷など糞くらえだ。しかし、この病院に運びこまれ、手術台に載せられた男が、唇から血で真っ赤になった泡を吹き出して、私の目の前に横(よこたわ)った時、私は狼狽(うろた)えたか? いや、至近距離で散弾が当り、肺がバラバラに飛散り、表面に見えて、胸の筋肉が引きちぎられてぶら下がっていても、私は狼狽えなどしなかった。そして一箇月半すると、彼は、この病院から、生きて退院したのだ。大学では私は、一度だって助産のための鉗子を手にしたことはなかった。が、しかし、ここでは・・・確かに手は震えていた、が・・・躊躇(ためら)わずに鉗子を握った。正直なところ、私が取上げた赤ん坊は奇妙だった。顔の半分は異様に膨(ふく)れて、濃い紫色をしている。そして片目が潰(つぶ)れている。私は青くなる。その時ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナが、慰めるように言った言葉が、また私に冷汗をかかせる。
 「大丈夫ですよ、先生。鉗子の片方の先が、目に当っていたんです。」
 私は二日間震えが止らない。しかし、二日後、赤ん坊の顔は正常になる。
 私はどれだけ多くの傷を縫ったことか。肋膜炎の治療で、どれだけ肋骨をこじ開けたことか。肺炎を、チブスを、癌を、ヘルニヤを(これも成功だった)、痔を、肉腫を、治療したことか。
 ふと思いついて私は、外来患者のノートを取り出し、一時間かけて、数えてみる。今日、この晩で丁度一年になるが、私は一五、六一三人の外来患者を診る。入院患者は二百人。そのうち六人だけが死ぬ。
 私はノートを閉じ、這うようにしてベッドに行く。二十四歳になったばかりのこの私が、今ベッドに横(よこたは)っている。そして考える。私は何て大きな経験を積んできたのだ。私に怖いものなどもう何もないぞ。小さい子供の耳に挟まった豌豆(えんどう)豆も無事取った。それに、切って切って切りまくった。私のこの手は、男らしく、震えることなどもう全くない。病院の誰が聞いても何も分りっこない女性患者の陰謀を、私は隅から隅まで分ってしまう。シャーロック・ホームズが謎の書類を解読するのと全く同じだ。・・・快い眠りがまぶたに落ちて来る・・・
 うとうとしながら私は考える。「確かに今まで私が手のつけようもなかった患者は来たことがない・・・モスクワの医者に言わせれば、この私など、『助手』程度のものだ、と烙印(らくいん)を押すかもしれない。まあいい、言わせておけ。連中は到れり尽くせりじゃないか。モスクワの診療所、大学病院、レントゲン検査室・・・私はここムリョーヴォにいるんだ。何もかもやらなきゃならない。農民達はこの私がいなければ生きて行けないんだ。最初のうち扉にノックがあるのをどれ程怖れたか。ノックの音で震え上ったものだ。それが今では・・・
 
 「いつですか? こんな風になったのは。」
 「一週間前からです、先生。一週間前です。・・・急に膨れてきて・・・」
 と、母親は泣き始める。
 私のここでの第二年目の第一日目、灰色の九月のある日のことだ。ゆうべ私は、うとうとしながら、自分を誇りに思い、自慢をしたのだ。そして今、狼狽してただ目をキョロキョロさせるだけだ。
 母親は、一年に満たない赤ん坊を、両手で薪を持つような手つきで抱えている。その赤ん坊の左目がないのだ。両側が細く筋になっている。通常のまぶたの代りに小さな林檎ほどの大きさの、黄色い丸いものがあるだけだ。赤ん坊は痛がり、震え、泣いている。母親も泣いている。そして私は、途方にくれている。
 私はあらゆる角度からこの黄色の球を眺める。ヂェミヤーン・ルーキッチと助産婦は私の後方にいる。二人とも何も言わない。こういうものは見たことがないのだ。
 『何だこれは。脳のヘルニアか。ウム、生きている。癌かな? フム、柔らかい。見たこともない。薄気味悪いむくみだ。どこから生えてきたのか。前あった目からか。ひょっとすると、目は最初からなかったのかもしれんぞ。とにかく今は目はないんだ。』
 「ウン、これは」と、突然思いついて私は言う。「このものを切らなきゃなるまい・・・」
 言ったとたん、私は想像する。まづ、この膨れたものに切れ目を入れる。上下にそれを開く・・・それからどうする・・・
 『それで?・・・それからどうしたらいい。本当に脳が出て来たものだったら・・・糞っ、柔らかい・・・脳によく似ている・・・』
 「切るですって?」と、母親は青くなって訊く。「目を切るだなんて、私、承知しません。」
 母親は怖れをなして、布切れで赤ん坊を覆い始める。
 「目など、この赤ん坊にはありません」と、私は断固として答える。「見てご覧なさい。どこに目がありますか。ただ奇妙なむくみがあるだけです。」
 「薬を下さい」と、恐怖の表情で母親は言う。
 「何が薬ですか。こんなものに薬などありません。こういうものに薬など効かないんです。」
 「じゃ、目がないまま放っておけと言うんですか。」
 「目は最初から、ないと言っているでしょう。」
 「でも三日前にはありました」と、必死に母親は怒鳴る。
 『糞っ!』
 「それは私には分りません。あったのかもしれませんよ、それは・・・でも、今はないんです。とにかくお母さん、あなた、この子を町の病院に連れて行った方がいいです。町の病院ならすぐに手術です。・・・そうだな? ヂェミヤーン・ルーキッチ。」
 「ええ、そうです」と、助手は意味深長な表情で答える。明らかに何と言ってよいか分らないのだ。「とにかく、見たことがないな、こういうものは。」
 「町で切れ?」驚いて母親が訊く。「いいえ、連れて行きません。」
 結局母親は我々に手も触れさせず、さっさと引取って行く。
 それから二日間、私は頭を絞る。肩を竦(すく)める。図書館を引っ掻き回す。目の代りにむくみが突出ている写真がないか、図鑑をめくる。・・・糞っ、何もない。
 そして二日が過ぎ、赤ん坊のことはすっかり忘れてしまう。
 
 一週間が過ぎる。
 「アーンナ・ジューコヴァ!」と、私は叫ぶ。
 両手に赤ん坊を抱えて、にっこり笑いながら母親が部屋に入って来る。
 「どうしました?」と、いつものように私は訊ねる。
 「大丈夫だったんです。死にはしませんでした」と、母親は説明し、何故か可笑しそうに微笑む。
 その声の調子で私はハッとなる。
 「この子が分りますか?」と、可笑しそうに笑って、母親が言う。
 「待って、待って・・・うん、この子は・・・そう・・・あの時の、あの子?」
 「ええ、あの時のあの子ですよ。先生、覚えていらっしゃいますね? 先生は『この子には目がない。切らないと・・・』と仰ったんですよ。」
 私は唖然とする。母親は勝ち誇ったように私を見る。その目には笑いが籠っている。
 母親の両手に抱かれて赤ん坊は茶色の目で外景を眺めている。黄色い水ぶくれは跡形もない。
 『魔法にかけられていたか・・・』と、私は狼狽しながら思う。
 そして、暫くして、用心深く赤ん坊のまぶたをひっくり返す。赤ん坊はヒーヒーと泣く。頭を後ろに廻そうとする。しかし私には見える・・・粘膜に傷跡が・・・ああ、そうか・・・
 「ここから出て、暫くして、あの水ぶくれが破裂したんです。」
 「ああ、アーンナ・ジューコヴァ、もう話はいい」と、私は困ったように言う。「私は分りましたから。」
 「先生はそれなのに、『目がない』だなんて。見て下さい。ちゃんと生えて来たんです」と言って、母親は嘲笑するように笑う。
 『そうか、糞ったれめ・・・まぶたの下から巨大な膿腫(のうしゅ)が発生したんだ。それが成長して目を押退(の)け、目を覆ってしまったんだ・・・そして破裂して、膿(うみ)が外に出て・・・全部が元に戻ったんだ。

 いや、自慢はいけない。うとうとと寝入る時にだって、「何も怖いものはない」などと生意気を言っては駄目だ。一年は過ぎた。次の年だ。次の年も最初の年と同じように、いくらでも驚きが待っている。一年目と同じだ。常に初心で事に当たらなければ・・・

  七 星形の発疹
 うん、これはあれだ。勘が私に告げる。知識に頼るまでもない。だいたいこの、知識、と言ったって、六箇月前に大学を卒業したばかりの私だ。たいしたものである筈がない。
 私は、その患者の、肌脱ぎになった、見るからに熱そうな、肩、に触るのも恐しく(怖がる必要などないことなのだが)、言葉だけで、彼に命じる。
 「ちょっとあなた、灯りに近づいてみて下さい。」
 その患者は、私の希望通りの動きをし、ケロシン・ランプの光が彼の黄色い肌を照(てら)す。よく発達した胸の黄色い肌から、ボツボツの発疹が現れている。次に脇腹。同様だ。『空に光っている星のようだ』と、私は思う。心臓にヒヤリと、冷たいものを感じ、胸に目をやり、また目を逸らして、患者の顔を見る。私の目の前には、四十歳ぐらいの、縺(もつ)れた汚い灰色の顎髭の、膨(ふく)れた瞼(まぶた)の下のよく動く目をした、患者が坐っている。非常に驚いたことに、私は、その目の中に、この患者が自分自身にもっている、自信と威厳を読み取る。
 全くたいした病気でないと、決めてかかっている患者特有の、例の退屈そうな、無関心な態度だ。瞬(まばた)きをし、辺(あた)りを見回し、ズボンのベルトを直す。
 『こいつはあれだ・・・梅毒だ。』私は再び、自分に厳しく言い聞かせる。この病気にぶちあたったのは、私の医者としての経歴で、今が初めてだ。私は、革命の初期に大学を卒業、ただちにこの辺鄙な田舎に赴任して来たのだ。
 予め、梅毒らしいと、患者から知らされてこの患者を診たのではない。全くの白紙で、ただ、喉(のど)の具合が変だからと言って、私のところへやって来たのだ。私は何の心の準備もなく、梅毒など全く予想もせず、機械的に「服を脱いで下さい」と言う、そしてこの星形の発疹を見つけたのだ。
 声の嗄(しゃが)れ、喉の不吉な赤さ、その赤さの上にある奇妙な斑点、ブツブツのある胸、を、総合考慮して、推定したのだ。これを見るや、まづ私は、卑怯にも、両手を純化水銀の球にこすりつける。『この男、私の両手に咳をしたらしいからな』と、怖々(こわごわ)考えだからだ。次に、嫌々(いやいや)ながら、しようことなしに、ガラス製のパテナイフを握り、それで舌を押(おさ)えながら、患者の喉を調べる。さて、調べ終って、パテナイフをどこに置こう。
 窓の傍に脱脂綿を置き、そこに置くことにする。
 「ええ、あなた」と、私は言う。「実はその・・・フム・・・どうやら・・・まあ、これは推定ですが・・・その、いいですか? 悪い病気です、これは・・・梅毒です。」
 と、こう言った後、すぐ私は後悔する。この男がひどく驚いて、狼狽(うろた)えるのではないかと心配したのだ。
 しかしそれは違った。狼狽えるどころか、驚きもしない。何故か彼は、私を、斜めに見上げるような格好をする。丁度雌鶏(めんどり)が、自分に声をかけられて、丸い目でこちらを見る時のように。そしてその丸い目には、ひどく驚いたことに、この私を信用していない眼差しがある。
 「あなたは梅毒なんです」と、私は優しく繰り返す。
 「それで、どうだと言うんです?」と、斑点の発疹の男が訊く。
 ここで私の目の前に、大学の病院、大学の真っ白い半円形階段教室、その教室で私から下に見える、重なった学生の頭々、そして性病学教授の灰色の顎髭、が、現れる。とすぐに、私は我に返り、自分が半円形階段教室から千五百里、汽車のあるところから四十里、離れた所にい、稲妻型ランプの下にいることを思い出す。白い扉の後ろからは、順番を待っている大勢の患者の呟きが響いている。窓の外は静かに夕闇が迫り、この冬の最初の雪が舞っている。
 私は患者に、もう少し身体を見せるよう指示し、既に治っている初期の潰瘍(かいよう)の痕(あと)を見つける。これで最後の私の疑いもはれ、診断が正しかった時にいつも感じる、あの誇らしい気持が湧いて来る。
 「服を着て下さい」と、私は言う。「あなたは梅毒に罹(かか)っています。どんどん身体を蝕(むしば)んでゆく、非常に危険な病気です、これは。治療には、大変長い時間がかかります!」
 ここで私は口を噤(つぐ)む。何故なら・・・そう、私は誓ってもいい・・・この雌鶏に似た丸い目に、私ははっきりと、驚きの他に、あからさまな皮肉の色を見て取ったからだ。
 「喉がぜいぜい言うだけなのに」と、患者は呟く。
 「そうです。梅毒のせいでそうなっているんです。胸の発疹もそのせいなのです。ほら、胸を御覧なさい・・・」
 患者は目を下に向け、胸を見る。目の皮肉な色は少しも消えない。
 「喉を治して欲しいんですがね」と、患者がぼそぼそと言う。
 『何を考えているんだ、この男は。』早くも苛々しながら、私は考える。『こっちは梅毒のことを言っているんだ。喉がどうしたって言うんだ。』
 「ねえ、あなた」と、私は声を出して言う。「喉なんか、二の次の問題です。勿論喉も治しますが、一番大切なことは、病気全体を治すことです。そして、この病気を治すのは大変時間がかかります。まあ、二年ですね。」
 二年と聞いて、患者は目の玉を飛び出すようにして、私を見る。その、発音されない彼の言葉が、そのまま私の耳に達するかのようだ。『何ですって? 先生。あんた、気が狂ったんでしょう。』
 「どうしてそんなに長くかかるんです」と、患者は口に出す。「二年! 私はただ、喉が変なので、何かうがい薬が欲しいだけなんですよ。」
 私は身体中がカッと熱くなる。私は喋り始める。この男を驚かさないように、などという配慮はもう捨てている。とんでもない。それどころか、鼻が落ちる危険もあると仄(ほの)めかす。いや、きちんと処置しなければ、この病気が一体どうなって行くか、その将来を描いてみせる。梅毒の伝染性に触れ、長時間に渡り、家族の、皿、スプーン、茶碗、タオル、等を、別々にせねばならぬ、と説く。
 「あなた、結婚していますか?」と、私は訊く。
 「ええ」と、驚いたように患者は答える。
 「奥さんをここへ連れて来るんです!」私は必死になって言う。「奥さんもどこかお悪いでしょう?」
 「妻を連れて来る?」呆れた顔をし、私をじっと見て患者は言う。
 我々は会話を続ける。彼は時々まばたきをし、私の目をじっと見ている。そして私は、彼の目を。正確に言えば、これは会話ではない。私の独り言だ。光り輝く、能弁な独り言・・・五段階評価で、どんな教授であろうと、五をつけてくれる、壮大な独り言・・・梅毒の分野における宏大な知識、並外れた閃(ひらめき)、を、私は見せる。ロシア語あるいはドイツ語で書かれた、この分野における教科書が、表現しようにも出来ないでいた、暗い穴を、私はここで埋めて見せたのだ。梅毒が治らないままに放置された時、その人間の骨が一体どうなるか、話しながらついでに、私は、その麻痺(まひ)の進行状態を、絵に描いてみせる。本人だけではない、子孫にまで移るのだ! そう、妻をどうやったら救えるか、もし、感染していたら・・・いや、感染しているに決っている・・・どうしたら彼女を救うことが出来るか・・・云々、云々・・・
 到頭私の言葉の奔流(ほんりゅう)は尽きる。これは少しきまりが悪いのだが、ポケットから、赤い装丁で金文字の、便覧を取出す。この本は心からの私の友人だ。苦しい第一歩を踏み出した、医者になりたての頃から、私は、この便覧と離れたことは一度もない。不吉な臨床的問題が私の目の前にポッカリ口を開けていた時、何度この便覧が私を助けてくれたことか。患者が服を着ている間に、私はこっそり、この便覧の頁をめくり、必要な箇所を見つける。
 水銀軟膏が大きな助けである。
 「あなたは、水銀軟膏をすり込まなければいけません。軟膏を六袋お渡しします。一日一袋使います・・・こういう具合に・・・
 私は熱心に、分り易く、自分の上っ張りに、空いている掌(てのひら)を使って、軟膏をすり込み、お手本を見せる。
 「・・・今日は掌、明日は足、次に再び、今度は別の掌。六日間すり込みが終ったら、洗って私に見せに来なさい。必ずですよ。分りましたね? 忘れないように、必ず! いいですね? これをすり込むだけではありません。歯と口にも注意して下さい。うがい薬を出しておきます。食事が終ったら、必ずこれで口をすすいで下さい。」
 「喉もですね?」と、嗄れた声で患者が訊く。そこで私は気づく。この患者は、「うがい薬」と「すすぐ」という言葉しか聞いていない、と。
 「そうそう、喉もです。」
 それから二、三分後に、黄色の毛皮外套が、扉の向こうへ消える。入れ替りにスカーフを被った女性が診察室に入って来る。
 それからまた、五、六分経ち、私は診察室を出、薬局へ煙草を取りに、廊下に出る。そこで偶然、嗄れた声が聞えて来る。
 「ヤブ医者だ。まだ若い。こっちはただ喉が痛いだけなのに、まあ、診るわ、診るわ。胸、腹・・・これじゃ、家に着く頃には真っ暗だ。やれやれ。喉が痛いっていうのに、足につける軟膏を出すとはね・・・」
 「患者の話を聞いていないのね」と、ちょっとガサツな女の声が、相手の言葉に同意する。そして急に黙る。それは私・・・幽霊のように白い上っ張りを着た何者か・・・がチラと見えたからだ。私はたまらず、声のした方に目を向ける。そして、薄暗がりの中に、顎髭を見つける。麻くずで出来たような顎髭を、膨れたまぶたを、雌鶏のようなまん丸い目を。そしてひどく嗄れたあの例の声を聞く。私は、頭を肩の中に沈め、まるでこちらの方が脛(すね)に傷を持っているかのように、恥をかいているのは、こちらであるかのように、こそこそと、隠れるようにそこを去る。私の精神状態はひどかった。
 全ては無駄だったのか・・・
 ・・・いや、そんな筈はない! 私は一箇月、毎朝、探偵のように丹念に、外来のノートを調べる。梅毒についての長い独り言を注意深く聞いてくれた男の、妻、の名前に出くわすのではないかと。彼本人も、一箇月、私は待つ。しかし、二人とも、結局出て来ない。そして一箇月が過ぎる。私の記憶からその名前は薄れる。心配することを止める。忘れる。
 何故なら、新しいことが次から次に起るのだ。毎日、この奥まった病院に、私のために、驚嘆すべき事例が、複雑極まりない事柄が、運びこまれ、私の脳を混乱させ、衰弱させる。それから私は、やっとのこと息をつき、新たにまた闘いを開始する。この連続だからだ。
 現在、あれから長い年月が経ち、あの、周りの剥げた、白塗りの病院から遠く離れている今、私は、胸に星形発疹を持った例の男のことを思い出す。彼は今、どこにいるのか。何をしているだろう。いやいや、訊くまでもない。私には分っている。もし彼が生きていれば、彼と彼の妻は、或る時、古ぼけた病院に行く。両足に出来たおできを見て貰うためだ。私にははっきりと見える。彼が、足の包帯を解き、同情を求める目で医者を見る。若い医者・・・男性、或は女性かも知れない・・・が、つぎを張った上っ張りを着て、その足に屈みこむ。指でおできの上のあたりの骨を押す。原因を推し量る。分る。そしてカルテに、「Lues 3(梅毒)」と書く。そして男に訊く。「黒い軟膏を処方して貰ったことはありませんか?」
 そこでこの男は、私が今彼を思い出しているように、まづ私を思い出す。そして、一九一七年のあの窓の外の雪を。そして、ろう引きの紙包み六個を。未使用の粘着性の黒い六個の塊を思い出すのだ。
 「そうそう、くれました、くれました」と、彼は言う。しかしその目には、もう皮肉の色はない。そして医者はきっと今回は、何か、黒いカリウム、或は他の薬を処方するだろう。ひょっとするとその医者も、私と同様に、チラと便覧を覗いたかもしれない・・・
 御同輩、よろしく!

 『・・・それから、愛する妻よ、叔父、サフローン・イヴァーノヴィッチにくれぐれも宜しく伝えてくれ。話は違うんだが、お前に言わねばならない。私が以前一度行ったことのある、あの医者のところへ、お前も行くんだ。そして、よく診て貰え。実は私は、半年前から厄介な病気に罹(かか)っている。梅毒だ。しかし、休暇で帰宅していた時に、お前には打明けなかった。お前は治療を受けろ。
          夫 アナトーリイ・ブーコフ』
 若い妻は、ネルのスカーフの端で口を押え、ベンチに坐り、涙に震えている。金髪の巻毛に溜っていた雪が融け、髪の毛が濡れて、額に落ちている。
 「卑怯者よ、こんな人。そうでしょう?」と、彼女は叫ぶ。
 「卑怯者です」と、しっかり私は答える。
 それから、最も困難で苦しい仕事が始(はじま)る。この女性を落着かせねばならない。しかし、どうすれば。隣の待合室で舞っている人々の苛々した声が、ガンガン響いて来る。その中で、我々二人は、長い間ひそひそ声で話す・・・
 人間の苦しみにまだ馴れきってはいない敏感な部分を、心の底のどこかに残しているのか、私は暖かい言葉を、捜し捜しする。何はともあれ、まづ彼女から、怖れの気持を取除こうとする。調べがすむまではまだ全く何も分っていない。だから絶望することはない。そして、調べが終っても、絶望など的外れなのだ。この厄介な病気、梅毒、は、今の医学で治るのだ。
 「卑怯者! 卑怯者!」と、若い妻は啜り泣き、涙で喉がつまる。
 「卑怯者です」と、私も繰返す。
 このように充分長い間、私達はこの、休暇で家に帰り、またモスクワへ去って行った、『愛する夫』に、罵(ののし)りの言葉を浴びせる。ついに妻の顔から涙がひき、涙の痕が、そして絶望の、黒い目の上に重く膨れた、瞼(まぶた)だけが残る。
 「私はどうしたらいいでしょう。私には二人の子供がいるのです」と、当惑した、乾いた声で、彼女は言う。
 「待って、待って下さい」と、私は呟く。「何をすればよいか、段々に分ってきます。」
 私はピェラゲーヤ・イヴァーノヴナを呼ぶ。我々三人は、産婦人科検査椅子のある、離れた病棟に行く。
 「ああ、ろくでなし。ろくでなしだわ」と、歯の間から息を出しながら、ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナが言う。婦人は黙っている。二つの目は真っ黒な闇を籠(こ)めた二つの洞穴のように見える。その目が窓の外・・・薄暗がり・・・を、見つめる。
 この検査は、私の生涯の中でも、最も念入りに行われたものの一つだった。ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナと私は、隅々まで寸分残さず、調べる。そして、どこにも、何ら疑わしい部分はないことが分る。
 「いいですか?」と、私は言う。期待が自分を裏切ることがないよう祈りながら、そして、これからも、恐るべき一次潰瘍が現れないようにと、「いいですか。余計な心配はしないことです! 希望があります、希望が。勿論、何が起るか、今のところまだ、何も明らかではありませんが。」
 「何もないんですね?」と、嗄れた声で婦人は訊く。「何もないんですね?」目に光が現れる。ボッとその頬に赤味がさす。「でも、後になって出て来ることは? あるんですか?」
 「どうも不思議だ」と、呟くように私は、ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナに言う。
 「話を聞く限り、感染していない筈はないのだが・・・感染の跡は全く見つからない。」
 「全然ありませんね」と、木霊(こだま)のようにピェラゲーヤ・イヴァーノヴナが答える。
 我々三人は再び五六分、期日、或は、細々した事柄について話し合う。私は婦人に、病院へ定期的に来るよう指示を出す。
 ふと見ると、婦人が絶望の極にいることが分る。希望が沸き、そしてそれがすぐに打ち砕かれたのだ。彼女は再び、少し泣き、黒い闇の中に去って行く。彼女にいつ落ちて来るか分らない、剣の下での生活が始まったのだ。毎土曜日、彼女は音もなく、外来用診療室にやって来る。彼女は痩せこける。急激に頬骨が出て来る。目が落ち込み、周りに黒い隈(くま)が出来る。緊張の下での生活で、唇の両側がぐっと下に引き寄せられる。診療室に入るや、馴れた動作でスカーフを解き、別病棟に入る。そこで彼女を診るのだ。
 最初の第一、第二、第三、週の、土曜日が過ぎる。三週とも、彼女に異常を発見しない。やっと彼女に少し生気が戻る。目に少し輝きが現れ、顔が活き活きしてくる。緊張しきった表情が少し緩む。希望の線が出、危険が遠のく。第四週目になり、私は確信をもって自分自身に言う。これは九十パーセントの確率で、病気は出ないぞ。次の三週間も、何事もなく過ぎる。潰瘍が著しく遅れて現れる、非常に稀(まれ)な場合を残すのみとなる。そして到頭、この期間も無事過ぎ、ある土曜日、最後の分泌腺の調べを終り、ピカピカ光る鏡を洗面器に入れ、私は婦人に言う。
 「もうあなたには危険はありません。もうここへは来なくて宜しい。これは運の良いケースでした。」
 「何も出ないのですか?」と、決して忘れることの出来ない声で、彼女は言う。
 「出ません。」
 私にはその時の彼女の顔を表現する能力がない。私が書けるのは唯一つ。彼女が、腰よりもっと下に頭を下げ、そして去って行った、と。
 ところで、彼女は、もう一度、私のところへ現れた。手に二ポンドのバターと、二十個の卵の入った包(つつみ)を持って。私は恐ろしい内面との闘いの末、ついに、バターも卵も、受取らなかった。このことを私は、あの若さでよくやったと、我ながら誇りに思っている。しかし、後になって、革命の最中に、ひどく餓えた時、私は何度か、この時の、稲妻型ランプ、彼女の二つの黒い目、そして金色のバターの塊(かたまり)、その上の、指で押されてへこんだ穴、その穴に浮んでいる、バターの解けた露、を思い出した。

 何故私が、あれから何年も何年も経った後でも、四箇月の恐怖を運命づけられた彼女を、思い出すのか、それには理由がある。彼女が、この分野での私の二人目の被疑患者であったこと、その後私が、青春の最も貴重な時期を、この分野に費やしたこと。最初の患者は勿論、胸に星形の発疹のあった男・・・つまり、彼女の夫、で、そしてもう一つの理由、それは、彼女がたった一人の例外だったこと、即ち、彼女は、この病気を怖れたのだ。ケロシン・ランプの下で、我々四人(ピェラゲーヤ・イヴァーノヴナ、アーンナ・ニカラーイェヴナ、ヂェミヤーン・ルーキッチと、私)が行った仕事で、最も深く記憶に残っているのが、この婦人だ。
 この婦人が私のところへ、死刑の宣告を受けるかのように、毎土曜日にやって来ていた期間、私は『彼』を捜す仕事を始めた。秋の夜は長い。医者の部屋は、オランダ・ストーブで暖かい。静かだ。私はランプの下で、この世界にたった一人でいる気持になる。どこか外では、恐ろしい生活が荒れ狂っている。(訳註 革命のに続く内乱のこと。)しかしここでは、窓の外に斜めにあたって来る雨、いつの間にか音もなくそれが雪に変っている。平和なものだ。長い時間をかけて私はその間、古い、過去五年間の、外来患者ノートを眺めている。目の前に、何千、いや、何万の名前、そして村の名前がある。この名前の列から、私は『彼』を捜し、屡(しばしば)発見する。チラチラと、ありきたりの、退屈な記載「気管支炎」「喉頭炎」等々・・・。そしてまた・・・しかし、出た! 『Lues 3(梅毒)』ハハーン・・・その横には、闊達な、馴れた筆致で記載されている・・・

  Rp. Unghydrorg ciner 3.0 D.t.d...

 これが例の『黒い』軟膏だ。
 またまた退屈な、「気管支炎」「胃カタル」等々が続く。そしてはっと目に止る。・・・再び『Lues』だ。
 しかし、本当の梅毒『Lues 3』は多くない。『Lues 2』が大半だ。そして「黒いカリウム」が処方の欄に、大胆に書かれている。
 この、古い、黴(かび)の臭いのする、天井裏に忘れられていた、外来患者ノートを、読めば読む程、私の未熟な頭の中に、新しい光が流れ込む。私は恐ろしい事実に気がつき始める。
 一体、一度やって来た梅毒患者が、二度目にいつ、またこの病院の外来にやって来たのか。何故か見当たらない。勿論、梅毒患者自体が、何千とある患者の中でやっと一つだ。しかし、二回目の梅毒患者となると、いくら捜しても駄目だ。その理由はこうだ・・・
 「つまりそれは・・・」と、暗闇の中で私は、自分自身に言う。そして、本棚の本の表紙を齧っている鼠に向って、言う。ここでは、梅毒への理解がまるで出来ていない。だから、こんな潰瘍は、恐るるに足らず、というわけだ。それに、時には、一時的に治ることがある。傷跡は残る。(これで安心する。)しかし傷跡だけで終なのか? とんでもない。これで終りはしないのだ。本格的な第二期がやって来る。喉が痛み、身体中に星形の発疹が出来、セミョーン・ホートフ、三十二歳、は、病院に行く。病院では灰色の軟膏を処方する。ハハーン!
 ランプの灯りが、机の上を丸く照らしている。灰皿の底にある、チョコレート色をした婦人の姿が、吸殻の山のために見えなくなっている。
 このセミョーン・ホートフを見つけてやるぞ。よーし・・・」
 黄色い色をした紙。殆ど破けてしまいそうな、外来患者ノートを、ガサゴソめくる。一九一六年六月十七日、セミョーン・ホートフは、彼を救うためにずっと昔発明された、水銀の、薬効のある軟膏、六包を受取る。私の前任者は、この軟膏を渡すとき、セミョーンに言ったに違いないのだ。
 「セミョーン、この軟膏の六回のすりこみを終ったら、ちゃんと洗って、またここに来るんだ。分ったな? セミョーン。」
 セミョーンは勿論、お辞儀をし、嗄れた声で謝辞を述べたに違いない。さあ、見てみよう。十日後、十二日後に、彼はここに来なければならないのだ・・・さあ、次の頁、次の頁・・・埃(ほこり)が上る。紙がザラザラと音をたてる。いや、ない。ないぞ、セミョーンは。あーあ、可哀相なセミョーン・ホートフ。多分、星形の発疹は消えたのだ。丁度夜明けと共に星が消えて行くように。陰部に出来た潰瘍も乾いたのだろう。しかしセミョーンは・・・セミョーンはもう終だ。ひょっとするとこの私が、セミョーンを診ることになるかもしれない。ゴム腫性潰瘍の出来た身体を受付に引きずって来たセミョーンを。彼の鼻はまだ大丈夫か。目の玉は左右正常についているだろうか・・・可哀相なセミョーン!
 さあ、今度はセミョーンではない、イヴァーン・カールポフだ。この人は梅毒じゃない? いやいや、そう診断されても、それは不思議でも何でもない。何故砂糖入りミルクキャラメルと少量の飲薬しか処方しなかったか、だって? それは仕方がない。イヴァーン・カールポフはたった二歳だったからだ。「Lues 2」と診断されている! 運命の「2」だ。母親の手に抱かれ、身体中星形の発疹に覆われて、イヴァーン・カールポフは病院に運ばれた。医者がしっかり抱きかかえようとしても、身を振りほどこうとしたのだ。全ては明らかだ。
 「私には分る。」私は推定する。「二歳の子供のどこに最初の潰瘍が出来たか。第二次感染はそこしかない。そう、口からだ。スプーンで感染したのだ。」
 深い森よ、私に教えてくれ! 村の静かな家よ、私に教えて欲しい! そう、古い外来患者のノートは、若き医師に色々なことを教えてくれる。
 イヴァーン・カールポフの少し前には、次の記述がある。
 『アヴドーチア・カールポヴァ、三十歳。』
 誰だ、これは。分った。イヴァーンの母親だ。その母親の手の中で、イヴァーンは泣いていたのだ。
 そして、イヴァーン・カールポフの少し下には、
 『マーリヤ・カールポヴァ。八歳』
 これは? そう、イヴァーンの姉だ。またキャラメルの処方・・・
 一家族。家族全員・・・いや、一人足りない。カールポフ、三十五歳・・・或は四十歳・・・これが抜けている。名前もはっきりしない。スィードル? ピョートル?・・・いや、そんなことはどうでもよい!
 『・・・愛する夫・・・それが恐ろしい病気、梅毒にかかっている・・・』
 書類がなくても、ちゃんと分る。そう、多分、あの辛い前線から帰って来た兵士だ。そして『打明ける』ことをしなかった。そんなことは必要ないと思っていたに違いない。そしてまた前線に戻る。最初にアヴドーチアに感染、次にマーリヤからイヴァーンへ。シチューを入れる食器、或はタオル、それが媒体だ。
 ああ、ここにも家族中感染だ。ここにも。ここには老人がいる。七十歳だ。「Lues 2」の老人。お前さん、何か悪いことをしたのか? いや、全然。共同の食器だ! 性交のせいではない。決して。それは明らかだ。夜が明けて来る。十二月初めの、はっきりした白い夜明けだ。ということは、この一夜、私一人で、素晴しいドイツ語の解説、絵つきの教科書と首っぴきで、外来患者ノートを調べたというわけだ。
 あくびをし、ブツブツ独り言を呟きながら、寝室へ行く。
 「よーし、『彼』との対決だ。」

 対決するにはまづ、『彼』を見る必要がある。その機会は待つほどもなくやって来る。橇の道が固く出来上がる。一日に百人の患者が来ることも稀ではない。一日は暗くて長い。夜明けで始り、窓の外の黒い霧で終る。その黒い霧の中を、小さなシューシューいう謎のような音をたてて、最後の橇が去って行く。
 『彼』は、私の目の前に、狡猾な、様々な形をとって現れる。ある時は少女の喉に、白い潰瘍となって現れ、ある時はO脚(オーきゃく)の足の上に、ある時は老女の黄色い足の上の、深く潜った、萎(しお)れた潰瘍となって、ある時は健康そうな若い女性の身体の、湿った丘疹となって。またある時は、誇らしげに、額の上に、三日月形のヴィーナスの角(つの)となって。ある時は、父親の罪を反映して、その子供達の鼻に、コサックの鞍に似たものとなって。しかし勿論、私の目に止らなかった『彼』もあるに違いない。私など、まだ学校を出たての駆出しなのだ。
 とにかく私は、私一人で、私の頭で、これだけのことを考える。つまり、人々の骨に、人々の脳に、『彼』は隠れているのだ、と。
 私は外来患者から多くのことを学ぶ。
 「その時、すりこみをやるよう、言われました。」
 「黒い軟膏を、だろう?」
 「ええ、黒い軟膏です、先生。黒い・・・」
 「十文字にこするよう言われたろう。今日は手を、明日は足を、と。」
 「ええ、そうです。先生はよくご存知なんですね?(おもねるように。)」
 『どうして分らない筈があろう。分るに決っているじゃないか。ほら、ここにゴム腫が見えている。』
 「ひどく痛んだんだな?」
 「それはもう。お産の時のうめき声だって、私の唸り声には負けましたよ。」
 「なるほど・・・喉も痛んだな?」
 「喉』 ええ、喉も痛みました。去年。」
 「フム・・・リェオーンチイ・リェオーンチイェヴィッチは、軟膏をくれたんだな?」
 「そうです! 長靴のように真っ黒な。」
 「まづいね、君。すりこみを充分にしなかったね? それがまづかった・・・」
 私は灰色の軟膏をどれだけ無駄にしたか。黒いカリウムをどれだけ処方し、どれだけ恐ろしい脅し文句を言ったことか。最初の六袋の軟膏を渡して、うまく次回は来させたのも数例ある。また数例は、全くの成功というわけには行かないが、最初の段階の注射を打つことに成功したのもある。しかし大多数は、砂時計の砂のように、雪の靄(もや)の中に隠れてしまい、二度と掬(すく)うことは出来なかった。ああ、このムリョーヴォでは、梅毒が恐れられていないという事態こそが、恐しい事なのだ。だからこそ私は、最初にここで、あの黒い目の婦人の例を書いたのだ。私は彼女に、その「恐れ」の故に、強い尊敬の念を抱いたのだ。しかし、彼女はただ一つの例だった。
 私はそれから少し大人になり、自分の考えに耽(ふけ)り、あるいは時には憂鬱になることさえあった。早くここの任期を終え、モスクワへ帰り、この闘いが楽にならないか、と考えることもあった。
 こんな陰気な考えに耽っていたある時、外来患者の受付に、若くて、大変綺麗な女性がやって来る。両手にしっかりとくるんだ赤ん坊を、そしてその後ろから、母親の毛皮外套の下の青いスカートの裾を握り、馬鹿でかいフェルトの防寒靴をはいた子供が二人、ドンドンと音をたてて、ついて来る。
 「子供達に発疹が出てきたのです」と、赤い頬をした母親が重々しく言う。
 スカートの裾を握っている女の子の額を、私は用心深く触る。すると女の子は、母親のプリーツのスカートの中に、跡形もなく消える。私はスカートのもう一方の端から、異様に大きな顔の男の子(ヴァーンカ)を引っ張り出し、その額に触る。二人とも熱はない。平熱だ。
 「服を脱がせて下さい。二人とも。」
 母親は二人の服を脱がせる。裸の子供の身体には、冬の凍りつくような寒空(さむぞら)のように、星が一面にばらまかれている。足の先から頭まで、薔薇疹(ばらしん)、そして、湿った丘疹だ。ヴァーンカは身を振りほどこうとして喚(わめ)く。ヂェミヤーン・ルーキッチが私を助けに、走ってやって来る。
 「風邪ですね? 先生。」と、穏やかな目つきで、母親が言う。
 「やれやれ、風邪か」と、ヂェミヤーン・ルーキッチは唸る。同情はしているが、汚らわしそうに、口を歪めて、「カローボフスキイ地方では、みんなこういう風邪にやられているんだ。」
 「どうしてこんな風に・・・」と、私が子供の脇腹と胸を見ている時、母親が訊く。
 「服を着せて下さい」と、私は言う。
 私は机につく。頬を片手にのせ、あくびをする。(彼女はこの日の、殆ど最後の患者だった。番号は九十八。)それから話し始める。
 「お母さん、あなたも、そしてお子さん三人とも、『厄介な病気』にかかっているんです。危険で、恐ろしい病気です。あなた方四人、今すぐに治療を始めなければなりません。それも、とても長くかかる治療をです。
 「どこから来たんです? その病気。」
 と彼女は言い、薄ら笑いを浮べる。
 「どこから、というのは大事なことではありません」と、私は言い、この日の五十本目の煙草に火をつける。「『治療を始めないと、子供にどういうことが起るか』と訊いた方がいいのです。」
 「で、どうなるんです? 何も起らないんでしょう?」と、彼女は答え、赤ん坊におむつをつけ始める。
 机の上には、私の時計がある。たった今のことのように私は覚えている。私が喋り始めてから三分と経たないうちに、母親はワッと泣き出す。私はこの涙を、非常に有難いと思う。何故なら、私の、故意に厳格で、故意に脅威ある言葉によって引き起されたこの涙があって初めて、次の私の話が可能になるからだ。
 「ですから、お子様三人は、ここに置いて戴きます。ヂェミヤーン・ルーキッチ、四人を『離れ』に。チフス患者は第二病棟に移して。明日私は町に行って、梅毒患者のための常設隔離部屋の許可を取ってきます。」
 助手の目に大きな好奇心の光が浮ぶ。
 「先生、そんなこと、どうせ拒否されますよ。(助手は大なる懐疑論者だ。)だいたい我々だけでどうやって管理するんです。薬剤は? それに、余分の看護婦なんて一人もいませんよ。・・・それから食事・・・食器・・・注射器・・・どうするんです。」
 しかし私は動じない。頑固に首を振り、答える。
 「それも手に入れます。」
 
 一と月経つ・・・
 雪で塞がれた病棟の三部屋に、ブリキ傘のランプが灯(とも)っている。ベッドのシーツは、つぎはぎの古い布で出来ている。注射器は二本。小さい方は一グラム用、そして、五グラム用の注射器が、梅毒用だ。ひと言で言えば、哀れなものだ。雪に塞がれた貧しさだ。しかし、・・・この、別にしてある注射器、これが私の自慢だ。この注射器のお陰で私は、内心死ぬ程心配しながら、私にとって初めての試みの、難しい注射、サルバルサン、を、何度か打ったのだ。
 そして、私の心は、以前よりずっとずっと軽くなっている。病棟の三部屋には、七人の男性と、五人の女性がいる。が、日毎に、私の目では、星形の発疹は消えてきている。
 夜になる。ヂェミヤーン・ルーキッチは小さなランプをつけ、恥かしがりのヴァーンカを照らす。ヴァーンカの口は、セモリナの粥(かゆ)で汚れている。しかし、身体にはもう、星形の発疹はない。この四人がランプの下に照らされているのを見ると、私はホッと安堵の溜息が出る。
 「明日には退院します」と、母親が、ジャケットの袖を直しながら言う。
 「いいえ、まだです」と、私は答える。「もうあと一過程注射が必要です。」
 「私は同意しません」と、彼女は答える。「家には仕事が山と溜っているんです。助けて戴いたことは感謝します。でも、明日は出して戴きます。私達はもう健康なんです。」
 会話が薪(まき)のように赤く燃え上がる。終がこうだ。
 「いいですか、あなた」と、私は言い始め、顔が真っ赤になるのを感じる。「いいですか。馬鹿なんです、あなたは!」
 「あなたは、人を罵るんですか? 患者に馬鹿だなんて、そんな言葉を使っていいと思っているんですか!」
 「『馬鹿』以外の言葉を使えって言うんですね。『馬鹿』じゃないなら・・・ええい、『馬鹿以上の馬鹿』だ、あなたは! いいですか。ほら、ヴァーンカを見て下さい。あの子が死んでもいいって言うんですか? あなたは。よし、死んでもいいなら許しましょう!」
 それで彼女は、もうあと十日、滞在する。
 十日! 十日以上は誰がやっても駄目だったろう。それは保証する。しかし、私の良心は痛まなかった。『馬鹿』という言葉を使ったことさえ、後悔の種にはならない。星形の発疹に比べれば、悪口(あっこう)の一つや二つ、何だって言うんだ!
 あれから何年も経つ。運命、そして激動の年月が、私と、この、雪に埋もれた病棟、とを切り離してしまった。あそこには今、何があるだろう。そして誰が? きっとあの頃よりはよくなっているに違いない。建物は白く塗られ、シーツも新しいものに。ただ、電気は勿論、まだだろう。丁度今、この文章を書いているこの瞬間、誰か若い顔が、患者の胸を覗いているところだろう。ケロシンの黄色いランプが、患者の黄色い肌を照らしている・・・
 「私からの挨拶を送るぞ、若い医者君!」


  平成二十一年(二00九年)十一月二十七日 訳了