建築における課題     
1.はじめに
今後の自然エネルギー利活用推進の課題は、一方ではエネルギー供給側の化石・原子力エネルギーから自然エネルギーへの転換に向けた公的あるいはノン・プロフィット組織などによる関与推進についての方策設定にある。
もう一方ではエネルギー需要側の独立系太陽光発電や、すこし飛躍してしまうが地域の資源に根ざしたまちづくりなど自家消費的もしくは利用機会の平準化をもたらす需要者による共同的な自然エネルギー利用をどのようにすすめていけるのかということにある。
いわば車の両輪のように、川上と川下とが同時に自然エネルギー利活用を推進していくことによって、現在の社会経済構成体を循環型社会の構成員に替え、その文化的奥行きを増す相乗効果があらわれよう。この文脈では建築は川下側での課題に深く関わることになる。

(1)具体的な課題と根本的な課題
 自然エネルギー利活用促進についての建築における具体的な課題は、
T.自然エネルギー利用の最適化問題。
U.個々の自然エネルギー利用設備(技術および機器仕様)適用にあたっての予測と実績の間の知識や知見の共有化方法確立。
V.資源問題としての耐久計画、保全計画の徹底。
W.建設・運用・修繕・改修・解体・廃棄という各シーンでのコストや地球温暖化ガス発生量、エネルギー消費量などの数値化可能な評価方法確立。などの問題がある。
そして、ついにはそれらが指し示す根本的な課題、それは建築が依拠する「自然資源」や「社会資本」、「制度資本」それぞれの領域に横たわっている「複合問題」解決に向けての優先事項・序列設定をどのように共同的にできるか、が課題となる。
この面では、建築は社会システム全体をも包含する「人間活動の生命圏とのかかわりかたのルール確立」というきわめて経済的、倫理的それゆえに抽象的、哲学的な議論や判断、了解に対して具体的な共通の素材を提供するはずである。そしてさらにルール確立に向けての試行的、広報的、教育的道具としての側面を現わすであろう。
 なぜなら建築とは人間にとっての環境であり、言語と同様に個々人によって運用されることによって励起されるシステムであるとともに具体的な事物でもあるからである。
自然エネルギー利用にあたっての具体的な課題に触れる前に、建築を通して垣間見ることが可能な「複合問題」のありかやその背景について書き留めておきたい。

(2)建築の特性と「複合問題」のありか
 次ページの図1のように、過去から現在という時間軸で建築を眺めてみる。その歴史性の面では、かつて周辺環境との調和なしには成立しなかったことが、その後のエネルギー事情や生活インフラの整備により環境との切断こそが、今日的スタイルであるかのようになってしまっている。
 景観の面では、全体の連続性や連鎖状態の統一性にかわって、個々には考慮されてはいるがそのつながりの規則がない、バラバラで私的な空間の際限ない広がりになってしまった。
 社会文化の側面でも、地域で自律的につくり上げられてきたシンボル性やモデル性から、商品に類した消費活動になっている。
1.建築の特徴(時間軸)
 経済の面でも、かつては維持や改修、挽き家や部材の転用など多くの現地労力を費やしていたのに、現在では多くの場合はスクラップアンドビルドによる建て替え需要による新築が期待されている状況である。
 総じて、大地や自然、いわゆる風土から離脱し、そこからの制約を受けない、どこでも消費可能な記号化がすすみ、それにより空間が商品化されてきたといえる。
さらに自然環境との交通関係をクローズアップして、かつてと今の特徴を比較してみると下の図2のようになる。
かつての建築は、バイオマス利用による建設・運用・廃棄のサイクルであるから、当然に自然のサイクルの中に位置している。そしてこのため、ゆっくりと風景がかたちづくられ、連綿とした試行錯誤による素材や形態の連続性や統一性を保ってきたといえる。これに対して、敗戦後のここ50年ほどの時間でそれら集団の記録としての自然資源の活かし方やその作法からいとも簡単に離脱した。
 かつての個の不自由から、石油や電気という1回かぎりしか使えない再生不可能なエネルギーによって解き放たれたのである。

2. 建築の特徴(空間的なひろがりの比較)
 そのため、民主化と近代化が同時に進展した日本では、石油に裏付けられた「際限のない欲動」によりまちなみや風景は破壊されることになる。なぜなら利益追求行動の舞台は先進諸国より極端に大地から遊離した、大地そのものをも商品化してしまった市場システムだからである。そして、いままではそれが可能となる巨大な商工業集積とそれを維持発展させる近郊住宅地をつくり続けることにおいてシステムがようやく成立してきた。そこでは居住福祉の整備という観点は吹き飛び、住みつづけることよりは更新しつづけることの優位がシステムに要求される。
3. エコシステムと建築
 図3は、全体としてみれば自然の循環システムに社会的な生産・消費・廃棄物処理のシステムを近づけていく方向性を示すものである。そうではあるが、建築のかかわる範囲は広く深く、問題は複合的である。いまや車なしに地域の産業や毎日の生活をおくれない。地域エネルギー自給という課題の前には電気事業法やガス事業法が絡んでくる。居住福祉やまちそだてという課題の前には、国家高権的な国土利用計画法やその下位の都市計画法が立ちはだかる。
 さらに合意形成や、それを保証する社会システムの模索のかなたにある可能な「公共的空間」に対しては、官製の、上からの「公共性(公共の利益)」が押し付けられる。
 現在、エコシステムに同調しない廃棄物を循環・再利用するためには、同時にそれが可能な自然資源の利用のありかた、それによる社会資本の今後の整備のありかた、それを可能にする制度資本の再設計が必要なのである.
この難題は、現代建築にかつての公共財としての景観を求めるのに近しい。個の自由と公共的便益を同時に最大化するにはどうするのか、という課題である。目下の試金石は、自治の見直しにつながる介護保険制度と身体性に依拠した風土への接続のための活動であろう。

2.建築における課題
さてこうした「複合問題」の背景のなかで、自然エネルギー利用をめぐっての、建築における具体的な課題については次のとおりである。

(1)自然エネルギー利用の最適化について
エネルギー密度が低く、周期的な変動もしくは間欠的な顕現という特徴を持つ自然エネルギーを、うまく建築の運用に要するエネルギーに利用するためには、蓄熱、貯留、蓄電など効率的に溜め込み、それを取り出す技術と、エクセルギー(=エネルギーの質)レベルに応じた段階的な利用技術が必要となる。
それとともに、利用面での配慮、ライフスタイルの見直しについても必要となろう。
熱環境計画では、パッシブソーラーハウスのように内部の熱容量を大きくして、それをうまく使いこなしていくため冬期夜間あるいは夏季の昼間の断熱戸締め切りやそのほかの時間帯の開放、夏季の夜間の換気などに気をつける必要がある。それらの行動、注意力、配慮を組み込んだライフスタイル確立が可能であれば暖房負荷、冷房負荷を大きく低減できるであろう。この場合、住み手自身がそのシステム内容をつかみ、自身の働きかけによって効率やさらなる可能性を秘めていることを事前に実験などで体感し、その施工も住み手自身が行うなど住み手の「住宅のつくり手」側への積極的な関与・参加が望ましい。それは自然エネルギーの熱源としての不安定性から来るものであり、今のところ住み手の積極的な働きかけがなければ効果をあげられない、という側面と、もうひとつ現在の機器類のようにスイッチやコントローラーによって可変的に調整可能ではないところに「自然とのつきあいかた」の面白さ、特に強調して言うならば、現在の欲動を切り替えていく面白さがあるからである。将来は小規模な住宅レベルの冷暖房設備においても現在の太陽熱温水器と同様の操作レベルになるだろうが、現在の太陽光発電や太陽熱温水器に見られるように不用意に系統連系、補助熱源にシームレスにつなげてしまうと使っている電気やお湯が太陽の光(ぬくもり)なのか、石油類が燃えた光(ぬくもり)なのかがわからなくなってしまい、自然と切り離された現在の消費行動を自然によってやわらかく抑制する効果を失いかねない。特に現在のような移行期には建築やその他の産業分野における自然エネルギー利用の普及・啓発プログラム促進面からもそれらの担い手である住宅における住み手の参加は必要であろう。
そのような運用面、普及面での工夫とともに、適切な断熱と適度な気密、それに適切なスピードで蓄え、適度なスピードで放熱する容積比熱×容量の必要十分な蓄熱層が建物の一部を構成していることが必須である。直接太陽熱を蓄えるダイレクトゲイン方式のパッシブソーラーハウスでなくとも、できれば仕上げ材に近いところに蓄熱材があるほうが望ましい。それは離散的、不安定な自然エネルギーを利用するためには温風や冷風での室温の調整より、室内の床や壁、天井などの表面温度を調整して、冬は人体からの放熱を抑制するように、夏は反対に促進するような輻射温熱環境を整えた方が必要な熱源の質、その温度帯が人体体温に極めて近いレベルで可能になるからである。
急激な室温変化がなく、エクセルギー的に見ても低い質のエネルギーですむので、現在エアコンなどで問題となっている、頭熱足寒という不快感も防げるし、嫌悪される気流もない。室内開放型暖房機器などから発生する室内空気汚染や過度な水蒸気発生とは無関係の自然エネルギーを熱源とする温熱環境を整えていけば、地球環境にやさしいばかりでなく高齢者のみならず、幼児などにも火災や火傷の心配がないためやさしい温熱環境となるだろう。集熱方法と伝熱方法、その蓄熱方法などを温熱環境計画上、補助熱源をなるべく使わずに室内環境をより快適になるような、資源問題にかかわる工法、コスト、耐久計画上の最適化の課題がある。

(2)自然エネルギー利用設備適用の課題について
 上述した「最適化」の課題について、近年さまざまな具体的提案やその実例があるが、まだその予測評価方法の確立や、実際化における問題点、計画上の問題点、プロジェクト全体のコストコントロール手法の確立、メンテナンス上の問題点、そして実例での事後評価方法とそのデータの公表といった面では貴重な先行事例での経験が十分に活かされているとはいえない状況である。個々の自然エネルギー利用設備(技術および機器仕様)適用にあたっての予測と実績の間の知識や知見の共有化方法の確立が課題である。
 
(3)資源問題として
 ものには寿命がある。建材の場合、概ね酸化、生物劣化、紫外線劣化に大別される。米国におけるごみの約半分は建築物の解体によって生じたものらしい。アッセンブリーされた複合体である建築廃材をより少なくし、リユース/リプロダクトする道筋をつけるために新築計画段階での耐久計画、保全計画について環境負荷を加味した徹底化が必要である。特に住宅では、ものの寿命がつきる前に陳腐化や経済的寿命に達してしまっているかのような錯覚による建て替えを抑制する逆インセンティブを促進させるためにもスクラップ&ビルドのエコロジカルな費用便益評価方法が提案されるべきであろう。

(4)ライフサイクルアセスメントについて
省エネルギー基準策定の面からは、1989年の「エネルギーの使用の合理化に関する法律」に基づいて策定され施行された「住宅に係わるエネルギーの使用の合理化に関する建築主の判断の基準(通称旧省エネ基準1990年)」、それが改正され(通称新エネ基準1992年)、1999年に「次世代省エネルギー基準」が策定された。住宅金融公庫の融資基準として活用されてきたために、断熱や気密それに耐久性などについて設計者やハウスメーカー、建材メーカー、地域の工務店、職人への教育的な側面を担い、住宅における省エネについての具現化を実際に果たしてきたと言える。ただ、ようやく次世代省エネ基準で明文化されたパッシブソーラーハウスについても「選択的」なように、総合的な性能についてインセンティブを設けているわけではない。これは住宅性能表示/評価制度にも言えるように、各性能について最低基準(該当ランク)を設けているだけなのである。
 風土にもとづいた建築の価値を創造するようなライフサイクル評価方法 があっていい。地域的な既存資源の再評価と、これからのまちづくり行動やまちなみのデザインに個々の建築がどのように評価されうるか、ひいては地域の土地利用方法やその保全計画についての評価方法の論議が地方において巻き起こってほしい。そうすれば、現在の都市計画や建築基準法などのようにクリアすべき最低基準を示しはするが、何が望まれ、価値があるのかは示さない法にかわって、建築やそれによって形成されている景観についての善し悪し、環境面での善し悪しについての地域的に共同化されたさまざまな評価尺度ができるだろうし、そのプロセスでさまざまな経済活動を誘発させてもいくだろう。

3.次年度に向けて
建築における課題とは、既存あるいは現在の建築、特に戸建て住宅という経済の駆動力としての需要をそれぞれの風土にどうにかして結び付けていき、それぞれの地域での資源の分配方法と利用方法について、いかに普及・啓発プログラムとして「建築」を提示していけるのか、ということにつきる。これらの具体的な方法とそのみちすじのつけ方については来年の課題としたい。その課題に向けて、現在陥っている状況について建築から垣間見えることについて整理しておきたい。
田中角栄が依拠したように、土木や建築を担う中心的な人々は、地域の職人や専門組織群のマネジメントという仕事の性格上、地域の人々の取りまとめ役や地域発展の推進役になってきた。だがこれらの人々は利益追求を前提とする利権・集票システムに巻き込まれ、それらの活動は戦後の高度成長期を通じて地球環境保全とは間係のない「金権政治」や「土建国家」として結実した。その履歴を蒙っている現在の駆動システム(=建築需要のみならず、人々を駆動させる欲動、それゆえ資本主義市場を成り立たせてしまっているシステム)全体を組み替えて行く必要がある。
このプログラムの組替えにおいて課題になるのは、技術的なブレイクスルーや市場的な解決方法だけでは解消されることがない、建築にかかわる「複合問題 」であり、それを解きほぐしていくのは、風土に根ざした固有の取り組みから地球環境を見据えた運動であろう。
近代社会、特に近代経済学が立脚する原則は、自由な個人の合理的な判断とその参加による社会である。そして個々人の自由な欲望と生き方の選択を可能な限り認め、その自由な個々人の共存のために最低限のルールをつくり、運用するという時代に生きてきた。
しかし建築をめぐる「複合問題」はたとえば地方都市における凶悪な少年犯罪の発生や、若年層の就労意欲の低下傾向などに裏書される「生きる意味の生産とその交換、そしてそれを保証する社会」を失ってしまっていることを指し示している。

建築の価値を明らかにするため、その交換価値、日本の中古住宅の流通に目を向けてみる。
住宅政策の比較で、その対象が主に木造であることからよく引き合いに出される日米の中古住宅(既存住宅)流通量比率(既存住宅流通量/住宅総数)は日本(1988年)が0.35%(145 /42,007千戸)、米国(1987年)が3.78%(3,436/90,884千戸)であり、比率にして約11倍、流通量では約23倍となっている。昭和61年から平成2年までの日本の総建設戸数は8,356千戸であり、年間になおすと現在よりもやや多い約1,671千戸である。日本での新築住宅の約2倍が米国の既存住宅流通量にあたる。人口千人あたりの住宅建設戸数は日本では約13戸(1988年)、一方の米国では約7戸(1987年)であることを勘案すると米国における中古住宅(既存住宅)市場はきわめて大きいことがわかる。
そうした日本において交換価値の設定を中古建物一般に適用する場合注意しなければならないのは、先進諸国と違い、建物と土地とが、(建物だけの販売はないので、特に土地は更地として、建物は建設可能な商品として)別々に流通していることによって、建物価値は極めて低く、一方の土地はもともと排他的独占性 があるため大きな市場価値をもつという傾向になることである。この「建物と土地とが切り離されて売買可能」ということが日本における建物の中古市場が相応に形成されないという原因である。
 先進諸国では、建物と土地とは一体のものとして流通している。この「一体」の内実とは、土地の利用方法や都市計画(農地計画)、地区計画の反映として建物と土地とが結び付けられていることである。それは土地の私的所有とその利用形態としての建物にともなう、まちなみや景観、地域アメニティなどの公共財的側面(=私的所有の一定の制限)とがセットとなっていることを示している。この場合日本と違って、土地だけにあるいは建物だけに価格をつけることができない。
土地所有のありかたについて、日本では無限の所有権に公的な制約がつけられ、先進諸国では公的な基準がなければ土地の利用権が発生しない(=建築不自由の原則 )、と指摘されている。そのため市場形成、市場価格のコントロール手法も大きく異なっている。
アメリカにおいては、地区計画が策定されなければ土地を持っていても建築物を建てられず、イギリスにおいては、道沿いの無計画な帯状開発=リボンデベロップメントの抑制のため1935年以降指定道路沿いの建物の建設は禁止され、イタリアでは景観保護のために、旧市街地の歴史的建築物の違法な改築には転売しても支払い不可能なほど、ということは交換価値を上回る高額な懲罰的罰金が課せられている、などがその事例である。
 一方では土地の切り売りが極めて不可能に近いため大きな土地を切り刻むミニ開発は見られず、スクラップ&ビルドによる持ち家の建て替えより住み替えが多く、中古住宅の市場が大きいため持ち家の交換価値維持のためのメンテナンスや改装、あるいは外観や前庭の手入れに熱心であるのに対して日本ではそれらのちょうど逆に、地区計画にそぐわない郊外パチンコ店や巨大ハイパーマーケットの林立、イギリスでは見られない新設バイパス沿いの郊外化による市街地と農地の混在化を引き起こしている。そして中古建物の市場性のなさから来る、保有建物のメンテナンスについての無関心や周辺環境への協調意識の低さにもつながり、将来の土地の交換価値増大を期待した新築住宅の圧倒的な建て替え比率の高さ にもつながっている。
これらの違いを示すひとつの特徴的な指標として住宅の平均寿命がある。木造住宅の平均寿命が先進諸国のなかで比較的短いアメリカにおいてさえも44年であるのに対して、日本では26年である。(石造のイギリスでは75年)日本に限って早く老朽化するわけではないので、市場の要請で取り壊しや建て替えが多いという現象面は、次の原因によるものと思われる。
1. 日本の不動産市場が急騰地の土地を中心にその周辺地を大きく巻き込みながら急速に成長・変化してきたこと。
2. 都市計画規制が連続的に変更・緩和されつづけ近接地での高騰現象が、都市計画的に区分された隣接地でも起こりうるかのような一種の狂騒現象を引き起こしてきたこと。
3. 1.および2.により本来その独占性による価値の上昇を抑制すべき土地価格が右肩上がりに上昇してきたことによって、建物群に付随する景観などの公共財的側面(=私的所有の一定の制限)を担う既存建物の残余価値は土地の一方的な交換価値の増大に対して解体費用分のマイナス価値にさえにもなるような事態を経験したこと。
良好な住宅ストック形成による居住福祉や良好な地域アメニティの形成、それらによるこのましい景観形成、まちづくりに向かわないのは、日本の住宅の価値が、土地利用の公共財的側面という社会的ルールから切り離され、事業用建物と同様に建設後急速に低下し、残存耐用年数があるにもかかわらず、土地の価格の上昇に対して相対的にゼロもしくはマイナスになってしまい、土地所有者に建て替えや立ち退きをせまるいびつな市場にあるからであり、先進諸国での「土地と建物が一体の不動産であることを将来にわたって保証するような都市計画(=住宅建設を含む市街地の建設・取り壊し行為を含む開発行為の社会的コントロール)」がないことである。
そのため先進諸国に比べてきわめて高い建て替え需要や、更地の土地取引はあるのに、中古住宅の市場がないのである。
F.エンゲルスの「イギリスのおける労働者階級の状態」などにおいて扱われている、農村社会から都市社会への変貌のなかでの封建的性格をはらんだ土地所有とその上の建造物の商品化という問題がいまだに日本では進行している 。
本来は建物がその土地と一体となって維持・保全され、「土地所有の一定の制限」となり、まちなみや景観、良好な地域アメニティを形成する単位でありそれゆえ私的でもあり、公的でもある単位として建築があるべきである。そしてその本来の単位としては当然環境と一体であり、それゆえに土地とは切り離せないものである。しかし、建築の交換価値を日本のなかで措定しようとすると本来所有するにしろ交換するにしろその原単位たるべき建物と土地とが一対となった評価価値に日本では建物価値が作用しない。それと引き換えに、土地の交換価値が封建的性格をはらみつつ、その独占性を強化する方向だけに突出しているのが現状である。そういう価値体系のありかたによって交換規則の集積である市場が大きく影響を受けてしまってもいる。こうした土地本位制に頼ってきたここ4〜50年の経済システムによって望ましい景観や地域アメニティがいまや維持できなくなりつつあることが析出してくるのである。
私的所有形態のなかに住宅全体のみならず建築も押し込められ、かつての共同体に位置した民家群や町屋のまちなみというような好ましい環境やそれに接続される家族形態、共同体のなかでの子育てのありかたなど、公共財としての価値は次々と剥ぎ取られていったのである。
この状態のなかでは住宅(建築)のさまざまな価値、特に公共財としての価値についての知識はどんどん失われ、住宅とはその交換価値として立ち現れる「すむことの意味、あるいは生きることの意味」の生産とその教育的側面を失い、日本においては26年しか使えないような完全に私的な所有物になってしまったのである。
ある特定の固有性、場所性、いうなれば風土性に固着し、それらの資源をよりよく活かす具現化された仕掛け、あるいはその知識の集積としての景観やまちなみは、日本的な市場経済の発展の中では取り落とされる。土地だけが残り、建築や景観はないに等しい。
こうした状態から立ち上がるために、失ってきたものを新エネルギーへの転換を梃子として取り戻していくことができないだろうか。
@ 新エネルギーや省エネルギーへの言及や提言に際して、その現実への照射によって同時にその他の課題を浮かび上がらせることが必要である。その他の課題とは居住福祉としての住居のありかたや農林水産の今後のありかた、共同体にどのようにして次世代の社会性をはらませることが可能なのかといったことや、地域資源の保全・管理・分配・運用・利用の今後のありかた、それらを可能にする社会システムの可能性などを明らかにすることである。
A 運用システム構築と、その駆動力としての人的資源の(こういう機会を得た私も含めた)再教育という側面では、いままでの成長促進的、あるいは利害調整的なまちづくりではなく、既存のまちをどのように育て上げていくのかという地区計画レベルとそれを横断する景域計画に重点をおいた都市計画分野における普及・啓発プログラムが必要になるだろう。現実的な局面では、国土利用計画法と農振法それに税法の理解とそれへの介入が課題となろう。

中立的、普遍的アプローチよりは、多少誇張ぎみであっても「わかりやすい目標」の設定と、その目標にいたる各ステップの想定、その第1ステップに起こり得る各地域、各階層での複数のケーススタディについての対話的なテーマ、=発見的、生成的なテーマを探りたい。

(ふかがわ りょうじ 建築家)