マダム・ベリアール
        三幕の芝居
       セスィル・ギュイヨンに捧ぐ
          
          シャルル・ヴィルドラック 作
            能 美 武 功 訳

   登場人物
ベリアール未亡人 三十二歳
マドゥレーヌ・ベリアール 二十六歳
セリンヌ 女工 五十歳
ルイーズ 女中
タイピスト 
ロベール・ソルニエ ベリアール工場の工場長 三十五歳
デゾルモ 年金生活者 四十歳
メゾン(レオン) 助手 五十五歳

     第 一 幕
(染色工場の事務室。奥行きのあまりない部屋。舞台奥に、磨りガラスの窓。中央に扉、工場の中庭に通じている。左手前面に扉。その前にステップが二段。右手奥に扉、その上に「金庫」と記されている。右手に机と大きなストーブ。(鉄またはファイアンス陶器製。)ストーブには煙突あり。)
(印刷機、書類整理棚、テーブル。テーブルの上にはガラスの小壜(複数)。見本のアルバム(複数)あり。)
 
     第 一 場
(幕が開くと、ソルニエ、机について書類を仕分けしている。マドゥレーヌ、左手奥の小さな机について、覚束ない手つきでタイプライターを打っている。階上からピアノの音。)
 マドゥレーヌ あっ、また封筒、失敗! 下過ぎちゃった。それに、パ・ドゥ・カレをハイフンなしで・・・
 ソルニエ(乱暴だが、しかし、人の良さが分る言い方。)それでも手紙は着きますよ。
 マドゥレーヌ 私、やり直す! 義理の姉さんに笑われたくないもの。手紙だって二度打ったんだから。封筒も二度打ったって構わないわ。
(マドゥレーヌ、新しい封筒をタイプライターに挟む。)
 ソルニエ ストーブの傍に坐らせて上げればよかった。そこだと、すきま風が直接あたるんだった。
 マドゥレーヌ 有難う、ソルニエさん。私、寒くありませんわ。(間。タイプの音。)来週私、ここより寒くないといいんだけど・・・兄さんの家(うち)で。
(間。)
 ソルニエ 長逗留なんですか? 兄さんの家では。
 マドゥレーヌ 分らないわ。二箇月かしら。叔母さんが呼び戻さなかったら。
 ソルニエ(少しぶっきら棒に。)皆から引っ張りだこですね。
 マドゥレーヌ いいえ。ただ、皆の話し相手に。義理の姉はブーローニュで一人も良い友達がいないので。(でも私、あっちには長い間行ってなかった。)この二年間、叔母がどうしても私に、ここにいて欲しいって・・・
 ソルニエ ええ、それは。
 マドゥレーヌ 私が出て行くの、厭なんです、叔母は。(間。)それに私も、ブーローニュに行かないですむのだったら・・・
(間。)
 ソルニエ 叔母さんが今弾いているの、あれは何ですか?
 マドゥレーヌ 覚えていませんけど、モーツァルトの何かですわ。いつも弾いている・・・
 ソルニエ ええ。
 マドゥレーヌ 一人の時には。叔父が好きだったんです、あの曲。
(マドゥレーヌ、立上がって、ストーブの方へ手を暖めに行く。)
 ソルニエ(非常に微かに、不満の気持。)ああ、そう・・・(ちょっとの間、ピアノを聞く。それから一枚のカードを電話機のテーブルに置き、受話器を取る。)もしもし・・・乾燥室? ああ、レオン? 当番は今、あなた?(間。)ああ、それはもう、下ろさないと。何をやってるんです、昨日の夜にはもう乾いている筈でしょう!(間。)そう。(間。)それを早く言わなきゃ駄目じゃないですか。それをすぐに! 女工八人に、すぐ畳ませて!・・・そう・・・ビロードに行ってる女工・・・青いビロード・・・あれが終るから、そこから八人。・・・そう! シートを運ばせて。午後いっぱい、ずっと。(間。)違います! 緑の。一キロメートル。緑のですよ、レオン! あなた、下でやっていること、何も見てないんですね、今朝。(間。)はい、そうです。頼みますよ。
(ソルニエが喋っている間に、女工セリンヌが入って来ている。マドゥレーヌ、この時までにセリンヌに「待って」と合図をしている。セリンヌ、この時までに扉を注意深く閉めている。)

     第 二 場
(ソルニエの電話が終ると、セリンヌ、一歩前へ出て、話そうとする。ソルニエ、仕草でそれを止める。)
 ソルニエ(セリンヌに。)ちょっと待って!(ソルニエ、別のカードを受話器の前に置いて、受話器を取る。)もしもし。(間。)ああ、プランセか? プランセ、女工八人都合つけて、レオンの、布を畳む仕事の応援を頼む。青の染色をやっている連中八人だ。青の仕事は今急がない。(間。)うん、蒸気は止めていい。畳むのが終れば、丁度お昼になる。頼む。(受話器を置く。セリンヌに。)何の用です? マドゥムワゼッル・セリンヌ。
 セリンヌ(太って、白髪まじり。赤い頬に、尖った唇。肩にショール。荒い布の前掛け、木靴。ベルトに鋏を下げている。含みのある言い方。)お話したいことがあるんで、ムスィユ・ソルニエ。
 ソルニエ わざわざやって来たんだ。それはあるだろう。
 マドゥレーヌ(セリンヌに。)私、いない方がいいんじゃないかしら?
 セリンヌ いいえ、お邪魔じゃありません。
 ソルニエ じゃ、さ、話して!
 セリンヌ 奥様が昨日、廊下を歩いていらっしゃる時に、奥様にお話しようかとも思ったんですけれど、でも、工場長さんの方がもっといいと思って・・・
 ソルニエ(苛々して。)何のことです。さ、早く話して!
 セリンヌ 工場の石炭を盗んでいる者がいるんです。ムスィユ・ソルニエ。
 ソルニエ(落着いた声。)ああ、この季節じゃあ、いてもおかしくないな。
 セリンヌ 私、誰か知っているんです。それは・・・
 ソルニエ(途中で遮って。)ここの工場の者でない誰か、とだけ言って下さい。
 セリンヌ いいえ、泥棒は、ルイーズ・ベックです。
 ソルニエ そう、ルイーズ・ベック。ここの工場の同僚を告げ口することはなかったんだ、マドゥムワゼッル・セリンヌ。ただ石炭を盗むものがいる、とだけ言ってくれれば。私への警告にね。
(マドゥレーヌ、椅子をとり、ストーブの傍に坐る。)
 セリンヌ(傷ついて。)盗人(ぬすっと)は名前を言わなきゃ、ムスィユ・ソルニエ。そうでなかったら、皆が疑われますからね。
 ソルニエ 盗みは重大だ。私が見つける、きっと。
 セリンヌ それは勿論、いつかは。
 ソルニエ それで、何トン盗んだ? このルイーズ・ベックは。
(マドゥレーヌ、笑う。)
 セリンヌ そんなの、知りませんよ、ムスィユ。でも私、帰る時に、もう三度も見たんです、盗んでいるところを。ボイラーの前、石炭が積んであるところで。靴の紐を結ぶようなふりをして、前掛けの中にこうやって。(手で、その量を表して。)ムスィユ・ソルニエ! 私、あんな泥棒をしているのを見るの、厭なんです。何て厚かましいんでしょう、皆の見ている前で!
 ソルニエ 皆のいる前?
 セリンヌ そうですよ!
 ソルニエ(立上がる。セリンヌに、もう用はすんだ、と示すため。)マドゥムワゼッル・セリンヌ、分りました。有難う。
 セリンヌ(出て行きながら。)私、喋っちゃいましたけど、それは・・・
 ソルニエ 有難う、マドゥムワゼッル・セリンヌ。
 セリンヌ(出て行く時。)お役に立てて・・・ムスィユ・ソルニエ。失礼します、マドゥムワゼッル。
(マドゥレーヌ、お辞儀。)

     第 三 場
 ソルニエ(不機嫌に。)お役に立てて、か! 告げ口しろなどと、誰も頼んじゃいないぞ。(部屋を歩き回る。)全く厭になる話だ! これで何かはやらなきゃならん!
 マドゥレーヌ どうしても?
 ソルニエ(苛々と。)そう、どうしても。あの蛇め、あの告げ口屋! ルイーズ・ベックが石炭を盗んだことは、少なくとももう、二十人は知っている。これで私が何もしなかったら簡単だ。私が盗みを知って、何もしない。誰も心配はいらない。三日も経たないうちに、こういう噂がたつ。それで私が工場の出口で七八人、前掛けの中に石炭を入れた職工を捕まえる。そして解雇を言い渡すことになる。
 マドゥレーヌ ああ、そうですね。
 ソルニエ(優しい顔になって。)でしょう? だから、どうしても何か手を打たなければ。それも、すぐに。
 マドゥレーヌ そのルイーズ・ベックを呼んで、少しきつく叱るしかないんじゃないかしら。
 ソルニエ(怒りを含んで。)そう、犯人を呼びつける。すると泣き崩れて、子供のこと、飲んべえの亭主のこと、を私に話す。こっちは警官の声を出して、その可哀想な女に言う、「あんたは泥棒なんだ!」そして泣きじゃくっているルイーズ・ベックを、そのまま仕事場に返す。マドゥムワゼッル・セリンヌの思う壷だ!(間。その間ソルニエ、部屋を歩き回る。)あの告げ口屋め! よし、すぐ工場に行かなきゃ。職工全員に話しておくことがある。
(ソルニエ、決心し、帽子を被り、急いで奥の扉から退場。マドゥレーヌ、立上がる。躊躇う。それから、タイプライターの前にある椅子の背にかけてあるショールを取りに行く。)
 マドゥレーヌ 見て来なくちゃ!
(ショールをつけ、ソルニエの後を追って、退場。扉は半開きのまま。場は暫く無人。それから、半開きの扉から、メゾンの顔が現れる。)

     第 四 場
 メゾン(扉をノック。)誰もいないのかな?(メゾン、部屋に入る。手に、非常に綺麗な、緑色の絹の布を持っている。工場の、青い制服を着、首にマフラー。一瞬じっと立ち止まる。困って、「金庫」と書いてある扉を半分開き、呼ぶ。)工場長! いらっしゃいませんか?(「金庫」と書いてある扉の中で。)いないのか!
(メゾン、扉から出て来て、扉を閉める。次に、部屋を出ようとする。丁度出ようとした時、左手の扉からマダム・ベリアール登場。メゾン、戻る。)
 メゾン ああ、今日は、奥様。
 マダム・ベリアール 今日は、メゾンさん。ムスィユ・ソルニエは?
 メゾン 分りません。私もきっとここだと・・・。工場長の、緑の試作品の出来上がりを見て貰おうとやって来たのですが。
 マダム・ベリアール ああ、あの人の初めての試み?
 メゾン(勢いこんで。)そうです。素晴しい結果です。見て下さい! 戦前のドイツのアニリンの発明と比べて、決して見劣りしません。十倍も落ち難いんですから。
 マダム・ベリアール(あまり熱心でない。)ええ、綺麗ね。絹だけ? 染まるのは。
 メゾン 絹に木綿です。触っても大丈夫です。もう定着していますから。
 マダム・ベリアール(布に触って。)これ、濃さも変えられるの?
 メゾン ええ、十通りにも、二十通りにも。お好みのままです。それに、費用だって今までのどんなものより、少なくとも十五パーセントは安く出来るんです。
 マダム・ベリアール(マドゥレーヌがそれまで坐っていたストーブの傍の場所、に坐りながら。)十五パーセント・・・ああ、暖かい!
 メゾン ムスィユ・ソルニエの、このやり方だと、媒染をしなくてもすむんです。水だけ・・・四十度のお湯だけで出来るんです。製糸工場の社長達が、ここのサンプルと価格表を見たら、それは嬉しがると思いますね、私は。
 マダム・ベリアール(火をかき回しながら。)あなたのその話、とても素敵ね、メゾンさん。ムスィユ・ソルニエの研究のことは、私、分ってましたけど、そんなに重要なものとは思ってもいませんでしたわ。
 メゾン そうですか。(間。)あの方は自分の仕事を自慢するような人ではありません。でも、たいした人です。
 マダム・ベリアール ええ、ええ、分っています。(物憂げに。)死んだ夫もよく分っていました。だからなんですからね、うちの人があの人を工場長にすえたのは。
 メゾン ああ、生きていらっしゃれば、今のこの結果を見て、何と仰るか・・・きっと、大喜びなさる筈ですよ。
 マダム・ベリアール 有難う、メゾンさん。
(マドゥレーヌ登場。)

     第 五 場
 マダム・ベリアール(非難する声。)マドゥレーヌ、あなた、そんな薄っぺらな肩掛けだけで外を歩き回っちゃ駄目でしょう!
 マドゥレーヌ(息をはづませて。)私、寒くないの、叔母さま。
 メゾン 今日は、お嬢さん。
 マドゥレーヌ 今日は、メゾンさん。あら、例の緑の試作品ね?
 メゾン そうです、お嬢さん、思っていた通りの出来栄え。大成功です。
(メゾン、マドゥレーヌに布を見せる。マドゥレーヌ、メゾンに近づく。)
 マドゥレーヌ 本当に素敵!
 メゾン ね? でしょう?
 マドゥレーヌ ソルニエさんは、もう見て?・・・
 メゾン まだなんですよ。今どこにいらっしゃるんですか?
 マドゥレーヌ 乾燥室。丁度今。
 メゾン じゃ、すぐ行ってみます。では、失礼します。
 マダム・ベリアール じゃあ。
(マドゥレーヌ、微笑んで、頭を下げる。メゾン、急いで退場。)

     第 六 場
 マダム・ベリアール ソルニエさんが発見したことは、工場に、とってもいいことだったのよ。
 マドゥレーヌ ええ、私、知ってますわ。
(マドゥレーヌ、椅子を取って、叔母の近くに坐る。)
 マダム・ベリアール アニリンと同じぐらい染めが強くて、おまけに、今やっているどんな染め物より収益がよくなるの。倍近いらしいわ。
 マドゥレーヌ 働く意欲が湧いてくるわね、みんなに。(間。)ソルニエさんのような人に何もかも任せておけるなんて、運がよかったわね、叔母さま!
 マダム・ベリアール そう。それに、その運がなかったら、あの時、取る方法は一つしかなかったわ。工場を売るしか。
 マドゥレーヌ(驚いて。)えっ? 工場を?
 マダム・ベリアール そう。売らなきゃならないところだったの。だってそうでしょう? ここの誰かの助けを借りて私がやるの? それとも、技術関係と営業関係の二人の監督を新しく雇ってやって行くの? どっちの場合にしたって、私、その人達の言いなりだったわ、きっと。
 マドゥレーヌ それでも叔母さんは、社長ではあるんでしょう?
 マダム・ベリアール でも、考えてご覧、マドゥレーヌ、私、することと言ったら、音楽しかないのよ! 叔父様の亡くなるまで私、染色についても、営業についても、何一つ知らなかったんですからね。そう言えば、今だって何も分ってはいない・・・大切な手紙にサインはするけど。大抵私、中身を読んでもいない。たとえ読んでもチンプンカンプン。(マドゥレーヌ、笑う。)でも、ソルニエさんに相談しさえすればいいんですからね、私は。ああ、マドゥレーヌ、そこのファイルを取って。今朝の手紙を見ておかなくちゃ。
 マドゥレーヌ(ファイルを手渡して。)ね、叔母さま、聞いて、ソルニエさんがやったこと。ついさっき女の職工がここに来て、とても意地悪く同僚のことを言いつけたの。その同僚の人、ほんのちょっと、石炭を前掛けに入れて持って帰ったらしいの。
 マダム・ベリアール(ファイルの中の手紙を出し、上の空でめくりながら。)あなた、その時、ここに居合わせたの?
 マドゥレーヌ ええ、ジュリエットに手紙を書いていたの・・・タイプで。
 マダム・ベリアール それで?
 マドゥレーヌ ソルニエさん、ひどく憤慨したの。同僚のことを告げ口するなんて、って。告げ口した人に、その気持を隠さなかったわ。「有難う」とは言ったけど、その言い方! とても厳しかった。その後、ソルニエさんがどうしたか、叔母さん、分る? 何とか手だけは打たなければならないの。だって、石炭がどんどん盗まれるのは困るもの。でも、その言いつけられた人を咎めたくはなかったの。
 マダム・ベリアール あら、どうして?
 マドゥレーヌ だって、そうでしょう? 告げ口をよしとするようなものだもの。あの人、それがとても厭だったの。それで叔母さま、素晴しかったわ、あの人の解決法。まづ工場の人みんなのところへ行って・・・私、あの人の後からついて行ったわ。今そこから帰って来たところ・・・工場に行って、蒸気を止めさせて、みんながシーンとなったところで言ったの。「石炭を盗む人間がいる。誰だか見当はついている。告げ口をした者がいるからだ。しかし私は告げ口は信用したくない。今後、石炭を持って行く者を私が目撃すれば、その者には、この工場を辞めてもらう。それからもう一つ、同僚の告げ口を私にする者があれば、その者にも、直ちにこの工場を辞めてもらう。工場の管理一般の責任は、唯一人この私にある。」そう言って、出て行く時にまた「私は盗みは嫌いだ。告げ口も、それに負けず劣らず、嫌いだ」って。
 マダム・ベリアール(マドゥレーヌが話すのをじっと聞いて、微笑みながら。)あなた、それ、面白かったのね?
 マドゥレーヌ ええ、勿論。だって、いろんな事を考えなきゃいけないでしょう? 工場の人達みんなをうまく動かそうとすれば、自分の名誉がかかっているわ。時にはどうやっらいいかって、うちこんで・・・夢中になるわ、きっと。
 マダム・ベリアール そして時には厭になるのね! うちの人、私に何度となく話したわ、それ。でもとにかく、マドゥロン、あなたっていう人は、私に欠けているものを持っているわ。
 マドゥレーヌ 叔母さまに欠けているもの?
 マダム・ベリアール そう、この工場をやって行くための、何か。
 マドゥレーヌ そんな。御冗談だわ。(間。)上に行きましょうか。デゾルモさんがいらっしゃるの、ご存知でしょう?
 マダム・ベリアール ええ。あなた、先に行ってて。私はソルニエさんに話があるの。(間。)あの人、あなたに親切?
 マドゥレーヌ ソルニエさん? ええ。どうして?
 マダム・ベリアール どうしてって・・・あの人、あなたにぶっきらぼうな時があるように思ったことがあるから・・・
 マドゥレーヌ それは誰にでもよ、あの人。・・・叔母さまには違うけど。だって、社長ですものね、叔母さまは。あの人の癖。酷い言い方をする、そしてその後、すぐ優しい言葉をかける、それが。
 マダム・ベリアール(独り言のように。)願ったり叶ったりだけど・・・(マドゥレーヌが何か聞き質(ただ)しそうに自分を見ているので。)ああ、そう、あなたにね、この工場のことをよく知って貰えば、私の代りにあれやこれや、して貰えると思って・・・勿論あなたに興味があればの話よ・・・そうなれば私、とても嬉しいの・・・
 マドゥレーヌ(同意して。)でも叔母さま・・・私もうその話、以前にも・・・
 マダム・ベリアール(前の台詞に続けて。)でもあなた、分るわね? それは、ソルニエさんが認めて下さって初めて出来る話。そして、あなたとソルニエさんが協力出来て初めてうまく行く話なの。だから私はあなたに・・・
 マドゥレーヌ ええ、勿論私、工場のこと、興味があるわ。それに、ソルニエさん、私がお手伝いするのを喜んで下さっているように思う! 最近うまく出来るようになってるの! あの人といて大事なことは、ただ一緒にいて、邪魔になりそうな時にはさっと席をはづす事。それから、つまらない事を言ったり質問したりして、うるさがられない事。この二つだけなの。二三度私、散歩に行けと、追い出されたことがある。でも、ちゃーんとその後、失礼を詫びて、理由を説明してくれたわ。
 マダム・ベリアール いい人ね?
 マドゥレーヌ ええ、心が綺麗なの。
 マダム・ベリアール あの人の傍にいて、私と入れ替わるのよ、マドゥロン。あの人だけでなく、工場の他の人の仕事もよく見て、私の手が本当に省けるように。私がピアノを弾いていても、後ろめたくないように。それに、いつかはこの工場は、あなたのものになるんだし・・・
 マドゥレーヌ(抗議して。)そんなこと・・・
 マダム・ベリアール 万一のことを考えておかなきゃ! お前の叔父さまのように、私だって・・・
 マドゥレーヌ 駄目、そんな話をなさっちゃ。叔母さまはお若いの。健康そのものなの!
 マダム・ベリアール(ちょっとの間の後。)勿論こんなこと全部、ソルニエさんには内緒よ。こんな話、あの人は違った目で見るかもしれないものね。あなたがこの工場の主導権をとりたい・・・なんて。
 マドゥレーヌ あらあら、そんなこと!
 マダム・ベリアール でもとにかく、工場の仕組などを、少しづつ身につけて行くのね。ここであなた、なくてはならない人になれば、ブーローニュには帰れないという言い訳にもなるわ。
 マドゥレーヌ 嬉しいわそれは、叔母さま。
 マダム・ベリアール(笑って。)・・・「その優しさ、それが我が儘というものです。」あのデゾルモさんのよく言う言葉。
 マドゥレーヌ そうそう、叔母さま、デゾルモさんに言った? 楽譜を持ってらっしゃいって。
 マダム・ベリアール ええ、言ったと思う。でも、あの人、この間包みを一つ置いて行ったから、楽譜は大丈夫。大事なのは、あの人がフルートを忘れないってこと。
 マドゥレーヌ デゾルモさん、面白いわ、叔母さまに言い寄る時の言葉。
 マダム・ベリアール 自分でも楽しんでるのよ。あの人との付合いはあんな風、いつも。私、随分若くして結婚したから、もうその頃からあんな調子なの。
 マドゥレーヌ 私、あの言葉が、少しは本気だといいのに、って思う。
 マダム・ベリアール ところが・・・ね!
(扉が開き、ソルニエ登場。)
 マドゥレーヌ(小声で。しかし、強く。)あ、ソルニエさん・・・

     第 七 場
 ソルニエ(マダム・ベリアールの方に進んで。)お早うございます、奥様。
 マダム・ベリアール(手を差出して。)お早うございます、ソルニエさん。素晴しい発見でしたわね。おめでとうございます! ムスィユ・メゾンが見せてくれて、説明を・・・
 ソルニエ(陽気に。)ええ、聞きました。叱ったんですよ、あのメゾンの奴を! 最初の一歩がたとえうまくいったとしても、それは所詮、最初の一歩でしかありませんからね。それに、私は自分で御説明したかったのです、現状を。
 マダム・ベリアール あの人、あなたを捜しにここにやって来たんです。ところが、私しかいなかったので、あなたへの賞賛の言葉を私が聞くことになったのですわ。 
 ソルニエ ほほう、あの男から褒められたとなると、この私への恨みは忘れたということかな? 随分叱りましたからね、このところ。いじめたり、怒鳴ったり。可哀想に、メゾンの親父さん!
 マドゥレーヌ(ソルニエに。)メゾンさん、あなたのことをとても尊敬していますわ。
 マダム・ベリアール(マドゥレーヌの方を見ながら。)尊敬しているのは、あの人一人だけじゃなさそうね。(マドゥレーヌ、後ろを向いて離れ、左手に進む。)
 ソルニエ 二三日中には、きっちりした結果が出る筈です。その時には御報告致します。郵便物は御覧になりましたね? 奥様。
 マドゥレーヌ 私、上ります。(ソルニエに。)ええ、郵便物は見たわ。
(マドゥレーヌ退場。)

     第 八 場
 ソルニエ(机の上を少し苛々した様子で整理しながら。)ルー・エ・ブランシェット社の回答だけが重要なんですが・・・御覧になりました?
 マダム・ベリアール いいえ・・・ファイルにありました?
 ソルニエ(ファイルからその手紙を取り出し、渡しながら。)あちらは承知したんです。
 マダム・ベリアール ああ・・・そう?・・・ご免なさい。分らなくて。で、何を承知したんです?
 ソルニエ(悲しそうに。しかし、辛抱強く。)ご存知の筈ですよ。年間を通じて、染めるビロード布地の量を言ってきて、決済時期を、納期後六箇月と条件を出して来たんです。私は、少なくとも、納期後三箇月でなければならないと思ったのですが・・・
 マダム・ベリアール ああ、あれ! そう、あちらはそれで納得したのね。よかった!
 ソルニエ 最初は六箇月に固執していました。一週間ほど前には。覚えていらっしゃいませんか?
 マダム・ベリアール(はっきりとは覚えていない。)ええ・・・覚えているわ。
 ソルニエ 我々は躊躇ったのです! あちらは大きな得意先ですからね。非常に丁重に手紙を書きました。しかし、譲らなかったのです。充分な値引きはしてあるし、それに新しい発見で・・・
 マダム・ベリアール ええええ、それで思い出したわ。私、その手紙にサインしました。
 ソルニエ ですから、あちらからの返答を、私は随分気にしていたのです。
 マダム・ベリアール 私も。あの手紙にサインする時、これで大丈夫かしらって、思ったわ。
 ソルニエ 本当ですか?
 マダム・ベリアール ええ、本当。
 ソルニエ どうしてそのことを言って下さらなかったんです。その反対意見を考慮に入れて、相手に反駁する材料に加えることが出来れば、私としても非常に有難かったのです。
 マダム・ベリアール あなた、そんなに沢山お仕事をおやりになって、まだ足りないの? 私が何か言って、またあなたのお時間を奪うようになった方が良いと仰るの? いいえ、ソルニエさん、私、あなたに全幅の信頼を置いているんですよ。
 ソルニエ(少し苦い調子あり。)その信頼も・・・もう少し関心を持って下さると、私としてはもっと有難いのですが・・・つまり、この御信頼の結果、ここでなされることの殆どが、奥様の興味を全くひかないという事態になって・・・
 マダム・ベリアール でも私、今ぐらいここの仕事に無関心でいられたこと、ありませんわ! 私、仕事のこと、よく分りませんの。その才能もないし、興味もないの。これ、私のいけないところかしら? 私、以前からあなたにはその事をお話してある筈ですわ。ついさっきだって、私、姪にその話をしたばかり。ここにあなたのような、私が全幅の信頼をおける人がもしいなかったとしたら・・・この工場は売ってしまっていましたわ。どんなに愛着があっても。それに売却のためにどんな不利が生じようと。(間。)この工場のこと、殆ど全て、あなたのお陰。ですから私、いつもあなたがここで働いていて、経済的な条件があなたにとって充分かどうか・・・
 ソルニエ(遮って。)奥様、私の経済的条件は充分満足出来るものです! 経済的条件! そんな話をして、私を侮辱するようなことは・・・
 マダム・ベリアール(冗談のような口調で遮って。)そうそう、あなた、私がここの仕事に全く無関心だって仰ったわね。私、今日、ここに降りて来た理由が分って? 職工のことをお話しようと思って来たんですよ。
 ソルニエ(悲しそうに微笑んで。)それは嬉しいです、奥様。
 マダム・ベリアール アンドレ小母さんが、もう少しで辞めること、ご存知ね?
 ソルニエ ええ、土曜日です、辞めるのは。
 マダム・ベリアール すると、係長を新しく任命する必要があるんでしょう? あの人の代りの。もう決めちゃったかしら?
 ソルニエ いいえ、しかし・・・
 マダム・ベリアール 私、一人、この工場で一番古くからの職工で、推薦出来る人がいるの。その人、とても真面目。あなた、もうその人のことが頭にあるかも知れない。マドムワゼッル・セリンヌ。
 ソルニエ ああ奥様、あの人は駄目です。あの人はさっき、首にしてもいいと思ったぐらいの女です。石炭を盗んだ者がいると、ここに告げ口しに来たんです。私は、こういう熱心さが一番嫌いなのです。
 マダム・ベリアール(笑って。)ああ、あれ、セリンヌだったの。姪がさっき、話してくれたわ。・・・でもあの人、あなたが思っているような人じゃないわ。昨日、中庭であの人、係長のことを話して、自分がなりたいと、私に、頼むようにして言ったの。あの人、もう、五年もここにいて、夫が死んだ時には、本当に献身的にやってくれたわ。で、私、あの人に約束してしまったの。(間。)そう、だからだわ、その告げ口も。きっともう、自分が係長になったつもりで、監督の義務を果す力があるところを見せたかったのよ。私、あなたがあの人を叱ったのは知っています。きっとあの人も、自分の誤りに気づいたでしょう。係長にしてやりましょう。いいでしょう?
 ソルニエ いいえ、奥様。それはお止め下さい。ここの係長は監督ではないのです。他のどの職工よりも経験豊かで技術のある人、がなる地位なのです。自分のチームを引っ張って行く、つまり主導権を持てる人でなければなりません。マドゥムワゼッル・セリンヌが外見にも拘らず素敵な人物であることは認めても、あの人は決して有能な職工とは言えません。それに、その心持ちが私には気に入らないのです。
 マダム・ベリアール そう! 
 ソルニエ(我を忘れて。つい。)工場で、馬鹿に権力を与えることぐらい危険なことはありません。
(間。)
 マダム・ベリアール(ふくれて。)いいわ。じゃ、私、あの人との約束を取消します。(立上がる。)あなたは私に、出来るだけ度々会って話したいと言いますけど、それは本当は、私の意見を聞きたいせいじゃないのね。あなたって、譲歩は、これっぽっちもしたくない人。たとえそうして下さると私が嬉しいと思う場合でも。
 ソルニエ(ハッとなって。)何故そんなことを私に・・・まさかお忘れではないでしょう。私は奥様に、喜んで戴くことしか考えていない男なんです。・・・今のお話は、あの職工の長所のことでした。その長所があるから、係長にと。それで私は、その長所の方に頭が行ってしまったのです。私に議論の余地を残した話をなさったからです。「そうして下さると私、嬉しいんですけど」とだけ言って下されば・・・ああ奥様、マドゥムワゼッル・セリンヌを私は、係長に任命します!
 マダム・ベリアール いいえ、そんな・・・
 ソルニエ いいえ、任命します。それから、私はあの人に対して、勿論意地悪な気持など決して持ちません。私が工場で行うどんな小さなことでも、奥様のためにと思えるからこそ、興味が持てるのです。そうでなくて、どうして私が興味が持てましょう。
 マダム・ベリアール どうぞ、そんな話はなさらないで!
(マダム・ベリアール、扉の方へ行きかける。)
 ソルニエ どうか、まだいて下さい、奥様。もう少しお聞き下さい! さっき奥様は、私が必要なのは、奥様の意見ではないと仰いました。そうです、その通りです! 私が必要なのは、奥様にいて戴くことです。最近では、奥様は全くここにいらっしゃらなくなりました。殆ど、全く! 私は奥様にお会いするためにしか生きていないのです。それは奥様、ご存知です。(マダム・ベリアール、そんな話は止めるようにとの仕草。)毎朝私はここに、はかない希望を抱いてやって来ます。そしてそれが、その度に裏切られる。つれない人だ!
 マダム・ベリアール それは・・・私に出来ないこと・・・してはいけない事だから・・・
 ソルニエ ええ、私にも分っています。この二年間喪に服していらっしゃる奥様の心。そんな時に、私の感情など、じっと抑えておくべきだと。でもこんなことを言って何になるか・・・奥様はとうに私の感情はご存知だ。私をペスト患者のように避け、私からお逃げになる理由、それは、その私の感情のことが頭から離れないせいなのでしょう。
 マダム・ベリアール(柔らかに。)それは違います。
 ソルニエ ああ、私が生きて行くのに、どれだけ奥様の力が必要か、それを分って下さったら・・・ここに時々いらして、坐って、本を読んだり、編物をしたり・・・それだけでいいのです。最初の頃はして下さっていました。奥様が一人でいらっしゃるのがお厭な頃。私に話しかけて欲しいとは言いません。私の他に誰かもう一人、必ずいるようにします。タイピスト、会計係、姪御さん・・・そうだ! 姪御さんがいつもあなたと私の間にいるようにすればいいんです! 姪御さんは私のやることを逐一(ちくいち)奥様に報告するようですね。奥様が聞きたいと仰るのでしょう。現に先程も・・・
 マダム・ベリアール そんなことはありません! マドゥレーヌがここに来るのは、この工場が気に入っているからです。あの子自身の意志です。あの子があなたのことを私に話すのも、単にあの子がそれを面白いと思っているからです。私があの子に訊(たづ)ねたことはありません。
 ソルニエ(苦い気持。)ああ、奥様はお訊ねにならない・・・
 マダム・ベリアール(体勢を立て直して。)いつも訊くわけではない、という意味です。マドゥレーヌはあの子が自分で面白いと思った話を私にしてくれる、と言いましたが、それは例えば、さっきの石炭泥棒の時のように、あなたのことを感心して、それを褒めたいと思って、私に話すのです。・・・あなたのお相手を私にして欲しいという話ですけど、私がそれを止めたのは、私がいることによってあなたの慰めにはちっともならないからです。それどころか、私がいると、酷いことになると気づいたからです。
 ソルニエ 酷いこと・・・何ですか、それは。
 マダム・ベリアール ソルニエさん、あなたは・・・どう言って説明したらよいか・・・あなたは、ご自分の気持を隠して相手に見せないようにすること、がお出来にならない。どんな感情であれ、それを正直に外に出してしまう質(たち)なのです。
 ソルニエ(抗議して。)私が・・・ですか?
 マダム・ベリアール 少なくとも、自分の感情を抑えることが出来ない・・・少なくとも、そういう時があるのです。私がここに来ます、話相手が欲しいと思って。いや、時々はただ、暖まりに。私のストーブよりここのストーブの方が暖かいですからね。暫くするとあなたは、もう普段のあなたではなくなってしまう。どこか上の空になり、何か緊張してしまう。そして、周囲の人は必ずそれに気づいてしまうのです。そして、その原因まで分ってしまう。私には・・・勿論、居合わせている誰の目にも・・・明らかなのですが、あなたは私だけに気を取られている。お分りでしょう? そうなると私、いてもたってもいられなくなるのです。私、あなたに対しても気の毒だと思うのです。だって、あなたが不幸なことは目に見えているんですから。
(ソルニエ、机に倒れ込む。両手で顔を覆う。)
 ソルニエ(間の後。)少なくとも、奥様がいて下さる時、私のその苦しみは美しいのです。私はその苦しみを誇りに思い、それに酔っているのです。(間。)それを御覧になるのがそんなにお厭なのでしたら、何故私が「愛しています」と言った時、ここを出るようにと仰らなかったのです。何故私が出て行くことをお引留めになったのです。
 マダム・ベリアール(ちょっと考えた後。)あなたのその言葉で本当に驚いてしまったから。ええ、心を打たれたから、とも言えるでしょう。とにかく、その言葉で、私、困るようなことは全くありませんでした。正直に言いますと、そんなに深刻なものとも思っていなかったのです。あなたがここでの良い地位を捨てる・・・それも、あなた御自身がしたこともない、そして将来にもする筈のない悪い事、を償(つぐな)うために、ここでの地位を捨てるなんて馬鹿なこと、いいえ、不当なことと思ったのですわ。
 ソルニエ 私がここに留まることで、私自身に与えられる苦痛のことはお考えにならなかったのですか?
 マダム・ベリアール(あっさりと。)ええ、思ってもみませんでした。『私を愛してはいけません』と私が言うだけで、もうあなたは私を愛さないだろう、この一言(ひとこと)で充分だ、という気がしていました。私、今でもあなたは段々そのことについて考えなくなっているのではないかと思っていますわ。一人だけでは感情は成長するものではありません。愛というものは(必ず相手が・・・)
(マダム・ベリアール、そっと肩をすくめる。)
 ソルニエ ひと事のような話し方ですね。
(間。)
 マダム・ベリアール とにかく私は、あなたが出て行くのが私のせいであるのは厭でした。それに夫には、特にその理由を知られたくありませんでした。でも、出て行くとあなたが夫に言えば、理由を知らない夫は必ず引き止めようとするでしょうし、するとその、あなたの正直な性格です、きっと本当の話を夫にもしてしまうでしょう・・・
 ソルニエ 奥様は私を愛してはいらっしゃらないのですから、私の気持がどうであろうと、それは旦那様には何の関係もないのではありませんか?
 マダム・ベリアール(少し困って。)夫はあなたを手放すことになったでしょう。その頃もう、あの人は病気になっていて、あなたの助力がどうしても必要だったのです。(勝手な言い分だと気づき、別の角度から。)あの人、あなたにとても親しみを感じていましたし。
(間。)
 ソルニエ ああ、私は理由を言わず、さっさと出て行けばよかったんだ! その勇気がなかった。
 マダム・ベリアール それをそんなに後悔して?
 ソルニエ(深い恨みを込めて。)いや、私は後悔などしていない! ああ、どんなに愛というものは粗末な栄養で満足できるものか、私は厭という程知らされてきた。それを恥づかしいとさえ思ったこともある。奥様の無関心をどれだけ見せられてきたか。奥様との間にどれだけの障害物を拵えられたことか。それもまづ第一に、奥様ご自身の手で。これから先だって、私を受入れて下さる可能性など全くない、それははっきりしている。私はあの時逃げ出すべきだったんだ。それからだって、逃げ出すべきだった。(声を高めて。)いや、私は後悔などするものか! 私は幸せなんだ。奥様のために動いているあの機械、それに私は縛りつけられている。しかしあれは、奥様のために動いているんだ! 私はここに留まる! 私にはどうしてもここに留まっていなければならない理由がある。それにしがみつくんだ。そしてその理由は、奥様が私を手放したくない理由と全く同じものなんだ! 私にはこの会社を支えて行く義務があるんだ!
 マダム・ベリアール(身震いして。)ああ、今のあなたの言葉・・・酷いわ。
 ソルニエ(皮肉に。)ええ、お許しを願います。全く同じ理由と言いましたが、すっかり同じではありませんでした。奥様の方の理由は、旦那様のベリアール氏が私を必要としたから、でした。もっともな話です、それは。実に。
 マダム・ベリアール(泣きそうになって。)何て酷いことを! あなたに対して抱いている私の感謝の気持を踏みにじるような・・・そんな・・・
(マダム・ベリアール、涙を拭く。)
 ソルニエ(突然後悔して。)そうだ・・・私は気づいていなかった・・・ご免なさい! 奥様を怒らせることばかり言ってしまった。惨(みじ)めな男です、私は。でも奥様、奥様がどれほど私に対して厳しかったか、それはお分りの筈です・・・私がここに縛りつけられていることをちゃんとご存知で、それで・・・
 マダム・ベリアール(苛々と。)縛りつけられて! 私、さっきも言いましたけれど、あなたのお陰で夫の死後も、工場は従前通り立派に動いています。それは本当に幸せなことです。事はこのように運よく運んでくれたのです。それとも、もっと違う方向に事が進めばよかったとあなたのために後悔すべきなのでしょうか。確かに今のあなたのお話を聞いて、どんな大きな犠牲を払って下さったかが分ります。そして、あなたに対してすまない気持がいっぱいなのです・・・
 ソルニエ いえ、奥様、私は・・・
 マダム・ベリアール(遮って。)だって、この工場に縛りつけられていたことを残念に思っているんでしょう?
 ソルニエ ああ、ちっとも分って下さっていないんですね? 私は残念だなどと思っていません。
 マダム・ベリアール(前の台詞に続けて。)でも、これだけははっきり申上げておきますわ。無理強いにあなたをここに縛りつけているのは私ではありません。そして私はそれをあなたに、頼んでもいませんわ。
 ソルニエ 何ですって? 私にそれを頼んでいない・・・(その言葉の意味が分ったというように。)ああ、そうだったのか!(感情を込めて。)何ていう無遠慮な、何ていう厚かましい男だったんだ、この私は。もうお邪魔は致しません。私は卑怯者だ。この立場で私がやらなければならないこと、それは沈黙するか、出て行くか、どっちかだ。奥様、私は出ます。出て行きます。
(ソルニエ、パッと自分の外套と帽子を掴む。)
 マダム・ベリアール(唖然として。)何をなさるんです、あなた。
 ソルニエ 後任はご心配なく。難しいことではありません。私も協力します。
 マダム・ベリアール(ソルニエの方に一歩進み。)気でも狂ったの?
 ソルニエ ではこれで、奥様!
(ソルニエ、素早く退場。扉を閉める。)
 マダム・ベリアール(一瞬呆れて、不動の姿勢。そして。)私、何を言ったんだろう。(扉に駆け寄る。開け、外を見る。戻って来る。左手の扉に駆け寄り、開ける。)ルイーズ! マドゥレーヌ! (間。)マドゥレーヌ!
(間。左手の扉を閉め、奥の扉に駆け寄り、開け、半開きの状態で、また部屋の中央に戻る。その時デゾルモ、奥の扉を押し、登場。)

     第 九 場
 マダム・ベリアール ああ、デゾルモさん。よかった・・・
 デゾルモ 今日は、奥様。御機嫌如何? でも、どうしたんです?
 マダム・ベリアール 私、とても大事なことをお願いしたいんです。ソルニエを追いかけて。あの人、ここを出て行ったの。
 デゾルモ ついさっき出逢いましたよ。でも、どうしたんです? 気も動転しているって顔ですよ、それは。
 マダム・ベリアール 何でもないの・・・言い合い。あの人、すぐ怒るの。知ってるでしょう?
 デゾルモ あなたに? あいつが?(冗談の口調を含んで。)女神様に怒るかな? あいつ。
 マダム・ベリアール お黙りなさい! それも関係あるの。早く、早く! お願い!
(マダム・ベリアール、デゾルモを押す。デゾルモ退場。その時マドゥレーヌ、左手の扉から登場。)

     第 十 場
 マドゥレーヌ 今出て行ったの、デゾルモさんでしょう? お昼の用意が出来ているのに・・・
 マダム・ベリアール 大丈夫、すぐ戻ります。
 マドゥレーヌ 叔母さま、今私を呼ばなかった?
 マダム・ベリアール ええ、呼んだわ。ソルニエさんとちょっと言い争いをやったの。あの人怒った。私が厭なことを言ったの。それで今出て行った。何て人でしょう!
 マドゥレーヌ まあ!
 マダム・ベリアール あなたを呼んだのは、あの人を追っかけて貰おうと思って。だって馬鹿げているでしょう? でも今、デゾルモさんが追いかけてくれている。
 マドゥレーヌ 何のことで? 言い争いって。
 マダム・ベリアール 何でもないの・・・職工の・・・そう、マドゥムワゼッル・セリンヌのこと。あなた、分るわね? 私、あの人を係長にしたいって言ったの。
 マドゥレーヌ あの人を? ええ、分る。でも叔母さま、どうしてそんなことを・・・
 マダム・ベリアール ええ、そんな話・・・さ、あなたは上って。デゾルモさんは終ったらそちらに行かせます。
(マドゥレーヌ、左手から退場。奥の扉が開き、デゾルモとソルニエ登場。)
 デゾルモ(ソルニエに。)お先にどうぞ、ソルニエさん。あなたに用事があるんですから。
 ソルニエ 奥様、こんなことをしても、何の・・・
 マダム・ベリアール(デゾルモに。)有難う、デゾルモさん。二階へどうぞ。マドゥレーヌが待ってます。
(マダム・ベリアール、デゾルモを左手の奥へ導く。デゾルモ、ソルニエに軽く会釈をして退場。マダム・ベリアール、扉を閉める。)

     第 十 一 場
 マダム・ベリアール(ソルニエの方に進む。ソルニエ、机の傍で動かず、暗い顔をしている。)私・・・私、食事が終ったらあなたきっと戻って来て下さるとは思ったのです。でも、デゾルモさんに頼んで連れ戻して貰ったのは、私、さっき言ったことをすぐに取り消したくて・・・
 ソルニエ 奥様、私はここを出た方がいいのです。
 マダム・ベリアール(ハッとして。)出るだなんて! あなたは私のことを誤解しているの。私の言い方が悪かったせいかも知れないし、とにかくさっきのあの議論、あれは・・・
 ソルニエ(遮って。)あれで良かったんです、私にも。あれで私も出て行くことが出来ます。私に、出て行く勇気を与えてくれたんですから。
 マダム・ベリアール そんな!
 ソルニエ この工場の経営については、何の心配もいりません。こういう事態をいろいろ考えたことはあるのです。
 マダム・ベリアール 私、あなたが出て行きたいと思う程酷いことを言ったのかしら。
 ソルニエ 奥様のせいではありません、それは。
 マダム・ベリアール 私を許して! どうか! 私、何を言ったか分りません。でもどうかそれは忘れて。私があなたに友情を、愛情を、もっていること、それをあなたが感じていない筈はありませんわ。私、たった今、あなたがあんな風に出て行ったのを見て、私があなたに対して抱いていた気持がどんなに深いものだったか、思い知らされましたわ。
 ソルニエ(非常に心を打たれて。)奥様・・・その言葉を・・・私に! どうして私にさっき奥様に言ったような言葉が言えましょう、もし今の言葉が・・・
 マダム・ベリアール あなたが怒りっぽい人なのは分っていたのです。ですからさっき、私も腹を立ててはいけなかった・・・あんなことを言ってしまって・・・
 ソルニエ 私の方こそ、何て恥づかしい!
 マダム・ベリアール(ソルニエの両手を取って。)あなた、不幸なのね! そんなに不幸だったなんて、私、全く気がついていなかった。でももう、決して、決してそんな目に逢わせはしません。ここに留まって! どうか。私からお願いします!
 ソルニエ もう私を追い出すようなことは・・・
 マダム・ベリアール ええ、決して! 私のことを意地の悪い女だと思わないで・・・
 ソルニエ(熱を込めて。)奥様だけを私は愛しているのです。私にとって世界中奥様しかいないのです! 九年前ここに初めて来た時からそうなんです。化学専攻の青二才、奥様が名前も覚えて下さらなかった・・・覚えていらっしゃいますか?・・・あの時から。
 マダム・ベリアール(心を打たれて。)何ですって? この工場に来た時から?
 ソルニエ そうです。それからここに居残ったのも、奥様がいらっしゃればこそです。最初の予定では、ヨーロッパ中を卒業証書を強みに、渡り歩こうと思っていたんです。いろんな國を、工場を、研究所を、あっちで一年、こっちで一年と、見て、知って、選ぼうと思っていたんです。専門を磨き、基礎を築いて将来に備える! しかし、偶然が私を最初にこの工場を選ばせました。予定はそっちのけ、私はここに留まりました。奥様のせいです、ええ。そして、この仕事をこんなに隅から隅まで学び、こんなに熱心に、こんなに脇目もふらず精進したのは、奥様のためにつくすこと以外に私は、なすべきことを知らなかったからなのです。
 マダム・ベリアール まあ、ソルニエさん! でもあなた、私のことは何一つご存知なかった筈ですわ。
 ソルニエ 遠くから奥様を見ていました。奥様のことしか頭になかったのです。
 マダム・ベリアール でも、私の何をご存知だったの?
 ソルニエ 私が愛している人、ということを。ああ、私が今この地位についているそのことも、どうしても奥様に近づきたいという一心で、なのです。私を一目でもいい、見て欲しいという気違いじみた望みのためだったのです。奥様がいなかったとしたら、私はこの工場を切り盛りする立場にはなかったでしょう。
 マダム・ベリアール(驚き、抗議する調子で。)ええ、でも・・・(私を全然知らないで・・・)
 ソルニエ いいえ! 奥様だけのためです。その結果が、喜びで終ろうとも、絶望で終ろうとも。
 マダム・ベリアール ソルニエさん、それはどうしても、喜びで終るようにしなければ。
 ソルニエ もしそう仰って下さるなら、私に少しでも愛情をもって・・・
 マダム・ベリアール ええ、そう。
 ソルニエ(咳き込むように。)愛してもよいと、どうぞ仰って下さい。どうか奥様のお姿を見させて! 私の心をただただ拒絶するのではなく、どうか知ってやろうというお気持に・・・
 マダム・ベリアール もう何も言わないで! ええ、ええ・・・仰る通りに。(ソルニエ、マダム・ベリアールの両手を取り、キスする。恍惚の表情。マダム・ベリアール、扉の方を心配そうに見る。)放して、もう・・・顔を、顔を明るくして・・・(マダム・ベリアール、左手の扉の方に後ずさりする。ソルニエ、両手を取ったまま、従う。マダム・ベリアール、ゆっくりと両手を引離す。)ねえあなた、必ずお分り下さるわ。決してもう不幸にはさせません! 約束します。(マダム・ベリアール、仕草でついて来るのをとめ、自分は扉にまで行く。)じゃ、また。今はこれで。後ほど。
(マダム・ベリアール、左手から退場。ソルニエ、動かない。目は閉められた左手の扉にじっとそそがれている。)
                   (幕)

     第 二 幕
(マダム・ベリアールの応接間。奥に窓。二重のカーテン。本棚。右手にルイ・フィリップ調の長椅子。書き物机、前面に扉。左手隅にピアノ、暖炉、扉、ソファ、楽譜のための仕切り棚。前面少し左手に、小型円卓。その上にコーヒーの準備がされている。)

     第 一 場
(幕が開くと、マダム・ベリアールとデゾルモがピアノとフルートのソナタを演奏している。もう少しで終るところ。弾き方、吹き方は、少し個人の趣味に合わせ過ぎている。マドゥレーヌは、マダム・ベリアールの右手にいて楽譜をめくる役。デゾルモは左手。楽譜立ての前、観客に背を向けている。ソルニエ、右手のソファに坐り、コーヒーを少しづつすすって、演奏を聞いている。)
 ソルニエ(弾き終るのを待って、慎み深く。)ブラーヴォ!
(ソルニエ、立上がり、空のコーヒーカップを円卓に置く。)
 デゾルモ(フルートをピアノの上に置いて。)どうだったかな? ポリーヌ。初見(しょけん)にしてはなかなかのものだろう?
 マダム・ベリアール(立上がりながら。)ええ、良かったわ。
 デゾルモ(ソルニエに。)ねえ君、これはね、見かけほど易しくないんだぜ。
 マドゥレーヌ(ソルニエに。)このソナタ、いいわ。ね? ソルニエさん。お気に召して?
 ソルニエ ええ、大変。
 デゾルモ(マドゥレーヌに。)これでもう「ブーローニュから帰ったらちっとも音楽がなっくて」なんて言わせませんぞ。
 マドゥレーヌ 音楽・・・帰ってみたらなかったわ。一昨日に、もういらっしゃってなきゃいけなかったのよ。
 デゾルモ 今度ブーローニュからお帰りの際は、駅までフルートを持ってお出迎えしなきゃ!
 マダム・ベリアール(楽譜を仕舞い終って。)私達のコーヒー、すっかり冷めちゃったわ!
(マダム・ベリアール、コーヒーを注ぎ始める。)
 デゾルモ そう、我々のコーヒーがね。
 ソルニエ(マダム・ベリアールに。)奥様、私は事務所へ・・・
 マダム・ベリアール コーヒーを淹(い)れましたわ、どうぞ。砂糖は一個だけ。
 ソルニエ でも、もう戴きましたから、音楽を聞きながら。マドゥムワゼッル・マドゥレーヌが淹れてくれました。
 マダム・ベリアール あら、そう。もう一杯如何?
 ソルニエ(遠慮して。)いいえ、私はもう・・・(前面右手の扉の方に進む。マダム・ベリアール、ソルニエを導く。ソルニエ、マダム・ベリアールに、小声で。)もう少ししたら、上っていいですか?
 マダム・ベリアール(同じく小声で。)ええ、どうぞ・・・
 ソルニエ デゾルモが出て行くのが見えたら、上っても?
 マダム・ベリアール ええ・・・
 ソルニエ 二人だけになれるよう・・・
 マダム・ベリアール(聞えないかと心配しながら。)ええ・・・黙って・・・(大きな声で。)じゃ、また!
 マドゥレーヌ(この時までデゾルモと話していたが。)ソルニエさん、待って。私のショール!
 ソルニエ ああ、失礼、マドゥムワゼッル、忘れていました!
 マドゥレーヌ(椅子から白いショールを取り、それを持って。)これ。
 ソルニエ じゃ、エルヴェティエ風の茶色に染めるんですね?
 マドゥレーヌ 出来ればもっと赤い方に。ボルドー風赤。
 マダム・ベリアール マホガニー風の赤!
 マドゥレーヌ 駄目よ叔母さま、ボルドー。
 デゾルモ(からかって。)イクラの赤!
 ソルニエ(マドゥレーヌに。)染めるの、見たいですか? 一緒に見ていて下されば楽です。
 マドゥレーヌ 今すぐ?
 ソルニエ エー・・・ええ、よろしければ、すぐ。
 マドゥレーヌ お邪魔じゃないかしら? ソルニエさん。
 ソルニエ いいえ、全然。
 マドゥレーヌ じゃ、私、行くわ、叔母さま。
 マダム・ベリアール 行ってらっしゃい、マドゥロン。
(ソルニエ、マドゥレーヌを通すため、脇に寄る。)
 マドゥレーヌ 失礼。
(二人、右手から退場。)

     第 二 場
 デゾルモ(葉巻に火をつけながら。)ねえ、ポーリンヌ、ソルニエの奴、随分変った。社交的になったよ! 君にもう、恋していないのかな?
 マダム・ベリアール(困って。)そんな話、止めて頂戴。
 デゾルモ 二人だけだよ、今は。
 マダム・ベリアール あなたはこの話題はしない・・・それが約束でしょう?
 デゾルモ つれないですね。やっぱり女だ。そういうことを言い始めるということは、もう僕が楯(たて)の役目をする必要はなくなったということかな? でも、思い出して欲しいな、あなたがこの秘密を僕に打明けた時、僕の方は遊び事じゃなかったんですからね。
 マダム・ベリアール でも結局は遊び事扱い。
 デゾルモ まあ僕にかかっては、大抵が遊び事ですからね。
 マダム・ベリアール しまいにはマドゥレーヌの前でも、今のことで冗談を言うようになるわ、酷いことに。
 デゾルモ それはありませんよ、決して! 僕の行動でそんな間違いが今までにありましたか? フルートの腕も含めて。それに、マドゥレーヌ自身だって、ソルニエのあなたへの感情は、何か怪しいと感じているんじゃありませんか?
 マダム・ベリアール いいえ、それはないの! ソルニエの感情! あなた、あの人の私への感情が誰にでも筒抜けだと思っているようですけど、あなたに私が話したから分ったんでしょう? あなた自身では分りっこなかった筈よ。
 デゾルモ さあ、どうだったかな。いや、確かに何かはあったよ、何かは。それを示すものが。
 マダム・ベリアール 今じゃそんなもの、影も見えない筈よ。あの人、私の前で、全く普通でしょう? もうちっとも勿体振ってはいないし、ぎくしゃくもしない。昔はいつだって愛想よくしていたけど、今ではそんなこともないわ。最近ではマドゥレーヌの方に近づいているように見えるわ。
 デゾルモ おやおや!
 マダム・ベリアール 変な意味じゃないのよ。仕事の協力者として、あの子を認めてきたの。それも当然。あの子の方が私よりずっと仕事のことに興味をもっていて、実際助けになっていますからね。私の代りよ。
 デゾルモ するとあなたは、我々の考えを捨ててはいないということだ。
 マダム・ベリアール 我々の考え?
 デゾルモ ほら、よく話したでしょう? 「マドゥレーヌ・ソルニエ」ですよ。
 マダム・ベリアール ああ・・・そうね・・・(溜息をついて。)勿論そうなってくれたら一番なのに・・・
 デゾルモ 「一番なのに」なんて、最初から諦めることはないでしょう。そうなって欲しい、と言わなくちゃ。何か諦めなきゃならないことでも生じたんですか? あれから。
 マダム・ベリアール いいえ・・・ただ・・・(ちょっと肩をすくめる。)
 デゾルモ ソルニエが誰かさんを好いているという話は、あの子の前では禁物。そしてあなたはしきりにあの子を仕事の方に興味を向けたがっている。この二つのことを考えると、あなたに下心があるように思えるけどね。どう?
 マダム・ベリアール それは勿論・・・今まで・・・いえ、今でも私「マドゥレーヌ・ソルニエ」の考えに近づくように出来る限りやっている。でもこれは、ただの気休め。とても成功の見込みはない・・・(溜息をついて。)高々将来そうなれば、ぐらいの希望。
 デゾルモ 賛成だ! 時間がかかる! しかし、もしソルニエの、あなたへの病気が治れば! そしてもし彼が気がつけば・・・いや、気がつくに決っている・・・マドゥレーヌの素晴しいところに・・・そしてもし、将来のことを考えるようになれば・・・もう彼だってそんなに若いわけじゃないんだから・・・
 マダム・ベリアール あなた、あの子、結婚出来ると思って?
 デゾルモ 誰だって結婚出来ますよ、この私だってね!
 マダム・ベリアール あの子、本当に色気なしなんですもの!
 デゾルモ あの子は親切だ、それに一見ぶきっちょだけど、なかなかどうして、熱情的だよ。
 マダム・ベリアール マドゥロンが・・・熱情的?
 デゾルモ そうだよ・・・ソルニエと同じだ。あの子が何かする時の、あの熱の入れよう。それに、感じ易い子だよ。自分の意見、感情を言う時のあの子・・・そう、あの子は、好きか、嫌いか、どっちかだ。(中途半端に放ってはおかない。)好きだと思った物は徹底的に好く。工場、職工達、メゾンじいさん。それに雀、猫、に餌をやる。ソルニエのことを好きになるさ。いや、もう自分では気づいてないが、好きなのかもしれない。
 マダム・ベリアール(物思わしげに。)いいえ、あの子はあの人を尊敬しているの。崇めていると言ってもいいくらい。
 デゾルモ ほら御覧! その顔じゃ、君が(好かれていないので)悲しんでいると思われちゃうぞ。
 マダム・ベリアール いいえ。でもあの人、そんな気、全くない・・・それに、マドゥレーヌに恋の話なんかしたら、あの子、びっくりしてしまう、きっと。
 デゾルモ どうして分る。
 マダム・ベリアール そんな気がするの。私、自分のことを振返ってみて分るの。愛とか、恋なんてなくて、とても好きっていう感情を人は持つことが出来るのよ。私、夫を愛していた、それにちゃんと。父親を愛する時のような気持。でも私、あの苦しみ、あの、とんでもない、気違いじみた気持、あれは感じたことがないの・・・
 デゾルモ(コニャックを注ぎながら。)僕もだ! 幸いなことに。その愛の対象になるのも、僕はご免だ。全く恐ろしい立場だ、これも。相手の脈拍がこちら次第で多くなったり少なくなったり。それもこっちの気持とは何の関係もなしにだ。残酷だと非難された上に、次には解毒剤の役割を果たすはめになる。いやはや。
 マダム・ベリアール(微笑んで。)相手の病気が治るのなら、解毒剤もいいじゃない?
 デゾルモ 病気を治す! とんでもない。解毒剤のつもりでいたら、却って相手の病気を重くしていたってことになる。一度あるんだ。もう二十年も前になるかな・・・可愛い子だった。どうしても病気が治らない。到頭無分別とエゴイズムを押し通して、僕のために自殺まで図(はか)ったんだ。その子にあらゆる手を尽くして説得したよ。僕の方が君の犠牲になっているんだってね。
 マダム・ベリアール あなた自身は病気にかかりたいと思ったことはないの? それに、少しぐらいかかったことも?
 デゾルモ そうね・・・まあ、少し具合が悪くなった・・・ぐらいかな・・・でも僕は、君のことは愛しているんだよ、ポーリンヌ。
 マダム・ベリアール 昔昔、大昔にね。
 デゾルモ(笑う。)あのソルニエ氏、君と一緒になってたりしたら、それはそれは不幸になってたよ。
 マダム・ベリアール(呆気にとられて。)どうして?
 デゾルモ 合わないね、この二人は。境遇の違いを除いてもね。だいたい性格がまるで正反対だ。それに、もっと悪いことに、その折り合いのつけようがない。
 マダム・ベリアール(しっかりと正面を向いたまま。)ええ。
 デゾルモ しかし、例えばこの僕。この僕はあなたにうってつけだ。いやいや、冗談で言ってるんじゃない。あなたも僕も、いたって平和な人間だ。かっとならない質(たち)。あなたに心惹(ひ)かれてはいても、激烈で盲目な本能には左右されない。しっかりと、落着いた愛情が底にあるだけだ。
 マダム・ベリアール お互い様・・・の影響もあるでしょう?
 デゾルモ それは分ってる。僕があなたを見る。ああ、美人だな、と・・・
 マダム・ベリアール(遮って。)デゾルモ!
 デゾルモ(取消さない。)僕があなたを見る。ああ美人だな、と思う。しかしそれで、気が顛倒(てんとう)するようなことはない。僕はあなたを眺めているのが楽しいんだ。そして葉巻を吸いながら、この美しさは一体どうして成立しているのか、分析することが出来る。こういう類(たぐい)の鑑賞は、あなた以外の女性だと、ちょっと物足りないという不満も出てくる可能性がある。でも、どう? あなたは大丈夫でしょう?
 マダム・ベリアール ええ、ええ、大丈夫。
 デゾルモ 好ましい好かれ方?
 マダム・ベリアール 多分。
 デゾルモ 多分じゃない。その通り。ところが、ソルニエ流の鑑賞は、あなたを当惑させる。それも、酷く。
 マダム・ベリアール またソルニエ! ソルニエは出さないの、話に。
 デゾルモ じゃ、続ける。ね、ポーリンヌ、僕らは同じ好みを持っている。音楽・・・
 マダム・ベリアール(半分冗談に。)美味しいコーヒー!
 デゾルモ 美味しいコーヒー。こってりした昼食。その他いろいろ。芝居を見て酷いと思うところが同じ。焼肉をこげつかせても、コックに雷を落すようなことはしない。汽車に乗り遅れてもにっこり笑っていられる。それに、共通の思い出がある、いろいろと。
 マダム・ベリアール(真面目に。)ええ、ええ、本当!
(間。)
 デゾルモ 今日は僕、普通より深入りすることにして、ちょっと告白させて貰う。ねえポーリンヌ、僕はね、あなたがいつか、僕の奥さんになってくれないかと思ってるんだ。
 マダム・ベリアール まあ! お黙りなさい!
 デゾルモ 正直に言って(くれない?)。あなた、そのこと、考えたこと、ない?
 マダム・ベリアール(心配そうに。)いいえ。私達、このままで本当にいいんじゃない。結婚すると何かもっと、よくなるの?
 デゾルモ おやおや。しかしまあ、あなたって、驚いた人だ!
 マダム・ベリアール(困って。)私、駄目。私、再婚はしたくない。
 デゾルモ 勿論せかすようなことはしませんよ、僕は。僕があなたの手を求める時、それは、そういう時期になった時のことです。あなたが驚きも、不快感も持たなくなった時。今日はとにかく、僕の申出が真面目なものであると受け止めて下さればいいんです。今という時がどうしても二人の結婚には無理というのであれば・・・
 マダム・ベリアール まあ、何て考え! 
 デゾルモ そういう答になるでしょうね・・・でもあなたはお若い。ずっと一人ではいられない。また、ずっと一人ではいけません。それに、他に求婚者が現れたとき、その邪魔にはなりたくないし・・・
 マダム・ベリアール いいえ、邪魔をして下さらなければ!
 デゾルモ いつもそう仰るとは限りませんからね。それから、マドゥレーヌがマダム・ソルニエになった暁には・・・
 マダム・ベリアール ああ、そのお話は駄目!
 デゾルモ そうですね。このあたりがひき時のようです。
(デゾルモ、立上がる。)
 マダム・ベリアール いいえ、まだいらして。でも、他のお話をしましょう。それともあのソナタ、もう一度?
 デゾルモ いいえ、あなたのせいじゃないんです。僕に用があるんです、町に。
(マドゥレーヌ登場。)

     第 三 場
 マドゥレーヌ 出来たわ! 私のショール、染めあがったの。
 マダム・ベリアール 思った通りに?
 マドゥレーヌ 思ってたよりももっといい出来。ちょっと暗い赤。素敵よ。今、研究所。定着液に漬けてある。他に染めるものがあればよかったのに。バケツ一杯、素敵な赤。全部流しちゃった。
 デゾルモ(冗談に。)知ってたら僕のネクタイを・・・
 マドゥレーヌ もうお発ち?
 デゾルモ ええ、もう行かないと。
 マダム・ベリアール(デゾルモに。)町には、歩いていらっしゃるの?
 デゾルモ(腕時計を見て。)ええ、足で間に合います。
 マダム・ベリアール じゃ、ちょっと待って。私、一緒に行きます。ちょっと用事があるの。ご一緒します。
 デゾルモ それは嬉しい。じゃ、急いで。
 マダム・ベリアール 帽子だけですから・・・
(マダム・ベリアール、左手に退場。)
 デゾルモ(マドゥレーヌに。)パリ帰りの気分はどう? マドゥレーヌ。ベリアール染物工場も、それほど悪くはないでしょう?
 マドゥレーヌ ええ、悪いどころか、快適!
 デゾルモ それに、一週間前には皆が言ってたけど、もうあれは言わないな。「もしお嬢さんがいたら、こんなことにはならなかったな。これはお嬢さんがやっていた仕事だわ。お嬢さんだったらどんな風に決めてたかしら。お嬢さんがああ言ってたの、何時だったかしら。どうしてお嬢さん、ああなさったんだっけ? 何時お嬢さん、お帰りなの?」
 マドゥレーヌ いつお止めになるの? そのおからかい。
 デゾルモ(真面目に。)からかってなんかいませんよ。誰もみんな寂しがってましたよ。ソルニエ氏を初めとして。
 マドゥレーヌ 嘘ばっかり!・・・あの人、寂しいって?
 デゾルモ そうですよ。私にそう言ったんですから。(マダム・ベリアール、手袋にボタンを留めながら登場。そのマダム・ベリアールに。)用意は出来ました? ポーリンヌ。
 マダム・ベリアール(急ぎながら。)ええ。ああ、マドゥロン。孤児院から、もうすぐ人がやって来るわ。お古のエプロン、ナプキンなど、取りにね。ルイーズが選んで籠に入れてくれたから、あなたちょっと見てね。あまり使い古しは駄目だから。(コーヒーの盆などを片づけにやって来たルイーズに。)ルイーズ、あの籠の中のもの、マドゥレーヌに見せてね。
 ルイーズ はい、畏まりました、奥様。
(ルイーズ退場。)
 デゾルモ さようなら、マドゥレーヌ。
 マドゥレーヌ さようなら、デゾルモさん。
(二人、握手。)
 マダム・ベリアール(マドゥレーヌに。)すぐ戻って来ますからね。
(マダム・ベリアールとデゾルモ、退場。)

     第 四 場
(ルイーズ、籠を持って登場。籠の中に、ハンカチ、ナプキン、テーブルクロス、等が畳んで入っている。マドゥレーヌ、一つ一つ取上げ、拡げ、調べる。ルイーズが畳み直し、籠に入れる。)
 マドゥレーヌ 見て、このナプキン・・・駄目よ、これ。もうボロ切れ。これは家で雑巾にして使いましょう。
(間。)
 ルイーズ(ナプキンを拡げて。)奥様はこれ、寄付すると仰るんですけど。これはまだ新しいですわ。ほら、見て下さい!
 マドゥレーヌ そうね。でも、役に立たなくなってからじゃ、上げられないでしょう?・・・あら、このナプキン、穴が開いているわ。
 ルイーズ ご心配いりませんよ、お嬢様。孤児院の人が繕(つくろ)いますもの。
 マドゥレーヌ でも、ここに汚れが! もっと綺麗なのでなくちゃ!
 ルイーズ 汚れ? ああ、そう、これ、この間ソルニエさんがお昼を食べにいらした時お出ししたんですわ。
 マドゥレーヌ ルイーズ、あなた、ソルニエさんに穴の空いたナプキンをお出ししたの? まあ、ソルニエさん、何て思ったかしら!
 ルイーズ あの方、お気がつきっこありませんよ! ここでお昼が出来るだけでとても嬉しそうなんですもの。お仕事の時の顔とは全然違って、ニコニコ、ニコニコ。
(間。)
 マドゥレーヌ ええ、私、あの方にもう少し家庭の空気を吸って戴きたいと思ってるの。
 ルイーズ ええ、お嬢様。でもソルニエさん、最近だんだんと、こちらに慣れていらしたようですわ。先週の夜、お可愛そうに、たった一人、下の倉庫でお仕事でしたの。コーヒーをどうぞ、と、ここまでお誘いしたんですけど、遠慮なさって。それで奥様がコーヒーを持って倉庫まで降りていらっしゃいましたわ。それがこの間、ストーブの火が消えてしまって、どうぞ上へ、とお勧(すす)めしたら、仕事を終えなければと、やっとここへいらしたんです。それからは、その翌日、そして次からはずっとここにいらっしゃるようになりましたわ。
 マドゥレーヌ ああ、それはよかったわ。
 ルイーズ ええ、だんだんとお慣れに・・・あの工場長さん。
 マドゥレーヌ(布巾を調べ終わって。)これ全部、大きな布に包んでね、ルイーズ。もう少ししたら取りに来るわ。
 ルイーズ ええ、お嬢様。それから、ピンで留めておきます。
(ルイーズ退場。マドゥレーヌ、暫く一人。椅子などをきちんと並べる。右手の扉にノックの音。)
 マドゥレーヌ どうぞ!
(ソルニエ登場。手に、マドゥレーヌの、まだ湿っているショール。)

     第 五 場
 ソルニエ ショールをお持ちしました、お嬢さん。乾燥室から出してきたんです。
 マドゥレーヌ ああ、有難う、ソルニエさん。
 ソルニエ まだ乾いていないんですが、ここで干した方がいいと思いました。下の乾燥室は人の出入りが激しいので、何かあるといけませんから。
 マドゥレーヌ 有難うございます。火の傍にかけますわ。
(マドゥレーヌ、そのようにする。)
 ソルニエ ええ、それでいいでしょう。(扉の方に近づきながら。)奥様はいらっしゃらないんですか?
 マドゥレーヌ ええ、今ちょっと。出て行くの、見えませんでした?
 ソルニエ(がっかりして。)外出? ええ、見えませんでした。丁度メゾンぢいさんのところにいましたから・・・それからは乾燥室に。デゾルモさんは出て行ったとだけ、聞きましたけど。
 マドゥレーヌ 叔母も一緒でしたの。叔母に御用でした?
 ソルニエ いいえ・・・その、つまり、もしいらっしゃれば・・・
 マドゥレーヌ すぐ戻って来ます。ちょっとそこまで出かけただけなんです。
 ソルニエ(急に晴れ晴れとして。)ああ、そうだったんですか! 特別用があった訳じゃないんです。ショールを持って来るというのが主(しゅ)だったんですから。
 マドゥレーヌ ご親切に、どうも・・・
 ソルニエ(間の後。)叔母様には保険証書を見せて戴きたいと・・・あの古い・・・
 マドゥレーヌ ああ、あれは書き物机に入っていますわ。出しましょうか?
 ソルニエ(部屋を出ようとしながら。)いえいえ、急ぎではありませんから。また来ます・・・ただ・・・今「叔母さんはちょっとそこまで」と言いましたね?
 マドゥレーヌ ええ。
 ソルニエ(言訳が上手でない。)その・・・もし宜しかったら、ここで待っていていいでしょうか? 下では私、その・・・
 マドゥレーヌ(肘掛椅子を勧めながら。)どうぞ。
 ソルニエ 実は今、ここへ来る時、廊下からヴィダッルさんが来るのが見えたんです。あの人に捕まると大変ですからね。よく分っているんです。まあ二時間は逃げようと思っても無理ですから。
 マドゥレーヌ じゃ、私が行って何とかしましょうか?
 ソルニエ いえいえ、それはいけません。
 マドゥレーヌ でも、もし・・・
 ソルニエ いえ、いけません、お嬢さん。ここにいて下さい。叔母さんを待ちましょう。あなたが下に降りてしまったら・・・私がここにいる理由がなくなってしまう・・・つまり、あなたが下に行って私一人がここに残るのは許されないことなのです。
 マドゥレーヌ(びっくりして。)許されない・・・どうして?
 ソルニエ(坐って。)私がここに来るのが好きなのはご存知ですね? この部屋は私に、懐かしい気持を与えてくれるのです。ここにはある女性が暮していて・・・いえ、二人の女性が暮していて、楽しく時を過しているって・・・。あなたの叔母さんは素敵な人です。(間。)そう、あなたも素敵です、あなたも。
 マドゥレーヌ 素敵だなんて! 他の人と何の変りもないわ。
 ソルニエ(あたりを見回して。)そう、あなたの叔父さんの、ベリアールさんが生きていらした頃、私は何年もの間、この部屋には一年に一度、つまり、お正月の時にしか入ったことがありませんでした。会計のメゾンさんその他の人達と一緒に、お昼の招待を受けたのです。デゾルモさんもいました。招待を最初受けた時は、本当にドキドキしましたね。
 マドゥレーヌ 叔父のせいで?
 ソルニエ いいえ、叔母さんです。・・・工場でお見かけすることは決してありませんでした。そして私は一日中工場でしたからね。ピアノを弾いていらっしゃるのは聞きました。素敵なドレスでお出かけになるのを時々見かけることがありました。でも、それだけでした。遠い存在でした。神秘的な強い印象をお与えになる・・・
 マドゥレーヌ(笑って。)まあまあ、神秘的・・・可哀想な叔母さま。若くって、あっさりした人なのに!
 ソルニエ 女王様のような! ここで働いていた研究助手がある時私に言いましたよ、あの方のために働く喜びを。工場の人達全員、マダム・ベリアールのために働いているんだと。
 マドゥレーヌ そのお話、叔母には一度も?
 ソルニエ(少し、心ここにないという風に。)いいえ、話したこと、あります。その頃はこの工場に、今よりずっと多く従業員がいました。あなたの叔父さんは影響力のある人でした。工場の隅々(すみずみ)までその威光が届きました。ベリアールさんと直接の関係を持たない人は、それだけよけい、その威光を感じました。ベリアールさんの事務所に入ると、会社の中心、その心の中に入ったような気持でした。城壁の最後の砦(とりで)に踏込んだような気持だったのです。でも一旦その中に入ったとたん、私は全く別の印象を持ったのです・・・
 マドゥレーヌ 最後の砦って、どこですの?
 ソルニエ 階段が二つある扉。身内の人だけの階段を上がった(右手の扉を指差して。)その扉です。そこを越えると、この部屋です。私はその扉を、お正月にしか越えることはありませんでした。
 マドゥレーヌ でも、そのお正月のお昼の食事、ちっとも重々しくはなかったんでしょう? 
 ソルニエ ええ。あなたの叔母さんがすぐ、私達の気分を楽にして下さったのです。みんなテーブルについて、長居をしました。楽しく、愉快に。ストーブが赤々と燃えて、至るところ花で飾られていました。家族全体がお正月を祝う気持でいっぱいでした。私は家族というものは、ここしか知らないのです。ここしか・・・他にはどこにも。分って下さるでしょうか。今でもなのです。私は独身生活が長くて、本当に長い間一人で暮してきました。若い頃はとても厳しい生活だったのです。ですからこの家、特にこの部屋・・・マダム・ベリアールが午後中ずっとピアノを弾いていらっしゃるここ・・・それが、近寄り難(がた)い至福の場所に思えるんです。私がここを出るときは、それは悲しさと絶望とで・・・
 マドゥレーヌ 絶望!・・・どうして?
 ソルニエ(ハッと我にかえって。)どうしてかって? エー、・・・それは・・・この幸せな雰囲気、この暖かさ、この優雅な豊かさが、私の若い時代、私の孤独、を、思い出させて、恥づかしくなるからです。気違いじみた希望が湧いてきて、それが苦しみにまで変るのです・・・(自分自身に言うように、喜びを内に秘めて。)気違いじみた・・・いや、気違いじみてはいないかもしれない・・・あなたにこんなことをお話するなんて、どうかしています。あなたに理解して貰えるかどうか、分りもしないのに。
 マドゥレーヌ(心を打たれて。)いいえ、分ります! 私だってたった一人でした。家庭はみんな借り物。本当の家庭じゃなかったんですもの。親戚の家で育って、それからまた別の親戚で・・・
 ソルニエ(そのマドゥレーヌの言葉を聞いていず。)驚かれたでしょうね、私がこんな話をするのを。いつも獣(けだもの)じみた言葉しか口から出したことはないんですから。
 マドゥレーヌ(抗議して。)そんな! ソルニエさん!
 ソルニエ(喜びと、少し困惑の気持で。)今では一年に一回以上、私はここに来ています。最近になって、来るのはもっと頻繁になりました。二三日前も、私は叔母さんとここでお昼を一緒にしました・・・
 マドゥレーヌ 知ってますわ。
 ソルニエ そうですか・・・あなたがいらっしゃらなかったので、工場で起ったことの報告の役目は私でしたから・・・
 マドゥレーヌ すると私、パリに行く前は、ソルニエさんがここに来るのを邪魔していたっていうことですのね?
 ソルニエ いいえ、その時もお嬢さんは、私がここへ来る助けになっていましたよ。あなたがいらっしゃるので、叔母さんは下に降りる必要がなくて。それから後、私が、お嬢様の代りに報告するためにここに来るようになったのです。
 マドゥレーヌ ソルニエさん、度々ここにいらして下さいね、どうか。
 ソルニエ お嬢様!
 マドゥレーヌ まあ、私がこんなことを言って! でも、叔母はきっとそう言うと思ったから言っているんです、私。それに叔母は直接、きっとそうソルニエさんに話している筈ですわ。
 ソルニエ(嬉しそうに。)ええ、言って下さっています。お嬢様もそう言って下さって、私は大変嬉しいです。
(間。)
 マドゥレーヌ(元気が出て。)私達のことをもっと・・・自分の家族のように思って下さらないと。だって、この家は全部、ソルニエさんの肩にかかっているんですもの。叔父だって頼りに思って・・・
 ソルニエ(感謝を込めて。)有難うございます、お嬢さん、そう言って戴いて! 私がどんなに嬉しいか、とてもお嬢さんにはお分りにならないでしょう。・・・勿論私の、工場での地位のせいで言って下さったのではないでしょう? 叔父さんが私を頼りに思ってくれたからなんて理由は厭です・・・
 マドゥレーヌ(震えながら。)ソルニエさん・・・(マダム・ベリアール、右手から登場。)あ、叔母さまだわ。

     第 六 場
 ソルニエ(喜んで、マダム・ベリアールに。)奥様、お待ちしていました。ヴィダル爺さんをやり過すためでもありましたけど・・・あの人、まだ下にいました?
 マダム・ベリアール いいえ、見なかったわ。
 ソルニエ 奥様に見せて戴きたい書類があって、それで・・・
 マダム・ベリアール 分りました。帽子だけ脱がせて。
 マドゥレーヌ(少し興奮して、マダム・ベリアールに。)ほら、私のショールを見て・・・
 マダム・ベリアール ああ、綺麗。でも、少し暗くない?
 マドゥレーヌ まだ乾いていないからよ。(マダム・ベリアール、帽子を脱ぎながら、左手に退場。マドゥレーヌ、ショールを暖炉の前に戻す。こっそりと、ソルニエが部屋を歩き回っているのを見る。マドゥレーヌを全く気にとめていないことを見てとって、少しがっかりした表情。)ソルニエさん、私、工場を見回ってきます。
 ソルニエ ああ、有難う。私が回る手間が省(はぶ)けます。
(マドゥレーヌ、急いで右手から退場。ソルニエ、ちょっとの間、一人。それからマダム・ベリアール登場。)

     第 七 場
 ソルニエ(マダム・ベリアールに近寄り、両手を取って。)ポーリンヌ!
 マダム・ベリアール(心配になって。)マドゥレーヌは出たの?
 ソルニエ そう、工場に、急に。僕らを二人にした方がいいと、知っているような具合に。あの子、何も知らないの?
 君、話したんじゃない?
 マダム・ベリアール 何を考えてるの? 私、言ってない。あの子は何も知らないわ。どうして?
 ソルニエ 知っているんじゃないかと思って。あの子の口ぶりから・・・
 マダム・ベリアール 口ぶりって・・・どんな?
 ソルニエ でもまづ、キスだ。お願い!
(ソルニエ、マダム・ベリアールを抱きしめ、長いキス。)
 マダム・ベリアール(引離して。)駄目! 馬鹿ね! さあさあ、そこに、お利口さんに坐って。いい? この部屋にはマドゥレーヌだって、女中だって、いつ入って来るか分らないのよ。それをよく頭に入れておいて。
 ソルニエ ここに上ってみたらもう君、出ていた。どうして出て行くことを教えてくれなかった? 
 マダム・ベリアール だって、すぐ帰って来たでしょう? それに、デゾルモと二人で事務所に言ってみたら、あなた、いなかったんですもの・・・
 ソルニエ 何も仕事が手につかなくて、工場をあちこち歩き回っていた。君にこれから会おう、という時には、いつもこれだ。あのデゾルモの邪魔が入って・・・
 マダム・ベリアール(遮って。)ロベール、そんな風じゃ駄目よ! 私に逆らって・・・私、恐い。あなた、自分を抑えなくちゃ。落着いた幸せを感じるようにならなくちゃ。そうでないと私、いつも心配。子供を育てている時のよう!
 ソルニエ 僕はそういう性格なんだ。でも、さっきのことは口に出さないようにしなきゃ。(訳註 「デゾルモの邪魔」と言ったこと。)
 マダム・ベリアール(面白がって。)あなた、さっさと上って来たのね、ここへ。ちゃんと待って、私が来ていいって人をやるのを待たずに。だから失敗したの。上ってみたらマドゥレーヌだけだったんでしょう?
 ソルニエ うん・・・
 マダム・ベリアール(急に心配になって。)それであなた、マドゥレーヌには何て? 言訳は?
 ソルニエ 怖がりなんだな! 言訳は二つ。あの子のショールを持って来た。もう一つは保険証書だ。それから後、下に降りたくなかったのでもう一つ。ヴィダル爺さんの話。
 マダム・ベリアール(立上がって。)保険証書は渡しておかないと。もしマドゥレーヌが上って来たら・・・(マダム・ベリアール、机に進み、引出しを開ける。)どの証書?
 ソルニエ(後について行って。)ああ、どれでもいい。僕は芝居が出来るようになったよ、ポーリンヌ。それに、仮面を被って生きている。まあいいや! 君が好きなんだし、それで君の傍にいられるんだ!(ソルニエ、マダム・ベリアールの頭を両手で掴み。)僕のこと、少しは愛してくれてる?
 マダム・ベリアール ええ、勿論。(マダム・ベリアール、ソルニエにキス。)さ、証書を取って。私を放して! ルイーズが来たら? マドゥレーヌだって・・・
 ソルニエ 全部話した方がいい。マドゥレーヌにもデゾルモにも! こんな風にいつまで暮して行ける? 今もし、あの子が入って来て僕らを見たらどうなる。ついさっき、僕はもう少しであの子に話しそうになったよ。
 マダム・ベリアール(驚いて。坐って。)あの子に? あなたが?
 ソルニエ(マダム・ベリアールの傍に坐って。)そうなんだよ。話せと言わんばかりだったからね。あの子はもう知っているのかと思って・・・
 マダム・ベリアール もう知ってるって・・・どんなことをあの子が言ったからあなた、そう思ったの?
 ソルニエ まあ落着いて考えれば、ただの親切心、優しさ、から来た言葉なんだろうけど。僕は驚いてね。とても心を打たれて・・・僕に、この部屋にもっと度々来るようにって。そして、君と・・・うん、君とあの子の二人のことを、家族のように思わなきゃ、ってね。それからこうも言った。「叔母はきっと、私と同じことをあなたに言う筈ですわ」とね。
 マダム・ベリアール それはそうよ、ロベール・・・でも、どうしてそんな話になったの?
 ソルニエ 僕はこの部屋がとても好きなんだ、という話からさ。勿論、その理由は言わなかったよ。
 マダム・ベリアール(ホッと安心して。)それじゃあの子、もっと度々いらっしゃいと言うに決ってるわ、ロベール。ああ、びっくりした! 秘密を知られてしまったかと思って。
 ソルニエ 話した方がいいよ! 秘密を。
 マダム・ベリアール マドゥレーヌに?
 ソルニエ そう! 分ってくれるよ、あの子は。
 マダム・ベリアール いいえ! 私、あの子には何も言うつもりはありません。
 ソルニエ そう。じゃ、君はこそこそ泥棒のように隠れて得られる幸福で充分だって言うの? ね、ポーリンヌ、僕はそれじゃ充分じゃないんだ。君は僕に全てを任せてくれてはいないんだ!
 マダム・ベリアール 分らず屋ねえ! 私、何でも聞いてあげてるでしょう? どんなことでも。
 ソルニエ(両手にキスして。)うん・・・だから今頼んでいるのは、僕の幸せのためなんだ。どうして隠しておくの? ねえ、どうして。僕らの愛を街中に広めようっていうんじゃないんだよ。工場全体にでさえない。ただこの部屋、ここでに君との語らいを、おおっぴらにしようという、ただそれだけのため・・・そのためにマドゥレーヌに話そうって言ってるんだ・・・
 マダム・ベリアール お願い、お願いロベール。まだあの子には話せないの。それは認めて!
 ソルニエ どうして・・・どうして?
 マダム・ベリアール それは・・・
 ソルニエ たしなみから? 二人ともまだ喪に服しているから? それなら僕が言う。僕なら言う方法がある。あの子にも分ってもらえるさ。
 マダム・ベリアール いいえ、そうじゃないの、ロベール。それだけじゃないの・・・
 ソルニエ(感情が昂(たかぶ)って。)じゃあ・・・じゃあ、まだ僕のことははっきり愛していると言えないって?
(扉にノックの音。)
 マダム・ベリアール どうぞ!
(タイピスト登場。扉が半開きになった所に立つ。)
 タイピスト(マダム・ベリアールに会釈して。)奥様・・・お電話です、ムスィユ・ソルニエ。ヴァラン社から、注文のことで・・・
 ソルニエ ああ、いないと言ってくれ・・・いや、ちょっと待って・・・マドゥムワゼッル・マドゥレーヌに出て貰って。お嬢さんには分っている。研究所に行けば分る。(タイピスト退場。ソルニエ、マダム・ベリアールのところへ戻る。)ねえ、ポーリンヌ、君、僕を愛しているかどうかが、まだはっきりしてないの?
 マダム・ベリアール これ以上何が必要なの? 私、あなたに愛情をもっている。毎日、だんだんとあなたへの優しさの気持が募(つの)ってくるのが分るわ。だから、それを測ったり、分析したり、そんな気持には私、なれない。あなたが苦しむのを見れば苦しいし、あなたが幸せなら私も嬉しい・・・
 ソルニエ ああ、ポーリンヌ、それは僕にも分る。だからまだ自信が出ないただ一つの理由は・・・僕が愛しているようには、君は僕を愛していない・・・一生、ただ僕だけを、っていうところまでじゃない・・・ね? それだね?(マダム・ベリアール、困惑の沈黙。)ポーリンヌ、君は僕に答が出せない・・・それほどは僕を愛していないっていうこと?
 マダム・ベリアール(困って。)どうやら・・・ええ、そういうことになるわ・・・私がマドゥレーヌとデゾルモに話す時、それは私達二人が婚約者になった時のこと。マドゥレーヌに私、婚約者だったら、あなたをそう言って紹介出来るわ。でも、恋人の紹介は駄目・・・
 ソルニエ(感情を込めて。)婚約者・・・
 マダム・ベリアール すぐかっと熱くなる人! あなたが熱くなると私、びっくりしてしまう。ぎょっとするの。時には怖くなる、少しは。その熱くなるのも愛せるようになるまで、私のことを待って。・・・あなたを愛せるようになって、その熱情も私にとって親しいものになるまで。私、あなたとは全く違う性格なの、だから・・・
 ソルニエ ああ、愛してくれてはいないのだ・・・
 マダム・ベリアール(ソルニエの髪をなでて。)そんなことはないの・・・
 ソルニエ(間の後。)愛するというのは、相手の愛の乾きを和らげるだけじゃない、自分も相手に渇望することなんだ、ポーリンヌ。君は僕に良かれと思ってくれている。何でも与えてやろうという気持でいてくれる。でも、要求するということがない。時々僕は、君には僕がいること、そのことさえ、必要でないのじゃないかと思うことがある!(マダム・ベリアール、動作で反駁。)ねえポーリンヌ、僕は望んでも届かない、君の中にある何かを・・・きっとそれは君の心の奥底にある何かなんだ・・・それを求めて已(や)まないんだ。ああ! その目の中に、君の僕への何かの期待、君の幸せ、君の苦しみを読み取ることが出来たら! それは僕の、そして君の、お互いの勝利なんだ! 僕は僕の中に、君のために素敵な財宝を山と、山と貯めたんだ! 君にそれを、いつか使って欲しいと思って。君が吸う空気のように、君の喜びのために、君の歓喜のために、それを惜しみなく使って貰えるように!(絶望の気持。)ああ、可哀想な僕の財宝! 君はそれが迷惑だと言う。君はそれを怖いと言う! ねえポーリンヌ、もし君が僕を本当に愛していたら、その僕の愛が怖いなんて、ある訳ないじゃないか!
 マダム・ベリアール(ギョッとして。)ねえロベール、私が何かひと言言うと、あなたはすぐそれを、自分を苦しめる方向で解釈するの。そんなのないわ! 私、あなたの愛が怖いなんて言った? ああ、私がもし怖いことがあるとすれば、それは、あなたを幸せに出来ないこと、どうしたら幸せに出来るか分らないことなのよ!
 ソルニエ(心を打たれて。)ああ、ポーリンヌ!
 マダム・ベリアール 私が怖いと感じること、それは、あなたが想像しているポーリンヌに、あなたがポーリンヌと呼んでいる人に、あなたの新しい言葉が全く通じないこと、それなの。私、あなたがただ、自分の夢を話しているだけのように、それだけのようにしか聞こえないの。
 ソルニエ 僕の夢、それは君なんだ!
 マダム・ベリアール ねえロベール、私は特別変っている女じゃないの。あなたの心よりずっと静かな、ずっと要求の少ないのが私の心。その私の心が、あなたの不幸に出逢ったの。私、随分あなたの要求を入れて来たわ。でも、こちらから要求なんて、それはないの、まだ。あなたはさっき、財宝を貯めているって言ったわ。その意味がよく分って、私がそれを欲しがるようになるまで、時間が欲しいの。私がその財宝に相応しくなるまで。そうなれるかどうか、待って!
 ソルニエ そうなれないかもしれないと思ってるの?
 マダム・ベリアール なれないかもしれないと思わせるのは、あなた! 私への非難の言葉! それに何でも芝居がかった風に見るあなたの癖!
 ソルニエ それは本当だ。僕は馬鹿だ。性急過ぎる! 欲張り過ぎる! 許して! 君の傍にいられる幸せ、君に喜んで貰える幸せを、ただ有難いと思っていればいいのに、僕は君を苦しめ、おまけに自分まで苦しめている・・・僕は君を、もう随分昔から愛している。でも、それに気がついてからの君の気持は、まだつい最近のものなんだ! それを僕は忘れて・・・君は自分のその新しい気持に慣れていない。その新しい気持の上に何かを築こうとする前に、その新しい気持が頑丈なのか、土台がしっかりしているのか、確かめておきたい、そうなんだろう?
 マダム・ベリアール ええ、そうなの!
 ソルニエ(ホロリとなり、また元気が出て。)ああ、そういう気持でいて、それで僕を幸せに出来るかどうか心配だなんて・・・ああ、ポーリンヌ、ポーリンヌ! 何て正直な気持なんだ、それは! それこそ愛のお手本じゃないか! 僕のことをどれだけ愛してくれているか、それが証明している! ね? 君、僕を少しは愛してくれているね?
 マダム・ベリアール 勿論よ、ロベール!(ソルニエ、キス。)待って、あなた、ネクタイが曲ってる。(マダム・ベリアール、結び目を直す。)あなた、蝶ネクタイをしたらいいわ。私、一本上げる。
 ソルニエ 大事に使うよ! ねえ、ポーリンヌ、君さっき「私がその財宝に相応しくなるまで、待って」って言ったね? 僕はその言葉でギョッとしてしまったんだけど、今となってはそれは僕に喜びを与えてくれる、大きな希望を持たせてくれるよ。もし今まで僕を愛してくれていなかったら、その愛への希望が生れるようにしてくれるね? ああ、君は僕を愛している、愛してくれるようになる! 僕は君が愛せずにはいられないような人間になるぞ! よーし! 君の中には、君がまだ自分では分っていない世界がある。それを君に発見させるのはこの僕だ。この僕の役目なんだ。
(ソルニエ、マダム・ベリアールを抱きしめる。)
 マダム・ベリアール(ほどきながら。)ええ、ロベール。ええ、そう・・・
 ソルニエ(有頂天になって。)有難う、僕の大事なポーリンヌ、僕の綺麗なポーリンヌ。僕の・・・僕の夢、ポーリンヌ!
 マダム・ベリアール 馬鹿ね! ほら、キスして!(ちょっとキスした後。)ほら・・・ほら・・・(離れて。)さ、今は降りて行って! 私もすぐ降りるわ。・・・落着くのよ、そして元気を出すの。明るい顔をするの。
 ソルニエ(立上がり。)落着いて、陽気な顔。いや、駄目だ。僕は酔っている。陽気さを通り越している! 嬉し過ぎてもう苦しいぐらい! でも、今のこの僕の気持を、誰とも交換する気はないよ。どんな幸せな人とだって。神様とだって!・・・ポーリンヌ、僕らがまだ若くて、僕が遠くからしか君を見ることが出来なかったとき、もし誰かが・・・
(マドゥレーヌ、扉をノックし、すぐ開ける。)
 マドゥレーヌ(息を切らして。)ソルニエさん、ご免なさい、労働基準監督官の人が来て、ソルニエさんに・・・
 ソルニエ(扉の方に進みながら。)ああ、分った。今すぐ・・・
 マドゥレーヌ 事務所でお待ち戴いています。
 マダム・ベリアール(ソファの上の保険証書を取って。)ほら、保険証書! 忘れちゃ駄目!
(ソルニエ、戻って来て受取り、退場。)

     第 八 場
 マドゥレーヌ(間の後、言い難そうに。)叔母さま!
 マダム・ベリアール なあに? マドゥロン。
 マドゥレーヌ ソルニエさん、本当は保険証書を取りに来たんじゃないんでしょう?
 マダム・ベリアール(驚いて。)いいえ、保険証書よ・・・その後少しお喋りしたけど。どうして?
 マドゥレーヌ 私、思ったの・・・何か他のことじゃないかって・・・私、自分で捜しましょうかって言ったの、あの保険証書。でもいいって。あの人、叔母さまに会いたいって。あの人・・・嬉しそうに、何かいいことがあったように。
 マダム・ベリアール(自分達のことを知られたかと、心配そうに。)そう・・・
 マドゥレーヌ 叔母さま、あの人、お話をしてくれたの。それが、今まで私、聞いたこともないような話し方で。
 マダム・ベリアール あら・・・で、何のお話?
 マドゥレーヌ この家の、あの人の抱いている思い出の話・・・叔父さまが生きていらした頃の、お正月の、ここで食事、の話。あの人、ここに来るのは好きだって、私達といるのが!
 マダム・ベリアール(少し安心して。)それであなた、もっとここにいらっしゃいって言ったのね?
 マドゥレーヌ(驚いて。)ええ。
 マダム・ベリアール 家族の一員だと思いなさいって。(笑って。)あの人、話してくれたわ。
 マドゥレーヌ あの人が、それを? 私のことも?
 マダム・ベリアール あなたのこと? それはなかったわ、特別には・・・そうね、あなたとした会話の続きをここで私としたのね、あの人、きっと。・・・でも、どうしたの? マドゥロン、あなた、何か困ってる様子。何か言いたくて、言い難そう・・・
 マドゥレーヌ ええ、ちょっと・・・(自分の気持を抑えるのが難しく。)私、ここに上って来ようと思って・・・それで、それで・・・その勇気がなかったの!
 マダム・ベリアール(また心配になって。)どうして?
 マドゥレーヌ 私の・・・私のことを話してるんじゃないかって・・・私、馬鹿・・・ソルニエさんと二人で・・・
 マダム・ベリアール(マドゥレーヌに近づいて。)何? それ、マドゥレーヌ、何なの? どうしたの? 私達があなたのことを話していたって・・・何?
 マドゥレーヌ(泣きながら、マダム・ベリアールの腕に飛び込みながら。)ああ、叔母さま・・・ポーリンヌ叔母さま!
 マダム・ベリアール まあ、どうしたの? ね、ね、さ、話して!
(マダム・ベリアール、マドゥレーヌをソファまで連れて行き、坐らせ、自分もその傍に坐る。)
 マドゥレーヌ 私、愛してるの!
 マダム・ベリアール(飛上がって。)何ですって?
 マドゥレーヌ ソルニエさんを・・・私・・・私・・・
 マダム・ベリアール(唖然として。)まあ! でも、そんなの、無理!
 マドゥレーヌ 無理じゃないの! 愛してるの! もう隠しておけなの、私! ああ、言ってしまった。何ていい気持!
 マダム・ベリアール ああ、可哀想に、マドゥレーヌ!
 マドゥレーヌ 私、可哀想じゃない・・・お願い、私に話させて。私、涙が出ている。何故かしら。きっと、きっと、嬉しいから。希望があるから。私、もうずっと好きなの。でもパリ・・・ブーローニュに行って、それでよけいはっきりしたの。あそこで私、じっとしていられなかった。帰りたくて、帰りたくて。あと何日、あと何時間・・・そればかり・・・
 マダム・ベリアール(遮って。)マドゥロン・・・
 マドゥレーヌ 待って・・・叔母さま、そんなこと、思ってもいなかったでしょう? 私、不幸だった、以前は。あの人、私のことなんかまるで、まるで・・・でも、パリから帰ってみたらあの人、とても優しくなって・・・さっきだってここで・・・
 マダム・ベリアール ここで?
 マドゥレーヌ ああ! 私、間違っているかもしれない! でも・・・でも・・・私達さっきここで話していたの。私、縛られたみたいになっていた・・・そしたら突然私・・・ああ、私・・・分ったの。あの人も私と同じ気持でいるんだって。あの人、子供時代の、長い、苦しい生活の話、家庭が欲しい、愛情が欲しいっていう話・・・を、したの。それで私、うっかりあのことを言ってしまった。
 マダム・ベリアール あのことって?
 マドゥレーヌ 叔母さまにあの人が話したこと。私が言った言葉。私達のことを、あの人の家族だと思ってって・・・ああ、あの時のあの人の顔! それを叔母さまが見てたら! パッと明るくなって、独り言をブツブツと。そして私に言ったの・・・ああ、きっとそう、きっとそう・・・あの言葉があの人にそんなに大切だったんですもの。そんな深い意味があったんですもの・・・私達二人、あそこで二人ともじっと・・・同じ気持、同じ感情だったの。もし叔母さんがあの時入っていらっしゃらなかったら私、私、あの人、きっと私に・・・
 マダム・ベリアール マドゥロン、ああ、黙って! 可哀想なマドゥロン! あなた、間違ってるのよ。間違ってるの! あの人に愛されていないのよ、あなたは!
 マドゥレーヌ(苦しみの表情。)あの人、叔母さまに、そう・・・?
 マダム・ベリアール いいえ。でも分って! あなた、違うの。誤解なの、それ。私にはそう見え・・・
 マドゥレーヌ 叔母さま! 私があの人を愛してるってことを疑っていらっしゃるの?
 マダム・ベリアール いいえ、マドゥロン・・・ああ、どうしたらいいんでしょう。神様! でもとにかく私・・・私、あなたが間違っているっていう理由・・・理由が・・・
 マドゥレーヌ あの人について何かをご存知なのね? 誰か、私じゃない人を愛しているって・・・
 マダム・ベリアール(苦しそうに。)ええ、そう。そうなの、マドゥロン・・・そういう話・・・(マドゥレーヌ、わっと泣き出す。顔をマダム・ベリアールの膝につける。)ね、泣かないで。お願い! そんなに苦しんでいるあなたを、私、見ていられない! マドゥロン、ね、今の話、本当じゃないかもしれないわ!
 マドゥレーヌ 誰なの? 言ったの。
 マダム・ベリアール(話を拵えて。)違ったって言うかもしれない・・・もうずっと以前の話だし、それに、デゾルモ、ただ仄(ほの)めかしただけだから・・・
 マドゥレーヌ(急いで。)ああ、デゾルモさんだったの? 冗談だったのね・・・ね? ね? そうでしょう?
 マダム・ベリアール ええ、そう・・・かもしれない。あの人の癖、知ってるでしょう?
 マドゥレーヌ ああ、その叔母さまの、その答え方・・・それは冗談じゃなかったんだわ。叔母さまの、さっきの言い方、「あの人に愛されていないのよ、あなたは!」・・・あれは本当だった・・・
(マドゥレーヌ、再び泣き始める。)
 マダム・ベリアール ねえ・・・ねえ、マドゥロン! 私、私が間違っていたの! あなた、そんなに、そんなに泣きじゃくって・・・ねえ、私、知らないの、本当に。訊いてみましょう。ね、ね、私が訊くわ、デゾルモに。
 マドゥレーヌ ええ、ええ、訊いて。訊いて頂戴! そして私のことも・・・
 マダム・ベリアール ええ、訊いてみる。ね、マドゥロン。
 マドゥレーヌ ご存知でしょう? 叔母さまも。ソルニエさんのことで、あの人、私をよくからかうの。きっと私の気持、見抜かれてしまったのよ。
 マダム・ベリアール(努力して、やっと。)ええ・・・そうね。
 マドゥレーヌ それに、デゾルモさん、きっとそんな気持が私に見えたら、それに水をさそうって・・・そういう気持になるわ・・・
 マダム・ベリアール ええ・・・ええ・・・そうね・・・きっと。
 マドゥレーヌ(立上がって、待ちきれない気持で。)ね、ね、訊いて、デゾルモさんに! 
 マダム・ベリアール(自分自身にも言い聞かせるように。)ええ、デゾルモも相談にのってくれるわ。そうだ、ソルニエさんにも話してくれるかもしれない! ね、マドゥロン、もう泣かないで。(マダム・ベリアール、マドゥレーヌを抱きしめる。)ね、涙を拭いて! きっとあなたの言う通り! 私が間違っているんだわ・・・私、馬鹿だった・・・元気を出して。ね、マドゥロン。それに、あなたがどんなにあの人を愛しているか、あの人に分ったら、その時は・・・
 マドゥレーヌ(希望の表情が出て。)ああ、有難う、叔母さま!
                    (幕)

     第 三 幕
(第一幕と同じ場。) 

     第 一 場 
(ソルニエ、事務机についている。ソルニエの正面少し右手に、タイピストがソルニエの書取らせた手紙を読み終るところ。)
 タイピスト 「このことは自信をもって申し上げますが、この新しい方法によれば、コストが安いばかりでなく、今日まで開発されてきたいかなる製品より明らかに優秀な製品が得られます。特に太陽光線による色褪(あ)せを充分に予防して・・・」
 ソルニエ ああ、それでいい。(書取らせる。)弊社への貴社の御注文のすみやかならんことを。敬具。」同文の手紙をこのリストの会社全部に発送して。(ソルニエ、リストを渡す。)同封する見本の台紙を忘れないように。マドゥムワゼッル・マドゥレーヌが見本の係。郵便の時間までには君のところに持って来てくれる筈だ。(タイピスト、立上がる。)ちょっと待って。もうあと二三社、加えておこう。(ソルニエ、手帳をめくる。デゾルモ登場。)
 デゾルモ(この時までに顔を上げているソルニエに。)今日は、ソルニエ。いいいい、そのまま、そのまま。今日は、マドゥムワゼッル。
 タイピスト(呟きの声。)今日は、ムスィユ。
 ソルニエ(陽気に。)今日は、デゾルモ。マダム・ベリアールは外出だよ。
 デゾルモ 知ってる。彼女に会いに来たんじゃない。君になんだ。ああ、気にしないで。そのまま。時間はある。
 ソルニエ じゃ、もう少しで終りますから。一分ですむ。失礼。
 デゾルモ どうぞ、どうぞ。
 ソルニエ(手帳をめくりながら、タイピストに。)エルベール株式会社、リヨン、を加えて。エルベールにはテーをつける。住所は電話帳を見て。ブランシュトオ。これもリヨン。ゴルドスタン・メイエール。これはアルマンティエール。この三社。じゃあ頼む。
(タイピスト、右奥の扉から退場。)

     第 二 場
 ソルニエ どんなご用でしょう、デゾルモさん。
 デゾルモ(少し間をおいて。)私の損得に関る話じゃないんだ、持って来た話というのは。私によりも、むしろ君の損得に関るものでね。・・・ずいぶん迷った末やっと決心して来たんだが・・・それもひどく内緒の話として君に伝えようというものなんだ。・・・君は知らせてもそうビックリ仰天というものでもないんだが、かと言って、聞いて平気でいられるというものでもない・・・つまりその・・・この工場で誰もが尊敬し、好意をもっている・・・君も勿論その一人だと私は確信しているんだが・・・つまり、マドゥムワゼッル・マドゥレーヌのことなんだ。
 ソルニエ(興味を惹かれて。)ああ!
 デゾルモ 今いないね? 彼女は。
 ソルニエ ええ、今は。しかし上にいますから、何時降りて来ないとも限りませんが・・・
 デゾルモ よろしい。では簡潔に・・・君はマドゥレーヌ嬢をご存知だ。あれはどんな褒め言葉をもってしても、充分にその価値ありと言える女性だ。
 ソルニエ ええ、そうです。
 デゾルモ 優しい心、魅力ある性格、それに知性。私の信ずるところでは、彼女はこの工場で目立ちはしないが、しっかり自分の職務を・・・
 ソルニエ いえいえ、それ以上です。彼女がこの仕事を手がけてくれるようになってからは、実に私の支えになってくれています。職工達から愛され、彼女の言うことなら何でも・・・
 デゾルモ ああ!
 ソルニエ 私がここを去ることになっても、もし彼女さえここにいれば、私は安心していられます。
 デゾルモ それを聞いて私は実に心強い。
 ソルニエ しかし、よく分りませんが・・・マドゥレーヌ嬢が、またブーローニュの方に行かねばならない事態でも?
 デゾルモ いやいや、そういいうことではない。もっと重大な事態なんだ、これは。
 ソルニエ 重大?
 デゾルモ 君は、彼女の態度に何か変ったことを感じたことはないかね?
 ソルニエ(ちょっと肩をすくめ。)いや・・・何か病気でも?
 デゾルモ 彼女と接するとき、君はどんな態度を?
 ソルニエ それはもう、優しく、親切に。もっとも辛抱と優しさの塊(かたまり)、という訳には行きませんが。ただ、あんな素晴しい娘さんに優しくしない人間がいるとも思えません。しかしデゾルモさん、こういう質問で、一体何を知りたいというのです?
 デゾルモ そうだとすると、君が気づかない筈がないわけだが・・・
 ソルニエ 何をです?
 デゾルモ(間の後、突然。)ねえ君! 彼女は君に惚れているんだ。そう、これなんだ、僕の言いたいのは。今まで気づかなったのなら、今知って欲しい。男と男として、これを言うのが僕の義務だと思ってね。(間。)そんなに驚きなのか? これは、君に。
 ソルニエ まだよく飲み込めないでいるんです・・・そう、これは間違いです、きっと。何かの間違いですよ!
 デゾルモ 僕は印象か何かでこんなことを言っているんじゃないんだ。僕ははっきりと・・・
 ソルニエ(遮って。)マドゥレーヌ嬢は私に、親しみを、思い遣りを示してくれています。しかしそれほど・・・
 デゾルモ(続けて。)僕ははっきりと一昨日、マダム・ベリアールから話を聞いたんだ。マドゥレーヌ嬢が彼女に、涙ながらにこの秘密を打明けた・・・つまり、君を愛しているという・・・
 ソルニエ すると、マダム・ベリアールから直接聞いたと・・・?
 デゾルモ だから勿論、そのままこの僕の胸に秘めておいたさ、この工場の将来を、その幸福の可能性を考えなかったらね。
 ソルニエ(苛々しながら。)違う! そんなことはあり得ない! 
 デゾルモ そんなことはあり得ないとはどういうことです。僕は別に君を苛々させるようなことは言ってないよ。君の反応がどうかという点に関しては、僕は全く白紙でこの知らせを持って来たんだからね。君が無関心であるか、あの子を可哀想と思うか、或は、君にとって明るい将来が見えて来るか、そんなことは全く・・・
 ソルニエ(不機嫌に。)明るい将来・・・
 デゾルモ うら若い女性が、ある独身男性にすっかり心を奪われているという事実をその男が知るのは、そんなにつまらないことではない筈だからね。それは、最初は少し苛々する場合もあろうが、よく考えてみて・・・
 ソルニエ(自分を抑えながら。)ちょっと、デゾルモさん、その・・・マダム・ベリアールはご存知なんですか? あなたがこのことを私に話すということを。
 デゾルモ(躊躇いながら。)いや・・・いや、それは全然。君に知らせると決めたのは、僕の独断だ。もっとも、マダム・ベリアールもいつかいい機会を捕えて君に話したろうがね。ただ、僕は思った、マドゥレーヌに対する君の気持がどうであろうと、これはすぐに君に話した方がいいとね。だって、このことを知っておいた方が、君自身、君の彼女に対する態度に用心が出来るからね。
 ソルニエ ええ、それは。有難うございます。
 デゾルモ 君の個人的生活のことを私は知るよしもないがね、ソルニエ君、しかし、私の意見を言わせて貰えば・・・
 ソルニエ(感情をぐっと抑えて。)さっき仰いましたね、マダム・ベリアールも・・・あの方も、やっぱり・・・
 デゾルモ そりゃ、違うことを考えているわけはないだろう? ねえ君。あの人はあの姪を非常にかわいがっている。ここだけの話だがね。だから、マドゥレーヌがあんな風に自分の感情を吐露した時、マダム・ベリアールは、長年抱いていた自分の将来の夢にぴったり合うと、喜んだに決っている。あの素敵なポーリンヌは、希望に震えた・・・いや、心配も伴っていたろうが・・・(内緒のように。)それで僕に聞いたんだよ、マドゥレーヌに聞えはしないかとこっちはハラハラしたほど大きな声でね。僕の知っている範囲内で、君とあの子に、何か関係はなかったか、例えば・・・
 ソルニエ(途中で遮って。)馬鹿な。そんなこと! しようのない!
 デゾルモ そう、そうか。なかったんだな。・・・心を打つ話だ!
 ソルニエ(苛々と。)デゾルモさん、ちょっとここは、私一人にして下さいませんか。
 デゾルモ 分った、分った。私は行く。この話自体は、別にたいしたことでもないし、それに・・・
 ソルニエ(デゾルモを扉の方に無理に導きながら。)それ以上もう何も言わないで。お願いします。
 デゾルモ もう言うことはないよ。(デゾルモ、扉を開ける。)君の腹一つに納めておいてくれよ。それで考えるんだ。な、考えるんだ。・・・じゃ、失敬。
(ソルニエ、微かに肩をすくめる。そして荒々しく扉を閉める。机の肘掛け椅子にぐったりと倒れ込み、両手で頭を抱える。暫くして電話のベルが鳴る。ソルニエ、動かない。が、しつこく鳴るので、受話器を取上げ、テーブルの上に投げる。タイピストが右手奥の扉に登場。)
 タイピスト あら、いらしたんですか?
 ソルニエ(動かない。)そうだ。後にしてくれ。
 タイピスト いえ、電話の音がして・・・誰もいらっしゃらないのかと思って・・・
(タイピスト退場。扉を閉める。同じ姿勢で、ソルニエ、動かない。暫くしてメゾン、手に書類を持って登場。)

     第 三 場
 メゾン 工場長、お邪魔でしょうか。
 ソルニエ(ちょっとの間の後。)えっ? 何です?
 メゾン お具合でもお悪いのでは?
 ソルニエ(苛々と。)何の用です。
 メゾン 早見表を持って来ましたので。
 ソルニエ 早見表?(手を出す。メゾン、四五枚の紙を渡す。)こんなものを誰が頼みました。こういう計算は、私が自分でやります!
 メゾン マドゥムワゼッル・マドゥレーヌです、計算したのは。
 ソルニエ 何だと思ってるんだ、彼女は!(ぼんやりと計算を眺める。)三分の一は全く無駄だ。二百リットル、六百リットル・・・何故こんな量の表が必要なんだ。二十リットルか三十リットル入りの桶で染めるのが普通じゃないか。
 メゾン でも、この表のお陰で、十樽、二十樽の消費量がすぐ分ります。
 ソルニエ そんなものはいりません! 一回の樽に必要な分量を計ればすむことです。消費量なら、メートル単位で計算して・・・
 メゾン ええ、ですから、そのメートル単位での計算を・・・
 ソルニエ(声を荒げて。)経費の計算なら私に任せておいて貰いたい。微妙な問題を含んでいるんです。調合の早見表は・・・私にも考えがあります。違ったやり方もあるし、それに、計算はどうせ、私が自分で確かめてみなければ。
 メゾン いえいえ、計算に関しては、それは大丈夫です。マドゥムワゼッル・マドゥレーヌが三度も確かめたんですから。昨晩一晩中それにかかりっきりだったんです、マドゥムワゼッル・マドゥレーヌは。
 ソルニエ(苛々して。)分ってます。分り過ぎる程分ってます!・・・さ、早見表を持って行って下さい。(ソルニエ、メゾンに早見表を渡す。)あなた用にとっておいて下さい。彼女に礼を言って。実際に分量を計るのはあなたなんですからね。
 メゾン 分りました。分りましたよ!
(メゾン、ブツブツいいながら退場。ソルニエ、一瞬じっと不動。うちひしがれた様子。それから、片手を額にあて、肘掛け椅子の背に背中をあてる。再び前屈みになり、両手で頭を抱える。苦しみ、内面の動揺。左手の扉が開き、マドゥレーヌが現れる。すぐソルニエ、ペンを取上げる。左手を目の前にあてて、顔を隠しながら、何か書くふり。)

     第 四 場
(マドゥレーヌが、小さな箱をもって登場。その箱の中には、緑色の絹が貼ってあるカードが沢山入っている。ソルニエの机に近づく。)
 マドゥレーヌ 見本が出来ました。(ソルニエ、答えない。小さな声で。)ここに置いておきます。
(マドゥレーヌ、机の端に箱を置く。)
 ソルニエ(頭をあげて。)有難う。
 マドゥレーヌ あら、受話器が外れてる。これ、わざとですの?
 ソルニエ 違う。(マドゥレーヌ、受話器をかける。)有難う。
 マドゥレーヌ お邪魔して・・・(マドゥレーヌ、音をたてないように、左手のテーブルの上を探る。手紙を取上げる。)あら、また鉛筆をなくしちゃったのかしら。(引出しの中を探る。)メゾンさんのところに忘れて来たのかも知れないわ。(ソルニエの方を振返って見て、ソルニエの机の方へ用心深く二三歩歩き、机の上を目で捜す。それから、右手奥の金庫にある鉛筆を取りに行くことにする。金庫の部屋に入り、ちょっとの間、扉を開けたままにしておく。それから部屋に戻る。ストーブに充分石炭があるかを確かめ、横目でちらとソルニエを見、ちょっと立止り、ためらい、それから部屋を出る。出る時に扉の把手に手をかけたまま。)私、在庫の調べをやって来ます、ソルニエさん。
(返事なし。マドゥレーヌ、音を立てないように退場。)

     第 五 場
(ソルニエ、万年筆を机の上に投げ出す。立上がり、部屋を歩き始める。時々立止り、考え込む。)
 ソルニエ「そりゃ、違うことを考えているわけはないだろう?」・・・そう、そう言ったんだ、デゾルモは。「違うことを考えているわけはないだろう」・・・「ないだろう」・・・断定的じゃない、が、半分もう見えている。ポーリンヌは姪を結婚させることを考えている・・・と、デゾルモには分っているんだ。普段の会話からそう推測していた・・・それがだんだん確信になった。(間。)それも随分前から・・・全くあの男、自分の推測をつゆ疑わない男だ。「違うことを考えているわけない!」教えてやろうか、この間抜けめ!・・・しかし、それにしても、どうして彼女はすぐあいつに言わなかったんだろう。(あの人が好きなのはこの私なんだ、と。)・・・(少し落着いて。)彼女は今日一日、友人達の家に行った・・・希望に心も踊っている。・・・希望に? 本当に希望にか?・・・(間。)もしこの僕が、あの子と関係をもっていたら・・・もしも・・・今までに既に・・・彼女は姪に訊いたかもしれない。いつか・・・半年前・・・一年前・・・いや、もっと前に・・・関係なんて解釈次第だ。どうにでもなる。しかしデゾルモ殿! あんたは一番大事なことが分ってない・・・うかつな奴だ! そう、貴様はうかつだ。う・か・つ・だよ!
(間。マダム・ベリアール、奥の扉から登場。外出着。マントに帽子に手袋。)

     第 六 場
 ソルニエ(マダム・ベリアールの方に進みよる。)ああ、ポーリンヌ!
 マダム・ベリアール(心配そうに。)今日は、ロベール。
 ソルニエ ああ、どれほど待ったか!
 マダム・ベリアール(心配そうに。)私も、二人だけで早く会いたいと・・・話があるの・・・
 ソルニエ 姪のことだね? もうデゾルモから聞いた。さっき来たんだ、デゾルモ。
 マダム・ベリアール あの人が・・・もう話した! ああ、その予感はしたの。
 ソルニエ 言えって言ったのは、君じゃなかったの?
 マダム・ベリアール 何て話! それ。
 ソルニエ こんな話をデゾルモが知っているなんて。それに、僕より早く! それは君があいつに・・・
 マダム・ベリアール(遮って。)事情が事情だったの! それは説明します! ああ、ロベール、私、気が動転して・・・マドゥレーヌ、可哀想に! あの子、今どこ?
 ソルニエ(奥の扉に行き。)研究所。原材料のリスト作りを。
(ソルニエ、鍵を閉める。)
 マダム・ベリアール あなた、私達を、二人だけに?
 ソルニエ うん、鍵は閉めた。ここは出入り自由、まるで商店街の店だ。鍵を閉めるのは仕様がない。
(ソルニエ、マダム・ベリアールのところに戻る。)
 マダム・ベリアール ロベール、あの子、あなたを愛しているの!
 ソルニエ それで、僕らのことは話したんだね?
 マダム・ベリアール いいえ。
 ソルニエ 何故です。何故まだ言ってないんです。すぐに言うべきことじゃないか!
 マダム・ベリアール 言いたかったの。ええ、言いかけたの。でも、そう、これだけは最初に言わないと。あの子はこの打開け話を、嬉しさに泣きながら、ええ、嬉しくて、嬉しくて、泣きながら私に話したの。あなたがあの子を愛しているとすっかり思い込んで!
 ソルニエ(呆れて。)僕が・・・あの子を・・・?
 マダム・ベリアール あれは一昨日。あなた、私を待ちながら、あの子と話したでしょう? そのことを後で私に話してくれたわね?
 ソルニエ うん。
 マダム・ベリアール 私に言ったでしょう? もう少しで私達二人のことを話すところだったって。
 ソルニエ うん、言った。それで?
 マダム・ベリアール それであの子、その話をすっかり取り違えて受取ってしまったの。あなたの心にある女性が、自分だと思ったのよ。
 ソルニエ 何だって?
 マダム・ベリアール 家族が欲しい、孤独がどうのって・・・そういう・・・
 ソルニエ(両手を上げて。)やれやれ!
 マダム・ベリアール 私、勿論、あの子の目を覚まそうと思った。あなたはあの子を愛してはいないと、はっきり言ったの。私はそのことを知っている・・・いえ、知っていると信じているって。でも、その時のあの子の落胆、絶望・・・私、もうそれ以上続ける勇気がなかった。
 ソルニエ そうは言っても!
 マダム・ベリアール 私、誰かが苦しんだり、泣いたりするのを見ると、すぐ何が何だか分らなくなる。あの時はおまけに、相手がマドゥレーヌ・・・私、言ったことをすぐ引っ込めたくなった。私にはたった一つの望みしかなくなったの。あの子に与えた恐ろしい苦しみの傷口を癒してやること。私が作った傷口を。私、それから先のことはもう何も考えなかった・・・
 ソルニエ ポーリンヌ、ポーリンヌ、だけど、そんなこと無理じゃないか! マドゥレーヌ、僕、それに君、この三人が、誤った立場のまま、このままずっと暮して行くことは不可能じゃないか! 君が今言った傷口はだんだん大きくなるばかりだ! 僕の取る態度全てがマドゥレーヌを傷つけるようになるんだ。僕らのことをマドゥレーヌに隠しておいちゃいけないって、何度僕は君に言った! 言ってさえあれば、マドゥレーヌの感情がまだ大きくならないうちに抑えられたんだ。いや、そんな感情も湧いてこなかったかもしれない。もし君が僕に少しでも愛情があれば、マドゥレーヌの僕への愛情の防波堤を作ることをどうして必要と思わなかったんだ。君は僕と一緒になるのが恥づかしいのか。君は僕が恥づかしいのか!
 マダム・ベリアール(抗議して。)ねえロベール、落着いて!
 ソルニエ それであの子は今、僕があの子のことを、どう思っていると思ってるんだ。あの子に何を吹き込んだんだ。
 マダム・ベリアール 私最初は、あなたには好きな人がいるって言ったの。でも、あの子の悲しみ、それが私、たまらなくなって、それは噂でしかない。それに、随分昔の、って言った。そうしたら・・・分るでしょう? もっと詳しく、もっとはっきり教えて、と必死に頼むの。丁度その時デゾルモがやって来て、あの子は自分の部屋に慌てて行ってしまった。それで私、洗いざらいデゾルモに話したの。あの人に助けて貰おうと・・・
 ソルニエ(苦しそうに。)いや、洗いざらいなど話しちゃいない。僕が君を愛しているとは話していないんだ。僕が君の愛人であることも・・・
 マダム・ベリアール(驚いて。)止めて、そんなこと言うの!
 ソルニエ あの子には言ってよかったんだ! マドゥレーヌには本当のことを言ってよかったんだ! 誤摩化すべきじゃなかった! 何よりも先に、はっきり言っておかなきゃならなかったのに。何ていう慎み深さ! ただ人に良く思われようという後ろ向きの考えなんだ、君のは!(絶望して。)ああ、君は僕を愛していない! 愛していない!
 マダム・ベリアール ロベール、分って。私、マドゥレーヌも愛しているの! 
 ソルニエ マドゥレーヌも、デゾルモも、だ、多分ね。僕のことは、普通どこにでもいる人間を愛しているようにしか愛してはいない。君は僕を愛していないんだ!
 マダム・ベリアール あなた、そんなこと、自分でも信じてはいないのよ!
 ソルニエ ポーリンヌ、僕には分らなくなった・・・さっき君のデゾルモが僕に何か言って、そいつを鼻で笑ってやりたくなったんだが、今では、そのことを考えるとぞっとする。ねえポーリンヌ、君、ほっとくんじゃないんだろうね? 僕が絡(から)んでいるそのでっちあげの話は取消してくれるんだね? あの子の幻想をちゃんと幻想だと話してやるんだね?
 マダム・ベリアール(悲しそうに。)ええ・・・必ず・・・必ず。でも、それはしたくなかった・・・あなたの顔を見るまでは。
 ソルニエ(びっくりして、飛上がるように。)そんな!・・・どうして!
 マダム・ベリアール(自分でもよく分らない。)分らない・・・そんなこと・・・
 ソルニエ(追求して。)分らない! 君、またその勇気がないって、そう言うのか。
 マダム・ベリアール いいえ・・・そうじゃないの。私の馬鹿な考え。あなたには分らないわ。マドゥレーヌのこの可哀想な話は、あなた、知らない方がよかったの。もう心配しないで、ロベール。私、あの子と話して来る。勿論この話をあなたにしたなんて、決して言わない・・・ご免なさい。私、あの子のところに行ってやらなきゃ・・・
 ソルニエ(非常に動揺して。)待って、待って、ポーリンヌ! 僕に教えて欲しい・・・デゾルモが言ってたが・・・ああ、これは駄目だ。これは言えない・・・(マダム・ベリアール、ゆっくりと左手の扉の方に進む。)待って。お願いだ! 一つだけ質問がある。今まで君、(声を落して。)・・・僕に身を任せる前に・・・君の姪と僕との結婚を考えたことがある? ね、ポーリンヌ、お願いだ、これは誤摩化さないで! 僕は君を信じる・・・ね、そのことを考えたことがある?
 マダム・ベリアール(困って、間の後。)ええ、あるわ、ロベール。デゾルモがそう言った? でも私、そのことはもう考えていない。
 ソルニエ(絶望して。)考えていない・・・いつから・・・ほんの二三秒前までは、それを考えていたんだ!
 マダム・ベリアール ねえロベール、私、本気ではそれを考えてはいなかったわ、でも・・・
 ソルニエ(左手の扉の踏段にどっと頽(くづほ)れて。)ああ、否定することも出来ないんだ、君は!(間。)何でもない人間なんだ、僕は、君にとって。
 マダム・ベリアール(苦しそうに。)そんなことを言わないで! それ、間違っている。私、辛いわ! ああ、どう言ったら分って下さるの? ロベール、私、あなたを愛している。あなたに対して愛情を持っているわ。でも、あの可哀想なマドゥレーヌに対して持っている気持は強いの。激しいの。抑えようとしても抑えられない、強い気持なの。
 ソルニエ(苦い気持。)あの子が僕を愛していて、それで君は僕を愛していない。そう言いたいんだね?
 マダム・ベリアール あの子はあなたを愛しているの。私があなたを愛しているよりずっとずっと強く。あの子の性格はあなたの性格に合っている。あの子が苦しんでいるのを見ると私・・・あんなにいい子、あんなに優しいあの子が・・・それを見てどうして、どうしてこの私が、あの子の将来を考えて、手を尽くしてやりたいと思わないでしょう。あなたにも分る筈。あなたも心を打たれる筈。あなたもいい人なんだから・・・それを無慈悲に・・・いえ、それはあまりに不公平だわ!
 ソルニエ お願いだ、黙って。そんなことは言わないで! こんなところで正義だの、不公平だの、それはこの僕の一番神聖なものを冒涜することだ! 君は僕を愛してない。ああ、僕を愛することなど、決して出来はしないんだ! 君には愛なんて、別世界のもの、理解不能のものなんだ!
 マダム・ベリアール 私、あなたの苦しみは分るのよ、ロベール。でも、それと同じようにあの子の苦しみも!
 ソルニエ 僕の苦しみが分る! それでその同じ口が、無私の善良さに名を借りて、僕とあの子を救おうという・・・何ていうむごさ!
 マダム・ベリアール(声に涙あり。)あなたって、人の好意がちっとも分らない・・・恩知らず!
 ソルニエ(心身疲れ果てて。)その好意というのが残酷なんだ。よかれと思ってすることが悪いどころか最悪・・・施(ほどこ)し、見せかけ、妥協、引き延ばし・・・愛そのものに反する汚い遣り口なんだ。
(誰か扉をノック。)
 マダム・ベリアール(声が変る。)私、上へ行きます。・・・もう少し落着いて下さったら、そんなに厳しい言葉を受けなければならない私ではない、と気がついて下さる筈です。(ソルニエ、立ったまま頭を垂れる。再びノックの音。マダム・ベリアール、左手に退場する前に。)さあ、扉を開けて。
(マダム・ベリアール退場。ソルニエ、疲れた足取りで奥に進む。鍵をかけてあった扉を開く。マドゥムワゼッル・セリンヌが扉の外にいる。)

     第 七 場
(マドゥムワゼッル・セリンヌ登場。ソルニエ、彼女に背を向け、舞台前面に戻る。)
 マドゥムワゼッル・セリンヌ(扉を閉めながら。)お邪魔してすみません。工場長。(前を見る。)
 ソルニエ(ムッとしたまま、やっと。)何、用です。
(ソルニエ、うろうろと歩き回る。手はポケットに入れ、頭は下げ、マドゥムワゼッル・セリンヌを全く無視。)
 マドゥムワゼッル・セリンヌ(ソルニエに二三歩近づきながら。)工場長、私、ビロードの乾燥室に四人行かせたんです。工場長の指示通りに、水槽が動かなくなって、暇になった四人を。
 ソルニエ(上の空。)うん・・・
 マドゥムワゼッル・セリンヌ(冗長に。)四人じゃ出来ないって言うんです。その癖、ビロードを運ぶ帰りに、毎回十分もお喋りをして、ストーブで暖まって。その間にビロードはどんどんたまって行くんです。私が階段から呼んでも、聞えないふりをして。私のことをみんな馬鹿にしているんです、工場長。私、二度もみんな呼び戻しに行きました。二回目の時、みんながルルーと喋っているのを見つけたんです。連中にルルー、煙草をやったんです。ルルー、みんなを煙草で釣って、お喋り。そう、それでいい気になってルルーと話しているのがジェルメーヌ・ロジェ。あの連中、みんな入れ替えるしか手はありません。そう、それしか方法はないんです、工場長。ですから私、水槽の仕事をしている者の中から新しく五人、指名したんです。でも水槽から離れたくないなんて、生意気を言うんです。「私達が選ばれる理由が分らない。他の人でもいいんでしょう?」って言ってきかないんです。最初に選ばれた人よりもっと働きたくないんだわ、この連中。
(マドゥムワゼッル・セリンヌ、答を待つ。答はなし。)
 ソルニエ(じっと前方を見詰めたまま。)今日は何曜日だ? 水曜日か?
 マドゥムワゼッル・セリンヌ いいえ、火曜日です。(長い間。)どうしたらいいんですか、工場長。(間。)ちょっと来て下さいませんか? ちゃんとするようにって。(間。)工場長なら、すぐ言うことを聞くと思うんです。
(間。)
 ソルニエ(突然立上がり。)何? 一体、何がどうしたって言うんだ。君はさっさと部署に帰りなさい。私を放っておいてくれ。
 マドゥムワゼッル・セリンヌ でも、工場長・・・
 ソルニエ(だんだんと声を張上げ、最後には叫び声になる。)出て行け! 分らないのか! 出・て・行・け!(マドゥムワゼッル・セリンヌ、恐れをなし、慌てて退場しかける。扉まで来た時、ソルニエ、呼止める。)ちょっと待って! ムスィユ・メゾンを呼んでくれ、ここに、すぐにだ。
 マドゥムワゼッル・セリンヌ(震える声で。)分りました、工場長。
(マドゥムワゼッル・セリンヌ退場。ソルニエ、しっかりした足取りで仕事机に進み、椅子に坐る。引出しを開け、ノートとシャープ・ペンシル、その他色々なものを取出し、ポケットに入れる。メゾン登場。)
 
      第 八 場
 ソルニエ メゾンさん、あなたに頼みたいことがあります。
 メゾン はい、何でしょう。
 ソルニエ あなた、夕食後、何か予定がありますか?
 メゾン いいえ、別に。
 ソルニエ 夜、誰かと約束は?
 メゾン いいえ、誰とも。
 ソルニエ 私の家に今夜来て戴くというのは、迷惑でしょうか?
 メゾン(驚いて。)いいえ・・・迷惑などと!
 ソルニエ 友人としてお頼みしたいことがあるのです。お話したいことが・・・その、つまり・・・ここの・・・仕事のことで、ちょっと・・・私は明日、休みますから。
 メゾン 明日、お休み? お身体の具合がお悪いので?
 ソルニエ いえ、そうではありません。
 メゾン いえ、お悪そうです。どこかお悪いのでは?
 ソルニエ いや、病気ではありません。お話します、今夜。ここでは駄目です。長い話ですから。家に来て戴くのはお手間です。私がお宅に伺った方がよいのかもしれませんが、お宅には家族の方もいらっしゃるし、家は私一人だけですから。
 メゾン 構いません、工場長。それにしても・・・何か大変なことでも?
 ソルニエ 後で説明します。とにかくあなたにお願いがあるのです。
 メゾン それはもう! 私に出来ますことなら何でも!
 ソルニエ ええ、分っています、メゾンさん。
 メゾン じゃ、今晩。で、何時に?
(マドゥレーヌ登場。)
 ソルニエ(囁き声で。)八時半・・・九時・・・あなたに都合のよい時に。
 メゾン 分りました。
(メゾン、扉の方に進む。ソルニエ、熱に浮かされたように机の上を片づける。)
 マドゥレーヌ(メゾンに。)ソルニエさんに、あの表、見せて下さった?
 メゾン はい、お嬢さん、工場長は御覧になりました。
(メゾン、さっと退場。)

     第 九 場
(この場の間にだんだん外は暗くなる。)
 ソルニエ(書類に鼻を無理に突っ込むようにして。)ええ、見ましたよ、マドゥレーヌ。早見表はよく出来ていました。出来過ぎと言ってもいい! 随分手間でしたね。あんな計算は私に任せておくんです!
 マドゥレーヌ じゃ、ああいう表だったのですね? 必要だったのは。
 ソルニエ そう、ピッタリああいう表。ただ、あんなに量が多いものまでは必要なかった。必要以上です。あの早見表は、メゾンさんに渡してあります。きっともうメゾンさんは、あれを使ったでしょう。
 マドゥレーヌ(手帳を下に下ろして。)私、在庫調査をしました。今晩清書します。
 ソルニエ(片づけに没頭しているふり。)急ぎの用じゃありません、あれは。
 マドゥレーヌ つけ落しはあまりありませんでしたけど、使用ずみのものがかなりあって・・・(間。その間にソルニエを盗み見る。ソルニエ、目を上げない。)叔母は戻って来ましたかしら。
 ソルニエ ええ、ええ。今、上です。
 マドゥレーヌ じゃ私、上に行きます。
(左手の扉に進む。ソルニエ、急に背筋を伸ばし、頭を上げる。一秒間躊躇い、それから立上がる。緊張した声。)
 ソルニエ(マドゥレーヌが扉に達した時。)待って!・・・私は出なければなりません。その前にあなたにひと言・・・(マドゥレーヌ、振返る。動かない。苦しい気持。ソルニエ、マドゥレーヌの傍に行き、仕草でストーブの傍の椅子をすすめる。)ここに来て! どうしても私は話さなければ・・・ここに坐って・・・先に謝ります、これからの話はあなたに辛いものになります。でもこれは、やらなければ・・・どうしても・・・こうしなかったら、きっと、もっと苦しむことに・・・
 マドゥレーヌ(締めつけられるような声。)ソルニエさん・・・
 ソルニエ 何も言わないで。頼みます! あなたを見ないでお話します。どうか、何も言わずに聞いて下さい・・・この仕事は大変辛い。出来ることならこういう瞬間はなしですませたい。あなたにもない方がいいに決っている。黙っている方がずっと楽なのです。でも私は、あなたを尊敬している。尊敬しているからこそ、黙っていてはいけないんだ・・・(間。)そう、こういうことです、マドゥムワゼッル・マドゥレーヌ。あなたが叔母さんに話した事柄が、私に伝えられたのです。
 マドゥレーヌ(立上がり、苦しい声で。)ああ、どうか私を行かせて!
 ソルニエ(マドゥレーヌの肩に片手をあてて。)どうか、お願いです。坐って!
 マドゥレーヌ 誰です、話したのは。デゾルモ?
 ソルニエ ええ、デゾルモです。その方が良かったのです。あの人は良かれと思ってやったのですから。そして勿論、私がこれから・・・ええ、これからお話しようとしていることを、あの人は知らないのですから・・・
 マドゥレーヌ(低い声で。)言わないで。私、分ってます。
 ソルニエ いいえ、きっと全部ではない筈です。でも、あなたは全部知らなければ・・・ああ、あなたは薄々感じていると思っていたのです、マドゥムワゼッル・マドゥレーヌ・・・私はあなたの叔母さんを愛しているのです。
 マドゥレーヌ ああ・・・
 ソルニエ 気違いのように。もう長い間。もう何年も前から! どうしてあなた、それに気づかなかったのでしょう!・・・一昨日、あなたと私、二人だけでした。上で。私は少し変でした。あなたの前でぎこちなかった。それは、今のことをあなたに打ち上けようとしていたからなんです。
 マドゥレーヌ まあ!
 ソルニエ 私はあなたの言葉を、私の思い込みだけで、私に都合よく理解していたのです。ご免なさい! あなたはもうとっくにご存知だとばかり。あなたの言葉、態度、が全部、今打明けろ、と言っているように思えたのです。だからもしあの時、あなたの叔母さんが入って来なかったら・・・
 マドゥレーヌ(唖然として。)ああ、二人とも、自分にだけあてはめて、自分の良いように受取っていた・・・(間。)叔母はそのことを知らないんですね?
 ソルニエ いや、知っています。
 マドゥレーヌ(辛い驚きの声。)ああ、叔母は私にそのことを話してくれなかった・・・
 ソルニエ 待って! あなたには分る。あなただけにしか、ここで分る人はいない。あなたにだけはどうしても知って貰わなければ! マダム・ベリアールは、私があの人が好きなのを知っています。それはもう百も承知です。あの人があなたにそれを言わなかったのは、たとえ勇気がなくて言えなかったにしろ、それはあの人が私を愛していないからです。それはあの人があなたに、私によく分らない何か、希望を持っていて、そのためにあなたに話さなかったのです。あなたが私を愛しているのに、私の愛があの人を煩わせるのは、あの人には馬鹿げて、それに不当に、見えるのです。そうです、マドゥムワゼッル・マドゥレーヌ。それは馬鹿げている。悲しいことです。でも、ありようはこうだ! こうなんだから、しようがない。あの人には、こうだということが理解出来ないのです! 私に出来ることは唯一つです。私は出て行きます。一日でもこの家に居残ることは出来ません。
 マドゥレーヌ 出て行く、ですって? いいえ、いけません! 誰かが出て行かなければならないなら、出て行くのはこの私です!
 ソルニエ あなたはまだ分っていないのです! 私が出て行くのはあなたのせいではありません。あの人が私を愛していないから、あの人が私を決して愛すようにはならないから、それを私が今や確信しているからです! 私はつい最近、出て行くことを決心しました。しかし、あの人が私に希望を持たせました。・・・ええ、大変希望を抱かせてくれたのです。工場に引き留(と)めたい気持だけから、そうしたとは私は思いません。思わないし、そう思いたくありません! あなたの叔母さんには、そんな計算が出来る人ではないでしょう? ね? いいえ、あれは慈悲の気持でなされたことです。分りますね? あの人は私を、慈悲で引き留めたのです。慈悲で嘘をついたのです。私はそう信じる・・・そう、信じます・・・ああ・・・
(間。)
 マドゥレーヌ 叔母はこの私のために・・・慈悲の気持で・・・嘘をついた、とはお思いになりません?
 ソルニエ あなたのために? ああ、あなたのためにでもありましょう・・・でも、あなたに対しては、嘘じゃありません。あなたのことは、心から愛しているんです。愛しているから、あなたには本当のことを言わなかったのです。その気持は真実なんです。あの人に出来る愛・・・ただ一つの愛、それはあなたへの愛なんです。
 マドゥレーヌ(ちょっとの間の後。)でも、この話全部、デゾルモさんからお聞きになったことから判断して出て来たものなんでしょう? 叔母はあの人の知らないことを考えているかもしれません。だって、叔母自身がそう言ってはいな・・・
 ソルニエ いえいえ・・・
 マドゥレーヌ じゃ、その他にも何か?・・・
 ソルニエ 私の知っていることで? ええ。もうここまで来て何を隠すことがあるでしょう。叔母さんはさっきここに来たんです、デゾルモの後に。叔母さんからもきっと話がある筈と、デゾルモは予め私に言っていましたけど。ここに叔母さんが来て、そしてあなたの話をしたんです。すっかりあなたの方の(味方をして・・・)
 マドゥレーヌ ああ・・・可哀想に、叔母さま・・・
 ソルニエ(悲しそうに。)それが私にとってどんなに悲しいことだったか、あなたにはお分りにならないでしょう。いえ、誤解しないで。あなたがこんなことを引起したから悲しいんじゃありません。あなたのせいではなくて、叔母さんと私の間に、すでに起きていたことのためです。私には、そのせいで、希望以上の何か、約束以上の何か・・・があると・・・少なくとも私にはそう思えた・・・でも、突然、叔母さんが私にしてくれていたことは単なる好意、優しさを示すものだけのもの・・・施しだった・・・と分ったのです。(間。その間マドゥレーヌは涙を抑えることが出来ない。)ああ、ご免なさい・・・あなたを苦しめたりして・・・でも、どうしても私がここを出て行く本当の理由を知って貰わなければ。こんな哀れな告白、それをわざわざあなたに、その告白のせいで苦しむに違いないあなたに、却って知って貰わなければならないなんて!
 マドゥレーヌ ああ、私の過ちのせいだわ、あなたがこんなに苦しむのは! 私のせい、私の・・・
 ソルニエ 違います、あなたのせいじゃない! 遅かれ早かれ、必ず分ることだったんです。今日来なかったら、きっと時間をかけて、ゆっくり。結果としてはこの方がいいんです。(現実に戻って。)ですから、私は出て行かなければ。
 マドゥレーヌ どうしても?
 ソルニエ ええ、どうしても。私のためだけじゃない、みんなのためにも・・・(間。)分ってくれますね? それから、お嬢さん、あなたは良い人だ、それに強い人です。ですから、この私の出発の手助けをして下さらなければ。私が出て行くことで、この工場の運営に動揺があってはいけません。あなた一人です、この仕事の本当の力になれるのは。あなたの叔母さんに代ってあなたにお願いします。勿論私のためにも。・・・やってくれますね?
 マドゥレーヌ はい。
 ソルニエ 有難う!(間。)今夜メゾンが私の家に来てくれます。
(右手の扉からタイピスト登場。手に書類を持っている。)

     第 十 場
 タイピスト(ソルニエの机に進んで。)手紙にサインが戴きたいのですが・・・
 ソルニエ あ、そこへ置いて。終ったら呼ぶ。
(タイピスト、机から遠くない奥のスイッチの方に進む。灯つく。おだやかな光。)
 タイピスト それから、お嬢様、見本はそちらで?
 マドゥレーヌ(やっと。)それも机の上。
 ソルニエ(急いで。)そう、そこ。右の方。(タイピスト、カード(複数)を取る。)待って。見せて。(カードを受取り、調べ、タイピストに渡す。)大きな方の封筒にして。郵便配達はもうすぐだからね。
 タイピスト はい、分りました。
(タイピスト、右手から退場。)

     第 十 一 場
 ソルニエ(間の後。)そう、メゾンに今夜来て貰うことにした。辞めることを話すつもりです。
 マドゥレーヌ どう説明なさるお積りですの? 他の人にはどう?
 ソルニエ 大丈夫。あなたにもすぐ分ります。メゾンとは長いつき合いです。口が固い。彼なら本当のことを言えます。
 マドゥレーヌ(心配そう。)あの人なら?
 ソルニエ そうです。マダム・ベリアールと離れる必要があって、とだけ言います。メゾンはこの二年間、ずっと私の気持を知っています。私は何も言ったことはありませんが、彼には分っています。彼だけです、ここで起っている事が見えている人物は。工場の人達には、私は病気。それで明日発つ、と説明します。でもここには二週間留まります。毎日メゾンに、家に来て貰います。マドゥムワゼッル・マドゥレーヌ、あなたが私の代りをやるのです。あなたはきっと、非常に短期間に、私の役が出来るようになります。それは保証します。
 マドゥレーヌ そんな! 完全には無理です。
 ソルニエ いいえ、出来ます。メゾンを間に立てて、私が援助します。心配しないで。あなたが参照出来るように、メモを作ります。原材料の購入、設備、顧客、仕事の運び方、等々について。分りますね?
 マドゥレーヌ(おとなしく。)はい、分りました、ムスィユ・ソルニエ。
 ソルニエ 日常のことでは、もう私が必要でなくなる時がすぐ来ます。そうしたら私は、病後休暇でひと月田舎で暮らします。
 マドゥレーヌ それからは?
 ソルニエ それからは噂が届くでしょう、私がどこかの染色工場で、何かの地位についたという。そしてここには戻って来ないという噂が・・・でも・・・でも、連絡は必ず保ちましょう。いいですね? あなたの質問、相談は、常に受けます。ここの工場は必ずうまく行きます。それに、優秀な人達があなたの部下についているんですから、あなたのためにきっと・・・
 マドゥレーヌ その人達、あなたを尊敬して、あなたもその人達のことを・・・
 ソルニエ ええ・・・私もあの人達の心をよく掴むことが出来て・・・でも、最初気にかけたのはあの人達じゃなくて・・・その代表のような・・・
 マドゥレーヌ(すぐに誰のことかが分る。心を打たれて。)ええ・・・私も・・・ここの工場に、研究室に、引きつけられました・・・でも、それだけじゃなかった、引きつけられたのは・・・
(間。)
 ソルニエ(低い声。心を打たれて。)マドゥムワゼッル・マドゥレーヌ・・・
 マドゥレーヌ(遮って。)ご免なさい、いけないことを言って。
 *ソルニエ 何故です。私は聞いてもよい言葉でしょう? それを聞いて何も感じない私ではありません。悲しいに決っています。・・・叔母さんのことだけが頭にあるなんて、そんなことはありません。
(元註 「*」から次の「*」までは上演の時、省略された。)
 マドゥレーヌ 私、嬉しいです。
 ソルニエ 今では、この工場のことを、本当に好きになっているんでしょう? あなたが私の代りをやって下さる、それは考えても嬉しいことです、私にとっては!
 マドゥレーヌ ああ、あなたがここを辞めるなんて! ここの仕事を! 胸の張裂けるようなことでしょうね。ああ、何てこと!
 ソルニエ 残念なことはもう一つ。私の研究です。ここで完成しようと思っていた・・・そう、我を忘れてやったな! 何日か、本当に我を忘れて・・・マドゥムワゼッル・マドゥレーヌ、あなたにもきっと、あの喜びが分る時が来ます。分る時が来るだなんて、私は何てことを言っているんだ! もう二人でその喜びを感じたんじゃないか! ああ、あれは素晴しい経験だった。
 マドゥレーヌ(声に涙あり。)ええ、素晴しい経験。
 ソルニエ 私が研究の方面で見つけたことはみんなお教えします。たいしたものじゃありません。それは分っています。でも、私があなたに差上げられるものは、これぐらいしかありません。でもこれは、私の持っているものの中でも、そんなに悪いものではありません。それに、あなたと共有している唯一のものでもあります。研究のことを考える度に、必ずあなたのことを思い出します、マドゥムワゼッル・マドゥレーヌ。あなた、ここを捨てるようなことはしませんね?
 マドゥレーヌ(辛いながら、やっと。)ええ、そんなことは!  *
 ソルニエ(落着きを取戻して。)そろそろお別れですね。明日の朝、メゾンが来て、明日一日あなたがすべきことを知らせます。机はほぼいつも通りに整理して置きます。(ファイルを見せて。)まだ返事を書いていない手紙がここにあります。明日の朝、目を通して、何か問題があったら、メモを書いてメゾンに渡して下さい。いいですね?
 マドゥレーヌ はい、分りました、ムスィユ・ソルニエ。
 ソルニエ マドゥムワゼッル・マドゥレーヌ、お別れの時が近づきました。私は手紙にサインして、ここを出ます。叔母さんが降りて来られると困ります。私のお願いを聞いて下さい。叔母さんのところへ行って、私の出発の話をして下さいませんか・・・
 マドゥレーヌ 知らないんですか? 叔母は。
 ソルニエ ええ、ご存知ありません。二人でここで話したことを伝えて下さい。いづれにせよ、お話し下さるとは思っていましたが。
 マドゥレーヌ 叔母にはお会いにならないのですか?
 ソルニエ ええ、会ってはいけません。手紙は書くつもりでいます。・・・マドゥムワゼッル・マドゥレーヌ、ここでさよならは言いません。これから数日、一緒に仕事をするんですからね。それも、今までやったことのないような大事な仕事を。
 マドゥレーヌ(辛そうに。)でも、お会いすることはない・・・
 ソルニエ(心を打たれて。何か言う言葉を捜す、が、ない。)マドゥムワゼッル・マドゥレーヌ・・・
 マドゥレーヌ さようなら・・・(左手の扉まで行き、立止り、躊躇いながら。)ムスィユ・ソルニエ・・・すぐお出にならないで!
 ソルニエ 何故? まだいますよ。ああ、ほんのちょっとだけ。手紙にサインするだけですが。
 マドゥレーヌ すぐ私、叔母にあなたの出発のことを話します。それで・・・もし、ここに来て・・・お会いしたいと言ったら・・・まだ出てはいらっしゃらないと言っても(いいでしょうか?)・・・
 ソルニエ(困って。)お申出は嬉しいです・・・が・・・いけません。だいたい二人が会わねばならない理由がありません。私は言いました「もう少しはいる」と。でもそれは叔母さんには言わないで下さい。それから、叔母さんにあなたから、何も頼んではいけません。いいですね?
 マドゥレーヌ はい、分りました。
(二人、さよならの軽い仕草。マドゥレーヌ退場。)

     第 十 二 場
(ソルニエ、一瞬、不動。ぶるっと震え、深く息を吸う。それから急いで机に向う。手紙に注意深く目を通し、サインする。その時職工達、工場から出て来て、中庭に向う。中庭にガス灯がつく。上部の隙間からガス灯が観客に見える。しかし磨りガラスを通しては見えない。磨りガラスの上には、廻り灯籠のように、職工達の陰が映っている。ソルニエ、最後の手紙のサインが終り、立上る。仕切り壁のところにじっと立ち、工場の出口を窺う。それから、奥の扉に進み、敷居のところに一瞬立つ。)
 職工達(男も女もいる。異なった間合いで、数人が言う。)さようなら、ムスィユ・ソルニエ・・・お休みなさい、ムスィユ・ソルニエ・・・
 ソルニエ(一人一人に答えて。)さようなら・・・さようなら・・・(ソルニエ、扉を閉める。事務室を、ゆっくり目を移しながら、じっと見る。外套を釘から外し、着る。手に帽子を持って、左手のマダム・ベリアールの方の扉まで行き、一瞬立止る。躊躇い、それから急いで右手の扉に行き、半分開けて。)マドゥムワゼッル、サインは終りました。
(ソルニエ、机に戻る。タイピスト登場。)

     第 十 三 場
 ソルニエ ご免なさい。君を工場で最後の人にしそうだ。
 タイピスト いいえ、そんなこと。たった二三分のことですわ。
(タイピスト、左手奥にある印刷機で手紙(複数)のコピーをとる。ソルニエ、カードを電話機に差込み、受話器を取る。)
 ソルニエ もしもし・・・レオン?
 タイピスト もうお帰りになりましたよ。そこを通る時、私、見ました。
 ソルニエ(がっかりして。)そうか・・・仕方がない。
 タイピスト 乾燥室まで行ってみましょうか? ひょっとして・・・
 ソルニエ いや、いい。(立上る。周りの物をいろいろ置き直したりして、それから、タイピストのところに戻る。)じゃ、さようなら、マドゥムワゼッル・アンドレ。
(ソルニエ、握手のために手を出す。)
 タイピスト(驚いて。)さようなら、ムスィユ・ソルニエ。また明日。
 ソルニエ 明日? ああ、多分明日はない。ちょっと具合が・・・頭が痛くてね・・・たいしたことはないんだが・・・じゃ、さようなら。遅くなったね、急いで。
 タイピスト さようなら、ムスィユ・ソルニエ。
(ソルニエ、扉を開け、タイピストを少しの間眺め、さよならの会釈。そして静かに退場。タイピスト、片づけを素早くすませ、右手の扉に進む。その時、左手からマダム・ベリアール登場。扉は半開きのまま。タイピスト、振返り、立止る。)

     第 十 四 場
 マダム・ベリアール ソルニエさんはお帰り?
 タイピスト ええ、たった今。
 マダム・ベリアール ああ・・・有難う。
 タイピスト さようなら、奥様。
 マダム・ベリアール さようなら。
(タイピスト退場。マダム・ベリアール、溜息をつきながら、ストーブの傍の椅子に坐る。マドゥレーヌ、左手の半開きの扉から登場。)

     第 十 五 場
 マドゥレーヌ もう行ったのね?
(マドゥレーヌ、マダム・ベリアールの傍に近づく。)
 マダム・ベリアール ええ。(マドゥレーヌ、わっと泣き出す。マダム・ベリアール、マドゥレーヌの傍に駆け寄り、抱寄せる。)マドゥロン! マドゥロン!(マダム・ベリアール、マドゥレーヌの背をさすり、慰める。)私、これが一番と思ってやったわ。でも、間違っていた。(間。)あなた、私の気持、分ってくれるわね?
 マドゥレーヌ ええ。
 マダム・ベリアール(抱きしめて。)これからは、良い方向に行くだけ。きっと。(マドゥレーヌ、まだ泣いている。)あの人、もう決して私のことは思わない・・・あなたに好かれていることが分ったんだもの・・・
 マドゥレーヌ 黙って、叔母さま・・・お願い!
 マダム・ベリアール 年月(ねんげつ)が経って行く・・・この先どうなるか・・・誰にも分らないけど・・・私はきっとデゾルモと結婚。あなたは・・・
 マドゥレーヌ(苛々と。)黙って!
 マダム・ベリアール いいの、いいの、マドゥロン。もう何も言わない。さ、上りましょう。
(マダム・ベリアール、マドゥレーヌの腕の下に自分の腕を入れ、促す。)
 マドゥレーヌ(腕をほどいて。)待って!
(マドゥレーヌ、ソルニエの机に走りより、ファイルを取上げ、持って来る。)
 マダム・ベリアール 何? それ。
 マドゥレーヌ 手紙。(マダム・ベリアールのところに戻り、一緒に左手の扉へ進む。)目を通しておいてくれと頼まれたの。
                   (幕)

 平成二十年(二00八年)二月十六日 訳了



http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html

(Repesentee pour la premiere fois a la Comedie des Champs-Elysees, le 9 ctobre 1925.)
A la memoire de Cecile Guyon
Personnages
Madame Veuve Beliard, trente-deux ans... Mmes Valentine Tessier.
Madeleine Beliard, niece de Madame Beliard, vingt-six ans... Cecile Guyon.
Mademoiselle Celine, ouvriere, cinquante ans... Jane Lory.
Louise, la bonne... Raymone.
La Steno-Dactylographe... Mlle Gisele Mellin.
Robert Saulnier, directeur de l'usine Beliard, trente-cinq ans... MM. Constant Remy.
Desormeaux, rentier, quarante ans... Romain Bouquet.
Maison, preparateur, cinquante-cinq ans... Jean Le Goff.
(Mise en scene de M. Louis Jouvet.)