関連人物一覧

アレクサンドル・ソクーロフ
アレクサンドル・ペトロフ
アンドレイ・タルコフスキー
イワン・イワノフ=ワノ
セルゲイ・エイゼンシュテイン
ビョーク
フランチェスカ・ヤルブーソヴァ
ミシェル・ゴンドリー
レオニード・シュワルツマン
ロマン・カチャーノフ


アレクサンドル・ソクーロフ(1951-)

 映画監督。ノルシュテインとは個人的な親交も深い。
 ソクーロフが監督した映画『孤独な声』(1978年)について、ノルシュテインは次のように語った。「彼は目で見る以上に見ています。彼の目はまるで何か器具でも入っているかのようです(略)ソクーロフはこの驚くべき映画的描写力に恵まれているように見えます。ただ、これは完全に、彼の天性――映画――なのです。映画以外の何物でもありません。そしてこの面で彼はタルコフスキーに近いのです。彼は映画の官能性を克服し、それを即座に思考と感情のレヴェルに移すことができます。」(アルクス、p. 61)
 一方、ソクーロフはノルシュテインについてこう語る。「ノルシュテインの素晴らしい作品を見つめ感じて呟く〔神の世界――お前は素晴らしい!〕と。さらに素晴らしいのはこの人の魂とビロードのように柔らかい眼差し。彼の魂も、雪のように白いライカ犬のように柔らかく、とてもとても温かい。」(「ユーリ・ノルシュテインの仕事」、p. 66)
 ソクーロフの主な監督作品は以下の通り。

『孤独な声』 (1978)
『マリア』 (1975/88)
『日陽はしづかに発酵し』 (1988)
『セカンド・サークル』(1990)
『ストーン』 (1992)
『静かなる一頁』 (1993)
『ロシアン・エレジー』 (1993)
『精神の声』(1995)
『オリエンタル・エレジー』(1995)
『オリエンタル・エレジー・ロシアン・ヴァージョン』(1996)
『マザー、サン』 (1997)
『オリエンタル・ノスタルジー』(1997)
『モレク神』 (1999)
『ドルチェ 優しく』(1999)
『牡牛座』(2000)
『エルミタージュ幻想』(2002)


アレクサンドル・ペトロフ (1957- )

 アニメーション作家。ノルシュテインの教え子の一人でもある。
 ヤロフラヴリ州プレチストエ村生。映画大学3年生の時に『話の話』を観たのが、ノルシュテインとの最初の出会いだという(「この作品を見て、大変な衝撃を受けました。私の考え方、感じ方を360℃転回したのです。私はそれから1週間、この映画から自由になることができませんでした」――「世界と日本のアニメーション ベストオブベスト」案内チラシより)。 
 油絵がそのまま動き出したように見える彼の作品は、ガラスペインティングと呼ばれる、ガラスの上に指で絵の具をのせて描くという手法で製作されたもの。デビュー作『雄牛』で広島国際アニメーションフェスティバルのグランプリを受賞した。その後カナダに移住し、カナダ・ロシア・日本の共同出資で製作された最新作『老人と海』で、見事アカデミー賞短篇アニメーション賞を受賞するも、師匠・ノルシュテインの言葉はなかなか厳しい。

T『雄牛』の彼は戸惑いながら、結果が予想できないままに作業していた。そこにはリリシズムとポエジーがあった。その後彼は、こうすればどういう画面になるか予想できて作品を作っている。『老人と海』もまさにそうだった。どういう効果になるか彼にはわかって作っている。そしておそらくその通りになったであろう。この次彼がどういう仕事をするか、注目されるところです″ (『シネマティズム』 第4号、p. 18)

 ペトロフの主な監督作品は以下の通り。

『雄牛』 (1990) 10分

 アカデミー賞短篇アニメーション賞にもノミネートされた。

『おかしな人間の夢』 (1992) 20分

 原作はドストエフスキーの同名小説。

『水の精』 (1996) 10分

 原題の「ルサールカ」とは、若くして溺れて死んだ娘の妖怪のこと。この作品もまた、アカデミー賞短篇アニメーション賞にノミネートされた。

『老人と海』 (1999) 23分

 原作はヘミングウェイの同名小説。
 ペトロフにとっては初めての商業用アニメーションとなった本作で、彼はアカデミー賞短篇アニメーション賞を、3度目のノミネートにしてついに受賞することになった。ヘミングウェイ生誕100年を記念して、アイマックス・シアター用に製作されたもので、日本のイマジカ、NHKエンタープライズ21、電通テックも出資している。


アンドレイ・タルコフスキー (1932.4.4-1986.12.28)

 映画監督。ノルシュテインとしては本意ではないようだが、タルコフスキーが監督した映画作品の類似性を指摘する声は多い。とりわけ、ノルシュテインの『話の話』は、過去と現在、夢と現実を混在させて語るその作風において、タルコフスキーの『鏡』に近いと言われる。
 ヴォルガ河畔のザヴラジエ生。父アルセニーは詩人。3歳の時に両親は離婚し、母のもとで教育を受ける。1954年、国立映画学校に入学、卒業製作として監督した『ローラーとバイオリン』でニューヨーク国際学生映画コンクールの1位に輝き、続く長編第一作『僕の村は戦場だった』ではヴェネチア国際映画祭グランプリを受賞する。しかし、続いて製作された『アンドレイ・ルブリョフ』がソビエト政府から「反国家的」とみなされたことにより、映画製作そのものにも支障をきたすようになった。1982年、ソビエトを出てイタリアで『ノスタルジア』を撮影し、ソビエト政府に対して外国滞在許可延長と家族の出国許可を申請するも黙殺され、1984年7月イタリア・ミラノにて亡命宣言をする。1986年、スウェーデンで撮影した『サクリファイス』でカンヌ映画祭審査員特別賞を受賞するも、同年12月28日パリで客死した。享年54歳。
 タルコフスキーの主な監督作品は以下の通り。

『ローラーとバイオリン』 (1960)
『僕の村は戦場だった』 (1962)
『アンドレイ・ルブリョフ』 (1967)
『惑星ソラリス』 (1972)

 原作はポーランドの作家、スタニスラフ・レムのSF小説『ソラリスの陽のもとに』。カンヌ映画祭審査員特別賞受賞。

『鏡』 (1975)
『ストーカー』 (1979) 

 原作はソビエトのSF作家、ストルガツキー兄弟の『路傍のピクニック』。「ゾーン」と呼ばれるエリアの中に、人の望みをかなえてくれる「部屋」がある。タイトルになっている「ストーカー」とは、「ゾーン」の案内人のこと。製作はソビエト当局の弾圧により、何度となく中断されたという。

『ノスタルジア』 (1983)
『サクリファイス』 (1986)


イワン・イワノフ=ワノ (1900-1987)

 ソビエト・アニメーションの創始者的存在で、1947年製作の『せむしの仔馬』はカンヌ映画祭特別賞を受賞した。
 ノルシュテインとは共同で「ケルジェネツの戦い」を監督している。


セルゲイ・エイゼンシュテイン (1898.1.22-1948.2.11)

 映画監督。
 「私の芸術の基礎はすべてエイゼンシュテイン」とノルシュテインは語る。エイゼンシュテインの著作を読むことは「映画大学に入った以上の収穫」とも(「ユーリ・ノルシュテインの仕事」、p. 41)。また、1998年11月14日には、「エイゼンシュテインとアニメーション ノルシュテインによるイワン雷帝全分析」と題した講演会を東京・池袋で行った。
 エイゼンシュテインは、帝政ロシア統治下にあったラトヴィアの首都リガに生まれた。建築技師だった父の跡を継ぐため、サンクトペテルスブルグの土木専門学校で学ぶが、1917年に起こったロシア革命で赤軍に身を投じ、文化工作員として演劇活動や宣伝美術の仕事をする。映画製作を始めるのきっかけは、舞台で使用するための劇中映画を撮ったことだった。1925年の長編第一作『ストライキ』と続く『戦艦ポチョムキン』で、若くして世界の映画史に名を残す映画監督となる。これらの映画でエイゼンシュテインが確立した「モンタージュ理論」(異なる複数の映像をつなぎ合わせることによって、別の意味を生み出す手法)は、現在では映画理論の基礎中の基礎としてあまりに有名。また、早くから日本の文字や漢字にも関心を持ち、歌舞伎のモスクワ公演を見るために映画のロケ地からはるばるモスクワに戻ったこともあったという。1928年からは国立映画技術学校(1938年から全ソ映画大学に改称)の教授に就任し、約20年間に亘って若い監督志望者たちの指導に当たった。
 1929年からソビエトを離れてヨーロッパ各地で講演を行い、1930年にはアメリカに渡ってドライザーの長編小説『アメリカの悲劇』の映画化を企画するも実現しなかった。メキシコで『メキシコ万歳』の撮影を始めるが、結局途中で帰国することになる。が、社会主義リアリズムを尊重するスターリン統治下のソビエトにおいて、エイゼンシュテインの映画企画はなかなか実現しなかった。遺作となる『イワン雷帝』の第二部は、スターリンの怒りを買い、共産党中央委員会の批判を受けて上映は禁止される。ようやく解禁されたのはエイゼンシュテインの死後10年、そしてスターリンの死後5年が経った1958年のことだった。
 エイゼンシュテインの主な監督作品は以下の通り。

『戦艦ポチョムキン』 (1925)
『ストライキ』 (1925)
『十月』 (1828)
『全線』 (1929)
『メキシコの嵐』 (1933)
『アレクサンドル・ネフスキー』 (1938)
『イワン雷帝』 (1944)
『メキシコ万歳』 (1979) 

 1930年から32年にかけてメキシコで撮影されたものの、未完のままネガがアメリカで保存されていたが、1972年にソビエトに返還され、当時の撮影スタッフの一人が資料を基に編集して完成させた。


ビョーク(1965-)

 アイルランド出身のミュージシャン。ラース・フォン・トリアー監督の映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でサウンドトラックを手がけると同時に主役を務め、2000年のカンヌ国際映画祭で主演女優賞を受賞したことでも知られる。
 そのビョークのソロ初アルバム『デビュー』に収録されている「ヒューマン・ビヘイヴィアー」のヴィデオ・クリップは、ノルシュテインの『霧につつまれたハリネズミ』をモチーフとしている。1998年に発売されたヴィデオ・クリップ集『ヴォリューメン』(日本版は1999年発売)の一曲目に入っているので、ノルシュテイン・ワールドがパンクでキッチュなビョーク・ワールドにアレンジされている様を、是非ご自分の目と耳でご確認いただきたい。

 ビョークのディスコグラフィーは以下の通り。

Debut (1993) 『デビュー』
Post (1995)『ポスト』
Homogenic (1997)『ホモジェニック』
Selmasongs (2000)『セルマソングス』 映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のサウンドトラック
Vespertine (2001)『ヴェスパタイン』


フランチェスカ・ヤルブーソヴァ (1942-)

 「狐と兎」(1973)以降のすべてのノルシュテイン監督作品で美術監督を務める。
 カザフスタン・アマルティで生まれ、モスクワで育つ。全ソ国立映画大学美術科を卒業、連邦動画撮影所に就職し、「ケルジェネツの戦い」(1971)に美術スタッフとして参加して、後から撮影所に入ったノルシュテインと知り合った。現在はノルシュテインの妻でもある。


ミシェル・ゴンドリー (1963.5.8-)

 フランス人映像作家。自身のバンドのヴィデオ・クリップとして製作した16mmアニメーション、「ラ・ヴィレ」を観たビョークに依頼され、彼女の「ヒューマン・ビヘイヴィアー」(1993年)を手掛ける。このヴィデオ・クリップは、実写とアニメーションを組み合わせて撮影され、イジー・トルンカやヤン・シュヴァンクマイエル、イジー・ヴァルダといったチェコの人形アニメーションを彷彿とさせる仕上がりになっているが、作品の土台はあくまでノルシュテインの『霧につつまれたハリネズミ』である。ともあれ、この作品はゴンドリーの名前を一躍世界に知らしめることとなった。
 その後、ローリング・ストーン、レニー・クラヴィッツ、レディオヘッドら多くのミュージシャンのヴィデオ・クリップを製作。ビョークとのコラボレーションも、「アーミー・オブ・ミー」「イゾベル」「バチェラット」「ハイバーバラッド」「ヨーガ」など数多い。
 また、彼が製作したリーバイスのコマーシャル・フィルムは、カンヌでのライオン・ドール賞を始めCF業界のあらゆる賞を独占、CFの最多賞受賞の世界記録としてギネスに認定されるという快挙を果たす。さらに2001年には、ゴンドリーが初めて監督した映画『ヒューマンネイチュア』が公開された。


レオニード・シュワルツマン (1920-)

 アニメーションの美術監督。
 1976年から81年の5年間にかけて製作された『38羽のオウム』シリーズで、シュワルツマンは第2部から美術監督を担当したが、第一部の美術監督だったのが他ならぬノルシュテインだった。シュワルツマンいわく、

シリーズの第一部の監督としてユーリ・ノルシュテイン氏がいたことはとても幸運でした。彼が第一部のスタイルを決め、キャラクターの演技について面白いアイディアをたくさん考え出してくれましたから。子ぞうとおさるのキャラクターはすぐにできましたが、オウムと大蛇はだいぶ骨を折りましたね。(略)オウムの場合、まず大きくて重たいくちばし、頭にとさか、それから赤い制服に金の刺繍、黄色い胸に大きくて派手な尻尾をつけると、それらしくなりましたね。撮影時、アニメーターのノルシュテイン氏がオウムを動かしてみると、ちょっと考えてから「尻尾は邪魔! とりましょう」と言い、気絶寸前のボヤルスキー・ヨシフ氏(パペットアニメーション協会の会長)を横目に、結局尻尾は外されたのでした。やがてオウムは人間のように2本足で歩き、羽で身振りをし始めるとリーダーのような風格が出てきて、これこそレーニンではないか! と私たちは思ったものです。(『チェブラーシカの生みの親 レオニード・シュワルツマン原画集』、p. 60)

 そんなシュワルツマンについて、ノルシュテインは「かれはすてきなジェントルマン」と口癖のように言っていたとか。(同、p. 3)
 シュワルツマンはベラルーシ・ミンスク生まれ。1935年にミンスクに出来た美術学校に入学し、1938年からはレニングラード芸術院付属中等美術学校で学ぶ。1941年に兵役に招集されたためミンスクに戻るも、役所のほうで彼の書類をなくしてしまった(!)という理由で戦役を逃れ、終戦まで工場で働いていた。戦後、国立映画大学に入学、アニメーション映画学科を選択、1948年には連邦動画スタジオのスタッフとなり、美術監督として多くの作品の製作に携わった。その中には、ロシア・アニメーションの傑作『雪の女王』をはじめ、カチャーノフの人気アニメーション・シリーズ、『チェブラーシカ』も含まれている。


ロマン・カチャーノフ (1921-1983)

 ノルシュテインの師匠にあたるアニメーション作家。代表作『チェブラーシカ』シリーズで、ノルシュテインはわにのゲーナを担当したこともある(ちなみに、わにのゲーナの声を担当したのは、やはりアニメーション作家のガリ・バルディンだった)。
 カチャーノフについて、ノルシュテインはこう語る。

 ロマン・カチャーノフは私にとって、本当に素晴らしい監督そして人間として、いつまでも生き続けています。彼は、信じられないくらい喜びに満ちた人で、機知に富んでいました。
 ロマン・カチャーノフの監督としてのすぐれた点で未だに忘れられないのは、とてもディテールに気を配り、必ず細かいことに気がつくことです。なにか面白いことを思いつくと、私のところに来て話してくれるんです。そして、「良いことを思いついただろう」というので、「ううむ、思いつきましたねえ」と私が言うと、今度は皆のところに話しに行くんです。もう、とっても鷹揚で何でも差し出してしまう人。そして、人の嫉妬というものは受け付けなかった。何故かというと、嫉妬のしようがないほど、とても水準が高かったのです。 (『シネマティズム』 第4号、p. 24)

 カチャーノフは、1946年に連邦動画スタジオの監督コースに入り、1947年修了。イワン・イワノフ=ワノらのもとで美術監督を務めた後、アナトーリ・カラノーヴィチと共同製作の『老人と鶴』(1958年)で人形アニメーションの監督としてデビューした。
 主な監督作品は以下の通り。

『孫娘は迷子になった』 (1966)
『手袋』 (1967) アヌシー国際アニメーション映画祭第1賞受賞
『チェブラーシカ こんにちわチェブラーシカ』 (1969)
『手紙』 (1970)
『チェブラーシカ ピオネールに入りたい』 (1971)
『ママ』 (1972)
『オーロラ』 (1973)
『チェブラーシカ チェブラーシカと怪盗おばあさん』 (1974)
『チェブラーシカ 学校へ行く』 (1983)
『第三惑星の秘密』 (1983) 長編SF