死者の覚書
        ミハイール・ブルガーコフ 作
          能 美 武 功 訳

   前書き
 読者諸氏に予め申上げておきますが、この覚書は、私が創作したものではありません。この覚書は、非常に奇妙な、非常に悲しむべき事情から、偶々私の手に入ったものです。
 昨年の春キーエフで、スェルゲーイ・リェオーンチエヴィッチ・マクスードフが自殺しました。その彼が自殺の時以前に分厚い封筒と手紙を私宛発送していたのですが、丁度その自殺の日に、私にそれが到着したのです。
 分厚い封筒には、この覚書があり、また手紙には驚くべきことが書かれてありました。
 つまり、私(スェルゲーイ・リェオーンチエヴィッチ)は、この世を去るにあたり、私の唯一人の友人のあなた(ブルガーコフ)に、この覚書を託す。どうかこの覚書を校正し、私の名前でこれを世に出して欲しい、と。
 奇妙な、しかし臨終の、彼の遺志だったのです。
 それから一年間、私はスェルゲーイ・リェオーンチエヴィッチの親戚、或は近しい人について色々知ろうと努力しました。が、無駄でした。死直前に書いた彼の手紙には嘘はありませんでした。近しい人、親戚、は、彼には誰も残っていなかったのです。
 二つ目に申上げておきます。それは、故人は芝居及び劇場には、生涯何の関わりも持ったことがないということです。身分としては彼は、雑誌「汽船情報」のしがない編集者兼コラム担当者であり、ただ一度小説を書上げたことはありましたが、出版されたことはなかったのです。
 従ってマクスードフのこの覚書は、彼の想像から出て来たものであり、残念ながら病(やまい)による幻想の結果であります。病気・・・彼はひどく厄介な代物・・・つまり「鬱病」に悩まされていたのです。
 私自身は、モスクワの劇場、その消息について、非常にあかるいのです。その私が保証しますが、故人のこの覚書にあるような劇場ないしは、そこに出て来る人物は決して存在しません。
 三つ目そして最後に、申上げますが、この覚書を出版するにあたって私がやったことは、一つ、表題をつけたこと、二つ、エピグラフ「・・・(訳註 ここ不明)」がついていたが、気取りがあり、不快で不必要と判断し、省略したこと、三つ、句読点が欠けていると思われる場所に、句読点をつけたこと、の三つだけです。
 故人の文章は、私には多少雑なものに見えましたが、それには手を触れていません。しかし、雑だとは言え、二日後にはツェープヌイ橋からまっさかさまに飛込んで自殺をはかった男に、これ以上のものを期待出来るでしょうか。
 では・・・

     第 一 部
     第 一 章
   出来事の発端
 四月二十九日 夕立がモスクワを洗い、空気は清々(すがすが)しくなった。私は気持が楽になり、生きる勇気が湧いてきた。
 グレイの背広、それに、まあまあ見られる外套を着て、私はモスクワのある大通りを歩いていた。目的地は私が今まで一度も行ったことのない場所である。私のこの行動の理由は、突然私宛に送られて来た、私のポケットにある、手紙なのだ。その手紙にはこう書いてあった。

 尊敬するスェルゲーイ・リェオーンチエヴィッチ!
 あなたとお近づきになり、ある内密な用件で、あなたとお話がしたいのです。この用件はあなたにとっても、決してつまらない話ではない筈です。
 もし時間がおありでしたら、水曜日四時、「独立劇団」の「劇団研究所」の建物にお出で下さい。お会い出来れば大変嬉しいです。
                   敬具
             カー・イリチーン
 手紙は、紙に鉛筆書き、のものだった。その紙の左上の隅には
 クサヴェーリイ・バリーサヴィッチ・イリチーン
    独立劇団 劇団研究所
    舞台監督
と印刷されていた。
 イリチーンという名前を私は初めて見たし、劇団にまた、研究所があることも全く知らなかった。「独立劇団」の名は聞いたことがあり、優秀な劇団の一つであることも知っていたが、観たことはなかった。
 この手紙は非常に私の興味をひいた。その頃私は、手紙なるものを受取ったことが殆どなかったから尚更であった。ちょっと私のことをお話すると、私は「汽船情報」なる雑誌のしがない編集者兼コラム担当員で、その当時、ひどく質の悪い、しかし、個人で住むことは出来るアパートの一室に住んでいた。(訳註 ソ連では、アパートは国家の供給。屡(しばしば)二世帯が一室(アパートの一区画)に住まわせられることがあった。)それは七階にあり、建物自体はハムトーフスキイ袋小路の、クラースヌイ門あたりに位置していた。
 さて、爽(さは)やかな空気を吸いながら、そして一方では、また夕立が来はしないかと心配しながら、歩いていたが、同時に考えていたことは、どうやってクサヴェーリイ・イリチーンなる人物が私のことを知ったのか、一体私にどんな用事があるのか、ということだった。しかし、どう考えても何の結論も出なかった。ただ一つだけ可能性として残ったのは、このイリチーン氏は、私と部屋を交換したいのではないか、ということだった。
 勿論あちらの方が私に用があるなら、こっちに来いと手紙を出してやってもよかった。ただ、私はどうも、この自分の部屋、自分の家具、それに周囲の人間達、それを客に見せるのが恥かしかった。まあ、想像してもみて下さい。このイリチーンなる人物が、私のソファ・・・外張りは引裂かれ、中に詰めてあるバネが飛出している・・・それに机のランプ・・・覆いは新聞紙で作られている・・・を見たとしたら・・・それに、猫が歩き回り、台所からはアンヌーシュカの怒鳴り声が聞えてくる。(訳註 アンヌーシュカは、料理人らしい。)

 私は鋳物(いもの)の鉄の扉を開け、中に入る。そこには店があり、バッジや眼鏡の枠を、白髪の男が売っている。
 私は、先ほどまでは急流だった濁った水たまりを、飛び越え、黄色い建物の前に出た。これは古い建物だった。私、それにイリチーン氏がまだこの世のものでなかった時に建てられたもののようであった。
 看板は黒地の上に金色の字で、「劇団研究所」と書かれてあった。入るとすぐ、中背の、頬髭をはやし、緑色の襟章をつけた、ジャンパーの男が出入口を塞ぐ。
 「誰に用です、あなた」と訝(いぶか)しげにその男は訊き、鶏でも捕まえるような具合に両手を拡げる。
 「監督のイリチーン氏に用がある」と私は、少し生意気に聞えるよう努めながら言う。
 男は急に、私の目から見ても、態度を改める。両手をきっちり「気をつけ」の姿勢の時にやるように、ズボンの折り目にあて、作り笑いをして見せる。
 そして私の外套を慇懃に、あたかも高価な、貴人の着る衣服でもあるかのように抱える。
 私は鉄で出来た階段を上って行く。階段の横にある壁には、浮彫りにされた兜姿の戦士の横顔、そしてその下に、恐ろしい刀が飾ってあり、また階段の下には、古いオランダ風ペチカがあり、その通風口は、金色の輝きを見せるまで磨き立てられてある。
 建物は深閑(しんかん)としている。どこにも人影はない。ただ襟章の男がとぼとぼと私の後をついて来る。そして振返ると私は、その男が、尊敬、献身、愛情、そして喜びの籠った沈黙を私に示していてくれるのが見てとれる。それは偏(ひとえ)に、私が、この謎の人物、クサヴェーリイ・バリーサヴィッチ・イリチーン氏に用があるからであり、また、たとえ私の後からついて歩いてはいても、結局は、自分がその謎の人物の方に私を導いている、という誇りからであった。
 突然暗くなる。回廊は今までの油っこい光を失い、急に闇に覆われる。窓の外で第二の雷鳴が轟く。私は部屋の扉を叩き、入る。薄暗い中で、ついにクサヴェーリイ・バリーサヴィッチを見る。
 「マクスードフです」と品位を籠めて私は言う。
 丁度その時、モスクワのどこか遠くで、稲光がきらめく。その光が一瞬、イリチーンの顔を青白く照らす。
 「そう、あなたでしたか。尊敬すべきスェルゲーイ・リェオーンチイェヴィッチ!」と笑みを浮べてイリチーンは言った。
 そしてイリチーンは、私の腰を抱くようにして、ソファへと導く。しかし、そのソファと言ったら、私の部屋にあるソファとまるで同じだった。擦り切れ方だけではなく、丁度真中から、バネが飛び出していたのだ。
 だいたい私には、今になっても、運命的な出会いが行われたこの部屋が、普通何の目的で存在しているのか、分っていない。それに、何故あのソファがあったのか。何かの書類が引きちぎられて床の隅っこに投げ散らかしてあったが、一体あれは何なのか。窓には天秤秤(てんびんばかり)があり、それにカップがのせてあったが、それは何故なのか。稲光でチラと見えたが、隣にはピアノのある部屋があったのに、何故イリチーンはこの部屋で待っていたのか。
 遠くで雷が鳴っている。その音の間から、クサヴェーリイ・ヴァリーサヴィッチは陰気な声で言った。
 「あなたの小説を読みましたよ。」 
 私はぶるっと震えた。
 事は次のような次第だ・・・

     第 二 章
 私は「汽船情報」という雑誌のしがない編集兼コラム担当が仕事だった。が、この仕事が好きではなかった。それで夜には、時々は明け方まで、自分の屋根裏部屋で小説を書いていた。
 この、小説を書くという仕事は、ある晩、陰鬱な夢から醒めて、それから始まった。それは故郷の夢だった。雪、冬、内戦・・・音もなく吹雪が起り、それから、古びたピアノが現れ、その傍に、今はもう亡くなっている人達が集まっていた。夢で私は、自分の孤独を悲しみ、自分が哀れになる。目が醒めると涙が出ていた。机の上に吊るされている埃(ほこり)まみれのランプに火をつけると、その灯は私の貧しさを照らし出す。哀れなインク壷、数冊の本、古新聞の包み・・・左の脇腹が痛む・・・バネのせいだ。私は恐怖に襲われる。このまま死んでしまう、という悲痛な気持。私は唸る。心配で辺りを見回す。死から逃れる何か助け、何か支え、がないかと捜す。そして見つける。いつかこの建物の門のところで見つけて飼っていた猫が鳴いたのだ。猫は心配していた。一秒後にはもう、新聞の包みの上に坐って、丸い目で私を見、「何が起ったんだ?」と私に訊いている。
 灰色の、この痩せた動物には、何も起らないで欲しい、ということしか興味がなかった。実際、何か起ったら、誰がこの猫に餌をやるのだ。
 「こいつはぞっとしない図だな」と私は猫に説明する。「お前は今までだって、私を食い物にして生きてきたんだ。が、これからは本当に私を齧(かじ)って生きのびるんだ。まあ暫くは生きて行けるさ。」
 建物は眠っている。私は窓から眺めてみる。六階建の建物は、どこにも灯りがついていない。私は、この建物は地上のものではなく、六階の造りになっている汽船だと理解する。その汽船が今、動かない暗い空中を飛んでいるのだ。汽船の動きが私を陽気にする。私は気持が落着く。猫も落着き、目を閉じる。
 この時から私は、小説を書き始めた。私は夢にみた吹雪を描写しようとする。ピアノの側面が、笠のあるランプの下でどのように煌(きら)めくかを書こうとする。しかしうまく行かない。しかし、やっているうちにだんだん辛抱強くなってきた。
 昼間は唯一つのことを心がける。自分の力を消耗しないために、会社でやらされる強制的な仕事をいかにさぼるか、である。私はそれを、機械的に、頭を使わないで、やった。あらゆる機会を捕えて、病気の理由で休暇を取れる時は休暇を取る。勿論皆は私を信じてはいない。そして、私の生活は住みにくいものになって行く。が、私は耐え、だんだんとそれに馴れて行く。デートの約束がある若者と同じように、私は夜が来るのを待ちかねた。住んでいる建物も、この頃には船のように揺れることはなくなってきていた。私は机につく。何か興味があるらしく、猫は一時(いっとき)は新聞の包みの上にじっとしているのだが、隙を窺(うかが)ってはすぐそこから飛上がって、私の書いた紙を覗く。私はその度に猫の襟首を捕まえ、元の位置に戻す。
 ある晩私は、頭を上げ、そして驚く。気がついてみると、私の船はどこにも飛んでいない。建物はしっかりと地面に立っていて、あたりはすっかり明るくなっている。つけていた明りはただうるさく邪魔だ。私は明りを消す。すると、薄明かりの中で胸糞の悪くなるような部屋が、私の前に再び現れる。アスファルトの中庭には、抜き足差し足でいろんな色の猫どもが歩き回っている。もう明るく、ランプなしで紙の上の一つ一つの文字がくっきりと見分けられる。
 「何だ! もう四月か!」私は何故か驚いて、大声で叫ぶ。そして、紙の最後に、しっかりと「終」と書く。
 冬は終。吹雪は終。寒さも終だ。冬の間に私は、そうでなくても数少ない知合いを失い、疲れ果て、リウマチを煩(わづら)い、少し粗野になる。しかし、髭だけは毎日剃っていた。
 これらのことを頭に思い浮べ、私は猫を外に放り出す。それから、この冬初めて・・・多分これは正確な記憶だと思うが・・・夢を見ずに寝る。
 小説の校正は長くかかるものだ。沢山の場所を削り、いろんなところで別の言葉に書替えねばならない。酷く厄介だが、必要不可欠だ。
 しかし私は誘惑に負ける。最初の六頁の校正だけで、私は人との付合いを復活させる。客を招(よ)んだのだ。その中には「汽船情報」の二人の編集員(これは私と同類の仕事をやる男達)、その妻達、それから、小説家を二人招ぶ。小説家の一人は、完璧な技巧で物語を書き私を驚かせた若い男。もう一人は中年の経験豊かな作家だった。(但し、付合いを深めてみると、酷いならず者であることが分る。そんな男だったのだ、そいつは。)
 その晩私は、ほぼ私の小説の四分の一を読んで聞かせる。
 二人の編集員の妻は酷く眠そうで、私は読むのに気が咎めた程だ。しかし、編集員二人と小説家二人は辛抱強かった。彼等の批評は親身があり、誠実だった。かなり手厳しく、今考えても正当なものだった。
 「言葉だよ、問題は」と(ならず者だと後で分った方の)小説家が叫んだ。「その、言葉、が、まるでなっちゃいない。」
 そう言って彼は、グイとウオッカを飲干し、イワシを頬張る。私は二杯目のウオッカを注いでやる。その二杯目も飲干し、今度はソーセージを齧(かじ)る。それから・・・
 「比喩だ、比喩が大事なんだ」と彼は、ソーセージを齧りながら叫ぶ。
 「そうです」と礼儀正しく若い方の小説家が賛成する。「それから、言葉が弱い。」
 編集員の二人は、何も言わず、ただ賛成するように頷き、ウオッカを飲む。二人の夫人は、頷きもせず、喋りもせず、私が折角女性用に買って来たポートワインを全く無視してウオッカを飲む。
 「そうさ、『言葉が弱い』なんてなあ、生易しい言い方だ」と、中年の小説家は叫んだ。
 「比喩がなってない。いいか、ここをよく考えろ。比喩がなきゃ、カスだ。カス、カス、カスだ! いいか、ぢいさん!」
 「ぢいさん」という言葉は私に向って言われる。私はむっとする。
 散会する時に、次の集りが決められる。一週間後、六人が再び私の家に来る。私は次の四分の一を読む。驚いたことにこの夜、中年のその小説家は、私と乾杯し、私が嫌がるのも構わず、ブルーデルシャフト(二人で腕を組んで飲む、兄弟であることを約束する飲み方)で飲み、私を「リェオーンチイッチ」と呼び始める。(訳註 親しみの籠った、但し、ぞんざいな呼び方。)
 「言葉になっていない。しかし面白い。糞っ! めちゃめちゃに面白いぞ!」と中年男は叫んで、煮こごりを食い、ドゥセーイ(ワインの名)を飲む。
 三晩目には新しい人間が現れた。これも小説家。メフィストフェレス風の怪しい顔つき、左の目がやぶにらみで、髭を剃っていない。この男が言う。「まづい小説だ」と。しかし、最後の四分の一は聞いてみたいと言う。新しい人間は、彼の他に誰かの連合いらしい女性と、ケースにギターを入れて持って来た男を連れて来る。この晩のためにと、私の方もいろいろ仕入れておく。「汽船情報」の内気な二人の友人も、大人数に馴れて来たのか、自分達の意見を述べる。
 そのうちの一人は「十七章は少し間延びがしている」と言い、もう一人は「登場人物のヴァーセンカは、必要以上に膨らまされている」と言う。この批評は二つとも当を得ている。
 四晩目は、私の家でなく、若い小説家(例の完璧な物語を書いた男)の家で行われる。ここではもう、客は二十人余りになっている。その中で一人、おばあさんの小説家・・・非常に気持よい人だったが・・・と知合いになる。ただ、この女性には一つ欠点があった。一晩中驚きの声を上げてばかりいたのだ。その他に、衣装箱の上でぐっすり寝込んでいる掃除婦がいるのが見えた。
 小説は終る。それからが悲劇だった。聴衆は全員、私の小説は出版不可能だと言う。検閲に通らないと言うのだ。
 検閲という言葉を、私はここで初めて聞いた。私は小説を書いて、それが出版され得ない、などと考えたこともなかったのだ。
 一人の女性が立上がり、言った。(後で知ったのだが、この女性は客の誰かの妻だった。)
 「マクスードフ、この小説は出版される予定なのですか?」
 「とんでもない。」と中年の小説家が叫んだ。「とてもあり得ない! 出版など、論外だ。可能性がないよ。なあ、ぢいさん、心配は無用だ。出版は無理だからな。」
 「出版は無理だ」と、机についていた客達は一斉に言った。
 「言葉がね・・・」と、ギター弾きの兄が言い始める。が、すぐさま中年が割って入る。
 「何が言葉だ!」中年は皿の上にサラダをのせながら叫んだ。「言葉が問題なんじゃない。ぢいさんの小説は面白い。面白いがまづい。なかなかやるよ、お前は。いい観察力だ。ハラハラさせる。先が読めない。読ませるよ。しかし、中身がね!」
 「そう、中身だ!」
 「つまり中身だ」と掃除婦の睡眠を奪う大声で、中年は叫んだ。「いいか、ぢいさん。何が足りないか、分ってるか? 分ってないだろう。あ? どうだ。」
 中年は目をパチパチさせ、また飲む。それから私を抱擁し、キスし、叫ぶ。
 「お前に足りないのはな、ぢいさん、「親身になること」、これだ。お前は親身になれない男だよ。いいか、俺の言う通りなんだ。だけどな、それでも俺はお前が好きだ。うん、お前がこの場で俺を殺したって、好きだぞ! 狡い奴だ、お前は。下からこっそりほじくり出すような真似をしやがる。あ? そうだろうが。第四章にちゃーんとそれが出ている。そこで主人公がヒロインに言う台詞を見てみろ! な? な?」
 「第一にですね、あなたの、その、僕に対する言葉を・・・」と私は言いかけた。中年の馴れ馴れしさに腹が立ったのだ。
 「第一にだね、お前はキスするんだ、この俺に」と中年の小説家は怒鳴った。「ええっ? したくない? そら見ろ、お前の正体はこれで明らかだ! フン、やっぱりな。お前は一筋縄で行く男じゃないんだ!」
 「勿論一筋縄で行く男じゃありませんよ」と、二度目に連れて来られた誰かの妻が賛成する。
 「第一にですね」と、憤慨して私は言う。しかし、次の言葉を言う機会は与えられない。
 「第一にも糞もあるもんか」と中年は叫ぶ。「お前の中にはドストイェーフスキイが住んでいる! そうさ! 分ってる。お前は俺のことが気に食わない。よし、そこは許す。お前を非難するようなことは、俺はしない。それどころか、我々はお前を愛しているんだ。心から幸運を望んでいるんだ!」そして「我々」の説明に、ギタリストの弟と、もう一人、私の知らない赤ら顔の男を指さした。この赤ら顔の男は、この家に現れるや、「失敬、遅くなって。実は風呂屋に行ってたもので」と言い訳をした人物だった。
 そして中年は続ける。「だけどな、いいか。はっきり言うぞ、はっきり。当人のいる目の前で、そいつの本当のことを言ってやる人間なんだ、俺は。いいか、レオーンチイッチ、こんな小説がどうにかなると思ったら大間違いだ。どうにかなるどころか、お前、痛い目に遭うんだぞ。お陰でこっちまで・・・お前の苦しみを見て、こっちまで・・・厭な気分にさせられるんだ。分ってるな? 私はいろいろ苦労して来た。苦い目に散々遭って来た男だ。人生を知っているんだ! ほら、見てみろ」と中年は、腹立たしげに怒鳴り、身振りで辺りにいる者達全員を、自分の方に注目するようにしむけ、「さあ、こいつを見ろ。俺のことを狼のような目つきで睨んでいやがる。この俺の立派な批評に対する感謝がその目か。おい、レオーンチイッチ!」怒鳴り声が大きかったせいか、カーテンの後ろで寝ていた掃除婦が、驚いて衣装箱から立上がった。
 「いいか、覚えとけ。お前の小説の芸術的価値だがな、たいしたもんじゃない。いいか、たいしたもんじゃないんだ。覚えとけ!(ここで、ソファの方から、低い音でギターの伴奏が入った。)こんなもの書いて、お前、厄介な目に遭うんだぞ。覚えとけ!」
 「覚えとけ、覚えとけ、いいか、覚えとけ」とギタリストが気持のよいテノールで歌い始めた。
 「俺の話はこれだけだ」と、中年は叫んだ。「さあ、俺にキスをするんだ。しないと俺はすぐ立って出て行くぞ。そして金輪際お前との友達付合いは終だ。キスしないと言う事は、俺に対する侮辱だからな。」
 言いようのない腹立たしさを感じながら、私は彼にキスをした。合唱はこの間続いていて、テノールが全員の歌を導くように響いていた。
 「覚えとけ、覚えとけ、いいか覚えとけ・・・」
 猫のように私は、小脇に重い原稿を抱えて部屋を抜け出した。
 台所で掃除婦が、身を屈(かが)めてカランに口をつけて水を飲んでいる。目は真っ赤で、涙が溜(たま)っている。
 私は掃除婦が酷く気の毒になり、一ルーブリ渡そうとした。
 「何です、これは」と、掃除婦は腹立たしそうに言い、金を突っ返す。「朝の三時! 全くどういうこと、これは!」
 その時、部屋から、例の中年の声が聞えて来る。
 「どこへ行った、あいつ! 逃げたか! 捕まえるんだ! いいか、おい・・・」
 しかし、防水布張りの扉はうまく開き、私はもう外に出ている。私は後も振向かず走る。

     第 三 章
   私の自殺
 「いや、酷いもんだ」と、私は部屋に帰って独り言を言う。「とにかく酷かった。あのサラダも、あの掃除婦も、あの中年の小説家も。特にあの「覚えとけ、覚えとけ・・・」あれは一生忘れないな。」
 窓の外では秋の冷たい風が哀れな声を出していた。鉄の薄板が剥がれてガタガタ言い、ガラス窓は雨が縞模様を作って這い落ちていた。夜会の後、掃除婦とギター弾きの間に一悶着あったらしいが、あまりに不快でここに書く気がしない。何と言っても、私は校正を充分にやっていなかった。後は野となれ山となれといった調子だった。それがあの結果を生んだのだ。中年は全く正しかった。小説を読み返してみると、あの男の指摘一つ一つを、小説の一行一行が、私に怒鳴っているように感じられた。
 私は校正をやり終え、残った最後の金で、小説の断片二部の写しを作り、大手雑誌出版社の一つにそれを持って行った。二週間後に写しが送り返されて来た。原稿の隅っこに、「不適」と書かれてあった。爪切り鋏でその「不適」と書かれた部分を切取って、私はまた別の大手雑誌社に持って行った。二週間後に、先回と全く同じ「不適」という文字と共に、原稿は返送されて来た。
 この後、猫が死んだ。まづ食べるのを止め、次に、隅っこに身を潜(ひそ)め、ミャーミャー鳴いた。私は身の置き所がない気分だった。三日、これが続き、四日目に隅っこを見ると、猫は動かなくなっていた。
 管理人からスコップを借り、建物の裏の荒地(あれち)に猫を埋めた。私は全くの独りぼっちになった。しかし、心のどこかでは、有難い気持があった。私の今の状態では、動物はさぞ不幸な目に遭うことになっただろうから。
 それから秋の雨が降り始めた。再び肩が痛み、左の膝が痛み始めた。
 しかし、一番こたえたのはこの痛みではなく、小説が不出来だったことだった。もしこの小説がまづいのなら、私の人生は終ということを意味していた。
 一生「汽船情報」に勤める? 冗談じゃない!
 一晩中私は真っ暗闇の中で目を見開いて、「こいつは酷い」と繰返していた。もし誰かが私に「君、汽船情報で何をやったんだ?」と訊いたとしたら、私は正直に「何も」と答えただろう。
 ハンガーには泥だらけの靴がひっかけてあり「耳の長い人」用の、濡れた帽子が載せてある。それだけだった。(訳註 ここ不明。後でメフィストフェレスの登場があるが、その導入か?)
 「こいつは酷い」と私は繰返した。夜の静寂が私の耳を打ち、耳鳴りがした。
 不眠症は約二週間続いた。
 電車で私は、サマテーチナヤ・サドーヴァヤに行った。その辺りのアパートの一室に・・・勿論私は、その番号などここに書きはしない。厳重な秘密だ・・・職業柄、拳銃を持つことが出来るある人物がいたのだ。
 どういう関係で私がその人物と知合いになったかは、重要ではない。
 その家に入り、私はその友人がソファに横になっているのを見つけた。彼が台所へ行き、石油コンロで茶を暖めている隙に、書物机(かきものづくえ)の左の引出しを開け、そこからブラウニングを盗み取った。茶を飲み、私は家に帰った。
 夜の八時から九時頃にアパートに着いた。全てはいつも通りだった。どこからか、羊を焼く匂いがし、廊下はいつも通り暗く、ランプが薄暗く天井に光っていた。私は自分の部屋に入った。上から光があたっていたが、急に真っ暗になった。油が切れたのだ。
 「いつでもこれだ。悪い時には悪いことが続く。まあそれも当然だが」と私は苦々しく声に出した。
 私は床の隅に置いてあった石油ランプをつけた。紙切れに次のように書いた。
 「このブラウニング(登録番号は忘れた)は、私が、パルフェーン・イヴァーノヴィッチ(姓も書き、住所もきちんと書いた)から盗んできたものである。以上の事実に嘘、偽りはない」と。
 書き終って私は、石油ランプの傍に横たわった。死の恐怖が私を捉えた。死ぬのは恐ろしかった。それで私は、外の廊下の光景を思い浮べようとした。炙(あぶ)られている羊肉、ペラゲーヤ婆さん、それから中年の小説家、そして「汽船情報」の会社のこと。銃声がした後、どんな物音をたてて扉をぶっ壊し、この部屋に人が侵入して来るかを想像してニヤリとした。
 私は銃口をこめかみにあてた。覚束ない指で引金を探った。丁度この時、階下から私のよく知っている音・・・かすれたオーケストラ、それに蓄音機のテノール・・・が聞えて来た。
 「しかし神は、私に全てを返してくれるのか?」
 「おや、ファウストだ」と、私は考えた。「実にいいタイミングだな。よし、とにかくメフィストフェレスの登場まで待つとしよう。これがこの音楽を聞く最後だ。それ以上は聞かないぞ。」
 オーケストラの音は、時々聞えなくなる時があった。が、テノールは終始響き渡っていた。
 「私はこの世を呪うぞ。科学だけを私は信じるぞ!」
 「今だ。よし、今だ。」と私は思った。「だけど、何て速いんだ、この歌い方は・・・」
 テノールは気違いのような叫び声を上げ、次にオーケストラが激しい音をたてた。
 震える指が、引金に触った。その瞬間、耳をつんざく轟音が私を襲った。心臓が外に飛出したように、そして、床にある石油ランプから炎が飛上がったように感じた。私は拳銃を落した。
 その時再び轟音がした。階下からバスの重い声がした。
 「私だ!」
 私は振返り、扉の方を見た。

     第 四 章
   危ういところで・・・
 扉がノックされた。威圧的に、しつこく。私は拳銃をズボンのポケットに突っ込み、弱々しく言う。
 「どうぞ!」
 扉がパッと開く。私は恐怖で、床の上に立ち竦(すく)む。疑いもなく、そこにいたのは「彼」だった。薄暗がりの中で、背の高いその男は、威圧的な鼻と開いた眉毛、の顔を私に見せていた。影がゆらゆらと動き、私にはその男の四角い顎の下にある髭が、特別に鋭く尖っているように見えた。ベレー帽が耳まですっぽりとおろされていた。ただ、どうやら背中に羽根はなさそうだった。
 簡単に言えば、私の前にはメフィストフェレスが立っていたのだ。私はじっと目をこらし、彼が外套を着ていて、ピカピカに磨いた深いオーバーシューズをはき、小脇には書類鞄を抱えているのを見て取る。「それはそうだ」と私は考える。「二十世紀に、このモスクワに現れるなら、他の格好じゃ具合が悪いだろう。」
 「ルードリフィだ」と、バスではなく、テノールの声で重々しく彼は言う。と言っても、彼がわざわざ自己紹介をする必要はなかった。一目で私には、彼が何者か分っていた。私の部屋には今、ソ連文学界で最も著名な人物、雑誌「祖国」の編集長、イリヤー・イヴァーノヴィッチ・ルードリフィがいるのだ。
 私は床から立上がった。
 「ランプはつけないのか」とルードリフィが訊く。
 「残念ですが、つけられないのです」と私は答える。「ランプはその一個しかなく、油が切れたんです。」
 編集長に姿を変えたこの怪しい生き物は、たいして珍しくもない手品をやってのけた・・・自分の書類鞄から、すぐ懐中電灯を取出したのだ。
 「いつでもそれを持ち歩いているんですか」と私は驚いて言う。
 「いや」と厳(いか)めしくその生き物は言う。「偶然だ。たった今店で買って来たところだ。」
 部屋が明るくなり、ルードリフィが外套を脱ぐと、私は素早く机の上から、拳銃を盗んだことを白状するメモを片付けた。怪しい生き物は、その私の動きを、見て見ぬふりをする。
 我々は坐る。黙ったまま。
 「君は小説を書いたんだな?」と、暫く経ってやっと厳しい声でルードリフィは訊ねる。
 「どこで知りました?」
 「リカスパーストフからだ。」
 「しかし、あれは・・・」と私は言い始める。(リカスパーストフとは、例の中年の小説家である。)「ええ、まあ、その、私は・・・でもとにかく、まづい小説です。」
 「そう」と、この人物は言い、私を注意深く見詰める。
 よく見ると、どうやらこの人物に顎髭はなさそうだ。影の具合だったらしい。
 「見せて欲しい」と威圧的にルードリフィが言う。
 「いいえ」と私は断る。
 「見、せ、る、ん、だ」とルードリフィは、一つ一つ言葉を区切って発音する。
 「検閲でどうせ引っかかります。」
 「見せるんだ」
 「原稿は手書きです。そして筆跡は酷く乱雑で、特に「オー」は棒のように見えるだけですから・・・」
 そう言いながら、私にも訳が分らないが、私の手はいつの間にか、受けの悪かった小説の原稿の入った引出しを開けていた。
 「どんな筆跡も、印刷物と同じように読める」とルードリフィは言う。「私はプロだからな・・・」そしてノートはルードリフィの手の中にあった。
 一時間が過ぎる。私は石油コンロの傍にいて、お湯を湧かしている。ルードリフィは小説を読んでいる。私の頭にはいろんなことが浮ぶ。第一に、ルードリフィ自身のことを考える。彼は素晴しい編集者だ。もしその雑誌に載るようなことがあれば、嬉しいことだし、名誉でもある。たとえメフィストフェレスの姿で現れたとしても、とにかくルードリフィがこの部屋に来たという事実は喜ばねばならない。しかし一方、作品が彼の気に入らなかった時、これは嬉しくない・・・それに、自殺は、もうちょっとのところで最高潮に達しなかった。ということは、明日から私はまた貧乏のどん底で生活しなければならない。それに、もうさっきからルードリフィにはお茶を出すべきだった。が、パンにつけるバターさえない。盗んで来た拳銃のことも、どうすればよいか、頭がごちゃごちゃだ。
 その間ルードリフィは一頁、一頁と読み進んでおり、私は徒(いたづ)らにそれを眺めながら、小説が彼にどんな印象を与えているか知ろうとする。ルードリフィの表情はその間、全く何の変化もない。
 ルードリフィが眼鏡の曇りを拭取るため休息した時、私は以前の愚劣な質問に加え、もう一つ馬鹿な質問をする。
「それで、リカスパーストフは、この小説のことを何と言っていました?」
 「箸にも棒にもかからん、と言ったよ」と、冷たくルードリフィは答え、また小説に戻る。(「何て奴だ、リカスパーストフの野郎! 友達がいもなく、逆に・・・」)
 一時に我々はお茶にする。ここまでで、二度、ルードリフィは小説を読み終る。
 私はソファの上でそわそわし始める。
 「そうか」と、ルードリフィが言う。
 二人は黙る。
 「タルストーイを真似たな」とルードリフィが言う。
 私は怒る。
 「どのタルストーイです」と、私は訊く。「タルストーイは沢山います。有名な作家、アリェクスェーイ・カンスタンチーノヴィッチ、外国では皇帝アリェクスェーイとして知られているピョートル・アンドリェーイッチ、古銭学者のイヴァーン・イヴァーノヴィッチ、それともリェフ・ニカラーイェヴィッチ?」
 「どこで君、教育を受けたんだ。」
 ここで私の小さな秘密を読者にはあかしておかねばならない。実に私は、大学を二回、つまり二学部を卒業していて、それを誰にも言ったことがないのだ。
 「教会付属の小学校を出ています」と、私は咳をしながら言った。
 「なるほど」と、ルードリフィは言った。そしてその時、唇に微かな微笑が現れた。
 それから彼は訊いた。
 「一週間に何回髭を剃る。」
 「七回です。」
 「ちょっとぶしつけなことを訊くが」とルードリフィは続けた。「その髪の毛だが、どうやってその分け目をつけている。」
 「ブリオリンです、塗っているのは。ちょっとお訊きしますが、何故そんなことを・・・」
 「失敬」とルードリフィは答えた。「私の癖だ。失敬。」そしてつけ加えて言う。「面白い。教会付属の学校を出て、毎日髭を剃り、石油コンロの傍に横になっている。それが君か。君という人間は難しい男だ。」それから急に声の調子を変え、厳しく喋り始める。「君の小説は検閲にひっかかる。どこも印刷してはくれない。「ザリャーハ」でも「ラスヴェーチェ」でも受取らない。」
 「知っています」と私はしっかりと答える。
 「しかし私は、この小説を採用する」と、ルードリフィは厳しい声で言う。(私の心臓は止まるかと思った。)「金は払う。(ここでルードリフィは酷く少額の値段を提示する。その数字を、私は忘れた。)延払いだ。明日小説は印刷される。」
 「四百ページあるんですよ!」と私は嗄(しゃが)れた声で叫んだ。
 「章ごとに分割する」と、鉄のような声でルードリフィは言った。「事務所にある十二台の機械が稼働して、明日の夕方までには出来上がる。」
 私はそれ以上は抗(あらが)わず、ルードリフィの言葉に従うことに決めた。
 「但し、少し書き直しが必要だ」とルードリフィは続けた。私はただ、チェスの駒のように頭を下げるのみだった。「まづ、三つの言葉を削除して貰う。・・・第一頁、七十一頁、それに三百二頁にある言葉だ。」
 私はノートを見た。最初の言葉は「黙示録」、次の言葉は「大天使」、三番目は「悪魔」だった。私は素直にそれら三つを削った。私は、「こんなものを削るなんて、実に子供っぽいですね」と言おうとした。が、ルードリフィの顔を見て止めた。
 「それから」とルードリフィは続けた。「君は私と一緒に検閲官のところへ行く。ただ、君はそこで一切言葉を発しない。」
 私は不満だった。
 「もし私が一緒に行って、何か言うのなら話は別ですが・・・」と私は品位を保って呟いた。「そうでないなら、私は家にいた方が・・・」
 ルードリフィはこの憤慨には全く耳を貸さず、続けて言った。
 「いや、君は家にいることは出来ない。私と一緒に行くんだ。」
 「何をするためにですか。」
 「机についていればいい。」とルードリフィは命令した。「そして君に話しかけられた時は、慇懃な微笑をもって応(こた)える。」
 「しかし・・・」
 「喋るのは私がやる」とルードリフィは話を打切った。
 それから彼は白い紙を出すよう私に言い、そこに鉛筆で、何か法律の条項らしきものを書き、私にサインさせた。次にポケットから二枚の、手の切れるような紙幣を取り出し、私に渡し、私のノートを自分の書類鞄に入れた。次の瞬間、もう彼は部屋にいなかった。
 私は一晩中眠らなかった。部屋を歩きまわった。太陽が出て、紙幣をその光のもとに眺め、冷たい茶を飲み、夕方本屋に出かけた。本屋には沢山の人がやって来ていた。本を注文し、家に持って帰り、ランプの下でそれを読み、ある場所は声を上げて読んでいた。
 何ていうことだ! 馬鹿なことだ! 何て馬鹿なことを! しかし私は、その時まだ若かった。誰も私を笑うことは出来ない筈だ。

     第 五 章
   普通でない出来事
 盗むのは難しくない。しかし、元あった場所に戻す・・・それは大変だ。拳銃のサックにブラウニングを入れ、私は友達の家に行く。
 心臓がドキドキしている。玄関に入るとすぐ、もう彼の怒鳴り声が聞える。
 「お母さん! 他には誰が。」
 年寄りの声・・・彼の母親の・・・が、くぐもって聞えた。
 「水道修理の人・・・」
 「どうしたんだい?」と私は外套を脱ぎながら訊く。
 友達は私を見て囁く。
 「拳銃を盗まれた、今日・・・糞ッ!」
 「それは参ったな」と私は言う。
 母親は小さい部屋をあちこち駆回り、廊下の床を這い、何か籠の中を覗き込んだりしている。
 「お母さん! そんなところにある訳ないでしょう? もう床を這い回るのはやめて!」
 「今日?」と私は喜んで訊く。(彼は間違っていた。拳銃は昨日無くなったのだ。しかし、どういう訳か、彼は昨日の夜中には確かに机の中にあるのを確かめたと思っていたのだ。)
 「で、来た人間は?」
 「水道の修理人だ」と友達は叫ぶ。
 「パルフェーシャ! 修理人は部屋には入らなかったよ」と母親は遠慮がちに言う。「蛇口のところへ真直ぐ・・・」
 「お母さん! ちゃんと見てたんでしょうね?」
 「他には誰も? 昨日は?」
 「昨日は誰も来やしない! 君だけだ。他には誰も。」
 と言って、驚いたように友達は私の目をじっと見る。
 「冗談は、なしだ」と私はむっとした顔で、そして、堂々とした態度で言う。
 「インテリって奴は何て怒りっぽいんだ!」と友達は言う。「君が盗人だなんて、思ってっこないだろう?」
 友達は、修理人がどの蛇口に行ったのか、そちらの方に注意を向ける。母親は修理人の行動を説明し、果ては修理人の声色まで使う。
 「こうやって入って来て」と母親は言う。「こんちわ、って言って、帽子を帽子掛けに掛けて、それから、入って行って・・・」
 「どこに入った?」
 母親は修理人の歩き方を真似ながら、台所に入る。友達は急いで母親の後に従う。・・・その時私は一緒に行くようなふりをして、すぐさま書斎に引返し、ブラウニングを左の引出しではなく、右の引出しに入れ、すぐ台所に戻る。
 「君、どこにしまった?」と、私は書斎で友達に親切に訊く。
 友達は左の引出しを開け、そこが空っぽであることを見せる。
 「分らないな」と私は背をすくめて言う。「実際、謎のような話だよ、これは。すると、盗まれたのかな、本当に。」
 友達は意気消沈する。
 「しかし、僕が思うに、盗まれてはいない筈だよ。」と私は少し経った後で言う。「だって、誰も来なかったんだろう? じゃ、誰が盗んだっていうんだ?」
 友達はさっと立上がり、玄関にある古い外套のポケットを探る。そこにもない。
 「すると盗まれたのかな」と私は考えながら言う。「警察に届けなきゃならんか。」
 友達は何か呻き声を上げる。
 「どこか別のところに突っ込んだんじゃないのか?」
 「いつだって仕舞う所は同じだ!」と、友達は苛々と叫ぶ。そしてそれを証明するために、まづ真中の引出しを開ける。それから何かブツブツと呟き、左手の引出しを開け、手を突っ込んでもみる。次にその下の引出しを、それから、「糞ったれめが」と言いながら、右の引出しを開ける。
 「何だ? これは」と、彼は嗄れた声を出し、私を見て、「全く俺は何をやっているんだ! お母さん! お母さん! あったよ!」
 その日、彼は非常に機嫌がよく、私を食事に引き留める。
 拳銃で心に引っかかっていた問題をこうやって片づけ、私は「危険」と名づけてもよい一歩を踏み出す。即ち、「汽船情報」に勤めるのを辞めたのだ。
 私は今までとは違う世界に足を踏入れる。ルードリフィの会社に入り、作家達と会う仕事を始める。その作家達の中には、もうしっかりした名声を築いている者もいる。しかし、今思い起こしても、彼等の誰一人として覚えている者がいない。退屈さだけが残っている。唯一つだけ私は、忘れることが出来ない。それは、マカール・ルヴァーツキイ・・・ルードリフィが編集長をしている出版社の社長・・・と知合いになったことである。
 ルードリフィには何もかも揃っていた。頭もよく、ひらめきがあり、博学でもあった。唯一つないものは、金、だった。何が何でも立派な、分厚い雑誌を発行しようという熱烈な意志が、彼を動かしていたのであって、これがなければ彼は、とっくに死んでいただろうと私は思う。
 私はある時、そのルードリフィの意志の延長上にある用件で、モスクワのある並木道の、奇妙な場所に向う。ルードリフィの説明によれば、ここにルヴァーツキイの出版社があるのだ。行ってみると驚いたことに、その場所には「写真用器具販売店」という看板がかかっている。
 もっと奇妙なことに、羅紗(らしゃ)と篩(ふるい)のキレッパシが新聞紙に包まれているものを除いて、写真用器具らしきものは何一つそこにはなかった。
 その場所は人でいっぱいだった。彼らは全員、外套を着、帽子を被っていて、しきりにお互いに何か喋っている。私の耳に聞えた言葉は「遅滞」と「銀行」で、ひどく驚いている様子をしており、私のことも、ひどくびっくりしたような目つきで見ている。私はさっさと玄関に進み、「ルヴァーツキイに用がある」と言う。私はすぐさま、また非常に丁重に、ベニヤ板で仕切られた部屋へ通される。そこで私の驚きは倍加する。
 ルヴァーツキイの坐っている書物机の上には、うづ高く、イワシの箱が積上げられていたのだ。
 しかし、積上げられていたイワシの箱より、私には、ルヴァーツキイの方がもっと気に入らなかった。彼は痩せた、小さな、艶のない肌をした男で、「汽船情報」の仕事着に馴れた私の目には、実に奇妙ないでたちをしていた。上はモーニング、下は縞のズボン。カラーには糊がついていたが、ひどく汚れていた。そこに緑色のネクタイ、それに真っ赤なネクタイピンがしてある。
 私はルヴァーツキイを見て驚いたが、ルヴァーツキイも私の用件を聞き、驚いた。いや、狼狽した、と言った方が正しい。私の用件とは、彼の雑誌に私の小説を載せる契約にサインしてくれ、というものであった。ルヴァーツキイは狼狽はしたが、すぐ落着きを取戻し、私が持参した二枚の契約書を受取り、万年筆を取出し、殆ど契約書の中身を読みもせず、二枚にサインし、万年筆と共に二枚の契約書を私に戻した。私は最悪の事態に対して心の準備は出来ていた。しかし、「アストラハン産、最高のイワシ」と書いてある箱、その箱の上の腕まくりをした漁師の絵、を見ると、何故か胸が痛んだ。
 「契約書にある通り、今すぐ、今日の分は戴けるのでしょうね」と、私は訊く。
 ルヴァーツキイは顔全体を笑顔にし、慇懃なお辞儀をする。
 咳払いをし、そして言う。
 「二週間後に間違いなく。今ちょっと、滞(とどこお)っていることがありまして・・・」
 私は握っていた万年筆を机の上に置く。
 「いや、一週間後に」と、急いでルヴァーツキイは言う。「何故署名なさらないんです?」
 「遅滞があって、支払いが無理となれば、この契約のままでは駄目ということですね?」と私は言う。
 ルヴァーツキイは苦笑いをし、頭を振る。
 「私が信用出来ないということでしょうか」とルヴァーツキイは訊く。
 「いいえ、御信用申上げています。」
 「分りました。急にお金が必要なのですね? では水曜日に」とルヴァーツキイは言う。
 「残念ですが、今日でなければ。」
 「契約は大事です」とルヴァーツキイは考えながら言う。「それでは、お金は火曜日には必ず。」
 「残念ですが、それも駄目です」と私は契約書を少し横にずらし、服にボタンをかけ始める。
 「ちょっと待って下さい。せっかちな人だ、あなたは」とルヴァーツキイは叫ぶ。「だいたい作家なんていう人種は、現実をご存知ないから。」
 と言った彼の青白い顔に、困ったという表情が浮ぶ。そして心配そうにあたりを見回す。その時若い男が急ぎ足で部屋に入って来て、ルヴァーツキイに白い紙に包まれた厚紙で出来た券を渡す。「座席指定券だな。どこかへ旅行か・・・」と私は思う。
 ルヴァーツキイの頬に赤味がさし、目が輝く。私にはそれが何を意味するのか、勿論見当もつかない。
 それからは抗(あらが)わずルヴァーツキイは、契約書に書かれてある、今日の支払い分を私に払い、残りの分は、分割払いの手形を書く。私は生れて初めて、そしてこれが最後だったが、手形というものを手にした。(手形の用紙を取りに行くからと言って、彼は部屋を出たが、その間私は、箱の上に坐ってイワシの強い臭いが広がっている部屋で待っていた。(訳註 ここは原文でも括弧に入っている。原文では「長靴の臭い」となっているが、「イワシの臭い」と思う。)私は手形を受取って大変満足だった。
 その後約二箇月のことは殆ど覚えていない。ただ、私がルードリフィに腹を立てていたことだけは覚えている。何が出版屋だ。あんな、ルヴァーツキイのような男・・・濁った目をして、真っ赤なネクタイピンをした男・・・あんな奴のところへ、この私を使いに出すなんて! それからもう一つ、ルードリフィが私に「ちょっと手形を見せてくれ」と言い、それがちゃんとしたものであることを見届けて、「うん、うまく行ってるな」と言った時、私の心臓がシャックリのような妙な音を出したことを。
 約二箇月後、私が手形の第一回目の支払分を受取りに行った時のことは、はっきりと覚えている。まづ「写真用器具販売店」なる看板が消え、「医療器具取扱い」の看板に変っていた。
 私は案内を乞い、言う。
 「マカール・バリーサヴィッチ・ルヴァーツキイに会いに来たのですが。」
 その返事を聞いた時、私は自分の膝がガクガクしていたのを今でも覚えている。
 「マカール・バリーサヴィッチは外国に行きました。」
 ああ、その時の私の心臓・・・しかし、有難いことに、今回は大丈夫だった。
 ベニヤ板の仕切りの中には、ルヴァーツキイの弟がいたのだ。(読者諸氏は覚えておられるだろうか? 座席指定券を。ルヴァーツキイは、私との契約をすませて十分後には、既に外国へと出発していたのだ。)その兄とは全く違った、筋肉質の、運動選手のような身体で、どんよりとした目つきのアロイーズィー・ルヴァーツキイは、手形の支払期日通り支払ってくれた。
 その二箇月後、その手形が回って行ったある公共機関から知らせがあり、その手形の引受け拒絶を通知して来た。私は人生を呪った。(公共機関とは銀行かもしれない。とにかく格子のついた窓口のある建物である。)(訳註 この部分不明。手形の支払いは普通(資本主義社会では)手形を発行した当の相手に取立てに行くものではなく、銀行に預けておいて、時期が来た時口座に払込まれるようにしてあるもの。この話では単に、借金の返済を約束してある証書のようなものであるから、銀行が絡むこと事態、理解に苦しむが・・・)
 三回目の手形の時は、私は名案が浮び、第二ルヴァーツキイ氏のところへ、期限より二週間早く行き、「もう取立ては疲れた」と言う。
 ルヴァーツキイ氏の陰気な弟は、ここで初めて私の顔をまともに見て、ブツブツと言う。
 「分りました。期限まで待つ必要なんかないでしょう。今でも受取れますよ。」
 八百ルーブリの代りに四百ルーブリ、私は受取り、やっとほっとして、この第二ルヴァーツキイ氏に二枚の細長い紙を手渡した。
 ああ、ルードリフィ、ルードリフィ、それにマカール及びアロイーズィー・ルヴァーツキイ。有難う、有難う。だけど、もうこんなことは懲り懲りだ。二度とやりたくない。
 ところで私は、その金で外套を買うことが出来た。
 さてやっと、厳寒のある日、私が、ルヴァーツキイのいたその同じ場所に行く日がやって来た。夕方であった。百燭光の電球が目に痛かった。その電球の下、ベニヤ板の仕切りの中には、ルヴァーツキイはいなかった。(言う必要があろうか? 第二ルヴァーツキイもである。)電球の下には外套を着たルードリフィが坐っていた。彼の前にある机の上、机の下、それから床の上に、濃い灰色の、たった今印刷されたばかりの、新刊の本が積上げられていた。それを見た時のその一瞬! 今の私なら可笑しいぐらいのことだが、その時私は若かったのだ。
 ルードリフィの目も輝いていた。やはり彼は、自分の仕事が好きなのだ。本物の編集長なのだ。
 モスクワには、これからお話しする、読者諸氏もきっとどこかで会ったことがあるに違いない、若い人種がいる。連中は作家ではない。しかし、どこかの出版社で新しい号の雑誌が出ると、必ずそこにやって来ている。どんな芝居のリハーサルも見逃すことはなく、絵画彫刻の展覧会には必ず行く。但し、批評を書くのではない。オペラのプリマドンナのことも決して苗字では呼ばず、名前と父称で呼ぶ。また、個人的には面識もないが、責任ある地位についている人物も、苗字では呼ばず名前と父称で呼ぶ。バリショーイ劇場で何かの初日があると、必ず平土間の第七列か八列に潜り込み、二階正面特等席の誰かに手を振って挨拶を送る。「メトロポール」では噴水のすぐ傍のテーブルに坐り、様々な色の電球が、自分のラッパズボンを照らしている姿を、これ見よがしに客に見せる。こういう人種だ。
 その人種の一人が、ルードリフィの前に坐っていた。
 「どうだった? 今度のこの本」と、ルードリフィがその若い男に訊く。
 「イリヤー・イヴァーヌイッチ!」と、その若い男は、手に持った本を振回しながら叫ぶ。
 「実に面白い本ですよ。しかしイリヤー・イヴァーヌイッチ、こう言っては何ですが、あからさまに言わせて貰いますよ。私達・・・つまりあなたの読者・・・は、ですね、こんなマクスードフなんて屑の、どこがあなたの気に入ったのか、見当がつきませんよ。」
 「酷いことを言う奴だ!」と私は青くなった。
 しかしルードリフィは、私に黙っていろと目配せをして言った。
 「ほう、何故かね?」
 「何故って、ですね」と、若い男は叫んだ。「まづ第一に・・・ぶち明けて言いますよ、イリヤー・イヴァーヌイィッチ、いいですね?」
 「どうぞ、どうぞ」と、面白そうにルードリフィは言う。
 「第一に、初歩的な文法の誤りですよ。二十箇所。下線をひきましたがね。単純な用語の誤り。お粗末なものですよ。」
 『今すぐにでも見てみなきゃ』と、ハッとなって私は思う。
 「それにこの、文章のスタイル!」と若い男は言う。「なんていう酷いものだ! 生ぬるい、借り物の、中途半端な! それに、安っぽい哲学。上っ面を、ただ滑って行くだけの! まづいですよ、これは。実にまづい! それに、だいたい盗作です、これは!」
 「誰の?」と、ルードリフィは訊く。
 「アヴェルチェーンコですよ!」と、本を振回しながら、そして指で頁のくっついた所を引きはがしながら、若い男は言う。「アヴェルチェーンコそのまま。いいですか? ここですよ、ほら・・・エーと・・・」と、頁を捲(めく)って行く。私は鵞鳥のように、首を伸ばし、その捲られた頁毎に目を移して行く。しかし残念ながら、捜している場所を彼は発見出来ない。
 『よし、家に帰って捜してみよう』と私は思う。
 「家に帰って捜します」と、若い男は約束する。「しかしとにかく、この本は駄目です、イリヤー・イヴァーヌイィッチ。文法を知らないんじゃ、どうしようもない。誰です? 書いたのは? 学校はどこを出たんです?」
 「教会付属の小学校を出たと言ってるんだがね」と、目を光らせてルードリフィは言った。「でもまあ、本人に直接訊いたらいいでしょう。これがマクスードフだ。」
 緑色の腐ったようなシミが、若い男の頬に現れた。そして、目が、言うに言われぬ恐れの表情を現した。
 私はその若い男に、何度もお辞儀をした。若い男は歯を出して笑ったが、苦痛が顔に現れ、陽気さを出そうとしても無駄だった。彼は溜息をつき、ポケットからハンカチを出した。見ると、彼の頬から血が流れている。私はびっくりする。
 「君、どうしたんですか」と、ルードリフィが叫ぶ。
 「釘で・・・」と若い男は答える。
 「さて、私は行きます」と私は、若い男の方を見ぬようにしながら、唐突に言う。
 「ああ、本を持って行って。」
 私は著者用増刷りの包みを取り、ルードリフィと握手し、若い男に頭を下げる。その若い男は、頬にハンカチをあてたまま、床にステッキと本を落し、後ずさりしながら出口に進み、肘を机にぶっつけて、そして出て行く。
 雪が盛んに降っていた。クリスマスの雪だった。
 その夜、一晩中、いかに私が、自分の書いた小説のあちらこちらをひっくり返し、読み直したかは、ここで改めて書く必要はないだろう。しかし、これだけは書いておく。最初のうち、自分の小説は、所々は気に入った。しかしそのうち、だんだんと嫌気がさしてきて、朝方になると見るのも嫌になった。
 次の日の出来事は覚えている。朝、私は拳銃を盗んだ友達の家へ行き、彼に一冊、私の小説を贈った。そして夕方は、私は作家達の主催する夜会に出席することになっていた。この夜会は、著名な作家、イズマーイル・アリェクサーンドゥロヴィッチ・ヴァンダリェーフスキイの帰国を祝うため、そしてもう一人、イェゴール・アガピョーノフの中国からの帰国を祝うための会だった。
 私は正装し、胸をときめかせて家を出る。何と言っても、私には全く新しい世界で、思わず足は速くなる。その新しい世界が私の目の前に展開するのだ。それも一番良い側面・・・文学の世界の、最上級の見本、その最も華やかな側面・・・が展開するのだ。
 そして確かに、部屋に入った瞬間、私は上気し、喜びに溢れている。
 最初に私を見た人物は、昨日の、耳を釘でひっかけた若い男だった。真新しい包帯で顔をぐるぐる巻きにしていたが、彼だと私にはすぐ分る。
 彼は私を見て、親戚のように喜び、長い握手をする。そして「一晩中あなたの小説を読みましたよ。だんだん面白さが分ってきました」と言う。
 「私も一晩中です」と私は言う。「ただ私の場合、だんだん嫌になってきました。」
 我々は熱っぽく話をする。その後彼は、「チョウザメの煮こごりが出ますよ」と言う。とにかく全般に、彼との話は明るく楽しいものだった。
 私は辺りを見回す。新しい世界は私に、刺すような強い印象を与えた。私は気に入る。部屋は非常に大きく、テーブルはおよそ二十五人分の食器が並べられ、クリスタル・ガラスに光があたりキラキラ輝いている。黒いキャビアも火の粉のように光り、緑色の新鮮なキウリがのんきで陽気なピクニックを思い出させ、また同時に、何かこの会を引き立たせているようにも見える。この時誰かが私に、有名な作家、リェサセコーフとトゥーンスクを紹介してくれる。女性は少なかったが、いるにはいた。
 リカスパーストフは全く静かで、おとなしくしている。どうやら小説家としての地位が、他の者達よりずっと低いらしい。亜麻色の巻毛をしたリェサセコーフでさえ彼よりずっと高いところにいたし、ましてや(今日の主賓の)アガピョーノフやイズマーイル・アレクサーンドゥロヴィッチなどは、遥か彼方、遠い存在だ。
 リカスパーストフは客達をすり抜けて私の方にやって来、私達に挨拶をする。
 「いや、おめでとう」と、何故か溜息をついてから、リカスパーストフは言う。「心からお祝いを言うよ。それに、正直言って、あんたは腕がいい。この片腕が切り落されたって、あの作品は出版されない、賭けたっていい、と思っていたよ。どうやってルードリフィにかけあったのか、想像もつかないね。しかし、今となっては、これだけは言える。あんたはやるな、これから。相当やる。俺は見てるぞ、あんたを。静かにな。うん、シーズカにな。」
 ここでリカスパーストフは、何か祝いの言葉を言いかけたが、その声は、玄関の大きなベルの音と、批評家コーンキンの連合いの「彼よ!」という大きな声で中断される。(この会は、コーンキンのアパートで行われたのだ。)
 そして確かにそれは、イズマーイル・アリェクサーンドロヴィッチの到着だった。玄関から、歓迎とそれに対応する客の声、接吻の音、が聞えてくる。そして居間に、セルロイドのカラーにジャンパー姿の小柄な男が入って来る。歓迎にまごついたのか、黙って、しきりにペコペコしている。何故か帽子を玄関ホールに置かず、手に持っていたが、それは丸帽で、ビロードで出来た縁に、以前記章がつけてあった跡が、埃(ほこり)で丸い形になっている。
 「あっ、これは何かの間違いだな」と、私は思う。それほど、入って来た人物と歓迎の笑い声とは不釣り合いだった。それに「ピロシキ!」という玄関からの声も。
 やはり間違いだった。丸帽を持った男の後ろから、コーンキンが、その腰を抱くようにして部屋に導いてきた背の高い、ちょっと太り気味の好男子が、イズマーイル・アリェクサーンドゥロヴィッチだったのだ。よく手入れされた縮れた顎髭、それに、よく櫛(くし)の通った縮れた髪の毛だった。
 同様にここに出席している小説家、フィアールコフのことを、「彼はよく山に行く男だ。なかなかよい物を着ている」と、ルードリフィは私に囁き声で説明してくれていた。(一般に、ここに出席している者達は、みんな服装がよかった。)が、そのフィアールコフも、イズマーイルに比べると、ものの数ではなかった。品質のよい生地(きじ)、パリの一流の仕立屋で縫った茶褐色の背広が、すらりとした、しかしちょっと太り気味のイズマーイル・アリェクサーンドゥロヴィッチの身体を覆っていた。糊のきいたワイシャツ、よく磨いた靴、アメシストのカフスボタン、清潔で白くて爽やかで、陽気で、単刀直入・・・それが彼だった。イズマーイルは、テーブルの方をじろりと見て、歯をぐっと剥き出して、大声で言う。
 「おい! やってるか!」
 どっと笑い声。そして拍手が沸(わ)き上がる。次にキスの音。イズマーイルは、誰かれとなく握手をし、誰かれとなく十文字にキスを交わし、誰かれとなく、その前で、眩(まぶ)しくてまともに顔が見られないというように、白い掌(てのひら)で自分の顔を隠したり、顔をそむけたり、またその時、荒い鼻息をたてたりした。
 私にも・・・きっと誰か別の人間と取り違えたのあろうが・・・三度キスをした。その時彼から、コニャックとオーデコロンと葉巻の匂いがする。
 「ああ、バクラジャーノフじゃないか!」とイズマーイル・アリェクサーンドロヴィッチは、最初にこの部屋に入って来た人物を指差して、叫んだ。
 「諸君、紹介する。僕の友人のバクラジャーノフだ。」
 バクラジャーノフはひどく恥づかしそうに微笑んだ。そして、居合わせた他の人々に対する照隠しに、チョコレート色をした、両手でランプを持っている少女像に、自分の丸帽を被せた。
 「彼を私は、無理矢理引っ張り出して来たんだ」と、イズマーイル・アリェクサーンドロヴィッチは続けて言った。「家に引込んでるなんて怪しからんよ。大変な博学者なんだ、彼は。若いけどな。私の言葉を覚えていてくれたまえよ、みんな。この男は、一年も経たないうちに、我々全員を凌駕してしまうぞ! おい、バグラジャーノフ、お前、どうして帽子をこれに被せたんだ?」
 バグラジャーノフは当惑して、顔が真っ赤になった。そしてみんなに、立上がって挨拶しようとしたが、それは無理だった。何故なら、「ピロシキが来るぞ」という声が上がり、皆一斉に立上がり、大移動を行ったからだ。みんなが席につくと、ふっくらしたピロシキが運ばれる。
 宴会は急に陽気に、友達同士という雰囲気になる。
 「ピロシキなんか、持って行っちまえ!」というイズマーイル・アリェクサーンドロヴィッチの声が聞えた。「ああ、バグラジャーノフ、何故私はピロシキなんか、お前と一緒に食べなきゃならないんだ?」
 クリスタルガラスのグラスが合わされる度に、よい音がする。また、その輝きが、シャンデリアの光を増している。三杯目のグラスが空けられた時、参会者全ての目はイズマーイル・アリェクサーンドロヴィッチの方を向く。「パリの話、パリの話!」という要請の声が聞える。
 「そう、私はモーターショーに行きました」と、イズマーイル・アリェクサーンドゥロヴィッチは話し始める。「開会式。いや、立派なもんです。大臣、ジャーナリストの演説・・・そうそう、ジャーナリストの中に、あのペテン師、カンジューコフ・サーシカの奴がいましたよ。そう、フランスの連中の演説・・・うまいもんです。さっと切り上げて・・・それから勿論、シャンパン。乾杯。しかしまあ、どうしたことか、カンジューコフが急にぶつくさ言い始めた。私達はね、奴に、まづいから止めさせようと、しきりに目配せした。しかし大臣がいて・・・あの糞野郎!・・・だけど、カンジューコフの奴、何故選りに選ってあんな時にあんな真似を。今でも分らんな。全くのスキャンダルだ。大臣は勿論、何も気づかないふりをしている。気がつかないわけがない・・・そのカンジューコフの出立ち・・・シルクハットに燕尾服。スボンは千フランはしたろうな。それが滅茶滅茶・・・つまり勿論、取り押さえられて、水を飲まされて、(引っ張られて行った・・・)
 「もっと! もっと!」と話を聞きたがって、皆は叫んだ。
 この頃には、白いエプロンをした小間使がチョウザメを運んで来ていた。だんだんと食事のカチャカチャという音がして、あちこちから話し声が聞えてくる。しかし私はひどくパリの話が聞きたかった。それで、カタカタと鳴る食器の音、それに怒鳴り声の隙間を縫って私は、イズマーイル・アリェクサーンドロヴィッチの話を耳で捕えた。
 「バグラジャーノフ、お前、どうして食べないんだ?」
 「続きを。お願いですよ」とバグラジャーノフは拍手しながら叫ぶ。
 「それからこの二人が・・・つまりカンジューコフと大臣カーチキンが、シャンゼリゼでばったり出逢う。実にいい図だ! その出逢いの瞬間、カーチキンの奴、カンジューコフの顔面に唾を吐きかけた!
 「あらあらあら!」
 「そうなんだ、バグラジャーノフ。おいおい、お前、眠っちゃ駄目じゃないか! ところが憤慨が酷かったのか、唾は相手にあたらなかった。えらいことに、隣にいた婦人に・・・全く知らない婦人にだぞ・・・その帽子にまともにあたったんだ。
 「シャンゼリゼのど真ん中で?」
 「そう。花の都の、それもシャンゼリゼでだ。その帽子がまた、三千フランもしようという代物だった。傍にいた誰かが、カーチキンの頭をステッキでぶん殴ろうと・・・全く酷い大スキャンダルだ!」
 ここでシャンペンを空けるポンという音がして、黄色いアブラウが私の前にある細長いグラスに注がれた。ここでイズマーイル・アリェクサーンドロヴィッチの健康を祝して乾杯が行われた。
 そして私は、再びパリについての話を聞いた。
 「カーチキンは急がず騒がず、その女についていた男に訊いたね。『いくらだ?』。こっちもサバをよんだ。(ここでイズマーイル・アリェクサーンドロヴィッチは目を細めて言った。)『八千フランだ』。カーチキンもさる者だ。『こいつでも食らえ』と、シーシ(訳註 げんこつの人差指と中指の間に親指を出す握り方)を見せたね!」
 「グランドペラで?」
 「そう。やるもんさ。グランドペラで唾を吐くような真似を! それがこっちでは今をときめく大臣二人だ。呆れるね。」
 「まさかあの二人が、そんな!」と笑いながら誰かが言った。
 「いや、本当の話だ、これは!」
 「やれやれ!」
 「二人とも更迭だな。それが一番簡単だ・・・」
 宴会は酣(たけなわ)になった。テーブルの上には煙草の煙が上り、それが何層にも重なって見える。私の足の上に何か柔らかいツルツルするものを感じ、身を屈めて見てみると、それは鮭の切身だった。どうして私の足にこんなものが落ちてきたのか見当もつかない。辺りの笑い声が大きくなって、イズマーイル・アリェクサーンドロヴィッチの言葉は聞き取れなくなった。お陰で、パリでの毒のある話はそれからどうなったかは私には不明だ。
 外国でのこういう奇妙な話をどう考えたらいいか、結論が出ないうちに、イェゴール・アガピョーノフの到着のベルが鳴る。これによりまた混乱が起ったが、その時隣の部屋からピアノが、小さい音で、フォックストロットを弾き始める。見ると、私の、例の若い男が女性の腰をとって、自分の身体にひきつけ、踊り始める。
 イェゴール・アガピョーノフは元気よく闊達に入って来る。そしてその後に、小柄な、肌に艶のない、黄色の顔の、黒い縁の眼鏡をかけた、中国人が入って来る。その中国人の後ろには、黄色いドレスの中国人の女性と、濃い頬髭の男(この男の名前は、私は知っていた。ヴァスィーリイ・ピェトローヴィッチだったが、)が入って来る。
 「イズマーシ(訳註 イズマーイル・アリェクサーンドロヴィッチのこと。)は、いるか?」とイェゴールは叫び、イズマーイル・アリェクサーンドロヴィッチの方に突進する。
 イズマーイル・アリェクサーンドロヴィッチは喜びの笑い声を上げ、叫ぶ。
 「ああ、イェゴール!」そして自分の顎髭をアガピョーノフの肩にのせる。中国人の男は、誰に対しても愛想よく微笑む。しかし、その口からはひと言も言葉は発せられない。それ以降も発せられそうな気配はない。
 「僕の友人の中国人ですよ、これが。仲良くしてやって下さい」とイズマーイル・アリェクサーンドロヴィッチにキスをしながら、イェゴールは叫ぶ。
 しかしそれからは、ただの騒音、支離滅裂、になる。部屋の中で、おまけに絨毯の上で、ダンスをするので、これも面倒だった。書物机の上にコーヒー茶碗が置かれ、ヴァスィーリイ・ピェトローヴィッチはコニャックを飲んでいる。バグラジャーノフがソファで寝ているのが見える。辺り一面、煙草の煙が充満している。私はもう家に帰った方がいい時だと感じる。
 ところが、全く思いがけなく、私はアガピョーノフと会話をすることになるのだ。時間が二時過ぎになると、アガピョーノフは何か心配事が出てきたらしい様子だった。私にはそれが見てとれた。そしてアガピョーノフは、誰かれとなく話しかけては、煙の中なのではっきりとは分らないが、何かすげなく断られているらしいことが分った。私は書物机の傍のソファに坐り、憂鬱な気持でコーヒーを飲み、何故か胸が重苦しい。そして理由ははっきりしないが、パリという都市がつまらなく思え、そこに行きたいという気持がなくなっているのを急に感じる。
 その時、私の目の前に、まん丸い眼鏡をかけた、大きな顔が現れる。それがアガピョーノフだった。
 「マクスードフ?」と、彼は訊く。
 「ええ。」
 「ああ、聞いてる、聞いてる。」と、アガピョーノフは言う。「ルードリフィが話してくれたよ。君、小説を出したんだってね。」
 「ええ。」
 「いい小説なんだそうだね、マクスードフ」と、目配せしながら突然アガピョーノフは言う。「あそこにいるあの男・・・見える?」
 「エート・・・顎髭のある?」
 「そうそう。あいつはね、僕の義理の弟なんだ。」
 「作家なんですか?」と私はその顎髭男・・・即ちヴァスィーリイ・ピェトローヴィッチ・・・が、心配そうな、人の良さそうな、微笑みを浮べてコニャックを飲んでいるのを見ながら訊く。
 「違う。チェチューシの協同組合の職員をやっている。なあ、マクスードフ、ぼやぼやしている時じゃない」と、アガピョーノフは囁いた。「後で後悔することになるぞ。とんでもない逸材なんだ、彼は。君が仕事をする上で、なくてはならない人物だぞ。彼から聞く話で、一晩で悠(ゆう)に十個、物語が作れる。それも、飛切りいいやつをね。正にジュラ紀の魚龍だよ、彼は! 驚くべき話の倉庫だ。チェチューシの職場で、いやという程いろんなことを見てきているんだからな。分るだろう? 彼に話をつけるんだ。ぐづぐづしていると、他の連中にかっさらわれてしまうぞ。」
 ヴァスィーリイ・ピェトローヴィッチは、自分の話をされているのを感じて、ますます心配そうな微笑を浮べ、チビリチビリ飲んでいる。
 「そうだ、いいことがある。名案だ」とアガピョーノフは嗄れた声を出す。
 「僕が今紹介してやる。君、独身だね?」心配そうにアガピョーノフは訊く。
 「独身ですが・・・」私は目を膨らませてアガピョーノフを見て言う。
 「それはいい! 君、自己紹介して、そして彼を一晩泊めるんだ。いい考えだ、これは! 家にはソファはあるんだろう? あいつはソファに寝る。何の手もかかる奴じゃない。二日すれば出て行く。」
 一瞬唖然として、私はどう答えたらいいか分らない。が、ただ、
 「一つソファがあるにはありますが・・・」
 「大きいのが?」と、心配そうにアガピョーノフが訊く。
 ここで私はハッと我に返る。我に返るのが間に合う。丁度ヴァスィーリイ・ピェトローヴィッチが、自己紹介の時らしいと、もじもじし始め、アガピョーノフが私の手を掴んだ時だったのだ。
 「ちょっと失礼」と、私は言う。「残念ながら、あの人を連れて行くのは、とても無理です。私が住んでいるのは、他人のアパートで、そこを又借りしている部屋なんです。衝立(ついたて)の後ろには私が借りているその家の家主の子供が寝ていますし、(ついでに「その子供は今、猩紅熱(しょうこうねつ)で」とつけ加えようとするが、よけいな嘘だと、言うのを止め・・・結局、つけ加えて言う)その子は猩紅熱で。」
 「ヴァスィーリイ!」とアガピョーノフは叫ぶ。「お前、もう猩紅熱にはかかってるな?」
 生涯で私は何度、自分が「インテリ」と呼ばれるはめになったことだろう。そう呼ばれて抗(あらが)う気持は多分私にはない。これまでにもこの悲しい呼び名に、何度も仕えて来た身だ。(訳註 革命後のソ連で、「インテリ」と呼ばれることは反政府と呼ばれるに等しかったと思われる。)しかしこの時は、私は勇気を振り絞った。ヴァスィーリイ・ピェトローヴィッチが困ったような微笑を浮べ、「それはその・・・」と言いかけても、最後まで言わせい。私はしっかりとアガピョーノフに言う。
 「どんなことがあっても、あの人を連れてゆくわけには行きません。無理です。」
 アガピョーノフは顎を引き、唇を噛む。
 「それで、失礼ですが、この人、あなたのところに来たんでしょう? 今はどこに泊っているんです。」
 「家(うち)ですよ、勿論。糞ったれめが!」と、いやいや、アガピョーノフは言う。
 「それなら・・・」
 「今日は叔母と妹がやって来てね。ねえ君・・・それに、あの中国人だ・・・」と言って、それから突然アガピョーノフはつけ加えた。「糞っ! あの義理の弟め、チェチューシに引込んでいりゃよかったんだ!」
 こう言ってアガピョーノフは私から去って行く。以後私は一度も彼に会ったことはない。
 漠然とした不安が、何故か私を包んだ。しかし、主(あるじ)のコーンキン以外には誰にも暇(いとま)を告げず、私はアパートを出る。

     第 六 章
     破局
 そう、この章は多分、一番短いものになりそうだ。夜が明けた時、私は背中に寒けを感じた。それから暫くして、再び悪寒がした。私は頭から毛布を被って、背中を丸めた。すると楽になった。しかし、一分しかもたなかった。それから身体中が熱くなり、次に再び寒くなる。そして歯がガタガタ鳴った。家には体温計があった。測ってみると三十八度八分だ。どうやら風邪をひいたらしかった。
 朝まだ早い時、私は眠ろうとしていた。(今でもそれが、確か、早朝だったと覚えている。)目をつぶるとすぐ、眼鏡をかけた男の顔が私の方にかがみ込んできて、「連れて行ってくれ」と呟く。私はただ、「いや、駄目だ。連れて行かない」と同じ言葉を何度も繰返す。ヴァスィーリイ・ピェトローヴィッチは夢でも現実でも、私の部屋には泊らなかった。あまりの強迫観念のせいか、彼が自分のために注いだコニャックを、私が飲む、という場面まで出て来た。パリは全く我慢のならない都市になり、グランドペラでは、誰かがシーシ握りをやって見せている。握って、見せて、引っ込める。また握って、見せて・・・
 「私は真実を喋りたい」と、私は独り言を言っていた。太陽が、破れた穴の開いた、洗濯していないカーテンの隙間から、覗いていた。「ありのまま、そのままの真実を喋りたい。私は昨日、新しい世界を見た。その世界は私にとって厭らしいものだった。あんなところへ行くものか。あれは違う世界だ。汚らしい世界だ! これはしかし、しっかりと秘密にしておかなければ・・・シーッ!」
 唇が異常に乾く。どういう訳か・・・多分読もうと思ってだろう・・・枕元に自分の小説を置く。しかし何も読まない。もう一度体温計を入れなければ。しかしどうしても入れられない。体温計はすぐ隣の机の上にある。しかし、それを取ろうとする度に、何がどうなるのか、手が別のところへ行ってしまう。「汽船情報」の同僚の一人の顔は思い出すが、医者の顔ははっきりしない。それからやっと、体温が下り始める。シャンゼリゼをだんだん見なくなり、帽子に唾を吐くことを止め、パリが伸び放題に伸びて行くのが止む。
 少し食欲が出て来る。親切な隣の住人・・・その住人の連合い・・・が、薄いスープを作ってくれる。茶碗に入ったそのスープを、欠けたスプーンで啜(すす)る。私は、自分の作品を読もうとする。が、ほぼ十行ほど読んだところでこの作業は中止する。
 約十二日経ち、やっと私は健康になる。ルードリフィが来なかったことは、私には驚きだった。「来て欲しい」と病床で私は彼に、手紙を書いていたのだ。
 十二日目に、私は家を出て、「医療器具取扱い」へ行った。そこには大きな鍵がしてあった。そこで私は電車に乗った。電車は長かった。弱った身体を支えるために、窓枠につかまり、凍りついた窓ガラスに寄りかかり、ハアハアと息をする。ルードリフィの住んでいる場所にたどり着く。玄関のベルを鳴らす。誰も出て来ない。また鳴らす。見たことがない老人が扉を開け、私を胡散(うさん)臭そうに見る。
 「ルードリフィさんは在宅ですか?」
 私の質問、「どこへ行ったんです。いつ帰って来るんです」それに、「『医療器具取扱い』には何故鍵がかかっているんです」という馬鹿な質問もしたのだが、それに対して老人は、何となくもじもじした後、「あなたは誰なんです?」と訊く。私は説明し、小説のことまで話す。すると老人は答える。
 「一週間前、アメリカに発ったんです。」
 ルードリフィが何のためにアメリカに出かけたのか、私には勿論、皆目(かいもく)分からなかった。
 雑誌はどうなったのか、「医療器具取扱い」はどうなったのか、アメリカが何なのか、私には分らない。これから先も分ることはないだろう。そしてこの老人が何者か・・・エーイ、どうともなれ!
 風邪による衰弱の影響で、私の脳がどうかしたのか、私は夢を見ているのではないかという考えがちらついた。このルードリフィという人物そのものも、印刷された私の小説も、シャンゼリゼも、ヴァスィーリイ・ピェトローヴィッチも、釘で怪我をしたあの男も・・・しかし、家に帰ってみると、九冊の灰色の本は確かに家にあった。小説は印刷されたのだ。ここにあるのだから。
 小説を本にしてくれた人間を、私はルードリフィ以外には誰も知らない。そのルードリフィに問い質(ただ)すことが出来ない今、私には手の施(ほどこ)しようがなかった。
 もう一度「医療器具取扱い」に行ってみると、そこにはもう事務所はなく、カフェになっている。防水布をかけた小さなテーブルがそこここに置いてある。
 何百冊とあったあの本はどうなったのか。誰か私に説明してくれる者はいないのか。一体どこへ行ったのだ、あの本は。
 ルードリフィとあの本、これほど奇妙な話は私の人生で初めてだ。

     第 七 章
 このような奇妙な事態が起きた時、最も賢明な処置は、あっさりと全部忘れてしまうことだ。私はルードリフィのことも、彼と一緒に紛失した私の小説のことも、全部忘れることに決め、それを実行した。
 とは言え、だからと言って、これから先の人生を生き抜くという厳しい事態を、それで逃れることは出来なかった。私は自分の経歴を振り返ってみることにした。
 「私の生きた過去の世界は」と、私は、ある三月の吹雪の日、石油コンロの傍に坐って独り言を言った。「次のようなものだ。」
 「第一の世界、それは、大学の研究室だった。いろんな物質から抽出したエキスを入れた小瓶の並んだ棚、そして、スタンドの上のフラスコをよく覚えている。この世界を私は内戦の時に捨てた。私がそれを軽い気持で捨てたのかどうかは、ここでは問わないことにしよう。とても信じられない様々な出来事の後(「とても信じられない」・・・何て言葉だ。内戦のあの最中(さなか)、「とても信じられない」出来事を経験しなかった人間がどこにいよう。)とにかくそういう出来事の後、私は「汽船情報」に入った。どういう理由で? 秘密にするのは止めよう。内心、小説家になりたかったのだ。それでどうなった。私は「汽船情報」の世界を捨てた。あからさまにその間の事情を言えば、あちらから新しい世界が開け、私はそれに突進した。ただそれが、すぐさま私にはとても堪え難い世界だと分ったのだ。パリという名前を思い出すと、たちまち私に痙攣に似た何かが、身体を硬直させ、その新しい世界へと進む第一歩を踏み出すことが不可能になる。それに例のヤドカリのヴァスィーリイ・ピェトローヴィッチが思い出されて来る。ああ、あいつめ、チェチューシにじっとしていればいいものを! それに、あの有能なイズマーイル・アリェクサーンドロヴィッチでさえ、パリはどうやら厭なところだったらしい。するとこの第三の世界も、私には空白に等しい。これが結論だ。
 それならそれでいいではないか。腰を落ち着けて、第二の小説を書けばいいことだ。第三の世界も空白だと決めたのなら、ただ夜会に行かなければそれですむことだ。しかし、夜会などが問題なのではない。第二の小説を書いたところで、その小説の運命はどうなるか。それが私にはさっぱり分らない。どうやって人に知って貰うか、これが悲しいところだ。
 それに、最初の小説はどうだ。正直なところを言えば、誰もあれを読んだ者はいない。読むことが出来ないのだ。本を広告する暇もなくルードリフィが消えてしまったのだ。ただ一冊、私は友人に寄贈した。しかしその友人・・・彼はあれを読む訳がない。それは保証出来る。
 もう一つはっきりさせておかなければならないことがある。こういう私の文章を読んで、相当多数の人間が、私のことをインテリと呼ぶだろう。そしてまた、ノイローゼだと。「インテリ」と呼ばれれば、私は反論することは出来ない。しかし「ノイローゼ」に関しては、本気になってそれは間違っていると主張する。私にはノイローゼの気(け)は全くない。そもそもノイローゼとは何か。その言葉の意味をはっきりさせてから、相手にこの言葉を使うべきだ。そのためにはまづ、イズマーイル・アリェクサーンドロヴィッチの話を聞かねばなるまい。しかしこれは、話が横道にそれる。今はとにかく、私は生きて行かなければ。そのためには金を稼がねばならない。
 そこで私は、三月の天気にブツブツと窓越しに不平を言うのは止め、金稼ぎに外へ出た。と言っても、他にあてがある訳ではない。頼るのは「汽船情報」のみだ。私は放蕩息子の帰還のように、そこに向う。私は秘書に、小説は書いた、と言った。これは彼にとっては関係のない話だった。しかし、とにかく話はついて、一箇月に四つ、雑誌のための記事を書くことを約束し、契約書にサインし、ひと月分の報酬を貰う。かくして、食べて行くだけの財政的裏づけは出来る。勿論こちらの計画は、出来るだけこの四つの記事を早く仕上げ、肩の荷を下ろし、残った夜の時間を再び小説に注(そそ)ぐことだ。
 会社の仕事はさっさとすませる。しかし、自分の仕事の方は全く駄目だった。仕方がないので、私はまづ本屋へ行き、最近の作品を買う。彼等が何を、どのように書いているか、そして、彼等の職業上の秘密がどこに存するか、知りたかった。
 本を買うにあたって、私は金を惜しまなかった。本屋で一番よいと言われているものは全部買った。真っ先にイズマーイル・アリェクサーンドロヴィッチ、次にアガピョーノフのものを一冊、リェサセコーフのものを二冊、フラヴィアーン・フィアールコフの選集、その他いろいろである。最初の義務として勿論私は、イズマーイル・アリェクサーンドロヴィッチに手をつけた。しかし、表紙を見ただけで、もう厭な予感がした。題名は「パリ断章」だった。最初の話から最後の話まで、私にはもうとうに知っている事のように思えた。勿論、大臣カンジューコフのモーターショーでのスキャンダルはあったし、シャンゼリゼでの喧嘩(一人はパマディーン、もう一人はシェルスチャーニコフだと、本を読んで分ったが)、それと、グランドペラでのシーシ握りの話も、勿論あった。話自体はつまらなかったが、イズマーイル・アリェクサーンドロヴィッチの書き方は堂に入っていた。これだけは認めねば。そして私に、パリへの嫌悪感を植え込んだ。
 アガピョーノフはどうやら、あの夜会の後、原稿を書き、それが今回の出版に間に合ったらしい。「チェチューシのゴーモザ」という題だった。ヴァスィーリイ・ピェトローヴィッチは、私以外のどこでも宿泊を断られて、アガピョーノフの家に泊ったらしい。そしてアガピョーノフは、この義理の弟の話を、自分で利用せざるを得なかったようだ。分り易い話で、唯一つ不明なのは、題名にある「ゴーモザ」という言葉だけだった。
 リェサセコーフの「白鳥」を、私は二度、途中まで読んだ。一0五頁まで読んだ時、はて、最初何が書いてあったのか、と、最初から読み直さなければならなかったのだ。これを二度やった。私は驚いた。頭がどうかなったのではないか、私はもう終なのか、もう真面目なものは理解できなくなったのか・・・そこで私はリェサセコーフは中断し、フラビアーン、そして リカスパーストフを手にした。リカスパーストフには驚いた。「間借人(まがりにん)」という題だったが、某ジャーナリストの話で、その男の部屋にはスプリングが破れ目から飛出しているソファがあり、机の上に吸取紙・・・書かれているのは、この私だ。
 ズボンは同じ、肩にめりこんでいる首、狼のような目・・・私、私、私だ! しかし、私が人生で大切に思っているどんな物に誓ってもいい、私はここに書かれているような人物ではないぞ! こんな卑怯な奴じゃない。欲張りでも、嘘つきでも、狡猾でもない。出世主義でもなく、ここに書かれているような馬鹿なことは何一つ喋ったことはないぞ! 言うに言われぬ悲しみが、読み終った後、私を襲った。これからは自分の言動をあらゆる角度から、厳格に眺めねばならないと心に誓ったが、この決心に関しては、リカスパーストフに礼を言わねばなるまい。
 しかし、私自身のいたらなさを知らされたための悲しみや辛さは、この國の最高の作家のものを読んでもそこから何も得るところがないという認識、に比べれば、たいした悲しみでもなかった。私にはどこにも道は見つからず、先を照らす光も見えず、全ての作品が、私にとってうんざりなだけだったのだ。そして、ジリジリ、ジリジリ、青虫がキャベツを食って行くように、厭な考えが私の心を蝕(むしば)み始めた。「お前は小説家にはなれないぞ。小説家の端くれにも、欠片(かけら)にも」という考えが。いや、もっと酷い考えが私の心に浮んだ。こんなことを言えば、リカスパーストフの二の舞になるぞ・・・エーイ、しかし言っちまえ! ひょっとして、あの馬鹿のアガピョーノフの水準にも達しないのではないか。何だ、あの「ゴーモザ」。何が「ゴーモザ」だ! それに「カーフルィ」! 馬鹿なことだ、全く!
 私はいろんなものを読んだ。報道以外に、ありとあらゆる本を。それらは買って来た時のはずみで、いろんなところに置いてあった。棚の上、机の上、或は無造作に、床の隅に。ただ、自分の作品に対しては、次のような態度を取った。残った九冊、それから原稿、を、机の引出しに入れ、鍵をかけ、そして生涯、決してこの作品には戻るまいと決心した。
 ある時、吹雪で私は目を覚した。吹雪は三月になっても荒れ狂っていた。もう三月も終だというのに。そして、目を覚すと、また涙が出ていた。何という弱さ! ああ、何という弱さだ! そして再び、あの同じ人物達、あの同じ遠い町、ピアノの側面、撃ち合いの音、そして雪に閉込められるあの光景・・・が、私の目の前に現れた。
 これらの人物は、私の夢の中に現れたのか? 夢の中から堅牢(けんろう)な形をとって、私のこの部屋の中にまで出て来たのか? どうもすぐには消えそうになかった。この人物達を私はどうしたらいいのだ。
 最初私はただ、連中と話をするだけにした。しかし暫くすると、どうしても、引出しから私の小説を取出さずにはいられなくなる。(連中に小説を読んでやるのだ。)一晩一晩と読んでやっているうちに、白い頁に何か色のついたものが現れ始めた。目を細めてじっとそれを見詰めていると、どうやらそれは絵らしい・・・それだけではなく、よく見るとその絵は平板なものではなく、奥行きがあるものらしかった。四角い頁の中は箱のようになっていて、行の間から光がさし、小説に書かれているその同じ登場人物が、その箱の中で動いている。ああ、それは面白い芝居だった。とんでもなく面白い! 私は何度となく、猫が死んでしまったことを残念に思った。頁の中の小さな部屋で人々が蠢(うごめ)いているのを、あの猫がいたら見せてやれるのに。猫はきっと、前脚を持ち上げて、頁を引っ掻いたことだろう。どんな風に目を光らせたろうか。頁の上の文字が、どんな引っ掻き傷をつけられたろうか、私は知りたかった。
 一晩一晩と過ぎて行くうちに、頁の中の部屋は、音をたてるようになる。私ははっきりとピアノの音を聞く。こんなことを誰かにもし話したとすれば、きっと医者に行けと言われたに違いない。アパートの下の階でピアノを弾いているのさ。ほら、ちゃんと弾いているじゃないか、と言われたかもしれない。しかし私は、そういう言葉に耳を貸さなかったろう。違う! 違う! ちゃんと私の机の上の、本の、頁の中の、ピアノが、キーを叩いて音を出している。いや、それだけではない。アパートが静かになって、下から何も聞えなくなった時、吹雪を通して、気の滅入るような、或は、おどろおどろしい、音楽が聞えて来る。そしてその音楽に併せて、怒っている、或は悲しい、気持の人間の声が、ブツブツ、ブツブツと・・・。いや、これが階下の声である筈がない!
 何故部屋がひとりでに暗くなるのか。何故本の頁にヂェーンプルの冬の夜が現れるのか、何故馬の鼻面が現れ、その馬に乗った毛皮帽の男の顔が現れるのか。私には、研ぎすまされた刀が光るのが見え、引裂くような口笛が聞えるのだ。
 あ、あそこに息を切らして走って行く男がいる。煙草の煙を通して。私は目をこらしてその姿を追いかける。男の背後が一瞬パッと明るくなる。銃声。男は「ウッ」と唸って仰向けに倒れる。まるで男の前方から鋭い刀が心臓めがけて振り下ろされたかのように。男は身動きもせず横たわっている。その頭から黒い血が滲(にじ)み出る。空高く月が光り、遠くで鎖のように点々と村の灯が、悲しく、美しく、瞬(またた)いている。
 本の頁を眺めていると、芝居はどんどん、いくらでも続いて行くように思えた。この映像をどうやって固定させたらいいのだろう。ただ消え去って行くままにしておくのはあまりにももったいない。
 ある晩私は、この魔法の部屋を描写してみることにした。しかしどうやって表現すればよいのか。
 それは簡単だ。見えるものを書き、見えないものは書かない。それだけだ。ホーラ、映像が輝き始める。色がついて来る。それは私に気に入っているかって? それはもう、とても! そこで私は書けばいい。「第一幕」と。夜になっているのが見える。ランプがついている。ランプの笠の房飾り。ピアノの音がしてくる。「ファウスト」を弾いている。突然「ファウスト」は止み、誰かがギターを弾き始める。誰だ? 弾いているのは。ホーラ、扉からギターを抱えた男が登場する。歌っているのが聞える。「歌っている」と書けばいい。
 これはどうやら、素晴しい芝居のようだ! 夜毎に出歩いて、芝居を見に行くなど、まるで不要だ。
 三晩、私は第一場が演じられるのを見、書きとめ、その最後の晩に、私は自分が芝居を作っているのだということに気がついた。
 中庭から雪が消え、四月に第一幕が完成した。私の登場人物達は私の芝居の中で、動き始め、歩きまわり、喋りだしたのだ。
 そして、四月の終に、イリチーンからの手紙が来たのだ。
 そして私は今、この小説の最初の場面、即ち、私がイリチーンと会う瞬間に、読者諸氏を連れ戻すことが出来る。

     第 八 章
   金色の馬
 そうなのだ。何かを自分の中に押し隠しているように、目を細めて、イリチーンは繰返す。「私は君の小説を読みましたよ。」
 私は目をいっぱいに見開いて相手を見詰める。希望で身体が震え、一方では、またどうせ駄目さ、という諦めた気持も出ている。が、とにかく私は、生まれて初めて、自分の読者を見たのだ。
 「どうやって手に入れたんです? だってあの本は・・・」と、私は言いかける。
 「君はグリーシャ・アイヴァゾーフスキイを知っているね?」
 「いいえ。」
 イリチーンは驚いて眉を上げた。
 「グリーシャはカゴールタ・ドゥルジーヌィッフの文学担当だが?」
 「カゴールタって何ですか?」
 イリチーンはいよいよ驚き、稲妻が光るのを待った。私の顔をよく見るために。
 稲妻が走り、消えた。それからイリチーンは続けた。
 「カゴールタは劇場だ。君、行ったこと、ないのか?」
 「劇場にはどこにも行ったことがありません。モスクワには来たばかりですから。」
 雷は遠ざかり、また陽が出て来た。私は自分がイリチーンに愉快な驚きを引起したことを見てとった。
 「グリーシャが喜んでね」と、何故か、更に謎のような言い方をイリチーンはした。「私に素敵な小説をくれたんだ。」
 こういう場合どうやったものか、私には分らない。それで、私は黙ってイリチーンにお辞儀をした。
 「それで、私にどんな考えが閃(ひらめ)いたか」と、イリチーンは囁くように言い、また左の目を、内緒のように細めた。「この小説で君、芝居を作らなきゃ。」
 『天の恵みだ!』と私は思い、言う。
 「実は、丁度それを書き始めたところなのです。」
 イリチーンは酷く驚く。その証拠に、右手を左の耳に持って行き、少し耳たぶを掻き、また一層目を細めた。そんな偶然を、イリチーンは最初は信じなかったようだが、それを口に出すのは控える。
 「それはいい。それは良かった! それは是が非でも続けてくれなくちゃ。それも、一秒も惜しんで。君、ミーシャ・パーニンを知っていますか?」
 「いいえ。」
 「こちらの、文芸部を担当している男だ。」
 「ああ・・・」
 「雑誌に載っていたのは、小説の三分の一だけだ。あの続きはどうしてもすぐ知りたい」と、イリチーンは言い、「続きは原稿の状態でいいから、私とミーシャとそれから、イェヴラーンピア・ピェトローヴナ・・・これはうちの女性舞台監督だが」と、今までの経験から自分で説明して、
 「この三人に、出来るだけ早く読ませて欲しい」と言う。
 イリチーンの計画は私の心に大きな衝動を引起す。
 イリチーンの言葉は、
 「君が芝居を書く。我々がそれを演じるんだ。どうだ、素晴しいだろう! な?」
 胸がどきどきする。昼の雷雨で酔ったような気分だ。それに、これには何かの予感があったのだ。イリチーンは続けて言う。
 「いや全く、ものはやってみないと分らない。親父さんの説得に成功したんだからね・・・どうだ。」
 私が「親父さん」が分らないのを見て取ってイリチーンは頭を振る。その目にはこう書いてある。「全く野人だね、君は。」
 「イヴァーン・ヴァスィーリエヴィッチだよ!」とイリチーンは囁く。「イヴァーン・ヴァスィーリエヴィッチ! えっ? 君、この人も知らない? 独立劇団の理事長・・・聞いたことない?」そして、つけ加えて言う。「いやはや、これはこれは・・・」
 頭がぐるぐる回っている。ここで特に大事なことは、周囲の光景がそのぐるぐる回っている原因だったことだ。昔の夢で、この光景を一度見た記憶があるのだ。そして自分は、今現実にその中にいる・・・
 イリチーンと私は部屋を出、暖炉のあるホールに入る。私はそのホールがひどく気に入り、酔ったような気持になる。空は晴れ渡り、突然寄せ木の床に光線が落ちる。それから、奇妙な扉の傍を通る。私が興味を惹かれているのに気づき、イリチーンは手で「中に入ろう」と合図をする。足音が聞えなくなり、辺りは真っ暗だ。イリチーンの手が私を導き、前方に細長い、綺麗にチカチカ光っている、隙間が見える。もう一つのカーテンの方に私を進めてくれているのだ。そこを開くと、私達はほぼ三百の観客席がある小さなホールに出る。天井からシャンデリアの二つのランプが、薄暗く下を照らしている。幕は開いており、舞台はパックリと口を開けている。舞台は荘重で、謎めいており、人はいない。舞台の隅は暗く、真中に、時々鈍く光る金色の、後脚で立上った、馬がいる。
 「この芝居は受けてね」と、神殿で話すように重々しくイリチーンは囁き、別の場所に移動して続けて言う。「特に若者に。切符も売り切れて、これ以上は望めないぐらいなんだ。舞台は小さく見えるかもしれないが、実はかなり大きい。親父さんをうまく説得すれば、大舞台だって作れる。それはもう。」
 『私にやる気を起させているんだな』と、私は考え、ほっとすると同時に、期待で胸が踊る。『だけど、どうしてそのままずばりと言わないんだろう。そう、確かにあんな大仕掛けの舞台は不要だ。あの金色の馬だけで充分だ。しかし、それにしても、親父さんという人物には興味がある。謎めいた人物だ。芝居を進めるには常に彼と根くらべをし、説得しなければならないとは・・・』
 「この世界は私に・・・」と、私は知らず知らずのうちに声を出していた。
 「えっ?」
 「いいえ、ちょっと独り言を・・・」
 私はイリチーンと別れる。その時彼は私にメモを渡してくれる。

 「親愛なるピョートル・ピョートルヴィッチ!
「黒い雪」の作者に「ファヴォリータ」の座席を間違いなく渡してくれ。        敬具
                イリチーン」

 「これは「特別優待券」だ」と、イリチーンは別れる時説明してくれる。私は生まれて初めて「特別優待券」なるものを受取って、ワクワクしながらその建物を出る。
 その日から、私の人生はすっかり変る。昼間は私は、熱に浮かされたように芝居書きをやる。頁から出てくる芝居の光景は、もう昼間にはなくなり、箱の上の方が練習用の舞台の大きさになり、動き回った。
 夕方になると私は、待ちきれない気持で、金色の馬を観に行く。
 芝居「ファヴォリート」が面白いかつまらないか、私にはよく分らない。そう、面白くないと言った方が正しいだろう。しかし、その舞台には何か、言うに言われない魅力がある。観客席の灯りが消え、舞台裏から音楽が流れ、舞台に十八世紀の服装をした人物達が出て来る。舞台の脇に金色の馬が立っており、登場人物は舞台に出て来ては、馬の足元に坐ったり、馬の口に何か強烈な台詞を吐いたり・・・私は楽しんだ。
 芝居が終り、通りへ出る時、何か寂しい気持が私を捉える。役者達が着ていたあのトルコ風長上衣を着て、私も何かの役をやってみたくなったのだ。例えば、酔っぱらいの、巨大なつけ獅子鼻をつけて、緑褐色のトルコ風長上衣を着、細い杖と煙草入れを手に持ち、舞台の袖に現れて、とても滑稽な台詞を言ったら、どんなに気分がいいだろう。その滑稽な台詞を、私は、狭い観客席に坐っている間に考えていたのだが、しかしその時、その役者が発した台詞は、私のとも違う、また他のどの作家が作ったものとも違う、大変可笑しい台詞で、一瞬観客はどっと笑う。この時以前にも、またこの時以後にも、私は芝居を観てこんなに楽しかったことはない。
 「アトリエ公演、切符担当」と看板のある窓口に坐っている陰気で孤独なピョートル・ピェトローヴィッチを毎回驚かせて、「ファヴォリータ」を三回も観に行く。最初は前から二列目、二回目は六列目、三回目は十一列目だった。イリチーンは律儀(りちぎ)に、例のメモ書きの紙切れを毎回渡してくれて、私はもう一つの芝居も観ることが出来た。それは、登場人物がスペイン風の衣裳を着ていて、ある役者が召使を演じ、それが非常に大仰(おおぎょう)で可笑しいので、私は大変楽しく、額に汗を出すほど笑った。
 それから五月になり、誰かがやっと、私とイリチーン、そしてイェヴラームピア・ピェトローヴナとミーシャ、の四人を会わせる手筈(てはず)を整えてくれた。四人はこの劇団研究所の建物の中にある小さな部屋に落ち合う。窓は既に開けてあって、外から車の警笛が聞え、ここが都会であることを知らしめている。
 イェヴラームピア・ピェトローヴナは、堂々たる顔をした女性で、耳にはダイアモンドのイヤリングがしてある。ミーシャはその笑い声で私を驚かせる。彼は突然大声で笑い出すのだ。「ハッハッハッ・・・」。すると、他の三人は話を止め、笑いが止まるのを待つ。言葉代りにそうやって笑いで答た後は、彼は急に老けた顔になり、黙ってしまう。
 『何て悲しい目をしているんだ。』私はいつもの癖で・・・と言っても、これは殆ど私の病気のようなものだが・・・想像してしまう。『この人は、自分の友人を決闘で殺してしまったんだな。レールモントフゆかりの、あのピャチー・ゴールスクで』と、私は考える。『そして、今、夜毎にその友だちが、月の光の下に、窓際に、現れて、頭をこくりこくり振るんだ。』私はミーシャが大変気に入っていた。
 ミーシャもイリチーンもイェヴラームピア・ピェトローヴナも、尋常でない辛抱強さを見せたので、私は一気に、小説の三分の一・・・つまり、雑誌に載せられたところ・・・を三人に読んで聞かせた。その後私は、急にきまりが悪くなって、「後はどうせ、みなさん、お分りでしょう?」と言う。もう大分遅かった。
 私を除く三人の間で会話が始まる。彼等はロシア語で話している。が、私には何一つ理解できない。それほど謎のような会話だ。
 ミーシャは、議論している最中に部屋の中を走り、また急に止まる癖があった。
 「オースィップ・イヴァーヌイッチ?」と目を細めながらイリチーンが静かに訊く。
 「いや、そうは思わない。」ぼそぼそっとミーシャが言う。
 次に聞えた言葉は「それに、ガリーヌィッフがいるし、少しづつ集めるっていうのはちょっと・・・」(これはイェヴラームピア・ピェトローヴナ。)
 「そうなんだ」と、腕でばっさりと空気を切りながら、鋭い調子でミーシャが言った。「もう私は以前から言ってるんだ。この問題を芝居にかける時期は来ていると!」
 「じゃ、スィーフツェフ・ヴラジョークはどうする?」(これはイェヴラームピア・ピェトローヴナ。)
 「そう、それにインドがこの問題にどう関るか。奴もはっきりしない」とイリチーンが言い、
 「内輪でさっさとかけた方がいいか」と、イリチーンが囁き、「音楽つきで・・・そうすれば何とか通るかもしれない。」
 「スィーフツェフ!」とイェヴラームピア・ピェトローヴナが深い意味を込めて(と、私には思えた)、言う。
 この時、私の顔はきっと非常に狼狽した表情を示したと思う。何故なら、三人とも私には理解不能の会話を止め、一斉に私の方に顔を向けたのだ。
 「スェルゲーイ・リェオーンチエヴィッチ、私はどうしてもあなたにお願いしなければ」と、ミーシャが言う。「八月までには何とかこの芝居を書き終って貰いたいんです。このシーズンの始めには、台本が出来るように。」
 私は五月がどう終ったのか、全く覚えていない。六月もだ。七月は覚えている。異常な暑さだった。私は裸で、身体をシーツにくるんで椅子に坐り、芝居を書いた。先に進むにつれ、書くのは難しくなる。私の箱は、もうずっと前から声を出さなくなり、小説の行間から出ていたものも、火が消えたように死んでしまった。私からもう愛されなくなった、と思ったのか・・・机の上の色つきの人物達もいなくなり、誰も私を助けにはやって来なかった。その代りに今は、私の目の前に劇団研究所の舞台が立っている。登場人物は増え、舞台に、淀みなく、非常に勇敢に登場して来る。どうやら連中は、金の子馬の傍にいるのが気に入っているようで、そこからは全く離れようとしない。事件は次から次と起り、終になど、とてもなりそうにない。そして暑さは去る。湧かした湯を入れて飲んでいたガラスの水差しが空になり、日中は蠅が飛ぶようになる。雨が降り始める。八月になったのだ。その時私は、ミーシャ・パーニンから手紙を受取る。芝居について訊いて来たのだ。
 私は勇気を奮い起こし、その晩、事件の流れを中断させる。芝居は十三場あった。

     第 九 章
   始まり
 頭を上げると、私の頭の上にはすりガラスの電灯の丸い球(たま)が明るくともっていた。横には銀色の巨大な花輪がガラス製の戸棚に飾ってあり、その花輪にはリボンと「愛する独立劇場へ・・・モスクワ評議・・・」(元註 最後の一文字は、乱暴に書かれてあり、判読不可。)というカードが差してあった。そして、私の前には、時々入れ替わる、にこにこ笑っている役者達の顔がある。
 あたりはシーンとしている。時々遠くから、物悲しい歌が聞え、それから何か、風呂の中で聞えるようなぼやけた音で、雑音が届いて来る。私は自分の芝居を朗読しているのだ。そして、その遠くからの物音は、離れたところでやっている芝居の音だ。
 私はひっきりなしにハンカチで額を拭う。私の正面には、肩幅の広い、がっしりした、髭を綺麗に剃った、髪の毛の濃い男が見える。彼は扉のところに立っていて、何か考えている様子で、じっと私を見て、目を離さない。
 その扉の男が妙に気になり、記憶に残っている。他のものは全てが跳びはね、光り輝き、入れ替わっていた。変らないものがもう一つ、あの大きな花輪だ。しかし、扉の男は鮮明に記憶にある。これが私の朗読だった。しかしもう、劇団研究所ではなく、本公演場で、である。
 夜、そこから出て、私は建物の方を振返った。そこは町の真中、その建物の隣は食料品店、正面には「包帯とコルセット」・・・そこの、何の変哲(へんてつ)もない建物・・・亀のような、くすんだ、立方体の、灯りのついた建物・・・それが劇場だ。
 次の日、秋の、夕方の、薄明かりの中を、その建物の中に入って行く。軍用ラシャの、柔らかい絨毯の上を歩いたように、私は覚えている。その壁の内部・・・どうやら観客席のある場所だったらしく、沢山の人が右往左往している。芝居のシーズンが始ったのだ。
 私は音のしないラシャの上を真直ぐ進み、事務所に入る。そこは非常に居心地よくしつらえられた部屋だった。中年の、綺麗に髭を剃った顔と、陽気な目をした気持のよい人物が立っている。この人物が、制作担当の長、アントーン・アントーノヴィッチ・クニャージェヴィッチだった。
 クニャージェヴィッチの書き物机の上には明るい陽気な絵が掛かっている。その絵には幕があり、上部には真っ赤な房が垂下がっている。そして、幕の向こうには、薄緑色の明るい庭が・・・(訳註 結局、絵と思ったのは、カーテンの掛かった窓、から見える庭、だったということか?)
 「ああ、マクスードフさん」と、頭を斜(ななめ)にかしげながら、クニャージェヴィッチは愛想良く叫んで「お待ちしていましたよ、本当に。心から。どうぞどうぞ、お坐り下さい。」
 私は坐る。坐り心地の大変よい、革の肘掛け椅子だ。
 「聞きましたよ。聞きました、聞きました、あなたのお芝居」と、にこにこしながらクニャージェヴィッチは、さっと両手を拡げて言う。「素晴しいお芝居ですね。本当に私どもは、あんなお芝居を今までに掛けたことがありません。それはもう、必ず、必ず、私どもが取上げますから・・・」
 喋れば喋るほど、その目は明るく輝いてくる。
 「・・・恐ろしいほど内容に富んでいるものですね」と、クニャージェヴィッチは続ける。「四輪馬車で運ばなきゃ・・・いや、どうしても四輪馬車だ!」
 『いや、待てよ』と私は考える。『この、クニャージェヴィッチという人物、一筋縄ではいかないぞ。用心だ、用心だ。』
 クニャージェヴィッチが陽気になればなるほど、私は我ながら不思議なくらい、緊張する。
 もう少し私と話した後、クニャージェヴィッチは電話をかける。
 「今、ガヴリーイル・スチェパーノヴィッチにお会わせします。まっすぐ彼のところへ・・・そう、手から手へ、直接に。いや、ガヴリーイル・スチェパーノヴィッチはいい人です・・・実にその、蠅も殺さない・・・そう、蠅だって!」
 しかし電話を受けてやって来た緑色の襟章をつけた男はこう言う。
 「ガヴリーイル・スチェパーノヴィッチは、まだこちらに来ていません。」
 「そう、来ていない。いや、まあ、すぐ来るさ」と、今まで通りに陽気にクニャージェヴィッチは言い、「じゃ、もう三十分はかかるな! じゃ、その間にあなた、劇場を回ってご覧なさい。ゆっくり見て回って、ビュフェでお茶と、それにサンドイッチでも・・・そう、サンドイッチを断ったりはなさらないでしょう? そんな、ビュフェのイェルモラーイ・イヴァーノヴィッチを悲しませるようなことは!」
 そこで私は劇場を見て回ることにする。ラシャの絨毯の上を歩くのは心地よかった。それに、至る所謎めいた薄暗がりと静けさが漂っているのも気持がよかい。
 その薄暗がりの中で、もう一人の人物と知り合う。私と同じぐらいの年齢、痩せて、背の高い男が私に近寄って来て、自己紹介をする。
 「ピョートル・ボンバールドフです。」
 ボンバールドフは、独立劇場の役者だった。私の芝居の朗読を聞き、自分の考えでは良い芝居だと思うと言う。
 一目見た時から、私は何故かこの人物に親しみを覚える。知性のある、観測力の鋭い人物のように、私には思える。
 「ロビーに肖像画が色々あります。ご覧になりませんか?」と、礼儀正しくボンバールドフは訊く。
 お誘いを有難く受け、私達は広々としたロビーに出る。やはりここにも絨毯が敷いてある。灰色である。壁面には肖像画と、人物の引延ばした写真が、楕円形の額縁に嵌って、ずらりと掛けてある。最初の額は油絵で、三十歳ぐらいの女性、前髪を厳しくそそり立て、デコルテのドレスで、恍惚とした目がこちらを向いている。
 「サラ・ベルナールです」と、ボンバールドフは説明する。
 誉れ高いサラ・ベルナールの隣は、鼻髭を生やした、拡大写真の男性だった。
 「セヴァスチヤーノフ・アンドレーイ・パホーマヴィッチ、この劇団の照明担当の監督です」と礼儀正しくボンバールドフが言う。
 セヴァスチヤーノフの隣は私にも分る。モリエールだ。
 モリエールの次は、ごく小さな薄いベレー帽を斜めに被り、胸のところで矢の形にネッカチーフを締め、片手にレースのハンカチを、小指を立てて持っている婦人の肖像画だった。
 「リュドゥミーラ・スィリヴェストゥローヴナ・プリャーヒナ。この劇団の女優です。」と、ボンバールドフは言う。その時、ボンバールドフの目がキラリと光る。しかし、私を横目で見て、それ以上は何も付け加えない。
 「すみませんが、これは一体誰なんでしょう」と、次の肖像画に驚いて、私は言う。それは恐ろしい顔をした男で、巻毛の頭に月桂樹の冠を被り、トーガ(ローマ時代の、ゆったりした服)を着て、手に五弦の琴を持っている。
 「皇帝ネロです」とボンバールドフは言い、再び目がキラリと光る。
 「どうしてネロを・・・」
 「イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチの指示で」と、表情を保ったままボンバールドフは言う。「ネロ、は歌もうまいし、絵画もよくしました。」
 「なるほど、なるほど。」
 ネロの次はグリバイェードフ。グリバイェードフの次は糊のよく効いた、折返した襟姿のシェイクスピアだった。その次は、私の知らないプリソーフという名の、この劇場の回り舞台担当の監督で、およそ四十歳ぐらいの人物だった。
 それからジヴォーキニイ、ゴリドーニ、ボーマルシェ、スターソフ、シッシェープキンと続いた。その次、の額縁の中の、勢いよく途中で曲げられた、軽騎兵の軍帽が、私を眺めていた。軍帽の下には、地主風の顔があった。チックで塗固められた鼻髭、騎兵将軍の肩章、真っ赤な返し襟、肩には銃弾入れがあった。
 「故クラーヴヂイ・アリェクサーンドロヴィッチ・カマローフスキイ・エシャーッパル・デ・ビオンクール少将です。少将は、皇帝陛下の近衛騎兵隊の隊長でした」と、ボンバールドフは言って、私が興味を示すのを見て、次の話をしてくれる。
 「少将の話は実に変っています。少将は、ペテルブルグからモスクワへ二日間、何かの用事で出て来ました。チェストーフで夕食をとり、夜、我々の劇場に来たのです。勿論そういう位(くらい)の人ですから、最前列の席です。そして、芝居を見ていました。・・・何の芝居だったか、私は覚えていませんが、目撃者が語ったところによると、背景に森がある場面になった時、少将に何かが起ったそうです。日没の森で、雪が降っている。その雪を背景に小鳥が鳴いている。遠くの村落から礼拝の開始を知らせる鐘の音が(舞台裏から)聞えて来る。・・・その時目撃者は見たそうです、少将がじっと坐って、白い麻のハンカチで目を拭っているのを。
 芝居がはねると少将は、アリスタールフ・プラトーノヴィッチの事務所に行きました。後で座席係の者が語ったところによると、事務所に入るや少将は、太い、恐ろしい声で言ったそうですです。『どうしたらいいのだ。教えてくれ!』と。
 事務所にいた者達は、みんなアリスタールフ・プラトーノヴィッチの周りで小さくなって震えていたそうです。」
 「すみません、その、アリスタールフ・プラトーノヴィッチというのは誰なのでしょう」と、私は訊いた。
 ボンバールドフは驚いて私を見たが、すぐその驚きを隠し、説明してくれた。
 「この劇団の理事長は二人いて、一人はイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチ、もう一人はアリスタールフ・プラトーノヴィッチなんです。失礼ですが、あなたはモスクワの人ではないのですね?」
 「ええ、ええ、そう・・・どうぞ、その先を。」
 「そうして、部屋に鍵をかけて・・・中でどんな話があったのか、それは分りません。ただ、夜になって少将は、ペテルブルグ宛、次の内容の電報を打ちました。『ペテルブルグ、皇帝陛下宛。小職、皇帝陛下所属の劇団「独立」の役者になり度(たく)、小職に退職をお命じ下さるべく、この段、お聞き届け被下度候(くだされたくそうろう)。カマローフスク・ビオンクール』」
 私は「ああ」と、驚きの声をあげ、そして訊く。
 「それで、どうなったんです?」
 「劇団にとっては、こんな素敵な話はありません」と、ボンバールドフは答えた。「アリェクサーンドル三世宛の電報は、夜中の二時に着きました。畏れ多くも、皇帝陛下をお起し申し上げると、皇帝陛下は下着姿で、他には顎髭と十字架のみのお姿で出ていらして『早く見せろ、私のエシャッパールに何事が起きたか』と、仰せられ、電報をお読みになりました。そして丸々二分間、何も仰せになれず、ただ真っ赤になって鼻息を荒くしていらした。そして、『鉛筆を貸せ』と仰り、すぐに指令の電報をお書きになりました。『貴様など、ペテルブルグにいなくてよい』。そして、お休みになられました。」
 「少将はその翌日、モーニング姿で劇場に現れ、すぐにリハーサル室に行きました。」
 「皇帝陛下のその指令は、大事にニスが塗られ、革命後、その電報は劇場の手に入りました。劇団付属の美術館に行けば、その電報を見ることが出来ます。」
 「少将はどんな役をやったんです?」と、私は訊いた。
 「皇帝、司令官、大きな屋敷の執事」と、ボンバールドフは答える。「それに、ご存知でしょう? オストローフスキイには、大商人の役が必要ですし・・・それに、長いこと『闇の帝王』を演じていました。勿論お分りでしょうが、我々には我々独特のやり方があります。でも、少将はすっかり心得ていました。婦人にハンカチを渡す仕草、ワインの注ぎ方、それに、フランス語はお手のもの、フランス人よりも上手。・・・それから、少将には、もう一つ自分がやらねば気のすまないものがありました。舞台裏で小鳥の鳴き声をすることです。村に春が来る場面がある芝居になると少将は必ず舞台の袖で脚立に立ち、ナイチンゲールの鳴き声をやったのです。奇妙な話です!」
 「いや、奇妙というところは、私は賛成しません」と、私は熱を込めて叫んだ。「ここはそれほど素晴しい劇場なのです。私も少将の立場にいたら、丁度同じことを、そして・・・」
 「カラトゥイギン・タリオーニ(「トゥイ」にアクセントあり)、イェカチェリーナ二世・・・」と、ボンバールドフは肖像画を次々に進みながら列挙した。「カルーゾー、フェオダーン・プラコーポヴィッチ、イーゴリ・スェヴェリャーニン、バッチーステニー、エウリピデス、女性衣装縫製担当の監督、バブィリェヴァ(「ブィ」にアクセントあり。)
 その時、音をたてない山猫の走り方で、ホールに、緑色の肩章をつけた男が現れ、ガヴリーイル・スチェパーノヴィッチが今着きました、と報告する。ボンバールドフは、言葉の途中ですぐに話を止め、私に強く握手をして、小さな声で謎のような言葉を吐く。
 「譲らないんですよ・・・」そう言って彼は、暗闇の中に消える。
 私は肩章の男の後について行く。その男は、固くなった、ぎこちない足取りで、私の前を進み、時々指で私に合図しては、微笑とも言えない奇妙な微笑を浮べ、私を導く。
 広い廊下の壁に沿って、我々は移動して行く。その壁には、十歩進む毎に「静かに! 隣でリハーサル中」と書かれた照明がついている。
 緑色の片眼鏡をかけ、そして緑色の肩章をつけた男が、廊下の隅に置かれたソファに坐っている。私が案内されて来るのを見ると、その男はさっと立上がり、囁き声で「よくいらっしゃいました」と挨拶し、傍にあるこの劇団の頭文字「エヌ・テー」の金の縫取りがしてある重い幕を、大きく開ける。
 するとそこは、丸天井の部屋だった。天井には緑色の絹が張られ、中心から外側に、クリスタルの照明が光っている。柔らかい絹の肘掛け椅子が置かれてある。また、幕があり、その後ろに磨りガラスの扉がある。緑色の片眼鏡をかけた、私の新しい案内人は、自分でその扉には近づかず、私に「ノックして」と、手で合図し、自分はさっといなくなる。
 私は静かにノックする。銀製の鷲の頭の形をしたノッカーを握る。圧縮空気仕掛けのその錠が開き、私は押し込まれるように部屋に・・・ところが勢いで、頭が幕にぶつかってからまり、私は慌てて身体をそらせた・・・
 首が締まる・・・首が・・・
 死ぬぞ、ああ、もう少しで、死ぬ! と思ったが、それは恐がり過ぎだったようだ。しかし、たとえ死んだとしても、私が入った部屋・・・即ち、劇場資金係の長、ガブリーイル・スチェパーノヴィッチのこの部屋・・・の風景は、心に残っただろう。
 部屋に入ったとたん、左の隅にあった巨大な時計が、甲高い、優しい音を出し、メヌエットを奏(かな)でる。
 と同時に、私の目にいろんな光が飛込んで来る。書き物机からは緑の光。但し、書き物机と言っても、ただの机ではない。事務机、と言っても説明が足りない。何十もの引出しのついた、垂直に手紙分類用の小箱がずらりとついた、巨大な建造物で、机用の、銀色の、折曲げ可能のランプと、葉巻用の、電気のライターがついている机なのだ。
 紫檀材のこの机の下からは、地獄からのような赤い光が出ており、机の上には三台の電話がある。平らな、小型の、外国製の機械があり、それが載っている台から、白い小さな光が出ている。四つ目の電話器からも光が出ている。山積みされた便箋からは「エヌ・テー」の金メッキされた紋章文字が光っている。天井からもそれら色々な光が反射している。
 床にはラシャが張られてあったが、軍隊用ではなく、ビリヤード用のラシャで、その上に厚さ一ヴェルショーク(約四・五センチ)の桜色の絨毯が敷いてある。クッションが載せてある巨大なソファがあり、その傍にトルコ煙管(きせる)が置いてある。外は昼、そしてモスクワの中心、だったが、窓を通して外からの物音は、何一つ届いて来ない。三層のカーテンが、音を遮断するようにピッタリとかけてある。ここはいつでも夜なのだ。革と葉巻と香水の匂いがしている。気持のよい暖かい空気が、私の顔と手にあたっていた。
 壁は金で型押しされたモロッコ革が張りつめてあり、その壁の上に大きな肖像写真がかかっている。それは芸術家風の髪型で、細めた目と捻った口髭があり、両手で片眼鏡を持っていた。私は、この人物がイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチか、或はアリスタールフ・プラトーノヴィッチのどちらかであろうと想像したが、そのどちらであるかは分らなかった。
 回転椅子が急に回って、中背の、黒いフランス髭・・・矢の形をした鼻髭・・・の男が、こちらの目に飛び込んで来るように、私の方に顔を向ける。
 「マクスードフです」と、私は言う。
 「ちょっと失礼」と、新たにお近づきになったこの人物は、高いテノールの声で言い、読みかけの手紙を最後まで読ませろ、という仕草をし、また私に背を向け、机に向う。
 ・・・そして手紙を読み終える。片眼鏡から手を放すと、眼鏡は細い紐で支えられていて、下に垂れ下がる。それから、疲れた目を手で擦(こす)り、やっと背を机の方に向け、ひと言も発することなく、私の方をじっと見る。真直ぐこちらを見、何の遠慮もなくまともに私の目を見据えて、私を注意深く観察する。まるでついさっき新しく手に入れた何かの機械を品定めしているかのように。おまけにその品定めしているということを隠そうともしない。目を細めさえしたのだ。私は目を逸らす。仕方がなかったのだ。私はこの時までにソファに坐っていたのだが、そのソファの上でそわそわし始める。やっと私は思う、「エーイ、どうなろうとままよ・・・」そして無理矢理意地を出して相手をじっと見返してやる。この漠然とした不愉快な気分の中で、私は最初に会った制作担当監督クニャージェヴィッチの言葉を思い出す。
 『全くあのクニャージェヴィッチ、何て奇妙な奴なんだ。盲(めくら)じゃないのか? 奴は。『蠅も殺さない人ですよ』とはどこから出て来るんだ。この、鋼鉄のような小さな奥目には、鉄の意志が、悪魔のような勇気が、不屈の決断力がある。それに、このフランス髭だ。どうしてこの人物が蠅も殺せないのだ。確か、デュマの三銃士に出て来る銃士隊長に似ている・・・名前は何だったか・・・糞っ! 忘れてしまったぞ!』
 これ以上の沈黙は無理というところまで来て、ガヴリーイル・スチェパーノヴィッチが口を開く。そして急に私の膝を、冗談のようにぎゅっと掴んで、何故かにっこり笑顔を作る。
 「さてと、それでは契約書にサインだな?」と言う。
 回転椅子のボルトが回り(机の方を向き)、また回ってこっち側を向く。ガヴリーイル・スチェパーノヴィッチの手に契約書がある。
 「イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチの賛成なしで契約書にサイン・・・どういうものかな」と言って、彼は見るともなくふっと肖像画を見上げる。
 『ははあ、そうか、これで分った』と私は思う。『あれがイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチなんだ』
 「まあ、不都合はないだろう」と、彼は続け、「とにかく君の方に不都合がある訳はない」と、親しみの籠った笑顔を見せる。
 ここでノックもなく扉が開き、幕が開かれ、南方出身の威圧的な顔をした女が私を見る。私は彼女にお辞儀をし、「マクスードフです」と言う。
 その女性は、男のやるやり方で、私に固く握手をし、言う。
 「アーヴグスタ・ミェナジェラーキーです。」そして、スツールに坐り、緑色のジャンパーのポケットから金色の煙草を出し、火をつけ、静かにタイプライターを打ち始める。
 私は契約書を読む。正直なところ、何も分らず、また、分ろうともしなかった。
 言いたかったことは『私の芝居をかけて下さい。私は何もいりません。ただ、毎日ここへ来てもよいという許可、それに、このソファに横たわって二時間、甘い煙草の煙を吸込み、時計のオルゴールを聞き、ぼんやりする権利さえ与えて下されば。』これだけだった。
 しかし、これは口に出さなかった。実に幸運だった。
 契約書には「もしも・・・ならば」と「・・・だから」、それから「著者は次の権利を持たない」から始まる文章ばかりだ。それが印象に残る。
 著者は次の権利を持たない。即ち、モスクワの他の劇団に自分の芝居を売ること。
 著者は次の権利を持たない。即ち、レニングラードの劇団に、自分の芝居を売ること。
 著者は次の権利を持たない。即ち、ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国の劇団に、自分の芝居を売ること。
 著者は次の権利を持たない。即ち、劇団にこれこれの要求をすること。(この「これこれ」の部分は忘れた。)これは第二十一項。
 著者は次の権利を持たない。即ち、これこれの件に関し、異論をとなえること。(「これこれ」の部分は忘れた。)
 但し、五十七項だけは「次の権利を持たない」で始まらず、全体の調子を乱していた。それは、「著者は次の義務を負う」で始まっていた。演出家、或は委員会、或は関係機関、関係施設、関係団体、関係部局、からの要請があったならば、著者は無条件かつ即座に、自分の芝居の変更、改変、追加、削除、を、その指示に応じて、然るべく行わねばならない。但し、この作業に関する報酬は、第十五項に示されているもの以外、全くないものとする。」
 第十五項に戻ってみると、その条件には「報酬」と書かれた後に空白があるだけであったことに気がつく。
 そこを読んだ時、その部分に私は、爪で疑問符をつけておいたのだった。
 「それで、報酬としてはどの程度が容認可能なものとお考えでしょう?」とガヴリーイル・スチェパーノヴィッチは、私から目を離さずに訊く。
 「アントーン・アントーノヴィッチ・クニャージェヴィッチは」と、私は言った。「二千ルーブリだと話してくれました。
 ガヴリーイル・スチェパーノヴィッチは恭(うやうや)しく頭を下げた。
 「なるほど」と言い、少し黙り、そしてつけ加える。「ああ、金! 金! 金がどんな禍(わざわ)いを起すか! 我々はみんな金のことしか考えない。心のことを一体誰が考えるというんだ!」
 何という余裕の言葉だ! 生活の困窮で私は、こんなことを考える余裕は今まで全くなかった。正直なところ、私は狼狽する。そして考える。『いや、クニャージェヴィッチの言っていた通りかもしれない・・・蠅も殺さない、いい人物・・・そう。ただ、私の方が生活苦で疑い深くなったか・・・神経が干涸(ひから)びたか・・・』。礼儀を守るために、私はただ溜息をつく。相手もまた、同じように礼儀が大事と考えたか、溜息をつく。そして突然、溜息とは全く趣旨が一致しない、悪戯(いたづら)っぽい笑い顔を私に向け、親しそうに囁く。
 「四百ルーブリ。これでどうです。あなただけの特別扱いですよ。どうです。」
 正直に言って私はがっかりした。実は、この瞬間、私の懐(ふところ)には一銭もなかった。そしてこの二千ルーブリを非常にあてにしていたのだ。
 「千八百では如何でしょう」と、私は訊く。「クニャージェヴィッチは・・・」
 「あいつは大衆受けを狙うやつだ」と、ガヴリーイル・スチェパーノヴィッチは苦々しく言う。
 ここで扉にノックがあり、緑色の肩章をつけた男が、白いナプキンで覆われた盆を持って来る。盆の上には、銀色のコーヒー湧かし、ミルク入れ、外側がオレンジ色内側は金色をした二個の磁器のカップ、大粒のイクラが挟んであるサンドイッチ二枚、チョウザメの燻製のサンドイッチ二枚、ローストビーフのもの二枚、が載っている。
 「イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチのところに書類の包みは持って行ったんだね?」と、アーヴグスタ・メナジェラーキーは、入って来た男に訊く。
 入って来た男の顔色が変り、盆が少し傾く。
 「私は厨房の方に行ったんです、アーヴグスタ・アヴデェーイェヴナ。書類の包みはイグヌートフに行かせました」と彼は言う。
 「私はね、イグヌートフに頼んだのではありません。あなたに頼んだのです」と、メナジェラーキーは言う。「書類の包みを持って行く仕事はイグヌートフのやることではありません。あの子は馬鹿。あの子にやらせると必ず何かしでかす。だからあなたにと言ったんです。あなた、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチに癇癪を起させたいの?」
 「イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチに死んで貰いたいんだろう」と、冷たくガヴリーイル・スチェパーノヴィッチは言う。
 盆を持った男は低い唸り声をあげ、スプーンを落す。
 「あなたが厨房に行った時、パーキンはどこにいました?」とアーヴグスタ・アヴデェーイェヴナは訊く。
 「パーキンは機械にかかりっきりでした。私は厨房に。その時イグヌートフに言ったんです『イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチに、急いで頼む』と。」
 「それでバブコーフは?」
 「バブコーフは切符売場に行ってました。」
 「盆はそこに置いて!」と、アーヴグスタ・アヴデェーイェヴナは言い、ボタンを押した。壁から食事用のテーブルが飛び出して来た。
 肩章をつけた男は、喜んで、すぐその上に盆を置き、幕の方に後ずさりし、足で扉を開け、出て行く。
 「クリュクヴィーン、お前、頭を使うんだ、頭を」と、追いかけるようにガヴリーイル・スチェパーノヴィッチは怒鳴り、それから私の方に親しそうに顔を向け、
 「四百二十五・・・で、どうだ?」
 アーヴグスタ・アヴデェーイェヴナはサンドイッチを食べ、静かに一本指でタイプライターを打ち始める。
 「千三百では? 正直なところ、私は今、酷く金に困っているのです。仕立屋にも支払わなければなりませんし・・・」
 「その服はすると、縫わせたんだな?」と、私のズボンを見ながらガヴリーイル・スチェパーノヴィッチは訊く。
 「そうです。」
 「詐欺だな、その縫い方は。実に下手だ」と、ガヴリーイル・スチェパーノヴィッチは言い、「そんな奴、すぐ首にしてしまえ!」
 「しかし、それでも・・・」
 「ここの劇団には」と、困ったようにガヴリーイル・スチェパーノヴィッチは言う。「著者に契約で金を渡したという前例がない。しかしとにかく、君の場合には・・・四百二十五!」
 「千二百」と私は勇気を出して言う。「これだけはないと、私はやって行けなくて・・・酷い状態なんです・・・」
 「競馬はやらんのかな、君は」と、同情の声でガヴリーイル・スチェパーノヴィッチは訊く。
 「やりません」と、私は残念な気持を添えて言う。
 「ここの役者で一人、酷く困って、競馬に賭けて、それがあたって、千五百稼いだんだが。まあ、勧めている訳じゃない、私は。友だち甲斐に言うんだが、金なんかとると良いことはない! 金! 金がどうしたっていうんだ! 何で必要なんだ。私なんか、一銭も持ってやしない。だから気も軽い。落着いていられる」と言って、ガヴリーイル・スチェパーノヴィッチはポケットを開けて見せる。確かにそこには金はなく、鎖でとめた鍵の束があるのみだった。
 「千」と私は言う。
 「エーイ、勝手にしろ! この強情者め!」と大声でガヴリーイル・スチェパーノヴィッチは叫んだ。「よし、俺のことは後で連中に何と言われてもいい。君には五百だす。サインしろ!」
 私は契約書にサインした。それからガヴリーイル・スチェパーノヴィッチはまた次のように説明する。これから私に渡される金は、実は前渡し金であり、私の芝居の最初の上演の時から、それは私に返済されねばならないものである、と。(訳註 ここの意味、不明。これでは原稿を売った代金にはなり得ないと思われる。共産主義では、原稿の売買は認められないので、こういう話にしてあるのか?)そして、前金の支払いは、まづ今日、七十五ルーブリ、二日後に百、土曜日にまた百、そして残りの二百二十五ルーブリを十四日に支払う、という約束で話がつく。
 やれやれ、事務所をあとにして街に出た時、その風景が私に何と散文的に、何と物憂く映ったことだろう。雨がしとしとと降っていた。薪(まき)を積んだ荷馬車が門のところでつっかえて、御者が酷い言葉を馬に浴びせている。人々が、厭な雨だという顔で、道を通って行く。この散文的な悲しい風景を見ないようにしながら、私は家へと急ぐ。大切な契約書は胸ポケットにしまってある。
 部屋に入ると、友達(例のピストルの件での友達)が、私を待っていた。
 濡れた手で、私はポケットから契約書を出し、叫ぶ。
 「見てくれ!」
 友達は契約書を読む。驚いたことに、彼は私に食ってかかる。
 「何だ、このインチキ文書は! まさか君、これにサインしたんじゃないだろうな。」と、私に訊く。
 「君は芝居のことは何も分ってないんだ、きっと。妙なことを言うのは止めろ!」と、私も怒って言う。
 「何だ、この『義務を負う』『義務を負う』というのは。それで相手側に何か一つでも義務を負うことがあるっていうのか。」友達は呟く。
 私は熱っぽく劇場のホールの肖像画の話をする。ガヴリーイル・スチェパーノヴィッチがいかに親切な人物かを。そして、サラ・ベルナールの話、カマンドーフスキイ将軍の話、事務室の時計のオルゴールがどんなに素晴しくメヌエットをかき鳴らしたか、コーヒーが如何に美味しそうに湯気をたてていたか、絨毯の上を歩く音が如何に静かに響いたか、を彼に伝えようとする。しかし、私の頭の中でメヌエットが如何に響こうが、私の前に如何にちゃんと金色の煙草の吸い口が目に見えても、電気ペチカの暖かい空気が如何に感じられていようとも、そして皇帝ネロが如何に私の方をじっと見ていても、それを友達に伝えることは出来ない。
 「なるほど。するとネロなんだな、その契約書を作ったのは」と友達は冗談を言う。
 「何を言ってるんだ、もう」と、と私は怒鳴り、彼から契約書を取上げる。
 私達は一緒に食事をすることに決め、ドゥスィーンの弟に買出しに行って貰う。(訳註 ドゥスィーンは、親しくしていたアパートの住民か? 不明。だが、多分二九頁の「親切な隣の住人のことらしい。)
 秋の雨が降っていた。何て美味いハムだったことか。それにバターも。幸せな時間だった。
 モスクワの気候は、その気まぐれさで有名である。それから二日間は、夏のように暖かい、素敵な天気だった。二日経って私は、独立劇場へ行く。ドキドキする胸を抑えて私は、中央扉に貼ってある地味な広告を見る。
 私は読む。

 今シーズン予定のレパートリーは下記。

  アイスキュロス 「アガメムノーン」
  ソフォクレス 「フィロクテート」
  ロペ・デ・ヴェーラ 「フェーンズィーの網」
  シェイクスピア 「リア王」
  シラー 「オルレアンの少女」
  オストローフスキイ 「この世界からでなく」
  マクスードフ 「黒い雪」

 口をぱっくり開けて私は歩道に立っていた。私には不思議に思えたのだ。何故誰か、この瞬間、あの広告を引き剥がして私に渡してくれないのだろうと。その間、誰かれとなく私の近くに人が通りかかり、私を押したり突いたりする。「おい、そこ、邪魔だ」などと言われたりする。が、私はじっと立ったままその広告を見詰めている。それから私は、広告の真正面からちょっと外れて立つ。通りがかりの人達が広告を見てどういう感じを持つか、見てみたかったのだ。
 広告に対する反応は何もないことが判明する。勿論、三四人は立ち止り、広告をちらとは見たが、それを読んでみるなどという人間は誰もいない。
 しかし、五分経つと、それまで待っていた苦労の何倍ものお返しがやって来る。劇場にやって来る人達の波の中に、私ははっきりとイェゴール・アガピョーノフのがっちりした頭を見つける。彼は独立劇場に、自分の子分三人を引連れてやって来たのだ。一人はパイプを銜(くわ)えたリカスパーストフ、一人は陽気な顔をした、私は名前を知らない、太った男だ。最後に、夏用の、普通では見かけない色、つまり黄色、の外套を着て、何故か無帽の、アフリカ人。私は更に、盲(めくら)の像がある、建物の窪(くぼ)んだ場所に引っ込み、そこから眺める。四人は、広告の前に一列に並んで立つ。リカスパーストフの顔に起ったことを、私はどう書いていいか分らない。彼は一番最初に立止り、読み始める。何か面白い話をみんなに聞かせていたところだ。まだ、その最後の言葉が唇に残っていて、笑いが浮んでいる。「フェーンズィーの網」まで読んだな、と、私は思う。突然リカスパーストフは青くなり、それから、何か急に老けた顔になる。紛れもない「怖れ」の表情がその顔に現れる。
 アガピョーノフも読み終え、「フム」と言う。
 私が名前を知らない、太った人物は、目をパチパチし始める。・・・「どこであの名前を聞いたんだろう。どこかで聞いたぞ」と、考えているようだ。
 アフリカ人は、英語で、他の三人に、「何を見ているのか」と訊いたらしい。アガピョーノフが「広告を、広告を」と言う。そして空中に四角を描いてみせる。アフリカ人は、何も分らないまま、ただ頭を振っている。
 通行人がやって来ては通り過ぎて行き、その度に四人の頭が見えたり、見えなくなったりする。連中の言葉も遮られたり、届いたりする。
 リカスパーストフがアガピョーノフの方を向き、言う。
 「イェゴール・ニールイッチ、見ましたか? 何でしょう、一体。」何か物悲しそうな顔だった。「連中、頭が狂ったんじゃないでしょうか・・・」
 風が吹いて、その後の言葉がこちらに届かない。
 それ以後は、アガピョーノフのバスの声、リカスパーストフのテノールの声が切れ切れに聞えて来る。
 「・・・あいつ、何ていうデビューだ・・・そう、発掘したのはこの私なんだ・・・こいつをですよ・・・フン・・・フン・・・フン・・・気味の悪い奴だ・・・」
 私は窪みから出、四人に近づく。
 最初にリカスパーストフが私に気づく。彼の目に現れたものを見て、私は衝撃を受ける。確かにそれは、リカスパーストフの目ではあった。しかし、その中に、私達二人の間に出来た、全く新しい深い溝・・・よそよそしい何か・・・がある。
 「やあ、兄弟」と、リカスパーストフは叫ぶ。「やあ、兄弟、おめでとう。思いもかけなかったな、アイスキュロス、ソフォクレス、に並んで君か! どうやってこうなったんだ? 想像もつかない。しかし、たいしたもんだ! 勿論、この俺なんぞ、友達扱いはなしだな? 俺達がシェイクスピアを友達に持つなど、あり得ないからな!」
 「馬鹿なことを言わないで下さい」と、私はそっけなく言う。
 「うん、そうそう、言葉など不要だ、ここは。いや、たいしたもんだ、実に。そうそう、俺は君に、悪意など持ってないぞ。さ、キスだ。キスをしてくれ、ぢいさん!」そこで私は、冗談に、彼の短い髭を避けながら、唇で頬に軽く触れる。
 「紹介する!」と、リカスパーストフは言う。そして、太った男を指差す。太った男は目を伏せず、私の目をじっと見て、「クループです」と言う。
 私は、もう一人のアフリカ人らしい男にも紹介される。この男はたどたどしい英語で、やたらに長い挨拶の文章を述べる。私にはこの男の英語はさっぱり分らず、従って彼には何も言葉を返さない。
 「勿論アトリエ公演をやるんだろうね」と、リカスパーストフは、問い質(ただ)すように訊く。
 「分らない」と、私は答え、言う。「多分、本公演だ・・・」
 再びリカスパーストフは真っ青になる。悲しそうな表情で、青い空を見上げる。
 「そうだな」と嗄(しゃが)れた声で彼は言う。「運命だ。運命だ。何事もな。ここでは君、成功するかもしれんな。小説では駄目だったが、芝居ではうまく行くかもしれん。ただ、威張るのは駄目だ。覚えとけ。友達を忘れるぐらい馬鹿なことはないんだからな。」
 クループは私をじっと見ている。何か考えながら立って、じっと。その様子を見て私は、彼が私の髪の毛と鼻を注意深く観察しているのに気づく。
 もうそろそろ別れねばならない。これが一仕事だった。イェゴールは私の手を握り、私が彼の作品を読んだかどうかを訊ねる。私は恐怖で寒くなる。が、読んでいないと答える。イェゴールは青くなる。
 「こいつに読める訳はありませんよ」とリカスパーストフが言う。「現代のものを読む暇なんかありゃしないんですから・・・いや、これは冗談、冗談・・・」
 「いや、読んだ方がいい」と、重々しくイェゴールが言う。「良い本もあるんだ。」
 私は玄関から部屋へ上る。通りに面した窓が開いている。緑色の肩章をつけた男が、窓を雑巾で拭いている。洗剤で曇った窓ガラスを通して、例の四人が見える。そこからリカスパーストフの声が届いてくる。
 「いやいや、参った。驚いた。鳩が豆鉄砲を食ったようなもんだ。糞ったれ!」
 広告が私の頭の中でいつまでもぐるぐる回っている。この時点で私が考えていたことは唯一つだった。ここだけの話、あの芝居はまだとても不出来で、人前に出すためには何かしなければ・・・しかし、どうすればよいか、私には分らなかった。
 男が階段を降りて部屋に入って来る。がっしりした体格、ブロンドの髪、厳しい顔で、心配そうな目つきをしている。手に分厚い紙挟みを持っている。
 「マクスードフさん?」と、彼は訊く。
 「ええ、私ですが・・・」
 「劇場中捜しましたよ」と、この新しい私の知合いは言った。「私、舞台監督のフォーマ・ストゥリーシュです。お芝居は順調です。どうぞご心配なく。担当も決まりました。みんな適任の者達です。契約はなさいましたか?」
 「ええ。」
 「それじゃ、もう、我々の仲間ですね」こうストゥリーシュはしっかりと言い、そして続けた。彼の目は輝いていた。「それから、契約を、これから書く全ての作品に拡げるんですよ! 一生! あなたの作品が全部ここで出来るように。お望みなら、今でも契約出来ますよ。決心して、パッと唾を吐くんです」と言ってストゥリーシュは、痰壷(たんつぼ)にパッと唾を吐く。「私がかけるんです、あの芝居は。準備期間は二箇月です。十二月十五日には公開しますよ。シラーのものは手がかかりません。あれはもうスラスラですから・・・」
 「申訳ありませんが」と、私は恐る恐る言う。「イェヴラームピア・ピェトゥローヴナが何かかけるとか・・・」
 ストゥリーシュの顔色が変った。
 「イェヴラームピア・ピェトゥローヴナがどうしたっていうんです?」と厳しい顔つきで彼は言う。「イェヴラームピアの出る幕じゃありません。」彼の顔は金属的になる。「イェヴラームピアは、ここでは何の関係もない筈です。イリチーンと一緒に「はなれの扉で」をかけるんですから。私はきちんとイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチに話はつけてあるんです! 誰かが何かを企(たくら)んだら、私はすぐインドに手紙を出します。そう、書留めで出しますよ、そんなことが起ったら」と、何となく、どういう訳か、不安な気持を見せながらフォーマ・ストゥリーシュは叫ぶ。「台本をちょっと見せて下さい」と、彼は手を伸ばして私に頼む。
 私は、まだ出来上がっていないことを彼に説明する。
 「一体連中、何を考えているんだ。」憤慨して、あたりを見回しながらストゥリーシュは叫ぶ。「あなた、パリクスクスェーナ・タラピェーツカヤの浴場脱衣所に行きましたか?」
(訳註 「浴場脱衣所」はタラピェーツカヤの事務所。しかし今の段階では、マクスードフにその意味が分る訳がない。)
 私は何のことか分らず、びっくりした顔でただストゥリーシュを見ている。
 「行ってない? 今日は彼女、休みだ。そう、明日になったら早速行って台本を引ったくって来るんです。行くんですよ、彼女のところへ。私が言ったと、そう言って下さい。勇気を出して!」
 この時、非常によくしつけられた、但しアールとエルの発音が不明瞭な、人物が現れて、礼儀正しく、しかし粘り強く、ストゥリーシュに言った。
 「リハーサル室にお越し下さい。フォーマ・スェルゲーイェヴィッチ・・・始まります。」
 フォーマは分厚い紙挟みを小脇に抱え、部屋を出る。出がけに私に怒鳴る。
 「明日にもですよ。浴場脱衣所に。私からだと・・・」
 私はじっと立ったまま、長い間動かなかった。

     第 十 章
   浴場脱衣所
 ああ、よく覚えている、あの時のことを! 私の芝居は十三場あった。自分の小さな部屋に入り、古い銀時計を目の前に置いて、私は声を出して自分の芝居を読む。隣の部屋の住人は驚いたことだろう。一場毎に私は所要時間を紙に書留める。読み終ると、全部で三時間かかることが分る。勿論私には、観客が食事をとるための幕間の時間があることは知っている。この時間を加えると、私の芝居は一晩で演じ終ることは無理だ。悩んだあげく、ある一場を削ることにする。これで二十分は短くなる。が、事情はまだ変らない。幕間以外にも、「間」の時間があるのだ。例えば、役者が泣きながら花瓶の花を直す。台詞はないが時間は流れるのだ。それに、家でブツブツと台本を読むのと、それを舞台で発音するのは大違いだ。
 まだ何かを捨てねばならない。しかし何を・・・私には見当がつかなかった。全てが私には重要に思えた。それに、試しにある部分に印をつけ、そこを削るつもりでまた読み直してみると、様々なところに影響が出て来る。最初はカーテンレールほどのものが崩れ、バルコニーが崩れ、階段が崩れ、そして建物全体が崩れてしまう結果になった。
 しかたなく私は、ある一人の登場人物を削ってみる。すると一場省略しても大丈夫らしくなり、ついに最後に一場丸々削ることに成功する。これで芝居は十一場になる。
 それ以上はどんなに脳みそを絞っても、どんなに煙草を吸っても、何も削ることは出来なくなる。毎日左のこめかみが痛む。これ以上はもう何も出て来ないと、私は諦め、後は自然の流れに任せようと決心する。
 私はパリクスェーナ・タラピェーツカヤのところへ行くことに決める。
 「いや待てよ、ボンバールドフにまづ相談しなければ・・・」と私は思う。
 ボンバールドフはいつも私を助けてくれていた。彼の説明によると、「インドに手紙」とフォーマが言っていたが、確かにアリスタールフのインド行きは二度目のことだった。それから、「浴場脱衣所」は戯言(たわごと)ではなく、実際にそう呼ばれていて、私が聞いたことがないだけだと分った。また、独立劇団の長は二人いることが決定的に明らかになる。一人はイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチ(これはガヴリーイル・スチェパーノヴィッチの部屋で推測がついていたが)、もう一人はアリスタールフ・プラトーノヴィッチだった。
 「じゃ、どうしてなんだ。僕が契約書にサインした部屋には、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチの肖像画しかなかったが?」
 ここで、普段は非常に歯切れの良いボンバールドフが、何故か言いよどむ。
 「何故?・・・エー・・・下に・・・アリスタールフ・プラトーノヴィッチの・・・肖像が・・・或は上に・・・なかったかな・・・?」
 ボンバールドフが、まだ私に遠慮していることがこれで分る。まだ充分友達になってはいないのだ。この分り難い答で、それは明らかだ。従って私も、この微妙な問題にこれ以上触れることは止める。・・・「芝居の世界は魅力がある。しかし、謎に満ちている・・・」と私は思う。
 「インド? その話は簡単だ。アリスタールフ・プラトーノヴィッチが今、この時点、インドに行っている。だからフォーマは、アリスタールフ・プラトーノヴィッチに手紙を書くと言ったんだ。『浴場脱衣所』は、役者達の冗談だ。パリクスェーナ・ヴァスィーリイェヴナ・タラピェーツカヤは、理事長室の前にある部屋で事務をとっている。そしてその理事長室の前の部屋が『浴場脱衣所』。パリクスェーナはアリスタールフ・プラトーノヴィッチの秘書なんだ。」
(英語訳の註によると、「ある者に風呂を与える」というロシア語の表現は、「さんざん油を絞られる」という意味。理事長室の前で待たされるのは、理事長に油を絞られる前の状態なので、この部屋にこの名前がついた、と。)
 「で、アーヴグスタ・アヴデェーイェヴナは?」
 「勿論、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチの秘書だよ。」
 「ははあ・・・」
 「そう。『ははあ』だ。」と、ボンバールドフは、私を意味深長の顔で言う。「しかし、これだけは忠告しておきなきゃ。タラピェーツカヤには、必ず良い印象を与えるようにすること。」
 「そんなこと、僕には無理だ。」
 「いや、それはどうしても気をつけないと!」
 原稿を丸めて入れた円形の容器を持って私は、劇場の上の階へ上り、所謂『浴場脱衣所』の前に着く。
 その部屋の前にはちょっとしたホールがあり、ソファが置いてある。そこで私は立止まる。少し心配になり、どうやったらパリクスェーナ・タラピェーツカヤに良い印象を与えられるかと、あれこれ考えながらネクタイを直す。その時部屋から泣き声が聞えて来る・・・ような気がする。「ハハア、さては・・・」と考え、私は『浴場脱衣所』に入る。すると、私の「ハハア、さては・・・」は全く見当違いであることが判明する。非常にはっきりした表情の顔で、真っ赤なジャンパーを着て、斜面机の向こうにいる女性がパリクスェーナ・タラピェーツカヤであると、私は推定する。しかし、泣いていたのは当のその女性だったのだ。
 呆気にとられて、部屋にいる人間には気づかれないまま、扉のところで私は、突っ立っている。
 タラピェーツカヤの頬には涙が流れ、片手でハンカチを丸め、もう一方の手で斜面机を叩いている。肩章をつけた、そばかすのある、髭もじゃの男が、目に恐怖と悲しみを漂わせて、両手を空中に突き立てて、斜面机の前に立っていた。
 「パリクスェーナ・ヴァスィーリイェヴナ!」と、絶望のため獰猛になった声で、その男は叫んだ。「パリクスェーナ・ヴァスィーリイェヴナ! まだサインは済んでいません! 明日です、サインは!」
 「陰謀です」と、パリクスェーナ・タラピェーツカヤは叫ぶ。「あなた、騙そうとしたんです。デェミヤーン・クーズィミッチ! 陰謀です!」
 「パリクスェーナ・ヴァスィーリイェヴナ!」
 「アリスタールフ・プラトーノヴィッチがインドへ行っているのをいいことに、あなた、汚い陰謀を企んだのです。あなた、やつらに力を貸したんです!」
 「パリクスェーナ・ヴァスィーリイェヴナ! どうか!」と、怯(おび)えた声で男は叫ぶ。「何てことを仰るんです! 私の恩人のあの方を・・・」
 「もう何も聞きたくありません」と、タラピェーツカヤは叫ぶ。「みんな嘘! 汚い嘘です! あなた、買収されたんです!」
 これを聞いてデェミヤーン・クーズィミッチは金切声を上げる。
 「パリ・・・パリクスェーナ・・・」後が続かず、彼は恐ろしい吠えるようなバスで、突然泣き始める。
 ここでパリクスェーナは斜面机をぶっ叩くために片手を上げ、そして振り下ろす。その掌(てのひら)に、ペン立てに差してあったペン先が、ぐさりと突き刺さる。パリクスェーナはうっと呻き、斜面机から走って、ソファに倒れ込み、両足をバタバタさせる。足には、外国製の靴が履かれてあり、その靴にはキラキラ光るガラス製の留金がついている、
 デェミヤーン・クーズィミッチは叫ぶどころではなくなり、低く唸るような声を上げる。
 「大変だ。医者を!」そして彼は、部屋を走り出る。私も彼に続きホールに出る。
 五六分すると、灰色の背広を着た男が、手にガーゼと薬瓶を持って現れ、「浴場脱衣所」に入って行く。
 医者の金切声が聞えた。
 「パリクスェーナ! 落着いて!」
 「一体どうしたんです?」と、私はデェミヤーン・クーズィミッチに囁き声で訊く。
 「見て下さい、これを」と、デェミヤーン・クーズィミッチは、涙をためた、途方に暮れた目を私に向けて言う。「十月にソチに出張する人間が五人いて、私は許可依頼を委員会に提出したんです。そうしたら、四人分の許可がおりたのですが、アリスタールフ・プラトーノヴィッチの甥御さんの許可がない。委員会の方で忘れたか何かしたんです。それで明日、十二日に取りに来いという・・・ほら、見て下さい。これが私の陰謀ですか!」彼の苦悩に満ちた目からして、デェミヤーン・クーズィミッチが潔白であることは明らかだった。陰謀を彼がやった筈はなく、また、普段からするような人間ではないのだ。
 「浴場脱衣所」から、低い「アイタ・・・」という声が聞えて来る。デェミヤーン・クーズィミッチは立上がり、ホールから走って消えて行く。十分経った時、医者も部屋から出て来て、立去った。私はホールで、それから暫くはソファに坐っていたが、「浴場脱衣所」からタイプライターの音が聞えてきたので、勇を鼓(こ)して部屋に入る。
 パリクスェーナ・タラピェーツカヤは、白粉(おしろい)をはたき、落着いている。斜面机についてタイプを打っている。私はお辞儀をする。そのお辞儀が相手にとって快いものであることを願って。また、品位のあるものであることを祈って。そして、品位と快さを込めたつもりの声を出す。しかし、我ながら驚いたことに、その声は妙に押殺した音に聞える。
 自分が何者であり、またフォーマに言われてここに、芝居のことでやって来たのだと説明すると、坐って待つようにと命ぜられ、私はその指示に従う。
 「浴場脱衣所」の壁には沢山の写真、絵画が貼ってある。ひときわ目立つのが、大きな油絵の肖像画で、七十年代風の頬髭を生やした、フロックコートの、堂々とした男が描かれている。これが多分アリスタールフ・プラトーノヴィッチだなと、私は想像する。しかしその肖像画で分らないのは、その男の頭の上の方に、浮んでいるように見える、手に透明なショールを持った、年配か若いのか不明の、色の白い女性であった。この謎に私は酷く悩まされたので、失礼にならない瞬間を捉えて、空咳をし、このことを訊ねる。
 間がある。その間パリクスェーナは私の方に目を向け、私をじっと観察する。そしてやっと答える。しかし、どこかその答にはわざとらしさがある。
 「あれはミューズ(詩の女神)です。」
 「ああ」と私は言う。
 再びタイプが始まる。私はまた壁を眺め、理解する。貼られている写真、絵画の全てに、アリスタールフ・プラトーノヴィッチが居(い)、必ず彼とは別に、誰か他の人物がそれに登場している、ということを。
 例えば、色あせて、黄色味を帯びている写真があり、それには、森の外れのアリスタールフ・プラトーノヴィッチがいる。アリスタールフ・プラトーノヴィッチはシルクハットに外套、そして足にはオーバーシューズ、つまり、町中(まちなか)を歩く格好だ。一方その傍には、ロシア風の短上衣を着て、二連発の猟銃を持ち、獲物袋を下げた男が居(い)、彼の鼻眼鏡とごま塩の顎髭に、私は見覚えがあるような気がする。
 この時パリクスェーナ・タラピェーツカヤは素晴しい能力を私に見せつける。タイプを打ちながら、魔法のようなやり方で、部屋の中で起っていることを見てとるのだ。彼女が、私の質問を待たず、次のように言った時には、私は思わずびくっとした。
 「そうそう、それはトゥルゲーニェフと狩で一緒のアリスタールフ・プラトーノヴィッチです。」
 このようにして私は、スラヴャーンスキイ・バザールの道路で、二頭立ての馬車の横にいる外套姿の二人は、アリスタールフ・プラトーノヴィッチとオストゥローフスキイなのだと分る。
 また、イチジクの皿がのっているテーブルに坐っている四人は、アリスタールフ・プラトーノヴィッチ、ピーセムスキイ、グリゴーラヴィッチ、それにリェスコーフだ。
 次の写真は全く訊く必要がなかった。老人、裸足で、長いシャツ、両手を帯に突っ込んで、灌木の茂みのような眉毛、伸び放題の顎髭、頭が禿(は)げている・・・リェーフ・タルストーイ以外の何者でもなかった。アリスタールフ・プラトーノヴィッチは、彼、リェーフ・タルストーイ、の正面に、平べったい藁(わら)の帽子を被り、絹製の夏の背広を着ている。
 しかし、次の水彩画は私をアッと驚かせる。『まさか、そんな』と、私は思う。貧相な部屋。そのソファに、鳥の嘴(くちばし)のような鼻の男が坐っている。病的な、心配事があるような目、疲れきった頬に、真直ぐ髪が垂れ下がっている。ストライプのついた、短くて明るい色のズボン、先が四角い形をした靴、灰色の燕尾服。膝に原稿用紙。それが机の上の燭台で光っている。
 その前に、十七歳ぐらいの若い男が、ジャンパー姿で、両手を後ろ手に机を背にして立っている。まだ頬髭は生えていない。しかし、若さのため、傲慢な鼻に見える。疑うべくもないアリスタールフ・プラトーノヴィッチだ。
 私は目を大きく見張ってパリクスェーナを見る。パリクスェーナは涼しい顔をして答える。
 「ええ、ええ、ゴーゴリです。『死せる魂』の第二部をアリスタールフ・プラトーノヴィッチに読んで聞かせているところ。」
 私は自分の頭の天辺(てっぺん)の髪の毛が動くのを感じた。誰かが後ろから吹いたように思った。そして思わず口から言葉が出てしまった。
 「アリスタールフ・プラトーノヴィッチって、一体何歳なんです?」
 この無作法な質問に対して私が受けた答は、それに相応しい奇妙なものだった。ただ、パリクスェーナの声には、何となくバイブレーションがかかっているように私には聞えた。
 「アリスタールフ・プラトーノヴィッチのような人には、年齢は存在しないのです。彼が活躍していた時代には、彼の交際範囲は非常に広く、その付合いを彼はまた、非常にうまく利用することが出来たのです。どうやらあなたは、そのことにひどく驚いたようですね?」
 「驚くなんてとんでもない!」と、私はびっくりして叫んだ。「その反対です・・・私は・・・」と言いかけたが、その後に続ける有効な台詞は何もなかった。何故なら私は思ったから、『その反対ですだと? 何という戯言(たわごと)を言うんだ、この俺は。』
 パリクスェーナは黙る。私は考える。『いや、駄目だ。いい印象を与えようと思ったが、失敗だったな。悪い印象だ、こいつは。』
 その時扉が開く。そして浴場脱衣所に、生き生きした足取りで、女性が入って来る。私は一目見ただけで、それがリュドゥミーラ・スィリヴェストゥローヴナ・プリャーヒナだと分る。肖像画の回廊で見たそのままの女性だったからだ。肖像画と何一つ違わない。矢の形に結んだネッカチーフ、小指を立てて持っているハンカチ・・・
 このプリャーヒナ嬢にも良い印象を持って貰うのは悪くない考えだ。よし、一つ、慇懃なお辞儀でもしてみるか。私はピョコリと頭を下げる。しかし、これは全くプリャーヒナ嬢の目にはとまらない。
 走って部屋に入るや、彼女は明るい声でケラケラと笑い、叫ぶ。
 「ほらほら、見なかった? 見なかったの? あれを。」
 「何をです!」と、タラピェーツカヤは訊いた。
 「お日様よ。ほら、お日様!」と、リュドミーラ・スィリヴェストゥローヴナは叫び、ハンカチを振り、少し踊るような足踏みをする。「小春日和! 小春日和!」
 パリクスェーナは、リュドミーラ・スィリヴェストゥローヴナを奇妙な目つきで見た後、言う。
 「さ、あなた、アンケートに答を埋めて。」
 途端にリュドゥミーラ・スィリヴェストゥローヴナの陽気さが消える。そして、その表情があまりに変ったので、私は今や、この顔ならどこで会っても、あの肖像画の人物であるとは、とても見抜けないだろう。
 「何? アンケートって。あら・・・あら厭だ!」私は彼女の声まで変ったことに気づく。「私、たった今、お日様を見て喜んだところ。ああ、こんな時よ、種(たね)から芽が出て来るの、弓が音楽を奏(かな)でるの、って、思っていたところ。それがまあ、急に陰気なお寺の中にいるなんて・・・さ、頂戴、頂戴、早く!」
 「そんなに怒鳴ることないでしょう? リュドゥミーラ・スィリヴェストゥローヴナ」と、静かにタラピェーツカヤが言う。
 「ええ、ええ、大声は出さないわ。でも厭らしいこと、ここには書いてないでしょうね?」と、プリャーヒナは、さっとアンケート用紙に目を走らせる。そして突然、紙を突き返す。「ああ、これ、あなた書いて、私の代りに。私、こういうの、ちっとも分らないの!」
 タラピェーツカヤは肩をすくめて、ペンを取る。
 「そう、そこはプリャーヒナ、プリャーヒナよ」と、苛々しながらリュドゥミーラ・スィリヴェストゥローヴナは叫ぶ。「それからそこは、リュドゥミーラ・スィリヴェストゥローヴナ。そんなの、誰だって知ってるでしょう? 私、何も隠しはしないわ。」
 タラピェーツカヤはその三つの単語をアンケート用紙に書入れ、次に訊く。
 「生まれはいつ?」
 この質問は驚くべき変化をプリャーヒナに与える。彼女の頬骨に赤い斑点が現れ、突然囁き声で喋り始める。
 「ああ、聖母マリア様! 何でしょう、一体これは。誰に必要なの? こんなことを知ることが、何故? どうして? ええ、分りました。五月。私、五月に生まれたの。それ以上、何が必要っていうの? 何が。」
 「何年か、が、必要です」と、静かにタラピェーツカヤは言う。
 プリャーヒナの目が、鼻の方へ寄って、傾く。そして肩が震え始める。
 「リハーサルの前、役者ってどんなに神経を使うものか、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチに分って貰いたいわ、本当に」と、プリャーヒナは呟く。
 「いいえ、リュドゥミーラ・スィリヴェストゥローヴナ、そんなことは出来ません」と、冷たくタラピェーツカヤは言い、「さ、そのアンケートを家に持って行って。自分で埋めて来なさい、好きなように。」
 プリャーヒナは用紙を掴み、しぶしぶ、ハンドバッグにそれを突っ込み始める。唇がピクピク動く。
 その時電話が鳴る。タラピェーツカヤはつっけんどんに怒鳴る。
 「はい! いいえ。何が切符です。切符なんか、ここにはありません!・・・何ですって? こんなことで電話したりして。何ですか、あなた! 切符なんかないと、さっきから・・・ええっ? ああ!」タラピェーツカヤは真っ赤になる。「ああ、失礼しました! 声が分りませんでして! ええ、ええ、勿論! 勿論です! 事務所に置いておくよう、指示します。ところで、フェオフィール・ヴラディーミロヴィッチはいらっしゃらないのですか? 残念ですわ。それは本当に残念。どうぞ、どうぞ、宜しくお伝えくださいませね?」
 間の悪い顔で、タラピェーツカヤは受話器を置き、言う。
 「あんたのお陰。私、えらい恥をかいたわ!」
 「ほっといて頂戴!」と苛々してプリャーヒナが叫ぶ。「芽が出てきた種もすっかり駄目! 今日一日が台無し!」
 「そう」と、タラピェーツカヤ。「座長があんたを呼んでいたわ。来るようにって。」
 プリャーヒナの頬にうっすらと赤味がさした。眉をきりっとつり上げて、
 「座長が私に何の用があるって言うの? 面白いわね!」
 「衣装係のカラリコーヴァが、あなたのことを言いつけたようよ。」
 「カラリコーヴァ? 何、その人」と、プリャーヒナは叫んだ。「誰、一体。ああ、思い出した! あら、どうしてすぐ思い出さなかったんだろう?」
 ここでリュドゥミーラ・スィリヴェストゥローヴナは、口をぐっと締め、「ウウウッ」と、押殺したような笑い声を出す。私はそれを聞いて背筋が寒くなる。「あら、カラリコーヴァ、あの人、私のスカートを駄目にしちゃったの。それなのにすぐ思い出さなかったなんて、変ね。それであの人が私に、何の用があるって言うの?」
 「あなたが虐(いじ)めたって言ってるわ。美容室のとなりの便所でね」とタラピェーツカヤは優しい声で言い、それと同時に一瞬、タラピェーツカヤの目が、クリスタルガラスのようにキラリと光る。
 タラピェーツカヤの言葉が齎(もたら)した効果は、私を愕然とさせた。プリャーヒナは、歯科医の椅子に坐った時のように、口を大きく歪(ゆが)めて開き、両眼からどっと涙が、二つの奔流(ほんりゅう)となって落ちる。私の身体はソファの後ろの奥の方へとずり落ちて行き、どういう訳か、両足が空中に浮き上がる。タラピェーツカヤはベルのボタンを押す。すぐに扉が開き、デェミヤーン・クーズィミッチの頭が部屋の中に突っ込まれ、またすぐ引込む。
 プリャーヒナは、拳(こぶし)を額にあて、激しく甲高い声で叫んでいる。
 「私を殺すって言うの? ああ、神様、神様、神様! ああ、聖母マリア様、この劇場で私にどんな仕打ちがなされているか、どうぞ御覧下さい! ああ、卑劣な奴、ピェリカーン! それに裏切り者のゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチ! きっと私のことで、あることないこと、言いふらしたのよ! いい、私、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチのところに行って、言いつけてやる・・・」声が小さくなり、掠(かす)れてくる。
 ここで扉がさっと開き、さっきの医者が走って入って来る。手には薬瓶とグラスがある。誰に何も問うこともなく、医者は、慣れた手つきで薬瓶からグラスに数滴、濁った液体を注ぐ。しかしプリャーヒナは嗄(しゃが)れた声で叫ぶ。
 「ほっといて! 私を、ほっといて! 下劣な人達! あんた達は!」そう言いながら部屋を飛び出して行く。
 医者は「あなた、あなた」と、叫びながらその後を追い、また、どこからともなく、デェミヤーン・クーズィミッチが現れ、通風のおぼつかない足を踏み踏み、またその後を追いかけて行く。
 大きく開いた扉から、ピアノのポンポンと鳴る音が入り、それと同時に力強い情熱的な声が歌を歌う。
 「・・・お前は、女帝になるのだ・・・そして・・・そして・・・」その声は堂々と部屋中に響き渡る。しかし、扉は閉められ、声は消える。
 「さてと、邪魔者はかたづきました。では、仕事の話を」と、タラピェーツカヤはにこやかに微笑んで言う。

     第 十 一 章
   劇場と知合う
 タラピェーツカヤのタイプライターの技術は、これ以上は望めないものだった。私はこのような卓越した技術を見たことがない。句読点の指摘は不要だし、誰が喋る台詞かを言う必要もない。私はこれに慣れてしまって、仕舞にはただ「浴場脱衣所」をゆっくり行ったり来たりしながら、立止まり、台詞を言い、考え、『いや、ちょっと待って』と、一旦言ったものを変えたり、興奮してただ会話だけを、呟いたり大声で言ったりした。しかし私が何をやろうと、タラピェーツカヤは全く文字の削除なしに、すらすらと綺麗な芝居のテキストを打ち上げて行く。文法的誤り全くなしに、そのまま印刷所に出せる原稿が出来上がるのだ。
 タラピェーツカヤは自分の仕事を知っており、それをやりこなしていた。それも、電話のベルの音を伴奏に。この電話のベルは、最初はひどく気になる。しかし次第に慣れてきて、仕舞にはこの音を聞くのが楽しくなる。パリクスェーナはこの音を、無類の手際で処理する。彼女はすかさず怒鳴るのだ。
 「はい。用件は? 早く、早く! 私、忙しいの! えっ?」
 こういう答を聞いた電話の相手はうろたえて、最初は馬鹿なことをブツブツ呟く。しかし、すぐ気を取り直して、ちゃんと返事をするのだ。
 タラピェーツカヤの活動範囲は非常に広い。彼女の電話の応対によって私はそれを知る。
 「はい・・・いいえ、ここに電話しないで下さい」と、タラピェーツカヤは言う。「ここには切符はありません・・・ぶち殺すぞ、この野郎!」(先ほど書いたものを繰返しここに書いた。)
 再びベルが鳴る。
 「切符は全部売切れました」とタラピェーツカヤは言う。「無料入場券はここにはありません・・・これが嘘だって分る訳ないものね。(これは私に。)」
 『やれやれ、そういうことか』と、私は思った。『モスクワでは沢山の人間が、芝居はただで入れると思っているんだ。しかし何故? 変なことだ。電車にただで乗ろうとする人間はいないし、食料品店に入って、イワシの缶詰をただでよこせと言う馬鹿もいない。何故芝居だけはただで入れると思っているんだろう。』
 「そうそう」と、タラピェーツカヤは電話で叫ぶ。「カルカッタ、パンジャブ、マドラス、アロガバール・・・住所なんか教えてやるものか。ね?(これは私に。)」
 「僕のフィアンセの窓の下でスペインのセレナーデを歌うのは許さんぞ」と私は「浴場脱衣所」の中を走り回りながら熱を込めて喋る。
 「許さんぞ・・・」と、タラピェーツカヤは繰返す。タイプライターがカタカタと鳴る。電話のベルが大きな音を出す。
 「はい、独立劇場! いいえ、切符はありません、全然! 許さんぞ・・・」
 「許さんぞ」と、私は言う。「イェルマコーフは床にギターを投げつけ、バルコニーに走り出る。」
 「そう、独立劇場! 切符はないと言ったでしょう・・・走り出る。」
 「アーンナは突進する・・・いや、ただ、彼の後について退場。」
 「退場?・・・ええっ? ええ、そう。ブトーヴィッチさん、事務所のフィーリアのところへ行って下さい。切符はとってあります。では。」
 「アーンナ、ああ? あの人、ピストル自殺! バフチーン、ピストル自殺? まさか!」
 「はい! ええ、彼女と一緒です。それからアンダモーンスキイ島へ。・・・残念ですが、住所はお知らせ出来ません、アリビェールト・アリビェールトヴィッチ・・・ピストル自殺? まさか。」
 パリクスェーナ・タラピェーツカヤは褒められてしかるべきだ。彼女は自分の仕事を知っている。タイプは十本の指で打つ、つまり両手で。しかし、電話が鳴るや、彼女は片手で打つ。もう片方は受話器を取って。「カルカッタは気に入らなかった。身体の調子は上々・・・」と怒鳴る。デェミヤーン・クーズィミッチがしばしば部屋に入って来る。事務所に走って入って来て、何か書類を彼女に渡すのだ。タラピェーツカヤは右の目でそれを読み、ハンコを押す。左目はタイプライターにあって「アコーデオンが陽気に鳴っている。しかしそのため・・・」
 「いや、待って、待って!」と私が叫ぶ。「陽気に、じゃない。勇壮に・・・いや、それでも駄目だ・・・待って・・・」私はぼんやり壁を見つめる。アコーデオンはどんな風に鳴るのか・・・。この間にタラピェーツカヤは、白粉(おしろい)をはたき、ミーッスィーとかいう人物に電話で話している。コルセットの設計図をビェーン・アリビェールト・アリビェールトヴィッチに持って行くからと。浴場脱衣所にはいろいろな人間が現れる。最初のうち私は、彼等のいるところで口述をするのが恥かしかった。着物を着ている人達の中で唯一人自分だけが裸になっているような気がしたからだ。しかし、すぐにそれに慣れる。
 ミーシャ・パーニンがよく現れ、その度に私を激励するように、肘から手首までの間の部分をギュッと押して、それから自分の部屋に入って行った。その頃には私にはもう分っていたが、その部屋は彼の芝居分析室だった。
 綺麗に顔を剃った退廃的ローマ人の横顔をもった、舞台監督のイヴァーン・アリェクサーンドロヴィッチ・パルタラーツキイが、ひょうきんに下唇を突出しながら、よくやって来た。
 「お邪魔して申訳ないが、第二幕はもう書き終った? それは凄い!」と、大きな声で言い、足音を立てないのを、大げさに足を上げて歩いてみせ、別の扉の方へと消えて行く。その扉が時に開いていることがあり、次のような声が聞えて来る。
 「私はどうでもいいんだ。私は偏見のない男だからね。・・・面白いじゃないか、徒競走にズボン下で走らせるの。いや、インドは気にも留めないよ。・・・全員同じ格好がいい。侯爵も男爵も男達も・・・色も形もすっかり同じズボン下!・・・えっ? 君、ズボンを穿かせたい? 私は別に反対しないよ! じゃ、そこは作り直しだ。それで走らせろ! 全く・・・嘘だったのか! ピェーチャ・ディートリッヒがそんな衣装を描く筈がないと思ったよ! 彼はちゃんとズボンを描いていたんだ! 私の机の上にスケッチもある! ピェーチャは・・・洗練されていようといまいと、ピェーチャ自身、ズボンを穿いて歩いているんだ! 当り前だろう!」
 昼の真最中、私が髪を掻きむしって、「人が落ちる・・・ピストルを落す・・・血が出る・・・血が流れる・・・」どう表現しようか悩んでいた時、「浴場脱衣所」に、若い地味な服装をした女優が入って来て叫ぶ。
 「今日は、パリクスェーナ・ヴァスィーリイェヴナ! 私、花束を持って来たわ!」
 彼女はパリクスェーナにキスし、ヨメナ(紫苑)の花束を四つ、机の上に置く。
 「インドから私に何か来てないかしら?」
 「来てるわ」と、パリクスェーナは答える。そして、引出しから分厚い封筒を取出る。女優は心配そうな顔をする。
 「ヴェシュニャコーヴァに伝えるように」と、タラピェーツカヤは読む。「クスェーニヤの役を演じる時の秘訣を言う・・・」
 「ええ、ええ・・・」とヴェシュニャコーヴァが叫ぶ。
 「私はプラスコーヴィヤ・フョードロヴナとガンジス河の川岸に坐っていた。その時フッと湧いて来た。ヴェシュニャコーヴァは決して中央の扉から登場してはならない。ピアノのあるあの脇の扉から登場する。彼女はつい最近夫を亡くしたのだ。だから中央扉は何が何でも駄目だ。抑制のよくきいた足取りで、視線を床に落して、両手に野生のカミッレの花束を持ち、未亡人の典型の姿で・・・」
 「本当! その通りだわ! 添え木のようにね!」と、ヴェシュニャコーヴァは叫んだ。「本当にそう、中央扉じゃ駄目ね。」
 「ちょっと待って」とタラピェーツカヤが続ける。「まだ何かあるわ。そして続きを読む。「だけどまあ、ヴェシュニャコーヴァには、好きな扉から出させればよい! 私が帰れば全てはっきりする。どうもガンジス河は気に入らない。私の考えでは、この河は何かが足りない・・・」「そう、あなた宛には、そういうこと」と、パリクスェーナは結論を下す。
 「パリクスェーナ・ヴァスィーリイェヴナ」と、ヴェシュニャコーヴァは言う。「アリスタールフ・プラトーノヴィッチに、本当に、本当に、宜しくって書いて。私が感謝しているって。」
 「いいわ。」
 「私、自分で書いちゃいけないのね?」
 「自分では駄目」と、パリクスェーナは答える。「私以外の誰からも手紙は出さないようにって言われているの。沈思黙考の時間の邪魔になるからって。」
 「分るわ! 分るわ!」と、ヴェシュニャコーヴァは叫ぶ。そしてタラピェーツカヤにキスをし、部屋を出る。
 そこへ、エネルギッシュな、太った、中年の男が、勢いよく入って来て、まだ扉のところから大声で叫ぶ。
 「新しい笑い話だ! 聞いた? ああ、今、仕事中?」
 「大丈夫。丁度休憩中」と、タラピェーツカヤが言う。笑い話を詰込んで来たこの太った男は、喜びで顔を赤くしてタラピェーツカヤにお辞儀をする。そして手で合図をし、人を集める。ミーシャ・パーニン、パルタラーツキイ、それにもう一人、が、話を聞きに来る。机の上に頭がそろう。私に聞えてくる、「そしてその時に、夫がホテルに帰って来るんだ・・・」どっと笑い声があがる。太った男がまた何か囁く。ミーシャ・パーニンは「ハッハッハッ」の発作を起す。パルタラーツキイは「こいつはいい!」そして大声で笑い、部屋を飛び出し、叫ぶ。
 「ヴァースャ! ヴァースャ! おい、聞いたか? 新しい笑い話だ!」
 しかしヴァースャは笑い話を聞きそこねる。何故なら、タラピェーツカヤがその太った男を呼び戻したから。
 どうやらアリスタールフ・プラトーノヴィッチは、この太った男宛に、たっぷり書いてきたらしい。
 「イェラーギンに伝えて欲しい」と、タラピェーツカヤは読む。「彼は結果をすぐ出そうとする癖がある。これだ、かれが一番しなければならないのは。」イェラーギンはさっと顔色を変える。そして手紙を覗き込む。
 「彼に言うように」と、タラピェーツカヤが続ける。「将軍の夜会の場で、イェラーギンが大佐夫人に挨拶をする場面がある。彼がその場に登場して、すぐ挨拶をするのは駄目だ。その前に机の周りを回って、困ったような微笑を浮べる必要がある。彼はアルコール醸造の工場を持っているのだ。だから、すぐ挨拶をすることは決して出来ない。」
 「それは理解出来ない!」とイェラーギンは言う。「すみませんが、私には分りません。」イェラーギンは、何かの周りを回るような仕草をして、部屋を一回りする。「いや、私はそんなことを感じることは出来ない。変ですよ、それは・・・大佐の妻が目の前にいて、それで彼がぐずぐずして挨拶しない? 私には分らない!」
 「あなた、この場面のことをアリスタールフ・プラトーノヴィッチよりよく分っていると言いたいの?」と、冷たくタラピェーツカヤが訊く。
 この質問はイェラーギンを当惑させる。
 「いいえ、そういうことを言っているんじゃありません」と、彼は赤くなる。「しかし、考えてみて下さい。いいですか?」と、またイェラーギンは部屋を一回りする。
 「アリスタールフ・プラトーノヴィッチには、実に、実に有難いことと感謝しています。インドからわざわざ・・・」
 「実に実に感謝・・・何を馬鹿な」と、突然イェラーギンはブツブツ言い始めた。
 『偉いぞ、このイェラーギンは』と、私は思う。
 「あなた、アリスタールフ・プラトーノヴィッチがその次に何を書いているか、よく聞いた方がいいわ」と、タラピェーツカヤは言い、その先を続ける。『ところでイェラーギンには、好きなようにやらせなさい。私が帰れば全てその辺は明らかになるんだから。』
 イェラーギンは喜び、次のような仕草をする。まづ右手で右頬のあたりをさっと一振りし、それから左手で左頬のあたりを。どうやら鼻髭のことらしかった。それから背を低くしてみせ、鼻の穴を膨らませて、威張ってそこから息を出し、また歯の間からも息を出した。そうしながら、最初に表現した鼻髭から二三本髭を毟(むし)り取る格好をして見せ、手紙に書かれていた自分への文章をそっくり繰返す。
 『名優だ!』と、私は思う。間違いなくそれは、アリスタールフ・プラトーノヴィッチの真似なのだ。
 タラピェーツカヤの顔にさっと血が上(のぼ)った。息をするのも苦しそうだ。
 「あなた、何て・・・何てことを・・・」
 「まあ言っておきますけど」と、イェラーギンは、口をあまり開けず、歯と歯の間から息を出しながら肩をすくめて、自分自身の普通の声で言う。「私には分りませんね、さっぱり。」そう言って扉の方に進み、そこから出る前に再びっくるりと一回転して、困ったように肩をすくめ、そして出て行く。
 「本当にあの連中ったら、みんなみんな、スェリェドゥニャキーだわ!」と、パリクスェーナは言う。「高尚なところなど薬にしたくてもないんだから。あなた、聞いた? 今の。」
 「ゴホゴホ」と、咳のような音を出して、私はごまかす。大事なところはつまり、パリクスェーナの「スェリェドゥニャキー」という言葉の意味を知らなかったからだ。(訳註 辞書には「凡庸な人」とある。)
 第一日目の終には、この『浴場脱衣所』で芝居を書くのは不可能だということが判明した。そこでパリクスェーナは、丸二日間、自分の直接の仕事が免除され、私と二人、女性更衣室(の一つ)に引っ越すことになる。デェミヤーン・クーズィミッチが息を切らしながら、そこへタイプライターを運ぶ。
 小春日和が過ぎ、湿っぽい秋がやって来た。灰色の日の光が窓に当っている。私は鏡に自分の姿を映しながら、ソファベッドに坐り、パリクスェーナは小さなスツールに坐る。芝居のことを考えると私は、二階建ての建物にいるような気分だった。上の階はてんやわんやで秩序がない。もう少し整然とさせねばならない。登場人物達はいろんな要求をしてきて私を悩ませる。一人一人が自分固有の台詞を主張し、われこそは第一の地位を、と、他の登場人物を押し退(の)ける。整理するのは骨の折れる仕事だった。下の階には確立した安定感があり、楽しめるものだったが、上の階の雑音がその平安を乱していた。ボンボン入れのようなこじんまりした更衣室の壁から、大げさに唇を膨らませ、目の下に隈(くま)をつくった婦人達の写真が、作り笑いを浮べてこちらを覗きこんでいる。彼女達はみんな、大きく張り拡げたスカートを穿いている。写真の中に、両手でシルクハットを持っている男の写真がかなりあり、その中に、歯が剥き出て光っているのが目立ったが、そのうちの一人は、油じみた肩章をつけている。酔っぱらい独特の大きな鼻が唇まで垂れ下がり、頬と首は皺で何層にも区切れている。それは実はイェラーギンだったのだ。パリクスェーナが言うまで、私は彼だとはとても思いつかなかった。
 私は写真に触ってみたり、ソファベッドに立って、まだ熱くなっていない電球や、空(から)の白粉(おしろい)入れを手に取ってみたり、何かの染料の微かな匂い、それからパリクスェーナが吸った煙草の甘い匂いを嗅いだりした。ここは静かだった。その静けさを、ただタイプライターのカタカタ鳴る音と、タイプライターの往復の合図のチーンという鈴の音、それから、寄せ木の床が少しキーキーいう音だけが、その静けさを破っている。開いた扉から時々見えるのは、糊のきいたスカートを何枚も重ねた束を、痩せた中年の婦人が、つま先立ちで運んでいる姿だった。
 このシーンとした廊下の静寂が、たまにどこかからの鈍い音楽の爆発音、それから遠くからの恐るべき叫び声、によってかき乱されることがあった。今では分っていることだが、蜘蛛の巣のはった古い廊下、階段の下、の練習場で、芝居「スチェパーン・ラーズィン」のリハーサルをやっていたのだ。
 我々は十二時から書き始め、二時に休憩をとった。パリクスェーナは、家事のために家に帰り、私は喫茶室に行った。
 喫茶室に行くために、私はまづ廊下を突っ切り、階段を降りねばならなかった。階段にはもう、魔法にかかったような静けさはなく、男優、女優達が上って来ていた。白い扉の向う側では電話が鳴っており、どこか別の電話には、誰かが大声で応答していた。階段を降りきると、アーヴグスタ・ミェナジュラーキーの部下の一人が当番を務めていた。(訳註 訪問客などの案内のため、扉の外に立っている役。)降りきって先に進むと、謎めいた中世の鉄の扉があり、その扉を開け、中に入ると、何だか果てしのない(と、私には思える)薄暗がりが続いている。両側が煉瓦の谷になっているのだ。その煉瓦の谷の壁は、何層にも装飾が施されている。その層と層の間に、白い木で作られた枠があり、その上に、当時の人には分るであろう黒い字で書かれた符丁がある。「一、ライオン、後部」「伯爵 本人には内緒」「寝室 第三幕」・・・のような。そして右手に、巾の広い、背の高い、(作られた当時は)黒い色をした門(複数)がある。その門には木戸がはめ込まれてあり、怪物の頭の錠があったが、この門は、舞台に通じていることを、私は知っていた。左手にも同じような門(複数)があり、こちらは中庭に通じている。物置の係の者達は、煉瓦の谷の間に収まりきらない大道具を、この門のところに運んで来ていた。一人になって考えるため、私はよく、この煉瓦の谷にやって来た。ここで一人になるのは容易だった。何故なら、大道具が詰込まれ、通行が困難で、行き違う時にはお互い、斜交(はすか)いに向かねばならないため、ここを通る人はめったにいなかったからである。
 蛇が出すような「シュー」っという音をたてて、鉄の扉にあるバネシリンダーが空気を吸込む。銅製のライオンの頭まで来ると、それで、ガヴリーイル・スチェパーノヴィッチの事務所の前を通っていることが分り、また暫く軍隊用絨毯を進むと、人々がたむろして話しているのが聞えて来る・・・つまり、喫茶室に着いたのだ。
 巨大な、何十リットルも入る、よく磨かれたサモワールが最初に目に入る。そしてカウンターの後ろの、そのサモワールの傍に、中年の、禿げた、非常に悲しそうな目をした、垂れ下がった口髭を生やした、背の小さな男に気づく。この男にまだ慣れていない客は誰でも、その悲しそうな目に必ず、憐れみと不安を抱くのだ。もの悲しげに溜息をつきながら、この悲しい顔の男は、カウンターの後ろに立ち、イクラのサンドイッチとブリゾンチーズのサンドイッチの山をじっと見詰めている。喫茶店に役者達がやって来る。サンドイッチの山を平らげて行く。すると、この悲しい顔の男の目に涙が溢れてくるのだ。彼にとっては、役者達がサンドイッチに払う金も嬉しくはなく、モスクワ中で一番良い場所、独立劇場で働いているという自覚も楽しくなく、大皿の上に載っている食物が跡形もなくなり、巨大なサモワールの中身が飲み尽くされるのが、ただただ悲しいのだ。
 哀れな秋の日の光が二つの窓から差し込んでいる。壁には一個、チューリップの笠の電灯が昼間もついている。しかし、店の隅っこは永久の薄暗がりだった。
 私はテーブルについている知らない人達のところへ行って、話しかけたかった。が、そうはしなかった。恥かしかったのだ。テーブルには抑えた笑いが聞こえ、至るところで人々が話をしていた。
 グラス一杯の紅茶を飲み、ブリゾンチーズのサンドイッチを食べると、私は劇場の別の場所に行く。私に一番気に入っていた場所は「営業所」と呼ばれているところだった。
 ここは劇場の他の場所とは際立って異なっていた。何故ならここは、言わば、通りからの人生が流れ込んで来る唯一つの賑やかな場所だったからだ。
 営業所は二つの部分から成立っていた。第一の部分は狭い部屋、この部屋まで来る道というのが複雑で、中庭から手のこんだ階段が作ってあり、この劇場に初めてやって来た人達は、必ず一度は迷うのだ。この部屋には二人の事務員、カトゥコーフとバクバリーンがいた。二人の前の机の上には、二つの電話があり、殆ど黙っている時はなく、いつでもリンリンと鳴っていた。
 私はほどなく、この二つの電話が鳴っているのは、電話をかけてくる人間が、ある特別な人物と話したいためなのだ、ということを理解した。その特別な人物とは、営業所の第二の部分、即ち、この部屋の隣、次の名札がかかっている部屋にいる人物なのだ。

 『内部規則課長
 フィリープ・フィリーッポヴィッチ・トゥルンバーソフ』

 トゥルンバーソフほど人気のある人物は、モスクワには他に誰もいなかったであろう。また、これからも出てきそうには思えない。私には、モスクワ全体がトゥルンバーソフに電話をかけてきているように、そして、カトゥコーフとバクバリーンの二人が交替交替で、トゥルンバーソフと話がしたくてたまらない人達を隣の部屋の電話に繋いでやっているように、思えた。
 ジュリアス・シーザーにはいろんなことを同時に行う能力があった、というのは、誰かから聞いた話だろうか、それとも私が夢で見たことなんだろうか。例えば、何か読みながら、人の話を聞くことが出来た、とか。
 バクバリーンとカトゥコーフの手の中でリンリン鳴っている二つの電話器の他に、フィリープ・フィリーッポヴィッチ自身の前に二台、それから壁に、古い型の電話器がもう一台かかっていた。
 フィリープ・フィリーッポヴィッチはブロンドの髪、丸い愛想のいい顔、そして非常に生き生きとした目をもった人物だった。しかしその奥には、誰にも分らない淋しさが潜んでいて、決してそれをあらわにすることはない。席は柵の向こうにあり、とても快適な場所だ。建物の外が昼であろうと夜であろうと、フィリープ・フィリーッポヴィッチのいるところは常に夜で、緑色の笠のついたランプが常についている。フィリープ・フィリーッポヴィッチの目の前の書き物机の上には、カレンダーが四つあり、その上には、前面に次のような謎の記号が書かれてあった。「香、二、机」「十三、朝、二」「修道、七七、七二七」・・・こういった類(たぐい)だ。
 同様の記号が机の上の開いたメモ帳五冊にも記載されている。また、フィリーップ・フィリーッポヴィッチの頭上には、茶色の熊の剥製がかかっており、その熊の一つの目には、電球が嵌め込まれている。フィリーップ・フィリーッポヴィッチは、外界から柵で仕切られていて、日中の間中ずっとこの柵は、ありとあらゆる出立(いでたち)の人間の腹によって、押されっぱなしだ。ここに、フィリーップ・フィリーッポヴィッチの前に、國中の人間がやって来た。それは確信をもって言える。ここに、彼の前に、あらゆる種類の、階層、信条、グループ、階級の代表者、が、性別を問わず、年齢を問わず、やって来た。擦り切れた帽子を被ったみすぼらしい身なりの一般人が現れたかと思うと、次には、色はその時々によって様々だが、肩章をつけた軍人が現れたりする。かと思うと、その軍人が、ビーバー製の糊のしっかり効いたカラーをつけた立派な身なりの男に、自分の順番を譲ったりする。糊の効いたカラーの人種の中には、更紗(さらさ)のルバーシカを着ている者もいる。巻毛の頭にハンチングを被った男、肩にエゾイタチの毛皮を掛けた豪奢な婦人、耳つきの帽子に防寒眼鏡。鼻に白粉(おしろい)をはたいた女性、小娘、沼地用長靴に裾長のラシャコートを革帯でしめた男、今度はまた軍人、菱型階級章をつけた高級将校、ガクガクしている顎、死んだような目、の老女。どういう訳か、連れの女にフランス語で話している。連れの女は、男物の外套を着ている、等々・・・
 柵に腹をつけることが出来ない人達は、後方に群がって、もみくちゃになった書類を持ち上げて振って見せたり、恐る恐る「フィリーップ・フィリーッポヴィッチ」と呼びかけたりする。時々は柵を包囲している者達の中に、外套など厚いものを羽織らず、ブラウス、或は背広のままの男女がいることがある。どうやらそれは、独立劇場の男優、女優、らしかった。
 しかし、この柵に近づいて来る人達はみんな、ほぼ例外なく、フィリーップ・フィリーッポヴィッチに対して従順な、へつらいの態度を示した。
 三つの電話は絶えず鳴っていた。時には三つ一度に鳴り渡ることもある。フィリーップ・フィリーッポヴィッチはそれを全く意に介しなかった。右手で右の電話をとり、肩にひっかけ、頬で抑える。左手でもう一つの受話器をとり、左の耳で抑える。開いた右の手で、目の前の客達から彼に差出されている書類の一つを受取り、すかさず三番目の電話に話しかける・・・左、そして右の受話器・・・それから訪問客、次にまた左、そして訪問客。右、訪問客、左、右、右。
 またたく間に用件をすませて二つの受話器をガシャンとおろす。両手が開く。二つのメモを取上げる。一つを脇に置く。黄色い受話器を取る。「電話は明日、三時に。」受話器を置く。そして訪問客に言う、「参りましたね。」
 暫く見て行くうちに、フィリーップ・フィリーッポヴィッチにみんなが何を頼んでいるのかが、私に分る。連中は切符を頼んでいるのだ。
 その頼み方の多岐に渡っていることと言ったら! 「イルクーツクから来た。今晩帰らなければならない。でも、『持参金のない娘』を観ないではとても帰れない」、とか、「私はヤルタから来た観光ガイドだ」とか、「何とか使節団の団長だ」。こんなのもある。観光ガイドでも、シベリアの人でも、どこに帰るのでもない、ただやって来て、「ピェトゥホーフだ。覚えているな? 俺のことを。」役者達は男も女も、「フィーリャ、ねえフィーリャ、頼むよ。(お願いよ)。」こんなのもある、「いくらでも金は出す。金に糸目はつけない。」
 「私、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチを八年前から知っているんです」と突然、年老いた女性が呟く。その女性の被っているベレー帽は、虫が食って穴が開いている。「私、あの人が私を断る筈ないと思ってるんですけど・・・」
 「ちょっと待って」と、急にフィリーップ・フィリーッポヴィッチが言う。そして、呆気にとられているその年老いた女性の次の言葉を待たず、何か紙片(かみきれ)を渡す。
 「我々は八人なんです」と、がっしりした体格の男が喋り始める。そして次の言葉が出ず、言いよどんでいる。と、フィーリャはもう、
 「さ、自由席だ」と、紙片を差出す。
 「私は、アルノーリト・アルノーリドヴィッチの口効きで・・・」と立派な身なりをした若い男が言い始める。
 『ちょっと待って』だろうな、これは、と、その言葉を心の中で言いながら、私は推測する。
 「残念ですが、ご用立て出来ません」と、ぶっきらぼうにフィーリャは答える。若い男の顔はちらと一目見ただけで。
 「しかし、アルノーリト・・・」
 「駄目です!」
 若い男は消えて行く。まるで地面に掘ってある穴に落ちて行くかのように。
 「妻と私、二人・・・」太った男が言い始める。
 「明日の?」すばやく、ぶっきらぼうに、フィーリャが訊く。
 「そうです。」
 「会計へ!」とフィーリャは怒鳴る。太った男は紙片を受取って立ち去る。フィーリャは次の瞬間、もう電話に怒鳴っている。「いや、明日だ!」と、同時に、左の目で、差出されている書類を見ている。
 時間が経つにつれて、私は分ってきた。フィーリャは人間の外見など全く判断基準に入れていない。勿論提出される薄汚れた書類も。質素な、どころか、貧しい、服装をした人が、驚いたことに四列目の切符二枚受取ったかと思うと、立派な服装をした人が何も受取らずに帰って行く。アーストラハン、イェフパトーリイ・ヴァローグドゥイ、レニングラード、などの大都市からの立派な委任状も、何の効き目もない。あったとしても、五日後の朝、やっと効き目があったりする。ところが目立たない、無口な人間が、まだ喋りもしないうちに、柵越しに手に紙片を握らせられる。座席を手に入れたのだ。
 観測の結果私は、私の目の前には、人間というものを熟知した男がいるのだということを理解した。これが分ると私は、急に背筋が寒くなった。そう、私の目の前には、人間の心を的確に読取ることの出来る男がいるのだ。彼は人の心の奥底を知っていた。秘密の欲望、情欲、欠点、その他、ありとあらゆるもの。勿論、人の長所も。それに、大事なことは、彼がそういう人達の権利を知っていたということである。つまり、誰が、いつ、この劇場に来るべきであるかを。誰が、四列目に坐る権利があり、誰が、座席の横のステップにしゃがむべきかを。そして、誰か急に席を立って自分がその席に坐れないかなと、途方もない希望を抱きながら芝居を見なければならない人物は誰か、を知っていたのだ。
 私は、フィリーップ・フィリーッポヴィッチを鍛(きた)えた学校は、偉大な学校であると理解した。
 そう、彼はここで、この仕事を十五年間務め、何万人もの人間を見て来たのだ。その彼が何故人間のことを知らずにいることが出来よう。その中には、技術者、化学者、役者達、婦人運動の組織者(オルグ)、公金横領者、家庭の主婦、機械工、教官、メゾソプラノ歌手、個人住宅建設者、ギター奏者、掏摸(すり)、歯医者、消防署員、決まった仕事のない娘達、写真家、生産計画立案者、飛行機乗り、プーシュキン学者、コルホーズ委員長、妾(めかけ)、競馬騎手、機械組立工、デパートの売子、床屋、建築家、叙情詩人、刑法犯罪者、教授、(革命以前の)家主、年金生活者、村の先生、葡萄醸造者、チェロ奏者、手品師、離婚された妻、喫茶店の支配人、ポーカープレイヤー、同種療法医、伴奏者、陸上競技選手、チェスプレイヤー、実験室助手、ペテン師、会計士、精神分裂症患者、酒煙草などの味効きをする人、マニキュア師、会計係、(革命以前の)聖職者、相場師、写真技術士、がいたのだ。
 そういうフィリーップ・フィリーッポヴィッチに、何故提出書類が必要であろうか。
 彼の前に現れた人間を一目見て、その人間のひと言を聞いただけで、その人間にどういう権利があるか、たちどころに彼には分る。そして返事をする。またその返事が常に誤りのないものだったのだ。
 「私・・・」と、現れた女性が言う。「昨日、『ドン・カルロス』の切符二枚、ここで求めたんです。ちゃんとハンドバッグに入れて、家に帰って・・・」
 しかしフィリーップ・フィリーッポヴィッチは既に机の上のボタンを押し、二度とその女性を見ずに、言う。
 「バクバリーン! 紛失切符二枚。・・・列は?」
 「十一れ・・・」
 「十一列。新たに入れて。切符を渡して。チェックして!」
 「了解!」とバクバリーンが怒鳴る。もう婦人はそこにいず、別の人間、今度は男、が、柵に身を寄せて叫んでいる。「私はもう明日はモスクワを発つんだ!」と。
 「あんなことをするなんて、どういうこと!」と酷く腹を立てて婦人が言い立てる。目がギラギラ光っている。「あの子はもう十六歳です。あの子の半ズボンで判断して入れさせないなんて・・・」
 「奥様、私どもはズボンの長さで判断しているのではありません」と、事務的な調子でフィーリャが答える。「規則で、十五歳以下のお子様は入場禁止なのです。ああ、こちらにおかけ下さい」と、同時に、髭をよく剃ってある役者に丁寧に声をかける。
 「冗談じゃない」と、その間にも婦人は、いきり立って怒鳴っている。「あの子の隣の席には、三人、ちっちゃな子供が坐っていたんですよ。三人ともラッパズボンの。私、訴えてやる!」
 「そのちっちゃな子供はですね」と、フィーリャが答える。「コストロマーの小人なんです。」
 急にさっと、沈黙が走る。婦人のギラギラしていた目が輝きを失う。そこでフィーリャは歯を見せてニッコリ笑い、婦人は身震いする。柵の傍にいた人々は互いにつつき合い、婦人を見てクスクス笑う。
 青い顔をした役者は、痛みに顔を歪(ゆが)めて、突然柵に寄りかかって、囁き声で言う。
 「頭痛が・・・酷くて・・・」
 フィーリャは慌てず、後ろを振り向かず、後方に腕を伸ばして、壁の棚(たな)の引出しを開け、手探りで小箱を取り出し、そこから薬を出す。役者にそれを渡しながら言う。
 「水を飲んで下さい。・・・はい奥様、何でしょう?」
 その婦人は涙を流している。帽子が耳までずり落ちている。婦人の悲しみは大きい。汚れたハンカチで鼻をかんでいる。どうやら、先程の婦人と同様、昨日「ドン・カルロス」を観て、家に帰った。ところがハンドバッグがない。ハンドバッグには百七十五ルーブリ、コンパクト、それにハンカチが入っていた、と。
 「それはいけませんね」と、厳しい声でフィーリャは言う。「金は現金で持っていてはいけません。貯金通帳の上の数字で持っていなくちゃ。」
 婦人は目を見開いてフィーリャを見る。何て冷たい返事、人がお金をなくしたっていうのに。
 しかしフィーリャはすぐに、机の引出しを引っぱる。ガタガタと、猛烈な音が響く。アッという間に、把手(とって)の金具がさびで黄色みを帯びた、皺くちゃなハンドバッグが、婦人の手の中にある。モゴモゴと婦人の感謝の言葉が聞えて来る。
 「フィリーップ・フィリーッポヴィッチ、霊柩車が来ました」と、バクバリーンが報告する。
 その瞬間、電気が消える。ガタゴトと大きな音がして引出しが閉まる。急いで外套を引っ掛け、フィーリャが群衆をかき分けて外へ出る。魔法にかけられたように私も、その後を追いかける。階段の曲り角で壁に頭をぶっつけて、私は中庭に出る。事務所の扉の傍に、赤いリボンをかけたトラックが止まっている。その上には、閉じた目で秋の空を見詰めて、消防夫が横たわっている。両足の股(もも)の上に、磨かれて光っているヘルメットが載せられ、頭にはエゾマツの枝で作られた冠が載っている。フィーリャは帽子を脱ぎ、厳かな顔でトラックの傍に立ち、何事か小声で、クスコーフ、バクバリーン、クリュクヴィーンに、指示を与えている。
 トラックは警笛を鳴らし、街路に出る。その時劇場の玄関から、鋭いトロンボーンの音が鳴り響く。人々は驚いて立止まり、トラックも停車する。玄関には髭を生やした、外套姿の男が指揮棒を振っている。その指揮棒に従って、数本のトロンボーンが街路に大きな音を鳴り響かせる。音は、始まった時と同様、突然止む。そして金色をした金属の管数本と、刈り込まれた亜麻色の、三角形の顎髭は、玄関の中に消える。
 クスコーフがトラックに飛び乗る。三人の消防士が棺(ひつぎ)の隅に立つ。フィーリャの送別の手の合図で、トラックは火葬場へと発って行く。そしてフィーリャは事務所に戻る。
 大都会は鼓動を打っている。至るところで波が打って、それが、押し寄せて来たり、引いたりする。時々、何のはっきりした原因もなく、フィーリャの客の波がおさまることがある。するとフィーリャはソファに坐り、寛(くつろ)ぎ、誰かれとなく冗談を言い合う。
 「連中、僕を寄越したんですよ」と、どこか他の劇団の役者が現れて、言う。
 「酷いやくざを送りこんで来たものだな」とフィーリャは言う。片側の頬だけを動かして笑う。(フィーリャの目は決して笑わない。)
 部屋の扉が開き、素敵な婦人が入って来る。とびきり仕立ての良い外套、肩には栗色の狐のショール。フィーリャは微笑み、お辞儀をして、大声で言う。
 「ボンジュール、ミーッスィー」
 婦人はお返しに、嬉しそうに笑う。婦人の後ろに、だらしのない足取りで、男の子が入って来る。水兵の被る帽子、年はほぼ七歳。おそろしく傲慢な顔つき。チョコレートで顔は汚れ、目の下に三筋、爪の引っ掻き傷がある。子供は正確な間隔をあけ、シャックリをしている。その子供の後ろから、病的に太った婦人が入って来る。
 「こら、アリヨーシャ!」と、(訳註 この太った婦人は外国人。ロシア人は「アリョーシャ」と発音する。)
 「アマーリヤ・イヴァーノヴナ!」と、低く脅すように、子供が言う。アマーリヤ・イヴァーノヴナにこっそり拳骨(げんこつ)を見せて。
 「こら、アリヨーシャ!」と、アマーリヤ・イヴァーノヴナが小声で言う。
 「やあ、今日は」と、フィーリャが大声で言い、子供に手を差出す。子供はシャックリをし、お辞儀をして、両方の踵をカチンと合わせる。
 「こら、アリヨーシャ!」と、アマーリヤ・イヴァーノヴナが囁く。
 「目の下のその傷、どうしたの?」とフィーリャが訊く。
 「僕」と、頭を下げながら子供が呟く。「ジョルジュと喧嘩したんだ。
 「こら、アリヨーシャ!」と、片方の唇だけで、全く機械的にアマーリヤ・イヴァーノヴナが呟く。
 「セ・ドマージュ(仏語 「それはまづいな」)と、大声でフィーリャは言い、机からチョコレートを取出す。
 チョコレートのために濁っている子供の目に、一瞬火がつく。子供はチョコレートを受取る。
 「アリヨーシャ、あんた、今日それで、十四個目よ」と、アマーリヤ・イヴァーノヴナが乱暴に、呟くように言う。
 「嘘を言うな、アマーリヤ・イヴァーノヴナ」と、自分では小声で言っているつもりで、子供は文句を言う。
 「こら、アリヨーシャ!」
 「フィーリャ、あなた、私のことをすっかり忘れているのね。悪い人!」と、ゆっくりと、大声で、みなりの立派な婦人が言う。
 「ノン、マダーム、アンポッスィーブル!(仏 いいえ、とんでもない)」と、フィーリャが怒鳴る。「メ、レザフェール、トゥジュール!(仏 仕事が忙しくて)」
 婦人は鈴の鳴るような声で笑い、フィーリャの手を手袋で叩く。
 「あなた、ね」と、婦人は高らかに言う。「うちのダーリヤが今日ね、ピロシキを作ったの。うちで一緒に召し上がらない? どう?」
 「アヴェック、プレズィール(仏 喜んで)」とフィーリャは叫ぶ。そして婦人に敬意を表するかのように、熊の剥製の目玉がパッとつく。
 「まあ驚いた。厭なフィーリャ!」と婦人は叫ぶ。
 「アリヨーシャ! 見て! 何て熊」と、わざとらしく驚いてアマーリヤ・イヴァーノヴナが叫ぶ。「まるで生きている熊!」
 「アルグニーンも一緒に連れてらっしゃい」と、急に霊感を得たかのように、婦人が叫ぶ。
 「イル、ジュ(仏 彼は芝居ですが)
 「じゃ、はねたら、来て。」と、アマーリヤ・イヴァーノヴナに背を向けて婦人は言う。
 「ジュ、トゥランスポールト、リュイ(ロシア語訛のフランス語 私が連れて行きます)」
 「よかったわ、フィーリャ。そうそう、フィーリャ、私、あなたに頼みがあるの。年寄りの女の人で、知合いがあるのよ。「ドン・カルロス」、どこか席ない? 通路席でも構わないわ。ね? フィーリャ。」
 「行きつけの仕立屋さんですね?」と、フィーリャはすべてお見通しという目つきで婦人に訊く。
 「厭な人、あなたって」と、婦人は叫ぶ。「どうして仕立屋でなきゃならないの? あの人、大学教授の未亡人。そして今は・・・」
 「着物を縫っている。」夢を見ているかのような口ぶりでフィーリャは言い、手帳に書きとめる。
 『ドレスメーカー。横席、ミの十三』
 「どうして分るのかしらね、本当に。」明るい、輝くような表情で、婦人は叫ぶ。
 「フィリーップ・フィリーッポヴィッチ、理事長から電話です」と、バクバリーンが叫ぶ。
 「分った、今行く・・・」
 「私、その間にうちに電話するわ」と、婦人は言う。
 フィーリャは部屋を走り出、婦人は受話器を取り、ダイヤルを回す。
 「委員長室をお願いします。ああ、あなた? 今日はどうだった? こちらはね、今夜フィーリャを誘ったの。ピロシキを食べないかって。そんなのいいわよ。ちょっと一時間ぐらい寝たら? それからアルグニーンも誘ったの。電話でそんな話、駄目よ。じゃあ、これで。あなた、何か変な声ね、それ。じゃあね。」
 ソファの背中の防水布に埋まり、目を瞑(つぶ)って私は考える。『ああ、何ていう世界だ。快適で、静かな世界・・・』私は、この見知らぬ婦人のアパートを想像する。どういう訳か、それは巨大なアパートに違いないと決め込む。とんでもなく大きな、白い壁の、玄関。そこに金縁の絵が一枚かかっている。どの部屋も床はピカピカの寄木(よせぎ)。絨毯がしいてあり、一つの部屋には、真中にピアノ・・・
 私の夢は突然、小さな呻き声、苦しそうな、腹から出る音で、醒める。私は目を開ける。
 子供が、死ぬ時のような青い顔をして、両眼がぐるぐる回っている。両足を開いて、だらりと垂らし、ソファに坐っている。婦人とアマーリヤ・イヴァーノヴナが叫び声を上げ、子供に駆け寄る。婦人は青くなっている。
 「アリョーシャ!」と婦人が叫ぶ。「どうしたの?」
 「こらアリヨーシャ! どうしたんです」と、アマーリヤ・イヴァーノヴナが叫ぶ。
 「頭が痛いの」と、震え声のバリトンで、子供が答える。水兵帽が目のところまで落ちる。子供は頬を膨らませ、一層青い顔になる。
 「ああ、大変」と婦人が叫ぶ。
 数分経つ。玄関に空車のタクシーが飛び込んで来る。中にバクバリーンが乗っていて、飛び降りる。
 アマーリヤ・イヴァーノヴナは子供の口をハンカチで拭いてやる。婦人とアマーリヤ・イヴァーノヴナが事務所から子供を運び出す。
 ああ、事務所の、何ていう幸せな世界! フィーリャ、さようなら! 私はもうすぐ、この世からいなくなる。フィーリャ、覚えていてくれ、この私のことを、君だけは!

     第 一二 章
   スィーフツェフ・ヴラジョーク
 私はいつどうやってタラピェーツカヤと芝居を書き上げたのか、気がつきもしなかった。
 つまり書き上げて、さて次に何が起るか、と、考える暇もなく、運命の方からその続きを、私に急(せ)き立てるように、話してくれたのだ。
 クリュクヴィーンが私に手紙を持って来た。

 『親愛なるリェオーンチイ・スェルゲーイェヴィッチ、
 
 糞ったれが! 何故この私がリェオーンチイ・スェルゲーイェヴィッチなんだ!・・・まあいい。こんなことは大事なことではない!
 『・・・イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが、貴下の芝居の朗読を貴下に要求しておられます。スィーフツェフ・ヴラジョークに、十三日月曜日、十二時に出頭されたし。
             敬具
         フォーマ・ストゥリーシュ』

 これは大事な手紙だ、と、理解し、私は緊張した。
 私の決めたことは、糊の効いたカラー、紺のネクタイ、グレイの背広、だった。グレイの背広に決めるのは簡単だった。一張羅はこれしかなかったから。
 礼儀正しく振舞うこと。但し、威厳をもって。それから、どんなことがあっても、諂(へつら)いは、その影も見せてはならない。
 よく覚えているが、手紙を渡されたその翌日が十三日だった。当日の朝、私は劇場でボンバールドフに会った。
 彼の指示は、私をひどく驚かせた。
 「まづ大きな灰色の建物まで行く」と、ボンバールドフは言う。「そこを左に曲る。行き止まりになっている。そこまでは簡単だ。鉄製の、彫物がしてある扉があり、円柱のある家だ。道路からの入口はない。隅のところを曲って中庭に出るんだ。すると毛皮の外套を着た男が近づいて来て、『何用です?』と訊ねる。君はただ一言『命により』と、答える。
 「合言葉なのか? それは」と、私は訊く。「だけど、もしその男がいなかったら?」
 「必ずいる」と、ボンバールドフはそっけなく言い、続けて「中庭の隅、その近づいて来る男の反対側に、車輪を外した自動車が、ジャッキで持上げられている。その傍にバケツがあり、男がその自動車を洗っている。
 「君、今朝行って来たのか?」と、私は不審に思って訊く。
 「ひと月前に行った。」
 「じゃあ、どうして自動車を洗っていると分る。」
 「毎日洗うからだよ、車輪を外して。」
 「毎日洗うんじゃ、いつ乗るんだ。」
 「自動車には乗らない、決して。」
 「どうして。」
 「どうしてって、行くところがあるのか?」
 「そりゃ、例えば仕事場、独立劇場へ。」
 「イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは、一年に二度、独立劇場に行く。ドレスリハーサルの時だ。その時はドゥルイキンの馬車を雇う。」
 「驚いたね! 自動車があるのに馬車を雇うとは。どうしてなんだ?」
 「運転手がハンドルを握ったまま心臓麻痺で死んで、車が店のショーウインドウにつっこんだらどうなるんだ。」
 「しかし、馬車だって、馬が暴走したら・・・」
 「ドゥルイキンの馬は暴走しない。しっかりと歩いて進む。そのバケツの男の丁度奥に扉がある。そこを入って、木の階段を上る。すると扉がある。そこを入る。入ると、オストローフスキイの黒い彫像がある。その反対側に真っ黒なストーブ、それに白い柱がある。その柱の傍に、防寒長靴を穿いて、それを踏みならしながらしゃがんで坐っている男がいる。」
 私は笑う。
 「君、保証するか? その男がそこにいて、おまけにしゃがんで坐っているのを。」
 「保証する」と、ニコリともせず、ボンバールドフは答える。
 「それは確めるのが楽しみだな。」
 「自分で確めるんだな。その男は不審そうに訊ねる『どこへ行くんです』。で、君は答える・・・」
 「命により」
 「うん、するとその男が言う『ここで外套を脱いで下さい』。君は玄関の間に通され、そこに看護婦が現れて君に訊く『何、御用ですか?』すると君は・・・
 私は『分った』という風に頷く。
 「イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチはまづ、君の父親は何者だったかを訊ねる。ところで、何だったんだ?」
 「副知事だ。」
 ボンバールドフは眉に皺を寄せる。
 「フン・・・そいつはちょっとまづい。・・・いかんいかん。銀行員と言った方がいい。」
 「それは面白くないな、僕は。何故初対面から嘘をつかなきゃならないんだ。」
 「その答じゃ、相手が驚くかもしれないからな。それに・・・」
 私は黙って、ただ目をパチクリさせている。
 「それに、君にとってはどうでもいいんだろう? 銀行員だろうと、何だろうと。次に、ホメオパシー(その病気と同じ症状をおこす薬を微量に与えて治療する方法)についてどう思うか、と訊いてくる。君は答える。去年、胃を壊した時、一二滴ホメオパシーの薬を飲んだら、非常に非常にすみやかに、悪い症状が去った、と。」
 ここでベルが鳴る。ボンバールドフはストーブに薪を入れる。リハーサルに行かねばならないのだ。それで、それからの指示は、端折ったものになる。
 「君はミーシャ・パーニンを知らない。君はモスクワで生まれた。」短い言葉でボンバールドフは指示を与える。「フォーマ・ストゥリーシュは、あまり好きじゃない。芝居の話になったら、決して反論をしない。三幕にピストルの場がある。あそこは読まない。」
 「自殺の場面だぞ、あそこは。どうして読まないんだ。」
 ベルが再び鳴る。ボンバールドフは薄暗がりに向って走り始める。遠くから彼の叫ぶ声が届く。
 「ピストルの場面は読まない! 君は風邪をひいていない!」
 ボンバールドフの謎の言葉に、あっけにとられながら、十二時ちかくに、スィーフツェフ・ヴラジョークの袋小路に着く。
 中庭には、毛皮外套の男はいない。しかしボンバールドフが言っていた丁度その場所に、ショールを巻いた老婆がいる。老婆は訊く「何御用で?」そして私の顔を怪しい者を見るように覗き込む。「命により」の言葉で、老婆はすっかり満足し、私は中庭の方へ向う。ピッタリ説明通りの場所に、コーヒー色をした自動車があり、男が車体を雑巾で拭いている。但し車輪は外されていない。車の傍には、バケツと何かの瓶が置いてある。
 ボンバールドフの指示通りに、誤りなく進み、私はオストローフスキイの彫像に到達する。「あれ?・・・」と私は思う。ボンバールドフの言った通り、ストーブには白樺の薪があかあかと燃えていたが、その傍にしゃがんでいる筈の男がいない。私はニヤリと笑いかけた。が、その暇もなく、古い、黒々とニスの塗ってある、扉が開き、そこから、手に火掻棒を持ち、つぎの当った防寒用フェルト長靴を穿いた老人が現れる。老人は私を見て驚き、目をパチクリさせる。「何用で? あなた」と、訊く。「命により」と、この魔法の言葉の効果を楽しみながら、私は答える。老人の顔が晴やかになり、次の扉の方向に火掻き棒を向け、振る。そこには天井から古いランプが下り、光っている。私は外套を脱ぎ、小脇に芝居を抱え、扉をノックする。すぐに扉の後ろで、鎖を外す音がし、扉の錠が回される。そして、三角巾を被った、白衣姿の女性が扉からこちらを覗く。「何御用です?」と、訊く。「命により」と、私は答える。女性は身体を横にして私を中に導き、じっと私の方を見詰める。
 「外は寒いですか?」と、女性が訊く。
 「いいえ、良い天気です。小春日和です」と、私は答える。
 「鼻風邪をひいてはいませんね?」と、女性が訊く。
 ボンバールドフの言葉を思い出し、ブルッと身震いし、私は言う。
 「ええ、ひいていません。」
 「ここをノックして、入ります」と、そっけなくその女性は言い、いなくなる。黒い、縁に金属の帯がはってある扉がある。それをノックする前に、私は辺りを見回す。
 白いストーブ、何かのための巨大な棚、薄荷(はっか)そしていいハーブの匂い。静寂。それが突然、かすれた音で破られる。その音が十二回鳴る。次に棚の後ろから、心配そうに鳩時計がクックッと鳴る。
 私は扉を叩く。それから巨大な重いノブを押す。扉の向こうは、明るい、大きな部屋である。
 私は胸がドキドキしていた。殆ど何も見えず、ただイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが坐っているソファしか見えない。イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは肖像画通りの顔。ただ何となく、絵よりは生き生きとしていて、若い。黒々とした口髭は、白髪が少し混っていたが、見事に捻り上げられてい、胸のところに金鎖の片眼鏡がぶら下っている。
 イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは、その魔法のような微笑みで、私に一撃を与えた。
 「これはこれはようこそ」と、少しラ行の発音を甘くしながら、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは呟く。「どうぞお坐り下さい。」
 私は肘掛け椅子に坐る。
 「本当にようこそ! ところで、どうです? お元気ですか? スェルゲーイ・パフヌーチイェヴィッチ」と、優しく私に目を向けながら、親指を除く四本の指で机の上を叩く。机の上には、鉛筆の削りカスと、水の入ったコップがある。コップの上には、どういう訳か、紙で蓋がしてある。
 「有難うございます。元気にしております。」
 「風邪はお召しになっていらっしゃらないでしょうね?」
 「ええ、ひいていません。」
 イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは何か呻くような声を出し、それからまた訊く。
 「ところで、お父上のご健康は如何ですか?」
 「父は死にました。」
 「恐ろしい」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは答える。「それで、誰に診ておもらいになったんです? お医者様はどなた?」
 「はっきりとは覚えていません。たしか・・・ヤンコーフスキイ教授だったと・・・」
 「それは駄目だ」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは反論する。「プリェトゥーシュコフ教授でなくっちゃ。この先生なら大丈夫だった筈だ。」
 私は、プリェトゥーシュコフ教授に頼まなくて残念だった、という顔をする。
 「それに、もっといいのは・・・その、つまり・・・ホメオパーティヤだ」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは続ける。「これは何にでも恐ろしい効き目がある。」ここでさっと視線がコップの方に走る。「あなた、ホメオパーティヤを信じていますか?」
 『ボンバールドフの奴、驚くべき男だ』と、私は思う。そして、何かあまりはっきりしない言葉を吐く。
 「一面では、勿論正しいです。私個人としては・・・信じていない人は沢山いますが・・・」
 「それは駄目だ!」とイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは言う。「十五滴、それだけ飲めばたちどころに、どんな痛みも止まる。」そして再び、何か呻くような声を出し、続ける。「それで、君のお父上だが、スェルゲーイ・パンフィーリイッチ、何をしていらした?」
 「スェルゲーイ・リェオーンチイェヴィッチです」と、柔らかく、私は言う。
 「これはこれは、失礼」と、大声でイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチ。「それで、御父上のご職業は?」
 『よし、嘘は止めだ』と、私は思い、言う。
 「副知事でした」
 この返答で、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチの顔から微笑みが消える。
 「ほほう、なるほど。」何か不満そうな声で言い、黙り、机の上を四つの指で叩く。そして言う「よし、では、始めますか」
 私は原稿を拡げ、空咳をする。緊張で頭がぐらっとする。また空咳をする。そして読み始める。
 私は表題を読む。次に登場人物の長いリストを読み上げる。それから第一幕の朗読にかかる。
 『遠くに灯り。中庭。ちらちらと雪が降っている。建物の横の扉。その扉からピアノ演奏による「ファウスト」が聞えてくる』
 読者諸君、皆さんは、一対一で誰かに芝居を朗読せねばならない嵌めに立ち至ったことがおありですか? これは大変な仕事なのです、本当に。私は目を上げ、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチを見、ハンカチで顔を拭く。
 イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは微動もせず、坐って、片眼鏡で、目を放さず、じっと私を見ている。ひどく困ったことに、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチはにこりともしない。一幕の第一場から、もうすでに可笑しい場所があり、以前役者達に読んだ時には、大変よく笑ってくれ、ある役者などは、涙を流して笑ったのだ。
 ところがイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは、笑わないどころか、それまではよく唸りもしていたのに、喉を鳴らすことさえなくなってしまう。そして、私が目を上げてチラと見ると、その度に見えるのは、全く同じ顔、金縁の片眼鏡を私の方に向け、その後ろには、瞬(またた)きもしない目。その結果私にはだんだん、これら笑える場所も、実は全く可笑しくないのかもしれないとさえ思えてくる。
 このようにして第一場の終まで行き、第二場に入る。全くの静寂の中で、私の単調な声だけが響き、まるで堂守(どうもり)が死者のために経典をあげているかのようだ。
 無気力が襲って来て、衝動的に目の前にある厚い帳面をバサッと閉じたい気持にかられる。イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが恐ろしい顔をして、『君、それ、いつかは終るものなのかね』と言うのではないかと、心配する。私の声はかすれ、時々空咳をして喉を通す。ある時はテノールで、ある時は低いバスの声で、そして時々、思いがけず雄鶏の鳴くような高い音、声がひっくり返ったりしたが、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチも私も全く笑わない。
 心持ち気分が軽くなる時が、一度あった。それは、突然の白衣の女性の出現である。彼女は音もなく現れた。イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが素早く時計を見る。女性がイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチにワイングラスを差出す。イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチはその中に入っている薬を飲む。コップの水を飲む。コップに紙の蓋をする。そして再び時計を見る。女性はイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチに、深々と、古いロシア式のお辞儀をし、横柄に出て行く。
 「さて、と。続けて下さい」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは言い、私は再び読み始める。遠くで鳩時計が鳴る。それから、衝立(ついたて)の後ろから電話が鳴る。
 「失礼」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは言う。「これは施設のことで、非常に大事な電話なのです」・・・「はい」と、衝立の後ろからイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチの声が聞えてくる。「そう・・・うん。・・・そう、全部あいつらの仕業(しわざ)なんだ。これについては、厳しい箝口令(かんこうれい)を敷いておく。今夜、信頼出来る人物がここにやって来る。その男と計画を立てるから・・・」
 イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが戻って来る。朗読は第五場の終まで達する。さて、第六場の始まり、となって時、とんでもないことが持上がる。私の耳は、どこかの扉がバタンと閉じる音を捕える。どこからか、大きな泣き声・・・これは私にはうそ泣きの泣き声に聞こえたが・・・大きな泣き声がし、部屋の扉が・・・私が入って来た扉ではなく、内部に通じている扉らしい・・・その扉がパッと開き、猫が・・・縞模様の、脂ぎった猫が・・・どうやら恐怖のためにいきり立って、部屋に飛び込んで来る。猫は私の傍をさっと駆け抜け、網布(あみぬの)で出来たカーテンに走りより、しがみつき、登り始める。網の布は、猫の重さに耐えきれず、すぐに穴が開き始める。猫は、穴を開けながらも必死でカーテンをよじ登り、頂上に着き、そこから激怒の顔をこちらに向ける。イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは片眼鏡を落す。その時、リュドゥミーラ・スィリヴェストゥローヴナ・プリャーヒナが扉のところに現れる。猫はプリャーヒナを見るや、もっと上へ逃げようと試みる。が、上は天井しかない。その丸い垂木(たるき)にしがみつく。が、ずるずると滑り落ちる。再び恐怖で呆然となりながら、カーテンにしがみつく。
 プリャーヒナは、部屋に駆け込む。両目をつぶって、皺くちゃになった濡れたハンカチを右手に持ち、それを額にあて、右の手には乾いた綺麗なハンカチを握って。走って部屋の真中(まんなか)まで来、片膝をつき、頭を下げ、捕(とら)われの人間が勝利者に剣を捧げる時のように、片手を前方に突き出す。
 「私、ここを動きません」とプリャーヒナは金切声を上げる。「私の身柄の安全を保証して下さるまでは。先生! ピェリカーンは裏切者です! 神様はご存知です。全部! 全部!」
 その時、網布の裂ける音がし、三、四十センチの穴が、猫の上方に開く。
 「シッ!」と、突然イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは大声で怒鳴り、両手を打鳴らす。
 猫は一番下まで、カーテンに穴を開けながら這い降り、部屋を走り去る。プリャーヒナは大声で泣き叫び、両手で目を覆いながら、涙にむせぶ。
 「一体私が何をしたというんでしょう! 何を! 先生は本当に私を追出そうと仰るのですか? どうか、どうかそれだけは。ああ、神様! お助け下さい!」
 「ちょっと、リュドゥミーラ・スィリヴェストゥローヴナ! お客様・・・」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが当惑して叫ぶ。丁度その時、扉のところに、年とった婦人が現れ、叫ぶ。
 「リュドゥミーラ! 戻って! 知らない人(がいる)!」
 リュドゥミーラ・スィリヴェストゥローヴナは、ハッと目を開ける。そして、グレイの椅子に坐っている、グレイの背広を着た私を見る。プリャーヒナの目が大きく見開かれる。そして私に、はっきり見える。その目から一瞬のうちに涙が引込んで行くのが。プリャーヒナは膝を立てて飛上がり、「まあ、何てこと!」と呟き、部屋から走り出る。その時、年とった婦人も消え、扉が閉まる。
 イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチと私は、二人とも無言。長い間の後、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは四本の指で机を叩き始める。
 「さてと、お気に召しましたか? 今の光景」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは言い、つけ加える。「しかし、カーテンは綺麗さっぱり、やられてしまったな。」
 「きっと驚かれたでしょうな、今の場面に」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは訊ね、例の唸るような声を出す。
 私の方も唸り声を出し、ソファの上でそわそわし始める。一体どう答えたものか・・・私は今の光景に全く驚きはしなかったのだ。あれは『浴場脱衣所』からの続きの場に過ぎないと、私には分っていた。そしてプリャーヒナはただ、場面の続きでイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチの膝にひれ伏しただけだと。
 「あれはリハーサルでね」と、突然イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが説明する。「どうです? 何て馬鹿げたことを、と思われたのではないかな? どうです?」
 「驚きました」と、私は、本心が顔に出ないように気をつけて答える。
 「時々はこういうことをやって、場面に対する記憶を鮮明にする必要があると考えているんです。・・・うん、そう・・・こういう訓練が大事なんだ。ああ、それから、プリャーヒナがピェリカーンについて言ったこと、あれは違いますからね。ピェリカーンはいい奴です。実に勇敢な男ですから。」
 イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは残念そうにカーテンを眺め、それから言う。
 「さ、では、また、始めよう!」
 しかし続けることは出来ない。先刻、扉のところに立っていたあの年とった婦人が入って来たのだ。
 「私の叔母、ナスタースィヤ・イヴァーノヴナです」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは言う。私は頭を下げる。感じのよいその婦人は私を優しく見、坐り、訊く。
 「御機嫌如何ですか?」
 「有難うございます」と、お辞儀をして私は答える。「元気にしております。」
 イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチとその叔母は、黙ってカーテンを見上げ、悲しい目つきを交換する。
 「イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチにどんな御用でいらっしゃいましたの?」
 「リェオーンチイ・スェルゲーイェヴィッチは」と、私に代ってイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは答える。「芝居を持って来てくれたんです。」
 「誰のお芝居を?」とナスタースィヤ・イヴァーノヴナは訊く。そして私の方を悲しそうな目つきで見る。
 「リェオーンチイ・スェルゲーイェヴィッチが自分で書いた芝居をですよ。」
 「また、それはどうして?」と不安そうにナスタースィヤ・イヴァーノヴナが訊く。
 「どうして、とはどういう意味です?・・・フム、フム」イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは咳払いのような唸り声を出す。
 「お芝居なんて、いくらでもあるでしょう?」と、優しく、非難するようにナスタースィヤ・イヴァーノヴナが言う。「それに、素敵なお芝居がたーくさん。それを一つ一つかけて行ったら、二十年あったってかけきれないわ。お芝居を書くなんて、どうしてそんなことを思いついたの?」
 ナスタースィヤ・イヴァーノヴナの論点はあまりに説得力があるので、私には何も言う台詞がない。イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは、暫く机を四つの指で叩いて、それから言う。
 「リェオーンチイ・リェオーンチイェヴィッチは、現代劇を書いたんですよ。」
 そこでこの年寄りの婦人は、心配そうに言う。
 「私達は官権に楯突いたりしないんですよ。」
 「楯突くなんて、そんな」と、私は婦人に賛成する。
 「あなた、『教育の成果』ってお芝居、お好き?」ナスタースィヤ・イヴァーノヴナが心配そうに訊く。「あれ、とても素晴しいお芝居。それにリュドゥミーラも出来る役があるし・・・」彼女は溜息をつく。そして立上がり、「お父上によろしくお伝えしてね。」
 「スェルゲーイ・スクェルゲーイェヴィッチの父上は亡くなっていてね」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは説明する。
 「御魂の安からんことを」と、敬虔にナスタースィヤ・イヴァーノヴナは言い、「それでお父上はあなたがお芝居を書いているって、ご存知でしたの? どうしてお亡くなりに?」
 「呼んだ医者が悪くてね」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは説明する。「リェオーンチイ・リェオーンチイェヴィッチはその話を私にしてくれたよ。」
 「あなたのお名前、私、よく分らないわ」と、ナスタースィヤ・イヴァーノヴナは言う。「リェオーンチイになってみたり、スェルゲーイになったり! 名前を時々お変えになったりするの? 私達の知合いにも一人、名前を変えたのがいてね、今じゃ私、その人何ていうのか、さっぱり!」
 「私はスェルゲーイ・リェオーンチイェヴィッチです」と、私はかすれた声で言う。
 「いやいや、これは失敬」と、大声でイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが言う。「私の間違いだ!」
 「駄目よあなた、間違えたりしたら」と、年寄りの婦人は答える。
 「あの猫は鞭打ちの刑だ!」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは言う。「あいつは猫じゃない。山賊だ。悪いことをしおって。」そして、内緒のようにつけ加える。「あいつをどうしてくれよう!」
 日没が近づき、破局がやって来る。
 私は読んでいた。
 『バフチーン(ピェトゥローフに)じゃ、おさらばだ。お前もおっつけ、僕の後を追って来るさ。
 ピェトゥローフ お前、何をやっているんだ!
 バフチーン(こめかみを撃ち抜く。倒れる。遠方からアコーデオンの音が聞えて来る)』
 「これは駄目だ!」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが怒鳴る。「何だ、これは。そこは削除だ。今すぐ、即刻削除だ! ねえ君、何故ピストルなんか撃つんだ!」
 「しかし、主人公は自殺して果てる必要があるんです。」私は咳払いをして答える。
 「自殺はいい。それはかまわん。それなら、刀だ。刀で自害させろ!」
 「しかしこれは、あの内戦の時の話です。刀はもう使われていませんが・・・」
 「いや、使われている!」イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは反論する。「私は聞いたことがある。エー、誰だったか・・・名前を忘れた・・・そいつが使っていた。このピストルの場面は削除だ。」
 私は黙る。ボンバールドフに言われた通り、ここを読むのは誤りだった。そして、次を朗読する。
 『(アコーデオン。そして遠方で銃声。橋に銃を持った男、登場。月が・・・)』
 「またか」と、大声でイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは言う。「銃声! また銃声! 何ですか一体、これは。いいですか、レオ・・・。いいですか? ここは全部削除です。これは余分です。」
 「私の考えでは」と、私は出来るだけ言葉がきつくならないよう気をつけて言う。「この場面は大事なのです。・・・だって、そうでしょう?・・・」
 「完全な誤りだ!」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは反駁する。「この場面は大切じゃない。いや、大切でないどころか、不要だ。何故こんなものが必要なのだ。だいたい君の主人公の、その・・・」
 「バフチーンです。」
 「そう、バフ、バフ・・、そいつはどこか遠くで自害する。」イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは手を振り回して、どこか遠くの方を示す。「誰か別の登場人物が、家に帰って母親に言う、『バフチェーイェフは自害した』と。」
 「しかし、バフチーンには母親はいません。」唖然として私は、カバーをしてあるコップを見詰めながら、言う。
 「母親は、何が何でも必要だ! それを登場させる。簡単なことだろう? それは最初は難しい。・・・元々なかった母親を突然登場させるんだから・・・しかし、それは誤解だ。やってみれば何でもない。母親は家で泣き崩れる。それから、その知らせを持って来る男・・・仮にイヴァノーフとしておこう・・・」
 「しかし、バフチーンは主人公なんです。橋の上で独白があるし・・・私が思いますに・・・」
 「イヴァノーフにその独白を言わせればいい。死ぬ前にこう言ったと言って。・・・あの独白は素晴しい。あれは生かす。イヴァノーフに言わせる。・・・うん、なかなかいい場面になる、これは。」
 「しかし、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチ、あの橋の上の場面は、二つの集団がぶつかり合うんです。・・・迫力のある場なのですが・・・」
 「舞台裏でやらせればいい。そんな場面は見せるものじゃない。実際に舞台の上で戦うなど、とんでもない! 君は運がよかった。スェルゲーイ・リェオーンチエヴィッチ。」(これが、後にも先にも、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが私のことを正しく呼んだ唯一の場合だった。)「君がミーシャ・パーニンなる人物を知らないでいたということがだ。(私は青くなる。)あいつは全く、しようのない男だ。今あいつは、実動部隊に入れていない。酷いことをやらかしたんだ。それで暫くの間、暇を出してある。・・・新しい芝居・・・そう、「スチェンカ・ラーズィン」だ。そいつをかけると言って、とんでもないことをしでかした。私は馬車で劇場に近づいていたのだが、もう遠くから音が聞える。窓が開けてあって・・・騒音、口笛、怒鳴り声、喚(わめ)き声、それに、銃の撃合いだ。馬車が着く頃には、私は、劇場で叛乱が起きたのかと思った。酷いものだ! それはストゥリーシュのリハーサルだったんだ。私はアーヴグスタ・アヴヂェーイェヴナを呼びつけて言った。『君は何を監督しているんだ。私が銃で撃ち殺されてもいいのか。ストゥリーシュがこの劇場を火事にしてもいいのか。全くどいつもこいつも! 私に心配をかけまいとしてくれる人間はいないのか!』と、言ったんだ。アーヴグスタ・アヴヂェーイェヴナは立派な女でね、こう言ったよ。『私を罰して下さい、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチ。ストゥリーシュには何の罪もありません』とね。ストゥリーシュという奴、全くこの劇団のペストだ。あいつを一目でも見ることがあれば、出来るだけ遠くに走って逃げることだ。悪いことは言わん。(私は青くなる。)勿論、こういう事態が生じるようになったのは、全くアリスタールフ・プラトーノヴィッチとかいう男のお有難いお蔭によるものだ。君が彼を知らないというのは、実に、神のお恵みと言わねばならん。ああ、銃声の話だったな! 分りましたな? この場面をどうすればよいかは。では、先に行こう。」
 そして我々は先に進む。そして、暮れかかった頃、やっと私はかすれた声で、「終」と言った。
 その時私は、絶望と恐怖に捕われた。やっと小さな家を建て上げて、そしてその家に引っ越したとたん、屋根が壊れた・・・という気分だった。
 「よろしい」と、朗読が終るとイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは言う。「これを材料にして、君、芝居を作るんだ。」
 私は怒鳴りたかった。
 『何ですって?』と。
 しかし私は、怒鳴らなかった。
 そしてイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは、好きなように自分の創造力を働かせ、この材料を使い、どう書くべきかを事細(ことこま)かく喋り始める。バフチーンの妹は、母親に替えるべきだ。この妹には許嫁があるが、母親はおよそ五十五歳だから(この母親は、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチから名前までつけられ、アントニーナと呼ばれる。)勿論許嫁はなく、この芝居全体から妹は消されてしまう。この人物は、私にとって重要かつ大好きな人物だったのに。部屋が暗くなってくる。白衣の、例の女性が現れ、何か飲み薬を持って来る。それから、皺だらけの老女が、卓上ランプを持って来る。そして夜が来る。
 頭の中がごちゃごちゃになって来る。こめかみにガンガンと金槌があたって来る。腹が減り過ぎて、胃のあたりから何かこみ上げて来る。目の前で部屋が傾き始める。しかし大事なことは、橋の上の場がどこかへ飛び去り、私の主人公もその場と共に、どこかへ飛んで行ってしまったことだ。
 いやいや、きっと、もっともっと大事なことが起っている。とんでもない不可解なことが。突然私の目の前に、いつか玄関に張出された、この期に、この劇団でかけられる芝居の題目が書かれた広告が、浮き上って来る。芝居を書いたことによって前渡しされ、まだ飲み食いしていない最後の十ルーブリ紙幣が、私のポケットの中でバリッと破れる音がする。私の背後にフォーマ・ストゥリーシュが立っていて、「ああ、あの芝居は二箇月後には上演されるさ」と、請け合ってくれている。しかし、目の前で起こっていることからすると、明らかに芝居など全くどこにもなく、最初の出だしから最後まで、全く新しく書き直さねばならない。目の前に誰かが踊っているのが見える。ミーシャ・パーニンだ。それに、イェヴラームピア、それからストゥリーシュ。まだ踊っている者がいる。浴場脱衣所の、あの写真、写真、写真、だ。しかし、目を凝らして見ても、芝居はどこにも見えない。
 しかし、次にとんでもないことが起る。全く、とんでもないことが。私の予想も出来なかった馬鹿なことが。
 バフチーンがどのように自刃するか、その場面をイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチはやって見せた後、(そう、この演技はなかなか良いものだった。)(名前もバフチーンからバフチェーイェフに変ってしまったが。)ちょっと、例のうめき声を出し、次の演説を行ったのだ。
 「そう、君が書くべき芝居はだ・・・君、君はこの芝居で一瞬にして大金持になれる。これはね、心理劇だ。・・・ある女優の運命・・・ある國に・・・うん、ある王国にしておこう・・・そこに女優がいる。悪党の一団が、彼女にうるさくつきまとって、嫌がらせをやる、軟禁する・・・そこで彼女は祈る。どうかこの悪党どもを・・・」
 『そこで悪党どもは破廉恥なことをやらかす』と、思わず、意地悪な気持になって、私に、こんな台詞が浮ぶ。
 「神に祈るんですね? イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチ。」
 この質問はイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチをまごつかせる。(訳註 ソ連体制では、宗教禁止だから、神は表に出せない。)暫く呻いた後、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは答える。
 「神に?・・・フムフム・・・。いや、神だけは駄目だ。神は止めといて欲しい。・・・神じゃなく・・・そう、芸術だ。彼女は芸術に身も心も捧げている。だから芸術に祈る。ところが悪党どもは、彼女を苦しめる。その悪党どもを唆(そそのか)しているのが、悪い悪魔のチェルナモールだ。そうそう、このチェルナモールは、現在アフリカに行ってしまってるんだが、自分の魔力を、ある婦人エックスに伝授してある。このエックスがまた、恐ろしい女で、事務所に鎮座ましまして、何でも出来る。彼女と机を並べて坐ることがあったら、用心した方がいい。そっと、紅茶の中に毒の入った砂糖を・・・」
 『おやおや、これはタラピェーツカヤの話だぞ』と、私は思う。
 「それをガブリと飲んだとたん、あの世行きだ。それに、ストゥリーシュという恐ろしい悪魔もいる・・・それに、理事長の一人が・・・」
 私は坐ってぼんやりとイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチを眺めている。微笑はだんだんとイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチの顔から消えて行き、私は突然、その目が全く優しさを欠いたものになっているのに気づく。
 「どうやら君は強情な人間のようだ」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは、酷く陰気な声で言い、唇を噛む。
 「いいえ、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチ、ただ私は、芝居の世界に疎(うと)くて・・・」
 「ちょっと勉強しさえすればいい! 簡単なことだ。この劇団には、いくらでも助けてくれる人間がいる。そこらにいる誰を捕まえて来たって・・・一幕と半分ぐらいすぐ出来てしまう。そうかと思えば、ひどく用心しなきゃならん人物もいる。ぼやぼやしていると、君の靴をかっさらったり、後ろを向いた隙に、背中をぐさりと短刀で突いてくる奴もな。」
 「恐ろしいですね」と、私は病人のような声を出し、こめかみを指で触る。
 「どうやらこの方法もお気に召さないらしい。君はどうも、私には手に負えん!(今の私の提案の芝居もあるが)君の芝居もなかなか良い」と、私を探るような目つきで見て、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは呟く。「この材料で、あとは書きさえすれば出来上がりだ。それに、準備はすっかり出来ている!」
 ひん曲がった足を引きずり、ガンガン鳴る頭を抑えながら、私は部屋を出る。黒いオストローフスキイの彫像を嫌悪の情をもって睨みつける。手に重くのしかかってくる、もう見るのも厭になった、原稿を抱え、ギシギシと鳴る木の階段を下りながら、私は何かブツブツと呟く。
 中庭から出ると、突風が帽子を吹き飛ばす。私は、水たまりに落ちた帽子を拾い上げる。小春日和は、跡形もなく消えている。雨が斜めに降っていて、足元で水がピチャピチャ音を立てて流れている。木々から、湿った葉っぱがもぎ取られ、庭に落ちて来る。襟の中に雨水が入って来る。
 何か無意味な言葉を、この呪われた人生に、ブツブツと呟きながら、私は歩く。雨の細かい筋の間から、ぼんやりと電球が光っているのが見える。
 どのあたりか、角を曲ったところに、キオスクの灯が弱くともっている。吹き飛ばされないように、瓦(かわら)の重石(おもし)がしてある新聞の山が、カウンターの上で濡れている。私は「メルポメネー達の顔」という雑誌を、意味もなく買う。その雑誌の表紙には、身体にキチキチのセーターを着た、羽根飾りが一本ついた帽子を被り、気障(きざ)な隈取(くまどり)をした目の男が、描かれている。
 家に着く。自分の部屋が酷く胸くその悪いものに見える。雨で湿った芝居の台本を床に投げつけ、私は机につく。こめかみを片手で抑え、痛みを止めようとする。もう一方の手で黒パンを少しづつちぎって口に入れ、噛む。
 こめかみを抑えている手を放し、湿った「メルポメネー達の顔」の頁をめくる。クジラの骨の入ったスカートを穿いた、若い女の写真がある。「ここに注目!」という表題がちらつく。「テノール氏、はめを外す」なる表題も目に入る。そして突然、私の名前が目の飛び込んで来る。あまりの驚きに、こめかみの痛みも止る。そこからは次から次と私の名前が出て来る。そして「ロペ・デ・ヴェーガ」という名前も。疑う余地はない。コラムの表題は「身の程を弁(わきま)えろ」。そしてその主人公は私なのだ。そのコラムの要点が何であったか、もう今では覚えていない。しかし漠然と、その書き出しの部分を覚えている。

 『パルナッソス山では、みんな退屈していた。
 「誰も出て来ないな、全く」と、ジャン・バチスト・モリエールが、あくびをしながら言った。
 「全くだ。退屈だね」と、シェイクスピアが答えた。』

 その次を覚えている。扉が開き、私・・・つまり、黒い髪をした、小脇に重い芝居の台本を抱えた若い男・・・が、入って来る。
 居合わせた全員が(ここは、私の記憶違いではない筈だ)、私を嘲笑(あざわら)う。シェイクスピアも、ロペ・デ・ヴェーガも。そして、モリエールが私に訊く。「君、タルチュフそっくりなものを書いたね」。そしてチェーホフ・・・私の、彼の本を読んでの、彼に対する感想は、非常に感情の細やかな人物だと思っている、そのチェーホフまでが私を嘲笑う。だが、一番厳しく私を嘲笑うのは、このコラムの作者、ヴァルコダーフという人物だ。
 今思えばお笑い草だ。しかしその時の私の怒りはものすごかった。自分が、全く何の根拠もなく侮辱されたと感じ、部屋の中を行きつ戻りつする。
 このヴァルダコーフという人物をピストルで撃ち殺してやろうという野蛮な考えと、一体自分は何の罪あってこんな目に遭わねばならないのかという不当感とが、代わりばんこに襲ってくる。
 「あの広告がいけないんだ!」と、私は呻く。「しかしあれは、僕が作ったものじゃないぞ。何だ一体!」と、私は呟く。そして私の目の前に、ヴァルダコーフが血にまみれて床に倒れている姿がちらつく。
 この時、パイプから出る葉巻の匂いがし、扉がきしみ、部屋に、湿ったレインコートを着たリカスパーストフが入って来る。
 「読んだか?」と嬉しそうにリカスパーストフが訊く。「おい、おっさん。完膚なきまでにやられたな? どうしようもないよ。出る釘は打たれるってやつさ。あいつを見てね、俺はすぐここに駆けつけたんだ。友達だからな、何と言っても。」と言って、リカスパーストフは、雨でぐっしょりになったレインコートを釘にかける。
 「何だ、このヴァルダコーフという奴は」と、低い声で私は訊く。
(訳註 ヴァルダコーフは、五二頁に「クループ」として出て来た男。)
 「関係ないだろう、お前には」
 「じゃ、知ってるのか、君は。」
 「あいつのことは知ってる筈だぞ。」
 「ヴァルダコーフなど、聞いたこともない!」
 「いや知ってる! 俺が紹介した。通りでだ、あの広告があったろう? あそこで。あの馬鹿な広告・・・ソフォクレスに・・・」
 私は思い出す。無口な太った男。私の髪の毛をじろじろと見ていた・・・『黒い髪・・・』(コラムにあったこの言葉、その時のことを覚えていたんだな、奴は。)
 「この僕が、あの豚野郎に何をしたって言うんだ」と、私はむきになって言う。
 リカスパーストフは頭を振る。
 「おいおい兄弟、いけないね、それは。それは、いけない。どうやら慢心から、頭に来ているようだぜ。お前に対しては何も言っちゃいけないという、そういう口ぶりだ、それは。しかし、批評なくして、お前、生きちゃいけないぜ。」
 「あれのどこが批評なんだ! 単なる嘲笑じゃないか! 何者なんだ、あいつは。」
 「劇作家さ」と、リカスパーストフは答える。「五つ、芝居を書いている。いい奴だよ。お前のさっきの言葉は、あいつには悪いよ。勿論あいつ、腹を立ててはいる。あいつに限らない、皆腹を立てているがね・・・」
 「あの広告を作ったのは、僕じゃないぞ。それに、一緒に書いてあった名前がソフォクレス、ロベ・デ・ヴェーガだと、何故僕が悪いんだ!」
 「お前はソフォクレスじゃないからな。」意地悪くにやりと笑い、リカスパーストフは言う。「俺はねお前、二十五の時から書いている」と、続けて言い「それなのに、まだソフォクレスの域に達していない」と、溜息をつく。
 これに答えてリカスパーストフに、私が言えることがあるか。いや、何もない! 『達しちゃいないね。何故か。理由は簡単だ。君の文章はまづいからね。僕はうまいけど』なんて、言える? 皆さんにお訊きしますよ「言えますか?」って。
 私は黙っている。リカスパーストフは続ける。
 「そう、勿論あの広告は問題を引き起した。俺に、いろんなところから問合わせが来たさ。だいたい、人を馬鹿にしているってね! いやいや、俺が今日ここに来たのは、こんな愚痴を言うためじゃない。お前のもう一つの不幸を知ってね、慰めに来たんだ。少し話して、友達を慰めようとね!」
 「もう一つの不幸? 何だ、それは。」
 「だって、そうだろう? イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは君の芝居が気に入らなかったんじゃないか」と、リカスパーストフは言う。その時、目がきらりと光る。「お前が読んで・・・今日。そういう話だぞ。」
 「どこから聞いた!」
 「噂千里を走る、さ。」溜息をついて、リカスパーストフが言う。格言好きなのだ。
 「お前、ナスタースィヤ・イヴァーノヴナ・カルディバーイェヴァを知ってるな?」と言って、私の返事を待たず、続ける。「立派なご婦人だ。イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチの叔母様だ。全盛時代には、モスクワ中があの人を敬(うやま)い、崇(あが)めたものだ。素晴しい役者だったからな! 俺の建物には、アーンナ・ストゥーピナっていうお針子がいてな、そいつが今日、ナスタースィヤ・イヴァーノヴナがアーンナに話したのさ。今日イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチのところへ、誰か新顔がやって来た。甲虫(かぶとむし)みたいに真っ黒な髪の人(これですぐ俺は、それがお前だってことが分ったんだ。)が、自分の芝居を読んで聞かせるために。しかしイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは気に入らなかった。そういう話さ。俺もお前に言ったろう? お前が読んで聞かせた時。三幕は重みが足りない、上っ面だけのものだって。お前には悪いが、俺は良かれと思って言ってやったんだ。全くお前って奴は、人の話を聞かん男だ。イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチはちゃーんとそれを見抜いたのさ。奴に隠しおおせる訳がない。そう、奴に気に入らなきゃ、芝居はかかりっこない。あの広告で、お前は馬鹿を見た、という訳さ。お前のことを「ああ、ユーリピデスさん!」と言ってお笑い草にするだろうからな! ああ、それから、ナスタースィヤ・イヴァーノヴナの話じゃ、お前、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチに随分生意気なことを言ったらしいな。怒らせたそうじゃないか。奴がお前に何か忠告をしたら、お前それを鼻で笑ったってな・・・「フ、フ」と。お前には悪いが、それはやり過ぎだ! だいたいお前の、今の地位から考えてみろ。奴がお前の芝居はいらないって言っている時に、何が「フ、フ」だ。それは駄目だよ!
 「レストランへ行こう」と、静かに私は言う。「家にはいたくない、僕は。家には。」
 「分る。うん、よーく分る」と、リカスパーストフは大声で言う。「よしきた。しかし待てよ・・・」リカスパーストフは心配そうに財布を引っ掻き回す。
 「僕にはある。」
 三十分後に、我々は、汚れたテーブルクロスの「ニェアーポリ」なるレストランの窓辺に坐っている。ブロンドの髪の男の給仕が、忙しく立ち働いていて、何かオードブルを出し、優しい口調でこちらに訊ねる。キウリのことは「キウリー」と発音し、イクラは「すてーきなイークラ」 と言ったが、とても暖かくて快適で、私は、通りでの寒い真っ暗闇を忘れ、おまけにこのリカスパーストフが、蛇そこのけの厭な奴であることを、暫く忘れた。

     第 十 三 章
   私は秘密を知る
 ねえ皆さん、弱気になったり、自分に自信がなくなることぐらい悪いことは、この世にありませんね? 弱気と自信喪失、これが私を襲って、到頭例の妹・・・許嫁の・・・を、母親に変えた方がいいんじゃないかと私は思い始めたんですからね。
 『あんなにしつこく言うんだから、本当なのかもしれない』と、私は自分で判断する。『だって、彼はこの世界のことを知りつくしているんだから。』
 そこで私は、手にペンを取って、紙に書き始める。あけすけに白状しよう。途中まで出来たものは、全くの屑だった。一番大事なことは、私がこの、押し掛け登場人物の、主人公の母親アントニーナが厭でたまらなかったことだ。紙の上にこの女が現れる度に、私は歯をキリキリと鳴らしながら書く。こんなことで何が生れるというのだ。自分の登場人物は愛さなきゃ駄目だ。それが出来なかったら、ペンを取るのは止めにした方がいい。無理にそれをやると、とんでもない不愉快な目にあう。これは確実だ。
 『これは確実だ』と、私は嗄(しゃが)れた声を出し、紙をめちゃめちゃに引きちぎる。もう劇場には行かない、と心に決める。しかし、行かないことを実行するのは大変辛かった。私は、一体これからどうなるのか、とても知りたかったからだ。『ええい、ままよ。この俺を呼び出すまで待ってやる』と、私は思う。
 しかし、一日過ぎ、二日過ぎ、三日、一週間過ぎても、呼出しは来ない。
 『どうやらリカスパーストフの言っていたことが正しかったか』と、私は思う。『あいつら、僕の芝居はかけない気だな。何だ、あの広告「フェーンズィーの網」は! あーあ、僕はついてない』
 「いや、世の中、悪い人間ばかりじゃない筈だぞ」と、私はリカスパーストフの真似をして言う。その時扉にノックの音がし、ボンバールドフが入って来る。私はあまりの嬉しさに涙が出そうになる。
 「全部予想した通りだ」と、窓枠に腰掛け、片足をスチームの上にのせながら、ボンバールドフは言う。「その通りになったろう? だからちゃんと言っておいたじゃないか。」
 「だけど、考えてもみてくれ、ピョートゥル・ピェトゥローヴィッチ!」と、私は叫ぶ。「ピストル自殺の場面をどうやって読まないですますんだ。読まない訳には行かないじゃないか!」「フン、読んだろう? それでどうだった」と厳しくボンバールドフは言う。
 「僕はあの主人公を決して捨てないぞ」と、頑固に私は言う。
 「そう。君は捨てなくてすんでいたんだ・・・」
 「いいか、聞いてくれ!」
 と言って私は、胸が締めつけられる思いでボンバールドフに話す。主人公の母親のこと、私の大好きな主人公の独白を代りにやるというペーチャのこと、そしてあの一番頭にくる短剣のこと、を。
 「こんな仕事のどこが面白いっていうんだ!」私はかっとなって訊く。
 「馬鹿なことだ。」どういう訳か、あたりを見回しながら、ボンバールドフは答える。
 「じゃ、それなら・・・」
 「だから、喧嘩は駄目だって言ったんだ」と、静かにボンバールドフは言う。「それから、君はこう答えればよかったんだ、『ご指摘有難うございます、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチ、必ずその線でやってみますから』と。反駁は駄目、決してやっちゃいけないんだ。スィーフツェフ・ヴラジョークでは、誰もそんなことをやる者はいない。」
 「まさか、そんなこと! 誰も、決して反駁しない?」
 「誰も、決して」と、一つ一つ言葉を区切って、ボンバールドフは答える。「過去になかったし、今もない。これからも決してない。」
 「どんなことを言われても?」
 「どんなことを言われても。」
 「僕の主人公がペンザに逃げるようにしろ、と言われてもか? この母親のアントニーナに首吊り自殺をさせろ、こいつにコントラルトで歌を歌わせろ、と言われても? そうだ、このストーブが黒いと言われてもか? それはどう答えるんだ。」
 「黒いです、と言えばいいんだ。」
 「じゃ、それで舞台ではどうなるんだ。」
 「白さ。それに黒い斑点がついているストーブだ。」
 「何だそれは。聞いたこともない酷い話じゃないか。」
 「それでいいんだ。こっちはそれでやっているんだ。」
 「それで、アリスタールフ・プラトーノヴィッチは、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチに何も言わないのか。」
 「言わないさ。一八八五年以来、二人は口をきいたことがないからね。」
 「どうしてそんな馬鹿なことが・・・」
 「一八八五年に二人は喧嘩して、それ以来会ったことがないし、電話ででも話したことがない。」
 「僕は頭がガンガンして来たぞ。それで、どうやって劇場がやって行けるんだ。」
 「御覧の通りだ。うまくやって行ってる。何も問題はない。ちゃんと二人の領域は区別してある。もし君の芝居にイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが興味を持ったとすれば、アリスタールフ・プラトーノヴィッチはその芝居には決して手を出さない。その反対もまたしかりだ。衝突する場を最初から作らないようにしてある。なかなか賢明なシステムなんだ。」
 「やれやれ、いい時にアリスタールフ・プラトーノヴィッチはインドにいるもんだ。彼が今ここにいたら、僕は直訴するだろうからね。」
 「フム」とボンバールドフは言い、窓の外を眺める。
 「だいたい、誰の言うことも聞かない男となど、仕事が出来る訳がないだろう?」
 「いや、話を聞く人間はいるんだ・・・三人。一人はガヴリーイル・スチェパーノヴィッチ、一人は叔母さんの、ナスタースィヤ・イヴァーノヴナ、もう一人がアーヴグスタ・アヴデェーイェヴナ。この三人だけが、地球上で、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチに影響を与えることが出来る人物だ。この三人を除く他のどんな人間も、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチには通じない。しかし、何か進言したとする。するとイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは必ずその反対のことをやる。」
 「どうして。」
 「三人以外は信用しないからさ。」
 「それは酷いことじゃないか!」
 「偉大な人間には必ず自分の幻想があるものさ」と、宥(なだ)めるようにボンバールドフは言う。
 「まあいいだろう。分ったよ。現状を見る限り、絶望ということだ。僕の芝居がかけられるためには、どうしてもそれが無意味になるまで変形されなきゃならないっていうのなら、元々かける意味などないんだ。そうだろう? 二十世紀のこの時代に、手に拳銃を持った男が、自殺しようとしてわざわざ短刀を取上げるような場面を見せられた観客が、僕のことを馬鹿呼ばわりする・・・そんなのは真っ平だ。」
 「かけるとしたら、短刀など出てきやしない。だから、君を馬鹿呼ばわりする観客もいなかったろうさ。君の主人公は、まっとうに、きちんと、拳銃で自殺してたろうよ。」
 私は静かになる。
 「君がお利巧(りこう)にさえしていたら」と、ボンバールドフは続ける。「そして、ちゃんと相手の提案を聞いて、ハイハイと賛成さえしていたら・・・そう、短刀にも賛成、アントニーナにも賛成していたら、何事も、なーんにも、起きなかったんだ。すべて事には、やり方というものがあるんだ。」
 「やり方って何だ。」
 「それはミーシャ・パーニンが知っている」と、墓場に行った時のような声で、ボンバールドフが答える。
 「それで、今となっては、みんなおじゃんか?」と、がっかりして私は訊く。
 「難しい。いや、実に難しい」と、悲しそうにボンバールドフは答える。
 それから一週間経つ。劇団からは何の連絡もない。心の傷は段々と治ってきたが、唯一つ堪え難いのは、こうなると再び、「汽船情報」に行き、またもや、コラムの記事を書かざるを得ないことだった。
 しかし、突然・・・ああ、何て厭な言葉だ、この「突然」という言葉は! この世から永久におさらばする今、この時点でも、私はまだ、この言葉に、小心な、打ち克ち難い怖れを抱いているのだ。私は『あなたをびっくりさせることがあるわ』という言葉と同様に、この言葉を怖れている。『あなたに電話ですよ』『電報です』『事務所に来て下さい』と同様に。こういう言葉の後に、どんなことが起るか、私にはよく分っているのだ。
 そう。だから、突然、全く思いもかけず、私の部屋にデェミヤーン・クーズィミッチが現れたのだ。彼は靴の踵をカチンと鳴らして、私に「明日四時、劇場までお越し戴きたい」というメモを渡す。
 次の日、雨は降っていなかった。朝の冷込みの厳しい、秋の日だった。私はアスファルトに靴の音をカチカチと鳴らし、心配しながら劇場へ向う。
 最初に私の目に飛込んで来たものは、辻馬車の、犀(さい)のように太った馬、そしてその御者台に坐っている干涸びた老人だった。そして、何故か理由もなく、私には一瞬にしてその老人がドゥルィキンであることが分る。そのために私は一層心配になる。建物に入るや、私は、あたり一帯に漂う、言いようのない興奮に驚かされる。フィーリャの事務所には、客は誰もいない。いや、客は、いると言った方が正しい。しかし、事務所にはいず、中庭に、その客のうちでも最も粘り強い者達だけが、寒さに背を丸めて、遠くから事務所の窓をじっと見詰めている。私は扉を叩く。扉が少し開く。その隙間から、バクバリーンの目が現れる。フィーリャの声が聞えて来る。
 「早く通すんだ!」
 そして私は通される。中庭で待っていた客達が、慌てて私の後から入って来ようとする。が、すぐにさっと扉が閉まる。お陰で私は階段から転げ落ちる。バクバリーンに抱き起こされ、事務所に行く。フィーリャはいつもの彼の場所にいない。玄関に近い方の部屋にいる。フィーリャは新しいネクタイを嵌めている。今でもよく覚えているが、水玉模様のネクタイだ。髭が綺麗に剃られていて、その綺麗さが普通でない。
 フィーリャがひどく勿体振って、私に挨拶する。しかし、どことなくその挨拶には暗い影がある。何かがこの劇場で起っている。何かが・・・それはどうやら、牛が屠殺場へ引かれて行く時の何かで、その主役を演じるのは、この私らしい。
 その「何か」を裏づけするようにフィーリャがバクバリーンに短い台詞を言う。静かに、しかし、命令口調で。
 「外套を脱がせて差し上げるんだ!」
 私はメッセンジャーボーイや、切符切り達の動きにびっくりする。彼らの誰一人として、いつもの場所に坐っている者はいない。何かぶきっちょな動き、まるで何も知らない新入りのような動きだ。ヂェミヤーン・クーズィミッチが早足で私の傍をすりぬけ、二階に音もなく上って行く。とそのすぐ後に、クスコーフが同じように早足で二階から降りて来て、また部屋へと消える。薄暗い下のロビーでは、クリュクヴィーンが、しきりに靴を絨毯にこすりつけている。それから、何のためなのか、急に窓のカーテンの一つを閉め、他は開いたままにして、どこかへ行ってしまう。
 バクバリーンが私の傍をさっと通り過ぎて行き、絨毯を音もなく踏んで喫茶室へ消えて行く。かと思うと、その喫茶室からパーキンが走り出て来て、視聴室に入る。
 「では、上にどうぞ。私と。」とフィーリャが私に言い、慇懃に私を導く。
 フィーリャと私は二階へと進む。また誰かが、音もなく私の傍を通り抜け、階上へと消える。何だか死人の影が私の周りを走り回っているような気分になる。
 私達二人が、無言で「浴場脱衣所」まで来ると、その扉にヂェミヤーン・クーズィミッチが歩哨のように立っているのが見える。何か背広姿の男が扉の方へ突進しようとするが、ヂェミヤーン・クーズィミッチがいち早く扉の前に棒立ちになり小声で何か早口に喋る。するとその男は、ハッと扉から離れ、階段の暗闇へと消えて行く。
 「お通しして!」とフィーリャが言い、フィーリャも消える。
 ヂェミヤーン・クーズィミッチが扉に寄りかかる。扉が開き、私は中へ入り・・・また扉。そして私は「浴場脱衣所」に入っている。そこはもう暗がりではない。タラピェーツカヤの事務所には灯りがついている。タラピェーツカヤはタイプを打ってはおらず、新聞を読んでいる。私に軽く会釈をする。
 理事長室へ通じる扉には、ミェナジェラーキーが立っている。緑色のジャンパー、首にはダイヤモンドの十字架が掛けてある。ブランド物の革製の帯には、大きなピカピカした鍵束が下げてある。
 ミェナジェラーキーは、「こちらへ」と言い、私は光り輝く部屋へと通される。
 まづ見えたものは、金の飾りが施されている、巨大な、カレリア白樺製の家具、そして同様に巨大な、書き物机、そして隅にある黒いオストロフスキーの彫像だった。天井からはシャンデリアが、壁からはケンケ燈が照り輝いている。(訳注 「ケンケ燈」はバーナーのついたランプ。フランスの製造者の名前から命名。)そして一瞬私は、ロビーにある肖像画の枠から、それらの人物が私の方へ動いて来るような気がする。まづイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチ。彼は小さな丸いテーブルを前に置いて、ソファに坐っている。そのテーブルの上にはジャムの入った小壜が置いてある。次にクニャージェヴィッチ。これは肖像画を覚えていて、すぐ分る。その他いろいろの人物、中でも際立って堂々とした風采の、真っ赤なブラウスを着た婦人が目にとまる。その真っ赤なブラウスの上には褐色のジャケット。ボタンの飾りが星のようにそのジャケットに鏤(ちりば)められている。そしてその上に、黒貂(くろてん)の毛皮を無造作に羽織っている。白い髪の毛の上に小さな帽子が勇ましく載せられ、白い眉の下に鋭い眼が光っていて、指には重いダイヤの指輪が光っている。
 その部屋には、ロビーの肖像画になかった人物もいる。ソファの背の後ろには、タラピェーツカヤの前でヒステリーの発作を起しかけたミーロチカ(リュドゥミーラ)プリャーヒナを、際どいところで助けた、例の医者がいる。彼はいつものように両手で、薬の入ったグラスを持っている。そして、扉のところには、喫茶室の男がいる。相変らず悲しさいっぱいの表情で立っている。
 部屋の脇にある大きな丸テーブルには、目の覚めるような白いテーブルクロスがかけてある。クリスタルグラスと磁器に光があたってキラキラと光り、ナルザーン水の壜が鈍い光を出している。赤い色も見える。どうやらイクラのようだ。殆(ほとん)どの人が肘掛け椅子に大きく手足を拡げて坐っており、私が部屋に入ると、私の会釈に応えて頭を下げる。
 「ああ、リェオーン・・・」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが言いかける。
 「スェルゲーイ・リェオーンチイェヴィッチ」と、すぐにクニャージェヴィッチが口を挟む。
 「そう・・・スェルゲーイ・リェオーンチイェヴィッチ、よく来てくれました! どうぞどうぞ、お坐り下さい!」と言い、私に固く握手をする。「何か召上がりませんか? 昼飯・・・いや、朝食かもしれませんな。何でも構いません。遠慮はいりませんよ、我々は待っていますから、どうぞどうぞ。このイェルマラーイ・イヴァーノヴィッチは、魔法使いですからね。何であれ、頼みさえすればたちまち・・・イェルマラーイ・イヴァーノヴィッチ、何か食べるもの、ありますね?」
 魔法使いイェルマラーイ・イヴァーノヴィッチの、これに対する反応は次のようなものだった。額の下で両眼がぐっと上に上がり、そしてそれが元の位置に戻り、次にそれが私に、何かを懇願する合図を送る。
 「それとも、何かお飲みになりますかな?」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは誘う。「ナルザーンですか? それともレモネード? いや、つるこけ桃のクワスがいいかな? イェルマラーイ・イヴァーノヴィッチ!」と、鋭くイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは言う。「つるこけ桃の在庫は充分だろうな? それはきちんと管理しておいてくれなきゃ困るぞ。」
 イェルマラーイ・イヴァーノヴィッチは、これに応えて力なく微笑み、うなだれる。
 「何しろ、イェルマラーイ・イヴァーノヴィッチはその・・・魔術を使うからね。この劇場で、ある時、チョウザメ一匹で全員を餓えから救ったことがある。あの助けがなかったら、我々は一人を除いて全員餓死するところだった。役者達はだから、皆彼を尊敬している。」
 イェルマラーイ・イヴァーノヴィッチはしかし、この賞賛に誇らしげな顔をするどころか、何か暗い影がその表情に漂う。
 はっきりと、しっかりと、大きな声で、私は説明する。私は、朝食も昼食もちゃんと食べた。飲物もいらない。つまりナルザーン水もつるこけ桃のジュースもいらない、と。
 「それならケーキは如何です? イェルマラーイ・イヴァーノヴィッチのケーキと言えば、全世界にその名を轟かせていますよ。」
 しかし私は、一層強く、大きな声で(後からボンバールドフが話してくれる。出席者の言葉によると、「あいつ、何て声をしているんだ。」「えっ? どんな声だったって?」「嗄(しゃが)れた、意地の悪い、細い声・・・」)ケーキもいらない、と言う。
 「そうそう、ケーキと言えば」と、突然、ビロードのように滑らかなバスの声が響く。イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチの隣に坐っているブロンドの男。これがまた、恐ろしく粋(いき)な服装、それに、粋な髪型。「プルチェヴィーンの家に皆が集まった時のことです。侯爵マクスィミリアーン・ピェトゥローヴィッチが突然現れて・・・いや、笑ったの、笑わないの・・・そうそう、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチ、プルチェヴィーンはご存知でしたか? あの時の馬鹿話、いつかお話しますよ。」
 「プルチェヴィーンは知っている」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチ。「全くあれぐらいやくざな男はいない。自分の実の妹を素っ裸に・・・ウフン、ウフン・・・」
(後は例の唸り声。)
 この時扉が開き、男が入って来る。これはロビーの肖像画にはない人物・・・つまり、ミーシャ・パーニンだ。その顔を私は見る。『これは、誰か友達でも撃ち殺して来たような顔だぞ・・・』と、私は思う。
 「おお、これはこれは、ミハイール・アリェクスェーイェヴィッチ」とイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが、握手の手を伸ばしながら大声で言う。「どうぞどうぞ、おかけ下さい。早速だが、紹介させて欲しい」と、私の方を向きながらイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが言う。
 「こちらは、我が劇団において、重要な仕事を果してくれている、他にかけがえのない、ミハイール・アリェクスェーイェヴィッチ。そしてこちらは・・・」
 「スェルゲーイ・リェオーンチイェヴィッチ!」と、明るくクニャージェヴィッチが口を挟む。
 「そう、その通り!」
 既にお互いに知合っている事を言いもせず、またその事実を隠しもせず、私はミーシャと握手を交わす。
 「さてと、それでは始める!」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが宣言する。全ての目が私の方を向き、私は怯(ひる)む。「誰が意見を言う? イッポリート・パーヴロヴィッチ!」
 実に堂々とした、非常に趣味のよい服装をした、黒い巻毛の男が、片眼鏡をかけて、私の方にじっと視線を向ける。それから、ナルザーン水をグラスに注ぎ、一息に飲干し、絹のハンカチで口を拭く。そして躊躇う・・・もう一杯飲むべきか、飲まざるべきか・・・二杯目を飲む。そして喋り始める。
 素晴しい声だ。柔らかくてよく通る。説得力のある、人の心にぐっと迫って来る声。
 「君の芝居は、リェ・・・スェルゲーイ・リェオーンチイェヴィッチ・・・でしたな? 君の芝居は、実に、実に、よく出来ている。そこにはその・・・何と言うか・・・」と言って、ナルザーン水の壜が数本置いてある大きなテーブルの方に身体を傾ける。と、すぐさま、イェルマラーイ・イヴァーノヴィッチがちょこちょこと歩みより、彼に新しいナルザーン水の壜を渡す。「つまり、心理的な深みがある。人間描写が実に素晴しい。・・・エー・・・そして、自然描写になると、これがまた絶品だ。トゥルゲーニェフの域に達していると、私は敢えて言わせて貰う。」ここでナルザーン水がグラスに注がれ、泡がコップの縁まで上る。そしてこの演説者イッポリート・パーヴロヴィッチは三杯目のグラスを飲干し、眉をつと動かす。片眼鏡が落ち、支えの紐にぶら下がる。
 「ロシア南部の風景が」とイッポリート・パーヴロヴィッチは続ける。「何とよく描かれていることか。・・・エー・・・ウクライナ地方のあの星空・・・エー・・・ドゥニェープル河畔の、あの素晴しい景色、ゴーゴリの作品にある、あのドゥニェープル・・・アカシアの匂い! これら全てが、名工の技で描かれている・・・」
 私はミーシャ・パーニンを盗み見る。ソファに坐って、額に苦々しさを表す皺がよっている。
 イッポリート・パーヴロヴィッチに食いつかんばかりの恐ろしい形相。
 「特にその・・・エー、・・・林の描写が感銘を与える・・・ポプラの銀色の葉・・・皆さん、覚えておいででしょう?」
 「地方巡業であちらに行った時の、ドゥニェープルのあの夜の景色、今でもよく覚えているわ!」と黒貂(てん)の婦人のコントラルトが響く。
 「地方巡業と言えば」とイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチの隣の男のバスの声と笑い声が響く。「あそこの県知事閣下ドゥカーソフ将軍、酷いことをやってくれましたね? 覚えていらっしゃいますか? イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチ。」
 「覚えているよ。恐ろしい大食漢だったな!」とイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチ。「まあいい、その先を頼む。」
 「いや、その、もう別に・・・この小説に関する限り、褒め言葉しかありません。・・・しかし、お許し願いたいが、芝居というものは、芝居独自の法則がありますからな!」
 イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチはジャムを食べながら、イッポリート・パーヴロヴィッチのこの演説を、満足そうに聞いている。
 「芝居の方に、この南方の、むしむしする夜の雰囲気を充分に取入れることが出来なかったようだ。登場人物も、小説の心理的な特徴をうまく表せていない。特にバフチーンが弱い。」ここで、どういう訳か演説者は急に腹を立て、唇を震わせて言う。「プ・・・プ・・・わ・・・私には分らん」と言いながら、片眼鏡を持上げ、机の上のノートにぶっつける。そのノートは私の方からよく見え、私の芝居であることが分る。「この芝居は上演不可能だ・・・失礼ながら・・・」ここで急に演説が終る。
 イッポリート・パーヴロヴィッチの目と私の目が合う。私の目に憎悪と呆れ返った気持とを見てとったに違いないと私は想像する。
 私の小説には、アカシアもなければ、銀色のポプラの葉もない。ざわめくドゥニェープルもない。いや、彼が話した何もかもがないのだ。
 『奴は読んでいない! 私の小説を読んでいないんだ、奴は。』私の頭の中にこの言葉が唸っている。『あんなことをいけ図々しくよくもまあ・・・何がウクライナの夜だ。あの御念の入(い)った嘘はどういうことだ・・・こんなところに何故僕を呼んだのだ!』
 「他に誰か喋りたい者はいないのか?」と、あたりを優しく見回しながら、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは訊く。
 「ハッ、ハッ・・・」
 私は首を回す。そこには濃紺のシャツを着た中年の男性が坐っている。ロビーで見た肖像画の中にあったな、と思う・・・その目は優しく、顔は退屈を表している。もうずっとずっと前からの退屈だ、この表情は。私がその目を見詰めると、彼は目を逸らす。
 「何か言うことが? フョードル・ヴラヂーミロヴィッチ」と、そちらを向きながらイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチ。
 「いいえ」と、答が返って来る。
 何かこの沈黙には奇妙なものがある。
 「じゃ、君、君の方で何か言いたいことがあるかね?」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは私の方を向いて言う。
 全く響きのない声で、全く勇気のない調子で、全くはっきりしない言い方で・・・そして私自身それをよく分りながら・・・私は言う。
 「私の理解では、どうやらこの芝居はかけられないようです。そういうことなら、芝居は私に返して戴きたい。」
 この言葉は何故か周囲に動揺を惹き起す。ごそごそとあちこちで椅子の動く音が聞える。誰かが私の背に首を伸ばし、言う。
 「駄目だよ、君。どうしてそんなことを言うんだ、全く。」
 イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチはジャムの壜をじっと見詰め、それから困ったように辺りを見回す。
 「ウフン、ウフン」と、唸り声を出し、四本の指でテーブルを叩いてから、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは言う。「我々は君に、友好的に、こう話しているんだ。つまり、君の芝居をかけるということは、つまり、君自身に禍(わざわ)いを呼び起すことになると。酷い禍いをだ。特にそれが、フォーマ・ストゥリーシュの手にかかったりすれば、君の人生を滅茶滅茶にし、結局は君が我々を恨むことにも・・・」
 間の後、私は言う。
 「そういうことでしたら、私の芝居を返して戴きます。」
 この時私は、はっきりとイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチの目に憎悪を読み取る。
 「我々は契約を交わしている」と、突然どこからか声が響く。そして医者の背の後ろから、ガヴリーイル・スチェパーノヴィッチの顔が現れる。
 「しかしあなた方はこの芝居をかけたくないんでしょう? それならこの芝居、あなた方に何の必要があるんです。」
 その時、生き生きとした目が片眼鏡の後ろに光っている顔が、私の方を向き、甲高いテノールで次のように言う。
 「君、まさか、シュリッペ劇場に、その芝居をかけさせようって言うんじゃないでしょうね。あそこでどんなことをやっているか、君、知らないんでしょう。兵隊が出て来て、どたんばたん、元気よくやるだけ。全く、あんなものを誰が見たいって言うんです。」
 「現在の法律、それに法解釈からして、シュリッペ劇場でこの芝居をかけることは不可能です。ちゃんと契約が交わされているんですからね!」と、ガヴリーイル・スチェパーノヴィッチは言い、医者の後ろにある扉から出て行く。
 『一体何なのだ、これは。こいつらは何がやりたいっていうんだ』と、私は考える。そして、生涯で初めて、息が詰ってくるような気持になる。
 「失礼ですが」と、私は陰気な声で言う。「私にはよく分りません。ここではこの芝居をかけない。しかし、他のところへ持って行くことも許さない。これはどういうことですか。」
 この発言は、驚くべき事態を惹き起す。黒貂の婦人は、悔しそうな目つきを、ソファに坐っているバスの声氏と交わす。しかし、一番恐ろしかったのは、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチの顔だった。微笑は消え、私を正面からじっと見据え、険しい、燃えるような目つきで私を睨んでいる。
 「我々は君を、恐ろしい危害から救おうとして言っているのだ!」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは言う。「君を待受けている危険極まりない事態から、君を免れさせようと、言っているんだ。それを!」
 再び全員の沈黙。沈黙の重みが、私にはついに耐えられなくなるところまで来る。
 指で、肘掛け椅子の張り布地をガリガリとこすった後、私は立上がり、会釈をする。全員がこの会釈に応える。ひとり、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチだけは会釈に応えず、驚愕の表情で私を見詰めている。半身(はんみ)になって私は、扉の方へ進む。躓(つまづ)く。やっと扉から外へ出る。タラピェーツカヤとアーヴグスタ・ミェナジェラーキーに会釈をする。タラピェーツカヤは、片方の目で(新聞)イズヴェースチヤを読み、もう一方の目で私を見る。そしてアーヴグスタ・ミェナジュラーキーは、私の会釈に厳しい顔で応じる。私は外に出る。
 劇場は薄暗がりに包まれている。外からの喫茶室の光景には、白い斑点がある。観客達のために、テーブルにテーブルクロスが敷かれてあるからだ。
 観客用の入口が大きく開かれている。私は暫く立止まり、中を眺める。舞台がすっかり・・・奥の煉瓦の壁まで見渡せる。上から、木蔦(きづた)が絡(から)んでいる緑色の四阿(あづまや)が下ろされて来る。片側では、蟻のように小さく見える道具方が、何人かで巨大な、開いた門に、太い、白い柱を据えつけている。
 一分後には、私はもう、劇場から離れていた。
 ボンバールドフの家には電話がないので、その晩私は、次の文面の電報を彼に打った。
 『通夜に来られたし。君なしでは気違いになる。訳が分らないんだ』
 郵便局では、この電報は扱わないと言う。「汽船情報」社を通して訴えるぞ、と脅しをきかせ、やっと受けつけさせる。
 翌日の夕方、ボンバールドフと私は、私の家の、食事の用意が出来た食卓につく。以前ここに紹介した、この建物の知合いの妻がクレープを持って来てくれる。
 「通夜につき合え」という私の考えを、ボンバールドフは面白がり、また、掃除をして客を迎えるに相応しくなった私の部屋、も気に入ってくれる。
 「僕は今じゃ落着いたよ」と、私の客が最初の餓えをいやした時、私は言う。「僕の今の望みはたった一つだ。一体あれは何だったのか、それが知りたい。何が何でも知りたくてたまらない。あんな奇妙な事は今までに見たことも聞いたこともない。」
 ボンバールドフは、まづクレープを取り、次に部屋を眺め回して、答えて言う。
 「君は結婚しなきゃ駄目だよ、スェルゲーイ・リェオーンチイェヴィッチ。優しい、思い遣りのある婦人、あるいは若い娘(こ)とね。」
 「その話はもうゴーゴリが書いている」と、私は答える。「ここで繰返しやることはないさ。なあ、一体あれは何なんだ?」
 ボンバールドフは肩をすくめる。
 「特に変ったことはないさ。イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが古参の役者達を集めて会議を開いただけだ。」
 「そうか。あの黒貂の婦人は誰なんだ?」
 「マルガリータ・ピェトゥローヴナ・タヴリーチェスカヤ。我々の劇団の役者だよ、古くからの。まあ、創立者の一人だ。死んだオストローフスキイが一八八0年、マルガリータ・ピェトゥローヴナのデビューを見て、『大変よろしい』と言ったことがよく知られている。」
 私はまた、ボンバールドフから、「あの部屋には、劇団の創立メンバーが特に召集された。議題は私の芝居についてだった。ドゥルイキンには、その前日知らせがあり、彼は時間をかけて馬を洗い、石炭酸で四厘馬車を掃除した」という事実を知る。
 偉大な侯爵、マクスィミリアーン・ピェトゥローヴィッチと大食漢の知事の話をした人物についてボンバールドフに訊き、彼が劇団創立のメンバーの中で一番若い男だと知る。
 ここで読者諸氏に知って戴かなければならないことは、ここまでのボンバールドフの返答が、用心の塊(かたまり)、話し過ぎは止めよう、という明らかな意図があったことだ。この様子を見てとった私は、彼から「何年何月の生れで、名前と父称はこれこれ」などという無味乾燥な答ではなく、何かその人物の性格に触れるような話を彼から引き出すことを試みることにする。あの時理事長の部屋に集まった人間に、私は心の底から興味を持ったのだ。何しろ奇妙な会合だった、あれは。あそこでの彼等の振舞も、連中の性格が分れば解明するのではないかと思ったのだ。
 「するとあの、ガルナスターイェフは、いい役者なのか?(ガルナスターイェフは、例の知事の話をした男だ。)」と、私はボンバールドフにワインを注ぎながら、訊く。
 「ウーン、まあ」と、ボンバールドフは答える。
 「『ウーン、まあ』は駄目だ。ほら、さっきのマルガリータ・ピェトゥローヴナの時には、オストローフスキイが『大変よろしい』と言っただろう? ああいう何かこぼれ話を頼む。『ウーン、まあ』以外に、ガルナスターイェフと言えばこの話だ、というような何かがないのか?」
 ボンバールドフはこっそりと、警戒するような目を私に向けた後、何かもぞもぞと呟く。
 「彼に関して何を話せばいいかな。フム、フム・・・」そしてグラスを開け、喋り始める。「そう、最近の話だが、ガルナスターイェフに奇跡が起った。その奇跡で皆をアッと言わせたんだ。」と言って、クレープにバターを塗り始める。そして、その塗り方がまた、ひどく長い。ついに私が怒鳴る。
 「おい、頼むよ。もったいをつけるのは止めてくれ!」
 「素晴しいナパリェーウリのワインだ。(訳註 「ナパリェーウリ」は不明。英訳は「ジョージアン・ワイン」。)と、こちらは苛々しているのに、ゆったりと間(あい)の手を入れる。そして続ける。「奇跡は四年前に起った。春も早い頃、今のことのようにはっきりと覚えている。ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチは、特別に若々しく浮き浮きしていた。しかし、人間が浮き浮きしているのはどうやら、良い兆候とばかりは言えないようだ! どうやら何か計画を立て、どこかへ行こうとしているらしい。そのせいで何だか若返ったようにも見える。ここで言っておかなきゃならないが、ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチは、恐ろしく芝居が好きだった。その頃いつでも彼は言っていた。『いや、僕も随分時代遅れになったしまった。昔はちゃんとドイツ、フランスの演劇に取り残されないよう、毎年あちらに行っていたものだ。そして勿論、あちらでやっている演劇関係の講座をかかしたことはないんだ! そう、それに、フランスに留まってはいなかった。アメリカにまでも足を運んで、連中のやっていることを具(つぶさ)に研究して来ていたんだ。』『じゃ、お前』と、他の連中が言う。『申請書を出して、行けばいいじゃないか』すると、こんな風ににやりと笑って答えたもんだ。『いやいや、そんなことは僕はしないよ。今は申請書なんか出す時代じゃない。外貨は大事なんだ、今。その大事な外貨を僕に使えと、國に言うのか? それは駄目だ。技術者にでも、いや、経済学者にでも行かせたらいいんだ。』
 本物の男だ、あいつは。しっかりした人物だ。うん・・・(ボンバールドフはワイングラスを通してランプの光を眺め、再びワインを褒める。)うん・・・それからまたひと月経つ。本格的に春になる。そこで悲劇が起った。ある時ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチは、アーヴグスタ・アヴデェーイェヴナの事務所に来る。アーヴグスタ・アヴデェーイェヴナはじっと黙っている。相手の顔に血の気がないことを見て取る。真っ青な顔、目はもう死んでいる。『どうしたの? ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチ。』『何でもありませんよ。気にしないで下さい』そして窓際に行く。窓ガラスを四本の指で叩く。非常に悲しい曲を口笛で吹く。ぞっとするように悲しい、よく知られた曲だ。よく耳をすませる。分る。ショパンの葬送行進曲だ。アーヴグスタ・アヴデェーイェヴナは心が痛む。我慢出来ず、訊く。『どうしたの? 何かあったの?』
 ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチは彼女の方を向き、微笑み、ウインクしてから言う。『誰にも言わないと誓って!』勿論こちらは一も二もなく誓う。『僕は今日医者に行った。そうしたら僕は肺癌にかかっていることが分ったんだ。』そう言って彼はアーヴグスタ・アヴデェーイェヴナに背を向け、部屋を出る。」
 「そいつはまづい・・・」と私は低い声で言う。何だか気分が悪くなる。
 「そうだろう!」とボンバールドフが応じる。「さて、アーヴグスタ・アヴデェーイェヴナは早速この話を他言無用と誓わせて、ガヴリーイル・スチェパーノヴィッチに話す。そしてまた彼がイッポリート・パーヴロヴィッチに、そしてまた彼がその妻に、その妻がイェヴラームピア・ピェトゥローヴナに・・・と、早い話が、二時間後には、衣裳係の助手まで、ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチは、もう役者生命は終り、葬式の花輪を注文しておいた方がいいという話になっている。そして三時間後には、喫茶室で役者達がゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチの代役を誰にすべきかを議論していたんだ
 その間にももう、アーヴグスタ・アヴデェーイェヴナは受話器を取り、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチに電話していた。それから丁度三日後、アーヴグスタ・アヴデェーイェヴナはゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチに電話する『今そちらに行きます』。そして彼女は確かに彼の家に行く。ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチは中国風の長いガウンを着て、まさに死そのもののような青い顔をしてソファに横たわっている。しかしさすがにゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチだ。誇り高く、落着いた顔をしている。
 アーヴグスタ・アヴデェーイェヴナは能率を旨としている女性だ。真直ぐ机に向い、赤い手帳と小切手を机の上にドンと置く。
 ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチは身震いをして言う。
 『やれやれ、みんな不親切な人達だ。して貰いたくないな、そんなこと! 異国で死んで何の意味があるんです。』 アーヴグスタ・アヴデェーイェヴナは勇気のある女性だ。また、有能な秘書でもある。死にかけている男の言う事には耳も貸さず、叫ぶ。
 「フェッデェーイ!』
 フェッデェーイというのは、ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチの献身的な召使だ。
 すぐにフェッデェーイが現れる。
 「二時間後に汽車が出ます。ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチに肩掛けを、それから、下着! スーツケース、日用品。車が四十分後に来ます。」
 瀕死の病人はただ手を振るのみ。
 「スイス国境にか、スイスの國そのものにあるのか、アルプスにか、」ボンバールドフは額を拭う。「とにかくそんなことはどうでもいい。海抜三千メートルの高さの、ある場所に、世界的に名を知られたクリー教授の療養所がある。末期的症状を起している患者しか来ない。一か八か、最後の賭けだ。これより悪くなりようがない、しかしひょっとして奇跡が起るかもしれない。雪の頂(いただき)が見えるベランダにクリー教授は、これら絶望的な患者達を坐らせる。制癌の注射をうつ。酸素吸入をしてクリーは、連中の命をあわよくば一年長らえることに成功する。」
 「五十分後にゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチは、自分の頼みにより、劇場の傍を通る。そしてゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチの話によると、彼は手を上げ、劇場に祝福を与える。車はそれから、ビェラルースカ・ルチーイスキイ駅へと向う。
 さて、夏がやって来る。噂が流れる。ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチは死んだ、と。ひそひそと囁き合い、その死を悼む。しかし何と言っても夏だ。役者達は外国へと旅立つ。休暇が始まったのだ。当然のこと、そうたいした悲嘆はない。死骸が送られて来るのを待つ。その間にも役者達は芝居のシーズンが終り、旅行に散って行く。中でもプリーソフは・・・」
 「プリーソフって、人相のよい、肖像画にもあった、あのプリーソフ?」と、私は訊く。
 「そう、彼だ」と、ボンバールドフは言い、続ける。「舞台のしかけ、装置、の研究で、パリへの出張を命ぜられる。勿論すぐさま書類を受取り、出発する。言っておかなきゃならないが、このプリーソフという人物は、回り舞台の装置が大好きで、信じ難い程勉強家なんだ。みんな彼を羨ましがったよ。誰だってパリに行きたいと思ってるんだからね・・・『運のいい奴だ!』と、みんなそう言っていた。運がいいか、運が悪いか、それはとにかく、プリーソフは書類を受取り、パリに行く。それが丁度、ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチの死の知らせがモスクワについた時だったのさ。プリーソフは変った男でね、パリに着いたって、エッフェル塔も見やしない。仕事熱心なんだ。舞台の下の穴蔵に四六時中坐って、買って来た懐中電灯で、必要なありとあらゆるものを研究した。とうとうモスクワに帰る日が来た。そこでまあ、最後にパリを見ることにしたのさ。祖国に帰る前に、チラとでも見ておくか、とね。歩いて、歩いて、バスに乗って大方(おおかた)の感想は、ブツブツと牛の鳴声のような声で自分に言い聞かせて・・・すると腹が減ってきた。獣(けもの)のような空腹だ。糞っ! どこかへ行かなきゃ。食わなきゃ。『ええい、何でもいい。レストランに入って何か食おう。』ふと見ると灯りだ。どうやらどこか、賑やかなところに出たらしい。レストランがある。エーイ、見たところ高くはなさそうだ。入る。確かに中程度のレストランだ。中を見渡す。そして、立ったまま動けなくなる。
 テーブルについている男、スモーキングを着て、ボタンホールに花をさしている・・・その男は故ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチだ。そして彼に二人のフランスの若い女が・・・丁度彼の冗談に、二人で笑い転げた場面だ。そのテーブルには、氷のバケツにシャンパンの壜がつけてある。そして果物がなにがしか・・・
 プリーソフはよろけ、慌てて鴨居にすがりつく。『まさか! 他人の空似だ』と、彼は思う。『ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチがここにいて笑っている。そんな馬鹿な。あいつがノヴァ・デェヴィーチイの墓場以外のどこにいられるっていうんだ!』
 じっと突っ立ったまま、この、死んだ男に瓜二つの男、を、目を丸くして見詰めている。瓜二つの男は立上がる。最初その顔には、何か心配そうな表情が現れる。プリーソフは、自分が現れたのがゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチには不快だったのではないかとさえ思われる。しかし後で分ったのだが、彼はただ、驚いただけだったらしい。この時ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチは・・・何故なら結局その人物は本人その人だったから・・・連れの二人のフランス女性に何か囁き、二人はすぐにいなくなる。
 ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチがプリーソフに接吻し、そこで初めてプリーソフは我に返る。そして彼は、洗いざらい話を聞く。プリーソフは彼の話を聞き、ただ「へえー、そう?」としか、言う言葉がない。確かにそれは、奇跡だった。
 ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチがアルプスの山頂に連れて来られた・・・その時の彼は、ただクリーが頭を振り、「フム・・・」とだけしか言えない状態だった。さて、すぐにベランダに寝かされ、薬剤が注射され、酸素吸入が施される。最初病人は、悪くなる一方だった。あまりに酷いのでクリーも、「明日まではもつまい」と認めたほどだった。何故なら、心臓も弱っていたからだ。ところがその次の日はちょっとよくなる。注射が繰返される。またその次の日は、さらによくなる。そして次の日・・・もうぶり返すことはなかった。ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチは寝台の上に起上がり、それから言う「僕は散歩がしたい。」助手は勿論目を丸くしたが、クリーも目を丸くする。早い話が、二三日後にはゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチはベランダを歩き回っている。顔は薔薇色、食欲が出てくる。体温は三十六度八分。脈は正常。痛みは、その影さえなし。
 そしてゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチの話では、近隣の村から人々が彼を見にやって来る。町から医者が次々にやって来る。クリーは報告書を公けにし、このような事例は千年に一度のことだと力説する。ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチの写真を医学雑誌に載せようとする。が、きっぱりと断る。「騒ぎは嫌いだ」と。
 そうこうするうちにクリーは、ついにゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチに言う。もうアルプスで君にしてあげることは何もない。こんな経験でくたびれたろう。パリに行ってはどうか、と勧める。そこで彼はパリにいたというわけだ。二人のフランス女性は、ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチの話によれば、パリでの医者の卵で、ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチについての論文を書こうとしていたのだ、と。ざっとこういう話だ。
 「それは驚くべきことだよ!」と私は言う。「しかし、一体全体、どうしてこんなことが起きたんだ!」
 「そう、確かに奇跡としか思えない」と、ボンバールドフは答える。「最初の一本目の注射から、ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチの癌にはその効き目をあらわして、癌細胞は散り、消えて行ったんだ!」
 「そんなことって」と、私は叫ぶ。「そう簡単に起るものじゃない!」
 「まあ、千年に一回だな」とボンバールドフは言い、そして続ける。「いや、これで話は終じゃないんだ。続きがある。秋になり、すっかり恢復してゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチは、新しく仕立てた背広を着て、陽に焼けた顔をして・・・パリの後、今度はパリの医者達が、船旅の金を出してくれたんだ。劇場の喫茶室は大にぎわいだ。皆がゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチの回りに集まり、彼の話に聞き惚れる。船の旅行、パリ、アルプスの医者達の話、その他もろもろ。勿論、いつものように芝居のシーズンが始まり、ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチは芝居に出る。実にうまい演技だ。そしてこれが三月まで続く。ところが三月になり、突然「レイディー・マクベス」のリハーサルに、ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチが杖をついて現れる。『どうしたんだ』『いや、何でもない。腰の方がビリビリ痛むんだ。そう、痛い、痛い。ちょっとだけさ。そのうち痛みは止るよ。』しかし止らない。時間が経つにつれて酷くなる。紫外線治療・・・駄目。不眠。背を下にして眠ることも出来なくなる。目に見えて痩せてくる。パントポーンを試す。駄目! 仕方がない。医者だ、勿論。で、どうなったと思う。
 ボンバールドフが間を置く。実に効果的な間だ。そしてあの目つき。私は背中に悪寒が走る。
 「で、どうなったと思う。・・・医者は彼を診(み)、額に皺をよせ、瞬(まばた)きをする。ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチが医者に言う『先生、引き延ばし作戦はご免です。さっさと言って下さい。私は女子供(おんなこども)とは違う。いろいろ経験は積んでいる男だ。これは・・・あれですね?』『あれです。』」ここのところをボンバールドフは嗄れた大声で言い、一気にグラスをあける。「癌が再発したんだ! 癌細胞が右の腎臓に入り込み、ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチを貪(むさぼ)り食い始めたんだ! 勿論噂は広まり、大騒ぎだ。リハーサルは中止、ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチは家に帰る。しかし今回は先回とは比べものにならなかった。希望があった。再び三日後には、パスポート、切符、が用意され、アルプスへ、クリーへと出発。アルプスでは彼は同郷の人間のように歓迎される。『ああ、またいらっしゃいましたか』大歓迎だ。無理もない。ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチの癌は宣伝によりクリーを世界的に有名にしたんだ! 再びベランダ、再び注射、そして結果は前と同じ? 一昼夜で痛みはなくなり、二日後にはベランダを散歩、三日後にはクリーに訊く『テニスをしてはいけませんか?』一体この診療所で何が行われているんだ。信じられない事だ。病人がクリーのところに編隊を組んでやって来る。ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチの話によると、本館の隣に別館が建ち始める。クリーは感情を外に出さない人物だったが、この時にはゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチに、ロシア式の、三回のキスを与え、また、もう決まりきったことのように、彼をニースに、次にパリに、それから最後に、シシリアへと送り出す。
 そして再び秋にゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチは帰って来る。・・・我々も丁度その時、ドンバースでの旅公演を終え、帰って来たのだが・・・ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチは、健康そのもの、パリッとして落着いた表情だ。背広だけが以前と違っていて、以前はチョコレート色、今回はグレイ、それに細かいチェックが入っている。三日間彼はシシリアの話、それにモンテカルロでブルジョワ達がルーレットをしている様子を話す。全くうんざりする光景さ、と。再び芝居の季節。そして春になる、とまた、例の話の繰返しだ。ただ今度は場所が違う。再発ではあるが、今度は左の膝。再びクリー、次にマデイラ。仕上げはパリ。
 しかしもう今では、癌の再発については何の心配もいらなくなる。クリーが救助の方法を見つけたのだ。それは誰の目にも明らかだった。どうやら、毎年、クリーの注射のお陰で、癌の定着性は低下するように見えた。クリーは次のように期待もし、また確信もしていた。つまり、もう後三四年これを続ければ、ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチの身体は癌がどこかに現れるのを防ぐだけの抵抗力を持つようになるだろうと。そして確かに、一昨年上顎骨に軽い痛みが現れただけだったが、すぐクリーのところに行き、痛みは消えた。しかし今では、ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチには厳重な診察が行われ、痛みがあろうとなかろうと、四月になるとクリーのところへ送られることになっている。」
 「奇跡だ!」と私は何故か大きく溜息をつきながら言う。
 そうこうしているうちに宴会は、所謂、酣(たけなは)、となる。ナパレウーリのワインで頭はぼんやりしてき、会話はどんどん活溌になり、大事なことはどんどん開けっぴろげになってきた。
 『お前さん、なかなか観察眼のある、隅におけない面白い男だな』と、私はボンバールドフのことを判断する。『お前さんは気に入ったよ。だがね、ちょっと狡い。隠し事をしている。それも芝居の世界に長いこと住んでいたせいなんだな・・・』
 「もう隠さないでくれ!」と、突然私は、自分の客に頼む。「言ってくれないか、僕は白状する。苦しくてたまらないんだ。僕の芝居はそんなに悪いのか。」
 「君の芝居は」と、ボンバールドフは言う。「素晴しい芝居だ。以上終。」
 「じゃ、何故、何故あんな奇妙な、僕にとっちゃ恐ろしいことが、あの部屋で起ったんだ。僕の芝居が連中に気に入らなかったからじゃないか。」
 「違う」と、ボンバールドフはしっかりした声で言う。「逆だ。ああいうことが起ったのはみんな、君の芝居が気に入ったから、それも、ひどく気に入ったからなんだ。」
 「しかし、イッポリート・パーヴロヴィッチは・・・」
 「中でも一番イッポリート・パーヴロヴィッチが気に入ったんだ。」静かに、しかし重量感のある声でボンバールドフはきっぱりと言う。そして私は、彼の目に、私に対する同情を見てとる。
 「頭がどうかしているんだ」と、私は呟く。
 「いや、どうかしてはいない。ただ君が芝居の世界がどういうものか知らないだけだ。世界にはいろいろ複雑な仕組がある。しかし、その中でも、芝居の世界は一番複雑なんだ。」
 「話してくれ、頼む」と、私は叫ぶ。両手で頭を抱える。
 「あの芝居がみんなに、猛烈に気に入ったんだ。だからパニックになった」と、ボンバールドフは話し始める。「だからあんな奇妙なことになったのさ。まづ、あの芝居のことを知らされる。創立メンバーが芝居を読む。と、すぐ、役の振当てまでやり始めた。まづバフチーン、これはイッポリート・パーヴロヴィッチ。ピェトゥローフはヴァリェンチーン・コンラードヴィッチをあてる。」
 「?・・・ヴァリェンチーン?・・・それは・・・」
 「そう、あの人。」
 「だけど、いいか・・・」私はもく叫ぶどころか、喚(わめ)いていた。「そんなことって・・・」
 「分ってる、分ってる」と、片言(へんげん)を聞いただけで理解しているボンバールドフは答える。「イッポリート・パーヴロヴィッチは六十一歳、ヴァリェンチーン・コンラードヴィッチは六十二歳・・・君の芝居で一番年をとっているのは、確か、バフチーンだったな? 何歳だ?」
 「二十八だ!」
 「そう、そういうことだ。だから芝居が皆に配られた時、連中が発した言葉は、とても君には伝えられない。この五十年間のここの劇団の歴史で、なかったことだよ。連中はもう、怒り狂ったんだ。」
 「誰にだ。配役を決めた人物にか。」
 「違う。作家にだ。」
 私はただ、目を丸くすることしか他に思いつかない。ボンバールドフは続ける。
 「作者にだ。実際、あの連中は、こう判断したんだ。我々創立メンバー達はやっきになって捜したんだ、何か良い現代劇がないか。その芝居で見事に我々の腕を見せてやる、と。ところがどうだ、グレイの背広を着た男が現れて、現代劇を持って来た。しかし、登場人物は全員子供、ときている。つまり我々に、演技をするな、ということか。何だこの男は。我々を馬鹿にしているのか。我々の仲間で一番若い人間だって、ゲラスィーム・ニカラーイェヴィッチ・ガルノスターイェフ、つまり、五十七歳じゃないか。」
 「僕の芝居を創立メンバーにやって貰いたいなどと、そんな大それたことを僕は言いやしない!」と私は怒鳴る。「若手にやらせればいいじゃないか。」
 「好きなように、格好のいいことを言うんだな、君は」と、ボンバールドフは大声を上げ、そして悪魔のような顔になる。「若手にやらせたらいい。アルグニーン、ガーリン、イェラーギン、ブラガスヴェートゥロフ、ストゥリェンコーフスキイにね。そして大喝采を受けさせるんだ。アンコールをね! やったぜ、見てみろ、先輩諸氏、俺たちだって出来るんだ! 創立メンバーはどうなる。横で、困ったような微笑を浮べ、『何だ、もう俺達の出る幕はないのか、もう養老院行きか』・・・そう言わせたいんだな? ハッハッハ、こいつはいい、こいつはいいや!」
 「分ったよ!」と、私の方も悪魔的な声で言ってやろうと、大声で怒鳴る。「分りましたよ!」
 「こんな簡単なことが何故分らない!」と、ボンバールドフはぶっきらぼうに言う。「イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは君に言ったろう。婚約者は母親にしなきゃならんとね。母親だったら、マルガリータ・パーヴロヴナか、ナスタースィヤ・イヴァーノヴナにやらせることが出来るんだ。」
 「ナスタースィヤ・イヴァーノヴナ?」
 「君は芝居の世界を知らないからな」と、軽蔑の目でボンバールドフは私を見る。しかし何故軽蔑するのか、私には説明しない。
 「だけど、とにかく教えてくれ」と、私は熱烈な調子で言う。「誰にアーンナの役をやらせるつもりだったんだ。」
 「勿論リュドミーラ・スィリヴェストゥローヴナ・プリャーヒナにだよ。」
 この言葉は私を激昂させる。
 「何だって? 何だ、それは。リュドミーラ・スィリヴェストゥローヴナだって?」私はパッと立上がる。「そんな馬鹿なことが!」
 「何が馬鹿だ」と、面白がってボンバールドフは訊く。
 「いくつなんだ、彼女は。」
 「それは誰も知らないね、残念ながら。」
 「アーンナは十九歳だぞ! 十九歳! 分ってるのか? しかしまあ、それはそれほど問題じゃない。大事なのは、彼女は演技が出来ないということだ!」
 「アーンナが出来ないというのか。」
 「アーンナに限らない。何だって出来るものか。」
 「おいおい・・・」
 「おいおいじゃない! 苦しめられて、侮辱されて、泣く女を演じろと言われて、やってみたら猫が怖れをなして後ずさり、おまけにカーテンをずたずたにする。そんな演技で何もやれるわけがない!」
 「あの猫は馬鹿なんだ」と、私の狂気ぶりをニヤニヤ笑いながらボンバールドフは言う。
 「あいつは心臓肥大、心筋炎、それにノイローゼなのさ。日がな一日ベッドでただじっとしていて人間を見たことがない。だから驚くのは無理もないんだ。」
 「あの猫がノイローゼなのは分る!」と、私は怒鳴る。「しかし、いくらノイローゼでも、ちゃんとした勘は持ってるぞ、あの猫は。演技が分るんだ。インチキを肌で感じたんだ。いいか、猛烈に不快なインチキを感じとったんだ。それでショックを受けたんだ! それにしても一体何だ、あの茶番は。」
 「ナクラードゥカだよ。ナクラードゥカが起ったんだ」と、ボンバールドフ。
 「何だ? ナクラードゥカとは。」
 「芝居の用語でね。芝居で起ったヘマのことをそう言うんだ。役者が台詞をとちったり、幕がちゃんと締まらなかったり・・・」
 「分った、分ったよ。」
 「あの場合、ヘマは二つだ。一つは、アーヴグスタ・アヴデェーイェヴナ、もう一つはナスタースィヤ・イヴァーノヴナがやった。アーヴグスタ・アヴデェーイェヴナの方は、君をイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチに会わせておいて、ナスタースィヤ・イヴァーノヴナにそのことを予め話しておかなかった、つまり、君がいるということをだ。二つ目は、リュドミーラ・スィリヴェストゥローヴナを部屋に入れる前に、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチのところに誰がいるか確かめなかったことだ。勿論罪の軽い方はアーヴグスタ・アヴデェーイェヴナだ。ナスタースィヤ・イヴァーノヴナは八百屋にきのこを買いに行っていて・・・
 「分った、分った」と、顔にメフィストフェレスの笑いを浮べるよう努めながら、私は言う。
 「すべてはしっかりと、決定的に理解した。しかしとにかく、あのリュドミーラ・スィリヴェストゥローヴナは、演技など出来るわけがない。」
 「とんでもない! モスクワっ子達は、彼女の全盛時代にはたいした役者だったとみんな認めている。」
 「やれやれ、何がモスクワっ子達だ。嘘ばかりついて」と、私は怒鳴る。「リュドミーラ・スィリヴェストゥローヴナが悲しみや苦しみを表現する。だけど、その目を見てみろ。怒っている目だ! 『まあ、小春日和の素敵な日』なんて嬉しそうに言う。だけど目は心配そのものの目だ! ケラケラと笑う。するとこっちは背中に鳥肌が立って来る。まるでワイシャツの上からナルザーン水をぶっかけられたような気分だ。あんなのがどうして女優だ!」
 「だけど彼女は、演技の稽古をイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチの有名な理論に従って、三十年間もやっているんだ・・・」
 「そんな理論は知らない。しかしとにかく、彼女にはその理論は役に立たなかったんだ!」
 「すると君はきっと、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチも大根だと言うんだな?」
 「いや、それは違う! バフチーンが刀で自害する場面を僕にやって見せてくれた。僕はうなったね。目が死人の目だった。ソファの上に倒れた。僕はしっかりとそこに死骸を見たんだ。それだけの短い場面でも、うまいものはうまいと判断出来る。丁度偉大な歌手がたった一節歌っただけで、偉大さを判断出来るのと同じだ。ただ僕には全く分らない、何故彼が僕の芝居についてあんな馬鹿なことを言ったのか。」
 「まあ、彼の一言一句が、賢者の言葉だからね。」
 「短刀にしろ、だ? 馬鹿な!」
 「いいか、君がイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチの前に坐って芝居のノートを拡げたとたん、相手は君が読むことなんか、全く聞いていなかったんだ。そう、そうなんだ。配役をどうしようか、劇団創立メンバーをどう嵌め込むか、自分自身に不利益を蒙(こうむ)らずにすむようどう芝居を作ろうか・・・それだけさ。すると君が何か銃を撃つところを読んでいる。僕はね、この劇団で、もう十年勤めている。それで話を聞いているんだ。この劇団で銃を撃つシーンは、一九0一年にたった一回だけあった、とね。それも酷く・・・あ、この話はまあいい・・・とにかく主人公二人が遺産のことで言い合いをやって、相手を罵り合う。罵った末、とうとう一方が相手にピストルをぶっ放す。それが外れる・・・この場面を普通の稽古の時は、舞台監督がピストルの音を、手を打鳴らしてその代りにした。しかし、ドレスリハーサルの時には舞台裏で、本物のピストルを撃ったんだ。そうしたら、ナスタースィヤ・イヴァーノヴナは気分が悪くなった。今まで一度も本物のピストルの音を聞いたことがなかったんだ。それから、リュドミーラ・スィリヴェストゥローヴナがヒステリーを起してしまった。それから後は、ぶっ放す場面は省略だ。芝居に変更がなされ、主人公はピストルは出さない。その代りにじょうろを振回して、「この悪党め、殺してやる!」と地団駄を踏んで怒鳴る。そうやって初めてこの芝居はかけられる。これがその時、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが決めたことだ。作者は自分の芝居を見て怒り狂った。三年間その作者は、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチと口をきかなかった。しかしイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチはその後もその方針を貫いた。・・・」
 泥酔の夜が更けて行くにつれて、私の怒りは収まってきて、ボンバールドフに大声で反駁することはなくなる。その代りに、次々と質問を浴びせるようになる。塩辛いイクラと鮭の燻製を食べ続けて、口が荒れてくる。喉が渇く。その乾きを紅茶でいやす。部屋はまるで牛乳の中にいるかのように、煙草の煙で曇り、通風口を開けるが、入って来る冷えた細い風は、ただ部屋を冷たくするだけで、空気を綺麗にはしない。
 「な、教えてくれ、頼むよ」と、私は、弱い、くぐもった声で訊く。「あの芝居をどうしても独立劇団がかけられないというのなら、どうして僕に、あれを他の劇団に持って行かせないんだ。連中には要らないものなんだろう? 何故なんだ。」
 「分り切っているじゃないか。何が何故なんだ。隣の劇場で、新しい芝居をかけた。そいつはどうやら、大当たりしそうだ。それがどうしてうちの劇団にとって面白い。こんな簡単なことが分らないのか! それに君、契約書に、他の劇団には持って行かないとサインしたんだろう?」
 私の目の前に、光った緑の文字『著者は次の権利を持たない』の羅列が浮んで来る。それに『たとえ・・・であっても』の文字が。それから、巧妙にこね回した条件文、革ばりの壁の部屋、そして香水の匂いまでしてくる。
 「あの部屋、悪魔に食われろ!」と、私は叫ぶ。
 「誰のことだ。」
 「糞ったれ! ガヴリーイル・スチェパーノヴィッチの奴!」
 「禿鷹だ、あいつは」と、ボンバールドフは叫ぶ。目が煙草の煙で赤くなっている。
 「あんなに物優しく、親身になった話し方をするくせに!」
 「全く分ってない、戯言(たわごと)もいいところだ。観察力ゼロだ!』と、ボンバールドフは怒鳴る。目がギラギラ光り、煙草の火が光る。鼻の穴からもうもうと煙が出る。「禿鷹! コンドル! あいつは岩に頂きに坐り、四十キロメートル四方を睨んでいる。獲物が現れる。点のように小さくしか見えない。それが微かに動く。禿鷹はまっしぐらに獲物目がけて降下する。まるで石のように。ギャッという声・・・と、再び岩の頂きに戻っている。足には哀れな獲物が虫の息だ!」
 「糞ったれ! ボンバールドフ。君は詩人だ」と、私は鼻を鳴らす。
 「その君だがな」と、微かに笑いながらボンバールドフは囁く。「君は強情な男だ。一筋縄ではいかない! ああ、スェルゲーイ・リェオーンチエヴィッチ、僕は予言するね、君の人生は厳しいと。」
 彼の言葉は私の胸にぐさりと来る。私は、自分ではちっとも強情な人間だと思っていない。しかし、リカスパーストフも、私の笑いを、狼のような微笑だと言っていた・・・
 「するとつまり」と、あくびをしながら私は言う。「つまり、僕の芝居はかけられない、ということか。全ては水泡に帰す、か。」
 ボンバールドフはじっと私を見詰め、それから、思いがけない優しみを声に込めて言う。
 「忍耐だ、忍耐が全てだ。気休めを言っても始まらない。あの芝居はかけられない、奇跡でも起らない限り。」
 窓に、秋の、冷たい、霧のかかった朝焼けが現れる。そして、汚らしい食べ残し、皿の中の吸殻の山が、いっそう忌わしい物に見えてくる。しかしそれでも、そのごみための中で、私の中の何かがカッと燃え、私は黄金の子馬について演説を始めていた。
 私は、私の聞き手、ボンバールドフに、どうしても聞いて貰いたかったのだ。子馬の、あの金色の臀部(でんぶ)が、どんなに火花を散らしたか、舞台に冷たい、そしてよい匂いが、どんなに溢れていたか、客席にどんなに素敵な微笑がざわめいたか・・・いや、大事なのはこんなことじゃない、夢中になるあまり、小皿を机にぶっつけて粉々に割りながら、私はボンバールドフに納得させようとしていた、あの子馬を見たとたん、私には舞台というものが分り、その奥の奥にある秘密までも理解出来たのだと。つまり、もうずっとずっと昔、子供時代、いや、私が生れる前から、私はもう、舞台というものをぼんやり夢見ていたのだ。そして今、私はここにやって来たのだ! と。
 「僕は素人だ」と、私は怒鳴る。「素人には違いない。しかし、僕がここに来るのは必然だ。そうして、現にここにやって来たのだ!」
 この時、熱した私の頭に、ふいと馬車がこちらを向き、リュドゥミーラ・スィリヴェストゥローヴナが現れる。彼女はレースのハンカチを振っている。
 「あいつに演技など出来るものか!」と、怒り狂って私は怒鳴る。
 「おいおい、君には悪いがね、それはないよ・・・」
 「頼むから反対しないでくれ」と、厳しく私は言う。「君はこの劇団の人間だ。僕は違う。僕は新鮮だ。鋭敏だ。あの女なんか、透けて見えるんだ。」
 「そうは行っても!」
 「それに何が理・・・理論だ! 鼻の低い男がいたろう。役人をやった。手が真っ白な、声が嗄れている・・・あの男には理論なんか何もいらない。あ、それから、黒い手袋をはめて、殺人者を演じた・・・あの男にも理論なんかいらない!」
 「アルグニーン・・・」低い声が煙のカーテンの向うから
届いて来る。
 「何が理論だ! 理論などあるものか!」自己過信にすっかり陥(おちい)って私は叫ぶ。歯がギリギリと鳴る。と、その時、思いもかけず私には見える、私のグレイの背広にニンニクの欠片(かけら)がくっついていて、そのあたりが、油のシミになっているのが。私は狼狽して、あたりを見回す。もう全く夜は過ぎている。ボンバールドフが灯りを消す。青い太陽の光の中で、全ての物がゆがんで見える。
 夜は食い尽くされた。夜は行ってしまったのだ。

     第 十 四 章
   奇跡! 一体誰が・・・
 人間の記憶は奇妙な具合に作られているものだ。このあたりでああいうことが全部起った筈だ、と思っても、いざ順序だててその一つ一つを組立てようとすると、何がどうなってそうなったのか、さっぱり分らない。鎖からその輪が抜け落ちてしまっているのだ。眼前に光り輝くようにはっきりと「これが起った」と分っている。ところが、他のことが全て、細かく切り刻まれ、撒き散らされているので、記憶を辿って掬(すく)い上げてみても、がらくたしか残っていない。微(かす)かに、雨が降っていたことが思い出される。いや、こんなことは全くがらくただ。しかし、雨?・・・本当に雨が降っていたのか? そうだ、あの酔っぱらった晩のあたりから十一月だった。十一月なら、雨とみぞれが交互に降るのは当り前だ。読者諸氏、あなた方はきっとモスクワをご存知でしょうね? それなら何もこれ以上書くことはない。十一月のモスクワは、通りが酷く不快なのだ。通りだけじゃない、建物の中だって酷く不快だ。しかし建物が悪いと酷く不快ぐらいじゃすまされない。ところで、服についたシミはどうやったらとれるのか、誰か教えて欲しい。あれやこれや、いろいろ試してみる。しかしシミとは驚くべきものだ。例えばベンジンをつけてみる。するとまあ、何ていうこと、シミは薄れ、そして消えてしまう。「やった! 大成功だ。」大喜びする。何故って、洋服のシミぐらい厭なものはないからだ。だらしないし、汚いし、それに神経に触る。「やれやれ、やっと」と、服をかけて置く。そして朝起きる・・・シミは元の位置にちゃんとあり、ただ少しベンジンの匂いがするだけ。怒る。苛々する。しかしどうしようもない。こういう服を持った男の運命は、そのシミのまま服が駄目になるまでそれを着続けるか、または捨ててしまうか、どっちかしかないようだ。もう今となっては、私にとってシミなどどうでもよくなった。他人にそれが起ることがないように祈るばかりだ。
 何はともあれ、だから、その頃はシミ落しでやっきになっていた。それから靴紐が全部駄目になった。それから咳が出るようになった。そして毎日、湿気と睡眠不足、と戦いながら、「文学月報」社に通った。そこで手当たり次第にそこいらにあるものを読み漁(あさ)った。リカスパーストフはどういう訳か、コーカサスに行ってしまい、私がピストルをくすねたあの友人は、勤務地が変り、レニングラードに行った。また、ボンバールドフは腎臓に炎症を起し、病院に入ってしまった。時々はボンバールドフに会いに行ったが、勿論芝居の話など出来ない。それに、彼の方だって、『黒い雪』であんなことがあった後、軽々しくこの話題を口には出来ない。ただ腎臓の話なら出来る。少なくともこれで彼を慰めることは出来るのだ。それで私は、腎臓に限ることにした。時々はクリーも冗談の種として思い出すこともあったが、何故か、そう笑えなかった。
 勿論ボンバールドフに会う度に私は芝居のことを思い出した。しかしぐっと我慢して、それを話題にしなかった。それだけの意志の力はあった。私は芝居のことは考えまいと心に誓ったのだが、それは無駄な誓いだと分った。考えない、のは不可能なのだ。しかし芝居について誰かに問い合せることを止める、ことは可能だった。それでこっちの方を実行に移したのだ。ところが、芝居の世界はまるで死んでいた。生きている様子がない。そこからはまるで情報が流れて来ないのだ。繰返すが、私は人とのつき合いが絶たれていた。古本屋へ通い、何時間も薄暗いところにしゃがみこみ、埃だらけの雑誌を引っ掻きまわした。そうそう、そこで素晴しい凱旋門の写真を見つけたのを覚えている。
 そうこうしているうちに、雨が降らなくなり、全く突然に、霜が降りる。私の屋根裏部屋の窓ガラスに氷の模様が出来る。窓の傍に坐り、二十カペイカ硬貨に息を吹きかけ、窓ガラスの氷の表面に貼付ける。貼付けながら私は、芝居を書きそれが演じられない、こんな厭なことはない、と心底思う。
 夕方になると毎晩、階下から床を通してワルツが聞えて来る。毎回同じワルツだ。(誰かが、覚えようと、練習しているらしい。)するとこのワルツのお陰で、また例の小箱の中に、動く絵が発生する。かなり奇妙な、珍しい図だ。どうやら階下は・・・と、私には思えた・・・アヘン吸引者の巣窟で、何か芝居の「第三幕」と名づけられるようなものが拵えられている。青みがかった煙、その中にゆがんだ顔の女と、アヘンの煙を吸っている燕尾服の男がいる。そして、研ぎすまされたフィンランド製のナイフを持った、レモン色の顔をした、やぶにらみの男が、その燕尾服の男へと忍び寄る。ナイフの一撃、血が迸(ほとばし)り出る。馬鹿な! 何だ、これは! 下らん! 第三幕がこんな具合で、誰が面白いと思うか!
 そう、こんな馬鹿なものを書くのは止めだ。読者諸氏には、当然ある疑問が湧いてくる筈だ。いや、読者諸氏どころではない、その疑問は誰よりもまづ、この私に湧いてきた。大失敗をやらかして、屋根裏部屋に閉じ籠り、おまけに鬱病になり、(そう、これは自覚している。安心されたい。)それでもまだ、何故自殺を、二度目の自殺を、試みないのだ。
 最初に告白しておこう。第一の試みで、この暴力的な行為は、私に、ある嫌悪感を引き起したのだ。私の気持としてはこうだ。勿論、本当の理由はこれではない。何事にも時間が必要だ。潮時というものがある。しかしここでは、これ以上詮索するのは止めておく。
 外の世界に関して言うと、芝居から完全に離れてしまうことは不可能だった。ガヴリーイル・スチェパーノヴィッチから五十ルーブリ、百ルーブリと、契約金を受取っていたあの時期に、私は、芝居の情報誌を三種類、それに「夕刊モスクワ」の購読を決めていたのだ。これを読まないですませることは出来ない。
 雑誌は、時々は定期的に、時々は不定期に、やって来た。「演劇情報」をめくっていると、どうしても知人の情報が目に入って来る。
 十二月十五日号にはこう書いてあった。
 『著名な作家、イズマーイル・アリェクサーンドゥロヴィッチ・バンダリェーフスキイは、芝居「モンパルナスの短剣」を近々書上げる。これはパリの移民の生活を描写したものだ。噂によると、この芝居は「スタールイ劇場」でかけられる予定。』
 十二月十七日号には、次のニュースがあった。
 『著名な作家、イェー・アガピョーノフは、「劇団・仲間」でかけられる予定の、喜劇「兄弟達」を鋭意執筆中。』
 十二月二十二日号には、
 『劇作家、アリビェールト・アリビェールトヴィッチ・クリーンケルは、我々の記者との会話の中で次のことを明らかにした。即ち、独立劇場でかける予定の芝居を現在執筆中である。この芝居はカスィーモヴィーで広範囲に展開された、内戦の絵巻物であり、仮の題名を『進撃』としておく』と。
 それからは、十二月二十一日、二十四日、そして二十六日と、雨霰(あめあられ)のように情報が流される。新聞にも第三面に、何だかぼんやりした若者の顔写真が現れる。ひどく憂鬱そうな顔、まるで誰かを、角で、牛のように、突いてやろうという表情。イー・エス・プローグなる劇作家。現在第三幕を終えようとしているところ、と。
 その他、ジュヴェーンコ・アニースィム。アンパコーモフ。四幕。五幕。
 一月二日。この記事に、私はムッとする。
 こういう記事だ。
 『独立劇場の顧問、エム・パーニンは、劇作家達を召集。会議を開く。議題は、独立劇場のための現代劇創作。』
 この記事の見出しは『もうその時期は来ている! とっくに!』記事は独立劇場への遺憾表明と叱責。現在まで何一つ、この現代という時代を表現する現代劇をかけなかった劇団は、唯一つ、独立劇場だけである。かけないのが不当であるのは他でもない、この独立劇場こそが、他のいかなる劇団より、現代劇をかけるに相応しく、またその能力を持っている劇団なのだ。現代劇発掘、及びその演出に、正に適している。二人の理事長、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチ及び、アリスタールフ・プラトーノヴィッチがいる独立劇場ではないか。
 記事はそれから、劇作家諸氏への非難へと続く。諸君は現在まで、独立劇場がかけるに相応しい作品を書く余裕がなかったのか。
 私はこの頃、独り言を言う癖がついていた。
 「どういたしまして」と、私はムッとして、唇を膨らませながら、呟く。「芝居を書いていないなどと、よくも言えたものだ。橋は? アコーデオンは? 踏み固められた雪の上の血は?」
 窓の外で吹雪がビュービューと荒れ狂っている。私にはその吹雪が、丁度あの忌わしい橋の上の光景、アコーデオンが鳴り、ピストルが鋭く響く、あの光景に思えた。
 コップの中で、私の紅茶が冷えている。新聞の紙面から、ひげ面の顔が私を見詰めている。その顔の下に、アリスタールフ・プラトーノヴィッチが会議に宛てた電報の文面が印刷されている。『肉体はカルカッタに、しかし心は君達のところに』。
 「ああ、まるで水車を回す水だな。あっちの人生は、唸って、泡立って、勢いがある」と、あくびをしながら、私は呟く。「こっちはどうだ。まるで墓場だ。」
 夜が来、夜が去る。昼が来、昼が去る。ついでに明日の昼と夜も。全く何も残さずただ失敗だけが留(とど)まっている、どれだけの多くの日々が、無為に過ぎて行ったことか。
 病んだ膝を撫(な)で、びっこをひきひき、ソファまでたどり着き、そこで、寒さに震えながら上衣を脱ぎ、時計のねじを巻く。
 夜が過ぎて行ったのは、こんな具合だ。それはよく覚えている。だが、どれもこれも同じ。ベッドが寒い、ということだけ。しかし、昼の方は全く記憶がない。記憶から洗い流されてしまっている。
 かくの如く、一月の終へと、ずるずる、ずるずる。しかし、一月二十一日夜中の十二時に見た夢だけははっきりと覚えている。
 宮殿の、巨大な部屋。どうやら私は、その部屋の中を歩き回っている。沢山の燭台から、脂肪を含んだ、重い、黄金色の光が部屋を照らしている。私の格好は奇妙だ。両足を覆っている物は、脹脛(ふくらはぎ)の筋肉が見える、ピッタリ肌についている、パッチのようなものだ。ひと言で言うと、二十世紀ではない。十五世紀の人間だ。部屋を歩き回る。腰には剣を帯びている。この夢の魅力は、私がこの國の王であることには存しない。帯びている剣にあるのだ。扉の傍に立っている近従達はみなこの剣を怖れている。どんな酒も、この剣が与えてくれるほどの酔心地(よいごこち)は与えてはくれない。私は夢の中で微笑む・・・いや、大声で笑う。そして静かに扉の方へ進む。
 実に良い、実に楽しい夢だった。私は目が覚めてからも暫く大笑いしたほどだ。
 丁度その時、扉にノックの音がする。私は毛布を引っ被(かぶ)って扉に近づく。ボロボロに擦り切れたスリッパを引きずりながら。扉の隙間から隣の人の手が差し込まれ、私に封筒を渡す。封筒の上には「エヌ・テー」と金色の文字が光っている。(訳註 「エヌ・テー」は、独立劇場の頭文字。)
 私は封筒を引きちぎる。斜めに破れてしまう。そう、今でもその封筒は私の目の前にある。(いつでも持ち歩いているのだ!)封筒の中には、いつもの劇場の用紙があり、そこにはフォーマ・ストゥリーシュの筆跡、金色のゴシック文字が、力強い太字体で次のように書かれてある。

 「親愛なるスェルゲーイ・リェオーンチイェヴィッチ!
 すぐ劇場に来られたし! 明日午後十二時から『黒い雪』のリハーサルが始まる。              敬具
                エフ・ストゥリーシュ」

 私はソファに坐る。微笑む。しかし、何というゆがんだ微笑みだ。じっと紙を見つめる。夢の中の剣を思い出す。それから、どういう訳か、突き出ている裸の、自分の膝を見ながら、リュドゥミーラ・スィリヴェストゥローヴナのことを考える。
 その時、威圧的に、また陽気に、ノックの音がする。
 「ああ、いるぞ。」
 部屋にボンバールドフが入って来る。青白く、少し黄味がかった顔、病後で背が高く見え、また声もそのせいで少し変っている。ボンバールドフが言う。
 「もう知っているんだな? 知らせに来たんだ。」
 立上がり、毛布は床に落し、素っ裸、酷い格好で、私はボンバールドフにキスをする。その時封筒を取落とす。
 「どうしてこんなことに?」と、取落した手紙を拾いながら、私は訊く。
 「僕にも皆目(かいもく)だ」と、私の大事な客が答える。「誰にも分らんだろう。おそらくこれは、これから先だって、決して。きっとパーニンとストゥリーシュがやったんだ。しかしどうやって・・・それは分る筈がない。これは人間の力を越えている。簡単に言うと、奇跡なんだ、これは。」

     第 二 部
     第 十 五 章
 覆いのある一本の電線が、灰色の、細い蛇のように、最後にどこに行きつくのか不明だが、平土間の床の上をのたくっている。行き着くところはどうやら、平土間の真中の通路に立っている、小さな机の上の小さなランプ。そのランプを点(とも)すための電線だ。しかしたいした電力を与えてはいない。やっと机の上の一枚の紙と、そのインク壷が見えるだけの光がランプから出ている。紙には、獅子鼻の醜男(ぶおとこ)の顔が描かれており、その醜男の隣に、まだ剥いて間もないミカンの皮、そして吸殻で一杯になった灰皿がある。そのランプの光が届かない、ちょっと離れた位置に、水の入ったガラス壜があり、光が届かないのに薄暗くランプの光を照り返している。
 平土間は暗い。明るい所から急に入って来た者は、椅子の背を触りながら、手探りで進まねばならない。それから暫くして、やっとこの暗闇に慣れる。
 舞台の幕は開いていて、舞台装置の、天井の照明が上から微かに光を送っている。舞台には小さな看板が観客には後ろ向きに立っていて、それには「狼と羊」と書かれている。小道具は、肘掛け椅子が一つ、書き物机一つ、スツール二つだ。肘掛け椅子には、ルバーシカの上に背広を着た労働者が坐っており、片方のスツールには、背広姿の若い男が坐っている。但しそのズボンには、太いベルトが締めてあり、そのベルトにゲオルギー十字の模様のある下げ緒(さげお)で剣がぶら下がっている。
 平土間は暑苦しい。もう外は五月陽気の真ただ中だ。
 今はリハーサルの休憩時間。役者達は喫茶室に食事をとりに行っている。私は同じ席に留まっている。最近の三、四箇月の出来事から私に分ったことがある。一つは危機を脱した後の虚脱状態なのか、とにかくじっと坐っていたかった。長い時間、まるで動かずに。もう一つ分ったことは、その癖時々、神経エネルギーの暴発が起ることだ。この症状の時は、動き回り、説明し、喋り、喧嘩が無性(むしょう)にしたくなる。
 今は丁度、静(せい)の状態を志向している時だ。円錐を逆さにした形のランプの笠の下には煙が立ちこめている。それを少しづつ笠が吸込み、それから煙はどこか上の方へと消えて行く。
 私はたった一つのことしか考えていない。その同じ一つのことの周りを、ぐるぐる、ぐるぐる・・・勿論私の芝居のことだ。フォーマ・ストゥリーシュがあの最終決定の手紙を私に送ってくれたあの日から、私の人生は百八十度変ってしまった。まるで新しい人間が生れたかのようだ。彼のその同じ部屋に、別の人間がいるかのようだ。部屋は同じなのに、彼を取巻く人間が、違う人間になったかのようだ。このモスクワという都市に、彼、つまり、この私が、急に存在する権利を得、その存在の意味を、いやそれどころか、存在の重要性を、得たかのようだ。
 私の思考は唯一つ、私の芝居に向けられている。いや、縛りつけられている。四六時中それだ。夢の中でも。もう既にいろんな種類の夢を見ている。とんでもない舞台装置の中で演じられている私の芝居。レパートリーから私の芝居が外されてしまった夢。大失敗の夢。大成功の夢。この、大成功の時の夢を今でも覚えている。傾斜した森の中に、役者達が陶器の人形のようにあちこち散らばっている。全員手に松明を持って、時々急に大声で歌を歌う。その芝居の作者、つまり私、も、どういう訳か登場している。今にも折れそうな高い横木の上に、軽々と、まるで蠅が壁を歩くように、ぶらぶら行ったり来たりしている。その上には菩提樹が何本か、それに林檎の木が何本か、ある。何故なら、芝居は庭で演じられているから。そして、興奮した観客が、押し合いへしあいしている。
 失敗の夢で一番多かったのは、私がドレスリハーサルに出席しようとして家を出ると、ズボンを穿いていないことに気づく、というものだ。家を一歩出た時にもう気がついて、顔を赤くするのだ。しかし何故か、このまま行っても、誰にも分りはしない、いや、気がつかれても言訳はある。風呂場から出たばかりのところで、スボンは劇場の舞台の袖にあるんだ、と言えばいいさ。ところが、先に行けば行くほどきまりが悪くなる。この可哀想な芝居の作者は、歩道にへたりこむ。新聞売場がないかと捜す。ない。外套を買おうとする。金がない。やっとのこと劇場の玄関口に辿り着く。と、気がつく。リハーサルはすっかり遅刻だ・・・
 「ヴァーニャ!」と、小声で舞台から声がかかる。「黄色にしろ!」
 階段状になっている平土間の客席の一番後ろ、一番高いところ、丁度客が入る扉のところ、から、何かが燃え始め、平土間を通して斜めに、如雨露(じょうろ)から出て来るように、光が出て、舞台の床に丸い黄色の斑点をつける。ここに達する迄に光は、客席の椅子、その張り革、メッキの剥げた肘宛(ひじあて)、を照らし、木の燭台を抱えたもじゃもじゃ髪の小道具方、を照らしてきている。
 休憩がもう少しで終るという頃になると、舞台は忙しさを増す。舞台の天井に、高く、数限りなく吊るされた小さな板(スクリーン)が突然動き始める。そのうちの一つが上に引き上げられたかと思うと、急にその隙間から、千燭光の電球の列が現れ、私の目を射るように光る。もう一つのスクリーンは何故かその反対に、下に下がり、ただ床にまでは達せず、どこかへ取去られる。舞台の袖に、暗い人影が何人も現れ、黄色い光は客席の奥にスーッと吸込まれるように消える。どこかで金槌を叩く音が聞える。男が登場する。平服姿なのに、拍車のついた靴を履き、それをガチャガチャ鳴らしながら、舞台を歩き回る。それから誰かが、舞台の床にしゃがんで、口に両手でメガホンを作って怒鳴る。
 「グノービン! もういいぞ!」
 全く音もなく、舞台の上のものは脇にどけられて行く。まづ道具方、そして彼が持っていた木の燭台も、彼と共に消える。肘掛け椅子に机も。誰かが舞台に走り上り、運び去って行く人々の間をすり抜けすり抜け、自分の運ぶべき物を掴み、また走り去って行く。機械の唸り声が強くなる。なくなった大道具の位置に、古い、複雑な、木造の建造物が現れる。何も塗ってない踏み板、横木、手すりの板張り・・・つまり、急な階段からなる建造物だ。『橋が来たな』と、私は思う。そして、橋が定位置に着くと、いつものことだが、何故か胸がドキドキする。
 「グノービン、ストップ!」と、舞台から声がかかる。「グノービン、もう少し後ろだ!」
 橋が止る。それから、中央の太いランプが一斉につき、簀子(すのこ)状の反射板に照り返されて、私を照らす。目が痛い。と思うと、またさっと消える。乱暴に絵が描かれた看板が、上から降りて来て、舞台に斜めの角度で止る。『見張り小屋だ』と、舞台の位置関係を知らない私は、思う。それからまた心配になる。他の芝居から、あり合わせの物をつぎはぎして、間に合わせで作るこういう物でなく、本番の時に出来る本物の橋はどんな具合なのだろうかと。今度は舞台の袖でスポットライトのスイッチが入れられる。舞台の足元から熱い光の波がそそがれる。「フットライトだな・・・」と、私。
 私は目を細めて暗闇の中をじっと見る。しっかりした足取りで、監督の机の上に大股で近づいて行く姿がある。
 『ロマーヌスが行くな・・・ということは、何か起るぞ・・・』と、私は考える。ランプの光を片手で遮(さえぎ)りながら私は思う。
 予想に違(たが)わず、暫くすると私の目の前に、二つに分れた顎髭が現れ、暗闇の中で、指揮者ロマーヌスの興奮した目が私を突き刺している。独立劇場記念式典のバッジがロマーヌスの背広のボタン穴につけてあるのが見える。
 「セ・ノン・エ・ヴェロ、エ、ベン・トゥロヴァート(冗談じゃない、あれがわざとじゃない? わざとやったに決ってるだろう)」これが出だしだ。いつものようにロマーヌスは生贄(いけにえ)を捜していたが、見つからないので私の傍に坐ったのだ。
 「全くね、あんた、どう思う?」と、目を細めてロマーヌスは私に訊く。
 『どうしてもこの僕に何か言わせる腹だな。』ランプの傍で顔を引きつらせながら私は思う。
 「いや、是非とも聞かせて貰いたね、あんたの考えを。」射るような目でロマーヌスは私に言う。「あんたは作家だ。我々に降りかかったこの不祥事を平静な気持ではまさか見ないと思うんでね。」
 『うまい言い方を考えるもんだ・・・」居心地が悪く、身体中が痒(かゆ)くなりながら、私は思う。
 「コンサート・マスター、それも女性だ。その背中にトロンボーンがぶち当ったんだ。」かっとなってロマーヌスが言う。「いい加減にしろって言うんだ! 俺はな、もう三十五年も舞台の音楽をやっているが、こんなことは初めてだ。ストゥリーシュは演奏家を豚だと思っているのか。だから豚小屋に入れておけばいいという腹なのか。どうです? 作家先生のご意見は。お伺いしたいものですな。」
 これ以上黙っているのは無理だ。私は言う。
 「何が起ったんです?」
 ロマーヌスは待っていたとばかりに、好奇心でフットライトの傍に集まって来た道具方の連中によく聞えるように、よく響く声で説明する。ストゥリーシュはオーケストラの連中を舞台の袖に押し込めた。こんなところで演奏など出来るものじゃない。何故なら、まづ第一に・・・窮屈だ。第二に・・・暗い。第三に・・・客席には何も、全く何も、音楽など聞えない。第四に・・・演奏者は指揮者が見えない。指揮者がどこに立ってもだ。
 「そう、確かに世の中には、音楽を全く理解しない人種がいる」と、ロマーヌスは怒鳴る。「果物の味を知らない・・・」
 『ああ、地獄に落ちろ、こいつめ!』と、私は思う。
 「・・・動物がいるようにな!」
 ロマーヌスの冗談は受けた様子だ。電気関係の仕切りの部屋の中から、ゲラゲラっという笑い声が響き、部屋の窓から一つ、頭が飛び出る。
 「そんな奴が演出をやるなんて、どういう神経だ。ナヴァ・ヂェヴィーチイの墓地でクヴァスでも売り歩いたらいいんだ」と、ロマーヌスが怒り狂って吠える。
 ゲラゲラっとまた声がする。
 ストゥリーシュが劇団員の放埒(ほうらつ)を、見て見ぬふりをしているから、こうなるんだ、と続く。暗闇でトロンボーン吹きがコンサート・マスターのアーンナ・アヌーフリイェヴナ・デェニーシナの背中を、トロンボーンでいやという程どやしつけて・・・
 「レントゲンで骨を調べれば分る、それがどんなに酷いものか!」
 ロマーヌスはつけ加えて言う。芸術的トレーニングの全く出来ない劇場などで肋骨を折るなど、話にならん。もっと芸術的トレーニングが可能なところで折ればいいんだ。例えば一杯飲み屋でな。
 この言葉を聞いて、電気工事の仕切部屋の天井から、喜んで組立工の顔が現れる。笑いでポッカリと口が開いている。
 ロマーヌスは、まだこれで終っちゃいないぞ、と強調する。ちゃんとアーンナ・アヌーフリイェヴナには、噛んで含めるように言ってあるんだ。ここはソ連だ、我々は立派な國に住んでいるんだ。労働組合員の肋骨を折るなど、とんでもないことなんだ。アーンナ・アヌーフリイェヴナには、地方委員会に届けを出すよう指示してあるんだ。
 「どうやらあんたの顔から判断すると」と、丸い灯りに入っている私の顔を覗き込むようにして、ロマーヌスは続ける。「よく名の知られた地方委員会委員長でも、音楽に関してはリームスキイ・コールサコフやシューベルトほどの理解はあるまいと思っているようだな。」
 『何ていう奴だ』と、私は思う。
 「いやいや、そんなことは・・・」と、真面目な話に聞えるように努めながら、私は言う。
 「いや、もっとあけすけに言おう」と、ロマーヌスは怒鳴り、私の手を握る。「あんたは作家だ。ミーチャ・マラクラシェーチヌイが、たとえ二十回委員長を勤めたとしても、彼がオーボエとチェロの差が分るようになるとはあんた、とても思えないだろう? バッハのフーガと「ハレルヤ」フォックストロットの差もね。」
 そして、ニヤニヤ笑いながらロマーヌスは続ける。「いや、腹を割った友達と飲み仲間の差も分りはしないさ。」
 電気工事の仕切部屋の屋根から、今度は嗄れたバスの声の男の頭が、前のテノール男に加わり、狂喜した顔は二つになる。
 「・・・マラクラシェーチヌイに芸術的素養を与えたのはアントーン・カローシンだ。この人選は悪くなかった。何故なら、アントーンは劇場の仕事の前は消防署のバンドでトランペットを吹いていたんだ。もしアントーンがいなかったら」と、ロマーヌスは保証する。「演出家の誰かさんは、リュスランとリュドミーラの序曲と、普通の葬式の行進曲の区別もつきゃしなかった筈だ。」
 『この男は危険だ』と、ロマーヌスを見ながら私は考える。『真面目な話、実に危険だ。こいつとまともに争って、こっちに勝目はない。』
 「カローシンがいなかったら、今丁度イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが来ていないことをいいことに、演奏者を全員天井から逆さに吊るして演奏させても、連中は平気なんだ! しかしいづれにせよ、アーンナ・アヌーフリイェヴナの、粉々になった肋骨に対しては、何が何でも劇場に払わせてやる! 彼女にもよく言い聞かせてある」と、ロマーヌス。「労働組合では、こういう事件にどう対処するのか、よく聞いて来るんだと。全く、こんな酷い話に対しては、言える言葉は唯一つだ。」
 「セ・ノン・エ・ヴェーロ、エ・ベン・トゥロヴァート。いや、これじゃまだ言い足りないか!」
 柔らかい足音が後ろの方から聞えて来る。やっと助けが現れたか。
 机の傍にアンドゥリェーイ・アンドゥリェーイェヴィッチが立つ。アンドゥリェーイ・アンドゥリェーイェヴィッチは、独立劇場の舞台監督で、現在は「黒い雪」の担当だ。
 アンドゥリェーイ・アンドゥリェーイェヴィッチは、肥った、がっしりした体格の、四十代の男だ。生き生きした、よく物の分った目をしている。自分の仕事をよく知っている。その仕事というのが、いつも一筋縄では行かないものばかりなのだ。
 もう五月になったので、アンドゥリェーイ・アンドゥリェーイェヴィッチはいつもの黒っぽい背広と、黄色の靴は止め、グレイのサテンのシャツに、防水布(ズック)の、黄みがかったスリッパを穿いている。肌身離さず抱えているいつものファイルを小脇に抱え、机に近づく。
 ロマーヌスの目がギラギラと光る。アンドゥリェーイ・アンドゥリェーイェヴィッチがランプの傍にファイルを置く暇も与えず、ロマーヌスは戦闘を開始する。
 まづ第一弾が発射される。
 「私は、オーケストラのメンバーに対する暴力的扱いに、断固反対する。今日起ったことを記録に留めて戴きたい!」
 「暴力的扱い?」と、アンドゥリェーイ・アンドゥリェーイェヴィッチは事務的な声で応じ、ピクリと眉が動く。
 「ここでもし、芝居がかけられ、それも、オペラのように音楽の多い・・・」と、ロマーヌスは言いかけ、傍にその作者のいることに気づくと、私の方に向けている頬を無理矢理笑顔に作り替え、続ける。「いや、全く、ここにおられる作者も、芝居における音楽の重要性は熟知されている。つまり、私は、オーケストラに自分の音楽を演奏出来る場所をあてがって欲しいんだ!」
 「ちゃんと舞台の下に場所はある筈ですが」と、アンドゥリェーイ・アンドゥリェーイェヴィッチは包みを解(と)くのが急を要する仕事であるかのように、忙しく解(ほど)きながら言う。
 「舞台の下に? おや、あそこよりはプロンプターボックスの方がいいんですがね。さもなければ、道具方のいる場所の方が・・・」
 「あなたは、奈落(ならく。舞台の下の場所のことをいう)じゃ、演奏出来ないと仰るんで?」
 「奈落?」と、ロマーヌスは金切声を上げる。「もう一度言います。あそこは駄目なんだ! それに、喫茶室も駄目だ。それは御参考に申上げますがね。」
 「御参考にこちらも言いますが、喫茶室は駄目だ」と、アンドゥリェーイ・アンドゥリェーイェヴィッチは言う。そして今度はもう一方の側の眉が動く。
 「いいですか」と、ロマーヌスはストゥリーシュがまだ平土間にいないのを見届けてから続ける。「あなたは勿論、ここで古くから働いている方で、芸術が何たるかをご存知だ。しかし、演出家の中には、そうでない人物もいますからね。」
 「とは言え、この件は演出家に直接言って戴かないと。演出家なんですからね、音響の調査をしたのは。」
 「音響を調べるには、器具が必要だ。器具といっても色々ありますがね、まづ耳だ! ところが、もし調べる奴にその耳が・・・」
 「そういう調子で会話を続けることは、私はお断りします」と、アンドゥリェーイ・アンドゥリェーイェヴィッチは言い、バタンと書類を閉じる。
 「そういう調子? どういう調子だって言うんです!」と、驚いた声でロマーヌスは言う。「私はこの芝居の作者に、私の憤慨を支持して貰おうと思っているだけですよ。オーケストラのメンバーが妙なところに押し込められて、私は憤慨しているのをね。」
 「私はただ・・・」と、私はアンドゥリェーイ・アンドゥリェーイェヴィッチの驚いた顔を見て、慌てて言い始める。
 「いや、失礼だが・・・」とロマーヌスはアンドゥリェーイ・アンドゥリェーイェヴィッチに怒鳴る。「もし舞台のことを、自分の掌(たなごころ)を返すようによく知っている舞台監督なら・・・」
 「舞台のことをあれこれ指示するのは止めて戴きましょう」と、アンドゥリェーイ・アンドゥリェーイェヴィッチは言い、ファイルを縛ってある紐を乱暴に切る。
 「いや、やる、やるさ」と、歯を剥き出して、いやらしくロマーヌスは金切声を上げる。
 「あなたの今喋ったことは、記録に残しますよ」と、アンドゥリェーイ・アンドゥリェーイェヴィッチは言う。
 「ほう、残して下さるか。それは有難い。」
 「どうかもう私のことを放っておいて欲しいですな。リハーサルの邪魔です!」
 「その言葉も記録に残すんだ! いいな!」と、ロマーヌスは叫ぶ。
 「大声を上げるのは止めて下さい!」
 「そっちじゃないか、大声を上げているのは!」
 「大声を出さないで下さい」と、アンドゥリェーイ・アンドゥリェーイェヴィッチは言い返す。その目はギラギラ光っている。そして突然叫ぶ。「おい、そこ、照明! 何をやっているんだ!」と、階段を駆上り、舞台へ行く。
 この時までにストゥリーシュが入口に入っている。その後ろに役者達の黒いシルエットがある。
 ストゥリーシュとロマーヌスのやり合いが始まる。この場を私はよく覚えている。
 ロマーヌスはストゥリーシュの方に駆寄り、片腕を掴み、言う。
 「フォーマ! 私は、君が音楽というものをよく理解しているのを知っている。だからこれは君のせいじゃない。しかし、舞台監督だ。舞台監督がオーケストラを馬鹿にするのは止めさせて貰いたい。」
 「おいそこ、照明!」と、舞台の上からアンドゥリェーイ・アンドゥリェーイェヴィッチが怒鳴る。「バブィリョーフはどこにいる!」
 「飯です」と、上の方から重い声が届く。
 役者達は輪になってロマーヌスとストゥリーシュを取囲んでいる。
 暑い。五月なのだ。何百回となく、これら役者達は、暗い部屋の中で、ランプで下から照らされながら、謎めいた表情を作りながら、ドーランを顔に塗ってきたのだ。そして自分自身を登場人物に変化させ、自分を叱咤(しった)し、力を出し尽してきた。芝居シーズンも酣(たけなわ)、連中は神経質になり、気分も変り易い。お互いに相手のことを、事あればからかってやろうという気分でいる。そこへもってきて、ロマーヌスのこれだ。全く、格好の気晴しを提供してくれたものだ。
 背が高く、青い目をしたスカヴローンスキイが、ニヤニヤ笑いながら、両手をこすり、呟く。
 「そらそらそら・・・やれやれ! 言ってやれ、オスカール、思ったことを言ってやればいいんだ。」
 この言葉は発言者の意図通りの効果を現す。
 「私に向って怒鳴るとは、何だ!」と、突然机に台本を叩きつけ、ストゥリーシュは叫ぶ。
 「そっちじゃないか、怒鳴っているのは!」と、ロマーヌスが金切声をあげる。
 「そうそう、そうだ。その通り!」と、スカヴローンスキイは喜ぶ。と同時にロマーヌスに声援を送る。「オスカール、お前の言っている通りだ。芝居よりは肋骨の方が大事だからな。」そしてストゥリーシュに、「なあフォーマ、オーケストラより、役者の方がまづいって言うのか? それはないぜ。な、よく考えてみろ。」
 「あーあ、リハーサルは休憩だ。クヴァースでも飲むか」と、あくびをしながらイェラーギンが言う。「いつになったら終るんだ? 終ったら俺に教えてくれ。」
 喧嘩は暫く続く。怒鳴り声が、くたびれたランプを囲む役者達の間から届いて来る。煙草の煙が上る。
 しかし私は、既に喧嘩には興味を失っている。額の汗を拭い、フットライトの傍に立ち、舞台装置係のアヴローラ・ゴースィエが、回り舞台の端を水準器をあてながら進んで行くのを、見ている。ゴースィエの顔は無表情だ。悲しそうにさえ見える。口をきりりと結んでいる。フットライトがその髪の下からあたると、まるで燃えているかのように光る。フットライトから外れると、その髪の毛の火は消え、灰のような色になる。それを見ながら私は考える。今起きていること、こんなにみんなを厭な気持にさせているこれ・・・これもいつかは終になるんだと。
 そうこうしているうちに、喧嘩は収まる。
 「おいみんな、さあ、行くぞ」と、ストゥリーシュが叫ぶ。「時間が勿体無い!」
 パトゥリケーイェフ、ヴラディチーンスキイ、スカヴローンスキイは、道具方の連中と共に既に舞台に上っている。ロマーヌスはすぐヴラディチーンスキイに近づき、心配そうな声で訊く。「ねえ君、パトゥリケーイェフは道化の役を悪(わる)乗りしているんじゃないか。丁度君は例の、一番大事な台詞『僕は一体どうなるんだ。僕はたった一人。病気なのに』っていうあれが、あいつの悪ふざけで(観客が馬鹿笑い。そのせいで)聞えやしない。」ヴラディチーンスキイは真っ青になる。その一分後には、役者、道具方、裏方達がフットライトの前に一列になって、年来の宿敵、ヴラディチーンスキイとパトゥリケーイェフの罵り合いを謹聴している。ヴラディチーンスキイは体操の選手のような体格、もともと青白い顔なのだが、それが怒りでいよいよ青くなり、拳(こぶし)を握りしめ、自分の声が、力強く、恐ろしい声に響くよう努めながら、相手の顔を見ないようにして、言う。
 「俺は今までずっとこの問題を気にしていたんだ! サーカスまがいのどたばた演技で笑いをとり、独立劇場に恥をかかせているこいつの遣り口を何とかしなきゃならない時はとっくに来ているんだ!」
 舞台では常に滑稽な役を演じ、実生活では、肥ってはいても実に敏捷で鮮やかな動きを見せる喜劇役者のパトゥリケーイェフは、相手を軽蔑しきった、と同時に、相手を威嚇する表情を拵える。そのために、目は悲しみを帯び、顔は肉体的苦痛を表す。嗄れた声で答える。
 「忘れて貰っては困るな。私は、この独立劇場の正劇団員だ。お前のような、映画のちょい役で金を稼いでいる男とは訳が違う!」
 ロマーヌスは舞台の袖で満足そうに、目を輝かせて成行きを見ている。言い争っている二人の声が、客席からのストゥリーシュの怒鳴り声をかき消す。
 「止めろ、喧嘩は! 今すぐだ! アンドゥリェーイ・アンドゥリェーイェヴィッチ! ストゥローイェフに緊急電話をしろ! どこだ、ストゥローイェフは。あいつめ、私の予定表を取って行ったな。あれがなきゃ、分らんぞ!」
 アンドゥリェーイ・アンドゥリェーイェヴィッチは、慣れた手つきでコントロール・パネルのボタンを押す。遠くホールで、喫茶室で、緊急の甲高いベルの音が響く。
 この時、浴場脱衣所で、タラピェーツカヤと雑談していたストゥローイェフは、階段を二、三段づつとばしながら駆け下り、客席へと急ぐ。舞台へ行くのを、客席を通らず、横の門を通り、所定の場所へと忍び込む。そしてそこから、平服のズボンで拍車をガチャガチャ言わせ、フットライトの光の中に入る。そして、もうずっと以前からそこにいるように、巧妙に見せかける。
 「ストゥローイェフはどこだ!」とストゥリーシュが怒鳴る。「呼んで来い。早く、早く呼ぶんだ! おい、そこの二人、喧嘩を止めろ。糞ったれめが!」
 「もう一度電話します」と、アンドゥリェーイ・アンドゥリェーイェヴィッチが答える。そして、ふと後ろを向く。ストゥローイェフはいる。「お前に緊急電話していたんだぞ!」と、アンドゥリェーイ・アンドゥリェーイェヴィッチが厳しい顔で言う。そして突然、劇場内のベルが止む。
 「私ですか?」と、ストゥローイェフは答える。「緊急電話? 何のためです。私はもう、十分前からここにいますよ。まあ、十五分とは言いませんが・・・最低で十分は・・・マーマ・ミーア・・・」と言ってストゥローイェフは咳払いをする。
 アンドゥリェーイ・アンドゥリェーイェヴィッチは大きく息を吸込む。しかしストゥローイェフには何も言わず、ただ含みをもった目でじっと彼を見、吸込んだ空気は次の言葉を大声で言うために使う。
 「この場に不要なもの、舞台を降りろ! 始めるぞ!」
 全てはこの言葉で収まる。道具方は去り、役者達は定位置につく。ロマーヌスは舞台の袖でパトゥリケーイェフに囁き声で、「よくやった」と言う。「あれでこそ男だ。ヴラディチーンスキイはもう大分前から行儀をしてやる必要があったんだ。」

     第 二 部
     第 十 六 章
   うまくいった結婚
 六月は五月より暑かった。
 このことだけは覚えているが、他のことは、驚くべきことに、記憶の中でごちゃごちゃになっている。とはいえ、その断片が何となく残っている。例えばドゥルイキン御大(おんたい)が、綿入れの青いカフタンを着て御者台に坐っていたこと。自動車の運転手がドゥルイキンの馬車を追越して玄関に先に着いていたのだが、びっくりした顔をして馬車を眺めていたこと。
 それから、大きな部屋に雑然と椅子が並べてあり、その上に役者達が坐り、ラシャが敷いてある机には、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチ、ストゥリーシュ、それに私、が坐っている・・・これは覚えている。
 イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチと、この期間に、親しくつきあうことになったが、その間私は、緊張しっぱなしであった・・・それはよく覚えている。これは私が、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチに、よい印象を持って貰おうと努力したことから生じたものであり、その私の苦労は、通りいっぺんのものではなかったのだ。
 一日おきに私は、アイロンをかけて貰うためにドゥースャに、自分のグレイの背広を渡し、几帳面にそれに対し十ルーブリ支払った。
 アーケード街に、今にも壊れそうな、まるで厚紙で出来たような家があり、そこに、丸々と肥った、二つの指に大きなダイヤの指輪をした、男がいた。この店で私は、糊のきいたカラーを二十枚買い、劇場に行く時には必ず新しいカラーをはめた。その他に、アーケード街ではなくデパートで、私は六枚ワイシャツを買った。四枚は白、一枚は藤色の縞のある、あと一枚はグレイのチェック。それから、いろんな色の八本のネクタイも。モスクワの繁華街のど真ん中に、いっぱい靴紐をぶら下げたスタンドを置き、その傍で、天気が良かろうが悪かろうが、常に無帽で、そのスタンドに踞(うづくま)っている男がいる。その男から私は、黄色の靴墨を二缶買い、毎朝ドゥースャからブラシを借り、例の黄色い靴の埃を払い、それから、自分の部屋着の裾でそれを磨いた。
 この恐るべき法外な出費により、私は二晩かけて「蚤(のみ)」という題名の短編を書き、その原稿をポケットに、リハーサルの合間の自由時間に、週刊誌の会社、新聞社の編集者に、それを売込みに行かねばならなくなった。まづ私は、「汽船情報」から始めた。ここでは、私の短編小説自体は気に入ってくれた。しかし、汽船とは全く何の関係もないからと、出版するのは断られた。これは尤もな話だった。それからの、編集者に会っては断られる話は、長くて退屈なものだ。私もよく覚えていない。唯一つ、覚えていることは、どこへ行っても何故かひどく敵意のある態度をとられたことだ。特に、片眼鏡をかけた、肥った編集者が、私の作品をきっぱりとはねつけるだけではすまず、私に説教をした。このことは覚えている。
 「君の話には、何かいやらしい目配せのようなものがある」と、この肥った男は言い、私の顔を憎悪の目で睨みつけた。私はここで言訳を述べねばならない。肥った男は間違っている。いやらしい目配せは、私の小説にはなかった筈だ。ただ(これは今になってみると認めざるを得ないが)この小説は馬鹿馬鹿しくて、退屈だったのだ。この作家、即ち私、は、短・中篇は書けない。それを暴露していただけなのだ。つまり私にはその才能がなかった。
 それにも拘らず奇跡が起った。ポケットにその短篇を入れて、モスクワの町という町・・・ヴァルヴァールク、ヴァズドゥヴィジェーンカ、チーストゥイエ、プルードゥイ、ストゥラースヌイ並木通り・・・まで足を伸ばしたが駄目。ところが、よく覚えているが、プリュシュチーフ街のミャスニーツカヤにあるズラタウースチンスキイの小道にある建物の五階で、頬に大きなほくろのある編集者が、思いもかけず買ってくれたのだ。
 金を受取り、不足金の穴を埋め、私は劇場へと帰る。もう劇場というのは、私にとって、モルヒネ常用者のモルヒネに相当するもので、私にはなくてはならないものになっている。
 このような涙ぐましい努力にも拘らず、私は重い心で白状せねばならないが、その効果は恐ろしいことに、無駄どころか、逆の効果を生んでいた。日毎(ひごと)にイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは私のことを嫌いになってきている。
 私が、春の太陽を反射している黄色い靴唯一つに、それを賭けているなどと、思わないで戴きたい。それは違う! もっと巧妙な、実に手のこんだ仕掛けが組合わされているのだ。例えば、物を言う時の私の声。低く、深みのある、心から相手を信頼している声。そしてその声に、私の、相手を直視する、真摯な、二心のないまなざし。そして軽い微笑が唇に浮んでいる。(勿論取入るような態度は全くなし。虚心坦懐な微笑だ。)髪は理想的な分け方。髭の剃り方も完璧。あまりに完璧なので、ブラシの反対側のつるつるした部分で剃り跡をこすっても、ザラザラした感触は全くない。そして、私の述べる意見。率直で、簡潔。相手の質問には、その芯を突く鋭い指摘・・・しかし、何の効果もない。最初のうちイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは、私と会うと、にこやかに挨拶した。しかし段々とそのにこやかな挨拶は数が少なくなり、ついには全く途絶えてしまう。
 それから、夜のリハーサルが始った。私は小さな鏡を用意し、その前に坐り、そこに自分の顔を映して話しかけてみる。
 「イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチ、問題はここです。お分りですね? 刀は駄目なんです、私の意見では。ここで刀はどうしても・・・」
 実に、これ以上はないという出来栄えだ。上品で、謙遜な微笑が唇の周りにたゆたっている。目は真直ぐ、利口そうに鏡を見、額には皺(しわ)一つなく、髪の分け目は黒い頭の上にきっちりと白い線になってのびている。これほどの努力が悪い結果を生む訳がない。しかしそれでも、事態は日一日と悪くなる一方だった。私は力が尽き、痩せ、そして日々の日課も怠(おこた)るようになる。同じカラーを二日続けて嵌めさえした。
 ある晩私は、自分の表情を確かめてみることにした。そこで正面から鏡を見ず決められた台詞を喋り、横に置いてある鏡をチラチラと盗み見した。私は愕然とした。
 皺のよった額、剥き出した歯、心配そうな目つき。いや、何か腹に一物(いちもつ)ある目つきなのだ。私は頭を抱える。これは鏡が嘘をついているんだ! 私は鏡を床に投げつける。三角形の鏡の破片が飛び散る。鏡が割れるだけでも悪い前兆と言われている。自分で鏡を叩き割る狂人のことは、どう言えばいいのだ。
 「アホ! アホ!」と私は怒鳴る。私の発音が甘ったるいせいで、夜の静寂(しじま)の中で烏(からす)の鳴き声に聞える。つまり私は、鏡に向ってやっている時だけうまく行っているので、鏡がなくなった途端(とたん)、私の顔は自分の考えに捕われて・・・後はもう滅茶滅茶。何たることだ!
 この私の手記が読者の誰かの手に入ったとする。その時、この手記はきっと、その人間に、良い印象は与えないだろうと、私は確信する。彼の眼前にいるのは、狡(ずる)い、裏に何かある男だ。何かの利益のために、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチに良い印象を与えようと懸命になっている、と。
 しかし、待って欲しい。今その「利益」とは一体何かをお話しよう。
 イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは頑強に、私の芝居から、例の場面、即ち、アコーデオンが鳴っている月夜に、バフチーン(バフチェーイェフ)がピストル自殺する場面を削除しようとしている。ところで私には分っている。私には見えているんだ。あの場面を除いてしまったら、この芝居の価値はないと。あの場面にこそ価値がある。何故なら、あそこは真実だからだ。イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチの意図は分っている。分り過ぎる程。だが、それは要(い)らざる心配なのだ。しかし、その事を正面きって言っても、全く無駄であることは、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチとの最初の出会いの時から私にはよく分っている。残されているのはたった一つの道だけだ。私の言葉に耳を傾けるような間柄を作る、それだけ。そのために必要欠くべからざることは、私がイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチにとって好ましい人物になることだ。私が鏡の前に坐るようになったのは、このせいなのだ。私は銃声を救いたい。アコーデオンの悲しい響きを観客に聞かせたい。そしてその時、赤黒い血の斑点が、月の光の下に、雪の上に出来るのを、観客に見て貰いたい。それ以上私は何も望んではいなかった。
 そして再び烏がカアカアと鳴く。
 「アホめ! 貴様は全く分っちゃいない。お前が気に入っていない人物にどうして気に入って貰えるんだ! 何をお前は考えている。それで人が動かせるなどと! 自分は相手と正反対で、それで相手に何かを吹込もうと言うのか! そんなこと、お前がどんなに鏡の前であれこれ顔を作ったって、何にもなる訳がない。」
 確かに私はイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが嫌いだった。彼の叔母のナスタースィヤ・イヴァーノヴナも、そして特に、リュドゥミーラ・スィリヴェストゥローヴナは、特に、特に。これが相手に伝わらない訳がない!
 ドゥルイキンの馬車があるということは、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが「黒い雪」のリハーサルに来ているということだ。
 毎日正午にパーキンが、怖れを押し殺した微笑を浮べて、暗い平土間に小走りにやって来て、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチのオーバーシューズを持って来る。その後ろにアーヴグスタ・アヴデェーイェヴナが、格子縞の厚い毛布を手に、そのアーヴグスタ・アヴデェーイェヴナの後ろにリュドゥミーラ・スィリヴェストゥローヴナが、手帳とレースのハンカチを持って続く。
 イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは平土間に入ると、まづオーバーシューズを履き、演出家として決められた席につく。すぐにアーヴグスタ・アヴデェーイェヴナがその肩に、格子縞の毛布をかけ、そしてリハーサルが始まる。
 リハーサルの間、リュドゥミーラ・スィリヴェストゥローヴナは演出家の近くに位置を占め、何か手帳に書留めている。時々有頂天になって・・・大きな声ではないが・・・声を発しながら。
 さて、いよいよ私の秘密を白状する時が来た。私はイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが大嫌いなのだ。だからこそ、気に入られようとする時には鏡の前で馬鹿な馬鹿な真似をしなければならないのだ。勿論その嫌悪の情は彼の履くオーバーシューズにある訳でもなく、ましてやリュドゥミーラ・スィリヴェストゥローヴナにある訳でもない。イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは五十五年間の演出家の経験を生かして世界的によく知られた・・・大方の評判では「天才的な」と言われている・・・役者が自分の役を果たす時に練習しておかねばならない、ある理論を編み出した。
 私は、たとえ一分でも「その理論が真に天才的なものである」ことを疑ったことはない。しかしその理論を実際の稽古に適用する段になると、私は絶望に追い込まれるのだ。
 私は、首を賭けてもいい。もし誰か芝居の素人(しろうと)をこのリハーサルに呼んで来て、稽古風景を見せたら、彼は驚き呆れる筈だと。
 パトゥリケーイェフは、私の芝居で、自分の愛に応えてくれないつれない婦人を愛している、小役人の役を演ずる。
 これは滑稽な役で、パトゥリケーイェフは実にこれを可笑しく演じ、それも日毎に上手になって来ていた。本当に見事なもので、私は見ていて、舞台にいるのはパトゥリケーイェフという役者ではなく、本当に自分の書いた作品のまさにその男がそこにいるかと思った程だ。いやむしろ、パトゥリケーイェフが、以前この小役人をやっていて、私はそれを見ず、奇跡的にその小役人のことを作品に表したのだとさえ感じた。
 さて、ドゥルイキンの馬車が劇場に現れ、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが格子縞の厚い毛布を着せられ、リハーサルは丁度パトゥリケーイェフの場面からとなる。
 「さて、始めよう」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが言う。
 演出家に対する畏敬の念を表す静けさが平土間を支配する。心配そうなパトゥリケーイェフ(その心配は、彼の目が悲しそうに潤(うる)んでいることから分る)が、女の役者に恋の告白をする場を演じる。
 「分った」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが片眼鏡の下で両眼を光らせながら言う。「今のは全くなってない。」
 私は、心の中で「ああ」と呟く。何かが腹の中でひっくり返る。私は思う。パトゥリケーイェフがやっていた演技より、ほんの少しでもよくなることなど到底不可能だ、と。そして、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチを尊敬の目つきで眺めながら、『もしそんなことが実際に起ったら、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは本当の天才だ』と、考える。
 「全くなってない」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは繰返す。「一体今のは何だ。上っ面の演技だ。その婦人に対して、その男はどういう気持でいるんだ?」
 「愛しているんです、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチ。ああ、何ていう愛し方か!」と、この場面をずっと見てきたフォーマ・ストゥリーシュが叫ぶ。
 「そうだろう」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが応じる。そしてパトゥリケーイェフの方に向き直り、「君、炎のような愛を考えたことがあるのかね。」
 質問への答にパトゥリケーイェフは舞台の上で何かコショコショと喋る。つまり、何を言っているのかは、聞えない。
 「炎のような愛とは」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは続ける。「愛する者のためには何でもしてやろうということで表現される。」そして命令する。「さ、自転車を持って来るんだ!」
 イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチの命令はストゥリーシュに歓喜を呼び起す。ストゥリーシュが叫ぶ。
 「おい、道具方! 自転車だ!」
 小道具係が、ところどころペンキの剥げている自転車を、舞台に転がして来る。パトゥリケーイェフはそれを、悲しそうな目つきで見る。
 「愛する者のためには、惚れた男はどんなことでもやるものだ」と、よく響く声でイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは言う。「食べ、飲み、歩き、自転車にも乗る・・・」
 ひどく興味がわき、好奇心で胸がつまりそうになりながら私は、リュドゥミーラ・スィリヴェストゥローヴナの手帳を覗き込む。そこには子供のようなまづい筆跡で、「愛する者のためには、惚れた男はどんなことでもやるものだ」と、書かれてある。
 「・・・分ったな。さ、愛する者のために、今から自転車に乗るんだ」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは命じ、薄荷の焼菓子を口に放り込む。
 私の目は舞台に釘づけになる。パトゥリケーイェフは自転車に乗り、愛されている女性を演ずる女優は肘掛け椅子に坐り、お腹に大きなエナメルのハンドバッグを抱える。パトゥリケーイェフはペダルに足をかけ、肘掛け椅子の周りを回る。脇にいるプロンプターにぶつからないよう、そちらに片目を使い、もう片方の目で女優の方を見ながら。見ている者達に微笑が浮ぶ。
 「全く駄目だ!」と、演技が終るとイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが言う。「どうしてプロンプターの方を見るんだ。プロンプターのために自転車に乗っているのか。」
 パトゥリケーイェフ、再び回る。今度は両眼とも女優の方を見るが、うまくハンドルを切ることが出来ず、舞台の袖につっこむ。みんなが自転車のハンドルを持ち、パトゥリケーイェフを連れ戻す。イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは勿論気に入らず、パトゥリケーイェフは三度目の挑戦。今度は頭全体を女優の方に向ける。
 「ひどい演技だ!」と、苦々しくイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが言う。「筋肉が硬直しているんだ、筋肉が! 全く自分に自信がない。緩めるんだ、筋肉を! その頭。何だ、それは。自分の頭の動きにも、全く自信がない!」
 パトゥリケーイェフ、また乗る。今度は頭を下げ、額越しに女優を見ながら。
 「頭が空っぽだ! 空っぽの頭で回って、何だと言うんだ。愛でいっぱいにするんだ、その頭を!」
 再びパトゥリケーイェフ、始める。今度は腰に手をあてて、愛する女を、思いのたけを目に籠(こ)めて覗きこみながら、ハンドルを片手に持ち、ぐるっと回転しようとする。と、その拍子に、泥だらけのタイヤが女優のスカートにぶちあたる。女優は悲鳴を上げる。平土間でリュドゥミーラ・スィリヴェストゥローヴナも悲鳴を上げる。女優に「大丈夫か」、「何か薬は?」等々・・・騒ぎの後、どうやらそれ程たいしたことはないと分り、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは再びパトゥリケーイェフをぐるぐる回させる。何度も何度も。そして最後に、「どうだ、疲れたようだな?」とイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは訊く。「いいえ、疲れていません」と、パトゥリケーイェフは答える。が、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチ、「いや、疲れが見える」と言い、そこでやっと放免になる。
 パトゥリケーイェフの代りに、今度は客を演ずる役者達が舞台に上る。私は喫茶室に煙草を吸いに行く。帰ってみると、例の女優のハンドバッグは床に置かれ、彼女自身は両手を太ももの下に敷いて坐っている。客は四人。三人は男、一人はインドからの手紙にコメントが書いてあった、あの、ヴェシュニャコーヴァだったが、その四人とも、例の女優と同様、身体の下に両手を敷いている。五人とも台本にある通り台詞を言おうとするのだが、ちっとも先に進まない。何故なら、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが、毎回何か文句をつけ、説明をし、言い直させるからだ。客達、そしてパトゥリケーイェフの恋人役・・・これは芝居の女主人公だが・・・は、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチの指摘に応える苦労の他に、手で仕草が出来ないため、余計演技が困難なのだ。
 私の驚きを見てとってストゥリーシュは、囁き声で私に説明する。イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチはわざと役者達に、手を使わせないのだ。両手の仕草なしで、言葉の抑揚だけで、台詞に意味を与えることが出来るようにする訓練なのだ、と。
 全くこれはどういうことだ、どう考えたらいいのだ、と、驚き呆れて、私はリハーサルから家に帰る。そして次のような結論を下す。
 『いや、実にびっくりだ。しかし多分これは、僕が芝居に関して素人だからなのだろう。どんな技術や芸術にも、その分野固有のこつや秘密がある。例えば未開の人達は、我々がブラシで歯をこすったり、口の中に粘土のようなものを押し込んだりしているのを見たら、きっと奇妙だ、滑稽だ、と思うだろう。また、医者が患者の手術をするのに、すぐには取りかからず、検査のため採血したりするのを、こういうことを知らない人が見たら、何て奇妙なことだと思うだろう。
 それはともかく、私にとって一番興味があったのは、次のリハーサルでの、前日の自転車による稽古の結果や如何に、即ちパトゥリケーイェフは「愛する者のために」をいかに前よりうまく演ずるか、ということであった。
 しかしながら、その翌日は、自転車については、それを仄(ほの)めかすことをする人間さえいない。ただ、稽古の方は前日に負けず劣らず、驚くべきことが起る。今回はパトゥリケーイェフは愛する女性に花束を贈らねばならない。これは昼の十二時に始まり、四時まで続く。
 花束の贈呈は、パトゥリケーイェフだけでなく、役者達全員が順々にこれをやらされる。将軍を演ずるイェラーギンも、盗賊の頭(かしら)を演ずるアダリビェールクまでが。しかしフォーマは私を落着かせ、次のように説明する。これはイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチがいつもやっていることだが、実に賢明なやり方だ。こうやれば、沢山の役者に、舞台上の技術を一度に身につけさせることが出来る、と。それは確かに本当の話ではあった。イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは演技をつけながら、愛する女性に如何に花束を捧げるべきかだけでなく、昔の役者達が実際にどのように演じたかを、面白く、ためになるように、話して聞かせる。この時私は、過去の役者達の中で一番上手だったのは、カマローフスキイ・ビオンクールであり、(この話の時リュドゥミーラ・スィリヴェストゥローヴナは、『そうそう、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチ、私、あの時の演技、忘れないわ』と大声を上げ、リハーサルの統制を乱してしまったのだが。)また、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが一八八九年ミラノで見たイタリアのバリトン歌手だったことを知る。
 私は勿論、このバリトン歌手を知らない。従って私は、花束の贈呈を誰よりも上手に出来る人物はイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチをおいて他にはないと、自信をもって断言出来る。十三回も彼は、溢(あふ)れんばかりの真心をもって舞台に上り、この素敵な贈物をいかに捧げるべきかを、演じてみせた。私は納得し始める。イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは実に、正真正銘の天才的役者なのだと。
 次の日、私はリハーサルに少し遅刻する。そして着いてみると、舞台に椅子を並べて、オーリガ・スェルゲーイェヴナ(女主人公を演じる女優)、ヴェシュニャコーヴァ(女の客)、イェラーギン、ヴラディチーンスキイ、それにアダリヴェールク
その他私の知らない三四人の役者達がそこに坐り、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチの「一、二、三」の合図のもとに、ポケットから目に見えない財布を出し、そこから目に見えない紙幣を取出し、その後、元のポケットに戻している。
 この練習が終ると(私の理解では、パトゥリケーイェフがこの場面で、金を数えるところがあるかららしい)、今度は別の練習が始まる。まづ大勢の役者達をアンドゥリェーイ・アンドゥリェーイェヴィッチが、舞台の上に召集し、椅子に坐らせ、目に見えないペンで、目に見えない机の上の、目に見えない紙に、手紙を書き、それを封筒に入れ、糊づけする。(これもパトゥリケーイェフが演じることだ。)大事なことは、この手紙がラブレターであるという点にある。
 この練習は、ある手違いによってひどくまづい結果になった。というのは、舞台の上に上げられた人数の中に、誤って、道具方が一人まぎれていたのだ。
 イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは、舞台に役者達を上げたのだが、その時、今年入ったばかりの道具方の助手達の顔を知らず、舞台の隅にぶらぶらしていた巻毛の男を舞台に上げてしまっていたのだ。勿論この巻毛の男も、目に見えない紙に手紙を書いている。
 「おい、そこの君」と、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチが怒鳴る。「君、招待状の宛名を書いているのか。」
 その道具方は、椅子に坐り、他の役者達と一緒に、目に見えない手紙を、指に唾をはきかけながら書いていたのだが、私の感想では、彼はそれほど他の役者に比べて下手だとは思わなかった。ただ、何か顔に、困ったようなニヤニヤ笑いが浮び、少し顔を赤くしていた。
 それがイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチの癇に障ったのだ。
 「そこの隅に坐っている男だ。何をニヤついている。あいつ、何という名前だ。サーカス団にでも入りたいのか。全く、不真面目な!」
 「あ、あれは、道具方です、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチ。大道具の・・・」とフォーマが唸る。イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは黙り、道具方は事なきを得、退散する。
 こうして、飽く事を知らぬ訓練の日が続く。私は非常に沢山の事を見聞きする。例えば、リュドゥミーラ・スィリヴェストゥローヴナの指揮のもと、大勢の役者達が舞台に上る。そして、目に見えない窓に走りより、その窓に縋りついて、大声で叫ぶ。
 つまり、花束と手紙がある、その同じ場に、女主人公が窓にかけよって、遠くで起った火事を見る場面があるのだ。
 この大訓練の理由は、そこに存したのだ。この訓練が異常に拡大されて行くにつれ、正直なところ、私の心はだんだん暗くなって行く。
 ところで、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチの理論によれば、リハーサルにおいては、台本の台詞そのものは、全く何の役目も果さない。役者はその芝居における自分自身の役割を演じることによって、その役の性格を創造せねばならぬ。従って、火事による薄明りを、全員に経験しろと命じるのだ。
 しかりしこうして、窓に駆寄った各役者は、自分自身に必要と思われる言葉を怒鳴ることになる。
 「ああ、何てこと。何ていうことだ!」が、一番多い。
 「燃えているのはどこだ。どうしたんだ、あれは」は、アダリビェールト。
 男性の、女性の、怒鳴っている声が聞えてくる。
 「助けてやるんだ! 水はどこだ。燃えているのはイェリスェーイェフだぞ!(何のことだ、これは。意味不明だ。)助けてやれ! 子供が危ない! 爆発しているぞ! 消防を呼ぶんだ! ああ、こっちも焼け死ぬぞ!」
 そのガヤガヤという怒鳴り声をバックに、リュドゥミーラ・スィリヴェストゥローヴナの金切声が一際(ひときわ)鋭く聞えて来る。それがまた、何という馬鹿げた言葉だ。
 「ああ、神様。ああ、全能の神様。私のトランクをどうなさろうと言うのです! ああ、私のダイヤ! 私のダイヤモンドを!」
 リュドゥミーラ・スィリヴェストゥローヴナが胸のあたりで両手を組み、叫んでいるのを、暗澹たる気持で聞きながら、私の芝居で女主人公が言う、本当に簡単な台詞を私は思い浮べている。
 「見て・・・火事・・・」それだけ。それを上品に言う。この芝居に登場しないリュドゥミーラ・スィリヴェストゥローヴナが、この火事の場面の練習をしているのを、じっと見守っているのが、私にはいかに退屈だったか。全く芝居と関係のない、トランクだのダイヤだのの金切声が、否応無しに耳に入って来る。私の顔はだんだん引きつって来る。
 イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチ監督の下のリハーサル第三週目の終に、絶望が私を捕える。絶望の理由は三つある。第一に、私は単純な算術の計算をやり、ぞっとしたのだ。我々は三週間かかって、まだたった一場しか練習していない。一場だってまだ途中だ。ところがこの芝居は七場あるのだ。一場に三週間かかるとしたら・・・
 「ああ、ひどい話だ!」私は自宅のソファに輾転反側し、不眠の目をこすりながら呟く。「三かけ七は・・・二十一・・・週、いや、二十五週かかりそうだ。すると五箇月。いつ私の芝居はかけられるのだ! 芝居のシーズンはあと一週間で終。それ以後は九月までリハーサルはない。やれやれ、すると十月、十一月、十二月・・・
 夜からすぐにまた、朝が来る。窓は開け放っているが、寒くはない。私は寝不足で痛む頭、黄色くて痩せこけた顔をして、リハーサルに現れる。
 絶望の第二の理由はもっと深刻だ。この手記にだけは自分の内緒事を打開けておく。私はイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチの理論を疑っているのだ。そう! これは口にするだに恐ろしいことだ。が、事実はそうなのだ。
 この不吉は疑いは、最初の週の終には、もう既に頭をもたげていた。第二週の終には、私の芝居にはこの理論はどうやら全く間違っていると、分る。パトゥリケーイェフは、花束、ラブレター、愛の告白、いづれの演技も、よくなるどころか、何かわざとらしく、固い演技になってきている。おまけに見ていて笑えないのだ。更に悪いことに、彼は風邪をひいてしまう。
 この最後の段階、即ちパトゥリケーイェフが風邪をひくところ、まで来た時、私は全く落胆して、ボンバールドフにこのニュースを知らせに行く。するとボンバールドフは笑って言う。
 「おいおい、風邪などすぐに治るさ。昨日だってもう随分よくなって、今日はビリヤードをやっていたぞ。例の、あの場が終れば、風邪など全快だ。まあ待っていれば分る。風邪は他の連中もひく。次は恐らくイェラーギンだな。」
 「なあーんだ。糞ったれ!」と、私は叫ぶ。やっと、どうやら、分ったのだ。
 ボンバールドフの予言は的中する。次の日、イェラーギンがリハーサルから消える。アンドゥリェーイ・アンドゥリェーイェヴィッチは日誌に『リハーサル欠席。風邪』と、書く。同じ不幸がアダリヴェールトを捕える。日誌にまた同じ文章が書かれる。アダリヴェールトの次が、今度はヴェシュニャコーヴァだ。私は歯ぎしりする。計算をやり直す。風邪のためもうひと月は延びそうだ。しかしアダリヴェールトを咎めることは出来ない。勿論パトゥリケーイェフもだ。実際、盗賊の親玉がどうして第四場の、偽の火事を練習して時間を潰さなければならないのだ。彼はそれより、第三場と第四場の強盗の場を練習したいに決っているのだ。
 その間パトゥリケーイェフは、ビールを飲みながら、キューを握ってアメリカ(訳註 「スヌーカー」と呼ばれる名前の遊びらしい。)を勝負している。一方アダリヴェールトはクラースナヤ・プリェースニャのクラブで、素人劇団のシラーの「群盗」のリハーサルを演出している。
 そう、確かにこのイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチの理論は、私の芝居に適さない。適さないどころか害がある。第四場に、二人の登場人物が、激して次の台詞を言う場面がある。
 「よし、もうこうなれば決闘だ!」
 夜中に私は、自分で自分を呪い、こんな不吉な台詞を書いた私の右手を切取ってやると左手の人差指が何度威嚇したことか。
 この台詞が発せられるや、イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチはひどく興奮し、剣を二本持って来い、と命じたのだ。私は青くなる。それからヴラディチーンスキイとブラガスヴェートゥロフの一騎打ちが始まる。私は、激しく二つの刃があたる光景をじっと見つめていたが、ヴラディチーンスキイが、ブラガスヴェートゥロフの目を突き刺しはしないかと、ハラハラのし通しであった。
 この時イヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチは、カマローフスキイ・ビオンクールが、モスクワ市長の息子と剣で決闘した話をする。
 しかし、下らない市長の息子の話をしている場合ではない。この時からイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチはしつこく、剣による決闘の場面を、私の芝居の中に入れるよう提案してきた。
 私は、この提案に対して、「たちの悪い冗談だ」という態度をとっていたのだが、狡猾な裏切り者のストゥリーシュが、一週間以内にこの決闘の場面の『スケッチ』を作るよう、私に要請してきた時の私の気持を想像して戴きたい。私は猛烈に食ってかかる。しかしストゥリーシュは後に引かない。罵りあい、怒鳴りあいの結果は、私が演出家のノートに「ここに決闘の場が入る」と書かされるはめになる。
 そして私とストゥリーシュの関係は、以後、ひどく悪いものになる。
 怒り、悲しみ、の中で、私は夜毎ベットで寝返りをうつ。侮辱された、という気持でいっぱいなのだ。
 「オストローフスキイの芝居に無理矢理決闘の場を入れたりはしなかった筈だ」と、私は呟く。
 それに、リュドゥミーラ・スィリヴェストゥローヴナに『私のトランク!』などと喚(わめ)かせたりしなかった筈だ、と。
 オストローフスキイに対するこういうけちな羨望の念が、劇作家としての私を引き裂く。しかしこんなことは、言ってみれば個人的なこと、つまり、私の芝居ひとつに関ることに過ぎない。ただ、もっと重要なことがある。私は、独立劇場に対する、今となっては中毒になったような愛情から、標本としてコルクの上に突き刺さった甲虫(かぶとむし)のように、毎晩欠かさず芝居を観に行く。そうしているうちに私の疑惑は、ついには固い確信に変って行く。そして、判断の基準はひどく単純なものになる。即ちイヴァーン・ヴァスィーリイェヴィッチの理論が正しいものかどうかは、結局その練習の結果役者達が変身の霊感を受けるかどうかによるのだ。つまり、各場面場面で、役者一人一人が、観客に、登場人物の完全な幻影を与えられるかどうか、なのだ。そして観客の目の前に、今いる人物達が、真にその・・・
            (一九三六―――一九三七)

 平成二0年(二00八年)四月二0日 訳了
 
 

http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
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