伝えたい言葉は



 ねぇ、きっと、だって、これは。
 知らないふりをしてた。わからないふりをしてた。
 ねぇ、でも、きっと、本当は。
 ずっと前から気付いてたの。ずっと、ずっと。
 ねぇ、でも、これは、本当は。
 口にしてはいけないこと。想ってはいけないこと。
 ねぇ、だから。

 


自室の扉を開け、少し重い身体を引き摺りながら私は窓辺に寄りかかる。 開かれた窓から流れる風が、濡れた髪を優しく撫でる。いつもより鈍い色が 日の光に輝いた。

稽古をした後はいつも心地よい疲労感に包まれるけど、今日は 本当に心から疲れた。相手だった一つ上の甥――なんか実に可笑しいことだとは 思うのだけど、事実なのだから仕方ないわよね――のシェゾは、年下だとか女だどかの理由で 手を抜いたりしない。それはいつも年頃の娘だから、と多分に加減してくる 教師達に比べればよっぽどそっちの対応の方がいいけれど、 だからと言って日頃思うように身体を動かせない鬱憤をはらしに来た シェゾの余りある体力についていけるはずもなく。足らぬとまだ剣を構える シェゾを丁度やってきたシュアに押し付けて、私は湯を浴びこうして疲れ果てながら部屋に帰ってきた。

学校が長期の休みに入り私もシュアも城に帰ってきていた。 寮はミーズにあるから城とはそう遠くはないのだけれど、学校が始まってしまえば 例え王族の者でも緊急の時以外は帰ってはこれない。久しぶりの我が家に、父様や母様、 それに城の皆に、私は毎日笑みながら過ごしていた。

すると、きっとアグストリアの方でも休みに入ったのだろう。 城に帰ってきてからしばらくした昨日、デルムッド兄様がシェゾとラスティアを連れて遊びにやってきた。

私が寮に入ってからは一度もこちらにはいらっしゃらなかったし、 ノディオンは遠すぎて私達が遊びに行くことも最近ではなかった。 ナンナ姉様とはよくお会いできるのに、と膨れるほど何年も会えなかった大好きな 兄様にやっとお会いできて私は上機嫌だった。

兄様と私は親子ほど年が離れていて――一番上のヴェーゼは私より二つも年上 なのだから、親子以上に、が正確だけれど――、私は兄様と一緒に遊ぶという事を経験 したことがなく――だって、私の遊びでは幼稚すぎて大人な兄様は楽しめないもの―― いつも私の相手は年の近いヴェーゼやシェゾだった。今回は ヴェーゼはレイリア義姉様やクエストと共に国に残っていたため、 私とシュアはシェゾと三人で剣の稽古をしていた、それが先程までの話。

 今は。

一人静かな部屋で風を受けているだけ。胸が、ううん、違う。 もっと奥、誰も触れないほどすごく奥の方がズキズキととても痛い。ギュッ、と 胸に手をあて服を強く掴む。

肩にかからないほどに揃えた髪が乾いたのを見、私は行儀が 悪いとは思いつつもそのまま寝台まで歩き寝そべった。

一呼吸附きながらゆっくりと目を開け、天井を睨みつける。 ああ、ダメだ。冷静になろうと思ったけれど、全然落ち着かない。私の頭 は今はただ痛みだけが渦巻いている。それなのに涙も苦痛の声も出ない。 何度も何度も同じ事が目の前に映り、消えてはまた浮かぶ。 私にはどうすることもできない。

 コンコン

動く気力も無くなった身体に、このまま眠ってしまおうかと 再び目を閉じた時、部屋の扉が控えめな音をたてて来訪者を告げる。
私ははっとして、重い身体を叱咤しながら起き上がり口を開いた。


「…誰?」

 私の声に一呼吸置いて、扉が開く。

 そこにいたのは。

「寝てるのか?リリス」

 シェゾだった。

そのまま歩を進めて奥の私のいる寝台がある部屋までやってきた 彼に溜め息を落とすと、私はゆっくりと立ち上がった。

「いくら親戚だからとは言え、女性の寝室に無遠慮に入ってくるとは 紳士の資格はないわね、シェゾ」
「失礼。貴女には遠慮は無用と考えておりました、叔母上」
「…その呼び方は止めて」

本当に嫌そうに――実際、この年で、しかも自分より年上のシェゾに叔母と呼ばれるのは もの凄く嫌だった――顔をしかめると、シェゾは義姉様によく似た綺麗な顔に 笑みを刻み、音をたてて笑った。私とは対称的な漆黒の髪が揺れる。

「…嫌な性格ね。あなたは昔から」
「フフ、そんなことを言うのはお前だけだ」
「皆あなたの外面のよさに騙されてるのよ」
「違いない」

立っているのも何だから、と椅子を勧め、私も彼の向かい側に座る。 お茶でも淹れようかとも思ったけれど、そういえば彼に無駄な気遣いはいらなかった、 と思い直し、彼が何も言ってこないのをいいことに私は黙って座っていた。 シェゾの方もそんな私の態度を気にする風でもなく、ここに何しに来たのかと 思わず問いたくなるほど、それは黙って窓の外へと目を向けていた。

「…いい風」
「あぁ」
「ねぇ、あなた水浴びはしてきたの?
 あれだけ動いたのだから、汗もかいたでしょう」
「女性の部屋を訪れるのに汚れたままでは失礼だろう。
 ここに来る前に済ましておいた」
「あら、あなたにそんな気遣いができるなんてね」
「そのくらいの常識はわきまえている」
「寝室には入ってくるのに?」
「お前だからな」

交差する視線。私のと、彼のと。
冷たさに多分に含まれた熱は、きっと隠そうともしていないからなの だろう。普段ならわからぬそれも、今は手に取る様に感じられた。

 でも、それに気付いた素振りは見せず。

「シュアは相手にならなかった?
 結構イイ線いってると思うのだけど」

さりげなく視線を逸らしながら、そう言う。彼がここに来たのは私が 湯を浴びて帰ってきてからそう経っていなかった。私がシェゾの相手を 弟に任せてからすぐに稽古は終わったのだろうか。

「ああ、確かに上達したな。まだ踏み込みが足りない所もあるが、 あと数年すればいい剣士になるだろう」
「そう、きっとあの子喜ぶわ。憧れのあなたにそう言われて。
 でもあまり長い間合わせてたわけではないのね」
「お前がいなくなってからすぐ止めたからな」
「どうして?」
「私がお前を追ってきたからだ」

 ビクッ、と瞬間僅かに身体が跳ねたのを彼は気付いただろうか。
 冷たい汗が背中を伝う。気持ちが悪い。

「……嘘ばっかり」

 私はそう言うことが精一杯だった。

もっと口にすれば、きっと私は要らない事まで彼に言ってしまいそうで。 彼が私の気持ちに気付いていることは知っていたけれど、 そうと彼自身の口からは聞きたくなかった。

「…まぁ、それは置いておいて。
 ラスティアがな、シュアと一緒に街に出たいと彼を連れて行ってしまったからな」

視界がぐにゃりと大きく歪む。
ああ、どうしよう。本当に気分が悪い。横になりたい。一人になりたい。

 その続きを聞きたくない。

「昨日初めて会って本当に一目惚れしたらしいな。
 シュア、シュアと煩いくらいだ。
 あいつも大変な女に惚れられたな」
「そうね…」

もうシェゾに出ていってもらおうかしら。横になればきっと少しは楽になれるはず。
ああ、でも。折角お兄様がいらっしゃるのに、このままじゃ夕食も ご一緒にできない。昨日だって、碌にお話することもできなかったのに。
シュアとラスティアの婚約話で、場が大いに盛り上がってしまったから。

「気になるのだろう」

問いかけではない、断定的な響き。
わかっているでしょう?気付いていたはずでしょう?
そんな、責める言葉も今は無い。

「二人が気になるのだろう」
「…何の事?私は別に…」
「昨日からお前はシュアを見ようとしない」
「………」
「ラスティアのことも」

シェゾは相変わらず無表情のまま。私を見透かそうとする。
知っているくせに。だから意地が悪いと言うのよ。

「二人のことを、決して見ない」


 答え、知っているくせに。
 

「シェゾ」


 ねぇ、ねぇ、ねぇ。
 聞かないで。これ以上。
 ねぇ、だって。

「気付いているのでしょう?」

 何を、とは言わない。
 何を、とは聞かない。

 口にしなくてもわかるから。

睨みつける私をシェゾは黙って見る。気を抜けば何かを叫びだしそうで。 瞳を離せなかった。

「お前も、気付いているのだろう?」

はっ、と。目を見開く。
気付いていることを、彼が知っていたとしても、それを口出してはほしく なかった。
気付かないフリをすれば、きっといつまでも変わらないと思っていたから。

 それは私の欺瞞にも似た狡さ。

「…いいんだ」
「え?」
「いいんだ、別に。お前に答えを貰おうとは今はまだ、思わない。
 ただ、私は知ってもらいたかったんだ。
 私の想いも。私の気持ちも。
 お前が気付いて、それでも尚。
 知らぬフリをしていることを私もまた、 気付いているということも。
 私が気付いていることをお前が察していることを、知っていることも。
 お前が私に望むことを、本当はわかっていることも。
 

 …それでも、お前に伝えたかったことも」


 そんな瞳をしてほしくない。
 まるで大切な宝物を見る様な瞳で、私を見ないで欲しい。
 …私はあなたを、そうは見ていないのだから。

「…そんな顔をするな。言っただろう。ただ知ってほしかったのだ、と。
 お前が私をそういう対象として見ていないことは知っている。
 誰をお前が欲しているのかも。
 だから………泣くな、リリス」

何時の間にか溢れ出た涙を、そっと拭おうとするシェゾの手に。
私はその手の"意味"に気付き咄嗟に身を退いた。
他意はなかったのかもしれない。 それでも、触れてほしくはなかった。
涙を拭う、そんな、恋人の様なしぐさで。

行き所をなくし宙に浮いたままの手をシェゾは一瞬止めた後、それを 私の頭に乗せた。
ポンポン、と子供をあやす様に髪に触れる。
そこに親愛の情しか見出せなかったからか、とても心地良かった。

そういえば昔、もう帰ってしまうの、と泣き出した私に兄様がこうして あやしてくださった。"また来るから、そんなに泣くと美人が台無しだぞ?"と 優しい声と、瞳と、その暖かな手に、哀しい気持ちもすぐに静まった。

少し兄様より小さいけれど、暖かな手。
あの時の様に、安らげる。

無言で繰り返すシェゾは、落ち着き涙の止まった私を確認すると その手を下ろしゆっくりと立ち上がった。
私は顔を上げられなかった。

「それでは私は行く。
 夕食前までには顔を出しておいた方がいい。
 父上も可愛い妹に会いたいと、国に居た頃から仰っていたからな」

休み中にすまなかった、と静かに去っていこうとする彼に、 その権利もないはずの私はそれなのに思わず声を出し制す。

「…待ってっ!」

扉を開けようとその手をかけたまま、シェゾが振り向く。
ほんの少しだけ視線をずらして、顔を無理矢理上げる。
瞳は見れない。

「何しに、ここに来たの…?
 用事でもあったんじゃ……」

 シェゾは少し黙り、そして――


「お前が泣いていると思ったから」


 そう言って、扉の向こうに消えていった。


 パタリ


「…バカな人……」

本当にバカな人。
望めばきっともっと多くを手にできるのに。

 私よりも、もっと素敵な人を望めるのに。

残された私はフラフラと立ち上がり、先程抜け出したばかりの寝台に また身を任せる。
目を閉じれば、今なら眠れる気がした。




「ねぇ、シュア。あたしあなたのことが気に入ったわ」
「…な、何を仰ってるんです?ラスティア公女」
「やだ、ラスって呼んでよ。他人行儀で嫌よ」
「そ、そう仰られても……」
「まぁいいわ。その内慣れるわよね。
 それよりシュア。あたしね、あなたが好きなの。
 だから決めたわ。
 あたしあなたのお嫁さんになるっ!」
「えっ?!…え、いや、ラスティア公女…?」
「どんな人かと思ってたけれど、お祖父様に似てとてもカッコイイわ。
 皆意地悪よね。誰もあたしに教えてくれないんだもの。
 叔父と姪って立場だけど、あたしは全然気にしないわ。
 愛があればそんなもの!
 ってことで、よろしくね?シュア!」
「えっ、えっ、いえ、あの、私は……。
 母上も何面白がって、って婚約?!
 わ、私はまだ未熟で、その、だから……っ」
「早くあたしを幸せにしてね、シュアっ」




「シュア…」

 止まったはずの涙が、一粒伝って吸い込まれていった。


 ねぇ、シェゾ?

 本当にバカなのは、

 きっと私自身なのよね。


「…シュア」


 一月後、二人は正式に婚約を交わした。

+-fin-+









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