モリエール
            アンドレ・ルッサン 作
             能 美 武 功 訳s

(題名に関する訳註 原題は「Jean-Baptiste le mal-aime(愛されない男、ジャン・バチスト)」であるが、単に「モリエール」とした。)

   登場人物
 モリエール
#ジョゼフ・ベジャール
 グロ・ルネ
&ドゥ・ブリ
 宿屋の主
%ダミス 
&デュ・クルワズィ
 ラ・グラーンジュ
#ユベール
$若い男
 マドゥレーヌ・ベジャール
 アルマーンド・ベジャール
 テレーズ・デュ・パルク
 キャトゥリンヌ・ドゥ・ブリ
 伯爵夫人
 女中
 小さい娘(十歳の時のアルマーンド)
 マドゥムワゼッル・ボヴァッル
%(二人の端役)オクターヴとラ・トリリエール
(上に同じ印のある役は、同じ役者で演じることが可能。その結果この芝居は、十八人で演じることが出来る。)

     第 一 幕
         『モリエールという名の男・・・』
(場は居酒屋。そこは、集会場にもなる宿屋の地下室。右手に扉。そこへ導く三段の踏台。左手奥にもう一つ扉。こちらは二段の踏台。部屋の真中に大きなテーブル。)
(幕があくと、七人がいる。マドゥレーヌ(ベジャール)、キャトゥリンヌ(ドゥ・ブリ)、テレーズ(デュ・パルク)、ジョゼッフ(ベジャール)、ルイ(ベジャール)、それに、グロ・ルネ。)
(一六五五年。リヨンでのこと。モリエールの(事実上の)処女作、「粗忽者」の初公演の夜。)
(七人とも坐っている。陽気な雰囲気。食事が終ったところ。)
(グロ・ルネが、テーブルの上に立つ。)
 グロ・ルネ 侯爵だろうが、伯爵だろうが、そんなものはいらないぞ!
 全員 いいぞ、グロ・ルネ!
 グロ・ルネ 有難う。有難う! 俺達は我らのマスカリーユを要求する!
 全員(ドゥ・ブリは除く。ドゥ・ブリは憂鬱な顔。)マスカリーユ! マスカリーユ! 
 グロ・ルネ 我々は、まだ夕食を終えてはいないぞ! それなのに、見も知らぬ人間がやって来て、我らが座長、モリエールを、この一座の者達から、たとえただ一分であろうと、攫(さら)って行くなど、そんなことは許されないぞ! これは大事な夕食なんだ。価値ある、勇敢な、目覚ましい喜劇役者の一団の、今日の偉大な、新しい成功を祝う夕食なんだ。一分たりとも、攫って行くなど、許されんぞ! 我らが座長、我らがモリエール、今日のこの日の英雄! たった三十分前、マスカリーユの役で、観客から割れるような喝采を浴びたモリエール。そしてその作品の著者、その人! このリヨンの町で初めてかけられた、抱腹絶倒の、目の覚めるような、詩で綴(つづ)られた五幕の喜劇「粗忽者」! 我々一座全員、抗議する! ご馳走で口は塞がっている。しかし抗議の文句は、その塞がった口でも、言える。我々のマスカリーユを返せ! 座長に、この食事の、最後のひと言を言って貰いたいんだ!
 全員 いいぞ、グロ・ルネ!
 グロ・ルネ(右手の階段に近づき。)モリエール、その礼儀を知らん妙な男をすぐお払い箱にして、こっちに来ないなら、後悔することになるぞ! 一座の者全員が団結して、あんたが座長だってことを拒否するぞ! 今一座の者全員と言ったがな、これは本当じゃない。だがな、少なくとも、第一にマドゥレーヌ・ベジャール、第二にベジャール・ジョゼッフ、つまりあんたの兄さん、第三にルイ・ベジャール、即ち、レギゼ。ということは、ベジャール一家全員。第四にドゥ・ブリ、第五にその妻、キャトゥリンヌ。第六に俺の妻、テレーズ・デュ・パルク。第七、つまり、最後にこの俺、ルネ・・・グロ・ルネだ。この七名が出て行くことになるぞ。いいか、三つ数える。それまでに、この扉に出て来るんだ、モリエール。・・・一(いち)!
 テレーズ 出て来ないわよ!
 グロ・ルネ 黙ってろ、お前は。・・・二(に)!
 全員 出て・・・来い。出て・・・来い。・・・出て・・・来い。
 グロ・ルネ 黙って!・・・三(さん)!(ちょっとの間。その後、全員、大笑い。)モリエール、このグロ・ルネをよくも騙してくれたな。明日は街角(まちかど)に大きな宣伝をするんだ、モリエール。グロ・ルネは一座を辞めた、とな。叛乱が起きたんだ、あんたの身内にな。俺は謀反の心を抱いてここをおさらばするんだ。
 ルイ(グロ・ルネの肩に顔を置いて、涙を流しながら。)可哀想なグロ・ルネ! あんたはみんなに愛されていた。あんたは偉い人だ。良い役者だったとは言わないが、腹は出来ていた。それにとにかく、観客は、あんたを見て笑ったからな。(周囲から笑い。)
 グロ・ルネ おい、レギゼ、お前、俺のような立派な先輩をからかいたいのなら、少し鼻髭でも生えてからにするもんだ。
 ルイ(グロ・ルネの芝居での台詞を真似て。)『恥と後悔で、あんた、死ぬんだ!』
(全員、どっと笑う。)
 グロ・ルネ まだ母親のおっぱいを飲んでいるっていうのに、もう年寄り喜劇役者の悪い癖がついているぞ。何かというとすぐ、どこかの芝居の台詞だ。あーあ、若いっていうことは!
 ルイ(年寄りの真似をして。)あーあ、若いっていうことは! この私を見なさい。この男のおじいさんで通るぞ。(みんな、笑う。)僕は爺(ぢぢい)だって、やれば出来るんだ!(宿屋の主、右手に登場。)
 全員 モリエールだ!
 宿屋の主 違う、私です。
 グロ・ルネ ああ、これはモリエールじゃない。なかなか正直だ、お前は。
 宿屋の主 怒鳴り声が大き過ぎると申上げに参りましたので・・・二階からも、ここの騒ぎは筒抜けでして、皆様・・・
 ルイ 誰か文句を言った奴がいるのか。
 宿屋の主 まだでございます。丁度そのことを申上げようと、参りました次第で。皆様方の今夜のお芝居は、上で聞きましたお話によりますと、大成功でした由・・・そのようなご立派な皆様方をお泊め申上げるのは、私ども、大変光栄でございます。モリエール様の御指示で、皆様方をこの階下の部屋にお招き致しました。御随意にここをお使い戴いて、当方、心から嬉しく存じ上げます。が、ただ、どうか皆様、あまりのどんちゃん騒ぎだけは、どうかご遠慮くださいますよう・・・
 グロ・ルネ モリエールだ! モリエールを出せ!
 宿屋の主 高貴なお方がモリエール様をお召しで・・・皆様方もよくご存知の通り、トリニー伯爵様なのです! 伯爵様には私ども、バルコニーの一角をご用意申上げました。伯爵様は、三四人の御婦人方をお連れになって・・・モリエール様もそこに同席されていらっしゃいます。
 グロ・ルネ 三四分のことなら、俺だって何も文句は言わぬ。十五分! そいつは長過ぎだぞ。モリエールに言え。我らがモリエールを要求している、とな。あと五分待つ。五分だけだ。一、二、三、と三まで数える。それで来なかったら、我らは芝居小屋に戻る。戻って、衣裳を脱ぎ捨てて寝てしまう。よくこのことを話すんだ。いいか、こう言え。グロ・ルネが三つまで数える、と言った。モリエールがその、タル・・・タルタ・・・ニ伯爵と、連れの女達から、すぐにおさらばして、ここにやって来るかどうか、見てやるぞ、ってな。(宿屋の主、退場。全員、笑う。)
 ドゥ・ブリ(怒って。)俺は可笑しくないぞ、何も。モリエールはいつだってこうだ。この態度は我々全員にとって、不愉快なんだ!
 テレーズ モリエールが他の女と一緒にいると、ドゥ・ブリったら、妬(や)けるのよ。
 ルイ(すぐに、ジョゼッフに。)自分の女以外の女と一緒だとな・・・ヒッヒッヒ・・・
 マドゥレーヌ さ、他の話にしましょう。
 ドゥ・ブリ 何故だ。
 テレーズ ドゥ・ブリはこの話の方がいいのよ。何かこの人、考えがあるの。
 ドゥ・ブリ そうだ。俺には考えがある。グロ・ルネと俺とは同じ考えだ。
 グロ・ルネ いいぞ。そうだ! で、お前の考えってのは何だ。
 マドゥレーヌ 言って御覧なさいよ!
 ドゥ・ブリ モリエールは心の底では俺達を馬鹿にしているんだ。一日に二回芝居をかける、一度に三つ芝居をリハーサルする、遠く離れたところまで、一日馬車を走らせて芝居をかけに行く、そんな時には確かにモリエールは我々と一緒だ。しかし、何もかも一緒じゃないぞ。モリエールは仕事は一緒だ。骨の折れること、疲れること、それも一緒だ。だけど暇な時は違うんだ! 暇な時にはな、モリエール殿は、別の顔をして、別の場所にいるんだ!
 マドゥレーヌ ドゥ・ブリ、あんた、いつもその話ね。モリエールは「別の顔」をする癖なんかちっともないわ。どうしてあんた、この話がそんなに好きなの!
 ドゥ・ブリ 同じ話が何度出て来たって困りゃしないだろう? 俺だけがあの顔をじろじろ見ている訳じゃないんだ。ちゃんと俺は分って言ってるんだぞ。
 キャトゥリンヌ 誰もそのことで文句を言ってる者はいないわ。あなた特別よ。いつだって何か文句を言わなきゃ、納まらないんだから。
 ドゥ・ブリ それはな、考えていることを口に出すのは、この俺しかいないからさ。それにとにかく、今夜は、俺は不機嫌になる理由があるんだ!
 マドゥレーヌ どうして? あなた、酔ってるの? ドゥ・ブリ。それとも、不満の種を無理矢理ほじくり出そうって言うの? 何か虫にでも刺されたの?
 ドゥ・ブリ お前はここで寝る。いいか、モリエールとお前にはちゃんとした自分の部屋があるんだ! 俺達はどうだ。今朝は市(いち)のせいで、朝早くからみんな叩き起されて部屋を出されたんだ。夫婦の生活だってまともに扱われやしない。俺はローヌ河畔の車引きのあばらや、キャトゥリンヌはサン・ジャンの裏にある安宿だ。グロ・ルネとテレーズだって同じ運命だ。このどこがいい待遇だ。全く聞いて呆れるよ。
 キャトゥリンヌ あなた、それ、どういうこと? 何か不満があるのなら、筋を通すものでしょう? さっさとモリエールに言えばいいのよ!
 ドゥ・ブリ モリエールにちゃんとありのままを話せば、あいつは何も答えやしない。そいつは分ってるんだ。
 グロ・ルネ  まあ、我慢するんだ、ドゥ・ブリ。一晩くらい、女房に足をあっためて貰わないで寝るのさ。こっちだって同じだ、なあテレーズ。だからいいじゃないか、これで。ドゥ・ブリは今夜、胃の調子が悪いんだ。こいつにとやかく言ったってしようがないさ。こいつ、チーズを食い過ぎたんだ、ドゥ・ブリ。(訳註 「ドゥ・ブリ」という名のチーズがある。)(ゲラゲラっと笑って。)今のを聞いたか? やったぞ、この俺は。『こいつ、チーズを食い過ぎたんだ、ドゥ・ブリ!』次の芝居のネタに、モリエールに話してやろう。
 ルイ グロ・ルネ、そんな洒落で何が出来るって言うんだ!
 グロ・ルネ 畜生!
 全員 どうした!
 グロ・ルネ  宿屋の親父に俺は言った。モリエールには五分の猶予を与える、こっちで三まで数える間だ、とな。
 ルイ それがどうした。
 グロ・ルネ もうあいつが出てから十分は過ぎた。それに、数えるのを忘れていた。(皆、笑う。)数えるぞ。それもさっさとやる。一、二、三。(少しの間。)よーし、じゃ、さっきのようにまた怒鳴るんだ。親父の奴、また来るさ。一、二、三!
 全員 モリエール、モリエール、モリエール、何をしてる!
 モリエール(満面に笑みを湛えて登場。但し、全員、右の扉から入って来るものと思っていたのに、左の扉から登場。)おい、みんな、二百エキュ、入ったぞ。
 全員(振返って。)えっ、二百? まさか!
 モリエール 二百だ。一座に感謝の気持・・・トリニー伯爵からだ。今度の芝居がとても気に入って、その礼というのがこれだ。どうだ、グロ・ルネ。
 グロ・ルネ 残念ですよ、私は。あの「粗忽者」には出ませんでしたから。
 モリエール 贅沢を言うな、グロ・ルネ。さ、見ろ、金は均等に分けた。この二百は劇団用にとってはおかない。すぐに皆に配る。今ここにいないデュフレーヌとクルワザックも入れてな。一人、二十二エキュになる。もう数えてある。ドゥ・ブリ、これがお前のだ! 他のは全部ここに置く。各自、自分のを取れ。
 グロ・ルネ ドゥ・ブリの、袋を見ているあの顔を見ろ! 目がまん丸だぞ! 「粗忽者」にあるじゃないか、台詞が。「四分の一エキュ貰えるなら、尻を殴るぐらい、どうぞ」ってな。それが二十二エキュとなりゃ、トリュファルダン、何をされたっていいって言うかな? 想像もつかない。(訳註 「トリュファルダン」は、「粗忽者」の登場人物。」
 役者達(テーブルの周りで。)有難う! モリエール!
 ジョゼッフ これだ! これが芝居ってもんだよ!
 モリエール(この時までにグロ・ルネを脇に呼んで。)おい、グロ・ルネ、お前、私の言うことを聞くんだぞ!
(モリエール、低い声で何か話し、グロ・ルネの手に袋二つを渡す。)
 グロ・ルネ エッ? 私がこれを? 駄目です。
 モリエール 私の命令だ、グロ・ルネ。早くしろ。(袋をさっさとしまえ。)マドゥレーヌも大賛成なんだ。
 グロ・ルネ でも、どうして私が・・・
 モリエール 言うな。お前にあれこれ言わさん!
 グロ・ルネ(当惑して。)どうも・・・有難うございます。
 モリエール(マドゥレーヌの方を指差して。)礼はあっちだ。
 全員 モリエール、万歳!
(グロ・ルネ、マドゥレーヌに近づく。)
 モリエール 礼は私にじゃない。伯爵にだよ。まあ心配するな。皆に代って私はよく言っておいた。なあ、グロ・ルネ、今夜のような素晴しい夜は、今までの夜を全部捜しても、そうはないぞ、こんな大成功の夜は。そうだ、何年かぶりだ。私には予感がするぞ。運が向いて来たんだ。皆はどうだ。ジョゼッフ、お前は。マドゥレーヌ、君はどうだ。あの三年間のパリでの辛い日々。どこの芝居小屋へ行っても芝居をかけるのを断られて。それからは巡業だ。いろんな町へ行ったな? ジョゼッフ。
 ジョゼッフ トゥールーズ、ナルボンヌ、グルノーブル、カルカッソンヌ・・・荷物を抱えて・・・まるで乞食同然!(突然。)そう、カルカッソンヌだ! 覚えてますか?(ジョゼッフ、笑う。)畠のものを盗んだ奴が芝居小屋に逃げこんだと、警官がやって来て・・・丁度「クリスペの死」をやっていた時ですよ。
 マドゥレーヌ(その時のことを思い出し、笑って。)あの悲劇で、私が丁度長台詞(ながぜりふ)を言い終った時だったわ、こうやって両手を拡げて大声で恋人を呼んでいた・・・そうしたらその警官、私の目の前に来て「奴はどこだ!」って。(全員大笑い。)
 ジョゼッフ ペーズナッスでもあったな。私の後ろからモリエールが登場することになっていた。私の死んだ父親の幽霊になってね。私は「見えないがいるような気がする。お父さん、あんたか?」と台詞を言うことになっていた。そうしたら後ろで、「メエー、メエー」だ。振向くとモリエールじゃない、羊だ!(全員大笑い。)
 グロ・ルネ(この騒ぎに被せて、自分の話を、大声で。)それからこの俺だ! あの「小学生、グロ・ルネ」で、覚えているか?
 全員 ああ、覚えてるよ!(全員、笑い声、もっと高くなる。)
 グロ・ルネ 「来るなら来い、あの野郎、相手になってやる!」と言ったとたん、天井から粉の袋が落っこって、肩までおっかぶさったんだ。(全員、大笑い。)
 モリエール なあ皆、我々は納屋のようなところで、それにお城で、何百回と芝居をかけてきた。馬車の中で寝起きしたり、宿屋でもいろんなことがあった。しかしどうやら、今夜のこの公演で、窮境(きゅうきょう)は抜け出せたぞ。ここリヨンでだ。ここでも随分やったが、今日のような大成功は初めてだ。それに、我々はだんだん喜劇に傾いてきている。そう、喜劇なんだ、我々が一番うまく行くのは。今夜でよく分った。観客には心おきなく笑うために来て貰わなきゃ。暖かい太陽の光のように劇場全体を喜劇の火で暖めなきゃいけない。今夜のように台詞ははっきり発音、言葉が迸(ほとばし)り出るように。仕草一つ一つが観客の喜びを引き出すように。我々が観客に示す目の輝き、手の動き、それが太陽に光のように観客の心をゆったりさせ、明るくさせ、我々の方に引きつけなければ!
 グロ・ルネ ブラーヴォ、モリエール!
 ルイ 一座、万歳! 「粗忽者」、万歳!
 グロ・ルネ 喜劇、それはあんただ、モリエールだ!(グラスを上げて。)乾杯だ! 「粗忽者」、万歳! その生みの親、モリエール、万歳!
 モリエール 喜劇、それはお前だ、グロ・ルネ! それにジョゼッフ、マドゥレーヌ、我々全員だ! 喜劇、それは我々若い人間の存在そのものだ! 我々が意見を表明する、すると、沢山の依怙地な精神が、不埒(ふらち)だと考える。丁度そこに我々の名誉が生じるのだ!
 ジョゼッフ いいぞ、いいぞ!
 モリエール 私は三十三だ。グロ・ルネ。お前は三十五。ここの誰だって、四十にはなっていない! この二年間、我々は田舎という田舎を渡り歩いた。あっちの芝居小屋、こっちの芝居小屋、いろんなところで。それでお前、人生のなかばを過ぎたような気分か? 今。違うだろう? 気分は二十歳だ。今夜二十歳になったばっかりだ。本当の人生はここから始まるんだ。フルートの音合わせが丁度終った今・・・我々の仕事のしかけが丁度分った今、そして熱い血がこの血管を廻り始めたこの今!・・・喜劇は力だ。そして力は我々のものだ! 一國の喜びとは、我々の喜びと同じものなんだ。お日様が上る時、響きのよい声が聞える時、美人の召使の笑い声、男の召使の一癖(ひとくせ)ある目つき! 今夜のマスカリーユのあの長台詞の時、どうして観客があんなに拍手したか分るか? 理由は、この國では、雄鶏(おんどり)のときの声が好きだからだ。雄鶏がときの声を上げるように笑うのが好きだからだ。一気に、息が切れるまで。そして笑い止む時も、赤葡萄酒をグラス一杯飲み終わった時のような終り方。顔は笑いで大きくなり、身体は満足で膨らんでいる!(全員笑い、拍手。)
 マドゥレーヌ まあまあ、私の雄鶏さん、あなた、神様のような言い方ね。こんなにお喋りなの、生れて初めてじゃない?
 モリエール まさか。君、私をからかっているな?
 ルイ ついさっき、モリエールは夢想家だ、無口だっていう話が出ていたんです。
 グロ・ルネ それにドゥ・ブリは、モリエールに話しかけても、「何を答えていいやら」って顔をされるってね。
 モリエール ああ!
 ドゥ・ブリ そいつは違うぞ、俺の言いたかったこととは。
 ジョゼッフ 私は言いますね、モリエールは反芻(はんすう)動物だって。いいですか? さっき伯爵と婦人達があなたを囲んで沢山お世辞を言ったんですよ。それで、ここに来るまでに、あれこれ、あれこれ、それを思い出しては反芻して、さあここで、マスカリーユそこのけの大演説!
 モリエール そんなに喋ったかな? いや、それは謝る。(皆、笑う。)
 マドゥレーヌ(モリエールの傍に来て。)本当! そう、あなた、夢みる人、そして、あちこちどこへでも火をつける! 鍛冶屋の神、ヴァルカン!
 モリエール 今夜は楽しくやらなきゃ!
 マドゥレーヌ そう。でも私、上る。もう疲れたわ。
 全員 もう? まだ駄目だ、マドゥレーヌ!
 モリエール それにアルマーンドは? ムヌーはどこだ。
 マドゥレーヌ ムヌーはもう寝ましたよ。
 キャトゥリンヌ 明けても暮れてもムヌーね、モリエールは。
 ジョゼッフ モリエール、今夜はこれで我慢するんですね。私はマドゥレーヌと同じ意見ですよ。この時間じゃ、アルマーンドは眠るしかないです。これはあの子の「兄」の言葉ですからね、モリエール。
 マドゥレーヌ(クスクス笑って。)そうね! あの子の「兄」は、薄のろさん。(みんな、笑う。マドゥレーヌ、ジョゼッフにキス。大きな声で、みんなに。)お休み!(左手の扉から退場。)
 モリエール(急に。)マドゥレーヌ!(モリエールもマドゥレーヌの後を追って退場。)
 グロ・ルネ ドゥ・ブリ、お前さっき、モリエールは我々のことを考えてくれないと言ったな? 伯爵と十五分話したのは無駄じゃなかった。そうだろう? みんなに二十二エキュ。有難いじゃないか。それで自分のはどうしたと思う? その半分はマドゥレーヌに、あとの半分を俺にくれたんだ。二人とも今夜の芝居に出られなかったからだ。友達甲斐のあるやり方じゃないか。
 キャトゥリンヌ(ドゥ・ブリに。)あなた、これからは少し口を慎(つつし)むのね!
 ジョゼッフ モリエールはいつもああなんだ。なあ、ドゥ・ブリ、私はもう十二年もモリエールと一緒にやってきた。イリュストゥル劇団の発足以来だ。ああいうモリエールの親切なら、他に十ぐらいすぐ例を上げてみせる。私はモリエールが意地悪だったこと、いや、ほんのちょっとでもこっちの気分を悪くさせようとして何かをするなど、考えることも出来ないね。
 グロ・ルネ 今夜のこれは全部モリエールのおごりだ。俺は皆に提案する。今貰ったこれだけの金があれば、おごるのはこっちだ! こっちがおごらなきゃ!
 全員 そうだ! いい考えだ!
 グロ・ルネ 宿屋の親父に俺から話す。それぞれ分担金は明日俺が皆に言う。
(モリエール、戻って来る。)
 ドゥ・ブリ 俺は帰って寝る。お休み!
 モリエール 明日は市が出る。宿屋の門にはそれぞれ品物が並べられるんだ、それでも皆、泊るところは見つけたか? 明日は伯爵に、この一座のための宿泊のことを頼むつもりだ。もう宿の心配はしないですむぞ。(ドゥ・ブリに。)今夜はお前、どこだ?
 ドゥ・ブリ ちょっと遠いんで。今夜はもうお休み、モリエール。
 モリエール ドゥ・ブリ、今夜は素晴しい出来だった。お前の役はぢいさんだったが、気に入らなかったんじゃないか?
 ドゥ・ブリ いや、いい役だった。お休み!
(ドゥ・ブリ退場。)
 モリエール あいつ、まだトゥリュファルダンを演じているな。不機嫌そのものだ。どうやら芝居の衣裳そのままにしておいたのがまづかったようだ。陽気になると思ったんだが。ドゥ・ブリの奴、お陰で役が抜けきらない。
(右手の扉から宿屋の主が驚いた様子で登場。)
 宿屋の主 モリエール様! モリエール様!
(しかし、宿屋の主が何か報告する暇も与えず、一人の女性が彼を押退(おしの)けるようにして登場。)
 伯爵夫人 私を通らせなさい! ああ、皆揃っているわね。私、皆に会いたいの!
(この時までに伯爵夫人、部屋に入って来ている。宿屋の主、話がモリエールと伯爵夫人とのやりとりになると見てとると、すぐ退場。)ムスィユ・モリエール! 私はラバニャ伯爵夫人です。皆様にお会い出来て、これは私の最上の喜び! トリニー伯爵が私に教えてくれました、あなたが一座の者達と一緒に、この宿屋にいるということを。それも何ていう天の助け、私が丁度馬車に乗込もうとしていた時に、今申上げたトリニー伯爵が私の目に止ったのですからね! 何はともあれ、一刻も早くあなた方のところへ飛んで行くこと、それしか私の頭にはなかった。あの宿屋の主(あるじ)の石頭! あなた方にお祝いの言葉を雨霰(あめあられ)と降らせようとしているこの私の要請を、意味不明の屁理屈で断ろうというんですからね。あんなもの、私は無視! あなた方があの素敵な喜劇をかけていた時、丁度私はボックス席。パリの良い趣味を知った後、運命のなせる技で、趣味のお余りでしかない田舎へ引込むことになった人々にとって、パリのあの素敵な香水の嗅ぎ滓(かす)のおこぼれしか味わえないのが、何と言っても一番辛いこと。何と言ってもパリは素敵なものの宝庫。それを正直に白状出来ないなんて、少し頭がどうかしているの。そして今夜、あなた方の素晴しい芝居に接することが出来たの。これこそが、かけるべき芝居、これこそパリの物、っていう芝居を。ところがどう。私、「おお」とか「ああ」とか、私の感動を表すことが出来なかった。若いのに何て野暮な男、それが私のすぐ傍にいて、全く何てことを言うんでしょう、それも大きな声で。生意気ったらありゃしない。「こんなもの、どこが面白いんだ。笑えるところなどないじゃないか」。それをわざわざ皆に聞えるように。「モリエールはかなりいい役者だ。しかし、厚顔無恥にも、筆をとるなど。大根役者が詩の神様の仕事で俺のお株を盗(と)ろうなど、大それた! こういう調子じゃ、これから先、一体芝居はどうなるんだ。」これ、この男の言った通りの言葉。私は何も拵えたりしていませんよ。全く何て間抜けな奴。私、ありったけの声でそいつを罵倒してやりましたよ。思っているだけのことは洗いざらいそのへちゃむくれの馬鹿男に言ってやりました。だってモリエール、私はあなたに、そしてあなたの一座の人達全員に、言い尽くせない感謝の気持を持っているんです。何て優しい、何て滑稽な、何て楽しい芝居・・・そう、私、長居はしていられません。だから最後にもうひと言、私の心からの満足の気持、それから感謝を。もう行かなくちゃ。リヨンって町は、悪い季節になると、もうどうしようもないところ。到るところ泥だらけ! でも幸い、馬車がありますからね。泥と悪天候に耐える頑丈な要害、馬車がね!
(伯爵夫人、さっと退場。いなくなっている。)
(呆気にとられた沈黙。それから全員でどっと笑う。)
 ジョゼッフ モリエール、観客がたとえ拍手してくれなかったとしても、あの伯爵夫人の言葉が充分その代りをしましたね。いや、最上級の褒め言葉だ!
 テレーズ(伯爵夫人の真似をして。)「でも幸い、馬車がありますからね。泥と悪天候に耐える頑丈な要害、馬車がね!」
(全員、笑う。)
 ルイ(テレーズの傍に来て、同様に伯爵夫人の真似をして。)「私はラバニャ伯爵夫人です。皆様にお会い出来て、これは私の最上の喜び!」
 テレーズ(同じく。)「ねえ皆さん、残念ながら田舎には、良い趣味、上質のものはないの。パリだけ、素敵な空気を吸える場所は。」
 グロ・ルネ(スツールを取って、ルイとテレーズの間にそれを置き。)どうだ諸君、君達、パリのことをどう思う。あそこは素敵なものの宝庫じゃないか。
 ルイ そうだ、伯爵夫人、何てうまい言い方をしたんだ!
 テレーズ そう、本当。言葉一つ一つがよく出来ていたわ。
 ルイ 伯爵夫人、あなたの言葉は百里先からでも、人間そのものの良さが薫(かお)って来ます!
 グロ・ルネ 糞っ! お前達みんな、いい趣味をしていやがって! だがな、俺のは言葉だけがいい趣味なんじゃないぞ。見てくれ、このリボンの趣味の良さ!
 ルイとテレーズ ああ、リボンの趣味!
 グロ・ルネ かつらの趣味!
 ルイとテレーズ かつらの趣味!
 グロ・ルネ それにこのふくらはぎ!
 ルイとテレーズ ふくらはぎの趣味!
 ルイ いや! こんな良いふくらはぎの趣味は初めてだ!
 グロ・ルネ いいか、伯爵夫人、あんたに見せたいものがある。この俺のケツの趣味!
(グロ・ルネ、スツールの上に四つん這いになって、大きなお尻を皆に見せる。ルイとテレーズ、その尻を思い切りひっぱたく。グロ・ルネ、スツールから落ちる。皆大笑い。モリエール、テーブルに背を預け、面白そうにこの場面を見ている。)
 グロ・ルネ どうです? 今のは、モリエール! 今夜の出し物では最高だったでしょう。
 テレーズ そうね・・・新しい分野の喜劇ね。それも終ったから、私、着替えに、上るわ。
 キャトゥリンヌ それに、もう遅いわ。私も上る。(他の皆に。)あなた方、まだ、いる?
 ルイ 僕ももう上る。この老人の古着を脱ぐぞ。六十という年にも、うんざりだからな。
 グロ・ルネ 俺は替えようにも替える衣裳がない。こっちから出よう。(右手の扉を指す。)宿屋の主に挨拶しなきゃ。じゃあな、テレーズ。
 テレーズ(皆には散会の合図をしておいて、全員をやり過ごした後、戻って来る。)あら、皆、モリエール一人を放っておいて?
 ジョゼッフ 私だけは暫く一緒にいるつもりだったけど。
 テレーズ(階段を下りながら。)いいの、一緒に残るのはこの私。行きなさい、あなたも、ベジャール。私、座長にちょっと話があるの。
 ジョゼッフ そういうことなら、私は退散だ。一座に関ること、それが最優先だからな。じゃあ、テレーズ。
 テレーズ お休みなさい、ベジャール。
 ジョゼッフ 月桂樹の葉を被って寝るんだ、モリエール、今夜は。その頭にいっぱいかぶさっているぞ。シーザーの頭の上にある葉っぱより多い。それから、さっきの演説、この私まで若返らせてくれて有難う。私はもう四十に手が届く年だからね。
 モリエール お休み、ジョゼッフ。ぐっすり眠るんだ。
(この時までにジョゼッフ、退場している。)
(モリエールとテレーズ・デュ・パルク、二人だけが残っている。)
 モリエール 何か僕に話?
 テレーズ 五幕物の芝居を書いて、登場人物をあれこれ、出したり引っ込めたりさせる人には、すぐ分ったんじゃないかしら。私も本当に上手に四人の登場人物を退場させたなああって。
 モリエール すると、「寝る時間」って言ったのは、あれは策略?
 テレーズ(品を作って。)マスカリーユよ、やり方を教えてくれたのは。
 モリエール マスカリーユは本当の悪じゃないよ。奴は若々しさを愛し、愛を守る人間なんだ。
 テレーズ 私、自分が悪だなんて言ってない・・・(間)ドゥ・ブリは図星だったわ・・・モリエールには、言ってもまともに答えてくれない事柄がある・・・
 モリエール(少し上の空。)ああ・・・
 テレーズ でも、ベジャールの言ってることが正しいとすると、あなた、何かの言葉を反芻しているのね? 私も気がついていた。あなたが遠くを見ている時、その目が時々鋭く光るの。あんな大拍手を受けた、優しい私の作家さん、何をお考えですの? 自分の作品? あの観客の笑い声? それともラバニャ伯爵夫人?
 モリエール(最初は低く、重い声。だんだんと怒りが籠められて来る。)伯爵夫人が話していたあの馬鹿者のことを考えていたんだ・・・例の「詩の女神と取引をする」作家の話。あいつは私の芝居をこき下ろした。観客が喜んでいるのを見て機嫌を悪くしたんだ。『くだらないことで笑う』馬鹿な奴らだとね。じゃ一体、笑いは何から作ったらいいと言うんだ。哲学者の論文の中にでも見つけろと言うのか。そして、どんな物にも笑わず、ただただ人の作品を貶(けな)すことにしか喜びを感じない、あの血の気の薄い知ったかぶりの連中に、高貴な笑みを浮ばせる材料を、その論文の中に見つけろと言うのか。その知ったかぶりの奴らが、我々より、もっとうまく人を笑わせられるというのか。そいつらの作品、いや、そいつらの名前だって、我々は知らないぞ。詩の女神を適当にあしらうああいう連中には、自分の作品を劇場で演じる権利がある。一方私はその恩恵には与(あづ)かれない、それもただ、私の職業がコメディアンだからだと言うのか。ということはつまり、私が芝居小屋で生活し、芝居の裏表をよく心得ているから・・・十二の頃から観客というものがいかに気まぐれで移り気かを知っており、彼らが海のように、どんなに変り易く荒狂うものか分っているから・・・エーイ、だからこそ私は、彼らの気持をうまく捕え、私の意図する筋書きへとその心を誘い込むことが出来るのだ。そして毎日それを、書くという難しい仕事を、やっている。そう、その私に書く資格がないというのだ! 私にそう言うあの馬鹿者どもに、その資格があるのか。この私の努力をなじる、あの可哀相な連中に何が出来る。奴らの書いた詩を四行でも見たら、こちとら、呆れ返って逃げだすね。気がついてみれば、百里も離れたところにいるってことだ。
 テレーズ ねえモリエール、私、あなたがそうやって、怒り狂っているのを見るの、好きよ。でも、今夜そんなことを言った人、たった一人だったのよ。
 モリエール 違うね。一人じゃない。どこの芝居小屋に行ったって、毎晩必ずこういう連中に出くわす。血の気(け)の薄い連中、詩の女神との取引の結果出て来た影を、こいつらは我慢出来ないんだ。舞台に現れる素敵なやりとりも、連中には自分が鞭でひっぱたかれているような気分、観客が笑いでもすると、自分の未だ認められていない才能に対する侮辱だと思う。この不機嫌が、出し物が終るまで続くのだ。他の連中が楽しんで笑っている間中。ああ、黄色い血と不実な舌をもったこういう奴らは、袋に投げ入れて、棍棒で殴りつけてやればいいんだ。正直な人達の、単純な楽しみをいつも押さえつけようとし、健全な作品に、後ろからこっそり舌を出し、目配せするような、こういう奴らは。
 テレーズ ベジャールの言ってた通り。一旦何かパッと気になることにぶつかって、それを「反芻」し始めると、モリエールは次から次と言葉が出て来るの。そして、その目、マドゥレーヌの言っていた、鍛冶屋の神のヴァルカンそのまま。
 モリエール(微笑んで。)つい我を忘れて、笑われてしまった。
 テレーズ 優しい顔のモリエール、その目がカッと燃える時・・・素敵だわ・・・
(間。)
 モリエール(別の方向から考えて、また。)今日の生意気なあの男、あれが私の初めての作品だということを少しは考えたのか。ある作家が最後の作品を書き終ったとする。そしてあの男が、その全ての作品を読み終ったとする。それなら、あいつがその作家を非難しても、筋は通る。しかし、自分の初めての作品に対する、虚心坦懐の意見を聞こうとしている男に向って、決定的な排斥の言葉を投げつける、そんなことをやってはいけない・・・全く救い難いアホだ・・・もう奴のことは考えない。考えれば考えるほど、むかっ腹が立って来る!
 テレーズ(笑って。)アッハッハッ。モリエール、私、あなたがそんなに怒るのを初めて見たわ。可笑しい! 人間の意地悪をお芝居に書いたらいいわ。そして、今の怒りをぶっつけてやるの。書いているうちにあなた、虐(いじ)められた大きな子供のように怒りがこみ上げてきて、出来たお芝居を見た観客はみんなあなたの味方になるわ。
 モリエール 僕の言ってること、正しいだろう?
 テレーズ あなた、感情が溢れすぎて、理論がないのよ。
 モリエール だけどやっぱり私は正しい。
 テレーズ そう、あなたは正しいの。だから、もし誰か、今日の芝居を見てあなたのことを好きにならなかったとしたら、そんな人のこと、ここで話す価値はないの。
 モリエール それ、冗談?
 テレーズ いいえ、本気!
(間。)
 モリエール 何か僕に話があるって言ってたけど、僕の方が一方的に喋ってしまった。
 テレーズ 話・・・といってもね、モリエール・・・
 モリエール 何か一つ話したいことが、って、さっき。
 テレーズ それはもう言ったわ。
 モリエール ?
 テレーズ ・・・じゃ、もう一度言うわ・・・私、今夜思い出したの、モリエールのことをジャン・バチストと呼んでいた頃のことを・・・
 モリエール ああ。
 テレーズ あなたも思い出す?
 モリエール 長いこと、君のことをテレーズと呼ぶ機会は与えてくれなかったよ、君は。
 テレーズ あなたのことがよく分っていなくて。でも、私への敬意はいつも有難く受取っていたわ。
 モリエール 上手なんだな、隠し方が。
 テレーズ 私、自分の欲望に、すぐには引きずられないようにしているの。
 モリエール それによる犠牲は大きいのかな?
 テレーズ 小さいと思って?
 モリエール それに僕が答えられる筈がない・・・
 テレーズ 今日のこの日まで、あなたは若くて臆病な青年でしかなかったの。舞台で上手に芝居を演ずることの出来る・・・
 モリエール でも僕は、君に僕の思いを隠したことはなかった。君だよ、ちっともそれに耳を貸そうとしなかったのは。
 テレーズ 花開いた、その時にしか、人を愛さない、っていうことだって、許されるでしょう? 感情って、新しい発見で出来上がるものなの。女性の目から見て「あ、これは!」と思う新しい展開が男性に起る、それを目印にするのが一番確かでしょう? やさしいときめきを感じるのに、今夜まで待たなきゃならなかった、と言ったって、私、ちっとも恥かしくないわ。今までずっとあなた、あんなにある才能を隠していたのね。こんなに長い間、そっと隠していたあなたを私、非難するわ。
(この時、左手の扉から、十歳のムヌー、登場。寝間着姿。モリエールとデュ・パルク夫人がいるのを見る。ムヌー、裸足で抜き足差し足、机の後ろに隠れる。)
 モリエール 君からそんな風に言われるなんて、嬉しいね、テレーズ。
 テレーズ こうあなたに言えるの、私も嬉しい。(ちょっとの間。)リオン・ドールの宿屋でのこと、覚えてる?
 モリエール 覚えてるとも!
 テレーズ あの時は私、あなたに来て貰いたくなかった。
 モリエール ああいうことは、人は忘れないものだ。
 テレーズ 今日は、万事都合よく運んでいるわ。夫と私、違うところに泊るし、私の宿はここからすぐ、サン・フランスワ街のタッス・ダルジャン。芝居小屋を出て二つ目の角を右に曲ったところ。門番には言っておく。今夜は私、モリエールを待っている。
 モリエール ジャン・バチストは駄目なのかな?
 テレーズ だって、私の心を動かしたのは、モリエール。
 モリエール 君の言葉を現に聞いているのは、ジャン・バチスト。
(ちょっとの間。)
 テレーズ じゃ私、ジャン・バチストを待っている。あ、人が来る・・・(声を大きく。)じゃ、ね、お休み、モリエール。
 モリエール(声を大きくして。)じゃ、デュ・パルク!
 テレーズ(小声で。)じゃ、すぐにね。(大きな声。)甘い夜でありますように!
(この言葉を言った時には、もう退場している。)
 モリエール(小声で。テレーズの出た扉を見ながら。)そちらも、残酷な夜でありませんように!(一人で。)芝居で拍手を貰うと女優のご褒美か・・・彼女への愛情を、僕が失っていなければ・・・
(ムヌーの「クックー」という声。)
(モリエール、驚いて振返る。テーブルの下を覗く。そこからムヌー、笑いながら出て来る。)
 モリエール ムヌー、お前そこで何をやってるんだ。
 ムヌー 驚かせちゃった!
 モリエール お前、どこから出て来たの? 馬鹿だね、そんな寒い格好をして。
 ムヌー デュ・パルクさんにさよならを言ってる時入って来たんだよ。
 モリエール こんなところでマドゥレーヌに見つかったら、叱られるの、分ってるだろう? ちょっとお前、お利口さんじゃないんだから!
 ムヌー 私、お利口よ。だって、あんたに「お休み」を言おうと思ったんだもの。あんたにキスしないと、私、眠れないんだ。
 モリエール(微笑んで。)優しいね、お前。
 ムヌー 見て御覧!
 モリエール いや・・・駄目だよ。悪い子だ!
 ムヌー 私のこと、愛してる? あなた、今でも私の旦那様?
 モリエール お前がちゃんとベッドに入って、お利口さんにしていれば、愛してるよ。
 ムヌー じゃ、一緒に寝床に入ろう。私、お利口さんにしてる。
 モリエール それは駄目!
 ムヌー どうして?
 モリエール 小さい子は一人で寝るの。
 ムヌー じゃ、大きくなったら、私のところへ来てくれる?
 モリエール どうやってお前、部屋を抜け出たの?
 ムヌー マドゥレーヌが外へ出たの。その時にそっと。衣裳の整理をしていたわ、マドゥレーヌ。私、よーく眠っているふりをしたの。
 モリエール お前、恥かしくないの?
 ムヌー ちっとも。眠ってない時に、眠っているふりをするのって大好き。
 モリエール マドゥレーヌはお前の姉さんだよ。よく言うことをきかなくちゃ。
 ムヌー でもあんた、私の旦那様でしょう? それに私、あんたのこと、愛してるもん。
 モリエール うん・・・じゃ、キスしてあげる・・・さ、行って寝るんだよ。
 ムヌー あの「粗忽者」でやった、手をついて飛ぶの、やってくれたら、私すぐ寝るわ。手をついて飛ぶのって、難しい? さ、やって見せて!
 モリエール 駄目。それは明日!
 ムヌー 今すぐ。そしたら、私、寝る。
 モリエール 本当に寝るな? 約束だよ、アルマーンド。
 ムヌー ええ、約束!
 モリエール 見て御覧!
(ムヌーの前で宙返りをやって見せる。)
(その時、着替えをすませたキャトゥリンヌ、登場。)
 キャトゥリンヌ(扉のところで。)まあ・・・
 モリエール さ、ムヌー、行くんだ。
 ムヌー もう一回。
 モリエール もう駄目だ。
 ムヌー じゃ、見て、私の。
(ムヌー、宙返りをやる。)
 モリエール なあんだ、私よりうまいじゃないか。
 ムヌー(笑って。)ハッハッハ。騙しちゃった。私も出来るの!
 モリエール さ、早く。早く行って!
 ムヌー キスして!
 モリエール はい。
 ムヌー 首に。
 モリエール どうして。
 ムヌー そこ、くすぐったいから。
 モリエール ほーら、首だ。(キャトゥリンヌを指差して。)キャトゥリンヌおばさんがマドゥレーヌに言いつけるよ、言うことをきかないと。
 ムヌー いいえ、キャトゥリンヌおばさん、優しいから、そんなことしない!
(と言いながら、走って退場。)
 モリエール マドゥレーヌの隙(すき)を見て起きて来たんだ。私にキスしたいって。それから、自分のベッドで一緒に寝るんだとね。
 キャトゥリンヌ まあ、あの子も!
 モリエール え? どういうこと?
 キャトゥリンヌ 私も。私もよ、一緒に寝て貰いたくって。
 モリエール だから下りて来た?
 キャトゥリンヌ 私、着替えて来たわ。お休みを言いに下りてきたの。
 モリエール お休み、キャトゥリンヌ。
 キャトゥリンヌ 私のジャン・バチストは、今夜少し私を愛してくれないかしら? ジャン・バチスト、あなた、今夜、幸せでしょう。
 モリエール 君は? キャトゥリンヌ。君にも楽しい夜だった?
 キャトゥリンヌ 私、あなたが自慢。それに、あなたが幸せなので、幸せ。
 モリエール いい人生だね? 僕らのこの人生。
 キャトゥリンヌ あなたはいい心を持ってるの。私達の人生を良くしているのは、そのあなたよ。
 モリエール 君の目、世界中で一番綺麗だ。
 キャトゥリンヌ あなたの目、世界中で一番大きい。その目がいつも私のことを見ているように!
 モリエール 君の優しい顔が隙、それに、フルートの響きの、その声が。
 キャトゥリンヌ こんな風にお互いを見つめること、多くはないわ、ジャン・バチスト。
 モリエール ドゥ・ブリは、僕らの愛、不承不承にしか許さないよ。お互いにこっそり会っていて、みんなの前では知らぬ顔っていうのは難しいからね。
 キャトゥリンヌ(目をそらして。)それよりこう言ったらどうかしら。テレーズの冷たいあしらいを受けなければ、私の方に目を向けることはない、って。そして、それだって、燃えるような心をその目に籠めることはないんだって。
 モリエール そんな意地悪な言葉は言わないものだよ、キャトゥリンヌ!
 キャトゥリンヌ 十八箇月、キャトゥリンヌを放っておいて?
 モリエール その十八箇月が僕にキャトゥリンヌの愛し方を教えてくれたんだ。
 キャトゥリンヌ じゃ、暫くしたら来てくれるわね? 私の宿には『シュヴァッル・ピ』の看板がかかっているわ。キャテドラッル・サン・ジャンを越して最初の道を左。来るわね?
 モリエール マドゥレーヌがいる。今日は駄目だよ。
 キャトゥリンヌ 私達のこと、マドゥレーヌは知っているの。私、待ってるわ。・・・(優しく。)お休み、ジャン・バチスト。
 モリエール お休み、キャトゥリンヌ!
 キャトゥリンヌ(扉のところで、小声で。)じゃ、「シュヴァッル・ピ」で!
 モリエール 駄目、今夜は。
 キャトゥリンヌ いいえ。私、待ってる。
(キャトゥリンヌ、退場。)
(間。モリエール、笑う。だんだん笑いが爆発的になる。)
 モリエール 『ああ、マスカリーユ、私の息子、お前は何てもてる男だ。もし私、モリエールが、お前の父親でなかった、きっとお前を妬(ねた)んだことだろう・・・』
(宿屋の主、登場。)
 宿屋の主 まだいらっしゃいましたか、ムスィユ・モリエール。
 モリエール ああ、いいところへ来た、親父さん。今日の夕食の払いをしなきゃ。
 宿屋の主 あの女の役者さんが出て行くのを見ましたので・・・きっともう、おひらきだと思って・・・
 モリエール 夕食の払いだ、親父さん!
 宿屋の主 ああ、それはもう戴きましたので・・・参りましたのは、別の用件ですが・・・
 モリエール 払いがすんだ? 誰だ、払ったのは。私だぞ、みんなを招待したのは。
 宿屋の主 小柄な、グロ・・・とか仰る方で。
 モリエール グロ・ルネ?
 宿屋の主 一座の者があなた様を招待したんだと!
 モリエール 何だ、ペテン師の集りか、この一座は。
 宿屋の主 みなさん、あなた様を愛していらっしゃるということで、これは。
 モリエール 連中はいい奴らだ、全く。なあ、親父さん。
 宿屋の主 これはきっと、お聞きになるとお喜びになると思います、ムスィユ・モリエール。さっき若い衆が四人ここに来ましてね、四人とも結婚前のまだほんの若造達ですが、丁度芝居から帰って来たところで・・・言ってましたよ、あなた様がこの國で一番の喜劇役者だって。芝居であんなに笑ったことは今までに一度もないと。
 モリエール 四人がそう話していたって?
 宿屋の主 ここに来てもまだ笑っていました。芝居がかかっている間中見に来るぞって。
 モリエール 本当か?
 宿屋の主 そのうちの一人が言ってましたよ。喜劇王で知られたタバランもあなた様の前では真っ青になるだろうって。それから、若い者は必ずあなた様に大喝采を送る筈だって。あなた様は気持が若い。それに、若い者のことが好きだって、みんな感じるからだって。
 モリエール そう言ってたのか、親父さん。まだ連中はそこに?
 宿屋の主 いいえ、もう行っちゃいました。
 モリエール もう一度来ることがあったら、私が待っていると話してくれ。一緒に飲みたいからと。
 宿屋の主 きっとお喜びになると思いましたよ、ムスィユ・モリエール。私は日曜日にお芝居を見るつもりでいます。日曜日には義理の弟がこの宿屋を私の代りに見てくれることになっていますので。あ、私はまだお客様が・・・ではこれで失礼します。
 モリエール 私はちょっとここに残って仕事をするんだ、親父さん。
 宿屋の主 紙とインクはその棚にあります。
 モリエール ああ、使わして貰う。有難う。それから、さっきの伯爵夫人のようなのが来たら・・・いや、どんな奴でも、私はもう寝たんだからな。
 宿屋の主 畏まりました、ムスィユ・モリエール。
(宿屋の主、退場。)
(一人になるとすぐ、モリエール、嬉しそうに大声で笑う。)
 モリエール 私は若い。私は笑う。私は愛されている!
(この時までにマドゥレーヌ、左手の扉から登場している。)
 マドゥレーヌ あらまあ。誰から?
 モリエール ・・・愛されてる? それは、若い四人の男達からだよ。私の芝居のことを話していた・・・。連中、幸せな年だ。それに、生きる喜びを味わう年だ。連中こそ、芝居の良き判定者だ。連中をこそ楽しませる芝居を作ってやらなきゃ。マスカリーユは気に入ったかな? 連中に。
 マドゥレーヌ マスカリーユはあなたにも気に入ったの。あなた、自分の弟のように思っているでしょう? マスカリーユのことを。あなた方二人、同じ血を持っている。だからなの、二人がピッタリ息があってるの。あの「粗忽者」を書いている時、あなた、随分楽しんでいたわ。よくそう言ってたでしょう? 一場が終って次の場に進む時、何の苦もなかった、韻だってすぐ捜せたわ。
 モリエール そうだった。スラスラ進んだな、ペンが。
 マドゥレーヌ あなたは書きながら楽しめる人、夢中になれる人だから!
 モリエール レリーの愛の言葉は見つけるのが楽しかった・・・
 マドゥレーヌ だってあなたは、優しい気持にもなれる人だから。
 モリエール 『僕の愛している人のことをちょっとでも悪く言うなんて、それは自分の心の一番優しい場所に傷をつけるのと同じだよ』。この二行、僕は好きだな、マドゥレーヌ。
 マドゥレーヌ それはそう。綺麗ですもの。
(少しの間。)
 モリエール 奇妙な感じだ・・・
 マドゥレーヌ 何が?
 モリエール こういう詩を自分で作って、五幕の芝居にして、今夜演じたってことが・・・
 マドゥレーヌ 今初めて分ったっていうのね?
 モリエール うん。
 マドゥレーヌ あなたって素敵よ、ジャン・バチスト・・・
 モリエール 喜劇を書いている時は、全く何をやっているか分ってない。後になって気がつくんだ・・・僕は自分が「粗忽者」を書いた。それは思い出す。だけど、僕がそれを書いている姿は想像出来ない。
 マドゥレーヌ それはね、書いてる姿なんか、あなたにはあまりにも当り前だからなの。
 モリエール じゃどうして今になって、書いたことに気がついたんだ。どうしてもっと前に気がつかない。
 マドゥレーヌ それはあなたがいたづらっ子のままでいて、そして今、幸せになったから。いたづらっ子が幸せになる、その瞬間に喜びが生れるの。「ああ、僕は『粗忽者』を書いたんだ」って。
 モリエール 君はいつでも、僕より物がよく分っているんだね? マドゥレーヌ。
 マドゥレーヌ それは私があなたをもう十二年間も知っているから、そして私達が出逢った時から、あなたはもう、私にとって「子供」だったから。
 モリエール 僕は二十一歳だった。
 マドゥレーヌ 私は二十五歳! あなたは金持の家を出て、一本立ちになったばかりのところ。それはもうきちんとした青年。私にももう私生児が生れていたわ。
 モリエール 僕には君が、「のるかそるかの勝負」そのものに見えた。自由の香りがする香水だと思った。
 マドゥレーヌ 私達(役者)の放浪癖が魅力的に見えたのね。でもあなたはずっと、金持の、真面目な、礼儀正しい若者を通していたわ。
 モリエール そんなに真面目だった?
 マドゥレーヌ 教育の下地があったもの。そして家柄の良さが身についていた。でも、あなたの目には、勇気と熱意が籠っていたわ。そしてあなたの明るい顔は、人を引きつけたわ。
 モリエール 君は綺麗だった。
 マドゥレーヌ 私、自分が母親のような気持だった。
 モリエール 今でも母親だ、君は・・・なんてまだ、綺麗なんだ。
 マドゥレーヌ 今は私・・・少しやっかみや。
 モリエール マドゥレーヌ! ・・・もう古いんだよ僕ら、結婚歴は。
 マドゥレーヌ でも今夜はあなた、二十歳。さっきそう言ったでしょう?
 モリエール うん、言った。僕がどう感じているか、君、分る? 僕はね、今夜初めて喜劇を演じた気がする。
 マドゥレーヌ でももう十二年も芝居の旅をしてきている・・・
 モリエール あらゆる悲劇、その中で僕がやった主役・・・シーザーを始めとして・・・それらとは全部今日、さよならした感じだ。
 マドゥレーヌ あなた、そういうものでは、あまり冴えなかった。悲劇をやるには、あなたの声、籠(こも)り過ぎ。それにあなた、台詞の言い方が速過ぎなの。その欠点を直そうとして、あなたは声を張上げるの。そして詩を朗読する時、ゆっくりした調子にする。するとどうしても、勿体振ってしまう。
 モリエール 「勿体振る」?・・・そんな!
 マドゥレーヌ いいえ、勿体振るの! あなたは落着いていられなくなる。それで、無理に演技をしたり、気取ったり・・・もう以前に何度も言ったけど・・・
 モリエール 僕の声は籠っていない・・・籠った声なんかじゃないぞ!(大声で。)「おお、この世に繁栄を与える神々よ、我らを父たらしめよ! 我らに、子供を恵み給え!」僕の声は籠ってなんかいないぞ! 喉にトランペットを入れることが出来るんだ、その気になれば!
 マドゥレーヌ 今夜はそうだったわ。喜劇だったらあなたの声は完璧! あなた、落着いていたわ。
 モリエール だろう?
 マドゥレーヌ それに素敵だった。当り前だけど。(間。)
 モリエール じゃ・・・君はやはり僕が悲劇向きじゃないと言うんだね?
 マドゥレーヌ 比べものにならないわ。
 モリエール すると・・・君によれば、この僕は・・・お笑いにだけか・・・光って見えるのは。
 マドゥレーヌ そう。お笑い。あるいは喜劇・・・さっきあなた自身そう言ってたでしょう? 喜劇なの、あなたが一番成功するのは。
 モリエール うん、でもパリでは・・・
 マドゥレーヌ パリでも喜劇をやるの。
 モリエール いや、駄目だ。悲劇でなきゃ。あそこでは名声を得られない。パリでは、喜劇は尊ばれないんだ。
 マドゥレーヌ いい喜劇を捜すのよ。
 モリエール 滅多にないからな、いい喜劇は。コーチエ・ガルジーユだって、チュリエパンだって、本物の喜劇には出ないよ。
 マドゥレーヌ(ちゃんとした喜劇がないからでしょう?)だからそんなことで悲しまないの。あなたが本物の喜劇を書けばいいの。
 モリエール 僕が?
 マドゥレーヌ そうよ。あなたが。
 モリエール ・・・?・・・
 マドゥレーヌ 書きたければね、まだ。
 モリエール うまく出来ると思う?
 マドゥレーヌ だって・・・あなた「粗忽者」を書いたんでしょう? ベルトラームの作品を下敷きにして。だから、イタリア喜劇をまた材料にしてやってみたらいいわ。
 モリエール 君の言う通りだ、マドゥレーヌ。イタリア喜劇を真似すればいいんだ。あれは動きまわる喜劇だ。出たり入ったり、横切ったり、自殺しかけたり。しかし最後はいつも、観客の願ったり叶ったりに落着くっていう・・・
 そうだ、マドゥレーヌ、僕はやってみる。捜してみるよ。まだ何か書ける筈だ。僕が出られるように・・・君の役も必ず作るよ!
 マドゥレーヌ 私は悲劇役者よ。
 モリエール 僕の喜劇には必ず君が出られる役を作る! 君は何でも出来る。君は恐るべき女優なんだ。
 マドゥレーヌ ほらね、ちっとも希望なんか失うことないでしょう?
 モリエール 失うどころか、だ! 僕の喜劇を抱えてパリに乗込むんだ。ホテッル・ドゥ・ブルゴーニュでパリの芝居の連中と張合うんだ!
 マドゥレーヌ 慌(あわ)てないで!
 モリエール うん、きっと張合うことになる。モンフロリー、見てろ、あの太鼓腹に顔色なさしめてやる。・・・パリの連中、きっと僕らの芝居が好きになる。大喝采だ! メティエや、クルワ・ヌワールの時のような、債権者に追われるようなことはもうなしだ。パリの連中、きっと好いてくれる。な、マドゥレーヌ、な、マドゥロン!
 マドゥレーヌ モリエール、モリエール! 私の可愛いジャン・バチスト! 今パリで好かれている連中、あなたを相手に戦わなきゃならなくなるわ。
 モリエール そうだ、僕は戦うぞ! あいつら全部、のしちゃう!
 マドゥレーヌ あなたをシャトゥレにぶちこんだ、あの判事達も?
 モリエール 僕らのことを愛さない奴らは全部やっつけてやる! 舞台の上で粉々にしてやる!
 マドゥレーヌ あなた、舞台に上るのを禁じられるわ!
 モリエール(芝居でやるコミカルな、大げさな仕草をして。)マドゥレーヌ、お前、寝るんだ!
 マドゥレーヌ(笑って。)まあ、素敵な台詞まわしよ。あなたも上る? 私、ここに来たのはそれが知りたかったから。それともマドゥロンと一緒に寝るの? ジャン・バチスト。
 モリエール いや、その・・・もう遅いな・・・
 マドゥレーヌ そう、遅いの。だから訊いてるの!
 モリエール ああ・・・ちょっと思いついたことを書留めておこうと思って・・・
 マドゥレーヌ まさかもう新しい芝居を書き始めるっていうんじゃないでしょうね?
 モリエール いや、それは違う・・・ちょっと別のことを・・・
 マドゥレーヌ じゃ私、先に上ってるわ。待ってますからね。(扉のところで、小声で。)私の部屋はタッス・ダルジャンにはないのよ。シュヴァッル・ピでもない。すぐそこ・・・私達の部屋。
(と言ったと思うと、もういなくなっている。)
(モリエール、一瞬あっけにとられる。それから大声で笑う。だんだんと真面目な顔になって、今までにも観客に見せた、何か物を考えている顔になり、それから、今までに見せたことのない、非常にコミカルな顔、仕草をし、)
 モリエール 「勿体振るだって?」
                    (幕)

     第 二 幕
   『彼女には、頭のよい男が居(ゐ)、その夫を彼女は全く愛していなかった』

(場は、モリエールの仕事場。左手にテーブルと本棚。舞台奥、右手に扉。前面に背の高い暖炉。)
(一六六六年一月。)
(幕が開くとモリエールがテーブルについている。
 モリエール(読んでいる。)
 『あの人の愛情を受けているという確信が君にあるのなら
 君の恋敵のことをあれこれ不快に思うことはないんじゃないのか。』
 『アルセスト。
 あの人は、自分の心をいろんな人に簡単に分け与えているように、僕には見えるんだ。僕がここに来たのは、その点をあの若い未亡人に言ってやろうと思ってなのさ。誰に対しても魅力たっぷりの彼女のあのやり方が、僕には気に入らないとね。だから僕は義務として彼女に・・・』
 『フィラント。
 そういう気持になるものさ、自分は強いんだとね。自分を苦しめている人間に何か言ってやろうとする時には。しかしそれより、エリアーントのことを考えたらどうなんだ。優しい気持を君に示してくれているじゃないか、彼女は。彼女となら君、もうとっくに君の望みは叶えられている筈なんだぞ。恋の軋轢(あつれき)など全くなく、めでたしめでたしじゃないか。』
 『アルセスト。
 エリアーントに対する僕の尊敬は確固としていて誠実なものだ。しかし、尊敬以上の優しい間柄となれば、僕には関係のない話だね! 僕の行動にはいくらでも過ちはあるだろうよ。しかし、僕の心を理性で取り仕切ろうったって、そうは行かない。』
(モリエール、読むのを止め、言う。)
 モリエール これが第一幕の終だ。お前、どう思う?
 アルマーンド いいんでしょう? 私よりあなたの方がよく判っている筈だわ。
 モリエール お前の意見が聞きたいんだ。
 アルマーンド どうして。
 モリエール お前は馬鹿じゃないからね。私の知る限り!
 アルマーンド(立上がって。)その言葉、あなたがここまで書いてきたものとは違うわ。
 モリエール 私もそう思う。
 アルマーンド まあいいわ、その話。でもどうして私が第一幕から登場しないの?
 モリエール 何? 第一幕からお前が? 駄目だ。第一幕はアルセストとフィラーント二人のこの場でおしまいにする。
 アルマーンド ということは、一幕は短いんでしょう? 私を入れる時間ぐらいあるんじゃない。二人の場の後で、セリメンヌを登場させればいいのよ。だって最初アルセストは、セリメンヌに話があると言ったのよ。彼女を登場させて話をさせたらいいじゃない。
 モリエール いや、第二幕はその二人がいるところから始めるんだ。そしてアルセストがセリメンヌに『君のやり方は気に入らない』と言う・・・
 アルマーンド いいでしょう! 御勝手に! あなたにはあなたのお考えがあるんでしょう! 決めてしまって、考慮の余地がないのなら、私の意見を訊くなんて、よして頂戴!
 モリエール 私は、私の書いたものに対する君の意見が欲しいんだ。
 アルマーンド よく分ってますわ。意見はもう言いました。あなたのお気に召さないかもしれませんけど、セリメンヌは一幕で登場するの。
 モリエール 駄目だ! それは私の計画にはない!
 アルマーンド でも、私の意見はそれ。これで分ったわ、あなたの計画には私の気に入るものは決して入らないってことが!
 モリエール どうしてそんなことを言うんだ、アルマーンド。
 アルマーンド 言うに決っているでしょう? もし陛下が芝居でガヴォットを踊りたいと言ったら、あなた、自分の計画になくったって、ちゃんと陛下を踊らせるようにするのよ。
 モリエール 陛下が戯(たわむ)れに芝居で踊ってみたいと仰せになれば、私は「憂鬱な男」なんか書きはしない。踊って貰えるように、「強制結婚」でも書くさ。
 アルマーンド よく言うわね。今日にでも陛下が「憂鬱な男」で踊りたいんだが、と話が出れば、あなたすぐ、「畏まりました、陛下。世界に輝く陛下のために、「憂鬱な男」でお踊りになれるよう、お取計らい致しましょう」って言うに決ってる!
 モリエール それは違う!
 アルマーンド 違わない!
 モリエール 違うと言ったら、違う!
 アルマーンド 陛下がお望みになれば、あなた、やるのよ!
 モリエール 陛下がもし踊りたいのなら、私は陛下が踊る場面を含んだ芝居を書く! どんな王様だろうと、この「憂鬱な男」で踊らせはしない。・・・止めよう、こんな話は!
 アルマーンド もうあなたなんかと、私、口をきかない!
 モリエール 喧嘩の絶えない毎日だったところ、今日やっとその小康(しょうこう)を得たので、お前に、今書いている芝居の第一幕を聞いて貰ったんだ。ところがお前の感想ときたら、セリメンヌが二幕になってからしか登場しないという不満だけだ。それで私が満足出来ると思っているのか。
 アルマーンド 言いますがね、モリエール、あなた、日に日に怒りっぽくなっているわ。何かあなたに言うと、必ずその目がカッと怒りで燃える。そして怒鳴り始めるの。あなたいつも私に、「ちゃんと話を聞くんだ」って言うけど、あなたの方は人の話なんか聞いちゃいないわ。それにあなた、怒るのはあなたの身体にひどくよくないのよ。歯茎(はぐき)の腫(はれ)にも、喀血にも。モーヴィラン先生が一昨日も私に言ったわ、「あの方には休息が大事な事なのです。それに、激するのもとてもいけません」って。あなたのその喀血、それはあなたの年では身体の警告ですって。本当に注意しなくちゃいけないって。
 モリエール 私の年・・・それに喀血、そんなことを今話しているんじゃない。お前は私を怒らせて楽しんでいるようじゃないか。私を怒らせない・・・それは、医者のどんな処方箋より、医者のとんがり帽子を被ったモーヴィラン・・・あいつらの言うどんなことよりも効き目があるんだ。
 アルマーンド あなたがそんな調子じゃ、私、あなたにはもう口をきかない方がいいようね。私が何か言うと、すぐそれを悪い方にしかとらないんだから・・・
 モリエール そんなことを言ってるんじゃ・・・
 アルマーンド いいえ、そんなことを言ってるんです、あなたは。私が何か言うと決って依怙地(いこぢ)になる。私の言葉、私の仕草一つ一つがあなたの不満の種なの。
 モリエール そんなことはない・・・
 アルマーンド 第一幕から登場したいと言ったとたん怒り出す。この家に私の友達をよびたいと言うと・・・いいですか? 私の尊敬している、私が愛情を感じている友達をよ・・・あなた、その友達を、口汚く罵(ののし)り始める。いいですか、夕べの私達の喧嘩、あれは・・・あなたは違うと言うけど・・・あなたが始めたものなんです! 私はただあなたに、今日のお昼、今お話したみなさんをよびますからね、と言っただけなの。
 モリエール 私はな、アルマーンド、お前がよぶことを決める前に、私に、よんでもいいかと訊いてほしかったと言っただけだ。自分で勝手に決めて、ただその決定だけを私に知らせるなどと・・・
 アルマーンド あれは「決定」じゃないの! あれは私の希望。希望があるのは人間誰しも当り前の話でしょう?
 モリエール だから、その「希望」が、だ、私に相談されれば、私も嬉しかろうと言っているんだ!
 アルマーンド 相談? 何のために? ただ喧嘩を始めるため? 喧嘩が厭だからこそじゃないの、私がああ言ったのは。もし私がよんで来る人の名前を最初に言いでもしたら、その名前を聞いただけであなたは苛々するの。あなたはこの連中が嫌いなの。ああいう連中とつき合うのはまっぴらなの。あの連中の顔は見るのも厭、話を聞くのもうんざりなの。それを知っていて私が、どうしてそんなことをあなたに相談するの? あなたの答は聞く前から分っている。あなたから厭な目で見られるのを避けるために、あなたの耳を厭な客の訪問の話で煩(わづらは)せないためには、こんなことは何も話さないのが一番なの。
 モリエール 話さないでさっさと客をよぶ! 一体この私の家を何だと心得ている。お前が会いたいと思った男達を勝手気儘(きまま)に連れて来られる都合のいい場所だぐらいに思っているんだろう。お陰でこっちは、この自分の家で、少し歩けば連中の髪粉(かみこ)、連中のリボン、に、こっちの髭をさすられるというわけだ。
 アルマーンド 「私の家」「この自分の家」! 二言目(ふたことめ)にはすぐそれ!
 モリエール これが私の家じゃないというのか!
 アルマーンド 私もいるんですよ! 私はあなたの妻。私達に家は二つないんですからね。私が自分の友達をよぶ時、どうすればいいんです。
 モリエール お前の友人が、私の友人でもあって貰いたいんだ。
 アルマーンド ブワロは確かに面白い人。それに誰よりも役者の真似が上手。でもあなた、私がシャペッルやラ・フォンテンヌ或はミニャールとつき合って欲しい? 勿論この人達とても親切、それは否定しないわ。でも、私の年、私の気分とは全く合わない! それでもあなたは、この人達としかつき合わない。私の間違いでなければ、あなたには五人、いや六人、それと王様、だけ、友達は。たいしたものよ!
 モリエール 確かに私は友達が少ない。
 アルマーンド 私はどうしろって言うの。私は多いんですからね! 夫が孤独が好きだから私は自分の友達との付合いを止めろっていうの?
 モリエール 結婚して最初の頃、私はお前の自由に任せた。しかしお前には全く感謝の気持はなかったぞ、アルマーンド。
 アルマーンド 父親に、舞踏会に行ってもいいと言われれば、それは感謝するわ。でも、夫に言われて感謝などしないわね。私、あなたのことを父親とは思いたくないわ。
 モリエール 私を父親と考えたくない人間は他にもいる。ドノ・ドゥ・ヴィゼの奴だ。あいつめ、「侯爵の復讐」の中で、私をあからさまに侮辱しおった。このドノ・ドゥ・ヴィゼの奴、そして町中(まちじゅう)の人間、それに宮廷人・・・連中はみんな私がお前の夫だということを知っている。
 アルマーンド 私達、結婚してもう四年経つ。あなたも成功したし、私も有名になっている。意地悪な陰口(かげぐち)をたたかれるのは仕方のないことでしょう?
 モリエール お前の不品行がなければ、その陰口ももう少しは穏やかなものだった筈だぞ、アルマーンド。
 アルマーンド 不品行! あなた、私に何か不品行があるって言うんじゃないでしょうね。
 モリエール 私がわざわざ責めるまでもないだろう。お前の不品行はパリ中の語り草だ。そしてお前は、その潔白を示そうとしたことが一度もない。
 アルマーンド まあま、そんなことは言わないで欲しいわね。パリ中の人、そしてあなたまで私を責めようっていうのね。でも私、何も疾(やま)しいことはないわ。不品行なんて、私一度だって認めたことはないんですからね!
 モリエール お前が認めたことがなくても、お前以外の男がいくらでもいる、それを証明してみせるという奴らがな。
 アルマーンド 少なくともあなた、芝居にそれを書こうっていうんじゃないでしょうね。夫婦喧嘩の言葉を逐一(ちくいち)人に教えることはないわ。それに、私達のことを悪く言われたくないのなら、舞台で二人が喧嘩している姿をわざわざ人に見せることもないし。
 モリエール 行け! 好きなようにしろ! よべ、若い連中を! 勝手によべ! 
 アルマーンド 言っておきますよ。その若い連中をよぶのは、私が「愛撫」してやるためにじゃないんですからね。
 モリエール 分ってる・・・早く行け!
 アルマーンド 幸いなことに私達、暇を潰(つぶ)す為の素敵な会話はちゃんと出来ますの。それもあなたにやっかまれないですむような会話を。今日は特にドラーントが来ることになっていますわ。あの人、それはそれはクラヴサンを上手に弾くんです。
 モリエール 分ってる。もういい・・・行くんだ。
 アルマーンド(扉のところで。)あなた、病気。治療しながら仕事をするなんて!
 モリエール お前だけだ、それを非難するのは。
 アルマーンド それで分るでしょう? 人の親切がまるで分らないで、言うことを聞かないんだから。そして不機嫌にまかせて人のことを怒鳴り散らす!
 モリエール 行け! 行けと言ってるだろう!
(モリエール、苛々の極に達し、怒鳴る。そして咳の発作が出る。)
 アルマーンド ほーら、咳! 咳が出て、却ってほっとしているんでしょう。おかしな人!
(モリエール、アルマーンドに答えず、ただ咳。アルマーンド、退場。)
 モリエール(一人になり、溜息をつき。)あいつに殺されてしまうぞ、俺は。
(モリエール、机の後ろ、舞台奥に坐りなおす。自分の書いた芝居の台詞を読み直す。それから、原稿から目を上げ、じっと遠くを見つめ、呆然と考える。)
(右手の扉開き、割合若い、痩せた、背のあまり高くない男が、恐る恐る現れる。これはブワロである。しかし観客には、この場の終まで、そのことは分らない。)
 ブワロ 入ってもいいですか?
 モリエール ああ、君か。
 ブワロ 召使には、取り次がないよう頼んだのです。あなたのことは分っていますから、どんなに多忙でも召使に「お連れするように!」と仰るに決っています。私は本当に仕事中でないことがはっきりしない限り、お邪魔したくなかったのです。
 モリエール(立上がり、ブワロに近づき。)ああ、私は言うね、「入って入って。有難う、君。こんなにピッタリ、来て欲しい時に来てくれるなんて。」
 ブワロ じゃ、僕に約束していた事を仕上げたんですね?
 モリエール 約束? 何だったっけ。
 ブワロ 土曜日にここに来た時、僕に言いましたよ。「今日きっと私の喜劇、第一幕の終まで書き上げているよって。そして今日来たら、それを朗読してやるって。
 モリエール その通りだ!
 ブワロ 一幕は終?
 モリエール そう。
 ブワロ すごい!
 モリエール 最後の一節を丁度さっき書きあげたんだ。
 ブワロ ああよかった。これでお邪魔じゃないってはっきりしました。僕は安心しましたよ。
 モリエール 君が邪魔なことなど、あったためしがないよ。さ、坐って。
 ブワロ 一幕が聞ける。嬉しいなあ。
 モリエール あけすけな話をしても、君、厭な顔はしないね? 実は丁度今、女房に読んで聞かせたところなんだ。それで大喧嘩をしてね。朗読するだけでもかなり疲れた。すまないが、もう少し待ってくれないか。三十分は少なくともここにいて欲しい。十五分もすれば朗読出来るようになる筈だ。さっき、咳の発作が出てね、ちょっと息がきれているんだ。
 ブワロ それはもう。どうぞ休んで下さい。
 モリエール うん、すぐよくなる。君に折角来てもらって、つまらない気持で返したくないからね。
 ブワロ ああ、モリエール! つまらない気持だなんて! これはもう何度も言いましたけど、ここに来て僕がどんなに嬉しいか、あなたにお会いして、お話が聞けて、それがどんなに素敵なことか、きっとお分りにならないと思います。
 モリエール ああ、ブワロ、何て優しい言葉だ。今の言葉で私がどんなに救われたか、特に丁度今のこの時に。
 ブワロ 私の感じているありのままの言葉です、今のは。
 モリエール そう思う。信じている。ああ、君の示してくれた友情がどんなに嬉しいか。私は今朝読み返していた、私を誹謗しているパンフレット類、私を餌にした芝居を。私はあの連中とどうしても交えねばならなかった戦いを、心の中で繰返し思い出した。そして、今になっても、私の心は、全く和(やわ)らいでいない。あれは人間の意地悪という意地悪を洗いざらい集めて文章にしたものだ。これは君に保証する。
 ブワロ 分ります。
 モリエール それだけではない。私は女房としょっ中喧嘩をせねばならぬ運命にあるようだ。まるでこの三年間、そして未だに私をしつこく悩ましているあの連中・・・学者ぶった偽(にせ)学者、信心ぶった偽信心家、洒落ものぶった偽洒落者、それに医者の奴ら・・・だけでは、神様は足りないと思っていらっしゃるようだ。私は女房にまで悩まされ、お陰で私は、自分の芝居の筋を全く書き替えねばならぬ。あいつを喜ばせるために、第二幕だけではない、第一幕にまであいつを登場させなきゃならないのだ。
 ブワロ 御自分の信じるままになさるんです!
 モリエール コメディアンというのは、奇妙な動物だ。
 ブワロ 女房達もです。・・・あなたもちゃんと「女房学校」でお書きになっています。
 モリエール そうか。自分の芝居のモデルが自分か。そう、女房も奇妙な動物だ! そして私の女房も。君は私の過ちを繰返さないで欲しい。君は三十歳だったな。私の経験を他山の石とするんだ。二十一歳の女性が持つ魅力に、四十四歳の男が虜(とりこ)になってはいけない! ああ、私ぐらい不幸せな男はいない。そして私の持っているものは、その不幸せに相応しい物だけだ。私は自分が、結婚生活をするには厳し過ぎる男だとは思っていなかった。結婚生活には、生れたその時から、私は全く向いていない。優しさという感情を持たずに私は生れたのだ!・・・結婚した時、妻は若かった。それで私は、いろんなことに気を遣うことで、彼女を繋ぎとめようとした。これなら長続きする筈だと・・・この手段が成功するようにと、私は手を尽くした・・・しかし、それほどの手も尽くすことはなかった。私には自分の過ちがすぐに分ってしまった。私の心遣いでは、彼女は何も変らなかったのだ。それでも私が彼女を見る時、私の目は彼女の欠点の方には向かなかった。・・・彼女の愛らしさだけが私の目には写っていた。・・・君は感心してくれないだろうか、私が理性のもとに行った全てのことが、理性を誇る結果になるどころか、結局は私自身の弱さを知ることにしか役立たなかったことを。
(原文の註 この部分は、モリエールがシャベッル宛に書いた手紙の文章として一般的に認められている。)
 ブワロ 敵を片っ端からやっつけて行けば、そのうち楽になりますよ、モリエール。まづ町での敵、次に宮廷での敵、陰謀を企んでいる連中、それからあなたがあけすけに本当のことを言ってやるものだからそれであなたを嫌っている連中、そいつらを順々にたたいて行くんです。あなたには生れつき闘争が向いています。それに、天があなたに、最も強い武器を与えてくれています。即ち筆。あなたの筆は研ぎすまされた刃(やいば)です。ベイヤールも顔負けの戦いぶりです。あなたの筆が一番あなたらしいのは、自分が攻撃を受けて、やり返す時の、あの言葉です。この「反撃」の良い例、それがまづあの「女大学」です。次が「タルチュフ」、それから「ドン・ジュアン」。これはタルチュフを禁じた偽善者達への痛烈な反撃です。それから最大の反撃が「気で病む人」。こう書かれて一体連中はどう反応していいか分らない筈です。モリエール、自分を信じて! そして僕を信じて下さい! 闘争の中でなんです、モリエール、あなたが偉大になるのは。そこであなたは自分の力を汲上げるのです。この世では、狡くて卑怯な人間が、善意の人をやっつけている。それをモリエール、あなたは善意の人のために仇(かたき)をうってやっているのです・・・そう、これがあなたに言いたかったことです。
 モリエール しかし私は、神に誓ってもいいが、憎しみを心に抱いてはいなかった! 神が善意と寛大さで人間に与えるもの、それを私は誰よりも先に神から受取っていた。私は騒々しくて笑いのある、健康な人生が好きだった。私は、人々が、喜びや哀しみで、出逢ったり、別れたり、はては衝突したり、するのを見るのが好きだった。そして一旦衝突したら、二人の知力と胆力が物を言う。そして特に、二人の知力能力が拮抗(きっこう)している時が面白い。丁々発止、二人が活き活きとやりあう姿・・・職業の辛さ、金のない惨めさを背負いながらも・・・私は役者の仕事を始めた当初、酷い障害にあったお陰で、金がないとはどういうことか、夜寝るところがないとはどういうことか、を知った。私はシャトレーの牢屋にぶち込まれ、何日も憤懣やるかたない夜を過した。またある時は、一座の者が乗っている大型馬車を、馬に乗って追いかけたこともある。しかしこういう試練は、私にとっては、全て良い経験だった。生きるために苦しまねばならない人間なら、誰でもが受ける試練だ。こんなことで私の力も、私の勇気も、なくなりはしなかった。いや、その反対だ。その試練によって、私の血は煮えたぎり、最後の勝利は、お陰で、より甘美(かんび)なものになった。あの頃はすることなすこと、いや、世の中で起きること全体に、健全な味があった。時々は少し厳し過ぎることもあったが、活き活きしていて、健康的だった。人々は寒さに、餓えに、暗闇に、負けまいと闘った。その闘いはさっぱりしたもので、人は自然に自分のありったけの長所を出さざるを得なかった。ところがどうだ、今のこの私の闘い。私の目の前には誰一人まっとうな敵はいない。みんなモグラ野郎だ! 出て来るものといったら、卑劣な中傷、誹謗、欲の皮のつっぱった悪巧みだけだ。私の個人的な生活に入り込もうと、私の書いた芝居の喧嘩の場面を利用する。そしてこの私は寝取られ亭主扱いだ。かと思うと、カトリックの神父の連中はこの私を、「人間の皮を着た悪魔」だと刻印を押し、生きながら火あぶりの刑に処すべきだと言う。しかしこいつらだって、あのラスィンヌに比べればものの数ではない。君も知っているだろう。あいつめ、二三箇月前、この私をとんでもない計略にかけようとした。それにあのコンティ伯爵、以前は私の保護者だったものが、私を虐(いぢ)めにかかっている。全く宗旨替えもいいところだ。私の信者を救おうと私が本腰を入れようとした瞬間に、こっちは悪魔扱い。全くたいしたものだ! いや、君はどう思っているか知らないが、私の武器は、あれほど卑劣な攻撃に対しては、無力なんだ。だから君から信頼されるような力はもうない。ドン・ジュアンに私は天罰を与えた。あれは芝居の話だ。おまけに酷い出来栄えだ! あんな解決法で悪人が駆逐されたなどと、みんな騙されないで欲しい。昔から神は悪党どもを充分に罰したことなど、一度もないんだ!(モリエール、咳をする。)ああ、これだ、この咳。この病気。全く医者どもの良い餌だ。何も知らない阿呆どもが、勿体振った長い衣裳を着て、大げさな眼鏡でこちらを眺め回す。
 ブワロ 中にはちゃんとした医者もいます。医者の言うことは聞かなければ。何と言っても我々よりは病気のことは分っているんです。
 モリエール 一年半前に連中は私の息子を死ぬに任せた。誰も彼も違う見立てをしおって! 息子が死んで奴らはほっとしたんだ。奴らが言ったことで正しいかったのは唯一つ、あれが「死に病(しにやまい)」だと診断したところだけだからな!
 ブワロ その後、女の赤ちゃんが出来たじゃありませんか! あのお子さんは長生きします! その悲しみを慰めてくれます。
 モリエール 女の子・・・そうだ、私は今、人生で最悪の時にぶつかっている。一六六六年の、あの出だしの辛い時を思い出さねば・・・君、すまないね。今君の前にいる男は、楽しい友人として語り合える人物ではないのだ。
 ブワロ モリエール! 暗い影などそのうちすぐに去って行きます! 僕にはあなたという人が分っているのです。その目から煌(きら)めきが消える時などある訳がない! こんな攻撃などさっさと叩き潰して、出て来る人です。そして我々に傑作を残してくれるんです!
 モリエール やれやれ!
 ブワロ(全く新しい調子で。)この間、ラ・フォンテンヌとある話をしたんですが、その話あなたはきっと賛成して下さいますよ。
 モリエール 君達二人は文壇の人物、この私は喜劇の世界の人間だ。で、その話っていうのは?
 ブワロ その笑い、僕はそれが好きだ。それでこそモリエール。・・・その話っていうのが、丁度今の・・・あなたの優秀さについてなのです。ラ・フォンテンヌは、ある意見を述べたのですが、僕はそのことを後で色々と考えた。彼の言葉はこうです。「我々のモリエールは、今でこそ無名だが、私には将来が見える。すぐに『みんなのモリエール』になる。」僕は今でこそ『無名』というその言葉に反対しました。何故ならあなたは、一階立見席の客、それにセンスの良い客には既に充分に評価されているからです。しかしラ・フォンテンヌはすぐに反論しました。センスの良い客と一階立見席の客の中間の人間、それが人を有名にし、或は無名にするのだ、そして、モリエールを支持しないのが、その中間の人間なんだと。つまりその中間の人間達こそがあなたの敵。・・・ところがその中間の人間達こそが後になって・・・ラ・フォンテンヌが私に保証したことなのですが・・・すっかりあなたの味方になるのです。・・・私は彼のこの言葉をよく考えてみました。そしてなるほどと思うようになりました。モリエール、あなたは今、ご自分の勝利を疑っていらっしゃる。でもこう考えるとあなたも少し気が安まるのではありませんか?
 モリエール 私は自分の芝居の将来など考えたことがない。そんな暇がないのだ。たかが喜劇だ。現代人の悪徳を直してやろうと思う以外に望みはない。そんなものに世紀を越える力があるだろうか。
 ブワロ でも、考えてみて下さい。人間の習慣や服の形などは時代と共に変るでしょうが、人間の悪い癖、いや、人間の心の底にあるものは、いつまでも変らないものではないでしょうか。
 モリエール そう、きっと変らないだろう。(と言って、突然。)しかしそれなら、何故君はラ・フォンテンヌに賛同したんだ。今こんなに連中を苛々させているものを、後になって人々が好きになるだろうなどと。そんな判断が中(あた)っている訳がないだろう?
 ブワロ 嫌う個人的な理由が、時代と共になくなって行くからです。将来の観客は、あなたが舞台にいつも登場させる馬鹿な人間性を、自分には全く当てはめず、ただ笑いとばすのです。連中は、登場人物を、過ぎ去った昔の、つまり、「今の我々の」時代のものだと思い、自分は傷つかず、本当は自分の肖像画であるものを笑うのです。その時代になれば、あなたは満場一致の愛を受取る・・・つまり、時が経てば「愛されるモリエール」になるのです。
 モリエール(立上がって。)いや、「愛されないモリエール」、これでなきゃ駄目だ! 私と君達とはこの点で全く折り合わない! 君達の考えでは、この私の作品が後世に通用するって? その理由というのがまた、人間の悪徳に対する私の皮肉が、もはや後世の人には効き目がなくなるだろうからだ、だと? それに、現在私がさんざんにやっつけている連中が、後世では私を褒めるようになると? すると上っ調子の気取った女達・・・軽薄な哲学、サロンの薄っぺらな文学、にすっかり夢中になっている・・・あの才女ぶった女達が、この私の作品を喜んで読むようになると言うのか。未来の男、女・・・一張羅を着込み、めかしこんで町の教会に行き、本来敬虔な祈りをあげねばならぬ場所で、べちゃくちゃ町の噂話をする・・・そんな男や女、将来のタルチュフどもが、私の名を褒めそやすようになると言うのか。欲で凝り固まり、財産のためなら自分の娘をどんなところに嫁にやったっていいと思っているような腹黒い奴らの書斎に、私の本が、立派に革表紙で表装され、並べられるようになるというのか。とんでもない。私は奴らの味方じゃないぞ! 私は奴らの恐ろしい敵なんだ! 奴らの尊敬、共感など真っ平だ! 奴らに反対だからこそ、私は書いているんだ。その、当の奴らが、時代を隔てれば私の作品が気に入るようになる? 私が奴らの友達? 私ははっきりと宣言する。私はそういう人間ではない。あんな連中の厭らしい心の中のどこに私が住めるというのだ。私は人間の味方ではない。断じて違う。君達の意見は、私の心の最も深いところへぐさりと来た。私は人に嫌われたいんだ! ああいう連中全てが、常に私の敵であればいいと思っている! フン、そうか、そうなれば却って連中、私のことを誤解するかな? そして、私の本を読みもしないでこの私の顔を立てるようになるか。
 ブワロ モリエール、あなたは素晴しい人、人の心を打つ人です! 時々僕は、敵の追求に疲れ果ててぐったりしているあなたを見ることがあるのですが、今のあなたは堂々とした立ち姿です。立派です、将来の敵をぐっと見据えて!
 モリエール 今日の敵がいつの日か、うっとりした目で私を見るなどという意見を、どうしてこの私が受入れられるというのか。私の描いた真実を根本から否定するものだ、そんなのは。
(ダミッス、登場。)
 ダミッス わたくし・・・勝手に押し入りました。お許し下さいましょうか? 奥様が、あなたはここにいらっしゃるからと。(ブワロを見て。)本当にお邪魔してよろしうございますか? お見受けするところ、ご立派なお方のようで・・・このような闖入(ちんにゅう)はとんでもなく無作法なことに違いありません。が、しかし、モリエール様、私はどうしても、奥様のためにお作りしたロンドをお見せしたくて。きっとこのロンド、あなた様がいろいろな喜劇でさんざんにおけなしになった、あんなぼろいものとは違うと確信しております・・・それはもう、お約束を・・・実にきちんとしたロンドでして・・・あなた様のような権威のある方のご感想を戴ければ、私は心から安心で・・・ええ、ロンドでございます・・・ええ、今朝作りあげたもので、この午後にはマドゥムワゼッル・モリエールにお会いする光栄を得ることを期待致しまして・・・どうかその・・・ロンドです・・・ひょっとすると、出だしはお気に召さないのではないかと・・・
 ブワロ(ぶっきらほうに。相手に話しかける口調ではなく。)勝手にやるんだね。
 ダミッス(驚いて。)ええ・・・ロンドでして・・・
 ブワロ 聞けば分る。
 ダミッス では、失礼して。
(読む。)
 「パリ中が知っている、あなたが皆に愛されていることを。
 「愛の女神があなたのために祈りを捧げる、ああ、美しいアルマーンド。
 「あなたの笑い、あなたの髪を上手に歌いあげるために
 「私はこの歌の調子をうまくあわせることが出来るだろうか。

 「私の琴は心配そう。私の顔は青ざめる。
 「あなたのその二つの目を、うまく感動させることが出来るか、と。
 「パリ中が知っている、あなたが皆に愛されていることを。
 「愛の女神があなたのために祈りを捧げる。ああ、美しいアルマーンド。

 「思いのたけをどうやって表そう。いや、そう表そうと思うだけでも無理だ。
 「私のこの燃えるような思いは、ロンドでは短過ぎる。
 「いや、このぐらいチョッピリの方が却って良いのかもしれない。
 「だって、私のロンドがまづいものであったって、
 「パリ中が知っている、あなたが皆に愛されていることを。

(間。)
これで終です。
(また間。)
 モリエール(ぎこちなく。)どうもあなた、恐縮です、こんなに愛(め)でて戴いて、私の妻のことを・・・
 ダミッス それはもう御尊敬申上げておりますから・・・お疑いに?
 モリエール そうあって欲しいものだが・・・
 ダミッス(自分の詩に非常な自信をもって。)お気に召したでしょうか、この私のロンド・・・
 モリエール ああ、なかなか・・・魅力的に出来ている。
 ダミッス 結びは如何で?・・・よい出来で?
 モリエール 結びはいい・・・いや、全体にいい・・・
 ダミッス ご満足戴けましたでしょうか?
 モリエール 優しい筆をお持ちだ、確かに。
 ダミッス 本物の才能を感じて下さいますか?
 モリエール 才能がある・・・うん・・・確かに・・・
 ダミッス(ブワロの方を向いて。)あなた様も私の朗読をお聞きになって下さって・・・如何でしたでしょう、ご感想は。公衆に公にして大丈夫なものとお考えでしょうか?
 ブワロ 失礼ですが・・・そういうことを決めるのはその・・・ご勘弁願いたいので・・・
 ダミッス 何故です。
 ブワロ 私は・・・私はこういうことではひどく率直に言いますので。
 ダミッス 率直。それこそ願ったり叶ったりです。どうぞお願いします。
 ブワロ こういうことになると大抵誰でも、相手をくすぐるようなことを言うものですが・・・
 ダミッス と言いますと?
 ブワロ いや、申上げるのは止しましょう・・・どうかお許し願いたい・・・言いたくない、私は。
 ダミッス いや、是非とも!
 ブワロ どうか放免を。そんなことをしても何にもなりません。
 ダミッス いいえ、私は知りたいのです。このロンドは・・・
 ブワロ なってない。
 ダミッス 何ということを!
 ブワロ 下手の競争をさせたら、これが一等賞でしょう。その気取り、何ていう厭らしさ! 「燃えるような思い」だの「チョッピリの方が」だの。私の一番嫌う言い回しです。
 ダミッス これはまた、何と!
 ブワロ お分りになりましたね? これで、私の考えが。
 ダミッス このような非難の言葉を浴びせるお方が、一体どのような方か、またどのような作品を読めば、そのお方の思想にお近づきになれるのでしょう。
 ブワロ 私の名前などこの際、どうでもよい。
 ダミッス どうでもよくはありません。どうぞ!
 ブワロ ブワロ・デスプレオです。
 ダミッス 何と?
 ブワロ 私の作品は、図書館にあります。
 ダミッス これは本当のお話で?
 モリエール 本当です。この方はちゃんとデスプレオと、自分の名前を言ったでしょう?
 ダミッス 失礼します、皆さん。
(ダミッス、退場。)
 ブワロ また一人、敵を作ってしまいました、モリエール。ご免なさい。
 モリエール(大声で。)扁平足の大馬鹿者め! 知ったかぶりをして! この私に朗読!・・・私の妻への愛のロンドを! おまけに詩の出来栄えはどうかだと? この私に! こんな厚かましい話を聞いたことがあるか! こんな破廉恥漢が今までにどこかにいたことがあるか! こんなへぼ詩人が、こんな厚顔無恥の馬鹿者が!
 ブワロ そうですよ、モリエール、本当にその通りだ! 今出て来たこの言葉、それをそのまま、どうしてあいつにぶっつけてやらなかったんです。どうして今の今まで黙っていたんです。どうしてあんな慇懃な態度をとっていたんです。馬鹿な詩、そしてそれに輪をかけたあの腹黒さに! 悪い詩だ、とはっきり言ってやったでしょう? この私は。ああ、私は何ていう無作法なことをしてしまったのか、あなたの家で。認めます、それを。そして謝ります。でも私は腹に据えかねて! あなたがあの男をご自分と同等に扱い、そして気を使っていらっしゃるのを見たら、私はもうひどく苦しくて・・・
 モリエール あいつめ! 何て奴だ! 私の目の前にもう一度出て来てみろ、その腸(はらわた)を抜き出してやる! 礼儀知らず! 破廉恥漢!
 ブワロ どうかお許し下さい、もうひと言。どうしてその怒りの言葉が、こんなに遅くなって出て来るのですか?
(間。)
 モリエール これが私の欠点なんだ。昔、同僚のベジャールが私に言った。私は「反芻動物」だ、と。
 ブワロ あなたは本当にいい人なんです! いざ特定の人を傷つけるとなると、あなたは躊躇うのです。ある種の人間の集り、そして手にペンを持った時だけ、あなたは正義を語れるのです。
 モリエール ブワロ、今のあの男に示した君のその決然たる態度が羨ましいよ。
 ブワロ 優しい人なんです、あなたは。
 モリエール 他の誰とも同じだよ、私は。私の心がその矛盾をよく承知している! 尻軽さ、媚態、この二つを私は何よりも嫌っている。それなのに、その塊(かたまり)のような私の妻と、私は別れないでいる。何の取り柄もない、今のあのにやけた男を目の前にして、私はただ、顔を赤らめ、口ごもっているだけだ。その癖、そいつがいなくなるや否や、私は自分の怒りを抑えることが出来ない。人間というものはみんなこんな作りになっているんだ! だからだ、君がさっき言ったように、私の最悪の敵でさえ、時が経つと私を自分の味方と思い違えたりもするようになるんだ!(突然。)そうだ! 君、今私がしなきゃならないことが分るか? 今書いている芝居は、もう「憂鬱な恋人」じゃない。「人間嫌い」にするんだ! そして、この芝居を作るのは、アルセスト一人だけじゃない、私も一緒だ。もし私と一緒に作るとなれば、彼に終始一貫した態度をとって貰わなきゃならない。この芝居の中でアルセストは、きっぱりした、全く寄り道のない・・・馬鹿な男にも見えよう・・・しかし首尾一貫した男として、矢のように突っ走るのだ。脇目もふらず・・・。アルセストはまだ熟していなかった。が、今は私にははっきり見えるぞ! 君は言ったね、私がベイヤールのような戦いをしたと。アルセストはベイヤールの剣、アルセストはベイヤールの鎧(よろい)だ! ほら、この通りだ。(モリエール、ついさっき読んで聞かせた原稿を破る。)このアルセストはまだ社交的過ぎる。彼にはお追従の影も、私は、見せないぞ。最初の最初から、アルセストは火の玉だ! そしてそれが、どんなに熱くなるか、今に分る!
 ブワロ(立上がりながら。)おめでとうございます、モリエール。これでこそ本当のモリエールです! 読んで下さる約束でしたが、それはもういいです。これから出来るものをお待ちします。・・・これでお暇(いとま)を。新しい第一幕はいつお聞かせ下さいますか?
 モリエール 今日は何曜日だったかな?
 ブワロ 火曜日です。
 モリエール では、土曜日に。
 ブワロ 本当ですか?
 モリエール 多分。
 ブワロ 有難うございます。
(ブワロ、退場。)
(モリエール、急いでテーブルにつく。紙とペンをとる。目が爛々と光っている。前方の一点を見つめている。召使マルチンヌ、扉に登場。)
 マルチンヌ ムスィユ・・・
 モリエール(ビクッと飛上がって。)ほっといてくれ! 頼む!
 マルチンヌ でも・・・
 モリエール ほっといてくれと言ってるだろう!
 マルチンヌ でも、ムスィユ、手紙ですので・・・
 モリエール 関係ない!
 マルチンヌ 廊下にあったもので・・・
 モリエール 誰宛だ。誰の手紙だ。
 マルチンヌ 分りません。さっきここを出て行かれた、デスプレオ様がお落しになったのではないかと・・・
 モリエール こちらに・・・有難う。すまなかった、マルチンヌ。仕事中だったものだから。
 マルチンヌ 私の方こそ申訳ありませんでした・・・こうした方がよいと思いましたので・・・
 モリエール 有難う。
(マルチンヌ、退場。)
(モリエール、その手紙を自分の前に置く。再び手に取る。手紙に封がしてない。)
(モリエール、開き、読む。表情がさっと固くなる。目に再び炎。)
 モリエール ああ、アルマーンドの奴!
(疾風のようにアルマーンド、登場。)
 アルマーンド ああ、そう! これで何もかも滅茶滅茶! 全くよくやってくれたものだわ、あなたとブワロ、二人がかりで。私、お礼を言わなくちゃ。ダミッスはすっかり満足していたわ!
 モリエール そうだ、アルマーンド、何もかも滅茶滅茶・・・お前の言う通りだ! しかし、これを大声で言うとなれば、それはこっちの仕事だぞ! 全くよくやってくれたものだ。そう、やったのはお前だってことが今私には分ったんだ。今度はこれを、どうお前が言い逃れるか、その顔が見たいね。さっき私に言ったな、お前は、自分が不身持だってことを認めたことは今まで決してなかったと。「ただの意地悪な陰口」「私、何も疾(やま)しいことはない」お前はそう言ったな? 「その若い連中をよぶのは、私が『愛撫』してやるためにじゃない」ともな。愛撫してやるためじゃない? そうじゃないにしても、その準備を整えるためにだったんじゃないのか。
 アルマーンド あなた、気が狂ったの?
 モリエール 廊下でマルチンヌがこの手紙を見つけた。これはどこから落ちたものだ? そして書いた奴は誰だ。ダミッスのポケット、或は袖から落ちたものだ! そして、書いたのはお前だ! この筆跡をお前、否定するのか。ここに書かれてある意味を、違うものとすり替える気か!
 アルマーンド それがダミッス宛のものだと、誰が言ったの?
 モリエール じゃ、ブワロが落したと言うのか。お前はそれを、壁を通り抜けてこっそり、ここにいるブワロに渡したと言うのか!
 アルマーンド 嫉妬で目が見えなくなっているのよ。私のことを馬鹿だと思っているのね。
 モリエール お前が小娘の時の狡い悪巧みを思い出していたんだ。私はお前の生れつきの性質を知っている。お前はあの頃、この私に惚れていた。だからしょっちゅうマドゥレーヌの監視の目を眩(くら)まして私に会おうとしていた。お前はこの私を騙すなど、お茶の子さいさいだった・・・ダミッスにこの手紙を渡したな!  このお前の家で! ダミッスの奴、ここで怒り過ぎて、我を忘れてその手紙を落っことしたんだ。
 アルマーンド 私、そんなこと認めないわ。
 モリエール 認めないだと?
 アルマーンド 勿論、認めないわ。
 モリエール 勿論、認めないだと? 私を侮辱するのに、自分の不身持だけでは足りず、この私を馬鹿扱いするのか。
 アルマーンド この手紙を落したのは確かにダミッスでしょうね。だって私がダミッスに渡した手紙ですもの、これは。
 モリエール するとお前は、この手紙を正当化するどんな言訳をでっちあげるのだ。明らかにこの手紙は、あのロンドに対する答だ。それとも、そうでないとでも言うのか。
 アルマーンド 私、何もでっちあげることなどないわ。理由はあなたご自身で今仰ったでしょう?
 モリエール 何だって? ついさっきお前はそれを否定したんだぞ! お前は、この手紙は彼に宛てたものではないと、はっきり言ったんだ。
 アルマーンド こんな罪のないことを否定するなんて、実際馬鹿げているでしょう? ダミッスは私宛にあのロンドを書いた。だから私が、ひと言二言、その詩に対する返事を書くのは当り前でしょう? 勿論詩の形式はとっていないけれど。でも、その答が可愛らしいことは変りはないわ。
 モリエール 返事を書くのは当り前! 可愛らしいことには変りはない!
 アルマーンド 私の言葉を繰返すのね? アルノルフじゃないの、まるで。
(このやり取りの後、長い間。モリエール、この最後の言葉でじっと釘付けになる。不動。その台詞の重みを計っている。アルマーンドも、事の重要性に気づく。当惑の表情を表す。ゆっくりと、事を穏便にすませようと、取りなすような口調。)
 アルマーンド あの手紙があなたの手に渡ったって、私ちっとも困らない。ダミッスが私のために作ったあのロンドを、あなたに読んで聞かせるよう言ったのは私だもの・・・私、あなたに何も隠すことなんかない・・・あなたにはあのロンドがどんなものか分っているんだから、それに対する私の答があなたに分ったって、ちっとも恥かしくないわ・・・不身持の欠片(かけら)だって、それにはないでしょう?・・・あなた、私の不身持なんて、どこにも見つけてはいないのよ・・・見つけようったってありはしないの・・・
(モリエールの沈黙、執拗に続く。離れた所に坐り、モリエール、静かに言う。)
 モリエール 帰るんだアルマーンド、自分のアパートに。
 アルマーンド 何故?
 モリエール 頼む。そしてこれからは、お前とは芝居の時にしか会わない。仕方がない。ここへ来るのは許そう。しかし、二人はもうこれで終だ。(ちょっとの間。そしてアルマーンド、急に泣き崩れる。)ああ、泣くのだけは止めてくれ。
 アルマーンド 私に、こんな意地悪をして、こんなに理不尽なことをやって、どうして私が泣かないでいられるの・・・
 モリエール アパートに帰るんだ。私を一人にしてくれ。
 アルマーンド(泣きながら。)私、一番簡単なことしか言ってないわ。一番簡単で、一番本当のことを。そうしたらあなた、私を責めるんだもの。私のことを嘘つきだって。不身持だって。(泣声、一層強くなる。)あなたは私を愛してるの。本当に・・・ああ、私ぐらい不幸な女、この世にいるかしら。それなのに私のことを虐(いじ)めて、喜んで。声を荒げたりする必要なんかちっともない。私の手紙で、私のことを犯罪者みたいに追出そうとする・・・私が小さかった時のことまで出してきて私を責める・・・あなたの腕に飛び込んで、あなたのことを「私の旦那様」って呼ぶ時ぐらい幸せな時はなかった。あの頃の私を(責めるなんて)・・・あなたも、あなただってあの頃は私を愛していた。私はあなたの「可愛いムヌー」だった。あの頃私は幸せだった・・・
 モリエール 泣くんじゃない、アルマーンド。
 アルマーンド もう私、あなたの可愛いムヌーじゃないのね?
 モリエール そんなことはないアルマーンド、そんなことは・・・
 アルマーンド いいえ、私、分るの・・・
(間。)
 モリエール だけどお前も知っている筈だ、あの可愛いムヌーが、私にどんな悪いことをしたかを。
 アルマーンド 勿論よ。あなた、自分で自分に悪いことをしているの! 休まなくちゃいけない時に、大声を上げたり、怒り出したり・・・あなたが自分で自分を虐めているのを見て、私の気分がよくなると思って?・・・お医者様は酷く心配していたわ、火曜日、あなたのことを私に話した時・・・
 モリエール 医者などアンポンタンだ。あいつらの言うことを心配などしていられるか。
 アルマーンド それは違うわ。処方箋はちゃんと守らないと。あなた、ちっとも聞かないんだから。
 モリエール 連中は阿呆なんだ。あいつらの世話に誰がなるもんか。医学の学校を出て何が分る。普通の人間の知識を一歩も出てやしない。
 アルマーンド あなた、頑固よ。・・・ね、もう怒ってない? あんな意地の悪い怒り方をしたの、私に謝る?
 モリエール(間の後。)糞っ! 私は下手(したて)に出なきゃならないのか、アルマーンド! お前のその嘘を喜んで受入れて、その目を愛さなきゃならないのか!
 アルマーンド 意地悪ね。キスして頂戴・・・
 モリエール(後ろを向いて。)お前は私を殺したんだ、アルマーンド。
 アルマーンド この喧嘩で疲れ果てたのは私の方・・・私の目、もうはっきりと物が見えない・・・私・・・私・・・ああ、神様!
(アルマーンド、気絶。モリエール、慌てて駆寄り、腕で支える。)
 モリエール ああ!・・・アルマーンド! 私の・・・私のアルマーンド・・・私のムヌー・・・ああ、ムヌーは死ぬ! 死ぬ・・・私も・・・私も・・・私も死ぬ・・・ああ、神様・・・医者は・・・マルチンヌ!・・・早く医者を・・・医者は・・・医者は!・・・
(この時までにモリエール、アルマーンドをソファに置き、扉の方へ駆寄っている。突然ふと、慌てふためいている途中で振返り、アルマーンドの目に出逢う。静かな目。自分の芝居がうまく行ったかどうか、効果を見ようとしていた丁度その時に、モリエールに不意打ちを食らった目。モリエールの唖然(あぜん)とした顔・・・間。次に来るモリエールの怒りの言葉にアルマーンド、苦しい表情。)
 ああ、何て奴! 悪い奴だ、お前は、心底! 今の涙でお前の心は筒抜けだ。涙を見せられて、お前のことを哀れに思った瞬間、その目がこの胸を引きちぎったぞ! 何ていう役者だ! 一芝居うって、お前のその騙しの奥の手を見せたんだ! 気絶したふりをして、私が狼狽するのを、お前を失う恐怖を、観察しようとするなどと! 出て行け! この哀れな奴! 早く! さもないと私は、何をしでかすか分らないぞ! 出て行け! 二度とここに足を踏み入れるな!
(マドゥレーヌ、この最後の台詞の時、登場。)
 マドゥレーヌ どうしたっていうの? モーヴィラン先生と一緒に今帰って来たところ。マルチンヌが先生をあなたの部屋に案内したわ、ジャン・バチスト。先生、待ってらっしゃるわ。早く行って。
(モリエール、何か言おうとする。咳が酷くて言えない。シャックリのため、身体が二重になる。口をハンカチで押えている。ここでモリエール、退場。)
(マドゥレーヌ、アルマーンドに。)
 マドゥレーヌ また喧嘩?
 アルマーンド また変なことになったの、あの人のせいで。
 マドゥレーヌ あなた、目が赤いわ。
 アルマーンド あの人に泣かされたから。
 マドゥレーヌ ちっとも驚かないわね。
 アルマーンド あなた、分るでしょう? 私、綺麗でなくちゃいけないの。
 マドゥレーヌ(綺麗? そんなこと不要よ。)あなたがちょっと涙を見せれば、それであの人、すぐおとなしくなるの。(それは分ってる。)
 アルマーンド 二人はもう別れようって。
 マドゥレーヌ いつだってあの人、あなたと別れたいの、私の理解が正しければ。あなたあの人をまた虐(いじ)めたのね?
 アルマーンド 私、何もしてないわ。
 マドゥレーヌ 私を馬鹿扱いしないで。
 アルマーンド でも結局この方がいいの! 別れた方が。お芝居の時だけ会うのは、少なくとも私、虐められないですむわ。
 マドゥレーヌ 何ていう言い草? あなたじゃないの、あの人を虐めてるのは。二十日前のことだけど、あの人、血を吐いて死にそうになった。それなのに相変らず働きづめ、そして三十日間の芝居禁止。その復活を待っている役者達に、生活の糧(かて)を与えようと・・・あの人、もう三十歳じゃないの。それなのに心配事は山ほど。それに、敵の仕掛けた意地の悪い罠をくぐり抜けなきゃならない。あなた、それで平気なの? タルチュフがこれからずっと上演禁止になりはしないか、お坊さんがあの人を火あぶりの刑にするんじゃないかって、ぞっとしないの? あなた、肩をすくめるのね? 実際に何年か前、可哀相に、お坊さん達は気の狂った人を生きながら焼いたじゃない。自分がキリストだなんて思い込んでいたために。お坊さん達はあの気違いを嫌がって、そして本当に殺してしまったのよ! この間フォイヤッド伯爵がモリエールに優しく声をかけた。それでモリエールが頭を下げていたら、その顔に、自分の洋服のボタンで傷をつけたの。こんなこと、自分の召使にだってしやしないわ。・・・あの人が何をすればあなた気に入るの? あの人はあなたが大好き。あなたによかれと、出来るだけのことをしている。この地獄の責苦の人生で、あなただけが唯一の慰めなの。あなただけよ、あの人へのこんな不当な扱いを少しでも緩めてあげることが出来るのは。それなのにあなた、それを何とも思わないの? いいえ、何か思うどころか、それをいいことにあの人をもっと悲しませている。浮気女そのものの振舞をしてあの人を苦しませている。あの人をわざと怒らせる。そして今、丁度私が見た、ああいう状態にあの人を追い込むの。あなたは何ていう女! あなたには目というものがないの? 心が石で出来ているの?
 アルマーンド 私を虐めるのはあの人だけで充分。あなたまでやって来て私を虐めるの?
 マドゥレーヌ そう、私も。私には「私も」と言う権利がる。私は自分で身を引いたの。あなたへのあの人の愛のせいで。あの時私には分った、あなたなしではあの人は生きられないと。だから私はあの人の幸せのために、成行きにまかせた。それなのに、あなたがあの人にやったことは何! あなたはただあの人をおもちゃにしただけ。あの人を騙し、あの人が敵の目に馬鹿に映るようにしただけ。あなたの、その人形のような移り気と浮気で! あの人の病気を重くし、あの人の命を縮めている。そう、私にはあなたに言う義務がある! その義務は正当なものよ!・・・私の言うことを聞き、あなたはあの人への態度を変え、その威張った調子を直し、あの人に許しを乞うの! それで私はやっとほっとするわ!
 アルマーンド 私が? そんなことを?
 マドゥレーヌ そう、あなたが! あなたがあの人を守ってやらないのなら、その仕事は私がやります! あなたとのことが終って、あの人が他の劇団の女優、誰彼構わず色恋沙汰を始めるのを、黙って見ていたくはありませんからね! 私はこの劇団が完全一体になっていることが望み! そのためですからね、この人生を受入れたのは。分るわね?
 アルマーンド 私が分っているのは、あなたは私の姉。それなのに私の夫に恋する、私の義理の母、のような役を演じているってこと。それだけ!
 マドゥレーヌ いいでしょう。よくお聞き。お前の今言った通り! 私はあなたの母親!
 アルマーンド 何ですって?
 マドゥレーヌ だから私はお前に、自分の娘に話すように喋っているの! それも、ふしだらな自分の娘にね!
 アルマーンド 私の母親! いい話! 誰との? 私の夫との? 全く、こんな話って! じゃ私はあの人の娘じゃないの!
 マドゥレーヌ(呆れて。)何てことを、お前! 汚らわしい!
(突然マドゥレーヌ、もの凄い平手打ちを食わせる。)
(アルマーンド、さっと手を上げる。マドゥレーヌ、キッと立ったまま、睨む。アルマーンドの手、落ちる。神経が持ち堪(こた)えられず、急に啜り泣き。そして、突然走って退場。)
(モリエール、アルマーンドが退場した瞬間、右手から登場。二人はすれ違う。)
 モリエール 今の音、あれは? マドゥレーヌ。
 マドゥレーヌ あの子に本当のことを言ったの。
 モリエール あの子の母親だと?
 マドゥレーヌ ええ・・・
(短い間。)
 モリエール どうしてそんなことを。
 マドゥレーヌ 私に分るもんですか!・・・馬鹿なこと・・・却ってどうにもならなくなるのは分りきっている・・・カッとなって。口うるさい女が言うようなことをそのまま・・・あの子にあんなことを言ってはいけなかった・・・いづれにしろ、あの子の責任じゃないんだから。
 モリエール それで、何て?
 マドゥレーヌ 酷いことを。それで私、殴った。・・・こんなのみんな、最低のこと・・・私達って、哀れな人間・・・何かちょっと引っ掻き回されると、すぐにこれ・・・ベジャール家の血!
(間。)
 モリエール 全ては終だ、マドゥレーヌ、あの子と私の間は。
 マドゥレーヌ ・・・
 モリエール あの子は私達の子だ。ここで暮すのは仕方がない。しかし顔を見るのは芝居の時だけだ。
 マドゥレーヌ そんなことをしても、生きるの、楽にはならないわ。
 モリエール ならない。もっと辛くなるだろう。しかしもう、どうしようもない。いつかは諦めることを覚えるだろう。
 マドゥレーヌ そう・・・でも、諦めも何の役にも立たないことがあるけど・・・
(短い間。)
 モリエール お前には謝る。
 マドゥレーヌ 私に謝ることはないわ。それに、謝る相手なんか、どこにもいない・・・こういうことなの・・・こういうことだったの・・・
 モリエール 私は軽卒だった・・・
 マドゥレーヌ 惚れてしまったんだから・・・(しようがないわ。)
 モリエール うん。
(短い間。)
 マドゥレーヌ お医者様は何て? とにかく気をつけなくちゃ。
 モリエール 新しいことは何もない。前よりはよくなっているぐらいだ。
 マドゥレーヌ 咳は酷いの?
 モリエール 我を忘れるとね。
 マドゥレーヌ 休まなきゃ。
 モリエール うん・・・勿論。
(モリエール、机についている。片手で顔を押えていて、そのために顔の片側が観客からは見えない。)
 マドゥレーヌ これから五六日は、私、しょっちゅうあなたを見に来るわ。あなた、一人でばかりいては駄目。・・・シロップを持って来る。咳にとても良いって言ってたわ・・・
(マドゥレーヌ、モリエールを見る。モリエール、動かない。黙っているということは、一人にしておいてくれ、という意味なのか。マドゥレーヌ、もう何も言わず、爪先立ちで退場。)
 モリエール(片手を上げて。)あの小さなムヌー。な、マドゥレーヌ、誰が・・・(あんな風になると予想出来たろう。)
(モリエール、自分が一人であることに気づく。両手を机の上に置き、じっと考える。)
 モリエール ブワロの言う通りだ。・・・何ものも受入れない・・・他人にはづけづけと・・・思った通りのことを言う・・・そういう男だ、アルセストは・・・首尾一貫した・・・一枚岩だ・・・
(モリエール、ペンを取上げる。突然誰か、人が入って来たかのように大声で。)
 モリエール ほっといてくれ! 頼む!
(誰も入って来たわけではないと分る。理由のない、自分の反応の荒々しさにニヤリと笑う。そして大声で笑う。ペンを取上げる時、また繰返す。)
 モリエール ほっといてくれ! 頼む!
(自分の目の前をじっと見つめる。今言った言葉が自分の耳に響いている。モリエール、ゆっくりとそれに答える。)
 モリエール しかしまあ・・・何ていう・・・馬鹿げた・・・
(最初の一息は呟きで、言葉がはっきりしない。終の二つの台詞は激しく二息で。それからはっきりと次の言葉を。)
 モリエール 一人にしておいてくれ!・・・お前は出て行くんだ!
(モリエール、ニヤリと笑う。)
 モリエール そう・・・これなら・・・少なくとも・・・観客が来ても・・・腹は立てない・・・
(一気に、椅子から飛上がるように立ち、同時にテーブルを叩き。)
 モリエール 私は怒りたいんだ。そして、何も聞きたくはない!
(モリエール、緊張を解く。今言った台詞を再び聞いている様子。その台詞は満足出来るもの。決心した表情。そして満足そう。同時に大きな喜びがこみ上げて来る。)
 モリエール これなら奴の怒りもコミカルになる。・・・『どうした? どうかしたのか?』
(それから、突然、激烈な調子で、コミカルに。)
 モリエール 『ほっといてくれ、頼む!』
(モリエール、ニヤリと笑う。これなら書ける、という強い自信。再びペンを取上げ、今度は書き始める。)
                    (幕)

     第 三 幕
   『スカパンが隠れている、その袋の中で・・・』
(パレ・ルワイヤッルの舞台裏。パレ・ルワイヤッル付属の「庭」が見え、その前面にモリエールの楽屋。舞台の約三分の二のところに壁。壁に扉があり、それぞれの扉に、モリエール、キャトゥリンヌ等々の札がかけてある。最初の二つが観客から見える。上手前面に、地下一階へ通じる非常に急な階段。)
(時は一六七一年六月二十四日。サン・ジャン・バチストの祭日。「スカパンの悪巧み」が初演されてから丁度ひと月目の日。)
(幕が上がると、若い男が廊下の小さなベンチに坐っている。扉がガチャリという。若い男、立上がり、二三歩進む。誰も来ない。若い男、再び坐る。二三秒経った後、再び扉の音。本能的に若い男、立上がる。しかし思い直して、坐る。足音が聞こえ、モリエール、舞台奥に登場。暗い廊下に姿が見える。若い男、急に立上がり、右手に進む。モリエールが近づくと若い男、恐る恐る前に進み、尋ねる。)
 若い男 ムスィユ・モリエール?
 モリエール そうだ。
 若い男 私、勝手にここで待たせて戴きました、ムスィユ・モリエール。門番に聞きましたら、あなたはいつも一番にここに来られるそうなので。二三分私に時間をさいて下さるのではないかと。
 モリエール それは勿論。この時間には、この廊下にまづ人はいない。さ、私の楽屋に。(若い男の前に、先に入って。)失礼。
 若い男 厚かましいことをお願い致しまして・・・
 モリエール そんなことはない。私はいつも芝居のずっと早くにここに来ることにしている。友人達はみんなそれを知っていて、話したい時にはこの時間にここに来る。
 若い男 お手間はとらせません・・・
 モリエール いやいや、そういう意味じゃない。ひょっとすると君がその私の友人達の友達かと思って、それで言ったんだ。
 若い男 それは私にとって光栄に過ぎます、ムスィユ・モリエール。でも、私は尊敬しているんです、あなた様を。ですから、こんな無理なことを・・・
 モリエール どうぞ坐って。
 若い男 失礼します。
(若い男、坐る。)
 モリエール 君は役者になりたいんだね?
 若い男(立上がりながら。)どうしてお分りに? ムスィユ・モリエール。
 モリエール 坐って、坐って・・・
 若い男(坐る。)その通りです、ムスィユ・モリエール。
 モリエール そうだろうね。
 若い男 じゃ、私が最初じゃないんですね?
 モリエール そう。
 若い男 とにかく、お察しの通りです。もう芝居が好きで好きで、たまらないんです。来られる時は、いつでもあなたを見に、ここに来ます。「スカパンの悪巧み」は、これで二度見ました。ひと月前の初日の時、今日であれから丁度ひと月です。
 モリエール 今日が?
 若い男 ええ、今日は二十四日です。
 モリエール そうだったな。
 若い男 それから、先週の日曜日。今日の午後も見ようと思っているんです。
 モリエール(テーブルの方に進みながら。)じゃあ、あの芝居は気に入ってくれたんだね?
 若い男 ええ、それは!(背をピンと伸ばして。)とても活き活きしています。それに、あなたのスカパン! 何て素敵なんだ!
 モリエール そう思う? ああいう役をやるには、私はもう、年をとり過ぎているんだが・・・第二幕は私にはちょっと重荷だ。もう少し若い肺が欲しい。
 若い男 そうは見えません、ムスィユ・モリエール。
 モリエール 観客はそう思っているようだ。
 若い男 そんなことはありません、ムスィユ・モリエール。
 モリエール(ゆっくりと腰掛けながら。)いや、そうなのだ。切符の売行きで分る。あまり芳(かんば)しくない。
 若い男 観客からは私は、会う度にいい批評を聞いていますけど・・・
 モリエール 笑いも拍手も、こちらが期待している程度まで行かない。批評に熱が籠っていないのも無理からん話だ。まあ坐って・・・
 若い男 では・・・とにかくあなたのせいじゃありません、決して・・・
 モリエール では芝居のせいかね?
 若い男(立上がりながら。)そんなことを言ってるんじゃありません。それは違います!
 モリエール 私もそうは思っていない。ああ、坐って・・・
 若い男 すみません・・・
 モリエール 君は役者になりたいんだね? 役者になるということは、だ・・・或る日楽屋に来てみると、君のような若い男が私を待っている。私に話があるとね。そして、彼の話を聞きながら思い出す。昔この若い男と同じように、「ああ、マスカリーユがやりたい」、そんな情熱をもっていたなあ、と。そして、自分の椅子にぐったりと坐りながら、少し息をするのが苦しいな、と感じながら、ああ、マスカリーユはもう駄目だ。せいぜいスカパンだ、演じられるのは、と考える。一六五五年、私は「粗忽者」をかけた。マスカリーユをやって、同僚の言葉で言えば、芝居小屋に火とつけた。私は今、マスカリーユに兄のスカパンを作った。スカパンも悪巧みがうまく、こすっからい。それにとっびょうしもない召使だ。ただ問題は・・・その役を演じるために私はこの数年、ガレー船の苦しみを味わわねばならなかった。なにしろ今は一六七一年。私はもう四十九歳だからな!
 若い男 四十九。ちっとも年寄りじゃありません!
 モリエール 私はガレー船での苦労の年を、芝居小屋の私の役の人物に持ち込まざるを得なかった。私の役の人物をそれだけ老い込ませたのだ。役の人物の背に、私にかかってきた重荷を背負(せお)わせた。これが役者の人生だ! 首に鎖をつけているようなものだ。芝居とは首だけじゃない、両手に鎖を、両足に鉄の球を、ガレー船の囚人のように傷つけられ、背を鞭打たれ、生きたまま皮を剥がれねばならない。(微笑みながら。)君、そんなガレー船で何がやりたいっていうんだ?
 若い男(同じく微笑んで、何か言おうとして。)そういう言い方もあります!
 モリエール 君はいくつだね?
 若い男 二十歳です。
 モリエール ここの女優の誰かに恋したのかね?
 若い男 いいえ、違います!
 モリエール 禁じられてはいないんだよ。
 若い男 それはそうでしょう。でも・・・
 モリエール では、芝居なんだな? 好きなのは。
 若い男 ええ。
 モリエール 六月は好きじゃないのかな?
 若い男 何故です?
 モリエール こういう日にパリを散歩するのはいいものだ。私は優しい金色の太陽、そして緑の木陰を捨てて、この薄暗い廊下、この楽屋に入って来た。これは楽しいことだろうか。
 若い男 でもあなたはここに、一番に着いていらっしゃいます、ムスィユ・モリエール。ほとんど芝居が開く一時間前に。
 モリエール 私は急いで衣裳をつけることがもう出来なくなってね。それで早く来るんだ。ゆっくりとやる必要があるんだよ・・・パリを散歩するのは楽しくないかな?
(モリエール、立上る。)
 若い男 楽しいでしょうね、きっと。
 モリエール お父さんはまだ御健在?
 若い男 はい。
 モリエール 職業は何を?
 若い男 呉服屋です。ルーヴルのサン・トマ通りに店があります。
 モリエール 君の芝居好きを喜んでいるのかな?
 若い男 いいえ、喜ぶなど、とんでもない!
 モリエール それはそうだ!
 若い男 僕にはそれが分らないんです。
 モリエール そういうものだよ!
 若い男 そんな偏見なんて、そのうちなくなります!
 モリエール そう思う?
 若い男 勿論!
 モリエール 私はそうは思わない。結局、家族の言っている通りなんだ。家族は子供の幸福を願っている。役者の地位など、決して自分の子供に与えたいものではない。
 若い男 本当にそうお思いですか? ムスィユ・モリエール。
 モリエール 役者の地位、そんなもの、他にいい地位が見つからない者に与えられるものだ。この袋小路に入る前に、よく考えることだ。心からそう言う! 君は親御さん達の心臓に短刀を突き刺すことになるんだ。・・・私自身は、自分の家族にこの不愉快を味わわせたことで、自分を責めてきた。・・・もし人生をやり直すことが出来れば、私は決してこの職業を選ばないだろう。役者の楽しみなんてまやかしだ。大きな楽しみから比べれば、奴隷のようなものだ。世の中の人達は、役者を乞食だと思っている。・・・私には息子がいた。夭逝(ようせい)したが・・・もし君の年になっていたら、役者になれとは決して言わなかったろう・・・
 若い男 はあ・・・
 モリエール(坐って。)そう・・・これが私の気持だ。
 若い男 でもあなたは、栄光を贏(か)ち得ています、ムスィユ・モリエール。みんなが羨むような。役者としてだけではありません。みんなが喝采を送る、そして王様までも拍手を送る、芝居の著者として。
 モリエール 私がもし何も書かなかったら、こんなに多くの敵も作らなかっただろうに。
 若い男 そのことでもお話がしたくて来たのです。大それていて、殆ど言う勇気がなくなっていたのですが・・・私も芝居を書いています。芝居に何故そんなに強くひかれるかと言うと、自分の書いたものを、出来れば自分で演じてみたいからでもあるのです。こんな無謀なことは最初から諦めた方が良いのでしょうが、もう僕はいろいろ知合いを集めて、小さな劇団を作っているのです。いつか小さなサロン・・・或はテニスコートでもいい・・・借りて、僕の最初の芝居をかけることが出来ればと・・・
 モリエール するともう私の若い同業者なんだね、君は。
 若い男 まだいろいろと学ばねばならないことがあります、きっと。それで、ムスィユ・モリエール、もし今日、舞台裏からお芝居を見せて戴けたら・・・お許しが戴けたら有難いのですが。この雰囲気をどうしても知っておきたいのです。良い芝居を書くためには、その楽屋裏を知らなければ。スカパンの悪巧みを裏返して見る・・・お許し下さいますか?
(丁度この時、早口で、鼻歌で、歌う声が聞える。)
(「もし全ての寝取られ男が、
  私の可愛い娘(こ)を知ったら、
  もし知ったら、
  もう決して泣いたりはしない・・・」)
(デュ・クルワズィ、登場し、自分の楽屋の扉を開け、入る。)
 モリエール 分った! 芝居は三十分後に、或は四十分後に、始まる。ちょっと出てから、帰ってくればいい。もしよければ、あそこの廊下で待っていなさい。ただ、あそこはちっとも面白くないよ。
 若い男 分りました。出ます。そして戻って来ます。
 モリエール それがいい。外はポカポカといい気持だ。
(デュ・クルワズィ、楽屋から出て来て、歌いながら壁にかけてある燭台に灯をつける。)
 デュ・クルワズィ(歌う。)
 「この廊下に
 この暗い、暗い廊下に
 でも、もっと暗い
 そう、もっと暗い
 僕の・・・」
(この時までにモリエール、自分の楽屋の扉を開けている。)
 デュ・クルワズィ あ、失礼。
 若い男 有難うございました、ムスィユ・モリエール。
(若い男、退場。)
 モリエール(下に降りない。)あ、君か、デュ・クルワズィ。
 デュ・クルワズィ ええ、私です、モリエール。私一人、だと思ったもので・・・今日は良い舞台になりますよ。
 モリエール ほう、そうか。
 デュ・クルワズィ もう下に人が集って来ています。それから、ラグラーンジュが言ってました、宣伝がよく効いたって。
 モリエール それはよかった! ああ、そうだ、デュ・クルワズィ・・・
 デュ・クルワズィ はい?・・・
 モリエール 今二人だけだから丁度いい・・・ちょっと言いたいことがある・・・
 デュ・クルワズィ ああ、分りました。私のジェローントが、まだお気に召さないんですね?
 モリエール いや・・・あれはあれでいいのかもしれないんだが・・・ただ、私が本当にやって貰いたいジェローントじゃ、まだないんだ・・・その声なんだが、もう少し可笑しく出来る筈だ。例の鼻にかかった声は面白い。しかし、まだ緊張がとれない。ガレー船の話の時には、疲れて来て、鼻声が薄れる。それで可笑しみがなくなっている。あれを自然に出す工夫をしなきゃ・・・ラチノを覚えていないか?
 デュ・クルワズィ ラチノ?
 モリエール 昔よく私に会いに来た、年寄りの公証人だ。そう、あれ・・・あれがジェローントなんだ。ラチノの、あの、上唇を捩(よじ)って、鼻に皺をよせて話す・・・咽喉のなくなった老人特有の声(真似をして)、「五百エキュ?」・・・分るね? こうやると、金がなくなると同時にジェローントの声までなくなって行くように聞える。そしてこのけち老人の腸(はらわた)まで取られて、身体が空っぽになって行くようにね。するともっと可笑しくなる。
 デュ・クルワズィ 分ります、分ります・・・もう少し考えます。
 モリエール 君には出来る筈だ。
 デュ・クルワズィ やってみます。
 モリエール 有難う。
 デュ・クルワズィ とんでもない、ムスィユ・モリエール。
 モリエール 今何時かな?
 デュ・クルワズィ 三時です、多分。
 モリエール シャンポノはもう来ているかな?
 デュ・クルワズィ まだ下に降りていませんので・・・見て来ましょうか?
 モリエール いい、いい、有難う。(階段に寄りかかり、呼ぶ。)シャンポノ!・・・(答なし。)シャンポノ!(二三度咳をする。それから自分の楽屋に入る。衝立の後で着替えを始める。)
(舞台奥にキャトゥリンヌ・ドゥ・ブリ、登場。)
 デュ・クルワズィ(自分の楽屋の扉のところで、新しい声を出して。)今日は、マドゥムワゼッル・ドゥ・ブリ!
 キャトゥリンヌ あら、どうしたの? 風邪ひいたの?
 ドゥ・クルワズィ(まだ、新しい声で。)いや、ひいてないよ、風邪なんか。
 キャトゥリンヌ そう? そんな声出して、苦しくない?
 デュ・クルワズィ(自然な声で。)新しい声の練習なんだ。
 キャトゥリンヌ あら、最初からそう言ってくれればいいのに。
 デュ・クルワズィ 私の声じゃ、ジェローントにはまづいとモリエールが言うんだ。しつこくてね。二人だけで会うと、いつもこの話になる。
 キャトゥリンヌ モリエール、楽屋?
 デュ・クルワズィ うん。
 キャトゥリンヌ あんた、まだ何も言ってないでしょ? モリエールに。
 デュ・クルワズィ 何のこと?
 キャトゥリンヌ お祝いよ!
 デュ・クルワズィ ああ、そうだった! 何でもいいからひと言(こと)言わなきゃいけなかったのに。忘れてた!
 キャトゥリンヌ うかつね。
 デュ・クルワズィ お祝いに上げる物が何もないぞ! 芝居がはねた後、みんなでお祝いの言葉を言うんだったね?
 キャトゥリンヌ そうよ! みんなで決めたでしょう? モリエールに舞台で小さな贈物をみんなそれぞれあげるのよ。
 デュ・クルワズィ 僕はどうしよう。
 キャトゥリンヌ 早く今、買いに行くのよ!
 デュ・クルワズィ 今?
 キャトゥリンヌ あんた、二幕からでしょう? 出るの。充分時間があるじゃない!
 デュ・クルワズィ それはそうだ。何を買ったらいい?
 キャトゥリンヌ 何でも、あんたの好きなもの。モリエールに気に入る、ね。
 デュ・クルワズィ 鵞鳥の羽根?(訳註 ペンにする。)
 キャトゥリンヌ 七面鳥!
 デュ・クルワズィ 七面鳥の羽根か!
 キャトゥリンヌ 早く行きなさい!
 デュ・クルワズィ(新しい声で。)走って行くぞ! 飛んで行くぞ!(普通の声。)七面鳥の羽根を持って、飛んで帰るぞ!(退場。すぐ戻って来て。)そうそう、オテッル・ドゥ・ブルゴーニュの、可愛いプゾンだがな・・・
 キャトゥリンヌ ああ、あんたを散歩に誘ったあの娘(こ)?
 デュ・クルワズィ ま、そういう言い方もあるが・・・
 キャトゥリンヌ その娘がどうしたの?
 デュ・クルワズィ 思い直したのさ、最初の決心を!
 キャトゥリンヌ えっ?
 デュ・クルワズィ 夕べだよ! 夕べ一晩中あの娘はこの腕の中さ! ああ、あいつ、今まで無駄にした時間を後悔しているさ・・・これは言える。
 キャトゥリンヌ ドン・ジュアン!
 デュ・クルワズィ ああ、俺は落着いたものだぜ。こいつは想像も出来ない、世界一ロマンチックな話だぞ。逃避行! 駆落ち! だ。キャトリンヌ、詳しくは後で教える! ああ、あいつ、今までどんなにこの俺を袖にしたことか! 後で話す! すぐ帰って来る!
(デュ・クルワズィ、歌いながら退場。)
 「もし全ての寝取られ男が、
 僕のいい娘(こ)を知っていたら・・・」
(キャトゥリンヌ、モリエールの楽屋へ進み、扉を叩く。)
 キャトゥリンヌ 入ってもいいですか? ムスィユ・ジャン・バチスト・・・
 モリエール(衝立の後ろから。)ああ、キャトゥリンヌだね? ふとっちょさん、どうぞお入り!
 キャトゥリンヌ どうして「ふとっちょさん」? 私、痩せていることで知られているのよ。
 モリエール だから「ふとっちょさん」さ。それに、最近肥ってきたよ、君。
 キャトゥリンヌ そのうち「年とってきた」って言うんでしょうね?
 モリエール 私よりは若いじゃないか。でも、それもいつかは来るね。
 キャトゥリンヌ 今日は機嫌がいいのね。私にキスして下さらないの? ジャン・バチストは女性に親切な年はもう終ったの? それとも本当は機嫌が悪いのかしら。
 モリエール 機嫌はいいんだ。だけど、丁度股引(ももひき)を穿いているところでね。
 キャトゥリンヌ その姿、私、知ってるわ。
 モリエール 君って卑猥だよ、マドゥムワゼッル・ドゥ・ブリ!
 キャトゥリンヌ もうそうでもなくなって・・・残念だけど。
 モリエール 私に何か、優しいことを言いに来てくれたの?
 キャトゥリンヌ 勿論! 私の役目でしょう? それは、いつも。
 モリエール それはそうだ!
 キャトゥリンヌ 私ってうぬぼれがないの。そこだわ、私をかわいがって下さる理由は。
 モリエール おやおや、何が言いたいのかな? 私の美人さん。
 キャトゥリンヌ 私はいつもモリエールの思われ者。そしてその気になった時には、いつでも私、ちゃーんと傍にいるの。
 モリエール 昔の話を持ち出したものだね。君、昔が恋しいの?
 キャトゥリンヌ 年の話を始めたのはあなたの方。
 モリエール そうだった。それは私だ。
 キャトゥリンヌ 私達二人のことを年寄り扱い!
 モリエール(衝立から出て来る。スカパンの姿。)年寄り? 我々が? ほら、そこの鏡で自分を見て御覧。それからこの私、この衣裳を。年寄り? これが?
 キャトゥリンヌ それ、私が言ってることよ!
 モリエール この間風邪をひいた時はちょっと腰が痛かった。だけど、全体から見れば、それは・・・さっきだって、そう、五分前、ここに着いた時、年をとったなって思ったよ。だけど、芝居の準備を始めたとたん、もう年なんかないんだ。違う?
 キャトゥリンヌ ええ、そう!
 モリエール そして君、君は魅力そのものだよ。これが本当。
 キャトゥリンヌ でも私・・・私、肥ったわ。あなたの言う通り。
 モリエール 全然!
 キャトゥリンヌ 肥った!
 モリエール そんなことはない! イアサーントをあんなに可愛く演じているじゃないか。君はいつでも素敵だ!(低い声で。)君、私のお祝いを言いに来たの?
 キャトゥリンヌ それは後(あと)! みんなであなたを驚かせるの!
 モリエール ああ、そいつは楽しみだ!
 キャトゥリンヌ でもやっぱり、ここに来たのは、お祝いを言うため。ジャン・バチストにね。座長へのお祝いは後で、みんなと。私のこと、これからも愛して下さる?
 モリエール 勿論!
 キャトゥリンヌ ねえ、オクターヴが・・・いえ、スィルヴェストルがネリンヌに言ったこと、本当?
 モリエール 何の話? それ。
 キャトゥリンヌ あなたとアルマーンドを、リシュリユ通りでみんなが見たって噂。優しく手を繋ぎ合って。和解した夫婦のようだったって。
 モリエール そんなデマ、どこから出たんだ?
 キャトゥリンヌ もっぱらの噂よ。プスィケをかけた頃からだって。お互いに優しくなったんだって・・・勿論こんな噂、私の耳に入るのが一番遅いんだけど・・・
 モリエール プスィケから? そんな馬鹿な話! 君はヴェルサイユでは、ヴェニュッスをやっていたろう? だから山車(だし)の上からアルマーンドのハチャメチャは誰よりもよく分っていた筈だ。メリセルトをかけていた頃は、アルマーンドはバロンを嫌ってよく殴っていたけど、プスィケの頃はもう、お互いに好きあっていた。君が一番よく見ている。
 キャトゥリンヌ ええ、でも、それが長く続かなかったのもよく知っているわ。アルマーンドはそんなに早く捨てられて、バロンを恨みに思ってるの。
 モリエール それはアルマーンド、嬉しくないだろうな。
 キャトゥリンヌ それからなの? 今度はあなたとよりを戻しにきたのは。
 モリエール そういう不幸があると、古い友達が懐かしくなるもんだ。良かった面を思い出してね。移り気な恋人に煮湯(にえゆ)を飲まされると、古い夫が魅力的に見えたりもする。
 キャトゥリンヌ じゃ、本当なの? あの人、あなたに優しくなって?
 モリエール いや。しかし、時々は話すこともあるようになった。だからといって和解したわけじゃない。単に沈黙が少し破れた、というところだ。
 キャトゥリンヌ 四年後にそれ、は、何かのしるしね。
 モリエール それは違う! 習慣だ。昔からやっていた・・・危険もないからね。
 キャトゥリンヌ あの人をじっと見る習慣も戻ったの?
 モリエール そう・・・戻った・・・あれを見る・・・あれの喋る声を聞く。すると不思議な気がする。この同じ声、この同じ目が、昔どうしてあんなにこの私を苦しめたのだろうと。だから今、あれの姿を見ているだけで楽しくてね。
 キャトゥリンヌ ブロワだったかしら、あなたのことを、「じっと見る人」って呼んだのは。
 モリエール 昔、見ると目が眩(くら)んだものを、今じっと見てみるのは、楽しいものだ。第一、じっと見ていられるということ自体が、その病気からの恢復の証明だし、昔への穏やかな仕返しでもある。勿論心が安まるね。
(仰々しく朗誦する男の声が聞えてくる。)
 男の声 もし運命がこの私をその場所に連れて行くとしたら、
 クリトンは今後決してフィロメーヌの姿を見ることはないであろう。
 ああ、妹よ、お前の優しい目には、あの英雄がどう見えたろう。
 かってお前の馬に気品をもってまたがっていたあの英雄は。
 奴には分っていたのか! あの不実な奴め!
(ここで終り、後は軽い歌に変る。)
 キャトゥリンヌ あ、あれはラ・トリリエール!
 モリエール(呼ぶ。)ラ・トリリエール!
 ラ・トリリエールの声 はーい!
 モリエール その階段から、シャンポノを呼んでくれないか。
 ラ・トリリエールの声 はい、分りました!
 キャトゥリンヌ 駄目! 無駄! 私がやるわ!
 ラ・トリリエールの声 ああ、じゃ、頼みます。
 キャトゥリンヌ(楽屋から出て呼ぶ。)シャンポノ!(答なし。)シャンポノ!
 モリエール あいつ、何をやっているんだ。ちゃんと頼んであるんだ。燭台は三時半からつける。それより早くは駄目だと。ろうそくの消費が多過ぎる。請求書は恐ろしい金額だ。
 キャトゥリンヌ 後ですぐ言っておくわ。私は着替えをしなくちゃ。じゃ、いい亭主さん、また後で!
 モリエール じゃあね、可愛い七面鳥さん!
 キャトゥリンヌ じゃあね、自分の女房とぐるになって他の女を騙す亭主さん!
 モリエール さ、白粉(おしろい)を塗って、粧(めか)しこんで! さ、早く。
 キャトゥリンヌ 嫌な人!(キャトゥリンヌ、投げキスを送り、退場。自分の楽屋へ入ろうとする時、丁度到着したブワロを見る。)あら、ムスィユ・ブワロ!
 ブワロ ああ、今日は、マドゥムワゼッル・ドゥ・ブリ。御機嫌如何?
 キャトゥリンヌ あなたを見て喜ぶ人がいますわ、ムスィユ・ブワロ。
 ブワロ そう思って下さるとは有難い。
 キャトゥリンヌ 楽屋にいますよ、その人。
(モリエール、扉のところに現れる。)
 モリエール 誰の声だったのかな?
 ブワロ 友人の声ですよ、ムスィユ・モリエール。
 モリエール 嬉しい驚きだな。この廊下でその声が聞けるとは。どうぞ。
 ブワロ お邪魔ではありませんか? 今。
 モリエール 着替えが終ったところ。来てくれて嬉しいよ。
(二人、楽屋に入り、モリエール、扉を閉める。)
(舞台奥で、息を切らして、デュ・クルワズィ、上って来る。キャトゥリンヌの楽屋の扉を叩く。キャトゥリンヌ、扉を開ける。)
 デュ・クルワズィ やった! これならモリエール、喜ぶぞ。
 キャトゥリンヌ 何なの?
 デュ・クルワズィ 今見せる。それから可愛いプゾンとの話がある。今話すよ・・・
 キャトゥリンヌ 待って。着替えるから。
 デュ・クルワズィ 分った。終ったら呼んでくれ。
(デュ・クルワズィ、自分の楽屋へ行く。)
 ブワロ こんな時にやって来て、驚かれましたか?
 モリエール 驚いたね。驚かないとも言える。
 ブワロ 驚かないのは、どうして?
 モリエール 君が「スカパンの悪巧み」を好きじゃないと知っているからね。
 ブワロ ええ、確かに。この芝居をもう一度見ておこうと思って、来たんです。
 モリエール もう一度?
 ブワロ ええ。
 モリエール ああ、いよいよこれは驚かないね。芝居が始まる前に言っておいた方がいいと思って来たんだ。終ってからは、やり難い。
 ブワロ 意地悪ですね、その言い方。
 モリエール しかし図星だ。
 ブワロ 「悪巧み」は、あまり好きじゃない、それは確かです。でも、自分のこの判断を確かめておこうと。
 モリエール そういうわけなら、礼を言おう。
 ブワロ というわけなら、お許し戴けますね?
 モリエール 許さないね。
 ブワロ 許さない?
 モリエール 許さない、決して。
 ブワロ 「悪巧み」が好きでないことを?
 モリエール そう。
 ブワロ 「そういう評価は、私を棒で殴るようなものだ」と?
 モリエール そう。
 ブワロ フランス・アカデミーの会員になるべき人が!
 モリエール 棒で殴るあの私の芝居、を貶(けな)すところに、フランス・アカデミーの誤りがある。
 ブワロ 不屈の人だ、あなたは。奇妙な才能に拘(こだわ)るのが子供の常ですけど、あなたは大きな子供です。だからこそ私はあなたが好きなのですけど。
 モリエール だからこそまた、私をそこで糾弾(きゅうだん)するんだね? 「悪巧み」がけしからんというのはそのせいだ。
 ブワロ ただ、モリエールに相応しくないというだけです!
 モリエール そのモリエールとは一体何者なのだ? 可哀相に。
 ブワロ 私よりそれはあなたの方がよくご存知です。まづ「人間嫌い」の作者です、その人は。この作品であなたは、喜劇の最高峰を作り上げた。それは否定なさいませんでしょう?
 モリエール 「悪巧み」で笑劇の最高峰を作りあげた、と言いたいところだけどね。これへの反論はきっと、「まだそこに達していない」、かも知れないね。
 ブワロ あなたの才能は何でも可能でしょう。でも、笑劇は取るに足らない分野です。従って、どんなにその分野で新しい才能を発揮されようと、それを認めることはでき・・・いや、それを「人間嫌い」の作者モリエールの良い作品と認めることは出来ません。これが反論です。私はいつも、この「人間嫌い」に戻って考えるのです。勿論今日また「悪巧み」を見て、以前と違う芝居になっていれば、話は別ですが。
 モリエール 話は変らないだろうね、きっと。
 ブワロ どうしてです。
 モリエール 君が、芝居を判断する前に芝居の分野によって予め序列を決めているからだ! そんなことで盲(めくら)になっている君が、私は嫌いだね、ブワロ。君はもっと目が開いている男の筈だ。自分の精神に何か捻(ひねり)りを与えてくれるような人間しか評価しない人物がいる。そんな奴は、君よりずっと思慮の浅い男だ。しかし君はそんな奴と自分を同列に置いている。私はそういう君が嫌いだ。自分の精神に何か捻りを与えてくれるような人物、こういう奴らが歩き回る場所は、至る所で自然が窒息する。自分に独創的雰囲気を持たせるために、自分の精神にアクロバット的な捻(ねぢ)りを与える。そして自分の傍に、何か単純で自然な作品が置かれると、連中はニヤリと笑い、それを軽蔑する。それを見て謙(へりくだ)った気分になど、到底なれないのだ。分るね? ブワロ。そいつらは生きてはいないんだ。半分死んだ人間なんだ、奴らは。
 ブワロ 疑いの気持を持つことのお嫌いな、モリエール先生!
 モリエール そうさ! きちんと判断する人間になるんだ! 私は、初春のこの時期になると、いつも若さが甦(よみが)えって来るのを感じる。今回テランスの「フォルミオン」劇場を選んだのは、笑劇をかけてやろうという目的があったからだ。三十年前のマスカリーユを再現させてやろうとね。スカパンはマスカリーユの双子の兄貴だ! こういう意図は不純だろうか。芝居には何千という顔があって、それ一つ一つが名誉あるものなんだ。そしてそれら全ての起源は、たった一つのものじゃないか。私がアルセストの枠内にしか入らないと思ったら君、それは間違いだ・・・
 ブワロ アルセストが枠! いいえ、アルセストは無限です! 枠などありません! 私はあなたを、どんな枠にも閉じ込めてはいません!
 モリエール(立上がる。)私は全身これ、スカパンだよ。丁度全身これ、アルセストだったようにね。
 ブワロ あなたが豊かな人、自在な人であることはよく分っています! 
 モリエール 私は豊かでも自在でもない。私は若いんだ、ブワロ! 君、私が生涯で一番幸せだったのはいつの時だと思う?
 ブワロ タルチュフの禁がとけた時・・・ではないでしょうか。
 モリエール そう、あれは幸せな日だった。しかし、今から十五年前、リヨンで「粗忽者」を初めてかけた日、あの日には劣る。あの日だ、私が自分自身の新鮮さ、自分の「生きる喜び」を、生涯で一番感じた時は。そう、この日こそ一番幸せな日だった。ああ、あの時の「粗忽者」の原稿が今私の手元にあったら! あの原稿をこの手で持つことが出来る時があれば、それは私の最も幸せな時になるだろうに! 上げ潮の高揚した私のあの筆跡に、私の青春があるんだ! ああ、それを、あれは今から五年か六年前だった。怒りにまかせてあの原稿を引きちぎって屑籠(くづかご)に捨ててしまった! 今では毎日そのことを後悔している。なあブワロ、大事なのは青春だ! 君がよく、我々の作品の運命について喋るので言うんだが、我々は自分の青春で判断されるんだ・・・
 ブワロ ムスィユ・モリエール、もう役者は辞めて、アカデミーの会員になったら如何です? 地位は確保され、パルナッスでは、あの「スカパンの悪巧み」をあなたの青春時代の作品として受入れますよ!
 モリエール 何を言うんだ、君は。私は決して役者を辞めないことで名誉が保たれているんだ。
 ブワロ 喜劇を演じて、棒でしこたま叩かれて、その時が一番名誉を感じるってわけですね?
 モリエール 「悪巧み」では棒で叩かれるのは私じゃない。私は棒で叩く側だ。
 ブワロ 「ジョルジュ・ダンダン」では、叩かれる側ですよ。
 モリエール いいか、ブワロ、ここに袋がある。私はな、時にはこの中に君の不満をぶち込む、ジェローントの馬鹿親父をぶちこむ代りにな。そして、思い切りぶん殴ってやるんだ。
 ブワロ それはあなたには可笑しいでしょう。でも私は、この馬鹿な袋は嫌いです。
 モリエール 私は役者を辞めないぞ、ブワロ! とにかくこれはいい仕事なんだ!
 ブワロ あなたは精神においても、感情においても、当代一の哲学者なんです。そのあなたが役者! それは相応しくありません。
 モリエール 私は自分の書いた喜劇の登場人物の中で、愛情をかけてやっている者がいる。しかし、当代一の哲学者など、愛情はかけられないね。忘れないでくれ、ブワロ、私の好きな三人は、アルセスト、ドン・ジュアン、それから・・・君の嫌いなスカパンだ! こんな私がアカデミーに気に入られると思うかね? アルセストは馬鹿、ドン・ジュアンはごろつき、スカパンはガレー船から逃げて来た男。父親の権利をまっとうに揮(ふる)おうとしている老人を騙し、殴りつける男だ!
 ブワロ あなたは御自分にごろつきの心があると仰るんですか?
 モリエール あの三人には私の共感するものがある。
 ブワロ 今まで話してきたことは、これまでのことからすると、矛盾ですよ。あなたは一方では、ご自分の旗印をしっかりと掲げています。それはまづ、秩序。それに、統制なのです。全て極端を排するのがあなたの旗印です。本能的にあなたの好みは、中庸を行くブルジョワに落着くのです。オルゴン、或はマダム・ジュルダンがその好例です。偽善が嫌い、ひねくれた知性が大嫌い。ところがあなたの好きな登場人物は、悪巧みの好きな、ガレー船奴隷、冷酷無比な女たらし、あなたも認めている馬鹿なアルセストです。これは少し考え直して戴かないと、モリエール!
 モリエール それでいいじゃないか。何を考え直す必要があるんだ。人生そのものが、良い意図悪い意図の混合、ハチャメチャと調和の取れたこととの混合、で出来ているじゃないか。何を考えることがある、ブワロ。結論は簡単だ。我々は、汚い藁やゴミが流れている河の中で動き回っている、単純な生きものだ。その中には、綺麗な血も悪い胆汁も流れている。そんなことを細かく考えていたら、一体何が書けるというんだ! 私は自分の精神を傷(いた)めるのは好きじゃないんだ!
 ブワロ ああ、それは健全だ! その健全さが僕は好きだ。あなたは生れつきの哲学者ですよ!
 モリエール 私にはお日様が必要なんだ。私がスカパンを書いたのは、舞台がナポリだからだ。ああ、ナポリ。何て良いんだ! この廊下は暗い。この楽屋も光が殆どない。だが私はこれから二時間、イタリアの暑い太陽の下にいるんだ! 燭台がそれほど明るいわけじゃない。しかしスカパンが自分自身で光を出すんだ! 喜劇を演ずる、何て素敵なことじゃないか!
 ブワロ あなたをやっつけようとは思いません。あなたお家でならやるかもしれませんが、ここでは駄目です。ここではあなたは強過ぎます。
 モリエール 役者とは、偉い人間だ。な? ブワロ。(声を低くして。)今日は何の日か、君、知ってる?
 ブワロ 日曜日・・・だと思いましたが?
 モリエール 六月二十四日、聖ジャン・バチスト、私の守り神の日なんだ。
 ブワロ そうだったんですか!
 モリエール シッ、私が知らないと思って、一座の者がこっそりやっていることがある。この芝居がはねた時、みんな一人一人、贈物を持って私を祝ってくれるんだ。
 ブワロ ああ、その仲間の一人になりたかった・・・
 モリエール 嬉しいじゃないか、その心遣いが。
 ブワロ 明日、私もそのお祝いの仲間に加えて下さいませんか?
 モリエール 笑っちゃいけないよ!
 ブワロ 笑いませんよ。
 モリエール まだここを出ないね?
 ブワロ そろそろ席につかないと。
 モリエール まだ充分時間はある。(呼ぶ。)シャンポノはもういるな?
 声 分りませーん!
 いろいろな呼び声 シャンポノ! シャンポノ!
(モリエール、ブワロと楽屋を出ながら。)
 モリエール まだ行かないでくれ。(階段から呼ぶ。)シャンポノ!
 下から声 はい、ムスィユ・モリエール。
 モリエール ああ、お前、着いたな?
 声 はい、ここにいます!
 モリエール 三時半までは燭台はつけちゃ駄目だぞ。いいな? シャンポノ。
 声 分りました、今、三時十五分です。
 モリエール よーし。(ブワロに。)ほら、まだ時間はある。
 キャトゥリンヌ(扉を開けながら。)今、何時?
 モリエール 十五分だ。
 デュ・クルワズィ(扉を開けながら。)十五分?
 キャトゥリンヌ そうよ!
(二つの扉、閉まる。)
 モリエール まだ後、十分はここにいられる。
 ブワロ ええ、それは・・・でも・・・どこにあるか、教えて下さい、その・・・
 モリエール どこ? 何が。
 ブワロ その・・・「カンジョ」で・・・
 モリエール ああ、こっちだ、ブワロ・・・廊下の突き当たり、左の扉だ。粗末な場所だぞ。驚くな!
 ブワロ 『やはり人間は人間なみに』・・・ですね?
(笑いながらブワロ、奥に退場。)
(モリエール、自分の楽屋に戻りかける。その時いい考えが浮ぶ。戻って来て呼ぶ。)
 モリエール デュ・クルワズィ!
(扉、開く。)
 デュ・クルワズィ はい。
 モリエール 用がある。
(デュ・クルワズィ、ジェローントの鬘(かつら)、衣裳は半分だけ。)
 デュ・クルワズィ 何でしょう。
 モリエール(低い声で、早口に。)ブワロが今、小便中だ。
 デュ・クルワズィ ああ、やはり人間で・・・
 モリエール 入るんだ、早く!
 デュ・クルワズィ 何をするんです?
 モリエール お前の声で、さっき私が言ったろう? 例の公証人のあの声・・・
 デュ・クルワズィ ええ、それで?
 モリエール その衝立の後ろに隠れるんだ。
 デュ・クルワズィ 今ですか?
 モリエール 早くしろ。ブワロが帰って来る。あいつにひと芝居うたせる。ラチノの真似をやらせるんだ。よく聞いて勉強しろ。本物のジェローントの声が聞けるぞ。あいつの真似は素晴しい。楽しめる。これは保証する。
 デュ・クルワズィ 分りました。
 モリエール 動いちゃ駄目だぞ。
 デュ・クルワズィ あの、袋の場面をやるんですね?
 モリエール シッ!
 デュ・クルワズィ 袋よりは衝立の後ろの方がずっと楽ですよ。坐ってていいんでしょう?
 モリエール シッ、静かに!
(ブワロ、急いで帰って来る。)
 デュ・クルワズィ 長くはないんでしょうね? まだ着替えをすませていないので・・・
 モリエール お前の出番は二幕からだ。充分時間はある。シッ!
 デュ・クルワズィ えっ?  
 モリエール シッ!
(デュ・クルワズィ、衝立の後ろに隠れる。)
 ブワロ 入ってもいいですか?
 モリエール 当り前だ!
 ブワロ 誰か別の人の声が聞えたので・・・
 モリエール ああ、袋の中のジェローントだな。私の声に騙されたんだ。
 ブワロ 楽屋の外にいては、中にいるのが一人かどうか、分ったものじゃありませんね。怒ったり怒鳴ったりしても、相手がいないでやっているかも知れないんですから。
 モリエール そうそう。で、ブワロ、君がサロンでその才能を見せて皆に喝采を受けたことがあったな。
 ブワロ ええ、ありました。かなりの受け方でしたね。勿論反感も買いましたが。
 モリエール ああ、モンフロリーだな? あいつには嫌われた。
 ブワロ 「ヴェルサイユの即興劇」で、僕よりうまく真似ましたね?
 モリエール 王様の前で、君は私の真似をやっただろう? あれはうまかった。君の真似を私がやったって、ああはいかない。
 ブワロ 王様ですからね、あれを私に要求したのは。
 モリエール 分ってる。ちゃんとその場に私もいたんだ。
 ブワロ よくとって下さって、僕は助かりました。
 モリエール 君が真似る人物で、私よりうまいのがいる。誰か分る?
 ブワロ 誰です?
 モリエール ラティノだ。
 ブワロ あなたの公証人?
 モリエール そう! (声色で。)『ムスィユ・モリエール!』
 ブワロ まあまあですね。
 モリエール まあまあ?
 ブワロ(もっと上手に。)『ムスィユ・モリエール!』
 モリエール(負けずに。)『五百エキュ!』
 ブワロ えっ? 何です? それは。
 モリエール ジェローントがその声を出すようにと考えているんだ。デュ・クルワズィにそいつを聞かせてやりたくて・・・『ひどく悲しそうな顔だな。あの顔で、この私に何を言うつもりなんだ?』
 ブワロ ああ、それは駄目だ、モリエール。
 モリエール 私が君に役者の仕事を習わなきゃならんとはな! よし、本気でやるぞ、ブワロ。聞いてくれ、そしてまづかったら言ってくれ。・・・(スカパンの台詞)『それで私を使いによこしたんです。「すぐさま五百エキュ渡さなければ、お前の息子をアルジェにつれて行くぞ。金はこのスカパンが使いの役だ」と。(ジェローントの声を真似て。)『何だって? 悪魔めが! 五百エキュだと?』
 ブワロ それは駄目です!
 モリエール どうして?
 ブワロ うまく出来ていません。
 モリエール うまく行ってない?
 ブワロ 駄目です。
 モリエール 駄目か。
 ブワロ 駄目です!
 モリエール ああ! その手は食わんぞ!
 ブワロ(声を真似して。)『何だって、悪魔めが! 五百エキュ?』
 モリエール(スカパンを演じて。)『そうです、旦那様。それにあいつ、猶予を二時間しかくれていないんです。』(ブワロに原稿を渡しながら。)そいつはいい。私に稽古をつけてくれ。これが原稿だ!
 ブワロ 勿論、喜んで!『エーイ、トルコ人のろくでなしめが! こんなことをされたら、私は死んでしまうぞ!』
 モリエール 『ああ、旦那様の最愛の息子さんを、奴隷の身に落さないよう、早く・・・早くてだてを考えねば。』
 ブワロ 『ああ、ガレー船なんかにどうしてあいつ、乗ったりしたんだ!』
 モリエール 『こんなことになるとは思ってもいなかったんですよ。』
 ブワロ 『スカパン、お前、ガレー船に行ってくれ!』
(モリエール、ブワロのイントネーションの可笑しさに、ゲラゲラっと笑う。ブワロも笑う。そして台詞でない次の言葉が入る。)
 ブワロ おだてに乗っちゃいましたよ!(台詞に戻って。)『お前、ガレー船に行くんだ! 警察をやって、とっ捕まえるぞ、と言ってやれ。」
 モリエール 『海の上で警察に何が出来るんです! 冗談じゃない。」
 ブワロ 『全くあいつ、何しにガレー船になんか乗ったんだ!』
 モリエール 『運が悪い時には悪い方向へ行くものですよ。』
 ブワロ 『そうだスカパン、お前、ここで一つ、お前の召使としての忠誠心を見せてくれなきゃ困る。』
 モリエール 『何でしょう、それは。』
 ブワロ 『トルコ人のところへ行って、言うんだ。「息子を返してくれ。その代り私が身代わりになります。その間に身代金はかき集めますから」と。』
 モリエール 『旦那様、一体何です? 連中、私を身代わりになどするわけがないでしょう? 少しは物を考えて・・・』
 ブワロ 『ああ、ガレー船なんかにどうしてあいつ、乗ったりしたんだ。』
 モリエール 『こんな酷いことになろうとは思っていなかったんですよ。旦那様、早くしないと。あっちは二時間しか猶予をくれていないんです。』
 ブワロ 『で、いくら欲しいと?』
 モリエール 『五百エキュです。』
 ブワロ 『五百エキュ!』(二人、プッと吹き出す。)『連中には良心というものがないのか。』
 モリエール 『良心! ありますよ。トルコ人の良心が!』
(ブワロ、この返答に、またプッと吹き出す。そして、自分の台詞とこの場の動きにすっかり乗り切って返答。)
(このやりとりの間に、役者達が一人づつ自分の楽屋から出て来て、二人のやりとりに感心し、舞台前面に出る。それから慌てて、皆、鼠のように自分の楽屋に戻る。)
 ブワロ 『連中、五百エキューがどんな額か、一体分っているのか。』
 モリエール 『はい。千五百ルーヴルだと、ちゃんと知っています。』
 ブワロ 『糞ったれ、トルコ人めが。そこいらにころがっているものだと思っているのか、千五百ルーヴルが!』
 モリエール 『なにせ、道理というものを弁(わきま)えていませんからね、トルコ人ていうのは。』
 ブワロ(涙を出しながら。)『全く何のつもりであいつめ、ガレー船に乗ったりしたんだ!』
(二人一緒に笑う。ブワロ、原稿を置く。)
 モリエール ああブワロ、君は素晴しい役者になれるよ。
 ブワロ ああ、何て素晴しい場、素晴しい台詞だ! 僕はすっかり夢中になってしまった。途中で止めるのが惜しいくらい。これはどうしてももう一度聞かなければ! 全く驚くべき場面ですよ、ここは。
 モリエール 『衒学者たち』にあった場面なんだがな。
 ブワロ でも、書き換えたんですね。可哀相に、ベルジュラック、この台詞のスタイルを見れば、彼、青くなりますよ。なんていうリズムだ! なんていう強弱だ! これは真似出来ません。あなたの小作品だって無理です! こんなこと続けていたら、最後にはあなたに棒でぶん殴られてしまう。僕はもう行きます!
 モリエール 私も君には脱帽だ。ラティノそのものだ、あの台詞まわしは。
 ブワロ 僕もついついつられて悪ふざけをさせられてしまいました。この場面があまりに素晴しく、僕は楽しみましたよ。でも、もし楽しんでなかったら、あなたを許しませんでしたよ、モリエール! それから、今日は芝居がはねても、ここには来ません。待ってないで下さい。
 モリエール 「悪巧み」は好きになれないまま通すんだな?
 ブワロ そうです。でも僕はあなたの友人です、それでも!
 モリエール ああ!
 ブワロ じゃ!
 モリエール じゃ、また!
(ブワロ、去りかける。モリエールが楽屋に帰ろうとし、中に入る前に。)
 ブワロ それから、おめでとう! 名の日!
 (モリエール、その言葉を背中で受ける。顔を観客に向け、静かに笑う。その間、他の役者達の楽屋の扉が次々に開き、役者達が出て来ようとするが、モリエールを見るや、全員さっと扉を閉める。)
(モリエールの楽屋で、デュ・クルワズィ、出て来る。しかしモリエール、まだ扉の外で、次の台詞を言う。)
 モリエール ブワロ、ブワロ、お前もやっぱり、笑劇の役者だ!
(デュ・クルワズィ、モリエールの「ブワロ、ブワロ」の言葉を聞いて、ブワロがまだいるのかと思い、再び衝立の後ろに隠れる。)
(「悪巧み」の三幕に登場するゼルビネット役のマドゥムワゼッル・ボヴァッル、ゲラゲラ笑いながら舞台奥に登場。モリエールに近づく。)
 モリエール どうした? ボヴァッル。もう笑うのか? 三幕のゼルビネットはまだだぞ。
(ボヴァッル、モリエールを押して楽屋に入る。声を押し殺して笑いながら、早口で喋る。)
 ボヴァッル 素敵な話! デュ・クルワズィをみんなでかついだの。シッ!
 モリエール おいおい・・・
 ボヴァッル シッ! こんな可笑しい話、めったにないわ! 可哀相に、デュ・クルワズィ、まだ何も知らないの。ハッハッハッ・・・ハッハッハッ・・・
 モリエール(困って。)その話はまた後にして・・・
 ボヴァッル いいえ、どうしても今お話しなきゃ。オテッル・ドゥ・ブルゴーニュの可愛い子ちゃんのプゾンが、すっかりあの人を騙したの・・・デュ・クルワズィのこと、ご存知でしょう? あの人、自分はどんな女にももてると思ってるの・・・ハッハッハッ・・・プゾンったら、あの人に全然気がないことをもう先(せん)思い知らしてたの。でも勿論あの人、しつこく言い寄った。そして昨日・・・ハッハッハッ・・・あの子は手紙を渡したの。これこれの場所に来いってね。それがまた、手がこんでいて、手紙に書いたの・・・ハッハッハッ・・・「頭からすっぽりケープを被ってその上から狼のお面をつけて、人に誰か分らないようにしている、それが私だ」って・・・(デュ・クルワズィ、衝立の上から顔を出す。がっかりした悲しい顔。)デュ・クルワズィったら、すっかり信じこんで・・・ハッハッハッ・・・違う女がその格好でやって来て、ヒッヒッヒッ・・・一晩中あの人に灯りをつけさせないで・・・朝早く、抜き足差し足で出て行った・・・デュ・クルワズィは、寝たのはプゾンだとばかり・・・ハッハッハッ・・・
(その時ボヴァッル、デュ・クルワズィに気づく。「キャッ」と叫んでボヴァッル、走り退場。)
 デュ・クルワズィ 糞っ! この売女(ばいた)め!
 モリエール 残念だったな、デュ・クルワズィ!
 デュ・クルワズィ ただではすまんぞ!
 モリエール ちゃんと聞いた? あれを。
 デュ・クルワズィ 当り前です。聞きましたよ、ちゃんと!
 モリエール 違うんだ。ジェローントの声だ。お前、聞いたのか?
 デュ・クルワズィ えっ? ああ、ジェローントの声・・・(一瞬、声を失う。それから全く注意もせず、やすやすとブロワ通りの声、そして可笑しな仕草をつけ。)あんな声など糞くら・・・(はっと気づいて、自分の声で。)聞いたかどうか! 成行きです。やってみなきゃ・・・ああ、糞ッ! あのボヴァッルの奴!
(デュ・クルワズィ、自分の楽屋へ行く。)
(ちょっと間をおいて、急にボヴァッルのゲラゲラっという笑い声。)
 デュ・クルワズィ(ボヴァッルの扉を開け、怒り狂って。)おい、ボヴァッル、今度お前の笑い声が聞えたら、ちょっと言いたいことがある!
 ボヴァッル なあに? 卑猥な人!
 デュ・クルワズィ 俺は卑猥なんかじゃないぞ! からかうと承知しないぞ!
 男の声 からかわれたくないなら、頭を使え!
 デュ・クルワズィ 黙れ、トリリエール! 自分の蠅(はえ)を追え!
 男の声 自分の蠅は追ってるさ。頭がないから、頭を使えないんだ!
 ボヴァッルの声 笑っちゃいけない? 笑っちゃうわね。
 デュ・クルワズィ うるさい! お前の笑い声で耳が変になっちまう! ボヴァッルめ、こいつ、女とは名ばかり。あばずれだ! 蛇口を開けっ放しにしている大樽だ!
 ボヴァッル(怒り狂って出て来て。)おい、あんた! あんたには私、口のきき方まで教えなきゃならないの?
(ボヴァッル、デュ・クルワズィに平手打ちを食わせる。)
 デュ・クルワズィ 誰が殴ってもよいと言った! 全くひどいあまだ!
 役者達 おいおい・・・もういい、止めんか・・・等々。
(モリエールも楽屋から出て来て、叫ぶ。)
 モリエール どこでお前達、こんな騒ぎを起すことを習ってきた! 少し黙ったらどうだ。車夫、馬丁(ばてい)ではあるまいし。お前達本当に役者か? 獣(けもの)じゃないのか? そしてこの私は猛獣使いというわけか!
(役者達、シュンとなって、お互いに離れて立つ。)
(ラ・グラーンジュ、ひどく興奮して、走って登場。モリエールのところまで進む。)
 ラ・グラーンジュ 大入りです、モリエール!
 モリエール 満員か?
 ラ・グラーンジュ 満員です。それも若者達が大勢!
 モリエール(役者達に。)聞いたか、今のを! 満員だぞ! いい演技をして皆を笑わせるんだ! 喧嘩などして疲れちゃ駄目だ! さ、早く準備だ。ラ・グラーンジュ、お前も早く着替えろ!
 ラ・グラーンジュ 私はまだ時間があります。二幕で初めて出るんですから。
 モリエール あ、そうか。(呼ぶ。)シャンポノ!(ラ・グラーンジュに。)あいつに灯をつけるよう言ってくれ。五分後には始まりだ!
 ラ・グラーンジュ 分りました。そうだ、お伝えしなくちゃ。昔一緒にいたモンドルジュですが、今はひどく可哀相なんです。一座の者が今田舎にいて、そこへ行こうにも、路銀(ろぎん)がないんです。四ピストルやってもいいでしょうか。今下にいるんです。
 モリエール モンドルジュか・・・うん、勿論だ。やってくれ。
 ラ・グラーンジュ 有難うございます、座長!
 モリエール(行きかけたラ・グラーンジュを呼び止める。)ラ・グラーンジュ!
 ラ・グラーンジュ はい。
 モリエール 私からだと言って渡してくれ。もうあと二十ピストルお前に渡す。モンドルジュに分るようにな。つまり、金は私からだが、返すのはお前宛だと。芝居がはねたら私のところに来るように言ってくれ。
 ラ・グラーンジュ 分りました、座長!(階段を降りる。)最初に、シャンポノに言っておきます・・・
 モリエール ユベールはもう来たか?
 声 ここにいます、モリエール!
(モリエール、自分の楽屋に戻る。ユベール、モリエールの楽屋に入る。)
 モリエール どうだ? 調子は、ユベール。
 ユベール はい、上々です。
 モリエール この間つっかえた所があったな? お前が間違えて。
 ユベール ちゃんと見直しておきました。
 モリエール 今やれるか?
 ユベール もう間違えません。
 モリエール じゃ、あそこをもういっぺんだ、今。
 ユベール 分りました。やります。
 モリエール 『息子さんの名誉にかけて、そして旦那様の名誉にかけて・・・』のところだったな?
 ユベール はい。
 モリエール 『息子さんご自身の意志で、あの女性と結婚したと世間に知らせなければなりません。』
 ユベール 『そんなことはやらせん。私の名誉にかけて、そして息子の名誉にかけて、その反対を広めさせてやる。』
 モリエール 『いいえ、旦那様がそんなことをなさる筈がありません。』
 ユベール 『いや、やらせてみせる。』
 モリエール 『いえいえ、やらせたって息子さん、やりませんよ。』
 ユベール 『いや、やる。さもなければ、あいつを勘当してやる。』
 モリエール 『旦那様が?』
 ユベール 『そう、私がだ。』
 モリエール 『まあ、いいでしょう。』
 ユベール 『何が、まあいいんだ。』
 モリエール 『勘当なんかなさいませんよ。』
 ユベール 『私がか?』
 モリエール 違う!
 ユベール 『何が違う。』
 モリエール いやいや、私が今「違う」と言ったのは、またお前が間違えたからだ。
 ユベール 間違えましたか?
 モリエール うん。正しいのは、
  『勘当なんかなさいませんよ。』
  『私が勘当しないって?』
だ。お前は、『私がか?』と、繰返した。
 ユベール あ、そうです!
 モリエール もう一度だ。
 ユベール 『いや、やる。さもなければ、あいつを勘当してやる。』
 モリエール 『旦那様が?』
 ユベール 『そう、私がだ。』
 モリエール 『まあ、いいでしょう。』
 ユベール 『何がまあいいんだ。』
 モリエール 『勘当なんかなさいませんよ。』
 ユベール 『私が勘当しないって?』
 モリエール 『しません。』
 ユベール 『しない?』
 モリエール 『しません。』
 ユベール 『ほほう、そいつは冗談だな? お前の。』
 モリエール うん、それでいい。(今の部分を復誦して。)『勘当なんかなさいませんよ―――私が勘当しないって?―――しません。―――しない?―――しません―――ほほう、そいつは冗談だな? お前の』。気をつけるんだぞ!
 ユベール 有難うございました、座長。
(ユベール、退場。扉のところでマドゥレーヌに出逢う。)
 ユベール ああ、お早うございます、マドゥムワゼッル・ベジャール。調子、如何ですか?
 マドゥレーヌ まあまあよ。有難う、ユベール。
 ユベール 最近あまりお見かけしませんね? 引退だとしたら、早過ぎやしませんか? マドゥムワゼッル・ベジャール!
 マドゥレーヌ いいえ、この仕事では、引時が肝腎なの。
 ユベール 私らこそ、注意しなきゃいけません、あなたよりはむしろ。
 マドゥレーヌ 有難う、ユベール。モリエール、いる?
 モリエール(この時までに扉を開けている。)ああ、君だね? マドゥレーヌ。
 マドゥレーヌ もう舞台?
 モリエール まだもう少し。入って。どう? 元気?
 マドゥレーヌ ちょっとだれぎみ。このところいつもそう。
 モリエール 可哀相に。君には元気を出して貰わなきゃ。とにかく悲しいことは考えない。いいね?
 マドゥレーヌ ここに来ると何だか奇妙な気分になって・・・
 モリエール 後悔している?
 マドゥレーヌ 今この時の気分ではそう。お芝居のかかっている時に来るといつもこれ。
 モリエール まだ役者をやっていた方がいいんだよ、マドゥレーヌ。「女学者」でマルチンヌを君が演じられるように書いているんだがな。
 マドゥレーヌ 私にはもう遅過ぎ。
 モリエール そんなことはない。満席らしいぞ。その気になるよ、客席を見れば。
 マドゥレーヌ 私、あなたにキスして、お祝いを言おうと思って。
 モリエール ああ、マドゥレーヌ、何て優しいんだ!
 マドゥレーヌ 贈物も持って来たわ。
 モリエール そんな! 無駄使いは駄目だよ!
 マドゥレーヌ これ、とても喜んで貰えると思って。
 モリエール 何だろう?
 マドゥレーヌ とてもあてられないわ。
 モリエール 見ていい?
 マドゥレーヌ 早く見て!
 モリエール ドキドキするね。
(渡された包みを開ける。モリエール、大きな目を開け、喜ぶ。)
 モリエール マドゥレーヌ! 「粗忽者」の原稿じゃないか。どこから出て来たんだ! どうしてこれが君の手に・・・
 マドゥレーヌ ね?(喜んだでしょう?)あなたが、怒りにまかせてひきちぎった時、私、とっておいたの。それから、一つ一つ貼付けて。長い間持っておいたわ。今日あなた、スカパンをやる。だからきっと、マスカリーユは楽しいだろうと思って・・・
 モリエール(マドゥレーヌにキス。)マドゥレーヌ! 私のマドゥロン! こんなに嬉しいことは今までにないよ、マドゥロン! この原稿には、私の青春すべてが入っているんだ。あれはリヨンだった! あの晩は、私の最初の芝居の初日があいた晩だった。舞台衣裳のままで夕食をとったんだ。グロ・ルネ、ジョゼッフ、テレーズがいて・・・
 マドゥレーヌ 三人とも死んじゃったわね。
 モリエール 死んだなあ・・・
 マドゥレーヌ あの晩あなた、決心したのね。
 モリエール そう、君だよ、君が、もっと芝居を書けと言ってくれたんだ。「粗忽者が作れたんだから、他のイタリアのものを真似て作ったら?」と言ったんだ。私はあの時、自分が出来るかどうか、自信がなかった。
 マドゥレーヌ あなた、パリの人に愛されたい、とも言ったわ。どう? 今。充分に愛されてる?
 モリエール 随分嫌われているな。そして、たたかれている。これも君、あの頃から言ってたね。
 マドゥレーヌ あの晩あなた、自分に反対する者はみんな殺してやるって言ってたわ。
 モリエール そして殺されそうになったのはこっちの方だ。でも私はまだしぶとく生きている。
 マドゥレーヌ 名の日、おめでとう、ジャン・バチスト!
 モリエール 有難う、マドゥレーヌ! 私の大事なマドゥレーヌ!
 マドゥレーヌ 神様、どうぞこの、ジャン・バチストの日がまだ長く続きますように。こんなに才能のある、可愛い私のモリエールの日が!
 モリエール そうさ! まだ何度でも来るぞ。なあマドゥレーヌ、僕らはまだ若い。ほら、見てご覧。(自分の姿を見せて。)昔着ていたマスカリーユの衣裳にそっくり。そうだろう? スカパンも、動きはマスカリーユに負けはしない。喋り方だって。それに智慧だってあいつに負けはしないんだ!
(ラ・グラーンジュ登場。階段から頭だけ覗かせて。)
 ラ・グラーンジュ 幕が開くぞ! 開幕だ! みんな位置いついて!
(ラ・グラーンジュ退場。)
(スィリヴェストゥルの姿で、ラ・トリリエールが、舞台奥に登場。ゆっくりと舞台の方に降りて行く。)
 ラ・トリリエール 今行く・・・降りるぞ・・・
(モリエール、楽屋から出る。)
 マドゥレーヌ アルマーンドは元気?
 モリエール 元気だと思う。あいつだけだ、私の名の日に来ないのは・・・女房だというのに・・・
(この幕の最初に出ていた「若い男」登場。)
 若い男 ムスィユ・モリエール、私、遅刻ですか?
 モリエール えっ? ああ。いや、遅刻じゃない。芝居はまだ始っていない。ねえ、マドゥレーヌ、この子、役者になりたいそうだ。自分でも芝居を書いている。仲間も集めて一座を作っている。昔の僕らと同じだ。いいことだ! これこそやるべきことだよ! (若い男に。)君、さっき君の言っていた通りだ。次から次と若い人が出て来て、一座を作るべきなんだ。演じるんだ! 役者をやるんだ! 陽気に! 愉快に! 役者という仕事は、世界で一番良い生き方なんだ! 芝居を書くんだ。自分よりうまく書ける奴がいるなんて、気にしない。自分よりうまく書いた奴がいたなんて、気にしない! そいつら一人一人、全部が全部、大きな大きな鎖の中の、小さな輪でしかないんだ! 一年、いや、一世紀、の間、誰か一人が何をやろうと、そんなもの、何の重みもありはしない! 生きるんだ! それだけだ! 精一杯の仕事をして! ただ、気をつけなければいけない厄介者がいる。象牙の塔の中から、芝居に文句をつける奴らだ。連中は何かひと言文句を言う資格があると思っている。観客席に坐る権利を得たいためなんだ、それは。才能のある役者には、必ず十人、自分では知ってもいない仕事を教えようとする人間が出て来る。それも、毎日その仕事を実行しているその当の本人にだ! もしその連中が意地悪だったら、それは連中が君をやっかんでいるからだ。でなければ、連中の健康が損なわれているからだ。連中の中傷に耳を貸すことはない。貶(けな)されたらさっさと別の芝居を書けばいい。君が一番の働き者になることだ。連中に、自分は誰もやっかんではいない、そして自分の肝臓が健康そのものであることを見せてやるんだ! これだけだ、私の言いたいことは。ああ、そうだ、もう一つ忠告。これが一番大事だ。舞台に出る者は、決して作者の落着いた気分で出てはならない。いいか、満員の観客、君がわっと湧かせる観客のことを考えるんだ。これほど素敵なことは他にないんだ。(下から開始の合図の音。)あれ、あの音ぐらい美しいものはないんだ。聞えるな? さ、降りるんだ! 出だしを見損なっちゃいけない! そうだ、君の書いたものを持って来てくれ。私は読む!
 若い男 本当ですか? ムスィユ・モリエール。
 モリエール 勿論読むとも。
 若い男 これです。出す勇気がなくて・・・
 モリエール(笑う。)ああ、ポケットに入れていたな。じゃ、後で私に。
(若い男、階段を降りる。)
 モリエール 拍子木が打たれたぞ、キャトゥリンヌ!(オクターヴ、すごい勢いで降りる。その後を急ぎながら。)急げ! 急げ!
 キャトゥリンヌ(楽屋の扉で。)用意は出来ているわ。いつでも出られます!
 オクターヴの声(舞台から。)ああ、愛する者にとって何という知らせだ。スィルヴェストル、僕はもう、どうしていいか分らない。だってお前、親父が帰って来た。波止場でそういう噂を聞いたんだろう?
(それから二三秒、舞台の台詞が聞える。)
 モリエール ああ、マドゥレーヌ、「粗忽者」で僕がピルエットをやったのを覚えているね?
 マドゥレーヌ ああ、トンボ返り!
 モリエール トンボ返り、そう!(その動作をしかけるが、止める。)今は無理だ! まあいい! やらなくても笑ってくれるさ。(ジェローントの声で。)まだ年とっちゃいないぞ!(マドゥレーヌ、笑う。)年なんかとるものか! そうだろう? マドゥロン。
(モリエール、こう言いながら、滑稽な、そして魅力のある、しかめ面をしてみせ、さっと階段を降りる。)
 マドゥレーヌ(モリエールが降りるのを見ながら、優しく。)勿論よ、あなたは決して年なんかとらないわ、ジャン・バチスト・・・可愛い人!
(下からモリエールの舞台の声が聞えて来る。)
 モリエールの声 「ご主人様、オクターヴ様、一体何事です。」
(モリエールの登場と共に、割れるような拍手。その間に・・・)
        (幕、降りる。)
 マルセイユ 一九四二年十一月

 平成二十年(二00八年)十月二十一日 訳了


http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html


 Cette piece a ete representee pour la premiere fois au Theatre du Vieux-Colombier, le 11 decembre 1944, avec la distribution suivante:

Moliere... MM. Andre Roussin
Boileau... Louis Ducreux
Louis Bejart... Tony Jacquot
Le jeune homme du troisieme acte... Tony Jacquot
De Brie... Jacques Emmanuel
Du Croisy... Jacques Emmanuel
Joseph Bejart... Jean Brunel
Hubert... Jean Brunel
Gros-Rene... Jean Daguerre
L'aubergiste... Fernand Joachim
Damis... Jean Ozenne
Armande Bejart... Mmes Gaby Sylvia
Madeleine Bejart... Evelyne Volney
Therese du Parc... Florence Lynn
Catherine de Brie... Catherine Monnot
La Comtesse de Rabagnas... Mathilde Casdesus
Mlle Beauval... Jacquline Duc
Une servante... Denise Precheur
Menou... Jose Conrad

et les Eleves de l'Ecole du Vieux-Colombier.

Decors de Georges Wakhevitch.
Costume de Maurice Colasson.
Mise en scene de l'auteur.