目次
第3回:日本の起こり(2000・9・12)
第2回:音楽の起こり(2000・8・8)
第1回:はじめに(2000・6・25)
| 第3回:日本の起こり 1.日本について 1)日本のル−ツと 日本人 自然人類学の埴原和郎氏は、今日の日本人のルーツは、沖縄で発掘された港川人だという。 今から2万年前のわが国は、北と南がアジア大陸と陸続きだった。この頃(氷河時代)は、陸地に降った雨が氷になってへばりついて海に還る量が少なく、海岸線は今より約百メートルも下がっていたと推定される。だから、日本列島はほとんど大陸とくっついていた。朝鮮半島と九州の間は、細い川が流れている程度だった。 当時の人達はそんなに寒いところで暮らす技術をもっていなかったので、勢い赤道のあたりを目ざして集まってきた。強い人間から順に条件のよいところに住めたのは、力がルールだった時代としては当然か。当時の人口密度は10平方キロに1人だつたという。 このような時期に、スンダランドという今日のインドネシアにあたるあたりから北上してきたのが、日本人のルーツである沖縄・港川人だった。マンモスやオオツノジカなどの大型獣を追って、人もたくさん渡ってきたものと思われる。 2)日朝の交流 日本古代史の上田正昭氏(高名な歴史学者であるとともに、円山応挙や出口王仁三郎が氏子だった京都・亀岡小幡神社の宮司) によれば、朝鮮半島系の移住民には 1、紀元前三世紀〜紀元後三世紀(弥生文化期)の第一波 2、五世紀(応神・仁徳天皇期)の第二波 3、五世紀後半〜六世紀初(雄略・欽明期)の第三波 4、七世紀後半(天智天皇期)の第四波 という四次にわたる大きな波があったという。 日朝往来について韓国側の専門家は以下のように語る。 旧石器時代終末期から紀元後七世紀にいたるまでの長い年月の間、韓半島から日本に向けて何度かの大規模な住民移動がおこなわれた。それら移住は戦乱からの逃避か、より暖かい、より生産性の高い、より生活条件のよい地域への移住か、あるいはその両方であっただろうが、とにかく移民団は平和的に上陸し、平和的に受け入れられたらしい。こうした半島からの移住は、日本の弥生時代から古墳時代にかけて特に目立っているが、そうした大規模な移民群が平和的に受け入れられて定着し、租界的なものではなく、帰化人として同化、吸収されていったところが、古代韓日関係、あるいは渡来人そのものの特殊な性格あるいは様相といえよう。 (キム・ウオルリョン『日韓古代史の謎』 朝日新聞社 1992年) 2000年8月18日、日本の大手新聞各社は、一斉に奈良・植山古墳の石舞台級の石室ニ基の発見を大々的に報じた(朝日・毎日・産経は一面トップ、他は準トップの扱い)。皇子と合葬された推古天皇の墓で、「記紀」の記述を裏付けるものだというのだから、この扱いも当然か。発見には、もう一つ重大な意味が含まれていた。仮墓らしいとはいえ、それが天皇の墓だったことである。 天皇陵は、今日に至るまで 宮内庁が内部調査を認めておらず、わが国古代史解明の大きな妨げになってきた。今回の発見は、天皇の墓の実態を知ることのできるきわめて重大な機会を提供してくれるかもしれないのだ(19日の朝日新聞『天皇陵の学術調査を」、と24日の日本経済新聞「陵墓の学術調査に道を」は、そのことを社説で取り上げた)。 話を古代日朝交流に戻す。皇国史観から解放されて以来、わが国の古代史は、朝鮮半島の影響の大きさを何度も認識し直す歴史だったといえるかもしれない。かつての「大和朝廷が四世紀に国家を統一した」との教科書の記述も、今日では「六世紀に統一のメドをつけた」に後退し、任那日本府については、触れられないことも多い。 3)中国の資料 古い時代の日本を知るには、八世紀の『古事記』『日本書紀』や、『風土記』(少し遅れて『懐風藻』『万葉集』)が数少ない手がかりになるが、中国にはそれより古い記述が残されている。これら『魏志倭人伝』や、『後漢書』『宋書』『隋書』などの「四夷(外国)伝」は、日本古代史研究の上では欠くことのできないきわめて貴重な史料である。これらにより、八世紀からさらにニ・三百年前の日本の様子を知ることができる。 魏志倭人伝には、「男子は大小と無く、皆黒京面文身(いれずみ)す」、「其の風俗淫ならず」、「倭の地は温暖、冬夏生菜を食す。皆徒せん(はだし)。屋室有り、父母兄弟、臥息所を異にす。朱丹を以ってその身体に塗る。中国の粉を用うるが如きなり。また食事には高杯を使って手食し、その死には外箱のない棺を用い」とある。家は土でできていたようだ。葬式も独特だったことがわかっている。喪主は肉食を控え、泣き続けなければならない。一方、他人は悲しむどころか、むしろ大いに歌い、踊り、盛大に宴会を行うのが正しい作法だったというのだから面白い。 4)「日本」の呼称について 多くの方がご存知のように、わが国は初めから「日本(にほん・にっぽん)」と呼び・呼ばれていたわけでわない。「倭(ヤマト)」の呼称がかなり長く使われてきた。もちろん、ある日突然呼び名が変わったわけではなく、十世紀までは両呼称が併用され、十一世紀になってようやく日本国の呼称が正式に歴史に定着する。 「日本」の呼び名は、中国唐代(701年山上憶良が加わっていた大宝の遣唐使に使用例あり)に用いられるようになり、わが国に移入されたとする説があるが、もしそうだとすると、楽器としての「尺八」と、まったくその出自を同じくすることになる。 「尺八 は、中国唐代に誕生し、わが国に伝えられた」というのが、通常の学説。ただし、尺八の構造そのものは孔を開け、吹き口の部分を斜めにカットしただけ(ひちりきやクラリネットなどのようにリードという吹くための別部品もなし)なので、人類誕生以来存在していてもちっともおかしくない、と私は考える。 ] 2.日本の音楽について 1)古代の歌謡 わが国が、まだヤマト(大和・倭)と呼ばれていた時代の「うた」と「おどり」については、ある程度想像できる。 うたの歌詞、あるいは簡単な譜面から、当時のうたは、一つのシラブルについて様々な異なった高さの音を用いて長く延ばして歌っていたことがわかる。「メリスマティック」といわれるこのような歌い方は、今日に至るまで邦楽のごく一般的な歌唱法だが、この方法は 歌詞がきわめて聞き取りにくい。冒頭の発音を除くすべての音が母音だけになってしまうこの歌唱法は、われわれ日本人にもしばしば歌詞カードを必要とさせる。 2)古代の楽器 やまとことばで言うところの、「コト」「フエ」「ツヅミ」「スズ」「ヌリデ」などの名を持つ楽器があったことが、確認されている。 ヌリデは、漢字では「鐸」の字をあてる。BC1世紀頃には、既にわが国やまとに青銅器が伝わっている。その頃の銅鐸の内部には音を出すための舌があり、ベルの楽器としてつかわれていた。その後銅鐸の舌はなくなり、大型になって権威の象徴としての単なる飾りになってゆく。 フエは、吹枝ないし吹柄の漢字の省略形とされている。わが国における原始時代のフエは、内部が空洞の竹によるものの他、石や、土で作った球型のものもあった。今のところ、日本のフエは横笛から始まったというのが学界の大勢派だが、そのうち日本からも、タンチョウの骨でできた中国で出土したような縦笛が出てくれば、話は別になろう。 3)占いについて どこの国もわれわれの想像以上に呪術の時代が長く続く(もちろん現代においてもその痕跡は、随所に見られる)が、原始時代においては、文字通り呪術が生活のあらゆる部分を支配していた。古代の卜占「太占(フトマニ)」では、鹿の肩甲骨を焼いてその面に生じた割れ目の形で吉凶を占っていた。 トも占も亀トにあらわれた形を象形してできた文字だ(普通はこれをウラナヒという)。骨によるウラナヒ(占)の方法は、古代日本では最も基本的なやり方だった(これがフトマニである)。鹿の肩の骨に予め線を引いておき、それを桜の木の薪で焼き、そこに現れた亀裂を最初の線と比較・対照して吉凶などを判断した。 、奈良時代には中国から亀トの方法が輸入され、対馬・壱岐・伊豆にこの方法を世襲する者が住んだ。朝廷はこれを官製の組織に組み入れる(朝廷は亀トに変更しても、地方では鹿トが続けて行われていたと思われる)。 これを仕事をにしていたのが、排仏派として蘇我氏と争い、滅んだ物部氏であるらしい。情念の学者・梅原猛氏は伴信友の『正ト考』を参照して、そう結論づける。物部氏ゆかりの群馬県の神社から、大量の占いに使ったとみられる鹿の骨が出てきているのだ。なお、滅んだ物部氏の跡を襲ったのが、中臣氏(後に藤原に改正し、長く日本を支配する)だとのことだ。 4)原始・古代における呪術の重さ 文明社会に生きているわれわれは、(潜在意識においてはともかく)、当然のことながら、日常呪術に基づいた生活は送っていない。 いきおい古代社会における呪術の重みがわからないのだ。だから、再度しっかり専門家に教えを乞おう。 「『日本固有の占術、呪術が日本史を動かしてきた』といえば、たいていの人は眉につばをつけたくなるだろう。明治維新以来、私たちは西洋流の科学的な物のかんがえになれすぎているからだ』(武光 誠『呪術が動かした日本史』青春出版社)。 「人間は、万物の霊長とよばれるように、さまざまな能力を持ち合わせている.その能力のなかの最も原初的なものは、呪能ともいうべき呪術的能力であった。原始時代の人々は、自ら縄文の土偶をつくり、これに託して疾病の治癒を祈ったり、自然とのたたかいの成功を念じたりした。・・・東北地方に現在民俗芸能の名において保存かつ実演されている鹿踊は、その発生の当初、明らかに呪能の遺産力であった」(芸能史研究会編『日本芸能史T』法政大学出版局) 図らずも鹿の芸能「鹿踊り」の記述にも遭遇した。全国に伝わる尺八古典本曲のうち、明暗真法流にも同名の曲があり、私もよく吹く。通例の本曲と違って鹿踊りは禅臭くなく、その素朴で哀愁を帯びたメロディーは、はるか昔に民俗芸能から伝わったのではなかろうか、と想像させる。 5)古代の笛 日本では横笛の総称に「フエ」を使い、縦笛には「フエ」の名称は用いず、「ひちりき」や「しゃくはち」などの個々の楽器の名称で呼んでいた。そのことから、古代の笛即横笛(縦笛を含まない)となるわけだが、そんな一つの例をあげておく(723年成立の『常陸国風土記』の「行方郡」の条より)。 香澄の里より南十里に板来(今は潮来、訳者註)の村がある。近くには海辺が広がり、ここに霞ヶ浦巡行のための水上駅が設 置された。その西にある榎林は、天武天皇が追放したオミの大王(オオキミ)がいたあたりだ。霞ヶ浦では、いろいろな貝がとれ る。 古老が言うには、崇神天皇の時代に、東国の辺境の蛮族を平定しようと神武天皇の皇子・建借間命(たけかしまのみこと)を 派遣した。 皇子は、軍人を率いて凶悪な野蛮人を退治し、島に宿泊して潮来近辺を見回すと煙がみえた。そこに敵の軍勢が潜んでいる のではないかと危ぶんで、皇子は神と交感する瞑想状態(原文「ウケひて」)言った「もし潜んでいる軍勢が大和朝廷に帰順する 天孫系の人たちなら、煙よ、こちらへたなびいて私を 覆ってくれ。もし、彼らが土着の土蜘蛛族なら、煙よ、海の中へ入 ってなくなってしまえ」と。はたして煙は海へ向かったので、自ずと凶族がいることが判明した。皇子は即刻家臣に命じて戦闘の 準備を整え、島を渡った。 小隊長の国栖夜尺斯(くずのやさかし)・夜筑斯(やつくし)の二人は、先頭に立って穴を掘り、塹壕を築いてそこに常駐した。 戦況は膠着状態になった。皇子は命知らずの突撃隊を結成して窪地に伏せさせ、新しい武器を作ってデモンストレーションとし て渚に並べた。さらに船を連ね、筏を組み、美しい装飾を施された絹製の笠を翻し、虹のように軍旗を掲げて七日七晩にわたっ て、天の鳥琴と天の鳥笛の演奏を続けて、みんなで遊び楽しみ、舞い踊った. 土着の賊どもは、この盛大なる音楽(うたまひ)を聞いてすっかり気を許し、男も女も総出で浜いっぱいに広がり、大喜びでくつ ろいだ。この様子をじっと観察していた皇子は、頃合を見計らって馬を使って一気に関を閉じさせ、背後より蛮族を襲って全員を 捕らえ、焼き滅ぼした。 この記述により、すでに外来のものではない日本独自の琴や笛があったことがわかる。また、日本における音楽は単なる「おんがく」ではなく、歌と舞を意味する「うたまひ」と呼ばれていたのだ。 [風土記」は、本来全国について作るはずだったのだが、結局できたの五つだけ。「播磨」が 最初に出来、次が上に引用した『常陸」、続いて「出雲」「肥前・豊後」だけである。もっとも、断片的なものも加えれば他に48ほどある。今となっては場所を特定できない「御津柏」「木綿」「エグ」「条」「アハデノ森」などというのもある。 6)古代の琴 常陸風土記の上の引用文には、笛とともに琴(天の鳥琴)も出てくる。古代日本においては、琴は格別大切な役割を担っていた。 古代のウラナヒであるフトマニについては既に述べたが、その一種で琴を弾じている間の神秘的な調子のありようによって占うことも行われていたのだ. 古代における琴(和琴=「わごん」ないし「やまとごと」)は、単なる楽器以上の特別の存在だった。 当時の和琴は、たくさん出土している埴輪からもわかるように、今日の筝曲で用いるもののようには大きくはなかった(長さは約60センチ)。だからこそ、古事記(「大国主神・根の国訪問)において、オオナムジノ神が嫁(スセリビメ)の父(大神スサノヲ)により彼に与えられた数々の試練(通過儀礼にあたるものであろう)を乗り越え、妻を背負って逃亡する際、宝物である生太刀(いくたち)・生弓矢(いくゆみや)とともに「琴」も持ってゆくのである。ここでの琴は「天の詔琴(あまののりごと)」というその呼び名が示すように、神器なのだ。 そんな大切な琴を危険な思いをしながらも運んでゆくが、楽器でもあるがゆえに、木に触れた際鳴ってしまう。」「大地を揺るがすような大きな音がした」と古事記は綴る。当然スサノヲは目をさますが、娘の夫が立派に成人するであろうことを実感したのか、父スサノヲは、もはやそれ以上試練を与えようとはせず、むしろ心温かく貴重なアドバイスを与えて見送る。このアドバイスを忠実に守ったがために、オオナムジは堂々大国主神(オオクニヌシノミコト)へと成長してゆく。このストーリーは、天孫ニニギノミコトが天照大御神(アマテラスオオミカミ)から三種の神器を授けられ、葦原中国(あしはらなかつくに)の統治者になる場面と好一対をなす話だ。ここでの琴は、神を呼んだり、神の託宣を受ける時に用いる大切な宝物である。だからこそ、危急の際でも、必ず持ってゆかなければならなかったのだ このような、琴に関するエピソードはたくさんある。日本書記には、戦いに明け暮れた日本武尊(ヤマトタケル)が三十歳で病没したのを悲しんだ父の景行天皇は、深く嘆いて伊勢の国に葬ると、息子は白鳥に変身して倭の国めざして飛び立ち、最初に倭の琴弾原(「」ことひきのはら」、今日の奈良県御所市富田)に留まった、とある。 また、幼時から英知・聡明をうたわれた神功皇后の審神者(さにわ=神託を聞いてその意味を解釈する)に際して、武内宿禰は琴を弾いた。さらに、応神天皇は、廃船の残り木を薪にして燃やした時たくさんの焼け残りが出たので、残材で琴を作らせたらその音は澄んで遠くまで響いたとの記述もある。 雄略天皇のエピソードは、琴が楽器として使用されている例である。 雄略十二年(468年)、天皇は木匠(こだくみ)の闘鶏御田(つげのみた)に命じて楼閣を作らせた。この時、御田は高殿に上 がり、まるで飛んでいるようにあちこちを素早く動きはたらいた。これを仰ぎ見ていた伊勢の采女(うねめ)は、その速さに驚愕し て卒倒し、捧げ持っていた供物をひっくり返してしまった。天皇は御田が采女を犯したせいだと誤解し、刑吏に殺害を命じた。 この窮地を救うのが、天皇の側近の秦酒公(はたのさけのきみ)だ。公は、天皇に本当のことを伝えるために琴を弾き、歌に託 す。 「伊勢の国の、伊勢の野に、生え栄えた木の枝が全部なくなるまでたくさん伐って君に お仕えしたい。そのためには、自分の命も長く保たれてほしい、と常々言っていたのに まさかその匠が死罪になろうとは、本当に残念なことよ」 これを聞いた天皇は、闘鶏御田を赦す。 7)再び原始・古代について 古事記は、魅力的な神話・伝説に満ち、文学としてモ価値ある存在だが、それに比べると日本書紀はいささか評価が低いように思われる(たぶんロマンに欠けるのがその理由だろう)。しかし、日本書紀には歴史的に信頼のおける重要事項をたくさん含んでいる。もちろん、この点については音楽史も例外ではない。 日本人のうたやおどりや音楽のことがはっきりわかるのは、農耕生活が始まってからである。豊穣を祈り、同時に男女の出会いの場として「歌垣」というものが盛んに行われた.常陸、摂津、肥前、大和の広場や門前で、大勢の男女が歌い踊るさまは壮観だったろう。歌垣という楽しい集いの後では、かなり自由でおおらかな男女の性の交歓が行われていたという。人間の繁殖と豊作が一つの儀礼として結びついているのは、アジア大陸に共通である。 なにせ原始時代は、人は自然に対して全く無力。だから、呪術に頼るしかなかった。祈りや占いはしばしば巫女(シャーマン)によって行われた。その代表格が姫子であり、天の岩戸の前で裸になって踊ったアメノウズメノミコトだった。シャーマンに歌と踊りが不可欠なことは、世界共通である。 さて、これから話は音楽に絞り込まれてゆくのだが、ここまでのごく大まかな歴史の流れをおさらいしておこう。 縄文時代が一万年近く続き、弥生時代が約600年。紀元後に入って小国分立が統一され、邪馬台国連合として統合されるに至る.最後に大和朝廷を中心とする政治的連合が成立する。三世紀後半から七世紀頃の古墳が既にたくさん発掘され、そのことを証拠立てている. 五世紀からの百年は、倭の五王(讃・珍・済・興・武)が相次いで中国の南朝に朝貢したという(『宋書』の「倭国伝」による)。最初の二人の天皇(讃と珍)が、どの天皇を指すのかは説が分かれるのだが、済は、記紀に登場する允恭天皇だとほぼ確定される。 姫子はもちろん、それに先立つ200年近く前のおよそ1〜3世紀に、わがヤマトは大陸との交流を求めて使者を送っている。さまざまな技術の伝達はもちろん、文化の交流もあったと思われるが、今までのところはそれらの記録は見つかってはいない。[この稿終り] 第2回:音楽の起こり 1)ヒトが音を手に入れるまで 音楽を持たない民族はいないという。どの民族も、その音楽の起こりは「祈り」や「呪術」である。やり方はもちろん原始的で、声を出し、それも時には絶叫しながら、手や足を打ったりバタバタさせていた。そのうち、身振り手振りに迫力を加えるため、木片やガラガラ、槍などの道具が加わる。こうしておぼろげながら音楽らしきものの輪郭が形成される。 C・ザックスによると、こうした初期の「楽器」は、旧石器時代には既にあったという。もちろん、これらは音楽的な響きというよりは気味悪く、ゾッとするようなものだった。その目的が,美的鑑賞よりは自然の力を喚起したり、聖霊への働きかけにあったわけだから,それも当然だったといえよう。 古代人は楽器として自分の身体を盛んに叩くとともに、自然の素材に加工を加えるようになってゆく。こうして音楽分類上「体鳴楽器」や「気鳴楽器」といわれるものが現れる。 「吹奏楽器」としてのほら貝や笛が出てくるのは、この次の段階だ。押さえる穴はまだなく、たった一つの甲高い音が出るだけだ。これら全部の楽器が旧石器時代に既にあったのである。 指孔つきの笛の登場は、新石器時代だが、その材料は、動物の空洞部分の骨や角、貝殻などである。わが国はもちろん、オリエントやアッシリア、あるいは東南アジア全域に自生していた竹や葦も使われたであろうことは,容易に想像がつく。 さて、仮に、ここに中が空洞の動物の骨があり、これで笛を作るとしたら、あなたは縦・横どちらに作るだろう。 2)中国の笛 さて、これから1999年に報告された中国のきわめて古い笛についてご紹介するのだが、その前に古代中国の音楽の歴史について簡単に触れておこう。 最も有名な伝説によれば、紀元前2697年頃、伶倫という楽人が、時の黄帝によって西方の山々に竹管を採るため派遣され、その竹管から音楽の基礎的な音律が定められたという。また、最初に楽器として加工された物は、およそ紀元前千年頃からあらわれてくる。丸いふくらんだ土笛(オカリナ)と石の鐘(チャイム)がそれだ。 気の遠くなるようなはるか昔のことだが,本当はもっと古くに笛は作られていた。 この,世界音楽史上の一大発見にもなろうかという「事件」を、私は次の記事から知った。 3)1999年朝日新聞朝刊より 約9千年前の音色が現代によみがえった。中国・河南省にある新石器時代の遺跡から保存状態のよい笛が出土し、中国と米国の共同研究グループが実際に中国の民謡を演奏することに成功。七つの穴で現代とほぼ同じ音階を表現できることもわかった。 「演奏ができる世界最古の楽器」として,23日発行の英科学誌ネイチャーに発表した。 遺跡の推定年代は,紀元前7千年から同5千7百年。ほぼ完全な形で出土した笛は六本で、長さは17〜24センチ。ツルの骨の側面に5〜8個の穴が一列に並んでおり、縦笛のようにして吹いていたようだ(下線筆者) 研究グループは、保存状態のよい笛で特徴を調べた。現代の音階とほぼ一致する「ラ」「シ」「ド」「レ」「ミ」の五音と、「ファ」のシャープ音が出た。 4)「中国で発見された、新石器時代の演奏可能な楽器について(英・科学誌ネイチャー原文1999年9月23日号)」 「乗りかかった舟」と、ネイチャーを取り寄せた。 大変驚いたことには、表紙を飾ったこの楽器の写真は,見た感じ、雰囲気,全体のバランスなど,今日の尺八(普化尺八)そっくりなのだ。俄然私は興味を持った。それに、私は常々日本音楽研究者の間では半ば常識となりつつある「わが国では、縦笛より横笛が先に作られた」との説に異論があったので、隣国とはいえ7千年も前の縦笛が音まで出せる完全な形で出てきた事には並々ならぬ興味をそそられたのだ。こんな経緯から、ほぼ全文(一部音響学や考古学に関する部分を除く)を、ここに訳出する。なお、各種辞典や1999年当時小生の同僚だった中国人教員の教示も仰いだが、それでも確認できなかったロ−カルな地名などは、やむなくカタカナで表記した。ご存知の方はご教示いただきたい。 中国・河南省にある初期新石器時代の発掘調査において、おそらく最古と思われる演奏可能な楽器が完全な状態で出土し、年代の特定にも成功した。ジアフ遺跡は紀元前7千年から同5千7百年に及び、有名なペイリガン文明に先立つ存在と考えられる。そこにおいて、かなり精妙なつくりの六管の完全な笛が発見されたのである。 発見にあたっては「放射性炭素年代確定装置」を用いた。断片のみのものを加えると、楽器数は30以上にも及ぶという。これらの笛はタンチョウの尺骨で作られ、孔数は5〜8までさまざまだ。今回一番保存状態の良い笛を用いて再現演奏が試みられ、それに基づき分析が行われた。これら音楽的工芸品はもちろん、当時の中国社会の成り立ちについての記録もある。 これにより、ジアフ遺跡で見つかった工芸品の特徴はもちろん、厳密な年代確定や、中国新石器時代に先立つ地域を確定できた。また、それを構成した人種や音の分析などにより、これらがほぼ9千年前の楽器であることが断定された。 ジアフは河南省の真中にあるフニウ山の東、中央黄河渓谷に位置し、しばしばニ川の洪水に浸される平原を南にもつ。北には沙川がある。この遺跡は1962年にツーチーにより発見されたが、ペイリガン文明に関係する他のいくつかの遺跡が発掘されるまでは、その重要性が充分認識されていたとは言えなかった。 ジアフの地形は楕円に近く、東西に275メートル,南北は260メートルに及ぶ。黄土の下30センチから1メートルが近代の耕作地であり、その下に漢代(紀元前206年〜紀元後220年)の遺物が眠っている。さらにその下50〜90センチに、紀元前のものと思われる遺物がある。総面積5万5千uに及ぶジアフ遺跡のうち、たかだか2千4百u (全体の4.4%にあたる)が発掘されただけでも、45の家の土台、170の小部屋、9つの陶器窯、300以上の墳墓と何千という骨製加工物、壷、石、その他のさまざまな物体を出土している。 ジアフは、さらに三つの時代に分けられ、後の二つでは住居と工房と墓地の各々が厳然と区分されている。墓の飾りに違いがあるのは、既に当時社会階層の違いがあったことを物語っている。これらのジアフ遺跡の事柄から、新石器時代のごく初期に,きちんと組織された村があって、そこでは長期にわたる定住生活が営まれていたことが知られるのである。 ジアフの年代確定については、かなり信頼がおける。「放射性炭素確定法」により、20に及ぶ物体を検査しているからである。9つの炭(上に述べた各3時代より3品)、5つの植物の灰、4つの人骨、1つの植物全体核、炭化した米粒片などが検査の品である。 , 300以上の墓より発掘した400体の人骨の詳細な調査により、ジアフの人種は北アジアのモンゴリアンとみなされる。この人種の成人男子の平均身長は、170〜180センチだった。後期旧石器時代の洞窟からは、一般的モンゴロイドの特徴を有する人物画が発見されている。骨測定法によれば、ヤンシャオ期(紀元前5千〜3千年)までには肉体的には今日の近代中国人と同じ人種が出現する。 完全な保存状態で見つかった,複数の音を出すことができる笛のジアフでの発見は、われわれに9千年前の音を実際に聴き、それを分析できるという又とない機会をもたらした(もっと古い笛がネアンデルタール関連の遺物にあることはあるが、それらはごく一部だけの出土であり、音組織の解明には至っていない)。われわれはジアフで発見された6管のうちの1本ないしそれ以上についてテストできるよう手配した。これらはみな縦に持つタイプのものである。 全く割れていない一番保存のよい状態のものがテスト用に選ばれ、中国音楽芸術学院のハン・シャンペン氏により「ストロボコン」という音響分析装置にかけられた。この笛は7つの孔を持ち、また、7つ目の穴の脇に小さな孔が一つ開いている。他の2つの7孔の笛についてもテストされたが,割れからくる雑音が出るのみで、それもすぐに消えてしまった。1本の笛だけではあったが、2人の奏者により各々2度づつ吹き口の角度を45度以上と以下の二通りで録音され、8つの音全てについてデータが採られた(尺八でいうメリ吹きとカリ吹きのことであろうか。訳者註) 音楽調査チームは、ラ音を440ヘルツとする近代の規準を用いず、その代わりに8回以上試した結果、5孔を開いた時の音を2ヘルツ高く設定した。何回ものテストの結果、7孔の脇につけられた小孔はたぶん7孔の音程調節のために開けられたものだろうということになった(全く同じことが尺八にもあてはまる。訳者註)。こうして、より厳密なオクターブに近づいた。 他の何本かの笛を調べなければ、ジアフの笛が6音のキンシャン音階や7音のシャーシ音階の祖先であるとの断定はできない(どちらの音階も,これより6千年後にならないと記録には出てこない)。けれども、鳥の骨と同じ密度の材料を工夫してジアフ笛の複製を作りテストすることで、これらの貴重な遺品を一つも損なうことなく、より正確なことが分かってくるのではなかろうか。壊れていない笛での音階の再現により、7千年前の新石器時代の音楽家は、ただ単一の音を吹奏したのではなく、たぶん音楽に値するものさえも演奏していたのではなかろうか、と推測されるのだ。この時期の笛の果たした役割については、「古代中国の伝統では、音楽と天文学とが深く関わっていた」ことを思い出す必要があろう。当時は音楽は自然の一部とみなされ、音楽演奏は宗教儀礼と同じく国家行政と密接かつ独特に関わっていた。 ジアフ遺跡のごく一部(5%未満)の発掘において既に、思いがけずも紀元前7千年初めまでに、複雑で高度に組織された中国の新石器時代国家において、複数の音を出せる楽器が存在していたことが明らかになった。今後のさらなる発掘と調査は、たぶん宗教儀礼として行われたであろう人類最古の音楽表現の一つについての具体的な事柄や、技術的側面についての理解と解明に大いに貢献するものと期待されている。 以上お読みいいただいた記事からもわかるように、古代中国の人々は、ごく素直かつ自然に笛を縦に吹いていたのである。 5)特別天然記念物タンチョウ(丹頂鶴)について この中国古代の尺八そっくりの縦笛は,丹頂鶴(以下タンチョウ)の骨でできているという(偶然にも、わが虚無僧尺八の伝える古典本曲には鶴にちなんだ曲がたくさん伝わっている)。ここでタンチョウについて述べておこう。 タンチョウはツル目・ツル科に属し、その名が示す通り頭部が赤い(皮膚の露出による)のが特徴である。顔から首にかけてと、脚および次列風切が黒く、他は全部白い。しばしば尾が黒と間違われるのは、黒い三列の風切が畳まれた姿が焼きついているからだ。大型で美しくいわば鶴の代表格ともいえるタンチョウは、全長140センチ前後、翼を広げると240センチにもなるという。 クマゲラ・オジロワシ・オオワシ・エゾシマふくろうなどは北海道に生息する天然記念物だが、タンチョウだけは特別天然記念物に指定されている。一時は全滅寸前になり、今でも全滅危惧種に数えられているからだ。 今でこそ鹿児島の一部にごく少数飛来し、北海道の釧路湿原で少し繁殖するだけだが、古代、タンチョウはわが国はもちろん中国東北部や朝鮮にたくさん生息していた。 繁殖期になると、雌雄は向かい合い雪原で飛び上がって鳴いたり踊ったりと、さまざまな求愛のためのディスプレイを展開するのはよく知られているところだ。 ツルは、一般的に群れは作るが単位はつがいや家族である。つがいが形成される過程はまだよくわからないが、2〜3歳頃から特定の相手と連れ立って行動することが多くなるという。 上野動物園で飼育係をしながらラテン語・ギリシャ語を独学した小森厚氏によれば、タンチョウはその学名を「グルス・ヤポネンシス」ということからもわかる通り、ニホンジカ(ケルヴス・ニッポン)やトキ(ニッポニア・ニッポン)と同じく、和名の学名を有する日本産の動物である。グルスはラテン語で鶴。鶴はローマ人にも親しみ深い鳥だったという。また鶴は甲高い声で「クルルルルル」と鳴くという。日本語の「ツル」も、ラテン語の「グルス」も英語の「クレイン」も鳴き声から名がついたのではなかろうか、というのが同氏の説である(『どうぶつ学名散策』小森厚、東京書籍)。 鶴は千年生きるとされ、長寿と愛のシンボルの瑞鳥である。日本・朝鮮・中国の年賀状にしばしば用いられてきたのには、このような理由があったのだ。 話は変わるが、江戸城の別名は千代田城という。このことは知る人も多いと思われるが、江戸城の正式名称は、舞鶴(ぶかく)城という(もっとも当時の江戸の人々はただ、御城[おしろ]と呼んでいた)。 虚無僧(普化宗)の本曲には、鶴にちなんだ曲がある。「鶴之巣籠」といわれ、古くに胡弓の曲から伝わったといわれている。私は古典本曲として9曲(いずれも大曲である)、それとは別に都山流(流祖中尾都山の作曲によるもので、古典の趣はない)、琴古流(巣鶴鈴慕といわれ、古典のものとの共通点も随所にに見られるが、新たな技巧・構成を加えた琴古流本曲を代表する曲)を習った。特に琴古流の「巣鶴鈴慕」は、東京芸術大学尺八専攻第一期生としての私の卒業演奏曲として、思い出深い。 。第1回:はじめに 永井荷風は、二十歳の時に尺八に魅かれ、5円(当時としては大金だという)を叩いて、楽器を購入。いっとき師匠(琴古流)にもついたという。 楽器は恋人の絵姿にも等しい。黙っていても絵姿はこがれるものの心を慰める。よしや弾かなくとも、弾き得ずとも、また弾く人がゐないにしても、楽器ある家は何となくなつかしい。 芸術の友と心置きなく議論をするにしても、恋する人と唯だたわいなく遊ぶにしても、または独り静かに物思ひに沈むにしても、其の室に楽器が飾られてある時は、その場限りに起こった凡ての生活の断片さヘ、何となしに物優しく詩化されて、やがて来べき他日の追回にも、一層奥床しい色調が加味されるやうな、云ひ知れぬ嬉しい心持がする。 黙ってゐる楽器の形は、其れを打目(うちまも)る自分に対して、折々音楽を聞くよりも猶豊かな物思ひの楽しさを示す。 楽器は丁度魂のある人間と同じやう、其れぞれの性質によって、其れぞれの形から、いろいろ異った話を聞かしてくれる。 (永井荷風『楽器』明治44年) 私も荷風と同じような年代で尺八に出会った。都山流から始めて、二十歳で虚無僧の吹いた本曲に魅かれてからは、もっぱらそれをやってきた。途中、新設された東京芸大の尺八専攻に通い(本曲の科がないので琴古流)研究の方にも手を染めて三十年になる。 尺八は、七世紀には雅楽の楽器としてわが国に到来している。事情があってこの楽器は、その後使われなくなったが、五百年をかけて日本的な楽器に変貌する。 洋楽(いわゆる西洋クラシック音楽)では、五音音階を原始的なものとし、それが進歩発展して七音音階(いわゆるドレミファソラシド)ができたとする見方が一般的である。しかし、日本の、事、尺八に関してはこの理屈は当てはまらない。中国唐代(およそ千三百年前)に、最初から七音音階が吹ける楽器として古代の尺八は到来していたのだ(この楽器は指孔が六つあり、古代尺八あるいは雅楽尺八とよばれる)。 われわれの先祖は、この七音音階の楽器を白分たちの感性に合うようにわざわざ五音音階に直した(そのために指孔を一つ減らして五つにした)。この改良に要した時間が、約五百年。もちろん、いつ・どこで・誰が、どのような理由や情念でそうしたのかは、わからない。ただ「楽制改革」のような形で上からの命令一下、突然変えられたのではなく、無名の、まだそれほど専門化していない芸能者たち(盲法師や猿楽の徒、あるいは田楽の者たち)が民衆の嗜好に後押しされて、晴れて(あるいは自然な形で)五音音階を選び取った(になっていった)と推測される。この五音音階の楽器、一節切尺八ができれば、そこからは現今の普化尺八・・・より太く、長く、竹肉の厚い、重厚な楽器への変身は、さほど難しくなかったのではなかろうか。 普化尺八はその名称からもわかるように、臨済宗の一派である普化宗が、座禅修行の代わりに竹を用いて修行としたものである。吹奏することから、吹禅(すいぜん)といわれ、虚無僧という独特の風俗で世に広まった。その起こりや歴史的推移に関しては諸説あり、風聞・妄説も少なくない。 徳川家康が虚無僧にさまざまな便宜を図る許可を与えたとする『慶長の掟書』も捏造されたものだとされる(三上参次氏の説など)が、演奏する立場からすると捏造でも偽書でも、一向構わない。大切なのは、たとえ偽書であっても、そのことを承知の上で、後世の為政者がそれを受入れ、幕府公認の寺院として普化宗(吹禅行為)が認知され、行われてきたことなのだ。なぜなら、それにもとづいて全国各地に尺八の特性(一音成仏、響きの幽玄さといえようか)を最大限生かした名曲の数々が、ほとんど作者不明のまま、長い年月各寺院の歴史と伝統、時代や地域、さまざまな伝統芸能や芸系の影響を受けて醸され、一管に託され結実したという事実が厳然と存在するから。 それらが「三百年以上経った今日まで、たとえ細々ながらも辛うじて血脈を保ってきた」という事実は、その出自の真偽はともあれ、立派な歴史ということができるのである。 さて、普化宗・虚無僧風俗は、禅が本来もっている超越性・脱俗性、あるいは尺八を愛した一休禅師のような風狂のゆえに、整理・解明することが困難であった。この音楽は、音楽であって音楽でなく(修行・禅の行為)、楽器も楽器であって楽器ではなかったのだ(宗教の法器)。かくいう小生も、普通の演奏行為から、どんどん吹禅に傾斜してゆき今日に至っている。禅は不立文字で、伝承することそのものにもさほどのこだわりを見せないが、そうは言ってもこれらの貴重な文化遺産を残してくれた先達の流れを止めるわけにもゆくまい。そう思いつつ、30年が経った。 既に曲の収集や伝承・保存は一通りのメドがついたので、ホーム・ページという発表の場を得た今、歴史的なこともまとめておくべく筆を執った。 初めて尺八やその歴史に触れる方にも楽しんで学んでいただけるよう、面白いエピソードや歴史上の人物とも関連づけて論を進める。 それでは、尺八探策の旅に、いざ。 |
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