赤穂浪士討入三百年記念・都内忠臣蔵史跡G
吉良上野介義央邸跡
本所松坂町公園として一部が残されている吉良邸跡
高家肝煎(筆頭)吉良上野介義央は江戸城呉服橋門内に屋敷を与えられていたが、刃傷事件の数ヶ月後に隠居申請が受け入れられて、家督を子の(実孫)の義周に譲った。義央が隠居すると幕府は吉良家に対して呉服橋門内の屋敷を召し上げとし、代わりに本所松坂町に屋敷替えとなった。これは幕府が万一赤穂浪士たちが吉良を討ちにきた際に都心部で騒ぎを起こされないように、敢えて本所という当時としては新興住宅地を選んだ。吉良側としても、既に隠居の身では幕府からの護衛の援助は期待できないので、実子が継いでいる米沢藩上杉家筋からの家臣団や浪人たちを雇って厳重な警備を行なった。
しかし寝込みを襲われた吉良側は突然の騒ぎにまともに対応できず、赤穂浪士たちのペースとなり、討入から約3時間後に物置小屋に隠れていた吉良上野介を発見して首を取った。現在この公園内には当時の吉良側・赤穂側の資料の写しや絵画が展示されているほか、赤穂浪士が吉良の首を洗ったという「首洗いの井戸」なども残されている。
当時の本所
当時の本所は現在の両国付近であるが、今でこそ都市化が進み、国技館や相撲部屋や集結したりと賑やかな町であるが、当時の本所はまだまだ淋しいところだった。そもそも本所とは1653年(明暦3年)の明暦の大火で江戸の3分の2が焦土と化してしまい、新たな土地を本所に見出し、開発が行なわれた。大火後3年目から入居が始まり、吉良邸が移ってきたときはまだ開発後40年余の新興住宅地だった。隣近所も下町のように地縁的な親しさも無い状態で、当時の住民たちがいかに疎遠だったかは「秋深し 隣りは何を する人ぞ」という松尾芭蕉の句からも読み取れる。当時本所の外れ深川に庵を結んでいた芭蕉が目の当たりに見た本所・深川の人々模様である。こんな風だから「自分に関わり無ければいい」という考え方が主流で、47人もが徒党を組んで吉良邸に討ち入っても「関わりを持ちたくない」という住民たちは知らぬ振りをしたという。こうした土地柄も手伝って赤穂浪士の討入は無事に果たせたのである。
※史跡案内:吉良邸跡(本所松坂町公園)へはJR線・都営大江戸線両国駅下車徒歩約10〜15分