「死者の覚書」解説
          マイケル・グレニイ 作
           能 美 武 功 訳

 ミハイール・ブルガーコフは、一八九一年に生れ、一九四0年三月一0日に死んだ。「死者の覚書(副題「演劇小説」英語訳の題名「黒い雪」)は、書かれてから出版されるまで少なくとも三十年を待たねばならなかった。(訳註 作者のメモによると、書き終ったのは一八三七年とあるので、二十八年と思われるが?)最初の出版は、「演劇小説」の題名のもので、月刊「ノーヴイ・ミール」の一九六五年八月号である。この時までは、ブルガーコフの名前は、主に彼の芝居によって知られていた。ブルガーコフは十九本の芝居を書き、うち、十一本が出版され、八本が舞台にかけられている。初期には、ブルガーコフは沢山の短篇を書いている。全く出版されなかったものもあり、出版されても、無名の雑誌で、跡形もなく消えて行ったものもあり、また、外国に亡命したロシア人の出版社によって印刷されたものもある。その中には、ブルガーコフの死後大きな出版社により再発行されたものもある。
 ブルガーコフを一夜にして有名にしたものは、彼自身の小説「白衛軍」の戯曲化であるところの、「トゥルビーン家の日々」である。この芝居(つまり小説)の主題は、ほぼ三年にわたってロシアに荒狂ったボルシェヴィキーと「白衛軍」の間で戦われた、厳しい「内戦」である。(ボルシェヴィキーは「赤軍」と呼ばれている。「白衛軍」とは、ボルシェヴィキーに政治的に対立する、定義不可能な、種々雑多な勢力を言う。)「内戦」は、いかなる国家においても、厳しいものであるが、このロシアの「内戦」は特に酷かった。ロシア国民を二つに裂き、傷つけた。この「内戦」の悪夢は、比較的無血の革命であった「ロシア革命」そのものよりも本当の「内的戦争」であり、その後、國中に深刻な混乱と飢餓を齎(もたら)した。この悲惨な戦争は、無数の、物語、小説、詩、戯曲、映画、の主題として扱われた。が、一二の目覚ましい例外を除いて、他は全て・・・当然のことではあるが・・・この内戦を、「赤軍」の目から、或は、「赤軍」に共感する観点から描かれている。
 ブルガーコフの「白衛軍」(「トゥルビーン家の日々」)で驚くべきことは、内戦を完全に「白衛軍」の側に立って描いている点である。こんなことは、現代の我々にとっては、驚きでも何でもない。しかし、一九二0年代のソ連では、実に破天荒な、実に勇敢なことであった。当時のソ連は、まだ内戦の傷が充分に癒えていない。そして、亡命ロシア人は、ボルシェヴィキー政権を信用しておらず、あわよくばこれを覆(くつがえ)そうとしている。そのあからさまな陰謀に対して、ボルシェヴィキー政府は非常に敏感であった。また、当時の、公的な共産政府は、「白衛軍」を、血に飢えた反動的輩(やから)、或は、救い難い悪の道化として描くべきものとしていた。ところが「トゥルビーン家の日々」では、その「白衛軍」を、自分達のよく知っていた世界が崩壊して行くのを見て、呆然としている、普通の、誠実な人間、として描いたのだ。
 ソ連政府は最初、この芝居の政治的意図が気に入らず、難色を示した。しかし、辛うじて「トゥルビーン家の日々」は日の目を見たのだが、その圧倒的な劇的力、作者の技量、により、この芝居は現在、ソ連演劇全体の中で、最も愛され、最も成功した演劇の一つとして残っている。初演は一九二六年、モスクワ芸術座。この時、即座に、大衆の熱狂的な支持を得ている。三年後、演劇検閲局がこの芝居を禁止する。一九三二年、ブルガーコフはスターリンに、個人的に手紙を書き、この禁止を解除するよう訴える。スターリンはこれを再び見たいと要求。四日間の死物狂いの準備の後(この芝居は当時、勿論、レパートリーから外されており、装置も衣裳も倉庫の中を捜さねばならず、配役も緊急に集められ、リハーサルをせねばならなかった)、モスクワ芸術座はスターリンただ一人のために、特別にこの芝居を演じる。そして、ソ連支配者スターリンから、ちょっとした変更のみで、再び舞台にかけることを許される。 
 一九四一年まで、この芝居はモスクワ芸術座の通常演目となる(全体で公演回数は九八七回)。そしてこの一九四一年、ミーンスクにおいてドイツ軍の空襲にあい、全ての装置が破壊される。一九五四年、最初の配役で主役を演じたミハイール・ヤーシンが、モスクワのスタニスラーフスキー劇場で、この芝居を復活させる。演出はスタニスラーフスキーのものと本質的に変らないものであった。一九七0年に、この芝居は再び、モスクワ芸術座のレパートリーの中に入る。ロシア以外の國における「トゥルビーン家の日々」の制作は、一九三八年、ロンドンのフェニックス劇場で。題名は小説の題名、「白衛軍」、としてかけられた。ロドゥニイ・アックランドの翻訳、マイケル・セント・デニスの演出、主役のアリェクスェーイ・トゥルビーンは、マイケル・レッドグレイヴ。一九八0年にはRSCで、マイケル・グレニイの訳、バリー・カイルの演出、主役はジョン・ネットゥル。一九八二年には、BBC第一で、ドン・テイラー演出、主役はマイケル・ペニントンだった。アックランド訳、グレニイ訳の他、英語では、F・D・リーヴの訳がペーパーバック、Anthology of Russian Plays (Vintage Books, New York 1963)にある。また、英語以外にも各国語に訳されている。
 「死者の覚書」は、薄いフィクションの幕が被せてあるが、ブルガーコフ自身の話・・・いかにして「白衛軍」を書くようになり、それを「トゥルビーン家の日々」として芝居にしたかという・・・である。「死者の覚書」は、一九三0年終に書かれた。
 一九三0年代終、という時期は、ブルガーコフの健康にいろいろな障害があったが、ブルガーコフの経歴の中で、非常に生産的な時期であった。「死者の覚書」は、未完の小説であるところから判断して、多分彼の最後の作品である。ブルガーコフは一九三九年九月に、目が見えなくなり、その七箇月後に亡くなる。
 「死者の覚書」のようなウイットに富んだ本に注釈をつけるなど、野暮なことである。何しろこの本は一九二0年半ばのモスクワの文学演劇界を、皮肉と自己蔑視を込めて書いたもので、その魅力は、そのタッチの軽妙さにあるのだから。しかし、注釈をつけることにより面白さを半減させる危険はあっても、また考えようによれば、ひょっとすると、主な登場人物、主要な事件の鍵を与えることによって、読者の興味が増す可能性もある。ロシアの読者は、この本の登場人物をほぼ想像出来、彼のからかい(時々は強烈な風刺)を、実際の人物にあてはめて楽しむことが出来る。従って、英語の読者も、彼の冗談をその意味で楽しむのは悪くあるまいと思う。
 まづ最初に、作品中の「独立劇場」は、勿論モスクワ芸術座である。ブルガーコフはこの劇団に、彼の芝居の契約が行われた一九二五年に始まって約十年間、最初は芝居の作者として、後には、そのスタッフの一員として、深く関る。一九三0年から三五年まで副理事長の仕事を勤め、また、劇団の座付作家となる。彼は劇場を愛し、特にモスクワ芸術座を愛していたのだが、その性格上、劇団メンバーから要求されている、無批判の、全面的献身を、この劇団に与えることは出来なかった。彼の偉大な知性、統合性、そして常に一歩退いて物を観察するという性格、が、モスクワ芸術座一辺倒という姿勢を彼に取らせなかった。モスクワ芸術座を隅々まで見るが、常に少し離れて観察していた彼は、賢明な、幻影を抱かない、皮肉な友人として留まり、いかなる人物も、虚栄や不誠実、嫌らしさを見せるや、それを揶揄する時には、決して筆を緩めなかった。劇団のメンバーの中でブルガーコフの尊敬をかち得、献身的な友人となった人物もいる。その中に、パーヴェル・アリェクサーンドゥロヴィッチ・マールコフ・・・彼は「死者の覚書」の中で、文芸部員「ミーシャ・パーニン」として描かれている・・・がいる。マールコフがモスクワ芸術座で行った大事な仕事は、ブルガーコフの小説「白衛軍」が月刊文芸雑誌に連載された時、いち早くこれに目をつけたことである。そしてこの小説を戯曲化するブルガーコフの困難な仕事を手助けしたのも彼であった。この新しい劇作家ブルガーコフの発見が、彼の最初で最大の仕事であった。マールコフは、丁度一九二五年にモスクワ芸術座の文芸部員になった。この小説の始まる年である。彼はブルガーコフの生涯の友人であり、他の様々な劇団員を馬鹿あるいはやくざ扱いしている中で、彼マールコフを、「パーニン」と親しく呼びかけている。
 この小説の出だしは「黒い雪」の執筆と出版をめぐる文芸的エピソードである。喜劇的な誇張、或は奇々怪々の煙幕をはって話を和らげているが、このあたりはブルガーコフ個人の、苛々した、不幸な文学活動初期の生活を描いていると思われる。彼が愛していた母親は、一九二二年に死んだ。「死者の覚書」の主人公マクスードフと同様、ブルガーコフも雑記の編集員として働き、それを酷く嫌っていた。聞き慣れない奇妙な名前「汽船情報」なる雑誌は、ブルガーコフ自身が編集員かつコラム担当者として働いていた雑誌の偽名である。その実際の名前は「汽笛(ロシア語で「グドーク」)」といい、鉄道会社の労働組合紙であった。しかしこの雑誌は、決して労働組合の内部的機関雑誌ではなく、文学的に驚くべく高い水準をもったものであり、文学者の育成雑誌でもあった。マクスードフが自分の小説を掲載して貰うことに成功した雑誌「祖国」の、本当の名前は、「ロシア(ロシア語では Rossiya)」であり、そのメフィストフェレス的編集長ルードリフィは、U・G・リェジニョーフである。小説のマクスードフは、同じ年代の時の実際のブルガーコフよりずっと羽振りが悪く、成功していない。実際のブルガーコフは、当時既に、いくつかの月刊、年刊誌に自分の作品を載せていて・・・雑誌「ロシア」にも、である・・・その結果、細々(ほそぼそ)ながら既に、ユーモア・短篇作家としては安定した名声を得ていた。一九二四年七月の雑誌「ロシア」の裏表紙には、次号に出る小説の題名が広告されているが、その中に、当時の有名作家ボリース・パステルナーク、イリヤー・エレンブールクと並んで、ブルガーコフの名前も載っている。雑誌「ロシア」の一九二五年四月号と五月号に、「白衛軍」が連載されており、これがブルガーコフの経歴の大きな節目となる。だからこそブルガーコフはこの小説(「死者の覚書」)で、「白衛軍(黒い雪)」の出版に関し、自殺を試みる場面も含めた、悲喜劇的な物語を拵えたのだろう。この「死者の覚書」にある通り、現実においても、雑誌「ロシア」は、「白衛軍」を二回連載した後、廃刊になってしまう。
 ここまではしかし、この小説の序章でしかない。本題は、モスクワ芸術座の二人の理事長とブルガーコフの間に交される愛憎物語である。二人統治の片割れ・・・は、一八九七年の創立以来ずっと理事長を勤めている、ヴラヂーミル・イヴァーノヴィッチ・ニェミローヴィッチ・ダーンチェンコ・・・この小説でブルガーコフが「アリスタールフ・プラトーノヴィッチ」と呼んでいる人物・・・である。この、どことなくヘレニズム的でロシア名前とは思われない、意図的な名前は、当時のロシアのインテリが培(つちか)っていた古典的な美意識によるもので、ブルガーコフ独特の冗談である。
 ブルガーコフはこの劇団の二人の独裁者を容赦ない皮肉で揶揄しているが、その二人のうちで、一般によく知られた名前はこのダーンチェンコの方であろう。しかしまた、「イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチという名前(と父称)で呼ばれている人物が、コンスタンチーン・スェルゲーイェヴィッチ・スタニスラーフスキイであることもまた、殆どここで証(あか)す必要のないことかも知れない。我々はここに表されているスタニスラーフスキイの酷い戯画にショックを受ける。そのショックは、スタニスラーフスキイがロシアには限らず、到るところで純粋な尊敬と賞賛を受けている事実により、より一層大きなものとなる。ブルガーコフは、スタニスラーフスキイに通常認められている、伝説的な魅力、そして天才的役者という枠に全く囚(とら)われず、彼を、虚栄心の強い、独裁的で横暴な男として描いている。スタニスラーフスキイの役者としての才能は認めるが、彼のその他全ての評判を完膚なきまでに叩き潰す。残るものは、諂(へつら)いの廷臣に取巻かれた裸の王様、それだけとなる。彼の魅力は、ただ単に、人を動かすための道具に過ぎず、一見身を捨ててやっているように見える事柄も、単に自分の保身に過ぎず、芸術的才能の育成と見えたものは、単なるえこ贔屓であり、彼の有名な「スタニスラーフスキイ方式」も、独創的才能を潰すための、ひどく敵意のある、特異なマナリズム(訳註 所作事。ここでは、実質のない、形骸化した所作の型をいう)に過ぎない。モスクワ芸術座を特徴づけている調和と統一は、表面的なものであり、誤摩化しに過ぎない。一方でスタニスラーフスキイの信奉者達が、他方にニェミローヴィッチ・ダーンチェンコの被保護者達があり、また、意気軒昂たる若い世代の役者達がい、それに対抗する、良い役はすべて自分達が、と、鵜の目鷹の目の、古い役者達がいる。ブルガーコフの容赦ない、舞台裏のこれら実情の描写、を読めば読むほど、このようなエゴのぶつかり合いの中で、実際にかかっている毎日の芝居がどうして可能なのか、不思議に思えてくる。勿論これは戯画であり、写真ではない。しかし、あらゆる戯画家と同様、ブルガーコフも、目的があって大げさに描いているのだ。確かにブルガーコフのような、皮肉を書かせると天下一のような作家にとって、モスクワ芸術座の、この孤立した、純粋培養の世界、その嫉妬、不和、自己宣伝、は、当然のことながら格好の題材であったろう。
 しかしこの「死者の覚書」で主に取上げている「黒い雪」の戯曲化及びその芝居を舞台にかけるまでの苦労話、は、決して実際の「白衛軍」の戯曲化及び、その芝居「トゥルビーン家の日々」を舞台にかける時の話ではない。この芝居「トゥルビーン家の日々」の演出家、イリヤー・スダコーフ(「死者の覚書」では、トーマス・ストゥリーシュとなっているが)と、ブルガーコフはうまく行っていたし、勿論偶像崇拝にはほど遠いが、スタニスラーフスキイとの間も悪くはなく、かつそのよい関係は、その後何年かは続いたのだ。ブルガーコフがスタニスラーフスキイに幻滅したのは、「トゥルビーン家の日々」の成功から十年経ってから起った(訳註 「トゥルビーン家の日々」の初演が一九二六年、「モリエール」の初演が一九三六年。それでグレニイは十年と数えたらしい)。これが、「拒絶された恋」独特の強さ、をもって、ここに語られることになる。
 一九三二年、ブルガーコフは、「モリエール」と題した悲劇を書く。これはモリエールの最後の数箇月を描いたもので、この偉大な役者ー劇作家、が、過酷な人生との闘争の後、名声を得たが、ルイ十四世の取巻き連・・・偽善者の徒党・・・により、死に至らせられるという物語である。これは丁度、スターリンの検閲を受けたブルガーコフ自身の運命と平行線を描くもので(「モリエール」が書かれた時期は丁度彼の全ての芝居及び全ての短篇小説が出版禁止になった時であった)、ブルガーコフの意図は、行間を読み取れる読者にとっては明らかであった。スタニスラーフスキイはこの時、政治的な理由から、ソ連の作者による新しい芝居をかける必要に迫られていた。従って、この「モリエール」を受入れ、自分で演出することにした。しかし、リハーサルが始まる頃病気にかかり、別のモスクワ芸術座の演出家、エヌ・エム・ゴルチャコーフにこれを任せた。「モリエール」を舞台にかけるまでに四年かかり、そして、これに関与した全ての人間には、最悪の経験となった。ソ連共産党への攻撃があからさまに見えるこの「モリエール」を何とか擬装しようと、ゴルチャコーフはこの芝居を、お涙頂戴のメロドラマに作り変えてしまった。怒ったブルガーコフは、スタニスラーフスキイの再三の書換え要求をすげなく断る。リハーサルは不満と喧嘩の連続の中で、グズグズと長引き、ブルガーコフはまだ不機嫌、スタニスラーフスキイは挫折感と不安を抱いたまま、ようやく一九三六年二月に初日が開く。ソ連共産党の息のかかった報道陣は、直ちにこの芝居の意図を見抜き、検閲の鞭をいやというほど食らわせ、「モリエール」はただ七日間の公演で幕となる。この事件はスタニスラーフスキイを打ちのめし、ブルガーコフに惨めな気持を味あわせ、遂にブルガーコフは、冷たい怒りのままモスクワ芸術座を去る。
 この時の怒りと惨めさをブルガーコフは、時を十年前に戻し、彼の芝居のデビュー物語として書いた。つまり「死者の覚書」は、「モリエール」の失敗に対するスタニスラーフスキイへの復讐なのである。

 平成二0年(二00八年)四月三0日 訳了