赤穂浪士討入三百年記念・都内忠臣蔵史跡I−2
岡崎藩水野家下屋敷跡(水野監物邸跡)
水野監物邸跡
かつての水野監物邸跡の一角に建つ説明板


 赤穂浪士は大目付仙石邸から4つの大名家に分かれてお預けとなり、岡崎藩主水野監物忠之の下屋敷には神崎与五郎ら9人がお預けとなった。水野家では熊本藩細川家と同じように浪士たちに対しては丁重に扱い、世評も良かったという。1703年(元禄16年)2月4日に浪士たちは切腹となったが、直前に「浪士たちは死に装束に着替えて切腹の座に座らされた後に無罪放免となる」というような噂がまことしやかに流れて、各藩とも予定時刻になっても念のために執り行わず、一時ばかり遅れて始められたと言う。大名たちがいかに浪士たちを死なせたくなかったかが伺える逸話だろう。

水野邸へお預けとなった浪士たち
間重次郎光興・奥田貞右衛門行高・矢頭右衛門七教兼・村松三太夫高直・間瀬孫九郎正辰・茅野和助常成・横川勘平宗利・神崎与五郎則休・三村次郎左衛門包常

岡崎藩水野家と水野忠之

 水野家は徳川家康の実母於大の方の実家の家柄で代々徳川家と親密な関係にあった。忠之は監物を名乗り、曽祖父忠善の時以来の岡崎藩主だった。岡崎城は徳川家康生誕の城で、石高は5〜6万石に過ぎないが、その城主になることは大変な誇りとされていた。忠之は非常に真面目な人柄で、そんな性格から赤穂浪士たちにも待遇良くしたのかも知れないが、浪士ら切腹の22年後の1725年(享保10年)には八代将軍徳川吉宗の推挙で老中に抜擢されて越前守と名乗り、懸念事項であった諸物価の慢性的な高騰や米価の引き下げに尽力した。しかし真面目過ぎたのが災いして6年後には江戸城内で突然吐血して急死した。その後水野家に際立った人物が現れたのは忠之の4代孫に当たる忠邦である。彼の時代唐津藩主であったが、老中に憧れて色々と働きかけて「幕閣への登竜門と呼ばれた」浜松藩主に国替えとなり、次いで老中となり有名な「天保の改革」を実施した。
 なお忠邦が天保の改革に行き詰まり失脚した後に町民たちから投石されたという三田藩邸/三田屋敷とはここのことである。

※史跡案内:水野監物邸跡へは都営地下鉄浅草線・三田線三田駅下車徒歩約5分またはJR線田町駅下車徒歩約8分